グラムシと経済学の現代的課題
― 菱山氏のスラッファ/グラムシ論を手掛かりに 一
I は じめ に グラム シが フ ァ ッシズム政権 に よって投獄 され た さい, ミ ラノの書店 に 日座 を作 って獄 中か らの本や雑 誌 の入手 に便宜 を図 り,獄 中生活 に よる知 力の低 下 とグラムシが闘うことを支えたのがスラッファであったことは,知 る人も多い。 この事実が象徴するように,グ ラムシとスラッファとの間には親密な交流があ った。このことは,二 人の間に思想的にどこか響 き合 うところがあり,そ のこ とが両者のそれぞれの領域での業績にも何 らかの痕跡を残 しているのではない か という推測を呼び起 こしても,必 ず しも不思議ではないであろう。だが,二 人の業績の間にはそうしたつなが りは容易には見出しがたい。 じっさい,二 人 1 )の業績にそうした観点から立ち入った検討を加えた研究も少ないようである。
2 ) それだけに,菱 山泉氏の論考 「グラムシの思想 とスラッファ」は興味深い。 す なわち,菱 山氏は,ス ラッファの経済学が拠 って立つ方法論 を鋭 く易J決す 1)た とえば,1970年代 のイギ リスに,I.スティー ドマ ンを中心に,マ ル クス派 と対立 しつつ 一定の親近性 を有 して もいたスラッフィアンが台頭 したが,彼 らもグラムシに関心 を示 し ていない。 グループのなかには,マ ル クス派 との論争において認識論的 =哲 学的考察に踏 み込んでいるホジソンな どもいたが,彼 がのちに まとめた著作のなかでマル クス経済学の 特質 を概説 している章において も史的唯物論に さえ言及 していない。 この″く,彼 らの少 し の ちに現れ,や は リマル クス経済学の刷新 を図ろ うとした Analytical Marxism派が史的 唯物論 には大 きな関心 を示 しているだけに,眼 を引 く。G.,Hodgson,aが 物ゐ%予 物物ら Eウ わ″筋肋 %,1982,Martin Robertson,Oxford.Chap.2,3を 参照。2)『 経済評論』 に発表 されたのち,菱 山泉 『スラッファ経済学の現代的評価』京都大学学 術 出版会,1993年 ,に 収録 された。以下,ス ラッファ ・モデルの方法論的解釈や ウィ トゲ ンシュタイン論 を含め,菱 山説に関す る引用 ・参照は同書か ら行 う。 樹 直 沢 梅
70 梶 田 公 教授退官記念論文集 (第305号) る と ともに,そ の方法論 の意味 をよ り広 い視 野 の下 で掘 り下 げ るべ P,そ の方 法論 との関連 を基軸 に しなが ら,ス ラ ッファ と親 交の あ った二人の興 味深 い人 物, ウ ィ トゲ ンシュ タイン及 び グラム シの業績 に検討 を加 えてい る。 もっ とも, グ ラム シ論 に関 しては,ス ラ ッファの方法論 との交錯 を双方向的に考察す る と い うよ り, グラムシの業績の うちでスラッファの方法論の観点か ら関心 を引 く 論点に メス を加 えることが中心 となっている。 さらに,上 述のような菱山氏の 問題意識か らすれば,菱 山氏の考祭 中に も垣間見 られ るスラッファの方法論 と グラムシの社会 =歴 史理論 との差異 をよ り掘 り下げた方が,ス ラッファの方法 論の意味 をいっそ うくっきりと浮かび上が らせ て効果的だったのではないか と も思われ る。 また,そ のように両者の特質 を対比的に解明す ることで,現 代に おいて経済学が どのような課題 を抱 えているのか も浮 き彫 りになって くるとこ ろがあ りそ うである。 といって も,筆 者が こうした思いを抱いたの も,菱 山説 がスラッファの方法論 を鋭 く快 りだ しているか らであ り, またとりわけウィ ト ゲ ンシュタインとの比較検討のなかで明 らかにされているスラッファの方法論 の解釈 に触発 されてのことにほかならない。 のみならず,菱 山説は,ス ラッファの方法論 との関連でグラムシの歴史観に おけ る 「決定論 と自由」の問題 を検討 してい くなかで,含 蓄深い指摘 を行 って いる。かつ,そ の指摘はグラムシが 「合理性」 をきわめて重視 していたことヘ の一定の懐疑に運 なると解 され る。 そ してそ うであるか ぎり,そ れは現代 にお け る経済学に とっての課題 に も密接に絡む。 とい うのは,現 代における経済学 は,人 間社会の内部ばか りではな く,人 間 と自然 との関わ りに も視野 を広げな ければな らないが,そ こでは理性 を時み 自然 を支配 ・操作 してきた近代人の世 界了解 の図式その ものがかねてよ り深 く問われて きた。 したがって,経 済学が 従来閑却 していた領域に視野 を広げようとす るのであれば,そ れは従来 どお り の 「合理主義」に立脚す る経済学であ りつづ け うるのか とい うことを,あ らた めて反省 しなければならないのである。 こうして, 自由をいかなるもの と捉え, だか らまた 「合理主義」に対 していかなるスタンスをとるか とい うことは,現 3)菱山氏,前 掲書,xiページ参照。
グラムシと経済学の現代的課題 71 代 に お け る経 済 学 の あ り方 を考 え る うえ で一 定 の意 味 を もつ。 しか も, グ ラム シの 思 想 は, 自 由や 「合 理 主 義 」 に関 して こ う した問 い を立 て るに 足 るだ け の 内実 をもっている。 くわえて,こ うした論脈 での グラムシの思想の特質の追求 は先に提起 した論″点とも接合す る。すなわち,そ の追求は,経 済学のあ り方に 関す るスラッファの方法論 とグラム シの 「実践の哲学」 との争点 自体 に鑑み る とすれば,後 者の路線の選択が現代的にはグラムシ説その ままに留 まりうるか 否か を問 うこ とに至 ろ うとい うわけである。 そこで本稿 では,菱 山説 を手掛か りに,上 述の 2点 に即 して,グ ラムシの「実 践の哲学」は現代 におけ る経済学のあ り方に とって どのような問題 を提起 して いるのか とい う論点 を中心に,検 討 を試みてみたい と思 う。 H 菱 山氏のスラッフア解釈 菱 山氏の グラムシ論 に立 ち入 る前に,本 節では,そ の前提 としての菱 山氏の スラッファ方法論の解釈 を確認 しておこう。 菱 山氏は,ケ ンブ リッジでスラッファと交わ した会話 を想起 しなが ら,ス ラ ッファは個々の企業の費用行動 を多様 で不確定 な もの,一 義的で基本的なモデ ルなど構成 しえない もの と解 していた し,い わんや個々の企業についての一般 的な ミクロ行動仮設 を基礎 に して有意義 な経済理論 を構築 しうるとは考 えてい なか ったであろ うと推量 している。 じっさい,ス ラッファが 「生産費用 と生産 量 との関係 につ いて」において想定 している費用曲線の型 も,企 業行動の観察 か ら帰納的に導かれた ものではな く,む しろ完全競争 とい う仮定に整合的 とい う観点か ら演繹 された,あ くまで も 「論理的な仮定」だ とい うわけである。 さ らに,ス ラッファの主著 である 『商品による商品の生産』 も,客 観的 な生産技 術の体 系 を礎石 とした もの,つ ま り 「個々人の行動 を基礎 にす るのではな く, 彼 らが どの ように行動 しようと,そ うした行動が究極的には従 わ ざるをえない 枠組み を画定 しよう」 とした ものだ とされ る。 そ うした意味で,ス ラッファの 経済学体系は,い わば人間不在の見方 を取 る 「方法論的反人間主義」に立って い るとみなされ る。換言すれば,そ の立論の核心に 「human natureやhuman
回 公 教授退官記念論文集 (第305号) l i f e 」を置 くこ とを慣 習 的 方 法 とす る, 人 間 中心 的 な イ ギ リス経 験 論一 一 ケイ ン ズ経 済 学 もまた その一 翼 を担 って い るの だ が一 一 とは, 「思 想 の素 地 を異 に して つ い る」 とい うわけである。 この ように,菱 山氏のスラッファ解釈の基調は,イ ギ リス経験論や行動主義 的 モデル との対比において,ス ラッファの方法論的反人間主義 を際立たせ たも のである。だが,そ れ を基底に置 きつつ 『商品による商品の生産』の内容 を段 9 階 を追 って分析 した氏の立論 を見 ると,氏 のスラッファ解釈は決 して単純に方 法論的反人間主義のみに塗 り込め うるものではな く,む しろずっ とニュアンス に富んだ ものであることがわか る。 す なわち,剰 余が産 出されない水準の生産においては,諸 商品の価格比率は 投入一産 出の技術体系によって一義的に決定 され る。 また,剰 余の発生 を考慮 して も,賃 金が明示的に導入 されないなら,諸 商品の価格比率 を決定す るモデ ルの基礎 には 「生産技術 Tが 厳存 し,… ……それが依然 として,支 配的な影響 0 力 をふ るい,価 値 と分 配 の決定 を左右 す る」 と解 され る。 だが,賃 金が明示 的 に導入 され る と,変 数 の数 が方程 式 の数 を一つ上 回 るこ ととな り,体 系 は 自由 度 1を もつ。 そ こで,利 潤率 が外生 的 に与 え られ て,体 系が完結せ しめ られ る こ ととな る。 た しか に,こ こで も生産 技術 Tが 「依 然 として基本 的 な影響 力 を 発揮 す る」 と評価 され る。 とはいえ,利 潤率 の外生性 は,貨 幣 当局 が利子率 を コン トロール し,そ れ を介 して利潤率 に影響 をふ るうか らだ と解釈 できるとす れば,「あ くまで所与の生産技術 Tを ベースにす るものであ り,し たがって利潤 率 rの 変域 も限定 されてはいるが」,その限界内では貨幣当局に一定の行動の 自 由 とそれに伴 う経済体系への影響力が認め られていることとなる。 この段階で は,「主体 の側 の選択行動が価値 と分配の決定に与 る一定の余地が容認 され る」 の わけ であ る。 さらに,利 潤率 が一定 の変域 を越 えて変化 す る と,生 産 技術 の切 4)菱 山氏,前 掲書,168∼ 71ペー ジ参照。 5)同 上書,171ペ ー ジ以下参照。 6)同 上書,176ペ ー ジ。 7)同 上書,177∼ 78ペー ジ。
グラムシと経済学の現代的課題 73 換えという問題が発生する。そしてこの生産方法の切換えは,企 業者が利潤率 の変化に対処 してより小 さい費用で生産 しうる方法を選択 しようとするからこ そ起こる。か くして,「いまやわれわれは,生 産者ないしは企業者の生産方法の 選択が,体 系全体の技術Tの 変換をもたらす震源になるようなモデルにまで到 D 達 した」 とい うことになる。 つ ま り,『商品による商品の生産』の核心部分 に表明されているのはやは り「人 間の外 に存在論的な基礎 をもつ ような」経済世界の捉 え方であるけれ ども, 同 書は,そ の内容 を段階的に追 ってみ ると,「テ クノロジー を基礎 にす る決定論的 なモデルか ら,個 人の 自由選択, 自由行動 を許容す るモデルヘ と段階 ごとに変 容 してい く」体系,「ある意味で,人 間不在の見方か ら人間中心の見方への変 容,い やむ しろ,そ うした一見矛盾する二つの見方の相互作用 をば,価 値 と分 配のモデル を対象に,厳 密に規定 してみようとす るものであった」 と,解 釈 さ り れ るこ とに な るの であ る。 さ らに,菱 山氏は,ス ラ ッフ ァには,い わゆ る自然価格 ばか りでは な く,市 場価格 の 自然価格 へ の収 飲 の過程 を扱 った論文 もあ るこ と, しか もこの市場均 衡 過程 の分 析 は 「あ る意 味 で行 動 主義 的 モデル」で あ るこ とに止 目す る。「<自 然価格 >の 星座 か ら成 る小 学 宙 と<市 場価 格 >が 登場 す る小 学 宙」,換言すれば 「人間 ない し人間の意志か ら独 立 な存在 に よって動か され る小学宙 と,ま さに 人 間 ない し人間の意志 に よって動 か され る小宇宙」 とは,架 橋 されてい る。 ス ラ ッフ ァの世 界 は,全 体 として見 れば,「一つ の通路 で結 ばれ た二つ の小学 宙」 か ら成 り立 ってい る とい うわけ であ る。 こうして,菱 山氏のスラッファ解釈は,「スラッファ体系はつまるところ自由 度のある体系であ り,市 場価格のレベルにまで下 りてい くと,人 間の自由行動 を,あ る条件の もとで,か な り大幅に許容 しようとする,つ まりは人間の内に 8)同 上書,182ペ ー ジ。 9)同 上書,200ペ ー ジ。 10)同 上書,183ペ ー ジ以下参照。 11)同 上書,209ペ ー ジ。
田 公 教授退官記念論文集 (第305号) その存在論的基礎 を求め ようとす る面 を併せ もっている」 ことを認めた うえで, 「重要 なのは,ス ラッファが価値 と分配の理論において,人 間の外に基礎 をも つ領域 と人間の内に基礎 をもつ領域 を厳密に画定 し,そ れ ら両者の相互作用の 形態 を定式化 してみせ たこと」だ と総括 され ることとなっている。 ところで,ス ラッファが 「人間の外 に基礎 をもつ領域 と人間の内に基礎 をも つ領域 を厳密に画定」 した とい う主張の うちに,菱 山氏は具体的には何 を含意 させ ようとしていたのか。 それ を明 らかに しているのが,菱 山氏によるスラッ ファとウィ トゲンシュタインとの連関の考察である。 カギは,ウ ィ トゲンシュ タインがフィッカー宛の手紙の中で,『論理哲学論考』の序文に入れ得 なかった 文章 を引 き合 いに出 しなが ら表明 している 「基本的立場」に見出され る。 す なわち,そ の手紙によれば,ウ ィ トゲンシュタインは, 自己の成果 を 「書 いて見せ る部分」 と 「書かなかった音B分」の全てか ら成 り立っているとみなし てお り,か つその書かなか った第二の部分 を重視 していた。 とい うの も,倫 理 的な ものは,駄 弁 を弄す ることによってではな く,「沈黙 を守」ることによって 「内側か ら境界づけ」 られるべ きもの,「厳密には,た だそのようにしてのみ, 境界づけ られ得 る」 ものであ り,ま たそ うす ることによって 「しっか りした場 所 を与 え」ることがで きると確信 されていたか らである。要す るに,「人はいや しくも語 り得 るものについては,明 瞭に語 らねばならず,語 り得ぬ ものについ ては,沈 黙 しなければならない」 とい うわけである。 菱 山氏は,「スラッファの基本的なモチー フ」 もまた,「ある意味で,価 値 と 分配の領域 を対象に して,語 り得 るもの と語 り得ぬ もの とを厳密に境界づけ る, つ まり画定す るこ とであった」 と評価す る。すなわち,ス ラッファ ・モデルの 著 しい特色は次の点に,つ まり利潤率 と賃金 とい う二つの分配変数のいずれか が 「外生的」に与 えられなければ体系は完結 しないことを 「明示す る」点に, 12)同 上書,200ペ ー ジ。 13)菱 山氏に よれば,以 下の 『論理 哲学論考』についての ウィ トゲンシュタインの言明は, ウィ トゲンシュタインが終始一貫持 ち続けた基本的立場 とみなされ る。同上書,202ペー ジ 参照。 14)同 上書,202ペ ー ジ。
グラムシと経済学の現代的課題 75 換言すれば新古典派の限界生産力説などが主張するところとは異なって,分 配 は 「内生的には決定 し得ない」ことを 「明示する」点にある。このことは,ス ラッファ ・モデルが,現 行のすべての分配理論は「本来,語 り得ないもの」を 「明確な図式によって語 り得 るものと錯覚 している」ことを批判 し,「分配ない しそれの決定については,沈 黙を守ることによって,却 ってそれに, しっか り した場所 を与え得 る」 と主張 していることを示す ものにほかならない, と。 この点,菱 山説にしたがってもう少 し敷行すれば,「分配現象は,さ まざまな 社会,さ まざまな時代に,多 様な作用形態(mOdus operandi)を示すから,そ れ を一義的な行動モデルに定式化することはできない」 とスラッファは認識 して いたし,だ からこそ分酉己現象を自己の基本モデルに内生化することを禁欲 した ということになる。少 し異なった論脈において菱山氏がやは リウィ トゲンシュ タインか ら援用 している巧みな比喩を借 りれば,『商品による商品の生産』は輪 郭のぼやけた 「ピンぼけの映像」を意識的に排除したというわけである。 しか もここには,ス ラッファの方法論のもうひとつの重要な特質 を認めることがで きよう。 というのは,輪 郭のぼやけたピンぼけの映像 を排除すべ きか否か とい うことは,ス ラッファ説においては方法論的反人間主義 と関連 しているが,一 般的には後者 と切 り離 してそれ自体 として問われうる。かつ,そ うしたものと して,現 代における経済学のあ り方のひとつの争点た りうるからである。 III ヘ ゲモニー論の示唆す るもの グラムシの業績 中,叙 上の ようなスラッファ解釈に関わ り菱 山氏の関心 を引 いた論点は主に 2点 である。すなわち,一 方で,ス ラッファが 「人間の意志か ら独立 した小学宙 と人間の意志によって動か され る小学宙 とを区別 し,こ れ ら 15)同 上書,203∼ 04ペー ジ。 16)同 上書,204∼ 05ペー ジ。 17)菱 山説では,ウ ィ トゲンシュタインの言語 ゲーム論 とスラッファの市場価格論 とを対比 す る とい う論脈 のなかで,こ の話が抽 出されてい る。但 し,そ の さい,「『商品の生産』 に 定式化 され たモデルに も,「 ピンぼけの映像」は存在 しない」とい う論及 も見 出され る。 同 上書,206∼ 07ペー ジ参照。
76 梶 田 公 教授退官記念論文集 (第305号) 二つ の小学 宙 間の相互 関係 を頭 に描 いていた」こ とに類比的 に,「個 人個 人が コ ン トロー ル で きない歴 史的 因果法則 と,彼 らの 自由行動 ない し選 択 の余地」 の 関係 , つ ま り歴 史 におけ る決定論 と人間の 自由行動 の関係 が, グ ラム シの歴 史 理論の うちに探 られた。他方で,ス ラッファの方法論的反人間主義に違関 させ て,「グラムシに も,経 済体系 を反人間主義の観点か ら把握 しようとす る一面が あ」 ることが注 目されたのである。マキアヴェッリのフォル トゥナ とヴィル ト ゥ論 に まで遡 って展開 され る前者の考察 も力の こもった ものであるが,そ れに つ いて現代 におけ る経済学のあ り方 とい う観点か ら立ち入 るために も,こ の観 点に とって よ り基礎 的 と解 され る後者の論点 をまず取 り上 げてみ よう。 さて,菱 山氏がグラムシにおけ る反人間主義 として注 目しているのは,そ の フォーディズム論 である。すなわち,フ ォーディズムは,「労働者のなかに,機 械 的で 自動的な態度 を最大限に発展 させ る」 とい うテー ラー ・システムの 「反 人間的な特質」 を体現 した ものであ り,グ ラムシもそれ を知性,想 像力,創 意 の発揮 といった労働 におけ る 「人間主義」に対抗す るものにほかならない と把 握 していた。かつ,こ うしたフォーディズムについての反人間主義的ヴィジョ ンは,「産業制度についての独 自で,現 代的な見方」であ り,「スラッファ体系 にその典型 を見 るような生産主導型のモデル, と同 じ類型に属 しているように 見 える」。 とい うのは,一 般的に言 って,フ ォーデ ィズムは, 自動車産業 と「投 入 ・産 出の網の 目によって,直 接 ・間接に緊密に結ばれている,人 間の恣意か ら独立に存在す る 『体系の独特の生産技術に よって決定 された,さ まざまな部 門の間の客観的関係』に外 な らないか らである」 と。 しか しなが ら,労 働 におけ る精神性の切 り捨て としての 「反人間主義」 と, 前節で見たような反行動主義 とい う意味でのスラッファの 「方法論的反人間主 18)菱 山氏,前 掲書,215∼ 16ペー ジ参照。 19)同 上書,230ペ ー ジ。 20)同 上書,230∼ 31ペー ジ。 なお,D.フ ォーガチ編,東 京 グラムシ研究会監修 ・訳 Fグラム シ ・リー ダー』359∼60ペー ジをも参照。 ちなみに,同 書は,投 獄前はほぼ年代順 に,F獄 中 ノー トJか らは大 きな主題 ご とに,グ ラム シの基本的論稿 を一冊に編んだ もので,グ ラ ム シ思想 を トー タルに鳥取 させ て くれ る。
グラムシと経済学の現代的課題 77 義 」 とは,質 を異 に した問題 であ ろ う。 のみ な らず,上 述 の ところで両者 の媒 介環 とされ て い るフォー デ ィズム観 ,す なわ ち 「生産 技術 的 な客観性」 として の フォー デ ィズム とい う把握 もまた,グ ラム シの フォー デ ィズム論 とはむ しろ 対極 に あ る と解 され る。菱 山説 にお いて も, うえに引 い た 「反人間主義」 とし ての共通性 の考察 の直後 に論及 されてい る ところであ るが, グ ラム シに とって の フォー デ ィズムは,「働 き生活 してい る 日常 の人間の特定 の生 き方,考 え方, 生活の感覚か ら切 りはな しえない もの」であ り,か つそ うしたフォーディズム の捉 え方にこそ,グ ラムシの 「新鮮 で独創的な視座」が認め られ るか らである。 つ まり,グ ラムシのフォーディズム論は,人 間不在の生産技術的な客観性に見 えるもの も, じつは独特の人間類型によって支 えられては じめて十全に機能す る人間的な側面 を内包 した ものであることを鋭 く快 り出そ うとした ところに特 質 をもってい る。 したが つて,方 法論的に言えば,反 人間主義 とい うよ り,む しろ人間主義的な ものなのである。 この点,史 的唯物論の展開 とい う,グ ラム シの業績の固有の領域に即 して もう少 し敷行すれば以下のようになる。 す なわち,ロ シア革命に引 き続いて西欧で革命が生 じるには至 らなかった と い う現実 を見据 えなが ら,グ ラムシはロシア と西欧 との次の ような相違に着日長 した。「東方では,国 家が全 てであ り,市 民社会は原初的でゼ ラチン状 であった」 のに対 し,西 方では 「国家が揺 ら ぐとただちに市民社会の堅回な構造が姿 を現 した」 と。つ ま り,国 家 と異な り 「制裁」や絶対的な 「義務」な しに作動す る が,「それに もかかわ らず集団的圧力 を行使 し,慣 習 ・思考様式 ・行動様式 ・道 徳 その他 を彫琢す る」市民社会が発達 している西欧においては,経 済的破局が 生 じて も,そ うした直接の経済的要素 だけで革命運動がただちに大 きく進展す るこ とにはならな くなっているとい うわけである。 21)菱 山氏,前 掲書,231∼ 32ペー ジ参照。 22)グ ラム シ思想の近年 までの研究状況については,た とえば川上恵江 「グラム シ研究の現 状 と課題」松 田博他編著 『グラムシ思想のポ リフォニー』法律文化社,1995年 ,所 収,が 詳 しい。 23)D.フ ォー ガチ,前 掲邦訳,239,272,274,279ペ ー ジなど参照。さらに,編 者のフォー ガチが 「ヘ ゲモニー ・力関係 ・歴史的ブロック」及び 「政治術 と政治学」の各セ クシ ョン /
こ うして,グ ラムシは,歴 史の歩みにおけ る上部構造の役割 とい うものをあ らためて見直 し,独 自のヘゲモニー論 を結実 させ た。すなわち,階 級支配 とい うものは,力 のみではな く,被 支配階級の同意や積極的関与 をも支 えとす るの であって,一 定の妥協 を伴 いなが ら支配階級の文化的 ・道徳的 ・イデオロギー 的指導が国民に広範に浸透 してい くことによって安定化せ しめ られているとい うわけであ る。だか らまた,革 命運動 を推 し進め るためには,そ うした支配階 級のヘ ゲモニー を掘 り崩 してい く日常的な闘争が重要 とい うことに もなるのだ が,そ のためには,そ もそ も20世紀資本主義におけ るヘゲモニーのあ り方や特 質が理解 されていなければな らない。 そ してそれが,グ ラム シのフォーディズ ム論 であ り, またアメ リカニズム論であった。 フォーディズムについて言えば,そ れは,合 理化が必要 とす る 「労働 と生産 過程 の新 しい型に順応 した新 しい型の人間」の創 出の初期段階,「なお高賃金 に よって追求 され る新 しい産業構造への心理的一肉体的適応の段階」にあるとみ なされていたのだが,そ のさい,新 しい型の労働への順応 を担保す る高賃金が 「両刃の剣」だ と解 されていたことも看過 され るべ きでない。つ まり,高 賃金 は 「勤労者が,豊 富な金銭 を, 自らの筋 肉的一神経的効率 を壊 した り損耗 した り」す る危険 をも内包す ると解 されていた。だか らこそ,「アル コールに対す る 聞い」力ざ国家の役割にな り,ま た 「産業家たち(とくにフォー ド)が,従 業員の 性的諸関係や従業員家族の全般的体系化一般に,どれほど関心 を抱いてきたか」 が注 目され ることになるとい うわけである。要す るに,フ ォーディズムは,「新 ヽ に付 した解説 (216∼17,266∼ 69ペー ジ)を も参照。 24)同 上邦訳,220,223∼ 27,230∼ 32,236∼ 37ペー ジなど参照。 なお,グ ラムシのヘ ゲモ ニー論 をマル クス解釈 に関わ らせれば,「フォイエルバ ッハ ・テーゼ」に触発 されなが ら, 史的唯物論 の定式 とされ る 『経済学批判序言』 のかの文言の 「人間が この衝 突 を意識 し, それ をたたか いぬ く」 とい う件 を,受 動的,機 械論的にではな く,能 動的,主 体的に読み 込む ところに,そ の特色 をもつ。 こ うした 「実践の哲学」の構築 には,イ タ リア南部 での 生活体験 のほか, クローチェ説の批判的摂取,卒 業論文 で取 り上げようとしていた言語学 的研究 な ども寄与 した とされ る。 25)同 上邦訳,346ペ ー ジ。 26)同 上邦訳,350,361ペ ー ジ。
グラムシと経済学の現代的課題 79 しい 型 の 人 間 」 の創 出 の 問題 で あ り, か つ そ の 「人 間」 の質 は,新 しい労働 ・ 生 産 過 程 の 型へ の適 応 の 問題 で あ る と と もに, そ の適 応 の ため に工 場 外 の私 生 活のあ り方 まで もが問われ,管 理の対象にされ るようなものであった。 まさに, 経済的 ・文化的 ・道徳的総体 としての 「人間」が問題 だったのである。 こうして,グ ラムシのヘゲモニー論は,第 ニ インターナ ショナル期 に強 まっ た史的唯物論の経済主義的,機 械的解釈 を乗 りこえて,史 的唯物論の うちに主 体的契機 を的確 に埋め込んでい く試みであった し,だ か らまたその一環 として のフォーディズム論 も,人 間不在の技術的客観的体系 としての生産体系の問題 ではあ りえなか ったことがわか る。む しろ,一 見,人 間不在 に見えるスラッフ ァの基本 モデル さえ, じつはそ うした技術 に適応 しうる人間類型 を前提 した も のであ り,か つ そ うした人間類型は,私 生活 も含めた市民社会総体 のなかで, 国家的干渉によって も補完 されなが ら,い わば制度的に創出,再 生産 されてい くものであ るこ とを,明 らかに していると言えよう。 だ とすれば, グラムシはスラッファ経済学に対 して次のような問題 を提起 し ていたこ とになる。すなわち,ス ラッファ的な 「明瞭に語 るべ きもの」 と 「沈 黙 を守 るべ きもの」 との区分 は,二 重の誤 りを犯 していないか, と。 まず,グ ラムシか らすれば,ス ラッファの基本 モデルが 「人間の外に基礎 を もつ領域」 を取 り扱 っているとい うのは誤解 だ と解 され る。あ らゆる技術 はそ れにふ さわ しい人間類型 を前提 しては じめて現実的に機能す るものであ り,か つ その人間類型は,上 述のように,技 術が 自動的に生み出すのではな く,む し ろ社会的に創 出,再 生産 され るものだか らである。のみならず,か のモデルが 多様性 を排除 した 「一義的な」領域 を対象 としているとみなすことにも無理が ある。人間の主体性 を完全に封 じ込め うるのでないか ぎり,適 応的な型 を一応 備 えた人間 をも,い つで もどこで も同 じように労働 させ うるとはか ぎらないか らである。同一工場が同一時間操業 していてさえ,そ の時間中に労働者か ら現 27)グ ラム シのフォーデ ィズム論のこうした特質 を比較的早期 に体系的に取 り上げた ものに, 小倉利丸 『支配の 「経済学」』れんが書房新社,1985年 , と りわけ第 1章 ,が ある。 28)ち なみに,グ ラム シは,テ イラー主義の もとで も,筋 肉や神経の束に機械的な仕事 の記 ノ
梶 田 公 教授退官記念論文集 (第305号) 実 に どれだけの労働 を引 き出せ るかは ときによ り異な りうる。それは,決 して 技術的にのみ確定 され るものではないのである。 スラッファの基本モデルに即 して言えば,労 働 を代表す るもの として生産体系に導入され るべ きは,契 約労 働時間 としての Lで はな く,そ れに労働努力の水準 を示す係数 を乗 じたもので あ り,か つ この係数 は技術的,一 義的に決 まるものではない ということである。 第二に,特 定の人間類型の社会的創 出,再 生産が前提 されていることを踏 ま えた うえで,そ こに現出す る生産体系の一走の属性 を明 らかにすべ くかの基本 モデルが構成 されているとすれば,そ うしたモデルの構成 自体はそれ として意 義 を認め られ る。だが,そ うしたばあい,そ れこそが経済学の核心部分 で 「語 るべ きもの」であ り,そ れ以外についてはさしあた り 「沈黙を守 るべ き」 とい うことになると,経 済学 としてはいかに も不十分 であろう。少な くとも,そ う したモデルの前提 としての人間類型 を再生産 している,上 部構造的要因を含め たフォーマル,イ ンフォーマルな制度的諸要因にメスを加 えないか ぎり,対 象 とす る 「経済」についての基本的な解明 を行 ったことにはならないはずである。 こうして,グ ラムシか らすれば,ス ラッファの基本モデルは 「客観的」で 「明 瞭に」語 りうる関係 だけを取 り扱 っているとい う認識に も, また経済学の核心 部分 で 「語 るべ きもの」はかの基本 モデルであ り,そ れ以外については 「沈黙 を守 る」 ことでその 「外在性」 を明示す るに留め るべ きとす る判断に も,疑 間 が投げかけ られ ることとなるわけである。 ところで,菱 山氏の労作には,ス ラッファとグラムシの経済学的スタンスの 相違に関わるもうひ とつの興味深い論点が見出され る。すなわち,グ ラムシが ヽ憶が 「宿 る」 こ とで労働者の頭脳 は 自由を保 ち,労 働者は作業中に も多 くのことを考 える し,決 して 「調教 されたゴ リラ」にはお としめ られない とみな していた。前掲邦訳,365∼ 66ペー ジ参照。 29)こ うしたアイデアは,た とえば S.ボールズらによって試み られている。S.マー グ リン他 編著,磯 谷明徳他訳 『資本主義 の黄金時代』東洋経済新報社,1993年 ,210ペ ー ジ以下参 照。 なお, こ うした問題 は,1970年 代のスラッフィアンとマル クス派 との論争において も, マル クス派か ら提起 されている。B.RowthOrn,Neo Classicism,Neo Ricardianism,and Marxism,苅 効 二"貿 夕抗効 ,1974,p.82ff.伊藤誠他編 ・監訳 『欧米マル クス経済学の新 展開』東洋経済新報社,102ペ ー ジ以下参照。
グラムシと経済学の現代的課題 81 「傾 向 的 法 則 」 を評 価 し, か つ それ を リカー ドウに負 って い る と理 解 して い た ことに対 し,ス ラッファはきわめてそっけなかった というエ ピソー ドである。 菱 山氏に よれば,ス ラッファには傾 向的法則はマー シャル的な行動主義的方法 を想起 させ たのではないか とい うことであるが,グ ラムシは経済現象の法則的 把握にさい しての 「反対に働 く力ない し相殺的要因」の顧慮の必要性 を念頭に 置いていた とい うことであるか ら,二 人の間には傾 向的法則 を問題 とす る視角 にずれが存在 していたことになる。そ して,グ ラムシ的な問題が存在す ること 自体 は事実 であるか ら,ス ラッファが少 な くともそ うした問題 にあまり関心 を 示 そ うとした とはみえない ところに,ス ラッファには,方 法論的人間主義か否 か とはべつに,「明瞭 さ」 自体 を求め る志向を垣間見 ることができそうである。 上述の問題 に戻れば,制 度的諸要 因の考察はた しかに明瞭な数理的分析にはな らない。 そこに,制 度的諸要 因への取 り扱いに対す るスラッファとグラムシの 相違が生み出され るひ とつの要 因があったのではないか とい うわけである。 し か し,た とえ明瞭に解 ききれない―一既述の表現 を用いれば,「ピンぼけの映像」 に しかならない一― として も,上 述のように制度的諸要因の考察が経済学の核 心的構成要素の一部 をなす ことは否定 しえないであろう。「ピンぼけの映像 をは っきりした映像 でお きかえることが,い つ も者S合のいいことなのか。 ピンぼけ の もの こそ, まさに しば しば,わ れわれの必要 とす るものではない力!」とぃ ぅ ウィ トゲンシュタインの言葉は,経 済学の核心部分 でもっと評価 されてよいの ではないか。 この点,ス ラッファのみならず,行 動主義的経済学の側に も同 じ 問題 の当ては まるところがあるだけに,敢 えて強調 してお きたい。 30)菱 山氏,前 掲書,232∼ 33ペー ジ参照。 31)同 上書,206ペ ー ジ,及 びウィ トゲンシュタイン,藤 本隆志訳 『哲学探究』全集第 8巻 , 大修館書店,73∼ 74ペー ジ参照。 32)た とえば,注 29)で触れたボールズらの試みは, ラディカル・エ コノ ミックスの立場か ら の ものであ り,労 働力は意識 をもつ商品であるとい うことが焦点であることは理解 してい るのだが,そ れで も労働努力の水準 を賃金率 の増加関数 に単純化 している。さらに,0。E.ウ ィ リアム ソンや D.C.ノ ー ス らの 「取引費用の経済学」に も同種 の欠陥がのぞ く点について は,磯 谷明徳 「<社 会経済 システムの制度分析 >に 向けて」 『経済学史学会年報』第34号, 1996年,参 照。 なお, ノー スの ような目的合理主義的アプローチの狭嬬 さを示唆 したもの ノ
梶 田 公 教授退官記念論文集 (第305号 ) IV 自 由のあ り方 をめ ぐって 菱 山氏が グラムシ説にメスを加 えた もうひ とつの論点は,歴 史における決定 論 と人間の 自由 との関係の問題 であった。 この考察は,前 節冒頭で触れたよう にマ キアヴェ ッリ論にまで遡 って展開 され,グ ラムシの歴史認識における決定 論 と人間の 自由の問題 を次の ように把捉 している。すなわち,グ ラムシは,諸 個 人の価値観が政治過程 でい くつかの色に集約 され るとみな し,そ のように複 数 の可能性 として提示 され る路線の選択の問題 として歴史 を捉 えていた。 さら に,そ の複数の選択肢のなかで,「歴史的客観的必然性」に照応す るというタガ をはめ られた意志が 「合理的 な意志」であ り,「歴史的必然性 を洞察 した」少数 の人々の合理的な意志が 「ヘゲモニー と自由な選択の過程 を介 して」多数の人 人の同意 を形成す るに至 ると想定 していたようで もある, と。 グラムシの歴史 理論が史的唯物論の教条主義的な解釈 を乗 りこえ,歴 史過程における主体の役 割の再評価 を試みた ものであることを的確 に見据 えた うえでの,力 のこもった 考察 と言えよう。 と同時に,菱 山氏は,坂 本慶一氏などを引 きなが ら,そ うし た歴史過程の果てに遠望 され る世界が 「人間 と人間の争いは消滅 し,個 人 と社 会 との矛盾 も止揚 され る」 ようなユー トピアであることに懸念 を表明 している。 第一に,複 数の路線 を一つの世界観 に束ね るヘゲモニーの戦 いの過程 で,か のユー トピア的世界観 の創 出のためにこそ諸個人の 自由の圧殺が正当化 される とい う事態への懸念である。 さらに,そ うした懸念の背景 として,そ もそもか のユー トピア構想 自体が危 うさを字んでいるのではないか,換 言すれば,そ も そ も諸個人の抱 く目的はいつの時代 に も多様 であ り,そ れ らの間に矛盾が存在 しな くなるなどと期待す るのは不 自然ではないか とい う懸念が表明され る。た しかに,こ うした人間観か らすれば,な ん らかの至上の世界観への統一の試み ヽ として,原 洋之介 『ク リフォー ド・ギアツの経済学』 リブロポー ト,1985年 も興味深い 33)菱 山氏,前 掲書,218ペ ー ジ以下参照。 34)同 上書,215ペ ー ジ。 35)同 上書,226∼ 28ペー ジ参照。
グラムシと経済学の現代的課題 83 は,必 然的に諸個人の自由の圧殺を伴 うことになるであろう。 しかも,こ うし た菱山氏の懸念には,人 間性についての冷静な洞祭 とともに,グ ラムシが 「合 理性」を過信 しす ぎていることへの批判をも読み込むことができそうである。 人々の価値観は収飲 しうるし,歴 史は客観的必然性をもってそうしたゴールヘ と歩んでゆ くという歴史観の底流には,何 が正 しいかは結局 「合理的」に決せ られるという確信が潜んでいるとも解されうるからである。だが,そ うした推 測が成 り立つか否かを確かめるには,そ もそもグラムシの言う 「合理性」がい かなる性格 を持つ ものであったかについて考察 してみる必要がある。 まず,迂 遠なようだが,経 済学の現代的課題 という本稿の主題 と, 自由のあ り方ないし自由概念の内実,さ らには合理性論 との関連を確認 しておこう。第 I節 で触れたように,現 代の経済学は人間の経済的営為 と自然環境 との関係を も視野に収めなければならない。 しか も,そ うしたことが求められることにな ったのは,経 済活動の規模が肥大化 し,経 済活動の基盤 としての自然の再生 ・ 浄化機能 をただ単にいわば無償の恩恵として外生化 しておけなくなったからで あるとすれば,そ うした経済活動の肥大化 をもたらした根本要因は何かという ことが問われざるをえな くなって くる。そうした反省に立ってでなければ,環 境問題への経済学的対処 といっても,対 症療法的処方箋の提示のみに終わるこ とになろうからである。そして, この点で問題 となるのが,増 殖,成 長を自ら の存立根拠 とする資本制経済システムの特性 とともに,近 代 という時代を支え てきた世界の了解図式 ということになる。すなわち,近 代的思考の枠組みをな してきたのはデカル トに代表される主体 ・客体の三分図式であり,そ こでは自 然はモノとして価値や意味を景J奪されてもっぱら支配,操 作の対象 とされてき た。その結果,理 性によって自然の世界を買 く法則を解明し,そ れを人間のた めに利用することが一貫 して追求されてきた。そのことが,結 局,環 境問題を 引き起 こすほどの経済活動の肥大化の根底にあると解 されるわけである。 36)た とえば,藤 原保信 『自然観 の構造 と環境倫理学』御茶 の水書房,1991年 ,D.ぺ ヽ/パ ー,柴 田和子訳 『環境保護の原″点を考 える』青 弓社,1994年 ,さ らに単 なる近代批判では ないが,高 木仁二郎 『いま自然 をどうみ るか』 白水社,1985年 をも参照。
回 公 教授退官記念論文集 (第305号) この点を自由のあ り方に引きつければ,近 代的自由は,他 在による制約から 解放 されて, 自らの欲するところを実現させ ることと理解 されてきたと言って もよいであろう。そして環境問題は,理 性 を時みこうした自由を追求 してきた 近代人に警鐘 を鳴らす ものにほかならないということになる。だが,果 して制 約からの解放 という以外の自由はあ りえようか。ここで注 目されるのが,「制約」 というのは純粋に客観的事象ではな く,む しろ価値判断に関わるという問題で ある。つまり, 自らを取 り巻 く状況に納得 し,受 け入れているのであれば,制 約に服 しているのではない。環境問題に即せば, 自然界にも固有の価値 を認め, それな りに尊重すべ きもの と評価 しているなら, 自然の支配,操 作 を限定 して も,そ の環境のなかで心のままに くつろいでいられるということである。 合理性論に引きつければ, 目的を達成する手段 としての有効性,効 率性に関 わる目的合理性 と,そ うした合理性 を二次的にして何 らかの価値 を尊重 しよう とする価値合理性 との区別がかねてよりなされてきた。上述の二つの自由のあ り方の問題は, これら二つの合理性の区別 と重合するところがあると解 される わけである。だとすれば,そ の所説のなかで 「合理性」をきわめて重視 してき たグラムシにおける 「合理性」は,い かなる性格のものであったのであろうか。 菱山氏が示 しているように, グラムシの自由論の基本的枠組は,や は リヘー ゲルの系譜を引 く 「自由と必然の弁証法」であろう。 自由とは,恣 意ではな く, 必然を洞察 し,そ の制約に服 しながらそれを利用するところに成 り立つ ものと いうわけである。と同時に,同 じく菱山氏の指摘にあるように,グ ラムシは「強 制が強制であるのは,そ れを受け入れない人にとってのみ」 とも述べていた。 ここに,上 述の第二の自由のあ り方につながる認識 も見出せな くはない。だが, 37)人 間中心主義 を批判 し,動 物の権利, さらには無生物の権利 を認め ようとす る運動 にお いては, 自然の事物 に固有の価値 を認め ようとす る理論 も展開 されて きている。 た とえば, R.F.ナ ッシュ,松 野弘訳 『自然の権利』 TBSブ リタニ カ,1993年 ,参 照。 38)菱 山氏,前 掲書,225∼ 26ペー ジ参照。 39)同 上書,226ペ ー ジ。D.フ ォーガチ,前 掲邦訳,510ペ ー ジ。なお,歴 史におけ る決定論 と個 人の 自由 との問題 としてこうした論点に取 り組んだ ものに,梅 本克己の主体性論があ る。梅本の史的唯物論理解 は グラムシよ り柔軟 さを欠いていたが,「無の哲学」と真摯に切 /
グラムシと経済学の現代的課題 85 そ う言い切れ るか どうかは,何 を基準に 「受け入れ」 るのか とい う価値判断に 依存す るところがある。 目的合理性 を基準に 「受 け入れ」 るのであれば,上 述 の第二の 自由のあ り方 とは相容れがたい。しか も,そ れは,「自由 と必然の弁証 法」 とは とくだん相対立す るものではないのである。 そこで, グラムシの 「合理性」の性格 であるが,こ の点については既に鈴木 富久氏が立 ち入 った考察 を展開 している。すなわち, まず,グ ラムシの合理性 論 は,「理性的であるものこそ現実的であ り,現 実的であるものこそ理性的であ る」 とい うヘーゲルの命題 を,エ ンゲルスを媒介に し,な おそれ を批判的に継 承す るこ とで構成 されている。したがって,「合理的であるすべての ものは現実 的である」 とい う位相 と 「現実的であるすべ ての ものは合理的である」 とい う 位相 との二つの位相 を持つ。かつ,後 者の 「存在す るものの合理性」は, よ り 高 き合理性 の実現 を求めて現実の変革 をめ ざす前者の「創造的一変革的合理性」 に媒介 されて実現 してお り,逆 に前者 も,そ れが現実化 し,社 会化 されては じ めて 自らの合理性 を実証 しうるとい う点で後者に支 えられているとい うように, 両者は弁証法的に相互依存 しあ う円環関係 にある。 さらに,そ うした円環関係 のなかで,求 め られ る合理性の基準 も, またそれ を単 なる恋意に終わらせずに 歴史的必然 となさしめてゆ くもの も,結 局,「人間生活総体 の発展 を基準 とす る 『真の真 に機能的な合理主義』」ない し 「最大限の功利主義」とい うことになっ ている。但 し,そ の実現過程 に衝動 ・情熱, さらに信念 ・信仰 といったいわゆ る非合理的要素が介在 し,重 要 な役割 を呆たす ことも認め られているが, と。 じっさい,グ ラムシのアメ リカニズム論や フォーディズム論 をみて も,一 方 で 「生産の世界で必要不可欠な役割 を持 たない」数 多 くの諸階級が存在 しない ヽ り結 んだその思考 は,こ の論点に関 してはグラムシの 「実践の哲学」以上 に果味深い もの を残 した と言 えよ う。 た とえば,梅 本克己 『唯物 史観 と道徳』 こぶ し書房,1995年 ,参 照。 40)鈴 木富久 「『合理性」概 念の二つの位相」松 田博編 『グラム シを読む』法律文化社,1988 年,所 収。 41)同 上論文,71∼ 73,84∼ 87,95∼ 96ペー ジなど参照。 42)同 上論文,74,76∼ 78,81,86,92∼ 93,95ペ ー ジな ど参照。 43)同 上論文,82∼ 85ペー ジなど参照。
田 公 教授退官記念論文集 (第305号) 4 4 ) こ とにア メ リカの 「合理的人 口構成」が見出され,他 方で 「コス ト低減 をめ ざ す技術革新,労 働 の合理化」 それ 自体 に対す る批判的見地は認め られない。 さ らに,初 等教育に関連 して,「歴史的に もっとも適 したや り方で 自然法則 を支配 す るこ と」に肯定的所見が述べ られているし,文 学批評に関連 して,「『合理的 な』順応主義」 を 「有効 な結果 を得 るための最小限の努力」に対応 させ て もい る。要す るに,グ ラムシには 「生産諸力は中立的な もので,そ れ らの発展は明 らかに有益 な ものに思 える」とい う 「『生産主義的な』思想的傾 向」が認め られ るし,そ れに照応 して 「合理性」は基本的に 目的合理性的に捉 えられていた と い うことである。 それゆえまた,そ の 自由論 もオー ソ ドックスに近代的なもの だった と言える。だが,そ れは,グ ラムシの歴史三社会理論がスラッファ的経 済学 に投げかけていたはずの問題提起 と整合す るであろ うか。節 を改め,現 代 経済学に とってのグラムシの歴史三社会理論の意義 を総括 してみ よう。 V 総 括 ス ラ ッフ ァ的経済学 とグラム シの歴 史 三社会理論 が経済学 に求め るはずの も の との争 点 をス ラ ッフ ァの側 か ら言 えば,経 済学 の核 心部分 は客観 的 で明瞭 に 語 りうる関係で構築 し,そ の他の論点への論及は禁欲することでかえってそれ らの多様で,学 際的な特性 を浮き彫 りにするということであった。いわば沈黙 を通 して語 るという手法である。スラッファのばあい客観的=方 法論的反人間 主義であったことをひとまず措けば,こ れは従来の経済学の方法 としてさほど 珍 しいものではない。むしろ,こ うした方向で経済学の純粋理論を構築 し,そ の他のものを応用経済学な り,社 会学なりに求めていった例は多い。 したがっ て,グ ラムシの歴史三社会理論が経済学のあり方に投げかけている問題はかな り普遍的な問題であったということになる。さらに,一 見,人 間不在の技術的 44)D.フ ォーガチ,前 掲邦訳,344∼ 45ペー ジ参照。 45)同 上邦訳,352,360ペ ー ジな ど参照。 46)同 上邦訳,389ペ ー ジ。 47)同 上邦訳,507ペ ー ジ。 48)同 上邦訳,343ペ ー ジにおけ るフォーガチの解説参照。
グラムシと経済学の現代的課題 87 関係 に見 え る もの も, じ つ は社 会 的 に創 出,再 生 産 され て い る特 定 の型 の 人 間 類型によって支えられているということに端的に現れているように,経 済事象 における人間的王制度的要因の本質的重要性に鑑みるならば,そ うした 「明瞭 に解 きえないもの」をも経済学の核心部分に取 り入れるというグラムシ的方向 は十分に考慮に値するもの と言えよう。 とりわけ,現 代の工場やオフィスを支 える人間類型の再生産は,グ ラムシが既に端緒的に洞察 していたように,ボ ー ドリヤールが言 うところの 「記号消費」に象徴 されるような,工 場やオフィス 外の私的消費生活を含めた生活全体のなかの事象 となっているだけに,こ うし た方向はいっそう重みを持つ と解 される。 では,経 済学のあ り方 としてこうした方向を取るということは, もうひとつ の大 きな現代的課題 としての環境問題 とどう響 き合 うことになるのであろうか。 まず,環 境問題に経済学的に対処 しようとして直面されることは,使 益にせ よ費用にせ よ濃厚に不確実性 を帯びているという事態である。生態系は広範か つ複雑に絡み合 ってお り,あ る経済的営為の影響が他のそれらと複合 して長期 間の後にどのような相乗効果 を生み出すかを確実に予測 しうるものではない。 また,環 境問題においては,費 用にせ よ便益にせ よかなり遠い将来に関わるこ とが多いが,そ れらを比較すべ く現在価値に還元するさいの割引率に確固たる 根拠が見出されているわけではない。さらに,環 境問題に関わる費用や便益に はそもそも貨幣換算が難 しいものも少な くないのである。 しか も,生 態系には 閲値 という問題,す なわちあるレベルを境に状況が急激に変化するという問題 がつ きまとうし,そ こには不可逆性,す なわちもはや取 り返 しがつかな くなる という問題 も随伴する。だとすれば,不 確実な使益や費用を用いて目的合理的 な合理性 をあ くまで追求することは危険であ り,む しろいわばピンぼけの映像 のなかで無理 をしない範囲を探求するという知恵が重要 となってこよう。 49)前 掲の磯谷論文が示 しているように,制 度への関心 自体は経済学界全体 として高まって お り,そ れをまさに明瞭に解 こうとする人々 もある。だが,と 32)で論及 したように,そ う した方向にはどうして も狭除さがつ きまとう。 50)玉 野井芳郎の追求 した 「生命系の経済学」はこの方向を一いささか端的にだが一追求 し たものと言えよう。
田 公 教授退官記念論文集 (第305号) かつ,そ うした知 恵を働かせ ることは必ず しも単 なる消極的我慢に留 まらな い。 それは, 自然界に も固有の価値 を認め,そ れ と共生 していこうというライ フスタイルに通 じる。 しか も,そ うした 自然認識は,当 然,社 会的モラルに も 反映 し,他 者の尊重,他 者への優 しさや寛容 といった精神 を育ててい くとい う 積極的効果 を生む こ とに もなるのである。 か くして, グラムシの歴史 三社会理論が経済学に提起 していた, ピンぼけの 映像 の再評価 は,現 代的には環境問題 を通 じ別の角度か らも求め られているこ とがわか る。 しか しなが ら,前 節でみた ところか らすれば,同 じくピンぼけの 映像 を再評価す るとはいえ,前 者が簡単に後者に接合 しうるわけで もない。合 理性や 自由の捉 え方に質 を異にす るところがあるか らである。かつ,現 代 にお け る環境問題の重み を踏 まえるか ぎり,そ れは次のことを意味す ることとなろ う。す なわち,グ ラム シの歴史 =社 会理論 は,そ の合理性論や 自由論の内実 に 一定の再検討 を加 えられては じめて,現 代経済学の通常のあ り方に対する真に 貴重 な問題提起 になるこ とがで きる, と。経済事象におけ る人間的 =制 度的要 因への関心が高 まっている今 日,グ ラムシの歴史 三社会理論か ら学び うるこ と は少な くない と思われ るが,そ うした関心 を軸に した現代的経済学 を発展 させ てい くためには,た とえば ピンぼけの映像の再評価 とい う論″点をも,上 述のよ うな ところまでの射程 を字んだ もの として捉 え返す必要があるとい うことも, グラムシ理論か ら学ぶべ き重要 な教訓 と解 され るとい うわけである。 51)た とえば,シ ュレー ダー =フ レチェ ッ ト編,京 都生命倫理研究会訳 『環境の倫理』上, 晃洋書房,1993年 ,172ペ ー ジ参照。
グラム シ と経済学の現代的課題
The lmplication of A.GraIIlsci's Thought
for Modern Political Economy
Naoki Umezawa
Several years ago,professor I. Hishiyama wrote an interesting paper on the relationship between P. Sraffa's ecOnornics and A. Gramsci's thought. That paper is quite thought― provOking even no、らbut l think Hishiyama's vie、v still does not develop completely the ilnplications of Gramsci's thought for modern political eco‐ nomy.I try here to revise it in relation to twO points.First,there is the necessity to reevaluate institutional factors、vhich cannOt be sufficiently clarified by rnathematical analysis.Second,there is the necessity to reconsider the nature of ``ratiOnality".