東 南 アジア研究 13巷4',子 1976年3月
開 明 的 知 識 人 層 の 形 成
--20
世 紀 初 頭 の ベ トナ ム-白
石
昌也 *
TheEme
r
ge
nc
eofNew Vi
e
t
name
s
eI
nt
e
l
l
e
c
t
ual
s
att
heBe
gi
nni
ngoft
heB
o
t
hCe
nt
ur
y
by
M
asayaSHIRAISHⅠ(1) PhanChu Trinhwasborn intoatraditionalvillage fami lyofruralintellectualsin 1872.AndPhanBoiChauwasbornin 1867.Trinh,Chauandotherswithsimi larbackgrounds becameleadersofnew m0VenlentSaround 1905.Theycondelllnedtheexistingeducationaland mandarinateexami nationsystem aswellascorruptofficialdom,towhichtheyattributed their nation'sdecline. They stressed the importanceOfintroducillg new thotlghts,new knowledge and new education intothe country,andadvocated movelllentS Called Duy Tan (Innovation) andpongDu (Visiトto・the・East).
(2) Thefollowi ngfactorswhich ledyoungerVietnameseintellectualsfrom traditionalism tomodernism arenoted. (a)Thefirstandmostbasicfactorwassensitivitytothehumiliating lossofthecountry'ssovereigntyandtllepossibility thattllenationwouldbedestroyed. (b) SimultaneouslytheyweredisillusionedwiththeVietnamesecourtanditsnlandarins,andbecause ofthismostOfthem WereVeryhesitantaboutentering th∈・serviceoftheEmperor. (C)Coll・ Sequently theynolongerregardedthemandarinateexami nationasoneoftheprlmarygoalsof theirlives.nncetheybegantofeelthisway,theyllatedthiso一d-fashionedsystem allthemore, becausetheiryouthwaswastedstudyingfortheseexaminations. (d)Around1900,theybecame interestedin Chinesei°e;lS COnCerning modernization through whichthey learnedofJapanese attemptstomodernize tog.etherwiththoseofChinese.Ⅰnspiredby thesethough ts,theViet na-meseintellectualsbecamebetterabletoarticulatetheirfeelingsaboutVietnam'sfateandtheir doubtsaboutthelllandarinateand theexalllinatiollSyStenlS.
Thus the new Vietnamese intellectualsemerged asadvocatesofnew movementsin the firstdecadeofthe20th century. Thesemovements away from traditionalism wereprobably strengthened by thedevelopmentofcommerceinthecountry side.
(3) PhanChuTrinh,inhisHLettertotheGovernor・General,Hreportedlywrittenin1906,
appea一ed totheFrench to adoptanew policy to n10dernize Vietnam・ Inonesense,thiswas achallengetothe traditionalVietnamese elite. Trinh identified himselfasamemberofthe new intellectualsandheclaimedthattheyhadtherighttoreplacethemandarinswho,Ilefelt, had beenobstructing theprogressofthenatioll. Themandarins,ofcourse,respondedquickly. Theywereeventually successfulin completely wlplng Outtilenew movementsin1908,when peasantdemonstrationsagainsttaxationandcorv6system were crushed・
序
2
0
世紀初頭 のベ トナ ム民族運動 を指導 したのは,
開明的知識人l)であ る。彼 らは お しなべて
1
8
6
0-7
0
年代 に在村 の伝統的 知識人2'の家系に生 まれ てい る(〕そ してそ の青少年時代 を,伝統 的な学 問 (旧学 )の習得 のために費 や した経験 を持 ってい るO1
9
0
()隼前 後に至 -'て彼 らは科挙 に 合格 し,それ までの勉学 -の没頭 U)見返 りとして,加蔵人社 会に二机 ナる栄 誉 と名声 を掌 中にL
,かっは官 吏と して 出世す るためu)必 要条件を
満 たす こととな -'た。 しか るに彼 らの成長 した時代は また, フランスに よる植 民地化が進行 L,それ に対す ,Lベ ト ナ ム人 の抵抗 闘争が燃 え広が り, やが て挫 折 してゆ く過程 と軌跡 を同 じくしていたO こ うい っ た時代情況 のゆえに, 彼 らは伝統的
知識人 と しての道 を大過 な く進 む ことを,みず か ら拒 否す る宿 命を背 負 っていた。 この よ うな時代情況 は,世 界史の流れ のltい〔、見れば,西
欧 の侵略 (あ るいはそ の脅威)に南面L
ていた アジア諸 因 が,-様 に共有 していた ものであ った。 中国は 7- ン戦争 以来 日清戦争 に至 るまで幾 多の試練 を経験 し, 洋 務運動や変 法 自強運 勤で 西欧 (文 明) の挑 戦に対抗 しよ う としてい た。
日本は黒船騒 動以来 の衝 撃のIflで, 明治維新,富 国強兵,立憲君主体制 の確立 と い う形で の新たな道を模索 していた。1
9
世紀後半 に生 まれ あわせた ベ トナ ムの知識人 た ち も, 申国や日
本が解 決を迫 られたの とrF1-jじ問題に直面 したO またベ トナ ム史の流れ の申で見 るな らば,彼 らの生 まれ 育 った時代環境は, 自分 たちの祖国 が フランスの支配体制 に組 み込 まれ てゆ く過 渡 期にあた っていた。む ろん フランスはその植民 地化 の過熱 こおいて, ベ トナ ムの伝統的な在村 知識人層 (す なわち開 明的 知識人 の父の世 代) の頑 強 な抵抗 に直面
した。 後者 は 自己の 生 まれ故郷 を基盤 と L, また 農 民 との ご くり'削 勺な 関係 のゆ えに農民 を自己の同盟者 とす ることに成功 していた。3) しか しそ の闘 争形態は,過 去1
0
0
0
年にわた って中国
の侵 入に対 して取 られ て きた もU)と基本的
には変わ りがなか った。そ の 闘争が フランス人 の武 力 と政治的術策の下についえ去 るあ りさまを, 田園に囲 まれたそれ ぞれ の生 まれ 故郷 で眺 めていた少年た ちは, やが て長ず るに及 んで祖
国の運命が自
/JJLたちの肩にか か-∴てい ると自覚 した時,
旧套を打破す る以外 に民族の危難 を回避す る道は ない と明白に認識 したのであ った。 このかつ ての少隼たちが,2
0
世紀初頭 の開
明的 知識人 たちであ -'たo 1)「開明的」と言 う用語は,谷川栄彦 『東南アジア民族解放運動史』(経輩書房,1969)p.47以 下に従-) た。ちなみにこの用法は徳川時代末期の日本の知識人についても用いられている。例えば中沢護人 ・森 数男 『日本の開明思想』 (紀伊国屋新書,1970)0 2)伝統的知識人の定義については脚注(6)を参照されたい。 3)19世紀抗仏蜂起における在村の 知識人層と農 民の関係について述べた ものとしてほ,I)avid MarI・, Vietnamese Anticolonialism,1885-1925.(Univ,ofCalifornia,1967)',TruongBuu Lam,Pattern ofVietnameseResponsetotheWest,(YaleUniv・1967).,i)冬ngHuyV台nのNghie'nCtl'uL・ichS諒.
誌,75,94,99,112各号所収の論文。 560
白石 :開明的知識人層の形成 これ 以後 フランスの植民地支配体制 が確立 し,長期化 してゆ く段階 で, やが ていわゆ る近代 的知識人 が ベ トナ ム史に も登場 して くる。 彼 らは西欧式 の教 育を受け, また都 市に集 中 してい た。 そ の意味 で彼 らは,農村 に住み伝統的 な学問に従 って教養 を積 んで きた従来 の知識人 とは 大 き く異 な る ものであ った。 こ うい った新 たな知識人 層は, ベ トナ ム史においては1920年代以 降に形成 され た。19世紀後半 の抗仏 の闘士 を第- 111.・代
,2
0
世紀初頭 の開明的知識人 を第二世代 とすれば,彼 らは第三世代 の知識人 と称 しうる ものであ った。 しか しこの第三 世代 の出現 を ま つ まで,近代的 な思 想や知識が ベ トナ ム人 に受け いれ/らわ なか った とい F)わけでは ない。 こ う い -〕た近 代性 - の着 日は,伝統的 な学 問 のIi-1で 曹 一)た開 明的知識人,す なわ ち第二世代 の知識 人 の中にすでに 見出 され るのであ る(〕 本稿 の 目的は, この第二I
H_-1亡にあた る開明的
知識人が 旧来の知識人 のあ り方 に疑問 を抱 き, 「近 代」 に 冒ざめ てい ,)た軌跡 をた どる ことにあ る。 と t)わけ フ ァン ・チ ュ ・チ ン(
Pha
nChu
Tr
i
nh)
, チ ャン ・ク ィ ・カ ップ(
Tr
孟hQuiCap)
, フ イソ ・トryク ・ カ ン(
HuyhhThdc
Khang)
(以上 ク ァソ ・ナ ム省), フ 7・ン ・ポイ ・チ ャウ(
PhanB¢
iChz
^
l
u)
(ゲア ン省) の4名 の
申
析 (ア ンナ ム)4'出身 者にその焦点をあ てつつ, 当時 U用目明的
知識人層 の全体 的 な概 観 を把挺す る ことに努め たい と思 う(ト
ーⅣ,V
T節)0 しか る後 に フ ァン ・チ ュ ・チ ソに焦点 を絞 って,彼が実践 した運 動につ いて,そ の幾 つか の 側面 に触れ てみ ることと したい(V,
Ⅶ節)。 ここで フ ァン・チ ュ・チ ンに限定 したのは,彼 につい ての資料が比較 的入手 し易い こと,
開明的 知識人 の運 動 と一 口に言 って もそ こには非常 に異な ・,た傾 向が存在 してお り,それ らを同列に論 じることはで きない こと,な どに よる ものであ る。I
生 い 立 ち フ ァン ・ポイ ・チ ャウは1
8
6
7
年, ゲ ア ン省(
NgheAn)
の村 塾教師 の子 と して生 まれ た。 ク ァン ・ナ ム省(
Quan
gNan)
出身 の フ ァン ・チ ュ ・チ ンは1
8
7
2
年生 まれ, 父は科挙 に失 敗 し, 代 わ りに武官職 を手 に入れ た村 内の有 力者 であ る。 フ ィン ・ トゥク ・カ ンは1
8
7
6
年に同 じくク ァソナ ム省に生 まれ た。 父は農耕 しつつ村 の少年達 に手 習い を教 え る村 塾教師 であ った。5) 彼 らの生年 は1860
-70年代,家系は在村 の知識人階層8)であ る点で一致 Lてい る。4)仏領時代のベ トナムは,北よりトンキン(Tonkin), アンナム(Annam),コ-チシナ(Cochinchine) と称されたが,現在のベ トナム人は,これを用いない。本稿においては,原則として,北祈,中断,南 折と呼ぶことにする0
5)三人の伝記としてほ,PhanBやiChau,NgycTrung Thu'.(TanViet,Saigon,1950).(長岡 ・川本訳, フアン・ポイ ・チャウ 『ヴェ トナム亡国史』平凡社,1966);PhanBOiChau,Ty'Pha'n.(AnhMinh.
Hu毎,1956).(仏訳.Boudareltr.HPhanB¢iCh合u..Memoires.=inFrance-Asie/Asia. 22-3/4); HuyflhThdcKhang, Phan Ta-y
Ho
dTieAnsmhLt.chS滋',(AnhMinh,Hu'e,1959);HuyhhTht'1C Khang, Ty'Truye^n.(AnhMinh,Hu毎,1963)がある。6)本稿においては,在村の伝統的知識人層とは,(1)休退職官吏,(2)科挙に令格 したが仕官せぬ者,および 科挙受験の経験者,(3)教養ある村内の有力者 (村役人,郷職を含む)のいずれかに該当するものとして 定義 しておきたい。 ここでは漢学の素養と,経歴としての科挙が重要な指標となっている。なお,寅保 潤一郎 「十 九世紀後半のイン ドシナ 」 膵:一波講座,世界
歴史
』 21巻,p.130の伝統的知識人の定義を参村 内の金持 ,有 力者 ,知識人 の家族 に とって, そ の一 門か ら科挙 令 格者 を 出す こ とは大 きな 夢 であ った。 フ ァン ・チ ュ ・チ ソた ち の家族 の場合 もこの例に もれ なか った で あろ う。幼 い頃 よ り聡 明で あ った だけ に彼 らは一 家 の期待 を一 身 に負 いつつ , まず家 庭 内で (母親 な どか ら基 礎 的 な漢 字 を習 う),つ いで
6-1
0
才頃 か ら村塾 に通 い始 め るこ とに よ-,て,学 問 の初歩 を修得 し始 めた。7) そ して1
0
才代 のr国 主か らは, い よい よ科挙 のた め の勉学 ,す なわ ち詩 ・賦 の作法 が始 まる。 これ 以降科
挙 に令柿す る りまで,途中
勤王蜂 起(
1
8
8
5
-)
の混乱 期 の中
断 を除 い て, 彼 らは研銃 に研銃 を重 ね たので あ 一'た。 このf制 二当時 の勉学 に熱心 な青少年 たちがそ うであ っ た よ うに,彼 らも良師 を求 めつつ,村 塾か ら村塾- と転 々 と してい る.吊) か くして2
0
才前 後 に な る と,郷試 に応ず る こととな る。 ゲ ア ン省 の場 合にはそ の省 都 ヴ ィソ(
Vi
nh)
に試験場が あ -)たが, ク ァソナ ム省 には試験場 が なか ったので, フ ァン ・チ ュ ・チ ソた ちは海雲 峠 を越 えて 試験場 の あ る 7-に まで赴 かねば な らなか った。9) 郷試 は科挙 の三段階 の試 験 の第一一段階 では あ るが, それ- の受験 汽楢 を得 fJこ とは,既 にそれ だけ で も知識人社 会で の充分 な格 づけ とな りえた ものの よ うで あ る。 各省学 で の予備試験 に優秀 な成績 を収 めた者 に して初 めて郷試 に応 ず る資格 を与 え られ た か らであ る。10'tFろん郷訳 に一度 で 合格す るこ とは至 難 の業 であ る。 彼 らも3年 ごとの試験 を何
度か受け 直 してい る。 そ うこ うす る うちに彼 らは省 内でそ の学 才 を知 られ るよ うに な る. そ して省学 の学 生 に推薦 され た りす るので あ る.ll)同時 に この頃 か ら村塾 の教 師 と して後進 の者 たちに勉学 を指導L始 め る よ うに もな った。 か くして フ ァン ・チ ュ ・チ ソほ,1
9
0
0
年(
2
9
才) に第三 位 の成緋 で郷訳 を合格 し,翌年(
3
(
)
才) の会試 ・殿 試 に令 略 して油日Iljjの肩 吉を得 たO これ は進士 よ りは劣 るが,秀才 や挙人 よ りも 才)には殿 訳に 合格 して進士 とな ったo lr摘 如 )チ ャン ・ク ィ ・カ ップ も1
9
0
4
年に進士 とな って い る。 ゲ ア ン省 の フ ァン ・ポイ ・チ ャウは1
9
0
(咋
(
3
4才 )郷武 を首席 で合精
し, 解元 の肩 苦を 得た 。 伝 統的 知識人 に と-)て科挙 に令 楢す る まで が,そ の人 の人隼の一区 切 りで あ -つた。 彼 らの場 7)フアン ・ポイ ・チャウは 6才,フ ィン・トウク ・カンほ 9才,フアン・チュ ・チンは10才か ら村塾
に通 い始めた。 8)ちなみにフィン・トウク・カソの場合,彼が村塾に通い始めてか ら省学 (官立の学堂)の学生 となるま で, 9才か ら21才までの12年間に師事 したノ抑勺各村の教師ほのベ15名であ った。その内訳は,休退職官
吏 4名,府学の現職教授 1名, 進」:1名, 秀 才4名,蔭生2名,不明3名であった。 進士は殿試合格 者,秀才は郷試合格者,蔭
生は父か らの官位の世襲 舌であるoHuyhhThdcKhang,T〟'Truye'n,pp. 9-26. 9)郷講は3年に一度開催されたo当時の試験会場は,ナムデ ィソ,タイソホア,ヴィン,フ-, ビンディ ソの5カ所におかれた。HPhanB¢iChau:M6moires,"France-Asie/Asia. XXII.3-4. note19.by. G.Boudarel.会試,殿試ほ郷話の翌年,王都フ工で行なわれた。 郷試 合格者には秀才 ・挙人,余試 ・ 殿試の合
格者には副 傍・進土の称号が与えF/浸した, 10)HuyhhThdcKhang,oP.cii.,pp.19-20. ll)フアン・チュ ・ナンは 1899年
(28才),フィン・トウク・カソほ 1896年 (21才)に省′
芋の'
、
掴 二とな/つて いる。, 562白石 :開P別付知識人層の形成 合 それ に至 る までに費 や した年 月は20年余 に渡 ってい る(〕す でに年齢 は30,人 生 もそ の半ば で あ る。 従来 な らば彼 らには この後 に栄 達 の道が 開かれ るはず であ った。 (実際 フ ァン ・チ ュ ・ チ ソは 7-で い ったんは仕 官 してい る)。 しか し科挙 合格 のた めに遮二 無二 過進 して きた彼 ら は, ここまで きた ところで皮 肉に も立 身 出世 の道 を放 棄す る こととな った のであ る。 科挙 のため の勉学 に, この よ うに人 生の半ば を費や した ことは,後年 の彼 らに と っては虚 し く,か つ腹jtz/.j=Lい ことで あ ったに相違 ない。 彼 らに と って科 挙 のため の勉学 にそ の貴 重 な生 涯 を費 や した期 間が長けれ ば 長 いほ ど, またそれ - の没頭 が深 ければ 深 いほ ど, い ったん科挙 や そ のため の学 を有害 無益 と感 じた時 , それ への嫌悪 や痛恨 の思 いは,それ だけ厳 しくかつ 深 い もの とな った であろ う。
6
才 で村 塾 に 通 い始め てか ら3
4
才 で郷試 に合格す るまで,実 に2
8
年間
を費 や した フ ァン ・ポ イ ・チ ャウは, 『獄 ffl書』 のTfTで次 の よ うに痛恨 の言 を吐 いて い る。 私 は幼 少か ら 壮 年 時 代 にわ た -つて 頭 が 良 い といわれ, 糞雪 の動学 も 怠 りませ ん で した が , しか し得 た所 はわず か に科挙 の学 問にす ぎませ ん。 ---私達 の 出 世の途 は ど うして もこれ 〔科挙 の学 問〕 に よ らねば な らず , また この時勢 に従 うまい と して もほか に学 問 の途 は なか ったのです。 ああ, この よ うな時 勢 に と らj)れ た私が, た だ科挙 の文 詞に空 しくほ とん ど半生
涯 の歳 月 をつ いや した ことは,尖 に私--一生u
)
損
失 で あ り,経歴 Iflの最 も大 きな遺憾 であ ります。IjO また- ノイ の ドンキ ン義 塾に参 加 Lた知識人 たちは,r
伸
iTの 『新民 敵 n13)に載 った科挙 の六 種 の愚 を述べ た記事 を回 し読 み してい る。 第 - の種 類 は囚人。 試験 の時 には, テ ン ト・ベ ッ ド・ヒ ョウタン ・- コを持 ち込 まねをど な らな い。 囚人 と どこが違 うか。 第二 は泥棒 。 試験場 に い ったん入 るや,兵隊 に見張 ら れ る。 (-・-・)第三 は ネズ ミ。 一 日中試験場 の 中に坐 って,時 々冒険 を犯 して首 を 出 して み る.穴 の中
の ネズ ミみ たいだ.第 四は ネ コ.隠れ て巾
に坐 りつつ呑 み食 いす る。(--・) 第 五 は エ ビ。 令格 発表 の 冒,誰 もが 自分 の 名前 を見 て大 喜 び L, エ ビの ごと く跳 びはね る。第 六 は ミミズ。 名前 の見つか らぬ者 は, 悲嘆 に 暮れ て ミミズの ごと くのた うつ。14' これ は ベ トナ ムの知識人 に とって も実感 と して良 くわか る酢豚 であ ったろ う。 この よ うに して フ ァソ ・チ ュ ・チ ソた ちは, 伝 統的 な科 挙 の学 に深 くか つ 長 く関わ -)て きたがゆ えに,それ -の最 も徹底 した批判者 と もな りえた ので あ った。 だが これ には も う一 つ の面
が あ る。 彼 らが最 も高 名でかつ権威 あ る科挙批 判者 ・肝 芋批 判者 12)フアン ・ポイ ・チャウ (長岡 ・川本訳) 『ヴェ トナム亡国史』
(前掲),p・101. 13) 『新民叢報』のことであろう。14)NguyさnHiさnL色,D∂ngKinhNghlVaThyc, (LdB紘 Saigon.1968)p.88.宮崎市定 『科挙
』
(中 公新書,昭和38年)
によれば,満
松齢 (『脚斎志異』著者)が,科挙受験生は七回様子が変わると噺笑 し た (乞食,囚人,蜂の子,氏,猿,棚,鶴 )と言 うO本稿本文に引用 したものは, これと同T
.異曲であとな りえた のは,皮 肉に もほかな らぬ彼 らが科挙 に成功 した 知識人たちであ ったか らであ る。 す なわち第一 に,知識人社 会での最高 の栄誉 を手 に した者 に して初 めて,その科挙 ・旧学批判 は重みを持 ち,他 の知識人に耳傾け させ る力を持 ちえたか らであ る。15)第二に, と りわけ彼 ら の
清
動の初 期にあ っては,科挙 や 旧学に対す る批 判は漢文や 詩賦に よって書かれたが,格調高 くかつ優れ た作 晶を物す る能 力のあ ったのは, この時代 にあ っては科挙 に優秀 な成績 を収 めた 人 々であ る可能性が 高か ったか らで あ る。 さ らに第三 の理 由 として,彼 らが科
挙 の応試や,
国 子監での勉学 ,仕官 な どのために 7-に赴 く機 会に恵 まれ ていたがゆ えにそ この知識人サ - ク ルに接 し,新 書や新たな知識 を吸収す ることが で きた こと。
科挙排 斥 を含む新 たな 考えを,他 の人 々に 先が‖て 抱 くことがで きた こと ヰ誹 け加 えて.[い 〔、あ 7)I").、I
l
亡 国 フ ァン ・チ ュ ・チ ソた ちが科挙 に合格 した甫 後にな -つて,今 までの 自分 たちの努 力をすべ て 水泡に帰す よ うな選択 を行 な った直接 の要因は, 中国か らの新 たな思想 と接 触 した ことにあ っ た と思われ る。 しか し, もし彼 らの心 の中に, ベ トナ ムの現状 と将来 に対す る深刻 な危槙 の念 が前 も-)て存在 してい なか った な らば,そ の よ うな中国か らの影響は いかな る役割 を も果 たす ことが で きなか ったで あろ う. 彼 らに危機感 をあお りたて,使 命感 を柿 えつけ るよ ')な事 態が ベ トナ ムにはす でに生 じていたのであ るoそれ
は フランスに よる占筒 と植民地化 であ った。 と n )け「恒
井の場 合,1
8
8
5
年 の勤 王蜂起 (PhongTraoC釦1Vu'o'ng)16'の昂湯 と挫折が, この 地域 の次の 世代 の知識人 たちに与 えた衝 撃は大 きか った。 フ ァン ・チ ュ ・チ ンの 父は
クγンナ ム省叫 搾起軍に参 加 Lていろ (〕チソ
自身 も当時1
4
才 の少 年 にす ぎなか ったが, 父に従 い, 家 を捨 て学 問 を捨 てて, 11伸 に こも り武芸 を習-
)
て
い るoL か しこの蜂 起 の過程 で チ ソの父は,義 軍 同志 の対立が原因で斬殺 され て しま-)た。17)フ ァン ・ チ ュ ・チ ンに と-)て,勤 王蜂起は, 父の惨死 や一 家の悲運 の思 い 田 と分か ち難 く結びつ いてい ち (, 当時10才 であ -つた フ イソ ・トゥク ・カ ソもまた, この蜂起 とそれに対す るフラ ンス軍の弾任 15)科挙の最終試験たる殿試を例にとると,
『大越歴朝豊科録』 (越訳,DqiVieAtI,ichTrial)DdngKhoa Lyc,BOQuaCiaGiÅoDqCX.b.Saigon.2vols.1963)によれば, 1822年か ら1862年の間に行なわ れた16回の試験の進士合格者は,累計154名にしかすぎない。40年で150名余の進士 しか誕生 しなかった わけであるOまさにエ リ- い11の- 1)∼ トであった.チャン・クイ ・カップ,フィン・トウク・カソほ 共にこの進上の肩書を持っていたことを想起されたいoフアン・チュ・チソはこれに準ずる副模,フア ソ・ポイ ・チャウは郷試 しか合格 していないが,それでも首位合格とい う栄首を手にしているOなお, ベ トナムの科挙制度の概観については, 竹11絹巨児 「ヴェトナムにおける因家権力a)構造J 山本達郎編 『アジアにおける権力構造の史的考察』pp.135-136. 16)文紳蜂起 (PhongTraoVa丘Than)とも称する017)HuydhThacKh云ng,PhanT(1^yHa NguyeT1V{la Xtlan.PhongTrdoDuyTl7n.(LaBai,Saigon, 1970).などを参照。
白石 :開明的知識人層の形成 の混乱 の中で, 多 くの肉親 を失 ってい る。
1
8)1
9
才であ った フ ァン ・ポイ ・チ ャウは,仲間た ち と 「試生軍」 なる組織 を結成 して蜂起に参 加す るつ も りでいたが,実際に フランス鎮圧軍が接近す ると組織は壊滅状 態 とな った。19) この共通の体験 の中か ら彼 らが等 しくひ きだ して きた認識が存在 した。 それは, ベ トナ ムの 国家主権が失われた こと (亡国), そ して民族の存在その もの さえ もが危 [)くな ってい る, と い う切実な 自覚 であ る。 ホ ア レコ ンゴ ン 例えば フ ァン ・ポイ ・チ ャウは1
9
0
7
年の 『和涙重言』 の中で, 国亡三十年 条,種滅一十〔
申 〕六 七条。 あ るいは 数十年後, 子孫絶滅,墳墓為嫌。 と述べてい る.20) こ うい った危機感は,彼 らの知識人 としての使命感 と表裏一体の関係にあ る。民族が存亡 の 危機に瀕 してい ると叫
'i覚があ るか らこそ,彼 らの使命感はそれ だけ ます ます強烈 とな るので あ る。 シ-フーートr)チルンT
ン
チ ャン ・ク ィ ・カ ップは 『士 夫自治諭
』 の中で, 因之倫亡久央 (--) 〔士犬が〕 及今不奮, 種類其危。 とその危機感 とともに 「士夫
」 としての使 命感を表 明 してい る。21) か くし
て, フ ァン ・チ ュ ・チ ンの 『イ ン ドシナ総督 あての書簡』
(
1
9
0
6
)
の次の引用文に示 され るごと く,危機感 を抱 いた知識人た ちは覚醒 し,行動に立ち上が ろ うと したのであ る。 400万平方米以上 の国土,2
,
0
0
0
万以上 の人民は,かつて半開の地位に まで至 らん とした 時期 もあ ・'たが,今 や また野蛮に戻 らん としてい る.知識 を持つ人間は この よ うな惨状 を見て,民族が全滅す るのではないか と恐れ,警鐘を鳴 らし食 って教 え合 うことを望み, 救折の方法 を心配 し令 ってい る.22) 彼 らの亡国の認識,民族滅 亡の危機感が, ここに 引用 した よ うな形 で表 明 されたのはず っと 後代にな ってか らの ことであ る。 また彼 らの多 くは,勤王蜂起の挫折 のあ とも10年以上 もの間 自分たちの危機 意識を明確 な実践活動に まで具体化す ることはなか ・つたく_,けれ ども以降 の彼 ら 18)HuyhhThdcKhan首, Ty'Truye^n・ pp.1ト17.19)PhanBやiChau,NgucTrung Thu',pp・13-14.(邦訳,p.102)
20) 『雲南熱
意迭
圃』 (
中国科学院歴史研究所編,北京 :科学出版社,1958).pp.719-720.引用文は,当 用漢字に改めた,21)Lam Giang,TrdnQu夕Ca'p.(Dang
・A
,Saigon,1970),漢文之部19ペ-ジ。彼 らがこの段階で国家と 民族 (種,種族
)を区別 して用いていることは注[=こ値する。の活動 を支 え る原 動力 とな った のは, この よ うな危機 感 と知識人 として の使 命感23)にはか な ら なか った。 そ してそ うい った危機感 は,勤 王蜂起 の際 の体 験 とわ か ち難 く結 びつ い てお り,後 1用女らを新 たな思 想- と開 明化せ しめ てゆ く要因 とな -〕た 0)であ るo
Ⅰ
Ⅰ
Ⅰ
官 界 へ の 失 望1
9
0
1年殿 試 に令楕 した フ ァン ・チ ュ ・チ ソは,1
9
0
2
年長 兄 (父死 後 の家 長)死亡 のた め喪 に 服 し,故郷 に も どった。1
9
03牛3
2
才 の時 7-で仕 官 した。 そ の官職 は礼 部承弁, 八 品ない し九 品の端役 で あ った。24)1
9
O
3
年に彼が 7-官 界 の内部に身 を置 いた こ とは, 当時 の彼 が未 だ伝 統的知識人 や官吏 のあ り方に対 して完全 な拒 否 の態 度 を取 るに至 って いなか った ことを示 して い る と考え られ る。し
か しこび)仕 官 の期間中に彼 は新学 に接 して新 たな思想 を身 につ け てゆ くこ ととな り, また 同時 に官 界 内部 に身 を置いたがゆ えに,従来 の官 吏制度 に対す る最終 的 な絶望 感 を深 め てゆ くこ と とな った のであ る。 そ の意
味 で この仕 官時代 が , フ ァン ・チ ュ ・チ ソの以後 の生
涯 に とって持 ってい る意味 は大 きい 。25) 彼 らは万事 につ け て下手 な のに ≪土 は四民 の第一 ≫ な どと うそぶ く刑
相,椅 紳は 宵芸 の内 そ の身に何 の芸 を持 つ と言 うのか た だせ いぜ い二 三字 を知 ってい るのL礼 幸運 に も 民 を食 い物 に し 寛 やか な上衣 と長 い祈子 も誇 ら しげに キ ンマの箱 と履 き物 を うや うや し く持 たせ 馬 車は ギ シギ シ 彼 の下 には 動 き回 る連 中が数知れ な い お世 辞 を覚え お こぼれ を求 め る 秀 才先 生や 者豪の旦那は 引用に使 ったものを含めて3種の越語訳が筆者の手元にあるが,原文はまだ入手 していない。 23)知識人の使命感は例えば,フアン ・ポイ ・チャウの 『和涙真言』においても示されている。 24)HuyflhThdcKhang,PhanTapHod.p.9.なお,NguyenTh芭Anh,ed=Phong Tra∂Kha'ng Thu'∂mie^tnTrung na-m 1908 quaca'cchdu Bdn Trie^uDuyTan.(B6V箆nHoaGiaoDtlCVaThanhNi色n,Saigon,1973)所収のフアン・チ,.
・チソに対する1908年の判決文によれば,彼は 「は じめ翰林院検討 〔従七品〕, ついで礼部刑徒,任期 果 してのち翰林院修撰 〔従六品〕および著rFの義務を果た した」とある(p.50)0 25)この点はフアン ・ポイ ・チャウらも同様の経験を している。彼は仕官 こそ しなか ったが,フエにあって 比較的良心的と言われた大官たちに接触 し彼 らに阪起を促がそ うとしたのである. しか し彼 らは現在の 地位と栄誉に安住 し,それを維持 したいと思 っているだけで,チャウの呼びかけには応 じようとし在か 'で∵二二ごった。PhanB¢iChau,Ng年CTrung Thu', (邦訳.pp.112-113) 566
白石 :開明的知識人層の形成 - -の如 くブ ンブと骨 をか じ り箸 を なめ る それ ば か りか そ の中間 に も ゴチ ャゴチ ャとい る 官 ともなれ ず また民 とも言 え ない 彼 らは学 士 とか文 人 の連 中で 衣 食に充 りて 身 は
何
も働 か な い26) これ は フ ァン ・チ ュ ・チ ンの 『醒 国魂』 とい うベ トナ ム語 詩 の-・節 であ る。 この詩 の製作年 代 は 明 らか では ないが, 少 な くとも彼が従来 の官吏 や 知識人 に絶望 した 後 の作であ る ことには 間違 いない。 そ うして彼 は1
9
04
年実際 に官職 を辞 す に至 った のであ る。 従来 の官吏 のあ り方, そ して伝統 的 知識人 の存在形 態そ の ものに対す る否定 は, この時代 の 開 明的知識人 に特徴的 な 要素 の一つ で あ る。 そ して これは窮極 的 には, ベ トナ ムの亡 国の現状 に 対す る律燥 感 とつ なが -)てい る。す なわ ちベ トナ ムの保護 国化 と, それ に 引 き続 く抗 仏蜂起 の挫 折 は,換 言 すILifベ トナ ム朝廷 お よび官吏 の フラ ンスに対す る協九 妥協, 屈服 を意味す る ものであ /,た. 既 に19世紀抗 仏蜂 起 の過 程 で, ドンカイ ソ新 国王 (Dらng Khanh)を擁 す る フエ朝廷 は,蜂 起 を指導 す る在村 知識人 層 と敵対 し,フ ラ ソスに妥協す る存 在 と Lてあ -,た。27' 朝廷 の穐儲化 は蜂起鎮圧 の過 程 で進行 したo 朝廷 は フラ ンスの走 狗 と して反徒 の弾圧 にあ た っ た。そ して蜂起鎖任 の後, と りわけP
・ドゥ- メル総督時代(
P.
Doumer,1
8
9
7
-1
9
0
2)
に な る と, 朝廷 に対 す る フラ ンスの干渉は ます ます露骨 とな った。 例 えば フラ ンス人 トンキ ン理事 長 官 (ResidentSup6rieur,統使) に よる北ITr行政権 の直接 掌挺(
1
8
9
7), ア ンナ ム理 事長官 (軟便) に よる朝廷最 高 決定機 関 o)主宰(
1
8
9
7)や申折
財政権 の掌握(
1
8
9
8)
な どは, 朝廷 の 権 限 の失 墜 の明 白な指標 で あ った.28' 他方 プ ラソスの支配下 に実 施 され た 直接 税 の増大 ,公共 事業 のための賦 役強化 , ア- ソ ・ア ル コ--ル ・塩 の専 売 制 (密造 取締 り, 消費強 制 を含 む) の導 入は,そ の直接 的 施行者 た るベ ト ナ ム人 官 吏,村 役人 の徴税 ・徴 発 ・取締 り ・消費 強 制 の義務 を増大せ しめ た,)彼 らは フラ ンス 植 民地 支配機 構 の未紬 二組 み込 まれ たが ゆ えに,一般 民衆 に対 す る直接 的収 奪者 ・弾圧 者 と し 26)Nguy組 HiさnL色,op.cii.,p.96.卿相は大臣,縛細は官吏や上流の人間,秀才は郷試合格者,菩豪は 村内の有力者o訳出にあた ってほ,竹内与之助 ・教授の御示唆をいただいた027)David Marr,op.cit.,pp.28-39;Truong Buu Lam,ob,citH pp∴6-10,33.この間の仏越交渉を概観
するためには,
phan Khoang,Vie^iNam Ph軸 Thu?^cSi.(KhaiTrL Saigon,1961);NguyさnTheAnh,Vie'i Nam dub'iih∂'iPha'pD9-hp-.(LuaThi金ng.Saigon.1970).
28)これについては,
JosephButtingr,VieiNan;ADragonEmbaiiled.(Praeger,New York,1967).vol.1.pp.13-62; L色ThanhKh6i,LeVietnam;Hisioireeicia,ilisaiion.(Paris∴1955).pp.392-400;JeanCesneaux,
ContributionE主l'hisioire dela nationvietnamienne.(Paris,1955). pp.153-175. (斎藤・立花訳 uJベ トナム民附
F
L
Z
成 史』丑論汁
,1970);NguyさJIThaAnh.oP.cii‥pp.111-122.ての役回 りを請け負わ され ることとな ったのであ る.29) また対仏協力を嫌 って職 を去 る官吏 の欠を補 うために,蜂起鎮圧 の功労者や対仏協力者た る 通訳 な ど, 「未熟練かつ不誠実なベ トナ ム人 」が官職につ き,科挙 の神聖 な権威は踏みに じら
れ
た 。3
0)
この よ うに して朝廷はその権威 を失墜 し,官吏は腐敗堕落 した もの とみな された。その こと は科挙 に よ-)て朝廷 の統治体制に知識人層を収束 ・序列化 してゆ く従来 の機能が,その権威を 失 ・,た ことを意味 してい るo伝統的知識人 の中に,官途 を拒み,科挙やそのためU)学問 を排斥 して野にあ ることを強 く主張す る部分が 出現 し始めたのであ る。 -例えば フ ァン ・チ 3_・チ ソの盟友で,共 に南遊(後述)Lた フ ィン ・トゥク ・カ ソとチ ャン ・ ザイニ/リンルナンコ''J ク ィ ・カ ップが,その途次で作し
た賦 『名 山 良 3,・:』(
1
9
0
5
)
に, 当時 の開明的知識人の主張 が良 く示 され てい る。 俗 尚文章,士趨科 目。 大股小股終 日魚魚,五言七言窮 牛鬼鹿。 文策希場官之鼻息,析
可是而 舜可非(
)
詞賦拾北人之唾徐,餅
馬四面健篤六() 擾擾功名之輩,斉市穫金。 酒店利禄之徒,楚庭献玉。 蓋不惟私身家取利禄,馬官途之逐逐。而且駆千常人之絹曳紳衿。 と科挙,旧学 (伝統的な学問)の弊情,仕 官 のために汲 々とす る知識人の有様 を風刺 し,ついで, 以若所 馬,求若所欲。兵何以弓乳 財何以足。) 民智何以開,人才何以育。
咲
乎痛 哉。牽延 以有今 日之苦辱者o 誰階 之腐而流之毒也。 事勢至斯人情哲彰,公益公捜今 日明 日。 とベ トナ ムの窮乏化,後進性,-一般庶民の困窮 と遇重な人頭税や賦役 (公益公捜) の下での疲 弊 を指摘 し,最後に,上
目官吏,下及諸生,投筆而起,掛官而往 〕 と知識人に決起を呼びかけていろ 。31)29)NgoVinhLong,BeforetheRevolution.(MIT Rress,1973);Pham CaoDu'o'ng,Thy'cTrqngcull gi∂'iN∂ngddnVie-iNan du'∂'ith∂'iPhdpihup-C.(KhaiTri,Saigon,1965).などを参照.
30)NgoVinhLong.op,cii.,p.68.
31)Lam Giang,op.cit.,漢文之部,pp.14-16.
NguyさnQ.Thang,HuyカhThy'cKha'ng,(Phil(沌ucVuKhanhf)a:ctrachVanHoaX.b.,1972.). pp.353-358.朕の中で,「大股小股」は八股を示す。 「科 目」は科挙の試験,「場官」は試験官。 「折」
は大盗賊, 「舜」は忠孝なる者。 「斉市摺金」は市場で金を盗んで捕まった者の故事, 「楚庭献玉」は 王に玉を贈ったが,かえって単なる石と思われて罰せ られた忠臣の故事。 「北人」は中国人() 「公益公
捜
」は人丁税と賦役。 「掛冠」は官を辞すこと,である。白石 :開明的知識人層の形成
ここに盛 られ た主張 は, 同 じ機会 に 詩 『至 成通聖』 を作 り, 1'午後に 『イ ン ドシナ総督 あ て
の書 簡』 を したためた フ ァン ・チ ュ ・チ ンの主張 と同一 の ものであ った。
Ⅰ
Ⅴ
新 書フ ァン ・ポ イ ・チ ャウに よれば ,彼が 初め て新 書 に接 した のは
1
8
9
7
年 フ-に L.京 Lた折 の ダ オ ・グ ェソ ・フ ォ(DaoNguyenPha)やグ ェン ・ トゥオ ン ・ヒエソ(Nguyさn Thu'olng Hi芭n) な どとの 交際 を通 じてであ った と言 う。32)フ ィン ・ ト.?ク ・カ ンに よれば ,彼 や フ ァン・チ ュ・ チ ンが 初め て新 書 と避返
した のは,1
9
(
)
:
ド (
)
4
年 ダオ ・グェ ン ・フ ォ (上述 ) や タ ン ・チ ョン ・ 7- (Thlln Trong HU径)の蔵 書 を通 じてであ -,た とい') 033)1
9
0
0
年前 後,彼 らが遊 学 や受験 ,仕 官 の際 に 7- に上京 した際 に,彼地 の知識人 サ ー クル を 通 じて新 書 の洗 礼 を受け て い った ことがわか る。 当時 の 7-は, 多 くo)書籍 と人 才 の蛸 集す る 場所 であ り, 政 治 - の関心 や 最新 の知識 と情報 が 渦巻 く地 で あ った。 と ころで ここで 新 書 と 言 うのは, 中国か ら流 入 して きた新 た な知識 や思想 (す なわ ち洋務思想,変 法 自強思 想 )につ いて の本で あ る。 フ ァン ・ポイ ・チ ャウ, フ ィン ・ トゥク ・カ ンの述懐 に よれば 当時彼 らが実 際 に接 した 書籍 と しては, 『滅環志略』
『中東 戦記』
『普 仏 戦 記』
『戊戊 政変 記』
『中国魂 』 『新 民 叢報F
D
『
日本維 新史』 な どが あ つた と言 うoS4' しか しフ ァン ・ポ イ ・チ ャウた ちが新書 と呼 ぶ時, これ には さ らに ベ トナ ム人 先 覚者 の著 述 も含 まれ て いた よ うで あ る。 つ ま り1
9
世紀 後半 の ベ トナ ムに も,既 に何 らか の意味 で ベ トナ ムの開 明化 の諸 方策 を提 唱す る人 士 が存在 し てい たのである 。 それ は, もっぱ らベ トナ ム人 カ トリック教 徒 や欧 米 ・香港 な どに実際 に赴 い た人 々か らな され た もので あ った。 彼 らは西欧 の実 力 に圧 倒 され , ベ トナ ムがそ の力に併呑 さ れ て しま う前 に,有 効 な措 置 を請 じてお くことの重 要性 を くり返 し強調 した。 そ の中で もカ ト リック教徒 の グ ェン ・チ ュオ ン ・ ト(Nguyさn Trtib'ng T¢)が特 に著 名で あ る。)35'32)PhanBやiChau,Ty'Phan.p.27.
33)HuyhhThdcKhang.Ty'Truyenp.26;HuyhhThtlcKhang,PhanTdyHd.pp.15-16.
34)Huyhh ThdcKhang,PhanTapHod.p.14;HuyhhThdcKhang,Ty'Truye-n,p,26;Phan即 i Chau,Tu'Phan,pp.26-27. 『滅環志略』は1840年代に徐継宙によってまとめ られた一種の世界地理書O中国洋務思想の先駆 とな すべきものである。
『
中東戦記』は 『歯間公報』主筆ヤング ・アレンの著述の柳訳 (1897年)を指すと 思われる (小野川秀美 『清末政治思想研究』 pp.12-13,18ト182)0 『新民叢報』は亡命中の梁啓超 ら によって1902年か ら横浜で刊行 さたた隔週刊雑誌。 『日本維新史』については,染啓超 「東籍月旦」(1902年著) (『飲氷室文集』上巻,教育83ページ) によれば,日本文 『明治三十年史』を上海広智書局で桝訳 ・刊行 し, 『日本維新三十
年史』と改題 した とあるので,あるいはこれのことか もLれない.なお,NguyさnHiをnLe,ob.cit.,p.27によれば, 日 本関係の書としてほ,『
日本国史』『日本維新梗概史』『日本≡拾年維新史』がベ トナムに伝わ ったとするO『日本国史』は黄遵麓の著作(1896年頃出版)のことであろうか.(小野川,前掲書,pp.114-116). 『日本三拾年維新史』は上述 『日本維新三十年史』のことであろう。
35)PhanKhoang,oP.cii.,pp.118-123;NguyさnThleAnh,Vie'iNan,pp.66-73;trbngHuyVSn論文 inNghie-nCd'uLicksL2',no.94.などを参照0
I(.jlナツ')
1
9
世紀 の未に な ると グ ェソ ・ロ ・チ ャ ック(
Ngu
yさ
nL
¢Tr
冬
C
h)
が 『時務策Jlを上奏 し(
1
8
-クイウウルツケ テ イ エ ン ハ ダ イ丁ル アン7
7
・1
8
8
2
)
, ついで警 世の書 『杷憂録』(
1
8
8
4
)
, 『天下大勢諭』(
1
8
9
2
)
を執筆 してい る。 『時 務策』は海 防や遷都 な どの軍事的諸 方策を提案 した もので, まだ洋務思想 的な色合 の濃い もの であ ったが, 『天下大 勢論』 にな る と,政教 の再組織,西洋 の科学技術 の摂取,農工商 の振 興 を提言す るに至 つた と言われ る。36)1
8
9
0
年代 に な るとこの グェソ ・ロ ・チ ャ ックの周囲には, グ ェソ ・ トゥオ ン ・ヒエ ソな どが集 ま-,
た(, さらに2
O世紀近 くに な ると,上
述した人 土た らか 多 くの新書 を蔵す る よ うにな り,やがて フ ァン ・チ ュ ・チ ソたちは彼 らとの交際や蔵書
を通 じて,新
書に接してい くことにな ったのであ る 。 彼 らが こ うい 一〕た新書に接 した時 の衝撃はは なはだ 大 きな ものであ -,たろ う。 と りわけ康有 為 や染啓超 の主張 が, い ったんは 「国是」 と して皇帝 に採 用 され た こと,そ してそ の変法が百 日足 らず で帯嗣 同の死 を伴 う政変 で結末を迎 えた こと(
1
8
9
8
)
は,1
9
0
0
年の唐才常 の 自立軍事 件 な どと共 に, ベ トナ ム知識人 の耳 目を充分にそば だたせ たであろ う。37) さらにそれ 以上
に康 ・梁 らの説 く封建 中国の改 革の諸方策は, 同様 の閉塞 状況 にあ って同 じよ うな問題 を課 され て いた ベ トナ ム人を して,その愁 眉を開か しめ, Elか ら鱗 がおち るの感 を強 くさせ た ことであろ う。,そ の衝 撃 の大 きさは,1
9
0
3年頃 に フ ァン ・チ ュ ・チ ンが新書に避近 してか らほ んの1-2
年後には官 を辞 して中田南部諸 省 の行脚 に出立 した事′夫か らも,推 し測 ることがで きる。 む ろんD・マーの指摘す るごと く,洋 務思想 や変法 自強思想,そ して厳復 の紹 介 した大浜諭 な どを,当時 のベ トナ ム人が どれ だけ正確かつ 完全 な形 で理解 したかは不 明であ る。38) しか し 申国か らの思想 の伝達 が ど0)よ うに不 完全 な ものであ ー)た と して も,当時 のベ トナ ム知識人に は, 自分 た ちの置かれ ていた状況 の中でそ うい -)た断片的 な情報 をつ な ぎ合わせ,組 み立 て直 す だけ の 自覚的な能 力はあ ったはず であ り, またそれ をな さねば な らない 切迫感が,客観的状 況 として現 に存在 して もいたので あ る。, 例えば彼 らは,新書 の影響 を受け るF
臣亡, 亡国
U)自覚 や民 族滅亡 の危機 感 を脚 抑ニL
てい -, たO フ ァン ・チ ュ ・チ ソの『イ ン ドシナ総督 あ ての 書簡
』(p.565に引用)の申で,r〔ベ トナ ムは」 かつ て半 開の地位に まで至 らん と した時期 もあ ったが,今 や また野蛮に戻 らん とLてい る(〕知 識 を持 つ人 間は この よ うな惨状 を見て,民族が全滅す るのではないか と恐れ
」 てい るし〕と述べ, 民族滅亡 の危機 を,野 蛮一一未開-一文明 とい った進化論 の脈絡 の中で理
解せ ん と Lてい ,:Jo39)36)HuyhhThdcKhang,Nguye7nL・q^Trqch(AnhMinh.Hu毎,1966);Nguyさnv益n Xuan,op.cii,pp. 17-35.
37)HuyhhThdcKhang,Ty'Truye^n,p.26. 参照。 38)DavidMarr,op.ctt.,pp.98-100.
39)1904年に著わされたという 『文明新学策』(ヴァソ・ミソ・jZン ・,+,ク・サ ック)の中にも,野蛮一一半開 -文明といった進化論的言及がなされている.モ)angThaiMai,ed.,Vdu Tho'CdchMqng Vie^tNan. (NXB V左nH9C,Hanoi,1974.)p.208.
白石 :開明的知故人層の形成 r†L/
リ
-
ー
また ドンキ ン義 塾が広 め た詩 『地理』 の一 節には, 生涯は競争 であ り,人種が賢ければ生 き,愚か な らば滅 び る。40) あき とあ り, チ ャン ・ク ィ ・カ ップの詩 『国魂 を昭 らか にす る』 の冒頭 には, 世 界 の列強は競争 しノ合一)て 知識を開 き富強 に努 め て きた.41' とあ るO 彼 らは 亡国, 滅 種 o)危機 を, 優勝 劣敗 ・生存顔争 の 考えに沿 ,,て解釈せん と してい る。 こ ;)い /'た中国伝 来U)進 化論や生存競争 の思想か ベ トナ ム知識人 に ア ピール Lた のは,彼 ら の心 中に従 来か ら存在 Lた亡国
・滅種 の危機感 cJjゆ えにはか な らなか 1た。 またそれ らr
f
-1国思 想 の摂取が, いかに不完 全かつ 断片的 な ものであ った と して も, 彼 らU)危 機感 を 転 回軸 と L て,それ ら外 来 u)思 想を
自家薬篭 中の物 とす る ことが 可能 だ リたのであ ,:J。 同様 に して従来彼 らの心申に漠 然 と してあ った官吏や朝廷 に対す る義憤 ,科挙 や旧学 に対す る満 屍は, 中国か らの思 想に触れ る ことに よって明確 な意識に昇華 L,1
7,一体 的 な実践行 動 の方 法 を啓示 された のであ った。今 や彼 らには従来 の学 に取 って代 わ るべ き新 たな学 が示 され たの であ った。Ⅴ
南 遜 以上
に フ ァン ・チ ュ ・チ ンた ちが 旧来 の官吏や知 識人 のあ り方 を否定 し,科挙 や旧学 を排斥 す るに至 った過 程 を分析 して きた。 この よ うに して覚醒 した知識人 たちは, い よい よ実践 活動 に着手す る ことに よ-)て, 自己の信念 を具体化 しよ うと考え始 め た。 彼 らがそ の主張 や理 念 を普及 し,運 動 を拡大す るために取 -,た手段には四つあ -,た。第 -▲は, む ろん自
らの手 で学 会や演説会 を組織 し, 日常的にその指導 にあた る方法
であ る。L
か しこれ ほ地域 的に も, また個人 の能 力か ら言 って も, さほ ど広 い範 囲にわた って運動 を広 め る手段 と は な りえない。 第 二の方 法 と しては,各地 への行脚,遊 説 であ り,そ の土地土地 に赴 いて現地 の人 士 と接触 した り,演 説 Lた りLて人 間関係 をた ぐりつつ組織化 してゆ く方法であ るO 約≡ は, 書籍 , パ ンフ レッ トな ど,書かれ た文書 に よる普 及 であ る。 体裁は印刷 物,手 書き原稿, 筆写 , あ るいは 令法・非
合法の別 を問わ ない。 それ らは人 々の手か ら手 - と回 し読み に され た。 第 p削よ, ベ トナ ム語詩歌 の 口伝 に よる普及 であ る。 六声 の ト- ンを持 つ ベ トナ ム語は,そ の生 まれ なが らの音楽性 に よ って,聞 く人 の耳 に快 い響 きを与 え る。 ま してや韻 と平 T.下を整 え た詩歌 は, それ を吟ず ること自体が既 に音楽そ の ものであ る。42'この よ うに Lて彼 らの主張 を 40)Nguyきn Hi芭n Le,op.cii.,p.71, この詩は, 染啓超の 『新民説』の一節.
;「就優勝劣敗理以護新艮之 結果-・
-・
」の翻案であると思われる。(
『飲氷室文集』広智書局,上海,上巻) 41)NguyさnvEnXuan,ob.cib.,p.177. 42)現実に,開明的知識人の組織 した学会 (新学を教える学校)では,音楽の時間に唱歌の代わ りとして, ベ トナム語愛国詩歌の吟詠がなされた。快 い旋律の中に織 り込 んだ詩歌は,人 の ljか ら口- と歌 い/)が′毎 時には覚え間違 いや欠落, 即 興の追加や修正 をf粧 、つつ,文字 も読 めず漢文 の素養 もない人 々の間に さえ も広 まってい J, たのであ る。 フ ァン ・チ ュ ・チ ン, フ ィン ・ トゥク ・カソ, チ ャン ・ク ィ・カ ップたち三人の最初の実践 I∴ l905年旧暦2月, 故郷 の クァンナ ム省を出立 した三人は,海枠線に沿 -)て南下して行 /,たUそ の行 く先 々での宿泊場所 や 各地人士 との接触は,彼 らの持 一'ていた人間関係の
杵
に よるところ が大 きい。 ベ トナ ム社 会においては,師弟,友人, 肉親 とい -)た人間関係が人 きな威力を発揮 す る。 と りわけ---L般人 の旅行に多大な不便がつ きものであ った当時においてほ,それが決定的 であ る。 しか もクァンナ ム省は,それ以南の諸 省に対 して文化的威信 を享受 してお り,
自己の 省内に良師 のいないそれ ら南部諸 省か ら多 くの学生を集めていた とい う。 中で もチ ャン ・ク ィ ・カ ップは既に この頃 よ り教師 としての名声を得 ていた といわれ る。43)この師弟関係に まつl) る縁故は, どこで も大 きな威力を発揮 した ことであろ う。 さらに彼 らの活動を容易 な らしめた 条件 として,彼 らの獲得 していた 名声 と肩書をあげ ることがで きるO ファン ・チ ュ ・チ ソが, 南蓮 の帰途 クァソガイ省(
QuangNgえi
)
で, 未 だ面
識 のない人士
レ ・キ ェッ ト(
Le
Khi
et) に面会 を求 めた時に威 力を発 した の も,彼の持 っていた肩 書にはかな らなか った。44) さて フ ァン ・チ ュ ・チ ソたちは 南下の途次, ビンデ ィソ (
Bi
nhD主
nh)
に赴 いた。 ここは当 時郷武の開催 され ていた五都市 (脚注 9参照) の内 7-以 南の唯一 の都市であ った。彼 らが こ の最南端 の文化的中心地に赴 いた時,た また ま省学 の定例試験があ った。彼 らも試験生 として 紛れ込み,題に応 じて詩 『至誠通型 』,賦 『名山良玉』を作 った。科挙や旧学 の弊,官 吏の腐 敗を痛烈 に批判 した これ ら詩賦は,省学 の学 生たちの間に広 まった。45) この後 フ ァン ・チ ュ ・チ ソたちは, カムラ ン湾(
Ca
m Ra
nh)
に至 り,日本海に向か う途中 のパルチ ック艦隊に遭遇 した。彼 らは小舟を雇 -)て商人に変装 し投錨申
の艦船に近づいた とい う。46)彼 らは この よ うな方法で東 アジアの一 角に起 こ りつつあ る歴史事象の一端に じかに触れ たのであ った。 さらに南下 して ピン トゥアン(
Bi
nhThuan)
に達 した時 フ ァン ・チ ュ ・チ ンが病気にな .)た ため,二 人の盟友は彼一人を残 して一足 先に クァソナ ム省-症 -)た。 チ ソは病気 を癒 しつつ, 当地 の知識人 との接 触を通 じて,維新運動の実践 を促 したoその結果 として生 じたLJ)が, フ一一 タイ村 の亭(
Di
nh
,村 の集会所 ・守護神 の社)に設け られた書社 と演説会であ った。 これは フ ァソ ・チ ュ ・チ ンの感化を受けた地元の知識人 ホ ・タ ・バ ン(HaTABang)
が中心 とな って 43)Nguyきnv畠nXuan,o
p
.
cit.,pp.119-123. 44)HuyflhThdcKh畠ng,PhdmTdyHo
A.
pp.44-46. 45)Nguyさnv左nXuan,o
b
.
cii.,pp.130-131. 46)HuyhhThdcKhang,Ty'Truye'n.pp.27-28. 572白石 :開明的知識人層の形成
組 織 した もので あ る。 薯社 では新書が紹介 され,新 しい思想が普及 され た。演説会 では しば し ば フ ァン ・チ ュ ・チ ソが演壇 に立 った。
病気 の回復 したあ とフ ァソ ・チ ュ ・チ ソは ク ァンナ ム省に戻 ったが,彼が ビンデ ィソ省に種 蒔 いた運動は,翌
1
9
0
6
年 グ ェン ・チ ョソ ・ロイ(
Ngu
yさ
nTr
q
n
gLo
'
i
)
らの手 に よって, 「達成公司
」Li
8
nTh
an
hC8
n
gTy)
(ヌオ クマム, 魚な どを扱 う商会), 「育英」
(
DO
cAn
h)
(学 会) の組織化 に至 って結実 した。47) 商運 を終 えて ク ァソナ ム省に戻 った フ ァン ・チ ュ ・チ ソたちは, い よい よ自分 の省において も ピン トゥアンで行 な った の と同様 な組 織活動 を本格的に開始す るに至 った。 他方 フ ァン ・ポイ ・チ ャウは同 じ頃, 富国強兵 と近代化 の先輩 国 日本 に赴 き,彼地 で東遊運 動
(
Ph
o
n
gTr
a
oD6
n
gDu)
を組織 した. また- ノイの知識人 たちは1
9
0
7
年に, ドンキ ン義塾
(
Dら
n
gKi
n
hNg
hi
aTh
q
c
)
を設立 してい る。 この よ うに して彼 らの運動 は拡大 した。ⅤⅠ
商 品 経 済 フ ァン ・チ ュ ・チ ソ, フ ィン ・トゥク ・カ ソたち の故郷 ク ァソナ ム省か らは,彼 ら以外 に も 著 名な開 明的知識人 が輩 出 してい る。 例 えば グェソ ・タイ ン(
Ng
u
yさ
nTh
a
n
h)
, チ ャン ・カ オ ・ヴ ァン(
Tr
孟
nCa
oVえn
)
な どがそ うであ る。 また南運 か ら戻 ったチ ンたちの呼びかけに 応 じて,省 内の多 くの村 落 に学会,商会 ,農会 な どの組 織が作 られ た。 この よ うな運動 は, 中 折 の他省に比 して ク ァンナ ム省が きわ だ って活発 であ った よ うであ る。 ど うして この省が他省 に比べ て活発 とな ったのであ ろ うか。 同様 の疑問は, フ ァン ・ポイ ・チ ャウ以外 に も, ゴ ・ドI
ゥク ・ケ
(
Ng
6Dd
'
cKe
)
や ダ ソ ・グ ェソ ・カソ(
D呑
n
gNgu
ye
nCa
n
)
な どを生 み 出 した ゲア ソ, - テ ィン両 省地域 につ い て も問 うことが で きる。 考 え られ る要 因の一つ と して, これ らの地域 が申研 の他 省に比 して農村部 におけ る商 品流通 の拡大や商 品経 済 の浸透 が顕著 であ った ことが考 え られ る。, そ の領域 内に フ ァイ フォ(
Fa
'
i
f
o
,現在 の ホイ ア ン), ツー ラ ン(
To
u
r
a
n
e
,現在 の ダナ ン) とい った国際商 港を持つ ク ァンナ ム省は,王都 7-に近か った ことも手伝 って,絹 ・綿 布 な ど の手 工業 , 肉柱 ・砂糖 な どの商 品作物栽 培が早 くか ら発展 していた。 ホイ ア ンには中国人街 も あ り, 中国人商人 の農村部- の往来 もあ ったであろ うし, また上述 の ごとき産業 の発展は必然 的に商 品経済 の進展 を もた ら した。48)47)ChauHAiKi,・・Tim Hi占uNhu・五gHoatDongCachM印gCuaPhanChuTrinht争iBinhThuan. -inBqchKhoa',no.101;NguyさnHian
Le
.
op.cit.,pp.24-25,139-140;Nguyさnv払 Ⅹuan.ob.cit., pp.26,136-137,195・48)クアンナム省については 『海外紀事』(17世紀) (越訳,HaiNgoqiKySt?',D.H.Hu島,1963.).『撫 辺雑録』 (18世紀) (Phd QuacVuKhanhD冬cTrachV左nH6aX.BHSaigon,1973.);『大南- ;
統志』広南省 (19世紀) (NhaV崖nH6a,Saigon,1964)
例 えば フ ィン ・トゥク ・カ ソの父が商 品作物 た る肉桂 園を所有 していた ことは興味深い049) /zイホ また- ノイに設 立 された ドンキ ン義 塾 の指導者 が西湖 フ ァ ッシ ョン (西 湖は フ ァン ・チ ュ ・チ ソの号) と称 して ク ァソナ ム省産の窯布地 で作 った国産の洋服 を着 ていた とい う事 実 も示唆 的 であ る。50'1908年農 民運動 が クァソナ ム省か ら他省- と拡 大 したのは, ホイ ア ンと各地 を往来 す る商人 の噂 を媒 介 と してであ った とい うフ ィン ・トゥク ・カ ソの証言51)か らは,町 と農村, 農村か ら農 村- と動 き回 る商人 の存在や彼 らが 各地間 の情報 の伝達 を仲介す る役割 を持 ってい た ことが うかがわれ る。 フ ァソ ・ポイ ・チ ャウたちの出身地 であ るゲア ン, - テ ィン両省地域 につ いて も,商 品経済 の発展がみ られた と考 え られ る。 同地域 は古 くよ り林業やそれを利用 しての造船業 な どが盛 ん であ った。52)そ して1894年には ゲア ン省都 ヴ ィソ(Vinh)の近郊 ベ ン トゥイ(Ben Thuy)に仏 印当局随一 の銅銭造幣所が設 立 され,53)1905年頃 には- ノイー ヴ ィソ問 の鉄道が敷設 され て貨 物輸送が開始 された。 さ らには ヴ ィソ- ベ ン 1、ウイ地 区に鉄道修理工場 (1908), 林 産を利 用 しての マ ッチ工場が設 立 され,仏領 時代 の中
垢
におけ る数 少ない工業 中心地 の一つ とな った の ち,以前か らこの地方 に手工業 ・商業 の発展の基盤があ ったか らだ と思われ る.54) 商 品経済 の発展は, 当然なが ら同時に,知識人層を もそ の中に巻 きこむ こととな ったであろ う。 この よ うな傾 向は,一万 において知識人 層が商会や農会 (商 品作物栽培)に関心を向けてゆ くだけ の,商工業や近代 的経営に対す る予備知識や関心を もた らした。他方では,彼 らが維新 運動 の中で農会や商会 に現金を投 資 し,学 会(新学学校)を経営す るのに充分 な経済 的余 力を も もた らした。 また豪遊 運動に(最高時には)100名以上 の留学 生 を送 り出 し得 るだけ の渡航費 ・ 滞在費 を負担せ しめ る金銭 的能力 を もた らした。 例えば クァソナ ム省 の ホイ ア ンにつ くられた商会 の一人 当た りの投 資は50ピアス トルであ っ た。55)また フ ァン ・ポイ ・チ ャウが 日本に渡 った後初 めて ベ トナ ムに帰 国 した折, 同郷 の富豪 の息子 チ ャン ・ドン ・フォン (Tran 王)6ng Phong)は, 白銀15第,銀 元200枚 を資金援助 した と言 う。 フ ォンは後に渡 目し, 日本 で 自殺 した。56)も う一つ の例をあげれば, フ ァン ・ポイ ・49)HuyhhThdcKhang,Ty'Truye:n・pp・25-26・
50)NguyさnHiをnLe
,坤.
cit.,p.86.フアン・チュ ・チソの断髪,洋装運動における役割を示 していて興 味深い。51)Huyhh ThdcKhang,HVVKhang Thuab'TrungKy n左m 1908,"inThaiB早ch,ed.,ob.cit.,pp.
372,379.
52) 『撫辺雑録』巻六。および漆嘉綜 『越南手工業発展史初稿』(北京 :商務印書館)pp.19,53. 53)横浜正金銀行調査課 『仏領印度支那貨幣史』p.56.
54)Tram Huy Lieu,LesSovietsduNghe-Tinh.(Hanoi,1960).
PresidentHoChiMink.(邦訳,原 ・太田訳 『ホ- ・チ ・ミソ- 人とその時代』東邦出版,昭和43) 邦訳,p.226.
55)PhanChuTrinh,TrungKjDanBieAnThllMqiKj′,(P.Q.V.K.i).T.V5nH6a,Saigon,1973) p.77. 56)PhanB¢iChえu,NgycTrung ThEi', (邦訳 p.127)
白石 :開明的知識人層の形成 チ ャウらが初めて渡 臼す る時,そ の三人分の旅費 として集めた資金は実に
3,
0
00
ピアス トルに 達 した。彼や仲間たちが有志に運動 して募 った ものであ る。57) 商品経済面 の発展は, この よ うに して クァンナ ム省, ゲア ン省な どを中抑 こおいて突出 した 地域 とさせたが,同様 の傾 向は, この地域に留 ま らず他 の諸省 に も程度の差 こそあれ存在 して いたであろ う。 東 アジアにおけ る銀貨 の流通, フランスに よる植民地化に伴 っての税 の銀納化 (中折においては1
8
9
9
年に租税 ・人頭税が完全に銀納化 され た もよ うであ る58)), ア- ン ・ア ル コール ・塩 の専売制の導入 と消費の強制,鉄道 の開通 (- ノイ -ヴ ィン間1
9
0
5
年, 7- -ダ ナ ン間1
9
0
7
年)59)な どの諸事象は,それ と無関係ではなか ったであろ う。ⅤⅠ
Ⅰ
イ ン ドシナ総督あての書簡 フ ァン ・チ ュ ・チ ンは商運か ら戻 って しば らくす ると今度は北析- と足 を向けてい る(
1
9
0
5
年1
2
月)。 そ してその足 で-イ フォン(
Ha
主PhOng)よ り出立 し,香港を経 由 して 日本へ赴 い てい る。 数週間 の 日本滞在 ののち, ベ トナ ムに戻 ったのは1
9
0
6
年4
月前後 の ことであ った。80) 帰国後 しば らくして彼は,1
9
0
6
年8
月付で 『イ ン ドシナ総督 あての書簡』
(以下 『書簡』 と 略述)を したためた。 この 『書簡』が一種 の 「上奏書」
であ り,康有為が中国において光緒帝 に変 法を国是 とす る のを認 め させたの と同様 の効果を, フランス人総督 に対 して期待 した ものであ った ことに相違 はなか ろ う。61)確 かに当時 の総督 ポール ・ポー(
P.
Be
au)
(
1
9
0
2
-1
9
0
8
)
には,以前 の総督に 比 して柔軟 な発言があ り,北折
の学制改革 に着手 した りしていた。62)そ こに フ ァン ・チ ュ ・チ ソは期待を抱 いたのか もしれ ない。 最近北か ら南 まで民が噂す るに,南国 〔アンナ ム朝廷〕 あ るいは政府 〔総督府〕 の統治 政策は方針を変 え よ うと欲 してお り, フランス人 とベ トナ ム人が心 を合わせ力を合わせ るよ うにせ しめてい る。 これは まさに長期 の堅 固かつ安定 した計策であ る, と。63) だがむ ろんそれ には限界があ る。 私は常に各新聞上 の総督 の演説を読むに,あ る時はベ トナ ム人 を寛大に扱 うと言 い,法 律 を改め ると言い,学校を開 くと言い, また他の ことについて も多 くを語 ってい る。 し57)PhanB¢iChえu.Ty'Phan.p.44.ピアス トル価値は,1903年に2フラン14, 1907年に2フラン80であ ったoJeanChesneaux,oP.cii.,p.163,note1.
58) 『大南一統志
』
「戸 口」
「田賦」の項059)NguyきnBaTrac,HodngVie^iGidPTj;NienBiehu(越訳,皇越甲子年表).(BやQuacCiaGiaoDワc, Saigon,1963).p.357.
60)HuyhhThdcKhang,PhanTdy
Ho
d.
pp.18-22.;PhanB¢iCh畠u,Ty'Phan.pp.69-72.61)TenQu畠ngPhi妻t,HPhanChu
Tr
i
n
h," inNghie'nCd'uLT.ChSi;'.no.70.,DavidMarr.ob.cit.,p. 163.か るに官吏 の問題 と賦役 の問題についてはふれ よ うとせず,新たな法律を出す意志を示 していない。63) フ ァン ・チ ュ ・チ ソほ,官吏 の弊害 と,税 ・賦役 の弊害 を根 本的 ・致命的な問題 として認識 し, 従来 の フラ ンスの統治が, これ らの 問題を 全 く無祝 し続け て きた ことを鋭 く告発 してい る。 『書簡』の三分 の二 以上 の紙数が, まさに この間題のために費や されてい るのであ る。 第1に, フランス人がベ トナ ム人現行官吏体制を黙認 してい ること。 第 2に フランスがベ トナ ム民族を 軽蔑視 してい ること。 第
3
にベ トナ ム人官吏は これを良い ことに民を 搾取 ・弾圧 してい るこ と。 第4
に,富国の諸方策が取 られず,逆に税 ・賦役が ます ます過重化 され てい る ことを指摘 してい る.64) この ままの状態が続けば事態は ます ます悪化 し,ついにはベ トナ ム民族が滅びて しま うだろ う。 ベ トナ ム人はそれを予見す るがゆえに, フラソス人か らます ます離間 し, 日本 を頼 りにす るよ うにな り, フランスに対 して武 力で抵抗す ることとなろ う。65)とそ の危供 を表 明 してい る。 ここには彼 の対 日観や武力革命路線に対す る態 度が示 され てい る。それ と共に 日露戦争後 イ ソ ドシナの フランス人が抱 くに至 った 日本- の恐怖感にか こつけて,巧みに訴えかけ よ うとす る 弁舌家 フ ァン ・チ ュ ・チ ソの したたかな一画を うかが うことがで きる。 以上 の よ うな悲惨 な結末 の到来を,未然に防 ぐためには どうした らよいのか。彼 は提議す る。 もしも政府 〔イ ソ ドシナ当局〕が真に政策を変 え,賢才の人を選 んで権力を委ね,礼を もって接 し,誠 を もって遇す る心を持 ってい るな らば,そ して また国内の害 を排 して利 を取 ることを計 り合 って,貧民に生計 の道を開 き,紳士に対 してほ諭ず るの権 を広 くせ しめ,報館を広 く開いて民情 に通ぜ しめ,賞罰を厳に して官吏を戒め, さ らには法律 の 改正,科挙 の廃止,学校 の開設,修書所 の設立,師範 の学か ら工商業芸 の学 までの教育, 税 ・賦役 の改良を徐 々に行 なえば,民は安 ん じて生計をな し,士 は喜んで政府に協力 し, ただひたす らに フランス人がべ tナ ム人 を捨てて出てゆ くことを恐れ,誰 も反抗 を謀 ろ うとは しな くな る。 68) 要約すれば ここで フ ァン ・チ ュ ・チ ソが提議 してい るのは,其の人才 を登 用す ることであ る。 真 の人才 とは, フランス当局 と協 力 して従来 の弊害を一掃 し, 開明的な諸方策を実現 してゆ く よ うな人 々であ る。 つ ま り彼 の主張は,現行の腐敗堕落 した官吏制度の廃止 と,それに とって 代わ るべ き新たな知識人の登 用に あ った。 「賢才 の人」す なわち新学 に 目ざめ維新運動を推進 63) 『インドシナ総督あての書簡』 原漢文O 本稿では,ThaiB冬Ch,ed.ThiVanQuohccam thb'iPha'♪ThuQ^C(KhaiTri.1968)の越訳に依拠した。 (引剛ま,p.362)ほかに Nghie^ncti・u Lf●chSi・.no. 66;TheNguyen,PhanChuTrinh. (T負nViet,Saigon.1956)にも越訳が収録されている。 64)Zbid.・pp・350-361.なお,DavidMarr
,o
p.
cit.,pp.159-163.参照。65)ThaiB卓ch,ed.
,o
P
.
cit.,pp.362-365.また1907年に-ノイの 『大越』紙に載せた記事の中でフアン ・ チュ・チソほ,
「外国に頼るな,外国に頼ることは愚かだO暴動をおこすな,暴動をおこせば必ず死ぬ。」 と述べたとい う。外国とはこの場合,日本のことである.HuyhhThdcKh(qng.PhanTayHβ.p.22. 66)Iaid"p.365.白石 :開明的知識人層の形成 しつつあ った有為 の知識人 たちを抜 て き し,それ にベ トナム改革 と開明の諸方策を実行す る権 限 を委ね よ, と言 ってい るのであ る。 これは現行 のベ トナ ム官界 を全 面否定 しよ うとす るものであ ると共 に, 旧学派知識人に対 し て開明的知識人 を対置せ しめ る大胆不敵 な挑戦 の宣言 で もあ った。 フランス人支配を前提 とす る ものではあ るにせ よ, こ うい った官界- の挑戦 は,開明的知識人 のそ もそ もの理念か らすれ ば 当然な され て しか るべ き ものであ った。 旧学派 の知識人,そ の中核 た るベ トナ ム人官吏 たちは, フ ァン ・チ ェ ・チ ソの この挑戦 の意 味 を直 ちに理解 した。朝廷 の輔 国府関係資料 の中に,次の よ うな文があ る。 総督府 が 〔フ ァン ・チ ュ ・チ ソ〕 の陳述文
〔
『書簡』 の こと〕 を添えて 問い 合わせ て き た。 (これ には当国の危険な状態が述べ られ てい る)。 この陳述文 を見 るに, 朝廷を誹 著 し,官吏 を侮辱す るは無論,多 くの無謀 な言辞ばか りが弄 され てい る。67) この よ うに フ ァン ・チ ュ ・チ ソたちの維新運動には,国王 ・朝廷 を頂点にいただ く旧エ リー トに対す る開明的知識人 の権力闘争 と しての側面が存在 した。 フ ァン ・チ ュ ・チ ソがそ の上 申 ・献策の書 を国王には出 さず,総督 にあてて出 した意図はそ こにあ った。 しか も彼 の献策の書 は直ちに フラソス語に訳 され,官報に載せ られたのであ る。68)これはベ トナ ム人官吏 たちに と って, 由 々しき大事であ ったに相違 ない。それゆえに旧エ リ- トは,そ の地位 と権限を十二分 に利用 して 自己の敵対者を抹殺せん とはか った。 フ ァン ・チ ュ ・チ ソの言辞 を借 りれば, 国内の紳士 のあ る者 は フランス語を学ぶ ことを提唱 し, あ る者は科挙 の廃止 を要求 し, あ る者は商局 を開 くために資金 を投ず る。 そ の意は百 の うちの二,三 で も救お うと言 う ことであ る。 しか るに官吏は,そ うす ることが 自分 たちに抵抗せん とす る ことであ ると 憎み,狂気 と称 し,陰謀 とみな し,中傷諌言 をいつ も保護官 〔フランス人官吏〕 の耳に 入れ る。69) ク ァソナ ム省で府学 教授 を していたチ ャン ・ク ィ ・カ ップ, ゲアン省の督学 ダ ン ・グエ ソ ・ カソ (
Din
gNguye
nCa
n)
は,それぞれ他省に左遷 され た.70)左遷は官吏たちの用い 得 る合法的 な弾圧手段 の一つであ る。 しか し開明的知識人 のほ とん どは官職に就 くことを潔 しと しな か った。従 って左遷 を手段 として用い よ うとして も対象 とな りうる者はほ とん どいなか った。 弾圧 は よ り露骨 な形態 を取 ることとな る。
1
9
07
年 - テ ィン省(
HaTi
nh)
の ゴ ・ドゥク ・ケ67)NguyさnTheAnh,ed.,Phong TrdoKha'ng ThueA.p.51.この詮議の結果,彼には 『謀反兼行』の罪 が課され,流刑とされた。
68)DavidMarr,ob.cit.,p.163. (note,14)によれば, 1906年10月,B.E.F.E.0. 7号に載せ られたと 言 う。なおフアン・チュ・チンたちの運動と