南船北馬集 : 第一編
著者名(日)
井上 円了
雑誌名
井上円了選集
巻
12
ページ
189-307
発行年
1997-03-20
URL
http://id.nii.ac.jp/1060/00002945/
Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja者 系 …… 明治珊九年一月.余か曾て什年間卿力鯉怜せ乙哲學館大暴を氾謄しゴ.n 來、歌育勅賠の聖意を開遼普及すろの目的を以て唱道せる修身敢Wのロー− 趣を債張せんと欲し.全國周遊の途に上り、東去西來.南船北蔦.雲禰霞宿輸 月吟花の境界を逡’、其日る見聞接簡せるもの、此に之を蒐鎌して,南鍛北 馬集と名く亀、ヌ騎時機に知岬れ情に戚じて吟・啄せる駄作も、其良否を問はず 悉く之を併肥す、余もと文藤の才に乏しう上に、風流の道に通せず、歌道は 更なウ、漢時も幼時に卒灰の並へ方だけを授か‘しのみにて、数十年間修 習せしεなく僅々此南三年來賦作を始たる迄なれぱ.世人の笑を招くは もとよう翰覚悟する所なう.皐寛するに是れみな後日の備忘のみ、而して巡 遊中各所に於て有志諸氏の多大なる者持厚遇を辱うせしは,賓に望外力 (巻頭) 4.刊行年月日 明治41年12月20日 底本:初版 発行所 5 修身教会拡張事務所 冊数 1冊 ・ 1 2.サイズ(タテ×ヨコ) 188×127mm 3.ページ
総数:119
1葉 4 . ⋮絵言
文:115口緒本
明治四十一年十二月十五n印刷 明治四十一年十二月二十日獲行 筒 輯 論 登 行 者 印刷者 印刷所 登行所 ︵非費品︵ 取京惰水“鹿駒込富い山町hr..一 井 上 川 了 東釆市牛込塙市、.●知買町一丁nトニ“妙㌔ 藤 本 粂 吉 東点市牛込匹市ケ吾加質町一丁憾†∴情姥 鍛秀英舎第一工場 東頁布*■匿駒込竃十翰町五†⋮. 苗婚 修身教曾櫨張苦務所南船北馬集 第一編
独力経営
二十春喜見校運幾
回新自今
退隠成何
事朝汲泉
流夕拾薪
哲学堂主 井上円了肖像
哲学館大学退隠之詩
ひとり力を尽くして哲学館大学を 経営すること二十年に及び、 校運のいくたびが新たな発展を 遂げたことを喜び見てきたのである。 これより退隠していったいなにを なそうとするのか、 それは、あしたには泉流にくみ、 夕べには薪を拾う生活なのである。 189緒 言 明治三十九年一月、余がかつて二十年間独力経営せる哲学館大学を退隠して以来、教育勅語の聖意を開達普及 するの目的をもって唱道せる修身教会の旨趣を拡張せんと欲し、全国周遊の途に上り、﹁東去西来、南船北馬、雲 栖霞宿、囎月吟花﹂︵東にゆき、西より来たり、南では船に乗って行き、北では馬の背にゆられて旅行く。世俗を はなれて雲の湧きたつところにすまいなし、かすみたつところを宿とし、月にうたうたい、花を吟詠す。︶の境界 を送り、その日々見聞接触せるもの、ここにこれを集録して、﹃南船北馬集﹄と名付く。また、随時機に触れ情に 感じて吟詠せる駄作も、その良否を問わずことごとくこれを併記す。余、もと文芸の才に乏しき上に、風流の道 に通ぜず、歌道は更なり。漢詩も幼時に平灰の並べ方だけを授かりしのみにて、数十年間修習せしことなく、僅々 この両三年来試作を始めたるまでなれば、世人の笑いを招くはもとより覚悟するところなり。畢寛するに、これ みな後日の備忘のみ。しかして巡遊中、各所において有志諸氏の多大なる歓待厚遇をかたじけのうせしは、実に 望外の大幸とするところにして、その芳名の記憶に存する分はまたこれを掲載し、もって謝意の一端を表したり。 ただしその誤写誤植のごとき、あるいは失念脱漏のごとき、必ず多々あるべきも、疎漏の罪は請う、これをゆる せよ。左に修身教会の大要を摘載す。 近年わが国民の知識日に勃興し、道徳月に廃頽し、智徳の並進伴行せざる傾向あるは、あに奇怪なる一現 象にあらずや。その原因もとより一ならずといえども、要するに学校以外に修身道徳を授くる所なきによる。 これに反して西洋諸国は学校以外に日曜教会ありて、毎週精神の修養をなさしむ。おもうに、かの国におい 190
南船北馬集 第一編 て人民の知識とともに徳義また進み、なかんずく社会道徳、実業道徳の大いに発達せるは、全くこの教会の 効果なりというも過言にあらざるべし。果たしてしからば、わが国においても今より各町村寺院もしくは適 宜の場所において修身の教会を設け、国民道徳のおおもとたる教育勅語の聖旨を開達敷街して、小学卒業以 上のものを教講し、もって町村の人民をしてことごとく道徳の修習をなさしむるは、実に目下の急務なりと す。戦後の経営も、けだしこれより先なるはなし。風俗改良、公徳養成の方法もまた、この外にあるべから ず。これ、余が学校教育の補習として修身教会を設置するの必要を唱うるゆえんなり。︵下略︶ さきに拙者、西洋各国の教育、宗教の現状を視察せんと欲し、前後両度航西の途に上り、欧米十余国を周 遊巡覧して帰朝し、その結果として修身教会の必要を唱道せし以来、各所において続々教会の開設を見るに 至れるは、実に欣然に堪えざるなり。爾来精神過労のために、神経衰弱症にかかりたれば、閑地に就きて療 養を加えんと欲し、自ら哲学館大学長、京北中学校長および京北幼稚園長を辞し、拙者より財産十三万五千 余円を挙げてこれを学校に寄付し、もって財団法人を組織し、これを他人に一任したるも、修身教会の方だ けは、病中といえども従前のごとく微力を尽くさんと欲し、地方有志の所望に応じ、転地療養の心得にてと きどき教会拡張の遊説を試み、あわせて学術演説等の依頼に応ずる心算なり。︵下略︶ 以上は三十九年一月に起草して各地へ配付せるものなり。 明治四十一年十二月 井 上 円 了 誌 191
拝読勅語 三百余言聖旨深、 祖宗遺訓重於山、 読来天壌無窮句、 一道光明照我心、 勅語を拝読す 勅語三百余言にこめられた天子のおぼしめしは深く、 祖宗の遺訓は山よりも重い。 天壌無窮の句にまで読みいたるとき、 一道の光明がわが心を照らすのである。 192 吾家古道 処々東風払雪吹、 欧桃米李一時披、 吾家別有老梅在、 春満三千年古枝、 わが家の古道 ここかしこに春風が雪を吹きはらい、 欧桃、米李も一時に花開く。 わが家にはそのほかに老梅があり、 春には三千年も経たような古枝が花に満たされる。 南船北馬 朝遊海角夕山顛、 北馬南船年又年、 漂泊如斯君勿怪、 吾生猶未脱塵縁、 南船北馬 朝には海べに遊歴し、夕べには山のいただきに身を置くごとく、 北に南にといそがしく旅をして年を重ねた。 漂泊のような旅をあやしむことなかれ、 わが人生はなおいまだ俗世との縁からぬけだせないのだから。
大和紀行
南船北馬集 第一編 明治三十九年四月二日 晴れ。午時、新橋発車。相州平塚より更に腕車に移り、中郡秦野町く現在神奈川県秦野市∨ に向かう。この日や風和し気朗らかにして、花笑い蝶舞い、菜花すでに香を送りきたる。途上、一吟あり。 四月相陽春已央、林轡処々著新粧、軽車十里江南路、遥到菜花香裏郷、 ︵四月、相州の地の春はすでになかば、林と山の所どころには新しい芽ぶきがあらわれている。軽快な車で 十里、江南の道を行き、はるかに菜の花の香につつまれる里に至ったのであった。︶ 秦野町の宿坊は城光院なり。天台宗寺門派に属す。当夜、修身教会の講話をなす。聴衆三百名あり、空前の盛 会と称す。秦野町は人口一万、戸数二千を算す。タバコの産地にして、その名海内に聞こゆ。しかして教育、宗 教のいかんに至りては、なお幼稚たるを免れずという。ときにまた一絶を得たり。 転去法輪到秦野、満場聴衆是同朋、快哉馬入河南地、懸得修身教会灯、 ︵仏の教えをひろめるために秦野へ来た。満場の聴衆は同朋である。快なるかな、馬入河︹相模川︺の南の地 に、修身教会の灯をともすことができたのである。︶ 三日 晴れ。城光院に滞在して、秦野女学校の開校式に列席す。校長は哲学館大学の出身たる高橋光英氏なり。 余の祝詩、左のごとし。 秦野由来実業隆、又開校舎訓童蒙、自今漸見相陽地、女子芸林花更紅、 193︵秦野はもとより実業のさかんな地で、また、学校を開き児童を教育す。いまよりしてしだいに相州の地に は、女子の文芸界に花開く者が見られるようになるであろう。︶ 四日 晴れ。午前、タバコ専売所場内を一覧し、午後、二宮駅に至りて乗車し、西行の途に上る。車中、哲学 館大学出身鈴木智弁氏に相会す。氏は京都東寺中学林に赴任すという。 五日 快晴。午前六時、京都着。少憩して更に奈良に向かいて発車す。途上即吟一首あり。 四月背花辞帝京、看過五十有三程、法苗欲植何辺好、試向芳山深処行、 ︵四月、花に背を向けて東京を出発し、五十有三次のみちのりをみてきた。仏法の苗を植えようと願うもど こがよいのか、試みに吉野山の奥深い地に行こうと思うのである。︶ 午前二時、奈良県高市郡今井町︿現在奈良県橿原市﹀に着し、称念寺に投ず。住職今井豊稚氏は哲学館出身なり。 六日 快晴。午前、今井氏とともに畝傍御陵および橿原宮を参拝す。ときに詩をもって所感を述ぶ。 病余探勝入和州、来宿畝傍山下楼、参拝皇陵仰歎久、神光赫々照千秋、 ︵つかれるままに景勝を求めて大和に入り、畝傍山のふもとに宿をとる。皇陵に参拝し、ここにしばらく仰 いでは嘆息したのであった。神の光は赫々として千年も照らしているのである。︶ 午後、称念寺において開会し、宗教と教育との関係を述べて修身教会のことに及ぶ。 七日 また晴れ。磯城郡三輪町︿現在奈良県桜井市﹀に移り、同郡教育会の依頼に応じて演説す。会長は恩田郡長 なり。会場は天理教会堂にして、宿所は奥山周軒氏の宅なり。奥山氏は医師なれども、平素信仏の志厚きを聞き、 狂歌をつづりて氏に贈る。 194
南船北馬集 第一編 三輪たせば山の奥にも信心の、花ぞ開きて見事なりける、 八日︵日曜︶ 雨。長谷寺に登山し、豊山派管長に拝顔し、寺島光法氏に面会す。長谷寺は山に椅り渓をめぐり、 堂宇軒を比べ、桜樹枝を交え、遠くこれを望むに、桜雲中に宮殿を架するがごとき観あり。余が我流の哲学的俳 句すなわち﹁花雲の中に吐出す蟹気楼﹂をもってその実景を写出す。また一詩あり。 病来為癖愛姻霞、到処江山是我家、昨酌三輪社頭月、今吟長谷寺中花、 ︵病癖のごとく煙霞の勝景を好むようになり、いたるところの江山をわが家と心得る。きのうは三輪のやし ろにかかる月を眺めて酒を酌み、きょうは長谷寺の花をめでて詩を吟ずる。︶ 午後、長谷寺を辞して、桜井駅皆花楼に泊す。 九日 雨。多武峰に登山せんと欲して果たさず、終日長臥して疲労をいやす。夜に入り、上田昊覚氏の吉野郡 よりきたり迎うるに会す。氏は哲学館出身にして、吉野郡内開会の主動者たり。 十日 雨。宇治興聖寺住職西野石梁師および上田氏とともに、松山を経て吉野郡内に入る。道険にして泥深し。 人車進むを得ず、犬馬の力をかりてようやく進行す。馬の先引きは、今回はじめてこれを見る。 多武峰頭雨未晴、駅程今日奈岬峰、欲撃泥路車難進、犬馬時扶人力行、 ︵多武峰のあたりはまだ雨もあがらず、村への道も今日はなんと山高く険しいことよ。泥深い道をよじのぼ ろうとしても車を進められず、ときには犬馬に引かせて行くのであった。︶ 郡内に入る所に桜峠あり、その実、桜花なし。よって戯れに﹁桜阪とはいふもの﹀花はなし、吉野の山のゲー 皿 ト︵σq巴o︶なれども﹂とうそぶきつつ高見村︿現在奈良県東吉野郡吉野村﹀に入る。村内を貫通せる渓流を鷲家川とい
う。よってまた戯れて﹁高見村吉野の山も遠ければ、まだ花もみず鷲家川かな﹂などと歌にもならず、句にもな らざる寝言を吐きつつ通過せるは、旅中の一興なり。高見村は鷲家旅館中尾氏方に泊す。夜中、竜泉寺にて開会 す。聴衆満堂、数里の山間より来集す。演説の前後に小学児童、唱歌を奏す。発起者は住職浦田暁山氏、村長岩 井友次郎氏等なり。 十一日 晴れ。高見村より小川村︿現在奈良県吉野郡東吉野村﹀字鷲家口に移る。この日、三村合同戦死者追弔会あ りてこれに列席す。祭壇の構造および装飾、大いに意匠を凝らし、西野老師導師となり、各宗の僧侶これに参加 し、祭文、弔詞を朗読するもの数十人、会衆千に満つ。式典すこぶる荘重にしてかつ盛観を呈せり。余の弔詩、 左のごとし。 征人多作不帰客、桃李何心花独繁、好折一枝春色去、芳山深処弔忠魂、 ︵征く人は多く不帰の客となり、桃李はなんの意か花のみがしげし。一枝を折りて春の模様を消すによく、 吉野山の奥深いところで忠魂を弔う。︶ 午後、宝泉寺において演説す。住職は辻南渓氏なり。当夜、富豪蒲生重一郎氏宅に宿す。邸宅は山に面し川に 鋸し、泉声枕上にかかり、山色眉間を照らすの趣あり。 十二日 晴れ。渓流をさかのぼりて四郷村︿現在奈良県吉野郡東吉野村﹀巌泉寺に至る。この辺り峻山高く聾え、茂 林深くとざし、地偏なるも境幽なり。戦勝の結果、村々区々設くるに凱旋門をもってす。 日露和成後、人呼万歳喧、山中無暦処、猶見凱旋門、 ︵日露の和平が成立してのち、人々の万歳を呼ぶ声がかまびすしい。この奥深い山中の暦もなく時を忘れた 196
南船北馬集 第一編 かのような所にも、今や凱旋門が見られるのである。︶ 巌泉寺住職は谷万鏡氏なり。夜中開会す。演説前後に小学児童の唱歌および楽隊の奏楽ありて、すこぶる盛会 なり。 境静巌泉寺、山深狭戸村、俗塵渾不到、此地是桃源、 ︵幽境にひっそりと建つ巌泉寺、山のふところ深くせまい村。世俗の塵埃はまったく入ってこない、このよ うな地こそまさに桃源郷なのだ。︶ 十三日 晴れ。この仙源を去りて小川村字中黒に移る。宿坊は興禅寺にして、住職は上田昊覚氏なり。よって 一詠す。 小川渓上有禅関、昊覚法師栖此山、尽日門庭人不到、午陰深処鳥声閑、 ︵小川の渓流のほとりに禅寺があり、上田氏昊覚法師がこの山にすむ。日がな一日、門庭に人のおとずれる こともなく、日中木かげの深い所で鳴く鳥の声ものどかである。︶ この辺り一帯崇山峻嶺前後に屏立し、中間に一脈の渓水の流るるありて、わずかに車路を通ずるのみ。中黒は 製紙をもって業とするもの多ければ、﹁白雲の山とはいへど雲でなし、紙を製する姻なりけり﹂とうそぶきたり。 白雲山は興禅寺の山号なり。小川村にて凱旋せる軍人に感謝状を贈らんとて、村長重阪丑太郎氏より余に起草を 請う。余、長編を作りてこれに与う。 日露交兵已二年、海戦陸闘共空前、皇軍所響如破竹、陥落旅順屠奉天、大挙将衝浦塩険、全軍士気益揚然、 時有海軍報大捷、敵艦全滅無余船、終局勝敗於是定、購和声自米国伝、戦争元来非我意、唯期皇礎千載堅、 197
平和条約忽締結、皇国威名震坤乾、朝野士民歓何極、万歳高呼動山川、畢寛軍人決一死、或侵弾雨或砲煙、 皆知勇進不知退、連戦連勝其功全、完了任務帰郷里、村民柞舞迎凱旋、如此偉勲何以謝、誠意捧来詩一篇、 ︵日露の干文を交えることすでに二年、海に陸に空前の戦闘をくりひろげ、皇軍の向かうところ破竹のごと く、旅順を陥落させ奉天をほふる。大挙してまさに浦塩︹ウラジオストク︺の険塁をつきやぶらんとし、全軍 の士気はますますあがる。ときに海軍の大勝が報ぜられ、敵艦は全滅して残余の船もないと、この戦争の勝 敗はここにおいて定まり、講和の声は米国より伝わる。戦争は元来わが国の本意ではない、ただただ皇国の 礎の千年のかたきをねがったのみである。平和条約はたちまち締結され、皇国の威名は天地をも震憾させた。 官吏も民間人も全国民のよろこびは極まりなく、万歳の声は高く山川をもゆり動かさんばかりである。それ も結局のところ軍人が決死の覚悟で、あるいは弾雨をおかし、あるいは砲煙をおかし、みな前進を知るも退 くを知らず、連戦連勝してその功を成し遂げたからである。任務を全うして郷里に帰り、村民は手を打ちお どりあがって凱旋を迎える。このような偉大な勲功に、なにをもって感謝の心を示そうか、誠意をもって詩 一編を捧げるのである。︶ 十四日 晴れ。小川村より上市町︿現在奈良県吉野郡吉野町﹀に移る。上市は郡衙所在地にして、郡内第一の都会 なり。市街は吉野川にそい、芳︹吉︺野山に対す。着後、香月楼に一休して、更に当町有志家小西音石氏の宅に移 る。楼上の眺望すこぶる佳なり。詩をもってこれを写す。 高楼岸頭立、隔水対芳山、沙際行人続、賞花往又還、 ︵高楼は岸のたかみにたち、吉野川を間に吉野山に対面している。水辺には人の絶えることもないのは、花 198
南船北馬集 第一編 をめでてゆきつもどりつしているからなのだ。︶ 午後、郡教育会に出席して講演をなす。会長は郡長安芸則恭氏なり。氏は本郡巡回の件につきて各町村へ紹介 の労をとられたり。奈良県事務官吉田氏に面会す。 十五日︵日曜︶ 晴れ。小西氏の楼上に宿するに、終夜流水の声あるを聴き、同氏の名は音石なるにちなみて、 言文一致流の俗調をつづる。すなわち﹁夜もすがら、石間をきしる水の音、聴けば心も清くなりぬる﹂の狂歌な り。ときに芳野山の桜花は満開なりというを聞き、小西氏および上田氏とともに川を渡り、渓行里許にしていわ ゆる下千本の山下に至る。途上、一吟あり。 春山青一色、中有白雲横、近見花千畳、団々都是桜、 ︵春の山は青一色であり、なかほどに白雲が横ざまにたなびいている。近づいて見ると、それは花の幾千と なくかさなっているからで、団々たるかたまりは、すべて桜なのである。︶ 茶亭に一憩して帰る。観客疎々、車行遅々、その幽逡の状態は墨堤、嵐山と同日に論ずべからず。かつ余の所 感は﹁芳山有花而無水、上市有水而無花、人間万事皆如此、両者難兼君勿嵯﹂︵吉野山には花はあれども水はなく、 上市には水はあれども花はない。世の中は万事みなこうしたもので、ふたつながらそろうのは難しいのだから、 君よなげくことなかれ。︶にて、芳山に水なきは観客のみな遺憾とするなり。午後、上市を去り竜門村︿現在奈良県 吉野郡吉野町・宇陀郡大宇陀町﹀に入る。途上の所見、左のごとし。 樹は黒く麦は緑りに菜は黄なり、桃紅李白、春の山里、 宿坊は西蓮寺にして、住職は西岡順察氏なり。庭前に老松の臥竜に似たるあり。 199
窓外老松在、如竜又似仙、臥雲三十丈、吸気一千年、 oo ︵窓の外に老いた松がある。その姿は竜のようでもあり、また、舞い上がるようでもある。隠者のごとく生 2 きて三十丈の樹幹ともなり、万物を育てる根元の気を吸って一千年の寿を得ているのである。︶ 村内に竜門滝と名付くる小滝布あり。行きてこれをみる。 十六日 雨。西蓮寺に滞在す。 十七日 雨。歩行して宇陀郡松山町に至り、更に車行して榛原町︿現在奈良県宇陀郡榛原町﹀に入る。これ、鳥見 岡の旧祉の存する所なり。 客遊偶到宇陀郷、入眼青山鳥見岡、想起三千年古事、仰天傭地感無量、 ︵旅客として思いもかけず宇陀の郷に至り、青山と鳥見岡を目にする。三千年のいにしえのことを思い起こ し、天を仰ぎ見、地を傭し見て、感無量。︶ 更に一作あり。 肇国宏遠神武帝、樹徳深厚鳥見山、請看三千年古月、照遍八十余州間、 ︵国をはじむること広遠なる神武帝、深厚なる徳を樹立した鳥見山。請う、みよ、三千年以来のいにしえの 月を。あまねく八十余州を照らしてきたのである。︶ 榛原町宿坊は宗祐寺にして、融通念仏宗に属す。清原得静氏これが住職たり。堂後に地蔵山あり、庭前に螂躍 園あり。よって一詠す。 地蔵山下梵宮開、四月遠尋春色来、郷躍花期猶未到、黄鶯声裏見紅梅、
南船北馬集 第一編 ︵地蔵山のふもとに寺院があり、四月、春の景色をたずねて至る。庭前につつじ園はあるが、まだ花の咲く 時期ではなく、うぐいすの声しきりに紅梅が見られる。︶ 会場は榛原高等小学校なり。哲学館出身者日高純諒氏きたり会す。 十八日 晴れ。松山町く現在奈良県宇陀郡大宇陀町vに移りて開会す。会場は万法寺にして、津田敬遵氏これに住 す。当地は郡役所所在地なり。本郡内の開会は郡長谷原岸松氏、郡視学森本正啓氏、榛原町長高野万次郎氏、松 山町長山辺彦七氏等の発起にかかる。 十九日 晴れ。松山より吉野郡小川村に向かう。途中、五色の歌を詩に変じて﹁桃紅李白宇陀郷、麦緑菜黄鳥 見岡、又有松杉満林黒、江山五色著春粧﹂︵桃の紅、すももの白い花さく宇陀の郷、麦の緑、菜の黄色に染まる鳥 見の岡、また松と杉の林がつくる木陰の黒、江山の五色はすべて春のよそおいをあらわす。︶となす。当夕、中黒 興禅寺に至りて泊す。途上、所見一首あり。 桃源深処一渓通、家住水明山紫中、堪笑都人三四月、黄塵堆裏送春風、 ︵桃源郷のような奥深いところに一本の渓水が流れ、人々の家は山紫水明の中にある。笑いをこらえて思う、 都会に住む人々の迎える三、四月は、黄塵のつもるなかで春風にあうのだと。︶ また、同寺にありて﹁欲医労苦入禅関、臥対興禅寺外山、一抹炊姻日将午、車声不到客眠閑﹂︵労苦の疲れをい やそうとして禅寺に休み、この興禅寺より見える山に向かって身を横たえる。一抹の炊煙がたちのぼるとき、そ れはまさに正午。ここまでは車の音もせず、客は午睡を楽しんでのどかである。︶と詠じて、午睡を試む。 二十日 晴れ。午後、中黒を去りて国楳村︿現在奈良県吉野郡吉野町﹀新子に移り、夜中開会す。会場は高等小学 201
校にして、聴衆、堂にあふる。発起者は松岡桂斎、森谷庄太郎、内田某等の有志諸氏なり。松岡氏は医師にして、 02 かつ信仏の志厚きを聞き、﹁学医除病苦、信仏養精神、在此深山裏、如君有幾人﹂︵医を学んで病苦を除かんとし、 2 仏を信じて精神を養っている。この奥深い山中の村に住む、果たして君のような人はどれだけいるであろうか。︶ の詩を賦してこれに贈る。 二十一日 晴れ。新子より渓行二里にして川上村︿現在奈良県吉野郡川上村﹀字大滝に達す。吉野川の渓流かかり て大漂布となる。故にこの名あり。対岸の風光ことに佳なり。これ、吉野山中奇勝の一ならん。よって、 欲訪芳山勝、請来見大滝、渓流相対処、疑在書図中、 ︵吉野山の景勝を訪ねんとし、請いて行き大滝を見る。渓流に向かって立てば、一幅の画中にあるかと疑わ んばかりである。︶ の句を浮かぶ。宿坊は竜泉寺にして、住職は古瀬真隆氏という。すこぶる熱心家なり。当所は大和屈指の富豪土 倉庄三郎氏の居村にして、氏が従来公共事業に尽くせし跡、実に見るべきもの多し。人みな称して吉野山中の人 傑となす。主人、年やや老ゆるも身なお健やかなり。深く修身教会の旨趣を賛同し、大いに尽力せんことを約せ らる。当日、昼夜とも開会す。 二十二日︵日曜︶ 晴れ。大滝に滞在して昼夜開会す。山寺即事の一絶を賦す。 渓行数里浜仙源、積翠欲垂川上村、竹寛懸庭水声冷、竜泉寺裏浸吟魂、 ︵谷川に沿って行くこと数里、仙人が住むかと思われる地にさかのぼり、積み重なるような緑のしたたりお ちるかとも見える川上村に至った。竹の寛が庭にかかって水の音もひややかに、竜泉寺に詩魂をうるおすの
南船北馬集 第一編 であった。︶ 二十三日 雨。大滝より渓流にそって上り、迫に至る。迫は川上村役場所在地にして、ここに官幣大社あり。 社務所をもって会場に充つ。村長福本寅松、助役松尾寅太郎等諸氏の発起なり。途上、川上村所見をつづりて村 長に贈る。 渓上纏通路一条、山深風物自粛蓼、仙郷幸有心田潤、欲植修身教会苗、 ︵谷川のほとりにはわずかに一条の道があるのみで、山深く風物もおのずからものさびしい。しかし、この 仙郷ともいえる人々には、幸いにも心の田というべきうるおいがある。故に修身教会の苗を植えようと願う のである。︶ 二十四日 晴れ。更に渓流に従ってさかのぼり、北和田に至りて開会す。この地は大峰山麓にして、これに連 結せる諸山は指顧の間にあり。しかしてこれより山顧に達するには、なお三里ありという。この日、輻に駕す。 軽輿数里破清農、雨洗林轡審色新、行尽大峯山下路、黄花緑葉武陵春、 ︵軽々とした輿に乗って行くこと数里、清らかな朝を破るようにして進む。雨に洗われた林も山々も、雨あ がりの色で清新である。大峰山下の道を行き尽くせば、そこは山吹の黄色い花と緑葉しげる武陵桃源郷の春 なのである。︶ 黄花とは山吹の花を指していう。林間いたるところこの花を見る。会場は高等小学校にして、校長梅谷退一氏 等の発起なり。深山幽谷中にありて、なお学校の設備の至れるを見、ここに所感を述ぶ。 渓雨晴来暁色蒼、樹陰深処鳥声長、桃源亦浴文明沢、樵路窮辺有学堂、 203
︵渓谷にふる雨もしだいにはれ、あかつきの景色も青々として、木かげの奥深くなく鳥の声ものびやかであ 04 る。この桃源郷のごとき所も文明の恩沢に浴し、きこり道のきわまるような地にさえ学校がある。︶ 2 当日演説後、更に渓流にそって下行し、白屋に至りて夜会に出演す。この日、行程往復六里ばかりなり。途上 俗歌をつづり、 川上の林の中に生ひたちし、人は御国の柱とそなる、 といえるを敷術して演説す。宿所は玉竜寺にして、小学校長三宅左一氏の主催なり。 二十五日 晴れ。朝、白屋を発し、迫および大滝に休憩し、蜻蛉滝を一見し、西川に至りて泊す。会場は徳蔵 寺なり。西川をよみてニシッコというは奇なり。ニシカワの転託なりと伝うるも解し難し。その隣区東川をウノ カワという。 以上はみな川上村の区域なり。川上村は二十三大字より成り、その面積、長さ十二、三里、幅六里、十津川町 に次ぐ大村なり。しかして戸数は千二百、人口は六千七百人、学校は尋常高等を合して十九校あり、村内の教育 費は一万円以上に達すという。産業はただ林業あるのみ。衣食の供給はすべてこれを他村に仰ぐ。その村内を貫 通せる一帯の渓流は吉野川の源流にして、両岸の風光自然に武陵桃源の趣あり。 二十六日 雨。朝、五車峠をこえ、上市町に入り小西音石氏の宅に着す。会場は浄宗寺にして、開会は町内有 志の発起なり。演説にさきだちて警鐘あり、川を隔てて火災を望む。当夕、北岡房治郎氏の宅に泊す。 二十七日 雨。小西氏の宅に休憩して吉野山︹吉野村︿現在奈良県吉野郡吉野町﹀︺に移る。会場は東南院にて、旅館 は芳山館なり。発起者は東南院住職五条順海、高等小学校長側垣基雄等、数十名の有志諸氏なり。演説は芳野所
南船北馬集 第一編 感と題し、役行者の事蹟より説き起こし、芳野の将来に論及す。当時、桜花すでに落ち尽くし、満山ただ緑葉の 森々たるを見るのみ。 姻雨罪々四月天、芳山一路緑陰連、延元陵下桜花老、吉水社頭聴杜鵠、 ︵けぶる雨がふりしきる四月の空、吉野山の道は緑陰に続く。延元陵のもとにある桜花も老いて、吉水社の ほとりにほととぎすの声をきく。︶ 芳山館の後庭に藤尾坂と称する所あり。これ義経、静と訣別の地なりと伝う。よって館主の請いに応じて左の 詩を賦す。 桜花落尽雨濠々、来宿芳山旅館中、杜宇一声藤坂寂、使人想起古英雄、 ︵桜花は落ちつくし、雨はふりこめてほの暗い。この地に来て芳山旅館に泊す。ほととぎすが一声ないて藤 尾坂は寂として静かに、人にいにしえの英雄︹義経︺を思い起こさせたのであった。︶ 二十八日 晴れ。朝、如意輪寺を訪いて一休す。門前の眺望、芳山第一と称す。住職井上徳定氏は学徳ともに 衆人の推すところなり。ときに芳山懐古の一絶を浮かぶ。 延元陵下歩新晴、一望何堪懐古情、山寺無花春寂々、緑陰堆裏聴残鶯、 ︵延元陵のもとを歩むに新たに晴れて、一望すれば懐古の情にたえず。山の寺には花もなく春はものさびし く、緑陰の重なるうちになごりのうぐいすの声をきく。︶ これより吉野川を渡り、対岸なる大淀村︿現在奈良県吉野郡大淀町﹀字比曾世尊寺に入りて演説す。当山は聖徳太 鍋 子の開基にして、日本最初の道場なりという。堂宇荒廃を極め、その状廃寺を見るがごとし。よって太子十七︹条︺
憲法の一端より説き起こして、再興の必要に及ぶ。住職は上田昊覚氏これを兼ぬ。大淀村長は岡田高義氏なり。 二十九日︵日曜︶ 晴れ。増口専立寺に転じて開会し、有志家大北源一郎氏の宅に泊す。吉野郡長安芸氏は劇務 の中、連日各所の開会に出席し、修身教会の拡張を助成せられしは、深くその熱心と好意とを謝せざるを得ず。 三十日 晴れ。午前、下市町︿現在奈良県吉野郡下市町﹀に移る。会場は立興寺にして、宿所は旅館なり。発起者 は立興寺住職稲田義顕氏、下市町長島田竜氏なり。当町は商工業の隆んなる地なりというを聞きて、左の詩を賦 す。 千石橋南街路長、民家櫛比是工商、由来信仏心灯朗、又放修身教会光、 ︵千石橋の南に街路長く、すきまなく建ち並ぶ民家は工商をなりわいとする。人々はもとより仏教を信じて 心根も明るく、またここに修身教会の灯をともしたのであった。︶ 千石橋は吉野川に架する鉄橋にして、毎日この橋上を輸送せる米穀千石に達すというより、その名を得たりと 伝う。 五月一日 雨。下市町滞在、昼夜開会。 二日 雨。早朝、農林学校に至り、特に生徒のために演述す。校長は白河太郎氏なり。当校は拙著﹃修身要鑑﹄ を教科書に採用せるを聞き、一編の小箴を作りて生徒諸氏に贈る。このとき東京より大観兵式の実況を報じきた る。 日露和成皇威震、観兵式挙鳳董臨、朝野歓呼祝戦捷、山中猶聞凱歌音、我輩幸遇此隆運、朝夕宣忘国恩深、 戦後経営不容易、皆言富源在農林、殖産興業能尽力、養成国本是誰任、男児此時須奮起、青年歳月重於金、 206
南船北馬集 第一編 自今願除校風弊、遮断誘惑防荒淫、開智成徳守聖訓、修学習業惜寸陰、百折不擁繁而已、不問利害与浮沈、 大峯山高可養気、吉野川清足洗心、只期他日功成後、実業界中指南鍼、我来難禁婆心切、敢為諸君作小箴、 ︵日露の講和が成って皇威は世界を震憾させ、大観丘ハ式が挙行され、天皇は行幸してこれに臨まれた。官民 は歓呼して戦勝を祝い、山中のここにも凱歌の声が聞こえるようである。われわれは幸いにしてこの隆運の ときに遇い、朝夕にも国恩の深さを忘れることはできぬ。戦後の国家経営は容易ではないが、みないう、富 の源は農林にありと。殖産興業によく力を尽くし、国のもとを養成するのはだれの任務であろうか。男児は このときこそ奮起すべきであり、青年の歳月は金よりも貴重であると悟るべきである。いまより願わくば、 校風の欠点なるところあれば除き、誘惑を断ち荒淫を防いで、智能を開発し、道徳を成就して聖訓を守り、 修学、習業に寸暇も惜しむべし。百たびくじかれても屈せず、たおれてやむべく、利害と浮沈とを問わず。 大峰山は高くして英気を養うべく、吉野川は清くして心を洗うに足る。ただただいつの日か成功の後に、実 業界の中で教え導く者とならんことを期待するのみである。われここに至りて老婆心の痛切に起こるを禁じ 得ず、あえて諸君のために簡単ないましめの文を作ったのである。︶ 午前中に農林学校を辞し、下市旅館に一休し、これより峻坂険路を肇じて南芳野村︿現在奈良県吉野郡下市町・黒滝 村﹀に入る。嶺頭雲深き所に小学校を設くるを見る。昔日は﹁遠上寒山石径斜、白雲生処有人家﹂︵はるか遠く、 もの淋しい山にのぼって行けば、石の多い道はななめに続いて行く。白い雲の湧き出る山中には、思いもかけず に人の住む家がある。︶といいしが、今日は﹁白雲生処有学校﹂︵白い雲の湧きおこるような山中の深いところに 小学校がある。︶といわざるを得ず。よって一絶を得たり。 207
芳山五月雨罪々、春入深渓碧四囲、樵径華来将尽処、学童時踏白雲帰、 ︵吉野山の五月は雨がしきりとふり、春は深い谷に入って四囲を緑にする。きこりの小道をよじのぼり、そ の道の尽きるところに学校がある。それ故に学童は、ときに白雲を踏んで帰るのである。︶ 午後四時、中戸光照寺に着して開会す。この日、下市町より里程四里の間、村長家治佐太郎氏の同行あり。宿 所は旅亭なり。この辺りの婦人は一種異様の袴をうがち、重荷を負いて峻坂を上下す。婦人、普通十五貫目ない し二十五貫目を担うという。その労力驚くべし。 三日 雨。村長家治氏とともに渓流にそいて下り、壬生に至りて開会す。その距離、二里あり。渓流は壬生川 という。昼食後、雨をおかして笠木嶺に登る。山高く雲深く、四面冥濠、題尺を弁ぜず。山水の秀美を見ること を得ざるを遺憾とす。嶺を下りて天川村︿現在奈良県吉野郡天川村﹀に入る。村を貫きて一帯の渓流あり、これを熊 野川の上流とす。両岸は天然の岩石より成る。往々碧流かかりて飛漂となり、激して白雪を現ず。しかして対岸 は絶壁千初、天空をつきて屏立す。実に仙郷なり。 笠木嶺頭穿翠姻、渓声相伴入天川、雲容山態非人境、風俗民情都是仙、 ︵笠木嶺の頂きはみどりのかすみをうがって見え、渓川の音とつれだって天川村に入る。雲のかたち山の姿 は到底人の住むところとは思えず、風俗も人情もすべて仙境である。︶ 上流に泥川駅あり。これ大峰登山口なり。当夕、天川村字和田なる福智久継氏の宅に泊す。福智氏は村長たり。 実にその名のごとく福禄、知恵ともに村内第一と称す。この日、行程七里余なり。 四日 雨。福智氏の宅に滞在し、昼夜開会す。一村の人家は五、六里の間に散在し、これを合するも五百に満 208
南船北馬集 第一編 たず。毎戸、木工を業とす。民家多くは壁を有せず。男女ともに吉野袴を着す。役場吏員もまたしかり。山林多 きも地価安く、一町歩平均四十銭ぐらいなりという。食用品はすべてその供給を他村に仰ぐ。ただ、その地に産 するものは蕨とアメ魚あるのみ。宗教は概して真宗にして、寺院に参詣するもの多し。 五日 快晴。天川村のつぎに大塔村、野迫川村、十津川村あり。十津川村のごときは五十余の大字より成り、 三十里の間にまたがる、全国無比の大村なり。野迫川のごときは高野山に接続せる深谷の間にありて、一戸をも って一大字をなせる所ある由。大塔村には大塔宮の古蹟を存すという。日程限りありて、これらの諸村に入るこ とを得ざるは遺憾の至りなり。この日、和田を去り、渓谷間の樵路をたどりて行くこと五里、宗檜村︿現在奈良県 吉野郡西吉野村﹀陰地に着す。途上の風景おのずから別天地の観あり。 雨後渓山更紫明、仙源風物使人驚、緑陰堆裏聞鶯語、螂燭花間見老桜、 ︵雨あがりの谷や山はさらに美しく、仙人の住むようなこの地の風物は人を驚嘆せしめるものがある。緑陰 の重なるうちからうぐいすの声が聞こえ、つつじの花の間に老桜が見られるのだ。︶ これ、天川より宗檜に至る深渓間の実景なり。途中強震に会し、山上の小石の落下せるを見る。陰地の会場は 円光寺にして、寺は山の中腹にありて、前山と相対す。その風景また、画中に座するの思いあり。 樵路傍渓入檜川、梵宮高聾半空辺、台端時対前山坐、疑是画図天壁懸、 ︵きこり道の傍らを流れる渓水はやがて檜川に入る。寺院は山腹にたち高くそびえ、空をくぎるように見え る。楼台よりはじめて前面の山に対して座せば、画幅の天を壁としてかけられているかと思われるほどであ った。︶ 209
住職は和気美雄氏にして、真宗門内の徳望家なり。村長は殿平勝太郎氏という。この辺りの人家は多くは山の 絶頂より半腹の間に散在し、隣家に行くに数十丈を上下せざるを得ず。これ、南芳野村および宗檜村の特色とす。 ここに住するものは坂路を上下する習慣により、平地を行くにも足を高くあぐる癖ありという。伊勢山田の旅館 にて客の歩き風を見て、ただちに吉野郡内の人なることを判知すというはこの習慣あるによる。 六日︵日曜︶ 晴れ。陰地を出でて、途中延命寺を経て賀名生村︿現在奈良県吉野郡西吉野村﹀字和田の旅館に着す。 夜中開会。会場は高等小学校にして、村長鶴田鼎氏等の発起なり。鶴田氏は吉野口を去る一里ばかりの所に桃園 を開き、その名を成美園というを聞き、﹁桃林千万樹、成美是其名、四月花開日、圧来吉野桜﹂︵桃林には千か万 を数える木が植えられ、成美︹園︺こそはその名である。四月、花開くの日は、名にし負う吉野桜をも圧倒するで あろう。︶の五絶を賦して氏に贈る。 七日 晴れ。朝、堀氏の宅を訪い、後醍醐天皇の行在所および宝物を拝観し、席上、所感をつづる。 茅屋山隈立、皇居在此中、渓泉鳴不歌、懐古感何窮、 ︵かやぶきの家が山の曲がりこむ所にたち、後醍醐天皇はここに住まわれた。谷の泉の音が絶えまなく聞こ えて、懐古の情は尽き果てることもない。︶ 午十二時、五條町︿現在奈良県五條市﹀に着す。旧知西村常吉氏等の野外に出でて迎うるに会す。西村氏は五條中 学校にありて教鞭をとり、舎監を兼ぬ。去る二日、下市町を辞してより、今日に至るまで一週の間は、吉野山中 人車の便なき所を駿渉し、毎日草鮭をうがちて峻坂を上下したりしが、五條に至りてはじめて平坦の地を見、な んとなく都に出でたる心地をなす。 210
南船北馬集 第一編 穿尽芳山一草鮭、樹来法雨五條街、長江十里紀州道、両岸風光散客懐、 ︵吉野山一帯の地をわらじで巡り尽くし、仏法の恵みをそそぎ入れるため五條町に至った。長江︹紀の川︺十 里の紀州道、両岸の風光はほしいままにする旅人の心をもやわらげる。︶ 五條町は宝満寺にて昼餐を喫し、少憩の後、倶楽部の楼上に移りて演説す。郡長椎原国太氏および中学校長大 橋唯雄氏に面会す。ともに旧面識あり。当地開会は郡教育会および各宗協同の発起にかかる。郡視学吉川栄治郎 氏、宝満寺住職梁瀬作礼氏、桜井寺住職康成達倫氏等、主として斡旋の労をとらる。 八日 雨。午後、中学校において講演をなし、終わりて郡長および校長とともに桜井寺を訪い、維新前吉野山 中を震動せし天諌組の顛末を聞きて、旅館岩井に帰る。西村常吉氏、余に贈るに五岳の画、慈恩の賛の古幅をも ってす。余、詩を賦してこれに答謝す。 与君一別十星霜、客舎相逢談笑長、贈我書図是何物、披来歎賞喜将狂、 ︵君と一別してから十年が経ち、この旅館におちあって談笑し長い時をすごした。私に画幅を贈られたが、 それはいかなる物かと、ひらいて嘆賞し、喜びのあまり度を失うほどであった。︶ 九日 雨。五條停車場にて乗車す。椎原郡長等、有志数名の送行あり。南葛城郡御所町︿現在奈良県御所市﹀に降 車す。工業学校長高田吉親氏の出でて迎うるに会す。午後、工業学校内において演説す。郡教育会の主催にかか る。郡長尾崎裕氏および郡視学杉本熊次郎氏、ともに尽力あり。旅館は玉平なり。﹁玉ならば丸かるべきに平らと はいと不思議なる御所の宿かな﹂との狂歌を浮かべたるも笑うべし。この旅館にて哲学館出身鷲尾隆英氏に相会 す。 211
十日 晴れ。北葛城郡高田町︿現在奈良県大和高田市﹀専立寺に移りて開会す。各宗協同団の発会式にして、すこ ぶる盛会なり。専立寺は高田御坊と称し、堂宇宏大にして、眺望また幽雅なり。 客游今日到高田、緑麦朧頭街路連、専立寺端時一望、葛城風月落軒前、 ︵旅遊をかさねて今日高田に至り、緑の麦畑は街路につらなっている。専立寺よりはじめて一望すれば、葛 城の風月はのきさきにまといつながっているのである。︶ 十一日 晴れ。車行して高市郡真菅村︿現在奈良県橿原市﹀字土橋専念寺に移る。哲学館出身秦法顕氏これに住 す。和州布教団支部の発起にて、宗祖降誕会を挙行す。聴衆、堂に満つ。庭前、脚燭花の満開を見て一作を試む。 麦雨初晴満眼青、投来専念寺中亭、春過緑樹陰濃処、螂燭花開紅半庭、 ︵麦の熟するころに降るという雨もあがり、見渡すかぎり青々として、専念寺の亭に身を寄せた。春すぎて 緑樹のかげ濃いところ、つつじの花が開き、その紅は庭のなかばをおおっている。︶ 十二日 晴れ。畝傍停車場発、奈良を経て郡山町︿現在奈良県大和郡山市﹀に降車し、中学校講堂にて講演す。生 駒郡教育会および中学校校友会の依頼に応ずるなり。郡長源融氏、中学校長百尾喬利氏、郡視学玉井寿憧氏、中 学教員森口奈良吉氏等尽力せらる。奈良市外桐山より税所篤一氏のきたり迎うるに会し、同行して税所氏の山荘 に移る。眺望あり風致ありて、その幽逡閑雅なるは本県中有名の庭園とす。一夕、望外の優待を受く。 十三日︵日曜︶ 雨。奈良より乗車して京都︿現在京都府京都市﹀七条に着す。福井了雄、上村観光、松本雪城氏等 の同窓諸氏の歓迎あり。河六旅館に少憩し、市役所議事堂に移りて演説す。演題は丙午の迷信にして、発起は哲 学館関西同窓会なり。ときに大雨覆盆のごときも、聴衆、無慮千名の多きに及ぶ。散会後、八新亭において開き 212
南船北馬集 第一編 たる同窓の懇親会に出席す。田島教恵、新町徳兵衛等、哲学館出身者約二十名きたり会す。席上、即吟一首あり。 同窓数十名、相会洛陽城、懐旧三杯酒、八新亭上傾、 ︵同窓数十名、京都にあいつどう。むかしを懐かしんで酒をくみかわし、八新亭に酔いしれたのであった。︶ 十四日 晴れ。京都を発し、宇治町に着し、万碧楼にて喫飯す。哲学館出身日高純諒氏の周旋なり。氏は園林 寺内に僑居す。よって一絶を賦して贈る。 僧住園林寺、山明万碧棲、我来過此地、回首憶曾遊、 ︵僧︹日高氏︺は園林寺に仮ずまいする。山も美しい万碧楼、私はこの地に来て、こうべをめぐらすように、 かつての旅遊を思い出すのである。︶ 興聖寺より執事鷲嶺氏の訪問あり。食後ただちに乗車し、次駅新田村︿現在京都府京都市南区﹀公会堂において演 説す。久世郡教育会の依頼に応ずるなり。散会後、円蔵院にて一休ののち乗車す。往復ともに郡長北本雄氏と同 乗す。目下、茶摘みの最中なり。当夕、京都へ帰り、五条青年会に至りて演説す。会場は善立寺にして、福井了 雄氏これに住す。 十五日 晴れ。京都を発し、再び奈良県に移り、山辺郡一一階堂村︿現在奈良県天理市﹀田井庄光蓮寺において開演 す。崇徳会の依頼に応ずるなり。村長片岡楢太郎、光蓮寺住職越智敏雄等の諸氏、斡旋の労をとらる。本村は旧 二十七力村を合して一村とせりとて、すこぶる大村なり。光蓮寺前住職は私塾を設けて、積年村民を訓育せられ しとて、その門弟相はかり、石碑を建設せり。余、その挙を聞き、﹁故人今不見、春夕恨無涯、続屋梅千樹、化為 13 2 一片碑、﹂︵光蓮寺前住職に遺徳ありと聞いたが、故人となって今や会見もかなわず、春の夕べに残念に思うこと
かぎりなし。寺屋をめぐって梅は千本もあろうか、その人はいま一片の碑と化している。︶の五絶を賦してこれに 14
贈る。 2
十六日 雨。丹波市町より乗車す。丹波市は天理教本山の所在地にして、信徒の遠近より来集するもの年中た えずという。御所町に下車し、これより里許、吐田郷村︿現在奈良県御所市﹀字名柄竜正寺に至りて開会す。当寺住 職および村長︵伊藤武治氏︶の発起なり。寺は金剛、葛城両山の麓にありて、眺望に富む。金剛山頂まで五十丁 ありという。楠氏籠城の当時を追懐して一作を試む。 読史毎欽楠氏忠、遠尋遺跡入蓮宮、堂前一望金剛聾、山態使人想旧風、 ︵歴史書を読み、つねに楠公の忠義をうやまう。遠くその遺跡をたずねてきて寺院に入る。寺堂の前に立っ て一望すれば金剛山がそびえ、その姿はむかしのようすを思い起こさせるのである。︶ 十七日 雨。竜正寺より田間をわたり、歩行して描上村︿現在奈良県御所市﹀玉手満願寺に移る。寺は丘陵の中腹 にありて、竜正寺とまさしく相対す。葛城、金剛一帯の山脈は眼前に連なる。丘上に孝安天皇の御陵あり。住職 は鷲尾隆英氏と称し、哲学館出身なり。よって左のごとく一詠す。 孝安陵上曳節踏、満願堂前望欲迷、一鳥不蹄深院静、隆英和尚此幽栖、 ︵孝安天皇の陵に杖をついて参詣す。満願寺の堂前から一望してその風光に目をまよわす。鳥の声もせず、 奥深く寺院は静寂であり、隆英︹鷲尾︺和尚はここに静かに住みなしている。︶ 当日午後、風起こりて雲雨を払い去りたれば、更に一吟す。 衝雨朝来入梵宮、江山如海望冥濠、林風吹起雲将断、浮出金剛一帯峰、南船北馬集 第一編 ︵雨のなかを朝早くに寺院に入った。川も山も海のように暗いなかにしずんでみえる。やがて林の奥から起 こる風が雲を吹きちぎらんとし、金剛山一帯の峰々を浮き出させたのであった。︶ 大和地の名物は大仏と吉野桜の茶粥なるが、﹁花もみた仏もみたが唯粥をまだ味ひてみぬぞかなしき﹂の狂歌を よみて、茶粥の馳走にあずかりしも、また旅中の一興なり。 十八日 晴れ。玉手を出でて、御所より乗車し、磯城郡香久山村︿現在奈良県橿原市・桜井市﹀法然寺に移る。︹天︺ 香久山と畝傍山と耳梨︹成︺山とは和州の三山と称し、鼎立の位置を保つ。法然寺は円光大師留錫の旧跡なり。故 に所感を述ぶ。 人家碁布小邸辺、村是香山寺法然、七百年前大師跡、我来講道亦因縁、 ︵人家が小高い丘に碁石のごとく点在する、この村は香久山村、寺は法然寺。この寺は七百年前の円光大師 留錫の旧跡であり、そして、いま私がここに来て道を説くのもまた因縁なのである。︶ この日、連座と称し、農家みな餅をつきて休業す。当麻寺の故事より起こるという。聴衆満堂、すこぶる盛会 なり。住職は登広還氏という。 十九日 晴れ。香久山より畝傍に出でて乗車し、奈良駅にて上田昊覚氏と挟を分かつ。氏は四月九日より四十 日間随行せられたり。午十二時、京都に着す。羽賀祐令氏、松本雪城氏、渓内弍恵氏の迎うるに会す。休憩後、 市役所議事堂において講演す。第三高等学校仏教青年会の依頼に応ずるなり。渓内氏は京北中学校出身にして、 幹事の一人に加わる。この席上において京北出身者数名に会す。文学士薗田宗恵氏にも七年ぶりにて面唱し、同 15 2 氏の好意にて晩餐の饗応にあずかる。当夕は東六条皆山校にて、常葉青年会のために演説す。聴衆、堂にあふれ、
庭前また人をもって埋ずむるに至る。 二十日︵日曜︶ 晴れ。午後、京華看病婦学校において、常葉婦人会および京華校友会のために演説す。当校は 橋川恵順氏の設立せるところにして、松本雪城氏職務をとる。その夕は妙満寺に移りて演説す。大覚青年会の主 催なり。哲学館出身野口義禅氏その長たり。これまた満堂の群聚を得たり。 二十一日 晴れ。午前、九条東寺真言宗連合中学に至りて演説す。哲学館出身長谷宝秀、鈴木智弁両氏、ここ に教鞭をとる。午後、橋川、松本両氏とともに大阪府下茨木町︿現在大阪府茨木市﹀に至りて開会す。樹徳会、崇徳 会の発起なり。会場は大谷派別院にして、聴衆、堂に満つ。堂前、老松あり。詩をもってその風姿を述ぶ。 茨木尋精舎、講文半日停、堂前老松在、千古仏光青、 ︵茨木にて寺院をたずね、道徳、文化について講演し、半日ほどとどまった。寺院の前に老松があり、永遠 なる仏の光に青々としている。︶ 二十二日 晴れ。午後、大谷派婦人法話会のために徳正寺において演説す。柳説真氏そのことを幹す。当夕八 時、急行にて京都を去りて帰京の途に就く。野口、羽賀、新町、大江、井ノロ、松本、柳等の諸氏の送行を受く。 二十三日。朝、帰着。和田山哲学堂に至り、四聖に向かいて無事帰京を奉告し、かつ題するに七絶一首をもっ てす。 欲訪江山風月間、六旬出没五畿間、帰来哲学堂前立、迎我蓮峰開笑顔、 ︵江山の風月を訪ねんとして、六十日のあいだ大和、山城、河内、和泉、摂津の五畿内に出入りした。帰り 来て哲学堂の前に立てば、富士山が笑顔をもって私を迎えたのであった。︶ 216
今回の旅行は日数五十余日にして、大和にあること四十余日、吉野郡内にあること三十日間なり。人あり、余 に問うに、大和の七不思議はいかにをもってす。余、戯れに狂歌三首をつづりてこれに答う。 大仏の次は桜と茶粥なり、これを大和の名物とする、 此外にまだもあります名物は、吉野袴と犬の先引、 新平と天理教とを加ふれば、大和の国の七奇とそなる、 この旅行中において、各所ともに有志諸氏の優待に接し、厚意をになうこと一方ならず。これ、余の深く感謝 するところなり。 南船北馬集 第一編 217
足尾および長岡紀行
218 明治三十九年六月十三日。朝、雨をおかして東京を発し、日光を経て足尾に向かう。晩来、雨さらにはなはだ し。途中、細尾に一泊す。翌朝、開晴。緑陰を踏みて峻嶺を撃じ、渓行数里、鉄路に駕し、一走して足尾町︿現在 栃木県上都賀郡足尾町﹀に入る。旅館は間藤町暢和館にして、会場は大谷派説教所なり。所長は林賢励氏にして、当 地開会の主動者なり。足尾町は栃木県下第二の都会にして、戸数六千、人口三万と称す。ほかに労役者の四方よ り来集するもの二万人に下らず。日本全国中二州を除くのほかは、一州としてこの地に寄留せざるものなしとい う。もってその繁盛の一斑をうかがうに足る。十四日、十五日、両日滞在。午後、夜中、両度開会、ともに修身 教会の旨趣を演述す。十五日、午前は鉱山場内を巡覧し、その装置の壮大なるに驚く。なかんずく製錬場に入り て繰金の実況に接し、地獄の活劇をみるがごとき心地せり。ただし鉱気異臭を放ち、鼻をつき喉を裂かんとせる には閉口せり。当夕は鉱山事務員諸氏の依頼に応じ、妖怪の談話をなす。滞在中の漫吟二首あり。 深渓尽処市街開、人馬如雲去又来、足尾鉱山天下一、古河真是大王哉、 ︵深い谷の尽きる所に市街が展開している。そして、人馬が雲のごとく去ったり来たりで活気あふれる。足 尾の鉱山は天下第一、古河は真に大王なるかな。︶ 晃山深処一渓長、傍水尋来足尾郷、間藤寺中時説法、暢和楼上且街膓、 ︵かがやく山の奥深く一本の渓水が長々と流れ、水にそうように足尾の里をたずねた。間藤の寺でときに説南船北馬集 第一編 法をなし、宿泊した暢和館にさかずきをふくもうとするのである。︶ 十七日。晴れに乗じて足尾を発し、帰京の途に上る。林賢励氏、宮崎健吉氏、余を送りて細尾嶺下に至る。両 氏は足尾開会に関し、ともに尽力せられたり。 十八日、越後行の準備をなし、十九日、長野善光寺に一泊。二十日、二十一の両日は、郷里浦村において亡父 十三回忌の法要を営み、二十二日、休憩。二十三日、長岡︿現在新潟県長岡市﹀に至り、午前、高等女学校において 女生徒のために一席の講話をなし、午後、長岡校の講堂において公衆のために修身上の講演をなす。当夕、長岡 館において当地有志諸君の発起にかかる歓迎会に出席し、意外の厚遇をかたじけのうせるは深く感謝するところ なり。二十四日、午前、新潟︿現在新潟県新潟市﹀に移り、県教育会の依頼に応じて教育上の講演をなす。旧友中学 校長長沢市蔵氏および高等女学校長森田氏に面会す。哲学館出身井部貞吉、橋本倉之助、宮城清、沼沢与作、原 田秀泰、関根浄正諸氏等の送迎を受く。午後、再び長岡に至り、女子教育会の依頼に応じて講演をなす。会場に おいて棚橋絢子女史に面会す。当夕、晩餐会に列し、更に妙宗寺に開会せる修身教会に出演す。長岡には哲学館 出身者および関係者相はかりて中越同窓会を設置し、その事業として修身教会を開催す。その主動者は小沢錦十 郎、高賀銑三郎、田宮宗城、二国洞禅、渡辺茂二郎、雨宮静居、野本恭八郎、木村得四郎等の諸氏なり。当夜深 更に及び、木村得四郎氏とともに摂田屋村川上半四郎氏の宅を訪いこれに一泊し、翌朝、野本恭八郎氏の宅に少 憩して長岡中学校に至る。野本恭八郎氏は不幸にして令息を失う。令息はその名を遊という。さきに京北中学校 の生徒たり。余の弔詩、左のごとし。 19 2 主人植福田、其子不延年、積善余慶語、是非敢問天、
︵主人は福徳をもたらす善行を積んでいるのだが、その子は不幸にして短命であった。善行を積む家には子 20 孫におよぶ福徳があるという言葉があるが、この人をみると、この言葉が本当なのか否かを、しいて天にき 2 きただしたい思いがする。︶ 長岡中学校は余の出身の地にして、今を去ること三十四、五年前、余がその校にありて創立せる和同会が今日 なお持続すという。同会の依頼に応じて所感を演述す。午後、来迎寺村︿現在新潟県三島郡越路町﹀に帰り、高橋九 郎氏の宅において更に講話をなす。余の出産の地は来迎寺村大字浦なり。甫水の号は浦の字より起こる。今回帰 村の詩あり。 六月家山夏色繁、車窓回望動吟魂、渋川過去来迎寺、一帯杉林是浦村、 ︵六月の家郷の山は夏の色もさかんであり、車窓より四方を見渡せば詩情が起こる。渋川をすぎて来迎寺村 に至れば、一帯の杉林こそ私の生まれた浦村なのである。︶ 二十六日、帰京す。 足尾および長岡巡回中、有志諸氏の優待厚遇をかたじけのうせるは、余の感喜にたえざるところなり。
香川県紀行
南船北馬集 第一編 ︹明治︺三十九年七月八日。午後、新橋発車。九日午前、岡山着。青木了栄氏︵哲学館大学出身︶と相会し、同 氏に随行を約し、ともに汽船に駕して薄暮、高松市︿現在香川県高松市﹀に着す。有志数十名、埠頭に歓迎せられた り。宿所は可祝楼なり。途上の所見は七言八句をもってこれを述ぶ。 富岳雨懸雲漠々、琶湖月黒夜冥々、暁天已入山陽路、樹色映窓車亦青、児島湾頭時解績、一帆風満夏清冷、 汽声漸報高松近、薄暮投来可祝亭、 ︵富士山にふる雨と山にかかる雲は遠くはるかにつらなり、琶琵湖にかかるはずの月は暗夜にかくれている。 夜明けにはすでに山陽路に入って、樹々の色が窓にはえて、車もまた青色を帯びるかのようだ。児島湾のほ とりから船にのれば、帆に風は満ちて夏なおすがすがしさを感ずる。かくて、汽笛がようやく高松に近づい たことを知らせ、夕暮れには可祝亭に身を寄せたのであった。︶ 近角常観氏と同宿す。 十日 晴れ。午後、興正寺派別院に開会す。仏教研究会の・王催なり。聴衆満堂、およそ千名ありと称す。 十一日 晴れ。午前、県庁に出頭し、小野田知事に面会す。事務官片岡英儀氏、各郡役所へ紹介の労をとらる。 午後、大谷派寺院の発起にて公会堂において演説す。千名以上の聴衆あり。 十二日 晴れ。午前、香川郡鷺田村︿現在香川県高松市﹀妙楽寺にて開会し、午後、高松市高等女学校に出演す。 221女学校の方は教育部会の主催なり。高松滞在中拙吟、左のごとし。 可祝楼中聴雨眠、電灯射眼夢難円、海風暗送火輪響、終夜疑身在汽船、 ︵宿とする可祝楼で雨の音をきいて眠りについたのだが、電灯の光がまぶたを通して、夢さえも途切れがち となる。海の風が暗やみのなか発電所の輪転の響きを伝え、一晩中、この身は汽船にあるかと思われた。︶ 深更に至れば発電所の輪響、枕頭に達す。故にこれを詩中に入るる。高松は蚊の名所なりとて、昼夜ともに蚊 に攻めらる。故に﹁蚊川なる多蚊松町の蚊祝楼、蚊に攻めらるxも道理なりけり﹂と戯れたり。 十三日 晴れ。大川郡志度町︿現在香川県大川郡志度町﹀に移りて開会す。会場は慈性院にして、主催は東林寺、 真覚寺等、各宗寺院なり。志度晩望の一絶あり。 志度湾頭泊客楼、晩風醸雨颯如秋、隔姻相対碧波上、山影蒼然小豆洲、 ︵志度湾のほとりにたつ旅館に泊まる。ひぐれの風は雨をふくんで、さっとばかりに吹いて秋を思わせる。 かすみをへだてて、青々とした波に向かってみれば、青く見える山の姿は小豆島なのである。︶ 十四日 雨。志度寺に詣して三本松町︿現在香川県大川郡大内町﹀に移る。会場は大川中学校にして、主催は蓮生 親善、楠正夫、大岡伐等の諸氏とす。校長は川又万氏にして旧知なり。途中、津田琴林を一過す。ときに朝雨濠々 たり。 夜来雷雨未全晴、浦上無風雲尚横、行尽松林深処路、不聞琴韻只潮声、 ︵昨夜からの雷雨がまだはれあがったわけではなく、浦のほとりには風もなく、雲がなお横ざまに残ってい る。松林の奥深い道を行きつくせば、琴林の名のような琴の音は聞こえず、ただうしおの音がするばかりで 222
南船北馬集 第一編 あった。︶ 宿所は三好屋なりと聞きて、﹁酒もよし魚もまたよし飯もよし合せて見れば三吉なりけり﹂と書し、これを楼主 に贈る。 十五日︵日曜︶ 晴れ。田面嶺を越えて長尾村︵現在香川県大川郡長尾町﹀に着す。会場は西善寺にして、主催は佐々 木浄秀、同浄入二氏なり。 田面嶺頭樹色蒼、松風払挟夏猶涼、江山欲訪曾遊跡、下嶺尋来長尾郷、 ︵田面嶺のあたり樹々の色も青々として、挟を払うように吹く松風は、夏なのに涼しさをもたらす。江山に かつて来遊した跡をたずねようと思い、嶺を下って長尾の里をおとずれたのである。︶ 長尾は今より十六年前に来遊せし所なり。 十六日 晴れ。木田郡氷上村︿現在香川県木田郡三木町﹀常光寺において開会す。住職生駒浄秀氏は哲学館出身な り。故に﹁平木村南小径通、梵宮高聾茂林中、有僧浄秀是吾友、言動自存君子風﹂︵平木村の南に小道がとおり、 寺院が茂る林の中に高くそびえたっている。僧の生駒浄秀氏はわが友であるが、言葉や動作にはおのずから君子 の風格がそなわっている。︶の一首を賦してこれに贈る。 十七日 晴れ。池戸村︿現在香川県木田郡三木町﹀西徳寺に移りて開会す。木田郡教育会の発起なり。郡長石塚昇 氏は数年前、修身教会と同主義の講話会を郡内に設置せられしという。西徳寺住職は楠正朝氏なり。 十八日 晴れ。香川郡仏生山町く現在香川県綾歌郡高松市∨高徳寺に移りて開会す。真宗和順会の発起なり。夜間 は円光寺に出演す。町内有志の依頼に応ずるなり。 223
野外風光夏已央、秩田如海望 々、法苗欲植何辺好、尋到仏生山下郷、 ︵野外の風光はすでに夏もなかばのようすをみせ、苗の植えられた田は海のようにひろびうとしているのが 望まれる。仏法の苗を植えようとすればどのあたりがよいのであろうかと思い、仏生山町近辺の村をたずね て来たのである。︶ 十九日 晴れ。綾歌郡山田村︿現在香川県綾歌郡綾上町﹀本念寺において開会す。住職および村長の主催なり。山 路険悪、腕車顛覆せんとすること数次に及ぶ。 二十日 晴れ。香川郡中笠居村︿現在香川県高松市﹀香西常善寺において開会す。真宗寺院六力寺の発起なり。宿 寺の後庭、眺望大いによし。 香西蘭若対芝轡、堂後海開堪椅欄、碧浪白帆看不尽、一湾風月在軒端、 ︵香西の寺院は芝轡に向かってたち、堂宇の背後には海がひらけ、欄干によって眺めるのによい。青々とし た波に白い帆のある風景は見尽くせないほどであり、この湾の風月はすべてこの軒ばたにあるといえよう。︶ 二十一日 晴れ。丸亀市︿現在香川県丸亀市﹀中学校において開会す。同市教育部会の主催にかかる。校長兼会長 は板垣政一氏なり。この日、暑気最も強し。宿所は善竜寺なり。 二十二日︵日曜︶ 晴れ。正玄寺にて開会す。各宗同好会の主催なり。三原俊栄氏、長谷任純氏、吉村善吉氏、 香川弥兵衛氏等、大いに尽力せらる。 二十三日 晴れ。同所開会。当夕、茶話会あり。出席者八十名、いずれも市内の紳士なり。丸亀滞在中の所作、 左のごとし。 224
南船北馬集 第一編 嘲臥声中日欲傾、城頭風死暑如烹、浴余更尽三杯酒、漸覚満襟涼味生、 ︵剛弧︹ラッパ︺の声の響くうちに日も傾こうとし、丸亀城のあたりは風もなく、煮えるような暑さがある。 入浴してから更に幾杯かの酒をくみ、ようやく襟もとに涼しさを覚えたものである。︶ 三原善照氏︵俊栄氏父︶の学徳ともに高きを聞き、﹁善照上人在、丸亀建法瞳、春秋七十二、学徳共無双﹂︵善 照上人なる人あり、この丸亀に仏法のはたを建つ。よわい七十二、学徳ともに高く、ならぶものなし。︶の四句を 書して贈る。哲学館出身河野善次郎氏の満韓旅行を聞き、﹁学生相伴向他郷、欲訪満洲古戦場、西出馬関君自愛、 山雲海霧路 々﹂︵学生はあいともなってよその土地にむかい、満州の古戦場を訪ねようとする。西のかた下関を 出たならば、きみ自愛せよ、山にかかる雲、海をおおう霧、そして道ははるかなのだから。︶を賦して送別の辞と なす。 二十四日 晴れ。綾歌郡坂出町︿現在香川県坂出市﹀教専寺に移る。住職今里遊玄氏の主催にて開会す。宿寺にあ りて昼間は蝉吟、夜間は蛙鳴の耳朶に触るるを聞き、﹁昼は蝉夜は蛙の声までも南無阿弥陀仏の御法なりけり﹂の 句を壁上に題す。 二十五日 晴れ。同所にて開会し、左の一絶を賦す。 村臨湾口寺依山、今里先生在此関、満院清風涼味足、蝉声入夢午眠閑、 ︵村は湾に臨み、寺は山に建つ。今里先生はここに住まわれる。寺院には清らかな風が満ちてすずしさにあ ふれ、蝉の声が夢のなかに入りこむような午睡ものどかである。︶ 25 二十六日 雨。坂出を発して仲多度郡琴平町︿現在香川県仲多度郡琴平町﹀に移る。途上、一作あり。 2