唐代 の「夜市」
漢文学教室 塩 序 宋 。孟元老の『東京夢華録』巻二「州橋夜市」の條 を始め として,『東京夢華録』 には更 に三例, 『都城紀勝』に二例,『西湖老人繁勝録』に二例,『夢梁録』│こ六例等(°と,宋
代 の都市記録類 には「夜 市」(夜中 店 を開 けている商店)と
いう言葉が頻 出する。 これは,宋
代 に入 って商業都市が急速 に 発達 した ことを物語 る一つの現象 といえるものであ る。所が,唐
代では市制及 び坊制の厳格 な遵守 によって,市
民の夜間の外出は禁上 されていた。中唐以降,市
制及 び坊制が崩壊 しは じめると,こ
の夜間営業の商店が出現 し,その ことが唐代商業の発展 をもうながす ことに もなった と考 えられる。 従来,こ
の「夜市Jについては,い
くつかの論考が発表 され甲 中唐頃 まで資料 的 に遡 ることに異議 はない。 しか し,具
体的にそれが どの地方で,又
中唐の何年頃現われ始 めたか とい うことについて の論究 はなされていない といってよい。 この小論 は,唐
代 の文献,特
に唐詩の中に現われ る「夜市J 及び「夜市Jを
詠 った と考 えられ る詩 を中心 として,唐
代の どの地方で「夜市」が開かれていった のか を時代的に検証 してみ ようと思 うものである。 まず,唐
代 の「夜市」 その ものの考察に入 る前 に,唐
代 における市制及 び坊制 を簡単 に見 ておこ う。「市Jと呼ばれ る地域 は,い
わば商業地域であ り,例
えば以下の様 な記事がそれ を証明 している。 古 くは, 包犠氏没,神
農氏作,(中
略) 日中鳥市,各
得其所,蓋
取諸畦略。 (『易 』繋辞下) とあるように,
日中に市場が開かれた ことが うかが える。 そしてそれが唐代 になると, 貞観十年 (636)十 二月,馬
周奏,請
街置鼓,罷
偉呼。 (『唐會要』巻七十一) 先是,京
城諸街,毎
至晨暮,遣
人停呼以警衆,周
遂奏諸街置鼓,毎
繋以警衆,令
罷俸呼,時
人 便之,太
宗益加賞勢。 (『富唐書』巻七十 四,馬
周偉) とあるように,人
に偉呼 させていた ものを,馬
周が街々に鼓 を置 き,門
の開閉 を撃 って知 らせたの で,当
時の人々は大変便利 だ とした ことが記 されている。 しか し,こ
れ も景龍元年(707)│こ なると, 彦 井田 見日没の七刻(約一時間半)前0に は鉦を鳴 らして市 を散会するようにさせ,日没 と同時 に諸門が閉 じら れた ことは
,以
下の文がそれを証 している。 景龍元年(707)十一月勅,諸
非州縣之所,不
得置市,其
市営以午時撃鼓三百下摯 而衆大會,日
入前七刻,繋
鉦三百下,散 ,其
州縣領務少庇,不
欲設鉦鼓,鶏
之,車
駕行幸庇,B日船頓側立市。 (『唐會要』巻八十六,「市」) (下略) 故事,建
福・望仙等門,昏
而閉,五
更而啓,興
諸坊門同時。(『
雪唐書』巻十 四,憲
宗紀) 上記 『唐 會要』の記事 と『宙唐書』の記事の間 には,約
百年程の隔た りがあるが,憲
宗が即位 した 頃(806)までは上記の規定が基本的に守 られていた とみて間違いなかろう。 また,大
都長安 には東 市・西市 という皇城 に向って左右対称 に,広
大 な経済 区域 が存在 した。近年の発掘調査 によると, 東市 は南北約一千 メー トル,東
西九二 四メー トル,市
内の街路の幅約二十 メー トル といった広大 な もので,西
市 は東市 に比べてやや大 きく,南
北一千二十 メー トル,東
西九二七 メー トルぅしか し街 路の幅 は十六 メ=ト
ル といった長方形 を していた ことが判明 した伊 この東市・西市の内部 を井字形 に道路で区切 り,中
央 に管理機構の役所 を置 き,市
壁 に沿 って邸店 (旅館及 び倉庫)が
並 び,そ
の 内側 に商店 が置かれた と考 えられている伊 それ故,
この東西両市の市門 も「五更 に して啓」(『富唐 書』)いた と考 えられ る。勿論,こ
の東西両市のみが市民の経済生活 を支 えた訳で はな く,各
坊内に もさまざまな商店が存在 した ことは,唐
代の小説や記録類 に散見するPこ
の東西両市 については, 未の宋敏求 『長安志』巻八「東市」の条 に言 う如 く,次
の様 なものであった。 東西南北,各
六百歩,四
面各開一門,定
四面街各廣百歩,(中
略)市内貨財三百二十行,四
面立 邸,四
方珍奇,皆
所集積。(『
長安志』巻八) 市内店津,如
東市之制。(『
長安志』巻十,西
市の条) 上記の文章の内,「一門」 は「二門」 に,「二百二十行」 は「一百二十行」の表記上 の誤 りである とするもの もあるが;9い ま,そ
れはさておき,こ
の「行Jは
同業組合 (ギル ド)を
指 して言 うらし く,又
それが集中 している街 をも指 して言 うようである。 これ らは東市の肉行・ 鉄行,西
市の太衣 行・軟轡行・ 神行・絹行・愁行 。粟行 といつた ものが挙 げられ甲 天宝・貞元年間 (742∼804)に
属 す とされ る。そ して, この様 な市が恐 らく地方都市 に も存在 した ことが うかがわれ,そ
れ もかな り 厳 しい門限制度 の中での「市Jで
あった と考 えられ る。 「坊」 については『事物紀原』巻八 「坊」で触れ る如 く, 蘇鴇演義 日,坊 ,方
也,言
人所在里為方。方,正
也,又
方類也。・∵…則坊名漢有也。 とあるように,既
に漠代 よ り存在 した ことが知 られ るが,唐
代では坊の周囲に惜 がめ ぐらされ,特
殊 な地位 にある人物のみが,指
をうがって大街 に私門 を開 くことが許 された ことは,『唐會要』巻八 十六,貞
元四年 (788)二月の勅 に言われ る通 りであるよ0又
『唐律疏議』巻八 「衛禁」 の条 に,鳥取大学教育学部研究報告 人文・ 社会科学 第 39巻 第
1号
(1988) 越官府癖垣及坊市垣維者,杖
七十。侵壊者,亦
如之。疏議日,官
府者,百
司之禰。所居之庭, 皆有癖垣。坊市者,謂
京城及諸州,縣
等坊市。其癖院或垣或籠,颯
越過者,各
杖七十。 侵,謂
侵地。壊,謂
壊城及癖宇垣維。亦各同罪,故
云亦如之。 とあって,地
方の州や縣の坊市 において も,垣
を越 える者 は厳 しく罰せ られたことが判 るも 所が,中
唐 (766∼835)以
降になると,上
記の如 き「市坊」制 は崩壊 しはじめ,各
都市 に「夜市」 とよばれ る夜 間営業の商店が出現 しはじめる。例 えば,開
成五年 (840)十二月の勅 によると, 京夜市,宜
令禁断。 (『唐會要』巻八十六) とあるように,既
に開成五年頃には,長
安 において も「夜市」 と呼ばれ る夜間営業店が出現 してい た ことをこの勅 は物語 つている。当然,こ
の ような現象 は中晩唐詩人達 に とって格好 の題材 とな り 得た。かな りの数の詩人たちが,こ
の「夜市」を詩の中に詠 んでいる。次節でその具体 的な「夜市」 をみてみよう。 唐詩の中で「夜市」とい う言葉 を,最初 に詠 んだ用例 として挙 げうるものは,次の■参(715∼769)(1り の詩である。 渡口欲黄昏渡 回は黄昏な らんとし 踊人争渡喧
帰人 渡 を争 いて喧 し 近鐘清野寺
近鐘 は野寺 に清 く 遠火絡江村
遠火 は江村 に点ず 見雁思郷信
雁 を見ては郷信 を思い 聞猿積涙痕
猿 を聞 きては涙痕を積む 駅舟高里外
孤舟 万里の外 秋月不堪論
秋月 論ずるにたえず
(答
参 巴南舟中夜市) 上の詩の頷聯 (三・ 四句)は
巴南 (現在の四川省南部)地
方の,或
る渡 し場での風景 を詠 った も ので,耳
に聴 く地方の寺の鐘の音 と,目
に入 った夕暮時の定期市での赤々 と燃 える燈火 とが対 をな して,我
々 に一地方の夕暮時のにぎわいを目の当 りに描かせて くれ る。 この詩 は,『各参集校注』(1981年刊)に
附す「͡参年譜」 によると,答
参が巴南 に滞在 したの は大暦元年 (766)七月か ら四年 (769)ま での こととしているところか ら,恐
らく大暦三年か ら四 年の初め頃の作 と推定 される。『校注』本では「大暦三年 (768)七月東踊途中作Jと
指摘 している。 この詩が詠 っているのは一地方の,し
か も四川南部 の川沿 いの田舎町のにぎわいであ り,比
較的大 きな地方都市の「夜市Jで
はないし,む
しろ定期的 に開かれた市である。 まず,答
参が「夜市」 と いう言葉で描 こうとした世界 は郷村の定期市であることを確認 した上で,し
か し,後
に「夜市」 を 準備するものではなかろうか と我々に推測 させ るに足 る内容 をも包摂 していることに注 目したい。 次の詩 は,ま
ぎれ もない八世紀末の「夜市」 を詠 った ものである。Elt檄湖上遊 連橋月中泊 沿溜入闇門 千燈夜市喧 喜逢邦舎伴 達語問郷園 檄 を並べて湖上 に遊び 橋 を連ねて月中に泊る !稽 iこ
沿って
FEl門に入れば
千燈 夜市 喧 し 喜 びて逢 う郊舎の伴 逸 かに語 り郷園を問 う (慮綸 送吉中学校書踊楚州奮山) この詩 は,大
暦十才子の一人鷹給が,友
人吉中写が楚州 に帰 るのを見送 った時の詩である。王達 津『唐詩叢考』(1986年刊)中
の「慮綸生平系詩」 によれば,上
元元年 (760)鷹綸二十二歳の時, 吉中写 と唱和 した作品が存在 したであろうとした上 で,貞
元四年 (788)に吉中写が亡 くなった こと を記す。つ まり,上
記鷹綸の詩の製作年代 をいつ と決 めることは難 しいが,王
達津の説 によるな ら ば,760年
か ら788年 の間に作 られた こととな り,恐
ら く大暦年間 (766∼779)と
見て まず間違 いな いだろう。 とすれば,楚
州 (現在の清江市附近)で
は大暦年間頃には「夜市」が にぎやかに開かれ ていた と言 えよう。 そのにぎやかなさまは,上
記の詩の最後の旬「邊かに語 る」 とい う語 に もよ く 現われていて,我
々が浸々経験する夜店の喧騒の中に,見
知 った人の顔 を認 めた時,人
々の肩越 し に大声で近況 を訊ね るさまを思い起 させ る。 張籍 (767∼829)も
「夜市」 を詠 った詩人である。最初の詩 は象州 (現在の象州市附近)の
,も
う一首 は鎮南海 (現在の広州市)で
の「夜市」 を詠 った ものである。 行路雨修修 青山蓋海頭 天涯人去遠 嶺北水空流 夜市連銅柱 巣居属象州 茶時奮相識 誰向 日南海 行路 雨 修修 青山 海の頭 に尽 く 天涯 に人去 りて遠 く 嶺北 に水空 しく流 る 夜市 銅柱 に連 な り 巣居 象州 に属す も 来 る時 は十日と本ロセゝ識 るも 誰か 日南 に向いて渉ばん 督馨喧夜市 海色浸潮墓 董角天邊月 寒開嶺上梅 共知公望重 多是隔年廻 蛮声 は夜市 に喧 しく 海色 潮台を浸す 画角 天辺の月 寒関 嶺上の梅 共 に知 る公望の重 きを 多 くはこれ隔年 に廻 るを (張籍 送 南客) 送鄭 尚書出鎮南海) 「送南客J詩
はその製作 り823年の作 とする。又 (張籍 羅聯添「張籍年譜」(『大陸雑誌』第二十五巻第 四期∼第六期)に
よると, 年代 を記 さないが,「送鄭尚書出鎮南海」詩 については,彼
五十八歳,つ
ま鳥取大学教育学部研究報告 人文 。社会科学 第39巻 第
1号
(1988) 韓愈の詩にも「送鄭尚書赴南海」があ り,宋
・ 呂大防編 「韓吏部文公年譜」及び閲名編 「昌黎先生 年譜」共に,そ
れ を長慶三年 (823)の作 としている所か らも,こ
の詩 は823年に長安 で作 られた詩 と確認することがで きる。張籍・韓愈両詩 に現われる鄭尚書 とは,鄭
権 とい う人物 で,長
慶三年四 月,嶺
南節度使 に任ぜ られた。 この詩 は鄭権が長安 を離れ るに際 し,別
れの宴 を開いた時の詩 とい うことができよう。張籍 には別 に「送鄭尚書赴廣州J詩
も存在する。 工建(?∼
?)は
,そ
の生卒年が不明の詩人 であるが,聞
一多「唐詩大系」 によれ ば,張
籍 と同 じ大暦三年 (768)か ら大和四年 (830?)と し,又
近人評優学の「王建行年考」(西南師範学院学報,1983-4)で
は大暦元年 (766)から大和六年 (832)よ りも後であろうとするが,い
ずれに して も 九世紀前半 まで生 きた詩人 とい うことがで きよう。 その工建 にも次の様 な詩がある。 三軍江口擁雙た三軍の江 口 双たを擁 し 虎帳長開 自教兵
虎帳長へに開 き 自ら兵 を教 う 機鎖悪徒狂寇蓋
機 は悪徒 を鎖 し 狂寇尽 き 恩願老特壮心生
恩 は老脂を駆 って 壮心生ぜ しむ 水門向晩茶商岡
水門 は晩 に向って 茶商岡わい 橋市通管酒客行
橋市 は管 を通 して 酒客行 く 秋 日梁王池閣好
秋 日 梁工 池閣好 く 新歌散入管絃彗
新歌散入す 管絃 の声 (王建 寄沐州令狐相) この詩 は汗州
,つ
ま り現在の開封附近の「夜市」 を詠 った もので,後
半の四旬 にそのにぎわいの さま (夕晩4時
の茶商のにぎわい o夜 中酒客の行 き交 うさま 。どこか らともな く聞 え くる管絃の音 等)が
あます所 な く描かれている。 この詩 もいつ製作 されたかは不明であるが,長
田氏「王建詩伝 繋年筆記」りによれば,王
建 が秘書丞 になったのは長慶元年(821)前後 と推定 され,汗
州へ行 き,揚
州に足 を延ば したのは,秘
書丞か ら太常寺丞 となった以後 とされていることか ら判断 して,少
くと も彼の晩年 に近 い頃ではないか と考 えら'れる。前掲「王建行年考」によれば,こ
の詩 は826年,王
建 61歳の時の作 とす る。 とすれば,820∼
830年頃には汗州で も「夜市」がかな りのにぎわいを見せて いた と言えるだろう。 唐代 は水陸交通が特 に発達 した時代であるが,中
晩唐期 になると社会情勢の変化 に伴 い,人
々の 往来 も頻繁 とな り,特
に科挙 を受験するために都 。長安へ は勿論のこと,各
地方都市へ出向 く機会 が多かった知識人層 は,旅
行 と共 に親友 を訪ね るという機会 をも多 く持 った。或 る調査 によれば, 全国の駅 (宿場)は1639ケ所,そ
の内,陸
路 に設 けられた駅 は1297ケ所,水
路の駅 は260ケ所,水
陸 両方 を兼ねた駅86ケ所。°と,そこを往来する知識人 に とって,宿場町のにぎわいや「夜市」は,詩
を作 る格好の題材 とな り得 た と考 えられる。当然,こ
れ らの宿場町や渡 し場 を中心 に,比
較的大 きな都 市へ と発展 していったであろうし,盛
り場が設 けられ,そ
こに集 う人々のにぎわいの中に,長
安で はまだ見 られなかった「夜市Jを
,詩
人たちは一種 の解放感 と共 に興味深 く見たであろうことは想 像 に難 くない。例 えば,社
牧 (803∼853)の
有名 な詩「秦淮に泊す」か らもその ことをうかが うこ とがで きる。 この詩の製作年代 をいつと決めることは難 しいが,膠
絨 『社牧詩選』 に附す「杜牧行 年簡譜Jによれば,大
和八年 (834)牧 二十一歳 の時;10淮南節度府学書記 となった とされている所 か ら推測 して,恐
らくこの頃の作 と看倣 して も大差 なかろう。煙籠寒水月籠沙
煙 は寒水 を籠 め 月は沙 を籠 む 夜泊秦淮近酒家
夜 秦淮に泊す るに酒家 に近 し 商女不知亡 國恨
商女 は知 らず 亡国の恨 を 隔江猶唱後庭花
江 を隔てて猶お唱 う後庭花
(杜
牧 泊秦准) 次の李紳 (772∼846)の
詩 も「夜市」 を詠 うものであるが,そ
の詩題か らも判明す るように,揚
州の「夜市」を詠 うものである。ヽ考萱の「李紳年譜」では,彼
の生卒年 を大暦七年 (772)から乾 符二年 (846)と していて,° この詩 自体の製作年代 は不明なが ら,九
世紀前半 には揚州で も「夜市」 が開かれ,地
方都市 として急速 な発展 をとげていたであろうことは容易に想像 され る所 である。 江横渡闊姻波晩江横 たわ り渡闊 く 姻波の晩 潮過金陵落葉秋
潮 は金陵 を過 ぐ 落葉の秋 瞭III塞鴻経楚澤
瞭唄た り塞鴻 楚沢 を経 湊深紅樹見揚州
浅深の紅樹 揚州に見 ゆ 夜橋燈火連星漢
夜橋 の燈火 星漢 に連 な リ
ー 水郭帆橋近斗牛
水郭の帆僣 斗牛 に近 し 今 日市朝風俗愛
今 日の市朝 風俗変 り 不須開日間迷櫻
口を開 くを須たず 迷楼 を問 う
(李
紳 宿揚州) 又同 じ揚州の「夜市」 を詠 った王建の詩 も,そ
の頃の作 とみてまず間違 いない ものであるよ0 夜市千燈照碧雲夜市の千燈 碧雲 を照 らし 高櫻紅袖客紛紛
高楼の紅袖 客紛紛 如今不似時平 日
如今 は似ず 時平の 日 猶 自笙歌微暁聞
猶自 笙歌 微かに暁 に聞 くを
(王
建 夜看揚州市) この揚州 は,当
時かな り繁盛 した都市 として,他
の詩人 にも次のように詠われてい る。 十里長街市井連十里の長街 市井連 な り 月明橋上看神仙
月明 る く 橋上 に神仙 を看 る 人生只合揚州死
人生 は只だ合 に揚州 にて死すべ し 押智山光好暮田
禅智の山光 暮田に好 し
(張
枯 縦遊淮南) 晩唐の詩人・ 李商隠 (813∼ 858)│こ も「夜市Jを
詠 う詩が存在する。 楚絲微覺竹枝高楚絲 微かに覚ゆ 筆枝高 く 半曲新鮮痛縣紙
半曲の新辞 縣紙 に写 く 巴西夜市紅守宮
巴西の夜市 紅守宮 後房踏菅斑斑紅
後房の点菅 斑斑紅
提南 渇雁 自飛 久 置 花一夜 吹西風 鳥取大学教育学部研究報告 人文・ 社会科学 第 39巻 第
1号
(1988) 隧南の渇雁 自ら飛ぶ こと久 しく 直花 一夜 西風 に吹かる 君 姑蘇 に到 りて見れば 人家 尽 く河 を枕 とす 古家 には閲地少な く 水港 には小橋多 し 夜市 には菱 。霜 を売 り 春船 には綺 。羅 を載す 遥かに知 る 未だ月に眠 らざるも 郷思 は漁歌 にあ りと 越 を去 り呉 よ り過 ぎれば 呉の彊は越 と連 なる 園には多 く橘 を種 うる有 り 水 には蓮の生ぜざるは無 し 夜市 橋辺の火 春風 寺外の船 此中に偏重の客 君去れば必ず年 を経ん (李商 隠 河 陽詩) 張采田『玉鉛生年譜會箋』によると,こ
の詩 は開成五年 (840),李商隠二十九歳 の時の作 とする。 とすれば,巴
西 (四州省西部)の
「夜市」 もこの頃盛 んであった ことが うかが える。 そ して,こ
の 頃になると長安 で も「夜市」 を禁ず勅が出ていることは既 に見た。 しか し地方の比較 的大 きな都市 におては,む
しろ暗々裏 に認 められていった らしい。以下の詩 は,蘇
州や杭州 といった,産
物の集 積する都市の「夜市」 を詠 った ものである。 社荀鶴 (846∼907)の
生涯 については,現
在 で もなお不明な点が多 く,従
って上記の二詩 も何年 に製作 されたか を決定 することは困難である。ただ,最近の研究住りによれば,三
十歳位 まで長安 にい たものの,そ
れ以後 は福建・江西 。江蘇・浙江等の地方 を渡 り歩いた らしく,そ
の頃の作 とみるな らば,少
な くとも876年以降の詩 ということになろうか。 更 に他の晩唐詩人・羅隠 (833∼909)・霙[谷 (842∼910?)と
いった詩人 によって も,以
下 の よう な地方都市の「夜市」が詠われている。 君 到姑蘇 見 人 家蓋枕 河 古 宮問地少 水港小橋 多 夜 市 賣菱鶏 春 船 載綺羅 邊知 未眠 月 郷 思在 漁歌 去越 徒呉過 呉 彊輿越連 有 園多種 橘 無 水 不生 蓮 夜 市橋 邊火 春風 寺外船 此 中偏重客 君去必 経年 冷煙種浩傍衰叢 此夕秦准駐断蓬 棲雁遠驚浩酒火 伺[鴨高避落帆風 冷煙 軽浩 衰叢 に傍 い 此の夕 秦淮 断蓬 に駐す 棲雁 は遠 く浩酒の火 に驚 ろき 乱為 は高 く落帆の風 を避 く (杜荀 鶴 送人 沸呉) (杜荀鶴 送友遊呉越) (羅隠 金陵夜泊)江春鋪網 闊 市 晩 輩疏遅 子美猶 如此 翻然不 敢 悲 江 春 に して網 を鋪 ね て闊 く 市 晩 るる も疏 を輩 ぎて遅 し 子 美 は猶 お此 くの如 き も 翻 然 として敢 えて悲 しまず 夜船 は草 市 に帰 り 春歩 茶 山 に上 る 案将来 りて相 い問 う も 児童 は競 いて関 を啓 く (鄭谷 峡中寓止二首・ 其―) (間 丘暁 夜 渡 江) (杜牧 旬) (張籍 江 南 行) 夜船 踊草市 春歩上 茶 山 兵 脂 茶相 問 児 童競 啓開 (鄭谷 峡中寓止二首・ 其二) いずれの詩 も880∼890年頃(1°の地方都市の「夜市Jの 様子 を詠 った ものであ り,この頃 には逆 に長 安での「夜市
Jが ,各
地方都市へ と波汲 していつた と考 え られ る。更 に『全唐詩』中には「夜市」 を詠 った と思われ る詩句がい くつか存在する。 いずれの詩旬 も製作年代 は不明なが ら,以
下の如 く である。 夜火 連 淮市夜 火 淮 市 に連 な り 春風 浦 客 帆
春風 客 の帆 を満 たす 春橋 垂酒 慢
春橋 に酒 の慢 垂 れ 夜 棚集 茶格
夜 概 に茶 の橋 集 う 娼 棲 雨岸 臨水
4LI
娼楼 の両岸 は水 概 に臨 み 夜 唱竹 枝 留北 客夜 竹枝 を唱 いて北 客 を留 む 以上,『全唐詩』中の詩 に拠 りつ ゝ,「夜市
Jが
詠われた時代 と地域 を見てきたが,諸
詩の例 か ら 地方の諸都市の「夜市Jは
,年
代的に最 も早 い もので大暦年間 (766∼779)の
底綸の詩であること が判明 した。又 それ以後,各
詩人の詩が八世紀後半か ら九世紀後半にかけて作詩 された ものである ことも見た。 しか も,地
図を見て も判 るように,南
方の諸都市・ 蜀 (四川)周
辺・ 江蘇・ 浙江周辺 に限 られていて,わ
ずかに汗州 (現在の開封市附近)が ,長
安・洛陽に比較的近い都市 と言 えよう。 つ まり,こ
の ことは市坊制の崩壊が,ま
ず当時の中央政権 の力の及ばない地方か ら始 まっていた こ とを側面的に示す ものである。そのことが,次
の宋代商業都市の中心 となる南方諸都市の発展 を準 備 した ことをも併せて考慮 に入れるならば,唐
代の詩人たちが詩中に「夜市Jを詠み こんだ ことは, はからず も「夜市Jが
宋代商業都市へ と展開 していつた一 つの側面の証明 となっていた と言 えよう。 「夜市Jは
従来言われてきたように,漠
然 と「中唐Jと
い う時代 に現われたのではな く,盛
唐 の末期。
中唐初期にまで遡ることができ
,9又それは主として南方や蜀の地方都市から徐々に中央
(長安・
洛陽)へ
と波及 してい った様 子 をみた。 その こ とは上 述 の唐詩人 の詩 に よって明確 にな り得 た と思 われ る。鳥取大学教育学部研究報告 人文 ,社会科学 第39巻 第
1号
(1983) 唐代元和方鏡図 0 汗 州 o楚州 秦州 0 洛場 F 易 〃 雰 統影
不
レ
亀
塚
『中国歴史地図集』第五冊よう作成τ
註 (1)『東京夢華録夢梁録等語彙索引割(梅原郁編 京都大学人文科学研究所 1979年刊)による。 り
)加
藤繁『支那経済史考証』上巻「宋代 にお ける都市 の発達 についてJ,佐藤武敏 『長安』Ⅲ「唐の長安」脩)市 場の開閉の規定,国野開二郎『唐代邸店の研究』四,Vlの「参考 夜市」,張令呂「唐代的夜市」(『中華文史論 叢』1983年第一輯)等。 13)計算によれば,正確 には一時間四十分四十八秒前 とい うことになるが,一刻 を十 四分二十 四秒 としての計算 である。或 いは思 い違 いが あるか も知れぬ。 この点 に関 してご教示 を乞 う。 μ)F唐
會要』は「二百Jとす るが,『大唐六典』巻之二十 では「凡市以 日年,撃鼓三百群,而衆以 會,日入前七 刻,繋鉦三百群,而衆以散」 とあ り,いずれ とも決 めかね るが,或いは「三百Jの方が妥 当か も知れ ない。 (働 「唐代長安城考古記略」(『考古』1963年■期)及び「唐長安城西市遺址発掘J(『考古』 1961年5期)等。(0
佐藤武敏 『長安』HI「唐 の長安J長安の邸店,日野開二郎 『唐代邸店の研究』四「州県城 邑の邸店」H城市 の内部構成 と邸店癖鋪等。 (71 金銀珠玉 を売 る店 につ いては『太平廣記』巻八十四「王居士Jの条。畢羅店 については『太平廣記』巻二七 八「園子監明経Jの条。繕 を販売する店 については『太平廣記』巻四八六「無 雙偉』の条。胡餅店 について は『任氏侮』,練細鋪 については『北里志』王園兄の条,革劉菖果 の類 を売 る店 については『北里志』張往往 の条等 を参照の こと。詳 しくは妹尾達彦「唐代長安 の盛 り場」(上)(『史流』第27号,1986年 3月,北海道教 育大学史学会)。 18)加藤繁『支那経済史考証』上巻「宋代 にお ける都市 の発達 についてJ。 ⑬)佐
藤武敏 『長安』HI「唐の長安J長安の行,妹尾達彦 「唐代長安 の盛 り場」(上)等。tO
貞元四年二月勅,京城 内荘宅使界諸街坊倍,有破壊,宣令取雨税錢和雇工匠修築,不得科敷民戸。又大和五 年七月左右巡使 の上奏文 に も,非三品己上,及坊内三絶,不会朝 向街開門 とある。 Cり 聞一多「春嘉州繁年考証J(『聞一多全集』丙集)では,彼の生卒年 を715∼770と す るが,近
人陳鐵・ 侯忠義 校注の『答参集校注』(上海古籍出版社・1981年刊)に附する年譜では715∼769と す るので,今それ に従 う。 CD 神戸外大論叢12巻3号・1961年。CD
陳正祥『詩的地理』(商務印書館 。1978年刊)参照。 Cり 倉石武四郎「杜焚川年譜」(『支那學』第3巻第11号。1925年)でも,杜牧三十一歳の時 とす るが,年
号 は大 和七年の こととす る。10
『中国歴代年譜見録』(書目文献出版社・1980年刊)の李紳の条 による。 なお,姜亮夫 『歴代名人年里碑俸紹 表』では?∼846と し,呉海林・ 李延浦編 『中国歴史人物生卒年表』 では780∼ 846とする。10
謂優學「工建行年考」及 び長 田夏樹 「王建詩伝 繋年筆記J参照。1,
『中国歴代著名文学家評伝』第二巻 〈隋唐五代〉(山東教育 出版社 。1983年刊)中の「社荀鶴」 の条 に よる。10
羅隠の詩 は,彼が錢鯵 と会 い(887年頃),錢修 が鎮海軍 を抗州 に従 した(898年)間の作詩 と考 え られ,鄭谷 の詩 は王達津 『唐詩叢考』中の「鄭谷生平系詩Jに よれば,景福二年 (893)の作 とする。10
『唐代邸店 の研究』四・ Ⅶ参考の「夜市Jでは,日野氏 は加藤 繁説 を批判 して,国初か ら「夜市Jが
開かれ ていた と推察 されてい るが,まず,そこに挙が る例文 の内,全唐詩中の詩例 はほぼ本論 で とり挙 げた もので あ り,又小説の『任氏俸習 は,作者沈既済が代宗 (762∼ 779在位)朝か ら徳宗 (780∼840在 位)朝に活躍 し た人物 である こと。『続玄怪録』 は,作者李諒 (復言)が開成五年 (840)の進士 であることが明 らかに され (程千帆 『唐代進士行巻興文學』85頁),従来の貞元十六年 (800)の進士だ とす る説 (銭大tth『十 駕齊養新 録』巻二十,李諒)と大 きくくい違 っている。が貞元十六年説 をふ まえた として も,大暦十才子が活躍 した 大暦年間 (766∼779)よ りも後 とい うことにな る。『唐語林』に出ている工式 は『登科考記』によれば,大和 三年 (828)の進士であ り,『酉陽雑俎』の引用記事 はその年代 を定 め難 い。 日野氏 は「夜市 は夜間営業 であ って も,夜間営業即夜市 であったのではない。市 は舗 の集 つた所 を指すが,一個 の舗 を市 とはいわないので あ るか ら,夜市 は夜間営業の舗店が多数集 つている所 でなければな らぬ」(584頁)と言われ るが,坊
内で多 くの店が夜間営業 をして始 めて夜市 と言 えるのであって,上 記の単独の夜間営業の記事が,その証明 にな らぬ鳥取大学教育学部研究報告 人文 .社会科学 第39巻 第