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004139 医用画像‐27‐3/★追悼文‐27‐3‐0 松本様

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[追悼文特集号]

故 内田

勝先生の追悼文特集号の刊行にあたって

昨年の 12 月 13 日にご逝去されました本学会創設者の名誉会長の内田 勝先生を偲んで,この度,医用画 像情報学会では,「故 内田 勝先生との画像研究での思い出」というタイトルの特集号を企画することにな り,下記の各先生方に追悼文を執筆していただきましたので,ご紹介いたします.内田 勝先生のご冥福を 心よりお祈り申し上げます. 追悼文のタイトル 1.内田先生の業績………名誉顧問 長谷川 伸,名誉会員 津田 元久 vii 2.内田 勝先生を偲んで………元大阪市大病院 畑川 政勝 x 3.故 内田 勝先生との画像研究での思い出 ………中央医療技術専門学校 稲津 博 xii 4.故 内田 勝先生との出会いと想い出 ………元山口大学病院 大塚 昭義 xiv 5.内田 勝先生−私にとって最初の放射線画像研究指導者−………元九州大学 東田 善治 xvii 6.内田 勝先生との思い出 宮崎,そして岐阜へ………名古屋大学 小寺 吉衞 xx 7.放射線画像研究への導き−故 内田 勝先生を偲んで− ………岐阜大学 藤田 広志 xxii 8.故 内田 勝先生との画像研究での思い出 ………新潟大学 蔡 篤儀 xxvii 9.内田先生を偲んで………熊本大学 桂川 茂彦 xxix 10.出会いと言葉 ………浜松大学 小島 克之 xxxi 11.内田先生の思い出 ………県立広島大学 滝川 厚 xxxii 医用画像情報学会編集委員長 松本 政雄

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[追悼文特集号]

内田先生の業績

内田先生は大学の教職にご在任の長い期間,医用 X 線像に関して多くの研究をされました.このうち初 期の 1950∼69 年に亙る大阪大学医学部付属技師学校(のち短期大学)時代には X 線撮影系と画質に関する 研究に若い情熱を傾けて努力され,その研究成果は本学会創設(1964 年,当時は放射線イメージインフォー メーション研究会:RII 研究会)の原動力となり,その内容は学位論文となり医学診断の質的向上に貢献し ました. 当時の先生の研究成果は創設直後の RII 研究会に多く発表され,後年に研究会活動を整理出版した「放射 線像の研究」2 冊[1, 2]から知ることができます.先生のこの時期の研究の一部は金森先生[3],山下先生[4] による本誌の回想録に紹介されていますが,ここでは我々が当時の先生の活動を知り,学会創立や運営を手 伝った立場から,上記「放射線像の研究」に基づいて大阪大学ご在職時代の業績を紹介し,先生へのはなむ けにしたいと考えます. 内田先生は大阪大学付属短大で電気電子系の講義を担当される傍ら,早くから X 線画像の質を問題とさ れ,研究されました.その最中の 1953 年,P.Elias によりフーリエ変換を利用し,光学結像系のボケの性質 を空間周波数フィルタの伝達特性(OTF)の形で表して評価する手法が発表され[5],これを受けて学会の 光学部門はレンズやフィルムなどの OTF 実測の研究発表で盛り上がり,更に画像の光学フーリエ変換・光 学画像処理へと発展しました. 内田先生は早速この手法の効果に気付かれ,X 線像の解析評価にそれを導入されました.なお空間周波数 伝達特性を表す用語は当初は国際的に名称が統一されず,1962 年開催の国際光学会議(ICO)で「OTF」が 正式用語とされた後も,わが国では以前から使われていた「レスポンス関数」が使われました. 以下,最大情報量の研究,放射線測定系の研究はじめ,内田先生が大阪大学ご在職当時 RII 研究会で発表 された X 線撮影系に関する研究の概要を示します.以下(I-m),(M-n)と記した項目はそれぞれ「最大情 報量撮影第 m 報」,「放射線測定系のフーリエ解析第 n 報」として研究会に発表されたものですが,当初か らの欠番も多数あります. (1)最大情報量撮影(I-1, I-4) 内部に吸収係数の異なる物質を含む物体の X 線写真について,どんな波長分布の X 線を使用して撮影し た場合,写真から得られる情報の量が最大になるかを理論的に求め,実験的に確かめた.この「情報量」の 定量化は RII 研究会の第 1 回研究会(1964 年 3 月)で発表されているが,同じ内容は既に 1959 年に本人に より別の場で発表されている[2].なおこの情報量は当時電気通信分野でデジタル時代の幕開けとして大き な関心を呼んだ Shannon の情報理論で扱う情報量(ビットの概念)とは定義が異なる.

(2)X 線管焦点の OTF(I-3, I-5, I-7)

X線管の焦点位置で X 線強度分布を測定し,そのフーリエ変換により OTF を求めた.撮影倍率を考慮し て座標を感光面の座標に正規化し,管電圧・管電流を変えて実験し,得た多くのデータが示された.また正 弦波状に X 線吸収率が変化するパターンは実現困難のため,X 線吸収体の移動と曝射時間の変調を併用し

名誉顧問 長谷川 伸 名誉会員 津田 元久

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て擬似的な正弦波バターンを作り,これを用いて OTF の直接測定も行われた.更に OTF が負になる空間周 波数領域では偽解像を生ずることが実験で確認された. (3)ファントムによる X 線像の解析(I-9) X線によって物体内の異物を撮影して得る像は,異物周辺の物質を通る X 線が発生する散乱線の影響を 受ける.本研究では人体のファントムとして水とアクリルを用い,これに X 線のシートビームを通して撮 影し,ファントムで発生する散乱線が X 線像に及ぼす影響を種々の条件のもとで調べた. (4)現像効果の OTF(I-8) 露光したフィルムを現像する際に現像液が静止していると,露光量が多い部分では化学反応が進み局部的 に現像液が疲労して反応速度が低下するが,露光した面積が小さければ速度低下の効果は小さい.そのため 同じ照度の光に感光し同じ時間で現像しても,最終的に得られる像の黒化度は明部・暗部の面積の違いによ り異なる.本研究ではこのような現像の面積依存性が現像効果の OTF として測定された. (5)断層撮影のボケのフーリエ解析(I-13∼I-17) 静止被写体を挟んで線源と感材を配置し,両者を反対方向に所定の運動をさせる方式の断層撮影では,被 写体の狙った面の X 線透過情報は感材の定位置に明確に記録されるが,周辺の情報は狙った面からの距離 に応じてボケて撮影される.このボケが OTF の形で測定された. (6)高速連続撮影装置の OTF(I-21) 循環器系の診断に使用される高速連続撮影装置にはカセッテ方式とフィルム方式とがある.それぞれについ て,X 線シートビームに対する像の広がりを実測し,その結果をフーリエ変換することにより OTF を求めた. (7)60Co Radiography 系の空間周波数特性(I-23) 表題の放射線像は線源のサイズがかなり大きいので本質的なボケが伴い,治療のための照準に主に使われ る.本研究では当該装置に試作コリメータを組み込んでビームを絞り,得られた像の性質から系の OTF を 求め,像を診断に使用するための問題点を明らかにした. (8)同時二方向撮影の検討 人体に X 線を照射すると周辺の全ての方向に散乱線が発生するため,同時に 2 方向から X 線を照射して 立体情報を得ようとすると,片方で発生した散乱線が他方の X 線像に重畳して妨害を与える.種々の条件 のもとでそのデータを測定した. (9)放射線測定系のフーリエ解析(M-1, M-3, M-5) 電離槽型線量計のボケの空間周波数特性を測定した.スリットにより感度分布を求めフーリエ変換する方 法と,連続矩形波状の X 線吸収率を持つパターンを用いる方法で結果を比べた. また X 線の空間周波数によっては測定値が逆転する偽解像の現象が起こることを確認した. (10)空中線量測定における電離槽型線量計のレスポンス関数(M-2) 電離槽型線量計について,種々の仮定をおいてその感度分布を検討した.これを基に空中線量や深部線量 を測定する時の散乱線などの影響を検討し,ボケの空間周波数特性を計算した. またスリットにより感度分布を求めフーリエ変換する方法と,連続矩形波状の X 線吸収率を持つパター ンを用いる方法で実測し,結果を比べた.さらに X 線の空間周波数によっては測定値の山と谷が逆転する 偽解像状の現象が起こることを確認した. これらの研究成果は今日も X 線撮影現場で生かされている基礎的で重要なものであり,先生はこれらの

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研究成果を応用物理学会誌,放射線技術学会誌などの論文としても多数発表されました.またこれらを纏め た論文「X 線撮影系並びに測定系の空間周波数特性による解析」を大阪大学工学部に提出され,1968 年 4 月に工学博士の学位を受けられました.1950 年代は日本が戦争の荒廃からまだ十分回復せず,研究室の設 備も不十分で,実験系研究ではご苦労も多かったことと思います. 本学会前身の RII 研究会発足にまつわる内田先生のご活躍については,金森先生[3]の回想録をご参照くだ さい.後にシカゴ大学に移り大活躍された土井先生(当時大日本塗料),北海道大学に移られた村田和美先 生(当時大工試)はじめ当該分野の専門家を集めて研究会を結成,その後は研究会を毎年 4 回開催し,その 都度事後に講演者のレジメに質疑応答を加えた「研究会記事」を速報として発行されました.筆者の一人は 会の発足から参加しましたが毎回の企画・通知・司会・「研究会記事」の編集・制作・送付など多くの仕事 を一人で担当されるのに驚きました.ご自身やお弟子さんの発表も多く,司会しながらの質問など八面六臂 の大活躍をされました.さらに研究会が小規模とはいえ庶務・会計・会員管理・会計を支える企業の対応な ど多くの作業が必要でこれを一人で担当されました. また初回から第 19 回まで 5 年間の研究会の全演題を系統立てて章・節に分け,必要な部分には解説を付 けて最新の研究情報を解りやすい解説の形で出版したのが前述の「放射線像の研究」[1, 2]で,X 線像の画 質をこれで勉強された方も多いと思います.書籍は RII 研究会発行とされ編集委員の名も書かれていますが, 実質は B 5 版合計 800 ページの図書全てを内田先生お一人で編集校正されました. 先生が宮崎大学へ教授として赴任されたのち,筆者の一人に「研究会の事務を東京で引継いで」と打診が あり,「夏休みに観光かたがた宮崎へ来ないか」と誘われて,事務の実況検分にお邪魔しました.コピー機 もワープロもなく,出張といえば夜行寝台列車に頼った時代にこれだけの仕事をされた先生に改めて脱帽し ました.事務はとても一人でできることではなく数名で分担することとし,今に至っています. このとき先生は私を歓待しながら「宮崎の病院と連携して研究組織を作りたい」と目を輝かせ,また「宮 崎大新任教授ヨット部顧問に就任」の大見出しが踊る新聞に相好を崩して「宮崎の学生には関西と違う魅力 があるが,逆も言える.全国の RII 関係の研究室の合同合宿をやれば互いに良い影響があろう.宮崎に合宿 設備を備えた自宅を建てて定年後はそこでオサンドンをやりたい…」夢とも本気とも分らない内田節と焼酎 に酔わされ,RII の重い事務を背負って東京へ帰る羽目になりました.筆者は企業から大学に移って 2 年, RIIに入会して 1 年,本来は学会事務を引き受ける余力などなかったのですが,丸め込まれたのは内田先生 の熱意とお人柄によるのでしょうか. 私の知る先生のご業績は X 線撮影系の研究成果,本学会創設と発展の実績,そして本誌に名を連ねる立 派な研究者を育てられた事.どれも先生の視点の正しさ,熱意とお人柄の生んだもの.長くご指導頂き,有 難うございました.今はゆっくりお休みください. [ 1 ] 内田 勝他編集 放射線像の研究 第 1 巻 −−レスポンス関数−− RII 研究会(1966) [ 2 ] 内田 勝他編集 放射線像の研究 第 2 巻 −−解析と評価−− RII 研究会(1968) [ 3 ] 金森仁志 医画情誌 7,2,89∼96,(1990) [ 4 ] 山下一也 医画情誌 20,3,132∼137(2003)

[ 5 ] P.Eliaf : Optics and Communication, JOSA, 43, 229∼232,(1953)

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[追悼文特集号]

内田

勝先生を偲んで

内田 勝先生,謹んでご冥福をお祈り申し上げますと共に,先生との思い出を書かせていただき追悼とさ せていただきます. 私は先生が大阪大学医学部附属診療エックス線技師学校の教務主任をされていた当時の学生です.当時技 師学校は 2 年制で,2 年卒業で国家試験を受け X 線技師免許を取得できました. 内田先生と初めてお会いしたのはエックス線技師学校の入学試験の日からで,一目見るなりとても厳しい 先生だと実感しました.そして技師学校での試験は極めて難しく,また礼儀や服装にも厳しく鬼の内田と呼 ばれることもありました.これは当時はまだ学校が各種学校だったこともあって,学生としての自覚を持た せ学問のレベルを向上させるという気持ちからでした.そして 2 年の間には電気工学を教えていただき,特 に画像関係は教えていただいていませんでしたが,当時(昭和 40 年頃)先生自身は MTF の研究をされて おられたようです. そして,技師学校に専攻科ができました.これは 2 年卒業後 1 年間の学校で,X 線以外の核医学や高エネ ルギー放射線を勉強し,まだ制定されていない放射線技師への先駆けとなる科でした.ここで,このような 放射線関係の学問を習ったわけですが,それと同時に内田先生から画像工学というものを習いました.すな わち MTF などです. これが私にとってとても興味がある学問だったのです.というのも,もともと父親の仕事の関係でカメラ やレンズが好きだったので,高校生のころからカメラのレンズテスト用のジーメンススターパターンを墨で 書いて撮影していたぐらいでした. ところが,内田先生の教え方は難しい,というか内容自体が難しい.当時は画像評価の本や MTF の本な ど無くて数学の本でフーリエ変換を理解し,パワースペクトルを理解しなければなりませんでした. そして,実習では X 線管の焦点のスリット像を撮影し MTF を計算するということも行いましたが,今の ようにパソコンはありません.それどころか電卓もありませんでした.そして内田先生から計算尺(乗算) と数表(sin, cos を引く),それに算盤(足し算)を使ってフーリエ変換をしろと教えられ,学校に行くのに 毎日この 3 種の神器を持ってゆきました.ただ学校には手回し計算機があって,ハンドルを回すと掛け算が 出来るという優れもの??ですが,これを使えばいくらか計算が速くできた訳です. このように手計算でフーリエ変換をすると,一日中計算して MTF のグラフの 1 点が求まる程度で画像工 学とは大変なものだと身をもって実感したのです. そして,忘れもしない画像工学の試験,内田先生が出した問題はただ一つ「フーリエ変換法とコントラス ト法の MTF が数学的に等しいことを証明せよ」でした.それぞれについては授業で習っていたので問題の 意味は解るのですが,それが等しくなると言う証明は習っていません.そこで,内田先生曰く,学生同士相 談してもよい,本を見てもよい,と言う条件をくれました.でも前述のように画像関係の本など無い時代で す.いたずらに時間だけが過ぎ,試験時間を延長してもらってもできませんでした.もちろん学生全員誰一 人出来なかったのです.すると内田先生,持って帰ってもよい明日提出しろ,との事で一晩中悪戦苦闘して 元大阪市立大学医学部附属病院中央放射線部 畑川 政勝

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ついに証明することができたのでした. こういう感じで内田先生から画像工学を習った訳ですが,この間 1 日だけ土井邦雄先生の特別授業を受け ることができ,内田先生とは違う切り口で MTF を説明され,なるほどと感心したことが思い出されます. そして,卒業後も内田先生の影響でしょう,すぐに MII の前身である RII に入会し,まだ何も分からない まま画像の話を聞きに行っていました. その後,私がレーザー光学系でフーリエ変換を行い,CT 画像を再構成した論文が内田先生の目に止まり, 久しぶりに岐阜大学でお目にかかることになりました.そしてエントロピーを用いた論文を内田先生の指導 で書くことになりました.これは私に学位を取らせたかったからで,結果として私が挫折してしまった訳で すが,この間に小寺吉衞先生や藤田広志先生と知り合いになれたことは内田先生のおかげであります. ここで,内田先生は,放射線技師が技師独特の学問を持つべきだと考えておられました.医学は医師が, 機械や放射線は工学や理学などの専門家がいます.では放射線技師独自の学問はというと画像工学である. 撮影,CT,核医学など画像を扱う部門での基礎は画像工学で,これこそ他の職種とは異なる技師の専門性 をアピールできる学問であるということで,技術学会の中に画像部会(現分科会)を設立され,技師や技師 以外の画像の専門家を交えて放射線技師の画像についての知識や技術の向上に努められました. その後,あまり内田先生ともお会いする機会が無かったのですが,シカゴで MII が開かれ,その帰りの 飛行機の中で内田先生より長時間にわたり,説教?され,学位を取るように説得されました.そのお陰で数 年後に博士号を頂くことが出来ましたが各種学校出の私がこのような学位を頂けたのもひとえに内田先生の おかげと感謝しております. 実は内田先生の指導でたくさんの技師が学位を取得しています.これは多くの技師が博士号を得ることが 技師の知的レベルの向上はもちろんですがその身分を社会的に高くし,社会から認めてもらえる職種にする ために必要であるとの考え方からです.学位と言う事に放射線技師はあまり関心を持たないようですが,学 位取得の難しさを知っている医師はその努力を心から理解してくれます.そしてこのことは病院内における 技師の発言力を高めることになります. その後,内田先生は岐阜大学を退官された後もお亡くなりになるまで,技師を牽引するような方々をたく さん育成され,また技師の学問体系や社会的な地位の向上に努められました. 有難うございました.ご冥福をお祈り申し上げます. 合 掌

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[追悼文特集号]

故 内田

勝先生との画像研究での思い出

昨年の師走,内田先生の奥様から,最近主人が大分弱ってきた様であるとのお電話を頂いた.そこで,年 明け早々にお見舞いに行こうと飛行機の予約をした.先生がご逝去されたとの連絡を受けたのはその数日後 のことであった.今回,医用画像情報学会で先生の追悼号発刊するので原稿を書けとのことである.改めて 振り返るとご指導を受けるばかりで,少しもお返しができなかったことが大変残念でならない思いが強く感 じられる.ここに内田先生との思い出を述べて哀悼の意を表したい. 私が内田先生と始めて出会ったのは先生が 1969 年に宮崎大学へ教授として赴任されたときである.先生 がご逝去されたと聞いたとき,最初に脳裏に浮かんだのはこのときのことである.このとき先生は突然当時 私が勤務していた県立宮崎病院にわざわざおいで下さり,画像工学の勉強をやろうではないかと勧誘された. 後で知ったことだが,このとき県立宮崎病院の技師が過去どの様なテーマで何回学会発表をしているかなど, 綿密な下調べをなさっていた.先生の熱心な指導のもと,週 2 回の勉強会が続いた.今振り返れば,この期 間に画像工学の基礎だけでなく,研究者としての心構えをたたき込まれた様に思う. 約 1 年間程度,基礎を宮崎大学工学部内田研究室の学生と共に勉強した.そんなある日のこと,先生から 実験をやってみないかとお誘いを受け,有り難いことにテーマまで与えられた.それが私の最初の論文に なった「増感紙?フィルム系における濃度の MTF」である.今見直すと文章も図も稚拙であり,良く先生 の投稿許可がもらえたものだと思う.以後,先生は理科系論文の書き方のみならず,研究者としての心構え を熱心に説いて下さった.そんなある日,先生から思いもかけない話が舞い込んだ.第 13 回,スペインの マドリッドで開催された ICR で発表してこいと云うお達しである.昔も今も英語にまったく自信のない私 にである.何度か辞退したが認めてもらえず,恥を忍んで発表したが,思いもかけずいくつかの質問があり, 津田先生にお助けいただいたことを今でも昨日のことのように思い出す.英語はさておいて,少なくとも先 生の弟子から外されることがない程度の論文が書けるようになったのはまったくもって先生のお陰だと感謝 している. 次の話はあまり知られていない話である.1995 年 6 月 4 日から 10 日まで,内田先生の長年の念願であっ た外国での研究会が土井先生を始め藤田現会長らのご努力で,MII Workshop 95 in Chicago と名付けてシカ ゴ大学で開催された.このときの講演や研究発表は MII の研究会記事に詳しく記載されている.私も会員 として同行させていただいた.一応,ツアーの形での旅行であるから,ホテルは 2 名同室である.世話人の 藤田先生のご命令で,年齢的に最も近いこともあり,内田先生との同室を命ぜられた.このときの話である. 先生はご存じの通り昔気質でどうもバスタブで外国式の入浴はお嫌いのようであった.浴槽の外でお湯を かぶらなくては風呂に入ったような気がしないそうである.そこで日本のホテルで何時もやっているように, 置いてあった洗面器にお湯を満たし勢いよくかぶられたそうである.日本のホテルであれば何の問題も起き ないのだが,ここはシカゴの一流ホテルである.バスタブの外には排水溝がないのである.結果はご想像の とおりである.この状態で私は風呂に呼ばれたのである.後は裸の先生と下着だけになった私と二人でバス タオルを使って風呂場のお湯を吸い取って部屋の中にあふれ出すのは何とか食い止め事なきを得た. 中央医療技術専門学校 稲津 博

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先生は学問や研究では非常に進歩的で素直であり.厳格で厳しかった.しかし,この厳しさにもかかわら ず私を含め,指導を受けたすべての人が師と仰いで尊敬している.あれだけ叱られてなお尊敬の念を抱ける のは先生をおいて他にないであろう.先生は普段の生活では意外なほど昔気質で頑固な一面を持ち合わせて いたように思う.いわゆる昭和の気概を感じさせる先生であった.このあたりが先生の人間的魅力の源泉で あり,先生を敬愛し,尊敬する由来の一つであると考えている. 先生が診療放射線技術学大系の執筆において考え出された放射線画像情報工学という学問分野は医用放射 線技術学として診療放射線技師教育に引き継がれていくことであろうし,引き継いでいかねばならない. 先生の最後に立ち会うことができなかった無念と不幸をお詫びしながら二つの思い出を記して,心からの 哀悼の意を表する次第である.

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[追悼文特集号]

故 内田

勝先生との出会いと想い出

内田 勝先生と初めてお目にかかったのは,確か 1977 年春の日本放射線技術学会総会のときだった.こ の総会で永年の懸案だった画像分科会の設立が決まり,内田先生が初代会長に就任された.この当時は画像 解析の研究が広がって画質に対する会員の関心が高まってきた時期であり,分科会に対する期待も大きなも のがあった.またこの年の秋には,秋季学術大会の前身にあたる秋季臨床シンポジウム大会が,山口県徳山 市で開催されることになっており,私も実行委員の一人であった.そのせいと思うが,山下先生から内田先 生のご紹介をうけた.先生のお名前とお顔は以前から存じてはいたが,お話をするのは初めてだった. 先生からは秋季シンポジウム大会にあわせて前日に勉強会を開きたいので,ぜひ協力してほしいというよ うなお話があった.早速地元の木谷猪佐夫氏(徳山医師会病院技師長,高校同級生)に相談して会場を徳山 中央病院とし,三宅技師長にお願いしてご要望に沿う会場を確保することができた.このときに内田先生は 阪大技師学校時代の木谷氏の恩師だということが分かり,一挙に協力体制ができあがった(その後木谷氏は, 先生との再会を機会に終生親しくお付き合いをさせていただいたとのことである). ところが勉強会当日ふたを開けてみると,先生が予想した 2 倍もの会員が集まり,会場は立錐の余地もな いありさまで,木谷氏や私も津田先生や金森先生の講義などまったく聴くことができなかった.内田先生か らは「私は聴いても仕方ないし,君たち二人は聴いてもどうせ分からないだろうから…」といわれて,控え 室でお茶を飲みながら先生と雑談して過ごしたことを思い出す.また勉強会前日になって砂屋敷先生(広 大:原医研)の発案で急遽,勉強会終了後に懇親会を開くことになって三宅技師長と木谷氏には大変ご苦労 をおかけしたが,分科会発足の祝賀会ともなって皆さんに喜んでいただけたことなど懐かしい想い出となっ ている. 後に当人からお聞きしたことだが,このとき現技術学会長の小寺先生や本学会長の藤田先生も参加してお られたそうで,小寺先生はシカゴ大学へ留学するまえであり,藤田先生はまだ学生だったそうである. 私は分科会にかかわる数年前から画像に興味をもちはじめ,この勉強会が契機となって勉強をすすめるよ うになった.また少し前から内田先生がゼミを始められ,その内容の厳しさも噂にきいていたが,2 年後の 79年に初めてお誘いを受けた.喜んでお受けはしたものの,初参加の私の受け持ち時間が 2 時間半もあり, しかも初日トップというのにはびっくり仰天した.どうなることかと心配しながら研究内容を説明しはじめ たが,矢つぎばやの質問攻めにあってアッという間に持ち時間が経過して,終わったときには「案ずるより 生むがやすし」という感じをもった.しかし同時に討論の面白さと自分とは違う観点からの見方や意見が得 られるという貴重な体験を強く味あわせていただいた. ゼミは毎年夏季に開かれ,朝 9 時から夜 9 時まで昼夕食をはさんで 12 時間の長丁場であり,これが大体 3日間続いた.少々くたびれはするが,結構楽しいものであった.私などは一日の討論終了後に飲むビール が待ち遠しくてならなかったが,先生はあまりいける口ではなく,体力を考えて皆より少し早めに自室に引 き揚げておられた.その後私は毎年ゼミに参加するのを楽しみに待つようになった. 当時私は技術学会誌の編集委員をしていたが,論文が少ないのでどうかして増やしたいと考えていた.そ 元山口大学病院 大塚 昭義

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こで内田ゼミの方式を参考にして内容を少しアレンジし,81 年から山口ゼミという勉強会を立ち上げて参 加者の発表を論文にまとめるお手伝を開始した.以来現在まで 30 年続いているが,論文の増加に少しは役 立ったように感じている.これも内田ゼミへお誘いを受けなければ思いつかなかったことなので,先生のお かげであり感謝している次第である. また各地で開かれる先生の勉強会にはたびたび出席して多くのことをお教えいただいた.やがて先生の研 究の一端をお手伝いするようになり,先生持論のエントロピー解析にはかなり力を入れ,何篇かの論文に名 前を連ねることができた.先生に校閲していただいた私の論文では,最高 13 回の書き直しを指示されたこ とが今でも頭に残っている.当時はワープロもない時代なので,一部の変更であってもその度に全文をいら わねばならず,かなり辛い思いをしたことを覚えている.しかしそのお蔭で私の文章力も向上したのではな いかと感謝している.いつの頃か,内田先生が「大塚君は国語力がある」といわれていたと稲津先生から聞 いてうれしく思ったことは今でも心に残っている. 80年代中ごろ,先生から博士学位の取得を勧められた.当時全国の現場の技師で学位取得なんて話は聞 いたこともなく,先生のお話は本当にありがたく感じた.しかし私の身分は技官であり,学位取得に要する 時間と費用,さらに提出を予定していた名古屋大学へ出かける手間や職場(仕事)との調整などを考えると, 取得に対してあまり積極的な気持ちにはなれなかった.そうこうする内に名古屋大学では大学出身者でない と論文審査をしないということが分かり,この話は自然に消滅してしまった. 大学出身者しか受け入れないという名大の姿勢にはやや反発を感じたものの,内田先生の面目をそこなう ことなく話が立ち消えになったので内心ホットしたのも事実である.ところがその後間もなく,山下先生が 立命館大学から学位を授与されたことが聞こえてきた.すると,内田先生から「立命館大学へ行くからつい て来い」といわれて,つべこべいう間もなく同行すると理工学部の苅屋公明教授を紹介された.結局 87 年 から立命館大学の研修員となって 3 年間在籍し,苅屋教授のご指導を得て 90 年春に学位記をいただくこと ができた.内田先生は大層喜んでくださり,お祝いに宮崎の大きな武者の埴輪を頂戴したが,以来 20 年こ の埴輪はわが家の玄関を飾るシンボルとなっている. 学位を頂戴しても俸給などには関係なかったが,時期を同じくして技師長に就任した.学位取得に協力し ていただいた同僚からは祝福と同時に信頼をも得ることができ,大変ありがたく思った.学位取得の噂が病 院内で徐々に広まるにつれて事務官,医師,看護師,業者(メーカ)の対応に少しずつ変化がみられるよう になった.院内の会議でも発言力が増し,従来オブザーバーであった放射線機器選定(仕様検討)委員会で も委員へ昇格して,委員会では大きな比重を占めるようになった.また学位取得は私個人のことに留まらず, 放射線技術部門に対して内外の注目度があがったことは確かであった. これらは学位取得の余録ではあったが,全てのきっかけは内田先生のお勧めから始まったことであり,感 謝にたえないところである.その後学位審査をする大学も増加して社会人へ窓を開き,努力する人は報いら れるような構造に変革して後輩がぞくぞくと学位を取得している昨今の様子は頼もしい感がある. 大きな刺激を与えられた内田ゼミは 75 年に始まり,90 年に第 16 回をもって終了したが,前述したように 私は第 5 回から参加して自分の研究を指導していただきながら,合わせて 10 回出席した.このゼミでは新 しく多くの先生方と親しくなることができ,その後も永らくお付き合いさせていただいている.これも私に とっては大きな収穫であったし,生涯の財産となっている. 先生が岐阜大学を退官されて常葉学園大学へ移られた 90 年代以降は,研究とは少し間をおくようになっ

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たが,その後も長くお付き合いをさせていただき,宮崎のお宅には何度かお訪ねしてご夫妻に歓待していた だいたことが懐かしい.先生と最後にお会いしたのは 3 年前の夏で,私が講演で都城市を訪れた際,お宅へ お寄りしてご夫妻と親しくお話したのが今生のお別れとなってしまった.このときにはとても 87 歳とは思 えないほどお元気で,昼食には清流の河原にもうけた川魚料理店まででかけて鮎料理をご一緒したが,まだ まだ健啖ぶりを示してくださり,うれしく思ったものである. このときは宮崎市古賀病院の沼口健治氏が案内してくださり,山口大学の真田泰三氏も同道されたが,こ の際の先生とお二人の情景を今も思い浮かべている.その後わずか 3 年であるが,先生と沼口氏はこの世に 別れを告げてしまい,何としても寂しさは禁じえない(沼口氏はそのわずか 1 年 3 ヶ月後に亡くなり,真田 氏は昨年停年となって山口を離れた). 先生がわれわれに残してくださった大いなる遺産は全国で花ひらき,放射線技術の進歩に多大な貢献をし ていることは万人が認めており,先生のご意志は今後も間違いなく引き継がれていくことでしょう.昨年先 生が入院されたと聞いて一度お見舞いにお伺いしたかったのですが,私自身体調が思わしくなくて最後まで お目にかかれなかったことは返すがえすも残念でなりません. 先生のご功績に深甚なる敬意を表し,心からご冥福をお祈りする次第です.

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[追悼文特集号]

内田

勝先生

−私にとって最初の放射線画像研究指導者−

私が「熊本大学医学部付属診療エックス線技師学校」の最初の卒業生として,山口県宇部市にある山口大 学医学部付属病院に就職したのが,1967 年(昭和 42 年)4 月である.当時の宇部は三重県四日市と並んで 粉塵の町として全国に知られていた.粉塵の主な原因は工場の煙突から排出される煙である.当時外に出る と鼻にツンとくる独特の臭いと,いつも曇ったような宇部の空は,熊本には無い景色であった. 山口大学病院では,数ヶ月∼1 年単位のローテーションで,X 線撮影(放射線診断),放射線治療,核医学 の分野を担当することになり,ルーチンの診療に必要な技術や知識は数年すると大体覚えてしまうことになる. 当時は,病院で働く医療職のうち研究を課せられている職種は教官として位置づけられている医師のみであり, 看護師や診療放射線技師を含む多くの医療技術者の研究は,本人の趣味程度にしか考えられていなかった. 医療技術者の教育制度も整っていない中では,「チーム医療」という言葉もなかった時代である.したがっ て,私を含む大部分の放射線技師は,少ない糧を得るために働き,after fiveにエネルギーを注ぐことが多かった. しかし卒業して 5∼6 年経ち,仕事も大体できるようになると,日々の生活の充実感とは別に,一方では このまま一生を送るのか?という漠然とした虚しさが芽生えてきた.「自分の人生を振り返ったとき,何が 残っているのか?」という思いである. 職場には,「九州大学医学部付属診療エックス線技師学校」を卒業し,8 年前に就職した大塚昭義さんが 勤務されていた.大塚さんは,当時稼働していた放射線治療機器のベータトロンの線量測定などを手がけて おられたが,まだ論文という形で発表したものはなく,同じ思いを抱いておられたようである.二人が話し 合って出した結論は,「自分たちがやった研究を,形として残そう」ということであった.研究方法を学ん だ訳でもなく,研究時間も診療が終わった夜,学会出張もすべて自費ということで始めたアマチュアの研究 ではあったが,1973 年,二人にとって初めての論文を書くことが出来た[1]. この前後から,大塚さんとの二人三脚でいくつかの研究をスタートしたが,研究分野は,増感紙−フィル ム系や撮影系を中心とした画像評価や画像解析の方に絞られていった.したがって,学会や研究会で知り 合った仲間も医用画像の開発・研究を行っている先輩方が多かった.内田 勝先生のお名前やいくつかの論 文は,手元にあった「放射線イメージ・インフォーメーション研究会(RII)」雑誌などですでに知っていた が,直接指導を受けたわけではなかったので,私にとっては雲の上の存在であった.この頃山口県徳山市で 画像部会が開催されたと記憶している.この会には,当時わが国の画像研究者の牽引車として活躍されてい た大学や機器メーカーの研究者,あるいは放射線技師として当時画像研究を推進しておられた先輩方が出席 された.内田先生はもちろんであるが,京都工芸繊維大学の金森先生,島津の津田さん,阪大病院の遠藤技 師長や山下先生などなどである(土井先生はすでにアメリカに滞在されていたようである).幸いなことに, 阪大技師学校で内田先生の教え子として,当時の徳山医師会病院に勤務されていた木谷さん(木谷さんと大 塚さんは,高校の同級生)に内田先生をご紹介いただき,研究会後の懇親会で,内田先生の研究分野である 情報理論やレスポンス関数に関して熱い思いで質問したことが印象に残っている.これを契機に内田先生に 指導いただくようになった.特に内田先生が主催された画像研究会や内田ゼミには,出来るだけ出席した 元九州大学大学院医学研究院保健学部門 東田 善治

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(写真は湯河原における内田ゼミで.前列左から川村,大塚,若松,筆者,後列,佐々木,藤田,桂川の各 先生方).また,このことが内田先生と関わりを持つ多くの皆さんと出会うきっかけとなった. その後,私は 1978 年(昭和 53 年)に熊本大学医療技術短期大学部に移ったが,当時内田先生が提唱され た,以下のエントロピー解析に関する論文もいくつかまとめることが出来た[2-4]. この中の[3]と[4]は私が first author で,内田先生に原稿の推敲をお願いした.送付されてきた内田先生の 推敲原稿を電話で確認していたところ,「言葉の使い方が悪い」と,突然雷が落ち,「電話をかけ直せ」と, 突然電話を切られたことがあった.非常に厳しい先生であったが,当時われわれにとって唯一の画像解析の 指導者であったので,見捨てられないように必死について行ったことを覚えている。(現在 NHK で龍馬伝 が放映されているが,坂本龍馬が黒船を見る前,あるいは勝 海舟に出会う前の世界に似ている).まさし く,内田先生は,私にとって画像工学を教えていただいた最初の指導者であった. 私には,内田先生に感謝をしなければならないもう一つの大事なことがある.それは,当時シカゴ大学に おられた土井邦雄先生を紹介していただいたことである.熊大医療短大の私の部屋に内田先生から電話があ り,シカゴ大学に留学しないか?という話を戴いた.その後,日本に講演に来られた土井先生にお会いする ため上京したが,実際の面接は,山手線の電車の中であった(土井先生は,講演会後の懇親会が終わってほ ろ酔い状態,私は,熊本を出立するときから超緊張状態.もちろん素面).時を同じくして,当時の熊大医 療短大澤田教授からも放射線治療分野への留学(米国スロンケッタリング癌研究所)を薦められていたので, 留学先についてはその後一騒動あったが,内田先生の推薦がなかったら,その後の研究分野が変わっていた 可能性が大である. 内田先生は終の棲家を宮崎県綾町に構えられた。2 度ほど綾町の家に伺ったが,2 回とも心から喜んでい ただき,指導を受けた頃に比べると何よりも優しかった.私を含め,放射線技術学会に関係する画像研究者 の多くは,多かれ少なかれ内田先生の薫陶を受けることが出来,これが人生の転機になった. 内田先生に心からの感謝をし,ご冥福をお祈りします. [ 1 ] 大塚昭義,東田善治:整流波形の相違による X 線出力の比較.日本放射線技術学会雑誌,29329-342. 1973. [ 2 ] 大塚昭義,宇津見博基,東田善治,他:画像の心理的評価に対するエントロピーの適用.日本放射線技 術学会雑誌,36,722-730,1980.

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[ 3 ] 東田善治,洞田貫誠志,大塚昭義,他:グリッドの種類と視覚による評価−エントロピーによる知覚系 の解析−.日本放射線技術学会雑誌,37,316-323,1981.

[ 4 ] 東田善治,守部伸幸,大塚昭義,他:断層写真の心理的評価のエントロピー解析.日本放射線技術学会 雑誌,37,738-746,1981.

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[追悼文特集号]

内田

勝先生との思い出

宮崎,そして岐阜へ

私が初めて内田 勝先生にお会いしたのは宮崎大学に入学した年の 4 月で,昭和 45 年(1970 年)大阪万 博の年である.内田先生は確かその前年に大阪大学から来られていた.今からちょうど 40 年前のことで, お歳は 48 歳だった.我々のクラス(工学部応用物理学科 1 年)の担任になられていたが,その年の夏ごろ, 欧米への短期留学(三ヶ月)が決まった.田舎の大学のことで,当時外国に留学するといのはそれこそ一大 事とクラスの有志で横断幕を作り宮崎空港までお見送りに行った.ところが,三ヶ月経っても戻ってこられ ない.どうされたのだろうと噂をしていたら,ドイツで交通事故に遭い,しばらくは帰ってこられないとい うことだった.この事故で,物が二重に見える複視になられたそうで,少し首を傾げる癖はこのせいだった のかもしれない.この短期留学の間に,米国ではシカゴ大学のロスマン教授のところへ行かれていたと後で 伺った.大学では画像工学を教わったはずであるが少しも記憶にない.当時の宮崎大学では,3 年生のころ から各先生方の研究室のゼミに顔を出して卒研の準備を始めていた.私は,当初別の研究室(量子力学)の 先生の部屋に出入りしてゼミにも参加していたので,そのままその研究室の卒研を始める予定だったが,3 年生の 3 月頃,同級生の学生から内田先生の研究室に来ないかと誘われ悩んだ末に行くことを決めた.これ からは画像や情報の時代かもしれないと漠然とした期待感もあった.研究室のゼミや実験を開始すると,い ろいろ面白く,特に放射線画像を対象とした実験では大学の近くにあった県立宮崎病院の装置をお借りして 行った.県病院の技師さんには大変お世話になった.特に技師長の稲津 博先生には,大学でも非常勤講師 をされていて,実際の医用画像のお話をいろいろ伺ったが,奥様の兄上が魚市場に勤めてられているという こともあって,お宅に伺っての魚料理を何度も堪能させていただいた. 内田先生は宮崎には単身赴任で来られていて,ちょうど私の下宿の隣のアパートの最上階に引っ越してこ られ,いつも上から監視されていた.「昨日は何時頃寝ただろう」と翌日大学に行くと言われたことが何度 もあった.もっともこちらからも内田先生の様子はよく見えていたからお互い様ではあった. 当時から粒状性の実験をさせていただいていたが,初めて増感紙フィルム系のウィナースペクトルをマイ クロデンシトメータを用いて測定したとき,ある周波数に鋭いピークが現れ,思わず内田先生に,「先生, このシステムには周期性があります」と報告したら,「馬鹿もん,増感紙フィルム系に周期性なんかある か」と大変怒られた.しかし,何度測っても出てくるので,マイクロデンシトメータのメーカであるコニカ に連絡を取って調べたら,この装置は光学系のところに光チョッパがあり,これが高速で回転することで光 を直流的な流れから高周波パルスにしているとのことだった.早速チョッパをはずしてもらったが,当時, マイクロデンシトメータからの出力を直接 AD 変換してウィナースペクトルを測定するという考えは我が国 にはまだなかったようである. 研究室での卒研の傍ら就職活動も行っていたが,全くどの会社にも受け入れてもらえず,内田先生を呆れ させた.当時の宮崎大学工学部にはまだ大学院もなく,専攻科というものがあったのだが,誰もそんなとこ ろに行くものはなかった.どこにも行けない私を見かねて,内田先生から専攻科に行くかという話になり, もう一人,こちらは大変優秀な学生で,大学でもっといろいろ勉強がしたいということで,二人で専攻科の 名古屋大学医学部保健学科 小寺 吉衞

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試験を受けることになった.大学側も初めての経験で準備が大変だったようであるが,幸いに二人とも(多 分私はお情けで)合格し,もう 1 年大学に在籍することになった.この 1 年間が私にとって大きな転機に なったと思う.内田先生の傍でいろいろとお手伝いをさせていただきながら,研究のまねごとが始まった. また,4 年生の指導や授業の準備,試験問題の作成と採点など,今から思うと大学を出たての人間によくや らせたなと不思議に思うが大変良い経験になった. その年の秋ごろから内田先生の様子が変で,そわそわされるようになった.すぐにお話を伺うことができ たが,何と岐阜大学の教授選に応募されたとのことであった.私はその頃,内田先生の強力なコネで某大学 の助手に決まりかけていたが,内田先生に,「おれが岐阜に行ったらどうする」と聞かれ,すぐさま「付い ていきます」と答えた.教授選は予断を許さないようで一進一退の様相であったが,先生はその様子を逐一 お話しくださった.人事の問題でもあり,一介の学生に話をされるような内容ではないが,もし岐阜に行く となると一緒に行くことになるので一蓮托生であった.年が明け,正式に岐阜大学の教授に決まった時は二 人で祝杯をあげた.引越しの準備で内田先生の研究室の掃除をしているときに私の不注意で先生の湯呑を 割ってしまったのだが,内田先生はニコニコされながら,門出のいい区切りになったとおっしゃってくだ さった.二人とも岐阜は全く未知の場所で何が待ち受けているかわからないという気持ちで赴いた.私も不 安であったが,内田先生も不安であったと思う. 岐阜大学では,最初の卒研生として藤田広志先生(現岐阜大学教授)が研究室に入ってきた.また,別の 学科には桂川茂彦先生(現熊本大学教授)が在籍され,しばらくすると,台湾から留学生として蔡 篤儀先 生(現新潟大学教授)がやってこられ,だんだん賑やかになった.内田先生には人を引き付ける何かがある. そう思わざるを得ない岐阜での新しい生活が始まった. 現在、内田先生と同じ職業をしている我が身を振り返って、内田先生とご一緒した年月は何物にも代えが たいものになった。改めて内田先生に感謝すると共に、ご冥福をお祈り申し上げる。

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[追悼文特集号]

放射線画像研究への導き

−故 内田

勝先生を偲んで−

学会長の立場で,追悼文をすでに会誌 Vol. 27, No. 1, p.i-p.ii に書かせていただきました.ここでは,一人 の内田門下生の立場で,内田先生との研究に関する想い出を綴り,心からの哀悼の意を表する次第です. 内田先生との最初の出会いは,先生が前任の宮崎大学から岐阜大学に赴任され(このとき,小寺吉衞先生 (現 名古屋大学)も宮崎から研究生で岐阜に内田先生について来られ,X 線フィルムの反転現像処理の研究 などをされています),工学部電気工学科の画像工学の講義を聴講したときになります.もちろん第一印象 は怖そうな先生です!また,卒研には,写真が趣味であったため,そのつながりで内田先生の研究室を希望 しました(1975 年:昭和 50 年).卒研のテーマは,「放射線画像系における管電圧特性」(同期の鈴木健司 君と共同)で,管電圧およびその波形が変化したときの粒状特性をウィーナースペクトル(WS)によって 検討するものでした(この論文の“青焼きコピー”がまだ保存してあります).卒研で一番印象に残ってい るのは,電子計算機室に行き,FORTRAN という昔のプログラムで X 線管焦点のレスポンス関数を求め, グラフ化して表示もするもので,これまで絶対値と位相の空間周波数特性の両方まで同プログラムを組んで 求めたのは誰もいなかったというものでしたが,これが初めてできたということで,随分褒められたという ことです(内田先生のような怖い先生から褒められるというのは効果満点で,さらにやる気も出てきました し,またいつまでも記憶に留まるものです).内田先生が宮崎から持って来られた,すでにかなり使い込ま れたおんぼろのミクロフォトメータ(確か元は某企業からの寄贈品と聞いていました)とは悪戦苦闘して, WSを測定する毎日が続いていました.この研究内容は,本学会の前身である RII の第 47 回研究会で報告 し,これは小生にとっての最初の学会発表でした(名古屋大学医学部附属病院で昭和 51 年 2 月 28 日開催). この当時,丁度オイルショックで就職が散々な時期に重なったこともあり,先生に勧められるままに修士 課程に進学しました(入試で,ちょうど卒研で勉強した箇所の一つが出題されたのに,そこができなかった ので,情けない思いをしたのを覚えています).院では研究テーマが変わり,「放射線受光系における相反則 不軌特性」でした.診療現場でもできる相反則不軌特性の計測法を開発し,その現象を検討するものです. この特性が生じると X 線フィルムの感度が悪くなり(X 線強度の弱い領域と強い領域で起きる),結果的に 患者被ばく線量が増加するためにアナログ時代では重要なテーマの一つでした.この研究は出発時点ではか なり苦労がありましたが(相反則不軌特性を計測していると思ったら,実際には X 線装置の特性が大きく 影響しており失敗.その後,精度良く計測できる装置が揃った近隣の施設が見つかり解決),3 編の英語論 文にまとめることができました. 当時は,この分野の研究論文を掲載できる適当な和文誌がなく,必然的に応用物理学会の英文雑誌 (Japanese Journal of Applied Physics, JJAP)に投稿していますが,結局,これは最初から英語論文で投稿す るという経験をたくさん積んで行くことになりました.人生最初の論文は,S.Uchida and H.Fujita: Reciprocity-Law Failure in Radiographic Image-Forming Systems, JJAP, Vol.18, No.3, p.501-p.505,(1979)です.簡単には第 一著者にはしていただけませんでしたが,このテーマの 3 報目についに叶いました(JJAP, 1981 年 1 月).

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なお,この当時,私よりも 1 年遅れで,蔡 篤儀先生(現新潟大学)が台湾からの留学生で修士課程に来ら れ,エントロピー法の開発が本格的に始まっています. 研究室は,放射線画像工学の内田 勝先生,半導体工学の仁田昌二先生(助教授),電磁気学(相対性理 論)の田中嘉津夫先生の陣容という誠にユニークな講座で,テニスやスキーなども毎年の恒例行事でした (写真 1). 修士課程を修了後は,企業への就職という選択肢は選ばず,運も重なり,岐阜高専の電気工学科に助手で 赴任し,定期的に内田先生のご指導を受けながら研究を続けました.内田先生の研究のライフワークとも言 うべきエントロピー法の放射線像領域への応用(写真 2)も新たに開始し,高専の卒研生の研究テーマにも 取り入れました.その成果を,1979 年(昭和 54 年)3 月 10 日に岐阜大学医学部で開催された RII の第 59 回研究会で,「エントロピーによる粒状性の評価」と題して学生が報告しています.このとき,丁度,小生 の結婚式に重なってしまい,内田先生の代理で奥様に結婚披露宴に参列していただきました.この内容は, 1980年 7 月の JJAP 誌に掲載されました.しかし,本論文が小生のエントロピーに関する最初の論文ではな く(1 ヶ月の掲載違いの掲載ですが),線量計測に用いられる TLD 素子の伝達情報量を計算する論文作成等 の稲津先生のお手伝いしたものが最初でした(JJAP, 1980 年 6 月). 写真 1 研究室の夏の軽井沢テニス旅行 (上左から 3 人目:故 内田先生,同 2 人目:小寺先生,下右 1 人目:筆者) 写真 2 1979年(左)と 1980 年(右)の内田ゼミでエントロピー法に関する講義をされている故 内田先生.

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その後,10 編前後のエントロピーに関する論文に関わっていましたが,第一著者にさせていただいたの は,エントロピー解析における条件付きエントロピー Hx(y)が,いわゆる RMS 粒状度に関連することを 証明したものでした(JJAP, 1982 年 8 月).最初から自分のアイデアで研究を始め,仕上げたものでないと, 第一著者には決してしていただけませんでしたが,これには 2 つの理由があると思われます.一つ目は,内 田先生自身,長年温められて来られたテーマが開花したものであり,そのテーマの発現は内田先生のアイデ アに負うところが大きいことであり,2 つ目は一人前の研究者に育てるには,そのようなことが重要と考え られていたことかと思われます(実際,第一著者になるためにと必死にアイデアを考え,それを時には内緒 で実行(実験等)に移し,確たる結果が出てから,「これでどうだ!」と勇んで内田先生に報告したもので した).そのお陰で,高専就職して 5 年目の終わりには,名古屋大学(工学部福村晃夫教授)に工学博士の 学位論文を提出させていただくことができました.学位論文のタイトルは,「放射線像伝達系のエントロ ピー解析に関する研究」です. 高専に就職して研究者としてどんなテーマを主に進めるか,また学位論文をまとめるにはどのテーマでま とめるかについて,内田先生に相談した時期がありました.私としては,相反則不軌のテーマでもっと論文 が書けそうでしたので,このテーマで進めて行きたいと思っていました.しかし,「研究テーマは一度始め たら 1 つや 2 つ程度の論文に終わるのではなく,10 も 20 も生まれる良いテーマを発掘するように」との強 い指導があり,将来性のあるエントロピー解析を選択するということに決まりました.基本的に,内田先生 の論文作成への情熱はすごいものでした.会うたびの合い言葉,それは「論文はできたか?」だったように 思います(「まだです!」と答えるのが多かったですが). 国際会議で研究発表するということは,1 ドル 300 円くらい,それも自費で行くのが普通であるような当 時の時代では,今とは環境が大きく異なったたいへんなものでした(最初は,妻の貯金を借金して行きまし た!).相反則不軌とエントロピー解析の 2 つの演題が光学系の国際会議で採択され,生まれて初めての海 外旅行と国際会議で口述発表するチャンスが,1981 年 8 月にやって来ました.このとき,蔡先生は卒業し てシンガポールの企業に勤めておられた時期で,シンガポール航空を利用し,内田先生と小島先生と 3 人で の旅行となりました(3 人で一部屋は少しきつかったです!).オーストリアのグラーツで 2 つの発表を無 事にこなし,その後,3 つの研究所を訪問するという計 1 ヶ月もの旅行になりました(写真 3). 写真 3 グラーツで開催された光学関係の国際会議(ICO-12)に出席した後,スイス のチューリッヒ工科大学の「通信衛星からのデジタルイメージング処理をし ている研究室」を訪問(1981 年 9 月).左から,筆者,故 内田先生,小島 先生(現浜松大学).

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これら 2 つのテーマに関して,複数の解説記事も含めると,ちょうど 30 編の学術論文になり,修士の 2 年間と高専の 5 年間の計 7 年間は,小生にとっては研究者として基礎時代になりました.そして,次への自 身の飛躍を目指して,内田先生のご紹介で,シカゴ大学の土井邦雄先生のところに留学することになります. DSAや CR が開発されたばかりの時期で,時代はアナログ時代からディジタル時代になろうとしている時 期でした. 小生が現在,内田先生が研究を開花された岐阜大学の教授職でいられるのも,このような内田先生から 賜った珠玉のご指導のお陰であります.内田先生には研究面はもちろん,広く生活面も含めて常には厳父の ように,しかし時には優しく育成していただきました.本当にありがとうございました. 内田 勝先生のご冥福を謹んでお祈り申し上げます. 合 掌 追記:これらの約 8 年間にわたり内田先生から直接ご指導賜った時期のその後の思い出の写真を 2 点(写真 4, 5),ここに掲げます.

写真 4 MII Workshop’95 in Chicago(MII 在外研究会−シカゴ大学)において,土井邦雄先生のご自宅で開催された

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[追悼文特集号]

故 内田

勝先生との画像研究での思い出

2010年 4 月上旬に,横浜パシフィコで行われました日本放射線技術学会の総会学術大会に出席して参り ました.今回は内田先生にお供する教え子の心境で,会場をひと通りゆっくりと廻りました.会場の近くは, ちょうど桜が満開で,観光客も多くて賑やかでありました.4 月のお生まれで,桜がお好きだった内田先生 を想い,私は足を止めて暫し佇んでいました.私が院生だった頃,桜の季節になると,よく工学部キャンパ スの近くの川畔で先生を囲み,研究室のメンバー皆で弁当を食べながら,桜の美しさを堪能したことが思い 出されます. 今から 30 数年前のことです.20 代半ばの 1 人の外国人青年が大学の研究室のドアをノックしました.ド アが開き,目の前に現れたのは 50 代のダンディーな男性です.この方が内田先生です.青年は弟子入りを 申し入れに来たのです.先生は青年を,まずは研究生としての「内田ファミリー」の一員とすることを許可 されました.これが,私と内田先生との最初の出会いであります.その時の緊張と感激の場面は,今でも鮮 明に覚えています. 研究生の在学期間中,大学院の受験勉強と平行して,先生のご指導の下で,情報理論におけるエントロ ピー解析に関する研究を始めました.最初の研究テーマは,「エントロピーを用いたタンク現像と自動現像 による画像の画質評価」でした.暗室ではタンク内の現像液と定着液を常に 20℃ に保つ必要があります. 真夏の暑い日々,汗をかきながら氷でタンクの外側を冷やし温度調整をしました.精度の高い結果を早く出 すため,日曜日の休みを返上して,実験を繰り返し行いました.当時先生は,官舎住まいで,時折激励に実 験室にいらっしゃいました.先生の暖かくも厳しいご指導のおかげで,大学院修士課程の 1 年目の秋に,初 めて執筆した論文が掲載されました.この論文は,エントロピー解析を医用画像評価の分野に導入し,その 有用性を示した最初の論文であります[1]. 内田先生は,岐阜大学を定年退官される直前の 80 年代中期までに,「エントロピー解析」の延長線上にあ る「系列依存性」に関する研究への展開を行っておられました.私は当時も先生のご薫陶とご指導をいただ き,この研究に共に打ち込みました.その後,研究成果の一部が 1986 年に JJAP の学会雑誌に掲載されま した[2]. 岐阜大学定年退官後,先生は浜松大学に移られましたが,その後も研究を続けておられました.当時先生 は,ファジィを撮影系に導入する試みをされていました.私も先生の影響を受けながら一時期,ファジィ推 論を用いたコンピュータ支援診断システムの構築を試みていました[3]. 先生は浜松大学を定年された数年後に,宮崎県綾町へ移り住み,静かに著作に専念されておられました. 新潟大学医学部保健学科 蔡 篤儀

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学会等でお会いする度に,先生からは「エントロピー解析をディジタル画像系へ展開するよう取り組んでほ しい」と叱咤激励をいただきました.昨年秋,先生が入院されていた病院に,お見舞いに伺いました.そこ でディジタル画像系への展開・進展があったことをご報告申し上げることができました.先生はたいへん喜 んでおられました[4, 5]. 研究だけでなく,いろんな場面で先生からご教示いただき,お世話になったことがとても良い思い出に なっています.留学生時代の身元保証人や就職先の世話,そして 2004 年の中国訪問時の同行など,数知れ ずの思い出があります.先生と出会ってからかれこれ三十数年の歳月が流れました.その間ずっと,先生に は温かく見守っていただきました.今もきっと,天国で私を見守っていてくださると思います.

などと思いつつ,ふっと 60 年代後半頃の学生時代によく聴いた映画「To Sir With Love」の主題曲の旋律 が耳元に聞こえ,先生のことが脳裏に浮かびます.内田先生,本当にありがとうございます.

合 掌

[ 1 ] S. Uchida and D. Y. Tsai : Evaluation of radiographic images by entropy : Application to development process. Japanese Journal of Applied Physics. 17(11), 2029-2034(1978).

[ 2 ] S. Uchida and D. Y. Tsai : Evaluation of radiographic images by using sequential dependency. Japanese

Journal of Applied Physics. 25(8), 1252-1255(1986).

[ 3 ] D.Y. Tsai , Y. Lee, M. Sekiya and M. Ohkubo : Medical image classification using genetic-algorithm based fuzzy-logic approach. Journal of Electronic Imaging. 13(4), pp.780-788(2004).

[ 4 ] D.Y. Tsai, Y. Lee, and E. Matsuyama : Information-entropy measure for evaluation of image quality. Journal

of Digital Imaging. 20(3), 338-347(2008).

[ 5 ] E. Matsuyama, D.Y Tsai, and Y. Lee : Mutual information-based evaluation of image quality with its preliminary application to assessment of medical imaging systems. Journal of Electronic Imaging. 18(3), 033011-1-11(2009).

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[追悼文特集号]

内田先生を偲んで

内田先生から画像研究において直接指導を受けた期間は短いのですが,強い記憶として私の頭の中には 残っています.内田先生についてはいろいろな伝説や神秘的なエピソードを,関係者から,また,ご自身の 口から聞いていますが,ここでは私にとって印象に残る2つのことを述べて,内田先生を偲びたいと思います. 内田先生が岐阜大学に赴任されたばかりの 1975 年か 76 年の夏頃だと思いますが,岐阜地方に集中豪雨が ありました.当時,内田先生と私は大学の近くの公務員宿舎に住んでいました.その宿舎は木曽川の堤防の 内側に建っていて,増水した木曽川によって床上 1 m 位まで浸水し大きな被害を受けました.大雨が降っ ている夜中に,内田先生の隣に住んでいる方が私の家に来て,「内田先生が帰宅されているはずなのにドア をたたいても何の反応が無い」と云われ驚きました.早速,胸の高さまである水の中をずぶ濡れになりなが ら内田先生の家まで行きましたが,やはり,ベルを鳴らしてもドアをたたいても応答がありません.そこで, 梯子を使って 2 階の窓を叩いたところ,内側から「誰だ!」とものすごく大きな声が聞こえました.この水 害が起こるほどの大雨を知らずにぐっすりと寝ておられたそうです.後から,「アメリカなら,強盗と間違 えておまえは銃で撃ち殺されていただろう」と云われたのを記憶しています. もう一つのエピソードは,MRI の共同研究の相手を求めて,内田先生と一緒にメーカー 3 社を訪ねたこ とです.2003 年にポール・ロッタバーが MRI の発明でノーベル賞を受賞しましたが,選考対象となった論 文は,1973 年の Nature に掲載されたわずか 2 ページの論文です.その論文を内田先生はご覧になって,将 来必ず NMR 断層撮影(当時は MRI と云わなかった)は,臨床に利用されるようになると考えて,その研 究を開始しようと私たちに話されました.そこで,まず NMR の原理を専門書で勉強し,次に,手当たり次 第に文献を取り寄せて撮像原理を調べました.その調査結果を基にして,1979 年の放射線技術学会誌の 34 巻 6 号と 35 巻 1 号に,レビュー論文「NMR による断層撮影」が掲載されました.著者は内田先生,私, それに清恵会第二医療専門学院の末吉武広先生でした.1979 年には商用の MRI 装置はどのメーカーからも まだ発売されてなく,実験室的にも手首の画像がやっと外国で撮影された様な状況でした.したがって,こ のレビューは日本で最初の MRI に関する解説論文ではなかったかと思っています. この後,実際に研究を行うにも MR の装置がありませんので,メーカーとの共同研究を求めて,東芝, 日立,島津の 3 社を訪問しました.MRI の重要性と将来の発展性を中心に説明し,各社の研究スタッフの 人達に熱心に聞いていただいた記憶が残っています.その中の島津製作所から申し出があり,私が週に 2 回, 大阪(当時は大阪の行岡保健衛生学園に勤務)から,京都の島津製作所に出かけて,MRI の研究を約 1 年 間させていただきました.結局は私が島津にいる間には,画像が得られるまでには至らなかったことは残念 でした.しかし,その後の MRI の発展を見ると,いかに内田先生の将来を見る目が確かであったかが,今 になって良く分かります. 熊本大学大学院生命科学研究部 桂川 茂彦

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内田先生は私より二回り上の酉年でした.大変豪快でありながら,研究の面では厳格で緻密な考えをお持 ちだったと思います.良い意味でも悪い意味でも「武士」の気質を持っておられた先生だったと思います.

参照

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学位授与番号 学位授与年月日 氏名 学位論文題目. 医博甲第1367号

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8) de Tommaso M, et al:The puzzle of fibromyalgia between central sensitization syndrome and small fiber neuropathy:a narrative review on neurophysiological and

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