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実務世界における人間研究の重要性について

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実務世界における人間研究の重要性について

松 本 貴 至

(株式会社ホンダコムテック)

Human Science and Its Importance in Business

Takashi MATSUMOTO(Honda Communication Technology)

要旨:ビジネスの世界に生きる実務家の多くは、これまで、「実学」とされる経営学等の 領域に課題解決の処方箋を求めてきた。特に、筆者が長年従事してきたマーケティングの 分野では、米国を起源として今日に至るまで様々な研究が続けられ、多くの理論モデルが 生み出されてきた。しかし、筆者は、これまでの実務経験の中で、それら既成の諸理論が 現実の実践世界で通用するケースは稀であり、逆に、対極的に扱われる広義の人間科学に 学ぶことこそが有効かつ重要であると考え続けてきた。本拙論では、実務家の観点から人 間研究の重要性について提起したいと考える。 キーワード:経営学、マーケティング、人間科学、実務家の観点、人間研究の重要性 Abstract: Many business people living in each business field have sought prescriptions for solving problems, such as methods for “practical” business administration. Especially in the field of Marketing, where I have been involved for many years, various researches have been conducted in the United States and many theoretical models have been created. However, in my practical experience, I feel that those theories rarely work in the real world of business, and conversely, Human science in a broad sense – which is conventionally treated as an opposite side of business administration -- is actually important. In this article, I would like to raise the importance of human science from a business person’s perspective.

Keywords: business administration, marketing, business person’s perspective, human science

【はじめに】

筆者は、これまで、ビジネス世界における 「マーケティング」という分野を人間と社会を めぐる諸現象に対する自己の生来的な強い関心 に連鎖する領域として捉え、職業としてマーケ ティングに長きにわたって従事してきた。ここ でのマーケティングとは、企業が行う様々な活 動の中で「顧客=生活者=人間」が真に求める 商品やサービスを産み出し、その情報を届け、 顧客がその価値を効果的に得られるようにする 営みという一般的な概念を指し、具体的には、 市場調査・商品及びサービスの企画・広告宣伝・ 効果測定といった一連の業務を指す。 概ね30年以上のマーケティング実務の経験の 中で、筆者は主に自動車メーカーのTVCMをは ※(株)ホンダコムテック マーケティング開発室部 部長  e-mail: t-matsu@commtec.co.jp

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じめとする各種の媒体を用いた企業ブランド戦 略、新商品の市場投入時におけるコミュニケー ション戦略、広告効果検証、情報メディア環境 や消費価値観の変化に関する基礎調査等々の多 様な実務に携わってきたが、これまでの長い年 月を振り返ると、「マーケティング」という用 語が広く一般に普及した一方で、巷では、その 時々の表層的な社会状況や流行現象を規定する 様々なキーワードやマーケティング的なる人間 観及び社会観が、時代の先端を行くとされる広 告クリエイターや評論家といわれる人々の間で 次々と矢継早に生み出され、そして、瞬く間に 消え去って行ったと言える。 消費者の多様化もしくは細分化、顧客欲求の 高次化と複雑化、潜在的ニーズに合致した商品 開発の必要性、トレンドを先読みする感性の重 要性、縮小マーケットにおける顧客情報の戦略 的活用…。そして最近では、マスメディアの影 響力の衰退とデジタルメディアの隆盛、ビッグ データの活用等々に関する言及が活発化し、ド ミナントとなってきている。 こうしたマーケティングを取り巻くキーワー ドの数々は、筆者がマーケティングを自らの活 動分野として選んだ当時から、あたかも新時代 の標語のごとく状況派生的に生成され続けてき た。しかし、筆者は当初から、いとも容易にそ の時々で流転する状況認識の多くに、さらに言 えば、既存の経営学等の実学に包含されるマー ケティング理論や技術論そのものに対しても根 本的な懐疑を抱いてきた。書店のビジネス書の コーナーには、マーケティングに関する実に数 多くの実践本や理論書とされるものが並んでい る。しかしながら、長らく実務現場にいる者と しては、いかにそれらの書籍や文献を渉猟して も、現実の生活者の心理や消費行動を捉えるこ とは困難であり、企業活動としての具体的で有 効な策は見出し得ないという所感をもたざるを 得ない。また、この状況は「産学協同の下にマー ケティングの理論と技法の研究、教育、普及に 努め、わが国の経営の近代化と産業の発展」1) に注力してきたという日本マーケティング協会 が1957年に設立されて以来、現在に至るまでほ とんど変わっていないと言える。さらに、今日 の企業が真に価値ある商品やサービス等を生み 出し、付加価値をもってそれを世の中に提供し、 人々の暮らしを豊かにする活動をすることで社 会から存在了解を得るためには、いかに巧妙に 様々な装いを凝らそうとも究極的には利潤追求 の方策に帰結する実学的な観点に基づく一連の コメンタール的アプローチのみでは不十分であ ると筆者は考える。 そこで本拙論では、マーケティング実務者の 観点から、既存のマーケティング研究に対する 批判的検討を行うと同時に、より幅広い人間研 究・理解の必要性について考察する。

【マーケティング実務者としての経験から】

我が国には、マッキンゼー・アンド・カンパ ニーやボストン・コンサルティング・グループ をはじめとする数々の外資系企業戦略コンサル ティングファームの日本法人や、野村総合研究 所や三菱総合研究所等々の大手シンクタンクが 存在する。また、かつてのように大量のマス広 告を投下し続けるだけでは、もはや人の心が動 かせず、モノが売れなくなっていることから、 電通や博報堂等の大手広告代理店も、今やマス メディアを中心とする広告宣伝のみならず、企 業に対して総合的なマーケティングソリュー ションを提供することにビジネスの軸足を移し つつある。 これにまでに、筆者は、仕事を通じてこのよ うな専門組織に属する数多くの企業コンサルタ ントやトレンドセッター (流行の仕掛人) など と称する人々と身近に接してきた。特に、コン サルタントの多くは、主として海外を中心とす るビジネススクールの出身者であり、MBAホ ルダーでもあるが、彼らの学んできた経営学や マーケティング理論は、米国を起源として逐次 的に体系化されたモデルであり、過去の様々な 世界中の企業の成功/失敗事例の事後合理的な 分析から導出し汎用化した理論とその説明のメ ソッドと言える。 また、大手広告代理店系の専門家達によって マーケティングが評論的に語られる際も同様

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じめとする各種の媒体を用いた企業ブランド戦 略、新商品の市場投入時におけるコミュニケー ション戦略、広告効果検証、情報メディア環境 や消費価値観の変化に関する基礎調査等々の多 様な実務に携わってきたが、これまでの長い年 月を振り返ると、「マーケティング」という用 語が広く一般に普及した一方で、巷では、その 時々の表層的な社会状況や流行現象を規定する 様々なキーワードやマーケティング的なる人間 観及び社会観が、時代の先端を行くとされる広 告クリエイターや評論家といわれる人々の間で 次々と矢継早に生み出され、そして、瞬く間に 消え去って行ったと言える。 消費者の多様化もしくは細分化、顧客欲求の 高次化と複雑化、潜在的ニーズに合致した商品 開発の必要性、トレンドを先読みする感性の重 要性、縮小マーケットにおける顧客情報の戦略 的活用…。そして最近では、マスメディアの影 響力の衰退とデジタルメディアの隆盛、ビッグ データの活用等々に関する言及が活発化し、ド ミナントとなってきている。 こうしたマーケティングを取り巻くキーワー ドの数々は、筆者がマーケティングを自らの活 動分野として選んだ当時から、あたかも新時代 の標語のごとく状況派生的に生成され続けてき た。しかし、筆者は当初から、いとも容易にそ の時々で流転する状況認識の多くに、さらに言 えば、既存の経営学等の実学に包含されるマー ケティング理論や技術論そのものに対しても根 本的な懐疑を抱いてきた。書店のビジネス書の コーナーには、マーケティングに関する実に数 多くの実践本や理論書とされるものが並んでい る。しかしながら、長らく実務現場にいる者と しては、いかにそれらの書籍や文献を渉猟して も、現実の生活者の心理や消費行動を捉えるこ とは困難であり、企業活動としての具体的で有 効な策は見出し得ないという所感をもたざるを 得ない。また、この状況は「産学協同の下にマー ケティングの理論と技法の研究、教育、普及に 努め、わが国の経営の近代化と産業の発展」1) に注力してきたという日本マーケティング協会 が1957年に設立されて以来、現在に至るまでほ とんど変わっていないと言える。さらに、今日 の企業が真に価値ある商品やサービス等を生み 出し、付加価値をもってそれを世の中に提供し、 人々の暮らしを豊かにする活動をすることで社 会から存在了解を得るためには、いかに巧妙に 様々な装いを凝らそうとも究極的には利潤追求 の方策に帰結する実学的な観点に基づく一連の コメンタール的アプローチのみでは不十分であ ると筆者は考える。 そこで本拙論では、マーケティング実務者の 観点から、既存のマーケティング研究に対する 批判的検討を行うと同時に、より幅広い人間研 究・理解の必要性について考察する。

【マーケティング実務者としての経験から】

我が国には、マッキンゼー・アンド・カンパ ニーやボストン・コンサルティング・グループ をはじめとする数々の外資系企業戦略コンサル ティングファームの日本法人や、野村総合研究 所や三菱総合研究所等々の大手シンクタンクが 存在する。また、かつてのように大量のマス広 告を投下し続けるだけでは、もはや人の心が動 かせず、モノが売れなくなっていることから、 電通や博報堂等の大手広告代理店も、今やマス メディアを中心とする広告宣伝のみならず、企 業に対して総合的なマーケティングソリュー ションを提供することにビジネスの軸足を移し つつある。 これにまでに、筆者は、仕事を通じてこのよ うな専門組織に属する数多くの企業コンサルタ ントやトレンドセッター (流行の仕掛人) など と称する人々と身近に接してきた。特に、コン サルタントの多くは、主として海外を中心とす るビジネススクールの出身者であり、MBAホ ルダーでもあるが、彼らの学んできた経営学や マーケティング理論は、米国を起源として逐次 的に体系化されたモデルであり、過去の様々な 世界中の企業の成功/失敗事例の事後合理的な 分析から導出し汎用化した理論とその説明のメ ソッドと言える。 また、大手広告代理店系の専門家達によって マーケティングが評論的に語られる際も同様 に、直近の企業の商品やコミュニケーション活 動の成功事例を恣意的に収集し、そこから宣伝 のプロらしくより感覚的に味付けした「理論モ デル」なるものを創出し、シンボリックなネー ミングを付与して公表するというパターンが多 くを占めてきた。とりわけ、大手広告代理店が 中心となってビジネスの前線でこれまでに流布 してきた夥しい数の「〇〇時代のマーケティン グ」や「〇〇マーケティング」といった類の新 しいマーケティング手法なるものは、極めて刹 那的であり、概ね数年未満の短いサイクルの中 で慌ただしく誕生と消滅を繰り返し続けてい る。 しかし、残念ながら、彼ら専門家達が、企業 が抱えるマーケティング課題に対する最適解で あると信じ、その提言の基盤となっている経営 学に連なる理論は、実際のところ、ほとんどが 生々しい実務現場に通用するものとは言い難 く、そこで示される理論モデルには、一般的妥 当性や再現可能性が確認できないというのが長 年にわたる実務者としての筆者の偽らざる実感 である。また、長年、マーケティングに関わっ てきた実務者ならば、このような同様の見解を 持つ者も少なくないだろうと筆者は考える。 例えば、長い実務家のキャリアを有する豊島 襄は、日本商業学会の学会誌の中で、次のよう に述べている。「経営やマーケティング研究の 目的はどこにあるのだろうか。また、そのステ イクホルダーは誰だろうか。全てとは言わない までもその中心的な目的の一つが、実際の経営 やマーケティングの実務へのインプリケーショ ンの提供にあることは間違いないないだろう し、その意味で最大のステイクホルダーの一つ は実務家だろう。その最大の利害関係者の一人 である実務者の筆者にも発言する権利はあると 言えよう。30年の実務経験において、筆者自 身、経営学やマーケティング論に対して絶えず 感じつづけてきた不満の元を辿ってゆくとそ の『方法論』の問題に行き着く。… (中略) … われわれ実務者が、経営やマーケティング研究 に求めたいのは、不確実な日々の実務の中で意 思決定してゆく際の究極的な拠り所である。そ れが、研究の土台や成果に疑問を感じ、信ずる ことのできないものである可能性があるとすれ ば、われわれ実務者は何に頼るべきか」2)さら に、豊島はこのようにも述べている。「様々な 経営戦略モデル、消費者行動理論、消費者情報 処理モデル、広告効果モデル、…。しかし、現 実に、それらモデルや理論が、範とした自然科 学のような確かな結果を約束してきたか。筆者 にはどうもそのようには思われない」(ibid.)。こ のような豊島の見解は、企業内での人事異動で マーケティングを一定期間担当することを命じ られた者や逆に表層的な時流に乗ってマーケッ ターを目指した者ではなく、少なくとも人や社 会に対する強い関心に根差した自らの主体的意 志でマーケティングと関わり試行錯誤をしてき た実務者には共有されるものであると筆者は考 える。

【経営学者側の課題認識】

また、一方で、学問としてマーケティングを 語り、様々な理論を提供してきた経営学者の中 にも、同様の問題認識をもつ卓越した研究者も 数少ないが存在する。 例えば、石井淳蔵は、「マーケティングの神 話」 (1993) の中で、家庭用洗剤等の日用品か ら自動車等の高額耐久消費財に至るまで、様々 なヒット商品の成功譚を開発現場のヒアリン グを通して緻密に検証した上で、「消費者には 潜在的に確固とした欲望があり、それに応じて 製品にたいするニーズが出現するという前提 は、伝統的なマーケティング論における人間に ついての基本的理解である。しかし実際のマー ケティングの現場では、どうも客観的な消費者 欲望の実在を仮定するのは現実的ではないよう に見える。むしろ消費者は、消費に先立って欲 望をもっていると仮定するより、消費しつつ欲 望を構成すると考える方が理にあっているよう に思える」3) と述べている。また、「消費者欲望 は、交換を導く客観的前提というより、むし ろ交換を通じて構成される存在」であるがゆえ に「従来の一方的な『適応』の論理あるいは原 因・結果の論理でマーケティングプロセスを理

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解しようとするのは一面的な理解にとどまるも のだと言える。そういった因果的な理解は、客 観的な現実を反映したもののように思われるか もしれないが決してそうではない。それは、一 つの創られた (構成された) 物語、あるいは『神 話』でしかないことが改めて強調されなければ ならない」(ibid.) と断じている。この石井の見解 は、筆者が実務者として常に実感し続けてきた 経営学やマーケティング理論と現場実務との乖 離を見事に言い当てていると言える。ちなみに、 フランスの哲学者であるボードリヤールは、「消 費社会の神話と構造」 (1979) の中で、「人びと はけっしてモノ自体を (その使用価値において) 消費することはない。理想的な準拠としてとら えられた自己の集団への所属を示すために、あ るいはより高い地位の集団をめざして自己の集 団から抜け出すために、人びとは自分を他者と 区別する記号として (最も広い意味での) モノ を常に操作している」4)と社会の中で作り出され 提供される様々な商品が使用価値としてだけで はなく、他者との差異を求めた衒示的な記号と して立ち現れる側面を説き、さらに、経営学者 達は「個人は欲求を授けられた本性に従って欲 求の充足に駆り立てられるものだという人間学 的仮説や、消費者は自由で意識的であり自分が 何を望んでいるか知っている存在だという見解 を疑問視せずに (社会学者は深層心理的動機に 疑問をもっている)、こうした観念論的仮定にも とづいて欲求の『社会的力学』の存在を認めよ うとしている」(ibid.) と指摘し、「消費はひとつの 神話である。現代社会が自らについてもつ言葉、 われわれの社会が自らを語る語り口、それが消 費だ。いってみれば、消費に関する唯一の客観 的現実は消費という観念だけである。この反省 的言説的配置構造が、日常的言説と知的言説に よって幾度となく取り上げられたために常識と しての力をもつようになったのである」(ibid.) と語 るが、これらの解釈は石井の研究と深く通底し ている。 さらにまた、同じく経営学者である沼上幹 は、「行為の経営学‐経営学における意図せざる 結果の探求‐」 (2000) の中で、石井の研究をよ り批判的に発展させ、マーケティングの成功事 例には「主観的に構成された『物語』や『神話』 が存在し、それが事実というよりも『神話』で あることを暴くことには意味があるけれど、そ のような『神話』に基づいて人々が行為するこ とによって、いったいどのような現象が実際に 生じてしまうのかという問題は、社会的相互作 用を観察したり、考察したりといった作業抜き には明らかにすることはできないはずである。 … (中略) …人々が何らかの『神話』をもって 相互作用し、その結果としてまた新たな『神話』 の素材になるような社会的事実が生成されてゆ く、というプロセスを豊富に論ずる」5)ことが 不可欠であると指摘し、マーケティングのみを 扱った石井の研究をさらに進めて、一見、実証 主義的な科学的方法論を装う、あるいは自然科 学を模範とした法則定立的なアプローチを行う 経営学そのものの問題を鋭利に追及している。 沼上は、「行為の背後にある思考経路を解釈し て一般的に了解可能にする作業とその行為の社 会的合成プロセスの解明」こそが重要であり、 その際には、特に「行為が合成されることで、 当初の意図とは異なる結果が生じているような 現象」を重視し、そのような「意図せざる結果」 の追求を通してこそはじめて「実践者と経営学 者との反省的対話が促進される」(ibid.) と述べて いる。沼上は、この著作のまえがきで、「どう にかして経営の実践家との間に互いに意義深い 対話の土俵を設定できないだろうか」(ibid.) とい う課題認識をこの研究の一つの動機として語っ ており、経営学と実務との対話性の欠如を問題 としている点では、石井と同じ視点に立脚して おり、実務者側の筆者から見ても極めて納得性 の高い貴重な研究であると言える。 ところで、石井は、伝統的なマーケティング 理論の再検討を行い、沼上は、その上位概念で ある経営学そのものに対する批判を展開したわ けであるが、これらの優れた研究から四半世紀 以上が経過した2020年の現在において、経営学 やマーケティング研究はどのように変わったの だろうか。ちなみに、石井は、神戸大学名誉教 授であり日本商業学会 (1951年設立) の 9 代目

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解しようとするのは一面的な理解にとどまるも のだと言える。そういった因果的な理解は、客 観的な現実を反映したもののように思われるか もしれないが決してそうではない。それは、一 つの創られた (構成された) 物語、あるいは『神 話』でしかないことが改めて強調されなければ ならない」(ibid.) と断じている。この石井の見解 は、筆者が実務者として常に実感し続けてきた 経営学やマーケティング理論と現場実務との乖 離を見事に言い当てていると言える。ちなみに、 フランスの哲学者であるボードリヤールは、「消 費社会の神話と構造」 (1979) の中で、「人びと はけっしてモノ自体を (その使用価値において) 消費することはない。理想的な準拠としてとら えられた自己の集団への所属を示すために、あ るいはより高い地位の集団をめざして自己の集 団から抜け出すために、人びとは自分を他者と 区別する記号として (最も広い意味での) モノ を常に操作している」4)と社会の中で作り出され 提供される様々な商品が使用価値としてだけで はなく、他者との差異を求めた衒示的な記号と して立ち現れる側面を説き、さらに、経営学者 達は「個人は欲求を授けられた本性に従って欲 求の充足に駆り立てられるものだという人間学 的仮説や、消費者は自由で意識的であり自分が 何を望んでいるか知っている存在だという見解 を疑問視せずに (社会学者は深層心理的動機に 疑問をもっている)、こうした観念論的仮定にも とづいて欲求の『社会的力学』の存在を認めよ うとしている」(ibid.) と指摘し、「消費はひとつの 神話である。現代社会が自らについてもつ言葉、 われわれの社会が自らを語る語り口、それが消 費だ。いってみれば、消費に関する唯一の客観 的現実は消費という観念だけである。この反省 的言説的配置構造が、日常的言説と知的言説に よって幾度となく取り上げられたために常識と しての力をもつようになったのである」(ibid.) と語 るが、これらの解釈は石井の研究と深く通底し ている。 さらにまた、同じく経営学者である沼上幹 は、「行為の経営学‐経営学における意図せざる 結果の探求‐」 (2000) の中で、石井の研究をよ り批判的に発展させ、マーケティングの成功事 例には「主観的に構成された『物語』や『神話』 が存在し、それが事実というよりも『神話』で あることを暴くことには意味があるけれど、そ のような『神話』に基づいて人々が行為するこ とによって、いったいどのような現象が実際に 生じてしまうのかという問題は、社会的相互作 用を観察したり、考察したりといった作業抜き には明らかにすることはできないはずである。 … (中略) …人々が何らかの『神話』をもって 相互作用し、その結果としてまた新たな『神話』 の素材になるような社会的事実が生成されてゆ く、というプロセスを豊富に論ずる」5)ことが 不可欠であると指摘し、マーケティングのみを 扱った石井の研究をさらに進めて、一見、実証 主義的な科学的方法論を装う、あるいは自然科 学を模範とした法則定立的なアプローチを行う 経営学そのものの問題を鋭利に追及している。 沼上は、「行為の背後にある思考経路を解釈し て一般的に了解可能にする作業とその行為の社 会的合成プロセスの解明」こそが重要であり、 その際には、特に「行為が合成されることで、 当初の意図とは異なる結果が生じているような 現象」を重視し、そのような「意図せざる結果」 の追求を通してこそはじめて「実践者と経営学 者との反省的対話が促進される」(ibid.) と述べて いる。沼上は、この著作のまえがきで、「どう にかして経営の実践家との間に互いに意義深い 対話の土俵を設定できないだろうか」(ibid.) とい う課題認識をこの研究の一つの動機として語っ ており、経営学と実務との対話性の欠如を問題 としている点では、石井と同じ視点に立脚して おり、実務者側の筆者から見ても極めて納得性 の高い貴重な研究であると言える。 ところで、石井は、伝統的なマーケティング 理論の再検討を行い、沼上は、その上位概念で ある経営学そのものに対する批判を展開したわ けであるが、これらの優れた研究から四半世紀 以上が経過した2020年の現在において、経営学 やマーケティング研究はどのように変わったの だろうか。ちなみに、石井は、神戸大学名誉教 授であり日本商業学会 (1951年設立) の 9 代目 会長や日本マーケティング学会 (2012年設立) の初代会長を務めた人物である。また、沼上は、 一橋大学経営学部の教授を経て副学長 (2014 年) を務め、日本経営学会 (1926年設立) の常 任理事や組織学会 (1959年設立) の10代目会長 を歴任した人物であり、どちらも我が国の経営 学会における重鎮であり、当該研究領域に少な からぬ影響をもたらしてきたはずである。しか し、残念ながら、どうも実際の事情はより複雑 なようである。 例えば、比較的最近の研究として、長きにわ たりマーケティングを自立的に存立し得る単独 の学問として定着させることを目指してきた 経営学者で北海道大学名誉教授の黒田重雄は、 2014年に発表した論文の中で、「今日の曖昧性 と不確実性が前提のような社会になると、かな り膨大な調査費と時間をかけても、意思決定や 政策に役立つ正確な情報は得られない。ヒット 商品は、偶然的だったり、予期せぬ結果だった りすることが多い。とすれば、今日の世界では、 行為の前に調査をし尽くし、それによって合理 的な意思決定ができるはずという前提そのもの を再考しなければならない」6) と石井や沼上の 先行研究と同じ問題認識を示し、さらにより直 近の研究として2018年の論文の中でも「マーケ ティングを体系的に捉え、そこから理論を導き 出し、実務に応用されるといったような一貫し た体裁を整えた教科書には、未だお目にかかっ たことはない。もっといえば、『マーケティン グの定義』自体、まだ定まったものがない状況 にある」7)と断じている。また、過去の経緯の 中で、「『マーケティングは科学か』についての 論争もあった。ここでも『マーケティングとは 何か』が不明確のまま、科学性が云々されると いう不可思議な現象が起きていた」(ibid.) と述べ ており、マーケティングのそもそもの定義の変 節性や不安定性を現在進行形で語っている。ま た、現在も、研究者としての集大成ともいえる 「マーケティング学の試み」と題する著作を執 筆中である黒田は、「現在流通しているマーケ ティングが、学問としての体裁を全くと言って いいほど整えていない」、「学問としての要素で ある、『独自の概念』、『定義』、『体系の形成』、『方 法論における分析方法の確定』などが一体的に 考慮されて」おらず、「原理・原則のないまま、 上面の議論が戦わされていると考えている」8) と述べ、令和 2 年となった今も変わらない状況 にあるマーケティングを何とか学問として存立 させ、世の人々が幸福に生きてゆくための拠り 所の一つにしたいと真摯な探求を続けている。

【実務者として筆者が取り組んできたこと】

経営学やマーケティング研究が、1955年に日 本生産性本部の代表団によって米国から移入さ れて以来、あたかも時代の従属変数のように変 転し続け、2020年の現在においても未だ体系化 もされず、独自の概念や分析視角も獲得できて いないにもかかわらず、なぜ、今なおビジネス の世界から必要とされ、絶大に支持されている のだろうか。 その主な理由は、端的に言って実務者側の安 直に利便性を求める姿勢と無自覚性にあると筆 者は考える。企業組織の中である担当者が経営 者やボードメンバーに重要な意思決定の判断を 仰ぐ際、必ず説得のためのエビデンスが必要と なる。担当者にとって重要なことは、それが真 に科学的で客観的な根拠に基づくかどうかより も、意思決定を取り付けることの方が優先され る。経営学やマーケティング理論は、その際に 極めて便利なツールである。石井や沼上あるい は黒田のように、それらの諸理論の前提となる 合理的経済行動をとる画一的な人間観そのもの に懐疑の目を向けつつ、同時に実務との積極的 な対話を求めようとする一部の前向きな経営学 者がいる一方で、「経営学=実学」に関わる研 究者とビジネスパーソンの多くは、対話なき暗 黙の相互依存関係に陥っているのではないだろ うか。 30年前、筆者が初めて社会に出て民間のマー ケティング調査機関に籍を置いた当時、「マー ケティングとは環境適応の科学だ」と教えられ た。そこでは、人間は客観的に自立した所与の ものとしての消費欲求を持ち、それを自ら自覚 できる自律的存在であり、また、その存在とし

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ての主体を取り巻く外部には環境と呼ばれる客 観的客体が存在し、定量的あるいは定性的な調 査を適切に用いれば両者の因果関係を含めて 諸々の現象の把握が可能であり、すなわち人間 の消費行動に関するいかなる現象も専門的な調 査手法によって明らかにできるという前提の下 で、企業に対するリサーチに基づいた戦略提案 をミッションとして課せられた。当時は (現在 も大差はないが)、合理的経済行動に基づく人 間観が常識化され、消費者のニーズを精度の高 い調査によって聴取し、そのニーズに合致した より高い品質や機能性能を持ち価格が安い商品 は必ず売れる、という確信が支配しており、仮 に、もしもそれが失敗に終わった場合、既存の マーケティング調査では高度に多様化し変質し た消費者のニーズを抽出できなくなったので、 より精緻なアプローチが可能な新しい調査手法 の開発が必要だといった調査手法上の問題に すり替わり、マーケティング理論同様にマーケ ティング・リサーチの方法論そのものにも状況 依存的なトレンドが生まれることとなった。ま た、商品開発が語られる際には、一般にもよく 知られるコカ・コーラ、付箋( 3 Mポストイッ ト)、サランラップ、電子レンジ等々の我々の 生活にとって身近なロングセラー商品が、セレ ンディピティ (serendipity) と呼ばれる失敗か ら偶然生み出された産物であるという事実につ いては、特に関心も持たれず深く言及されるこ ともなかった。 元々、筆者は、個としての人の消費行動から 群としての組織の企業活動に至るまで、それら は押し並べて人間の営みの一環もしくは集積で あると捉えてきた。それゆえ筆者は、人間に対 して深く洞察し、ダイレクトにアプローチする 手段を持たないマーケティング理論のみでは不 十分と考え、これまでの実務生活の中で、局面 によっては統計学に根差したリサーチ手法 (多 変量解析などの一般的手法) のみは選択的に採 用しながら、可能な限り人間と社会に対するよ り本質的な問題をそれぞれの確固たる立場から 深く考察する心理学、社会学、文化人類学、歴 史学、宗教学、哲学、芸術学等々といった諸領 域の研究に幅広く目を向け、そこから有益なイ ンプリケーションを得てきた。 一例を挙げると、例えば、社会学者のR・Kマー トンは、行為や予測の意図せざる諸結果として 「自己成就的予言」 (self-fulfilling prophecy) 「自 己破壊的予言」 (self-destroying prophecy) 「潜 在的機能」 (latent function) という三形式を提 示した。ちなみに一般にも知られる通り、自己 成就的予言とは「社会的行為の状況に対する虚 像の規定あるいは信念・思いこみ・決めつけが, それに基づいて行われた行為を通じて現実のも のと化してしまう」9)場合の最初の規定となる信 念や思い込みのことを指し、最初の誤った予測 が契機となって新しい行動を誘引し、その行動 が当初の誤った予測を真実なものとする過程を 示唆している。逆に、自己破壊的予言は「将来 の社会状況に関する見通しを陳述した言明が, その将来状態に関与する関係主体に影響し,行 為主体の行動様式を変えさせることによって結 果的に当の言明が裏切られていく場合」(ibid.) の最 初の予測のことを意味し、潜在的機能とは、「特 定の単位 (個人・集団・社会) の参与者にとって 意図されも認知されもしていないが、その単位 の調整ないし適応に寄与する客観的諸結果」(ibid.) のことを示し、予言の意図と全く異なる面で予 期せぬ効果が生まれることを意味する。また、 このようなマートンの研究をさらに敷衍し、独 自のラベリング論を展開した社会学者 (現在は 浄土真宗の僧侶で教誨師) である徳岡秀雄は 「人と人との関わり合いである社会現象は、多 くの要因の相互連鎖の環、諸要因間のフード バック・システム」10) であるとし、要素的単位 に還元すると、「複雑な社会現象も行為者 (エゴ) と他者 (アルター) との間の、社会的行為の相 互交換、すなわち、行為者のパフォーマンス (P) と他者によるサンクション (S) との絶えざる相 互作用として把握」(ibid.)できると述べ、社会現 象は、原因と結果という単一方向的に閉じた因 果関係としてではなく、…P→S→P→S…と連続 する相互作用過程の中のある断面が偶発的に切 り取られたものという見解を述べている。 以上のことは、多くのヒット商品が偶然の産

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ての主体を取り巻く外部には環境と呼ばれる客 観的客体が存在し、定量的あるいは定性的な調 査を適切に用いれば両者の因果関係を含めて 諸々の現象の把握が可能であり、すなわち人間 の消費行動に関するいかなる現象も専門的な調 査手法によって明らかにできるという前提の下 で、企業に対するリサーチに基づいた戦略提案 をミッションとして課せられた。当時は (現在 も大差はないが)、合理的経済行動に基づく人 間観が常識化され、消費者のニーズを精度の高 い調査によって聴取し、そのニーズに合致した より高い品質や機能性能を持ち価格が安い商品 は必ず売れる、という確信が支配しており、仮 に、もしもそれが失敗に終わった場合、既存の マーケティング調査では高度に多様化し変質し た消費者のニーズを抽出できなくなったので、 より精緻なアプローチが可能な新しい調査手法 の開発が必要だといった調査手法上の問題に すり替わり、マーケティング理論同様にマーケ ティング・リサーチの方法論そのものにも状況 依存的なトレンドが生まれることとなった。ま た、商品開発が語られる際には、一般にもよく 知られるコカ・コーラ、付箋( 3 Mポストイッ ト)、サランラップ、電子レンジ等々の我々の 生活にとって身近なロングセラー商品が、セレ ンディピティ (serendipity) と呼ばれる失敗か ら偶然生み出された産物であるという事実につ いては、特に関心も持たれず深く言及されるこ ともなかった。 元々、筆者は、個としての人の消費行動から 群としての組織の企業活動に至るまで、それら は押し並べて人間の営みの一環もしくは集積で あると捉えてきた。それゆえ筆者は、人間に対 して深く洞察し、ダイレクトにアプローチする 手段を持たないマーケティング理論のみでは不 十分と考え、これまでの実務生活の中で、局面 によっては統計学に根差したリサーチ手法 (多 変量解析などの一般的手法) のみは選択的に採 用しながら、可能な限り人間と社会に対するよ り本質的な問題をそれぞれの確固たる立場から 深く考察する心理学、社会学、文化人類学、歴 史学、宗教学、哲学、芸術学等々といった諸領 域の研究に幅広く目を向け、そこから有益なイ ンプリケーションを得てきた。 一例を挙げると、例えば、社会学者のR・Kマー トンは、行為や予測の意図せざる諸結果として 「自己成就的予言」 (self-fulfilling prophecy) 「自 己破壊的予言」 (self-destroying prophecy) 「潜 在的機能」 (latent function) という三形式を提 示した。ちなみに一般にも知られる通り、自己 成就的予言とは「社会的行為の状況に対する虚 像の規定あるいは信念・思いこみ・決めつけが, それに基づいて行われた行為を通じて現実のも のと化してしまう」9)場合の最初の規定となる信 念や思い込みのことを指し、最初の誤った予測 が契機となって新しい行動を誘引し、その行動 が当初の誤った予測を真実なものとする過程を 示唆している。逆に、自己破壊的予言は「将来 の社会状況に関する見通しを陳述した言明が, その将来状態に関与する関係主体に影響し,行 為主体の行動様式を変えさせることによって結 果的に当の言明が裏切られていく場合」(ibid.) の最 初の予測のことを意味し、潜在的機能とは、「特 定の単位 (個人・集団・社会) の参与者にとって 意図されも認知されもしていないが、その単位 の調整ないし適応に寄与する客観的諸結果」(ibid.) のことを示し、予言の意図と全く異なる面で予 期せぬ効果が生まれることを意味する。また、 このようなマートンの研究をさらに敷衍し、独 自のラベリング論を展開した社会学者 (現在は 浄土真宗の僧侶で教誨師) である徳岡秀雄は 「人と人との関わり合いである社会現象は、多 くの要因の相互連鎖の環、諸要因間のフード バック・システム」10) であるとし、要素的単位 に還元すると、「複雑な社会現象も行為者 (エゴ) と他者 (アルター) との間の、社会的行為の相 互交換、すなわち、行為者のパフォーマンス (P) と他者によるサンクション (S) との絶えざる相 互作用として把握」(ibid.)できると述べ、社会現 象は、原因と結果という単一方向的に閉じた因 果関係としてではなく、…P→S→P→S…と連続 する相互作用過程の中のある断面が偶発的に切 り取られたものという見解を述べている。 以上のことは、多くのヒット商品が偶然の産 物であり、企業と消費者との相互作用過程の中 での予期せぬ結果であった、という想定外の事 実を解釈する上で大いに役立った。例えば、シャ ワー付き洗面台が元々はシンクの洗浄や小物洗 いを用途として売り出されたにも関わらず、な ぜか若者が朝の洗髪のために使い出し、爆発的 に売れた事例等、具体例は数多くある。また、 より実務的に言えば、自動車のように基礎技術 研究から製品化の可能性検証、潜在的市場規模 の算定、新商品としての企画開発、そして生産 から市場導入に至るまでに数年以上の長いスパ ンを要し、商品そのものをその時々の表層的時 流に合わせることが困難な高額耐久消費財の場 合、出来上がった商品に意味付けしラベルを付 与する(=商品の意味性を解釈論的に規定する) ことが重要であることを、すなわち唯一、事後 的に操作可能な市場導入時の世の中に対するコ ミュニケーション活動 (商品のネーミングや広 告宣伝活動等) の重要性に関して有益な示唆を 得ることができた。 また、そのような世の中に対するコミュニ ケーションメッセージを発信する際には、社会 動向や人々の消費意識、生活価値観等の詳細な 考察のみならず、メッセージを受け取る側の個 としての人間の顕在的または潜在的な心理や快 不快などの情動反応について深い洞察が求めら れるが、筆者は、心理学から多くのことを学 び、実務上で助けられてきた。いうまでもなく マスメディアを使った広告宣伝、特にTVCM には莫大なコストがかかる。そのコストは、大 きくはTVCMの製作費と媒体費に区分される が、我が国の場合、TVCM制作は純粋な表現 領域と捉えられるがゆえに、いわゆる広告クリ エイターと呼ばれる人々に多くを依存すること になる。当然、スポンサーである企業側担当者 は、その商品の想定される顧客像を規定し、そ の商品の特長やメリットを標的となる顧客層に 最大限に訴求できるよう要求はするが、我が国 の広告代理店においてクリエイティブ領域はあ る種の聖域とも言え、クリエイター達は独自の 芸術的感性に基づいてCM制作を行うことが多 い。もちろん生身の人間に対するメッセージで ある広告が常に分析データの積み上げによって 良質で効果的なものとなるわけではないが、や はり、実際はTVCMの出来栄えには、素材に よってバラツキが出てくる。それゆえ、筆者の 場合、TVCMのオンエア前に、ターゲットと 想定され、かつ現時点で自動車の購入を検討し ている生活者を視聴環境の整備された調査会場 に呼集し、CM素材の評価調査を長年行ってき た。機密に関わることでもあり紙面の都合もあ るので具体的な数値の提示は控えるが、これま でに行ってきた調査対象CM素材数は1000本を 超え、蓄積されたサンプル数は30万サンプルを 大きく上回る。この調査では、CMの印象度と 好感度を重要因子として設定し、その他、内容 理解度や興味喚起度等々の多岐にわたる反応値 も測定している。これまでに蓄積してきた印象 及び好感の反応値をグラフ化すると極めて精度 の高い正規分布が得られ、その分布に基づいて 新しいCM素材の評価を事前に判定する。また、 場合によっては、脳波等の生体反応測定やその 他認知科学的な実験でCM評価調査を補完する こともある。さらに、こうしたTVCMのオン エア前の素材評価に加え、オンエア開始後のあ らかじめ統一的に設定した時点で、そのCMが 実際にどの程度、ターゲット層に認知され、印 象に残り好感を持ってもらえたか、あるいは 現実の家庭の視聴環境下では種々雑多なCMが 流れていることを踏まえて、一切の手掛かりを 与えずにどの程度その素材が純粋に想起される か、といった全国規模の大サンプルを用いた広 告効果測定調査も併せて行ってきた。筆者が 長年行ってきたTVCMのオンエア前後の二つ の調査から、印象反応と好感反応がともに高い CM素材ほど広告投下量に比して認知・再生の 効率が高いことが明確にうかがえるが、実務現 場では単なる知見の獲得だけでは済まされな い。例えば、素材評価の低いある商品のCMを 分析によって得られた示唆に基づき部分的に再 編集することはできても全面変更することは費 用的にも時間的にも容易ではない。また、単に 認知効率を向上させるのであれば新奇性を求め ればよいが、高額耐久消費財の場合、購入意向

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との強い相関を持ち、より重視されるべきなの は、企業もしくは商品に対するブランド好意で あり、その醸成のためにはTVCMの好感度を 担保しなければならない。巨額な広告の投下計 画や推進管理を行う中で、筆者が着目したのは、 「相互作用を伴わない単なる接触を繰り返すだ けでも魅力を感じるようになる」11) という心理 学でいうところの単純接触効果である。商品開 発研究の担当者が世の人々に製品を通して貢献 するという思いで何年も心血を注いできた新商 品をコミュニケーション領域の不手際で無駄に するわけにはいかない。それゆえ心理学の知見 を援用し、筆者はTVCM投下量のコントロー ルと好感反応の変動を逐次的に観察しながら低 評価CM素材の好感を可能な限り押し上げるこ とに努めてきた。一方で、高評価CM素材につ いても安心はできない。オンエア前の評価が高 いCMは、オンエア後の測定断面においても想 定通りの反応となることは多いが、しかしなが ら漫然と長期間投下し続けると「同一刺激の繰 り返し呈示によって反応が減衰する」(ibid.)とい う馴化が起きることを筆者は数多く確認してい る。そのため高評価CM素材については、素材 が持つ元々の認知・再生のポテンシャルの高さ を生かし、馴化が起きないように、ある程度の 段階で広告投下を止め、一定の忘却が働いたタ イミングで投下を再開するというコントロール を行うことが必要であると筆者は考え、一定の 成果を得てきた。マーケティング実務を遂行す る上で、このように筆者が経営学やマーケティ ング理論以外の学問領域の成果から救われた事 例は他にも数多くあり枚挙に暇がないが、際限 がないためこの辺りで留めておくこととする。 また、以上で筆者が述べてきたことは、社会学 や心理学等を専門とされる研究者諸氏にとって は、ごくごく基本的で当たり前の事かも知れな い。しかしながら、マーケティング実務の現場 においては、経営学のどの理論書にも教科書に も、あるいは数多あるマーケティングの実用書 にも掲載されていない極めて価値ある知見であ ることを改めて強調しておきたい。

【マーケティングの現況と今後のあるべ

き姿として】

ところで昨今、マーケティングの世界では、 「マーケティング・サイエンス」なるものを標 榜する一派が急速に台頭し、瞬く間にドミナン トとなってきている。こうした最近の潮流に は、“R”や“Python”といったフリーウェアの統 計解析向けプログラミング言語の普及や、さら にそれを簡便に使えるようユーザビリティを高 めたパッケージ商品によって、比較的誰もが容 易にAIによる「機械学習」や「深層学習」を 用いたビッグデータ分析が可能となってきたこ とが背景にあるだろう。もちろん、デジタル情 報技術の急速な進化は、実務者にとって大変有 益なものであり、実務を遂行する上で先進的情 報技術は極めて便利で有用であることに間違い はない。ただし、こうしたツールを活用する行 為そのものは、決して人間そのものに対する科 学的な考察作業ではない。膨大なデータを無数 にある機械的アルゴリズムを用いて瞬時に解析 し回答を導くことには確かに実務的利便性はあ るが、それらは、分析結果に至る背後理論や法 則性の導出といった学問的・科学的なテーマと は異質なものである。マーケティングをデジ タル技術の進化と接合し、それをもって固有 の学問として語ろうとするこうした昨今の動向 は、本拙論で述べてきたマーケティング研究の 変節性と無秩序性をより顕著に示すばかりでは なく、誤解を恐れずに言えば、もはや、今後の マーケティングが疑似科学化してゆくことの予 兆であるように筆者には感じられる。それは、 経営学者の黒田等が貫いてきた誠実な学問的探 求の姿勢とは真逆の方向を示している。デジタ ル技術の急激な進展は、大いに人類発展の可能 性を示唆するものの、その一方で、技術の万能 性を過信するがあまり、生身の人間に対する誠 実な研究的アプローチの在り方や、まだまだ全 く解明されていない人間や精神に関わる荘厳な 未知の領域について真摯に向き合う姿勢を時と して忘れさせる懸念があると筆者は考える。そ れは、ある意味で、人間の進化ではなく退化で

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との強い相関を持ち、より重視されるべきなの は、企業もしくは商品に対するブランド好意で あり、その醸成のためにはTVCMの好感度を 担保しなければならない。巨額な広告の投下計 画や推進管理を行う中で、筆者が着目したのは、 「相互作用を伴わない単なる接触を繰り返すだ けでも魅力を感じるようになる」11) という心理 学でいうところの単純接触効果である。商品開 発研究の担当者が世の人々に製品を通して貢献 するという思いで何年も心血を注いできた新商 品をコミュニケーション領域の不手際で無駄に するわけにはいかない。それゆえ心理学の知見 を援用し、筆者はTVCM投下量のコントロー ルと好感反応の変動を逐次的に観察しながら低 評価CM素材の好感を可能な限り押し上げるこ とに努めてきた。一方で、高評価CM素材につ いても安心はできない。オンエア前の評価が高 いCMは、オンエア後の測定断面においても想 定通りの反応となることは多いが、しかしなが ら漫然と長期間投下し続けると「同一刺激の繰 り返し呈示によって反応が減衰する」(ibid.)とい う馴化が起きることを筆者は数多く確認してい る。そのため高評価CM素材については、素材 が持つ元々の認知・再生のポテンシャルの高さ を生かし、馴化が起きないように、ある程度の 段階で広告投下を止め、一定の忘却が働いたタ イミングで投下を再開するというコントロール を行うことが必要であると筆者は考え、一定の 成果を得てきた。マーケティング実務を遂行す る上で、このように筆者が経営学やマーケティ ング理論以外の学問領域の成果から救われた事 例は他にも数多くあり枚挙に暇がないが、際限 がないためこの辺りで留めておくこととする。 また、以上で筆者が述べてきたことは、社会学 や心理学等を専門とされる研究者諸氏にとって は、ごくごく基本的で当たり前の事かも知れな い。しかしながら、マーケティング実務の現場 においては、経営学のどの理論書にも教科書に も、あるいは数多あるマーケティングの実用書 にも掲載されていない極めて価値ある知見であ ることを改めて強調しておきたい。

【マーケティングの現況と今後のあるべ

き姿として】

ところで昨今、マーケティングの世界では、 「マーケティング・サイエンス」なるものを標 榜する一派が急速に台頭し、瞬く間にドミナン トとなってきている。こうした最近の潮流に は、“R”や“Python”といったフリーウェアの統 計解析向けプログラミング言語の普及や、さら にそれを簡便に使えるようユーザビリティを高 めたパッケージ商品によって、比較的誰もが容 易にAIによる「機械学習」や「深層学習」を 用いたビッグデータ分析が可能となってきたこ とが背景にあるだろう。もちろん、デジタル情 報技術の急速な進化は、実務者にとって大変有 益なものであり、実務を遂行する上で先進的情 報技術は極めて便利で有用であることに間違い はない。ただし、こうしたツールを活用する行 為そのものは、決して人間そのものに対する科 学的な考察作業ではない。膨大なデータを無数 にある機械的アルゴリズムを用いて瞬時に解析 し回答を導くことには確かに実務的利便性はあ るが、それらは、分析結果に至る背後理論や法 則性の導出といった学問的・科学的なテーマと は異質なものである。マーケティングをデジ タル技術の進化と接合し、それをもって固有 の学問として語ろうとするこうした昨今の動向 は、本拙論で述べてきたマーケティング研究の 変節性と無秩序性をより顕著に示すばかりでは なく、誤解を恐れずに言えば、もはや、今後の マーケティングが疑似科学化してゆくことの予 兆であるように筆者には感じられる。それは、 経営学者の黒田等が貫いてきた誠実な学問的探 求の姿勢とは真逆の方向を示している。デジタ ル技術の急激な進展は、大いに人類発展の可能 性を示唆するものの、その一方で、技術の万能 性を過信するがあまり、生身の人間に対する誠 実な研究的アプローチの在り方や、まだまだ全 く解明されていない人間や精神に関わる荘厳な 未知の領域について真摯に向き合う姿勢を時と して忘れさせる懸念があると筆者は考える。そ れは、ある意味で、人間の進化ではなく退化で ある。神秘に満ちた人間の心とその器である身 体、そしてその有機的相互連鎖で生み出される 社会に対する考察を生業とする者にとって、そ のことを決して忘れてはいけないと筆者は考え る。マーケティングを一生涯の仕事として選択 した者が、30年後に自身の活動分野を取り巻く 実学的諸研究を批判するという構図は非常に皮 肉なものではあるが、その代わり筆者は、世俗 的なビジネスの世界に身を置きながらも、人間 中心に物事を誠実に見て考える姿勢と、実利と は無縁にひたすら純粋に真理を探究してきた諸 学問領域の偉大な成果の一部を学ぶことができ た。それは筆者にとってなによりも貴重な財産 である。 マーケティングが人間を対象としている限 り、それを遂行する上で究極的に求められるこ とは、この世に存在する人間そのものに対する 深い理解である。京セラの創業者でJALを再建 した稲森和夫は、その建て直しに当たって米国 のコンサルタント会社の申し出を全て断り、重 要な意思決定を自己の信念に基づいて行ったと いうが、稲盛は「私の経営学、会計学の原点に ある基本的な考え方は、物事の判断にあたって は、つねにその本質にさかのぼること、そして 人間としての基本的なモラル、良心にもとづい て何が正しいのかを基準として判断すること がもっとも重要である」 (2012) と述べている。 優れた経営者であり臨済宗の僧籍も有するこの 稲盛の言葉は、企業の再生や存続発展の上で重 要なことは、戦略や戦術ではなく、人間を中心 に考える倫理観であることを示している。また、 稲盛の言葉を受けて筆者は、宗教・哲学・心理 学・社会学・生命科学等々…といった学問世界 は、一見、マーケティング実務とは対極的に見 えるかもしれないが、実は、マーケティング にとって最も重要であり、かつ有益なインプリ ケーションを得る上でも合目的的であるという ことを主張したい。 そして、さらに筆者は、一介のマーケティン グ実務者に過ぎない存在ではあるものの、筆者 なりの立場で、「学際的な見地から未開拓な諸 分野の研究を深め、将来の世界における良き思 想的理念の構築に資する人体科学研究」に寄与 できることはないかと常に模索し、一生涯それ を続けていきたいと考えている。

【最後に】

本拙論を執筆している今、世界的な新型コロ ナウィルスの感染拡大で、我が国でも緊急事態 宣言が発出され、社会は大きな不安と危機の中 にある。2020年 4 月29日現在、この災禍の収束 の見通しは立たず、外出自粛要請がいつまで続 くかも不明である。この未知のウィルスの脅威 は、人々の生命のみならず、仮に無事に乗り越 えることができたとしても、その後に未曽有の 経済的崩壊をもたらすことは明白であり、まさ に社会はパニック状態となっている。我が国は 2011年に東日本大震災を経験しているが、前述 の黒田は、震災当時を振り返り、「社会的大問 題に対して、マーケティングを研究し、それを 大学で講義科目の看板に掲げているものが、適 切なマーケティング分野独自の分析的提言をで きないということに対しては、筆者としては、 内心忸怩たる思いであり、我慢ならないことで あった」12) と述懐している。一方、現在のこの 状況下で、大手広告代理店は、例によって早 くも「アフターコロナ」だの「Withコロナ時 代」だのといったキーワードを流布しはじめて いる。企業は今、新型コロナ禍によって今後の 存在意義を問われていると筆者は考えている。 マーケティングを取り巻く実情はさておき、筆 者は、我が国の国民が何とかこの危機を乗り越 え、安心と豊かさを取り戻すことができること を切に願うとともに、多くの人々が今回の災い を契機に生命の尊さや当たり前に暮らすことの 幸せを再認識し、企業も含めて利他的な価値観 に転換することを期待しつつ、微力ながら自分 なりに出来ることに集中し力を尽くしていきた いと考える。 【引用・参考文献】 1 ) 公益社団法人日本マーケティング協会の HP参照「日本マーケティング協会の概要」 最終検索日 2020 年 4 月 30 日:https://www.

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jma2-jp.org/jma/aboutjma/jmaorganization 2 ) 豊島襄:実務へのインプリケーションと マーケティング研究の方法論. 日本商業学会 流通研究, 第5巻, 第1号, pp. 80-81, 2002. 3 ) 石井淳蔵:マーケティングの神話. 日本経 済新聞社, p. 39, p. 45, 1993. 4 ) J・ボードリヤール (今村仁司, 塚原史訳): 消費社会の神話と構造. 紀伊国屋書店, p. 68, p. 81, p. 306, 1979. 5 ) 沼上幹:行為の経営学 −経営学における 意図せざる結果の探求−. 白桃書房, p. 19, p. 234, 2000. 6 ) 黒田重雄:マーケティングを学問にする 試み −マーケティングはマーケティング・ リサーチのことである−. 経営論集 (北海学 園大学経営学部紀要), 第12巻, 第2号, p. 155, 2014. 7 ) 黒田重雄:これまでのマーケティング方法 論と近年のAIにおける二つのアプローチ法 との関係についての一考察 −特に,ディー プラーニングとベイズ推定法の考え方を中心 に−. 経営論集 (北海学園大学経営学部紀要), 第16巻, 3号, pp. 43-44, 2018. 8 ) 黒田重雄:日本のマーケティングに関する 歴史的考察の序. 経営論集 (北海学園大学経 営学部紀要), 第17巻, 2号, p. 30, 2019. 9 ) 濱島朗, 竹内郁郎, 石川晃弘 編:社会学小 辞典〔増補版〕. 有斐閣, p. 135, p. 238, 1990. 10) 徳岡秀雄:社会病理の分析視角−ラベリン グ論・再考−. 東京大学出版局, 序論ⅰ, 1987. 11) 藤永保 監修:最新 心理学事典. 平凡社, p. 483, p. 745, 2013. 12) 黒田重雄:マーケティング学の試み:草稿. 経営論集 (北海学園大学経営学部紀要), 第12 巻, 3号, p. 3, 2019. 〔受付:2020年 3 月21日〕 〔受理:2020年 5 月 7 日〕     

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