Title
制度化
Author(s)
波平, 勇夫
Citation
沖大論叢 = OKIDAI RONSO, 8(1): 43-86
Issue Date
1968-01-31
URL
http://hdl.handle.net/20.500.12001/10996
制
度
序 制度の構造 制化
度
イ
七
結工
パースンズの社会化論波
平
勇 夫 制 度 化 社会機能としての教育、社会事象としての人間生成を体系佑し、概念構成によって科学とb
て確立する動きは、社 四 一 一2
役割学習による制度化3
組織の制度化五
学校の制度化 ぴ四
序
神 大 論 叢 凶 四 会諸科学の発展の趨勢と相倹。て、近年ますます活発になっていス九けれども、教育に内具する・複雑多様な現象のた めに、研究者の指向の対象、研究プロセス、概念構成には必ずしも共通性がみられない。ある意味でこれは当然の帰 結かも知れないが 3 反面特に概念構成に多様性を許容することは、問題の認識に暖昧きが加わり、教育研究への科学 性の確立は困難となる。 例えば、個人の生成発展に関しては、社会学、心理学、文佑人類学とそれらの応用科学である教育社会学、教育心 理学、発達心理学、社会心理学、教育人類学等を中心とした行動科学叉は社会諸科学が各方面からのアプローチを試
( 1
)
みているが、時折研究者の性急的法論主張のため問題把握と解明はますます困難にならざるを得ない。 制 度 佑 ( 帆55
ミ3
3
丸 紅 ミ3
3
)
は、上述の社会諸科学が従来取上げてきたパ l スナリティ理論の社会学的アプロー チで、あまり取扱われてなかった面から、個人の社会的行動を規定する社会勢力(
S
R
R
H
h
k
V
3
2
)
に一考察を加える。 具体的には広くパ l スナリティの社会的生成要因を制度2
5
5
S
H
3
S
と の 関 係 か ら 考 察 し 、 行 動 の 制 度 化 叉 は( 2
v
言 え た ミ 芯 お お 一 色N
a
p
S
8
3
﹃の過程を辿って行く。 目的論上これは決して新奇なものではないが、方法論的には従来の概念構成の整理と分析に役立つものと信ずる。 例えばs a
た ミ 芯 ぎ なE
H
3
誌に似た言葉にg n
弘氏紅白な。誌がある。これは今日の社会学、文佑人類学、教育学、教育 社会学その他の分野で広く用いられているが、主にこれは個人の適応や同佑(
B
包 逮 紅 白H
3
5
の過程に集中して、社 会の組織ないし制度の力動的面は単に役割取得(可。守宮骨s
h
)
或いは役割期待(さな・器官ミミ芯お)に留り、これらの 分析考察によって行動の具現的発展と、パースナリティ形成要因或いは統合要因としての位置づけは、余り充分なも( 3
)
の と は 思 わ れ な い 。 この傾向を主な資料から概観すると、社会佑の過程の基準として、ω
各個人の要求達成ω
特定社会叉は集団の行( 4
)
動基準への合致を考えているもの(司・切・切さ忌ミミh
H
ミb
-b
ミ志向守)、社会化を客観的事物の内面化の過程と解釈(
5
)
(
6
)
(
同
誌
-V
ぎ旬。豆、もっと興味ある論文としてへッブ(
b
・o
・周忌守)の晴乳類と環境の行動関係を神 するもの 経生理学的に把握しようとする試み等があるが、これらはいずれも適応ということに焦点を置いている。ミl
ド( 7
)
( ミ ・ ミ S A ) は社会佑の原理叉は要請を文佑の文脈 ( S N H 竜丸S
ミs
g
、 文 佑 圧 力 ( 町 酬 に H R g h ¥ ミR
旬 ) に 求 め 、 文 ル 山 形勢( S
ロ竜丸足立に生起する個人の行動の型、更には国民的性格(﹄ES
ミ ミ 町 宮 司R H
h
﹃ ) の 形 成 を 研 究 し て い る 。 ﹂の系統はペネディクト ( 同 切 国s a
r H
)
まで遡ることができよう。 けれども未聞社会に焦点を置き、特定社会の共通基盤を軸に取った方法だけでは統合し尽きれない部分が人聞の社( 8
)
会的行動にはある。これがミl
ド(ミ・ミS
S
等を中心とした文佑とパl
スナリティ研究への批判となっている。特 にわれわれの社会の如く、社会の分佑が複雑多岐になると、当然社会の組織機能、人間関係、行動様式、価値観等に( 9
)
多様化をもたらし、その社会成員に共通性を生み出す文化の機能(文佑の一次的機能と名づけよう)はその範囲と強 ( 叩 ) 固さを普遍永続佑し得ず、所調第二次集団のパl
スナリティ形成に対して持つ意味が増してくる。この論文の展開の 論拠は従前の第一次集団、第二集団(或いはそれらの類似概念も含めて)に基づくものではなく、人聞の行動が集団、 組織その他諸々の社会制度(
g
n
E
言 切 な 言S
S
)
によって有形化し具現佑して行く過程、換言すれば、ミ宮おむ問、 言言語芯﹃或いは吉之常ミ3S
忌 N 良吉ぎ叉ミの成立過程ぞ制度そのものの分析考察から進めて行く。けれども次節 で考察するように、制度は広範囲の形で社会体系の中に置位づけられるので、便宜のために制度を一次的制度と二次 的制度に分けて考察する。一次的制度は文化の一次的機能(前述)を備えた社会体系で、基本的パl
スナリティを規 定する制度と考えられよう。この点でカl
デ ィ ナ ー ( み ・ 同h q
h m
s s
と一致するが、二次的制度については彼と必ずし ( 円 ) も一致しない。ここで意図する二次的制度は一次的制度の上に形成される諸々の結合体( a
g n
S H
3 5
)
匂 一 般 に 有 形 制 度 化 四 五神大論議 四 ノ 、 的な姿で捕えられる経済制度、政治制度、教育制度等を指している。結合体を制度に含める場合、特に注意すべき点 は制度と組織の遣いである。両者はある面では非常に近い関係をもっているが、組織は。機能単位のネットワーク。 を主軸とするのに対して、制度は。行動。の体系を主軸としている。次に重要な点は、クラ
l
クが示した通り、組織 が永続してそれ自体としての目的を持つに到れば制度となる。制度の考察は次節で詰みられるが、今のぺた二次的制 度を通して人閣の行動を型どって行く過程(文佑の二次的機能と呼ぼう)をこの論文は第一の狙いとしている。後で も触れるように、従来の社会佑の理論が取扱ってきた主な内容は、発達の問題であり、その過程に於けるパl
ス ナ リ り始められ、パl
ス ン ズ ティ形成の面であった。けれどもパl
スナリティ形成はそこで完成するのではなく、成人になってからの社会的諸関 係も重要な要素であることは言うまでもない。従って、言わば小人のパl
スナリティの問題から転じて大人のパl
ス ナリティの問題││行動の型が形成される過程に注目したいのである。( η )
この種の研究は、多くの学者が大小いろいろな角度から触れているが、もとをただせばリントン(同ヒ誌な S ) に よ ( 吋 ・ M M司
8
5
)
によって継承発展させられている。そしてア!?リス(。-h
﹃ h い ミ な ) ・ ェ チ オ ( 河 ・ 同 ・ 出 向 、z a )
の研究もこの系統のものであろう。これらの研究は偉大なものであ ( k由 ・ 同 H N e S 3 ・ マ 1 ト ン るが、その成果の一つ一つは筆者を必ずしも満足させるものではないので、筆者なりの立場から、これらをまとめ考 察 し て い き た い 。制度の構造
の持つ行動的契機を考察する前に先ず制度が社会構造の中で占める位置について述べよう。 制度は普通家族制度、経済制度、政治制度、軍事制度、教育制度等のように、主に組織体制、法体制等言わば有形 的或いは認知し得る社会体系を指して使用されているのに対して、他の社会学者はこれらの有形的組織体制及ぴ法体 制を表面佑させたり、特定の社会文佑的行動様式に向って個人の行動を規制する、より一般的で永続的な社会勢力3
2
s
h
k
V
3
8
)
ま で 含 め る 。 制 度 ( 宮 崎S
a
s
g
)
( 叩 ) 例えば、先述のミl
ド は 今 述 べ た 一 般 的 使 用 法 で 使 っ て い る よ う で あ り 、 以 下 の 例 は 外 形 的 な ものから行動体系(両者は全く別のものではないが)の面まで掘り下げて説明しているようである。パl
ン ズ ( 同 ・ 同・切司ま)は﹁制度は地域社会の威光によって承認され、体系佑され、制定された共同生活習慣様式と定義され ( M ) ( 時 ) ょう。﹂と述べ、ガl
スとミルズ(同ぬまのミs
s
h
崎 町 ・ g -・ 回 、 む な ) は 制 度 をω
役 割 の 組 織 ( 言 。a a
ミ ・ 誌 な 。 3 0 ¥ さ な 旬 ) と 考 え 、 し か もω
その中の一つ叉はそれ以上が役割全機構の維持に役立つものと考えられると述 べ、役割の分化と統合に制度の成立過程、機能を考察している。パ 1 スンズ(円、竜一電器)もこれと同様な立場 (ぽ山) から定義している。しかも彼は制度を役割の単なるまとまり (§aH) と考えず、制度化された役割統合の複合・体 ( ぬS
ぎ なS
ミ吉丸きを。g h
む & さ な 札 誌 なh
g
H
S
)
と考え、社会構造上は役割より高次の序列体(ぬ診世絵ミミ吾、 建悼む)をなすとした。例えば財産という制度の場合、われわれは所有権とそれに附随する義務をつらぬく価値諸相を 伴う行動と期待の統合と関連する関与者の役割を想定する。換言すれば、この場合財産又はその制度はその社会の価 値体系の一部をなし、それに関する個々の行為はその価値体系の中で位置づけられる。この意味で、制度は役割の単 ( h h -h S H H 叫 ) 制 度 化 四 七沖大論叢 四 i¥ な る 集 合 体 ( 円 。 ミ 町 町 立 ミ 守 ) とも考えられない。 ここで意味する制度は個々の役割に当てがわれる役割期待の体系と 考 え ら れ よ う 。 これは更に社会学者の諸説を綜合した森昭氏の見解、すなわち﹁集団における社会行動の型(或いはデュルケムの 集合的行動様式)が比較的に高度の安定性、斉一性、形式性、普遍性的
H
S
笠 宮 ミ 丘 、 町 司 選 礼 子 、 可 さ と む ア 唱 さ さ 目 立 、 ( 什 ) をもったものを、制度と名づけている。﹂にも接近するであろう。 ( 間 ) コl
ル(円。な)は制度の定義に困難を表明しつつも、共同社会生活に基礎づけられ、継承されたものと考え、 ( 叩 ) ( 足 号 h e h ﹃)は結合体(
8
8
3
H
H
3
5
)
. マ キ ヴ ア との区別によって制度を定義している。彼によれば、 一 , 結 合 体 が 人 聞の集合体であるのに対して、集団行動と結びついた手順のできあがった形 ( 加 ) 言 え た R H 3 3 を 形 作 る ﹂ 。 ロ l ウィ(勾・同 -h 。三時)はこの説を襲踏してその性質を明らかにしようとする。個人の行 動は吉之とミ35
によって決定されるが、a
g
n
右足。まと違って、それに属することはできないと彼は考える。例え ( 引 ) ( 円 。 遣 さ ミ ミ 。 芯 ) w S M H 弘 司 ミ3
S
であると説明す ( H V ﹃ ミ 時 的 ) や条件 ( 円 。 噌 NR 叫 礼 町 民 。 芯 的 ) カ ま ぱ、家族、教会、国家は ぬ 伺 H 問 。 円 札 h N H -S -S M であるが結婚、聖餐 法 は る 。 最後の二人は組織や個人の行動を目的的に可能ならしめる与件だけに、制度の意味を限定しているようであるが、 ( 包 ) ブ ラ ウ ン ( 判 可 書 同 一 円 九 師 、 ・ 切 さ さ お ) も 一 一 一 一 口 っ て い る よ う に 、 こ の 区 別 は 一 応 納 得 し う る と し て も 、 一般的使用法とは異なる し、何よりも言たとミ芯まとBE
町 宮 内35
の関係は単なる存立可能な前提として前者を捕えるだけでは、後者の自律 ( 泊 ) 機能を説明することはできない。ブラウンは制度の集団行動に焦点を据えて、それは﹁或る特定の要求叉は欲望の囲 ( 包 ) りに集結している行動の型﹂と定義している。 集団及び個人の要求の志向として言えむミ35
を定義した者にハ l ツ ラ l ( h 。 ・ 同 町 苛 む 守 可 ) が い る 。社 会 制 度 は 目 的 的 、 統 制 的 で あ り 、 結 果 的 に は 文 化 の 一 義 的 複 合 体 で 、 無 意 識 に 或 い は 故 意 に 個 人 の 欲 求 や 集 団 の 能 率 的 作 用 に つ な が る 社 会 的 要 求 を 満 す た め に 作 ら れ て い る 。 そ れ は 不 文 及 ぴ 成 文 の 法 、 規 則 、 イ デ オ ロ ギ ー 及 ぴ 本 質 的 、 象 徴 的 、 組 織 的 、 物 的 道 具 的 手 助 ( ( 凡 送 、 な さ
S H
q H
芯 諮 る か ら 成 り 、 社 会 的 に は 標 準 化 さ れ 、 画 一 的 な 慣 習 に 於 い て 、 倒 人 的 に は 人 々 の態度や習慣的行動に於いて表明される。されは形式的或いは非形式的に作用している世論により特別に考案された機関 ( お ) ( 白 h吋 室 内 凡 間 的 ) を 通 し て 維 持 さ れ 、 強 化 さ れ る 。 以上の諸定義や制度論を通して、各者各様の持論にもかかわらず、次のような或る程度一貫した構造及ぴ機能論を 認めることができよう。第一に制度(言えたミ3
3
)
は社会的行動理論に支えられていることである。如何なる社会的 事実も人間的要素の輔韓的或いは相互関係を内包するものであり、集団、組織、制度等の構造的機能的体制には、人 間的要素││特に行動的契機の経路が前提となる。パ l スンズ(円、ミ8
5
)
の﹁社会体系布。包ミ師、往時三は行 ( お ) 動 の 体 系 ( 師 、M H
h s
ミ
R
H
3
3
)
であり、独立した行動過程である﹂との見解に立てば、社会体系としての制度は当然 行動の体系として示されよう。 第二に制度の行動的要因は表相的、独立的、遊離的或いは個人的なものではなく、役割(さN g )
という水路を通し て社会的に統合凝集され、社会体系の中に位置づけられ、種々な社会組織の根底帯立条件となり、個人的には複雑な 社会過程の分化に伴う行動設定の根拠1l
行動の発路となり、更には種々な状況的行動の統合的作用を及ぼして、傾 向又は型を生じさせ、パースナリティ形成の重要な機能を具備している。パl
ン ズ た習慣様式といい、ガi
ス と ミ ル ズ 宙 実 H b h w 足止な)が役割の組織といい、パースンズが根源的役割統合の複合体 ( 同 ・ 同- N
w h
q g
)
が体系づけられ 等と考えているのはこの意味であろう。 第三に制度は以上示した本質的機能を表出するために、何らかの媒体者を必要とする。 ロl
ウ ィ ( 河 島 町 ・ ト 。 さ な ) の 制 度 化 四 九神大論叢 五 O 例 を 用 い れ ば 、 制 度 と し て の 結 婚 、 聖 餐 ( 円 。 遣 さ 輔
h s
s s
)
、法は実際的行動の場(行動が表現される場)として家族、 ( 訂 ) 教会、国会(叉は特定の社会)を予定する。ハl
ツラl
Q
0
・ 岡 崎 ﹃ 宮 町 向 、 ) が 制 度 は 特 別 に 設 定 さ れ た 機 関 ( 高 室 町 民B )
を通して行為者と融合離反の関係を維持するということもこの意味であろう。 このような制度の諸相は、文化及び社会構造の構成要素として個人の行動に侵透し体系づけられるが、制度が行動 一つは入閣の生長発達の初段階で特に有力と 体系を型取って行く過程には大きく二つの分岐点があると考えられる。 思われる諸制度の生活佑、個人化、人格佑の面である。例えば家族集団、社会一般の基礎的、中心的行動様式を備え た制度としての慣習、家族を可能ならしめる社会文化的諸相としての結婚、家族構成、役割に基づく行動様式等、森 岡氏の言葉を借りれば。生活文化。を構成する制度、いわば一次的制度がこの面に関係する。 一次的制度が行動の定型化に及ぼす影響力とその過程については、従来社会化(包三ミむミ3
主として広く認めら れているが、序で述べた通り、社会の複雑多岐化は、人間生成を以上のような初期段階だけでは留め江いものにして いる。それは日常使われている﹁仕事が人をつくる﹂とか﹁地位が人をつくる﹂等の表現にも端的に示されている。 基本的欲求充足の段階を一歩離れて、職業や地位等によりそれぞれの役割が与えられると、その役割に対する役割期 待がその職業や地位に於ける行動体系となり、積極的な意味では、役割参与者はこの行動体系を維持しようとし、消 極的な意味では、この行動体系から逃避しようとする。しかし後者の場合は常に社会的な役割期待の裁断を受けね そしてそれらの結果としての投射反応が考えられ ぽならない。そこは行動の二面性、ずれ主役ミも室町、)、不統一、 るが、ここでは深く立入らないことにする。いずれにしてもこのような役割行動或いは行動傾向は職業、 所 属 集 団 等に附加され或いはそこから結果したものだと考えられる。このような言わば任意の所属集団組織に要求される行動 体系を二次的制度と名づけておく。二次的制度はその関与者に対して、ある程度任意的、選抗的であり、社会全体からはある意味で部分的、特殊な存 在である。ここに於ける行動様式は先に筆者が名づけた文化の二次的機能と言えよう。 社会科学で整然とした概念構成は困難であるが、ここでもう少し一次的制度と二次的制度を具体的に例示したい。 より普遍的で形式的な行動体系は一次的制度に含めたが、法制度、政治制度、 経済制度、教育制度はどう区分されるだろうか。これらの制度は基底的生活文化と交わっているけれども、行動の場 としての高室町
S
は機能的、派生的性質を有しているので、二次的制度に含めておく。 ( お ) ( の ・ 司-M
E
S
S
﹃ ) の 自 成 的 な 型 ( 円 之 江 定 守 、 同 ) と 創 成 的 型 ( ミR
H
問 、 守 、 四 ) の 慣習など言わば生活文化巻構成する、 以上二つの制度の区別はサムナ l 区別にも相当しよう。 つまり一次的制度は前者に属し、二次的制度は後者に属する。 一次的制度と二次的制度の関係 を考察することも重要な課題であろうが、これは本稿のテ l マからはずれるので、ここではふれない。 きて次に、このような構造、性質を有する制度が如何にして人間の行動を型取り、叉は体系づけて行くかを検討し なければならない。これは本稿のテ l マであり、制度佑として以後展開される。 d H H 1 h 巾度
b r u,
S 4 ﹃ っていくことを意味している。前節で述べた通り、 ここで意味する制度化は日常使っている意味での制度化ではなく、行動体系としての制度がわれわれの行動を型取 一次的制度による制度化と二次的制度によるそれとは、その過程 及び内容が異なる。そこでその二つは別々に考察することにする。 一次的制度による制度化は、表現は異なっても従来社会化の理論で取扱われてきたが、再三述べている通り、 そ れ 制 度 化 五沖 大 論 叢 五 は発達論に限定される傾向があった。従って、 それだけではパ l スナリティ理論、行動理論を充分なものとしないの で、ここで二次的制度による制度化まで論及する。 制度の二つの面による制度化の理論構成は、ある意味では従来の社会化の理論の拡大とも一一一言えよう。パースンズは 社会化の理論盤大に貢献しているので、先ず彼の理論にふれたい。 l パースンズの社会化論 制 度 ( 札 唱 え た ミ
3
5
)
)
を行動体系、役割体系と解釈すると、 そこには二つの要請が可能になる。 一つは制度そのも のの役割配分ということであり、他の一つは個人の役割享受又は参加ということである。後者はさらに役割の機能と 個人の要請との関係から対極的立場に分析できる。 一 つ は 役 割 の 持 つ 道 具 的 機 能 で あ り 、 他 は 規 ( 勾 ) である。パl
スンズはこの二つの機能を価値基準への動機的志向の様式として捕えている。 喜 朗 マ ミ 晴 、 同 時 唱 え ミ ) 範 的 機 能 ( き 可 一 ミ ミ 芯 同 ) 日 ︹ 唱 え 同 一 、 時 的 H M 町 )hq 彼によれば価値基準への一致.不一致は、個人の P 便宜的なもの(
S
Y
忌 室 町 、 ) 0 叉は。道具的な興味(雪之ささき H ミ から生ずるものもあり、他方基準の投入作用(吉岡さなミ35
や内面化(吉右ミミむねなミ)とそれへの ( 釦 )( S
h h
崎 忠 師 、 。 切 と3
5
)
となって現われる面もある。後者の 適合行動がパ l スナリティ構造の中で行為者の要求傾性 成立過程は価値基準を媒体として自我と他人(色5
5
との相互作用によって説明され、 そこには二つの行動次元が作 用している。二つの次元とは。一致( g
s p
ミミ堂。l
l
o
逸 脱 ( 札S
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、又は hq 好ましい(
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。 、o
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S .
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i
-e
喪 失 ( 号 、 ﹃ な ミ Hミ)等であり、自我は常にこの次元 で他人 ( m R O 円 ) に裁断(陶芸町民。お)されている。安定した相互作用とは行為者の興味が共通の価値志向基準の体系に ( 引 ) 一致することである。このような相互作用は基準への一致という機能と、それによって自我が要求充足を果すという( 担 ) 個人的、道具的機能を兼備している。パースンズはこのプロセスを制度化(言えたミ
3
ミ h丸 紅 ミ3
3
)
と呼んだ。そして ( 犯 ) このプロセスの中に諸々の行動の統合的契機と社会体系の中核的現象を拙いた。 このような社会体系と行動体系の一体佑が、発達と適応に主眼を置いた従来の社会化論を拡大したものと思われ る。それではこの二つの体系l
l
社会体系と行動体系ll
は如何にして結合し得るか、叉現に結合しているか。これ は重要な問題であり、 いろいろな学習理論まで論及しなければならないが、ここでは社会的学習の面に限定して述べ ' ﹄ 、 。 今 t p h v パースンズは社会的学習の成立与件として三つの基本的過程と、それが生起する文化内容との関係を設定する。そ の一つは認知的志向(町品ミ忠言。三時ミミ3
3
)
で、行為者のおかれた状況や対象についての判断や解説を示す。次 に発現的志向(
S
S
同町内号ミ凡さ宮町公選)で、これは状況叉は対象と自我の関連づけをなす。最後に認知志向によって ( 鈍 ) 一示される判断の多様性及び選担肢に一定の秩序を一示す評価的志向(
m
g
E
H
3
向。立さ宮町民芸)がある。この三つは実際 の行動状況下では相互補足的で明確な区別は困難であるが、個々の行動を分析し、それの要因に注目すれば可能であ ヲ つ pフ 。 それらは更に社会的事実と結合して、行動 ( お ) 成立の充分な前提となる。少々長くなるが、彼の行動理論を一瞥するために次に引用しておこう。 この一一一つの行動与件は彼が動機的志向の様式と呼んでいるものであり、 行為志向、文化型、制度の様式及び種類の概略 A 行動の動機的志向の様式 認知的 制 度 化 五神大論叢 発現的 評価的 B 行為の価値志向の様式 認知的 鑑賞的 道 徳 的 、 ( 統 合 的 ) a 自我統合的(個人的) b 集団統合的(社会関連的) C 文化型の種類 信条体系(認知的意義が一義的)
D
表出的記号の体系(関連性が一義的) 価値志向基準の体系(評価が一義的) 行為│l
興味の種類(文化型のそれぞれの種類と結合した動機の一様式が一義的) 認知的興味(。知ること O へ の ) 適応的興味(目的物から満足を確保することへの) 統合的興味(矛盾の縮少と解釈への)E
評価的行動志向の種類(興味の一義的意味と評価的統合的結合を計る) 道具的(目標の発現 1 1 認知が一義的) 五 回a
研究的(目標として認知的問題解決) b 創造的(目標として新しい表出的記号形式) c 応用(知識の使用││従ってa
、b
で示きれない目標のために認知的興味が一義的) 表出的(表出的記号の型によって要求傾性の 9 実行。) 道徳的a
自我統合的 b 集団統合的F
価値志向を有形化する制度の種類 関係的制度(興味内容を離れて相互的役割期待を定議する) 規制的制度(目標とか手段に関して。私的。興味追求の合法性の限度を定める)a
道具的(私的目標を共通の価値と統合し、合法的手段の定義) 表出的(許容し得る表出的行為、状祝、個人、機会、志向の基準の規制) 道徳的(個人的基準や下位集合体に対して道徳的責任の領域を定める) 文化的制度(文化受容の義務、私的受容を制度佑されたかかわち合いに変えることを定める)a
認知的信条 bc
b 表出的記号の体系c
私的な道徳的議務 制 度 化 五 五神大論叢 五 六 以上は社会的行動体系の縮図とも言えよう。こここでは全体の説明をする余裕がないので、制度の志向様式に限定 ( お ) して述べたい。勿論それだけで社会的行動の充分な説明には程遠いが、制度化は行動体系の組織というテ l マと、そ の意味で制度化は社会体系の価値志向を含み、社会統合という機能を有することを考えると、必ずしも局部的である と は 思 わ れ な い 。 その本質は共通の価値様式の内面化にある。この内面化は共通の価値志 ( 釘 ) 向によって成立し、社会統合と自我統合の調和的安定化を計るものである。これは即ち社会構造の中核的部分を示す ( お ) ものに他ならない。 先ず関係的制度の意義は相互作用にあり、 け れ ど も 個 人 の 要 求 傾 性 志 向 ミ ・ 忌 師 、
a
E
3
M
)
切興味等は上述の制度にすべてはめ込むことのできない逸脱的性質と 量的な面がある。この場合制度は構成的(円。誌とたミ守町)ではなくて条件的(円3
h
$
3
5
3
度である。この制度は価値基準の設定と行動範囲を限定する二つの働、きである。更にこの機能は目的l
l
手段の行動 となる。これが規制的制 過程に限界を据える。道具的。面と、表出的行為に基準を設定するよ衣出的。面、評価的機能を果す。道徳的。面に 具 体 化 す る 。 文化制度は表面的行動へのかかわり合いというよりも、文佑志向( S
ロ
ミ
ミ
ミ
札
S
N
a
g
s
の型を設定する。この意 味で表相的向。送還止さS
H
よりR
R
R
E
b
諮問問の機能が重要性を持ち、統合的面により大きな比重が置かれる(宗教、( ぬ
)
教育、科学、イデオロギー等の信条体系、儀式や特定芸術サークルのかかわり合い等における表出的記号││ ( 刊 )s y
g g
q H
S Z
h M
)
。
彼は制度を単に社会の構成要素としてではなく、同時に行動の経路叉は枠組として位置づけている。これは前節で筆者が分析した制度の構造とも一致する。ただここで問題となるのは、これだけでは行動一般の具体的説明にはなら ないということである。 先に示した行動体系の概要は、 このような点を考慮した上で、 心理学的成果を社会学的方 法で一一層深化した行動理論と言えよう。行動理論、パースナリティ理論は社会学の法則ですべて包括できないが ( 引 ) 者は別の体系)、社会体系に根ざす動機(広く行動の)のメカニズムを考えると、両者の接合点ぞ発見することは困 両 難ではない。この接合点は学習過程で捕えられるが、ここで意図する学習は広義のものではなく、 ( 句 。 円 札 お な N S足 。 誌 ) の 過 程 で あ り 、 それはパ
l
ス ン ズ に よ れ ば 、 い わ ゆ る 社 会 化 (hRN) 9 役割を満足に機能するために必要な志向の獲得。 で あ る 。 位 で は な く 、 これからすると、社会化に不可欠条件は役割学習ということになる。ここで意味する役割は勿論個々ばらばらな単 社会全体から考えると、 制度の構成要素であり、 組織では機能的分節とも考えられ、 常に社会とか組 織という全体的枠組の中に位置づけられ、体系をなしている。このような意味での役割を学習していくことは、当然 上述の枠組とか体系の中に身を投ずることに他ならない。これは巨視的立場からすれば、社会と個人の相互期待にも とづくと言えよう。パースンズは確立した役割期待の補足性(向。送、なさミ古江町、)の維持或いは相互作用の過程を維持 ( 特 ) ( 科 ) せんとする傾性は社会過程の最初の法則だと見る。何故ならこれは自我統合の一面と社会統合を前提とするからであ り、理想的相互作用とは両者の調和的交通であることは、彼が度々ふれている。 ( 佑 ) 以上は社会化の過程が社会統制との関連性を保持することを示したものであるが、どちらかといえば、この節の最 初の部分に筆者が示した役割参加という面に重点を置いた社会化論である。しかし制度の行為的契機はもう一つの面 からも追求されねばならない。それは役割配分ということであり、パースンズはこれを役割配置( n
a h
r s
h 3
3 )
とも呼 んでいる。役割配分というのは、客観的存在としての制度が個人に対していわば道路をつくって提供するようなもの 制 度 化 五 t;沖 大 論 叢 五 人 である。その道路を通ることが役割参加であり役割亨受である。役割参加のためのオリエンテーションが役割学習で ある。ここで明らかなことは役割配分と役割参加は同質的に取扱えないということである。 パースンズは両者を区別して説明しているようであるが、役割配分(彼は。配置。という) の考察態度は弱いよう に 思 わ れ る 。 配 置 は あ る 休 系 と し て の 社 会 体 系 に 対 し て 機 能 的 重 要 性 を 持 つ と い う 眺 望 に 立 っ て 考 え ら れ る 過 程 で あ る 。 他 方 社 会 化 は 個 々 の 行 為 者 の 動 機 と 関 連 . つ け た 過 程 で あ る 。 社 会 体 系 が 個 人 に 開 放 す る 役 割 責 務 ( さ 町 内 S 言 語 守 旬 、 R H ) の 選 択 肢 の 中 か ら い ず れか選ぶことを学習することは、確かに社会的学習の部分をなし、この決定は社会化を通して獲得される価値志向を明示 ( 特 ) す る 。 この引用ではっきりするもう一つの点は、配置の過程と社会化の過程を区別していることである。筆者の用語を使 用するなら、社会化は役割参加(役割学習も含めて)に限定されて、役割配分は他の過程ということになる。それに 異論をはさひ必要はない a しかし社会化理論がそこで限定された場合、役割配分の過程で考えた方がより妥当と思わ れ る パ l スナリティ形成は如何なる理論でかたづけられるか (役割配分の過程におけるパーソナリティ形成といって も役割参加及び学習を全く考慮しないという意味ではない)。この点がパ l スンズの社会化論に満足できない所であ り、敢えて制度化(弘吉之宮之さむとさな。お)という概念を導入した次第だが、制度化には役割配分も役割参加も勿論含 まれており、特に前者については第三節でくわしく述べる。 何はともあれ、彼の社会化論は、彼が言う加く従来の発達論に限定会れていたものを拡大し行動の一般的メカニズ ( 灯 ) ムに位置づけたことは特筆すべきである。反面従来の学習理論の応用(それは彼の意図することであった)の域を脱 ( 特 ) ( 拍 ) ( 叩 ) してない面もあるにせよ役割学習の重用性、役割の個人的社会的位置づけ、そして社会体系は行動体系として、行動
の科学を遠大な視野から体系化していった功績は絶大なものである。次に彼の役割学習を拡大補足するために、役割 理論を一瞥したい。 2 役割学習による制度化 上述の社会化過程で役割学習の重要な意義が明らかになり、更に前述の制度の考察で、役割と制度の関係が示され た。ここでは、社会化の核心として、或いは制度化の一面としての役割学習を考察したい。 順序として役割の定載を求めなければならないが、次に示す如く多種多様にわたっている。コットレル(円ミマミ﹄) ( 引 ) は役割をある社会状況内における幾系列もの内部的に一貫した相互反応系列となし、サ
l
ピ ン ( ﹃ ・ 河 ・ 切 実 v 宮)はこ の説を発展させ、相互作用状況における個人の行為や所為の類系化された連続と考え、その類型化あるいは組織化 は、その状況内における他人の知覚的あるいは認知的行為の所産とみる。このような相互作用から行為の概念佑が生 ( 臼 ) じ、そこから予測及び期待が特定の人にかけられ役割が生ずる。彼はこのような概念佑及び期待を。他人の位置を占 めまたは命名する O と 表 現 す る 。 サ l ピンのいう概念佑及び期待は、位置GS
主主'地位も含めて) への関連を示すものであり、役割と位置は相互 関係によって、社会体系に位置づけられねばならない。かくして、パl
スンズは社会体系及び行動体系の中に役割及 ( 臼 ) ( 日 ) ぴ役割期待を設定する。彼の場合、役割は個人志向と集団志向を包含し、役割期待は志向(。立芸E H
g s
)
を統制して ( 日 ) 標準化を示し、他の人(ねた町三の裁断に備える。役割をある特定の状況、位置叉は地位に期待される行動様式と考え ( 団 ) るなら、サl
ピンのいう如く、パースンズの役割と役割期待は同じであろう。 以上の傾向をたどって、南博氏は次のように定義している。 制 度 化 五 九沖大論議 六 O 役 割 と は 、 個 人 が 、 一 定 集 団 の 人 関 関 係 の な か で 占 め て い る 地 位 に ふ さ わ し い も の と し て 他 の 成 員 か ら 期 待 さ れ て い る 行 動 の 形 式 で あ り 、 そ の 形 式 に そ っ た 行 動 を 役 割 行 動 と 呼 ぶ 。 役 割 行 動 は 、 幼 児 に 学 習 さ れ ( 役 割 学 習 ) 、 し だ い に 自 他 の 役 割 に つ い て の 認 知 、 態 度 な ど に 内 面 化 さ れ パ 1 ス ナ リ テ ィ の 一 部 と な り ( 役 割 習 性 ) 、 そ の 習 性 に も と づ く 役 割 が 実 行 さ れ る ( 訂 ) ( 役 割 実 現 ) 。 ネイマン及びヒュウズ ( 時 )
( 弓
a s h Hお 除 同 N H h p a ) が述べているように、 一定した定載は求められそうではない。しか 念 で あ る か ら 、 或いは相互作用の中に位置づけられているということである。役割が制度や組織、 ( 臼 ) それは当然ともいえようが、事実土方氏が解説しているように、役割は役割理論が確立する以前か し諸々の定義から、役割の構造ないしは性質の方向を捕えることは可能であろう。その第一の点は、役割が社会状回 つまり社会的状況を前提とする概 ら、相互作用論とか社会的自我という概念の中心的地位も占めてきたことでもわかる。 第二の点は、役割は期待を伴うということである。ある役割はその遂行者にとっては個人的要求傾性とのかかわり ( 印 ) 合いを持つにしても、他人からすればその役割は期待される行動体系である。(サ l ピンの言葉を借りれば権利)。 第三の点は、このような期待は特定の位置又は地位、 それを生み出す文化状況(期待的行動様式は文化型の函数と いう意味で)、場的状祝(固定した期待行為はないが、特定の状況が特定の行動様式を生み出す原因となる)に本質 ( 引 ) 的叉は従属的行動様式(サ 1 ピンの言葉を借りれば義務)を設定する。 ( 位 ) このような分析と全く同一ではいが、オルポ l ト(の・司・注目、。ミ)も役割の四つの意味を記述している。彼はω
社会組織の中で占めるある特定の位置に対して他人が期待する行動としての役割期待(さなE
S
Y
ミ ミ3
5
)
、 者の自己期待として説明される役割概念、ω
個人に対して機能的規定(奇書た c s a N K V 詩 的 ミ 凡 な2 3
)
となり、個人へ帰ω
行 為 属する範囲でしか・作用しない役割受容(さな- R
R k
v z
g s
w
ω
行為者のパ l ス ナ リ テ ィ 構 造 、 その他。個人的。な受容力を反映する役割実現 ( 3 N 令官ミミさき
R )
を 挙 げ て い る 。 以上のような役割の骨粗ll
相互作用、期待、位置を踏まえて、役割学習の過程を考察していきたい。役割学習を 役割取得と同義的に解釈すると、従来の研究は二つの方向に分かれている。その一つは、役割の成立過程を集団の機 ( 臼 ) 能とし、集団構造の分析、とくに小集団研究にみられる。例えば青井和夫氏はフォーマル及びインフォーマルな小集 団における役割分化を示し、パースンズの四つの役割分化類型を引用している。勿論個人の特性という面を考える と、集団の機能だけが役割を決定するものではない (とくにインフォーマルな集団では)。かくして大塩俊介氏は 役割分化要因として、第一に集団の効率化、第二にメンバーの性、年令、能力、パ l スナリティなどの個人的特質だ ( 制 ) としている。ベイルズ(勾・、 -N w h H N S ) はこの二つの要因を集団機能の面から捕え(ぬ札 h輔 、 三 宮 ・ き た さ き さ 宮 町 な 領 域 と ( 邸 ) ( m w ) 言 同 時E
R
S
-2
﹄ 守 主 的 乞 誌 な 領 域 ) 、 ス レ イ タ ー は こ の 二 つ の 面 が 集 団 内 で 分 佑 し て い く こ と を 示 し て ( 釘 ) い る 。 ( 、 ・ 同 ・ 師 同 ぬ な ﹃ ) このような集団組織佑の過程としての役割取得を考える場合でも、相互作用の体系としての集団組織、位置と期待 を伴う行動様式の分化の過程が考察されなければならない。しかしこの過程は、単なる役割参加というより、それ以 前の役割配分の強力な統制力に注目しなければならず、その意味で次の過程とは一応区別されなければならないが、 ﹂ の 点 は 次 節 で 考 察 す る 。 役割学習(叉は取得)研究の他の方向は、幼児の発達過程で研究されている面であり、 その古典的研究者の一人は ( 印 ) である。ミ 1 ドは役割学習と自我形成を同次元的に三つの段階から考察している。それはω
単純な役割、仰組織されたゲl
ム の 役 割 、ω
﹁一般化された他人﹂の役割であり、それぞれ個人は彼の生活空聞に継 起する相互作用或いはコミュニケーションを通じて、他人が自分に期待しているものを認知し意識して、ある場合に ミl
ド ( C -R h h s h H ) 制 度 化 ~ ノ 、神大論議 ム ノ 、 は 強 制 さ れ 、 その期待にそった行動様式を学習していく。女児が母親を、男児が父親を模倣し、同佑し、同一視して いく過程は、子供が上述の期待にそって。他人の役割。を学習し取得していく過程に他ならない。このようにして個 人が学習し、実現していく役割行動は他人から評価され ( パ
l
スンズの言葉巻借りればS
R
H
3
S
故に他人との相 互作用を通して自分自身を意識し、客観佑していく。そして。一般化された他人 4 の役割を演ずることのできる自我 が完全な自我であり、これはいはば社会我(客我) で ミ 1 ドはこれを足 m で表わし、これに対する主我をI
で表わし て い る ρ 制度的にみた役割とは、結局。一般化された他人。に他ならず、パースンズのいう行動体系、社会体系の概念、及 び両者の相互作用も制度と役割の関係から説明される。更にガ l スとミルズ(向。ミs
h
w
n
・司・ミミ M ) は制度が 個人ぞ形成していく過程は、制度の持つ。重要な他人。を内面化して。一般化された他人。を取得していくことに他 ( 印 ) ならないことを示しているが、これは改めて後述する。 ミ l ドの自我発生論及ぴ役割取得論は、創造的で広く文献にも引用されているが、ただ一つ疑問点がある。即ち一 般論では全く異論はないが、問題は自我構造を代名詞のミ?にに分けたことである。例えば、子供宣言語使用能力 の発達過程では、代名詞同河昇足時が使われ始めるのは自分の名前を使い慣れてから以後である。。
00
坊(
O
O
ち ゃ ん ) は : : : : : : し た いo
ゃ 。00
坊(
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O
ちゃん)をしからないでねo
等と自分自身を指して話す子供のミ h と 同 の 構 造関係はどうなっているか。 。一般化された他人。と。主我 4 の分佑はないといい得るであろうか。 ( 刊 ) この点に関して、全く偶然にもマンハイム(円ミミ尋問札さ)が解釈上の問題点として指摘している。彼のいう困難 な問題点とは、如伺にして子供が代名詞4
0
を 学 習 し て い く か 、 ということで、代名詞使用による自我構造論まで は触れてないが、彼の疑問点は明らかに代名調足時と同の使用からきたものである。( 引 ) さてこのような疑問点を残しつつも、ミ l ドの貢献は絶大であり、マンハイムが指摘しているように、彼の偉大き は自我を与えられるもの、或いは形而上学的実体ではなく、社会的経験から形成されると示した点である。 ミ
l
ドは自我形成を役割学習及び役割実現の面から考察したのであるが、先述のサ 1 ピン(円拘留﹃史認)は自我( η )
と役割学習の密接な関係に着眼しつつも、両者を別々の過程から考察している。彼は役割学習(獲得)の過程を意図 的教授と偶然的学習の二つに分け、特に後者の過程として従来使用されてきた。同一視。、 h q と り 入 れ 。 、 b 感情移 入。、。他の役割をとる 6 等ゃ、彼独特の表現である。かように( g
q )
4
で描写しているが、全体としてはごく簡単 にふれている。しかし彼の役割一般論と自我論、そして両者の相互作用論は、行動理論やパl
スナリティ理論に大き く貢献すると思われる。 ここで特にふれたいのは彼の。自我。と。役割の相五作用。についてである。彼はこの主題のもとに、役割群の長 期的実現が自我に及ぼす影響、自我と役割葛藤或いは役割と役割葛藤などの課題を扱っているが、ここでは最初の課 題だけに限定して考察したい。 役割は確かκ
個人及び社会の要求を満たす(パ l スンズ)限りにおいては道具的(言 MH33 柏 町 ミ ミ ) 個人は要求充足のための可能な行動様式が無限に許容されるのではなく、社会的位置(立場)に期待される行動様式 である。しかし を受入れ、それを実行しなければならない。この過程はある意味では強要であるが、さもなければ個人の要求はおろ か、社会の要求即ち統合佑は困難になる。社会行動の原理がすべてこの公式で説明できなくても、社会構造(或いは 体系)と行動体系には一貫性が要求され、その重要な媒体が制度(玄白之宮町3
5
)
と考えられる。制度化された行動 とは社会体系に即応した行動様式を意味する。このような意味で、役割実現は個人の ( な 悼 柏 町 民 円 足 立 。 お お と N旬 、
v ミ 悼 む 巴 民 。 可 ) 要求傾性 ( s h ミ ・ & 師 、 。 包 尽 き 旬 ) の側面と同時に社会統合の契機を他の側面とする。 特に後者に注目すれば、役割は表 制 度 化 ム ノ、沖大論叢
ノ
、
四 出 的 ( 町 民 、 詩 的 拍3 h
)
で あ る と い え よ う 。 所で問題は道具的面の役割と表出面のそれとは独立した変数かということだ。例えば特定の個人が特定の会社で地 位 を 見 つ け 、 それに相応する役割を実現していく場合、彼個人の収入獲得、社会的地位や新しい友人関係の獲得、会 社の営利追求等は道具的役割の産物である。 一 方 彼 が そ の 会 社 に 忠 誓 し 、 そ の モ l ラルに従い、部下の指導、社員全 体の統制に参加すること等を考えれば、彼の役割は表出的となる。役割のこのこつの面は分離可能であろうか。これ に対する解答は、制度の性質、制度と組織の関係から示される。即ち、 一次的制度での役割は二次的制度でのそれよ りも分離が困難である。単なる組織での役割よりも、制度化された組織での役割が分離困難である 係 に つ い て は 、E
、制度の構造及び次節の三、組織の制度化参照)。 ( 組 織 と 制 度 の 関 つまり、役割は制度化が進めば進む程、道具的 機能と表出的機能の区別がしにくくなる。 何故このような区別を問題にするかというと、手段としての役割(道具的)及び役割行動は時聞がたつにつれて目 的(表出的) のような形になっていく場合が多い (道具的機簡を失うということはないが)。先の会社の例で示す と、その会社員の第一の目的は収入を得るためにその会社に入社するのが普通である。しかしその会社での職歴が長 くなればなる程、収入以外にその会社に附随する目的が生じてくる。 つまりその会員であることに誇りを持ったり、 叉はそれから抜けきれなかったりして、意識無意識の中にそのように行動する。即ち手段としての入社並ぴに社員と しての行動が目的となってくる。 いい換えれば、特に二次的制度(大会社も含めて) では、初期的段階での区別はで きるが、長期的には区別困難となる (理屈では区別できても、意識無意識の行動では区別しにくい)。 ここに役割と行動、役割の統合体としての制度と行動体系、 サl
ピンの如く自我と役割の相互作用(特に役割の長 期的実現)を論ずる価値が充分ある。以上の点に関してサ l ピンは、。成人の役割実現の際生ずる経験の残基が、自我組織に影響を与えないとはいえな ( 花 ) ( 刊 ) い。ことを示し、彼独自の自我組織との対照によって論じている。そして役割実現が自我に影響を及ぼすか否かは、 自我組織の発達程度に対応し、もし個人が原始的自我のレベルに固着すれば(例精神病者)、成人に達した際の役割 ( 花 ) 遂行が自我組織に及ぼす影響は少ないと考えている。 換言すれば、社会的自我の役割を取得し、実現し得る正常な発達をとげた個人は、役割の影響を受けることが大で の官僚機構とその機構に属する個 人 の パ
l
スナリティとの関係を紹介しているが、これは主要な本論文のテl
マでもあるので、次節以下に取挙げた あることを示すことに他ならない。そこでサl
ピンはマl
ト ン ( 均 ・ 片 足 時 三 。 誌 ) L、
。
以上述べた役割学習は、前節の社会佑論の深佑補足であった。従来の8
町民ミ札 N Q H 3 3 指摘した通りであるが、パースンズは行動体系と社会体系との連続性の中に社会化のメカニズムを分析して、より整 然とした位置づけをなした。しかし、彼の理論構成は宮切符昔話。E
号、を説明するには有力であるが、社会組織の 多様性支払官同苫止、)に伴う行動の説明には充分とは思われず、役割理論を補充してきた。次に現代社会を焦点にした の概念構成の暖味さはすでに 組織の制度化について述べる。 3 組織の制度化 ここで述べたいのは、制度の凝集力とそれに伴う行動の様式佑である。制度は集団や組織そのものとは異なるが、 それらの基底となるために集団や組織の凝集力ともなり、成員に対して外的圧力及び規範を示すことによって個人を 型どって行く(
S
S
E
言 h ) 。 この過程は一次的制度では発達途上の学習過程として、意識無意識の中に進行する 制度化 六 五神大論叢 六 六 が、二次的制度では表面的かかわり合いを初期的特徴とする。制度の凝集化と個人の行動様式の周題は、
(
B
E
n
R
足。ま)としての制度(二次的制度)と所謂吉丸町宮3
3
a
s
y
形成を志向する制度(一次的制度)の考察に よってより的確となろう。後者は前節の社会佑のメカニズムや役割学習で触れたので、ここでは前者だけについて述 結 合 体 べ る 。 結合体の特徴は、先述の如く任意的表面的かかわり合いであるが、しかしそれは初期的段階の特徴であって、長期 的には一次的制度と同様に、個人の内面的かかわり合いを生じせしめる。従来パl
スナリティ形成の社会的要因とし て、この面が軽視されてきた。社会化の理論も大体宮丸町宮3
ミ ミ 凡 守 ﹂ ﹁ ミ 喝 さ 足 。 誌 が 中 心 課 題 で 、 二 次 的 集 団 組 織 叉 は二次的制度における行動様式については、あまり関与していない。ここでは特に、二次的集団組織の制度化の過程 を 考 察 し て い き た い 。 学 校 、 大 学 、 大 会 社 、 そのような合意性は組 織自体の持つ自立的凝集力に組織の一義的意味をゆずらざるを得なくなる。クラ l ク ( 切 ・ 均 ・Q h
H
﹃ 砕 ) は 組 織 の 制 度 佑 ( 市 ) の過程を、組織内の行動様式が明確にされ、それがその成員に永続的意味を附加することだと考え、。組織が目的達( π )
成の純粋な手段では泣くて、それ自体が目的となる時、組織は制度となる 0 と 述 べ て い る 。 組織の制度化の過程は先ず手順(可。R
R
S
3
)
の形式化( - P
ミミをミ h ) に現われ、その形式に合った行動様式が要 求される。この過程は如何なる組織にもみられるものであり、特に能率を一義的とする組織では不可欠のものである その他組織はある目的達成のための、合意的道具として出発するが、 が、ここでの重大関心事はそのような組織過程のもたらす心理的、人格的側面である。つまり組織の形成化は個人の 行為を常規的(さミ宮町)なものにし、それは更に非融通性(﹃荷主段、)をもたらす(マ l トンのいう。訓練された無 能力l
l
後述)。ここで組織の適合的行為をよぎなくされる個人が精神的かかわり合いを持つに至ると、その常規的( 花 ) 行為は手段そのものを目的にかえていく(マ
l
トンのいう。手段的価値が終極的価値となる4
1
1
後述)。そしてそ の手段は固定佑 ( h N ) して新奇なものへの抵抗を示すとクラ 1 ク は 結 論 す る 。 このように組織が制度となり、役割が形成化し固定化してそれ自体が目的的になってくるとき、その役割行動を制 度化された行動様式Q
5
5
誌 な ミ ミ 紅 白 札v
S
2
3
S
と呼んで差しっかえないと思うが、これが心理的影響力をもつ ことは理解するに困難ではない。長年勤務した職場や出身学校への愛着あるいは大学教授が古いノi
トに固執する傾 向も、制度化された行動の系列として説明されよう。何故ならずこの心理的志向の対象である職場、学校、所持品等 は他の目的を達成するための手段であったものが、それ自体として関与者の感傷的愛着(め言及還3
E
N
ミH R
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3 H
)
( 刊 ) の対象物となっているからである。 制度による人間形成(言切なE
H
3
5
N
H
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き
高
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h v m 3 喜朗)の心理的側面について、ガl
スとミルズは制度の制定す るω
特定の他人G
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宮 司) w ω
重要な他人(丸町ミhs
ミ ミ ﹄ 柏 崎3
)
、ω
一般化された他人(
h
h
s
g
h
N
ミ ミ ぎ3 )
から説明している。例えば役割を遂行する伺人は制度の設定する。重要な他人。或いは制度の指導者(言切さ足立。 富民営民的)の期待を内面化することにより、叉はそれから結果する種々な制限と調和した役割遂行によって、彼自 身を自制するようになる。そしてこのような影響力が増長するにつれて、制度の制限作用は。一般化。され、しかも ( 印 ) 心理的に特定の制度と結合していぐ。 このような心頭的かかわり合いが手段を目的に変え、行動の国務化( h
h S
H g
s )
るが、これがその後のパ l スナリティ形成に影響なしとみる者はないであろう。教師タイプ、役人タイプ等の知き職 をもたらすことは先述の通りであ 業タイプは、職業及び職場(組織を含めて)の制度化の産物と考えられる。南博氏がパl
スナリティ形成論を考察し て、精神分析学やカ l ディナー及びフロムの基本的パ l スナリティと社会的性格の理論の限界を指摘し、家族、社会 制 度 化 六 七沖大論叢 ノ 、 八 的地位、職業及び職場、学校、文化、地域、国民などに固着する集団的習性からのアプローチも試みているのは、いろ ( 別 ) いろな集団組織の要因を強調している点で全く同意できよう。例えば彼は。教師タイプ O の形成要因の一面として、 教師に対する社会の要求ぞ挙げているが、その要因は教職という地位に対する役割期待であり、それは制度化の一面 に過ぎない。このような職業人タイプは役割そのものからと同時に、役割の組織そのもの(制度)からも考察されな け れ ば な ら な い 。 地位、職業など所属集団のパ
l
スナリティ形成に及ぼす影響力の古典的研究者はリントンである。彼はパl
ス ナ リ ティ形成の窓口をω
共通な価価体系(これはカl
ディナーに引継がれる)、ω
地位(
M
H
a
s
h
X
3
3
s
h
礼 町 、 ) ・ω
自主的 ( 回 ) 取拾選抗(文化的h
H
E
s
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及 び 言 急 三h E
b h
宮町ミ怠喝、弘之島によって)の三つに分けているが、とりわけここで 強調するのはω
である。佐々本及ぴ田野崎両氏はこれの具体的説明として、。先生らしいタイプ、職人らしいタイプ ( 回 ) といった社会的地位や職業にふさわしいパl
スナリティ。を挙げている。 学校教師の中にもいろいろなタイプがあり、画一的なタイプでは説明できない面もある。唐沢富太郎氏は教師のタ イプを組合型、復古型、中間型の三つに分け、ヤング(同.、志向)はω
落ちついた教師、ω
形式主義の教師、ω
理想 ( 制 ) の男性H
英 雄 の 教 師 、ω
愛情に飢えている溺愛の教師等に分けているが、これらの分類は教職という枠組の中で捕 えられる個人的多様性に基づくものに他ならない。これはリントンの示す文化選抗性( R H
h H S
4
画 ね な e 帽 し 明 ) 、 個人的特性 ( 吉 弘 守 主s s
h
﹄ 守 崎 町 足 立s h
たなとによっても説明可能であろう。このようなヴァリエーションを抜き出すことは、 。 教 師 。 を形成している諸事実に迫る有意義な面であるが、反面それだけにとどまらず、全体的枠組を明らかにすることも軽 視されてはならない。自分では型にはまった教師ではないと思っていても、他人からはそのように見られる場合が多 ぃ。教職の特殊性からくる職業倫理、クラス、教科、学校、教員組織等とのかかわり合いは、普通の商人や役人とは一見違った、ある方向づけられた行動の定着化が要請され、その要請に乗じなければ教職には不適応となる。 このような行動の定着化は、それが生ずる場を集団と考えれば、その集団の習性(南博)と考えて差しっかえない が、習性という概念はぼく然としており、特に組織を問題の対象とする場合は余りにも一般的過ぎる。クラ
l
クは行 動の固着化を組織の形式化(︾﹃ S SなN a
g s
或 い は 制 度 化 ( 宮 崎 忌 ミ な お お な 皆 同 E S ) の過程で捕えていることは先述 における人間関係や行動様式も、このような制度化の過程から研究され得る の通りである。官僚制(守宅S
言ミミ) ( 部 ) 好 材 料 で あ る 。 官僚制の研究ではマックス・ウェl
ヴァーがよく引用されるが、官僚制機構とパl
スナリティの研究ではマ1
ト ン ( お ) (河・同・足時立。芯)が代表的な一人であろう。彼は。合理的に組織された形式的な社会構造には、明確に規定された 活動形式が備っており、行為の各系列が組織の目的と機能的に結びつくのがその理想であるo
といい、その代表的タ イ プ が ピ ュ l ロクラシーであると述べている。。官僚。或いは h q 官僚的。という言葉は一般的使用上から受ける印象 としては。けむたがられるo
面があるが、これはいわば官僚制の逆機能の面であって、技術的能感的という機能的面 を考えると、官僚化は望ましいことであり、如何なる組織も理想的機能を果たすためには避けられない過程であり、 ( 町 ) こ こ に ウ ェl
パl
が西欧社会における官僚化の増大を予見した偉大さがある。 さて問題は制度化(官僚佑も含めて)に伴う行動様式の固着化叉は定型佑(マl
ト ン は ピ ュl
ロクラシーがうまく運 ( 邸 ) 営されるためには、行動に関する信頼性が高く、規定された行為形式へ人々が合致しなければならぬという)から結 果する諸現象であるが、これは上に暗示した如く、官僚組織の機能的面と官僚制の欠点或いは限界ともいうべき逆機 能的面(例、非融通性、手段の目的化、人間関係の非人格佑等)に分けて考えられよう。後者は前者の成立過程で不 ( 閲 ) 可避的産物であり、ヴェブレンの。訓練された無能力。の概念、ヲルノットの。専門的崎形。もこの面であり、 マ 制 度 化ノ
、
九沖大論議 七
。
( 叩 ) トンは両者(機能と逆機能﹀の併容を行動の二価性と名づけている。 この行動の二価性の発展過程をマl
トンは官僚化の分析の中で次のように位置づけているが、先述のクラl
クの制 度佑の説明と一致している。即ちω
ピ ュl
ロ ク ラ シl
が効果を発揮するためには、反応の信頼性と規程の厳守が要求 されるω
かかる規則の厳守はやがて規則を絶対的なものにしてしまう。すなわち、規則はもはや一連の目的と関係な きものと考えられるようになる附このため、一般的規則の立案者がはっきりと予翻していなかったような特殊な条件 のもとでは、臨機応変の処置がとれない。ω
かくして、一般に能率向上に資すべき筈のものが、特殊な場合にはかえ ( 引 ) って非能率を生みだすことになる。 以上のようは官僚佑、制度佑に伴う行動様式の固定化は、われわれに興味ある問題を考えさせる。例えば、一見奇 異な印象を与える以上のような事実、或いは人間関係の非人格化の故に。けむたがれる O 事実を官僚自身は不自然と ( m M ) ( 田 )f
﹂ういうことでは駄目だ 4 とはめったに考えず、却てそのような組織構造の中に安泰を求める。このような安 カ 〉 泰(勤続年数、昇任、年金、昇給等)は。規律ある行為と服務規程への合致に対する刺戟剤として工夫されたもので る。職員は自分の思組、感情、行為を将来の昇進に順応させるように期待されており、また事実大抵そうしている。 ところが、規程をよく守らせるためのこれらの処置が、かえって規定厳守の関心を過大にして、臆病、保守性、技術 ( 伺 ) 主義を誘致する。。 ここまでくると制度化の過程は個人的要求と合致しているように思われるが、実際には程度の差が考えられ、 致 不一致の程度、逸脱の許容などは制度の種類はもとより、制度化の程度によっても異なってくる。ここでは組織の制 度佑に問題ぞ限定するなら、一致不一致の程度は、組織の制度化の程度に左右されるであろう。何故なら、この場合 の制度化は。手段的価値の究極的価値への転嫁o
であり、そのためには何らかの意味で参与者の支持が必要となるからである。或いはマ