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〈翻訳〉クリス・サルター講演「感覚人類学・テクノロジー・メディアアート」

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  本稿は、二〇一六年四月五日に同志社女子大学︵今出川キャンパス純正館三〇九教室︶で開催された科学研究費補助 金 基 盤 研 究︵ C ︶﹁ グ ロ ー バ ル・ ア ー ト・ イ ン ダ ス ト リ ー に お け る ア ー ト の 可 能 性 ﹂︵ 研 究 代 表 者   神 戸 大 学・ 前 川 修、 分担研究者   立命館大学 ・増田展大、近畿大学 ・岩城覚久、研究課題/領域番号 26370095 ︶主催第三回公開研究会﹁感 性 編 集 技 術 = ア ー ト の 現 在 と 未 来

感 性 人 類 学 / メ デ ィ ア ア ー ト ﹂ の 招 聘 ゲ ス ト、 ク リ ス・ サ ル タ ー さ ん の 講 演 原 稿﹁攪乱、翻訳、文化化

ニューメディア、テクノロジー、諸感覚をめぐるリサーチ・プログラム

﹂の全訳であ る。   二 〇 一 四 年 度 か ら 二 〇 一 六 年 度 に か け て、 主 に 美 学 = 感 性 学、 視 覚 文 化 学、 映 像 メ デ ィ ア 論 な ど を 専 門 領 域 と す る メンバーで構成されたこの研究プロジェクトでは、 ﹁メディアアート﹂ ﹁ニューロアート﹂ ﹁バイオアート﹂ ﹁スペースア ー ト ﹂ と い っ た 一 連 の ア ー ト に 焦 点 を 合 わ せ、 そ う し た 諸 実 践 に か か わ る ゲ ス ト と の 討 論 を 通 じ て、 ﹁ コ ン ピ ュ ー タ テ ク ノ ロ ジ ー﹂ ﹁ 脳 工 学 ﹂﹁ 生 物 工 学 ﹂﹁ 宇 宙 工 学 ﹂ と い っ た テ ク ノ ロ ジ ー が 生 み 出 す 技 術 的 環 境 の な か で、 わ た し た ち の 身体や感性が被る変容︵と不変容︶を具体的に考え、かつそれを歴史的に相対化することを意図した一連の公開研究会 を開催してきた。リストをあげておくと以下の通りになる︵敬称略︶ 。

クリス・サルター講演

﹁感覚人類学・テクノロジー・メディアアート﹂

岩城

覚久

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・ 第 一 回﹁ 感 性 計 測 技 法 = ア ー ト の 現 在 と 未 来

脳 工 学 / ニ ュ ー ロ ア ー ト、 コ ン ピ ュ ー タ テ ク ノ ロ ジ ー / メ デ ィ ア ア ート﹂ ︵二〇一五年二月八日、京都精華大学︶講師   森公一︵メディアアート︶ ・精山明敏︵医学・脳科学︶ ・ 第 二 回﹁ 生 命 操 作 の 技 法 = ア ー ト、 そ の 現 在 と 未 来

生 物 工 学 / バ イ オ ア ー ト ﹂︵ 二 〇 一 六 年 三 月 六 日、 神 戸 大 学 ︶ 講師   岩崎秀雄︵合成生物学・バイオアート︶ ・斎藤帆奈︵バイオアート︶ ・ 第 三 回﹁ 感 性 編 集 技 術 = ア ー ト の 現 在 と 未 来

感 性 人 類 学 / メ デ ィ ア ア ー ト ﹂︵ 二 〇 一 六 年 四 月 五 日、 同 志 社 女 子 大学︶講師   クリス・サルター︵メディアアート︶   ・ 第 四 回﹁ 微 小 重 力 環 境 に お け る 生 の 技 法 = ア ー ト、 そ の 現 在 と 未 来

宇 宙 工 学 / ス ペ ー ス ア ー ト ﹂︵ 二 〇 一 七 年 一 月二一日、同志社女子大学︶講師   古賀一男︵実験心理学・宇宙生命科学︶   第三回公開研究会のゲストであるサルターさんはカナダ、モントリオールのコンコルディア大学芸術学部デザインお よびコンピュータアート学科の准教授で、アーティスト、哲学者、人類学者など多領域の研究者が参加する巨大ネット ワ ー ク Hexagram の 共 同 主 催 者 の ひ と り で あ り、 メ デ ィ ア ア ー テ ィ ス ト と し て 数 多 く の 作 品 = 実 験 を 手 掛 け る と 同 時 に 研 究 者 と し て﹃ も つ れ

テ ク ノ ロ ジ ー と パ フ ォ ー マ ン ス の 変 容︹ ︺﹄ ︵ MIT 、 二 〇 一 〇 年 ︶、 ﹃ 他 者 と し て の エ ー ジ ェ ン シ ー

制 作 過 程 に あ る ア ー ト と の 実 験 的 出 会 い ︹ ︺﹄ ︵ MIT 、二〇一五年︶といった単著の他、数々の原稿 を執筆し、世界中でレクチャーやトークを精力的におこなっている。今回の講演はサルターさんの三度目の来日の際に

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おこなわれたが、 ﹁グローバリズムにおける政治的経済的運動の必要不可欠な要素であるテクノロジーを仲介にしつつ、 そ の 作 用 を 時 に 堰 き 止 め て 反 省 の 素 材 と し て 用 い、 な お か つ 従 来 の 美 学・ 美 術 史 の 必 須 の 枠 組 み で あ っ た 形 式 と 内 容、 時間と空間、あるいは生命と非生命、そして中心と周縁などの二項対立を無効にしてしまうような力動を有しているア ー ト ﹂︵ 研 究 代 表 者   前 川 修 ︶ を 焦 点 化 し よ う と す る 当 研 究 会 か ら の リ ク エ ス ト に 正 面 か ら 答 え て い た だ く か た ち で、 事前にアレンジして準備していただいたのが以下に全訳した講演原稿である 1 。   講演のタイトルは﹁攪乱、翻訳、文化化

ニューメディア、テクノロジー、諸感覚をめぐるリサーチ・プログラム

﹂ と な っ て い る。 こ こ で 言 わ れ る﹁ 攪 乱︹ disturbance ︺﹂ は、 感 覚 学 と 感 覚 人 類 学、 ア ー ト の 実 践、 新 し い テ ク ノ ロ ジ ー の 開 発 か ら な る 学 際 的 = 超 領 域 的︹ transdisciplinary ︺ な リ サ ー チ・ プ ロ グ ラ ム の な か で、 異 分 野 の 研 究 者 や ア ーティストたちが互いに互いの前提や実践に疑問を投げかけ、干渉し合うことを通じて新しい経験と知を生み出すため の 方 法 論 を、 ﹁ 翻 訳︹ translation ︺﹂ は、 特 定 の 文 化 の 文 脈 の な か で 作 動 し て い る と さ れ る 感 覚 の 働 き を、 テ ク ノ ロ ジ ー を 通 じ て 別 の 文 化 の 文 脈 の な か に 移 植 し、 ア ー ト 作 品 と し て ひ と び と に 経 験 さ せ る た め の 方 法 論 を、 ﹁ 文 化 化 ︹ enculturation ︺﹂ は、 ﹁ 感 覚 ﹂ 作 用 は 生 得 的 な も の で は な く、 一 定 の 文 化 の 文 脈 の な か で 獲 得 さ れ る も の で あ る と い う 感覚人類学の主張の他、テクノロジーを用いたアート作品を通じてもともとの文化の文脈から別の文化の文脈へと置き 入 れ ら れ た 感 覚 の 働 き 方 を ひ と び と が 修 得 す る こ と

そ れ が 可 能 で あ る か ど う か は 別 と し て

な ど を 示 唆 し て い る。

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︿講演﹀

攪乱、翻訳、文化化

ニューメディア、テクノロジー、諸感覚をめぐるリサーチ・プログラム

Disturbance,

Translation,

Enculturation:

A

Research

Program

on

New

Media,

Technology

and

the

Senses

クリス・サルター Chris Salter Concordia University

Milieux Institute for Arts Culture and Technology

Hexagram Network   今 日 は 諸 感 覚 を め ぐ る 学 際 的 = 超 領 域 的︹ transdisciplinary ︺ な リ サ ー チ・ プ ロ グ ラ ム に つ い て お 話 し し ま す。 そ れ は 次 の よ う な 四 つ の 領 域 の 交 差 点 で、 新 し い 知 の 創 造 を 集 約 す る も の で す。 つ ま り、 ︵ 一 ︶ 新 し い テ ク ノ ロ ジ ー に か か わ る ア ー ト と デ ザ イ ン の 実 践、 ︵ 二 ︶ 人 類 学、 ︵ 三 ︶ テ ク ノ ロ ジ ー に か ん す る カ ル チ ュ ラ ル・ ス タ デ ィ ー ズ、 ︵ 四 ︶ そ し て新たなテクノロジーの開発という領域です。以下ではまず感覚学︹ sensory studies ︺と呼ばれる広範な研究領域につ いてお話しし、それから三つのプロジェクトについてお話します。取り上げる三つのプロジェクトは、デイヴィッド・ ハ ウ ズ と コ ン ス タ ン ス・ ク ラ ッ セ ン ︵ 2013 ︶ が﹁ 社 会 の な か で 生 き て い る 諸 感 覚、 そ れ ぞ れ の 文 化 を 横 断 し な が ら 洗 練

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される諸感覚﹂と言うところのものに焦点を合わせる人類学的、社会学的、文化的な知と経験に、メディアアート、デ

ザイン、そしてテクノロジーがいかに出会い、いかにその新しいかたちを創造できるかを検討しようとしています。

超領域性と翻訳

Transdisciplinarity and Translation

  こ こ で わ た し は﹁ 学 際 的 = 超 領 域 的︹ transdisciplinary ︺﹂ と い う 言 葉 を 特 定 の 文 脈 の な か で 使 用 し ま す。 今 日 で は 多 く の 本 の な か で 多 領 域 的︹ multi-disciplinary ︺、 相 互 領 域 的︹ inter-disciplinary ︺、 超 領 域 的︹ trans-disciplinary ︺ と い った言葉がさまざまな仕方で使用されていますが、本来、その土台にあるのはイギリスの知識社会学者マイケル・ギボ ン が 以 下 に 述 べ て い る よ う な 考 え 方 で す。 超 領 域 的 研 究 と は﹁ ﹁ 特 定 の 学 問 領 域 に 固 有 の 認 識 論 を 相 互 に 浸 透 さ せ る ﹂ より強力な研究のことで、これは、実際上、新たな融合的な地平が可能になることを意味する。つまり、単一の学問領 域の内部に存在する諸々のパラダイムを凌駕し、超越する地平である﹂と。   わ た し が お 話 し す る リ サ ー チ・ プ ロ グ ラ ム の 学 際 性 = 超 領 域 性 を 支 え る 一 つ 目 の 側 面 と し て、 ア カ デ ミ ッ ク な 世 界 の内外で知と実践の多様な領野を横断する多くの研究者やクリエーターがプログラムに深くかかわっていることをあげ ることができます。つまり、人類学者、文化歴史学者、デザイナー、エンジニア、音楽テクノロジスト、先住民のアー テ ィ ス ト や 非 先 住 民 の ア ー テ ィ ス ト と い っ た、 わ た し が 新 し い か た ち の﹁ 感 覚 テ ク ノ ロ ジ ー︹ sensory technologies ︺﹂ もしくは﹁感覚のテクノロジー︹ technologies of sense ︺﹂と呼んでいるものを扱っているひとびとです。   プログラムの超領域性を支えるふたつ目の側面は、その核となる研究成果の一部がきわめて創造的で自律した一連の アート作品であるということです。そうしたアート作品は、それぞれの文化を横断する感覚的知が多様な仕方で洗練さ れ る こ と、 こ の こ と を 図 解 す る わ け で も 模 倣 的 に 表 象 す る わ け で も あ り ま せ ん。 そ う で は な く 一 連 の ア ー ト 作 品 は、

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︵ 一 ︶︹ た ん な る 観 念 で は な く 経 験 可 能 な 対 象 で あ る と い う 意 味 で ︺ 経 験 の オ ブ ジ ェ ク ト︹ objects of experience ︺ で あ り、 ︵二︶ ︿翻訳︹ ︺﹀という方法論よって駆動する感性的形態︹ aesthetic form ︺です。 ここで言う翻訳とは、 歴史的な民族誌資料と現在のアート作品がもたらす脱文脈的な経験とのあいだをいかに動くことができるかを問う方法 論 で す。 言 い 換 え れ ば、 ︹ 特 定 の 文 化 の な か に い る わ た し た ち の 文 脈 と は︵ * 訳 者 で あ る﹁ わ た し ﹂ や 読 者 で あ る﹁ わ たし﹂は状況に応じて﹁わたしたち﹂に含まれたり、含まれなかったりすることがあるかもしれないが、以降、講演者 が 現 在 置 か れ て い る 文 脈 と い う 意 味 で 便 宜 上 こ う し た﹁ わ た し た ち ﹂ を た び た び 使 用 す る ︶︺ 別 の さ ま ざ ま な 文 化 の 文 脈 に お け る 感 覚 形 成︹ sense-making ︺ の 諸 様 相 が 描 か れ た 歴 史 的・ 文 化 的 に 特 異 な 民 族 誌 資 料 に 着 目 し、 そ の﹁ 行 間 ﹂ を 感 覚 的 に 分 析 し、 分 析 の 結 果 を、 も と も と の 文 化 の 文 脈 を 離 れ た︹ non-indigenous ︺︹ わ た し た ち が 位 置 す る ︺ 文 化 の 文 脈 の な か で﹁ 感 じ ら れ る 経 験 ﹂︵ ジ ェ ン ド リ ン ︶ に 変 換 す る こ と、 こ の こ と を 新 し い 技 術 手 段 を 用 い て お こ な お う とするのが︿翻訳﹀という方法論です。   さ ら に 言 え ば、 一 連 の ア ー ト 作 品 は、 ス タ ー と グ リ ス マ ー が﹁ 境 界 の オ ブ ジ ェ ク ト︹ boundary objects ︺﹂ と 呼 ぶ も のの機能を発揮し、プロジェクト・チームを構成する多様なメンバーに対してさらに広範な研究に向けた問いを提起し ま す。 つ ま り、 異 種 混 交 的 で、 異 文 化 横 断 的 な 実 験 状 況、 ま た 同 時 に、 視 覚 以 外 の さ ま ざ ま な 感 覚 様 相︵ 触 覚、 味 覚、 聴覚、自己受容感覚、平衡感覚など︶をも含む広大な領野を横断してどのように感覚形成が生じるかということにかん する文化的な前提︵決めつけ︶を暴き出すかもしれない実験状況から、いかにすれば新しい感覚的・人類学的知が生み 出されるかという問いを提起するのです。   今日のわたしのトークは三部構成になっています。第一部では、三つの特定の理論領域を横断するリサーチ・プログ ラ ム の 広 範 か つ 必 然 的 な 背 景 に つ い て お 話 し し ま す。 三 つ の 領 域 と は、 ︵ 一 ︶ 感 覚 学︹ sensory studies ︺ と 感 覚 人 類 学 ︹ sensory anthropology ︺、 ︵ 二 ︶ 諸 感 覚 に か ん す る 新 し い テ ク ノ ロ ジ ー を 用 い た ア ー ト 作 品、 ︵ 三 ︶ 触 覚、 振 動、 音、 匂

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いといった刺激をシミュレートする新しい﹁感覚テクノロジー﹂の商業的展開という領域です。この第一部でわたしは と り わ け 翻 訳︹ translation ︺ を め ぐ る 問 い に 注 意 を 向 け ま す。 つ ま り そ れ は、 人 類 学 の 研 究 成 果 の ほ と ん ど が 象 徴 的 な 性質であることを前提とするなら、そうした象徴的形式をいかに物質的効果へと変換し、もともとの文化の文脈から新 しい文化の文脈へと移し替えることができるかという問いです。   第二部では、現在も進行中の三つの共同リサーチ・プロジェクトに焦点を合わせます。ひとつ目の︽感覚のエンタン グ ル メ ン ト = も つ れ   ︾ は、 文 化 横 断 的 な プ ロ ジ ェ ク ト で、 先 住 民 の 感 覚 す る 身 体 ︹ indigenous sensing body ︺にかんする問いを探求しています。ふたつ目の︽触覚的場   ︾は触覚をめぐ る文化実践を精査するプロジェクトで、また同時に、新しい触覚テクノロジーの開発を通じて、一定の距離を置いたな か で も 触 覚 は 感 じ る こ と が で き る か ど う か を 精 査 す る プ ロ ジ ェ ク ト で す。 三 つ 目 の︽ ︹ 生 体 ︺ 認 証 さ れ た 自 己 ︾ は、 量 的 な デ ー タ

一 連 の 信 号

と な っ た 感 覚 す る 身 体 や 自 己︹ self ︺ を め ぐ る 今 日 的 な 強 迫 観 念 に 焦 点 を 合 わ せ、 ま た 同 時 に、 こ う し た 数 量 化 が 新 し い 形 式 の﹁ 液 状 化 し た︹ liquid ︺﹂ ネ オ リ ベ ラ ル な 自 己 の よ う な も の を 育 ん でいるということに焦点を合わせるテクノロジーとアートの共同研究です。   第三部では、さらに射程の広い一連の問いでこのトークを締めくくろうと思います。それは、政治的・社会的・技術 的理性の新しい諸モードが組織化されていくなかで、諸感覚の占める地位がしだいに高まっているということにかんす る一連の問いです。このことには、わたしが今日お話しするアート・プロジェクトと諸感覚の文化的差異というさらに 広範な文脈との関係が含まれます。さらには、人類学者、文化史家、さまざまな文化的背景をもつアーティストのあい だのコラボレーションを通じて感覚ベースの新しいテクノロジーを開発し、文化の相互浸透やクリティカル・デザイン を生みだす可能性が問われ、他方でそうした諸実践を通じて台頭する可能性もある諸感覚の組織化をめぐるネオリベラ リズムのモードも問題になるでしょう。最後にわたしは世界を知り、経験するための超領域的な支柱の可能性を明らか

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にすることを試みます。つまりそれは、感覚人類学と歴史を、アート、デザイン、テクノロジー、情動にかかわる問い

に絡み合わせたときに生起する支柱です。

感覚学と感覚形成における文化の役割

Sensory Studies and the Role of Culture in Sense Making

  今日お話しするリサーチは、 ﹁感覚学︹ sensory studies ︺﹂と呼ばれるさらに広範な学際的な知の領域内で動いていま す。 こ の 分 野 で 国 際 的 に 活 躍 す る 第 一 人 者 の ひ と り で あ る デ イ ヴ ィ ッ ド・ ハ ウ ズ に よ れ ば︵ 2013 ︶、 感 覚 学 は﹁ 感 覚 研 究に対する文化的アプローチと文化研究に対する感覚的アプローチとを含み﹂ます。歴史学と感覚人類学︵これについ て は 後 で 手 短 に 検 討 し ま す ︶ が こ の 分 野 の 要 で あ る の に 対 し て、 ﹁ 感 覚 器︹ sensorium ︺ へ の 着 目 ﹂ は、 ア ー ト、 人 文 学、社会科学、工学や自然科学をも横断するさらに広範な学問領域や実践に見られます。   実 際、 感 覚 学 の 主 要 な 目 的 の ひ と つ は、 人 類 学 の 中 心 的 な 問 い に 由 来 し ま す。 つ ま り、 ︿ 文 化 の 差 異 は﹁ 感 覚 形 成 ﹂ をめぐるさまざまな文化形式のうちにどれほど明瞭に分節されているか﹀という問いです。こうした探求は、ハウズが 言 う よ う に﹁ 心 理 学 の よ う な 学 問 領 域 が 諸 感 覚 と 感 覚 知 覚 を 長 期 に わ た っ て 独 占 し て き た や り 方 と は﹁ 感 覚 の 社 会 性 ﹂ を前景化させる点で﹂大きく異なっています。とはいえ同時に、さまざまな文化内でのそうした感覚の差異は、後に見 るように、とくにアートの文脈や、電子光学的、生物学的手段によって人間の感覚器を拡張するためにデザインされた 新しい﹁感覚﹂テクノロジーといった領域のなかで分節したり、明示したりするにはあまりに複雑なのです。   社会的・文化的文脈のなかでの感覚の差異への関心、あるいはゲルツが﹁ネイティヴの知覚理論︹ native theories of perception ︺﹂ と 呼 ぶ も の

異 な る 文 化 を 横 断 し て 感 覚 に 異 な る 意 味 が 与 え ら れ る こ と

へ の 関 心 は、 感 覚 人 類 学 と い う 分 野 に 遡 る こ と が で き ま す。 こ う し た 人 類 学 と 人 文 学 で の い わ ゆ る﹁ 感 覚 論 的 転 回︹ sensory turn ︺﹂ は、 一 般

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的に言えば、最初は一九九〇年代に台頭します。つまりそれは、文化をテキストとイメージに還元しようとするいわゆ る﹁ロゴス中心主義﹂と﹁画像中心主義︹ pictorialism ︺﹂に対抗するかたちで台頭してきました。   しかしながら、感覚人類学は決して単一的な分野ではありません。人類学者のポール・ストーラーによると、感覚人 類学は二つの異なる歴史的・認識論的軌跡をたどってきました。一方には、民族誌を中心としたアプローチがあり、そ こでは感覚経験をめぐる直接的で情動的な報告が、研究対象になる諸文化の核となる部分として焦点化されます。スト ー ラ ー は そ う し た ア プ ロ ー チ を﹁ 感 覚 研 究︹ sensory scholarship ︺﹂ と 呼 ん で い ま す が、 た と え ば、 西 ア フ リ カ の ソ ン ガ イ 族 を め ぐ る ス ト ー ラ ー の 報 告 に は、 彼 自 身 が 呪 術 師 の 見 習 い な っ た こ と に か ん す る 情 熱 的 な 報 告 が 含 ま れ て い て、 これはそうしたアプローチの一例です。   他方で感覚人類学は比較や﹁関係﹂にもっと力点を置く報告にも着目してきました。つまり、特定の文化に特化した 数 々 の 感 覚 研 究

そ れ ぞ れ の 文 化 を 横 断 す る 感 覚 に か ん す る 諸 研 究

を 通 じ て﹁ 知 覚、 認 知、 文 化 の 理 論 を 構 築 ﹂ し よ う と す る 報 告、 と く に 視 覚 以 外 へ と 開 か れ た 報 告 に 着 目 し て き た の で す。 ︿ 情 動 的 報 告 ﹀ が 身 体 経 験 に 着 目 す る の に 対 し て、 ︿ 関 係 学︹ relational studies ︺﹀ は、 感 覚 知 覚 と 感 覚 形 成 の 諸 モ ー ド が 文 化 に よ っ て 異 な る こ と に 応 じ て、 さ ま ざ ま な﹁ 感 覚 秩 序 ﹂ が 生 じ る こ と に 着 目 し ま す。 こ の よ う な 身 体 を め ぐ る︿ 情 動 的 報 告 ﹀ と﹁ 感 覚 秩 序 ﹂ を め ぐ る ︿関係学﹀との緊張関係は、わたしたち自身の作品の一部に生産的な背景と方法を与えています。 アート、テクノ・サイエンス、諸感覚

Art, Techno-science and the Senses

  感覚学はその学術的な性質上、感覚への関心を社会科学や人文学に導入することに力点を置いてきました。主に書く ことを通じて新しい知を創造するこのような分野との関係のなかで、それでは、アートの生産はどのような役割を担う こ と が で き る の か、 こ の こ と を 問 わ な く て は な ら な い か も し れ ま せ ん。 実 際、 感 覚 人 類 学 と 諸 々 の ア ー ト と を 交 差 さ

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せ、統合しようとする機運や﹁アートと人類学のあいだの﹂場を創造する︵ Schneider and Wright ︶といった機運は少 し ず つ 高 ま っ て い ま す。 と は い え、 こ う し た 仕 事 の 大 部 分 は 視 覚 イ メ ー ジ な い し 映 画 の イ メ ー ジ︵ た と え ば 民 俗 映 画 ︶ の生産にとどまっています。またそうした仕事が人類学による文化批判という強力なツールをアートの生産に関連付け ようとする場合でも、そのことが新しいテクノロジーにかかわる文脈のなかで焦点化されることはほとんどありません でした。さらには、感覚学の仕事の多くはアートの実践にはっきりと焦点を合わせたことがなく、そのようなことがあ ったとしても、これまで研究されてきた歴史上の多くのアート作品をそのまま基盤とすることにとどまっています。   その一方で、ヴィジュアルアートやパフォーミングアートも感覚論的転回にいち早くから取り組んできました。この こ と は、 パ フ ォ ー マ ン ス ア ー ト、 イ ン ス タ レ ー シ ョ ン ア ー ト、 と り わ け メ デ ィ ア ア ー ト の 台 頭 か ら も 明 ら か で す。 実 際、 新 し い 技 術 手 段 を も ち い る ア ー ト 制 作 の な か で は、 諸 感 覚 が ま す ま す 大 き な 役 割 を 担 う よ う に な っ て き て い ま す。 たしかに、ヴィジュアルアートの感覚環境にかんする芸術史の説明では、新しいテクノロジーの役割がしばしば軽く見 ら れ て き ま し た。 し か し な が ら、 新 し い 技 術 手 段 が 美 的 = 感 性 的 戦 略 を 通 じ て 感 覚 を ど れ ほ ど 拡 大 す る か と い う こ と に焦点を合わせた数々の先例がモダニズムとポストモダニズムの歴史のなかにはあるのです。   たとえば、ボードレール、スクリャービン、カンディンスキー、アントナン・アルトー、ヴァレーズ、ジョン・ホイ ッ ト ニ ー、 ゲ オ ル グ・ リ ゲ テ ィ と い っ た 広 範 囲 に わ た る ア ー テ ィ ス ト の 実 践 に つ い て は 多 く の も の が 書 か れ て き ま し た。共感覚のプロセスに対する彼らの実践的な関心が、まったく新しいアートの様式や運動の展開の触媒となってきた のです。二〇世紀の演劇の魔術師アントナン・アルトーは次のように書いています。残酷演劇は﹁有機体全体に﹂働き かける演劇であるだろうし、そこでは光、音、その他の舞台の要素といったテクノロジーが﹁熱さ、冷たさ、怒り、恐 れなどの諸感覚﹂を生み出すであろうと。   アルトーの予言は歴史上の注釈にとどまるわけではありません。それは、新しいテクノロジーを用いて究極的な感覚

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経 験 の 生 産 を 探 求 す る 最 近 の 広 範 囲 に わ た る ア ー テ ィ ス ト た ち の 作 品 の う ち に 物 質 化 = 実 現 さ れ て い ま す。 ク リ テ ィ エン・ファン・カンペンが論じるように、現代アートの没入的な性質はたんに感覚の諸カテゴリーに作用するだけでな く、 身 体 そ の も の に 作 用 し ま す。 池 田 亮 司、 シ セ ル・ ト ー ラ ス、 デ ィ ラ ー + ス コ フ ィ デ ィ オ、 カ ー ル ス テ ン・ ヘ ラ ー、 ク ル ト・ ヘ ン ト シ ュ ラ ガ ー、 ク リ ス・ サ ル タ ー、 TeZ 、 ソ ニ ア・ シ ラ リ、 ジ ェ ー ム ズ・ タ レ ル を は じ め と す る か な り 広 範囲にわたる現代のアーティストたちの作品は、何らかの方法で、人間の感覚知覚の限界と戯れているのです。   そうしたアーティストたちの作品は力強く情動的な知覚経験を与えるものですが、とはいえその大多数は、そのよう な混乱した感覚経験にさまざまな︹文脈をもつ︺ひとびとがいかに遭遇するかという文化的側面にも、作品のデザイン やエンジニアリングに現れてしまっている前提にもはっきりとは焦点を合わせていません。たしかに、カールステン・ ヘ ラ ー の よ う な ヴ ィ ジ ュ ア ル・ ア ー テ ィ ス ト は 幻 覚 薬 的 な も の に 着 想 を 得 た 自 身 の 作 品 を﹁ ひ と び と と の 大 規 模 な 実 験﹂と形容しています。しかしその場合でさえ、どのような種類の感覚身体に対してそうした作品が隠喩的・情動的に 作用を与えているのかということについて、あるいは、情動的・感覚的状況が生じるように組み上げられた自らの実験 装置が被ってしまっている社会的・文化的影響について、これらについての自己反省的側面が作品そのもののうちには ほとんど明示されていないのです。   さらには、これらのプロジェクトの大部分は︵すべてではありませんが︶新しい技術的手段を自ら開発しているわけ ではなく、市販のテクノロジーを採用したり、既存のテクノロジーを流用したり、誤用したりしています。言い換える と、そうした作品に没入する参加者の個々の身体が単一的なものであると見なされているのとちょうど同じように、展 開されるテクノロジーも文化的に中立的なものであると見なされているのです。これは、感覚知覚の精神物理学のため の研究実験︵いわゆる知覚テスト︶がほとんどの場合に中立的で非︲文化的な身体

実験室の諸条件のなかで検査さ れ、調べ上げられ、実例として提示される身体

を前提としているという議論に類似しています。たとえば、開発中

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の MP3 を 聞 く 被 験 者 に 対 す る 音 響 心 理 学 的 手 続 き の 影 響 を 論 じ た り︵ Stern ︶、 一 九 世 紀 末 の 精 神 物 理 学 的 現 象 を め ぐ る 実 験 室 で の 研 究 が モ ダ ニ ス ト の 知 の 美 的 形 式 を 形 成 し た こ と を 論 じ た り す る︵ Brain ︶ 最 近 の 研 究 は そ の よ う な 領 域 の 研 究 を 裏 付 け て い ま す。 こ こ に 見 ら れ る よ う な 単 一 的 な 感 覚 身 体 V S 複 数 的 な い し 集 合 的 な 感 覚 身 体 を め ぐ る 問 い は、やはりわたしたちの作品の中心に位置します。   アートの実践にかんするここまでの議論は、決して言及した作品の美的質や特定の文脈に対する価値判断を含むもの ではないと言い添えておくことは重要です。人文学と社会科学のなかで生み出されてきた伝統的な知の枠組みのなかで は、既存の慣習のなかにある身体がターゲットにされてきました。わたしが第二部で説明するプロジェクトで展開され たアート作品もそうした枠組みのなかで作動しますが、それだけでなく、感覚と新しいテクノロジーにかんする文脈や 背景のなかで、アート制作の新たな可能性を開く諸々の問いをも提起するのです。 新しい感覚テクノロジー

New Sensory Technologies

  リサーチ・プログラムの文脈を枠取る三つ目の知の領域は、諸感覚を主題および対象とした新しいテクノロジーの開 発という領域です。新しいテクノロジーが知覚を拡張するという繰り返し引用されてきたマクルーハンの議論を検討す るなら、実際、今日のアートや生活のなかでは、わたしたちが見たり、聞いたり、感じたりするあらゆる場所でデジタ ル計算テクノロジーが諸感覚を素早く追い越していくように見えます。   たとえば、二〇一二年のことですが、 IBM の﹁コグニティヴ・コンピューティング﹂リサーチ・プログラムの﹁ 5 in 5 ﹂ は、 五 年 以 内 に 機 械 は﹁ 感 覚 ベ ー ス の 情 報 を 集 め 処 理 す る わ た し た ち の 能 力 を 拡 張 ﹂ す る こ と が で き る、 と く に 触 覚はわたしたちに﹁製品の表面を﹂感じさせることができるようになり、最終的には﹁ヴァーチャルな仕方で﹂トゥパ ック・シャークルのホログラムとハイタッチすることができるようになると言っています。

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  も っ と 最 近 の ニ ュ ー ヨ ー ク・ タ イ ム ズ の﹁ 触 覚 の 未 来 ﹂ 特 集 は、 ﹁ 有 意 義 な 仕 方 で 世 界 と 相 互 作 用 す る た め に は、 わ た し た ち は 触 覚 を 使 用 し な く て は な ら な い ﹂、 そ し て 触 覚 テ ク ノ ロ ジ ー は﹁ ひ と び と に 実 際 に は そ こ に な い も の を 感 じ させることで﹂飛躍的に進歩するであろうと論じています。   触 覚 は、 後 で お 話 し す る わ た し た ち の 作 品 の な か の い く つ か に と っ て は 技 術 的 な 基 盤 と し て 作 用 す る 感 覚 様 相 で す が、長い間忘れられた感覚と見なされてきました。つまり、文化史家のコンスタン・クラッセンが主張するように、触 覚 は﹁ し ば し ば 語 ら れ な い ま ま ﹂ で あ り、 ﹁ も っ と 言 え ば、 歴 史 化 さ れ な い ま ま ﹂ の 感 覚 様 相 な の で す。 た と え ば、 皮 膚に力を加えてフィードバックを生み出したり情報を与えたりする触覚の科学が最近注目されていることは、今や触覚 が新しい社会的・文化的パラダイムになろうとしていることを示しています。   実際、触覚を拡張しようという考え方は、フォースフィードバック機能付きゲームコントローラーやスマートフォン か ら 最 近 の Apple Watch の﹁ タ プ テ ィ ッ ク エ ン ジ ン︵ Taptic Engine ︶﹂

装 着 し て い る ひ と び と の 手 首 に 触 覚 的 フ ィードバックを生み出す携帯電話のモーターに似たリニアアクチュエータ︵ Apple 2015 ︶

にいたるまで、手で作動 させたり、身体に装着したりすることにかかわる数々のテクノロジーのなかに見られるようになってきました。これま で 長 ら く 視 聴 覚 的 没 入 に 焦 点 を 合 わ せ て き た 数 十 億 ド ル 規 模 の コ ン ピ ュ ー タ ゲ ー ム 業 界 も 少 し ず つ 触 覚 テ ク ノ ロ ジ ー ︵フォースフィードバックや振動触覚アクチュエータ︶をゲームコントローラーに組み込むようになってきています。   しかし興味深いのは、拡張された触覚経験をテクノロジーによって生み出そうとする急激な動きのなかで、ユーザー とデバイスのあいだの触覚ベースのコンタクトは以前より縮小されてしまったということです。たとえば、アップルは 触 覚 フ ィ ー ド バ ッ ク の 繊 細 な レ ベ ル を 新 シ リ ー ズ Macbook の﹁ マ ル チ タ ッ チ︹ multi-touch ︺﹂ ト ラ ッ ク パ ッ ド に 加 え よ う と し ま し た︵ ﹁ 感 圧 タ ッ チ︹ force touch ︺﹂ と 呼 ば れ る も の ︶。 し か し、 皮 肉 な こ と に、 そ れ 以 前 の ラ ッ ク ト ッ プ の キーボードからは物理的に感じとられていた摩擦と抵抗のレベルは縮小されてしまったのです。このようにして、新し

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いデバイスが生み出されるたびにさらに薄いデザインが求められるなかで、それ以前の︵そこからコンピュータのキー ボードが派生してくるタイプライターのキーボードのような︶インタラクティヴ・サーフェスに含まれていた機械的フ ィードバックは、人間工学的諸要素と完全に視覚的な︵しかし触覚的ではない︶諸要素へと厳密に還元されてしまうの です。このような触覚︵ないし他の感覚様相︶の人間工学、つまり、ヒューマンファクターをベースにした効率性にか んする研究、そして感覚テクノロジーを道具化する他の諸形式への還元は、以下に論じるリサーチ・プログラムとプロ ジェクトが批判的に検討するものの背景のひとつになっています。

エンタングルメント

=

もつれ、触覚的場、認証される感性

諸感覚をめぐる三つのプロジェクト

II. Entanglements, Fields and Qualified Sensibility ‒ Three Projects on the Senses

  人類学、アート、新しいテクノロジーのデザインといった学問的に調和することがないようにも見える諸領域にとっ て、 ど の よ う な 意 味 で 感 覚 人 類 学 と 感 覚 が 重 要 な の で し ょ う か。 第 一 に ア ー ト と の 関 係 で す が、 マ ク ル ー ハ ン に よ れ ば、アートは広範な社会的・技術的文脈のなかで到来するものに対する﹁遠距離早期警報システム﹂であり、この考え 方は、広範な技術的趨勢への応答としてアート作品が担いうる批判的役割を論じたものとして、しばしば引用されてき ました。   新 し い テ ク ノ ロ ジ ー の 展 開 と い う 視 点 か ら 諸 感 覚 に 焦 点 を 合 わ せ る と 見 え て く る 美 的 = 感 性 的 な 影 響 も そ の よ う な 文脈のなかで機能します。まさにここにおいて諸感覚を伴うアート作品は、世界内存在に対するテクノロジーの影響を めぐって、何らかの仕方で限定されてしまっている思考を拡大するためのモデルとして使用することができますし、ま た同時に、そうしたテクノロジーがその内部で作動する、埋め込まれ、しばしば隠れたままである文化的前提を明らか

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にするために使用することができるのです。   ここでわたしが説明する三つのプロジェクトにはいくつかの共通点があります。第一に、三つのプロジェクトはすべ て、知と経験にかんする言説的な諸形式と創造的、物質的な諸形式とを集約するひとつの文脈のなかで作動します。こ れはカナダの学術的、文化的、政治的文脈のなかでは﹁リサーチ・クリエーション﹂と呼ばれてきました。第二に、三 つの創造的な作品はそれ自体で完結していると同時に、多様な感覚を横断する知覚に深く染み込んでいる社会的・文化 的 慣 習 を 修 正 し た り、 妨 害 し た り、 改 変 し た り す る よ う に デ ザ イ ン さ れ た︵ 一 ︶ 研 究 対 象 と し て、 ︵ 二 ︶ ア ー ト の 経 験 と し て、 ︵ 三 ︶ 理 論 的 モ デ ル な い し 実 験 と し て、 三 つ 組 み の 仕 方 で 機 能 す る こ と を 提 案 し て い ま す。 ま た 同 時 に 三 つ の プロジェクトは、感覚経験と新しいテクノロジーとの関係性

そこにおいて身体感覚と環境とのあいだの諸境界が融 解する

をめぐる一連の問いを提起し続けています。   最後に、プロジェクトにかんする説明は進行中の調査にもとづいていますが、三つのプロジェクトはすべて現在制作 中のものばかりですから、説明はいずれの場合も推論的なものになります。つまりここでは、プロジェクトの初期の段 階での概念的・技術的な展開のプロセスにかんして、その目的とアイディアをお話しするつもりです。 感覚のエンタングルメント = もつれ   ︽ 感 覚 の エ ン タ ン グ ル メ ン ト = も つ れ ︾︵ ︶ は、 四 年 と い う 長 期 間 に わ た る リ サ ー チ・ ク リエーション・プロジェクトで、カナダの社会・人文科学研究会議から資金の提供を受けています。このプロジェクト には人類学、ニューメディア、音楽テクノロジー、エンジニアリング、文化史の研究者、さらには、カナダとオースト ラリア出身の先住民のアーティストと非先住民のアーティスト、ニューメディアを専門とするデザイナーが参加してい ま す。 の 包 括 的 な 目 標 は 国 際 的 な コ ラ ボ レ ー タ ー た ち か ら な る 相 互 文 化 実 験 室 を 形 成 す る こ と で す。 そ れ は 諸 感 覚

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をめぐる新しい知だけでなく諸感覚を︿通じて﹀生み出される新しい知までを専門的に研究したり、創造的に生み出し たり、経験的に記録したりすることのできる実験室です。第一部で説明した理論的文脈にしたがって、このプロジェク トでは諸感覚が遺伝的・生物的・生理的能力としてではなく、むしろどれほど徹底して特定の文化に特異な能力として 身体化されているかを探求しています。こうした視点には、人間の身体にかんする理解と植民地化の歴史のなかで諸感 覚が担ってきた役割にかんする理解、この両方を概念化し直すという重要な意図が含まれています。そのためこのプロ ジェクトでは、創造的な方向からも概念的な方向からも、まずは諸感覚そのものがどの程度まで﹁占拠され﹂うるのか テ ス ト し、 次 に、 異 文 化 間 で 相 互 作 用 す る 新 し い 感 覚 デ ー タ を 生 み 出 し て、 凝 固 さ せ ら れ、 ﹁ 植 民 地 化 さ れ た 諸 感 覚 ﹂ を変容させること、これらのことを目標としています。   あらゆるリサーチ ・クリエーション ・プロジェクトがそうであるように、 にも複数の成果物があります。理論的、 方 法 論 的、 芸 術 的、 技 術 的 な 成 果 物 に 加 え て、 学 術 的 研 究 と い う 文 脈 の な か で は、 人 類 学、 歴 史 学、 エ ン ジ ニ ア リ ン グ、音楽テクノロジー、ニューメディアのテクノロジーをもちいたアートの実践などを横断することができる大学院生 の訓練という成果物もあります。   プロジェクトのひとつ目の主要な目標のなかには、過去と現在の人類学の資料を通して、特定の先住民の実践がアー カ イ ヴ 資 料 の 作 成 の 際 に ど の よ う に 概 念 化 さ れ 分 節 化 さ れ て き た か と い う こ と を 検 討 す る 批 判 的 作 業︵ ﹁ ア ー カ イ ヴ に 対 抗 す る 読 解 ﹂ と 言 わ れ る も の ︶ が 含 ま れ て い ま す。 こ れ は 口 で 言 う ほ ど 簡 単 で は あ り ま せ ん。 た と え ば、 ﹁ 先 住 民 の 感覚にかんするアーカイヴ﹂が存在するか否かという概念さえ検討を要するものですし、それ自体文化的な問題を含ん でいます。言い換えると、先住民の感覚実践が定義する意味での歴史のアーカイヴは、もし存在するとしても、西洋人 が考えるものとはまったく違うかもしれませんし、西洋で主流のアーカイヴの形式とはぜんぜん違うかたちで機能して いるかもしれません。実際、感覚にかんする知を書記言語の形式でとらえることはそもそも難しいわけですから、こう

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した研究には間違いなく政治的次元が存在するのです。   また同時にビドル︵ 2016 ︶が主張するように、空間と時間における暴力的な離接が、植民地化され、周辺化され、置 換された先住民たちの現在の状況を特徴づけているわけですが、そうした暴力的な離接の修復には、集団的なものであ っ て も 個 別 的 な も の で あ っ て も、 非 視 覚 的 な 知 の 諸 形 式 へ の 呼 び か け が 必 要 と さ れ ま す。 と い う の も、 そ れ を 通 じ て、 表象されておらず、否認さえされてきた歴史と経験にかんする知られざるヴァージョンが生じてくるからです。歴史資 料 が 欠 如 し て い る な か で、 先 住 民 に よ る 諸 々 の︿ 異 文 化 横 断 的 ﹀ ア ー ト は、 感 覚 ベ ー ス の 表 現 を 特 権 化 し、西洋で支配的な光学的視覚性を超え出ています。そうしたアートは記憶と出来事、言語と経験、記号と物とのあい だの断絶関係が前提となるポスト植民地的なトラウマという文脈のなかで、生き延びたアートなのです。   ふたつ目の成果物は、新しいアート作品の産出で、それはアーカイヴの文脈に対抗する読みを明確に目指す共同研究 環境の内部で生み出されます。これらの作品はコラボレーターたちのさまざまな異文化横断的な感覚経験を、ひとびと が情動的に枠取り、感じ、経験できるようにすること、さらには先住民であるコラボレーターの生きた経験と歴史資料 ︵ 依 然 と し て 批 判 的 な 検 討 対 象 で あ り つ づ け ま す が ︶ の 両 方 か ら も た ら さ れ る 非 視 覚 的 な 感 覚 様 態 を ひ と び と が 作 動 さ せること、こうしたことを目指しています。   こ の よ う な 目 的 に 向 け て、 一 連 の 個 人 制 作 な い し 共 同 制 作 の ア ー ト 作 品 が 目 下 段 階 的 に 準 備 さ れ て い る と こ ろ で す。 た と え ば、 オ ー ス ト ラ リ ア の ア ー テ ィ ス ト で あ る r e の 作 品 は、 音 と 触 覚 的 振 動 を 用 い て、 オ ー ス ト ラ リ ア 内 で 大 量 虐 殺がおこなわれた場所にかんする文脈を背景として、集団的トラウマをめぐる問いに取り組み、また同時に先住民の身 体に対して植民地化がもたらした情動的衝撃の精査を試みています。それとは別のわたし自身のプロジェクトは批判的 な メ デ ィ ア 考 古 学 に 取 り 組 む も の で、 ケ ン ブ リ ッ ジ 大 学 の 調 査 隊 が ト レ ス 海 峡 諸 島 民 の 感 覚 の 鋭 さ を 測 定 す る た め に 一八九八年に用いた一連の感覚器具に焦点を合わせています。これは最初の主要な人類学的な展示にもなりました。他

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方 で カ ナ ダ 人 の ア ー テ ィ ス ト、 チ ェ リ ー・ リ ロ ン ド ル の 作 品 は、 オ キ ュ ラ ス・ リ フ ト︹ * V R 用 の ヘ ッ ド マ ウ ン テ ッ ド・ デ ィ ス プ レ イ ︺ 用 の 三 次 元 的、 没 入 的、 集 合 的 で、 触 覚 的、 嗅 覚 的、 視 覚 的、 聴 覚 的 な 経 験 の 開 発 を ベ ー ス に し て、 ﹁光るティピ︹*移動用住居︺ ﹂の経験をシミュレートしようとするものです。そこでは懐中電灯やセージ︹*植物 の一種︺をもったひとびとが集まり、定められた場所でヴァーチャルなティピのような構造物を自ら自発的に作成しま す。 の 三 つ 目 の 目 的 は、 さ ま ざ ま な 設 定 で 公 開 展 示 を お こ な い、 ア ー ト 作 品 を 民 族 誌 的 観 点 か ら 評 価 す る こ と で す。 公開展示は文化的に特異な作品がそれとは異質の多様な文化的背景をもつひとびとに対してどのような情動的経験を与 えるかということを明確に理解するためにおこなわれます。すでにこのプロジェクトは今後展開される予定のアート作 品の展示に向けて、先住民の文化組織とも非先住民の文化組織ともリンクしています。   民族誌的な観点から、ここでも感覚人類学の仕事は、今後展開される予定の文化横断的な作品がひとびとに対してど の よ う な 効 果 を 与 え る か と い う こ と を 研 究 す る た め の 方 法 と 手 順 を 与 え て く れ ま す。 ﹁ 参 与 感 覚︹ participant sensation ︺﹂ と で も 呼 ぶ こ と の で き る 民 族 誌 的 技 法 は、 い く つ か の 重 要 な 点 で 標 準 的 な 人 類 学 の 方 法 で あ る﹁ 参 与 観 察 ︹ participant observing ︺﹂ と は 異 な っ て い ま す。 こ こ で は、 人 類 学 者 は 観 察 す る 研 究 者 と し て 一 定 の﹁ 客 観 的 距 離 ﹂ を 保とうとするのではなく、むしろ参加者と﹁共に感じ﹂ 、協調するための努力をおこなうのです。   こうして得られるそれぞれの内観は、集団での対話によって補われ、まとめられます。対話には、討論、想起、さら には、参加したメンバーが抱いた特異な感覚や印象に対する反省的な分析も含まれます。 そうした特異な感覚や印象は、 アート作品を経験するなかで生じてくる新しい感覚的相互関係を参加者たちが理解するプロセスや、参加者たちが経験 する文化横断的な感覚作用によって導かれるものです。個々人による報告とは異なり、民族誌的分析は共同でおこなう ものであるということが重要な点です。また思考後の研究とは異なり、民族誌的分析はアート作品の経験へと直接的に

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統合されるものであるということがさらに重要な点です。   こ の よ う な プ ロ ジ ェ ク ト の 政 治 的 文 脈 が 文 化 的 複 雑 さ を 伴 っ て い る こ と は 明 ら か で す。 た と え ば、 最 近 プ ロ ジ ェ ク ト・チームがモントリオールでおこなったワークショップでは、先住民に特有の感覚する身体といったものが果たして 存在するのかどうかといった問いが浮上してきました。多くの先住民の文化では味覚や聴覚といった個々の感覚が明確 には区別されていないからです。   ワークショップ中の討論で突然生じたもうひとつの興味深い難問は、たとえば祝祭やその他の神聖な文脈のなかで生 起する特定の形式の先住民の感覚的知は、土地に固有のものとして保たれている知であって、公の場で消費したり、表 象したりすることはできないのではないかという問いです。実際、こうした感覚的知は研究者やアーティストが意図し て取り出したり選んだりするようなかたちで﹁誰にでも手に入れることができる﹂ものではないという事実は、そうし た感覚的知を別の形式へと伝達することを試みる共同制作のアート作品や特殊なテクノロジーの展開に対してかなり手 強い課題を突き付けることになります。   最 後 に、 プ ロ ジ ェ ク ト の 全 体 は コ ラ ボ レ ー タ ー の ひ と り が﹁ 生 産 的 な 干 渉 と 攪 乱︹ productive interference and disturbance ︺﹂と言った方法論に影響されています。 つまり、アート、新しいテクノロジー、人類学のあいだの関係は、 それぞれの領域が他の領域の前提や実践を互いに攪乱しあう場合にだけ特定の文化の枠組みのなかで意味をもちうると いうことです。たとえば、先住民に固有の﹁感じ方﹂といった人類学の前提や、先住民の身体経験の諸形式を伝達する 非物質的で非先住民的な経験の空間を生み出すことができるとするアートのアイディア、これらを互いに攪乱し合う場 合にだけそうした関係は意味をもつのです。

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触覚的場   ふ た つ 目 の プ ロ ジ ェ ク ト は︽ 触 覚 的 場 ︾ と い う も の で す。 こ の プ ロ ジ ェ ク ト で は 新 し い テ ク ノ ロ ジ ー を開発して感覚の意味作用や情動を文化的視点から探究するためのプラットフォームを作成すること、このことをより 明 確 な 課 題 に し て い ま す。 加 え て、 こ の プ ロ ジ ェ ク ト の 人 類 学 的 文 脈 は の 場 合 よ り も さ ら に 厳 密 な 意 味 で 歴 史 的 で す。その意味でこのプロジェクトは先のプロジェクトの場合とは異なって、わたしたちが︿翻訳﹀と呼ぶ方法論的文脈 にかかわります。   と は い え、 と 同 様 に︽ 触 覚 的 場 ︾ も リ サ ー チ・ ク リ エ ー シ ョ ン・ プ ロ ジ ェ ク ト で あ り、 ︵ 触 覚 の よ う な ︶ あ ま り よく知られていない感覚様相の探求を目的としています。そこにはたとえば次のような研究が含まれます。離れたとこ ろにいる複数のグループが触覚を共有できるとすれば、どのような仕方でできるのか、また触覚を通じて日常的な存在 のパラメータを変えることができるとすれば、どのような仕方でできるのかといった研究です。この作品の一部は先行 す る ふ た つ の プ ロ ジ ェ ク ト か ら 派 生 し ま し た。 そ の う ち の ひ と つ で あ る︽ め ま い ︾︵ 二 〇 一 五 年 九 月 に 東 京 で 開 催 さ れ た Todays Art 展 で 展 示 さ れ た 作 品 ︶ は、 方 向 感 覚 喪 失 や め ま い と い っ た 感 覚 経 験 に 焦 点 を 合 わ せ た ア ー ト 作 品 で す。 こ の 作 品 で は 触 覚、 視 覚、 聴 覚 と い っ た ク ロ ス モ ー ダ ル な 諸 感 覚︹ * cross-modal sensations   異 な る 感 覚 様 相 に も関連する感覚︺が混ざり合う際にそうした感覚経験が生じることに焦点を合わせました。   ︽ 触 覚 的 場 ︾ の も う ひ と つ の 基 盤 は﹁ 感 覚 の 媒 介 Mediations of Sensation ﹂ と い う タ イ ト ル の 先 行 す る リ サ ー チ・ プ ログラムです。 これは今説明している研究の土台となるプログラムで、多様な感覚様相︵嗅覚、味覚、触覚、振動など︶ を同時に使用するようにコントロールされたセットの内部で、大規模な演劇的経験を創造するプログラムです。   し か し な が ら、 ︽ 触 覚 的 場 ︾ に は 先 行 す る ふ た つ の プ ロ ジ ェ ク ト と は 異 な る 芸 術 的 な 目 的 が あ り、 異 な る 種 類 の 触 覚 ゲ ー ム を 探 求 し て い ま す。 ︽ 触 覚 的 場 ︾ の 参 加 者 た ち は こ の プ ロ ジ ェ ク ト の た め に 技 術 開 発 さ れ た い く つ か の 小 型 触 覚

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アクチュエータ︵五センチ・メートル︶を使用します。この触覚アクチュエータはRFトランスミッターによって起動 するのですが、ワイヤレスネットワークを通じて振動のパラメーター︵強さ、持続時間、回数︶をそれぞれに個別に割 り当てることができるのです。参加者たちはアクチュエータを身体のさまざまな部分に装着することができ、アクチュ エータが生み出すパターンの間隔や強さを通じてグループ内でリズミカルな律動を共有したり、同期したりしなかった りするリズムを分かち合ったりすることができます

社会的な遊びから発生するひとびとの集合体を目指した触覚ベ ースの作曲。 Apple Watch や そ の 他 の ウ ェ ア ラ ブ ル デ バ イ ス と い っ た 昨 今 の 触 覚 テ ク ノ ロ ジ ー は、 世 界︵ と﹁ ユ ー ザ ﹂ た ち ︶ を ﹁メッセージ﹂の送信者と受信者に分割する︵たとえば、 ﹁わたしはあなたの心拍を感じます﹂ 、﹁わたしはあなたからe メ ー ル を 受 信 し ま し た ﹂ と い っ た か た ち で ︶ 情 報 理 論 の ア プ ロ ー チ に も と づ い て、 触 覚 経 験 に ア プ ロ ー チ し て い ま す。 そのため、そこで想像されている触覚の使用をめぐるヴィジョンはごく限定的なものです。わたしたちはそれとは異な るアプローチをとっています。つまりわたしたちは文化人類学の研究には広く見られる﹁ヴァーチャルな感覚としての 触覚﹂というもっと複雑な観念に着目しているのです。   人 類 学 に は﹁ 距 離 を 置 い た 触 覚︹ touch at distance ︺﹂ と い う 概 念 を め ぐ る 報 告 が あ り ま す。 た と え ば、 南 ア フ リ カ のサン人は村に血縁者が近づいて来たことを感知することができると言います。血縁者が近づいてくるとサン人は自ら の 身 体 上 に さ ま ざ ま な レ ベ ル や 強 さ の 圧 力︵ な い し﹁ タ ッ ピ ン グ ﹂︶ を 感 じ 取 る の で す。 し か も 彼 / 彼 女 の 身 体 上 で こ うした感覚が生じる部位は、近づいて来た血縁者の身体の特定の部位、たとえば、かつてその人が怪我をした箇所など に一致すると言います。   他にも、たとえばインドのアーユルヴェーダ医学の伝統のなかには振動にかんする技術的発展と体系的なアプローチ を示す実践があります。医者は患者の多様な︵六種類以上の︶拍動を検出できるように訓練しますが、そうした拍動の

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それぞれは身体の異なる場所に位置し、異なる種類の﹁体液﹂に対応します。そして、体液のバランスに応じて、それ らの拍動のそれぞれが三種類の速度のうちのいずれかの速度で拍を打つとされるのです。そういうわけで、診断の過程 では医者が次第に自らの拍動を患者の状態に同期化させたり、自らの拍動で患者の状態を媒介したりしていく一連の段 階が含まれることになります。   今取り上げたシッダ︹*瞑想により特殊な能力を持つに至った者︺の医療にかんする説明のなかでは送信者と受信者 が一体になっています。またそこには集合的な触覚をめぐるさまざまな可能性が立ち現われているかもしれません。こ う し た 説 明 が 重 要 な の は、 そ れ が︹ わ た し た ち が 位 置 す る 文 化 の 文 脈 と は ︺ 別 の 仕 方 の 感 覚 の 働 き︹ sensing ︺ を 示 唆 するものだからです。つまりそれは、特定の文化の文脈に固有の感覚の働き方でありながらも、それとは異なる効果や 情動を伴うかたちで、まったく異なる文化の文脈のなかでも展開されうるかもしれない感覚の働き方を示唆します。   この意味で、触覚︵このプロジェクトの場合は︶について︹わたしたちの知るそれとは︺別の感覚様相を伝える諸々 の 歴 史 資 料 は、 ︿ 翻 訳︹ translation ︺﹀ と い う 方 法 論 的 関 心 の も と で 作 動 す る こ と に な り ま す。 こ れ は が 焦 点 を 合 わ せ た 攪 乱︹ disturbance ︺ と い う 方 法 論 的 関 心 と は 異 な る も う ひ と つ の 方 法 論 的 関 心 で す。 つ ま り、 ︿ 翻 訳 ﹀ と は、 あ る 文化の様相を記述したり、描写したり、実演したりする歴史的・民族誌的資料を利用して、そこに示された身体経験を も と も と の 文 化 の 文 脈 の 外 に 連 れ 出 し、 ︹ 別 の 文 化 の 文 脈 の な か で ︺ 新 し い 形 式 の 身 体 経 験 に 移 し 替 え る 方 法 論 を 示 唆 し て い る の で す。 ︽ 触 覚 的 場 ︾ の よ う な プ ロ ジ ェ ク ト が 取 り 組 ん で い る 翻 訳 の 過 程 の な か で 鍵 と な る 側 面 の ひ と つ で、 困難な問題でもあるのは次のようなことです。つまり、文化人類学が焦点を合わせる他の文化をめぐる諸々の報告は象 徴 的 な 内 容 で 溢 れ て い る わ け で す が、 ︽ 触 覚 的 場 ︾ の よ う な プ ロ ジ ェ ク ト で は、 そ う し た 象 徴 的 な も の を 直 接 的 な 物 質 的実験や物質的な力に移し替えたり、シャッフルし直したりしなくてはならいということです。というのも、象徴的な も の は 物 質 的 な 実 験 や 力 に 移 し 替 え ら れ る こ と で は じ め て、 あ る 種 の ゲ ー ム の よ う な 経 験︵ な い し 何 ら か の ア ー ト 作

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品 ︶ と し て 提 起 さ れ る も の の 枠 内 で、 観 客 = 参 加 者 に と っ て 意 味 を も つ 情 動 も し く は 感 じ ら れ る も の の 形 式 と し て 作 用することになるからです。   ま た 同 時 に、 あ ら ゆ る 翻 訳 は そ の 過 程 で ノ イ ズ に 遭 遇 し た り、 ﹁ 信 号 ﹂ を 損 失 し た り す る も の で す。 わ た し た ち は 人 類学の資料に対して一対一の対応関係をつくりだしたり、その表象を生み出したりすることを試みているわけではあり ません。そうではなく、わたしたち研究者自身の感覚にかかわる場や経験の内部で、そうした人類学の資料を分節する 方法を見出すこと、このことを目指しているのです。つまりわたしたちは、文化的に﹁異質なもの﹂がわたしたちに教 えてくれた一連のテクノロジーの展開のなかの﹁境界線上﹂に自らの身体を位置づけるわけです。このようにして翻訳 の過程に再注入されるノイズは、諸々の感覚する身体の異種混交をめぐって先に論じた問題にも、そうした身体に内在 する特定の文化的伝統を︽触覚的場︾の経験のうちにどこまで取り込むことができるかという問題にも、影響を与える ものなのです。 認証された自己   最後に取りあげるプロジェクトも、技術的・文脈的な枠組みやそれが定める諸々の目標が他のプロジェクトとは異な っています。 ︹テクノロジーを用いて︺自分自身︹の健康状態や行動︺を追跡する﹁定量化された自己︵ the Quantified Self ︶﹂ と 呼 ば れ る 運 動 が あ り ま す が 、 そ れ を も じ っ て 、 わ た し た ち の プ ロ ジ ェ ク ト に は ︽︹ 生 体 ︺ 認 証 さ れ た 自 己 ︵ the ︶︾ と い う ア イ ロ ニ カ ル な タ イ ト ル を 付 け て い ま す。 こ の プ ロ ジ ェ ク ト も や は り 受 託 研 究 プ ロ グ ラ ム で す が、 ︽ ︾ や︽ 触 覚 的 場 ︾ に 比 べ て 実 施 期 間 は 二 年 間 と 短 く、 政 治 的 観 点 か ら も 社 会 的・ 技 術 的 観 点 か ら も さ ら にはっきりとしたクリティカルな目標を定めています。   は コ ン コ ル デ ィ ア 大 学 と マ ギ ル 大 学 の 研 究 者、 文 化 パ ー ト ナ ー︵ バ ル タ ン ︶、 オ ラ ン ダ の ふ た つ の 研 究 開 発 機 構

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︵ ホ ル ス ト セ ン タ ー と フ ィ リ ッ プ ス・ リ サ ー チ ︶ の あ い だ で お こ な わ れ る 萌 芽 的 研 究 プ ロ ジ ェ ク ト で す。 こ の プ ロ ジ ェ クトでは、身体的・感覚的コミュニケーションにとって身体に内在するリズムがいかに重要であるかということを実証 することを通じて、メディアアートと生物学とをリンクさせています。   こ う し た 探 求 に 向 け て、 で は 呼 吸、 心 拍 数、 心 拍 変 動︵ ECG ︹ 心 電 図 ︺︶ 、 皮 膚 伝 導︵ GSR ︹ 皮 膚 電 気 反 応 ︺︶ と い っ た 生 体 信 号︹ biometric signal ︺ な い し 生 理 信 号 を 用 い て、 大 人 数 の グ ル ー プ の な か で 生 じ る﹁ 相 互 同 期 性 ︹ interactional synchrony ︺﹂ と い う 現 象 に つ い て 研 究 し て い ま す。 も と も と 社 会 学 で 提 起 さ れ た﹁ 相 互 同 期 性 ﹂ と い う 概念は、バラバラの個々人がひとつの緊密な集団へと変容する契機として定義されます。たとえば宗教的な儀礼ではひ とびとの個々の黙祷が集団での詠唱に変わる瞬間がありますし、スタジアムではホッケーのファンたちがウェーヴをは じ め る 瞬 間 が あ り ま す。 ﹁ 自 己 を め ぐ る ラ ボ︹ Self Lab ︺﹂ と い う 副 題 が 付 け ら れ た こ の ア ー ト・ プ ロ ジ ェ ク ト は、 最 終 的には複数の被験者のグループとともに公開研究実験をおこない、 ﹁集合的な自己︹ collective self ︺﹂の出現は可能であ るのかどうか、またもしそれが可能であるなら、そのために必要な条件とは何かということを検討する予定です。 プ ロ ジ ェ ク ト で は、 わ た し た ち は 次 の よ う な 問 い の 探 求 に 関 心 を も っ て い ま す。 つ ま り、 こ う し た 同 期 性 は ひ と びとの諸グループのあいだでどのように作用するのか、またそこから生じる美的=感性的、政治的、社会的な派生物は ど の よ う な も の で あ り う る の か と い っ た 問 い で す。 よ り 具 体 的 に は、 わ た し た ち は 次 の 三 つ の 問 い を 掲 げ て い ま す。 ︵ 一 ︶ 大 人 数 の グ ル ー プ に 参 加 す る 被 験 者 た ち は ど の よ う に そ の 生 理 信 号 を 互 い に 同 期 さ せ る こ と が で き る の か、 ま た そ う し た 同 期 に か ん す る 測 定 基 準 を ど の よ う に 確 立 す る こ と が で き る の か。 ︵ 二 ︶ そ う し た 同 期 は ど の よ う に す れ ば 特 定 の 時 間 間 隔 で 生 じ る 光、 音、 あ る い は 触 覚 的 な パ タ ー ン を 通 じ て 促 進 さ れ、 実 際 に も︿ 誘 導 ﹀ さ れ う る の か。 ︵ 三 ︶ さらには、そうした同期はどのようにすればその環境内で可視化されたり、可聴化されたり、触覚的な振動の刺激に変 換されたり︵つまり、増幅されたり︶して、被験者へのフィードバックの触媒として利用されうるのか。次のように想

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像をしてみましょう。被験者たちの呼吸数や心拍数が同期化したときに一定の色の照明が優勢になったり、身体のさま ざまな領域で特定の触覚的パターンやリズムが優勢になったりするとします。その場合、ひとびとの同期は明確な指示 が何ひとつなくても、グループによって集合的な仕方で︿操舵︹ steered ︺﹀されうるのかどうか。   もちろん、このプロジェクトで生体データへの関心を高めている背景には、心拍、呼吸パターン、ストレス、脳波と い っ た 生 体 信 号 を 測 定 可 能 な ウ ェ ア ラ ブ ル 端 末︵ Apple Watch 、 Nike +、 OM signal の セ ン サ ー 付 き ス ポ ー ツ ウ ェ ア ︶ に対する関心が急激に広まってきたこと、またひとびとの振る舞いを修正するためにこうしたデータがどれほど有用で あ る か と い う こ と に 次 第 に 焦 点 が 合 わ せ ら れ る よ う に な っ て き た こ と が あ り ま す。 ﹁ デ ー タ に 駆 動 さ せ ら れ る 生 ﹂ と い う タ イ ト ル が 付 け ら れ た 二 〇 一 〇 年 四 月 の﹃ ニ ュ ー ヨ ー ク・ タ イ ム ズ ﹄ の 記 事 の な か で、 記 事 の 執 筆 者 で あ り、 ﹁ 定 量 化される自己﹂運動の共同創設者のひとりでもあるゲアリー・ウォルフは、電話、コンピュータ、その他のデバイスな どを通じて、わたしたちはますます﹁自己にかんする実験﹂を行うようになってきていると主張しています。   し か し な が ら、 直 接 的 な 感 覚 経 験 を 定 量 化 す る さ ま ざ ま な ツ ー ル や 統 計 を 通 じ て、 本 当 に﹁ 自 己︹ self ︺﹂ と 呼 ば れ る何ものかにさえアクセスすることができるのでしょうか。実のところ、そうした考え方を根底から動揺させることが わ た し た ち の 主 要 な 目 的 な の で す。 つ ま り わ た し た ち は、 ﹁ 定 量 化 さ れ た 自 己 ﹂ 運 動 が イ デ オ ロ ギ ー に し て い る﹁ 数 値 を 通 じ た 自 己 認 識︹ self knowledge through numbers ︺﹂ の よ う な 考 え 方 の 流 布 に 疑 問 を 投 げ か け て 挑 戦 し よ う と し て いるのです。   ま た 同 時 に は 次 の よ う な さ ら に 大 き な 問 い に も 取 り 組 も う と し て い ま す。 つ ま り、 ひ と つ ひ と つ の 動 き、 行 為、 振る舞い、思考が次第に定量化されていくにつれて、わたしたちは﹁自己﹂の諸断片になってきているのかという問い です。可鍛的で、可塑的で、 ︿生成﹀し続ける主体は、今やランキングや﹁いいね﹂やプロフィールで構成されていて、 ますます精巧になってきた資本主義の生政治体制はそれらを追跡し、標的にしています。つまりこれは、資本主義の最

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終的な勝利は魂と身体の植民地化にあるとフランスの匿名集団ティクーンがそのマニフェスト﹃ギャルの理論のための 予 備 的 な 素 材 ﹄ で 指 摘 し て い る 事 態 で す。 こ の よ う に し て、 で は、 が 探 求 し て い る 感 覚 形 成 の 植 民 地 化 を め ぐ る大きな問いが一周して元にもどってきているのです。

結論

感覚の組織化

III. Conclusion‒ The Organization of Sense

  今回のトークでは、感覚学、ニューメディア、テクノロジーの展開、アートの実践のあいだでの超領域的な絡み合い を基盤にしたリサーチ・プログラムを紹介し、こうした領域を探求する三つのリサーチ・プログラムの概要を手短に示 してきました。最後に、諸々のプロジェクトとともにこれまでも提出され、間違いなく今後数年間にわたっても提出さ れ続けるであろうさらに広範な社会的・技術的・政治的・美的=感性的な諸問題を手短に概観することでこのトークを 締めくくろうと思います。第一に、社会学者のマーク・アンドレイェヴィッチが﹁センサー社会﹂と呼ぶ社会が進行し ているなかで、諸々の新しいテクノロジーと新しい感覚や情動の形式はどのような関係性を取り結ぶのかという広大な 問いがあります。実際、センサー社会という概念に﹁インタラクティヴなデバイスとアプリケーションがデジタル情報 環境を生み出し、そうした環境それ自体がセンサーの役割を担う世界﹂といった考え方や﹁プライバシー、監視、そし て感覚形成にかんする従来の諸カテゴリーを複雑にし、再配置してしまうようなかたちでデータを収集し、それを使用 する諸実践の出現﹂という考え方の両方が含まれるなら、そのような社会的文脈のなかで、文化的な差異という概念は どのような役割を演じることができるのでしょうか。   第二に、アートの実践の展開はしばしば人文学や社会科学の展開を先取りしてきたのですが、それはまた、諸感覚が

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人間の新しい経済形態の一部分になってきていることを先んじて見定め、批判することができるかもしれません。つま り、あらゆる感覚経験を容易に手に入れることのできるネオリベラリズム資本主義の枠組みのもとで、諸感覚そのもの が経済形態の一部分になっていることに対する批判です。実際、アートの経験のために感覚テクノロジーが開発される と し て も、 そ う し た テ ク ノ ロ ジ ー が も た ら す 諸 感 覚 は、 ﹁ 自 己 の テ ク ノ ロ ジ ー﹂ の よ う な 概 念 を ネ オ リ ベ ラ ル 化 す る こ とにつながってしまうかもしれません︵他方で同時にそれを批判することにもなるのですが︶

ここで言う﹁自己の テクノロジー﹂とは、日常的なルーティーン︵たとえば運動、ダイエット、自己の追跡などの︶を生み出すための慣習 的な物事のやり方を、個々人が﹁自らの行為を律する﹂ことができるほどの、もっと洗練された諸戦略へと拡張してい く技法のことです。このトークのなかで見てきたような特定の文脈のなかで特異的に文化へと生成していく集合形式の 感覚様態は、グローバル・ネオリベラリズムの文脈のなかで身体がもつ感覚様態とは異なっています。ゲーリー・ベッ カ ー が﹁ 人 的 資 本︹ human capital ︺﹂ と い う 良 く 知 ら れ た 言 い 方 で 名 指 し た 新 し い︵ 感 覚 ︶ 形 態 へ と グ ロ ー バ ル・ ネ オ リ ベ ラ リ ズ ム の 感 覚 経 験 は 変 容 す る こ と を 強 い ら れ て い ま す が、 こ の ト ー ク で 見 て き た よ う な 集 合 形 式 の 感 覚 様 態 は、 実際のところ、こうした変容に対して十分な抵抗の糸口を提供することができるのでしょうか。   最後に、これまで取り上げてきたリサーチ・プロジェクトのすべてが現行の感覚テクノロジーの展開との交差点で作 動しているわけですが、こうしたプログラムにいわゆる﹁クリティカル・デザイン﹂の考え方と方法を組み込むことが できるかもしれません。デザインの実践は、テクノロジーや社会との関係のなかで、どれほど︿批判的に﹀作用するこ とができ、デザインとはしかじかのものであるという規範的な枠組みに挑戦し、新しい形式の︵スペキュラティヴ=思 索的な︶モノ、身体、公衆

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それらが大勢に吸収されうるのかそうでないのか、すぐに商業化されるのかそうで ないのかは分からないにしても

を生み出すことができるのでしょうか。この最後の問いこそがもっともスペキュラ ティヴ=思索的な問いであると同時に、未来の仕事のための課題を、ニューメディアとテクノロジーと諸感覚のあいだ

参照

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