「雁門太守行」札記
30
0
0
全文
(2) (154) 「雁 門 太 守 行」本L言 己. 作 用 し て いた か と いう こと は、 ま ず 注 意 さ れ ねば な ら な い。. こ の作 品 を 讀 ん で、 ま ず 氣 づ く こと が 二鶏 あ る。 第 一粘 は、 こ の作 品 が あ る程 度 の文 化 的 素 養 を も った人 々 に. よ って今 見 る形 に完 成 さ れ た であ ろう と いう こと であ り、 第 二路 は、 作 品内 部 の構 成 が非 常 に整 って いると いう こ と であ る。. 第 一粘 は、 ど のよ う な 人 々が こ の作 品 の形 成 に強 く 開 わ って いた か と いう こと に関 係 し、 こ の作 品 を、 軍純 に庶. 民 が 官 吏 を 稗 え た作 と は でき な い こと を 物 語 って いる。 作 品 が庶 民 の手 から出 登 し て いた も の であ っても、 そ の作 品 に封 し て、 知 識 層 が 開 心 を 持 ち 、 手 を 加 え た と思 わ れ る。. 第 二路 は、 こ の作 品 が 、 ま ず 五解 以 前 と 六 解 以後 と の二 つの部 分 に大 きく 分 け ら れ、 前 牛 は王 君 の事 績 を述 べ て 一句 の長 さ は整 わず 、 後 牛 は亡 き 王 君 を 讚 え た、 整 った 四言 詩 であ る こと であ る。. こ の 二貼 を 旧 ま え て、 従 来 の解 澤 のよ う に博 記資 料 と作 品 を た だ封 照 し て讀 む の ではな く、 作 品 自 催 の内 部 構 造 にも 注 目 し て、 讀 ん でみ た い。. 柴 府 詩 集 ﹄ にも牧 録 され る。 本 作 品 を 収 め る最 も 古 い資 料 は、 ﹃ 宋 書 ﹄ 柴 志 であ り、 ま た、 既 に述 べた よ う に、 ﹃ 漢 魏 果 府 風 箋 ﹄、 余 冠 英 ﹃柴 府 詩 選 ﹄ を 特 に参 考 にし た。 ま た、 黄 節 ﹃. 二. ﹁ 雁門太 守行﹂. この題 は、 この楽府詩 の調を示すも ので、 この詩自催 の標題 ではな い。本辞 はす でに博 わらな い。 この詩自催 の. 洛陽行﹂ とす る のが よ いだ ろうが、 本論 にお いては従来通り、 ﹁ 雁門太守 題 は、 ﹃ 宋 書﹄ 楽志 に記 され るよう に、 ﹁.
(3) 田 浩 一 森. (155). 行 ﹂ と呼 ぶ。. 少 行宦 學. 廣漢蜀民. 本 自盆州. 洛 陽令 王 君. 孝 和帝 在 時. 五経 論 に通 ず. 少 く し て行 た宦 學 し. 廣 漢 蜀 の民 にし て. 本 自 り盆 州. 洛 陽 の令 王 君. 孝 和 帝 在 ま せ し時. 〓 解]. 通 五組 論. 柴 府 詩 集 ﹄ にる。 宋書 ﹄ 柴 志 ・ ﹃ 解 の匡 切 り は、 ﹃ ﹁ 孝 和 帝 在 時 、 洛 陽令 王 君 ﹂. 以 下 王 博 と 記 す ︶ によ ると、 王 澳 、 字 は稚 子 、 廣 漢 の邦 の人 であ り、 若 いと き に は任 ﹃ 後 漢 書 ﹄ 循 吏 博 王 澳博 ︵. 向 書 ﹄ に習 熟 し、 侠 を 好 み、 素 行 よ ろし か ら ぬ青 年 達 と交 わ って いた が、 後 に そ の態 度 を 改 め、 儒 學 を治 め て、 ﹃ 律 令 を讀 ん でほぼ そ の大 義 を つか んだ と あ る。. 彼 の官 吏 と し て の出 嚢 粘 は、 廣 漢 の太 守 陳 寵 によ って郡 の功 曹 と し て取 り立 てら れ た こと にあ った。 陳 寵 の博. 9年 ︶ 直 後 の こと であ る。 永 永 元 元年 ・8 翁後 漢 書 ﹄ 列 博 第 二十 六 ︶ に よ ると、 陳 が太 守 にな った のは、 和 帝 印 位 ︵. 、 、 っ 。 元 四年 ︵2 9年 ︶ よ り後 のし ば ら く の間 に 陳 寵 は大 司農 と な り中 央 へ戻 た 陳 寵 は 和 帝 印 位 後 の四 五 年 間 太 守. の職 にあ った わ け で、 王 澳 の官 吏 とし ての生 活 は、 和 帝 の時 代 と ほ ぼ時 を 同 じ く し て始 ま って いる。.
(4) (156) 「雁 門 太 守 行」本L言 己. 5年 ︶ の こと であ り、 二十年 にも満 たな い官 吏 と し て の生 涯 で 王 澳 が洛 陽 の令 と し て亡 く な る のは、 元 興 元年 ︵ 0 1 6年 ︶ あ る いは永 初 元 年 ︵ 7 、 あ った。 彼 を 抜 櫂 し た陳 寵 は、 延 李 元年 ︵ 0 0 1 1年︶ に亡 く な ったと考 え ら れ る の で 彼 ら は いず れ も 和 帝 の亡 く な る直 前 に死 んだ こと にな る。 王 澳 と、 王 澳 を 官 吏 に取 り立 てた人 物 、 君臨 し て いた皇 帝 、 皆 が、 活 躍 の時 を 同 じ く し て いた。. こ の詩 の第 一句 、 ﹁ 孝 和 帝 在 時 ﹂ は、 聞 き手 に、 王 澳 が活 躍 し て いた和帝 の御 代 の雰 園氣 を 呼 び覺 ま さ せ た と 思. わ れ る が、 こ の第 一句 によ って、 こ の歌 詞 が和 帝 の死 後 に完 成 さ れ た こと、 そし て、 王 澳 の死 か ら し ば ら く 経 って 完 成 し た こと も わ か る。. 王 博 には、 彼 の死 後 、 彼 を 慕 う 民 衆 が 安 陽 亭 の西 に祠 を建 て、 食 事 のたび に弦 歌 し て、 彼 を祭 った と 記 さ れ る。. 王 博 は ま た、 永 初 二年 の郡 太 后 の詔 に、 百 姓 の民 が 王 澳 を懐 い祠 を 建 てた ことを載 せ、 さら に、 桓 帝 が黄 老 の道 を. 重 ん じ、 諸 々 の房 祠 を 悉 く 壊 し た が、 密 縣 の卓 茂 の廟 と 洛 陽 の王 澳 の祠 は例 外 と し た こと も 記 し て い る。 ま た、. ﹃華 陽 國 志 ﹄ 王 澳 博 にも、 洛 陽 で人 々が王 澳 のた め に弦 歌 し、 そ の祠 を 建 てた と いう 記事 があ る。. 以上 の史 書 の記 載 か ら、 王 澳 の祠 は洛 陽 に建 てら れ ︵つま り 、 安 陽 亭 は洛 陽 の諸 亭 のひと つであ り︶、 そ れ は和. 帝 在 世 中 に既 に建 てら れ てお り 、 民 衆 が 弦 歌 し た のも 、 和 帝 在 世 中 の ことと わ か る が、 ﹁ 雁 門 太 守 行 ﹂ は、 明 ら か に こ の弦 歌 の場 か ら時 間 が経 過 し て完 成 され た の であ る。. 華 陽 國志 ﹄ と ﹃ さ て、 ﹃ 東 観 漢 記 ﹄ の王 澳 博 には、 王 澳 が河 内 の温 の令 であ った時 に、 民衆 が か れ を 讚 え た歌 詞 を 博 え て い る。. 王稚子 工稚 子 世 未 有 世 に未 だ 有 らず.
(5) 田 浩 一 森. (157). 李 径 役 径 役 を 李 ら か にし 百 姓 喜 百 姓 喜 ぶ. 、 他 の謡 諺 と同 様 、 素 朴 な歌 詞 であ り、 褒 め稽 え ら れ る王 澳 の美 路 も、 ま さ に径 役 を 公 李 にし た と いう 彼 ら に. 王 稚 子 ﹂ と 字 で歌 いか け る出 だ し は、 五 々な ら ぬ親 し みを 吐 露 し て と って最 も肝 要 な 一路 のみ で直 裁 的 であ り、 ﹁ い る。. 雁 門太 守 行 ﹂ が、 相 営 な 文 化 程 度 を有 す る人 々 によ って完 成 さ れ た こと は、 説 明 こ の歌 詞 と比 較 し てみ れ ば 、 ﹁. 雁門 を 待 た な い。 結 局 、 洛 陽 の民 が王 澳 の死後 弦 歌 し た歌 詞 に つい てはわ か らな いが、 あ え て推 測 す るな らば 、 ﹁. 雁 門 太 守 行 ﹂ が、 柴府 詩 集 ﹄ は ﹁ 太 守 行 ﹂ ではな く 、 こ の河 内 の民 の歌 を念 頭 に置 い て推 測 し な け れ ば な らな い。 ﹃ 。 晉 来 の演 奏 し た も の であ る こと を 記す か ら、 晉 に いた る過 程 で、 人 々 の手 が加 え ら れ た こと は間 違 いな い ﹁ 本 自 盆 州、 廣 漢 蜀 民 ﹂. ﹃ 宋 書 ﹄ には、 蜀 の字 が な い。 余 冠英 は、 廣 漢 郡 に は蜀 と いう縣 はな いとし て、 蜀 の字 を 削 るが、 盆 州 は蜀 の地 であ り、 盆 州 廣 漢 郡 出 身 の蜀 人 と いう こと でも問 題 な いだ ろう。. 、 な お、 従 来 こ の 二句 は、 ﹁州 ﹂ で句 を切 らず、 績 け て 一句 と さ れ た。 意 味 は績 く も の の、 調 子 は こ こ で軽 く切 れ. 一篇 全 腱 を 通 し て、 二 ヶ所 の例 外 を除 い て、 隔句 で緩 や か に韻 を踏 ん でいる の で、 切 る べき あ る。 ﹁ 少 行 宦 學、 通 五 経 論 ﹂. 學 ﹂ で切 り、 黄 節 ・余 冠英 は 後 漢 書 ﹄ 標鶏 本 は、 ﹁ 王 博 李 賢 注 が引 く古 柴 府 辞 では、 宦 を官 に作 り、 中 華 書 局 ﹃ ﹁宦 ﹂ で切 る。. 黄 節 は、行 宦 を 済 宦 と解 繹 す る。 済 宦 と は、 外 へ出 て官 職 を 得 ん とす る こと であ る が、 行 宦 と いう こと ば の用例.
(6) (158) 「雁 門 太 守 行」本L記. を 他 にま だ 見 いだ し て いな い。 余 冠 英 は、 同 じ く済 宦 と 解 繹 を 興 え る が、 よ り は っき り と 、 故 郷 を離 れ て官 吏 と な る こと だ と言 う。 わ か く し て故 郷 を 離 れ 、 官 吏 とな った こと は博 記 資 料 に見 えな い。. 次 の 二解 では、 温 の令 か ら 洛 陽 の令 と な るま での間 の、 王 澳 の役 人 生 活 が歌 われ てい る の で、 一解 では、 か れ の. 出 自 と 廣 漢 の太 守 陳 寵 に よ って功 曹 に取 り立 てられ る ま でが歌 わ れ て いると考 えら れ る。 か れ の済 宦 に確 證 はな い. か ら、 ﹁ 少 行 宦 學 通 五 組 論 ﹂ は、 王 博 の ﹁ 晩 く し て節 を 改 め 、 儒 學 に敦 く、 向 書 を習 い、 律 令 を 讀 み、 略 ぼ大 義 を 奉 ぐ ﹂ に封 應 す るも のと 考 え ら れ る。. そ う す ると、 ﹁ 宦 ﹂ 字 で切 った の では、 意 味 が取 り にく い。 こ こは、 ﹁ 少行 宦學 、 通 五 経 論 ﹂ と 讀 む べき で、 この 解 は、 五字 句 が 二句 、 四字 句 が 四句 と整 齊 し たも の にな る。. 宦 學 と は、 ﹃ 證 記 ﹄ 曲 證 上 に、 ﹁ 宦 學 し て師 に事 う る に、 證 に非 ざ れ ば 親 し まず﹂ と あ る それ であ ろう。 鄭注 は、. ﹁ 宦 は仕 な り﹂ と い い、 孔 穎 達 は熊 安 生 を 引 い て、 ﹁宦 は仕 官 の事 を學 ぶを謂 い、 學 は六 藝 を 習 學 す るを 謂 う﹂ とす る。 す な わ ち、 仕 官 のた め に儒 家 の経 典 を學 ぶ こと にな る が、 熊 安 生 が動 詞 の連 語 と し て こ の語 を解 澤 し て いるよ. う に、 基 本 的 に動 詞 と し て働 く 詞 であ る。 な ら ば 、 ﹁ 行 ﹂ の解 繹 が 問 題 と し て残 る こと に な る が、 余 冠 英 が 柴 府. ﹁孤 見 行 ﹂、 響同堂 に上 り、 行 た殿 下 の堂 に取 ︵=趨 ︶ る﹂ と 同 様 に讀 み、 ﹁ 行 ﹂ を現 代 中 國 語 の ﹁還 ﹂ と取 る のや、. 経 博 繹詞 ﹄ ︵ ま た、 ﹃ 巷 四︶ が ﹁ 行 ﹂ は ﹁且﹂ と す る よ う に、 な ん ら か の助辞 であ ると考 え た い。. す な わ ち、 王 澳 は わ か く し て官 吏 と し て の教 養 を 身 に つけ ん と し、 そ し て ﹁五紅 論 ﹂ に通 じ た、 と こ の二句 を解. 繹 す る の であ る。 か れ が 儒 學 を お さ め、 向 書 に習 熟 し た こと は、 ま さ に熊安 生 の記 す勉 強 のあ り か た に 一致 す る。. 行 ﹂ を 現 代 中 國 語 の ﹁還 ﹂ ︵ ま た、 も し ﹁ ま た、 さ ら に︶ と 取 るな ら ば 、 青 年 王 澳 が不良 少 年 と 交 わ り、 任 侠 を好 ん だ こと を 言 外 に現 し た こと にな る。. ち な み に、 ﹃ 漢 書 ﹄ 済 侠 博 棲 護 博 も 参 考 と な る であ ろ う。 棲 護 は、 家 が代 々詈者 であ った の で、 詈 業 を 修 め てい.
(7) 田 浩 一 森. (159). 。. 0︶ ︵1. 宦學﹄ しな いのか﹂ と たが、 土地 の長者 たち はみなかれを愛 し て重 んじ、 ﹁お前 の才能 がありながら、 どうし て ﹃. 経 博 ﹂ を 學 ん で、 後 に長 安 の吏 と な った と いう か れ に告 げ た。 それ で、 か れ は父 に暇 を告 げ 、 ﹁. 儒 學﹂ ﹁ 筒 書 ﹂ と 記 さ れ、 棲 ﹁五 経 論 ﹂ は、 官吏 にな る た め に學 んだ儒 學 を表 現 す る に間 違 いな か ろう。 王 博 で ﹁. 護 博 で ﹁経 博 ﹂ と 記 さ れ て いた内 容 を このよ う に表 現 し た の でり、 こ の歌 詞 にお い ては、 王 澳 が こう し た教 養 を厚. 、 く身 に つけ て いたと いう こと によ って、 これ 以後 に歌 わ れ る か れ の治 績 が 儒 學 を下 地 と し て行 わ れ た のだ と 主張 す る こと にな る。. 齊論 ﹂ ﹁ 張 侯 論 ﹂ は、 確 か に いず 魯論﹂ ﹁ 余 冠 英 は、 これ を ﹁五 経 ﹂ と ﹁論語 ﹂ の ことだ とす る が、 そ の論 抜 の ﹁. 論 ﹂ 字 を修 飾 し てお り、 前 後 の れも ﹁ 論 ﹂ 一字 で論 語 を いう と は いえ、 詞 の構 成 上 か ら いう と、 す べ て前 の字 が ﹁ 孝 論 ﹂ と いえば 、 孝 経 と論 語 を指 す こと が あ るが、 五 経 と 論 語 を こ のよう 字 が 五 列 に置 か れ て いる の ではな い。 ﹁ に併 稀 す る こと が あ る のか、 未 詳 であ る。. 巷 八十 八︶ の、 石 渠 閣 で諸 儒 が ﹁五 経 ﹂ の異 漢書﹄ 施讐博 ︵ 一方 、 黄 節 は、 これ を 五 経 に開 す る議論 と と り、 ﹃. ︵H︶. 同 を論 じ た 記事 を引 く。 後 漢 は今 古文 家 によ る五経 異 同 の議 論 が甚 だ盛 んな時 であ った。 白 虎 観 の討 議 が有 名 であ. 、 。 るが、王澳 と時を同 じく し て言 えば、和帝 の永元十 一年 四月 にも、諸儒 に議論 させた ことが見 える そし て 書名. 蜀志﹄諜周博 にはそ の著作と 五経論﹄ を著 した ことが、 また、﹃ 後漢書﹄光武十 王列博 に、浦献王輔 が ﹃ とし て、 ﹃ 五経論﹂ は、黄節 の言 うも のであ ろう。 し て ﹃五経論﹄ が記録 され ている。﹁. 五経論﹂ に詳 しか った 向書﹄ に習熟 し、律令 の大義を つかんだとされ る程度 の王澳 が、 このような ﹁ せ いぜ い ﹃. 可能性 は低 いと考 えられ るが、 この歌詞がうたわんとす る のは、王澳 が儒學 に厚 く、王澳 の政治 には、儒學 がその. 礎 にあ ったと いう こと であ る。王澳 の治績 が軍 に律令を厳格 に運用した ことよる のではな いと いう ことを表現す る. 五紅論﹂ が選ばれた のであろう。 措辞 とし て、王澳 の時代 の儒學 の第 一のトピ ックであ った ﹁.
(8) (160) 「雁 門 太 守 行」本L言 己. 擁護百姓. 治行 致 賢. 従 温補 雛 陽令. 歴世 衣 冠. 明知 法 令. 萬民 を 子養 す. 百姓 を 擁 護 し. 治 ″ 何わ れ て賢 を 致 す. 温 よ り 雛 陽 の令 に補 せ ら れ. 歴世 衣 冠 た り. 明 か にし て法 令 を 知 り. T一 解]. 子養 萬 民. 一解 では、 王 澳 の出 自 と 、 官 吏 と し て の素 養 を 歌 った が、 二解 か ら は彼 の治績 を 歌 う。 ﹁ 明 知 法 令 、 歴世衣 冠 ﹂. 明 ら か に法 令 を知 って い た、 と いう だ け ではな い。 たと え ば ﹃魏 書 ﹄ 巻 三十 一王 朗 博 に、 ﹁ 務 め は寛 恕 に在 り て、. 罪 疑 は軽 き に従 う。 鍾 孫 明 察 にし て法 に富 た り、 倶 に治獄 を 以 て稀 さ る﹂ と いう、 そ の ﹁明察 営 法 ﹂ の意 を含 み、 五 解 で展 開 さ れ る内 容 と 呼 應 す る。. 王 博 に、 ﹁ 律 令 を讀 み、 略 ぼ大 義 を 奉 ぐ﹂ と あ り、 ま た、 ﹁父 順 は安 定太 守 た り﹂ と いう。 記 録 に抜 る限 り、 父. 親 が安 定 の太 守 であ った こと し か わ か ら な い。 貴 い家 柄 だ った と は思 え な いが、 稀 揚 のため こう いう のだ ろう。 ﹁ 従 温補 雛 陽 令 、 治行 致 賢 ﹂. 王 博 によ る と、 王 澳 は陳 寵 の功 曹 と し て働 いた後 、 州 の秀 才 に奉 げ ら れ て、 つい で温縣 の令 と な った。 そ の時 の. 様 子 を 、 博 は こう記 す 。 ﹁縣 に姦 猾 多 く、 積 も り て人 の患 いと な る。 澳 方 略 を 以 て討 撃 し、 悉 く之 を 誅 す 。 境 内. 清 夷 にし て、 商 人 道 に露 宿 す 。 其 れ牛 を放 つ者 有 り て、 輛 ち 以 て稚 子 に属 す と 云 わば、 終 に侵 犯 す る無 し。﹂.
(9) 田 浩 一 森. (161). 。 、 温 を こ のよ う に立 派 に治 め た後 、彼 は、 衰 州 刺 史 にう つり、 侍 御 史 と な り、 そ し て 洛 陽 の令 と な った 王 博 中 。 に特 筆 さ れ る よ う に、 温 と 洛 陽 は、 令 と し て彼 が最 も手 腕 を振 る った時 期 であ る. 雀 八十 九 循 吏 博 ︶ の ﹁治 行 第 一を 以 て入 り て大 司農 と な る﹂ と いう 漢 書﹄ 朱 邑博 ︵ ﹁ 治 行 ﹂ に つい て、 黄 節 は、 ﹃ 、 政績 ﹂ と端 的 に解 繹 を興 え るが、 意 味 す る と ころ は同 じ で、 共 に、 ﹁治行 ﹂ を 名 詞 と と り のを 引 き 、 余 冠 英 は、 ﹁. 治 行 は至 って賢 な り﹂ と讀 んだ。 善 ﹂ と解 繹 し、 ﹁ 至 ﹂ と 、 ﹁賢 ﹂ を ﹁ 致﹂ を ﹁ ﹁ 致賢﹂ の ﹁. 王澳 賢 を 簡 び能 を 功 曹 主 簿 、 皆 な 其 の人 を 得 た り﹂ と歌 わ れ、 王博 に ﹁ ﹁ 致 賢 ﹂ と いう 詞 か ら は、 六 解 に ﹁. 、 天 下 固 る可 き な り﹂ と あ る ﹁ 致賢. 臣 願 わ くば大 王漢 中 に王 た ら ん こと 巷 三十 九 ︶ に ﹁ 漢 書﹄ 請何博 ︵ 選 ぶ﹂ と あ る のを 思 わず に は いら れな い。 ﹃ を 。 其 の民 を 養 い て以 て賢 人 を 致 し、 巴 蜀 を 牧 用 し、 還 って三秦 を 定 む れ ば. 人 ﹂ と 同 様 に、 す ぐ れ た人 物 を 用 いた と いう こと だ ろう。 化 行 致 賢 ﹂ に作 る。 治 ″ 何わ れ﹂ と讀 み た い。 王 博 の李 賢 注 に引 く歌 詞 は、 ﹁ ﹁ 治 行 ﹂ は、 これ を名 詞 と 見 ず 、 ﹁. 化 有 能 明﹂ に作 る のも 同 じ。 これ は唐 高 宗 の諄 を 避 け た のだ と 考 え ら れ る。 七 解 の ﹁治有 能 明 ﹂、 そ の注 の引 文 が ﹁ し か し、 それ でも 、 ﹁ 何わ れ て賢 を致 す ﹂ と讀 め る こと は、 参 考 と な る。 化 ″. 何わ 聰 明 にし て恵 断 、 公 李 にし て廉 正 、 強 き を抑 え蒻 き を 扶 け、 化 ″ ﹃ 華 陽 國 志 ﹄ は、 洛 陽 の令 王 澳 に つい て、 ﹁ 。 化 れ て犯 さず 、 姦 を 嚢 し伏 を 樋 す る こと忽 と し て紳 有 るが若 し。 京 華 密 静 た り て、 櫂 豪 畏敬 す﹂ と 記 す こ の ﹁. 化 ﹂ な の であ り、 温 にお い ても 治 ﹂ はま さし く ﹁ 行 ﹂ も 考 え あ わ せ ると、 ﹁治 行 ﹂ と表 現 され て い ても、 王 澳 の ﹁. 、 治行﹂ を 洛 陽 にお い ても 、 か れ の治 績 の要 路 は、 ま さ に こ のよう な教 化 の政 治 にあ る の であ って この歌 詞 の ﹁ 。. 何わ れ﹂ と讀 ん でお く ﹁ 化 行 ﹂ と 軍 純 に置 き換 え てし ま う のは さす が にた め ら わ れ るも の の、 ﹁治 ″. ﹁ 擁 護百 姓、 子養 萬 民﹂. 致 賢 ﹂ と の関 連 は、 先 に引 いた請 何 そし て、 王 澳 は百 姓 ・萬 民 を 擁 護 し、 子養 し た の であ った。 直 前 の二句 の ﹁.
(10) (162) 「雁 門 太 守 行」本L言 己. 博の ﹁ 其 の民を養 いて以 て賢人 を致す﹂ と いう のと同 じ。. 料 民富 貧. 文武備具. 内懐 慈 仁. 外 行 猛政. 悪 子 の姓 を移 し. 民 の富 貧 を料 る. 文 武 備 具 し. 内 に慈 仁 を懐 く. 外 に猛 政 を行 い. 三. 移 悪 子姓 里 端 に篇 著 す. 冨一 解]. 篇 著 里端. 前 解 の末 尾 二句 を 受 け て、 三解 では、 王 澳 が如 何 に萬 人 を養 護 し た か が歌 わ れ る。 ﹁ 外 行 猛 政 、 内 懐 慈 仁﹂. 王 澳 は厳 し い政 治 を 行 った が、 か れ の内 面 には慈 仁 の心 が満 ち あ ふ れ て いた。 か れ は、 そ の慈 仁 の心 で、 萬 民 を養. 護 し た の であ る。 か れ が猛 政 を 振 る った封 象 は、 こ の解 の最 後 に現 れ る、 悪 子 たち であ る。 ﹁ 文 武 備 具、 料 民 富 貧 ﹂. 王 澳 の温 縣 で の ﹁ 猛 政 ﹂ を 再 び 王 博 か ら引 け ば 、 ﹁ 縣 に姦 猾 多 く、 積 も り て人 の患 いと な る。 澳 方 略 を 以 て討. 撃 し、 悉 く之 を 誅 す ﹂ と 記 さ れ 、 武 力 によ る政 治 、 武 断 政 治 であ った よ うな印 象 を 興 え る。.
(11) 田 浩 一 森. (163). 史記索隠﹄ ﹃ 後漢書﹄ は王澳 の博を循吏博 に収め ている のだが、 そもそも循吏 とは如何 な るも のだ ったろうか。﹃. は、循吏 に ついて ﹁ 法 を本とし理 に循 う の吏を謂うなり﹂と説明す る。法令 と いうも のをまず基本 とし、道 理 にし. 法令 は民を導 く所 以な り。 刑罰 は姦を禁ず る所 以な り。 たが って政治を行 う、 と いう こと であ ろう。 司馬遷 は、 ﹁. 文武備 わらざ れば良民燿 る。然 る に身修 まる者、官 は未だ曾 て乱 さざ るなり﹂ と述 べている。 ﹁ 文武﹂ が備 わると いう こと、 それ こそが、循吏 たる條件 であり、姦を禁 じ て良民を安 んじる方法 な のであ った。. ﹃ 史記會注考證﹄ に引 く︶、 それ では、司馬遷 のいう、文武 と は何 か。原文を讀む限り、趙恒がす でに説 くよう に ︵. 武﹂ は軍純 に武 法令︶ と武 ︵ 刑罰︶ は両輪な のである。 ﹁ 直 前 の法令 と刑罰を受 けると取 る のが良 いだ ろう。 文 ︵ 文︶ に基づくと ころの刑罰 であ る。 力 を言 う のではなく、結局 それも法令 ︵. 循吏 と封照的 な存在 と目され る酷吏 と いうも のと、王澳ら循吏とされ るも のたち の差異とは何だろうか。酷吏 は、. 文﹂ と の調和を失すること にな る。 そ の調和 の喪失 が、酷吏 たる所 以な ので 刑罰を重 んじ るあまり、もう 一方 の ﹁ あ ろう。. 之 を導 く に政 を 以 てし、 之 を 齊 む 司 馬 遷 は循 吏 博 に は古 の人物 し か載 せな か った。 そし て、 酷 吏 博 にお い て、 ﹁. る に刑 を 以 てす れば 、 民 は見 れ て恥無 し。 之 を 導 く に徳 を 以 てし、 之 を齊 む る に祀 を 以 てす れば、 恥 有 り て且 つ格. る﹂ 翁論 語 ﹄ 篤 政 ︶ と いう、 孔 子 のこと ば を 引 く。 も っとも 理想 と さ れ る、 徳 と 程 によ る政 治 、 それ は結 局 理 想 で. し か な い の であ ろう が、 次 善 では あ る が許 容 でき る、 調和 を保 った政 治 、 そ れ を 行 った のが、 王 澳 ら後 世 の循 吏 た. 王 澳 ・任 峻 の洛 陽 の令 篤 るや、 姦 伏 を 明 嚢 し 、 吏 端 後 漢 書 ﹄ 循 吏 博 は こう記 し て いる、 ﹁ ち と いう こと にな ろ う。 ﹃ く し て禁 止 む 。 然 る に導 徳齊 證 、 未 だ 充 たざ る所 有 るも、 亦 た 一時 の良 能 な り﹂ と。. 郷 に有 秩 ・三老 ・済 微 を 置 く。 ⋮ ⋮其 れ郷 の小 さき者 、 縣 に音 夫 百官 五︶ に、 ﹁ ﹁ 績漢 志 ﹄ ︵ 民 の富 貧 を 料 る﹂、 ﹃. 一人 を 置 く。 皆 な 民 の善 悪 を知 り て役 の先 後 を 篤 し、 民 の貧 富 を知 り て賦 の多 少 を篤 め、 其 の差 品 を 李 ら ぐ るを 主.
(12) (164) 「雁 門 太 守 行」本L記. さ ど る﹂ と あ る。 民 の貧 富 を知 る こと は、 それ によ って賦 税 の多 少 を 決 め る た め であ り、 人 々 の格 差 を平 均 化 し て、 公 李 さ を も た ら す た め であ った。. 先 に引 いた、 温 の民 が王 澳 を讚 え た歌 は、 彼 が ﹁篠 役 を 李 ら か に﹂ し た こと を一 褒め稗 え たも の であ った。 王 博 に、. こ の こと は記 さ れ な いが、 ﹃ 華 陽 國 志 ﹄ に は、 か れ の政 治 が ﹁公李 にし て廉 正 ﹂ であ ったと 記 され て いる。. な お、 ﹃ 文 選 ﹄ 李 善 注 に引 く歌 詞 に は、 ﹁ 課 民 不 貧 ﹂ に作 る。 ﹁ 民 に課 し て貧 な ら ざ ら し む﹂ と讀 み、 意 味 す ると ころ は愛 わ ら な い。 ﹁移 悪 子 姓 、 篇 著 里 端 ﹂ ﹃宋 書 ﹄ 柴 志 ・ ﹃後 漢 書 ﹄ 注 では、 姓 字 の下 に ﹁ 名 五﹂ の二字 があ る。. ﹃績 漢 志 ﹄ ︵ 百 官 五 ︶ は つづ け て、 ヨ 一 老 は教 化 を 掌 る。 凡 そ孝 子 順 孫 、 貞 女 義 婦 、 譲 財 救 患 、 及 び學 士 の民 の法. 式 篤 る者 有 ら ば 、 皆 な 其 の門 に扁 表 し 、 以 て善 行 を 興 す 。 ⋮ ⋮里 に里 魁 有 り。 民 に什 伍 有 り。 善 悪 以 て告 ぐ。 本 注. に曰 く 、 里 魁 は 一里 百 家 を 掌 る。 什 は十 家 を 主 さ ど り、 伍 は五家 を主 さ ど る。 以 て相 い検 察 し、 民 に善 事 悪 事 有 ら. ば 、 以 て監 官 に告 ぐ ﹂ と 記 す。 民 の貧 富 によ って、 賦 税 の公 李 を期 す る 一方 、 政 治 の教 化 と いう面 では、 民 の善 悪 に よ って、 善 は表 彰 し 、 悪 は他 に知 ら し め て戒 め と し た。. テキ ストと し ては、 ﹁ 名 五﹂ の二字 が あ る ほう が、 意 味 が 通 る。 こ の二字 は、 歌 詞 が整 齊 され る過程 で削 ら れ た も のか。 余 冠 英 は、 こ の二字 な く し ては文 が 不 完 全 であ る と す る。. ﹁悪 子 ﹂ と は、 王 符 ﹃ 潜 夫 論 ﹄ 述 赦 に、 ﹁ 軽 薄 悪 子 は、 不 道 の凶民 た り。彼 れ姦 邪 を 思 えば、 起 ち て盗 賊 と 作 る﹂. と いう も の であ り、 王 澳 が若 いと き 交 わ った ﹁剰 軽 少 年 ﹂ や 四解 に出 る ﹁軽 薄 少 年 ﹂、 そし て、 悪 少 年 、 悪 少 と. い った も のと 同 意 であ る。 ﹁移 ﹂ は、 余 氏 の言 う よ う に、 ﹁ 博 告 ﹂ す る こと であ ろう。 ﹁ 名 五﹂ を補 って讀 め ば 、 ﹁悪. 子 の姓 名 を 五 ︵ 伍 ︶ に移 す ﹂ と な る。 な お、 ﹃ 文 選﹄ 巷 五十 九 ﹁ 齊 故 安 陸 昭 王 碑 文 ﹂ の李 善 注 が ﹁ 雁 門太 守 行 ﹂ を.
(13) 一 浩 田 森. (165). 5参 照 ︶、 ﹁ 博 注1 里端 の籍 を 慨 る こと無 く、 而 し て悪 子 は咸 な 誅 せ ら る﹂ と いうも の であ り、 ﹁ 引 い て注 す る句 は ︵ 告 ﹂ が 治 安 上 の虎 置 であ る こと が わか る。. こ の二句 は、 不良 青 年 を 取 り締 まり、 そ の姓 名 を か れ の属 す る五人 組 のお も て に掲 げ て、 戒 め と し た こと を 歌 う. が、、 歌 詞 が整 理 さ れ てゆ く 過程 の痕跡 が見 ら れ、 ま だ完 全 には整 理 され き って いな いよう に思 わ れ る。 し た が っ. 扁 表 其 門 ﹂ と同 内 容 であ って、 善 人 を 表 彰 し た こと を 指 す 可能 性 も あ ると て、 ﹁ 篇 著 里端 ﹂ な ど は、 ﹃績 漢 志 ﹄ の ﹁. 思 わ れ る。 あ る いは、 悪 人 は回 し文 で戒 め の封 象 と し、 善 行 は顧 彰 し た と いう ふ う に、 も と も と は歌 わ れ て いた の か も し れ な い。 以 下 、 四解 ・五解 は、 三解 の内 容を さ ら に詳 し く う た う。. 加笞決 罪. 捕軽薄少年. 禁 肇 矛 八尺. 比 伍 同 罪封 門. 傷殺人. 馬 市 に詣 り て論ず. 答 を 加 え て罪 を決 す る に. 軽 薄 少 年 を捕 う. 肇 矛 を 八 尺 に禁 じ. 比 伍 は罪 を封 門 に同 じ く す. 人 を 傷 殺 す れば. 四解 ] [. 詣馬市 論. ﹁ 傷 殺 人 、 比 伍 同 罪封 門 ﹂. 人 を傷 殺 す る者 、 比 伍 と封 門 と 皆 な同 じ く坐 す るを 謂 う な り﹂ と言 う。 恐 ら く そう いう こと であ ろう。 黄 節 は、 ﹁.
(14) (166) 「雁 門 太 守 行」本L記. 四解 は、 三解 で歌 わ れ た ﹁ 猛 政 ﹂ を受 け て、 王 澳 の治 績 のう ち 、 博 記資 料 の中 でも 特 筆 され る、 か れ の ﹁ 賊﹂ 退 治 に つい て議 つ。 ﹁禁 壼 矛 八 尺 、 捕 軽 薄 少 年 ﹂. ﹃ 宋 書 ﹄ 柴 志 では、 壼 を 鋼 に作 る。 黄 節 は、 壼 は秒 の誤 った も のと し、﹃ 漢 書﹄ 襲 遂 博 ︵ 巷 八 十 九 循 吏 博︶ に ﹁ 移. 書 し て周 縣 に救 し悉 く盗 賊 を 逐 捕 せ し吏 を 罷 め じ む。 諸 も ろ の神 鉤 田器 を持 つ者 は皆 な良 民 と篤 し、 吏 は間 う を 得. る こと 無 か ら し む。 兵 を 持 つ者 は乃ち盗 賊 と 篤 す ﹂ と あ る のを 引 く。 壼 矛 は未 詳 であ るが、 鋼 矛 、 移 矛 は兵 器 であ り、 王 澳 が 兵 器 の所 持 を 禁 じ た ことを言 う の に違 いな い。 黄 節 の引 文 にあ る よう に、 農 機 具 が武 器 と し て使 わ れ る. こと が あ り、 そ のた め、 ﹁八 尺 ﹂ と いう寸 法 で、 武 器 と し て使 わ れ る危 険性 を 剣 断 し 、 禁 じ た と いう こと だ ろう か。. 王 博 に は、 ﹁温 の令 に除 せ ら る。 縣 に姦 猾 多 く、 積 も り て人 の患 いと な る。 澳 方 略 を 以 て討 撃 し、 悉 く之 を 誅. す﹂ と あ り 、 ﹃ 華 陽 國 志 ﹄ に は、 ﹁ 洛 陽 の令 を 舞 す 。 ⋮ ⋮姦 を 嚢 し伏 を樋 す る こと 忽 と し て紳 有 るが若 し﹂ と あ った。. さら に、 ﹃東 観 漢 記 ﹄ にも 、 ﹁ 雛 陽 の令 と 篤 り、 盗 賊 を 嚢 す る に遠 く走 ぐ るを 得 ざ ら し む。 或 は溝 渠 に蔵 れ、 或 は霊. の下 に伏 す 。 澳 方 略 を 持 って之 を取 る。 皆 な 紳 明 と稀 す ﹂ と 記 され る。 ﹃東 観 漢 記 ﹄ は、 急 に逃 げ る こと が でき. ず、 と り あ え ず身 を 隠 す のが精 い っぱ いだ った盗 賊 のあ り さ ま を 描 き出 し て いる が、 洛 陽 の令 た る高 官 の捕 り物 が、. はた し て こん な様 であ った と は想 像 し にく く 、 ま る で芝 居 のよ う な叙 述 であ る。 王 澳 の賊 退 治 の物 語 が存 在 し た 可 能 性 を 示 唆 す る。 ﹁ 加 笞 決 罪、 詣 馬市 論 ﹂. 黄節 は ﹃ 漢 書 ﹄ 刑 法 志 三 に載 せ る、 景 帝 元 年 の詔 の 一文 を 引 く。 ﹁ 加 笞 は重 罪 と 異 な る無 し。 幸 い にし て死 せざ. るも 、 人 篤 る可 か らず 。﹂ 重 刑 を 見 れ て笞 刑 と な っても 、 答 を 受 け ては、 も はや普 通 人 の生 活 を螢 め な いほど後 遺 症 が あ り、 賞 際 には、 死 罪 と 相 等 し いほ ど だ った と いう。.
(15) 田 浩 一 森. (167). 刑 罰 を 重 く し よ う と いう動 き と 軽く し よう と いう 動 き は、 繰 り返 し交 互 に現 れ た。 王 澳 を抜 櫂 し た陳 寵 は、 章 帝. の世 の初 め に向 書 と な った が、 営 時 は永 李 ︵ 明 帝 の時 代 ︶ の氣 風 を色 濃 く残 し てお り、 官 吏 は厳 し い政 治 を貴 ん で. い た。 そ の後 、 和 帝 の印 位 を 機 に、陳 寵 は こ の前 代 の過 酷 な 傾 向 を 改 め る べき だ と 考 え て、 皇 帝 に意 見 を 奉 る。 a後 漢 書 ﹄ 陳 寵 博 ︶. 和 帝 の世 、 王 澳 が活 躍 し た時 代 には、 皇 帝 自 身 も 薄 刑 に傾 いた よう であ った。 し か し、 ﹃ 後漢 書﹄ 魯恭博 ︵ 列博. 第 十 五︶ には、 ﹁ 和 帝 の末 、 令 を 下 し て変 秋 案 験 す る に刑 を薄 か ら し む。 而 る に州 郡 苛 察 を 以 て政 を篤 し、 此 に. 因 り て遂 に盛 夏 に断 獄 す ﹂ と あ り、頑 とし て過 酷 な 政 治 を績 け た地 方 官 たち の様 子 が窺 え る。. 陳 寵 に抜 櫂 さ れ て、 地 方 官 と し て活 躍 し た王 澳 は、 王 博 に、 ﹁ 寛 猛 の宜 しき を 得 た り﹂ と 評 され る よう に、 過度. に過酷 な方 向 へ傾 く こと はな か った。 この歌 詞 を 讀 む か ぎ り、 方 略 を 用 い て賊 を 退 治 し た こと も、 か れ の ﹁ 内 にあ. る慈 仁 ﹂ を 良 民 た ち に敷 き 及 ぼ す ため の、 一時 の政 策 であ った に違 いな い。 だ か ら、 武 器 を 取 り締 ま る にし ても、. 徹 底 し て行 う の では な く、 ﹁八 尺 ﹂ と いう基 準 を 設 け て取 り締 ま った の であ り、 基 本 的 に は襲 遂 と 同 様 のや り方 だ った ろう。. ﹁ 馬市 ﹂、 黄 節 は、 ﹃ 證 記﹄ 王 制 の ﹁ 人 を市 に刑 し 、 衆 と之 を 棄 つ﹂ と いう記事 を 引 い て注 す る。 古 末 、 市 は刑場. と し て機 能 し てき た。 ﹃ 東 観 漢 記 ﹄ の呉樹 李 の校 注 は、 ﹃後 漢 書 ﹄ 霊 帝 紀 中 李 元年 十 月 の條 に つい て の李 賢 注 ﹁ 棺を. 嚢 き て頭 を 断 ち 、 博 え て馬 市 に途 る﹂、 ﹃ 績 漢 志 ﹄ 天 文 ・中 の ﹁ 孝 順 永建 二年 、 ⋮ ⋮定 遠 侯 班 始 陰 城 公 主 堅 得 を向. し て、 闘 争 し て堅 得 を殺 し 、 腰 斬 に馬 市 に坐 し、 同 産 皆 な棄 市 せ ら る﹂ を引 き、 馬 市 も 同 様 の場 であ った ことを 證 す る。. こ の解 は、 賊 を 退 治 す る王 澳 の姿 が、 か れ の物 語 によ って歌 わ れ ている よう に思 わ れ るが、 具 證 的 な物 語 が博 わ. ら な い の で、 わ か ら な い こと が多 い。 連座 制 に つい ても 、 武 器取 り締 ま り に つい ても 、 馬 市 にお け る虎 罰 に つい て.
(16) (168) 「雁 門 太 守 行」本L言 己. も、 そ の背景 には、 それぞれ にま つわ る物語 が存在 し ていたと思 われ る。. 不得 苛 煩. 救吏 正獄. 念 在 理冤. 無 妄 嚢賦. 財 用 錢 三十. 苛 煩 た るを 得 ざ ら し む. 吏 に救 し て獄 を 正 さ し め. 念 いは冤 を 理 む る に在 り. 妄 り に賦 を 嚢 す る こと無 く. 四. 財 用 錢 三十. 組 を 買 い 竿 を 證 む つ︶. [ 五解 ]. 買 細 證竿. 慈 仁 ﹂ を 受 け る。 猛 政 ﹂ を 受 け た が、 五 解 は 三 解 の ﹁ 四解 は三解 の ﹁ ﹁ 無 妄 登 賦 、 念 在 理冤 ﹂ ﹁ 無 妄 褒 賦 ﹂、 こ の解 の第 五 句 ・六 句 と 開連 す る の で、 後 述 す る こと と す る。. ﹁理 冤﹂、 裁 剣 に開 し ては、 王 博 に ﹁ 其 の冤 嫌 久 訟 、 歴 政 の断 ぜ ざ る所 、法 理 の李 し難 き 所 の者 、 情 詐 を曲 蓋 し、 革 疑 を 堅 塞 せ ざ る莫 し﹂ と 記 さ れ て いる。. そも そも 、 孔 子 が ﹁訟 を 聴 く は吾 猶 お人 のご と き な り、 必 ず や訟 を 無 から しめ ん か﹂ と 語 った よ う に、 儒家 の理. 巻 八十 九 ︶ は、 ﹁ 庶 民 の其 の田里 に安 んじ 漢 書﹄ 循 吏 博 ︵ 想 とす る政 治 は、 訴 訟 が な いよ う にす る こと であ った。 ﹃.
(17) 田 浩 一 森. (169). て歎 ず る亡 く愁 い の心 息 む の所 以 の者 は、 政 李 か にし て訟 理 ま るな り﹂ と いう。 顔 師 古 は注 し て、 ﹁訟 理 ま ると は、. 言 う こ ころ は訟 う る所 理 め ら れ て冤滞 無 き な り﹂ と言 う。 訴 訟 が無 い こと が 理想 であ るな ら ば、 次 善 の策 は訴 訟 を. う ま く お さ め る こと であ る が、 そ れ は つま り、 こ こ で言 わ れ て いる よう に、 冤 罪 と虎 理 の停 滞 を な く す る こと にほ か な ら な い。 これ を 受 け て次 の二句 が歌 わ れ る。 ﹁ 敷吏 正 獄 、 不 得 苛 煩 ﹂. 裁 剣 が、 あ ま り に煩 瑣 で苛 酷 になら ぬよう部 下 に命 じ た。 陳 寵 が廣漢 の太 守 と な った時 のあ り さ ま、 ﹁西 州 の豪. 右 丼 兼 し、 吏 に姦 貪 多 く、 訴 訟 日 に百 を敷 う。 寵 到 り、 良 吏 王 澳 ・鐸 顧 等 を顧 用 し、 以 て腹 心 と篤 す 。 訟者 日 に. 減 り、 郡 中 清 粛 た り﹂ ︵ 陳 寵 博 ︶ を想起 さ せ る。 ﹃ 華 陽 國志﹄ が ﹁ 聰 明恵 断 ﹂ と表 現 し た、 王 澳 の手 腕 が、 これを 可 能 にし た の であ ろ う。 ﹁ 財 用 錢 三十 、 買 細 祀 竿 ﹂. こ の二句 は 理 解 し にく い。 ﹃ 詩 紀 ﹄ は、 一本 に祀 を 理 に作 ると 記 す。 な お、 ﹃ 侃 文 韻 府 ﹄ は、 漢 柴 府 と し て ﹁ 財用. 錢 三十 、 貢 組 理 竿 ﹂ と いう句 を 引 く。責 節 ・余 冠 英 と も に、 ﹁ 祀 ﹂ を 同 音 の ﹁理﹂ と 取 って解 繹 す る。. ﹁ 財 用 ﹂ は資 産 ・資 材 であ り、 も のご と にか か る 元 手 ・経 費 であ る。 政 治 にか か る経 費 が わ ず か であ った と う. た っている のだ ろ う。 責 節 は、 ﹁ 此 は妄 り に賦 を 嚢 す る無 く し て貧 民 に田を 偶 興 し、 綾 か に錢 三十 分 を 用 い、 組 を. 買 い竹 を折 り て以 て其 の地 を 治 む 可 か らし む るを 謂 う な り﹂ と言 い ︵ ﹁ 財﹂ を ﹁ 綾 ﹂ と取 る︶、 ﹃ 漢書 ﹄ 宣 帝紀 地 節. 二年 の ﹁ 詔 し て池 禦 の未 だ御 幸 せざ る者 、 貧 民 に偶 興 せ し む﹂ と いう 記事 と、 そ の蘇 林 の注 ﹁ 竹 を折 り組 を 以 て禁. 禦 に訴 連 た ら し め 、 人 を し て往 末 す るを得 ざ ら し む。 律 に名 づ け て禦 と篤 す ﹂ を 引 く が、 これ では、 貧 民 に貸 し興. え た田 の境 界 を 示 す の に、 組 と竿 を用 いたか ど う か の説 明 にはな っていな い。 余 冠 英 も 黄 節 と同 じ解 繹 であ る。 た. だ 、 園 圃 や池 禦 を 貧 民 に貸 し興 え たと いう には、 根 抜 が薄 い。 ﹃堕 鐵 論﹄ 園地 篇 に、 天 可 縣 官 の多 く苑 圃 ・公 田 ・.
(18) (170) 「雁 門 太 守 行」本L言 己. 池 澤 を 張 り、 公 家 郭 個 の名 有 り て、 利 は権 家 に婦 す 。 ⋮ ⋮先 帝 の苑 圃 ・池禦 を 開 き 、 賦 す 可 き は之 を 民 に婦 し、. 縣 官 租 税 す る のみ。 偶 ・税 名 を 殊 にす れ ど も、 其 の賞 は 一な り﹂ と述 べら れ ている よ う に、 手 放 し で褒 め ら れ る 政 策 ではな か った か ら だ。. 少 府 の用 度 を 減 省 し 、 漢 書 ﹄巷 八 十 九 循 吏 博 文 翁 博 に ﹁ い った いど の よ う な こと な のか わ か ら な い のだ が、 ﹃. 、 刀 ・布 蜀 の物 を 買 い、 計 吏 に齋 え て以 て博 士 に遺 る﹂ と いう 記述 が参 考 にな る よう に思 わ れ る。 王 澳 に つい ては. 文 翁 のよう に具 翌 的 な 話 は博 わ ら な いが、 何 ら か の経 費 節 減 にま つわ る話 を下敷 き にし て い る の ではな いか。. 無 妄 嚢 賦 ﹂ を受 け た も のと す る のは、 作 品 の構 成上 か ら首 肯 でき る。 三解 以降 、 作 品 た だ、 黄 節 が こ の 二句 を ﹁. 内懐 慈 仁 ﹂ を 外 行 猛 政 、 内 懐 慈 仁 ﹂ と歌 い出 さ れ た後 、 ま ず ﹁ の内 部 構 成 は交 叉 的 に展 開 さ れ てき た。 三解 では ﹁. 移悪 子 姓 、 篇 著 里 端 ﹂ が績 いた。績 い 文 武 備 具 、 料 民 富 貧 ﹂ が つづ き 、 それ か ら ﹁外 行 猛 政 ﹂ を 受 け た ﹁ 受けて ﹁. 内 懐 慈 仁 ﹂ を受 け て 外 行 猛 政 ﹂ に つい て具 翌 的 に歌 い、 この五解 は、 三解 の ﹁ て四解 は、 三 解 の最 後 を 受 け て、 ﹁ 具 催 的 に展開 し て い る。. 念 無 妄 嚢 賦 、 念 在 理冤﹂ の ﹁ そ し てさら に、 こ の五 解 の中 でも 同 様 の交 叉 し た構 成 法 が取 ら れ てお り、 冒頭 の ﹁. 財 用錢 三十 、 救 吏 正 獄 、 不 得苛 煩 ﹂ が う た わ れ、 次 に ﹁無 妄 嚢賦﹂ を受 け たも のと し て ﹁ 在 理 冤 ﹂ を ま ず 受 け て、 ﹁ 買 細 證 竿 ﹂ が あ る と 思 わ れ る。. 賦﹂ を ﹁ 捐税 ﹂ と 嚢﹂ を ﹁ 興 辮 ﹂ と、 ﹁ 一方 、 余 冠 英 は、 ﹁ ﹁ 無 妄 嚢賦 ﹂ に つい て、 黄 節 は注 繹 を興 え ていな い。. 嚢賦 ﹂ 解 繹 す る。 む や み にあ ら た に色 々な 税 金 を 課 し て取 り立 てる よ う な こと はな か った、 と いう解 繹 にな る。 ﹁. 守 宰 に属 せず し て、 賦 を 嚢 す る こと軽 易 た り﹂ な ど は、 魏 書 ﹄ 巻 九 四仇 洛 齊 博 に ﹁ と いう表 現 の用 例 は少 な いが、 ﹃. 嚢 賦 ﹂ とな る。 徴 嚢 賦 調 ﹂ と あ るが、 これを 二字 に つづ め れ ば、 ﹁ 國 志 ﹄ 巻 六 五賀 郡 博 に ﹁ 同 様 の意 味 であ ろ う 。 F 一. 賦 ﹂ と いう租 税 、 と も に庶 民 の負 措 が重 く、 不 径 役 ﹂ と いう夫 役 ・ ﹁ 李 径 役 ﹂ と あ った が、 ﹁ 河 内 の民 の歌 に、 ﹁.
(19) 公李 にならな いよう にはか ったと いう こと であ ろう。. 後漢 と いう時代 を見 れば、恣 に賦役を課し、貧民層 が耐 えきれなくな って逃亡し、富め る者 が逃亡者 の土地を兼. 併す る状況が生 み出 され、逃亡者 はその下 で農奴的 な存在 とな って、税制自理 に打撃を興 える こととな る問題 が深 刻化 し ていた時代 であ った。. 李篠役﹂ であ ったと いえる。 河内 の民 は、 まさ にこの路 で王澳を稀揚 この困難な問題 に封す る有数 な封虎が、 ﹁. 晉書﹄ 良吏博賓允博 に、 径役を平均 す る ことが庶民 に し ていた のであ る。 王澳 以外 にも、 ﹃ 後漢書﹄ 第五倫博 や ﹃ よろ こば れた ことが記 され ている。. 一に曰く主用足 る。 二に曰く民賦少 なし。 三 に曰く農功を勘む。﹂ 心 に順 いて、補 う所 の者 三、. 民の 漢書﹄食貨志 にも見られる。 ﹁ す こと、 そし て人民 を農業 に勤めさせる こと の三 つが 一組 に述 べられる のは、﹃. 財用︶ を節約す る こと、 人民 に課す る賦役を減ら を以 て威 を立 て、 計略 に善 く、 民 の役を省愛す。﹂ また、 経費 ︵. 巽め る こと は、 たと うまく計略を用 い て悪人を退治する ことと人民 の径役を減 らす ことを並列し て、 その政治を一 南陽太守 に遷 る。性 は節倹 にし て政治 は清李、暴を誅す る 列博第 二十 一︶ にも見 える。 ﹁ えば、﹃ 後漢書﹄杜詩停 ︵. 浩. 賢哉賢哉. 我 が 縣 の王 君. 賢 な る か な 賢 な るか な. 五. 我縣王君. 里ハ解 ]. 以上、 五解 に至 るま で、官吏王澳 の治績を褒 め稀 えた。. 田. 一 森. (171).
(20) (172) 「雁 門 太 守 行」本L言 己. 皆得其人. 功曹 主簿. 奉事皇帝. 臣吏衣 冠. 皆 な 其 の人 を 得 た り. 功曹 主 簿. 皇 帝 に奉 事 す. 臣 吏 と し て衣 冠 し. 歌 は こ こか ら そ の調 子 を 愛 え る。 五解 ま でが ﹁ 洛 陽 令 王 君 ﹂ の治 績 の稗揚 であ った の に封 し て、 こ こか ら後 は、. ﹁ 我 縣 王 君 ﹂ にむ か って、 一個 の人 間 と し て の美 路 を一 騒め 稀 え、 死 者 への直 接 的 な献 辞 と な って、 句 も 四言 整 齊 と な る。 ﹁賢 哉 賢 哉 、 我 縣 王 君 ﹂. す ば ら し い人 物 であ った よ、 我 が縣 の王 君 は。 我 が縣 と いう言 い方 に、 こ の歌 い手 が王 澳 の郷 里 邦 縣 の人 であ る こと を 思 わ せ る。 ﹁ 臣 吏 衣 冠、 奉 事 皇 帝 ﹂. そ のす ば ら し いひ と であ っては じ め て、 官 吏 と な って皇 帝 にお仕 えす る こと が でき た のだ。 ﹁ 功 曹 主簿、 皆 得 其 人 ﹂. そ し て王 澳 の部下 た ち も 、 皆 し か る べき人 物 であ った。 王 澳 を抜 櫂 し た陳 寵 も、 王 澳 ・鎮 顧 と いう良 吏 を 腹 心 に. 部 に臨 み て職 に居 る に. し、 そ れ ぞ れ を功 曹 主 簿 に任 じ て、 そ の治 績 を あげ た の であ った。. [ 七解 ] 臨 部居職.
(21) 田 浩 一 森. (173). 遠近所 聞. 治有 能 名. 夙夜 勢 勤. 清身苦催. 不敢 行 恩. 遠 近 聞 く所 な り. 治 に能 名 有 り て. 夙夜 努 勤 す. 身 を清 く し 催 を 苦 し く し. 敢 え て行 恩 せ ず. ﹁ 臨 部 居 職 、 不 敢 行恩 ﹂. 部 に還 り て府 君 に白 す ﹂ 古 詩 焦 仲 卿 の妻 の篤 に作 る﹂ 翁玉 皇 新 詠 ﹄ 巷 一︶ に、 ﹁ ﹁部 ﹂ は ﹁署 ﹂。 G廣 韻 ﹄ 厚 韻 ︶ ﹁. 王 堂 ・陳寵 賢 良 に委 任 す るも 、 而 る 後漢 書 ﹄ 循 吏 博 に ﹁ と あ る。 ﹁居 職 ﹂ は自 分 の職 務 に従 事 す る こと であ る。 ﹃. に職 事 は自 ら 理 む﹂ と あ る のが参 考 にな る。 役 所 に居 て、 わ が職 務 にあ っては、 け っし て恩 賞 を 興 え よ う と はし な か った。 ﹁ 清 身 苦 催 、 夙夜 勢勤 ﹂. と は いえ、 軍 に部下 た ち に封 し て厳 し か ったと いう の ではな い。 王 澳 自 身 が、 まず自 ら を厳 し く律 し て いた の で あ った。 ﹁ 治 有 能 名 、 遠 近所聞 ﹂ そし て彼 の統 治 能 力 は遠 く にま で鳴 り響 い ていた の であ った。. こ の解 も 官 吏 と し て の王 澳 を う た って いる。 し か し、 前 年 と は違 って、 王 澳 の官 吏 と し て のあ り方 ではな く、 官 吏 王 澳 の人 間 性 を う た って い る の であ る。.
(22) (174) 「雁 門 太 守 行」本L記. 欲令 後 世. 安 陽亭 西. 篤君作祠. 早就 奄 昏. 天年 不 遂. 稀 博 せざ る こと 莫 か ら し め んと 欲 す. 後世をし て. 安 陽亭 の西 に作 る. 君 が篤 に祠 を. 早 く奄 昏 に就 く. 天年 遂げ ず. [ 八解 ]. 莫 不稗 博. ﹁天 年 不 遂 、 早 就 奄 昏 、 篤 君 作 祠 、 安 陽 亭 西 ﹂. か く ま で素 晴 ら し い人 物 だ った 王 澳 の死 は、 人 々 にあ ま り にも 早 す ぎ るも のと し て受 け取 ら れ た。 王 博 に載 せ る. 郡 太 后 の詔 に は、 ﹁ 功 業 未 だ 遂 げ ず 、 不 幸 にし て早 世 す ﹂ と 記 さ れ て いる。 彼 が ﹁ 宦 學 ﹂ し て いた時 にま だ 三十 歳. でな か った な ら 、 彼 が官 吏 であ った のは約 二十 年 間 、 五十 歳 前 に は死 去 した こと にな る。. そし て、 人 々 が か れ の死 を いか に嘆 き 悲 し んだ か、 王 博 に は こう 記 さ れ る。 ﹁ 百 姓 ・市 道 、 苔 嵯 せざ る莫 し。 男. 女 老 壮 皆 な 相 い興 に賦 敏 し て実 醸 を 致 す こと千 を 以 て敷 う。 ⋮ ⋮澳 の喪 西 に婦 り、 道 に弘農 を 経 る に、 民 庶 皆 な. 槃 核 を 路 に設 く ﹂。 そし て、 役 人 が そう す る理由 を 尋 ね ると、 人 々 は ﹁ 李常 米 を持 ち て洛 に到 る に卒 司 の妙 す る. 所 と震 り、 恒 に其 の牟 ば を 失 う。 王 君 の事 に在 り てよ り、 侵 柾 せ ら れ ず 。故 に来 た り て恩 に報 ゆ﹂ と答 え た と いう。 営 時 、 いか に貪 官 が多 か った を 物 語 る であ ろう。 人 々 は、 こ の希 有 な人 物 王 澳 を 、 安 陽 亭 に祠 を 建 て て祭 った。 ﹁ 欲 令 後 世 、 莫 不稽 博 ﹂.
(23) 田 浩 一 森. (175). そうす る こと で、 人 々は こ の王 澳 の事 績 を長 く後 世 に博 え んと し た の であ る。. す で に述 べた よ う に、 この歌 詞 そ のも のは、 安 陽 亭 で人 々が弦 歌 し た も の ではな い。 後 世 のも のた ち が、 王 澳 の ﹁ 稗 博 ﹂ に参 加 し て、 作 品 を成 長 さ せ た の であ った。. 孝 和 帝 在 時 ﹂ の王 澳 の歌 を 博 承 し、 はぐ く み、 さ ら に後 世 へと博 え てい った の であ ろ う か。 な ぜ 後 世 の人 々が ﹁. 王 澳 の善 政 に軽 減 さ れ た人 々 の愁 い、 それ と同 じ愁 いを後 世 の人 々も 相 愛 わ らず持 ち績 け て いた か ら だ 。 た だ 、 後. 世 の人 々が自 分 たち の愁 いを 直 接 的 に表 現 す る の ではな く、 前 世 か ら の王 澳 の物 語 に託 し た こと には、 そ れ な り の 理由 が あ ると考 え ら れ る。. エ ハ. 豪右﹂ であ っても何ら避 けると ころがなか った。 かれ 王澳博 によると、王澳 は陳寵 の下 で功曹 となり、相手が ﹁. 雁門太守行﹂ には、 こう いう豪右 と の封決 は、 さほど強調され ていな い。 の ﹁ 猛政﹂を物語 るも のであ ろうが、﹁. 衰州 の刺史 に遷 る。 部郡を組正 し、 風威大 いに行わる。 後 妖言不賞 の論 に 王博 には、 こう いう記事があ る。 ﹁. 座す。﹂ 妖言不賞 と は、虚偽 の言 を放 ったと いう罪 であるが、豪右貴戚 の悪行を指摘し、彼らと封立 した場合、 こ の罪名 を被 せられ る ことが多 か った。. 秦 の時、 文學を羞 じ、 武勇を好 み、 仁義 の士を賤 しみ、 治獄 の 前漢 の路温舒 は、 宣帝 に上書 し てこう述 べた。 ﹁. ﹃ 漢書﹄巷五十 一︶ 賞直 な言動 が 吏 を貴 ぶ。正言す る者 これを誹謗 と謂 い、過ちを過むる者 これを妖言 と謂 う。﹂ ︵. 誹謗 ・妖言 とされ てしまう のであ った。路温舒 は この秦 の世 の悪風を奉げ て、彼自身 の時代 の風潮を諷し ている の. 漢書﹄ 刑法志 であ る。 言動を統制 し正営な批 剣を封 じ込め てしまう妖言 の罪 は、 たび たび康止 されようとした。 ﹃.
(24) (176) 「雁 門 太 守 行」本L記. に ﹁ 高 后 元年 に至 り て、 乃 ち 三族 の罪 ・祗 言 の令 を 除 く﹂ と 記 され る のが そ の 一例 であ る。 し か し、 ﹁ 妖 言 ﹂ は、. 批 剣 勢 力 を 陥 れ る武 器 であ り績 け た 。 王 澳 の場 合 、 衰 州 の刺 史 と し て、 豪 右 貴 戚 と軋 蝶 を生 じ、 妖 言 の罪 を 被 せ ら れ た 可 能 性 が大 き い。. 陳 寵 博 には、 ´章帝 が陳 寵 の上 書 を 受 け て、 苛 酷 な 刑 罰 を やめ、 妖 悪 の禁 を解 く よう に命 令 し た こと を 記 し て い る。. 後 漢 書 ﹄ 郡 皇 后紀 ︵ ま た、 ﹃ 皇 后 紀 上 ︶ には、 和 帝 の死 後 、 皇 后 が 太 后 と な って、 建 武 以来 の妖 悪 の罪 を 犯 し た者. や 馬 氏 賓 氏 ら外 戚 に禁 錮 され た者 の罪 を 許 す 詔 を出 し た こと が 記 さ れ る。 王 澳 の時 代 の前 後 にも 、 こ のよ う に、 一. 方 では妖 言 の罪 を 除 こう とす る動 き が あ りな が ら、 一方 では相 愛 わ ら ず そ の罪 が権 力 者 たち に利 用 し績 け ら れ て い. た こと が わ か る。 王 澳 が豪 右 と 封 決 し よ う と す る際 に は、 相 手 の武 器 であ る妖 言 の罪 と も戦 わな け れば な ら な か っ 0︶ ︵ 3 た。. 衰 州 刺 史 と な る前 、 王 澳 は河 内 の温 の令 であ った。 ﹃ 績 漢 書 ﹄ 百 官 志 四、 司隷 校 尉 の條 に ﹁ 本 注 に曰 く 、 都 官 従. 事 、 百 官 の法 を 犯 す 者 を 察 奉 す ﹂ と あ り、 そ の注 に ﹁﹃ 博 物 記﹄ に曰 く 、 中 興 以来 、 都 官 従事 多 く之 を 河 内 に出 だ. し 、 貴 戚 を措 撃 す ﹂ と あ る。 こ の注 文 に引 く 記 事 は、 河 内 出 身 の官 吏 の氣 質 を博 え て いるが、 陳 寵 のも と か ら 温 ヘ. 末 て、 王 澳 が こ の氣 風 に鯛 れ、 豪 右 貴 戚 に封 す る そ の姿 勢 を よ り尖 銑 な も の にし たか も し れな い。 し か し、 そ こ で 妖 言 の罪 の苦 汁 を 嘗 め た後 、 洛 陽 の令 と な っては、 そ の態 度 を 改 め た のだ ろ う か。. ﹃後 漢 書 ﹄ 柴 恢 博 ︵ 列 博 第 二十 三 ︶ には こう 記 され る。 沢柴 恢 ︶ 入 り て向 書 僕 射 と篤 る。 是 の時 、 河 南 ヂ 王 調 ・. 洛 陽 令 李 阜 、 首 憲 と 厚 だ善 く、 縦 舎 自 由 た り。﹂ そし て、 蓑 安 博 ︵ 列 博 第 二十 五︶ には ﹁ 和 帝 印 位 し、 賓 太 后 朝 に. 臨 む 。 ⋮ ⋮賓 憲 印 ち 出 で て、 弟 衛 尉 篤 ・執 金 吾 景 、 各 お の威 権 を専 ら にし、 公 に京 師 に於 い て客 を し て道 を 遮 り、. 人 の財 物 を 奪 わ し む ﹂ と言 う。 王 澳 が 洛 陽 の令 と な る前 、 外 戚 賓 氏 の権 勢 強 か り し頃 、 洛 陽 はま さ に こ のよ う な 有 様 だ った のだ 。.
(25) 一. そ し て、 王 澳 が洛 陽 の令 と な った時、 賓 氏 は既 に除 か れ て いた。 し か し、 貴 戚 豪 右 のたち の悪 いも のが いた に違. いあ る ま い。 だ か ら こそ、 王 博 は こう記 す の であ る。 ﹁又 た能 く 誦数 を 以 て姦 伏 を 嚢 樋 す 。 京 師稗 嘆 し、 以 て澳 に. 姦 を 嚢 し伏 を 樋 す る こと忽 若 と し て諄 有 紳 等 有 り と篤 す ﹂ と。 そ し てま た、 既 に引 いた よう に、 ﹃華 陽 國 志 ﹄ も、 ﹁ り。 京 華 密 静 た り て、 櫂 豪 畏 敬 す ﹂ と記 す の であ る。. 諄 明﹂ を博 え て い 東 観 漢 記﹄ も王澳 の ﹁ 王 澳 は、 妖 言 の罪 に懲 り る こと な く、 洛 陽 でも豪 右 を避 けな か った。 ﹃ た が、 王 澳 の ﹁ 紳 ﹂ は、 ま さし く この ﹁嚢 樋 姦 伏 ﹂ に嚢 揮 され た。. 客 ﹂ が堂 々と強 盗 を は た ら く よ う な状 況、 官 吏 が盗 賊 を 退 豪 右 と の封 決 は強 調 し て歌 わ れ な いが、 外 戚 賓 氏 の ﹁. 悪 子﹂ 退 治 が う た 治 す る こと が、 権 力 者 た ち を 畏 怖 さ せ てし ま う よう な世 の中 に暮 ら し て いた人 々 に は、 王 澳 の ﹁ わ れ るだ け で、 胸 が空 く 思 いだ った に相 違 な い。. 既 に見 た よ う に、 王 博 に は、 洛 陽 に米 を 運 ぶ際 に、 い つも卒 司 に米 を か す め 取 ら れ ていた のが、 王 澳 着 任 後 はな く. 紳 ﹂ であ った ろ う。 洛 陽 の民 が王 澳 の篤 に祠 を建 てた時 、 彼 ら が最 も 感 謝 し て いた のは、 な によ り も 王 澳 の こ の ﹁. 百 姓 ・市 道 、 苔 嵯 せざ る莫 し﹂ と記 さ れ る よ う な った こと に封 す る人 々 の感 謝 の言 葉 が 記 され て いた。 そし て、 ﹁. 痛 快 な 物 語 の主 人 公 であ った に違 いな い。. 小 黄 門 段 珪 、 行 旅 を劫 掠 す ﹂ と あ る。 後 世 の商 人 た ち にと っても、 王 澳 は、 ま こと に 宦 者 列 博 第 六 十 八 ︶ には、 ﹁ ︵. 後漢 書﹄侯 寛 博 と き に は盗 賊 と 愛 わ る と こ ろ が な か った。 王 澳 の死 後 も、 こ のよ う な 状 態 は 績 き、 た と え ば、 ﹃. か れ ら旅 す る者 達 は、 絶 えず盗 賊 や豪 右 貴 戚 の息 のか か った者 達 に苦 し め ら れ て いた のだ ろう。 役 人 でさ えも 、. 服 す る ほど、 旅 人 や商 人 達 の彼 に封 す る感 謝 の念 は強 か った。. 旅 、 之 を 祭 ら ざ る莫 し。 賣 胡 左 夷 、 其 の清 理 に遭 い、 制 服 す る こと 二年 た り﹂ と 言 う。 異 民 族 の商 人 が 三年 の喪 に. 華 陽 國 志 ﹄ には、 ﹁行 人 ・商 市 道 ﹂ の人 、 商 人 や旅 人 たち が いた。 ﹃ に、 か れ の死 を 特 に嘆 き 悲 し んだ 人 々 には、 ﹁. 田. 浩 森. (177).
(26) (178) 「雁 門 太 守 行」本L言 己. こ のよ う な行 旅 商 人 た ち の思 いが集 ま った場 所 であ る祠 が う た わ れ て結 ば れ る ﹁雁 門 太 守 行 ﹂ の歌 詞 の最 後 は、 のだ 。. 最 初 に、 こ の作 品 の冒 頭 ﹁ 孝 和 帝 在 時 ﹂ と いう 一句 が、 王 澳 の物 語 を 博 承 し て いた人 々 に、 王 澳 が活 躍 し た和 帝. の御 代 の雰 園 氣 を 呼 び 覺 ま さ せ た の では な いか、 と述 べた。 和 帝 の死 後 、 早 速 外 戚 郡 氏 の捏 頭 を 見、 さら に は宦 官. の横 暴 の中 に混乱 を 深 め て い った後 漢 の世 にあ って、 人 々 は こ の歌 を今 のか たち にはぐ く ん で い った の であ ろ う。. 人 々 は、 王 澳 のよ う な 人 物 を も は や再 び 生 み出 し てはく れ ぬ世 の中 に封 し、 ど れ だ け失 望 し、 憤 った であ ろう か。. 王 澳 は、 外 戚 賓 憲 に晩 ま れ た ため に廣 漢 太 守 に遷 さ れ た陳 寵 に用 いら れ て官 吏 と な り、 和 帝 の世 にあ って、 そ の. 手 腕 を 振 る った のだ が、 和 帝 印 位 の前 、 同 じ く洛 陽 の令 と な った周紆 は、 豪 右 に厳 し く封 虎 し て、 そ の故 に見 官 さ. せ ら れ て いる。 ま こと に、 王 澳 の活 躍 に は時 運 と いう も のが は た ら い て いた の であ った。 ﹁ 孝 和 帝 在 時 ﹂ に こめ ら. れ た 思 い の深 さ が知 ら れ る。 和 帝 亡 き 後 、 郡 太 后 が朝 政 に臨 んだ が、 彼 女 は自 分 の 一族 に封 し て厳 し い態 度 を と り、. 外 戚 の横 暴 を 防 ご う と し た。 後 漢 最 後 の、 高 い沿 侍 を持 った女 性 であ った。 鬼 諄 を信 じず 、 典 證 に合 わな い祠 を や. め さ せ た彼 女 か ら、 死 後 民 衆 に祠 にま つら れ た王 澳 は、 賞 費 の ことば を 授 け ら れ た の であ った。. 豪 右 貴 戚 を 抑 え る手 腕 を 持 った官 吏 の象 徴 と な った王 澳 の物 語 を博 承 し て いた人 々 は、 行 人 商 旅 の感 謝 の思 いを. そ の心 に共 有 し、 う た に そ の思 いを 託 し た に違 いな い。 王 澳 と いう象 徴 への思 慕 を、 人 々 は混 乱 を 深 め てゆ く世 の 中 にあ って、 暖 め 膨 ら ま せ績 け た の であ る。. そ し て、 最 終 的 に こ の作 品 を完 成 さ せ た人 々 は、 裾 野 の民 衆 の思 いを 共 有 し つ つも 、 象 徴 王 澳 を循 吏 の典 型 と し. て、 史 書 等 の表 現 も ふ ま え て歌 詞 に描 き 出 せ るだ け の素 養 を も ったも のたち であ った。 それ はお そら く、 時 代 が時. 代 な ら 自 分 も 王 澳 のよ う に活 躍 でき た か も し れ ぬ、 と いう 思 いを も った も のた ち ではな か ろう か。 そ こには、 時 代. に不 満 を 抱 き 、 た だ 空 し く そ の正 義 感 を 費 さ ねば な ら な か った下 級 官 吏 たち の姿 が垣 聞 見 え る氣 がす る。.
(27) 一 浩 田 森. (179). 郡 太 后 は 、 ﹁毎 に前 代 の外 戚 ・賓 客 の権 威 を 偶 借 し 、 軽 薄 認 調 た り て、 奉 公 を 濁 乱 し 、 人 の患 苦 と 篤 る こと 有 る. に至 る を 寛 る に、 咎 は 執 法 の怠 憚 た り て、 輛 ち 其 の罰 を 行 わ ざ る故 に在 る な り ﹂ と も 述 べ て い る。 は か ら ず も 、 こ. の言 葉 に、 太 后 が 王 澳 を 賞 費 し た 本 営 の理 由 が 吐 露 さ れ て い る と は言 え な いだ ろ う か 。 そ し て、 同 時 に ﹁怠 憚 ﹂ た. ら ざ る ﹁執 法 ﹂ 者 た ち が 、 王 澳 の物 語 の博 承 に身 を 置 い て、 ﹁雁 門 太 守 行 ﹂ に開 わ って そ の思 いを 託 し た 、 そ の所. 以 を も 吐 露 し てく れ て い る の で は な い か 。 か れ ら に は、 前 代 の弊 は今 の世 に 及 び 、 そ し て さ ら に後 世 へと 終 わ る こ. と な く 績 い て ゆ く よ う に思 わ れ た 。 そ れ ゆ え に、 前 代 の善 の象 徴 王 澳 の事 績 も 、 今 の世 そ し て後 世 へと ﹁稀 博 ﹂ さ れ ね ば な ら な い と 強 く 願 わ れ た の であ る。. 注. 華 陽國志﹄巻十中 先賢士女線質 の廣漢 後漢書﹄循吏列博第六十六 に牧められ る博、﹃ ︵1︶王澳 に開す る主な資料 は三 つある。﹃ 後漢 東観漢 記﹄ の断片 とし て残 る博 であ る。本論 では、引 用 にあた って、 それぞれ、 ﹃ 士女 の項 に牧められる博、 そし て ﹃. 、﹃ 東観漢記校注﹄ に擦 った。 東観漢 記﹄ は中 州古籍 ﹃ 華陽國志校注﹄ 華陽國志﹄ は巴蜀書祗 ﹃ 書﹄ は中華書局標粘本、﹃. 雁 門太守行古辞 已亡、今所博洛陽令 一 2︶陸侃如 は、 丁祠保 が ﹁ 其題営作洛陽行、其 調則篤雁門太守行也﹂と言 う のを引 き、 ﹁ ︵ 癸︶大曲 ︵ 十 一︶雁門太守行 の項参照︶ 篇、 乃後漢人借奮題以頌王澳的﹂とす る。 翁柴府古辞考﹄相和歌 ︵. 3︶ ﹃ 後漢書﹄王澳博 ﹁ 王澳、字稚子、廣漢邦人也。 ⋮⋮澳少好侠、筒氣力、数 通剰軽少年。晩而改節、敦儒學、習伺書、讀律 ︵. 繹隷﹄ を引き、 王澳 の墓 が新都縣 にある のを理由 に、 王澳 は新都 華陽國志校注L は洪通 ﹃ 令、 略奉大義。 前掲 ﹃ ﹂ 劉琳 ︵ 後漢書﹄ によ って王澳 は河内温 の人とす るが、 こ 東観漢 記﹄ は、 注し て、た嘩 ﹃ の人 であ るとす る。 また、 四庫全書本 ﹃. 後 れ は誤 り。 ﹃ 後漢書﹄循吏博仇寛博 に出 る河内 の王澳 は、正 しくは王奥 で別人 であ る。営該箇所 の標路本校勘記、 また ﹃ 漢書 ﹄獨行博池書博を参 照。. 、憲以此深恨寵。 林 林雖有才能、 而素行貪濁﹄ ︵ 4︶ 陳寵博 に云う、 習王后弟侍中賓憲、薦員定令張林篤筒書、 帝 以問寵、 寵封 ﹃ 卒被 用、 而 以威汚抵罪。 及帝崩、憲等乗櫂 、 常街寵、 乃白太后、 令典喪事、 欲因過中之。 黄門侍郎飽徳素敬寵、 説憲弟夏.
(28) (180) 「雁 門 太 守 行」本L記. 陽侯 ・ ⋮︰ 亦好士、 深然之、 故得出篤太山太守。 後韓廣漢太守。 ⋮⋮及賓憲篤大将 軍征匈奴 ︵ 永元元年、 巷 二十 三賓憲 博 ︶、 ⋮⋮寵等 不阿。後和帝聞之、櫂寵篤大司農。﹂. ︵ 5︶ ﹁ 民思其徳、 篤立祠安 陽亭 西、 毎食輛弦歌而薦之。 水経注﹄ の ﹁ ﹂ 安陽亭 に つい て、 黄節 は ﹃ 蒲水南運安陽亭東﹂ を注 とし て引 く。今、 四庫 全書本 ﹃ 水経注﹄巷十 一によると、 ﹁ 蒲水 ⋮⋮又南運陽安亭東 ﹂とあ り、注し て ﹁ 案陽安近刻訛作安陽﹂. と言 う。 王博 にいう ﹁ 安陽亭﹂ と同 一のも のと は剣断 できな い。 なお、 ﹁ 食﹂ 字 に つい ては、 ﹁ 祠﹂ 字 に作 る べきとす る意 見 もあ るが、﹃ 後漢書集解﹄ に従 う。. ︵ 6︶王博 ﹁ 永初 二年、郡太 后 詔 日、﹃ 夫忠良之吏、 國家所 以篤 理也。求之甚勤、得之 至寡。故 孔子 日、 ﹁ 日大司 才難不其然乎。﹂上. 農朱 邑 ・右扶風ヂ翁婦 、 政述茂異、 令名顧聞、 孝宣皇帝嘉歎慇惜、 而以黄金百斤策賜其子。 故洛陽令王澳、 乗清脩之節、. 旧恙 羊之義、 墨心奉公、 勤在恵民、 功業未遂、 不幸早世、 百姓追思、 篤之立祠。自非忠愛之至、執能若斯者乎。 今以澳子. 石篤郎中 、以勘努勤。﹄﹂ また ﹁ 延烹中、桓帝事責老道、悉毀諸房 祀、唯特詔密縣存故太博卓茂廟、洛陽留王澳祠焉。 ﹂ ︵ 7︶ ﹁ 洛 陽弦 歌之、篤立祠。﹂ ︵ 8︶余 冠英 や劉琳 が弦歌 され たも のと本作品 とを軍純 に結 び つける のは問題 がある。. 、﹃ ︵ 9︶済宦 は、 ﹃ 漢書﹄地 理志 下 ﹁ 及司馬相如済宦京 師諸侯、以文辞顧於世、郷掌慕循 其述﹂ 後漢書﹄王符博 ﹁ 自和 o安之後、 世務 済宦、営塗者更相 薦引、而符獨歌介 不同於 俗、以此途不得升進﹂等 の例があ る。. o︶ ﹃ 漢 書﹄巻九十 二 ﹁ ︵ 棲 護字 君卿、齊人。父世詈也、護少随父篤詈長安、出入貴戚 家。護誦詈経 o本草 ・方術敷十萬言、長者 l 咸 愛重之 、共謂 日、 ﹃以君卿之材、何不宦學乎。﹄孫是辞其父、學紅博、篤京兆吏数年 、甚得名替。﹂. 資 治 通鑑﹄後漢孝和皇帝 ヽ ︵ H︶ ﹃ さ 九十 一年 ﹁︵ 和︶帝因朝會、召見諸儒、使中太夫魯 不興侍中賣達向書令黄香等相難敷事。﹂胡. 三省 注 ﹁ 以経疑 難也 。 相 ﹂ 、 、 2 、 、 隋 は 書 に ﹃ ︵ 経 籍 志 白 虎 巷 に づ い ﹃ ﹄ 通 て 許 の ﹃ ﹄ 六 つ 慎 五 紅 異 義 謙 の 然 晉 の 五 経 否 論 巷 ﹄ ﹄ 五 北 の焚深 の ﹃ 七 周 周 ︲︶ ﹃ 紅論 ﹄ 三巻 を記す。 本論 でも引 いたよう に、 ﹃蜀志﹄ 諜周博 では、 謙周 の書は ﹃ 五経論﹄ と書 かれ、 また、 ﹃ 北周書﹄ 焚深. 博 ︵ 巻 四十 五︶ では、 ﹃ 七経異同説﹄と いう著作 が記録 され る。 3︶楊鴻 烈 ﹃ 中國法律思想史﹄ ︵ ︵ 中國文化叢書所敗 ︶第 四章儒家獨覇時代、乙 ・徳王 刑輔説参 照。 ︲ 4︶ ﹁ 吏端 ﹂ に ついて。 ﹃ ︵ 後漢書﹄孔融博 ﹁ 吏端 刑清 ﹂ の李賢注 に ﹁ 端、直也。 ﹂ ︲.
(29) 一 浩 田 森. (181). 5︶﹃ 文選﹄巻 五十九 ﹁ 歌録﹄を引 いて ﹁ 鷹門太 ︵ 齋故安陵昭王碑文﹂ に ﹁ 無似里端之籍、而悪子咸誅﹂とあり、 そ の李善注 に ﹃ ︲ 守行 日、外行猛政、内懐慈仁、文武備具、課民不貧、移悪子姓、偏著里端﹂と記す。 、 、 、 意 が通 じな い。 。 6 は ﹁ が 宋 書 で を 切 る 文 字 の 下 句 ︵ ﹄ 名 ﹂ ︲︶余 冠英 の説 がよ いかと思 われ る なお 中華書局標路本 ﹃ 榜 は弓弩を輔くる所以な ︵7︶﹃ 論文 解字﹄竹部 に、 ﹁ 一に曰く、開西 榜を謂 いて篇と日う﹂とあり、段玉裁 は、 ﹁ 篇、書 な り。 ︲ る者、此 は其 の引伸 の義 にし て、今 の榜額 ・標榜 、是なり。開西 之を篇と謂う は、則ち扁 と同 じ﹂と注す る。﹃ 後漢書集. 解﹄ は、 ﹁説文﹄ 云、 ﹃ 面澳移書取悪子姓名 五人、 篇署里端示戒也﹂ と いう。 扁、 署也。 従戸冊。 朋者、 箸門戸之文也。 ﹄一 ﹁ 悪子姓名 五人﹂ が具翌的 に何を言う のか、未詳。 ま た、前掲李善注 は、﹁ 偏﹂ に作 るが、侍篤 の誤 り であ ろうか。. 8 は ﹁ ﹁ 文 霊 を 甕 に る が、﹃ 後漢書集解﹄校補 に従 って改めた。 ︵ ︶ 原 字 作 ﹂ ﹂ ︲ 9︶中華書 局標鶏本 ﹃ ︵ 宋書﹄ は、 ﹁ 馬市﹂を固有名詞と取 るが、依檬す る所 は未詳。 ︲ 。 、 、 後漢書﹄王暢博 には、暢 がど のよう にし て賄賂 0 ︵ 2︶王澳 の方略 に ついて 今 に博 わらぬ博承があ ったと思 われる たとえば ﹃. を受 け取 った者 から財物を取 り上げたかが、生き生 きと描篤 され ている。﹁ 篤 に法を設く。諸 も ろ の二千萬以上を受威 し自 ら賞 を首 さざ る者、き く財物を入る。其 の隠伏 せし が若 き は、吏をし て屋を嚢き樹 を伐 り、井 を埋ぎ竃 を夷 かしむ。﹂王澳. っ い だ に い も が と考 る のは想像 に ぎるだ ろ か。 て こ の よ 物 語 博 わ て た ろ え 過 う つ う な う ︲ ﹃ 漢書 ﹄ 循吏 博 ︵ 訟 理、 言所訟見理而無冤滞 ︵ ︶ 台八十九︶ ﹁ 庶民所 以安其 田里而亡歎息愁之心者、 政李訟理也。 ﹂ 顔師古 日、 ﹁ 2 也。﹂. 、 字には ﹁ 2 ﹁ に 細 字 に 竿 ︵ ︶ 貢 組 理 竿 作 り ﹂ 買細趙竿﹂ に作 っている。 2 3︶王利 器 ﹃ ︵ 堕鐵論校注 ︵ 定本L ︵ 新編諸子集成所牧 o中華書局︶を参考 した。 2 4 ﹃ 典 田 貧者 は賦役を避 け て逃亡 し、 富者 は兼丼 に務 ︵ ︶ 通 ﹄ 賦 一 0始皇 三十 一年使騎首自賞 田 の條 にあ る言葉を借 りるなら、 ﹁ 2 め て自若 たり。 ﹂. ︵5︶﹃ 後漢書﹄第 五倫博 ﹁ 倫後篤郷晉夫、不格賦、 理怨結、得人数心。 ﹂ また、翌日書﹄巷九十良吏博宣允博 ﹁ 勤於篤政、勘課田 2 童、平均 調役、百姓頼之。 ﹂. 6︶﹃ ︵ 後漢書﹄陳寵博 ﹁ 後韓廣漢太守。西州豪右丼兼、吏多姦貪、訴訟 日百敷。寵到、頴 用良吏王澳 ・鐸顧等、以篤腹心。訟者 2 臣任功曹 日減、郡中清粛。﹂また、王澳博 ﹁︵ 陳︶寵風書大行、入篤大司農。和帝問日、 ﹃ 在郡、何以篤 理﹄。寵頓首謝 日、﹃.
(30) (182) 「雁 門 太 守 行」本L言 己. 王澳以簡 賢 選能、 主簿暉顧拾遺補開、 臣奉宣 詔書而 己。 ﹄ 帝大悦。﹂ なお、 本歌詞 に歌 われ る のは、 洛陽 の令王澳な ので、. 歌詞 の功 曹 o主簿 は、 縣 におけ るそれと いう こと にな る。 ﹃ 縣 の諸曹 は略 ぼ郡 績漢志﹄ に明文なく、 黄節 が引 く よう に、 ﹁. 員 の如 し﹂ とあ る のによるばか りだが、 たと えば ﹃ 後漢書﹄哀安博 に ﹁︵ 衰安︶初め縣 の功曹 と篤 る﹂と いう例 がある。 7 余冠英 は、 ﹁不敢行恩﹄ 是説不敢封人濫施恩恵、 這就 是上文所謂 ﹃ ︵ ︶ 外行猛政ヒ と いう。 前年 はそ の通りだ ろうが、 ﹁ 外行 2 猛政﹂ と結 び つける のは、的外 れだと思われ る。 、 、 、 、 、 、顔師 8 ﹁ 臣 ︵ 輔 博 天 所 不 豫 必 有 之 朝 漢 書 劉 人 之 稲 無 祠 市 道 皆 共 知 廷 莫 肯 萱 言 霜 傷 心 と ﹄ 而 あ り ﹂ 2︶市道 に つい ては ﹃ 古 の注 は ﹁ 市 人 及行於道路者也 ﹂ と言 う、 それ であ ろう。なお、標粘本校勘記 に ﹁ 殿本 、市 は市 に作 る。按ず る に ﹃ 校補﹄. 曰く、市 道 は猶 お続道 と言 うがごとし。義亦 た通ず可し﹂と いうが、 ﹁ 市﹂が勝 る。 9 し は、 し れ に ﹁ に も ︵ ︶ こ 開 て 洪 ﹃ 随 四 に 條 邁 容 齋 筆 筆 巻 十 三 漢 人 語 言 坐 て 罪 を 獲 る 記事 があ る。 ﹄ ﹂ 2 、 。 0 は に い れ ﹃ ﹁ ︵ ︶ 以 上 お 鯛 た 祗 言 o 悪 同 と わ れ る 法 て 妖 言 ・ 妖 義 思 漢 書 志 漢 興 之 初、雖有約法 三章、網漏呑舟之魚、然 ﹄ 刑 3 其大辟、 向有 夷 三族之令、令 日 ﹃ 営 三族者、 ⋮⋮。其誹謗詈誼者、又先断舌。 至高后元年、乃除 三族罪 ・妖言令﹂を ﹄ ︰⋮。. 。 も 見れば、 言 た と で る 祗 誹 の こ あ ま 謗 、 、 ︲ し げ ﹁ ﹁ ら れるだ ろう。 そ の侍 には、 かれ の ﹁ ︵ れ も ︶ 早 嚢 樋 姦 で の 紳 を 稀 た 者 と て 前 漢 の 趙 漢 伏 そ さ 廣 奉 嚢描姦 く ﹂ ﹂ 3 ﹃ 伏﹂ の様 子 が述 べられた後、 こう記 される、 ﹁ 漢書﹄巻七十六︶ 其 嚢描姦伏如紳、皆此類也。﹂︵ 2︶﹃ ︵ 後漢書﹄ 酷吏博。 3 3 ︵ ︶ 注 6参 照。 3 4︶﹃ ︵ 後漢 書﹄ 郡太 后紀。 3.
(31)
関連したドキュメント
ロボットは「心」を持つことができるのか 、 という問いに対する柴 しば 田 た 先生の考え方を
うのも、それは現物を直接に示すことによってしか説明できないタイプの概念である上に、その現物というのが、
突然そのようなところに現れたことに驚いたので す。しかも、密教儀礼であればマンダラ制作儀礼
これはつまり十進法ではなく、一進法を用いて自然数を表記するということである。とは いえ数が大きくなると見にくくなるので、.. 0, 1,
本論文での分析は、叙述関係の Subject であれば、 Predicate に対して分配される ことが可能というものである。そして o
(自分で感じられ得る[もの])という用例は注目に値する(脚注 24 ).接頭辞の sam は「正しい」と
彼らの九十パーセントが日本で生まれ育った二世三世であるということである︒このように長期間にわたって外国に
に至ったことである︒