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段玉裁晩年における理学尊崇の問題について

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はじめに 段 玉 裁 ( 一 む 一 4 一 五

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一 八 一 五 ) が 晩 年 に お い て 理 学 に 傾 倒 し て い たことは、蘇筆輝氏の﹁蹴激秋館旧蔵段若庸先生手札│兼述段氏晩 年 学 術 思 想 ﹂ や 、 吉 間 純 氏 の ﹁ 段 玉 裁 の 経 常 1

4問 と 生 涯

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﹂ { 等 の 論文で明らかにされている。蘇氏の論文は段玉裁のこの問題を、余 莱 崎 氏 の ﹁ 尊 徳 性 ﹂ ・ ﹁ 一 遊 間 学 ﹂ の 立 場 か ら 説 く 内 在 理 路 の 視 点 に よれυ解釈し、また吉田氏の論文では段玉裁の選前楼聾所収の文 章 か ら 分 析 し 、 詳 細 に ζ の 間 隔 離 を 論 じ て お り 、 そ こ で 段 玉 裁 は 闘 で あ る 戴 震 ( 一 七 二 一 ニ ー 一 七 七 七 ﹀ と は 理 学 に つ い て の 捉 え 方 に 相 違 が あ る と い う 。 氏 は 戴 震 が 理 学 の ﹁ 理 ﹂ を 斥 け 、 代 わ り に ﹁ 同 然 ﹂ の ﹁ 理 ﹂ の 把 撮 へ と 収 赦 す る お の れ の 学 問 体 系 を 構 築 し よ う と し 、 彼 が 理 学 と い う も の を 、 あ く ま で 、 ﹁ 理 ﹂ の 学 問 体 系 と し て 抱 握 し ていたといい。それに対し段玉裁の理学における関心は、理学の ﹁ 理 ﹂ 概 念 に 対 し て で あ る よ り 、 も っ ぱ ら ﹁ 立 身 ﹂ ﹁ 気 節 ﹂ ﹁ 政 事 ﹂ と い っ た 、 道 徳 的 実 践 と し て の 函 に 対 し て で あ る こ と に 気 づ く 勾 ω

九州女子大学共通教脅機構 北九州市八幡西区自由ヶ丘一色︹〒八

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七八五八六)

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一 四 年 一 一 月 一 三 日 受 付 、 二

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一 四 年 二 一 月 一 八 日 受 理 ) と 指 摘 し て い る 。 確かに段玉裁晩年の文章を見ると、理学受容に関してはそうい う薗が見受けられ、考拠学の大家である人物の言説としては意外 な 一 Z 臓を見せている。ぞとで本稿においては、何故段玉裁が晩年 にいたって理学に傾倒していったのか、という問題を再度検討す るとともに、また、この時期における段玉裁の戴震の学問に対す る理解のありかたを考察するととで、そこから幾える段玉裁晩年 の 心 境 の 変 化 を 概 観 し て い く 。 一、段玉裁晩年の理学に対する認蔵 段玉裁の晩年における理学に対する認識を明瞭に示すものとし て、多くの先学は﹁博陵予師所賜朱子小学恭綾﹂を挙げる。とれ は嘉慶十四年三月、段玉裁七十五の歳に記されたものである.先

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ず こ の 文 章 を 検 討 し て み る 。 に督撃たりて人材を倍植すを以て先務と爆す。諸々の生童に 命じて皆小拳に熟きしめ養正の功と岬摘す。坊間行はる所の陳 恭感の注未だ警ならず、機高氏の注のみ僚理秩然として、朱 鳴 呼 、 此 の 小 商 事 の 二 本 は 、 乃 ち 我 師 樽 野 の 吏 一 部 侍 郎 ヰ ア 公 元 学 の賜ふ所なり@玉裁生まれて六年、先大父に従ひて幾蒙さ れ、七年、論訴を讃みて南面の意に歪りて、先大父亡ず。八 子編輯の本意を得るを以て、重刊頒布して、手づから玉裁に 昇ふ。師は蓋し厚望有り a 先君子に謂ひで日く,﹁此の児端 重、必ず之に教ふれば大器と成らん、自ら葬薄とすること勿 年、叔祖父季遜公に従ひで書を読む。九年先君子に従ひて書 を讃む。十年、叔祖父可南公に従ひて蓄を讃む。十一年より 十三年に至までは、乃ち先君子に従ひで蓄を箆陵連紅の館舎 に讃む。乾隆了卵、余年十三にして、先君子授くるに小拳を れ﹂と。先君子玉裁に教へるに、時に比の蓄を翠ぐ。己にし て師松江の試践に薬ず。五裁二十六に至り、郷に奉られ、都 に入り、部の令嗣宇山方伯に謁す、亦勤勤懇懇望むにカ撃を 以 で す e 顧みれば自ら振作せず、少佐の時、好みて静章を習 以てす、是年事使者の童子の試に態ず。試の日能く小率四子 書・詩著書圃易 z 周穫・鵡記・春秋左氏樽及び胡樽を背諦 し 、 品 T 氏 蒲 子 教 ふ 可 し と 朝 間 ひ 、 飯 を 賜 ひ 、 之 に 議 異 さ る 。 試 巻商塁し、商許され狩に入りも面授するに新刻梁駅前高紫趨氏 の注する所の小撃を以です。書を奉じて障り、先君子及び先 帯人審ぶとと建たし、線装皮閣し惟諮む。即ち此の本是れな り 。 山 ひ、坐して歳月を耗やす。三卜六、乃ち出て鱗令と矯り、盤 e ばずして仕える乙と十年、政事紀す可きこと無し。四十六、 先君子巴に年七十を過ぎるに国りて、終養を詩ふも、未だ例 に合せず、遂に疾を引きて齢層、趨侍すること二十犠年 α 発 亥、先君子見背す、今又七年の所なり。皇に鱒りて後、人事 紛稼し、誠む所の警は、又喜みて誠一新考核を言ひ、其の枝葉 尋ね、本根を織し、老大にして成ること無く、追悔するも己 に 晩 し 。 山 この部分を見ると段玉裁の修学の過程と童試に合格した際、試験 官である予元学から、高愈注﹃小学﹄の本を授かったことが記さ れ て い る 。 続 け て 予 元 学 の 学 田 畑 を 述 べ る 。 ヰ 戸 元 学 は 朱 子 学 者 で あ り 、 と と さ ら﹃小学﹄の番を重んじていたととが記されている.段玉裁は若 蓋し磁の皐は朱予を宗とし、尤も朱子の小撃を麓んず。江蘇 年 の 頃 に 、 と の 予 冗 字 の 教 育 に 掴 怖 い 影 響 を う け た と と は 理 解 で き

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るおそして年七十五歳の老壌に至って、段玉裁は考拠学を儒学の ﹁枝葉﹂とし、理学︿朱子学)を﹁本根﹂であるといい﹁迫悔す るも己に娩し﹂と述懐する。段玉裁をしてこの言説をなさしめる な り 岳 山 との部分において段玉裁は、人心の荒廃は朱子の教えが人々に浸 透していないからであり、特に理学における﹃小学﹄を幼少の頃 所 以 に 如 何 な る 事 情 が あ っ た の で あ ろ う か 。 より読ませるべきであるという。そうでないと﹁聖賢の学を以て 蓋 し 郷 に 善 俗 無 く 、 世 良 材 に 乏 し き よ り 、 利 欲 紛 知 事 し 、 異 言 分外の事﹂としてしまい、 みな科業のみに勤しむことになる a 誼 麗 す 。 而 し て 朱 子 奮 闘 を 集 め 、 来 車 問 に 覚 し 、 之 に 本 づ く に 今、天下に人材がいないのはとれがためであるという e そして段 立教を以てし、之を貨にするに明倫敬身を以てし、之を鷹む るに嘉言善行を以てす a 一 千 年 聖 賢 の 法 と す 可 き は 、 膏 な 是 に於いてか在り a 或 い は 以 矯 へ ら く 言 ふ 所 は 章 曲 輔 の 興 る を 得 玉裁は有名な﹁漢人の小学は一芸なり、朱子の小学は家養の全功 な り ﹂ と い う 文 言 を 記 し て い る 。 つまりとの時点で段玉裁の思怨 の中では考拠学・理学の関係が、より理学のほうにウエイトを置 る 所 に 非 る 者 有 り と 、 夫 れ 立 教 畳 一 切 倫 ・ 敬 身 の 大 義 は 、 蒙 養 の 時 よ り 之 を 導 か ざ れ ば 、 共 の 長 ず る に 及 ぶ や 、 則 ち 聖 蹴 買 の 拳 を 以 て 分 外 の 事 と 届 摘 さ ん 。 我 の 奥 り 知 り 輿 に 能 く す る 所 の 者 は 、 時 義 の 欝 章 科 第 の み 。 噛 明 呼 、 此 れ 天 下 人 材 無 吉 所 以 な く構造ができていたといえる@ 続 い て 成 文 の 最 後 の 部 分 を 見 る と と に す る 。 玉 裁 都 に 入 り て よ り 、 馳 闘 に 重 り 、 臨 時 に 至 。 、 久 し く 此 の 本 を り 。 或 い は 又 謂 へ ら く 漢 人 の 小 挙 と 言 ふ は 六 世 習 を 謂 ふ の み 、 見ず。産山に在りて嘗て家蓄を作りて先君子に上り、検ベて 朱 予 の 一 耳 ふ 所 に 非 る な 坦 と 。 此 の 言 尤 も 曲 げ る 。 夫 れ 言 に は 各々嘗る有明、漢人の小撃は一惑なり。朱予の小撃は蒙養の 全功なり。子日く﹁弟子入りては則ち孝、出でては則ち弟、 謹みて倍、汎く衆を愛して仁に親み、行なひて総力有らば、 則 ち 以 て 文 を 撃 ベ 一 と 。 此 れ 弟 子 を 教 へ る の 法 に 非 ず や 。 出 思 之を寄せんことを請ふ。先君子寄せるに他木を以てして、夢 織の問追憶是れに在り。五年前乃ち四弟玉立の架上に於いて 之を得、喜び極り継ぐに悲泣を以てす。議し一台師及び苔母苔 父の皆逝くを痛み、替父の我に劉える所以、一昔師の鄭重に我 に 付 す る 所 以 の 者 、 之 を 掠 帥 脚 煤 馬 の 聞 に 委 ね 、 越 裏 子 の 簡 の 如く、諸を懐中に探る克はず.塊恨何ぞ極らん.幸ひ吾師の 編尚ほ存し、吾父の題字新なるが如し、年老議に護とし、敬 専 ら 文 を 事 ぷ が 是 れ 務 め な ら ん や 。 朱 子 の 童 歯 車 を 教 へ る は 、 本末兼践し、未だ嘗て孔予の弟子を教へるの訟と異ならざる

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穫して繕閲し、其の憎趣を鐸ぬれば、以て平生の過を省み、 以て晩節末路に自全を求め、以て吾子孫を訓む。子孫敬み観 玉 裁 の 中 で 一 体 い つ 隅 明 か ら 形 成 さ れ て い っ た の で あ ろ う か 。 劉 臨 閑 遂 脳 輔 の ﹁ 段 玉 裁 先 生 年 譜 ﹂ ( 以 下 年 譜 と 略 絡 す ﹀ を 見 る と て熱識し、習ひて孝弟を矯せ。恭敬して以て天下の子孫に教 嘉慶十一年の項に段玉裁が王念孫(一七四回

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一 八 三 二 ) に 宛 て た 書 簡 を 引 用 し て い る @ 附 所謂﹁王懐祖に与う第三番﹂の書簡である e 欄 間 際 遂 は と れ を ﹁ 年 譜﹂で嘉慶十一年としているが、練鴻森氏は﹁段玉裁年譜補訂﹂ において書簡の内容からとれを嘉慶十年末とする。川本稿でもと える者に告げん。必ず其の根を培ひで偏る後其の支に遼す可 し、時義の欝意 a 科第を以て自ら童ら使むる勿れ a 此 れ 刑 制 ち 小 子 の 微 意 な る か な 。 ∞ 段玉裁は四川省産山県の知事の時に、再びこの君冗学からもらっ た ﹃ 小 学 ﹄ を 読 も う と し て は た せ な か っ た 。 乾 隆 図 ト 一 二 年 か ら 四 十五年、四卜四歳から四ト六歳のことである。なぜこの頃そのよ れ に 従 う と と に す る 。 弟落臆して無似、時に理事の書を観る。説文の注近日成る可 序を作るを矯さんととを乞ふ。近来の後進は無知、成 うな欲求にかられたのかは判然としない。因みに段玉裁が盛山に し 赴く前年の乾隆四十二年に戴震は没している 6 結局段玉裁がこの 以て弟の撃は織に識を執事より取る者と調ふ。大序に非ずん ば 、 以 て 部 人 の 得 る 所 を 著 す に 足 ら ず 岳 山 蓄 を 手 に 取 る の は 嘉 慶 十 年 、 四弟玉立の書櫛の上でこの本を発見 し て か ら で あ る . 乾 隆 四 十 一 二 年 か ら 実 に 二 十 七 年 を 経 過 し て の こ とである。その感激を段玉裁は﹁喜び極り継ぐに悲波を以てす﹂ と表現している。そして現在までこの﹃小学﹄の存在を忘却して 官邸氏も此の書簡を以て理学への傾斜の萌芽としている。削同年 に段玉裁は前述した密弟玉立のととろで﹃小学﹄を入手している いたことを恥じ、あらためで読んでみると倫理・道徳 k 非常に有 ととから考えると、ととでいう﹁時に理学の蓄を観る﹂とはこの 益であり、子孫への訓戒とするに足ると述べる。最後に天下の子 孫に教えを垂れるものに対して、修学の過程を﹁必ず其の根を養 ﹁ 小 学 ﹄ を 指 し て い る と み て 差 し 支 え な い で あ ろ う 一 。 続 く

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文 で は﹃説文解字注﹄の完成が近いため、王念孫に序を依頼している のである@その理由は当時段玉裁の学説について玉念孫の説を剥 いて、而る後其の支に遺す可し﹂と戒めている。ここでも﹁根一 H 理 学 ﹁ 支 ﹂ H 考拠学であることを明瞭に示している島この間 窃したものではないか、という風評があったためである。との一 題に対する先学の論評は後述するとして、以とのような思想が段 文 に つ い て 吉 岡 氏 は 謙 遜 の 辞 と 解 し て い る が 、 棚 一 概 に そ う と も い

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えず、現実にそのような噂があった可能性はある畠 瑚 立 嘉 慶 十 二 年 の 藤 千 里 ( 一 七 六 六

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ゐ 八 一 一 五 ) と の 論 戦 中 に 記 に聯ね、共に談じて得る所なり。今日の弊は、品行政官?を尚 ばずして漢拳を劇説するを尚ぷに在り、亦嗣門患と相同じ a 然 ﹁ 答 一 顧 千 墨 書 ﹂ らぱ別ち理事は誘ぜざる可からざるなり。執事其の意有号 には次のような文言がみられる。 さ れ た 書 簡 、 (﹃経街楼集﹄には、この書簡を嘉康ト四年とするが﹁年譜﹂は 蕃衡の内容から嘉麗

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二年とする。今これに従う.) や 。 側 ととで段玉裁は今日の弊害は、多くの学者が道徳や政治に興味が 顔 氏 家 訓 に 日 く 、 ﹁ 今 数 十 前 向 の 蓄 を 諌 む こ と 宥 り て 、 便 ち 自 なく、考拠学において互いに剰窃しあうととに腐心しているとと ら高大にして、長者を陵忽し、同列を経慢す。人之を疾むとと 髄 敵 の 如 く 、 之 を 惑 む こ と 醐 輪 島 県 の 如 し 、 此 の 如 く に し て 以 て 事 ぴ益を求むるも、今返りて自損す、拳ぶこと無きに如かず﹂ と 。 予 朱 予 の 小 事 之 を 取 る 。 額 制 問 機 、 銭 牧 翁 に 議 し て 日 く 、 であると述べ、とういう時だからとそ理学が講じられなければな らないといい、主念孫にその気があるかを問うている e この轟簡 に見えるように﹁漢学を劇説﹂というととが、当時の一般的風潮 であったのであれば先述した、段玉裁の学説は王念孫の劉窃とい ﹁ 汝 由 肘 ら 書 を 諌 む こ と 我 よ り 多 し と 謂 ふ 、 書 の 二 本 有 る も 汝 御 て未だ讃まず@乃ち小拳なり﹂と。未だ入品無︿して能く文章 を 工 み に す る 者 有 ら ず 、 足 下 姑 く 小 間 舎 を 讃 め 。 間 う噂は事実あったととであろう@ 叩笠嘉慶十四年は前述した﹁博陵予断所賜朱子小学恭抜﹂の記さ れ た 年 で あ る 。 一月に厳元照のために﹁娯親雅言序﹂を記してお り、末尾に以ドの文が見られる@ 蔵千里の無礼な態度に対し、段玉裁は﹃顔氏家訓﹄ の文を引用して﹃小学﹄を読むようにいう. ﹁ 勉 学 鱗 ﹂ 等 抑余又以潟へらく考核とは、率問の全額にして、組事とは皐び 続いてこの問題に闘して ﹁ 年 譜 ﹂ に 記 載 さ れ て い な い 書 簡 が 、 て人と鋳る所以なり e 故に考核は心性・性命・倫理・族類の 間に在哲て、議書の考核を以て之を橋ふ。今の撃を言ふ者は 棟鴻森氏の ﹁ 段 玉 裁 年 譜 補 訂 ﹂ に 収 録 さ れ て い る 、 嘉 康 卜 一 一 年 の 王 念 孫 宛 の 書 簡 で あ る 。 身、む・倫理之を務めにせず、宋の理事は言ふに足らず、漢の 気節は尚ぶに足らず、別に異説を濡し、後生を策鼓す.此れ 又吾輩の嘗に大いに之に防ぎを濡すべき所の者なり。然らば 執事倫し解組して、橋羊として蘇杭に至らば、猶ほ床を風雨

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則ち余の久能に望む所の者は、此れを以て自ら除くする勿れ、考 字義疏務﹄の思想を全面的に受け入れたとする。凶また歌加進氏 は﹃説文解字注﹄完成の後、設玉裁は﹃孟子字義蔵讃﹄を研究し 核 の 大 に 志 す こ と 有 る の み な り 。 側 これをみると、当時の学風は理学陶考拠学でもなく、ことさらに たとし、段玉裁は大いにとれに理解したとしている。間確かに段 玉裁はとの時期﹃孟子学義疏讃﹄を研究し、その説に費同したで 異 説 を 唱 え る 風 潮 が あ っ た こ と が 窺 え る 。 あ ろ う e しかしそとで理学を全荷的に否定したであろうか.なぜ 嘉 康 ト 五 年 、 ならば、多くの先学がとりあげてきたように嘉慶十九年、様車対誠 ﹁ 守 王 懐 祖 第 六 番 ﹂ に は 意 外 な 文 書 が 記 さ れ て い る ︿ 一 七 七 一

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一八三四﹀に宛てた書簡をみると、以下のような文 商 が 窺 え る 。 東 原 飾 品 田 て 弟 に 蓄 を 輿 へ て 一 耳 ふ 、 僕 生 平 の 著 述 は 、 孟 子 学 義 疏 認 を 以 て 第 一 と 岬 摘 す 、 入 、 む を 正 す 所 以 な り 。 今 詳 ら か に 其 愚 咽 開 へ ら く 、 今 日 の 大 病 は 格 闘 闘 中 の 皐 を 棄 て 講 ぜ ざ る に 在 り、之を庸腐と謂ひて立身椅筒、無節敗れ、政事蕪れ、天下 皆君子なるも、糞の君子無し、未だ必ずしも表惑の過に非ず とせざるなり,故に専ら漢撃を言ひで、宋撃を治めざるは、 乃ち真に人心世道の憂にして、況や所謂漢撃は、重餅に同じ が如きをや。(中路)執事主講として宜く諸生と正撃の無節 を 講 求 し 、 以 て 真 才 一 軒 町 培 ひ 、 以 て 無 還 を 翼 く べ し 。 側 の書を味わうに、賞賓として宋儒理撃を税くは其の統弊甚大 な る を 見 姐 押 す 。 閣 下 曽 ち 之 を 執 か に し 、 之 を 覆 ふ 可 け ん や 。 弟此の蓄を刻して以て其の樽を廃め‘義理を雪国ふ者をして折 衷 す る 所 有 ら 停 め ん と 擬 す 。 同 また二年後嘉康ト七年の﹁十経斎記﹂にも﹁吾師の二十‘経及び 原善・孟子学義疏謹を以て、恭みて九上に安んず﹂間とあり、こ れらをみると、段玉裁は戴震の﹃孟子字義疏謹﹄を信頼し、特に この書簡では理学に対して否定的な見解を述べている。嘉慶ト五 蘇筆輝氏の見た激秋館旧裁の手札には右の文章の末尾部分は﹁執 事賞奥諮生講求理泉鏡節、以矯真才、以翼気運﹂に作るという。間 年 に 段 玉 裁 の 思 想 に 如 何 な る 理 由 聞 が あ り こ の よ う な 発 言 を し た の か、残念ながら徴すべき文献がない e そこで銭穆氏はこの発言を もってこの時点で、段玉裁の思想が理学を否定し、戴震の﹃孟子 いずれにしても饗嘉慶三十年、段玉裁は八十一歳を以て没するた め 、 と の 陳 謝 苛 鵡 宛 の 書 簡 が 段 玉 裁 の 理 学 に 対 す る 最 終 的 結 論 と な る。以上時系列岡臓に段玉裁の理学に対する認識を概観して宮た

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が、嘉慶十年に﹃小学﹄を読み返して以来、途中に動揺はあるも のの、理学に対して概ね肯定的安勢であり、最晩年に至るまで理 確かにとれらの考拠家遼は経解の是非を論ずるととはするが、理 学を撲減しようという意図はなかったであろう。しかし理学に対 学に対する信頼は揺るがないものであったことが看取されるので あ る 。 する考えかたは藩士奇のように 程・朱に法る﹂制という場合と、裁震のように理学を正面から批 ﹁六経は服・馬を尊ぴ、百行は 判するというような場合もあり、各人により理学に対する温度差 、 段玉裁の理学噂擦に対する後世の解釈 があるため一概に皮錫瑞の言説をそのまま受けとめるわけにはい か な い で あ ろ う 。 このような段玉裁の理学尊崇の態度について、後世の学者たち はどのような解釈をしてきたのであろうか。以下主だったものを 一 九 ニ 七 年 の 自 序 の あ る 銭 穆 氏 の ﹃ 中 間 近 一 ニ 百 年 学 術 史 ﹄ に お いて、段玉裁のとの問題に触れた部分をみてみる。銭穆氏は前述 概観していくことにする e この問題について触れたものとして古 した陳寿棋の書簡等など引用して以下のように述べる。 い も の で は 、 皮 錫 瑞 の ﹃ 経 学 療 史 ﹄ が 挙 げ ら れ る 。 戴震原欝 -z 晶 子 字 義 疏 韓 関 を 作 り て 、 来 予 の 説 綬 と 抵 梧 す る と 錐も、亦只是れ一穫の字を争解するのみ a 毛鄭詩考正は嘗て 朱予の説を采る。段玉裁撃を識より受く、識を以て朱予の詞 融商堂(段玉裁)の一生の精力は、説文解字の-蓄に設がれ た。だからといって、自ら啓太ぶらず、自らは漢人の小学を 民芸の接関としたが、その一方で朱子を極めて推称し、その 学問は本末を兼ね備え、孔子の教えと異なることはないと に 配 亭 せ ん と 議 す 。 ( 中 略 ) 段 の 極 め て 小 壊 に 精 し き の 人 を 以 て、漢人の小事を以て朱予の小撃を薄んぜず。是れ紅・戴・ 段の療は未だ嘗て宋儒を薄んぜざるなり a 宋舗の綴説は台義 に合せずと錐も、宋儒の挙行は古人に憐じず@且つ析理の精 は 、 多 く 濁 得 の 慮 有 り 。 故 に 惑 ・ 江 ・ 品 購 ・ 段 は 漢 撃 の 機 志 を 震 す も 、 皆 教 へ て 絡 に 栄 備 の 抹 搬 を せ ん と す る に あ ら ず 。 捌 言 っ て い る 。 ︿段玉裁)がとのように考えたことは、誠に探 遠なことではなかろうか,しかし轡堂がまた東原(戴震)を 尊ぴ、朱予と並べて昭一利しようとしたことについて考える と、感堂は結局東原の事簡を真に理解していたとはいえな し 仰 い し か し 、 一 九 七 六 年 に 発 表 さ れ た 銭 穆 氏 の ﹁ 競 段 慈 賞 経 韻 楼 集 ﹂

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では先の発言とは異なった見解を示している畠銭穆氏は前述した ふ も 、 宋 腫 閣 は 陰 陽 は 道 に 非 ず と 言 ひ 、 理 有 り て 以 て 陰 陽 を 生 ず、乃ち之を道と蘭ふ。之を言ふ乙と愈々精なるも、愈々持 ように嘉麗

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五 年 の ﹁ 王 懐 祖 に 与 う 六 番 ﹂ ﹁

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縦斎記﹂等の資 料 を 以 で 次 の よ う に い う 。 し 難 し 。 脚 融 商 堂 は 幼 い 頃 よ り 、 程 ・ 朱 の 学 の 影 響 を 受 け て い た 島 老 年 に 軍 ふ る ま で ( 考 拠 学 と 宋 学 ) の 両 者 の 問 問 を ど っ ち つ か ず の 態 度 七十六歳から八

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の歳の閑に、始めて東腐の説 とれを見れば、段玉裁は壮年の頃より、理学に疑問を抱いていた ととが理解できる。従がって銭氏の説は誤りと一言わざるをえな で あ っ た が 、 い。銭氏は何故先の﹃中国近三百年学術史﹄においては陳寿棋宛 一尊になったのである@これは﹃経鈎楼集﹄を細説すれば推 書 簡 等 を 引 用 し て い る の に 対 し 、 後 年 の ﹁ 読 段 融 御 堂 経 韻 楼 集 ﹂ で 測 す る こ と が で き る , 闘 はそれにまったく言及せず、何故前述の論を展開したのか理解に 脅 し む 。 銭 氏 の こ の 発 言 が 成 立 し な い こ と は 、 時 隅 寿 藤 宛 書 簡 が 記 さ れ た の 余英時氏が﹁清代思想史的一樹新解釈﹂において﹁尊徳性﹂ が、段玉裁八十の時であことから実証できることは先に述べた 6 また、段玉裁が幼い頃から老年まで程・朱の学の影響下にあった ﹁ 十 経 斎 記 ﹂ に よ れ ば 段 玉 裁 自 ら 以 下 の ﹁ 遊 間 学 ﹂ の 観 点 か ら ﹁ 内 在 理 路 ﹂ の 法 則 を 提 唱 し た と と は 園 内 却 のととである.この論文から段五裁に触れた部分を引用してみ と す る の も 疑 問 で あ る 。 る よ う に 述 べ る 。 余幼者時より周子蓄を議み、注中の語之を信じ、惟篤からざ るを恐れるなり。既に般にして乃ち疑ふ。既にして六綬・ 段玉裁が晩年綴る理学を推賞する意思を表明し、平生好んで 訓鈷考証を言い、儒学の根本的なことをすで、瑛未なことば かりを追求してきたと自らを責めた。とれは﹁尊徳性﹂の空 孔・孟の言を熟讃し、以て之を西子警の注中の言を寂へ、乃 気が依然として乾・嘉の学術界にあったことを示す好例であ り、段玉裁のような考証学の大家でも、自分が﹁道問学﹂の 立場を追求しすぎたことを機悔する結果となってしまったの ち 共 の 心 を 言 ひ 、 理 を 言 ひ 、 性 を 言 ひ 、 道 を 言 ふ 、 地 百 六 経 ・ 孔・孟の言と大いに異なるを知る号六経は理は物に在りと言 ふ も 、 宋 俸 は 理 は 心 に 具 は る と 言 ふ 。 六 輔 離 は 道 は 即 陰 間 醐 と 一 言 である。之の問題は簡単に処理できるものではない q 本来機

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学思想の中心となるものは、確実に道徳性・宗教性的方両で あり、しかも儒学の一部分は正にその﹁尊徳性﹂の伝統の中 に身を轡せていた。しかし清儒の考証の学は儒家の致知の精 神を発揚したため、﹁道関学﹂と﹁尊徳性﹂の概念はしだい に分離していくことは免れなかった。﹁尊徳性﹂と疎遠に なった﹁道関学﹂は当然﹁世道人心﹂とは直接関わるととは なくなり、また、個人の﹁成徳﹂を保証するととも事もな か っ た e 乾・嘉の時代は儒家の統命的﹁道﹂の観念は未だ解 体しておらず、ひたむきに知識だけを求めてきた学者が、書 斎から離れた時に自分の専門としている学問の優れた業績が 最後に余氏は﹁滑代学衡の気運は何故﹁道関学﹂に向かって い っ た の か 、 それは依然として無数の曲折した事情が存在す る﹂と言っている。私もとの意見のまったく同感である。と の問題に解答をするにあたり、余氏のような博学な学者で も、個人の才能と精神のよく耐え得るものではないと謙遜し ているが、私もとれに関しては解決することはできない。た だ年来談んできた段玉裁の︿陳寿雪宛)書簡に﹁理事の気節 を諜求し、以て艮才を培い、以て気還を翼くべし﹂とある文 章を読み、再三考えても理解することできなかったが、今余 氏の引用する襲定愈の文章を読んで突然悟った。思うに若庸 は﹁遊間学﹂を指している可能が高 結果として世の中の何に役に立つのか、自分にとってそれが 何の利益になるのか、という懐疑を抱かざるを得なかった。 先生言う所の ﹁ 策 運 ﹂ い 。 上 の 文 章 の ﹁ 理 事 ・ 無 節 を 議 求 ﹂ の語句を以て論証すれ 段玉裁のこれと同じような悔恨の発言はこの種の心理的観点 ば、これは理学気節(尊徳性)を以て経典を考設する(遊間 学)の助けとするような風潮を作り上げようとしている α つ まり換言すれば、とれは﹁義理を考誼のために奉仕させる﹂ から理解されるべきである a 凶 余氏の論文によれば段玉裁は自己の ﹁尊緩性﹂的学問への回帰を訴えたということにな ﹁ 遊 間 学 ﹂ 的 学 問 を 晩 年 に な というようにみる乙とが可能である。もし以上の私の短見が 関連つでなければ、断定はできないが定禽の説はある程度段 玉 裁 の 影 響 を 受 け て い る の で は な い か ‘ 糊 り 悔 恨 し 、 る A 九七九年、蘇釜輝氏は﹁鮫激秋館藷識段若庸先生手札

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兼述 段氏晩年学術思想﹂を発表し、余氏の論を受けて以下のごとくい う e 余氏の内在理路説の基礎には襲自珍竺七九二

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八 四 “ ﹀ の ﹁ 江 子 同 府 所 著 書 序 ﹂ に 述 べ る ﹁ 孔 門 の 道 は 、 穂 性 を 尊 び 、 関 学 に 送るの二大端のみ﹂間あることはよく知られている a 蘇氏はこの

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襲自珍の考えのもとには段玉裁の影響があったとみるのである畠 ﹁ 理 酎 学 講 ぜ ざ る 可 か ら ず ﹂ と い い 、 ま た ( 嘉 慶 十 五 年 に は ﹀ ﹁理準の流弊甚大﹂と認識している。この矛盾はちょうど彼 二

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丸年、張循氏は﹁漢学的内在緊張﹂という論文で陳寿棋 の ﹁ 孟 氏 八 録 駿 ﹂ に 前 述 の 段 玉 裁 の 棟 寿 議 宛 書 簡 と 統 一 元 ( 一 七 六 の蓄簡が引用されている部分をあげて以下のよう のこの二箇所でいう﹁理撃﹂が同じ概念ではないととを表明 している。彼の講ぜざる可からざる﹁理撃﹂とは、ただ﹁品 行政事﹂を指すだけのものであり、戴震に批判された真正の 宋 儒 の 四

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一 八 四 九 ﹀ に い う . 醐 ﹁理学﹂は、流弊甚大なもので講じではならぬもので 段玉裁の書簡の中で ﹁ 洛 a 闘 a 闘 の 用 事 ﹂ と い う の は 、 こ れ は あ っ た 必 程 E 朱・張載などの理学を指しているのではない。其の合意 は 実 に 統 一 沌 が 所 調 ﹁ 聖 賢 修 正 身 立 行 の 大 節 ﹂ と い っ て い る の と 同じである。陳寿棋が此の二人言葉を並べて論じているの は、彼はこれにより﹁専ら渓皐を言うも、宋撃を治めず﹂と 張氏の段玉裁が理学に三重の意味を持たせていたという説は、曲惜 かに乙の矛盾を解決するためには都合がいいといえる。しかし、 果して張氏の主張するが如く、段玉裁が理学に関してこのような 媛妹な三重の定義を持たせていたかは疑問である。そうであれば 告発し、また当時の学者逮の多くが﹁窮経﹂に務めて、 進 徳﹂を軽んじていたことをいう 6 側 段玉裁自親がその旨明記するであろうし、また番醐問中理学と書け ばよい部分に敢えて﹁洛・関・関の学﹂と記している所から張氏 乙 こ で い う ﹁ 窮 経 ﹂ ・ ﹁ 進 徳 ﹂ と は そ れ ぞ れ ﹁ 道 問 学 ﹂ と ﹁ 尊 徳 性 ﹂ に 相 当 す る 。 そ し て 強 徳 氏 は 段 玉 裁 の い う ﹁ 洛 ・ 関 ・ 臓 の 学 ﹂ が 程 ・ 朱 の 学 を 指 さ ず 、 た ん な る ﹁ 謹 賢 管 身 立 行 ﹂ の こ と を 指 す と す る e 張 氏 は ま た注においてこの問題にふれ、前述した設五裁の主念孫宛書簡の嘉 の説は成立し難いと考えられる@ 三

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年には秋加進氏が﹁段玉裁晩年之悔原凶考析﹂を発表 し て い る e そ の 中 で 段 玉 裁 の ﹁ 悔 ﹂ の理由を三点挙げる。とこで は関係する一・二を以

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に 鈴 出 す る e 康 卜 一 二 年 と ト 五 年 の 理 学 に 対 す る 見 解 の 矛 盾 つ い て も 詳 論 し て い る 一、戴震は考謹・訓話で当時非常に重んじられたが、しか し、彼が自己の著作の中で一番重要視したのは﹃孟子学義疎 ほとんど同時期といえる特に、段玉裁は︿嘉慶十三年には) 讃﹄であった。亡くなる一ヶ月前に此の書の重要なととを

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{段玉裁)に伝えて、その研究する所の継続を委託するつも りであったが、段玉裁は当時から﹃説文解字注﹄の完成に全 力を注いでおり、戴震のいう意味をよく理解していなかっ も段玉裁が理学を道徳的実践と解釈しているととは前述したが、 更に﹁とれは段玉裁遠の幼年時代に施される教育に在り方に締切 な関係がある﹂捌とも指摘している。次いで一九八九年に井ヒ進氏 ﹃説文解字注﹄完成の後、ようやく﹃孟子字義疏讃﹄を 研究し戴震が生前言っていたことを理解した.︿中略﹀段玉 裁は晩年精力的に﹃孟手字義疏誼﹄を研究し、その撞奥を理 が﹁漢学の成立﹂において、理学について は、決して看板などではない。それは違背を許さぬ原別であるぬ と述べ、段玉裁のとの問題について、つぎのように述べる。 ﹁ 国 家 の 定 め た 正 学 た 。 解したが、ただ(段玉裁は晩年﹀であったので力つき著述を 以てその思想を発展的に広めることができないことを憾みと 段玉裁など﹁考壌とは学問の全体である﹂とまで言い、もう し た 。 少しで新たな﹁考察﹂の学に到達しそうであった。しかしと の﹁考媛﹂の学における義理を考える時、彼の口から出たの は ﹁ 宋 の 理 学 は 言 う に 足 ら ず ﹂ な ど と 言 っ て 、 別 に 国 持 説 を た

、 ﹃説文解字注﹄完成の後段玉裁は考霞・訓訟はたんに 芸すぎないだけであり、世道人心になんら被益しないと考え た。その時に芳一冗字から授かった﹃朱予小学﹄に重要な意義 ててはならぬ、というととだったのである。もちろん、裁震 を見出したが、自己に於いての道徳性命の学を確立するカは その上老齢と貧病も加わり其れ以上成果をあ の哲学を深く信じた段氏が、程朱と自己を一致させようとし ていた、というのではない。だが義理と言えばただちに﹁宋 ほ と ん ど な く 、 げることがおぼつかないため﹁老大無成﹂ ﹁ 議 書 寛 然 成 ﹂ の理学﹂を想い、別に自らの義理を主張しえないととは、段 と 悔 い て や ま な か っ た の で あ る 。 削 氏の当時に在って、旧套を脱することがいかに国難であった か、を如実に示していよう。漢学はついに程朱の敵とはなり ただ秋氏の論文には段玉裁は﹃孟祖字義政霞﹄を理解した後には ﹁ 戴 震 を 尊 崇 す る こ と 甚 だ 厚 く 、 宋 儒 に 対 す る 批 評 は 多 く な っ た ぬ と述べ晩年の段玉裁の思想は理学一尊とはしない記述がみられ る e え な か っ た 。 闘 以 上 、 主 要 な 先 学 の 見 解 を 概 観 し て き た . ﹁ 尊 徳 性 一 a ﹁ 遊 間 学 ﹂ に よる解釈や、閣家教学である理学との関係による解釈等、

日 本 で は A 九八五年、吉田純氏が前掲論文でこの問題にふれ氏 同しかねる部分はあるものの総体的には首簡できる説である。し

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かしこれらはいずれも時代の思潮の中で段玉裁を挺えることには さ ん ﹂ 聞 と あ り 、 劉 紛 遂 の の 後 に 附 す る ﹁ 先 生 著 述 考 略 ﹂ ﹁ 年 譜 ﹂ ある程度成功しているとはいえるが、設玉裁の置かれている環境 から論及しているとはいえない。段玉裁の理学傾倒が個人的問題 に ﹁ 一 十 四 議くは詳らかにせず﹂酬と記載されており、段玉裁は謝塘に自説 省子校定本 蛍 時 謝 塘 の 刻 本 は 先 生 の 語 を 取 る も 、 であれば、なんらかの原因がそこに介在しているといえないだろ を 剰 窃 さ れ た と 憤 っ た よ う で あ る 。 うか。したがって次章では段玉裁晩年における対人関係と環境を 嘉 媛 九 年 、 ﹁ 年 譜 ﹂ に は 厳 一 冗 照 の 次 の よ う な 書 簡 が 引 用 さ れ て 考 察 す る 。 い る 。 段宝裁晩年の対人関係と環境 前 に 尊 案 の 寄 す る 所 の 莱 公 の 書 績 を 見 る に 、 組 問 気 激 甚 、 大 致 は 歓 開 閉 公 の 高 司 諌 に 輿 ふ る の 蓄 に 似 た る も 、 歓 公 の 論 ず る 所 の者は、岡事の是非。然る後の岩子欧公に於いて疑義鎌きと と能はず。今先生の争ふ所は、之を欧公に較べ、其の大小何 乾隆五十七年以降段玉裁は蘇州に居を移し没するまで岡地に住 んだ。ここで中心になったのは﹃説文解字注﹄を完成させること で あ っ た . そ の 様 子 は 阿 辻 哲 次 氏 の ﹃ 漢 字 学 ﹄ 等 に 描 か れ て い る 。 側これをみると﹃説文解字注﹄の完成は決して円滑に行われたも のではなく、金銭耐の問題、健康上の問題も重なり苦難の連続で 如。而して凌属揮斥し、人をして手足を捨︿所無からしむ。 俸に之有り、﹁凡そ血気有るは、皆争心有り﹂と e 之を受く る 者 輩 に 遂 に 能 く 此 れ に 甘 ん ぜ ん や 。 首 骨 意 は ﹁ 彼 は 甘 ん ぜ ず と駿も、吾何ぞ憧れるとと之有らん。夫れ慢るも懐れざる も 、 亦 何 ぞ 深 く 論 ぜ ん や 。 立 つ 瀬 要 を 描 慣 れ る に 非 ざ る な り 。 儒者の謹厚の風を失ふを摺るるのみ﹂と日ふが若きも、更に 比の事に就きで之を論ずれば、先生に在りでは始めも亦之を 輝信に失す。夫れ既に身は要津に擦り、朋好と出陣り著述を刊 行 せ ん と 欲 す は 、 国 よ り 期 大 に し て 難 勝 の 直 ず に 非 る な り @ 曲 可 もカの能く積む所に非ざれば、則ち覚に其の事を寝むは、何 ぞ不可有ちん。而して乃ち委曲擦踏すれば、募りて集事を助 あったといえる。そこで段玉裁が理学に傾倒していく嘉慶十年前 後の段玉裁は、如何なる状況に身を輯闘いていたのであろうか。 ﹃年譜﹄をみていくと積極的に﹃説文解字注﹄の完成を目指す傍 ら、他の著述や序文等を制作している。しかし、蘇州に居をトし たあたりから、段玉裁の健康状態は思わしくなかったようであ る。嘉慶六年の﹁劉台扶第三十九書一にもそのことが窺える。ま た段玉裁を不快にさせることもあったようで、問書簡には﹁謝氏 の刻する所の省子、其の中の校誘は弟より出づ。別紙にで録し呈

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くるは其の始めなり.此の如き又奨ぞ今日の事有るを怪しま ん や e 然 ら ば 剣 ち 先 生 の 之 を 寅 む る や 又 巴 に 甚 だ し 。 棚 ﹁郷に善俗無く、世良材乏し る。段玉裁は乙れらの事件を以て く、利欲紛撃して、異言誼惑す﹂と捉えて理学尊崇へと気持ちを 領 斜 さ せ て い っ た と 考 え ら れ る 。 これは嘉藤六年頃に段玉裁は﹁劉台扶第三十六番﹂において王紹 前述した嘉慶十五年﹁与王様祖第六番﹂で段玉裁は﹃孟子学義 疏讃﹄の刊行を述べているが、との件は晩年に至るまで構想して い た ら し く 、 蘭が﹃説文解字注﹄を刊刻するととを約したことを記している,棚 そ の 後 、 段 玉 裁 は 王 紹 甜 聞 が そ の 約 を 反 放 に し た こ と に 対 す る 怒 り ﹁ 答 程 回 調 田 文 書 ﹂ に お い て 程 務 問 ( 一 じ 二 五

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‘ 八 を綴った番簡を本人に送ろうとしたらしい。これに対して厳元照 一 凶 ﹀ が 戴 震 の ﹃ 孟 子 字 義 疏 諮 ﹄ は 定 本 で は な く 、 司 絡 一 言 ﹄ を 以 はその内容が、あまりにも激越なためこれをたしなめたのであ る。しかし、経務カに乏しい段玉裁にとっては期待していたこの 訴が、反故にされたことは裏切られた気持ちだったのであろう。 て定本とするという説に対し、段玉裁は様々な証拠を挙げて﹃孟 子学義琉謹﹄とそが定本であると主張する.そして末尾につぎの ように記す α 懇十年﹃小学﹄入手したことは前述した。嘉慶十二年、 ﹃ 説 文 解 字 注 ﹄ を 完 成 さ せ る 。 先生経ふちくは緒言は定本国同りと、玉裁は未だ教えて信ぜ ず。故に敬みて其の見る所を述べ、先生に復す。のほ疏設 を 持 い て 輯 聞 を 同 時 中 に 割 問 吉 ん と 擬 し 、 或 い は 兼 ね て 諸 一 言 告 刻 しかしこの年より有名な蔵千里との論争がはじまる。この論争 は翌年まで続くがここではここではふれない a ただし際鴻森氏の ﹁段玉裁年譜補訂﹂では段玉裁が論争を好む性格であったことを 指摘している。側嘉慶十四年は﹃博陵予師所賜朱子小学践﹄を作 る,またこのころには越 A 滑と戴震の両者の問に﹃水艦注﹄の剥 し爾ながら之を存さん。以て向撃に持賭すれば、下土は必 ず大いに之を笑うと錐も、傷み無きなり.茸口が師の年譜一 編 路 具 は る 、 脱 稿 を 挨 ち て 後 呈 政 せ よ , 凶 窃疑惑問題がおとり,段玉裁はその疑義を﹁与梁耀北輪組戴水経 注﹂記し梁玉縄に送っている。嘉慶十五年、戴震が編纂した﹃直 と の 書 簡 で は 段 玉 裁 は ﹃ 平 晶 子 字 義 疏 設 ﹄ と ﹃ 組 問 言 ﹄ の 両 書 の 刊 行 隷 相 判 渠 轟 ﹄ を 王 履 泰 が 内 容 を 剰 窃 し 、 を 考 え て い る e 注目すべきは文中に﹁下

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は必ず大いに之を笑う と躍も、傷み無ぎなり﹂とあり、戴震の﹃説子学義琉謹﹄が般 ﹃ 畿 輔 安 調 志 ﹄ と 改 題 し て 勝手に刊行していることが発覚する e 以とのように嘉慶六年より 十五年までの段玉裁の身辺は論争・酬剥窃等の事件が頻発してい 的には受け入れられないであろうと予想しているととである。 つ

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まり段玉裁自身も戴震の義理の学は世間には理解され難いものと 認識されているのである。書簡の書かれた時期について,歌加進 氏は﹁年描相続略兵はる﹂という記述から嘉慶ト九年の段玉裁八 ている。それは嘉康十五年頃であるととは﹁与王懐祖第六番﹂を 見ると理解できる e ぞ と に は 理 学 の 弊 害 を 大 と し 、 ﹃ 孟 子 字 義 疏 設﹄刊行するととを述べられている。注意すべきはその後に続く 十歳の時の書簡としている。糊確かにその前後のことであること 文章でつ義理を一言う者をして折衷する所有らしめん﹂とあるよう に、理学との折衷を計る姿勢が感じられ、決して理学を全両否定 は間違いないであろう。要するに段玉裁の思想は考拠学を批判し た後、理学 A 尊であったわけではなく死去する

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前まで理学と戴 震の義理の学を並帯させる形であったと考えられる。 しているわけではないのである。そして最晩年の嘉慶十九年、段 玉裁の死の前年に陳寿棋宛の書簡中で理学尊崇を訴え、また、そ の一方で同時期と考えられる程洛閏宛の書簡では﹃孟子字義琉 お わ り に 謹﹄の刊行を述べている. 一見すると矛盾するような段玉裁のと 以と概観してきたように、段玉裁晩年の理事への傾倒は様々な 解釈を生んできたといえる。晩年の段玉裁は﹃説文解字注﹄の完 成に全力を傾注していたことは周知のことであろう岳その努力の の発言はどのように解釈するべきであろうか e との問題を理解す る鍵は程議回宛書簡に記されている。ぞとには﹃孟子字義疏護﹄ を刊行したと仮定した後の事として﹁下

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は必ず大いに之を笑う と騰も、傷み無きなり﹂と言う部分に注目すべきであろう。とと 様子は劉台挟や王念孫宛の書簡を読んでいくとよく理解で古る a で段玉裁は戴震の思想が凡俗の徒には-容易に理解で宮ないことは そこには、来して﹃説文解字注﹄を完成で宮るのかという焦燥感 当初より予測していたわけである。とれらの事から考えるとやや と、更に病気と経済的問題等の数多くの悩みをかかえた段玉裁の 姿が窺える。これに前述したような嘉慶六年前後から頻発して吉 た人間関係によるトラブルも加わることにより、段玉裁の思想は 戴 震 の 思 想 ほ う が 理 学 よ れ υ 位 な 位 置 を 占 め る と も と れ る が 、 面 寓 するに、段玉裁の最晩年の思想においては理学を戴震の﹃孟子字 義 甜 腕 謹 ﹄ に よ り 否 定 す る も の で は な く 、 理 学 の 一 般 的 に 入 、 む を 矯 考拠学から理学優位の方向へと変化していったのではないだろう か。しかし、段玉裁の晩年思想は単純に理学一尊へと傾斜したわ けではなく、秋加進氏の指摘しているように、段玉裁は﹃説文解 字注﹄完成後﹃孟子学義疏鐙﹄を研究しその思想にも賛意を一訴し 正する有効性は充分に認め、旦っそれを推賞し、戴震の思想に理 解有る人土には﹃孟子学義疏讃﹄を読むととによりさらにその学 を深めるととを奨励したかったのではないかと考えられる.

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注 裁、時暴此書.巴而師薬於松在試院-玉裁翌二十六、臨帯於 郷、入都、謁師令嗣字山方伯、亦勤勤懇懇望以カ準錨麟不 自張作、少鮭之時、好習瀞章、坐耗歳月。一一ト六、乃出矯 鱗令、不整市住者ト年、政事無可紀。四

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六、図先君子己 年過七十、讃終義、来合側、遂引疾蹄、趨侍二十鈴年 e 発 亥、先君子見背、今又じ年所由討 1 鶴思而後、人事紛縁、所 讃之書、又喜言訓話考核、尋其技葉、略其本根、老大熊 成 、 追 悔 巳 晩 ﹂ ( 1 ﹀吉田純 ﹃ 清 朝 考 証 学 の 群 像 ﹄ 創文社 二

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六年 七 九 頁

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二 八

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頁 { 2 ﹀段玉裁 ﹃ 経 品 問 楼 集 ﹄ ト ぃ 海 古 籍 出 版 ﹁ 鳴 呼 、 此 小 田 宅 一 本 、 乃 我 師 博 野 吏 部 侍 郎 弔 T公元学 之所賜也.玉裁生六年、従先大父綾蒙、七年、譲論諮窒南 面章、先大父亡、八年、従叔祖父季遜公、積書。九年、従 先君子讃書

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年、従叔祖父可南公、請書。卜一年至!四 年、乃従先君子議書毘陵遠江橋館舎。乾隆丁卵、余年卜 一寸先君子授以小事、是年慮察使者童子試、試之臼能掛同議 小準四子書、詩・番・易・周議・藤記・春秋友氏縛及胡 簿、安部調圃帽子可教、煽飯、寝間関之勾試巻面皇、函許入 二

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八年 九 頁 ︿ 4 ) 前掲書一九四良﹁蓬自郷無善俗、世乏良材、利欲紛撃、 異言論感。而朱子集蕗潟、発来商、本之以立教、賓之以明 倫敬身、康之以嘉一言善行、二千年賢聖之可法者 1 膏於是乎 荘。或以鋳所言有非童蒙所得輿者、夫立教・明倫・敬身之 大義、不自蒙義時導之、及其長也、則以聖賢之事録分外 事、我所奥知輿能者、時議辞意科第而巴失。鳴呼、比天下 所以無人材也。或又謂漢人之言小率、調六書耳、非朱子所 云也,此言尤惇。夫言各有賞、漢人之小聞学、ム藩也、朱子 之小率、蒙養之全功也 e 子日弟子入則孝、出則弟、議而 倍、汎愛衆而親仁。行有徐カ則以祭文。此非教弟子之法 乎。護専整文是務乎。朱子之教童家者!本来兼殿、来嘗異 狩 、 遂 一 極 授 以 新 刻 梁 銭 高 紫 超 氏 所 注 小 事 、 事 申 書 雨 脚 師 、 先 君 子 及 先 帝 人 暮 接 、 線 装 皮 醐 闘 機 鰹 、 邸 此 本 是 也 ﹂ ( 3 ﹀前掲書 ﹁ 蓋 師 之 輔 寧 宗 朱 子 、 尤 重 朱 子 小 泉 、 普 撃江藤以溶植人才鴬先務!命諸生意皆熟小事国崎養正之功、 以坊問所行線恭感往来替、惟高氏注練理秩然、得朱子編輯 本意、重刊頒布、而手昇玉裁也号師蓋有厚望畢吋調先君子 日、此見端重、必教之成大器、勿白蓮薄也@先君子教玉 九 頁 孔 子 教 弟 子 之 法 也 ﹂

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{ 5 ) 前 掲 書 ﹁ 玉 裁 自 入 都 、 至 馳 軒 、 埜 萄 、 久 不 見 此 本、在誕山曽作家番ヒ先岩子、積検寄之。先君子寄以他 本、而夢藤間追憶在是。五年前乃於四弟足立架上得之、喜 極 纏 以 悲 狩 、 蓋 痛 宜 口 町 聞 及 宜 日 父 E 日 母 之 皆 徳 、 吾 父 所 以 訓 我 、 茸日師所以鄭議付我者、委之昧線煤尾問、不克如越副理子之 簡 、 探 諸 懐 中 、 総 恨 何 極 。 幸 吾 師 之 編 尚 存 、 宜 日 父 之 題 字 加 刷 新、年垂老義、敬譲絡関、線共旨趣、以省平生之過、以求 晩 節 末 路 之 白 金 、 以 訓 世 話 子 孫 敬 観 熱 識 、 習 時 蹄 孝 弟 、 恭 敬 以 告天下之教子孫者、童相共根市後可達業支、勿使以時議能 率科第自室也。此則小子微意也夫﹂ ‘ 九 四 貰 ︿ 山 川 ﹀ 吉 田 純 前掲書 三 六 八 東 ︿日﹀段玉裁﹃経筒楼集﹄ニ一

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頁﹁顔氏家訓回、今有識数十 巻善、便自高大、陵忽長者、軽慢同列、人疾之如様敵、認 之 如 甜 脂 血 果 、 如 此 以 事 求 話 、 今 反 自 損 、 不 知 無 拳 也 。 子 朱 子 小 事 取 之 。 顧 澄 陽 諮 銭 牧 鎗 旬 、 汝 自 朝 間 噛 調 書 多 我 、 有 毒 二 本 汝都未議、乃小拳也。未有無人品而能 E 文章者@足ド姑讃 小 劇 宇 ﹂ { 自 ﹀ 劉 紛 遂 ︿ロ﹀糠鴻森﹁段玉裁年譜補訂﹂六三八頁﹁執事倫解組南齢、仙洞 羊至蘇杭、猶可聯床風雨、共談所得也。今日之弊、在不尚 品行政事、而尚蜘開設漢撃、亦輿河患相岡、然別理塾不可不 謙 也 、 執 事 共 有 意 乎 ﹂ ﹃ 経 繭 楼 集 ﹄ 所 収 上海古籍 ﹁ 段 玉 裁 先 生 年 譜 ﹂ 出 版 二

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八年 四七回頁 { 7 ﹀陳鴻森 ﹁ 段 玉 裁 年 譜 訂 補 ﹂ ﹃中央研究院歴史謡言研究所 六 一 三 島 一 一 貝 ︿ 刊 日 ﹀ 段 玉 裁 ﹃ 経 務 楼 集 ﹄ 一 九 一 一 63 一九三頁﹁抑余又以潟考核 者、事問之全鶴、事者所以撃濡人也、故考核在身心性命倫 理族類之問、市以讃番之考核翰之。今之一言事者、身心倫理 不之務、調宋之理由学不足言、謂漢之気節不足尚、別潟異 説、費殻後生、此又耳目最所嘗大震之防者、然則余之所望於 久能者、有志於考核之大而巴突﹂ 集刊﹄第六十本 第 一 二 分 所 収 ‘ 九 八 九 年 ( 8 ﹀段玉裁﹃経晶闘機集﹄四一六頁﹁弟落線無削湖、時観理泉 之番。説文注近日可成、乞混作 A 序。近来後進無知、成以 謂弟之製織取諮執事者、非大序不足以箸部入所得也一 { 自 ﹀ 吉 田 純 ﹃ 清 朝 考 証 学 の 群 像 ﹄ 二七六頁

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{凶)段玉裁四一八貰﹁東原師曽輿弟善一宮、僕生平著 述、以孟子字義疏讃矯第一、所以正人心也。今詳味其書、 寅 寅 見 得 宋 儒 税 理 皐 其 涜 弊 甚 大 、 関 下 一 吋 曽 執 之 覆 之 、 弟 擬 刻 此 蕃 以 康 其 棒 、 楠 博 昔 日 義 理 者 有 所 折 衷 ﹂ ︿ 山 川 ﹀ 蘇 釜 輝 術 思 想 ﹂ 十 三 頁 前掲番 ﹁駿激秋館蓄蔵段若庸先生手札兼述段氏娩字率 ﹃ 故 宮 季 刊 ﹄ 第 十 三 巻 第 £ ニ 期 所 収 一 九 七 九 年 { お ﹀ 前 掲 書 ︿却﹀皮錫瑞﹃経学嬢史﹄中華番局一九八一年三ニ頁﹁戴 震作原善-孟子字義疏器、雄輿朱子説経抵幡、亦只是事 鱗 一 一 理 字 。 毛 鄭 詩 考 正 世 田 采 朱 子 説 、 段 玉 裁 受 事 於 露 、 議 以震配事朱子一樹(中略)段以極精小事之入、而不以漢人 小事簿朱子小田明。是江・戴・段之事嘗薄宋矯也。宋犠之 輔腔説畿不合於古義、而宋儒之挙行費不憐於古人。目薬析 理之精、多有濁得之慮。故恵・江 a 戴 ・ 段 矯 漢 挙 職 志 、 皆 不 敬 鰐 宋 儒 抹 機 ﹂ 一 一 一 二 七 貰 ﹁ 吾 師 原 善 -孟 子 字 義 疏 鐙 恭 案 凡 k ﹂ ( 出 ﹀ 銭 穆 ﹁ 讃 段 慰 堂 経 韻 模 集 ﹂ ﹃ 中 留 学 術 思 想 史 論 幾 ﹄ 八 ) 一 九 八

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年 九七六年である。したがって乙の時点でこの結論に達した 所 収 む 頁 銭 氏 の 右 の 論 文 の 初 出 は 一 と 考 え ら れ る 。 ( げ ﹀ 秋 加 進 ﹁ 段 玉 裁 晩 年 之 悔 原 因 考 析 ﹂ ﹃ 宏 徳 事 刊 ﹄ 第 輯 ﹀ 所 収 二

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年 一 一 じ

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頁 ︿ 幻 ) 江 藩 ﹃ 国 間 朝 漢 学 師 承 記 ﹄ 中 華 番 局 ﹁ 六 経 尊 服 ・ 鄭 、 百 行 法 程 ・ 朱 ﹂ 一 九 八 三 年 民 五 回 頁 { 国 ) 陳 寿 謀 ﹃ 左 海 文 集 ﹄ 巻 密 五十薬﹁在棄諮問 閥中之事、不務調之庸腐 a 而 立 身 有 筒 、 相 親 節 敗 、 政 事 議 、 天

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君子市無黛君子、未必非表率之過也。故専言漢撃、不 治宋事、乃真人心世道之憂 e 而況所謂漢撃者、如同輩餅 乎。︿中路)執事主講宜輿鰭生、講求正事気節、以培真 才、以翼気運 e 道光年間刊 ︿ 日 出 ) 銭 穆 ﹃ 中 国 近 三 百 年 学 術 史 ﹄ ︿ 上 ) 中 華 轟 局 一 九 八 四 年 六 七 頁 ( お ) 銭 穆 ﹁ 讃 段 機 堂 型 韻 機 集 -一 ﹃ 中 国 撃 術 思 想 史 論 議 ﹄ ︿ 八 ﹀

一 九 八

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年 一む 頁

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{ 山 品 ) 段 玉 裁 ﹃ 緑 樹 楼 集 ﹄ 一 一 一 -一 六 頁 ﹁ 余 白 幼 持 讃 四 予 番 、 注 中 語 信之惟恐不篤也 a 既駐乃疑湾、既而熟讃六経孔・設之言、 以 蔑 之 回 予 書 注 中 之 言 、 乃 知 其 一 昔 、 心 、 言 理 ・ 言 性 ・ 言 道 、 皆 輿 六 経 孔 ・ 孟 之 一 言 大 異 色 六 経 一 言 現 在 於 物 、 而 宋 圏 問 調 理 同 県 於心、謂性郎理、六経言道郎陰陽、而栄儒言陰陽非道、有 理 以 生 陰 陽 乃 謂 之 道 。 一 言 之 愈 精 而 政 難 持 ﹂ ︿ ぬ ﹀ 張 綴 前掲番 六 頁 ︿ 初 ) 張 緩 前掲番 六 頁 ︿ 町 出 ﹀ 秋 加 進 ﹁ 段 玉 裁 晩 年 之 悔 原 因 考 析 ﹂ 二 七

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頁 ︿ 詑 ﹀ 歌 加 進 前掲書 三 六 九 頁 ( お ﹀ 余 英 時 ﹁ 漕 代 思 想 史 的 一 個 新 解 釈 ﹂ ゐ 九 九 六 年 ﹃ 論 戴 震 興 章 事 誠 ﹄ 一 ニ 七 回 頁 { お ) 昔 日 純 ﹃ 清 朝 考 証 学 の 群 像 ﹄ 一 ﹁ 九 三 頁

東大図書公司 ︿ お ) 蘇 釜 輝 ︿ 引 制 ﹀ 井 上 進 ﹁ 明 清 蝿 下 街 変 遷 史 ﹄ 平 凡 社 二 八 五 頁 ﹁践激秋館蓄蔵段若庸先生手札兼述段氏晩年事 O 年 術 思 想 ﹂

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七 頁 ︿ お ) 井 上 進 前掲書 三 八 六 頁 ( 幻 ﹀ 醐 興 自 珍 ﹃ 襲 自 珍 全 集 ﹄ 上 海 古 籍 出 版 頁﹁孔門之道、尊徳性、遊間率、二大端市巴車合 一 九 九 九 年 丸 ︿ 部 ﹀ 阿 辻 哲 次 ﹃ 漢 字 事 ﹄ 東海大学出版 一 九 九 二 年 九 五 頁

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一 頁 ︿ 叩 叫 ) 張 領 ﹁ 漢 率 的 内 在 緊 張 靖代思想史上漢宋之撃的色個新解 釈 ︿ 幻 ﹀ 段 玉 裁 ﹃ 緩 爵 楼 集 ﹄ 務出於弟品官、別紙録呈﹂﹁年譜﹂はこの書簡を嘉慶七年と するが、練鴻森氏の﹁段玉裁年譜訂橋一は嘉慶六年とす 頁 ﹃ 近 代 史 研 究 所 集 刊 ﹄ 六 一 二 期 所 収 こ こ で 引 用 さ れ て い る 統 一 元 の 書 簡 に は ﹁ 近 之 言 漢 撃 四 一 三 一 員 ﹁ 謝 氏 氏 所 刻 萄 子 、 其 中 校 二

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九年 ム ノ、 者、知栄人虚妄之病 i 而 於 聖 賢 修 身 立 行 之 大 節 略 而 不 談 、 以遂其不幹細行、乃害於其心其事﹂とある. る

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{ 叩 拍 ) 段 玉 裁 ﹃ 緑 樹 楼 集 ﹄ 四 九

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頁﹁二十四 塘 刻 本 取 先 生 語 不 霊 詳 ﹂ 萄予定本 嘗時謝 中、或兼刻緒言 A 陶 存 之 、 以 持 贈 同 組 事 、 難 下

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必大笑之、無 傷 也 。 脊 師 年 譜 一 一 総 略 具 、 候 脱 稿 後 最 政 ﹂ ( 日 制 ) 段 玉 裁 ﹁ 前 子 尊 案 見 所 寄 某 公 書 稿 、 認気激直、大致似欧陽公輿高司諌之書、敵公之所論者、園 事之是非、然後之君子於撤公不能無疑議、今先生之所争、 較之欧公、其大小何如、市凌罵揮斥、今人無所捲手足。崎博 有之、凡有血気、皆有争心、受之者登遂能甘此.尊意若 田、彼難不甘、吾何健之有.夫醐閣不穂、亦何足深論、旦非 懐 額 要 也 。 懐 失 儒 書 官 謹 厚 之 風 耳 a 受就此事論之、在先生始 亦失之軽信、夫銃身議要棒、欲矯脱好刊行著述、国非毅大 難勝之事也。椅非力所能穏、則覚窺其事、有何不可。而乃 委曲跨糖、募助集事其始也 6 如此又薬怪有今日之事乎。然 M間 掲 書 四 七 二 頁 則先生之費之也又己甚き {日制)段玉裁前掲書簡一 a 頁書簡には﹁有経術吏治之王紹 蘭 、 官 問 中 、 己 陸 知 細 川 、 許 刻 説 文 、 嘗 先 刻 数 本 ﹂ と あ る 畠 ( 川 U) 煉 潟 森 ﹁ 段 玉 裁 年 譜 訂 橋 ﹂ 六 一 二 七 頁 ︿阿世﹀段玉裁﹃級品問機集﹄一八四頁﹁先生疑緒言錫定本、玉裁 来敢倍、故敬述其所見、以復於先生意。の媛勝疏讃刻諸呉

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