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障害のとらえ直しとこれからの障害児教育に望むこと 利用統計を見る

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Academic year: 2021

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(1)障害のとらえ直しとこれからの障害児教育に望むこと 守. 木. 智. (山梨大学教育人間科学部附属養護学校). Ⅰ. 障害のとらえなおし. 1. 障害の概念とその広がり 「障害」とはいったい何なのか。筆者が考えている結論を先に述べると ,「人間は全員. 何らかの目的を持って生まれてきている 。」という仮説の下 ,「障害とは人生という舞台 で自らが自らに課した課題である。」ということであろう。 日頃から障害者と接点がある人が,障害者のことをあまりよく知らない誰かに説明する という場面を想定して考えてみる。 最初に,知的障害であるとか,精神障害,視覚障害,聴覚障害,肢体不自由などの(行 政上の)区分けの説明から始まるかもしれない。また,障害を否定的・消極的にとらえる のではなく,個性的な部分ととらえたらどうか,というような,より前向き提案がなされ るかもしれない。あるいは,各障害の特性についての説明が始まったり,障害を持ってい る人は社会的には報われにくい立場にあるという弱者の立場に立った説明が始まったりす るかもしれない。 それにしても,障害とはいったい何なのか,ということをいくら論じたとしても,障害 をきっかけとするさまざまな不便さが解消されることはない。 最近では ,「発達障害 」,「LD」,「ADHD」,「アスペルガー障害」,「パニック障害」 などの用語やその概念が世間一般に広く知られるようになってきて,障害そのものやその 相当する人が増えているような印象を持ってしまう。症状の種類が,事実,増えているの であろうか。さまざまな症状がもたらす不便さの種類が増えているということなのか。 障害名の細分化・多様化がさらに進み,きわめて多種多様な種類の障害が認められた時, ...... あらゆる人間がそれこそ障害者になってしまうのではないかと考えてしまう 。「あらゆる 人間が」なので,例えば ,「無器用症候群」,「ひがみ症」,「恨み症」,「他者依存症」,「心 配症 」,「勇気欠損症 」,「道徳観欠損症」など,ごく日常的な人間関係の中で,そこに関 わる人が少しでも不便や不快な思いをもたらすきっかけになる症状のようなもののすべて があてはまることになる。誇張しすぎかもしれないが,筆者はかなりまじめに,このよう な見方をしたいと考えている。. - 110 -.

(2) 2. 障害ということと生きるということ 生きている人全員が何らかの障害を持っていることは,昔も今も事実であると思う。事. 実として,人は生まれてきて,自分の力量との関係からさまざまな「壁」に直面し,そし て解決・克服していく場面を少なからず体験する。そのレベルに差こそあれ,全員もれな く,この「壁」と表現される障害をつきつけられながら生きている。障害者(あるいは障 害者の身内など近い立場の人々)は,目に見えて不便さをもたらすレベルの症状のために 障害を無視することができないが,健常者と呼ばれる人々は自らの持つ症状を障害として は気づきにくい状態にあるのだと思う。 障害者か健常者かというのは,その時代における便宜的または行政的な定義づけであっ て ,「極端に不便さを抱えざるを得ない症状」を抱えた人に,基準を持った保護的な政策 を講じるために必要な,便宜的な区分けにすぎないと,筆者は考えている。このような考 え方をしないと ,「人は平等」という万人が持ちたいと望むであろう理想的な精神に反す ることになり,障害者と健常者との間に溝が生まれ,差別感や劣等感が生じると思う。現 に,そのような感情はまだ多く存在している。 筆者が求めている,障害という概念の理想的な扱われ方は,全員が自らの症状に気づき, なぜそのような症状を持つのか考えつつ,自らの責任(もちろん他者の手も借りながら) において,克服していくということである。それがよりよく行われれば,その結果,理想 論かもしれないが,今の時代の特質の一つ「他者との競争への偏執」が克服されていくよ うに感じる。. Ⅱ. 障害の存在と必要な支援. 1. 例えば,知的障害養護学校に在籍している子どものこと 例えば,知的障害養護学校に在籍している子どもに対して,その名称が単に示している. 通りに,知的部分のみへの支援が必要であるとはいえないことは当然であり,情緒的な安 定を保障できるような場面をつくっていくことが必要とされることは,ここに関わってい る人であれば承知しているはずである。しかし,実は,この情緒面への支援そのものがと ても難しい問題であるということも同時に承知されている。そして,具体的で固有の一人 の子どもを目の前にして,この子どもにとっての情緒的な安定とはいったいどのような状 態なのか,という問いに対する解答をすぐに用意することはなかなかできないものである。. 2. 必要な2つの性質の支援とその両者の関係 行動に特異性がある子どもの場合,あくまで表面的な姿であるが,特異な行動をとるこ. とによって,内面のバランスを辛うじて保っていることがある。例えば,暴言を発しなが ら周囲の人々とのコミュニケーションを図るというような例がある。暴言を控えるように 促したり,それを一方的に制止するような何らかの方法を講じたりすると,逆に暴言が激 - 111 -.

(3) しくなるような子どもの場合がそれにあてはまる。周囲の人が行える対策として,ある程 度の暴言なら,心穏やかに受け入れられるような気持ちの許容量を大きくしておいたり, 暴言のことをことさら強調せずにうまく受け流したりする,などの配慮をすることであろ う。このような場合には,とにかく一緒によりよく生活を送ることができることを主な目 的とすることになる。他に同じような例で ,「時々大声を出す 」「故意に不作法な格好を する 」「衝動的に利己的な行動に走る」などいろいろある。いずれの場合も,反社会的ま たは非社会的な行為であることが共通する。そして,周囲との折り合いをどうつけていく かが共通の課題となる。具体的な対策の方向性としては,以下の2つに絞ることができる と考える。 対策の一つとして,周囲の人々に理解を求めるということである。その場合,理解と同 時に負担も強いることになる。しかし,その人物が特異と感じられる行動を示すというこ とについて,周囲の人々がある程度予想できれば,あるいは知識としてそのことを知って ... いれば,容易に折り合いがつく。つまりその問題の解決が容易に進んでいくとは考えられ ない。周囲の人々(学校では他の児童生徒や教職員,保護者)の内面で,さまざまな葛藤 が生じながら,その特異な行動を示す者との関係を時間をかけて築き上げていく過程に向 き合わなければならない 。「不快である」という事実は,周囲の,真に内面的な理解とそ の理解に基づく対処によってはじめて,ゆるやかに変化していくといえる。 さらに別の対策として,行動そのものをどう修正していくかという具体的な対応も当然 考えられる。特異な行動を示す人物の中に,その病的な因子があることを仮定し,いわば 「治療的」な介入を行うということである。この場合,病的な行動を起こすまでの「しく み」を仮説立てし,そのしくみを踏まえながら,時にはそれを利用しながら病的な行動を 修正,あるいは正常と評価される行動を導くといった方法である。 筆者は,その前者も,その後者も,両方が必要だと考えている。ただ,前者において, 問題がなかなか改善されない場合,その周囲(例えば,その子どもの保護者や担任など) の力量や技量などにその責任のウェイトが過剰に重く置かれてしまう雰囲気がないとはい えない。そのような雰囲気の存在は,いかがなものかと思う。また,後者においても,ス テレオタイプ的な薬物療法,あるいは特異な行動を示す者の内面を無視した矯正的な治療 法ばかりが想像されるとしたらそれもまた間違いだと思う。 冒頭の問い「情緒的な安定とはいったいどんな状態なのか?」を考えた時に,筆者は「尊 敬に値する人間としての行動をとる姿」と考えたい。なぜなら,生まれてきた目的が「特 異な行動をとること」ではないと信じたいからである。「この世に生まれてきたすべての 人間は,高い理想である自分の目的を無意識の奥底に持っているのだ。日常生活において は,そのことに自分自身さえ気がつきにくい状態にあるというのだ。」という仮説を筆者 は常に持っている。この仮説に沿えば,人々はお互いに「治療」しあう存在でもあるし, 自分自身の症状を軽減させる責任をも持つことになる。つまり,先述の「その前者も,そ の後者も必要である」ということである。 - 112 -.

(4) Ⅲ. 「治療教育」へのこだわり. 1. 障害者と健常者との関係の構図. ... 古い考えかもしれないが,筆者はあえて治療的な教育にこだわっている 。「治療」とい. う言葉そのものにもこだわりたいと考えている。 今の社会は,障害者と健常者の共生,という思想が,ある程度,浸透してきていると思 われる。しかし,そもそも障害者と健常者という区分けそのものに無理があると考えてい る。社会的な手だて,政策のための区分けであると理解されている前提ならよいが,何の 迷いもなく「障害者が気の毒だから健常者が手を貸す」といった構図は差別意識と被差別 意識を生み出し,健常者の優越感,障害者の(障害者の関係者も含めて)劣等感をえぐり 出してしまう。悲観的で大げさな見方かもしれないが,作為的な共生思想そのものがかえ って,その溝を生み出し,深くしてしまうとさえ思う。 とはいえ,障害者が健常者に理解され,助けられることは絶対的に必要なことではある。 健常者は多数派であり,精神的にも物理的にも障害者を助けることができる可能性が数多 い。このことは,いったんは,必要な考えである。しかし,このままで終わってはいけな い。障害者に対するサービスが進み,以前よりも不便さが少なくなりつつある今も,障害 を持った人々が「障害を軽減したい 」「障害を克服したい 」「目標を高く持ちたい」とい う願いを持ち続けているはずである。重度の肢体不自由の人であっても,意識の持ち方が 定かでないように見える重度の知的障害の人であっても,本人の精神の深いところに,必 ず,正常化への欲求や自己をさらに高めたいという欲求が存在していることを確信してい る。. 2. 全体論(ホーリズム)的な「目的主義」のこと 筆者のこの考え方は,シュタイナー教育の影響を多分に受けている。シュタイナー教育. の哲学的背景が,全体論(ホーリズム)的な「目的主義」であり,現代の多数派に浸透し ている「還元主義」に相対する思想であり,例えば,現在の「メジャー」な施策の立案者 や実行者からは,いまさら何を訳のわからないことを,と評されるかもしれない。 「目的主義」では人間が生まれてきた時に,すでに目的があるという前提に立つ。「還 元主義」では人間は偶然の産物として生まれてきたのであり,極端にいえば,意識も脳細 胞の一つ一つの活動に還元されるであろうということになる。現代の多数の施策,そして 思想に至っても ,「還元主義」的な発想であろう。しかし,あえて ,「目的主義」の方を とることで,どのような状況下の人生においても明るさを持つことができると筆者は感じ ている。 シュタイナーの「治療教育講義」という本がある。この本の内容は,筆者にとって,と ても難解で,一種の医学書のような印象を受ける。しかし,西洋医学的な理論で構成され ているとも思えない不思議な講義集が詰まっている。始めから終わりまで一貫して読み取 - 113 -.

(5) ることができるのは,症状そのものの原因を子どもから観察される結果からきわめて冷静 に考察し,治療法を具体的に述べているということである。まるで,医者が患者を診察し, 必要な治療を施したり,薬を与えたりと,その対処法を説明するようなものである。そも そもシュタイナーの思想自体,人間が生まれてくる目的を「自らを治療すること」に置く ような考え方であるから,このような仕立ての内容になっていることに納得できる。 シュタイナー教育の土台となる考え方に,人間が肉体・アストラル体・エーテル体・自 我の4つから構成されているという理論がある。この詳細については,ここでは論じない が,現代の教育界にはこのような見方を持つセンスすらないように感じ,またこのセンス のなさが,子ども達に現在生じているさまざまな発達や行動上の歪みの根本原因の一つだ と思う。. Ⅳ. シュタイナーによる「治療教育講義」の内容. 1. 教育に必要な「治療」という着眼 先述の「治療教育講義」の目次を眺めると ,「第四講. ヒステリーの本質」までは,あ. まり違和感はないが ,「第五講」に「硫黄過多の子と硫黄不足の子」とあり,痛烈な違和 感を持つ。つまり, 「教育と硫黄に何の関わりがあるのか」という疑問である。本文には, 硫黄の多少による心理・行動特性への影響が詳細に述べられている。 このような文献を目の前に「いや,これは医者のような職業人が持つべき知識なので, 教師はもっと『教育的な』知識を得るべきだ 。」と思うことは常識的であろう。しかし, 例えば,風邪を引いて元気のない子どもが,風邪の治療なしに元気を出したり頑張ったり することは,教師が設定した教育活動がいくら素晴らしくてもまた楽しそうであっても, 困難である。 特異な行動を示す子どもについて考えれば,教育活動というソフトウエアを提供する以 前に,すでにハードウエア的な面での不調,つまり症状(子ども一人ひとりの内部に生じ ている科学的現象)を抱えていることは事実である。風邪の場合は,子どもの身体の内部 に生じているウイルスと抗体のたたかいが, 「元気がない」という症状を生み出している。 風邪という病は,常識的に病だと認められているので,当然のことながら,そのハードウ エア的な面での不調を改善させるために,まずは「ゆっくりと休みなさい 」「お医者さん に診てもらい,必要な手当を受けましょう」と教師は伝えるであろう。やみくもに「元気 を出しなさい」とか「この活動に取り組みなさい」などと指示するような教師はいない。 一方,例えば,風邪による症状ではなく,「あちこちひんぱんに動き回る」という症状 の場合はどうであろうか 。「あちこちよく動き回りますね,小さい頃から自由な空間で育 ったんですね 。」とか ,「多動ですね,一つの障害特性ですね。しばらく様子を見ましょ う 。」とか,あるいは「この障害にマッチした対応を考えていきましょう 。」という,割 と曖昧で悠長な話になることが多い。風邪の場合は,具体的な治療という方向性が即,検 - 114 -.

(6) 討されるが ,「あちこち走り回る」という症状に関しては,障害という診断や判定はなさ れても,それに基づいた治療という方向性はなかなか検討されない。もちろん,医療機関 からの指示により,薬を使用しているケースもあるが,この場合の薬は「治療」というよ りはあくまでも「補助的な手段」として扱われているにすぎない。. 2. シュタイナーの記述のこと 先述のことに関係する記述を「治療教育講義」から引用する。 “この場合には,ここの臨床=治療院で非常に念入りに試みられてきたニコチン液の 半奇形化作用が好結果を生むでしょう。はじめはゆっくり前進することです…効果 が弱すぎるようでしたら,高希釈度のニコチン液を血液に注射し,血液循環を通し て直接アストラル体に影響させるようにします。そうすれば内服によっては得られ ないものを得ることができるでしょう。『 ( 治療教育の実際』その五より)” ニコチン・血液・注射・アストラル体など,今の教育者にとっては聞き慣れない,かつ. 違和感の強い事柄が述べられている。このような部分を表面的にとらえてしまえば,「シ ュタイナーの治療というのは薬物を与えることによるのか 。」と思われてしまうかもしれ ない。しかし,そうではない。シュタイナー教育は ,「オイリュトミー」という舞踏芸術 や,三原色を発展させた絵画芸術をはじめ,むしろ芸術活動に重きを置いた教育であるし, 教師の教育活動をも芸術ととらえ ,「教育芸術」と呼ぶくらいである。簡単な説明ではあ るが,シュタイナー教育では,例えば,教師が子どもに話す時,教師自身の「内面(心理) 状態」や ,「話し方」の緩急・明暗・感情移入 ,「話の構成」などを「教育術」とし,こ れらのすべてによって,子どもの内面に影響させるというのである。 筆者の解釈では,シュタイナー教育はそういった教師の「芸術活動」により,より具体 的に「治療」を進めていく教育活動であり,「治療教育講義」は特に医学的見地をも含め た障害児教育講義であると思っている。. Ⅴ. 現代におけるシュタイナー的な「治療教育」の可能性. 障害は,現代においても確実に存在しているし,さらに多様化や増大するような傾向も ある。さらに,いわゆる障害の分野以外にも,さまざまな報道の通り,理解に苦しむさま ざまな事件も増えているように感じる。冒頭の述べた, 「無器用症候群」, 「ひがみ症」, 「恨 み症 」,「他者依存症 」,「心配症 」,「勇気欠損症 」,「道徳観欠損症」などといった,ある 意味で「些細な」症状が,具体的に治療されないまま肥大化し,問題が深刻化しているよ うにも思える。そして,それに対して,周囲の人々は「こういった訳のわからない事件に は,何をどうしたらよいかわからない」という一種の思考停止状態になっているのかもし れない。そのような状況を少しでも打破するために,紹介したシュタイナー教育の発想, そしてその発想から考えられる障害のとらえ方と障害へのかかわり方は一つの手がかりを - 115 -.

(7) 提供するのかもしれない。. 引用文献 1) ルドルフ・シュタイナー著・高橋 巌訳(1988)治療教育講義.角川書店.. 参考文献 1) ジョン・P・ミラー著・吉田敦彦訳(1994)ホリスティック教育 いのちのつながり を求めて.春秋社. 2) 角田 豊(1998)カウンセリングと共感体験 共感できない体験をどうとらえ直すか. 福村出版. 3) 高橋 巌(1987)シュタイナー教育の方法. 子どもに即した教育. ル.角川選書,177. 4) 高橋 巌(1989)シュタイナーの治療教育.角川選書,187.. - 116 -. 具体的なマニュア.

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