• 検索結果がありません。

草創期のエキュメニカル運動とW・R・ランバス

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "草創期のエキュメニカル運動とW・R・ランバス"

Copied!
33
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

草創期のエキュメニカル運動とW・R・ランバス

著者

神田 健次

雑誌名

関西学院史紀要

18

ページ

43-74

発行年

2012-03-25

URL

http://hdl.handle.net/10236/8948

(2)

草創期のエキュメニカル運動と

・ランバス

神田健次

はじめに   二 十 世 紀 以 降 に お け る 世 界 の キ リ ス ト 教 の 重 要 な 指 標 の 一 つ は、 ﹁ エ キ ュ メ ニ カ ル ﹂ と 呼 ん で も 決 し て 過 言 で は な い。 一 九 一 〇 年 に エ デ ィ ン バ ラ に お い て 開 催 さ れ た 世 界 宣 教 会 議 に よ っ て、 現代のエキュメニカル運動が始まったと言えるが、より厳密に言え ば 、既に十九世紀の後半より 多様な先駆的潮流が存在していたのである。筆者は、後述のように、十九世紀後半から一九二〇 年代までを﹁草創期のエキュメニカル運動﹂と規定しているが、関西学院の創設者 W ・ R ・ラン バスの生涯︵一八五四 ― 一九二一年︶は、まさにこの時期にあてはまるのである。   これまで、草創期のエキュメニカル運動と W ・ R ・ランバスとの関係についてほとんど研究さ れることはなかったが、ランバスの宣教活動とその思想がエキュメニカル運動にいかなる先駆的 な貢献を果たしたかを検証することは、意義のあることと思われる。本稿では、まず草創期のエ キュメニカル運動について概略的に叙述した後、 W ・ R ・ランバスにおける医療宣教の働き、さ

(3)

らにエキュメニカル運動への参与と貢献、そして最後にエキュメニカルな宣教思想について考察 したい。   尚、 本 稿 で は Mission を﹁ 宣 教 ﹂、 Evangelism を﹁ 伝 道 ﹂ と 訳 し、 前 者 が 後 者 を 包 摂 す る 広 義 の概念として用いるので、 翻訳の著書を引用する際に も、 原文を参照しつつこの用法を適用する。 ︻ 1 ︼草創期のエ キ ュメニカル運動   先駆的運動の諸潮流 代 の エ キ ュ メ ニ カ ル 運 動 の 出 発 点 と な っ た 一 九 一 〇 年 の エ デ ィ ン バ ラ に お け る 世 界 宣 教 会 議 は、既に十九世紀に芽生え始めていたいくつかのエキュメニカルな先駆的潮流が収斂した成果と 言える 。   まず第一の潮流は、海外に対する欧米諸国の宣教運動における協力と一致の働きである。欧米 諸国における数多くの宣教協会の中で、 例え ば ロンドン宣教協会やバーゼ ル宣教協会の働きには、 本国での宣教師の養成と派遣という面で教派を越えたかたちの協力体制が見られた。他方、海外 宣教のフロントでも教派を越えた一致と協力の体制が、例え ば インドやケープタウンなどで比較 的早い段階からうかがえる。第二の先駆的潮流としては、十九世紀後半に矢継ぎ早に結成された 世界教派の交わりがあげられる。一八六七年に聖公会が第一回ランベス会議を開催したのを皮切 りに、世界の改革派教会同盟︵一八七五年︶ 、メソジスト世界教会会議︵一八八一年︶ 、会衆派教 会 の 国 際 協 議 会︵ 一 八 九 一 年 ︶、 バ プ テ ス ト 教 会 世 界 会 議︵ 一 九 〇 五 年 ︶ な ど の 諸 教 派 の 世 界 的

(4)

な交わりが結成されている。わけても、一八八八年の聖公会のランベス会議において、教会一致 の要件として聖書、ニカィア信条、バプテスマと聖餐の聖礼典、歴史的主教制という四つの要件 が﹁ランベス四綱領﹂として提示されたことは特筆すべきである。   さ ら に 第 三 の 潮 流 に、 青 年 と 学 生 の 運 動 が あ げ ら れ る。 青 年 の 運 動 と し て は Y M C A と Y W C A の両運動があげられるが、双方とも信徒運動であるという点に特別の意義がある。 YM C A 運動の端緒は、一八四四年に英国の一人の青年 G ・ウィリアムズの提唱に遡るもので、資本主義 社 会 に よ っ て も た ら さ れ た 労 働 問 題 を 含 む 青 少 年 問 題 を、 キ リ ス ト 教 信 仰 に 基 づ く 活 動 に よ っ て克服しようとした運動である。他方、 Y W C A 運動は、一八五五年にロンドンにおいて E ・ロ バーツによって始められた運動で、 YM C A と同様、急速に世界的規模に広まっていった。また 学生運動としては、一八九五年に世界学生キリスト教連盟︵ W SC F ︶が結成され、全世界の学 生キリスト教運動が教派を越えて一つに結合されたが、ここから数多くのエキュメニカル運動の 有 力 な 指 導 者 を 輩 出 し て い る。 そ し て 第 四 の 潮 流 は、 キ リ ス ト 教 的 社 会 活 動 で あ る。 英 国 で は、 一八四〇年代以降、炭坑や工場における女性や子どもの保護のために尽力した A ・ A ・シャフッ ベリー、あるいは八十年代のセツルメント活動などが注目される。またドイツでは、一八六一年 に福音主義ディアコニッセ養成所を設立した T ・フリートナーやインネレ・ミッションを創設し た J ・ H ・ヴィッヘルンなどの社会活動があげられる。さらにフランスでは、一八八七年に﹁社 会問題実践研究プロテスタント協会﹂が設けられている。

(5)

  世界宣教会議 上 の よ う な 先 駆 的 な 諸 潮 流 を 背 景 と し て、 一 九 一 〇 年 に エ デ ィ ン バ ラ に お い て 世 界 宣 教 会 議 が、 米 国 メ ソ ヂ ス ト 教 会 の J ・ R ・ モ ッ ト の 提 唱 で 開 催 さ れ た。 エ キ ュ メ ニ カ ル な 宣 教 会 議 の 理 念 を 先 駆 的 に 構 想 し た の は、 英 国 バ プ テ ス ト 派 の 宣 教 師 W ・ ケ ア リ で あ っ た が、 実 際 に は 一八五四年にニューヨークとロンドンで開かれた宣教会議に、歴史的ルーツが求められる。この 会 議 は さ ら に、 一 八 六 〇 年 に リ ヴ ァ プ ー ル、 七 八 年 に は ロ ン ド ン、 八 八 年 に も 同 じ く ロ ン ド ン、 そして一九〇〇年にはニューヨークにおいて継続して開催されてきた。とりわけ、最後のニュー ヨーク会議は、 ﹁エキュメニカル宣教会議﹂ と呼 ば れたもので、 比較的、 規模の大きな会議であった。   エディンバラ宣教会議は、規模の面からも内容の面からも、それまでの宣教会議を凌駕する実 態を備えた歴史的な会議と呼べるものであった。カトリック教会と正教会を除く諸教派の﹁宣教 協 会 ﹂ よ り、 千 二 百 名 以 上 の 代 表 が 相 集 い、 ﹁ こ の 世 界 の 福 音 化 ﹂ を 目 ざ す 宣 教 の 多 彩 な 諸 問 題 を集中して協議し合った。このエディンバラ会議をその準備段階から指導したのは、 J ・ R ・ モッ トと英国の J ・ H ・ オール ダ ムであり、前者は会議全体の議長、後者は幹事として選 ば れている。 会議では、全世界への福音の使信、宣教地における教会、国民生活のキリスト教化と関連する教 育、非キリスト教的諸宗教との関連における宣教への使信、宣教師の養成、宣教の基礎としての 教会、 宣教と政府、 協力と一致の促進など、 八つの分科会が設けられた 。 日本からは、 本多庸一、 井深梶之助などが参加し、貢献している。   エディンバラ宣教会議の第一の意義は、前世紀の先駆的運動の諸潮流が集約した場であり、同 時に現代のエキュメニカル運動の始動を告知する歴史的会議であったという点にある。第二の意

(6)

義は、会議の参加者が、各々の﹁宣教協会﹂の公式代表によって構成され、しかもそれ以前の会 議のように、一般聴衆を教育したり、感動を与えたりするものではなく、直面する宣教課題を真 剣に﹁協議する集まり﹂であったということである。さらに第三の意義は、この会議を通して教 会の一致への関心が高揚した点があげられる。そして第四の意義は、この会議がエキュメニカル 運動のよき訓練の場となり、それ以降のエキュメニカル運動の有力な指導者が輩出された点があ げられる。   エディンバラ会議の限界としては、会議自体が、その準備段階から英国と米国のイニシアティ ブで進められたということで、 ヨーロッパ大陸といわゆる ﹁若い教会﹂ からの参加者が少数に 留っ た 点 が あ げ ら れ る。 エ デ ィ ン バ ラ 会 議 以 降、 一 九 一 二 年 に The International Re vie w of Missions と いう公的雑誌が公刊され、 さらに 一九二一年に は、 ニューヨーク州レイク ・ モホンクに おいて﹁国 際 宣 教 協 議 会 ﹂︵ I M C ︶ が 正 式 に 発 足 し、 一 九 二 八 年 に エ ル サ レ ム で、 三 八 年 に は タ ン バ ラ ム において IM C 主催の世界宣教会議が開催されている。   ﹁生活と実践﹂世界会議   エディンバラ宣教会議の影響を受けながらも、 社会倫理という領域で世界会議が催されたのが、 一九二五年のストックホルムにおける﹁生活と実践﹂ ︵ Life and Work ︶の世界キリスト教会議で あった。この世界会議は、スウェーデンのルター派監督 N ・ゼ ー ダ ーブロムによって提唱された もので、第一次世界大戦の反省から、世界の平和を教会の課題として具体的に求めるという祈り に根ざしている。会議には、三十七ケ国より六百名以上の教会代表が集っている。会議の参加者

(7)

の 構 成 で 重 要 な 点 は、 ス ト ッ ク ホ ル ム 会 議 が 教 会 の 公 式 代 表 に よ っ て 構 成 さ れ て い た 点 で あ り、 この点で﹁宣教協会﹂代表によって構成されていたエディンバラ宣教会議とは異なっていたと言 える。まさにこの会議が、 ﹁最初のエキュメニカルな教会々議﹂と呼 ば れるゆえんである。   ス ト ッ ク ホ ル ム 会 議 は﹁ 倫 理 の ニ カ ィ ア 会 議 ﹂ と も 呼 称 さ れ、 ﹁ 教 理 は 分 裂 さ せ る が、 奉 仕 は 一つにする﹂という H ・カプラーの言葉は、まさにこの会議のモットーとして、会議内容の実践 的 性 格 を よ く 示 唆 し て い る。 会 議 で は、 世 界 に 対 す る 神 の 計 画 の 光 に お け る 教 会 の 一 般 的 責 務、 教会と経済的・産業的諸問題、教会と社会的・道徳的諸問題、教会と国際関係、教会と教育、諸 教会間の協力を促進し、その親密な方針の連合のための方法と手段など、六つの分科会が設定さ れた。当時の神学的状況を反映した重要な神学的争点は、神の国と人間の行為の関係をめぐるも のである。一方の立場は、いわゆる﹁社会的福音﹂の系譜をひく米国、英国の代表で、神の国は 人間の行為によって実現されうるという主張であり、他方は、神の国は人間の歴史の終末にもた らされるというドイツの代表の主張である 。   会議の基本的意図は、現実世界における実践課題を共有して分裂した教会の一致と友好関係を 回復する点にあったと言える。この点に関しては、ゼ ー ダ ーブロムの創造と言える会議のための エ キ ュ メ ニ カ ル な 讃 美 歌 集 の 副 題﹁ 礼 拝 と 奉 仕 に お け る エ キ ュ メ ニ カ ル な 交 わ り ﹂︵ Communio

in adorando et servieno oecumenica

︶が、彼の意図をよく示唆している 。     ﹁信仰と職制﹂世界会議   一 九 二 七 年 に ス イ ス の ロ ー ザ ン ヌ で 開 か れ た﹁ 信 仰 と 職 制 ﹂︵ Faith and Order ︶ 世 界 会 議 は、

(8)

ストックホルム会議と同様、世界の諸教派からの代表によって構成された会議であった。百八の 教会から四百三十九名が参加しているが、 そこには、 正教会、 聖公会、 古カトリック教会、 ルター 派、 改革派と長老派、 メソ ヂ スト派、 会衆派、 バプテスト派、 ディサイプル派、 クウェーカー派、 メノナイト派など、カトリック教会を除く殆んどの歴史的教派の諸教会から代表が派遣された。   ローザンヌ会議は、米国聖公会主教の C ・ H ・ブレントの提唱によるもので、教会における信 仰と職制に関わる問題が、深刻な教会の分裂をもたらしてきたことを反省し、一致をめざして具 体的に歩み寄ろうとした点にその基本的意図がある。内容的には、一致への呼びかけ、世界への 教会の使信福音、教会の本質、教会の共通の信仰告白、教会の霊的職務、聖礼典、キリスト教 の一致と現存する教会のその一致に対する関係、などの諸問題について論議された。   ローザンヌ会議の第一の意義は、会議の参加者の構成の問題として、ストックホルム会議と同 様、正式の教会代表から構成された会議であったということである。第二の意義は、宗教改革以 降分裂を重ねてきた諸教会が、世界的な規模で初めて教会の一致へと教理的に踏みこんで、互に 歩み寄ろうとしたその歴史的意義にある。そして第三の意義としては、一つ一つの問題を丹念に 検証し、論議を重ね、相互に合意できる一致点だけでなく、相違点も明確に指摘している点があ げ ら れ る。 そ の 方 法 は、 伝 統 的 教 理 を 相 互 に 比 較 し 合 っ て、 一 致 点 と 争 点 を 探 る﹁ 比 較 教 会 論 ﹂ と 呼 ば れ て い る。 ロ ー ザ ン ヌ 会 議 に 参 加 し た 聖 公 会 の 稲 垣 陽 一 郎 が、 ﹁ 信 仰 職 制 ﹂ と い う 訳 語 を 最初に用いた﹃報告書﹄を翻訳した貢献は重要である 。  

(9)

︻ 2 ︼ W ・ R ・ランバスの医療宣教の働き   上海と蘇州における宣教の働き   エ キ ュ メ ニ カ ル 運 動 の 草 創 期 か ら、 ﹁ 教 理 は 分 裂 さ せ る が、 奉 仕 は 一 つ に す る ﹂ と い う エ キ ュ メニカルな標語が語り継がれている。医療宣教の働きは、まさにそのような一致をもたらす、人 間の苦しみに仕える﹁奉仕﹂の働きに ほかならない。   W ・ R ・ランバスに おける医療宣教の働きは、最初の宣教地である中国やアフリカのコンゴな どに及んでいる。日本では、来日した当時、既に医療機関がある程度整っていたこともあり、ほ と ん ど 医 療 活 動 は 行 わ れ ず 、 キ リ ス ト 教 主 義 学 校 の 設 立 と 教 会 の 創 設 を 中 心 と す る も の で あ っ た 。   ここでは、最初に主として中国における W ・ R ・ランバスの医療宣教の働きについて論述して みたい 。 中国における本格的な医療宣教の開始は、 アメリカの長老派の宣教師 P ・ パーカーに よっ て、一八三四年から始められ、一八三八年には、パーカーらによってプロテスタントの中国医療 宣教会が創立された 。   W ・ R ・ ラ ン バ ス が、 ア メ リ カ に お い て 神 学 と 医 学 の 勉 学 を 終 え た 後、 妻 デ イ ジ ー と 結 婚 し、 宣教師として上海に赴任したのは、一八七七年一一月であり、翌月より医療宣教の仕事に着手し て い る。 最 初 の 年 の 活 動 に つ い て、 そ の 報 告 書 の 中 で 彼 は 述 べ て い る。 ﹁ 一 ヶ 月 の う ち 一 週 間 は 百四マイルに及ぶ範囲を巡回し、六つの市や町で投薬し、また説教する。翌月は二百マイル以上 の 範 囲 を 二 週 間 か け て 巡 回 し、 十 二 ほ ど の 都 市 を 訪 問 す る ﹂。 最 初 の 年 か ら こ れ だ け の 活 動 が 可

(10)

能であったのは、上海が生まれ故郷であり、言葉にも不自由しなかった点があげられるが、同時 に父 J ・ W ・ランバスと同様、宣教活動に水路を活用し、小型ボートで自在に運河や蘇州河など を走行していたと言える。   上海における特筆すべきランバスの働きは、一八八〇年五月に開設した﹁阿片中毒治療所﹂で あ っ た。 そ の 治 療 所 の 開 設 の 背 景 に つ い て、 伝 記 の 著 者 は、 ﹁ 西 欧 人 の 貧 欲 な 利 益 追 求 の た め、 中国人にこの破壊的な麻薬を押しつけることになった阿片戦争の災いは、その猛威を振るってい る只中だった。治療を必要とする不幸の中でも、最もありがちで、最も痛ましいのが阿片の常用 だった。この若き医師の心は、 このような悲劇的な訴えをいつまでも座視してはいられなかった。 阿片中毒治療所はそれに対する彼の答えだった ﹂ と述べている。   一八八一年、 W ・ R ・ランバスは、ニューヨークのベルビュー大学病院において東洋医学を研 究後、 翌年には再び中国に戻り、 蘇州に おいて再び医療宣教に 取り組んでいる。蘇州は、 父の J ・ W ・ ランバスも、何度か宣教活動で訪れており、上海に次ぐ南メソ ヂ スト教会の宣教地であった。 ランバスは、 蘇州で医療宣教を始めた翌年の一八八三年一一月八日、 W ・ H ・ パークと﹁傳習医院﹂ を開設し、そこを拠点として精力的に医療宣教を展開しているが、当時の医院の日課について次 の よ う に 記 さ れ て い る。 ﹁ 日 課 は 厳 し く 定 め ら れ て い て、 六 時 に 起 床 の 鐘 の 音 で 始 ま り、 鐘 を 叩 く音に従って次の行動に移り、 就寝の鐘で一日が終わる。日課の中には宗教的教育も入っていて、 主要な位置を占めていた。定時の講話と病床での奨励があり、聖書や小冊子が配布された ﹂。    パ ー ク と 共 に 開 設 し た 蘇 州 病 院 は、 ラ ン バ ス が 去 っ た 後 も パ ー ク に よ り 引 き 継 ぎ 育 て ら れ る。 妹ノラはのちにパークの妻となった。傳習医院旧址と隣接して蘇州大学が存在しているが、この

(11)

蘇 州 大 学 の ル ー ツ は、 一 九 〇 〇 年 に 南 メ ソ ヂ ス ト 教 会 に よ っ て 設 立 さ れ た﹁ 東 呉 大 学 ﹂ で あ り、 ランバスとパークによって創設された傳習医院も、その前身となっているのである。   北京における宣教の働き   一八八四年、父の J ・ W ・ランバスが休暇で帰国中に中国の宣教の責任を負った Y ・ J ・アレ ンとの確執に加え、家族の健康上の理由により、 W ・ R ・ランバスは蘇州を去り、その活動の場 を北京に移している。同年、北京に中国初のエキュメニカル運動の一つの拠点とも言える YM C A を設立している。ランバスは、エモリー・アンド・ヘンリー大学に在学中に大学 YM C A を組 織し、その会長に選 ば れていることを考えれ ば 、この YM C A 設立は学生時代からのエキュメニ カ ル な 関 心 の 表 れ と も 言 え る で あ ろ う。 創 設 さ れ た 北 京 の Y M C A 学 院 で は、 ﹁ 赤 い 表 紙 で 美 し く装幀したキリスト教の基本文庫一巻を用意し、これを学力試験のために集まるすべての学徒に 提供した。そのなかには﹃キリストの生涯﹄ 、﹃ルカによる福音書﹄の他キリスト教の基本線を記 したトラクトが数冊含まれていた。 また半年に一回、 その間に提出されたキリスト教に関するエッ セ ー の な か か ら 最 優 秀 三 作 品 に 対 し て 奨 励 賞 が 出 る こ と に な っ て い た ﹂ と、 そ の 活 動 に 言 及 し ている。   北京では、当時としては異例のことであったが、北部のメソ ヂ スト監督教会の仕事に従事して い る。 ピ ン ソ ン は、 そ の 事 情 を 次 の よ う に 述 べ て い る。 ﹁ 色 々 理 由 が あ っ て、 こ の 年、 一 八 八 四 年末に博士は職を辞して北京に行き、メソ ヂ スト監督教会の仕事をすることになった。ここで博 士は、ある意味でロックフェラー病院の先駆とも言える病院を開設した。ロックフェラー病院の

(12)

建物は建設に七百万ドルかかり、世界でも一番立派な、また最高の設備をもつ病院と言われてい る ﹂。   こ こ で﹁ ロ ッ ク フ ェ ラ ー 病 院 ﹂ と 言 わ れ て い る の は、 一 九 二 一 年 に ロ ッ ク フ ェ ラ ー 財 団 の 所 属 中 華 医 学 基 金 に よ っ て 設 立 さ れ た﹁ 私 学 北 京 協 和 医 学 院 附 属 病 院 ﹂、 通 常﹁ 北 京 協 和 病 院 ﹂ と 呼 ば れ て い る 病 院 で あ る。 こ の 病 院 成 立 の 背 景 に、 二 十 世 紀 初 頭 の 中 国 に お い て、 エ キ ュ メ ニ カ ル 運 動 の 影 響、 及 び 欧 米 主 導 の 教 会 や 学 校、 病 院 等 の 運 営 に 対 す る 強 い 批 判 か ら、 中 国 側 と 欧米側が﹁協和﹂して運営しようとした背景があったと言えるであろう。既に、一九〇六年に北 京 で、 米 国 メ ソ ヂ ス ト 監 督 教 会︵ 北 部 ︶、 米 国 長 老 会︵ 北 部 ︶、 ア メ リ カ ン・ ボ ー ド︵ 会 衆 派 ︶、 ロ ン ド ン 宣 教 会 に よ る 連 合 の﹁ 華 北 協 和 医 学 院 ﹂ が 設 立 さ れ、 こ の 連 合 の 医 学 院 を 基 盤 と し て、 一九二一年にロックフェラー財団によって﹁北京協和病院﹂が建設された。そして、一八八四年 から数ヶ月間、ランバスは、この﹁北京協和医院﹂の前身となるメソ ヂ スト監督教会の﹁北京メ ソ ヂ スト病院﹂に関わっているのである。   ランバスはその病院で、医学部における研究面の整備に尽力しただけではなく、病院における 治 療 と 宗 教 活 動 に も 言 及 し て、 次 の よ う に 述 べ て い る。 ﹁ 朝 患 者 と 一 緒 の 祈 祷 会 は 毎 日 あ り、 私 がいなくても、学生たちによって実施されます。現地の牧師は患者に対する働きは非常に定期的 で、 効果的です。毎日午後患者が薬を飲む前に、 私たちは簡単な礼拝を行う。しかしこの働きは、 牧師が常駐しないために、不規則になることを避けられませんでした。私はこの部門へ全エネル ギ ー を 捧 げ る こ と の で き る 熱 心 な 若 い 人 が 送 ら れ る こ と を 希 望 し ま す ﹂。 こ の 北 京 で の 医 療 宣 教 とその活動報告を最後に、 W ・ R ・ランバスは、中国での宣教活動に終止符を打ち、日本への宣

(13)

教を志し、一八八六年に神戸へと向かったのである。   著書﹃医療宣教二重の任務﹄   と こ ろ で ラ ン バ ス は 、 晩 年 の 一 九 二 〇 年 に ﹃ 医 療 宣 教 二 重 の 任 務 ﹄ と い う 著 書 を 出 版 し て いる 。 この著書は、これまでの中国、アフリカのコンゴ、ラテン・アメリカなどに おける長年の 医 療 宣 教 の 働 き を 基 礎 と し て、 医 療 宣 教 に お け る 二 重 の 任 務 を 中 心 と し て ま と め た も の で あ り、 その後アメリカにおける医療宣教を志す宣教師に対するエキュメニカルな形での教科書となって いる。   ランバスによれ ば 、医療宣教における二重の任務とは、第一に病で苦しむ者に仕えて医療の専 門家︵医者︶として病の治療に専念することであり、そして第二に宣教師としてキリストの福音 を 提 示 す る と い う、 二 つ の 任 務 に 他 な ら な い。 こ の 二 重 の 任 務 を 担 う 医 療 宣 教 の 目 的 に つ い て、 ラ ン バ ス は、 ﹁ 医 療 宣 教 の 一 つ の 大 き な 目 的 は、 苦 し む 人 々 や 罪 あ る 人 々 に キ リ ス ト を 指 し 示 す ことである。なすべきことは、高次の召命を、世俗的な職業に還元することではない。伝道、教 育、産業、文書、医療、どの働きであれ、宣教師の最高の目的の一つは、神のみ子であり、世界 の救い主であるイエス・キリストを指し示すことである ﹂ と述べている。それ故、医療宣教に 携 わる者は、 ﹁物質的 ・ 霊的な手段を用いて、 しかもそれらすべてを媒介として、 輝きをもたらす光、 浸透するパン種、防腐的役割を果たす塩とならなけれ ば ならないし、そしていのちへと至るいの ちの香りとなるのである ﹂ と呼びかけているのである。   このような医療宣教の基本的理解に至る出会いの一つとして、中国の蘇州病院におけるある年

(14)

老いた中国人婦人との出会いの経験を語っている。その婦人は、貧しい農家の妻であり、長年苦 労を重ねて労働してきたことで、リュウマチで死にそうなほどの痛みを抱えて、病院で治療をう け、 そ こ で 受 け た 温 か い 対 応 に 、 彼 女 は 心 を 動 か さ れ る。 そ の 姿 に 触 れ て ラ ン バ ス は、 ﹁ 私 は 彼 女の荒れた手を撫でながら、 我知らず涙が流れてきて、 老女の顔がかすんで見えなくなってしまっ た。一瞬、私の目はもう一人の顔が映ったように思えた。それは﹃わたしの兄弟であるこの最も 小さい者の一人にしたのは、 わたしにしてくれたことなのである﹄と仰せられた、 あの偉大な﹃外 科医﹄の顔であった。そのとき私は宣教師になるものの真の動機を見出したのだった。それは如 何に深く心を動かすものであろうと個人が必要とするものではなく、巨万の群衆の訴えが如何に 大きかろうと中国人のものでもなく、その言葉がどれほど断固としたものであろうと、命令や指 令といったことでもない。それは主なるキリスト、主ご自身とその愛なのである﹂と語る。そし て、ここにこそ私たちを行動に駆り立てるものが内在し、このような弱き人々の必要に力を貸す こ と が、 主 に 仕 え る こ と で あ り、 ﹁ 宣 教 師 の 真 の 動 機 は、 主 の 生 涯 の 中 に 包 み 込 ま れ、 主 の 愛 の 中に 集中しているのである ﹂ と、個人的経験を背景とした医療宣教師としての動機と使命に つい て述べている。 キ ュメニカル運動における医療宣教   W ・ R ・ ラ ン バ ス が 担 っ て き た 医 療 宣 教 の 実 践 と 理 論 的 な 反 省 に つ い て は、 一 九 一 〇 年 の エ デ ィ ン バ ラ 宣 教 会 議 に お い て も、 医 療 宣 教 会 議︵ Medical Missionary Conference ︶ と い う か た ちで会期中に開催された。そこでは三つのセッションが開かれ、五十七名の代議員を含む一三〇

(15)

名 が 参 加 し、 ラ ン バ ス は 第 一 セ ッ シ ョ ン に 参 加 し て い る。 報 告 に は、 ﹁ 医 療 宣 教 は、 以 下 の 理 由 で、キリスト教会の宣教活動の統合的 ・ 本質的な部分として認められるべきである﹂と述べられ、 ﹁︵ a ︶われわれは、癒しのミニストリーを、人間に対する神の啓示の手段として用いるキリスト の例証と命令によって導かれている。 ︵ b ︶伝道の働きとして、 このような働きの効力と必要性は、 繰り返し多くの国々で立証されてきたし、そして、このような働きは、神の祝福によって確証さ れてきた﹂と、二つ理由が挙げられている 。   こ こ で、 ﹁ 癒 し の ミ ニ ス ト リ ー﹂ と い う 用 語 に 言 及 さ れ て い る が、 そ の 後、 W C C の キ リ ス ト 教医療委員会︵ C M C ︶が、一九六四年と六七年の二回にわたってチュービンゲンのドイツ医療 宣教研究所で開催した協議会において、この用語が新たに注目された。近年では、キリスト教医 療委員会によって﹁癒しと全体性健康における教会の役割﹂という文書が提出され、一九九〇 年に W CC の中央委員会において成立し、また二〇〇〇年にはドイツのハンブルグにおいて﹁健 康、信仰と癒し﹂に関する協議会が開催されている。その後、癒しの主題は二〇〇五年五月にア テ ネ で 開 か れ た 世 界 宣 教 会 議 に お い て 主 要 な 課 題 と な り、 ﹁ 来 た れ、 聖 霊 よ、 癒 し と 和 解 の た め に ― 和解と癒しの共同体となるためにキリストに召されて﹂ というテーマとして表現されている。 ﹁ 来 た れ、 聖 霊 よ、 癒 し と 和 解 の た め に ﹂ と い う 主 題 は、 宣 教 が、 わ れ わ れ に 属 し て い る と い う ことではなく、教会と世界において聖霊として現在し、働いておられる神の宣教であることを想 起させるものであり、 世界宣教会議に提出された主要な討議資料の一つ﹃教会の癒しの宣教﹄も、 豊かな論議を呼んだのである 。

(16)

︻ 3 ︼エ キ ュメニカル運動への参与と貢献   北米海外宣教協議会への参与   一八九一年に、 W ・ R ・ランバスは日本における宣教活動を終えて後、アメリカに帰国し、南 メ ソ ヂ ス ト 海 外 宣 教 局 の 主 事 に 就 任 し て い る。 九 二 年 か ら は、 Methodist Re vie w of Missions の 主 筆を担当し、九四年には宣教局総主事に選任され、一九一〇年まで一六年間にわたって南メソ ヂ スト監督教会の海外宣教を統括する任務を担っている。   ラ ン バ ス が、 ア メ リ カ に お い て エ キ ュ メ ニ カ ル 運 動 に 具 体 的 な 参 与 を す る 契 機 と な っ た の は、 一八九三年に米国およびカナ ダ のプロテスタントの海外宣教ボードを代表する北米海外宣教協議 会が創設されたことであり、その創立から参与している。ピンソンは、このエキュメニカルな協 議会におけるランバスの関わりについて次のように述べている。   ﹁ 第 一 回 の 会 合 か ら、 ラ ン バ ス 博 士 が 集 会 に 欠 席 す る こ と は ほ と ん ど な く、 最 後 ま で 皆 か ら 尊 敬される会員だった。彼は一度、 議長を務めたことがあり、 重要な委員会でも度々議長を務めた。 世界に福音を宣教するという仕事の大切さを見誤ることはなく、いかなる教派といえども単独で それをなすことなどできるはずがないということも心得ていた。また分割された勢力が争い、攻 撃することによって世界を最終的に制服できるなどとも信じていなかった。だから、米国とカナ ダ の五〇を越えるミッション・ボード、宣教協会から成る団体の結成が提案されたとき、彼は全 力を挙げて、このプロテスタント教会連合の努力に協力し、これを推進するために参加すること に躊躇はなかっ た ﹂。

(17)

  こ の 北 米 海 外 宣 教 協 議 会 と の 関 わ り で、 特 に 強 調 し な け れ ば な ら な い 点 は、 一 九 〇 〇 年 四 月 二一日 ― 五月一日にニューヨークで開催された大規模なエキュメニカルな宣教会議の準備段階で のランバスの貢献である。長年、教会連合の主事として活躍した W ・ヘンリー・グラントは、そ の貢献について次のように記している。 ﹁一八九八年七月一五日、 ︵ランバス︶博士はクリフトン ・ ス プ リ ン グ ズ で 先 頭 に 立 っ て 組 織 化 の 計 画 と そ の 手 順 を 推 進 し て い っ た。 一 九 〇 〇 年 に ニ ュ ー ヨークで開かれる超教派的宣教師会議の準備が行き詰まっていたときだった。ニューヨーク市で 三〇〇〇人が参加し、さらに同数の訪問者が毎日見込まれる一〇日間の大協議会を開く準備と運 営のためになすべき仕事と組織について、全体委員会が範囲を限定したの だ ﹂。   一九〇〇年のニューヨークにおけるエキュメニカル宣教会議は、一九一〇年のエディンバラに お け る 世 界 宣 教 会 議 以 前 に 開 催 さ れ た 宣 教 会 議 と し て 最 大 の エ キ ュ メ ニ カ ル な 宣 教 会 議 で あ り、 ﹁ 宣 教 の 働 き ﹂ と し て 一 三 の 分 科 会 が 開 催 さ れ て い る 。 そ の 会 議 に 至 る 準 備 で 指 導 的 な 役 割 を、 ランバスが果たしたのである。   海外宣教のエ キ ュメニカルな原則   ラ ン バ ス の エ キ ュ メ ニ カ ル な 貢 献 と し て 看 過 す る こ と が で き な い の は、 一 九 〇 一 年 四 月 に ニューオリンズで開催された南メソ ヂ スト監督教会の協議会での貢献である。この協議会は、歴 史的にも重要なもので、その協議会の計画やプログラムはランバスの手によるものである。協議 会 の 中 で ラ ン バ ス は、 ﹁ 南 メ ソ ヂ ス ト 監 督 教 会 の 海 外 宣 教 事 業 の 歴 史、 方 針 及 び 展 望 ﹂ と 題 す る 演説を行っている。そして、その演説において提示された、以下のような海外宣教の原則が、そ

(18)

の後の南メソ ヂ スト監督教会の重要な原則として承認されたのである。   ﹁ 一、 現 地 の キ リ ス ト 教 伝 道 者 に 高 い 地 位 を 与 え、 も っ と 大 々 的 に 大 胆 に 用 い る べ き で あ る。 新約聖書の使徒たちの先例を見れ ば 、教化したいと願っている国で働き手を募るのが望ましいと いうことが分かる。   二、何を教えるかということを、注意深く見守る必要がある。私たちは道徳、聖職者、教義の 体系や制度を教えるために派遣されているのではない ―― 人であり給う生けるキリスト、福音書 のキリストを伝えるために遣わされているのである。無意識のうちにキリストの御顔をヨーロッ パ化してしまっていることが多すぎるのである。   三、この人たちに対する宣教にふさわしい者が派遣されなけれ ば ならない。すなわち、この仕 事のための訓練を受けた、最もすぐれ、最も有能で、最も広い教養を身につけた者である。   四、私たちの宣教の最終目標は、各教派の支部を設立することではなく、その土壌に天の王国 の種を植え、その結果、その国の特質に最も適合した形でのキリスト教を発展させることでなけ れ ば ならない。もちろん、キリスト教の大原則は守られなけれ ば ならないが、礼拝形式と牧師の 職制の両面ではこれらの制度を超え、最大限に自由な発展が許されるべきであ る ﹂。   ラ ン バ ス に よ っ て 提 案 さ れ、 重 要 な 海 外 宣 教 の 原 則 と し て 教 会 に お い て 承 認 さ れ た の は、 1 . 現地の伝道者に高い地位を与えて、活用すること、 2 .宣教に派遣されるのは、キリストのため に派遣するのであり、ヨーロッパ化しないこと、 3 .宣教に相応しい者が訓練されて派遣される こと、 4 .礼拝や職制など、その国に最も適合した自由な発展がなされるべきこと、という四つ の原則である。一九〇一年の時点で、ランバスが提示した、これだけの卓越した内容を盛り込ん

(19)

だ海外宣教の原則のエキュメニカルな意義については、強調しすぎることはないであろう。   日本メソヂスト教会の成立   ニ ュ ー オ リ ン ズ 協 議 会 で 承 認 さ れ た 海 外 宣 教 の 原 則 が、 具 体 的 な 試 金 石 と な っ た の は、 一九〇七年における﹁日本メソ ヂ スト教会﹂の成立の問題である。   日本メソ ヂ スト教会は、一九〇七年五月二二日から、東京の青山学院に招集された合同総会に おいて、カナ ダ のメソ ヂ スト教会日本年会と、アメリカのメソ ヂ スト監督教会日本年会および南 部 年 会︵ 美 以 教 会 ︶、 そ し て 南 メ ソ ヂ ス ト 監 督 教 会 日 本 年 会︵ 南 美 以 教 会 ︶ の 三 派 四 年 会 の 合 同 により誕生した教会である。この日本にあるメソ ヂ スト諸教会が合同するための願書を作成した 一八八三年から数えれ ば 、その合同が成立するまでに二十五年もの歳月を要したことになる。こ のことは、例え ば 一八七七年に日本基督一致教会の成立、また一八八六年の日本基督組合教会の 成立と比較してみた場合、少し長すぎる歳月といえる。その問題点について、日本メソ ヂ スト諸 教 会 の 場 合 は、 ﹁ ミ ッ シ ョ ン の 本 国 教 会 の 総 会 の 下 に 置 か れ て い る の で、 信 条 の 変 更 は も ち ろ ん 諸制度の改変や他派との合同など重要な問題になると、在日本教会が自分たちの会議で決めるこ とはできない。その都度総会に 請願してその承認を受けなければ ならないのである ﹂ と指摘され ている。換言すれ ば 、日本基督一致教会や日本基督組合教会などは、本国教会と組織的に分離独 立してその成立も早かったのに対して、日本メソ ヂ スト教会の場合は、本国教会と組織的に非分 離の関係にあったため、合同に至るまでに長い歳月を要したと言えるであろう。   日本メソ ヂ スト教会の成立が正式に決定されたのは、一九〇六年七月一八日にニューヨーク州

(20)

バッファロー市で開催された三派合同に関する全権委員協議会においてであった。そこには、日 本において宣教活動を展開してきた米国メソ ヂ スト監督教会とカナ ダ のメソ ヂ スト教会、そして 米国南メソ ヂ スト監督教会からの代表として全権委員が集い、三派が合同して日本メソ ヂ スト教 会を設立する決議を全会一致で行い、翌一九〇七年五月に東京で合同総会を開催する旨を決定し たのである 。 南メソ ヂ スト監督教会からは、全権委員として、 A ・ W ・ ウィルソン監督と W ・ R ・ ランバスが参与し、貢献している。このような日本メソ ヂ スト教会の成立により、ランバスの提 起した宣教原則の正当性が実証されたのである。   また日本メソ ヂ スト教会の成立は、 関西学院にとっても、 新たな展開を可能にした。 一九一〇年、 東洋英和男子校の問題で新たな可能性を模索していたカナ ダ ・メソ ヂ スト教会は、南メソ ヂ スト 監督教会によって創立されていた神戸の関西学院に共同参与することを決議している。このカナ ダ ・メソ ヂ スト教会の共同経営に よって、関西学院は飛躍的に 発展したと言えるのであり、そし て、その背後にはランバスの熱い祈りと重要な貢献があったことは言うまでもないであろう。   エディンバラ世界宣教会議での貢献   一九一〇年六月一四 ― 二三日にエディンバラで開催された世界宣教会議の出来事は、一つの教 会史的事件であった。しかも、エディンバラ宣教会議は、規模の面からも内容の面からも、それ までの宣教会議を凌駕する実態を備え、前世紀の諸潮流が見事に結集した歴史的な会議と呼べる ものであった。会議で採択された﹃全てのキリスト教会のメンバーに向けたエディンバラ世界宣 教 会 議 の 使 信 ﹄ で は、 ﹁ と り わ け、 わ れ わ れ は、 全 能 の 神 に 対 し て、 世 界 に 福 音 を も た ら す と い

(21)

う大きな委託に責任の自覚を深くしている。⋮⋮⋮キリスト者であることは、すなわちこの委託 に参与することなのである﹂と、会議における情熱に溢れた姿勢が力強く表明されている 。   エディンバラ宣教会議の内容的概観は、以下の八つの分科会において討議されたテーマに示さ れている。即ち、第一分科会   全世界への福音の使信、第二分科会   宣教地における教会、第三 分科会   国民生活のキリスト教化と関連する教育、第四分科会   他宗教に対する宣教の使信、第 五分科会   宣教師の養成、第六分科会   宣教の基礎としての教会、第七分科会   宣教と政府、第 八分科会   協力と一致の促進、という八つの分科会である。   こ の 中 で 特 に 重 要 な 分 科 会 の 一 つ と し て、 ﹁ 第 二 分 科 会  宣 教 地 に お け る 教 会 ﹂ が あ げ ら れ、 ランバスはその副議長に任命されている。その会議の準備会を一九〇七年から着手し、いくつか の調査も行い、精力的に準備作業に取り組んできていたのである 。   ﹁ 宣 教 地 に お け る 教 会 ﹂ の 分 科 会 の 副 議 長 と し て、 準 備 と 議 論 を 重 ね、 最 終 的 に リ ポ ー ト が 採 択 さ れ て い る が、 現 代 の エ キ ュ メ ニ カ ル 運 動 の 画 期 的 な 意 義 を も つ 内 容 と な っ て い る。 例 え ば 、 こ れ か ら 共 に 歩 み 出 す こ れ か ら の 教 会 に お い て は、 ﹁ わ れ わ れ は、 た え ず 妥 協 し よ う と す る の で は な く、 理 解 し よ う と 努 め な け れ ば な ら な い。 ま た 画 一 化︵ uniformity ︶ を 目 指 す の で は な く、 一致 ︵ unity ︶ を目指さなけれ ば ならない ﹂ と、 多様性の中の一致が呼びかけられているのである。   また、宣教地における教会の在り方が、西欧の親教会との関係で、さまざまのケースにおいて 問 題 と な り、 ﹁ 一 方 で は、 宣 教 地 に お け る 教 会 の 自 律 性 と 自 由 で あ り、 他 方 で は、 宣 教 地 に お け る若い教会と西洋における古い教会の間の相互的な影響と尊敬の関係の維持 ﹂について語られる。 し か も、 ﹁ わ れ わ れ は、 キ リ ス ト 者 の 間 に 愛 と 一 致 の 精 神 が 成 長 し て い る こ と を 喜 ん で 認 め、 そ

(22)

の働きの証拠に、特にインドと中国において注意を向ける。われわれは、さらに現在は、見かけ 上、幅広い教派組織の時代であり、大きな教派間に親密な一致の時代である事を認める。われわ れは、宣教地における多様な教派のメンバーが、全体として、さらなる分裂へと向かうのではな く、キリスト者の精神がそこにのみ究極的に休息できる、幅広い一致を目ざすような運動に心か ら共感していることを確信してい る ﹂ と語られるのである。   第二分科会の論議の過程で、ランバスと関わりの深い朝鮮の南メソ ヂ スト監督教会の尹致昊と 日本メソ ヂ スト教会監督の本多庸一の貢献があったことは注目すべきであり、恐らくランバスと の関わりで実現したものと思われる。朝鮮の尹致昊は、ミッション・ボードからの金銭の問題に 言及して、現地の教会の宣教のために用いられるお金は宣教師のコントロールの下で行われるべ きとする従来の原則に対して、 より高次のキリストの原則を考慮しなけれ ば ならないと主張する。 そ し て、 宣 教 師 は、 ﹁ お 金 は、 利 己 的 な 目 的 の た め に で は な く、 特 定 の 地 に お け る 神 の 国 の 前 進 のためにあるのだから、現地の指導者たちは、お金の配分について率直に協議する﹂ことを、真 摯に考えるべきだと呼びかけている 。   他 方、 日 本 の 本 多 庸 一 は、 キ リ ス ト 教 宣 教 と 国 民 的 精 神 と の 関 係 に 言 及 し つ つ、 ﹁ 国 民 的 精 神 や独立精神を認めない宣教の働きは、優柔不断で依存的なキリスト者をつくる﹂と指摘し、しか し そ の こ と は、 ﹁ 国 民 的 な 教 会 の 理 想 は、 決 し て 宣 教 師 が 必 要 で な い と か、 宣 教 師 と 対 立 的 に な る こ と を 意 味 し て い な い ﹂ と 述 べ て い る。 そ し て 具 体 的 な 実 例 と し て、 日 本 に お け る 独 立 的 で、 自治的な長老派教会、会衆派教会、聖公会、メソ ヂ スト教会の四教会をあげ、特に一九〇七年に 成 立 し た 日 本 メ ソ ヂ ス ト 教 会 の 場 合 は、 ﹁ 母 国 や 米 国 か ら 派 遣 さ れ た す べ て の 宣 教 師 は、 日 本 年

(23)

会の正式会員であり、その年会によって任命が与えられる。⋮⋮このような国民的な教会におけ る国民的精神を認めることは、教会員自身にとって大きな価値があるだけでなく、外部の非キリ ス ト 教 世 界 に 対 し て も 力 強 い 影 響 力 を も っ て い る ﹂ と 語 っ て い る 。 こ の よ う に、 ﹁ 宣 教 地 に お け る教会﹂をめぐる重要な論議の中で、副議長ランバスの関わりが深い、朝鮮の南メソ ヂ スト監督 教会の尹致昊と日本メソ ヂ スト教会監督の本多庸一の貢献は、特に宣教地を代表する発言として 重要な貢献であったと言えるであろう。 ︻ 4 ︼ランバスにおけるエ キ ュメニカルな宣教思想   宣教における一致と協力   最後に、一九一五年に母校のヴァン ダ ビルト大学で行ったコールレクチャーに見られるランバ ス の エ キ ュ メ ニ カ ル な 宣 教 思 想 に つ い て 考 察 し た い。 ラ ン バ ス の コ ー ル レ ク チ ャ ー は、 ﹃ キ リ ス ト に 従 う 道 ― ミ ッ シ ョ ン の 動 態 ― ﹄ と し て 翻 訳 さ れ、 刊 行 さ れ て い る が、 そ の 基 本 的 な 意 図 は、 ﹁ い わ ゆ る ミ ッ シ ョ ン の 理 論 や 方 策 の 観 点 か ら す る 専 門 的 な 議 論 で も な い。 む し ろ わ れ わ れ は、 宣教活動を支える霊的生命と力の源泉を探求することによって、いささかでもミッションの動態 ︵ dynamics ︶ を闡明することを目指すのである ﹂ と述べられている。コールレクチャーの構成は、 第一講   神の国、第二講   聖霊 ― 人間を探ね求める神、第三講   祈りの精神 ― 人間の神探求、第 四講   宣教とその担い手、第五講   宣教する教会、第六講   キリストの主権、となっている。ま たコールレクチャーにおいては、草創期のエキュメニカル運動における指導者の著書をよく引用

(24)

されており、例え ば 、 C ・ゴア、 C ・ H ・ブレント、 J ・ R ・モットなどの著書があげられてい るのである。   W ・ R ・ランバスに おける宣教思想については、宣教する側の事柄と宣教地に おける事柄とし て区分できるが、 最初に 、 宣教する側の事柄について考察したい。ランバスは、 最も重要なエキュ メニカルなテキストの一つとして、ヨハネ福音書十七章における弟子達に対するイエスの別れの 祈 り に 注 目 し て い る。 ﹁ ま た、 彼 ら の た め だ け で な く、 彼 ら の 言 葉 に よ っ て わ た し を 信 じ る 人 々 のためにも、お願いします。父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるよ うに、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。そ う す れ ば 、 世 は、 あ な た が わ た し を お 遣 わ し に な っ た こ と を、 信 じ る よ う に な り ま す ﹂︵ ヨ ハ ネ 一七 ・ 二〇 ― 二一︶ 。   こ こ で、 ﹁ す べ て の 人 を 一 つ に し て く だ さ い ﹂ と い う 言 葉 は、 西 欧 に お け る 長 年 に わ た る 教 会 の 分 裂 を 克 服 す る 一 致 へ の 呼 び か け で あ り、 し か も そ の 一 致 は、 ﹁ 世 は、 あ な た が わ た し を お 遣 わしになったことを、信じるように﹂と、宣教の証しに焦点をすえたものと言える。ランバスに よれ ば 、﹁かかる一致こそ、 恵みの摂理にかかわる比類なき実であり、 無上の賜物である。教会は、 このような聖霊の力強い発露を絶えず祈り、 待ち望む。 そして神の摂理がここに凝縮される。 事実、 神の顕現と力にかかわる備えがこれほど整ったのは稀有なことであり、またみ霊による一致を求 める広範な祈りが今日のように高まり、 時機を得た例は曾てなかったように思われる ﹂ と語られ、 エディンバラ宣教会議以降の広範な一致を求める祈りが反映されている。あるいは、 別の表現で、

(25)

﹁ 今 わ れ わ れ に 課 せ ら れ て い る 宣 教 の 業 を、 も っ と も 有 効 に 推 し 進 め、 一 日 も 早 く 軌 道 に 乗 せ る ためには、むしろ教派間の調整と実現可能な相互協力のためにこれまで以上の努力を傾注すべき である。もしこの点で実りある進展がなけれ ば 、福音に与かるものに課せられた大いなる責任に たいしてわれわれは、不真実の誹りを免れ得ないであろう ﹂ と述べているのである。   このような宣教における一致と協力を強調する方向は、エディンバラ宣教会議の第八分科会の レ ポ ー ト﹁ 協 力 と 一 致 の 推 進 ﹂ か ら も 引 用 し て 力 説 さ れ て い る。 す な わ ち、 ﹁ 教 会 は い ま、 初 代 教会が福音の立場を力強く打ち出すことによって異教世界とたたかわなくてはならなかったよう に、 ふ た た び 対 決 の 時 代 に 際 会 し て い る。 一 方 で 教 会 行 政 の 分 離 体 制 に 起 因 す る 利 点 を 評 価 し、 他方で組織の改善や協力関係促進のための努力をしながら、しかもけっきょく現今のキリスト教 が、 適 切 な 統 合 へ の 見 通 し も 十 全 な 共 通 の 基 盤 も 確 認 し え な い ま ま 、 高 邁 遠 大 な 課 題 に 立 ち 向 か わ ね ば な ら な い と い う の が 実 状 で あ る ﹂ と 引 用 し、 宣 教 に お け る 一 致 と 協 力 の 重 要 性 に 言 及 している。   ラ ン バ ス に お け る 宣 教 思 想 と い う 点 で、 も う 一 つ 注 目 し て お き た い の は、 ﹁ 神 の 宣 教 ﹂︵ missio Dei ︶に言及している点であり、 例え ば 、﹁これらの事柄について、 われわれが真実にして確乎た る認識をもち、また教会が神自身に由来するミッションに正しく目覚めるなら、必ずやあの﹃み 国を来たらせ給え﹄というイエス・キリストの祈りを通してわれわれの前に掲げられた究極の目 標に向かって、 す ば らしい一歩が踏み出されるに相違ない﹂と語られている 。 あるいはまた、 ﹁教 会のかしらとしてのキリストの中に霊感と力の源泉をもとめないかぎり、宣教する教会は存在し 得ない。かりにその源泉を教会の政治や位階性、あるいは他のいかなる人間的権威や力に求めて

(26)

も、 教 会 は つ い に 滅 び る ほ か は な い。 教 会 が 神 に よ る、 神 ご 自 身 の 宣 教 を 生 き、 そ こ で 成 長 し、 そ の 実 現 を 喜 ぶ こ と が で き る た め に は 、 イ エ ス ・ キ リ ス ト が 至 高 の 位 置 を 占 め な く て は な ら な い ﹂ と述べている 。 ﹁ 神の宣教﹂ ︵ missio Dei ︶ の理念は、 現代のエキュメニカルな宣教思想に とっ て一つの重要なキー・ワードと言えるが、この用語が初めて提起されたのは一九五二年にドイツ の ヴ ィ リ ン ゲ ン で 開 催 さ れ た 世 界 宣 教 会 議 に お い て で あ っ た こ と を 思 え ば 、﹁ 神 の 宣 教 ﹂ の 理 念 に関するランバスの卓越した先駆的意義が見いだせるであろう。   宣教地の教会との関係   ラ ン バ ス に お け る 宣 教 思 想 に お い て、 も う 一 つ の 重 要 な 局 面 は 宣 教 地 の 教 会 と の 関 係 で あ る。 ランバスにとって、宣教地における教会の問題は、既に一九〇一年のニューオリンズ協議会での 原則において基本的な考え方が提示され、またエディンバラ宣教会議でも、分科会﹁宣教地にお ける教会﹂では副議長として論議を導き、リポートをまとめあげていることもあり、宣教思想に 関わる重要課題であったと言える。   まず宣教師及び宣教局と宣教地における教会との関係について、ランバスは、宣教師たちや本 国の宣教局が若い教会の自立的な考え方に当惑をおぼえ、現地教会の行政や形態が母教会のそれ と 異 な る 点 に 批 判 を 下 す 傾 向 に 対 し て、 次 の よ う に 反 論 し て い る。 即 ち、 ﹁ も と よ り キ リ ス ト 教 の本質にかかわる基本線は常に正しく伝えられね ば ならない。しかし、教会形成や教会員の育成 に関して、たとえ ば 西欧の型をそのまま東洋の教会に移すことは賢明であろうか、またそもそも われわれにそのような権利があるのだろうか。現地の教会が外国化するということは﹃本国の不

(27)

完全な教会の不完全な模倣﹄を生みだすことにならないか、西欧化を促すことは、若い教会の肩 に重いくびきを負わせ、 成長を止めるとは言えないまでも、 彼らの自発性を押さえる結果となる。 健全な現地人キリスト者が自分の信仰を証言し、自らの血をもってイエスの焼き印を押したので あ る。 そ し て 何 千 何 万 も の 人 々 が こ れ ら 先 達 た ち の 隊 列 に 加 わ ろ う と し て い る。 そ れ ゆ え、 キ リスト教の保持と伝達という課題は、神の霊の啓導のもと、現地のキリスト者たちに委ねるべき である ﹂ と、説得的な仕方で訴えているのである。このような宣教地に おける若い教会の在り方 に対して、西欧化を促す方向ではなく、現地のキリスト者の自発性を尊重し、委ねてゆくという ラ ン バ ス の 宣 教 思 想 は、 ﹁ そ の 国 の 特 質 に 最 も 適 合 し た 形 で の キ リ ス ト 教 を 発 展 さ せ る ﹂ と い う ニューオリンズ協議会においてランバス自身が提起した原則に即応した内容と言えるであろう。   さ ら に、 ﹁ 宣 教 地 に は 生 命 と 力 に 満 ち た 教 会 が 建 て ら れ て い る。 そ れ は 現 地 に 根 を 下 ろ し た、 いわ ば 土着の教会であり、 からし種のように、 小さな芽が成長し、 今では大きな枝をはっている。 古い宣教地の教会では次第に自覚が深まり、さまざまな自己表現を生み出している。信仰の種が まかれ、栽培され、すでに百年以上の時が経過した当然かつ理由のある結果と言えよう。力量の ある現地のリー ダ ーが育成され、キリスト教が次第に土着し、賛美歌や祈りも自国語で創作され ている。したがってこれらの宣教におけるキリスト教は豊かに結実し、たとえ宣教師団が撤退し てももはや根こそぎに されることはない ﹂ と語られる。そこに は、ニューオリンズ協議会の原則 からさらに展開して、宣教地の教会におけるキリスト教信仰の独自の自己表現として、例え ば 礼 拝における自国語による賛美歌や祈りなどが創作されてきている状況、いわゆる土着化の方向性 をランバスが積極的に評価していることは重要な点であろう。そこには、かつて提起した宣教の

(28)

原則が一層深められ、豊かに展開しているランバスの宣教思想の発展過程が明瞭に窺えるのであ る。   さらに付け加えれ ば 、西欧化の教会の在り方を宣教地の教会に適応しようとする考え方がまだ 多くを占めていた当時の状況の中で、このような宣教思想が展開された背景には、他者のニード に 深 く 共 感 し、 自 己 同 化 し よ う と す る ラ ン バ ス の 傑 出 し た 賜 物 が あ っ た と 指 摘 で き る で あ ろ う。 そ の 点 に 関 連 し て、 ﹁ 勇 気 あ る 愛 の 力 と そ の 働 き を 正 し く 測 り 得 る も の は、 人 間 と 神 の 愛 の 深 み を ほ か に し て な い。 ﹃ 彼 は、 ま た 群 衆 が 飼 い 主 の い な い 羊 の よ う に 弱 り 果 て、 打 ち ひ し が れ て い るのを見て、深く憐れまれた﹄ ︵マタイ九 ・ 三六以下参照︶それは自分を捨てた別の観点からもの ごとを見、感得する才能であり、まさしく自己をひとたび他者の位置に おいてみる力の賜物であ る。 そ れ だ け で な く、 こ れ は 他 者 の 実 態︵ ニ ー ズ ︶、 欲 求、 希 望、 怖 れ、 苦 悩 そ し て 他 者 の 生 そ のものとの自己同化︵ identification ︶を意味する ﹂ と述べられているのである。   他者と深く共感するランバスの賜物は、宣教師の息子として激動の中国に生まれ育ったという ことと無関係ではないと思われるが、その点は、例え ば 次のような宣教問題と関わる人権感覚と し て 表 現 さ れ て い る。 ﹁ と こ ろ で 今 日、 わ れ わ れ が 直 面 し て い る 人 種 問 題 は、 世 界 史 を 通 し て か つてない程尖鋭化している。すなわち、急激な人口の増加、商業、経済機構の拡大、民族主義の 台頭などが競合と紛争を惹起し、何らかの再調整を必要としている一方で、弱者の立場や彼らの 権利を知ることを妨げているという事情がある。それゆえわれわれは、今こそキリストの世界主 義の精神と理念を帯し、兄弟の愛と交わりを実践し、神の国が人種や民族の境界線をこえてすべ てのものに神の賜物を自由に分かち与える約束であることを人びとが正しく認識するに到るよう

(29)

助力し、促さなくてはならな い ﹂。   このような宣教地における状況に対する、シャープな人権感覚に根ざした認識は、当時の欧米 の宣教状況の中では際立っていたと言えるが、同時に時代的な限界も内包していたと言えるであ ろう。それは、草創期のエキュメニカル運動がもっていた問題点と限界でもあり、宣教師を派遣 す る 欧 米 の 古 い 教 会︵ Older Church ︶ と 宣 教 地 の 若 い 教 会︵ Younger Church ︶ と の 関 係 を め ぐ る問題に ほかならない。確かに、例え ば 日本メソ ヂ スト教会の成立に見られるように、宣教地の 教会において宣教師もその年会に所属し、そこで任命を受けるという点では、比較的対等な関係 が示されているであろう。しかしながら、より大きな枠組みである古い教会と若い教会との間に 対等な関係が築かれているかと言え ば 、そこには依然として宣教する側と宣教される側という関 係があり、ランバスの宣教活動と宣教思想もこの関係を前提としているのである。このような両 者の関係が対等なものになるまでには、エキュメニカルな宣教運動の軌跡の中では、エルサレム 宣教会議︵一九二八年︶やタンバラム宣教会議︵一九三八年︶を経て、さらに戦後の世界教会協 議会︵ W CC ︶の第三回ニューデリー総会︵一九六一年︶を俊たなけれ ば ならないのである。 結   び   以上、草創期のエキュメニカル運動における W ・ R ・ランバスの宣教活動とその宣教思想につ いて考察してきたが、これまでの考察を要約しておきたい。   ま ず︻ 1 ︼﹁ 草 創 期 の エ キ ュ メ ニ カ ル 運 動 ﹂ で は、 十 九 世 紀 後 半 か ら 一 九 二 〇 年 代 ま で の 期 間

(30)

における、 先駆的運動の諸潮流、 世界宣教会議、 ﹁生活と実践﹂世界会議、 ﹁信仰と職制世界会議﹂ の 概 要 に つ い て 叙 述 し た。 こ の 時 期 は、 ち ょ う ど ラ ン バ ス の 生 涯 全 体 と 重 な り 合 う 時 期 で あ る。 また、 ︻ 2 ︼﹁ W ・ R ・ランバスの医療宣教の働き﹂では、上海と蘇州における宣教の働き、北京 に お け る 宣 教 の 働 き、 著 書﹃ 医 療 宣 教 二 重 の 任 務 ﹄、 エ キ ュ メ ニ カ ル 運 動 に お け る 医 療 宣 教 に ついて考察した。わけても、 ﹃医療宣教﹄の意義をエキュメニカルの軌跡の中で検証した。   さらに、 ︻ 3 ︼﹁エキュメニカル運動への参与と貢献﹂では、北米海外宣教協議会への参与、海 外宣教のエキュメニカルな原則、 エディンバラ世界宣教会議での貢献をめぐって考察した。特に、 ニューオリンズ協議会においてランバスが提起した海外宣教の原則のエキュメニカルな画期的意 義について、 エディンバラ宣教会議における論議の中で位置づけて評価した。そして最後に、 ︻ 4 ︼ ﹁ ラ ン バ ス に お け る エ キ ュ メ ニ カ ル な 宣 教 思 想 ﹂ で は、 宣 教 地 に お け る 一 致 と 協 力、 宣 教 地 の 教 会 と の 関 係 を め ぐ っ て 考 察 し た。 中 で も、 神 の 宣 教︵ missio Dei ︶ の 理 念 や 宣 教 地 に お け る 信 仰 表現の土着化の推進など、その宣教思想の内実が草創期のエキュメニカル運動において卓越した ものであることを積極的に評価すると同時に、エキュメニカル運動の草創期という時代的な枠組 み故の、ランバスの宣教の実践と思想における限界性にも言及した。   今日、関西学院のグローバルな使命と課題について共に考えることが求められている中、草創 期のエキュメニカル運動における創立者ランバスの医療宣教の実践と宣教思想の意義について考 察した本稿が、そのささやかな一助となれ ば 幸いである。

(31)

︻注︼ ︵ 1 ︶ R .R ou se /S .C .N eil (e d.) , A H ist or y of th e E cu m en ica l M ov em en t 1 51 7-1 94 8, W C C -G en ev a 1 98 6 ︵ ve rs .2 ︶ を 参 照 。 ︵ 2 ︶

World Missionary Conference 1910, Edinburgh, 1910

を参照。

W.A.Visser

’t Hooft, Memoirs, WCC-Geneva 1983,p.25.

︵ 4 ︶拙稿﹁草創期の現代エキュメニカル運動﹂ ︵﹃神学研究﹄三十七号、一九九〇年、二二八頁︶ ︵ 5 ︶拙著﹃現代の聖餐論﹄ ︵日本キリスト教団出版局   一九九七年、四三頁︶ ︵ 6 ︶拙稿﹁ウォルター ・ R ・ ランバスの瀬戸内伝道圏構想﹂ ︵﹃関西学院史紀要﹄第一一号、二〇〇五 年三月︶を参照。 ︵ 7 ︶ 拙 稿﹁ 中 国 に お け る W ・ R ・ ラ ン バ ス 宣 教 師 の 足 跡 を 求 め て ﹂︵ ﹃ 関 西 学 院 史 紀 要 ﹄ 第 十 三 号  二〇〇七年三月︶を参照。 ︵ 8 ︶吉田寅﹃中国プロテスタント伝道史研究﹄汲古書院、一九九七年、二五七頁。 ︵ 9 ︶ 木下隆雄 ﹁親日と愛国 ― ﹃尹致昊日記﹄ 抄 ︵ 21︶﹂﹃現代コリア﹄ 第四六四号、 二〇〇六年九月号、 七〇頁。 ︵ 10︶ William.W.Pinson, Walter Russell Lambuth. Prophet and Pioneer , Nashville 1924 ︵ウィリアム・ W ・ ピンソン﹃ウォルター ・ ラッセル ・ ランバス﹄半田一吉訳、 関西学院大学出版会、 二〇〇四年、 六七頁︶ 。 ︵ 11︶同書   七八頁。 ︵ 12︶ W. R.Lambuth, Winning the World for Christ-A Study in Dynamics , Nashvill-New York 1915 ︵ ウ ォ ル タ ー・ R ・ ラ ン バ ス﹃ キ リ ス ト に 従 う 道 ― ミ ッ シ ョ ン の 動 態 ― ﹄ 山 内 一 郎 訳  関 西 学 院 二〇〇四年、三一頁︶ 。 ︵ 13︶ピンソン   前掲書   八四 ― 八五頁。

(32)

︵ 14︶ 一 八 八 五 年 度 の﹁ 北 京 メ ソ ヂ ス ト 医 院 ﹂ の リ ポ ー ト は、 W ・ R ・ ラ ン バ ス が 執 筆 し て い る ︵ Six ty -E ig ht h A nn ua l R ep or t o f M iss ion ar y So cie ty o f t he M eth od ist E pis co pa l C hu rc h, N ew York 1887, p.95 ︶。 ︵ 15︶ W.R.Lambuth,

Medical Missions : The twofold Task

, New York 1920. ︵ 16︶ Ibid ., p.53. ︵ 17︶ Ibid ., p.55. ︵ 18︶ピンソン、前掲書   七三頁。 ︵ 19︶

World Missionary Conference,

1910 The History and Records of the Conference,

p.113. ︵ 20︶ 世 界 教 会 協 議 会﹃ 和 解 と 癒 し ― 21世 紀 に お け る 世 界 の 伝 道・ 宣 教 論 ﹄ 神 田 監 修、 加 藤 誠 訳、 キ リスト新聞社   二〇一〇年を参照。 ︵ 21︶ピンソン、前掲書   一二二頁。 ︵ 22︶同 書  一二三頁。 ︵ 23︶ E cu m en ica l M iss ion ar y C on fe re nc e N ew York 100. Report of the Ecumenical Conference on

Foreign Missions Vol I, II, New York 1900.

︵ 24︶ピンソン、前掲書   一三四頁。 ︵ 25︶沢田泰紳﹃日本メソ ヂ スト教会史研究﹄日本キリスト教団出版局、二〇〇六年、六八頁。 ︵ 26︶﹃関西学院百年史   通史編 I ﹄関西学院、一九九七年、二三一 ― 二三二頁。 ︵ 27︶拙稿﹁草創期の現代エキュメニカル運動﹂二二八頁。 ︵ 28︶ピンソン、前掲書   一九三頁。 ︵ 29︶ World Missionary Conference 1910 Report of Commission II The Church in the Mission Field, Edinburgh 1910, p.267. ︵ 30︶ Ibid ., p. 267.

(33)

︵ 31︶ Ibid ., p.268. ︵ 32︶ Ibid ., p.359. ︵ 33︶ Ibid ., p.340. ︵ 34︶ W ・ R ・ランバス﹃キリストに従う道 ― ミッションの動態 ― ﹄八頁。 ︵ 35︶同 書  八一頁。 ︵ 36︶同 書  一七六頁。 ︵ 37︶同 書  一七六 ― 一七七頁。 ︵ 38︶同 書  八 ― 九頁。 ︵ 39︶同 書  一六四頁。 ︵ 40︶同 書  一七六頁。 ︵ 41︶同 書  一七五頁。 ︵ 42︶同 書  一一五頁。 ︵ 43︶同 書  三四頁。

参照

関連したドキュメント

[r]

[r]

ベニシジミ ショウリョウバッタ 詳細は 32~33 ページ

平成 30 年度介護報酬改定動向の把握と対応準備 運営管理と業務の標準化

[r]

[r]

記念して 12 月 5 日に「集まれ!NEW さぽらんて」を開催。オープ ニングでは、ドネーション(寄付)パーティーにエントリーした

岸・宮脇(1996)によると,敷地を 含む寺泊・西山丘陵の褶曲運動は約 150万年前以降停止しており,褶曲