﹁武庫川国文﹂第八十五号 抜刷 平成三十年十一月一日 発行
影
山
尚
之
﹁山之常陰﹂覚書き
﹁山之常陰﹂覚書き
影
山
尚
之
一 中世の和歌は歌語 ﹁やまのとかげ ︵山の常陰︶ ﹂を発掘した 。第 十八番目の勅撰和歌集・新千載集︵ 1356 ︶が秋歌下に源実朝作とし て次の一首を収載する。 秋の歌の中に 鎌倉右大臣 夕されば霧立ちくらし小倉山やまのとかげにしかぞ鳴くなる ︵新千載 四六六︶ 金槐和歌集︵ 1213 ︶では同歌を﹁鹿をよめる﹂の詞書の下に次のよ うに並べている。引用は藤原定家所伝本︵建暦三年本︶を底本に校 訂された新潮日本古典集成﹃金槐和歌集﹄に拠る。 鹿をよめる 妻恋ふる鹿ぞ鳴くなる小倉山山の夕霧立ちにけむかも ︵二三五︶ 夕されば霧立ちくらし小倉山やまの常陰に鹿ぞ鳴くなる ︵二三六︶ 雲のゐる梢はるかに霧こめて高師の山に鹿ぞ鳴くなる ︵二三七︶ 小夜ふくるままに外山の木の間よりさそふか月をひとり鳴く鹿 ︵二三八︶ 月をのみあはれと思ふを小夜ふけて深山がくれに鹿ぞ鳴くなる ︵二三九︶ ただし 、貞享本 ︵柳営亜槐本︶系の本文 ︵たとえば ﹃新編国歌大 観﹄は同系高松宮蔵本を底本とする︶では﹁鹿の歌に﹂の詞書下に 十首を配列するうちの第二首目にこの歌が位置している。かかる本 文の流動性を慮るなら配列に過度の意味を読み取るのは慎むべきか もしれないが、それでも右の五首は、鳴鹿の寂寞たるようすを夕刻 から夜更けに至る時の推移のなかで連続的に捉えているかのように 映る。はじめの二首は ﹁小暗し﹂ の意を重ねることの多い ﹁小倉山﹂ の夕霧の中に鹿を置き、三首目では同じく霧の立ちこめる高山に対 象を移動させ、うしろ二首は﹁外山﹂と﹁深山﹂を対比しつつ夜更 けの月光のもとに鳴く鹿を思うというふうに、配列の巧みを穿ちた い衝動に駆られるのである。定家所伝本は昭和四年にこれを発見し た佐佐木信綱によって実朝自撰と認定されており 1 、一方の柳営亜槐 本は奥書に﹁然最初雖部類在不審尚之間、重而改之畢﹂とあって改 編本であることが明白、定家所伝本の和歌配列に時間の推移を看取 できる箇所が存するについては今関敏子氏に指摘がある 2 。 二三六歌﹁山の常陰﹂は山中のつねに暗い地点を意味するのだろ う。 姿は現さず哀切な鳴き声だけを人の耳に届ける鹿を据えるのに、 そこはいかにも相応しい。古典集成頭注に次のような解説がある。 山の隈など、いつも日が射さず陰となっている所。木暗い印象 を持つ小倉山という歌枕を用いたため、この語が生きている。実朝がこの語を萬葉集歌に学んだことは疑えない。 萬葉集中に ﹁や まのとかげ﹂は二例を数えるが 、﹁鹿﹂を詠む点から見て右歌の典 拠は巻十・秋雑歌﹁詠鹿鳴﹂中の一首に特定できる。 足日木乃 山之跡陰尓 鳴鹿之 聲聞為八方 山田守酢兒 ︵ 10・二一五六︶ あしひきの山の常陰に鳴く鹿の声聞かすやも山田守らす児 ﹃時代別国語大辞典上代編﹄は﹁と[常] ﹂を立項して﹁永久不変の 状態の意の形状言か﹂と語義を説き 、 8 ・ 一四七〇歌 ﹁山之常影﹂ の表記を参照したうえで略訓仮名に﹁古い語根の形かと思われるも のが多﹂いことを踏まえながら﹁おそらくはトコという形が成立す る以前に、名詞もしくは接頭語として用いられたものだろう﹂と推 定している。 二 ところで右二一五六歌について萬葉集の古写本はおおむね、 あしひきのやまのとかけになくしかのこゑきかすやもやまたも るすこ の訓を付しており、第二句に対して元暦校本は訓の右に代赭﹁ヤマ ノフモトニ﹂ 、第四句に対して同じく元暦校本は ﹁聲きヽつやも﹂ 、 さらにその右に代赭 ﹁コヱキカムヤハ﹂とある 。藤原範兼 ︵ 1107 ︱ 1165 ︶﹃和歌童蒙抄﹄巻第三は、 あし引の山の麓になく鹿の聲聞んやは山田もるすこ を引いて ﹁萬葉十に有 。麓とは跡陰とかけり 。山田守るすことは 、 庵に獨をる人をいふ也﹂ とし、 顕昭 ﹃袖中抄﹄ ︵ 1186 頃 カ ︶ 巻二十は ﹁や まのとかげ﹂の項を設けて、 あしびきの山の跡隠になくしかの聲きゝつやも山田もるすこ と萬葉集後掲一四七〇歌とを引用 、夫木和歌抄 ︵ 14C 初 ︶巻第十二 ﹁秋部三﹂には﹁鹿﹂の題で、 あし引の山のとかげになく鹿の声ききつやも山田もるすこ ︵四五九五︶ を収載する。 古写本および歌書に一貫して採られる﹁すこ﹂は、早く松田好夫 氏が指摘したとおり 3 、萬葉集歌の誤読が成立させた歌語である。巻 一雄略巻頭歌﹁菜摘須児﹂に元暦校本以下が﹁ナツムスコ﹂の訓を 与え、名詞﹁すこ﹂が平安時代以降の歌学に浸透した。 ア山田守るすこが麻衣ひとへにて今朝たつ秋の風はいかにぞ ︵太皇太后宮小侍従集四七︶ イ山田守るすごがすまひのいかならむ稲葉の風の秋の夕暮れ ︵千五百番歌合 藤原兼宗 一三〇一︶ ウすごが守る山田の鳴子風ふけばおのが夢をやおどろかすらん ︵定家 拾遺愚草員外 七六五︶ エ山田守るすこが鳴子に風ふれてたゆむねぶりをおどろかすかな ︵夫木和歌抄 12・五〇五六 三百六十番歌合 秋田 藤原有家︶ オ山田守るすこがいほりのうたたねに稲妻わたる秋の夕暮れ ︵夫木和歌抄 12・五〇七七 寂蓮法師︶ 右はいずれも松田論に引かれている。巻頭歌﹁ナツムスコ﹂ではな く﹁山田守るすこ﹂の享受が目立つについては、同論に、 袖中抄 ・和歌童蒙抄等によつて巻十の歌が普及してゐたのと 、 ﹁菜摘むすこ﹂より ﹁山田守るすこ﹂の方が一層歌題として一
般的であるからだと思ふ。 というとおりであろう。文脈から帰納される﹁すこ﹂は、賤しい身 分であるとともにしばしば居眠りをする愚鈍な男子でもあり 、ア ・ イはかかる山家の侘しい住まいを思い、ウ・エは鳴子を、オは稲妻 をともに秋の山田に縁ある景として取り合わせながら﹁すこ﹂の徒 然をとらえて、いずれも暮れゆく山間の秋景の一齣とした。藤原仲 実︵ 1057 ︱ 1118 ︶﹃綺語抄﹄ 上は ﹁坤儀部 やまだもるすこ﹂ の項に、 あしびきの山のとかげになくしかのこゑきこゆやはやまだもる すこ を挙げている。 三 本居宣長﹃萬葉集玉の小琴﹄が雄略巻頭歌に﹁なつますこ﹂の訓 を与えてより﹁すこ﹂は顧みられることがなくなり、二一五六歌に あっても ﹃萬葉集略解﹄以降は訓についての異説を生じていない 。 もっとも、一首の意味するところは必ずしも明瞭ではない。たとえ ば和歌文学大系﹃萬葉集三﹄が施した現代語訳は、 あしひきの山の、いつも陰になって日の当たらない所で鳴く鹿 の声をお聞きになっていますか、山田の番をしていらっしゃる あなたは。 であり、その含意については、 一九四二と同様に、山田の管理に赴いている知人に送った歌か ︵全注 ・釈注︶ 。﹁求愛の心あるか﹂ ︵古典大系︶ ﹁鹿声に 、恋ひ 寄る男の声を寓した如くも見える﹂ ︵私注︶など寓意を認める 説もある。 と両極の見解を並記するのみ、最新の岩波文庫﹃万葉集三﹄はやや 踏み込んで ﹁﹁児﹂は男子であろう 。妻を呼ぶ鹿の声を聞いて 、恋 心を誘われて切ないだろうかと思いやる﹂とするけれども、小学館 新編全集 ﹃萬葉集 3 ﹄ には ﹁この ﹁児﹂ は若い娘をいうか﹂ とある。 性別の想定に理解を左右する面が小さくなさそうだが、いずれかを 決する手がかりは得られそうにない。 山の暗部で鳴く鹿を﹁山田守らす児﹂が聞いたかどうかに関心を 注ぐ主体の真意は容易に窺いがたい。加えてここに尊敬表現を繰り 返し用いる点が、詠作者と﹁山田守らす児﹂との間に広がる身分的 懸隔に照らしていかにも不審である。恋の寓意を探る向きがあるの はそのあたりに起因するらしく、和歌大系が参照する﹃萬葉集全注 巻第十﹄が、 類想歌︵一九四二︶の場合と同じように、山近くの田の管理に 赴いている知人に消息を問う心をこめて送った歌か。挨拶性の 濃いものであるが、鹿の声を聞くことを風流とする心で、羨望 の気持ちを託している。 として具体的な詠作状況と当事者間の関係性を推測するのも右の不 審に発してのことであろう 。元暦校本代赭訓をはじめ夫木抄 、﹃和 歌童蒙抄﹄ ﹃綺語抄﹄所引歌が揃って敬語を含まない歌形であった ことを思い起こしておきたい 4 。﹃全注巻第十﹄が ﹁類想歌﹂と認定 する、 ほととぎす鳴く声聞くや卯の花の咲き散る岡に葛引く娘子 ︵ 10・一九四二︶ を見れば、なるほど﹁葛引く娘子﹂と﹁山田守らす児﹂とが向かい
合う関係にあり、ほととぎすをいち早く聞く幸運に恵まれた、卯木 の生育する岡に働く﹁娘子﹂への羨望を託したものかと受け取れる が、右は敬語を含まないので、詠作者と﹁娘子﹂との関係性が気に なることはない。 鹿はもちろん山中もしくは山麓に鳴くものであり、鹿鳴を堪能し ようとすれば都市に住まうよりも山近くに居を得ることが有利だ 。 当該二一五六歌を収める﹁詠鹿鳴﹂歌群中には山の鹿鳴を詠んだ次 のような例が見えている︵ただし、第五例は都市民の心情を詠んだ もの︶ 。 山近く家や居るべきさ雄鹿の声を聞きつつ寝ねかてぬかも ︵ 10・二一四六︶ 山の辺にい行く猟雄は多かれど山にも野にもさ雄鹿鳴くも ︵ 10・二一四七︶ あしひきの山より来せばさ雄鹿のつま呼ぶ声を聞かましものを ︵ 10・二一四八︶ 山辺には猟雄のねらひ恐けど雄鹿鳴くなりつまが目を欲り ︵ 10・二一四九︶ 山遠き都にしあればさ雄鹿のつま呼ぶ声はともしくもあるか ︵ 10・二一五一︶ とりわけ二一五一歌は﹁羨望の気持ち﹂を当該歌に汲む際の好例と することができよう。 日常を都市に送る人をあえて ﹁葛引く娘子﹂や ﹁山田守らす児﹂ に見なす趣向自体はあってよい 。しかしながら 、﹁山田﹂での労働 に従事する存在を詠み込んだ、 あしひきの山田作る児秀でずとも縄だに延へよ守ると知るがね ︵ 10・二二一九 秋雑歌﹁詠水田﹂ ︶ あしひきの山田守る翁置く蚊火の下焦がれのみ我が恋ひ居らく ︵ 11・二六四九 寄物陳思︶ を見合わせるに、当然のことながら該当する文脈においては農村労 働に従事する下賤者としての処遇を貫いている。つまりそれこそが ﹁すこ︵素子︶ ﹂の担うべき領域であって、敬意を向かわせる対象で はもとよりない。前掲ア∼オにはいずれも悪意のない軽侮の念が看 取された。 非都市的労働に対して尊敬表現を伴わせる事例には、 我が背子は仮廬作らす草なくは小松が下の草を刈らさね ︵ 1 ・ 一一︶ 住吉 の 小 田 を 刈 ら す児奴 か も な き 奴 あ れ ど 妹 が み た め と 私 田 刈 る ︵ 7 ・ 一二七五︶ などが挙げられる 。斉明天皇紀伊国行幸関係歌である前者は 、﹁我 が背子﹂に中大兄を代入する説に従うとすると﹁軽侮﹂とは対極の 心情を汲み取らねばならなくなるが、かつて指摘したように﹁小松 が下の草﹂を刈れという命令がそもそも実現不可能な難題であっ て 5 、旅中の開放感に基づく諧謔を旨とした歌ととらえるのがよいだ ろう。後者は渡瀬昌忠氏﹃萬葉集全注巻第七﹄が﹁若い男に問いか けてからかう前半と、若者がそれに答えてはぐらかす後半とから成 る戯笑歌﹂とするとおりで 、前後句の敬語 ﹁刈らす﹂ ﹁みため﹂が それぞれ揶揄と自虐を請け負って巧みに対応している。ふつうは敬 意を沿えるはずのない行為にことさら敬語を伴わせたとき、それが 必ずしも素直な心情の吐露ではない場合のあることをわれわれはよ く承知している。
当 該 歌 に つ い て も 、 右 の よ う な 例 に 拠 り つ つ 、﹁ 山 田 守 ら す 児﹂に揶揄 ・からかいを向けていると把握する余地がある 。先掲 一九四二歌にしても、ほととぎすを聞くことのできる環境にある娘 子を羨やむと解せる一方で、ほととぎすへの関心などまるで持ち合 わせない田舎娘を揶揄した内容と受け止めたとしてもそれなりの納 得に達するのではないか。 四 以上の検討の範囲で当該歌の理解を探るとするなら、寓意の介在 についてはひとまず考慮の外に置くとして、次の三解あたりが候補 になりえよう。 ①山の常陰で鳴く鹿の声は、 平地に暮らす者には容易に聞くこと ができないが、 山田を見張っているあなたはそれを聞いて堪能し ているのだろうか、という羨望。 ②山の常陰に鳴く鹿の声を、 ほんとうはそれを追い払わないとい けない立場のあなたが、 つい聞き惚れてしまっているのではない か、という揶揄。 ③山の常陰に鹿が趣深く鳴いているのに、 風流を弁えないあなた は、まるで耳に入れようともしないのではないか、という嘲り。 ﹁山田守らす児﹂に与えられた役割は害獣を見張ること 、つまり 山田への鹿の進入を防ぐのが責務なので、彼が忠実な労働者であれ ば鹿鳴に風流を感じるゆとりなどなく、山の常陰に鹿の声が聞こえ たなら直ちに追い払うべきであった。②を採るときには、かかる使 命を帯びながら鹿鳴の情緒に浸る﹁児﹂の心の懈怠を嗤う趣旨、③ を用いれば、使命に忠実なあまり風流を弁えない﹁児﹂の愚鈍を嗤 うという内容になる 。いずれに拠るとしても 、﹁すこ﹂のうたたね を揶揄する前掲諸歌と通じ合う質があるのは興味深い。 ところで、 ﹃時代別国語大辞典上代編﹄は﹁山田﹂について、 上 代 に お い て は、 水 田 は、 低 湿 の 地 で は な く 、 む し ろ 比 較 的 高 所に作 ら れた 。 時 代 を 遡る にした が っ て 住 居 址が高 所に見 出さ れ る 事 情 と 軌 を 一 に す る 。 ⋮︵ 中 略 ︶⋮ 万 葉 な ど で 、 ヤマダ に 番 人を置 い て守 ら せ た り し て い る こ と が歌わ れ て い る の は 、 あ る い は 、 それ が 、 山間 の 清 ら か な沢や湧 水 を 利用し て 作ら れ る 田 で あるだけに、ヤマダという語に、ある特殊の用途の米を作る田 という意味あいがこめられていたのではないかとも思われる。 との推測を記す。萬葉集中に固有地名を除く﹁山田﹂の例は、前掲 二首のほかには、 君がため山田の沢にゑぐ摘むと雪消の水に裳の裾濡れぬ ︵ 10・一八三九︶ があり、古事記下巻允恭天皇条の歌に、 あしひきの 山田を作り 山高み 下樋を走せ 下訪ひに 我 が訪ふ妹を 下泣きに 我が泣く妻を 今夜こそは 安く肌触 れ ︵七八︶ が見える。これらを見渡して﹁特殊の用途の米を作る田﹂の特性を 明確に析出することはできないものの、 ﹁守る﹂ ﹁作る﹂を下接する ものが目立ち、その造営と維持に伴う困難の小さくないことがうか がえるとともに、その実体験がこれらの詠に反映されていることを 知る。記七八歌は秘匿すべき男女関係の成就の苦難と山田に下樋を 敷設する労苦とが譬喩的に結ばれている。出雲国風土記大原郡阿用
郷に載る一節は山田に付帯するある種の認識を語っているのかもし れない。 古老伝へて云ひしく、 昔、 或る人、 此処に山田を佃りて守りき。 その時、 目一つの鬼来て、 佃る人の男を食ふ。その時、 男の父母、 竹原の中に隠れて居りき 。時に 、竹の葉動けり 。その時 、食は るる男﹁動く動く﹂と云ひき。故れ、阿欲と云ふ。 人による浸食が徐々に進行しているとはいえ、本来は鳥獣や鬼神の 占有にかかる領域、当該歌で話題にされている﹁山の常陰﹂がそう した地勢にあるのだとすると、都市に暮らす者が立ち入ることはほ ぼ皆無とみなければならず、そこに響き渡る鹿鳴もまた格別のもの として聞かれたと予想するのがよいのだろう。山辺に鳴く鹿は誰で も鑑賞することができるが 、﹁山の常陰﹂の鹿鳴を聞く体験は山中 の労働に従事する民だけに与えられた特権であり、右に可能性とし て示した①羨望、②揶揄、あるいは③嘲りの感情は、専ら対象の特 殊性が表現主体に生起させたものと考えられる。 詠作者が痛感する、 自己と対象者との間の隔絶が敬語の使用を促したのだと解してもよ い。 なお、 元暦校本代赭や﹃和歌童蒙抄﹄に見える﹁やまのふもとに﹂ の歌形は、山麓に鹿鳴を聞くことが都市民にも珍しくないため、特 権性という点は減退する。後徳大寺左大臣藤原実定の林下集︵ 1179 頃 ︶所収の一首、 秋田もるかりいほ風ふきゆふさむみやまのとかげにをしかなく なり ︵林下 ﹁鹿﹂ 一〇四︶ もまた同じ萬葉集歌を典拠とするにちがいないが、 ﹁山田﹂ は ﹁秋田﹂ に改まり ﹁守らす児﹂ の姿が消えることで、 ﹁かりいほ﹂ と ﹁山の常陰﹂ との間に一定の距離が生じ、あたかも風が鹿鳴を里に運んでくるか のような趣きが得られる。冒頭に引用した実朝歌が右を意識に収め ていたかどうかは不明ながら、金槐集歌にあっても山から立ちこめ てくる霧の中に鹿鳴を閉じ込めて、里よりその声を聞くという趣向 である。常識的な帰結ではあるが、この寂寞をこそ中世の知は再評 価したのだった。 あきふかくなりゆくままにもみぢする山のとかげにてりまさり ける ︵林葉 秋歌 五五五︶ 右は俊恵の家集 ・林葉和歌集 ︵ 1178 ︶巻三 ﹁秋歌﹂に ﹁右大臣家 百首内紅葉五首﹂として収めるうちの一首。陽の当たらない﹁山の 常陰﹂は他所よりも気温が著しく低下するため葉の色づきがひとき わ濃くなる道理だが、ふだんは立ち入ることの稀な地点ゆえにその 美景に接する機会は頻繁にはないのだろう。たまたま遭遇しえた感 歎が一首に封じられることとなり、歌語は静寂かつ神秘的な情景の 描写に有効に機能している。 五 刀理宣令歌一首 物部乃 石瀬之社乃 霍公鳥 今毛鳴奴 山之常影尓 ︵ 8 ・ 一四七〇 夏雑歌︶ もののふの磐瀬の社のほととぎす今も鳴かぬか山の常陰に 萬葉集中いま一例の ﹁山の常陰﹂はほととぎすを詠むもの 。﹃袖 中抄﹄は前掲﹁山田もるすこ﹂歌に続けて、 ものゝふのいはせのもりのほとゝぎす今もなかぬか山の常影に
を引き 、﹁去ば鹿も郭公もとことはに鳴べき物にあらず 。只山のふ もとなど心得んことよろし。歌の心も二首ながら常になくべしと讀 るとはきこえぬにや﹂と記している。しかるべき時に臨んで鳴くほ ととぎすを賞美した詠と理解したのだろう。 右の萬葉集歌は本文および訓について論うべき異同を写本間に見 ない。ただし、 第四句はこのままでは訓めず、 ﹃萬葉代匠記﹄が﹁今 毛鳴奴ハ、奴ノ下ニ香ノ字ナトノ落タルヘシ。サテ此ハナケカシト 願フ意ナリ﹂とした解を現在多く踏襲している。木下正俊氏﹃萬葉 集全注巻第八﹄は 、もと ﹁奴可﹂とあったものが 、﹁奴々 ﹂と記さ れて﹁々﹂が脱落したという経緯を想定した。積極的に支持できる わけではないし 、﹃萬葉集全註釈﹄や岩波旧大系 ﹃萬葉集﹄が提案 するイマシモナキヌのほうが実は歌意を捉えやすい一面をもつもの の、 古今和歌六帖 ・ 夫木和歌抄いずれもイマモナカヌカの歌形を保っ ていることを顧みるなら、改訓を主張するのはためらわれる。 ﹁磐瀬の杜﹂の所在はわからない。だが、 神奈備の磐瀬の社の呼子鳥いたくな鳴きそ我が恋増さる ︵ 8 ・ 一四一九 鏡王女︶ 神奈備の磐瀬の社のほととぎす毛無の岡にいつか来鳴かむ ︵ 8 ・ 一四六六 志貴皇子︶ に見える杜と同所であることは疑いない。諸注多く大和川北岸に擬 するのに明確な根拠があるわけではないけれども、仮に斑鳩町稲葉 車瀬とすれば古代の龍田越道に沿い、八世紀には旅人の往来が頻繁 になるところだ。先ほどの、鹿鳴響く山間よりは人の訪れに寛容な 地勢が思われるものの、神を祀る杜の内に当該歌﹁山の常陰﹂を想 定してみるなら、原生林の面影を残した神域がそれに該当するので あろう。静寂と神秘は、したがってここでもその枢要な属性として 備わることになる。 現行の訓に拠るかぎり、詠作者はたまたま立ち寄ることのあった 磐瀬の杜の﹁山の常陰﹂にホトトギスの声を希求している。その希 求の契機は非日常的な地点に立ち至った感慨にあると受け止めるの がよかろう。人の手の加わらない鬱蒼たる森林のそこは、まさしく 鳥・獣の領域であり、他所では望むべくもない時期であっても、こ こばかりは時節を先取りして聞こえるのでないかとの期待を寄せた ものかもしれない。伊藤博氏﹃萬葉集釈注﹄が、 ことさら ﹁山の常蔭に﹂とことわったのは 、﹁山の常蔭﹂は鳥 の鳴きそうな場所であったかららしい。 と説くのは、外れてはいないとしてもやや物足りない。 さて、 ﹁石清水若宮歌合﹂ ︵正治二年︿ 1200 ﹀︶ ﹁郭公﹂の題下に、 卅三番 左勝 讃岐 しめのうちや玉しく庭の橘に声を手向くる郭公かな ︵一三一︶ 右 沙弥寂信 まつよりはゆきてをきかむ郭公山のとかげをいづるはつ声 ︵一三二︶ 右歌、山常影など万葉の古風なればことあたらしからねど も、左歌、しめのうち橘とおける、いかが負け侍らむ が見える。右歌は﹁山の常陰﹂を出て里に向かおうとするその初声 を、座して待つのでなく現地へ赴いてでも聞こうという執着を露わ にするが、判詞はその用語選択を﹁古風﹂と退け、左に勝を付けて いる。左歌﹁しめのうち﹂は宮中の意、宮の庭に植えられた橘にほ ととぎすが声を手向けるという着想はなるほど秀逸、古めかしい萬
葉語の及ぶところではなかったらしい。 もっとも、着想として﹁しめのうち﹂と﹁山のとかげ﹂とが向か い合っていることは明白であり、二首は人の踏み込みが戒められた 区域に鳴くほととぎすを焦点化する点に趣向を据えているから、寂 信歌と刀理宣令歌との距離はあながち遠くもない。萬葉の﹁山の常 陰﹂は寂信によって過不足なく受け止められていると言ってよい 。 里人や都人の立ち入らない空間へ踏み込もうとする振る舞いは、卑 俗に傾斜する危険性を一方に孕みつつも、やはりひとつの風流を志 向するものであるとして、この中世の歌びとは果敢に挑んだのでな かったろうか。 注 1 佐佐木信綱﹃藤原定家所傳本金槐和歌集﹄ ︵岩波書店、昭和 5 年︶ 2 今関敏子氏 ﹁定家所伝本と貞享本︱時空認識の相違︱ ﹂︵ ﹃﹃金槐和歌集﹄ の時空 定家所伝本の配列構成﹄和泉書院、平成 12年︶ 3 松田好夫氏 ﹁須児考︱萬葉集の誤読に關する考察︱ ﹂﹃国語国文﹄第一〇 巻第一二号、昭和 15年 12月︶ 4 写本においては、たとえば元暦校本・紀州本・西本願寺本にキキツヤモの 訓を付し︵西本願寺本は﹁聞為﹂の左に﹁キカスィ﹂ ︶、細井本・温故堂本 はキカスヤモと訓む ︵細井本は ﹁聞為﹂の左に ﹁キゝツ﹂ ︶などの対立が 見られる。 5 影山尚之 ﹁﹁斉明四年十月紀伊国行幸と和歌﹂ ︵﹃萬葉和歌の表現空間﹄塙 書房、平成 21年/初出は平成 19年︶ ︵かげやま・ひさゆき 本学教授︶