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[研究ノート] 江戸時代における『延喜式』研究の一様相 : 縫殿式十三雑染用度条をめぐって

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Academic year: 2021

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研究ノート

江戸時代における

『延喜式』

研究の一様相

Research on the Engishiki

During the Edo Period:

On Article 13 “Supplies for Dyeing” in the “Procedures for the Bureau of Sewing Management”

中村光一

NAKAMURA T erukazu はじめに 『 延 喜 式 』 が そ の 詳 細 な 記 述 内 容 に よ り、 今 日、 単 な る 古 代 に つ い て の法令史料としてだけではなく、成立時期である十世紀に至る我が国に 関する様々な状況を伝える百科全書的な役割を果たしていることはつと に知られている。 本 稿 で 取 り 上 げ る 巻 十 四 縫 殿 式 第 十 三 雑 染 用 度 条( 以 下、 「 雑 染 用 度 条 」 と 略 記 す る。 ) に も、 中 務 省 の 管 轄 下 で、 天 皇 を は じ め と す る 宮 中 用の衣服製造の監督と、後宮の女官の人事管理を主な職掌とする縫殿寮 で行われた、種々の染色に用いられる植物由来の染材、色の定着に必要 な木灰・藁灰・酢等の媒染剤、染めの時間を早めるために染液の温度を 上げる燃料となる薪等の数量が、布帛や糸といった染の対象ごとに挙げ られており、同寮から供給された繊維製品の色相の復元を考える際の重 要な史料となっている。 し か し、 本 条 は 本 来 縫 殿 寮 が 染 色 の 作 業 を 行 う た め に 必 要 な 物 品 を、 内蔵寮等の収納官司に請求するための根拠として作られた条文であるた め、その行程に関わる同寮の染手 (( ( たちが承知していれば事足りる、各染 色の完了に至るまでに必要な作業内容(布帛や糸を染液に通す回数や時 間、 染 液 の 温 度 等。 ) に つ い て は 全 く 記 さ れ て お ら ず (( ( 、 そ の た め こ れ ら の用度を元にして染め上がった布帛や糸がどのような色調のものであっ たのかは、有職家、染色家の間での重要な関心事となり、その技法の復 元についての検討が行われてきた。 これに関して、実際に大がかりな復元の試みを行わせた人物として知 ら れ て い る の が 江 戸 幕 府 八 代 将 軍 徳 川 吉 宗( 一 六 八 四 ― 一 七 五 一 ) で ある。 本稿では、吉宗の命による染色復元がいかなるものであったのか、 また、 その成果とされる『式内染鑑 (( ( 』がどのように流布していったのか、 その受容の様子に注目するとともに、これまでほとんど取り上げられて こなかった『染色法』という史料に拠りながら、吉宗による事業の再検 討を行いたいと思う。

縫殿式十三雑染用度条をめぐって

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徳川吉宗による染色復元の試みと『式内染鑑』の編纂 吉 宗 の 事 績 を 記 し た『 徳 川 実 紀 』 有 徳 院 殿 御 実 紀( 以 下、 「 御 実 紀 」 と 略 記 す る。 ) に は、 吉 宗 が 古 様 の 武 具 に 関 心 を 持 ち そ の 調 査 を 行 わ せ た こ と( 附 録 巻 十 二 ) や、 『 延 喜 式 』 を 手 ず か ら 写 す な ど 古 典 籍 に 強 い 関 心 を 抱 い て い た こ と( 附 録 巻 十 二 ) と 並 ん で、 「 古 製 の 染 色 は。 延 喜 式 縫 殿 の 部 に 其 法 少 し 見 ゆ る と い へ ど も 。 今 そ れ を も て わ き ま へ が た し 。 また往昔の布帛染草もてもののぐの飾に用ひしものまゝあれど。これも 年をへて色變りそこなわれて。其世のさまさだかに志りがたしとて。内 蔵式に載し染草の数量をたゞさせ給ひ。それにたがはず製し出すべしと 仰出され。小納戸浦上弥五左衛門直方奉り (( ( にて後藤縫殿助に命じ。享保 十四年より吹上の園中に染殿を開き。年々あまたそめ出しけるが。後に は み な 習 熟 し て。 黄 櫨 染 よ り は じ め。 紫。 紅。 二 藍。 葡 萄。 朽 葉。 山 藍。 縹。 緑 の 類 み な 古 色 に 少 し も た が ふ こ と な く 染 出 し け り。 ( 附 録 巻 十 七 )」 と、 享 保 十 四 年( 一 七 二 九 ) か ら 小 納 戸 の 浦 上 直 方( 一 六 九 八 ―一七五七)と呉服師の後藤縫殿助に命じて、雑染用度条に基づく染色 を、江戸城の吹上庭園内に設けられた染殿にて行わせたことが記されて いる。 浦上が務めていた小納戸は将軍に仕えて身の回りの用務に従事する役 職であり、旗本や譜代大名の子弟が充てられ、その性向や特技によって 担当が命ぜられた。中には学芸の分野に関わった者もいたようで、御実 紀 に も、 「 延 喜 式 を ば わ き て 好 ま せ 給 ひ。 御 抄 録 も あ ま た あ り。 其 中 の 古法によりて諸調度ども製せさせ給ひしもまた多かり。奥の書房にも群 臣編集の書をあつめて。御勘考の用にそなへたまふ。これは小姓。小納 戸。 ま た は 成 島 道 筑 信 遍( 同 朋 格 奥 詰 ) 等 つ か さ ど れ り。 」( 附 録 巻 十 ) との記載がみられる。浦上は紀伊徳川家時代から吉宗に仕え、その将軍 位 継 承 に 伴 っ て 江 戸 に 移 り 御 家 人 と な っ た (( ( が、 後 に『 類 聚 流 鏑 馬 次 第 』 を 編 ん で い る の で、 有 職 方 面 に 才 の あ っ た 人 物 の 可 能 性 も 考 え ら れ る。 ま た、 「 直 方 う ち 〳〵 の 仰 せ を 蒙 り 」( 附 録 巻 十 )、 「 直 方 を も て。 う ち 〳〵 に 門 主 に 仰 進 ら せ ら れ し は。 」( 附 録 巻 十 五 ) 等 の 記 載 が あ る こ と か らすると、吉宗の信任が厚かったことも推測できる。 一方、後藤縫殿助は代々その名を襲名する幕府御用達の呉服師で、そ の 関 係 も あ っ て こ の 事 業 に 関 わ っ た も の と 思 わ れ る。 御 実 紀 に は、 享 保十七年(一七三二)十二月二十三日に「呉服所後藤縫殿助に銀十枚を たまふ。これ此ほど染ものゝ古法を御勘考ありて。吹上の御園に。其わ ざ な す も の を め さ れ。 こ ゝ ろ み し め ら れ し 事 を 賞 せ ら る ゝ な り。 」( 巻 三 十 六 ) と、 ま た、 元 文 二 年( 一 七 三 七 ) 五 月 十 七 日 に、 「 呉 服 所 後 藤 縫殿助に銀を下さる。是は延喜式など御かんがへありて。いにしへの染 色のうつしを製せられしに。 その事心いれつかふまつりしをもてなり。 」 ( 巻 五 十 二 ) と の 記 載 が あ り、 染 殿 で の 染 色 が か な り ま と ま っ た 期 間 行 われたことを窺わせている。 なお、この事業に関して管見した最後の史料は『徳川実紀』惇信院殿 御 実 紀 宝 暦 十 年( 一 七 六 〇 ) 五 月 四 日 の も の で、 「 吹 上 御 庭 に て。 茜 草 をもて布帛あまた染させ給ふによて。その事つかふまつりし呉服匠後藤 縫 殿 助 に 銀 を 褒 賜 せ ら る。 」 と 記 さ れ て い る。 こ の 時 点 で 享 保 十 四 年 か らはすでに三十年が経過していたことになる (( ( 。 この浦上や後藤による雑染用度条の復元の成果については、前掲の文 章に続けて「縫殿式の染色半にすぎて染出しければ。この服色をあつめ 帖とせられ、式内染鑑となづけて。後の証とせられしが。今なを奥の御 文 庫 に あ り。 」( 御 実 紀 附 録 巻 十 七 ) と あ り、 『 式 内 染 鑑 』 と い う 著 作 と して結実したことが知られるが、現在紅葉山文庫を引き継いだ国立公文 書館内閣文庫に『式内染鑑』の原本は伝わっていない。 一 方、 御 実 紀 に は 寛 保 二 年( 一 七 四 二 ) 正 月 十 五 日 に、 「 右 衛 門 督 宗 武卿に式内染鑑をつかはさる。これは御みづから古法を考あはさせたま

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ひ て。 つ く ら し め ら れ し に。 卿 も ま た 尚 古 の こ ゝ ろ ざ し 深 き が ゆ へ を くられしとぞ。 (巻五十五) 」とあり、吉宗が次男の田安宗武(一七一六 ―七一)に『式内染鑑』を下賜したことが記されている。宗武について は有職故実に高い関心を持っていたことが知られているが、同書のその 後の行方については明らかではない (( ( 。 二『式内染鑑』の原本と先行研究 一方、 『国書総目録』には、 『式内染鑑』について 延喜式内染鑑 一冊   【別称】延喜染鑑・式内染鑑・吹上染試 【分類】有職故実 【著編者】松岡辰方 【 写 本 】 国 会・ 静 嘉・ 東 洋 〔 岩 崎 〕 ( 官 職 原 志 と 合 )・ 宮 書・ 東 博( 江 戸 末 期 写 )・ 京 大・ 教 大( 文 化 八 写 )・ 東 大 〔 史 料 〕 ・ 大 阪 府・ 岩 瀬・ 蓬左・神宮・無窮 〔神習〕 ・幸田成友 延喜式内染鑑 【写本】内閣・竜谷・凌霄 【活字】染料植物譜 〔後藤捷一・山川隆平、昭和一二〕 と記し (( ( 、『延喜染鑑』 『吹上染鑑』といった異名のものを含めて、写本が 複数の機関に所蔵されていることを伝えている。しかし、興味深いこと は そ の 著 編 者 と し て 松 岡 辰 方( 一 七 六 四 ― 一 八 四 〇 ) の 名 が 挙 げ ら れ ていることである。 松岡は、浪人の子ながら久留米藩主有馬頼徸に見いだされ、松岡家を 興 し て 士 分 に 加 え ら れ、 塙 保 己 一 門 下 と し て 和 学 講 談 所 で の 史 料 蒐 集・ 出 版 活 動 に 関 わ る 一 方、 有 職 家 と し て も 一 家 を な し た 人 物 で あ る。 『 国 書人名辞典』でも、松岡の項にその著述として『延喜式内染鑑』が挙げ られている (( ( 。しかし、享保年間から松岡が活躍した時期までは数十年ほ どの時間差があり、彼がその著編者に擬されているのは謎と言えよう。 『 式 内 染 鑑 』 に つ い て は、 染 織 史 ((1 ( ・ 徳 島 県 の 郷 土 史 に 業 績 を 残 し た 後 藤 捷 一( 一 八 九 二 ― 一 九 八 〇 ) の 先 駆 的 研 究 が あ り、 『 染 料 植 物 譜 ((( ( 』 で は、前半部分で染色に用いられる植物ごとにそれを染材とすることで得 られる色調の特色を挙げ、後半部分で染色について述べた先行文献を示 し、 その解題を述べ本文掲載を行っている。本稿との関連で言えば、 『延 喜式』の部分では縫殿式、内蔵式の該当条文が挙げられ、続いて『式内 染鑑』について記している。 後 藤 は『 式 内 染 鑑 』 に つ い て、 ま ず『 吹 上 染 紙 』 〔 江 馬 務 所 蔵 本 ((1 ( 〕 『 黄 櫨 染 考 』 〔 杉 浦 三 郎 兵 衛 所 蔵 本 〕 、( 『 延 喜 式 雑 染 』〔 後 藤 所 蔵 本 〕 の 三 点 の 写本を挙げ、同書には書名に異名のものがあるだけでなく、本来の体裁 に後世増補が行われた部分があることを述べている。 ここで『式内染鑑』の原本がいかなる形態であったのかをおさえてお きたいと思うが、それを示唆してくれるのが『東京市史稿』 (以下、 『市 史 稿 』 と 略 す。 ) 産 業 編 十 七 巻 ((1 ( 、 寛 延 三 年( 一 七 五 〇 ) 正 月 に 記 載 さ れ た「 後 藤 文 書 」 中 の「 式 内 染 鑑 日 」 と 題 す る 史 料 で あ る。 な お、 「 後 藤 文 書 」 は 続 け て「 茜 染 記 月 ((1 ( 」「 染 鑑 本 色 星 」 の 二 つ の 史 料 を 載 せ ており、これらは一連のつながりを持った内容となっている。 さ て、 「 式 内 染 鑑 日 」 で あ る が、 冒 頭 に 年 紀 を「 寛 延 二 年 己 巳 冬 日   東都醫呂實夫謹撰」とする序文 ((1 ( が、末尾には同じく「寛延歳次庚午春正 月吉旦 龍門浦上景久題」とする跋文が載せられ、 跋文の冒頭には、 「此 染 鑑 也 縫 殿 之 亟 後 藤 某、 享 保 中 奉 官 命 所 使 染 工 染 之 也。 」 と 記 さ れ て い る ((1 ( 。 『 市 史 稿 』 は、 掲 載 す る「 後 藤 文 書 」 に つ い て の 見 出 し の 文 を「 此 月

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将 軍 吉 宗 ノ 命 ニ ヨ ル 古 代 染 色 ノ 吹 上 苑 ニ 試 ミ シ モ ノ、 漸 ク 成 ル ニ 及 ビ、 式内染鑑ソノ他ノ著書トシテ、實用ニ供セラルヽコトトナル。 」と記し、 表題を「式内染鑑等完成」としている。しかし、序文に「起享保辛酉經 十 餘 年 始 成 焉 ((1 ( 。」 、 跋 文 に「 其 事 經 十 餘 年 染 色 初 成 焉。 」 と 記 さ れ て い る ことからすると、吉宗の命による染色復元の作業の開始からの期間が合 わず、前述のように寛保二年にすでに『式内染鑑』が田安宗武に下賜さ れ て い る こ と、 ま た、 「 染 鑑 本 色 星 」 が そ の 冒 頭 に「 式 内 染 鑑 に 糊 す る染色も年を經て色變し、其本色を失ふ。夫ゆえ當世人々見覺たる染色 に 當 て 凡 を 記 置 者 也。 」 と 記 し て い る こ と か ら す る と、 何 ら か の 理 由 に よってこの年に再度関係史料の取りまとめが行われ、それが後藤家に伝 わったものと言えよう。寛保二年が享保十四年から十三年目にあたるこ と か ら す る と、 『 式 内 染 鑑 』 は む し ろ 完 成 の 直 後 に 宗 武 に 下 賜 さ れ た と 考えられる。 さて、雑染用度条には全部で三十九の色名が挙げられ、それぞれに対 象となる布帛・糸等とその染色を行うのに必要な物品、数量が記されて い る が、 「 式 内 染 鑑 日 」 は 序 文 に 続 け て ま ず そ の う ち の 十 九 色 の 色 名 ごとに、染色に必要な物品と数量がほぼ雑染用度条の条文通りに掲載さ れている ((1 ( 。 な お、 雑 染 用 度 条 の 三 十 九 色 と、 「 式 内 染 鑑 日 」 掲 載 の 十 九 色 の 染 め の 対 象 の 繊 維 製 品 お よ び 掲 載 順 を 一 覧 表 に し た の が 1 あ る。 前 掲 した御実紀の「縫殿式の染色半にすぎて染出しければ」の部分が、十九 色に対応すると言えよう。ただし、 「黄櫨染よりはじめ。紫。紅。二藍。 葡萄。朽葉。山藍。縹。緑の類」を染めたとする記載とは、色名は完全 には一致していない。 そして、挙げられた色名のいくつかについては、雑染用度条の記載に さ ら に 文 章 に よ る 記 述 が 加 え ら れ て い る。 ま ず 一 つ は、 冒 頭 の「 黄 櫨 」 綾の部分で、 「灰三斛」の数量が過重であるとして、 「斛」を「 (斗) 」 字の誤りではないかと述べる。続けて「黄櫨染考」として、同色が『新 唐書』巻二四、車服志に見える赭黄に近い色調のものであることが記さ れ て い る 。 さ ら に 、「 黄 櫨 」 綾 に つ い て は 蘇 芳 を 染 液 に 加 え る こ と に よ り 、 本 来 あ る べ き 黄 味 が 失 わ れ る こ と か ら、 「 於 是 試 除 蘇 芳 而 染 者 如 斯 以 照 于前。 」と記している。この文だけでは分かりにくいが、 『式内染鑑』原 本 で は 後 述 す る 多 く の 写 本 で 行 わ れ て い る の と 同 様 に、 「 黄 櫨 」 綾 に つ いては雑染用度条の記載による染に基づく布片の他にもう一枚、蘇芳を 使わずに染めた布片が貼られていたと思われる ((1 ( 。 色名では十三番目の記載となる「橡」綾についても、本来の「橡」は 黒系統の色調であるが、式内の「橡」は実際には「黄橡」を指すとする 文章が僧尼令 (0条の義解注を引いて記されている。 そして、十九色の最後の「浅黄綾」の記載の後には、染色復元を行っ た布地について「右若干色者以式内所記之綾帛及染草分為/四十分以其 一分染試之且不 抅 入之数偏随染/汁之竭但深蘇芳浅藍色者全深帛一疋中 緑/者染試帛疋匹者」の文章が載せられている。 これは、綾については、それが高級織物であったためか、一疋の四十 分 の 一 を 使 っ て 試 し の 染 を 行 い、 「 深 蘇 芳 」「 浅 藍 色 」 に つ い て は 一 疋、 「 中 緑 」 に つ い て は 一 疋 の 半 分 の 帛 を 用 い た と す る も の で あ る。 な お、 十九色の中で三色だけに帛が用いられているのは、何らかの技術的な理 由があったものと思われる。 そして、これに続けて、前出した「深紫」綾を染めるための各用度の 四十分の一の分量を具体的に記すことから始めて、全色ではないものの 「黄丹」や「黄櫨」等の染色の作業を行う上での技術的な記述や、 「令式 度量辯」として各用度の今量の記載が跋文まで続くことになる。跋文の 文意から考えると、後藤文書の「式内染鑑   日」の文章から序文と跋文 を除いた部分が、本来の『式内染鑑』であったことが推測できる。 な お 、『 式 内 染 鑑 』 の 写 本 の 多 く は 、 十 九 色 の 用 度 を 本 紙 の 下 部 に 記 し 、

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ア イ 色  名 染  の  対  象  の  繊  維  製  品 ( ( 黄櫨 綾 帛 ( ( 黄丹 綾 帛 羅 糸 ( ( 深紫 綾 綿紬 糸紬 東絁 帛 羅 絞紗 糸 貲布 葛布 ( ( 浅紫 綾 綿紬 糸紬 東絁 帛 羅 絞紗 纈帛 糸 貲布 葛布 ( ( 深滅紫 綾 帛 糸 ( 中滅紫 綾 帛 糸 ( 浅滅紫 糸 ( ( 深緋 綾 綿紬 糸紬 東絁 帛 貲布 葛布 ( ( 浅緋 綾 綿紬 東絁 貲布 帛 葛布 (0 (( 深蘇芳 綾 帛 纈帛 糸 (( 中蘇芳 綾 帛 糸 (( 浅蘇芳 綾 帛 糸 (( ( 蒲萄 綾 帛 (( ( 韓紅花 綾 帛 羅 紗 糸 貲布 細布 調布 (( 中紅花 貲布 (( 退紅 帛 糸 細布 調布 (( (0 深支子 綾 帛 糸 (( 黄支子 綾 帛 糸 (( 浅支子 綾 帛 糸 (0 (( 橡 綾 東絁 帛 糸 (( (( 赤白橡 綾 綿紬 糸紬 東絁 帛 糸 貲布 (( (( 青白橡 綾 綿紬 糸紬 東絁 帛 糸 貲布 (( (( 深緑 綾 綿紬 糸紬 東絁 帛 貲布 糸 (( (( 中緑 綾 綿紬 糸紬 東絁 帛 糸   (( 浅緑 綾 帛 纈帛 糸 (( 青緑 帛 (( 青浅緑 糸 (( 黄浅緑 糸 (0 (( 深縹 綾 帛 糸 貲布 (( 中縹 綾 帛 糸 (( 次縹 帛 糸 (( 浅縹 綾 帛 糸 (( 深藍色 糸 (( 中藍色 糸 (( (( 浅藍色 綾 帛 纈帛 糸 (( 白藍色 糸 (( 深黄 綾 綿紬 糸紬 東絁 帛 糸 (( (( 浅黄 綾 綿紬 糸紬 東絁 帛 糸 A 萩(萩径青)   ()ア欄の数字は縫殿式 (( 条に記載された色名とその掲載順を示す。   イ欄に数字を入れ、色名および染の対象の繊維製品の欄の文字上に   網掛けしてある箇所は、「式内染鑑 日」での記載順、ならびに対象   の綾、帛の別を示す。 () A から G は、雑染用度条に記載がなく、一方、複数の写本に挙げら れた ( 色の織色を示す。  B 女郎花 C 薄色 D 薄青 E 蒲萄 F 赤色 G 香色 表1 延喜縫殿式13 雑染用度条および「式内染鑑 日」記載の色名と染の対象

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上 部 に 各 色 を 塗 っ た 別 紙( 以 下、 「 染 紙 」 と 称 す る ) を 貼 り こ ん だ り、 本 紙 に 直 接 色 を 塗 っ た り し た 一 種 の 色 見 本 帳 的 な 状 態 を 呈 し て い る (11 ( が、 「 深 紫 」 綾 の 技 法 の 記 述 部 分 以 降 は 色 名 が 重 出 と な る こ と や、 説 明 的 な 文章が長く続くこともあってか、そこから後の部分を載せた写本は今の ところ存在していない。 以上のような写本の状況、そして、まだ『市史稿』の当該巻が刊行さ れていなかったこともあって、後藤は「浅黄綾」の記載の後の綾四十分 の一の布地で復元を試みたとする文章までを本来の 『式内染鑑』 と考え、 氏所蔵の『延喜式雑染』が『式内染鑑』とは表題が一致していないこと に疑問を感じつつも、それを原形態と想定している。 さ ら に 後 藤 は、 大 阪 府 立 図 書 館 本『 式 内 染 鑑 』 〔 後 出 の 〕 で 十 九 色 の 記 載 部 分 の 後 に、 「 縫 殿 式 染 色 之 外 後 世 所 稱 名 目 不 少 今 據 / 桃 花 蘂 葉染/織之七品糊此其餘衣之表裏/或以重装為名者除也」と記し、織色 ( 先 染 め さ れ た 色 の 異 な る 緯 糸 と 経 糸 か ら 織 ら れ た 布 地 ) が 七 色 分、 や はり染紙を上部に貼り、本紙の下部に経糸、緯糸の色名が掲載されてい る 部 分 と、 さ ら に そ れ に 続 け て、 「 縫 殿 式 曰 新 嘗 祭 青 摺 衫 三 百 十 二 領 之 料山藍五十/四圍半也又飾抄等有藍摺製雖然不録山藍是/何者和名抄亦 無山藍形状不可知也」の文章を載せ、次に「藍摺」の文字とともに山藍 の形状を写したと思しき絵が貼りこまれている箇所を後世の増補として いる。なお、この部分を載せるすべての写本で、織色七色の最後の「香 色 」 に つ い て は、 経 と 緯 の 糸 の 色 を 入 れ 替 え て 織 っ た 布 地 の 色 と し て、 ここでも二種の色見本が付されている (1( ( 。 後藤は続けて、江馬務氏蔵本が織色七色に加えて「枇杷色」 「椋實色」 「 胡 桃 色 」 の 三 色 の 色 見 本 を 描 き、 各 色 の 色 味 を 推 測 し た「 實 ノ 色 ナ ル ヘシ」 「薄墨ニ青ミアル色」 「此色イマタ註釈ヲ見ス/蓋胡桃子色ナルヘ シ 」 の 短 文 と、 「 弾 正 臺 式   胡 桃 染 囚 獄 司 物 部 用 之 衫 ニ 同 シ カ ル / ヘ シ /縫殿寮式胡桃/胡桃行幸供奉鷹飼用之/胡桃色(面香裏青)源氏物語 枕草子等所見 (11 ( 」の文を記し、最後に「此一冊は享保の比、将軍家吹上の 庭前にて染めこゝろみさせたまひ、其色を住吉何がしに命じ模させ玉ひ しよし、彼家にふかく秘せしをうつしぬ。枇杷色已下の三しなは、予こ のころ住吉廣行をかたらひて、補ひ侍るといふ。/享和二年四月   松岡 辰方」と、松岡の跋文が載せられていることを紹介している (11 ( 。 後藤は、晩年に至って計六七一点にのぼる室町から明治中期までの染 織関係の文献を整理し解説を施した大著 (11 ( をまとめているが、同書刊行の 段 階 で は 『 縫 殿 式 雑 染 』( 七 丁 )、『 黄 櫨 染 考 』( 十 六 丁 )、『 式 内 染 鑑 』( 十 一 丁)の表題を持つ写本を三点所蔵していた。 お そ ら く、 前 著『 染 料 植 物 譜 』 刊 行 の 後、 『 黄 櫨 染 考 』 〔 杉 浦 三 郎 兵 衛 所 蔵 本 (11 ( 〕 を 入 手 し、 さ ら に も う 一 点 の 写 本『 式 内 染 鑑 』 も 蔵 書 に 加 え た と 思 わ れ る。 こ ち ら は「 徳 大 寺 家 蔵 」「 藤 原 實 堅 」 の 印 記 か ら、 堂 上 公 家( 清 華 家 ) 徳 大 寺 家 の 徳 大 寺 實 堅( 一 七 九 〇 ― 一 八 五 八 ) の 旧 蔵 本 で あ る こ と が 判 る と し て い る。 な お、 同 書 に は、 山 藍 の 絵 の 後 に、 「 文 化 八 年( 一 八 一 一 ) 十 月 に 松 岡 辰 方 が 住 吉 氏 に 請 て 模 写 し た 旨 の 奥 書 」 が 載せられており、 後藤は、 松岡という同一人物によりながら、 『吹上染紙』 (享和二年)と『式内染鑑』 (文化八年)という記載内容の異なる跋文を 持つ写本が存在することについて、 「諸本照合の必要を痛感する。 」と述 べている (11 ( 。 註( (() (()両 書 に よ る『 式 内 染 鑑 』 に つ い て の 後 藤 の 研 究 は、 今 日でも評価に耐えうるものと言えよう。しかし、数点の写本に拠って述 べられた見解であること、さらに「坊間傳ふるものは染布なきため絵具 を以て色目を表し、なかには如何はしきもの少なからず (11 ( 」と、染織研究 者の立場からの写本に対する厳しい評価が述べられているが、諸写本の 所蔵状況、あるいは記載内容の比較によって『式内染鑑』の流布につい て、さらなる考察を加えることが可能なのではなかろうか。

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三『式内染鑑』の諸写本(一)   本稿の執筆に際して、すべてではないものの『国書総目録』に記され た諸写本を直に閲覧する機会を得、また、インターネットによる探索機 能が向上したことによって新たな写本の存在も明らかとなった。 そこで、 まずは各写本について、その記載内容を見ていきたいと思う。   ところで、現時点で最も来歴のはっきりした写本と考えられるのが国 立国会図書館蔵の『延喜染鑑 (11 ( 』である。そこで、まず同書の特徴につい て述べ、それと比べる形で諸写本に触れることとしたい。なお、その際 に 比 較 の 観 点 と し て、 下 記 の ① か ら ⑤ の 五 項 目 を 設 定 す る こ と と す る (11 ( 。 ま た、 ア … …雑 染 用 度 条 の う ち の 共 通 す る 十 九 色 の 綾 十 六 色、 帛 三 色 を 挙 げ て 用 度 を 記 し て い る こ と、 イ … …「黄 櫨 」 綾 の「 灰 三 斛 」 の 数 量 に 疑 義 を 呈 し て い る こ と、 ウ … …「黄 櫨 染 考 」 の 文 章 が 載 せ ら れ て い る こ と、 エ … …「橡 綾 」 に つ い て そ の 色 調 の 説 明 が 行 わ れ て い る こ と、 オ … …綾を使用した染めについては一疋の四十分の一の料物を充てるこ とを記していることの五点は管見したすべての写本に共通して見られる ため、各写本の説明の中では特に触れないこととする。 〔『 延 喜 染 鑑 』 国 立 国 会 図 書 館 蔵、 所 蔵 番 号 八 三 〇 ― 二 三 〕 縦 二十七センチ、横十九センチ。十八丁 (11 ( 『 延 喜 染 鑑 』 の 内 題 を 持 つ。 染 紙 は、 大 き さ お よ そ 縦 六・ 五 セ ン チ、 横 四・ 三 セ ン チ の も の が 本 紙 の 上 部 に 貼 り 込 ま れ て い る( 写 真 1)。 な お、各色の掲載については、写本によって一丁の片面に染色一色分を充 てたものと二色分を充てたものとがあるが、本写本は前者である。   本 写 本 で は ま ず 染 め の 対 象 の 布 帛 の 数 量 が す べ て「 一 疋 」 で は な く 「 一 匹 」 と 記 さ れ て い る( ① ) が、 写 本 に よ っ て は『 延 喜 式 』 の 記 載 通 りの「疋」字を使っているものもある。 また、本写本では十九色の中の「赤白橡」と「青白橡」が「式内染鑑   写真 1 『延喜染鑑』一丁表 国立国会図書館蔵

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日 」 と 同 じ く「 赤 白 橡 」「 青 白 橡 」 の 順 に 記 さ れ て い る( ② ) が、 写 本 によってこの二つの色名の記載順が入れ替わっているものが存在してい る。ただし項目ごとそっくり替わっているため、染紙や用度との齟齬は 生じていない。 な お、 復 元 十 七 色 に 続 く 七 つ の 織 色 の 記 載( ③ ) に つ い て は、 冒 頭 の色名は本写本では「萩」と記されているが、この部分を「萩経青」あ るいは「萩之経青」と記す写本も見られる。これらについてその区別を 記 し た 故 実 書 を 見 る と、 『 胡 曹 抄 』 で は「 萩( 表 蘇 芳、 裏 青、 秋 ) 萩 経 青( 経 青、 緯 蘇 芳、 裏 青、 自 六 月 至 秋 (1( ( )」 、『 女 官 飾 抄 』 で は「 ハ キ ノ タ テアヲノヒトヘカサ子(ヌキスハウタテアヲ/ウラアヲシ) 」「ハキノヒ ト ヘ カ サ 子( オ モ テ ス ハ ウ / ウ ラ ア ヲ シ (11 ( )」 と 記 し、 い ず れ も 経 緯 の 色 を 変 え た 織 色 を「 萩 経 青 」 と し て い る。 な お、 「 萩 之 経 青 」 の 記 述 は 見 られない。 一 方 、『 日 本 国 語 大 辞 典 (11 ( 』 の 「 萩 」 項 で は 、「 ② 襲 ( か さ ね ) の 色 目 の 名 。 ( 中 略 ) 織 色 で は 経 青、 緯 蘇 芳 の 表 で、 裏 は 青 と す る。 ( 以 下 略 )」 と 記 されている。長崎盛輝 (11 ( は 「当時 (平安時代) 服飾に用いられた色彩には、 裂を直に染め上げた「染色」と、 先染の経糸と緯糸で織りあげた「織色」 と、 も う 一 つ は、 衣 の 表・ 裏 の 裂 を 重 ね て あ ら わ す「 重 色( 重 色 目 )」 の三通りの色があり、それらにつけられた色彩名称は染・織・重の三つ とも同じものや、いずれか二つが同じもの、一つだけのものがあって色 名 だ け で は そ の ど れ を 指 す の か 分 か ら な い。 」 と 判 別 が 難 し い 場 合 が あ るとしている。判断に苦しむところであるが、両故実書による限り、こ 写真 2 『延喜染鑑』「藍摺」(山藍) 国立国会図書館蔵

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の箇所は「萩経青」の記述の方が正しいように思われる。 さ ら に、 織 色 七 色 の 色 名 の 掲 載 の 後 に は、 「 藍 摺 」 の 文 字 と と も に 山 藍の形状を写したと思しき絵が貼りこまれている( ④ ) (写真 2) 続 い て、 「 右 式 内 染 鑑 者 / 享 保 大 君 於 吹 上 御 庭 親 監 臨 令 染 試 給 命 / 住 吉某摸其色以令成一冊給辰方請需住吉/氏而摸寫之/文化八年十月   松 岡清助辰方 (花押) 」( 写真 3) との跋文が記されている ( ⑤ ) がこれは 後藤旧蔵の『式内染鑑』と同じである (11 ( 。『国書総目録』に限らず、 『式内 染鑑』の著編者を松岡辰方と記す所蔵先が少なくないのは、複数の写本 にこの記述があることによると言えよう。 な お、 本 写 本 を 善 本 と す る の は、 「 黄 櫨 」 綾 と「 深 緋 綾 」 の 染 紙 の 左 脇 に そ れ ぞ れ「 原 本 赤 色 ヲ 帯 」、 「 香 色 」 の 染 紙 の 一 つ の 左 脇 に「 原 本 色 濃 」、「 橡 綾 」 の 染 紙 の 左 脇 に「 原 本 青 色 ヲ 帯 」、 「 橡 綾 一 匹 」 の 記 載 の 下 に「 四 位 以 上 凶 服 色 彙 」 と、 小 字 で 筆 写 元 と の 色 の 比 較 を 挙 げ て い る の が 他 の 写 本 に は 見 ら れ な い こ と。 さ ら に 松 岡 の 跋 文 の 次 の 丁 に、 「 弘 賢 自 筆 に て も の し つ る 本 に よ り な ほ 辰 方 か 写 さ し め た る 本 を 参 照 し て み つ か ら う つ し お く 杉 園 す き む ら 」 と の 国 文・ 国 史 学 者 小 杉 榲 邨 ( 一 八 三 四 ― 一 九 〇 二 ) に よ る 識 語 が あ り、 写 本 の 来 歴 が 明 確 に な っ て いるためである。 「 弘 賢 自 筆 」 の 記 述 に つ い て は、 織 色 七 色 の 最 後 の「 香 色 」 の 記 載 に 続 い て「 寛 政 十 年 四 月 三 日 終 寫 功 / 屋 代 弘 賢 」 と の 記 載 が あ り、 こ れ も 他 の 写 本 に は 見 ら れ な い 特 徴 と な っ て い る。 屋 代 弘 賢( 一 七 五 八 ― 一 八 四 一 ) は 幕 臣 で、 塙 保 己 一 門 下 の 国 学 者、 有 職 家 と し て、 ま た 五 万 点にも及ぶ蔵書不忍文庫を有したことでも知られている。   本 写 本 に は「 杉 園 蔵 」 の 印 記 (11 ( も あ り、 大 正 二 年( 一 九 一 三 ) に 帝 室 図 書館が購入し、現在は小杉文庫の中の一点となっている (11 ( 。 写真 3 『延喜染鑑』跋文 国立国会図書館蔵

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  以下、 『国書総目録』掲載の写本を挙げると、 〔『 延 喜 式 内 染 鑑 』 国 立 国 会 図 書 館 蔵、 所 蔵 番 号 二 一 〇 ・ 〇 九 八 ― E七四〕 縦十八センチ、横十三センチ。十六丁 一丁の片面にそれぞれ一色分を掲載している。染紙は縦横ともおよそ 三センチの大きさである。④ ⑤については記載がない。 本 写 本 に は 「 徳 大 寺 蔵 」 「 滕 公 迪 印 」 「 浜 雄 蔵 書 」 の 印 記 が あ り、 国 会 図 書 館 の 書 誌 情 報 に は「 弥 富 破 摩 雄 旧 蔵 」 と 記 さ れ て い る。 弥 富 ( 一 八 七 八 ― 一 九 四 八 ) は 国 文 学 者 で 蔵 書 家 と し て も 知 ら れ て お り、 「 浜 雄蔵書 」 はその蔵書印 (11 ( である。弥富の旧蔵書は、死後国立国会図書館に まとめて購入されている。弥富の蔵書には入手の経緯や読後の感想、批 評が丹念に書き込まれていることが多い (11 ( とのことであるが、本写本には 該当する記述は見えない。 ま た、 「 公 迪 」 が 徳 大 寺 公 迪( 一 七 七 一 ― 一 八 一 一 ) を 指 す と す る と、 本写本は堂上公家(清華家)徳大寺家の旧蔵書ということになるが、公 迪は註( (()書に挙げられた徳大寺實堅の養父にあたる人物である。 〔『 式 内 染 鑑 』 国 立 国 会 図 書 館 蔵、 所 蔵 番 号 一 三 七 ― 八 二 〕 縦 二十四センチ、横十七センチ。十六丁 一丁の片面にそれぞれ一色分を記載している。染紙の大きさは縦横と もおよそ三センチの大きさである。④ ⑤については記載がない。 本 写 本 に 印 記 は な い が、 「 東 京 図 書 館 」 の ラ ベ ル が 添 付 さ れ て い る こ と から、同館から引き継がれて国立国会図書館の蔵書となったと考えられ る (11 ( 。 〔『 式 内 染 鑑 』 静 嘉 堂 文 庫 蔵、 所 蔵 番 号 五 三 八 ―一七 ― 二 五 一 二 四 〕 縦二十三センチ、横十七センチ。十二丁 一丁の片面にそれぞれ二色分を記載している。現状では染紙は全く貼 られていないが、本紙の各丁に撚れや皺がないことからすると、あるい は 当 初 か ら 染 紙 の 貼 付 が な か っ た 可 能 性 も 考 え ら れ る。 ③ に つ い て は、 の「 萩 」 の 部 分 が 経 緯 の 糸 の 色 の み 挙 げ ら れ、 「 萩 」「 萩 之 経 青 」 とも色名の記載がない。④については、 「藍摺」の文字の記載はあるが、 山藍の絵は描かれていない。⑤については、文字の記載はあるが花押は 書かれていない。   本 写 本 に は「 伊 藤 文 庫 」「 松 井 蔵 書 」 の 印 記 が あ る。 前 者 の 蔵 書 印 主 は不明であるが、後者は国語学者松井簡治(一八六三―一九四五)の蔵 書印 (1( ( である。 〔『 式 内 染 鑑 坿 官 職 原 志 』 東 洋 文 庫 蔵、 所 蔵 番 号 XⅡ ― 三 ― D― C ― 一 四 〕 縦二十四センチ、横十七センチ。 『式内染鑑』部分は十丁 一丁の片面に色名二色分を記載している。染紙はおよそ縦横三センチ の大きさであるがやや不揃いである。④については山藍の絵があり、そ れ に 関 わ る 藍 摺 の 文 は と 同 様 で あ る が、 そ れ に 続 け て ⑤ に 代 わ っ て「文化十五年仲春写畢」と記されている。次の丁の表に二つ、裏に一 つ染紙が貼られているが色名は記されていない。色調は、十九色の部分 に 貼 ら れ て い る も の と は 異 な り、 後 出 す る 掲 載 の 三 色 と も 一 致 し ないようである。 本 写 本 は 岩 崎 久 弥( 一 八 六 五 ― 一 九 五 五 ) が 収 集 し た 岩 崎 文 庫 の 中 の 一 点 で あ り、 「 伴 氏 家 印 」「 木 村 正 辞 図 書 」 の 印 記 を 有 す る。 前 者 は 幕 臣 で 国 学 者 の 伴 直 方( 一 七 九 〇 ― 一 八 四 二 )、 後 者 は 国 文 学 者 木 村 正 辞 ( 一 八 二 七 ― 一 九 一 三 )の蔵書印 (11 ( である。 〔『 式 内 染 鑑 』 宮 内 庁 書 陵 部 蔵、 所 蔵 番 号 二 〇 九 ― 三 六 〕 縦 二 十 七 センチ、横二十センチ。十一丁

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一丁の片面に二色分を記載している。染紙の大きさはおよそ縦三セン チ横三・五センチである。④については山藍の絵があり、それに関わる 藍 摺 の 文 は と 同 様 で あ る。 ⑤ に つ い て は 文 字 部 分 の 記 載 は あ る が 花押は書かれていない。 本 写 本 は、 明 治 二 十 二 年( 一 八 八 九 ) に 松 岡 辰 方 の 孫 で、 や は り 有 職 家 と し て 知 ら れ た 明 義( 一 八 二 六 ― 一 八 九 〇 ) に よ っ て 松 岡 家 か ら 献 納 さ れ た「 松 岡 本 」 の 中 の 一 点 で あ る が、 「 松 岡 文 庫 」 等 の 蔵 書 印 は 捺 さ れていない。 〔 『 式 内 染 鑑 』 東 京 国 立 博 物 館 蔵、 所 蔵 番 号 〇 三 四 ―と 五 三 〇 四 〕 縦二十七センチ、横一九・二センチ。十一丁 一 丁 の 片 面 に 二 色 分 を 記 載 し て い る 。 本 写 本 は 染 紙 を 貼 る こ と を せ ず 、 本紙に枠線をひきその中を塗りつぶす体裁をとっている。④については 山 藍 の 絵 が あ り、 そ れ に 関 わ る 藍 摺 の 文 は と 同 様 で あ る。 ⑤ の 記 載はなく、十一丁の裏には筆写した人物によるものか、染色復元が必ず しも十全なものでないことを所感として述べた文章が朱字草書体で書か れている。 本 写 本 に は「 徳 川 宗 敬 寄 贈 図 書 」 の 印 が 捺 さ れ て い る。 徳 川 宗 敬 ( 一 八 九 七 ― 一 九 八 九 ) は水戸徳川家の出身で、 一橋徳川家を嗣いでいる。 昭 和 十 八 年( 一 九 四 三 ) に 東 京 国 立 博 物 館 に 一 橋 家 の 蔵 書 の う ち の 五 万 冊の写本・版本を寄贈しており、本書はその中の一点である。 〔『 画 彩 啓 蒙 』( 扉 裏 に『 式 内 染 鑑 』) 京 都 大 学 文 学 研 究 科 図 書 館 蔵、 所蔵番号 Wh―二〕 縦二十五センチ、横十七センチ。十八丁 本写本は書き題箋及び版心題に 『画彩啓蒙』 とあるが、 一丁の裏に 「式 内染鑑」と記されており、記載内容は他の写本と同一である。 一丁の片面に一色分を記載している。染紙の大きさはおよそ縦五セン チ 横 四 ・ 五 セ ン チ で あ る。 ④ ⑤ に つ い て は 記 載 が な く、 最 後 の 丁 に「 為 泉原孝齋先生 宮本君山政瓊染」とあり、それもあって所蔵館の書誌情 報 は 宮 本 君 山 編 と し て い る。 宮 本(? ― 一 八 二 七 ) は 大 坂 で 活 躍 し た 絵 師 (11 ( で、 『漢画独稽古』 (文化四年)の著書を残している (11 ( 。一方、泉原孝齋 の伝記は現時点では不明である。 〔『 式 内 染 鑑 』 筑 波 大 学 図 書 館 蔵、 所 蔵 番 号 ム 二 一 五 ― 三 七 六 〕 縦 二十四・二センチ、横十六・四センチ。十一丁 一丁の片面に二色分を記載している。染紙の大きさはおよそ縦二セン チ横一・八センチである。④については山藍の絵があり、それに関わる 藍 摺 の 文 は と 同 様 で あ る。 ⑤ に つ い て は 文 字 の ほ か 花 押 も 書 か れ ているが、筆勢が弱く筆写元を見てなぞったという印象を受ける。印記 等は見えない。 〔『 式 内 染 鑑 』 東 京 大 学 史 料 編 纂 所 蔵、 所 蔵 番 号 近 藤 重 蔵 関 係 資 料 ―四―八二〕 縦十八・五センチ、横十四・七センチ。十二丁 一丁の片面に二色分を記載している (11 ( 。色見本部分については染紙では な く 本 紙 に 直 に 着 色 し て い る が、 枠 線 を 引 い て か ら 中 を 塗 る 行 程 を と っ て い な い た め 仕 上 が り は 必 ず し も 良 好 で は な い。 そ の 大 き さ は お よ そ 縦 二・ 三 セ ン チ 横 三・ 二 セ ン チ で あ る。 ④ に つ い て は 山 藍 の 絵 が あ り、 そ れ に 関 わ る 藍 摺 の 文 は と 同 様 で あ る。 ⑤ に つ い て は 記 載 が ないが、 註 ( (()書掲載の江馬本と同じように「枇杷色」 「椋實色」 「胡 桃色」三色の色見本を描き、同文の説明を述べている。ただし享和二年 ( 一 八 〇 一 )の年紀などは跋文に記されていない。 本 写 本 は、 江 戸 後 期 の 幕 臣 近 藤 重 蔵( 守 重 )( 一 七 七 一 ― 一 八 二 九 ) の 著述稿本などからなる近藤重蔵関係文書(重要文化財)の中の一点であ り、共紙表紙をこよりで綴じた簡単な装丁となっている。

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臣で、蔵書家として知られる一方蔵書を公開し毎月二回の集会を催した が、その会には松岡辰方も加わっていた (11 ( 。 [『 延 喜 式 内 染 鑑 』 岩 瀬 文 庫 蔵、 所 蔵 番 号 一 四 八 ― 六 四 ] 縦 二十二 ・ 八センチ、横十五・九センチ。九丁 『延喜縫殿寮式』の内題を持つ。一丁の片面に二色分を記載している。 染 紙 の 大 き さ は お よ そ 縦 横 三 セ ン チ で あ る。 ④ ⑤ に つ い て は 記 載 が な い。 な お、 本 写 本 に は 四 周 に 墨 刷 の 枠 を ま わ し た 用 箋 が 使 用 さ れ て い る。一丁の表には「習忘斉家蔵印」の印記があるが、習忘斉は森川竹窓 ( 一 七 六 三 ― 一 八 三 〇 ) の 号 で あ る (11 ( 。 森 川 は 書 家 ・ 篆 刻 家 で 、 松 平 定 信 の 『集古十種』の編纂にも参画している (1( ( 。 〔『 式 内 染 鑑 』 蓬 左 文 庫 蔵、 所 蔵 番 号 一 三 ― 四 九 〕 縦 二 十 七 ・ 二 セ ンチ、横十九・一センチ。九丁 一丁の片面に二色分を記載している。しかし、他の写本と異なり、各 色の染紙の貼り付けと文字の記載が上下二段になされている。染紙の大 き さ は お よ そ 縦 横 三 セ ン チ で あ る。 ④ ⑤ に つ い て は 記 載 が な い。 本 写 本には「五味末吉氏寄贈」の注記がある。蓬左文庫によると同文庫が開 館 し た 昭 和 十 年( 一 九 三 五 ) 前 後 に 同 家 か ら 寄 贈 を 受 け た が、 必 ず し も まとまった点数として入ったものではないとのことである。 〔『 式 内 染 鑑 』 慶 応 義 塾 大 学 図 書 館 蔵、所蔵番号二一五―一五一八 ―一〕 縦二十七センチ、横二十センチ。十一丁 一丁の片面に二色分を記載している。染紙の大きさはおよそ縦二セン チ、 横一・八センチであるが、 必ずしもきれいな矩形にはなっていない。 ④ に つ い て は 山 藍 の 絵 が あ り、 そ れ に 関 わ る 藍 摺 の 文 は と 同 様 で ある。⑤については文字のほか花押も書かれているが、筆写元を見て簡 近 藤 重 蔵 は 文 化 五 年( 一 八 〇 八 ) か ら 十 一 年 間 書 物 奉 行 の 職 に あ り、 市島春城は「彼れは、家康以来の幕府の蔵書、即ち其の多くは紅葉山文 庫に納まって居るものを、精細に調査し、其の来歴や考證やらを記して 書 物 の 䑓 帳 を 作 り、 ( 中 略 ) 徳 川 氏 の 蔵 書 の 世 間 に 知 れ た の は、 全 く 此 人 の 調 査 の 結 果 で あ っ て、 其 の 功、 小 に あ ら ず だ。 」 と 評 し て い る (11 ( 。 し かし、本写本の形態を見る限り、公の事業としてこれが作られたとは考 えがたく、近藤重蔵関係文書の分析を行った山口静子も本書を「尚古的 蒐集品」の項に分類している (11 ( 。 なお、 東京大学史料編纂所には徳大寺家から昭和二十九年( 一 九 五 四 ) に購入した徳大寺家本が納められており、 その中に本写本 とは別に『延 喜 式 内 染 鑑 』 [ 徳 大 寺 家 本 ― 一 五 ― 四 七 ] 一 点 が あ っ た よ う で あ る が、 現 在は所在不明となっている。同書と 写本B との関係は明らかではない。 〇写本K 〔『式内染鑑』大阪府立中之島図書館蔵、所蔵番号 七 七 八 ― 一 六 〕 縦二十七センチ、横十九センチ。十一丁 後藤が自身の著作の中で参照した写本である。一丁の片面に二色分を 記 載 し て い る。 染 紙 の 大 き さ は お よ そ 縦 三・ 二 セ ン チ 横 三・ 四 セ ン チ で あ る。 ④ に つ い て は 山 藍 の 絵 が あ り、 そ れ に 関 わ る 藍 摺 の 文 は A   と同様である。⑤については記載がない。   本写本の見返しには「初代豊田文三郎氏遺書」印とともに明治三十八 年 の 大 阪 図 書 館 の 受 け 入 れ 印 が 捺 さ れ て い る。 豊 田( 一 八 五 三 ― 九 六 ) は大阪府会議員や衆議院議員を務めた政治家であるが、大阪図書館(大 阪府立中之島図書館の前身)草創期からの熱心な後援者であり、その死 後、 近 世 文 芸 書 を 中 心 と し て 二 千 五 百 冊 を 超 え る 蔵 書 が 寄 贈 さ れ て い る (11 ( 。 一 方、 一 丁 の 表 に は「 朽 木 文 庫 」 の 印 記 が あ り、 本 写 本 が 朽 木 綱 泰 ( 一 七 六 九 ― 一 八 五 二 ) の 旧 蔵 書 で あ っ た こ と が 確 認 で き る。 朽 木 は 幕

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略に写したという印象を受ける。本写本には「幸田成友」の印 (11 ( が捺され ており、幸田成友(一八七三―一九五四)の旧蔵書幸田文庫の中の一点 である。 〔『 式 内 染 鑑 』 国 立 公 文 書 館 蔵、 所 蔵 番 号 一 四 七 ― 〇 四 四 九 〕 縦 二十七センチ、横二十センチ。十一丁 一丁の片面に二色分を記載している。染紙の大きさはおよそ縦二・四 センチ横三・二センチである。④については山藍の絵があり、それに関 わ る 藍 摺 の 文 は と 同 様 で あ る。 ⑤ に つ い て は 文 字 部 分 の 記 載 は あ るが花押は書かれていない。 本写本には「甘露寺蔵書」の印記 (11 ( があり、藤原北家勧修寺流の嫡流で 名家の家格を有する甘露寺家から内閣文庫に入ったものであることが確 認できる。 〔『 式 内 染 鑑 』 龍 谷 大 学 図 書 館 蔵、 所 蔵 番 号 五 二 八 ・ 六 ― 五 六 ― W〕 縦二十七センチ、横二十センチ。十丁 一丁の片面に二色分を記載している。ただし、同写本は虫損等による い た み が ひ ど く 染 紙 も ほ と ん ど が 剥 が れ 失 わ れ て い る。 ④ ⑤ に つ い て は記載がない。 本 写 本 に は「 写 字 台 之 蔵 書 」 の 印 記 が あ り、 写 字 台 文 庫 の 一 点 で あ っ た こ と が 確 認 で き る。 同 文 庫 は 本 願 寺 歴 代 宗 主 が 収 集・ 伝 持 し て き た 三 万 冊 に も 及 ぶ 書 籍 の 総 称 で、 明 治 二 五 年( 一 八 九 二 ) と 三 十 七 年 (一九〇四)の二回に分けて龍谷大学へ寄贈されている (11 ( 。 以上が『国書総目録』に記載された写本であるが、そのほかに新たな 写本として次の二点が確認できた。 [『 式 内 染 鑑 』 お 茶 の 水 女 子 大 学 蔵、 所 蔵 番 号 七 五 三 ― Ma八 六 ] 縦 二十六 ・ 五センチ、横十八センチ。十一丁 一丁の片面に二色分を記載している。染紙は一回り大きい紙に枠線を 引きその中に色を塗ったものを本紙に張り込んでいる。染められた部分 の大きさはおよそ縦三センチ横三・五センチである。貼った紙の上に本 文の文字がかかっているので、染紙を貼った後に筆写が行われたようで あ る。 ④ に つ い て は 山 藍 の 絵 が あ り、 そ れ に 関 わ る 藍 摺 の 文 は Aと 同様である。⑤については記載がない。 本 写 本 の 題 箋 に は「 稱 意 館 蔵 本 」 と あ る が、 そ の 文 字 は 国 立 国 会 図 書 館 蔵 の『 周 禮 』[ 所 蔵 番 号 WA二 一 ― 七 ] の 題 箋 に 記 さ れ た「 稱 意 館 蔵 本」と字体がよく似ており、同書に捺された「吉家氏蔵」の印は、東京 国 立 博 物 館 蔵 の『 讀 素 問 鈔 』[ 所 蔵 番 号 〇 五 二 ― 四 ― 一 一 ] に 捺 さ れ た も の と 同 一 で あ る。 『 讀 素 問 鈔 』 に は ま た「 稱 意 館 蔵 書 記 」 の 印 記 が あ るが、 「吉家氏蔵」 「稱意館蔵書記」とも代々意安を称し徳川将軍家の近 習医師を勤めた吉田家のものである (11 ( 。一方、 一丁の表に「落合氏図書記」 の印記があるが、こちらは国学者で皇典講究所の講師も務めた落合直澄 ( 一 八 四 〇 ― 九 一 )のものである (11 ( 。なお、本写本は平成元年にお茶の水女 子大学の所蔵となっている。 〔『 式 内 染 鑑 』 東 京 大 学 総 合 図 書 館 蔵、 所 蔵 番 号 A九 〇 ― 一 九 一 七 ―三〕 縦二十六・五センチ、横十八センチ (11 ( 。十一丁 本写本は、末尾の「此式内染鑑…」で始まる草書体の文章が字配りま で 含 め て 完 全 に と 同 一 で あ る こ と か ら、 同 写 本 を 忠 実 に 謄 写 し た ものと考えられる。ただし、染紙、山藍の絵とも墨線で枠を示している ものの別紙が貼りこまれた形跡は見られない。本写本の第一丁の表には 「 川 崎 千 虎 圖 書 之 記 」「 佐 度 萩 埜 邎 之 圖 書 記 」 の 印 記 が あ る が、 前 者 は 東 京 美 術 学 校 教 授 を 務 め た 日 本 画 家 で、 有 職 故 実 に も 通 じ た 川 崎 千 虎

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四『式内染鑑』の諸写本(二) ところで、 『国書総目録』 には 『式内染鑑』 系統の書名ではないものの、 表題が相通ずるものとして、 延喜縫殿寮式雑染顔色 一冊【分類】染織【写本】宮書 ・ 東北大[狩野] の書目が載せられている。両書を閲覧した結果、横中本と判型は異なる も の の、 『 式 内 染 鑑 』 と 異 名 同 本 と 言 っ て も よ い 内 容 の も の で あ る こ と が判明した。そこでこの両書についても述べたいと思う。 ( 一 八 三 六 ― 一 九 〇 二 ) の、 後 者 は 東 京 帝 国 大 学 教 授 で 国 語・ 国 史 学 に 業 績 を 挙 げ た 萩 野 由 之( 一 八 六 〇 ― 一 九 二 四 ) の も の で あ る (11 ( 。 本 写 本 は 寛 保から明治に到る種々の写本、版本を集成した十三冊からなる『和葊別 輯』の一部をなすものであるが、同書の来歴は不明である。最終的には 萩野由之の元から現所蔵館に入り、 「萩野本」中の一点となっている。 以 上 が 現 時 点 で 把 握 し て い る『 式 内 染 鑑 』 の 写 本 で あ る が、 『 国 書 総 目録』記載の神宮文庫、無窮会所蔵本については未見である。 写本 ① ②赤白橡・青白橡 ③織色の記載 ④山藍の描画 ⑤松岡辰方跋文 A 匹 赤白橡を先に記載 萩 記載あり 記載あり D 匹 赤白橡を先に記載 記載なし 文字のみ 記載あり(花押なし) I 匹 赤白橡を先に記載 萩 記載あり 記載あり N 匹 青白橡を先に記載 萩 記載あり 記載あり F 匹 赤白橡を先に記載 萩経青 記載あり 記載あり(花押なし) O 匹 赤白橡を先に記載 萩経青 記載あり 記載あり(花押なし) E 匹 赤白橡を先に記載 萩経青 記載あり 記載なし G 匹 赤白橡を先に記載 萩経青 記載あり 記載なし J 匹 赤白橡を先に記載 萩経青 記載あり 記載なし K 匹 赤白橡を先に記載 萩経青 記載あり 記載なし Q 匹 赤白橡を先に記載 萩経青 記載あり 記載なし R 匹 赤白橡を先に記載 萩経青 記載あり 記載なし B 疋 青白橡を先に記載 萩之経青 記載なし 記載なし C 疋 青白橡を先に記載 萩之経青 記載なし 記載なし H 疋 青白橡を先に記載 萩之経青 記載なし 記載なし L 疋 青白橡を先に記載 萩之経青 記載なし 記載なし M 疋 青白橡を先に記載 萩之経青 記載なし 記載なし P 疋 青白橡を先に記載 萩之経青 記載なし 記載なし S 疋 青白橡を先に記載 萩之経青 記載なし 記載なし T 疋 赤白橡を先に記載 記載なし 記載なし 記載なし U 疋 赤白橡を先に記載 記載なし 記載なし 記載なし ※ 項目中の囲み数字は、本文の写本 A の説明文中の番号に対応している。 表 2 諸写本の特徴

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〔『 延 喜 縫 殿 寮 式 雑 染 顔 色 』 宮 内 庁 書 陵 部 蔵、 所 蔵 番 号 二 六 六 ― 六〇四〕 縦十四・五センチ、横二十センチ。八丁   横長の判型であることから、大方の丁は一丁の片面に三色分の物品名 と数量が記されている。染紙の大きさはおよそ縦横三センチである。④ ⑤については記載がない。 本写本には「鷹司蔵書記」の印記があり、五摂家の一つ鷹司家から明 治 天 皇 に 献 上 さ れ た「 鷹 司 本 」 の 中 の 一 点 で あ る (11 ( 。 本 写 本 の 特 徴 は、 「 黄 櫨 染 考 」 の 文 の 後 に や や 小 字 で「 經 亮 云 / 叓 物 記 原 ニ 儀 實 録 唐 武 徳 初 用 隋 / 制 天 子 常 黄 袍 及 衫 後 漸 用 赤 黄 遂 / 禁 止 士 麁 不 得 服 其 叓 唐 神 尭 始 也 / 後 曰 赭 黄 王 建 宮 詞 曰 日 色 赭 黄 相 似 / 謂 赤 黄 也 今 俗 又 以 天 子 常 服 浅 黄 為 / 赭 黄 也 」 と 記 さ れ て い る こ と で あ る。 「 經 亮 」 は、 京 都 の 梅 宮 ( 梅 宮 大 社 ) の 神 官 で 宮 中 に 出 仕 し て 非 蔵 人 を 兼 務 し た 有 職 家 橋 本 經 亮 ( 一 七 五 五 ― 一 八 〇 五 (11 ( )と考えられている。 〔『 延 喜 縫 殿 寮 式 雑 染 顔 色 』 東 北 大 学 附 属 図 書 館 蔵、 所 蔵 番 号 一六七八五―一〕 縦十三センチ、横十九センチ。七丁 横長の判型であること、当初より染紙を貼りこむことを想定せず判面 全 体 に 文 字 を 書 き 入 れ て い る こ と も あ っ て、 色 名、 物 品 名、 数 量 が 丁 の 体 裁 を 気 に せ ず 詰 め て 記 載 さ れ て い る。 ③ 以 降 の 他 の 写 本 に 見 え る 記載はなく、代わりに「原在中云或僧傳木蘭色/如此圖/黄木蘭   赭石   硫黄/赤木蘭   赭石   朱/黒木蘭 赭石 墨」と書かれている。赭石は 赤色の鉱物性顔料で、それに硫黄、朱、墨を加えることで三種の色調と なることを述べたものと思われる。他の写本には鉱物性の顔料は全く挙 げ ら れ て い な い の で、 異 質 な 記 述 と 言 え よ う が、 「 橡 綾 」 に つ い て の 文 の 中 で、 「 木 蘭 黄 橡 也 」 と 記 し て い る の で そ れ に 対 応 し て 書 か れ た と も 考 え ら れ る。 た だ し、 「 黄 橡 」 は 橡( 櫟 の 実 ) の 煎 汁 と は 灰 汁 に よ っ て 染め、通常は鉱物洗顔料を使うことはない。 本 写 本 は、 表 紙 の 裏 に「 此 書 逸 著 作 者 名 巻 末 有 原 / 在 中 之 名 或 其 所 撰 歟 原 本 載 / 色 圖 今 略 之 / 三 二、 三、 六 亨 記 」 と あ る こ と、 一 丁 の 表 に「 狩 野 氏 圖 書 記 」「 新 井 泰 治 氏 ノ 寄 附 金 ヲ 以 テ 購 入 セ ル 文 学 博 士 狩 野 亨 吉 氏 舊 蔵 書 」 の 印 記 が あ る こ と か ら も 明 ら か な よ う に、 狩 野 亨 吉 ( 一 八 六 五 ― 一 九 四 二 ) の 筆 写・ 旧 蔵 本 で、 筆 写 元 に は 染 紙 の 添 付 か 本 紙 へ の 着 色 が あ っ た よ う で あ る。 狩 野 の 文 中 に 見 え る 原 在 中( 一 七 五 〇 ― 一 八 三 七 ) は 原 派 の 祖 と な る 絵 師 と し て 知 ら れ た 人 物 で あ る。 博 覧 強 記で知られた狩野であるが、本写本の筆写元である『延喜縫殿寮式雑染 顔 色 』 が、 『 式 内 染 鑑 』 の 異 名 同 本 で あ る こ と に は 気 づ い て い な か っ た ようである。   なお、以上の二点の他、さらに同系統のものとして次の写本の存在も 明らかとなった。 〔『 延 喜 縫 殿 寮 式 雑 染 色 』 国 立 国 会 図 書 館 蔵、 七 五 三 ・ 二 ― To三 三 九 e― N〕 縦十五センチ、横二十二センチ。二十三丁 染 紙 の 大 き さ は お よ そ 縦 五・ 五 セ ン チ 横 一・ 八 セ ン チ で あ る。 ③ ④ ⑤ に つ い て は 記 載 が な い。 書 き 題 箋 で「 延 喜 式 雑 染 ○ 色 」 )○ は 擦 れ て 読 み づ ら い が「 試 」 字 と 思 わ れ る。 ) と あ り、 内 題 を「 延 喜 縫 殿 寮 式 雑 染色」とする。所蔵館の書誌情報では、藤原貞幹著、中島春臣補、文化 十 五 年( 一 八 一 八 )、 中 島 春 臣 写 と す る。 こ れ は、 内 題 の 後 に「 已 下 墨 書者藤叔蔵貞幹/取書記則染試之者也/朱書者予取見延喜式以其/他諸 書 加 筆 之 者 也 」、 二 十 二 丁 の 表 に「 寛 政 六 年 甲 寅 夏 日 摸 染 / 藤 原 貞 幹 」、 二十三丁の裏に「文化十五年戊寅春日以阿蘓大宮司/惟馨従京師所携帰 之 本 令 衛 藤 良 / 行 門 人 杉 谷 某 摸 染 之 了 / 中 島 春 臣 」 と 記 す こ と に よ る。 中島の花押のほか 「広足印章」 の印記があるが、 広足は春臣の別名である。 本写本は十九色の各色の綾・帛の記載のあとに、延喜式に掲載された そのほかの布や糸の用度、さらに系統を同じくする十九色以外の色の用

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本を筆写したとあるが、この人物が誰なのかを文中から窺うことはでき ない。これに関して、猪熊兼樹氏 (11 ( は、徳川吉宗が『式内染鑑』の彩色図 を 住 吉 広 守 に 製 作 さ せ た と し て い る。 広 守( 一 七 〇 五 ― 一 七 七 七 ) は 住 吉具慶の孫で住吉家第四代、御用絵師ながら画名は必ずしも高くなかっ たとの評価 (11 ( がある一方、有職に通じていたとする説もある (11 ( 。 広 守 の 後 を 継 い だ の が 広 行( 一 七 五 四 ― 一 八 一 一 (11 ( ) で、 彼 は 松 平 定 信 ( 一 七 五 九 ― 一 八 二 九 ) の 命 に よ り 屋 代 弘 賢 や 柴 野 栗 山 ら と 山 城、 大 和 の 古社寺の宝物調査にあたり、 寛政四年 ( 一 七 九 二 ) に 『寺社宝物展閲目録』 をまとめている (11 ( 。 註 ( (() 書 で 後 藤 が 挙 げ た『 吹 上 染 紙 』 の 跋 文 に は 松 岡 と 住 吉 広 行 との交遊が書かれているので、文化八年の跋文の「住吉某」も広行(広 行 が 同 年 に 没 し て い る の で、 あ る い は そ の 子 広 尚 か。 ) を 指 す と 考 え て よかろう。では、松岡はなぜ一度享和二年に筆写した『式内染鑑』を再 び十年後の文化八年に写したのであろうか。すでに後藤によって呈示さ れている疑問であるが、 これについて明確な解答を述べることは難しい。 しかし、 ここで考えておかなければならないことは、 写本の 『式内染鑑』 が 一 種 の 色 見 本 帳 の 体 裁 を と る 書 物 と い う こ と で あ る。 『 式 内 染 鑑 』 の 原 本 に は 染 色 し た 布 帛 が 貼 り こ ま れ て い た こ と は 前 述 の 通 り で あ る が、 筆写して新たな写本を作る場合に、同じ布片を用意することは染色の行 程を再現しない限り困難であり、それゆえ染紙の貼り付け、あるいは絵 具による本紙への着色という体裁がとられることとなったのであろう。 そ し て 、 こ の 染 紙 に つ い て よ り 正 確 な 色 調 の 複 写 を 求 め る と す れ ば 、 そ こ に 絵 師 が 果 た す 役 目 が 生 じ る こ と に な っ た の で は な か ろ う か 。 に お け る 杉 谷 某 の 存 在 も そ れ に あ た る と 言 え よ う 。 で 、 小 杉 榲 邨 が 染 紙 に つ い て わ ざ わ ざ 筆 写 元 と の 色 の 相 違 を 記 し て い る の も 、 色 調 の 違 い を 明 示 し て お く こ と が 必 要 と 考 え た た め で あ ろ う 。 一方、絵師の立場からすると、たとえば歴史的な題材について有職故 度を朱字でもれなく記載している。 『延喜式』以外にも、 『源氏物語』若 菜下、 『飾抄』 、衣服令等の一部も引いているが、こちらは必ずしも多い 分量ではない。 藤 原 貞 幹( 藤 貞 幹 )( 一 七 三 二 ― 九 七 ) は、 京 都 出 身 の 国 学 者、 有 職 家 で あ る。 中 島 春 臣( 一 七 九 二 ― 一 八 六 四 ) は 熊 本 出 身 の 国 学 者 で、 和 歌をよくした人物である。なお、宇土市デジタルミュ―ジアム (1( ( には、細 川 藩 御 用 絵 師 衛 藤 良 行 の 弟 子 で 同 じ く 御 用 絵 師 の 杉 谷 行 直( 一 七 九 〇 ― 一 八 四 五 ) が 紹 介 さ れ て お り、 杉 谷 某 は 彼 を 指 す 可 能 性 が 高 い と 言 え よ う。 本 写 本 に も「 浜 雄 蔵 書 」 の 印 記 が あ る こ と か ら、 と 同 じ く 弥 富 破摩雄の旧蔵書である (11 ( 。 以上これまで挙げた二十一点の写本を、提示した五つの観点によって 記 述 内 容 の 類 似 し た も の を 並 べ る 形 で 整 理 し た の が 2 あ る。 そ れ に よ る と、 若 干 の 例 外 は あ る も の の、 書 名 お よ び 判 型 が 異 な る を 除 く 十 八 点 に つ い て は ① ② ④ 項 の 記 載 が ほ ぼ 連 動 し て お り、 全 体 を 大きく (つの系統に分けることができそうである。しかし、来歴が明ら かでない写本も少なくないため、現時点で筆写の先後関係を論じること は難しい。 と こ ろ で、 で 織 色 七 色 の 後 に 屋 代 弘 賢 の 識 語 が 載 せ ら れ て い る のは、小杉榲邨が見た屋代の自筆本がこの部分で終わっていたことによ ると考えてよいだろう。屋代が『式内染鑑』を所蔵していたことは、彼 の蔵書不忍文庫の目録からも確認することができる (11 ( 。 ま た、 小 杉 が 見 た「 辰 方 か 写 さ し め た る 本 」 が 松 岡 家 旧 蔵 の で あ っ た か 否 か は 不 明 で あ る。 し か し、 に あ る 花 押 が に は な いことからすると、その可能性は低いように思われる。 一 方、 等 に 見 え る 松 岡 の 奥 書 で は 文 化 八 年 に「 住 吉 某 」 の 所 蔵

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実を踏まえた描画を行う際には正確な色の把握が必要であり、流布して いる『式内染鑑』において雑染用度条の十九色以外に織色七色、あるい は胡桃等三色が増補されたのもこのような要請に基づくものだったと考 え ら え る。 『 式 内 染 鑑 』 写 本 の 作 成 に つ い て、 住 吉 氏 等 の 絵 師 の 介 在 が 窺 え る も の は あ っ て も、 染 殿 で の 染 色 の 中 心 で あ っ た 後 藤 氏( 呉 服 後 藤 ) が 関 わ っ た 形 跡 を 示 す も の は 残 さ れ て い な い。 む し ろ「 後 藤 文 書 」 の 「 染 鑑 本 色 星 」 で 、「 一 、 黄 櫨 今 の 黄 か ら 茶 に 少 黒 み あ る 色 な り 。 / 一、黄丹 今の紅染の年を徑て少し白らけたる色に少黄はみあるものな り」等、色調を苦労して文字で表現しようとしていることは、同家が容 易に色見本を提示できないことの一つのあらわれと言えよう。 と こ ろ で、 『 式 内 染 鑑 』 に つ い て は、 こ れ ま で 挙 げ た 写 本 の 印 記 や 年 次の明らかな書き込みから考えると、筆写は寛政期以降になされたもの が 大 方 を 占 め る と 考 え て よ さ そ う で あ る。 註 ( (() 書 に 記 さ れ た 享 和 二 年 の 松 岡 の 跋 文 で は「 彼 家( 住 吉 家 ) に ふ か く 秘 せ し を う つ し ぬ。 」 と あ る が、 等 の 文 化 八 年 の 跋 文 で は こ れ に 対 応 す る 文 言 は 書 か れ ていない。これも『式内染鑑』写本の広まりを想起させるのである。 一方、屋代弘賢と松岡辰方は同じ塙保己一門下として親しい関係にあ り (11 ( 、 ま た、 の 旧 蔵 者 森 川 竹 窓 は『 集 古 十 種 』 の 編 纂 を 通 じ て 屋 代 と の 交 流 が 考 え ら れ る。 ま た、 森 川 と に 名 が 挙 が っ て い る 橋 本 経 亮は上田秋成の共通の友人であった。さらに、藤貞幹が自説を本居宣長 ら国学者から攻撃を受けた際に、上田秋成が擁護に回った逸話もよく知 られている。 以上の様子を見ていくと寛政期以降の『式内染鑑』写本の流布には有 職故実に関心を持つ国学者たちのつながりが背景に存在したとも考えら れるのである。表智之氏は寛政以降を「学問領域の枠を越え、また細か な学派の枠も越え、結社的な閉じた空間でなく、むしろサロン的な空間 で 様 々 な 考 証 作 業 を 行 う 人 々 が 急 速 に 増 え て い た。 」 と し、 そ の 中 枢 を 担う人物の一人として屋代の名を挙げている (11 ( 。これを敷衍すれば、こと 『 式 内 染 鑑 』 の 流 布 に つ い て 考 え た 場 合、 そ の 中 心 と な っ た 人 物 と し て 松岡辰方が想定できるのではなかろうか。 しかし、各写本に貼られた染紙は、織色七色(八片)については経糸 と横糸による織の雰囲気を出すために縦横の細かい縞を書き込むという 共通点を持つものの、大きさや形には違いがあり、切り貼りにも精粗が 見 ら れ る。 ま た、 の よ う に 枠 線 を 摺 っ た 用 紙 が 使 わ れ た も の、 の よ う に 上 下 二 段 に 染 紙 が 貼 ら れ た も の な ど 諸 本 の 体 裁 は ま ち ま ち であり、写本の作成がまとまって行われたのではなく、順次なされてい ったことを窺わせている。 一 方、 当 時 の 社 会 状 況 を 振 り 返 っ て み る と、 寛 政 二 年( 一 七 九 〇 ) に は 天 明 八 年( 一 七 八 八 ) の 大 火 で 焼 亡 し た 内 裏 が 往 古 に 倣 っ て 規 模 を 大 き く し て 再 建 さ れ、 そ れ に は 宝 暦 事 件 に よ っ て 蟄 居 し て い た 裏 松 固 禅 ( 一 七 三 六 ― 一 八 〇 四 ) の 研 究 が 大 い に 役 立 っ た と 言 わ れ て い る。 ま た、 文 政 七 年( 一 八 二 四 ) に は 光 格 上 皇 に よ る 修 学 院 御 幸 が 盛 大 に 催 さ れ、 これについて猪熊兼樹氏は「御幸に従う諸臣が着用する狩衣は宮廷の美 意識が満ち溢れたものとなり、この御幸は当時の有職の優れた成果の一 つ と し て 語 り 継 が れ た。 」 と し て い る (1( ( 。 こ の よ う な 状 況 を 背 景 に、 往 古 の染色への有職故実的関心の高まりがあったことも背景として考えられ よう。 し か し、 そ の 一 方 で 流 布 し た『 式 内 染 鑑 』 の 記 載 内 容 を 見 る と、 「 後 藤文書」の「式内染鑑 日」に掲載された大分な実証的部分は筆写され ず、雑染用度条の本文転載以外の染色に関する考証部分は、前記したよ うに五カ所のわずかな分量にすぎない。 また、④の文中で「和名抄亦無山藍形状不可知也」とあるものの、こ の文を載せた複数の写本に描かれている山藍の絵も、今日、その葉を藍 染めの染料としたとされるトウダイグサ科の多年草「山藍」とはかなり

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寫 し。 造 作 の 本 と せ ら れ し と ぞ。 」 ( 附 録 巻 十 二 ) と あ る よ う に、 所 蔵 元 の実物にあたって模造品を作り、あるいは図化するという極めて実際的 な作業を伴ったものであった様子が窺える。 雑染用度条の染色復元についても、御実紀には染殿の作業内容につい て、 「 そ の 中 に 茜 染 は。 む か し 山 城 国 山 科 の 里 に て も は ら 染 け る が。 い つしか茜草の製法を失ひて。此頃は蘇芳もて染しを茜染と名付世にひさ ぐことゝはなりぬ。然るにまことの茜染はいかなる風雨霜霧に逢といへ ども色かはらず。蘇芳にて染るも打みたる處に劣らずといへども。年を ふるか風雨霜霧にあへば。色かならず變ずといへり。さればむかしより 武 器 に は 多 く 茜 染 を 用 ひ し な り。 こ れ も 染 工 等 に 命 ぜ ら れ て 志 ば 志 ば こゝろみられけれど御旨に應ぜず。其後貝原好古(黒田右衛門佐綱政家 人)が志るしたる農業全書の中にその染法をくはしくのせければ。これ 形状を異にしている。 以 上 の よ う な 状 況 も あ っ て か、 明 治 に 入 っ て 田 中 尚 房( 一 八 三 九 ― 九 一 ) に よ っ て ま と め ら れ た「 わ が 国 最 初 の 服 飾 史 (11 ( 」『 歴 世 服 飾 考 』 巻 八(服色之部 (11 ( )では、七十点にのぼる引用図書の中に『式内染鑑』は取 りあげられていないのである。 五『染色法』とその記述内容 本稿冒頭に述べた徳川吉宗が行わせた古武器の調査は、御実紀に「萬 機の御暇には。古き武器を廣く御捜索あり。諸國寺社の什物まで。あま た 召 て 御 覧 ぜ ら れ。 木 様 に う つ さ れ、 あ る は 紙 に も う つ し な ど し て 御 考 の 料 に 備 へ ら れ ぬ。 ( 中 略 ) を の 〳〵 の 家 傳 の 戎 器 を 進 覧 し。 ( 中 略 ) 大和法隆寺などよりも。什物を進らせて台覧にそなふ。これら皆其製を 写真4 『染色法』奥付 東京大学総合図書館蔵

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