幼児教育への期待
池上由紀子
[キーワード:幼児教育、非認知的能力 ] 1 はじめに 子育てを取り巻く環境や社会状況が大きく変化する中、平成 27 年 4 月 には子育てを社会全体で支える仕組みである「子ども・子育て支援新制 度」がスタートし、平成 29 年 3 月には変化の激しい社会を生きるために 必要な力の育成を目指した学習指導要領改訂等の一環として「幼稚園教育 要領」、「保育所保育指針」、「幼保連携型認定こども園教育・保育要領」が 告示されるなど、子どもや幼児教育・保育をめぐる情勢も変化している。 背景には、少子化が加速度的に進行し、社会全体で子育てを進める必要性 が生まれたことや、幼児教育の重要性への認識が進みつつあることがあげ られる。従前から幼児期の教育は生涯にわたる学習の基盤を形成するとい われているが、抽象的な概念のためその根拠が示しにくい。研究者の中に は小学校以降の学力を数値で示すことのできる「見える教育方法」に対し て、幼児教育を「見えない教育方法」と評している者もいる。 ジェームズ・ヘックマンは、「ペリー就学前プロジェクト」1)の結果か ら次の 2 点を指摘した。1 点は、「質の高い幼児教育を受けることにより、 その後の学力の向上や将来の所得向上、犯罪率の低下等につながる。よっ て幼児教育への投資が重要であり、効果的である。」もう 1 点は、「幼少期 に非認知的能力を身につけておくことが、大人になってからの幸せや経済 的な安定につながる。」つまり“やりたい”と思える遊びに夢中になり、 試行錯誤することが幼児期には重要であるという指摘であった。他方、平成 29 年3月に改訂、告示された幼稚園教育要領 第1章 総則 「第1幼稚園教育の基本」2)には、改訂に際して以下の文言が加えられた。 「(略)教師は、幼児との信頼関係を十分に築き、幼児が身近な環境に主 体的に関わり、環境との関わり方や意味に気付き、これらを取り込もうと して、試行錯誤したり、考えたりするようになる幼児期の教育における見 方・考え方を生かし、幼児と共によりよい教育環境を創造するよう努める ものとする。」 これは、幼児の発達に即した幼児期特有の教育方法を示している。「ペ リー就学前プロジェクト」の結果は、少なからず今回の改訂に影響を与え ているのではないだろうか。 しかし、これまでの教育の現場においては、「認知的能力」に目を向け がちであり、こうした「非認知的能力」の育成を前面に掲げた教育実践が 重ねられてきたとは言い難い。よって本稿では、幼児にとって「非認知的 能力」の獲得が成長にとって重要であることを明らかにするとともに、そ うした育成を担う現場での教育をいかに効果的に展開していくか、この2 つの視点を常に視野に入れながら分析を進めていきたい。 2 目的 以上を踏まえ、本稿の目的は、筆者の実践経験の中から複数の事例を取 り上げ、幼児期特有の教育方法の有効性について「『非認知的能力』の育 ちとそれを支える環境や人との関わり」という視点から検討することとし た。なお、河邉貴子は、「認知能力とは数量化できるいわゆる学力のことで、 非認知能力とはそれ以外のもの『社会情緒的能力』を指します。安定して 自分を発揮する力、がんばる力、他者との関係を築く力です。」3)と定義 している。本稿では河邉氏の定義に基づいて論を進めることとする。 また、本稿で取り上げる「遊び」の概念については、小川博久の示した 定義「自発性、自己報酬性、自己完結性」4)を踏まえることとする。
3 事例 ① 分らないことがいっぱい (3歳児 6月) ある日、 3~4名の 3 歳児が草花を一生懸命すりつぶし水を混ぜて、 色 水作りをしていた。 A児がそれをペットボトルに入れ、 そこに石鹸水も混ぜ た。 キャップを閉め、 大きく振ったところ、 泡と色水がまじりあって全体が グレーに染まったが、 振る手を止めると泡と色水が瞬く間に上下に分離し た。 分離したとたんにA児は目を見開き驚きの表情を見せ、そして笑顔になっ た。 そばにいる教師に共感を求め、 教師が分離した瞬間に「 あ~っ ?!」 という言葉と指差しで応えると、 またペットボトルを振り始めた。「 ペットボ トルを振り、 分離した瞬間をじっと見つめそばにいる教師に視線を送る」 と いう行為が何十回も続いた。 何度やっても同じ現象になることが分かった後、 今度は振る手を止めた 後でペットボトルを逆さにしたり横にしたりして分離の状況を観察し始め た。 これも何度も繰り返し、 その都度視線は教師に向く。 ペットボトルの 向きに関わらず泡と色水は必ず上下に分離することに気付いた。 この事例において、最初は「草花をすりつぶして色水を作る」ことが目 的だったが、色水をペットボトルに入れる、石鹸水を混ぜる、振るなどの 行為によって、遊びを変化させていた。A児は偶然出会った事象(泡と色 水の分離)の面白さに導かれ何度も繰り返すことにより、偶然ではなく確 実にこの結果になるという確信に至った。しかも、次なる問いにもたどり 着くことにもつながっていった。現象の面白さ、不思議さに導かれて試行 錯誤を繰り返す中で、「意欲」や「探求心」、「集中力」などといった非認 知的能力が養われていると考えられる。このことを可能にしたのは興味を 惹きつける環境と、自分のペースで何度も繰り返すことのできる時間と空 間が保障されていることであったと考えられる。このことは河邉貴子の示
す「安定して自分を発揮する」姿としてとらえることができる。 また、試すたびにその不思議さを共有できる人がそばにいたことは、大 きな意味をもっている。言葉の獲得に際して、子どもと養育者が同時に同 じ出来事や対象に視線を向ける『共同注視』が重要であると言われている ように、本事例では、A 児の浸っている世界を他者である教師と分かち合っ ていた。自分の行為が他者にも共感的に受け入れられていると感じる経験 は、自尊感情を高めるとともに、コミュニケーション能力の育ちにつな がっている。 また、「情動の科学的解明と教育等への効用に関する検討会」報告書5) による「子どもの対人関係力や社会適応能力の育成のためには適切な『愛 着』形成が重要である。」「情動は生まれてから5歳までにその原型が形成 されると考えられるため、子どもの情動の育成のためには乳幼児教育が重 要である。」との指摘は、まさに人格形成の基盤を培う幼児教育への期待 が込められている。 ② やりたい! と心を動かす サクランボが実ると、 園児たちは連日サクランボ採りに夢中である。 低い 枝のサクランボはすっかり収穫されてしまい、 高い枝に数個のサクランボ が見えるだけになったある日、 5 歳 B 児が登園後すぐに収穫を始めると 4 歳 C 児も現れた。 二人は普段はほとんど接点がない。 B児は踏み台代わ りのビールケースを積み、 その上に載り捕虫網で枝を引き寄せて採ろうと していた。 C 児が叫ぶ「 たべた~い、 とって!」 の声も受け止める余裕も ない程に必死になっていた。 約 15 分も経ったころ、 やっと 1 個を採り終え た B 児は、 場所を C 児に譲った。 C 児は B 児の手にしたサクランボを欲 しいとは言わず、 意を決して自分でビールケースに上った。 案の定、 なか なかうまくいかず四苦八苦。 その間、 ビールケースを押さえたり応援したり してずっとその様子を見守っていたのは B 児だった。 「食」に対する意欲が動機になって、考える(どうやったら採れるか)、
工夫する(踏み台・捕虫網 の活用)、頑張る(1個採る までやり続ける)、協力する (友達が載っているビール ケースを押さえる)などの 行為につながっていく。お そらくB児は登園する前か らサクランボ採りに意欲を もっていたのだろう。その 意欲に支えられ、あきらめずに1個採るまで頑張れたのではないだろう か。物事への取組の動機付けは、自らの内から湧き出てくるものであるこ とが、非認知的能力の育成には重要であると考える。加えて、C 児の「た べた~い、とって!」という懇願が、一層B児の集中力、工夫、諦めない 気持ちを高めていた。 当初、他力本願で目的を果たそうとしていた C 児だったが、B 児が悪 戦苦闘する姿を見て、そうたやすいことではないと分かったのだろう。B 児の苦労の末のサクランボを欲しいとも言わずに自ら採ることにしたのだ と読み取ることができる。また、B児がビールケースを押さえ応援する姿 に、C 児が望んでいることが分かりつつもそれに応えられない状況をもど かしく感じていたであろうことも推察できる。このように目標を自ら掲げ 頑張る気持ちを継続させる経験は、他の遊びや友達との関わりの場面にも 生かされるであろうし、成長とともに新たな課題に挑みがんばり続ける力 につながっていくものと考える。 またこの事例では、二人の間での言葉によるコミュニケーションはほと んどなかったものの、相手の心の動きや感情を読み取り合っていた。コ ミュニケーション能力の手段として自己を表現する力の獲得を求めがち ではあるが、まずは、自分の気持ちを分かってほしいと願う力や、相手 の行動や表情から思いを受け止める力が根底にあることが必須である。
③ みんなで決めたこと 5歳児の大好きな遊びであるドッジボールは、普段、2つのチームに分 かれて行い、内野がいなくなった時点で勝敗を決めていた。生活発表会の 演目を決める学級(35名)での話し合いで、「ドッジボールを見せたい」と いう意見が出て、賛同者が10人いたことから発表会の演目となった。生活 発表会バージョンのルール「①一定の時間でゲーム終了とし、その時に内 野に残っている人数が多い方が勝ち、②観客席にボールが行かないよう、 投げる方向はステージの左右のみ」を教師も入りながら確認して、毎日練 習を重ねていった。発表会近くなると、演目の前後に行う観客への挨拶も 含めて練習していった。生活発表会の3日前に一人が、「生活発表会は10 人の力を合わせて発表するのだから、どちらかが勝って喜ぶのはおかしい のではないか」という疑問を仲間に訴えた。ゲームでは勝敗がついてしまう が、負けた悔しさのまま発表が終わってしまうことへの違和感があったのだ ろう。 10人の仲間は、何度も話し合い、発表会前日には「勝ったら喜ぶ」 「勝っても喜ばない」「どっちが勝っても引き分けにする」の3つの考えに絞 られた。3つ目の考えは見ている人が不思議に思うだろうということで除外 され、最終的には「勝っても喜ばない」に決まった。 そして発表会当日、これまで一度もなかった5対0という大差で決着がつ いてしまい、勝ったチームは思わず大喜び。「勝っても喜ばない」を破って しまった勝ったチームは、思わず喜びの気持ちを表してしまったことにハッ とし、負けたチームは負けたことではなくみんなで決めたことを守ってもらえ なかったことに落胆した。発表が終わり保育室に戻った勝ちチームは平謝 り。「喜んでしまってごめんね」を連発していたとのこと。 この園の生活発表会は、園児の主体性を重視し、特に 5 歳児の学級では 表現に関わるねらい以外にも、目的に向かって友達と協力する経験になる ことを願っている。本事例は、ドッジボールをしている場面を発表したい という園児自身の発想が出発点にある。演目として取り組むことにより、
「楽しむゲーム」から観客を意識した「見せるゲーム」へと目標を変えて いき、その中で仲間意識が育っていった。だからこそ、力を合わせて頑張 る者同士のはずが、ゲームだからといって勝敗をつけることが腑に落ちな いと思い始めたのだろう。一人の疑問を皆が受け止め、皆が納得して結論 を出すまでには、考えの視点を自分、自分のチーム、一緒に発表する仲間、 観客と様々に思いめぐらし、自分の思いを言葉で表現したり相手の話を受 け止めたりするという過程があった。「勝っても喜ばない」というルール を自分たちの納得のいく形で決める経験は、「互いに気持ちよく生活する ために決まりはある。」という規範意識の原則を、身をもって知ることに もつながっている。他者との関係を築く力は、自分の思いをしっかりもち ながらも相手の思いを受け止め調整していく経験により培われる。 またこの事例においては、教師は幼児同士が意見と出し合える場や時間 をつくり、幼児自身が導き出した結論を受け止めていった。このように、 幼児の姿や発達の課題を見極め、幼児の主体性を存分に発揮できる状況づ くりをするという教師の役割は大きい。 4 まとめ これらの事例を踏まえた筆者は、以下3点について本稿のまとめとして 指摘する。 (1)安定して自分を発揮する力 「情動の科学的解明と教育等への応用に関する検討会報告書」で は、「子どもが安定した自己を形成するには、他者の存在が重要で ある。」としている。事例①では、幼児の感じたことを丸ごと受け 止める教師がいたこと、事例②③では、他者と自己の違いを体験し て他者との違いがある自己を認識できる友達との関わりがあったこ とにより、子どもが安定して自分を発揮することができたのではな いだろうか。
(2)がんばる力 「純粋にそのことがしたい」と思い取り組むことで、高い集中力 や根気強い継続力がもたらされると言われている。事例①での面白 さに導かれて何度も繰り返す姿、事例②での自分の立てた目標に向 かって工夫する姿、事例③での友達と力を合わせてより良いものを 求める姿から、自発性・主体性の大切さが明らかになった。遊びに 向かう内的動機付け、やりたいことをやり続ける時間・空間の保障 が何より重要である。 (3)他者との関係を築く力 原点に、「人と一緒にいることが心地よい」という経験が必要で あると考える。それは乳児期からの養育者との間で育まれる『愛着』 形成が十分にされていることが大切である。また、人に認められる ことにより自己肯定感が育まれ、他者を受け入れることも可能とな る。現在の子どもたちを取り巻く状況下では、人との接点が減少し ている傾向であるので、意図的に人との直接的な関わりを保障し、 「人と一緒にいることが心地よい」という経験ができるような場が 必要であると考える。 上記に示した「安定して自分を発揮する力」、「がんばる力」、「他者との 関係を築く力」といった力は、IQ などで数値化できないものであり、乳 児期からの大人の受容や応答的な関わり、自分を発揮する経験、遊び、他 者との豊かな関わりによって育まれていくものと考える。本稿の成果とし て『非認知的能力』とは、「幼稚園教育要領 総則」に明示されている「幼 児との信頼関係を十分に築き、幼児が身近な環境に主体的に関わり、環境 との関わり方や意味に気付き、これらを取り込もうとして、試行錯誤した り、考えたりするようになる幼児期の教育における見方・考え方」と同じ ことを意味していることも明らかにできた。いずれにせよ、未知の課題に 向かって問題を解決する力の育成がますます求められる中で、今後は幼児 教育の中にその原点があることを踏まえた「教育の質を高める実践」がさ
らに重要なものになっていくことは確かである。 しかし、本稿では、扱った検討事例が少なく、こうした要請に応じるた めには分析のためのデータ量が不足している。そのため、今後、一層事例 を積み上げていく必要があろう。 以上を踏まえ、続く研究では、幼児及び教育の現場(教師)双方に向け た「非認知的能力」の教育方法の開発及び実践を今後の課題として生きた い。 参考文献 1)「ペリー就学前プロジェクト」とは、1960年代のアメリカ・ミシガン州におい て、低所得層の3~4歳の幼児123人を対象に行われた調査である。そのう ち、およそ半数の幼児に、遊びの計画、実施、改善の話し合いをさせる教育 を実施し、それが将来にどう影響するかを長期的に調査した。(文部科学省 「今後の幼児教育の振興方策に関する研究会(第4回)」資料、2008より) 2)文部科学省「幼稚園教育要領〈平成29年告示〉」P5 フレーベル館 2017 3)河邉貴子「これからの幼児教育2016」より「幼児の非認知能力を育てる保育者 を、どう育成する?」P2~5 ベネッセ教育総合研究所(なお河邉は、認知 的能力、非認知的能力について「認知能力」「非認知能力」という言葉を用 いている。) 4)小川博久「4~5歳児の遊びが育つ」フレーベル館、1990 5)「情動の科学的解明と教育の応用に関する検討会」(報告書)文部科学省、2005