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J. S. ミルの思想と「ハリエット・テイラーの神話」

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(1)J・S・ミルの思想と「-リエツト・テイラ-の神話」 泉. The. Thought. of. 谷. 周. J・S・Mill and Sbuzaburo. ま. え. 郎串. ≡. "the. Harriet. Taylor. Myth". lzuMIYA*. が. き. サー・アイザイア・バーリンほ,ミルの『自由論』が政治思想に与えた刺激ほおそらく マルクスに劣らず永続的なものであったとして彼の個人的自由の擁護の意義を強調したあ とで, 「言葉よりも,行為の方がよりよく人の信念を表現する,としばしば言われており ますoしかし・ミルの場合ほ言葉と行為とほ食違っておりませんo彼の人生ほ彼の信念を 体現していますo寛容と理性の原則へのひたむきな献身ほ十九世紀の献身的な人びとの中 にあってさえ,類い稀れなものでしたo」1'(傍点筆者)と語っているoたしかにミルの思想 ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. にほ,彼の社会に対する実際的関心と類い稀れな誠実性とがあらゆる部分に参透してお り・それらが彼の思想の独創性の不足を補って現代においてもわれわれに諸問題の解決に ついての指針や方向を示唆しているように思われる。しかしながら,ミルの倫理思想につ いて論じているとき,わたくしはときどきある種の特別な困惑を感じないわ桝こはいかな いo. ミルの思想は・われわれのごとき他国人にとっても,時代背景をふまえ彼の生涯と思 想形成に留意しながら,彼の著作を精読して検討することによってかなりの程度まで正確 に理解することができるoところが,もう一歩進めてミルの思想を根底において支えてい たバックボーンやパーソナリティーを把挺しようとすると,たちまちどうにも越えがたい 壁にぶつかってしまうのであるoつまりミルの倫理思想と実践との間にあるある種の深い 亀裂,換言すれば彼の類い稀れな誠実性に対する疑いを見出して困惑してしまうのであ るoこのような困惑をもっとも強く意識させるのが,ミルと-リニット・テイラーとの関 係なのであるoこの二人の関係ほ,偉大な思想家とその妻ないし恋人といった男女関係に 尽きない思想上での影響という問題を含んでいる点で注目に値する。ミルとほぼ同じ時代 に活躍したマルクスと妻イェニー,キェルケゴ-ルとレギ-ネ・オルセン,コントとクロ テイルド.ド.ヴォ-の関係も,偉大な思想家と女性との交り,彼らの女性観などを示す ものとして大変興味深いものであるが,これらの場合にほ相手の女性が知的優越性を保持 していたという説が主張されることはないoところが,ミルと-リニットとの関係におい. てほ,ある時期において-リニットがミルの思想上の権威者であったという解釈がなされ *. 哲学・倫理学教室(Dept・. of. Philosophy).

(2) 47. J.S.ミルの思想と「-リニット・テイラーの神話」. ているのである。しかもミルの伝記研究の権威者と称される人々によって,このような 「ハリニット・テイラ-の神話」が提唱されてきたのである。またミルとテイラー夫妻と の交際は二十年近く三角関係という形で続いたという驚くべき事実がある。わたくしはミ ルの倫理思想を読みながらときどきこれらのことを想起してある種の特別な困惑を感じる のである。. ミルが実業家ジョン・テイラー夫人である-リニットに出会ったのは1830年の夏のこと で,当時ミル24才,テイラ-夫人22才であった。二人はまもなく深い恋愛に陥り友人や家 族の忠告を無視して交際を続けた。ミルとテイラー夫人との不倫な関係は,その形態がい 1849年にジョン・テイラ-が癌で死ぬまで20年近く続いたのであるo. かなるものであれ,. ミルが-リニットと正式に結嬉したのは1851年のことであり,この蔵宿生活もわずか七年 半で彼女の急死で終わりをつげたのである。ミルと-リニットとの交際はきわめて不自然 な形で長年にわたって続いたのである。こうしてミルと-リニットとの交際がきわめて不 自然な形で長年にわたって続いたということ,. -.)ニットとの交際が彼の思想にさまぎま な影響を与えたということから,両者の関係についての考察はミル研究者にとって避けて 通ることのできない問題である。ミルと-リニットとの交際ほどのようにして行なわれ・ 相互にどのような影響を与えたのか。. ミルのパ. -リニットほいかなる女性であったのかo. -ソナリティーはどのようなものであったのか.これらの疑問を解明することは,偉大な 思想家であったミルの私生活での恥部を暴露することにもなるが,ミルの思想の発展を位 置づけるためにも,また彼の倫理思想と日常行動との亀裂を浮きぼりにするためにも,ミ ル研究にとって不可欠な課題なのである。だが,そうはいってもこれらの疑問を解明する ことほ,それが男女の私生活におけるデリケートな諸問題に関係するものであり・非常に 困難なことであってどの研究者をも納得させるような結論を提出することははとんど不可 能なことであろう。それにもかかわらず,あえてミルと-1)ニットとの関係に一考察を加 えようとしたのは,それがミルの思想研究にとって不可欠であるという意義だけでなく, ミルの生身の人間像を浮きぼりにすることによって,彼の人間観ないし人生観といったも のをより根源的に生き生きと理解できるのでほないか,と考えたからである。わたくしは 小論ではミル研究者の諸解釈をふまえながら,とりわけ臥0・パップの『ジョン・スチェ -1)ニットとの交際 ア_ト.ミルと-リェット・テイラーの神話』望'の内容を紹介して, がミルの人間観ないし倫理思想にどのような影響をおよぼしたかを考察してみることにし たい。 注 1). Ⅰ. Berlin,. Four. Essays. on. Liberty,. 川・小池訳『自由論』 2,みすず書房, 2). H.0・ Press,. Pappe, 1960. John. Stuart. Mill. and. 0Ⅹford pp・. the. University. Press・. 1969,. p・. 174・生松・小. Myth・. Melbourne. University. 395-396. HIarriet. Taylor.

(3) 48. 泉. 1.. 谷. 三. 周. 郎. J・S・ミルの思想に関する諸見解. 今日J・S・ミルの思想を論じようとするとき,おそらく大多数の人が主著として念頭に 浮かべるのほ『自由論』 (On 人の隷従』 (0。. the. Liberty,. Subjection. of. 1859) 『功利主義論』 (Utilitarianism, Women,. 1863) 『婦. 1869)などであろう。たしかにこれらの著. 作は,ミルの成熟期の代表作であり,硯代でも依然として意義をもつものとして注目さ れ,一般的には高く評価されているoしかしながら,ミル研究者の中にはこの時期のミル について-リェットとの関係を考慮して消極的に解釈する者もいる。たとえば,. ∫.ブラメ. ナッツほこの時期のミルについて次のように評価している。 『自由論』や『功利主義論』 などは・ 「早く老熟こ入ってしまった病人によって執筆されたので,思想家として彼のあら ゆる欠陥を示しているoすなわち明噺さと-貫性を欠き,父とベンサムから継承した諸原 理を心底から承認することも拒否することもできないでいる。それにミルの善良さがそれ らの欠陥を顕著にしているoというのほ,彼の率直な性質が最初の前授と矛盾する状況を 次から次へと承認させたからであるo三つの著作の中でいちばん欠陥が多いのはおそらく 『功利主義論』であろうo --それほ知性的だがはとんど疲弊しきった人の産物といえよ うo 『自由論』はミルがもつ通常の欠陥をまぬがれていないが『功利主義論』よりもはるか にすく小れた著作である.『代議政治論』 (Considerations. Representative. on. Government,. 1861)ほ他の二つの著作よりも抽象的ではないので,右のような非難をうけないけれども, その内容は政治哲学者にとってほ三つの著作の中でいちばん陳腐なものである。. 『自由論』 と『功利主義論』とほ,これらの欠陥にもかかわらず,重要な著作である。」1,(傍点筆者) ●. ●. ●. ●. ●. プラメナッツはこのようにこの時期のミルを多年にわたる心身の過労で疲弊し自信を喪失 していたとみなし,彼の著作にみられる欠陥や折衷的性格を指摘しているが,それらの著 作の重要性だ桝ま見落としていないoわたくしほ彼の解釈が部分的にほ的をついているこ とを認めるが,基本的に同意することは到底できない。ところが,このプラメナッツの解 釈に類似した見解が,ミルの同時代人であるA・ペインとJ・F・ステイ-ヴンによっても述 べられているのであるoペインほ,ミルの思想家としての独創的な業贋が-リェットと結 解する以前になされたとして次のように語っている。 「現在公刊されている『論理学体系』 (A. System. of Logic,. 1843)と『経済学原理』 (Principles of Political 48)とほ,ミルの蓄積された該博な知識が生みだした主要な構築物であった.. Economy, --・・ミルほ. これらの著作を執筆した二つの冬(1842年から43年,. 1846年から47年にかけて)の緊張を とりもどすことが身体的に不可能であったようにみえるoそれ以後の年は全体として仕事 の減少によって特色づけられるo他方,仕事の方向は独創的であるよりもむしろ応用,解 読,反駁に向かっていた。そして彼は社会改良の展望にますます心を奪われた。ミルの晩 年の著作にはスタミナないし価値が欠けているというのでほない。それらは社会の最大の 利益のための公教育と実践的指導の源として長くその位置を保つだろう。しかし,ミルに ほ1843年と1848年に味わった感銘(impression)をくりかえサニネルギ-がもほやなかっ た。」2). 18.

(4) 49. J.S.ミルの思想と「-リェット・テイラーの神話」. ミルの伝記研究の第一人着であるJ.パックほ,ミルの後期の著作の価値を高く評価す る点ではペインと異なるが,ミルの思想に独創性がみられるのは1840年代であるとみなす 点ではペインと類似の立場にたっている。パックによれば,ミルほ1853年に彼自身と-リ ェットがともに結核に冒されていることを知り,二人で残されている仕事を早急になすべ 「しかし,そのことほ きことを決意し,著作の発表よりも仕事の促進に努めたのである。 ペインが指摘したように,ミルが病気で疲れきっていたとか無能力になっていたことを意 味しない。道に彼はたえず仕事に没頭していた。健康が悪くなればなるほど彼はますます 精力的に執筆に専念したのである。ミルは彼の大著『論理学体系』と『経済学原理』をい まや単に序論として,第一原理の確立とみなした。彼の仕事のより本質的部分ほ依然とし て彼の前に横たわっていた。それは実践的で日常の広汎な利害に関するさまざまな問題に それらの原理を適用することであった.」8'またミルの同時代の有名な法律実務家でありか つ法理論家でもあったJ.F.ステイ-ヴソほ,ミルの1840年代の著作に共鳴しながらも, (Liberty, Eqnality, 円熟期の著作にみられる精神をきらって『自由,平等,博愛』 ternity,. 1874)4)という著書を公刊した。彼はその中で次のように述べている。. Fra・. 「わたくし. はある点までは自分をミルの弟子として記すことに誇りを感じている。しかし,ミルの学 説にほ嫌悪すべき面があり,その残りの面がわたくしにとって魅力的なのである。しかも 『功利主 この嫌悪すべき面ほ晩年になってますます顕著になった。わたくしは『自由論』 義論』 『婦人の隷従』における学説が『論理学体系』と『経済学原理』での学説と矛盾し ているというのではない。わたくしほあとの二つの著作の内容の大部分に同意し,しかも 同時に前の著作にみちている人間性と事象に関する見解を強く拒絶することが可能な根拠 を示したいのである。」5'ステイ-ヴンは,ホップズの人間観と政治理論およびカルゲィニ ズムに立脚する立場から円熟期のミルの思想にみられる自由・平等などの考え方に反対し たのである。彼は著書『自由,平等,博愛』の中で,彼の意図を次のように説明してい る.6'それは第一には,自由・平等・博愛という言葉をもっとも合理的に使用する人々が その便宜のみを強調してその不便の重要性を軽視する傾向を批判することであり,第二に ほ,自由・平等・博愛という言葉ほ,どんな意味が付与されようとも宗教の信条にふさわ しくないことを示すことであった。ステイ-ヴソのミル批判はきわめて多岐にわたってい. るが,倫理学の観点からもっとも注目に値するのは,ミルの後期の著作にみられる欠陥と してミルの楽天的な人間観とベンサムの功利主義からの逸脱とを批判していることであ る。. このように,ミル研究者の中には『論理学体系』と『経済学原理』にミルの独創性がみ 『自由論』 『功利主義諭』などにほ多くの欠陥があ られるとしてこれらを主著とみなし, り,その主張にほ到底同意できないと断言する人々がいるのである。しかし,現代のミル 研究者の多くは,. 『論理学体系』や『経済学原理』よりはミルの後期の代表作である『自. 由論』 『功利主義論』などをはるかに高く評価し,これらの著作を中核にしてミルの思想を. 把握し,その現代的意義を問うているように思われるoⅠ.バIT)ソは『自由論』を寛容と市 民的自由の擁護をもっとも明確軒こ定式化し,現代の自由主義を基礎づけたものとしてその.

(5) 50. 泉. 谷. 周. 三. 郎. 意義を強調している。またR.B.フリードマンは,ミルの『自由論』を検討して一般にミル の用語のあいまいさと議論の混乱とみなされているものが正しく理解されるとき,それら ほミルの熟慮が慎重に産出したものであることが判明するとして次のように述べている。 「『自由論』における個人主義者の存在および自由の社会的正当化とは,分裂した精神ある いほ混乱あるいは必要な勇気の欠如の産物でほなくて意図的産物である。. ・--それゆえ,. ミルをベンサム主義を修正し和らげることに著しく失敗した政治哲学者とみなすべきでは ないとわたくしほ思う。ミルほとりわけ現代社会における個人および個人の自由の貧弱な 状態に関して熟知している第一流のイギリスの個人主義的政治哲学者なのである.」7'. M.. 『功利主義論』において明確 コ-へンほ「あらゆる活動の根本原理である功利の原理ほ, に説明され納得できる種類の証明が与えられている.」8'と述べ,功利の原理に関するミル の説明は,シジウィック,. G.E.ムーア,. ∫.ロールズによる功利主義の精巧化にもかかわ. らず,依然として模範的であると評価している。さらにH.B.アクトンほ,ミル没後のミ ル批判の動向にふれながら次のように述べている。功利主義の「理論的基礎は『功利主義 論』において説明され,個人の自由ほ『自由論』において,国家の構成ほ『代議政治論』 において論ぜられている。. 『功利主義論』ほそれとともにベンサムとジェイムズ・ミルの 道徳哲学の擁護を試みたものであるが,首尾一貫性に疑いを抱かせる仕方でその哲学の精 巧化と展開をなしている。. 『功利主義論』ほ公判後長年の間経験論哲学および功利主義の 批判者たちにとって絶好の攻撃目標(choppir'g-block)とみなされてきたが,近年ミルに好 意的な研究者たちは功利主義の見落されてきた価値を評価しほじめている。. 『自由論』は,. ミルの-リニットに対する異常とも思われるはどの献辞の中で述べているように,. 1851年. に結婿した妻との詳細な討議のあとで善かれたものである。 『自由論』ほ1860年代と1870 年代には激しく批判されたが,今日でほ法律改革者や報道関係者のイデオロギーの一部と なり,集団主義者の抑圧からの避難所となっている。」9) 以上のように,. J・S・ミルの思想ほ研究者によってさまざまに解釈されている。彼の思. 想の評価がこのように異なるのは,彼の思想の折衷的性格や論旨の一貫性の欠如などによ るものと思われるが,研究者の問題意識や研究態度にもとづくことも留意されなければな らない。このようにミルの思想ほさまぎまに解釈されるが,ほとんどの研究者ほミルの知 的生活には1840年代と1850年以降との間に変化があったと解釈する点では一致している。 つまりミルが1840年代に執筆した『論理学体系』および『経済学原塵』と, 1850年代以降 に執筆した『自由論』, 『功利主義論』との問には思想的に異なるものがあることを認めて いる。この思想上の転換をもたらしたものとして,いくつかの要因が考えられるが,その 代表的なものとみなされるのが-リニット・テイラーの影響なのである。 注 1) 2) 3). The English Utilitarians, Basil Blackwel】, J・ P]amenatz; A・ Baiれ;John Stuart Mill, Londoll, 1882, p. 91. M・ St・ JohエーPacke; The Life of John Stuart Mill, 1954,. 4). J・F・ Stephen',. Liberty,. Equality,. Fraternity,. 1874.. p.. p.. 123.. 368..

(6) 51. ∫.S.ミルの思想と「-リニット・テイラーの神話」 ibid・, pp・ 53-54・ 5) J.F. Stephen; 『国学院法学』第7巻第1号参照 6)山下重「J.F.ステイ-ヴソのJ.S.ミル批判」 Essay Liberty, Political on A New Exploration of Mill's 7) R.B. Frjedman; Oct,. 8) 9). 1966,. M. H.B.. pp.. Cohen;. 303-304・. John. Acton;. Government,. Studies,. Stuart. Mill,. Utilitarianism,. J.M.. Dent. 2. &. Sons. 1961,. On Ltd,. pp・. ⅩⅩi-ⅩⅩii・. Liberty, p・. and. Considerations. on. Representative. xii・. 「-リェット・テイラーの神話」. ミルの研究において,ミルと-.)ニットとの関係縁ど興味をそそる話題ほないが,. -1). ニットがミルの思想に与えた影響の程度と性質をどう解釈するかということになると当惑 せざるをえない.まずミル自身の-リエットに対する讃美の言葉がわれわれを驚かせる. ミルが-リェットをどのように評価していたかを彼自身の言葉によって考察してみよう。 「私の著作に含まれているもっともすく中れたものすべての鼓吹着であり,また部分的に は著者でもあった女性の,なつかしくもまた悲しい思い出のために,私は本書をささげ る。彼女ほ私の友にして妻であり,その真理と正義への崇高な感情こそが私のもっとも 強い刺激であり,またその賞讃こそが私の最大の報酬だったのである。多年にわたって 私の書いてきたすべてのものとおなじく,本書もまた,私のものであると同様に彼女の ものである。」1). 「彼女という人は最高の意味でまたあらゆる意味で絶えず修養して向上してゆくという ことが,身にそなわった鉄則のような人であり,向上を求める熱意からいっても,何か の感銘や経験はすく小さま叡智を身につける源かよすがかにせずにはいられない自然の性 向からいっても,それが必然的な人なのであった。. --・思索の非常に高い領域と日常の 小さな実際的な仕事とを問わず,彼女の頭ほ同じ完全な働きを示して,問題の核心にせ まり,常に本質的な観念なり原理なりをつかんで来たoあれだけの正確ですばやい仕事 ぶりが知的・感覚的両方の能力に行きわたっていたのだし,合わせて感情にも想像力に もあれほどめく小まれていたのだから,芸術家になったら彼女はこの上ない芸術家にもな り得たであろう。同様にあの熱烈でやさしい気立てとあの活発な能弁は必ずや彼女を大 雄弁家たらしめたろうし,またあの人問性への深い知識と,実生活における抜け目なさ 賢こさとほ,もしもそのような道が女性にも開かれていた時代だったら,彼女を人類の 統治者のうちでも有数のものにしたであろう.」望) 「私の文筆生活の大部分を通じて,私が彼女との関係でつとめた役割は,かなり早い時 期から私が思想の領域で私自身につとめ得る一番有用な役割と考えていた役目,はっき りいえば独創的な思想家たちの解説者の役乱. そういう人たちと大衆との構わたしの役. 割なのであった.」3). ミルは-リェットの才能と人柄をこのように絶讃して,一方でほ彼女を「比類のない friend)4'と呼びながら,他方では彼女を独創的思想家とみなして彼 友」 (incomparable の役割をその解釈者ないし伝達者と考えている。ミルの-リニットに対する断固たる言明.

(7) 52. 泉. 谷. 周. 三. 郎. は本当なのだろうか。ミルの異常としか思われないほどの讃美の言葉紘, -リニットの実 際の姿を伝えているのだろうか。それとも-リニットに対するミルの慕情が彼女を美化し ているのだろうか。ミルの知人やミル研究者は,ミルの驚くべき讃美の言葉に当惑し,そ の真実を明らかにすることに努めてきた。ところで,ミルの友人や同時代の研究者たちほ ミルの-リェットに対する讃辞に対して概しで陳疑的であった。ミルの親友であったペイ 1873)の原稿を読んで-リニットへの讃辞が ンは,ミルの死後『自伝』 (Autobiography, 度を過していることに気づき,テイラー夫人の忘れ形見であった-レン・テイラーに若干 の部分を削除するように忠告したが,. -リニッ -レンほ彼女自身への讃辞だけを削除し, トの部分については削除しないで発表したのである。ペインほこの点について伝記の中で 次のように述べている。 「不幸にも,ミルほなんらかの確定的な証拠も示さずに彼女の比. 類のない天才を記述することにおいてあらゆる合理的な信潰性を裏切ったのである.他人 の意志へのそのような隷属状態は,彼が率直に公言して誇っているが,決して正常な状態 と認めることができない。それほ人間関係における適切なつり合いという常識を破ってい る。しかし,それは妻の個人的性質についての彼の異常な幻想の当然の結果である。」4'ま たJ・F・ステイ-ヴソの弟であるレズ.)-・ステイーヴンによれば,ミルの-.)ニットに 関する高い評価ほ,ミルに彼自身の意見をくり返して述べる彼女の能力にもとづいており, それゆえ-リニットはミルの哲学上の理論構成になんら関与していないのである0. 「-リ. ニットの影響力は彼の知性に対するよりも彼の感情に対するものであり,彼の抽象的原理 を社会の現実状態に適用し,それらの原理の人間の利益と共感とに対する関係をより明白 にかつ広範に評価するように彼を導いたことである。」5'このように,ミルの知人や同時代 の研究者ほ, -リニットの知的優越性に関するミルの記述にほ明らかに誇張があり,それ らは愛妻-の慕情あるいほ亡妻に対する彼の悲痛な追憶がもたらしたものだろうと解釈し てきた。そしてミルの死後,長年の間ミルの-リニットの才能と人柄に関する讃美の言葉 は,現実の夫人像を忠実に記述したものでないとみなすのが通説とみなされてきた。 ところが,. 1951年にF・A・-イ-クによってミル夫妻の往復書簡集が刊行されてから,. ミル研究者たちは新しい資料を調べ検討することによって通説とほ異なる結論を提唱しほ じめたのである。ミル夫妻の書簡集の編者であった-イ-ク自身が,. 「ミルの思想と見解. に対する-リニットの影響ほ,ミルが主張した通り偉大なものであった。しかもその影響 は一般に信じられているのとはやや異なった方向に作用したのである0. -リェットの影響 によって主として強化されたのは,ミルの思想の感情的要素ではなく,合理的要素であっ た.」6'と結論したo またミルの伝記研究の権威であるパックも公開された資料に関する詳 「細な分析をして-リニットの役割を高く評価したのである。彼は次のように語った。 リニットほミルを一層ロマンチックにはしなかった。むしろ彼を素朴な合理主義に退却さ せて彼女がミルに付与したロマン主義の立場を正当化したのである。」 ほ,ミル自身が公言している以上に完全なものであったo の重要な著作を基礎づけている諸原理は,. 「彼女の知的優越性. 『論理学体系』を除桝ぎ,ミル. -リニット・テイラーによって実際に構成され たのでほないにしても彼女によって明確にされたものであった。それらの著作でミルの明.

(8) 53. J.S.ミルの思想と「-1)ニット・テイラーの神話」. 噺な推理に帰せられないものほ,彼女の′<-ソナリティーの力に帰せられなければならな い。」7'またボ-チャ-ドもミルの伝記の中で-リニットをミルの指導者兼予言者になった 人とみなして次のように述べている。 「ミルは彼自身の直感の無意識的源泉が枯渇すれば するはど決定的な考えにおいて-リニットに依存した。ソクラテスがダイモソに絶対的に 従ったように,ミルほ彼自身の熱感した判断に反しても彼女を信頼し,彼の理性を完全に 彼女に服従させたのである。」8' 以上のごとき解釈によれば,ミルが『自伝』やその他の著作の中で-リニットの才能と 人柄とを讃美し,無比の天才と呼んだことは決して誇張ではなくて事実であったというこ とになる。こうして近年にいたって「-リニット・テイラーの神話」が提唱されるにいた ったo. -イェク,パック,ポーチヤードの解釈ほ,お互いに細部において異なるとして. も,ミルの思想の今日的意義を考えるとき,きわめて大胆でセンセーショナルなものであ 「-リニット・テイラーの神話」ほ真実なのだろ って,容易に納得することほできない。 うか。もし黄葉だとすると,ミルの友人や同時代の研究者の判断との差異をどのように考 えればよいのか。これらの疑問を念頭におきながら,しかも-イ-ク,パックなどと同じ 資料を用いて-.)ェットの知的優越性を強調する見解に鋭く反論した研究者がH・0・. Jくッ. プであった。次にパップの解釈を彼の論旨の展開にそって少しくわしく考察してみること にしたい。 注 On. ∫.S. Mill;. 1) p.. 2). Everyman's. Liberty,. Library・. 63・早坂忠訳『自由論』中央公論社. p・. 214.. ∫.S. Mill;. 岩波文庫pp・ I.S. Mill;. ibid., p.. 4) 5) 6) 7) 8). A.. Bain;. John. L.. Stephen;. M. R.. Hayek; St. John Bochard;. Paperbacks,. pp・. 111-113・朱牟田夏雄訳『ミル自伝』. 164-165・. 3). F.A.. 0Ⅹford. Autobiography,. 146,邦訳p.. Stuart. The. Mill,. English. John. Stuart. Packe;. The. John. Stuart. 210・ 1882,. London,. Utilitarians, Mill Life Mill,. and of. p・. Harriet. John. the. Man,. 171・. p・ 59・. Taylor,. Stuart 1957,. p・. Mi一l, p・ p・. t7・ 131・. pp・. 316-317・. 91・. 3.パップの反論〔(a)ミルの讃辞の意味と『自由論』〕 Ii.0./<ップほ小著『ジョン・スチュア-ト・ミルと-リニット・テイラーの神話』(19 60)においてミルの伝記研究者の諸見解,とりわけ-イ-ク,パック,ポーチヤードの見 解を比較検討しながら-リニットの知的優越性を強調する見解を批判している。パップに ょれば,. -イェク,パック,ポーチヤードは,歴史家のバターフィールドが「歴史家の盲 目」 (historian's blind eye)と呼ぶものの魔力に魅せられて,ミルのパーソナリティーに. っいてのイメージを著しくゆがめるおそれがある「-T)ニット・テイラーの神話」を提唱 してきたのである。しかしながら,その神話はミルと彼の思想に関する誤解から生じたも のであり,ミルの人物像および思想の正しい理解を妨げるものである.それゆえ,′くップほ.

(9) 54. 泉. 谷. 周. 三. 郎. 神話を提唱した研究者と同一の資料を用いながら,ミルと-リニットとの関係を首尾一貫 して確信できる仕方で解釈し,その神話を追放することを試みるのである。そして最初に ミルのハリェットに対する讃美の言葉の意味を考察し,次に『自由論』 『婦人の隷従』『経 済学原理』などにおける彼女の痕跡をたどってミルと-リニットとの関係がどのようなも のであ-・,たかを究明しようとするのであるo前節で述べたように,. -イ-ク,. ′ミック,ポ. ーチヤードなどによって, -リニットの才能と人柄に対するミルの異常とも思えるはどの 断固たる讃美の言葉は,文字通りに解釈されるようになった。しかし,この神話に疑念を. いだく′くップほ,ミルが一般に他の人の業績や評価において途方もなく寛大であったとい う事実に注目して, -リニットに対するミルの態度や評価を-レン・テイラーやカーライ ルに対するそれと比較して,そこに著しい共通点がみられることを指摘する。とりわけミ ルは-レン・テイラ-に対しては-リニットに帰したのと同じ性質を-レンの精神と能力 に帰しているとし,その証拠として『自伝』における次のような文章をあげる. 「この娘の日々に成長し成熟してゆく才能が,その日から今日の日まで,絶えずやほり 同じ偉大な目的にささげられて来,. 〔その名ほすでにその母の名よりも,よくまた広く 知られている。もっとも彼女に天折などのことのないかぎり,将来は今日よりももっと もっとその名が広く知られるであろうことほ疑いをいれない。彼女の私への直接の協力 がどれほど貴重なものであったかはまたあとで多少ふれるが,彼女のすく中れた独創的な 思想やその健全な実際的判断にどれだけ私が教えられどれだ仇敵を受けているかになる と,到底十分に伝え得る自信ほないのである。〕思えば私はどの大きな損失を受けたあ とで,人生のくじ引きでもう-度こういう当りくじを引きあてるという幸運にめく小まれ た人間は,決して私以前にほなかったにちがいないoだれにせよ今,あるいほこれから 後,私と私の仕事とのことを考えてくれる人ほ,それが一人のではなく三人の頭と良心 との産物であることを決して忘れないでほしい。. 〔しかもその三人の中の一番値打のな. い,とりわけ一番独創性のない一人の名が,それらの仕事につけてあるのだ.」1' この文章は,パップが注目するように,ミルが-レン・テイラーを-リニットに対する のと同様に異常とも思えるほどの讃辞で語り,彼女の独創性を高く評価し自己謙遜してい る点を明瞭に示している.パップによれば,このような文章を読むかぎり, -.)ニットの 知的優越性を盛詞する言明ほ,割引して受けとられなければならない。ミルはいつも心の 中に理想像をいだくタイプの人間であったのかもしれない。ポーチャ-ドによると,ミル ほ青年時代に-リニットと出会わなかったとしても,他のだれかが一男であれ女であれ パップはこの点を一層明らかにする ー彼の心の中では理想像になっていたとされる2'o ために,ミルが-リニットに会う以前に彼の精神上の友であったカーライルとの関係にふ れ, R・P・アンシャツツの次のような評価に共感を表明している。 「テイラー夫人はミルの 生涯においてカ-ライルと同じ役割を演じたように思われる.. -・・・・ミルのテイラー夫人に. 対する愛情ほまったくロマンチックなものであったが,父に対して<わたくしほテイラー 夫人に対して他の等しく有能な人に対してもつ感情以上のものをいだいていない>と述べ たとき,彼は率直な気持を吐露したものと思われる.スターリング,カーライル,ティラ.

(10) 55. ∫.S.ミルの思想と「-リエツト・テイラーの神話」. 一夫人のうちのだれかがミルに対して永遠の愛のための滋養物を・同情的支持者ないし賞 讃と尊敬の対象の必要物を与えたように思われる。そしてミルの精神の背後にほ継続的に 彼を襲うおそれのある抑圧的なメランコリーについてのおそろしい恐怖が常にあったので あるo」8). パップほミルが他の人の業績に関する評価において途方もなく寛大であったという事実 を-レン・テイラーやカーライルに対する場合と比較して明らかにし,. -リニットが知的. に優越していたというミル自身の証言は誇張にもとづくものであったと主張するのであ る。さらに-リエットの知的優越性に対するミルの態度ほ,彼の恋心のゆえであろうか, ときどき常規を逸していたとして次のようなエピソードを紹介している。ミルは1832年の 7月に雑誌『マンスリー・レポジトリー』に掲載された紀行文を読んだとき,それが-リ ェットによって善かれたものと思いこみ,その紀行文は天才によって善かれたもので最近 の文学におけるもっとも美しい紀行文の一つであると絶讃したということであるo また′ミックほミルの伝記の中で『自由論』と『婦人の隷従』とは-リニットの初期の概 念を仕上げたものにすぎないという見解を主張したo彼によれば・ミルと-リニットとの 交際がほじまって数年後に二人の関係には画期的な変化が生じたのであるo. 「ハリニット. の草稿の主賓な骨組みが形成されはじめた1832年の5月,ミルはすでに彼女の尊敬する教 師であり,彼女は彼の忠実な学生であった。しかし,この状況ほ容易に強い感情の興奮剤 となり突然に変質が生じた。彼は彼女に教える代わりに教えられるようになったo彼女は 一人の生徒から彼の予言者となり女神となった.」4'′<ックは・. 立場にはこのような変化が起ったとし, 視し,. -リニットに対するミルの. 1832年に執筆された-リエットの二つの草稿を重. 「彼女の結解(marriage)に関する草稿が『婦人の隷従』に対してもつ関係は,ち. ょぅど彼女の寛容(toleration)に関する草稿が『自由論』に対してもつ関係と同様であ る。」と結論した。ここで-リニットの二つの草稿の内容がどのようなものであったかが 問題となる。彼女の草稿の内容を検討してパックの指摘の当否を明らかにしなければなら ない。ハリェットの寛容に関する草稿とは,わずか5ページの短かいものであり,しかも その文章は直観的で飛躍が多く読解がきわめて困難なものであるoその草稿は,不寛容の 根源と順応の精神を批判し自己依存と自己完成の意義を強調して自主的個人を擁護し他人 への干渉を拒否している。そして各人が自分自身の判事であること・他人への同情を通し て心の清純さに到達すべきことを説いているoパップはここまでは草稿の諭旨は明確だが 科学と技術との区別を強調し各人が美しいものや善なるものを考えるように導き!子供た ちを対抗や競争心から保護する必要性などを主張する最後の2ページは混乱しているとみ なしている。この草稿はたしかに『自由論』で展開されている重要な論点のいくつかを萌 芽的な形で先取している。そこで問題はこれらの論点が-リニットの独創によるかいなか ということである。換言すれば,. -リニットの草稿ほ,ミルのそれ以前の思想と相反する. 独創的観念を含んでいたかどうかということであるoこの点について,パップは次のよう. に解釈している。. 「ミル自身は『自由論』に表明されている諸真理の独創性を自分に帰し. なかった.他見彼の影響は-.)ニットの草稿のさまざまな部分においてその精神に反映.

(11) 56. 谷. 泉. しているoこの草稿とミルの『天才論』. 周. 三. 郎. Genius,. (On. 1832)の中で展開されている諸観念 は当時のミルにとって新しいものでほなかったoだからそれらの観念をミルの思想に対す る-リニットの積極的影響に帰することほ誤りであるoそのことはまたミルがその草稿の 特殊な形態における諸観念を承認していなかったから哲学的にも正しくないのである.」5, 次にパップはミルの『天才静』と『技術論』. (OnArt,. 1831)の内容を検討して-リェッ. トの草稿へのミルの影響を強調するのである。彼によれば,. 『天才論』ほパックが主張し. たごとく-リェットの草稿に指導された新しいミルの最初の言明ではなくて,. 1828年にロ ウバックとの討論でとりあげたものを展開したものであるoまた政治的順応と宗教的順応. への攻撃は功利主義の世襲財産のひとつであり,科学と技術との区別も-リェットと出会 う以前のミルの著作に見出されるものである。さらにパップは-リニットの草稿の主要テ 「-リェッ ーマである「個人と世論」との関係を解明して次のように結論するのである. トの草稿で採用された無条件のロマン主義的個人主義ほ,すでにロマン主義の段階を経過 していたミルにとって未知のものでほなかった.それほ擁護すべき独創的態度でもなかっ. たoその個人主義ほミルによってはこの徹底した形態でほ決して採用されなかった。だか ら-リェットの声高の叫び声を『自由論』の中の短い文章と対比することほ適切ではない のであるo. --・-リニットの草稿の最初の3ページほまったく一面的で徹頭徹尾ミルの忠 想のぶざまな模倣であり,、それほミルの方法,彼の著述の明瞭性と包括性と決して比救す ることはできないのであるoそしてこのことは決定的なことなので,. -リェットの草稿 ほ,ミルに新しい知的いぶきを与えるという意味においても,また問題の複雑性を認めて いるという意味においても,あるいはミルの解決を予見しているという意味においても, 『自由論』の論点を予示するものでほないのである.」8'「『自由論』はミルにとってほ社会 学と政治学への彼の貢献のひとつであったoそして他の領域への貢献と結合して彼のライ フワークの構築物であったo他方, -リニットの草稿ほ,この構築物の基礎のひとつを瞬 間的にでほあるが賢い少女の暖かい心で瞥見したものにすぎない。その草稿は,ミルの思 想とどんなに似ていようとも,その草稿が書かれた時期に-リニットのために書かれたミ ルの文章から集めることができるものである。」7' 注 1) 2) 3). J・S・ Mill; Autobiography, H・0・ Stuart Pappe;John. 4) 5) 6). M・. H・0・. Pappe;. H・0・. Pappe;. ibid., pp.. 7). H・0.. Pappe;. ibid., p.. H・0,. Pappe; St・. John. ibid., p. Packe;. John. oxford Mill. Paperbacks,. and. the. Harriet. of. John. Stuart. pp・. 153-157.邦訳pp.. Taylor. Myth,. p.. 228∼229.. 7.. 7.. The. Life. Stuart. Mill. and. the. Harriet. Mill,. p.. Taylor. 137.. Myth,. p.. 1l.. 19-20. 22.. 4,パップの反論〔(b). 『婦人の隷従』および『経済学原理』〕. パックによれば,結婚に関する-リニットの草稿が『婦人の隷従』に対してもつ関係は.

(12) J.S.ミルの思想と「-1)エツト・テイラーの神話」. 57. 寛容に関する彼女の草稿が『自由論』に対してもつ関係と同様である。つまり結婚に関す る-リエットの草稿は『婦人の隷従』の基礎となったものとみなされている。これに対し て,. ′くップは,ミル自身が『自伝』の中で男女間の完全な平等という確信は彼女から学ん だものではないと断言している文章を手がかりにして,結婿に関する-リニットの草稿と ミルの初期の見解とを対比して,彼女の草稿をミルの『婦人の隷従』のための未発達なも のとして評価する見解に反論を試みる。パップによれば,結婿に関する-リニットの草稿 は,女性の解放に関するミルの初期の見解に対する解説として書かれたものであった。彼. 女の草稿に先立って善かれたミルの草稿は, 有しており,. 『帝人の隷従』に通じる議論のはとんどを含. 「もしミルが他の論文を書かなかったとしても,この論文は彼の時代の散文. 集の中で重要な位置を占める」ほど卓越したものであった。たとえば,ミルは「男性と女 性の問に自然的不平等ほない。. -・・-もし男性と女性とが依然として不平等であるならば,. その障害は--人工的感情と偏見にある。」1'と述べて,. -リニットに要点を提示してい. る。ところが,. -リニットの草稿は,むしろ感傷的でミルの草稿に含まれる思想を反映し ていない。だが,繁くべきことは,その中で彼女ほミルに対して教師的態度で発言してい ることである。またその草稿にみられる-リニット特有の文章ほ,客観的には婦人の苦し みを,主観的にほポ-チャードによって明らかにされた彼女のマゾヒズム(masochism), 「ぁらゆる快楽ほ男性のものであり,あらゆる不快と苦痛ほ女性のものである。」を表現 している。ポーチヤードほ-リニットの知的優越性に関しては-イ-クーパックの見解 を継承したが,女性であったので-リニットの精神(anima)に感動せず,彼女のマゾヒズ ムを見抜いて彼女とジョン・テイラ-とミルとの関係を次のように分析したのであるo -リニットの整った陶の中にわ rだれも上品に飾られた黒い小さな頭の中にひそむ考え, きたっていた混乱(turmoil)にはとんど気づかなかった。彼女ほ夫を愛し,夫のそばでの 生活を愛した。 -しかし実際の生活は彼女にとっておそろしい衝撃であった。男の信じ られないほどの粗野と低劣なわがままがウェディングドレスによってどんなにかくされて いることか.. --こうして古典心理学のパターンによれば,性的きずなが喪失した結婚生 「長期にわたる交渉ののち,ハリ 活から誤解される気位の高い妻が出現したのである。」2' ェットは最終的にどちらの男も生涯の伴侶として承認しないことにした。それ以後,彼女 は二人の男性に対して心の友(Seelenfreudin)に過ぎないことを誇りとしたoそして二 人の男性は彼女に対してきわめて深い義務があると感じていた。彼女ほミルのために社会 的地位を犠牲にしなかったか。彼女は夫のために生涯の偉大な愛を放棄しなかったかo二 人の男性ほこの見解と立場とを承認せざるをえなかったのであるo」8' ・くップほ,. -リエットが二人の男性の支配をこのようにして承認させたというボ-チャ. ードの見解を承認するが,彼女のマゾヒズムがミルと夫との生活を絶望的に暗くしたとい 「彼女の性的交渉に関する嫌悪 う解釈に対してほ,部分的にその真理を承認しながら, 紘,現実からの無益な逃避であったのみならず,芸術と失地勺業績の創造とインスピレーシ ョンにおいて彼女に現実にもどる道を見出すのを可能にしたことが洞察によって正当化さ れるだろう。だが,ポーチヤードほ-リニットのマゾヒズムを確めることにおいて十分で.

(13) 58. 泉. 谷. 周. 三. 郎. ほなかった。それほ,ミルの説明のための慎重で公平な探究とは異なる抗議,. -リニット. の因襲と秩序に反対するラディカルな抗議を明らかにしていない.」4'と結論するのであ る。こうして-リニットの草稿と『帝人の隷従』との関係およびミルと-リェットの関係 を解明したのち,パップは,ミルの社会主義観における-リニットの影響について詳細に 検討するのである。 -リニットの知的優越性を強調する伝記研究者たちほ,彼女の独創性と偉大さを社会主 義へ接近するミル-の影響に,とりわけ『経済学原理』の改訂版における「労働者階級の 将来の見通しについて」という章への影響に見出してきた.たしかにミルほ『自伝』の中 で『経済学原理』において妻のはたした役割を次のように述べている。 「この書物を,いささかなりとも科学的と誇称した在来のすべての経済学解説書と区刺 し,それら在来の書物にあきたらなかった人々に経済学に対して好意を持たせるのに大 きな一役をつとめさせたあの全体の調子は,主として妻の力によるのであった。その調 子はどこから生まれて釆たかというと,それは主として,富の生産の諸法則とその分配 の方式との問に当然な区別を立てたことから生み出されたo ・-・・・経済法則は自然の必然 性だけによってきまるのでほなく,それと現存の社会機構との組み合せによってきまる のだから,当然それは一時的なもの,社会改良の進歩によって大いに変化を受けるべき ものと,本書特級ったわけである.実ほ私のこういう見解は,サン・シモン派社会主義 老たちの所説を考察することによって私の頭によびさまされた考え方からその一部は発 したものだったが,それが全巻にゆきわたってこの著作に生気をふきこむ強い指導原理 となったのは,妻の刺戟によるものであった。」5) パックとポーチヤードほ『自伝』におけるミル自身のこれらの文章を手がかりにして 『経済学原理』における-リニットの貢献を高く評価するのである。パックほ, 「-リニ ットがミルに対して徐々に行使Lてきた影響力はいまや完全な優越性に変わった。」6'と述 べ,ミルが社会主義の拒絶を撤回するようにという彼女の要請を受け入れて彼の社会主義 観を変化させたのだと解釈した.ボ-チャードほ,. 「ミルが彼自身の時代とイギリス史に. どのような影響を与えようとも,それらほ等しく-リニットに帰せられなければならな い.ミルの著作によって社会主義と今日の福祉国家に対して与えられた強力な刺戟ほ,ミ ル自身よりもはるかに多く-リニットに帰せられなければならない。ミルの『経済学原 理』ほイギリスに社会主義をもたらそうとするどんな他の著作よりも多くの貢献をなし た。」7'と結論するのである。これらの見解に対して,パップほ,最初にミルの労働者階級 観の形成を考察し,次に彼の社会主義観の変化を-リニットなどとの書簡に基づいて検討 して反論を試みている。ところで,. ′ミックほ『経済学原理』におけるミルの労働者階級観 の変化を次のように説明している。ミルは『経済学原理』を1845年の秋に書きはじめ,原 稿完成後1847年3月から12月までその原稿に手を入れた。 -.)ェットはウォルトソ(Wa1ton)からその進行を見守り注意深く検閲した。そしてミルが社会主義を近い将来には空 想的なものとみなしたことに同意したが,ユ-トピアの描写において貧しい人々のた捌こ はとんど希望を与えていないとしてそのブルジョワ的調子に反対し,労働者階級のために.

(14) 59. ∫.S.ミルの思想と「-リエツト・テイラーの神話」. 一章を付加するように示唆したのである。パックほこのように解釈してカーライル流の親 権主義の拒否,労働者階級を平等なものとみなす主張などを-リニットの貢献に帰したの である。しかしながら,パップはパックの見解を証明する決定的文献があげられていない 『経済学原理』にみられるミルの労働者階級観が-リニットの影 ことを指摘したうえで, 響によるものでないことを示す決定的証拠として, プスの著書『労働者の要求』 (The. Claims. 1845年に発表された,アーサー.ヘル. of Labour)に対するミルの書評8'をあげるo. ′くヅプによれば,ミルはこの書評の中で労働者の諸問題に関する彼の見解を述べており,. そこにほ『経済学原理』で展開される彼の労働者階級観の原型が見出されるのであるoそ れゆえ,労働者階級の将来について,ミルは-リニットがその必要性を強調する以前に, 『経済学原理』の中に -リニットがなしたことは, 考察していたのである。したがって, 『労働者の要求』に対する書評でミルが述べた労働者階級観を含めるように説得したこと なのである。だが,. 『経済学原理』の改訂版における-リニットの役割を重視する伝記研. 究者たちほ,彼らの見解を支持する決定的証拠として『自伝』における次のようなミルの 言葉を引用する。 「『経済学原理』の中で,他のどの葦にもまさって世論に大きな影響を与えた「労働者階 級の将来の見通し」の一章は,完全に妻に負うものであって,同書の最初の草稿にほあ の章はなかったのである。妻は,そのような章の必要なこと,それがなくてほ全体がい かにも不完全であることを指摘した。妻が,私にそれを書かせたもとであり,その章の 比較的概論的な部分,労働者階級の正当な生活条件に関する二つの相対立する説を述べ てそれを評論しているあたりほ,完全に妻の考えを解説したものであり,時には言葉ま でが彼女のロから出たものであった。」9). パップは,この文章について「前半の部分ほ反対しようがないし,真実を伝えているよ うに思われる」と述べているが,後半の部分は-リニットを誇張して讃美するミルのいつ もの習慣がでたものであると解釈して,この文章が-リニットの役割を決定的に証明する ものでほないと反論するのである。その理由として,ミルの労働者階級観がすでに『労働 者の要求』の書評で診ぜられていたことをあげるとともに,この問題は当時知識人の間で 活発に論議されていたものであったことを明らかにしている。次にパップほ,ミルの社会 主義観の変化をとりあげ, 『経済学原理』の初版における社会主義に対する否定的見解が, 第二,第三版で大幅に修正された原因のひとつとして1848年をめく小る政治状勢の変化を指 摘する。 1848年フランスに二月革命がおこり,第二共和政が成立した。臨時政府の閣僚の中にほ 二人の社会主義老がはいっていた.この二月革命は「新しいフランス革命」として全ヨー ロッパ・アメリカ大陸にまで大きな反響をよんだ.また同年マルクスによって「共産党宣 言」が発表された.イギリスではチャーティズム運動が衰退するとともにF・D・モー1)ス などを中心にしてキリスト教社会主義の運動がほじまったoいずれにしても, 会主義者にとって画期的な年であったo. 1848年は社. ミルの『経済学原理』の第一版は二月革命以前に. 完成し,二月革命の勃発後公刊された。彼がこの著作を執筆当時社会主義はまだユートビ.

(15) 60. 泉. 谷. 周. 三. 郎. アの段階にあり,経済学の教科書の中心問題ではなかった。しかしながら,二月革命が起 り世論に多大な衝撃を与えたのち,社会主義ほ政治的可能性のあるものとなり,経済学 の究明を要するものとなった。ミルほ1848年11月に手紙の中で次のように述べている。 「私ほ社会主義老によって提唱された私有財産の廃棄という具体的プランに対する私の反 対意見を控え目に論証的に表明した。しかし,多くの他の重要な点について,わたくしほ 彼らに同意する。それどころか,彼らこそ人類の現在の状態における進歩の最大の要素で あると考えて尊敬を感じている。もしわたくしが社会主義について書いたあの章が,大陸 での最近の革命以前でほなく以後に善かれていたならば,社会主義に関する見解をより十 分に展開し,より公平に書くことができたであろう。」10'/くップほ,ミルの社会主義観を浮 きぼりにするた捌こ1847年から1852年にかけてのミルの書簡を検討して,彼の社会主義観 の変化の主要な原因が時代の推移にあったこと,およびミルの見解に生じた変化が原理の 問題よりも適用の問題に関係するものであったことを明らかにするのである。ところが, 『経済学原理』の改訂版における-リニットの主導説を説くパックやポーチヤードほ,. 1848. 年の二月革命などに衝撃をうけたのは-リニットであったと解釈する。パックによれば, 彼女はその衝撃のもとに『経済学原理』の第二版で社会主義と共産主義に対するミルの否 定的見解を修正するように要請したのである.これに対して,パップは,この解釈が-I) ニットの社会主義をめく小る手紙の内容を検討して, -リニットの批判が『経済学原理』の 中心点にふれていないことを明らかにして,彼女の意見が改訂版における強調の変化に影 響していることを認めつつ,パックとポーチヤードの見解が-リニットの役割を誇大にメ ロドラマ化していると主張する。そしてミルが-リニットとこの問題で文通して検討する 以前に, 1849年4月の『ウェストミンスター・レヴュー』の「二月革命の擁護」(Vindicatio□ of. the. French. Revolution. of February,. 1848)の中で,. 「社会主義は,なんらか. の精神的活動をもつあらゆる時代に多かれ少なかれ社会的利益の不正な分配に反対して生 じてきた抗議の現代的形態である。 --しかし,人類の運命における不正な不平等を正す た捌こ社会主義が提唱する手段について不信をもつのに比例して,われわれにほ哲学者と 政治家とが現存する社会機構の改造によって同一の目的をもたらすために最善の努力をな すことが義務であるように思われる。」11'という文章をあげて,この論文の中に『経済学原 理』のそれ以後の版における戦術上の変更が予示されていると主張するのである。したが って,. 『経済学原理』の第二版以後における修正は,政治状勢の変化・. などをふまえたミル自身の思索の結果であった.. -リェットの忠告. ′くップほ,こうしてミルが-リェットの. 権威に従って彼の社会主義観を変更させたという解釈は,伝記的観点からも哲学的にも正 しくないと結論するのである。. ・くップによれば,イギリスの社会主義ほその特色をミルの『自由論』と『経済学原理』 から吸収したのである.それほミルの影響によって教条主義的でなくなり,穏健なユート ピアをもつようになったのである。だからミルがイギリスの社会主義に対して与えた貢献 ほ次のように要約される。. 「ミルは社会主義の到来を予想した人々のひとりであった。彼. は人々に新しい社会的経済的状況においてあわてないように忠告し,新しい風潮によって.

(16) 61. ∫.S.ミルの思想と「-リエツト・テイラーの神話」. 流されずあるいほ逆らって進まないで,分析と経験的洞察に基づいて彼らの主体的判断を 行使するように勧めた。この彼独特の業績において,ミルは-リニットの個人主義ないし 社会主義への傾斜ないし憧れから顕著な援助をうけなかった。. --ミルは厳格な必然性を 信じる予言者でほなかった。彼は少なくとも次の教説を実践しようとした最初の人であっ た.その教説とは,.経済学ほ一つの科学であるから,その結論は人間の行為に関して強制 力をもたないものである。それは科学としてある行動様式はかくかくの結果に導くことを 教える.しかしながら,それらの結果の価値について判断し,その達成のためにどの手段 がふさわしいかを決定するのは各人なのである。」12) -. 以上,パップは「-リニット・テイラーの神話」が真実であるといえるかいなかを, イユク,.iック,ポーチヤードとまったく同一の資料を用いながら綿密な検討にもとづい て,. 「ハリ. -リェットの神話を立証することはできないとして,次のように述べている。. ェットの知的優越性のために,ミルの伝記研究者によってなされたさまざまな主張ほ証明 することができない。彼女の初期の草稿ほ,彼女がミルに従属していたことを明らかにす る。彼らの協力の後期において,. -リニットがミルの心を新しい地平に向けたあるいは彼. の思想に予期しない意味を与えたということは証明されない。彼女の知的優越性を強調す る主張は反証のまえで,すなわちミルの思想形成史についての知識のまえで崩壊してしま う。 -リェットに対するミル白身の讃辞は一般性の中で溶解してしまう。ミルの彼女への. 好意は彼が見た真理そのものを告げる義務を決してゆがめほ〔なかったのである。」1S'パッ プは,このように述べて「-リニット・テイラ-の神話」の追放を宣言するのであるoそ -リニ して最後に「ミルは-リニットがいなくとも,やほりミルであったろう」と語り, (fellow-soldier)とみなして,彼女 ットを「旅友達」 (fellow-traveller)ないし「戦友」 のこうした第二次的貢献をわれわれの知的遺産における第一次的影響に高めるべき理由が. 何もないことを強調するのである。 注 1) 2) 3) 4) 5) 6) 7) 8). Ⅲayek;. F.A.. Stuart. R.. Bochard;. R.. Bochard.,. ibid・, p1 67・. Mill. John John. H.0.. John. Pappe;. Stuart. Stuart. Harriet. Mill,也e. Man,. Mill. the. and. Taylor,. J・S・. Mill;. The. Claims. γol.ⅠⅤ. 1967,. pp・. of. Labour,. pp・. Harriet. Essays. 64・. p・. 41-42・. Myth,. Taylor. p・. 291. 213-214・. 148-149・ pp・ pp・ J.S. Mill; Antobiograpby, the Life of John Stuart M. St. John Packe; p・ R. Bochard; John Stuart Mill, the Man, Vorks,. Mill,. p・. 316・. 99・ on. Economics. Society,. and. 363-390・. 9) ∫.S. Mill; Autobiography, Pappe; John Stnart 10) H.0. ibid・, Pappe', p・40・ ll)日.0. 12) 13). and. p・. Mill. 45-46・. H.0.. Pappe<.. ibid・, pp・. fI.0.. Pappe;. ibid・, p・ 47・. 148・ and. 213・. p・. the. Ⅲarriet. Taylor. Myth,. p・. 37・. Collected.

(17) 62. 泉. 谷. 周. 結 以上において,ミルの思想についての諸見解, の見解を考察してきた。パップほ,. 三. 郎. 語 「-リニット・テイラ-の神話」,パップ. 1951年にミル夫妻の往復書簡集刊行以来,. -リェット. の知的優越性に関するミル自身の言明を言葉通りに受けとろうとする伝記研究者たちに反 対して,彼らとまったく同一の資料に基づきながら綿密な検討を通じて, 「-I)エットほ ミルの仕事を手伝い,その仕事に理解を示し簡極的関心をもっていたという明白な事実」1, に彼女の影響力を認めたが,このような第二次的貢献を第一次的影響に高める理由を見出 すことができないと結論した。パップの見解ほ, -イ-ク,パック,ポーチヤードなどの 解釈が-リニットの役割をミル自身の言明を手がかりにしてあまりにも高く評価して,ミ ルと-リェットの位置を逆転してしまっていることを具体的かつ実証的に解明した点でき わめてすく小れたものといえよう.われわれはミルと-リニットの関係を考察する場合に, 基本的にはパップの立場に基づいて,相当有力な根拠なしには彼女の第二次的貢献を第一 次的影響力に高めないように留意しなければならないだろう。しかし,わたくしにはパッ プの見解もまだミルと-リニットとの関係を浮きぼりにしているとほ思われない。パップ. ほときどき「-リニット・テイラーの神話」の追放を意図するあまり,ミルの立場にほ好 意的に彼女に対しては不当に厳しく評価しているようにみえる。パップほ言う,. 「ミルは. ハリェットがいなくてもやはりミルであったろう」と。換言すれば,ミルほ-リニットが いなくても『自由論』. 『経済学原理』『帝人の隷従』などを書くことができたことになる。. はたしてそうだろうか。ミルは-リニットがいなくてもそれらの著作を書いたかもしれな い。しかし,そのとき著書の内容は現在のものとほ異なっていたであろう。この差異こそ ∫.M.ロブソンが主 ミルと-リニットとの共同作業の意義を示唆するのではなかろうか。 「実際には,ミルは彼女がいなければ,それらの著作を書くことができなか. 張するには,. った」2'ということなのである。なぜなら,. -リニットはミルにとって最も信頼する友人 であり,最愛の妻であり,かつ仕事の協力者であったからである。それゆえ,ミルと彼女 との関係にとって重要な問題ほ,. 「-リニットはどのようにしてミルの仕事に著しく貢献. したのか」ということである。この点に関してほ,パップの見解ほまだまだ不充分である ように思われるoだが,これを理由にパップを批判することほ酷であろう。というのほ当 時ミル夫妻の往復書簡集という資料を利用できたとはいえ今日からみれば,まだまだ重要 な資料を欠いていたからである。 パップが『ジョン・スチェア-ト・ミルと-リニット・テイラーの神話』を刊行した翌 年の1961年に,ミルと-リニットとの謎を秘めた関係にスポットライトを投じる画期的な 資料が公開されたoそれはJ・ステイリンガ-の編集による『ミル自伝初期草稿』 Early. Draft. of John. Stuart. (The. Mill's Autobiography)がイリノイ大学から刊行されたこ. とであるoこの『初期草稿』ほミル『自伝』の成立過程とその内容の変化について貴重な 資料を提供したのであるo8'ステイリンガ-の考証によれば,. 1851年の結頼までを記述し ている『初期草稿』ほ,ミルが1853年10月以前に書きはじめ翌年の1月にほぼ完成した最.

(18) 63. J.S.ミルの思想と「-リニット・テイラーの神話」. 初の原稿を,. 4月以後に-リニットと二人で数カ月かかって全面的に検討して手を入れた. ものである。その後1858年10月に-リニットが急死した直後,ミルによって再び『自伝』 の加筆・修正が試みられ,そして1861年までに全面的に手を加えられ,また夫人の死に関 する一節が付加された。さらに1869年に現行の『自伝』の最後の部分が執筆された.ミル 1861年, 1869年の三段階 『自伝』は, 『初期草稿』の発見によって,このように1854年, を経て現在の形にまとめられたことが判明したのである。. 『初期草稿』により,ミルと-. リェットとの関係では次の四つの点が明らかになった。第一にはミルの-リエットに対す る最高級の讃美の言葉は彼女自身の承認のもとで書かれたことである。この驚くべき事実 を知って,われわれはミルと-リニットの′く-ソナリティーに疑問を感ぜざるをえないが, -リ‥ットがミルの限にとって彼のもつあらゆる欠陥を補う偉大な女性として写っていた ということだ桝ま真実であろう。4)ミルは彼女の中に現実に「カーライル以上の詩人,ミ ル以上の思想家,父以上の自由と進歩の鼓吹者」を見出していたからこそ「類い稀れな読 実性をもって」 『自伝』や書簡などで彼女を讃美し続けたのである.しかし,現実の-1) 『初期 ェヅトが,ミルが讃美したような女性でなかったこともまたほぼ明らかであろう0 「比類 草稿』の編者であるステイリンガ-ほ,この点について次のように解釈している. を絶した知性の持ち主としての-リニットは,主として彼の想像と理想化の所産であり, それほ彼が賢明で支配的で,ある点では頑固で利己■的で病弱な女性を必要としたからであ る。このような理想化ほ,生きた存在であるよりも,心の中でつくられ,また回想された ものであるoわれわれほ『初期草稿』の中に,このような欲求を見出すことができる.」5' 第二には最終稿では削除されているが, 『初期草稿』でほ彼らの交際の最初の数年間,. -. リエットがミルにおよぼした主要な影響が彼女の性格の詩的な諸要素であったという記 述がみられることである。このことほ,. -イ-クが「-リニットの影響によって主として 漁化されたのは,ミルの思想の感情的要素でなく,合理的要素であった」として彼女の知 的影響力を重視したが,実際にはレズリ-. ・スティーブンの指摘した彼女の感情面での影 響力重視説が適切であったことを示している。第三にほミルと-リエットとの約二十年間 にわたる交友関係がプラトニックなものであったことを暗示する次のような文章がみられ 「われわれほ,動物的な欲望の奴隷ではないすべての人がそうでなければ ることである。 ならないように,最も強く嵩高な友情は,男女間においてほ性的関係なしには存在し得な いとか,他の人々への顧慮や思慮分別や人格的尊厳が要求するときにも,そのような低級 L・S,・フォイヤーに な衝動を抑えることはできないというみじめな考え方を軽蔑した.」6. ょれば,ミルが-リエットに対しで性欲を抑制した二十年間の緊張ほ,それなりの代価を 強要することになった。そのひとつほ,ミルは性的緊張を和らげるために彼女とともに性 的衝動の強さを重視する人々に対して軽侮の態度をとるようになったことである.他のひ とつほ,ミルの経験はあまりにも禁欲的に耐えることであったので,社会に対して永続的 嫌悪感をもつようになり,社会学的ペシミズムを展開したことである.7'第四には『自伝』 の成立過程の解明を通じて,ミル夫妻が著書を完成するまでどのような共同作業をしたか 『初期草稿』はたしかに という過程がある程度ほっきりしたことである。これらの点で,.

(19) 64. 泉. 谷. 周. 三. 郎. ミルと-リェットとの関係の解明に多大な貢献をなしたけれども,ミル夫妻の人間像にま つわる「神話」があまりにも複雑なこともあって,それを追放することはできなかった。 われわれの限にほミル夫妻の人間像ほ依然として霧に包まれたようにぼんやりとしか見え ず,彼の著作や手紙などを手がかりにしてその実像をあれこれと推測するだけである。だ から現代においてもミルに関してユニ-クな見解が主張されることも決して奇異なことで ほない。たとえば,. G・ヒンメルファーブほミルの思想形成をふまえて『自由論』の内容. を検討した結果,それが彼の他の著作と著しく異なる論調をもつことに注目して, 論』を七年半の結婿生活が生みだした特異な作品とみなして,. 『自由. 『自由論』のミルと「もう. 一人のミル」との区別を強調した。8'彼女のミル研究には-リニットの知的な能力と知的 な影響力との区別など傾聴に償いするものを含んでいるが,ミルの思想を把握する根本的 な点で,虚像にとりつかれてしまったように思われる。 ミルと-リェットとの関係を考察する場合に,伝記研究者にほ二つの落とし穴がある。 ひとつほミルの思想および人柄に傾倒するあまり,ミルの思想をつねに発展的にとらえよ うとして彼には好意的に接し,. -リニットの役割に対しては二次的にのみ評価しようとす る研究態度である.他のひとつはミルの思想のなかに若干の矛盾を見出してそこから一つ の仮説を設定してその仮説の立証にのみ専念しようとする研究態度である。どちらの態度 も極端になれば落とし穴であり,前者では感動をそそる虚像が説かれ,後者では「神話」 や「二人のミル」といった形で虚像が語られることになる。その態度が平衡を尊ぶ良識と 確固とした方法論によって支えられているかぎり,健全なものといえよう。ともすれば, ミル研究者ほ彼の思想を首尾一貫した形で明確に把握したいと願う.だが,それほ研究者 の悲願としてほ理解できるが,現実にほ不可能なことであろう.というのほ,ミjレは偉大 な体系的思想家ではなくて折衷的性格をもつ思想家だったからである。ミルが偉大なの は,彼がなにかを体系化し成就したからではなくて,彼が生涯を通じて直面した諸問題に 対して類い稀れな誠実性をもってぶつかり解決しようと努めたからである。われわれの課 題はミルのそのような姿勢を支えているものを探ることではあるまいか。そのためにほミ ルの人間観および-リニットとの関係についての考察がとりわけ重要である。ミルほ,ベ 20歳の秋に ンサムとジェイムズ・ミルの計画に従ってベンサミズムの権化として成長し, 「精神の危機」を体験した。彼がコールリッジ,カーライル,ワーズワースなどのロマン. 主義の力によってこのスランプから抜けだしてまもなくテイラー夫人と出会った。それか ら二十数年間にわたる-リニットとの交友関係のなかで彼の人間観はこきざみにでほある が何度となく動揺したことと思われる。とりゎけ功利主義とロマン主義との遼遠および時 勢の変化が彼の人間観に衝撃を与えたのである。ミルはベンサム流の功利主義とロマン主 義のどちらにも真理がかくされていることを見抜き,両者を折衷しようとする立場をとっ た。それだ桝こ人間観には動揺があったのでほなかろうか。また彼の「改革衝動を,社会 的愛情に裏づけさせるように,より人間的な土台を与えた」9'のがテイラー夫人であった。 ミルの人間観と-リニットとの関係という問題の究明は,今後の課題として残されてい る.わたくしは,ミルの人間観を生涯にそって忠実に解明したうえで,もう一度ミルと-.

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