戦国前期遠駿地方における水運
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(2) 119. り返るなかで、西は紀ノ川河口から東は房総半島南岸に至るまで、太. 在状況を指摘するにとどまることである。静岡県は周知のごと-海岸. もいうべき浦・湊の地理的存在や、その間を航行したであろう船の存. 戦国前期遠駿地方における水運. 平洋沿岸の広域にわたり甚大な被害をもたらした明応七(一円九八). 1九九五年1月に兵庫県南部地方を襲った阪神大震災は、神戸市や. ちは、与えられた条件の中で、如何に事実に即した歴史-水運の実態 -を描き出すことができるかどうかが問われているのである。. を遅らせている1つの要因であることば否めないであろう。わたした. はならないことを念頭におく必要があろうOただ、史料の欠落が研究. ろう。そして、史料の欠落が、水運そのものの欠如や衰退を示すことに. 料の欠落との問にI定の相関関係があることを考えてお-必要があ. 易に推測される。こうした事から、わたしたちは、自然災害と水運史. が、史料を損亡・流失させ、伝承を途絶えさせたであろうことば、容. ており多大の被害をもたらしている(4)。こうした度重なる自然災害. こり、近世になってからも元禄年間に大地震津波がこの地方を襲っ. はなく、比較的短期間の問に繰り返し地震津波や河川の洪水が引き起. での自然災害による被害は、この明応七年の大地震津波につきるので. な実状を把握することばできないoただ、この時期におけるこの地域. 紀ノ川河口の港湾の被害とその復興について明らかにしたような轍密. とについても、上述のような史料的条件によって、矢田俊文氏(且が. き問題は、明応七年の大地震津波の被害状況についてである。このこ. かじめお断わりしておかなければならない。次に、第二の前提とすべ. とから、本稿が、あくまで推定の域をでないものであることを、あら. いずれにしろ、断片的な記事や文言を頼りとしての実態解明であるこ. 来せず、現存していないかということ自体、考えてみる必要があろう0. 線が長く、後述するごと-江尻をはじめ中世において名の知られた何. 水運といいながら、その実明らかにしうるのは、僅かにその根拠地と. 合わせていくしか、そのことを明らかにしうる条件はない。そのゆえ、. あるいは、戦記・軍記物のなかにみられる断片的な記事や文言を繋ぎ. た史料は残念ながら見いだせない。各大名の発給文書や旅人の紀行文、. しかし、その三千七百点以上に及ぶ史料の内に、水運に関わるまとまっ. の実態を解明するための史料的条件は1応整ってきたといってよいo. 関わる史料をはぼ悉皆的に収載している。この時期の遠駿地方の水運. 象とする戦国時代前期〕を対象としており、その間における静岡県に. 代(文明十l-一四七九年から永禄十二=一五六九年まで、本稿の対. 九九四年に刊行された資料編中世三は、戦国大名今川氏の統治した時. 十数年来の 『静岡県史』編纂事業は、その終息を迎えつつあるが、一. もいうべきことに触れておきたい。それは史料的条件の問題である。. なお、戦国期遠故地方の水運の実態を解明するに際して、その前提と. 問題提起に触発されてのものであることを、まず指摘しておきたいo. るのか、改めて考えてみる必要があろう。本稿は、こうした峰岸氏の. て、峰岸氏のこうした問題提起が妥当であり、事実に即したものであ. 論文が嘱矢であり、その点注目すべきものといえよう。しかし、果し. 大地震津波による自然災害とを関連させてみる視角は、峰岸氏のこの. 太平洋沿岸における水運や海上交通の問題と、同地方を襲った明応の. 状への復帰は不可能であった」と、着目すべき問題提起を行っている0. 東の太平洋水運を衰退させ、「極言すれば近世に至るまで、(中略). 年の大地震津波に注目し、その水運に与えた破壊的影響は、当該地域. ′ヽ. 箇所かの湊も存在していたにもかかわらず、なぜまとまった史料が伝 旧. の政治的変動とあいまって、十五世紀に比べて、十六世紀の伊勢-関. 有光.
(3) 118. 復旧の量や速度(復興の総体)との間には、1定の相関関係があるわ. を見張らされる。巨視的にみれば、経済の発展(経済力・到達点)と. 題や弱者救済の問題は残るとしても、その復興の槌音の確かさには日. 日、住民のライフ・ラインや交通手段ははぼ復旧し、都市再開発の問. の年貢等の納入は米が主であり、この方は海上輸送で行われていた。. 東海地方には熊野三山領や伊勢神宮の御厨・御園が多く、それらかち. れに対して米などの重貨の場合には海上輸送が行われていた。また、. ものであって、これらは棄海道を使っての陸上輸送が常であった。こ. られる年貢の多-は銭貨であり、物納の場合も絹や紙といった軽貨の. まず、東海地方の荘園から京都を中心とした荘園領主のもとに納め. けで、前近代においても、1時的な退歩が考えられたとしても、決し. そして、時代を経るにしたがって、年貢等の責納物から商品物資の輸. 淡路島に壊滅的ともいえる被害を与えた。しかし、二年近くたった今. て長期の衰退を招-ことにはならないということも、念頭においてお. 送の度合いが強まり、水運の発達がみられるとされる。しかしながら、. 京都から下向する場合、鈴鹿峠を越え、伊勢湾沿岸の安濃津辺りから. 次に、東海地方を行き来した旅人の交通手段としては、中世では、. をあげて指摘された事例は必ずしも多いとはいえない。. 遠駿両国に限ってその論証のあとを検証してみた場合、具体的に史料. くべきであろう。. 峰岸純夫「中世東国水運史研究の現状と問題点」(峰岸・村井. 峰岸純夫前掲論文。. 章介編『中世東国の物流と都市』山川出版社、1九九五年). 矢田俊文「明応七年紀州における地震津波と和田浦」(『和歌山. 乗船するが、大概は伊勢湾を横断して三河国の詩湊に上陸し、そのあ. とは陸路を使っているとされる。わずかに応仁元(一四六七)年に武. 蔵国品川湊の知り人から船の提供を受けた連歌師心敬が、伊勢国から. 品川湊へ海上を渡った例がみられるだけである。また、逆に上洛の場. 合も同じ-三河固まで陸路で、そのあと伊勢湾を横断するということ であった。. そして、以上の叙述から、建武年間の史料にみられる志摩国の廻船. 業者道妙が駿河国江尻湊に出店を設け、大船四般を一族を以て運営す. 本書において、遠駿地方を含む東海地方の水運の状況についても随所. いことを示唆されているようである。少なくともそのように受け取れ. 東海地方における海上交通・水運はそれほど盛んであったとはいえな. るという同族経営を行っている例も触れられているが、全体としては、. に叙述が展開されている。ここで、戦国期以前(一応明応以前)の中. る叙述になっている。. そして、氏は、その要因として、繰り返し次の二点を指摘されてい. 完. まとめてみると次のようなこととなる。. 戦国前期遠駿地方における水運. 有光. 世後期に関わって触れられていることを、誤解をおそれず撞い摘んで. 新城常三氏が、最近、その成果を集大成されて『中世水運史の研究』 T)を上梓された.多岐にわたる史料を駆使しての包括的・体系的な. 中世の水運史について、長年にわたってその実態を追究されてきた. 1、明応以前の東海水運. 2「自然災害誌」を参照されたいo. これらの自然災害の実状については、近刊の『静岡県史』別解. 地方史研究』ニー号、一九九一年八月). 物. 川 櫛 仙.
(4) 117. かなり迂回せざるをえず、海湾の屈曲も少なく、風よけの自然の良港. 悪」(三-1七三)(q)の字句を掲示して、海上交通は'陸路に比して. 年ごろに記された禅僧景徐周麟の詩文にみえる「解凍東海之上風波甚. ついても、他の街道に比を見ない便があったこと。第二には、明応元. 駅、旅宿等の交通施設も整備され'人々の交通のみならず物資輸送に. る。第一には、東海道が、棄西南政権を結ぶ大動脈として存在し、宿. 遠江国懸塚轟から駿河国小川湊まで海上二十里を船で渡った際に、そ. 七(一四八五)年に太田道濯の招きで関東に出掛けた禅僧万里集九が、. 地方と無関係であったとは到底考えられないであろう.現に、文明十. 伊勢方面と関東地方とを結んでいた水運が、その中間に位置する東海. 野・伊勢商人鈴木道胤の存在も浮き彫りにされている(4)。こうした、. 氏によって、紀伊・熊野・畿内方面と品川湊との間の廻船業を営む熊. 実も綿貫友子氏の研究(且で明らかにされている.さらに、永原慶二. 戦国前期遠駿地方における水運. に乏しく、また、途中には長い遠州灘の難所があり危険をともない、. で、「舟子逮. したかぎりの史料状況においても納得しうる見解であるといえる。わ. な史料や事例を持ち合わせているわけではなく、むしろ、筆者が目に. して、湊に出入りし着岸している大船が多く、船頭は勝岸場所に迷い、. 三)と記している。すなわち、集九を乗せた船の小川湊での着岸に際. 津、騰岸移刻、小河大船多、而道路甚汚稜、無可投脚之地」(≡-六. たしたちは、史料に裏付けられた実証的作業の結果としては、戦国期. の上げ下ろしなどによってであろうが、非常に混雑し汚れているといっ. た状況が、この一文から浮かび上がる。当時の小川湊の般賑振りが想. 時を空費したこと、また、湊の道路は、おそら-は人々の往来や物資. らずしも、他の地方で描きだされている程に発展していたとみること. 像できよう。. この段階におけるこの地域の水運を過大に評価することば危険であろ. ると、新城氏の研究に導かれて先述したこの時期の全体的な水運状況. 諸事象もそれなりに拾いだすこともできるのである。ということにな. このように、中世後期における東海地方の水運状況を積極的に示す. うということである。かといって、筆者は、この時期のこの地方にお. との間には、大きなギャップを感ぜざるをえない。おそら-そこには、. 明応大地震津波に代表される史料の損亡・流失という問題も介在して. 業者道妙の弟定願が、関東渡海船=江尻船を保有して、手広く商業活. 発展も見通すことが必要ではないかということである。ことの両面を. がらも、陸上交通を補完するかたちでこの地方における水運の着実な. いるのであろうが、そうしたことだけでな-、悪条件のもとにありな. 動を行っていたことは、「光明寺古文書」などからよく知られている. 本稿では、陸上交通の発展と海路の困難性のなかで、成立・継承さ. 可能な限り正確に測り、位置付けていく必要があろう。 国品川湊に出入りしていた商船の船籍が、多く伊勢国大湊であった事. ことである(二-一二六・〓ハl・1六八)oまた、十四世紀末に武蔵. 前述もしたが、建武年間には駿河国江尻湊において、志摩国の廻船. ない。. ける水運の状況を否定的、消極的に受けとめて事足りるとは考えてい. けとめておくべきではないかと考える。換言すれば、わたしたちは、. はできず、陸上交通を補完するかたちで成立していたというように受. 以前の中世後期における東海地方の水運状況は、以上のごとく、かな. 以上の新城氏の研究ii対して、筆者は、異議を差し挟むような新た. の小川湊の賑わい振りを、その漢詩文集「梅花無尽蔵」. ⊂=). その上運賃が割高であったことによって比較的少なかったこと。. 有光.
(5) 116.
(6) 115. 戦国前期遠駿地方における水運. ある。永正七年の地震津波では、次のように伝えられている。. 今立永正六年ノ秋、(中略)八月廿七日・同廿八日ニ、遠州ノ海. れてきた中世後期の水運状況をうけ、明応の大地震津波の被害をくぐ り抜けたところの、これまで研究の手薄であった戦国前期の遠駿地方. 震津波以後、「今切」によって湖口が開き、その渡海がより困難にな. こうして、従来からも浜名川を渡る渡船もあったようであるが、地. 中心地に移住し再興したと伝承されている(且。. 地震津波によって水中に没し、水没を免れた三十六戸が現在の舞坂の. という地名でみえ、浜名川砂噴上に形成された集落であった。やはり、. 1方、「今切」の東側の舞坂も、鎌倉期から「まいさわはら」など. や東の湖岸山際の中之郷に形成された新居宿に移ったと思われる.メ. 二度の地震津波で多くの人家が押し流されたようで、その機能は、や. 筋の宿駅として、各種史料に頻繁に登場する。しかし、明応・永正の. まず、「今切」の西側の橋本であるが、すでに平安末期から東海道. (≡-五二二). 辺移ク波打来テ、数千ノ在家ヲ流シ捨テ、死亡スル者数ヲ不知、. 番号1七三.以後、(三-l七三)などと略記し、本文中に明記 することとする。. O月)他o. 綿貫友子「中世後期東国おける流通の展開と地域社会」(『歴史 学研究』六六四号、1九九四年l. 永原慶二「熊野・伊勢商人と中世の東国」(小川信先生古希記 念論集『日本中世政治社会の研究』続群書類従完成会、一九九一. 二、浜名湖沿岸における水運. 戦国前期の遠駿地方における水運の実態を、浜名湖・遠州灘・駿河 湾西、そして同奥沿岸地域に分けて順次みていきたい。 まず、浜名湖沿岸地域であるが、浜名湖はかって砂噂によって外海 とは閉塞されていたが、次の記事にもみられるように、明応七年及び 永正七(一五一〇)年の地震津波などによって、外海と通じるように なり、その湖口部は「今切」と呼ばれるようになった。 [稚】.. 明応七年八月廿五日、諸国大地震、遠州前坂卜坂本ノ間ノ川二津 波入り、l里余ノ渡シトナル、是ヲ今切卜号ス、(1) ここにみえる川は浜名川と呼ばれていた。鎌倉期の紀行文. 紀行」)では、そこに東名橋という橋が架けられていたということで. (「東関. 所ヲ今切ノ渡-ト名付ケリ、. の水運状況を可能なかぎり描きだすことを課題とするものである。 川 惚 榔 繊. 「翰林萌産集」三、『静岡県史』資料編「中世」三所収、史料. 陸地三十余町悉海卜成テ、旅人俄二船ヲ設テ往行ス、其レヨリ此. 【七]. 新城常三『中世水運史の研究』塙書房、1九九四年.. 甘口EE. 有光 【t]. の伊藤太郎左衛門と同族であった可能性がある。. 次の天文末年ごろと思われる法華衆「参詣道中日記」にみえる白須賀. 京商人なども滞在していたことがわかる。文中の「関屋之物伊藤」は、. 坂卜云ニー宿了、宿主源三郎云々」(≡-二三五七)と記されており、. 人。同喪にて書状調、沢緒方へ言伝了、次海上1里余波之、過1里前. 大蔵卿方江言伝著書状等、関屋之物伊藤。添書状テ渡之、又下京之商. 「(白須賀から)又過1里今寺レノ渡也、舟渡シ遅々、此所にて持明院. たとえば、弘治二(1五五六)年に駿府に下った山科言継の日記に、. されるようになったと思われる。. ることによって、両岸の新居と舞坂を結ぶ「渡り」の機能がより強化. わた. 年).
(7) 114. 同二十四日、しらすかこ着、道十二里、宿主伊藤太郎左衛門、其. おそら-湊の位置は、渡り場に近い、外海よりは浜名湖の内海に面. (四月). していたであろう。こうして、明応・永正の二度の地震津波によって. (国府). 間にミつけのこう、天りう川渡、ひきま、今きれの渡りとする、. られ、領国の防備の役目を負うとともに、保護の手が加えられ、渡り. 生じた「今切」の両岸の新居と舞坂は、今川氏によって、関所が設け. 対岸の舞坂(前坂)については、永禄十二年の文書であるが、徳川. 場及び湊として発展し、旅宿が立ち並び商人の往来が激しかったこと. (≡-二二六五). 家康が、家臣江間一成にlニ十一貫文の知行とともに船五娘の権利を安. がわかる。. 次に、浜名湖の内海に日を転じてみよう。そこには、善美・村櫛・. 堵している(三⊥ニ六〇六)。おそら-この船は、「今切」の渡船とし て使われていたのであろうOそして、今川義元は、天文二十二年の伊. 堀江・山崎・宇布見などといった船着場・湊(付図参照)があったこ. (朱印、印文「如辞令」.印形埼). 勢神宮への参宮者に対しても、「此参宮道者四拾余人、不及諸関船賃. とが種々の史料からうかがえる。. 飛鳥井雅康は、富士遊覧の紀行文に、明応八年に鷲津の本興寺法華. 之沙汰、路次無相違可通過之者也、仇如件、但、今切渡相定船賃可有 之」(三-二二ハ七)と、例外的に渡船の船葺の負担を命じている。. 木を提供した天宮社神主中村大勝亮を賞している。こうしたことは、. 於当宮木六本伐之畢」(三-三〇八六)として、渡船建造のために宮. ぅことば、次のことから推測される。すなわち、ここでは航路が逆で. にどこで船を待ったのかについては、鷲津に隣接する吉美であったろ. まつはと」(三-二六八)と記している。雅康が、宇布見に渡るため. 堂に一宿したあと、「寺をいて∼うふミのわたりをし侍らむとて、舟. この渡りが成立してまだ日が浅-保護を加える必要があったことをう. あるが、その宇布見の代官中村源左衛門が、今川氏奉行人の命によっ. また、今川氏真は、永禄五年「為今度今切渡船之用、於天宮見伐之事、. かがわせるであろう。また、ここには、今川氏によって開所が設けら. て、吉美とその北に位置する芋津山への渡海舟を出し、代償として根. 米十人分を与えられているのである(≡-三一五五)。また、天正年. れ、宇布見の代官中村源左衛門に対して関銭五十貫文の蔵入れを命 じている(三-三一五三)ことからも、領国の防備とその収益を意図. ぅに命じられている(n).なお、今川氏は、本興寺に修造のための. 間の徳川時代のことになるが、善美郷の年貢米を宇布見まで届けるよ. また、その新居宿には湊が形成されていたようで、永禄十一年に熊. 「材木相運船」(三-三一三八)の所持を認めている。さらに、芋津山. していたことがわかる。. 野夫須美社への最花料及び米銭が、新居湊から熊野へ輸送されたこと. には、今川氏親が築いたとされる城があり、大永七年、宗長は次のよ. (三-三四五こ. 海め-りて、山のあひ〈せき入、堀入たる水のことく、城. は競望する族ありて、番衆日夜無油断城也、東・南・北、浜名の. 此鵜津山の館といふは、尾張・三河・信濃のさかい、やゝもすれ. うに書き残している。. が、「新居湊井波奉行中」宛の礼豊書下の次の史料からうかがえる。 自駿府、熊野山江御最花弐言責事、右、以舟可有御届之由承侯間、 米銭共二其湊之儀、不可有相違候、若湊御不案内付而ハ、疋田九. 戦国前期遠駿地方における水運. 有光. 郎左衛門尉馳走可申者也、折如件、猶以毎年、可為如此也、. (梢+).
(8) 113. の城も湖岸を堀割りとする城であったと考えられる。その城主であっ. 戦国前期遠駿地方における水運. をめくる、大小舟岸につなかせ、東むかひは堀江の城、北は浜名. 事、無之筋目承之間、就村櫛在城閣之畢、然者、上置船難有何地、無. 相違可被請取之状」(三-一二四こと、その所領内の小舟に賦課さ. れた船役の徴集権を認めている。村櫛の北に隣接する堀江は、大沢氏. l族の中安氏の所領であるが、永禄六年に持出の外に虚妄分があった. の同氏宛の判物に、〓比々沢・本坂堀廻之事、池田検地落着之上者、. 城が築かれていて今川氏家臣後藤氏が守備していた。義元の弘治三年. ということで、堀江湊の存在がうかびあがる。. に面していた。そこに寄港する船に対する関銭-津料が蔵入れされる. 「浦浜内浦」とは、庄内半島の付根に位置する入江で、堀江城はそこ. (三-三1五三)と、今川氏直轄地に組み込まれた.ここにみえる. として、その「山野芝原切発、講義内浦関銭、林屋敷寺社共可為料所」. 加差出可勤知行役事」(三-二五七三)とあり、ここでもおそらく日々. この村櫛・堀江の束の対岸に存在したのが、宇布見湊である。宇布. 見には、先述したように、戦国期を通じて代官中村源左衛門がおり、. 新居関の関銭を徴集し、浜名湖対岸の善美や宇津山に渡海船をだし、. 先の堀江に対しても、領主中安氏の虚妄分を争い、その蔵入れの権利. を認められている。また、今川民具から、. 遠江国今切内浦繋置干、宇布見郷船弐般之事、右、以印判井過書. 令運送之時者、村櫛・荒井不及寄船直可通用、縦諸浦船難相留、. (三-二八一九). すなわち、この堀は、単に軍事的役割だけでな-、三河への交通路. (≡-三〇一二). 為陣中之用之条、於彼二浪船者、不可有相違、次船頭井櫓手之者 根米荷物以下諸役免許畢、. や櫓手に対する諸役も免除されている。弘治年間には、「御降立衆之. と、その所有する二娘の船は、公方船岡前の扱いを受け、配下の船頭. 園として著名であるが、戦国期には、永正年間の斯波氏と今川氏との. 馬、うふミ源大郎船をふ-わり中三付テ、七ひろ之板五枚遣候間」(三-. 衆太勢にて、村櫛・新津城へ取詰候両、新津のね小屋焼払候を形部よ. したように、宇布見が浜名湖沿岸の年貢米の集散地となっていたので. 二五六九)と記され、戟にも使われていたことがわかる。また、先述. 【刑】. り村櫛へ七十計、舟にて合力仕候」(≡-五六三)と記されており、こ. (ママ). 争闘において、今川方の伊達忠宗の軍忠状で「武衛衆・井伊衆・引間. 次に、村櫛は、浜名湖東部に突き出た庄内半島に存在し、東寺領荘. とがわかる。. に接続する堀割であり、通行や運送に際して津料が徴集されていたこ. 可取之事、. 諸役免許畢、同神社仏寺領等不可有相違、次極月之津料如前々. 1比々沢・本坂堀廻之分、山野井棟別五十間・四分1・押立其外. ように記されている。. 道と呼ばれた)であった。そして、永禄三年の氏真の判物では、次の. の上流に位置し、三河国に抜ける重要な1つの交通路(近世では姫街. 沢川を利用して城の廻りに堀が築かれていたのであろう。本坂は、そ. この芋津山城から北に位置する措鼻入江に入ると、その奥に日々沢. に自由に船が行き来していたのである。. 小の船が着岸していた様子がうかがえる。そして、湖岸の各城との間. 城は、湖に迫り出すように築造され、水面が堀の役割を果たし、大. (≡-九六九). た大沢氏に、今川氏輝は、「遠江国敷知郡之内、当知行内海小舶役之. 壷. 城、刑部の城、いなさ山、細江、舟の往来自由也、. 有光.
(9) 112. ある(4)。宇布見の北の山崎にも、宗長が、「山崎よりいなさ細江をこ (政明). かせ、浜名備中守館、1日連歌あり」(三-七九九)と記しているこ とから、戦国初期から手漕ぎの小舟を繋留するような船着場があった ことがわかる。. 次に、遠州灘沿岸地域についてみることにする。遠州灘は、その名. のとおり、海上交通の難所として有名な海域である。それは、この地. 域の地形と風向きに関係している。渥美半島先端の伊良湖岬から、駿. 河湾入口の御前崎にかけて、大陸棚は発達しているが、海底地形は複. があったと思われる。それらは、近辺の城や砦と掘によって結ばれて. として南下する親潮潜流によって、巨大な冷水塊や涌昇流が出現し、. ている。黒潮本流ははるか沖合いを流れているが、遠州灘沖では、時. 雑で'強い西風と沿岸流のため砂丘が形成され、単調な砂東海岸となっ. おり、軍兵や兵根米の輸送といった軍事的機能をはたしていたことば、. これによって、黒潮が大迂回し、反転屈曲する流路をとることがある. 以上、浜名湖内海においては、複雑な湖岸の入江ごとに湊や船着場. 先掲した諸史料をみても、また、永正末年の氏親による三河国舟方城. 場でもあり、また、陸上交通との接点でもあったのである。そして岸. しもちろん、その役割はそれだけにとどまらず、内海の交通や交易の. し、数輩討捕」(三-六七五)と、みえるように明らかである。しか. 攻撃に際して、「泰以時をうつさす浜名の海、渡海して、則うちおと. み、万里集九は、引間と懸塚でそれぞれ風待ちのため日数を費やし、. れているO先掲したが、景徐周麟は、「解凍東海之上風波甚悪」と詠. にあたり、風待ちの湊にも恵まれていないこともあって、難所といわ. からの北風が強く(遠州の空っ風)、さらには、しばしば台風の進路. という(黒潮異変)T)。また、風向きは、偏西風による西風と、内陸. (朝比奈). 壁には大小の船が着岸し、自由往来していた。大小の船とは、櫓手に. と-に嚇塚では、次のように記している.. (≡-六〇). 浜松荘の中心地として都市形成がみられた。戦国初期には、すでに引. 接する東大寺領蒲御厨の史料にも引闇市での和市(-)のことがみえ、. はかならずといってよいはど泊まったところであり、室町期には、隣. 西からまず、引間であるが、鎌倉期から「ひくま宿」として、旅人. ともなう遠州灘沿岸地域での水運の状況を次にみてみよう。. とかいった事態になったのである。以上のように、その航海に危険の. ち上げられるか、あるいは、黒潮に押し流されて伊豆七島に漂着する. 運悪-台風や強風に遭うと、南北朝期の宗良親王のように海岸に打. 徒、喪身央命、. 況為旅者乎、余終宵不寝、舟中枕蓑而見月、且楽且憧、同行之諸. 十七日巳刻、解凍、発懸塚、午後値逆風、舟不待避、難嵩師或酔、. ょる手漕ぎの舟が小舟であり、おそらく大船は帆船であり、新居湊な どから外海にも出帆し、伊勢国や駿河国方面に運航していたのではな かったかと考えられる。 「東栄鑑」明応七年八月廿五日条、震災予防調査会編『大日本 地震史料』(思文閣、l九七三年復刻)甲巻l五五頁。 『角川日本地名大辞典. 静岡県』(1九八二年)参照.. 「随庵見聞録」(『轟松市史』史料編二、四三貢)、天正五年八. 青光. 月十二日付、宛名は欠、本多重次年貢定書写。 前掲注㈱文書.. 三、遠州灘沿岸地域における水運. 戦国前期遠駿地方における水運. 壷. 榔. 川 ㈱ 仰.
(10) ilifl. 問城が築城されており、今川氏家臣飯尾氏の居城であった。この引間. このように多機能をもつ懸塚湊は、遠州灘沿岸地域のなかでも中心的. あったことが記されており、陸上交通路とも交差していたのである。. 戦国前期遠駿地方における水運. には馬込川が流れており、その渡りがあったことは、前掲の「参詣道. 位置を占めていたようで'後掲史料のように、義元・氏真ともに、分. を免除していることから(三-三二三六)、なんらかの船が存在し、. 次に、懸塚の東には、福田浦があり、民兵は領主西郷氏に船役など. ていたことから、あるいは、字間郷は、外海から馬込川をさかのぽっ. れている。今之浦とは、遠江国の国府であった見付府の南に広がって. そこには現在岱僧川が合流しており、その川の上流は今之浦川と呼ば. その船着場であったと思われる。この浦は、太田川の河口であるが、. (三-11三〇二). 在の天竜川に近い流路)と東川に分かれており、懸塚湊はその間に挟. 懸塚湊である。天竜川は、中世後期には、池田宿の南辺りで西川(覗. 在の小字で、-ナトとか海戸といった地名があり、外海と連絡する水. 流通の中心として都市形成が早くから進んでいた。その辺りには、現. たことが明らかにされている(a)。見付府は、東海道筋にあって交通・. いた入江で、近世初頭に至るまで、その入江状態は変わっていなかっ. まれ島状態のところに形成された湊である。その位置は、遠州灘の荒. 路があったと考えられ、福田浦がその中継湊であったことが推測され. この湊で三晩風待ちをするが、五貫文をだして借りた舟は、「橋の如 く大」と記していることから、外海用の大船であったことがわかる。 懸塚湊は、また、次の記述から、天竜川による河川交通と接続して いたといえる。. (≡-1五六四). 高松御造営材木之事、右、天竜川上懸塚湊迄、無相違可令勘過者 也、仇如件、. すなわち、遠州灘に面して後述するように東に位置した高松社の造 営材木の運送に際して、今川義元は通行手形を与えているのであるが、. ると幕府領として南御所領となった荘園であるが、その荘域は.はつ重. りしない。そして、戦国期には、その内上村・柴・篠谷・池村などが、. 今川氏から三浦氏に与えられ、検地が施行されている。注目すべき事. は'寛正六(1四六五)年の「琴九日記」に、「今河治部少輔殿跡遠. 州河井・堀越・中村・湊井駿州世茶事、為御料所被仰付候」(二-二四. 七〇)とみえ、この湊が、浅羽荘内にあったとされており、十五世紀. 後期に、すでに湊が存在したことがわかる。「今川家譜」には、「(逮. 駿河へ下向シ、領地堀越・中村ノ湊等ヲ没収セラレタリシヲ、義忠ノ. 江今川氏の堀越貞相が)寛正六年七月子細有テ又御勘当蒙り、其身ハ. (今別). この材木はおそらく天竜川上流から筏で流されたものであり、それが、 いったん懸塚湊で集積され、運ばれたということであろう。また、 「参詣道中日記」では、この懸塚湊は、大天竜・小天竜の渡り場でも. さらに、太田川を越えた東に浅羽湊がある。浅羽荘は、室町期にな. 波を直接受けない河口よりやや遡ったところにあった。万里集九は、. 次は、遠州灘沿岸の最大の湊であったのが天竜川河口に形成された. 榊諾謂‥鮎‥桝役等之事、. 遠江国浜松庄字間郷井下平河之内朝比奈八郎次郎分、. たところに存在した船著場であったかもしれない。. 下流の字間郷には、次にみるように鋼船(網船か繋ぎ船か)が存在し. 中日記」(≡-二二六五)にも記載されているところである。ただ、. 衰. 国内の主だった湊としてあげている七箇所の湊の一つである。. る。. 直接海には面していず、水運の根拠地ではなかったoしかし、馬込川. 有光.
(11) 110. 時ニヤ色々御訴訟申、義忠申頚貞相ノ子息範将二晩リケリ」(≡-一 四六四)と記されている。しかし、そのご湊のことは史料にみえず、. 次にみえるのが、浜野浦である。氏真が永禄年間に家臣興津氏に与 えた判物に次のような記述がみえる。. 遠州大坂之内知行浜野浦†繋置新船壱般之事、右、於諸浦・湊、. 諸役井船役舟別、為新給恩永令免許畢、不準自余之条、役等一切. 永禄年間になって以下のような記述となる。 就湊堀適者新田可出来之由言上之間、(中略)小笠原事者不準自. (三-三〇〇二). 不可有之、同立使・看貫等不可申懸之、雑然海賊惣次之時者、櫓 手役可動之者也、. 余之領主、湊普請等以走廻筋目遂訴訟之間、所々新田所令還附也、 (三-二八〇三). おり(三-1五八1)、こののちも斉藤氏などと、境界争いをしてい. 興津氏は、すでに天文十一年の段階でこの地を裁許の上安堵されて. 新湊入舟・出舟国役従懸河於令所務者、其役半分可出之事、一彼. る(≡-二〇八九)o興津氏は、後述するように今川氏の水軍の将で、. 1於新船繋置者、是又如先印判1切諸役雇等、不可有之事、一披. 湊事相立新在家・問屋壱軒三人可相計、此外音別人難令競望、問. 灘に面しているが、とくに菊川の河口であったということではない。. (三-三五八七)。薮野浦は、菊川流域の笠原荘の南部に位置し、遠州. 地であったのである。家康の時代になっても、村に船が付属していた. いずれにしろ、この浜野浦は、諸浦・湊に出入りするような船の船籍. ここにみえる「海賊惣次之時者」というのは、そのことを示している0 (弘治二). 屋不可有之事、(中略)浅羽上村・下村・大淵其外語給主年来い かり不作。付而、以奉行入鹿々湊雄掘之、一円不成就之処、去辰. (三-二九五八). 年海老江弥三郎・瀬見大炊助・甘利隠岐守両三人披湊掘通、不作 之地悉開発之事、. この時期、改めて、新田開発にともなって、湊の築造が進められて. 続いて、同じ笠原荘に属する高松社が、「任増善寺殿判形之旨、棟. 別井塵取船壱捜、所令停止諸公事也」(三-1〇二三)と塵取船を有し. いたことがわかる。その場所は、太田川の河口近くで、海岸に平行し て砂丘地帯の後背に、東から流れ合流する前川の北岸に位置する、現荏. ていた。天文二十年には、二娘が認められている。. 閣戸村竃所々神田一王子分之事、右、任先規領掌不可有相違、棟. の大字湊付近であろう。そこに、海老江・瀬見・甘利といった今川氏 家臣三名の支配下のもとで問屋が存在したことがわかる。なお、この. 別・塵取舟弐般、停止諸役免許之、. とを、形が似ていることから塵取といわれており、同様に屋根のない. 塵取船とは、柱を立てず高欄だけをはりめぐらした簡素な腰輿のこ. (≡-二〇三七). 太田川の上流で合流する原野谷川の左岸丘陵上に、十五世紀末に原氏. これらの陶磁器. が築造した殿谷城が存在したが、その遺構から、中国製の青磁・白磁・ 国内産の瀬戸・美濃焼などが多数出土している(.)o. ば、大きさもそれほど大きくなく、また、外海を長く航海するのには. 高欄だけの船のことをいうのではないかと考える。ということになれ. あるが、あるいは、比較的近いこの浅羽凄から、太田川・原野谷川の. 無理があったであろう。しかし、いずれにしろ、高松社近くに係留さ. が、いずれの湊から陸揚げされたものであるか、興味のあるところで. 河川交通を利用して運ばれたのかもしれない。いずれにしろ、浅羽湊. れ、近辺の輸送に使われていたことが考えられる。あるいは、先述し. 毒. は、中世後期から存続していたことが知られる。. 戦国前期遠駿地方における水運. 有光.
(12) 109. る水運・海上交通をささえていたともいえよう。海灘の危険のともな. の船看場であったろう.しかし、こうした浦伝いの小舟が、大船によ. 他の湊・浦は、遠州灘沿岸を浦伝いに航行する小舟を主体とする水運. 懸塚湊はかなり広範囲の水運の根拠地であったと考えられるが、その. いったように、いくつかの湊・浦(付図参照)を数えることができる。. 間郷の浦、懸塚湊、福田浦、浅羽湊、浜野浦、そして高松社の近くと. いて、次に、遠江・駿河・伊豆国によって取り囲まれた駿河湾諸湊の. 反対に出航する場合には容易であったろう。そうしたことも念頭にお. 諸湊に入る場合には、かなりの航海術が必要であったように思われる0. 島西海岸の諸湊に入津する航路は比較的容易であり、逆に湾の西側の. る。こうしたことば、西方から遠州灘を経由して、湾の東側の伊豆半. 海岸沿いに反時計回りにl周して御前崎に抜ける湾流が形成されてい. では、黒潮の支流が西から石廊崎辺りに衝突して北上し、伊豆半島西. そして同以東及び内浦湾を含む駿河湾輿沿岸に分けてみることとする0. う遠州灘沿岸であっても、l定の水運が展開し、また発展しっつあっ. 『静岡大百科事典』(静岡新聞社、一九七八年)など参照。. この地の領主高橋氏が竜源寺に寄進した諸権利を、天文十四(1五四. まず、御前崎を廻り込んですぐのところに遠江国新庄堀野がある。. イコノ-カ』第三巻一・二合併号、一九六六年七月、有光友撃編. (次脱力). 一新舶壱腺不准自余、停止諸役、郷以下令免許事、. (三-一七二六). この新船が、漁船という可能性もあるが、殺生禁断の寺院に寄進さ. その平田寺に、戦国期、義元は次のような判物を与えている。. には、その中心部に平田寺が創建され、朝廷から保護を受けていた。. 王院領の荘園であり、幕府御家人相良氏の出身地であった。鎌倉末期. 次は、そこから少し北の相良湊である。相良荘は、鎌倉期には蓮華. 場があったであろう。. それ以上のことは史料がな-、不明であるが、少な-ともそこに船着. 船は、竜源寺の傍を液れる浅川河口を根拠地としていたと思われる。. 市見付の構成と展開-」(東京大学教養学部人文科学科紀要第八. の間の湾口幅はおよそ五五I5、南北およそ六〇Bに及ぶ広い海域であ. 駿河湾は、古来駿河海とも呼ばれ、御前崎と伊豆半島南端石廊崎と. 四、駿河湾西沿岸における水運. 八五年). 『殿谷城祉地道跡発掘調査報告書』(掛川市教育委員会、一九. れた船であることから、交易船であったと考える方が妥当であろう。. 義江彰夫「国府から宿町ヘー一の谷遺跡を手懸りに見る中世都. 『戦国大名論集ー1今川氏の研究』に再録、吉川弘文館、一九八四. 大山喬平「十五世紀における遠州蒲御厨地域の在地構造」(『オ. 状況をみて行きたい。まず、御前崎から富士川に至る駿河湾西沿岸、. と深く、湾とはいってもはとんど外海と変わらない海域である。湾内. り、海底には駿河トラフがはしり、水深は約l五〇〇から二五〇〇m. 元. 十七輯『歴史と文化』耶歴史学研究報告第二十集、1九八八年). 年). 五)年に、今川義元が安堵した判物に、次のような一力条がみえる。. 川. たということが以上の諸史料からうかがえる。. 以上、断片的史料の紹介にとどまるが、遠州灘沿岸には、東から字. た懸塚湊からの材木の運送に使われたのかもしれない。. 戦国前期遠駿地方における水運. 有光. 惚 櫛 紬.
(13) 108. (三-一九四〇). 遠州相良庄之内平田寺領内船壱腹事、右、為野菜運送之船、公方 役無代官以下之椅、停止諸役所令寄進也、 引き続いて、氏真の永禄四年・九年の寺領安堵状と禁制には、次の ような記述がみられる。. 一寺領湊廻船諸商売舶役等、如前々収務不可有相違、井野菜船壱 破船方共、停止諸役之上着、不可有地頭代官之椅事、 (三-二八九七) 禁制、(中略)一湊役自往古為寺領寄進之処、各無沙汰之事、井. (朱印、印文「如辞令」、印形特). 当寺領中本末共、時々地頭代官百姓等、前々無其椅之処構新儀事、 (≡-三三l一八). これらの史料より、平田寺が、寺領以外に、野菜運送船を所有し、 湊に出入りする廻船の船役と湊役の徴集権を認められていたことがわ. られており(二-二三一二)、また、同年に小川おぬま住人四名が願. 文を熊野那智社に奉納している(二-二三〇三)。小川湊と熊野社と. の強い結びつきが知られる。烏帽子屋慶道は、小川湊にあって、伊勢・. 熊野方面に行き来する廻船業を営む商人であったろう。そして、先述. したように、すでに文明年間に湊として殿賑をきわめていたのである0. しかし、次の駿河国村松海長寺住持が記した「日海記」にみられるよ. うに、明応の大地震津波で壊滅的な被害を受けた。. 彼小河之末寺江有作善、日円井衆申請云々、去八月廿四日当寺出給. 也、同廿五日貼大地震、希代不思儀前代未聞也、非之大浪又競来、. 海辺之堂舎仏閣・人宅・草木・牛馬・六畜等、悉没水死畢、於彼. 時小川末寺御堂坊等、悉被取大浪、只如河原成畢、然者、日円聖. がないわけで、おそら-後述する小川湊や都市駿府の外港江尻・清水. は、その名からみて小舟であろうが、近辺の農村地帯に運送するはず. れ、交易を目的とする廻船が出入りしていたのであろう。野菜運送船. 川の河口があり、おそら-そこに湊が形成され、野菜運送船が係留さ. 国期以前から、小川湊には、慶道を引き継ぐような長者とか有徳人と. 谷川等是也」(lT二六三五)とも「今川記」で伝えられており、戦. 法永かもとに御座しける」、そして「法永子共今川殿近習に成り、長. 督争いの際、後の氏親である竜王丸は、「山西の有徳人と聞えし小川. これより以前、文明七(一四七五)年の今川義忠敗死後の今川家家. 人・同宿以下悉没浪畢、必大浪ハ大地動之時有之云々、. 湊あたりに運送していたのではないかと考えられる。一方、「寺領湊. 呼ばれる長谷川氏がおり、今川氏と強い結びつきをもっていたことが. (≡-二四八). 廻船諸商売船役等」より、相良湊が、駿河湾内および外海の諸湊と結. わかる.戦国期に入って大永六(1五二六)年に、連歌師宗長は、こ. の小川の長谷川元長をたずね、和歌千句を詠んでいる(≡-九〇五)0. 大井川下流域に存在した初倉荘の年貢米を領主南禅寺に搬出したこと. ながらこれ以上のことはわからない。しかし、後掲するように義元・. ていたと思われるが、戦国前期の小川湊・長谷川氏については、残念. 長谷川氏は、明応の大地震津波以後も引き続いて経済活動をおこなっ. が知られ(二-一五〇九)、また、長禄二(一四五八)年には小河烏. ヲ石. 氏真ともに、分国内の主だった湊としてあげた七箇所の内に、この小. のが、小川湊である。小川湊は、応永年間(十五世紀前期)に、南の. 次に、相良凄から北に大井川河口を過ぎて駿河国に入って存在する. ばれていた交易湊であったといえる。. かる。平田寺は、直接海に面しているわけではないが、近くには萩間. []n. 帽子崖慶道及び子孫のもつ熊野遺著職が、熊野那智社御師城南房に売 戦国前期達観地方における水運. 有光.
(14) 107. 川湊とすぐ南にあった石津湊の二箇所をあげている。この時期にも引. には次の二か寺であるが、いずれも船二浪の所有が認められ、それに. 次に、駿府周辺の寺院が所有する船について考えてみたい。史料的. 戦国前期遠駿地方における水運. き続いて湊としての機能をもっていたと考えられる。なお、石津湊に. 1諸職人弗船弐娘国役停止之事、. (三-1三九l). (111-1)111101). あろう。安善寺の船は、諸職人と併記され、増車寺の船は、「雄為何. 寺院の所有する船であるから、いずれも交易船であったと考えられる0. て重視されたようで、氏真は、永禄八(一五六五)年に観音堂再興の. 自前々申付当寺舶事、縦雄為一遍之構、立夫・櫓手・公事綱井船. 前節まででみた鷲津の本興寺、笠原荘の高松社、尭述の新庄堀野の竜. されたl種の関銭と思われる。「惣海賊之役」とは、水軍として徴発. 賦課された税目であろう。出入役とは、湊に出入りのたびごとに賦課. 公事綱の意味は不明であるが、船別とは、棟別銭のごと-船ごとに. て、手広く経済的活動を行い、その収益を寺社経営の財源としたこと. 修造に直接かかわる機能としてだけでなく、交易船を抱えることによっ. 一般的であったことがわかる。これは、材木の運送など寺社の造営や. 社が、その地理的位置にかかわらず船を所有するということがかなり. 源寺、相良の平田寺、そして久能寺など、この地域(達駿地方)の寺. されることであろう。注目すべきことば、寺船の出入役が免除されて. については、必ずしも研究上報告されていないが、少な-ともこの地. を示しているであろう。こうした状況が、他の地域でどうであったか. 次に、駿河湾に面する湊として登場するのが、江尻と清水湊である0. 域の一つの特色といってよい。. いることである。ということは、この船が、他の湊に出入りしていた. もってきたことがわかる。. あったことがわかる。久能寺浦が次第に旧に復し、湊としての機能を. ことを示すものであり、単なる漁船ではなく、交易を目的とする船で. (≡-三二七三). 別・出入投・惣海賊之役事、再興間者1円不可及沙汰事、. 之浦可被繋之」と記されていることから、また、殺生禁断を旨とする. は安倍川沿いにあるが、文言からいって、単なる河船の事ではないで. 院で、位置的には浦や湊とは無縁といってよい.しいていえば増善寺. ところがこれら二か寺は、駿府の周辺であるが内陸部に存在する寺. 船弐娘、如前々停止諸役、難為何之浦可被繋之、. 駿河国椎尾増善寺境内門前田畠(中略)等之事、(中略)令寄付. (一群t). 相違之事、(中略). 駿河国有鹿部長田庄小坂村安養寺領田畠井宮僧給、如前々不可有. 〔供】. 綻を出した際に、次のような指示を行っている。. しかし、この地が、駿府に近いこともあって、次第に要害の地とし. (三-九ニー・一一六六・一五八五). 船事、近年断絶之上、任往古例為殺生禁断、当浦不可繋船、. 駿河国久能寺領浦寄木事、右、如先規、為本堂之造営付之畢、次. 係留が禁じられていた。. (涜木)を付け、また、近年の断絶を契機に、殺生禁断のため漁船の. の今川時代にも保護を受け、次の史料のように、本堂造営のため寄木. 寺浦である。久能寺は行基再興と伝えられる古寺であるが、戦国前期. 次は、安倍川を越えて日本平(有産山)の駿河湾に面した麓の久能. 対する課役が免除されている。. 云. ついては、これらの文書に記す以外、全く痕跡がない。. 有光.
(15) 106. てみえる名称である.1般には、江尻が清水湊に変わったととらえら. 根拠地として著名な湊であるが、清水湊は、史料的には、戦国期になっ. 江尻については、冒頭にも記したように、中世の早い段階から水運の. 尾家の近世の由緒書には、次のような記載がある。. 進展度がうかがわれる。このように江尻関係の文書を所蔵している寺. が課されており、その生産地をひかえていたわけで、後背地の経済的. 免許畢」と記されている。江尻には、また、後掲史料のように木綿役. 私先祖之義者、今川義元公・民具公御二代江小柳津藤二郎奉公仕、. れているoたしかに、史料上、一時的に湊としての江尻はみえない. そこで考えられるのは、明応七年の大地震津波である。江尻と同じ三. 氏其公御開城没落工及候て民間に落、倖六兵衛故有之、武田信君 。奉公仕候、其節由井・興津之間。て、寺尾村。五貫文之領地被下、. 是より姓を寺尾と改め候由候、(1). 後、その南側が新たに湊として機能を持ち出し、清水湊として成立し. 船が出入りしていたことがわかるO湊役とは、湊使用料に相当するも. 帆役とは、帆船に対する課役で、外海を航海する大船、すなわち廻. (三-二七三六). ていったのではないかと推測される。それを支えたのは、月に三度開. のであろう。また、永禄十1年になると江尻には船関がおかれていた. 所可令通過者也、. (三]]1四六四). 清見寺・蒲原船閲、此外諸役所関銭之沙汰、前後無之由、(中略). 富士参詣適者・先達自前々仕来、毎年令代官参云々、困玄江尻・. かれていた江尻市の存在であったろう。東海道筋に位置した江尻市に. (三-〓八〇・〓ニ九八・1六〇七). 戦国前期遠駿地方における水運. 有光. 天文十1年の義元判物では、「屋敷之内酒家凄四・桶三井就酒之諸役. 軒、可為如前々者也、. 江尻商人宿之事、右、毎月三度市、同上下之商人宿事、井屋敷弐. ことも次の史料から判明する。. 許畢、. 自力五拾貫文之買得有之云々、分限役是又1返之役・臨時役等免. 奉公之旨中之条、為新治恩命扶助之上着、不可及其沙汰、然者以. 役、櫓手・立使共免除畢、(中略)不限時分他国之使巳下別布可令. 物・俵物以下相積錐令商買、於彼舟之儀者、帆役・湊役井出入之. 内浦・吉原・小河・石津湊・懸塚、此外分国中所々、如何様之荷. 清水湊†繋置新船壱腹之事、右、今度遂訴訟之条、清水湊・沼津・. 二郎宛のものである。. 要な湊七箇所をあげた文書は、次のように、この今川氏中間小柳津藤. そして、これまで再三触れてきた、義元・氏真の分国内における重. (穴山). 保半島に囲まれた、いわゆる三保の入江に面する村松に存在する海長 寺の被害状況が、「日海記」に以下のように記録されている。 廿九日申刻当寺罷付、当寺為体奉見、為始御堂、大坊井寺中惣房. (∧月). ]口【. (三-二五l). 等悉破滅、惣少家一宇無之、伽藍散破両分在、仏形損滅而汗塵、 両日之大雨亡経論・聖教・御書等成如餅不見、. ほのほのと. -はの. おそら-江尻凄も、この海長寺と同様に壊滅的被害を受けてその機. あまのをふねも. 能を途絶させたのであろう。しかし、天文二年には、東海道を下る京 都仁和寺専海が、「朝なきに. 披やこゆると」(≡-一二四〇)と詠み、弘治三年には、駿府. 〔比〕. ついては、今川氏輝の判物があり、義元によっても安堵されている。. 江尻湊は、三楳の入江に注ぐ巴川の北に位置していたが、地震津波. いたといえよう。. り(≡-二五二四)、三保の入江には、小舟や漁船が頻繁に往来して. 下向中の山科言継が、三保大明神社より船に乗り'音曲を楽しんでお. 松原.
(16) 105. 戦国前期遠駿地方における水運. 今川家の世は七日市場4tirP<の近所、海船橋に閲・船蔵、其外御. 期から興津氏代々の知行地であり、内紛の末に家督を相続した今川氏. 津川河口に苧bけた場所であり、東海道の宿駅のlつであったo鎌倉. は、東海道筋の難所の一つといわれている薩唾峠の手前にあたり、興. 用地あり、諸国よりの入船・出船荷物等出入の場所にて国府の用. 親も早々に、この地を興津彦九郎に安堵している。今川時代には、興. といってよいのが、次の文亀年間ごろと思われる氏親の書状である。. 場なり、又云、此地に今川家の休息所あり、殿屋敷と云う、海船. 七日市場とは、先の三度市から生まれた地名であろう。現在の入江. 興津郷十娘舟役之内五腹之役之事、依被申閣之畢、立仕以下之事. 津氏は、水軍の将として活躍したようであるが、そのことを示す史料. 町の場所とするならば、巴川の南岸にあったようで、清水湊に接続し. (三-三l八). 者、速可申付候、. これが水軍の軍船であったと判断できないが、国人領主でもあった. 興津氏が、十娘の船を抱えているということからいえば、水軍を組織. していたといえよう。先述したように、興津氏は、永禄年間には遠州. の船役銭を減免する朱印状(四-一〇四〇)が出されており、この時. た(≡-二二三五).そして、天正五年には、武田氏の江尻・清水両浦. 北条氏よりの婚儀の費用・荷物が届けられたのも、この清水湊であっ. また、天文二十l一年に、今川氏其と北条氏康娘との婚梱に際して、. 蒲原は、この興津郷の南北に位置する。それぞれ、船着場があり、船. 詣遺著・先達に対する船閑免許の氏其の判物においてみえる清見寺・. 浜野浦の船の例からも考えられることである。なお、先掲した富士参. よりは、平時においては、手広く交易を行っていたであろうことば、. た。しかし、これら十娘の船が常時軍船として機能していたと考える. 森野浦にも新船一般を抱えるように、その活動の根拠地は広がってい. 期には、両湊が機能していたと考えられる。おそら-、今川氏没落後、. 関が設けられていたと考えられるが、その詳細は不明である。. 以上、駿河湾西沿岸の諸湊-新庄堀野・相良湊・小川湊・石津湊・. ろうが、次第に復興してゆき、以前にもまして巴川を挟んで二箇所の. てみてきたが、明応の地震津波によって、一時的に打撃を受けたであ. 以上、三保半島に囲まれた三保の入江における江尻・清水湊につい. 「駿河記」巻十1、上巻四〇八頁.. 「寺尾文書」『静岡県史料』第二輯八〇四貢。. ことがうかがえよう。. も、その復旧が進み、以前にもまして活発な交易が行われつつあった. 明応の大地震津波の被害を大き-受けたとはいえ、戦国前期において. 久能寺浦・江尻・清水湊・興津-(付図参照)の状況をみてきたが、. 湊として復活したのではないかと考えられる。. 川. 次に、三保の入江を出たすぐ北に位置したのが興津郷である。ここ. 物. 復活させていったと考えられる。. た駿河国を経営するのにあたって、江尻についても湊としての機能を. 武田氏が江尻に城郭を築き、穴山信君を城主に据え、新たに領国となっ. (三-ニー八九). 一老母従伊勢之書状到、十六日乗船、駿河府中へ直三波海云々、. の母は、伊勢国大湊より乗船して、この湊に着いたのであろう。. していたといえる。おそらく天文二十二年に駿府に下向した山科言継. ていたと思われる。右の伝承から、清水湊は、駿府の外港として機能. 橋筋に大木戸あり、洪川口に大門ありしと云り、(且. 船関については、近世の伝承であるが次のような記述がみられる。. 有光.
(17) 104. 交替するなかで、一貫してこの渡り場の管理権を掌握していた。次の. 1駿河国書原遺著・商人問屋之事、今度矢部将監遺跡亡相定之上. 五、駿河湾奥沿岸における水運. 富士川は、甲府盆地の水を集め、長い山峡を流れて、平地に入る駿. 者、兄弟親類其外自余之輩、難望之不可許容、如前々不可有相. 文書はそのl端を示している。 河国岩本辺りからい-筋にも分かれて乱流し、また、富士山の西斜面. 違事、. 馳鮎納品鮎餅甲依今度大風雨、数通之判形失脚之間、只今出. 屋敷於吉原之内、為給恩、参拾間棟別・四分一共免除之、. 一立物之事、西者蒲原東署阿野境迄、諸役等如前々令免許、井新. 令競望、不可及沙汰事、. 一吉原渡船之事、縦湊江難下之、如年来可相計、是又自余之族難. に発する潤井川とも合流して、扇状地を形成しながら田子の浦と呼ば れる駿河湾に注ぐ。それがため、昔から水量が豊富で、急流の一つに 数えられてきた.その河口に位置したのが吉原であり、富士山の南に あることから見付宿とも呼ばれ、東海道筋の宿駅の一つであった。 天文十三(一五四四)年、東海道を下る連歌師宗牧は、その紀行記 「東国紀行」に次のように記している。. (≡-二二四二). ここで、注目すべきことば、二力条目で、渡船が湊へ下るというこ. 之事、. にのるとて、(歌略)昨日より風ハなきたれと、まことにたゝぬ. とである。これは、急流のなかでしばしば渡船が流されたことを示す. 清見か関のこなた六里はかりのはと、みな田子のうらとなむ、舟 日もなき浦波に、こきいつるはともめつらし、(三-一七一六). が、問題は、渡り場と湊が位置を異にしていることである。以下の矢. 利が及んでいたかどうかについては不明である。とにかく、矢部氏は、. 部氏についての史料は、渡り場に関することで、湊について、その権. また、天文二十三年に武蔵国池上本門寺に参詣する法華信者の「参 詣道中日記」には、往復次のように記されている。 同廿九、三島二者、遷九里也、ふし川とて大事之渡り、又よし原. (三月). 渡り場の渡船を有し、lニ十軒に及ぶ新屋敷の支配権を持っていたが、. それだけにとどまらず、東海道を往還する道者や商人を相手とした問. と申所にて舶二乗、ひるのやす、、、、あまつ三島の宮、 同十四日、うつふさ。着、道六十五里、其間こふし川を舟二乗候、. (四月). を営み、人の往来や物資の集散・販売に携わる商業資本の中核であっ. 屋を営んでいたのである。問屋とは、この時代になると、単に高利貸. るが(1)、中世においては、渡船による渡河が1般的であったようで、. た。矢部氏は、「吉原湊渡船破損之間、修理之事被仰付侯」(≡-三四. (三-二二六五). ひるのやす、、、、よしハら、宿主もち月、. 戦国期においても上記のように渡船によって往還していた(戦時にお. 二六)と、領主葛山氏の保護を受け、また、永禄末年の北条・武田民. しゃ荘園年貢の運送を請け負うだけでな-、旅宿ばもちろん、倉庫業. いては、後掲史料のように、船が徴発されて舟橋が架けられた)。そ. 間の駿河国の領国化をめぐる争闘に際しては、北条氏のもとで、「明. 古代には、船橋による浮橋も設けられていた時期もあったようであ. の渡り場吉原を抑えていたのが矢部氏である。矢部氏は、戦国期に今. 日吉原川内へ兵根可入候間、其地之舶払7E上へ上、石巻代相談、吉原. `=ゴ. 川氏・葛山氏・北条氏・武田氏・徳川氏ととめまぐるしく支配権力が. 戦国前期遠農地方における水運. 有光.
(18) 103. 戦国前期遠駿地方における水運. 紛失之間、重如前々所免之也、但海賊之時者、無々沙汰可令奉公. (三-1八九九). ここでは、船に対する課役は免除されていたが、海戦の際には、今. もこたえて、まさに御用商人的奉公を行っていた。一方、吉原湊につ. 以前太田四郎兵衛。可相渡之」(三-三七四二)と、その軍事的要請に. 様二可措置候」(≡-三七二八)、「富士川舟橋蓮如何様吉相調、明日五. として成立した東海道の宿駅である。そして、鎌倉期から箱根路が整. 川西岸一帯に広がる大岡荘の郷の一つで、同荘総社日枝社辺りを中心. 原駅から東の次の宿駅が沼津である。沼津は、愛鷹山南西麓、黄瀬. 川氏水軍に加わり奉公することが義務づけられていた。. いては、先掲した清水湊の中間蒔二郎宛の義元・氏其の判物でその名. いたようである。また、これらの宿は、狩野川の北岸に位置し、その. 河口に形成していた湊と一体化していたと思われる。もともと、「沼. 備されるにともなって、その坂の登りロに成立した車返宿と連続して. であるが、ちょうど河東一乱期であって、双方の警固・軍船が、富士. 津」という文字、「ぬまと」という読みからいって、この地は、駿河. て、足軽うち出、事あやまちもしつへきけしきなれハ、十四五町. はかり過たれハ、吉原の城もまちかくみえたり、この舟を見つけ. 敵地への送なれハ、警固舶兵具いれて、人数あまた乗たり、一里. 今川時代に駿府の商人頭で友野座の座頭でもあった友野氏に、次のよ. 展していった。また、この地は、先述の原及びすぐ北の岡宮とともに、. 鎌倉府の所在する関乗への入口にあたる海陸の交通の要衝地として発. に狩野川をさかのばって伊豆国への交通路の分岐点であり、鎌倉幕府・. 湾奥にあって、北への黄瀬川沿いの足柄道、箱根越えの東海道、さら. 此方の磯にをしよせ、荷物おろさせ、松田弥四郎申陣所へ人つか. 木綿廿五端可進納事、. (三⊥〓七こ. l木綿役江尻・岡宮・原・沼津如前々可取之事、自当年為馬番料、. うに木綿役を負担する地域でもあった。. (≡-一七一六). 線に沿って、砂丘によって生じた低湿地帯の浮島が原(沼)の東端に. 武田・徳川氏等が、国境地帯のこの地の支配権をめぐって争ったので. 経済的にも重要であったがゆえ、戦国期において、今川・葛山・北条・. このように、この時期木綿を生産する尭進的地域を後背地にもつ、. あたるところである。鎌倉期より原中宿として沼の南側を通る東海道. にみえるように「従諸湊、以船出入之商人」に対する支配榛を有して. た山中氏が、船を所有していたという史料は見当らないが、次の史料. ある。そうした中にあって、戦国期に1苦して沼津駅家の管理者であっ. 阿野庄之内原駅船壱般之事、右、諸役井立使免許之印判雄有之、. (朱印、印文「如律令Y印形特). 駅の上松氏は、次のように1般の船を所有していたo. の宿駅の一つであったが、戦国期、海に面していたことによって、原. 東海道を吉原宿より東に行くと原駅になる。ここは、吉原から海岸. ろ有さまなるしつらひなり、. たり、やかて出むかハれ誘引あり、かりそめの陣所なから、こゝ. はしたれは、案内者をこせ、みなと川のわたりし船さしよせて待. られる。. 川の渡り場から湊にかけて出没し、かなり緊迫している様子が読み取. が記されているのみである。次の史料は、先掲の宗牧の紀行文の続き. 七日之間指置候条、各相談可走廻侯、富士川舟橋道具以下、不被失. 本瀬へ可廻候」(三-三七二1)'「諸軍残置問、吉原之舟渡迄者、先五. 河東こ可積置候」(三-三六〇四)、「船橋之杉坂弐□、助五郎へ渡可申. (董. 者也、. 【枚). 者也」(三-三六〓ハ)、「其地之舟十余娘有之由候、明日悉富士川之. 有光.
(19) 102. 中氏もまた、先の吉原の矢部氏と同様に、東海道を往還する道者・商. いたoこれがどのような権利であったか必ずしも明らかでないが、山. たようである。次の葛山氏元の判物は、そのことを示している。. いた。それに対して、交易については、江浦の楠見氏が、掌挺してい. 地の漁村支配は、l貫して網元であり、代官であった植松氏が行って. 口野郷之内江浦へ着岸伊勢舶之儀、其外錐為小舟、於諸商売不可. 人を相手とする問屋を経営していたことがわかる。 大岡庄上下之商人問屋之事、右、任前々筋目、被宮山中源三郎。. (≡-二五五六). 登場する内浦は、この湊をさすものと考えてよいであろう。. 先掲の清水湊中間藤二郎宛の義元・民具の七箇所の湊を記した判物に. 楠見氏が問屋を営み、伊勢船との商売を独占していたといえよう。. 致浦祭、. 但於有役者、此方へ可致沙汰、若依打鉄錠者、代者物以弐拾疋可. 有横合、井問屋之儀も申付上、代官かたへ礼等之儀者、可為如前々、. (三-1二八五). 令領葦詑、縦雄有競望之輩、不可有許容、於子孫無相違可被申付 者也、 大岡庄上下商人・遺著問屋井従諸湊、以船出入之商人等之事、右、. (三-三四八二). 任前々之筋目、被宮山中源三郎†令領状畢、縦錐有競望之輩不可 有許容、於子孫無相違可被申付者也、. 沼津湊ば、上述のように政治的・軍事的・経済的に重要地であった した判物にも登場し、今川氏領国の主立った湊の一つとして繁栄した. も問屋を営み、水運に関わり、また、中間とか被官と記されているよ. たが、吉原の矢部氏、沼津の山中氏、そして江浦の楠見氏と、いずれ. 以上、駿河湾奥の駿河国に属する諸湊(付図参照)についてみてき. ものと思われる。今川氏没落後逸早くこの地に、武田氏が三枚橋城を. うに御用商人であった。. ことより、先掲の清水湊中間藤二郎宛の義元・氏真の七箇所の湊を記. 築いたのも、こうした重要な地であったからであろう。. 岸の諸湊における水運状況については、戦国期、1貫して北条氏領国. なお、伊豆国に属するその他の内浦湾沿岸の諸湊や、伊豆半島西沿. 岸沿いには、戦国期に獅子浜・江浦・多肥・田連・尾高(以上江浦入. として、その海運政策と水軍編成のなかに組み込まれて発展しており、. 次に、沼津湊から東は、伊豆半島の付根にあたる内浦湾であり、湾. 江沿岸、口野五力村)・垂寺・小海・三津・長浜・重須(以上内浦入. それらについては、すでに永原氏をはじめとして多くの研究者によっ. 以上、戦国前期、達駿地方について、船や湊の存在状況を指摘する. 江、内浦五力村)・木負・久連・平沢・立保・古宇・足保・久料・江. 村では、獅子浜の植松文書(q)と長浜の大川文書(n)などによってよく. だけに終ったが、そうしたことから、この地方においても浜名湖沿岸. て明らかにされてきているので(4)、ここでは触れないこととする。. 知られているように、網度と呼ばれる漁場での立網漁という内浦湾特. の内海水運や、河川の河口に形成された諸湊を行き来する水運、ある. 梨(以上西浦の各村)といった漁村が続く(付図参照).これらの漁. 有の漁法が行われていた.この内、口野五力村は、駿河国に属し、他. いは、大河川の渡船や河川交通が展開し、それらを背景として、遠州. 灘に面する新居湊や懸塚湊、駿河湾西海岸の相良湊・小川湊・石津湊・. は伊豆国である。 駿河国の口野五力村は、戦国前期には、葛山氏の支配地であり、永. 江尻・清水湊、さらに、駿河湾奥の吉原・沼津・内浦といった諸湊を. 蓋. 禄末年の今川氏没落後は、北条氏の領国に組み込まれる。しかし、在. 戦国前期遠駿地方における水運. 有光.
(20) 戦国前期遠駿地方における水運. 料的・時間的制約のため、明らかにすることができなかった。今後の. ができよう。しかし、現在のところ、その関係の実態については、史. る沖合い水運とが、相互に関係しあった三重の構造としてとらえる事. 帆船であった大船でもって諸湊を結ぶ沿岸水運、さらには、廻船によ. を主体とした浜名湖や河川、あるいは浦を往来する蘇伝いの水運と、. る。このように、戦国前期の遠駿地方沿岸における水運状況は、小舟. とを結ぶいわゆる太平洋水運の中継湊として機能していたと考えられ. 結ぶ沿岸航路が成立し、そして、それらが、伊勢国語湊と関東諸方面. 有光. 史と現在』四号、1九九二年)他o. 永原慶二「伊勢・紀伊の海賊商人と戦国大名」(『知多半島の歴. 編「中世」にも編年で収載。. 「長換大川文書」『豆州内浦漁民史料』所載.『静岡県史』資料. 料編「中世」にも編年で収載。. 「獅子浜植松文書」『静岡県史料』第l輯所載。『静岡県史』資. 資料編「古代」五〇八。. 「類発三代格」、承和二年六月二十九日太政官符、『静岡県史』. 課題としたい。 川 燃 ㈱ 仙. ヽ. ′■.
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