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マックス・シエーラー一に於ける
:野卑の感情について
三 輪
健 司 On a Max Scheler’s Shamefeeling Kenji Miwa 目 次e◎⇔㈲
ま え が ぎ 差恥感情とその表現形式 個人と董恥感情 董恥感情とその類似感情 (一) まえがき 古来わが国においては廉恥が尚ばれた。祖先 の名を辱かしめない,ということは家族制度と 相侯って封建道徳の支柱でもあった。名を重ん じるということと,名を辱かしめないというこ ととは同じことの表裏である。例えば,①“弓 馬の家に生れた者は名をこそ強め,命をば惜ま ぬぞ。”(大平記)死に場を君の馬前に求め,犬 死を徒事としたことからみれば命を惜まなかっ たのではない。然し何故それほど名が大切であ ったのか。“武士の家に生るる者は名を惜み, 二つなき命を軽んず。是偏へに世の嘲弄をはつ る”(大友記)からであった。“武士の家に生る る人,名を惜しんで命を惜しまず,三家を思ひ 嘲を恥る故に,惜かるべき命を捨る者なり。” (流布本大平記)家を思うことと嘲を恥じるこ ととは,封建的武士道徳の支えであった。そこ では個人は家と世間との中に埋没し,積極的な 自己感情は麦配道徳の前には影をひそめざるを 得なかった。“勿論階級的自覚と共に封建的武 士道徳に対処して独立自営の精神の芽えとして ①家永三郎著:日本道徳思想史,S.79ff. @ lbid. S. 139. ③農葛藤繍・菊・刀(下巻)S・…f・・ @ ibid. S. 101. ⑤ibid.(上巻)s・66. @ ibid. S. 22. の町人や農民の道徳がなかったのでないが,心 配階級道徳としての武士道徳を止揚するに到ら ず,大勢はこの道徳の麦配下にあったのであ る。”②世の嘲弄としての恥と,外聞としての 名とがわれわれの支配道徳を支えてきたという ことは注意せらるべきことである。ヴネデクト がこの点を看破して,罪悪油化(Guilt Culture) としての西欧交宜に対してわれわれの文化を恥 辱丈化(Shame Culture)③とし,“真の罪悪文 化が内面的な罪の自覚に基づいて善行をなすの に対して,真の恥辱丈化は外面的強制力に基い て善行を行う。恥は他人の批評に対する反応で ある。人は人前で嘲笑され,拒否されるか,あ るいは嘲笑されたと思いこむことによって恥を 感じる。いずれの場合に於いても,恥は強力な 強制力となる”④としたのは正しい。そしてか 様の人前で恥をかかないようにするためには, ‘‘ タに細密な規則と慣例”⑤によることが安全 であり,従って,‘‘行動が未の未まであたかも 地図のように精密にあらかじめ規定される”⑥ 形式主義はその必然的帰結でもある。確かにわれわれの蓋恥の概念は勝義において 対他的社会的な概念である。世の嘲弄,人前で の嘲笑は,われわれの問においては道徳的に致 命的なことである。従って嘲笑をうけないよう にすることは,極めて重要のことで,そのため には外から見えるもの,即ち内面的なものより もむしろ外面的なものが一形式が大切のものと なる。ここからまた委曲を尽した所謂礼儀作法 が生れてくる。か様の形式主義の伝統の下にお いては,道徳意識は内に向わずに外に,即ち自 己評価が他人の自己評価に任せられる結果,深 い自己反省というが如きは覚醒すべくもなく, 自己喪失は必然的であった。国民としての日本 人は強いが,個人としての日本人は弱い,とい われる究極の理由もここにある。個の深い自覚 に基づかない形式主義道徳が空中楼閣にも等し く如何に脆いものであるかということほ,敗戦 を経験したわれわれ日本人にとっては等しく強 く体得せられたことである。 ところで差油感情はか様の対他的社会的感情 にすぎないものであろうか。自らに恥じるとも いわれる董恥感情のあることもわれわれは否定 できないとすれば,一体差恥感情とは如何なる 本質の感情であろうか。このような二つの差i恥 感情の間には如何なる関係があるのだろうか。 このことに関して私はマックス・シェーラーの 国恥感情の理論に依拠しながら論じてみたい。 (二)面恥感情とその表現形式 シエーラーによれば差恥感情は,宇宙におけ る人間の地位をも決定するほどの重要な感情で ある。“世界存在の偉大な段階構造の主なる人 間の独自の地位と状況,即ち神的なものと動物 的なものとの間の人間の状況は,如何なる感情 においても差恥感情におけるほどにかくも明瞭 に鋭く,しかも直接的に現われない。”⑦動物が 例えば,恐怖(Furcht),不安(Angst),嘔吐 (Ekel),嫉妬(Eifersucht)等その他多くの感 情を人間と共有することは,多くの学者たちに よって認められていようとも,この董恥感情だ けは人間に特有のものであって動物にはない。 この感情の現われる場所は超動物的なもの,即 ち思惟,直観,意欲,愛等の人格的活動と,動 物的なもの即ち生の衝動や生命感情等のような 本能的なものとの生き生きした接触(Lebendi− ge Kontakt)である。 それ故にこの感情は動 物には勿論見出されないが,同時にまた神にお いても見出されない。蓋釈する神の概念は矛盾 であるから,人間だけがこの感情を持つという ことは,人間がまた同時に身体的存在でもある からである。精神と肉体,永遠と時間,本質と 現存とが相触れ合う人間の身体において,人間 は差恥を感じる。それは漠たる姿においてであ ろうと,人格の深痛において突如として現わ れ,全人格を根底から揺り動かす自己感情であ り,人間はこの感情において,自らを二つの秩 序即ち存在秩序 (Seinsordnung) と本質秩序 (Wesensordnung)との架橋として体験する。 “生き生きとなされるならば,何等かの純粋な 事象的な,しかも超生物学的な内容,或は目標 に耽っているところの何か上記の精神的志向が 折にふれて常に暗々裡に与えられている身体に 向って突如として起る注意の反転(ZurUckwe・ ndung)によって,空間的に時間的に限局され た動物的な存在一極めて多量の必要性を持てる もの一に鎖で連結されているのを見出すときが それである。”例えば創造的芸術家が創造活動 に没頭している場合,そこに存在するものは芸 術家の創造活動だけであって,彼の自我も,彼 の身体も,作晶の諸材料も存在しない。美の客 観的法則に誘われながら,一瞬一瞬変化してや まない創造活動自身の中に彼の全人格は濃刺と して生きる。然し何かの理由で突如としてその 注意志向が反転し自然的存在としてのこの自己 に,即ち種々なる空間的時間的制約下にあるこ の身体的自己に向けられるとき,幽かではあろ うが存在の画所において,彼は深い差恥感情を 体験しないだろうか。真理の探求に没頭してい る科学者が,ふとわれに返えったとき,彼もま た同様の体験を持たないであろうか。それ故に 差恥の存在の場は,理想と現実,存在当為と事 実とが矛盾するところ,価値と無価値とが同時 @ Max scheler: Schriften aus dem Nachlass Bd. 1, S. 66ff.
マックス・シエーラーに於ける着恥の感情について(三輪) 5 に存在するところである。本来人間存在が矛盾 存在であるから,差恥もまた人間の存在の仕:方 .としてその不講印を意味する。“人間の本質に は身体が属しているからこそ,彼は差恥を感 じなければならない(mUssen)状況となり得る し,然し彼がその精神的人格的存在を,か様の 身体から本質的に独立せるものとして体験し, そして身体からくることのできる凡てから本質 的に独立せるものとして体験するからこそ,彼 は蓋恥を感じ得る (k6nnen)状況に至ること が可能である。”③ か様のことを最もよく象徴 的に示したものは,人間の祖アダムとイヴとの 楽園追放の物語りである。“彼等の両眼が開か れ,彼等の裸であることがわかったので,彼等 はいちぢくの葉を合せ編んで彼等の前垂れとし た。”(旧約聖書)差恥感情は,その罪によって楽 園を追放された彼等の,突如として開かれた限 に映った罪の体の体験であった。それ故に蕊恥 感情e:一4次的には決して対他的社会的二二では ない。この感情を対他的社会的とするのは,こ の感情自身とこの感情の表現形式とを混同する 結果である。差恥感情も他の感情一般と同じく 何等かの形式一一般には赤面一において表現さ れる。然しこの感情自身とその表現の形式とは 判然と区別されなければならない。この区別を 見落して表現の形式をこの感情表現自身と見誤 るところに一種目錯覚が生じ,この錯覚に基づ いて形式主義が結果する。それ故にこの差恥感 情自身の中に道徳の根拠を求める代わりに,差 恥感情を社会の訟訴道徳への適応とすることは 根本的に誤っているといわなければならない。 か様の形式主義こそ正しく無恥(Schamgeftthl・ 10S)の根拠である。 それでは如何なる形の混同があるだろうか。 シエーラーによれば次のような三種類の混同が あげられる。⑨ ag一一には差恥の事実をみないで,これを教育 や伝統の結果とみるもので,更にその中におい て三つのことが区別される。 (1)差恥感情と一定社会におけるその表現形 式,即ちそれぞれの風俗,慣習との混同。か様 の混同のために差恥の表現形式を欠くことが, 直ちに無恥と見誤られる結果となる。《巧言令 色鮮 仁》ともいわれるように,か様の社会的 風潮は,むしろまことに悲しむべき道徳的頽廃 現象である。 (2)山留感情の自然的表現と人為的表現との 混同。例えば赤面は毒恥感情の最も一般的な自 然的表現であるが,種々なる人為的表情はむし ろ無恥の反応である。 ③最後に無恥感情とその表現一般との混 同。差恥感情は普通一般には表現されるが,然 しその表現は民族的にも社会的にも,更に個人 的にも極めて多種多様である。従って一般表現 を以て直ちに真田感情とみることはできない。 第二に蓋恥感情と一定社会における道徳的解 釈及び評価との混同がある。董恥感情は完全に 恒常的であるにもかかわらず,その道徳的解釈 と評価とは旬変乱である。例えば,貞操(Keu− schheit)や童貞(Reinheit)の概念は,民族的 に社会的に歴史的にその意味と評価とは多様で あった。⑩ 第三に,他には別に錯覚を生じるような表現 動因や行動動因もないのに,人が蓋恥を体験す るということについて事実現われる自己錯覚が ある。例えば人は風俗慣習に惇ることについて は無条件的に差恥を感じる。それ故に女子はそ の下着を現わすことに男子よりも遙かに多く葦 恥を感じる。これは風俗慣習によるものであ る。 さてか様の表現形式といえども,それぞれの 必要に応じ,長期に渡る生活の中から機械的な 相互影響と模倣とによって漸次形成せられ,伝 統によって支えられているものであるから,人 為的に直接これを改廃することは極めて困難な ことである。シエーラーは日本人について次の ようなことを語っている。一つ宿の客人たちは 男女子どもの区別なく,皆一緒に入浴して別に 差恥を感じないにもかかわらず,男女のダンス やディコルティのような露出性の着物には強く @ ibid. S. 69. @ ibid. S. 92ff. @ Max Scheler: Formalismus. S. 306ff.
差恥を感じる。⑪ 黒人の女は一般にその陰部 を蔽わない。従って伝道者にその陰部を蔽うよ うに要求されるときには,文明人とは反対に, 非常にはつきりと自然的な董恥の表現を示して 躊躇する。仕方なく蔽わなけれぽならない場合 には,その場所から逃げ出して,籔の陰か小屋 等の中にかくれて蔽うのであるが,蔽うた後は そこにかくれていて却々出て来ようとはしな い。⑫ 黒人はその皮膚を着物と感じ,陰毛を 陰部の蔽いと感じているから,着物や前垂れで これらを蔽うことは,彼等の風俗慣習と合わず 人目を引く結果となるから,むしろ彼等には差 恥感情の原因となるのである。か様に董恥感情 の表現形式は一見極めて異なってはいるが,然 し何れの場合においても決定的に重要のことは “差金表現のか様の所与形式の場合,差恥感動 を惹起する原因となるものは,同一事情の下で はその形式のそれぞれの偏差(Abweichung) であり,それはか様の偏差が普通以上に注意を 当人の身体に向けさせるようにするからであ る。”⑬ それ故に美醜や所謂劣等感等は差恥感 情の本質的な原因ではなく,むしろ一次的には 差恥感情とは何等の関係もない。劣等感は身体 的精神的弱点における差恥感情の結果である。 この形式の偏差はそれまで一般の中に没してい た個が個として浮び上ることであり,一般的な ものと心的なものとの遭遇点であり,矛盾であ る。個毒魚,個的自覚のないところに差恥感情 は生じ得べくもない。 蓋恥の表現の特殊の形式は,慎み深い風を装 うことで,所謂取り澄し(Pr廿derie)である。 これは差恥感情とは何等の関係もなく,その表 現が,人為的に故意に形式化された結果である。 “それ故に取り澄しは,薄恥感情の空虚であり, その人為的表現形式で,それは実際の董恥表現 の傾向には,もはや相応しないものである。” ⑭ 所謂教育によって変化の可能なものは正に か様の人為的形式だけである。喜怒哀楽を面に 現わさないわれわれの所謂伝統的な高笑いの表 情は,差恥感情の自己体験関係性から遊離した もので,武士社会の伝統(広義の教育)の結果 である。英米流の紳士を性格づけているものは 正にか様の取り澄しである。これは内面的な差 恥感情の空虚を外面的に擬装する故意の表情で ある。即ちこれは客観的な董恥⑮と差恥感情と の矛盾である。これは意図的教育によって可能 であるから,着物を着ているヨ・一 Ptッパの婦人 たちは,仮令最も無恥な売笑婦でさえ,最も 差恥感情の細やかな黒人の女よりも客観的な差 恥即ち盤恥の表現形式を身につけているのであ る。無恥のか様の人為的擬装たる取り澄しはま た,彼等英米人のいちゃつき(Flirt)の原因で もある。取り澄に対する差恥反応(Schamreak− tion)は,犬儒主義(Kynismus)で,その形 式は自然性の尊重(Naturalichkeitsschatzung), 率直(Offenheit),無頓着(Frechheit)である が,これらは決して差恥感情の不足や無恥によ るものではなく,超感覚的養恥感情の,空虚に なった差恥の表現形式に対する凝しい抗議であ る。この犬儒主義の藤野反応に類似のものは淫 狼(Obsz6nen)である。兎に角これは決して 差恥感情の欠乏ではない。これが犬儒的態度と 異なるのは,後者が董恥自身から生れるのに対 して,前者は差合からは直接生まれず,しかも 常に差前と密接な関係にあるということであ る。即ち淫狼の態度は差i恥感情の船頭において 不快を感じながらも,尚特有の快楽を感じてい る態度である。従ってこの殿損は差恥感情の全 面的否定ではなく,逆にこの殿町から淫狸は生 じ,従って鋤彫は生き生きした毒恥感情を前提 こそすれ否定し破壊するものではないし,また し得るものでもなく,それ故にまた差動感情の 殿損に悩まず,むしろこれを享楽する淫狸な態 度の中には,既に一種の残酷性(Grausamkeit) 一加虐性(Sadismus)一が内在している。“正に 差恥の殿損が極めて生き生きと感じられ,しか ⑪Nachlass. S.92. tiber Scham und SchamgefUhlという論文の書かれたのは少くとも35年以前と考えられ るから,今日の日本人とは可成り異なった日本人のことである。 @ ibid. S. 76. @ ibid. S. 92. @ ibid. S. 91. @ ibid. S. 73.
マックス・シエーラーに於ける着恥の感情について(三輪) 7 も同時にか様のものとして意欲せられ,享楽せ られるということが麗容なものと淫蕩なもの (UnzUchtige),及び無恥なものとを判然と切り 離すものである。”⑯淫蕩や無恥は人間性の忘却 であり,人間の動物への堕落を意味するもので あるが,淫薬なものは差i恥感情の自然的本質的 な欠乏の表現活動ではなく,人為的に目的的に なされる云わぱ故意の表現活動であり,従って 深奥においては常に更沙感情の殿損を生き生き と感じているから,一度差詰感情の恢復される 場合にば,それだけ急雨体験は深刻である。歴 史上有名な敬凄の念の厚い多くの人たちは,神 に近づくその陶冶過程において,敬虚な祈りの 心情の中に幾度か突如として強烈な淫狼の観念 が悪魔のように忍びこんだか,ということをわ れわれに教えている。 (三) 個人と差恥 シエーラーによればわれわれの意識は四つの 層,即ち精神的(geistige),心的(seelische), 生命的(vitale),感性的(sinnliche)の四層を なしている。⑰ 更にわれわれは彼の精神一衝 迫(Geist−Drang)の理論⑮とこれを結びつけて 考察するとき,精神的及び心的二層を純粋に心 的なものとし,生命的及び感情的二層を身体的 なものとして簡潔に二分して考えることができ る。差回感情もこれに相応して心的面恥感情と 身体出差恥感情とに分けられる。⑲ 差恥感情 が個の成立とともに生じることは前に述べたの であるが,個の成立が身体を媒介とし,特に身体 の中心として性器が考えられるところがら身体 忌寸恥感情が心的面恥感情に比較して,より一 般的であり,より強い切実な感情であるという ことは生物学的にはその根拠を性器に持ってい ると考えられる。この意味において心的差恥感 情を欠くものといえども,尚身体的,性的差恥感 情を欠くことはできない。尚また差i恥(Scham) がその語原から同時に性器をも意味し,それ故 に面恥が本来性的差恥を意味するものであるこ とは,上述したことと符号するものといい得 る。情緒生活においては無用のものは何に一つ もない。性器が排泄器官と密接し,性的毒恥感 情が嘔吐感情と深く結びついていることは,毒 恥感情が単に道徳的に重要な感情であるのみな らず,生物学的にもまた極めて重要の意味を負 荷されていることを象徴している。それでは性 的蓋恥感情の本質構造とは如何なるものであろ うか。このためにわれわれは生物学的先行条件 としての個体化の過程を概観する必要がある。 第一に性的差恥は個体化と密接な関係にあ る。個体が種族繁殖過程の単なる通過点である ような動物には,況んや植物的なものには自証 の生じ得る余地もない。繁殖と成長との分離, 即ち時間的には生殖期間の前後に生殖から分離 された成長の期間のあることが必要である。そ してか様に生殖期間の前後における成長期間 は,また同時に生殖と性交との分離を暗示する であろう。前者は種族的であるが,後者は個体 的であるから。それ故に個体がその種族から離 れて,個体としての成長の意義を得てくること が第一条件となる。 第二に生殖の相手のある程度の選択可能性と いうことである。即ち単なる繁殖の量よりも, その質が重要の意味を得てくるということであ り,生殖の性質が有意味となるということであ る。植物の生殖は全く無選択的であり,自然的 であり,機械的であって,無生物の化学的結合 のようなものである。これに対して衆知の如く, 動物においては既にある程度の好悪の現象がみ られ,交尾に先行する闘争や演技がみられ,媚 態のあることは,相手の選択の可能性を意味す る。そして同時にこのことは雌雄の分化の意味 でもあり,解剖学的には,性器が他の器官から 分離し,雌雄がそれぞれ個体として独立するこ とでもある。個体の有機的解剖学的構造よりし て,繁殖の種族的重荷を負うものは雌であり, それ故に雌は雄よりもより種族結合的であり, 従って雄よりもより以上にその先行段階との類 似性を持っている。自然における単為生殖等の
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ibid. S. 95. FormalismuS. S. 340ff. Max scheler: Die Stellung des Menschen im Kosmos S. 73ff. u. S・ 96. Nachlass. Bd. 1, S. 90.現象より考察すれば,雄の原理は雌の原理より もより若い原理である。そしてこのことは,身 体的,心的の両方の差身感情の配分の割合は, 女よりも男の方が遙かにより大であるというこ とに重要な関係を持っている。 第三には上記の過程と並んで有機的形式の分 節化が生じる。動物は植物に比すれば,勿論そ の有機的根本図式は,無限の多様の変化を持つ ものではあるが,然しその凡ての衝動活動も,個 体維持の生殖も,尚極めて劃一的な種族的興野 の下に包摂せられている。⑳ 高等の動物には 生殖作用に既にある種の選択が付加されてはい るが,か様の本能的選択と価値選択とは判然と 区別せられなければならない。価値選択は精神 的感情一価値認識作用一を前提するから。個体 化とか様の価値選択作用とが,生殖過程の中へ 入りこんでくることによって初めて性的1董恥が 可能となるのである。これに対応して客観的差 響と呼ばれる現象が存する。シヨペソハウエル が適切にもいっているように,植物は恰もその 性器を誇示しているかのように露出している。 これは植物的存在が,全然種族維持にのみか かっていることを意味している。これに対し, その個体化の進んでいる動物ほど,その性器は 解剖学的に下部に隠蔽せられている。これは生 殖を全生命の麦配下におくことを目標とする差 恥感情が,全感情的に単なる生殖を差恥する客 観的差等の現象である。 第四に個体の生活過程の時間的構成 (Zeitli− che Gliederung)をみるとき,生物の進化とと もに生殖活動のための時間が,生命相対的に漸 次減少するということである。動物の発情期の 週期的性的成熟のためには,一定の期間を必要 とすること,繁殖力の低下等は,朋らかに以上 のことを示している。その生殖において植物は 全くその環境と季節とに依存しているのである が,これに対し既に衝動,感覚,感情を有する 動物において・は,発情期の週期性は植物ほどに 合規則的ではなく,更に人間においてはか様の 週期性に代わって,毒恥感情が生殖衝動に対す る調節者として現われる。 @ Die Stellung des Menschen im Kosmos, S. 24ff. @ Nachlass. Bd. 1, S. 79. われわれは既に差恥の現象する場は,矛盾存 在としての人間が突如として,自らに向って反 転するときの自己感情であることをみた。一般 の中に個として浮び上るとき「,しかもそれと同 時に突如として自らを知るときの積極的自己価 値感情である。シェーラーに倣って尚若干の例 を引用しよう。火事の場合あわてて裸で家を飛 び出した婦人が,やがて安全の場所に避難する ことができ,そして今はじめて自分が裸である ことに気づくとき,この婦人は蔽い難い差押感 情に襲われるであろう。裸であることを他人に 見られているということだけでは蓋恥の感情は 惹起されない。突然裸であるということに気づ くことが差等感情を誘引する根本動因である。 他の人に見られるということはこの裸の自分に 突然気づく条件とはなり得ても,それ自身は差 恥感情誘引の根本動因ではないし,況んや差恥 感情の本質とは何等の関係もない。画家の前の モデル女,医師に対する婦人患者,女中に対する 入浴中の女主人等には差等の感情は起らない。 そこに存在するものは,モデルー般であり,患 者一般であり,女主人一般であって,固有名詞を 持たない存在,即ち個としての存在ではない。 そこには自己がないのみならず,それらの間の 関係は持続的な熟知の関係であって,突如的な 反転関係ではない。これに反し画家がモデル女 から眼を転じて彼の女自身を見るとき,医師が, 女中がかくするとき,彼の女等は自己自身への 突如の反転において不可避的に直ちに早しい差 恥感情に襲われるであろう。それ故に差恥感情 の発生にとって,次のことは極めて重要のこと である。“その力学において平居の始まるあの 自己自身への反転は,人が一般的なものとして 与えられていることを知るときにも,また個体 として与えられていることを知るときにも現わ れなくて,他入の感得可能の志向が,個体化と一 般化との思念の問に振動するとき,しかも自己 の志向と体験される相手の志向とが,この思念 の相異に関して同じ:方向をとらずに,反対の方 向をとるときに現われるのである。”⑳ 性生活 が差恥感情と最:も顕著な深い関係を持っている
マックス・シエーラーに於ける董恥の感情について(三輪) 9 ということは,性生活が生物にとって最も一般 的な現象であると同時に,それに伴う感情が反 対に最:も個的直接的なものであるからである。 それ故にまた性生活は,毒恥感情の起源ではな く,その最も顕著な適用領域である。差恥は人 間が下等の生物と共有する単なる生殖に堕する ことに対する警鐘である。それ故に薩恥は一般 化の原:理と個体化の原理との中間に位する。一 般化の原理は衝動(性衝動)であり,個体化の 原理は愛(性愛)である。衝動と愛とは既述の 如く,シエーラーの人間学における二大原理で ある。それ故にまた雪避はこの二大根本運動の 力学的表現である。⑳ さて愛の根本運動一愛の二つの形式,心的愛 と情欲的愛(Leidenschaftsliebe)の運動∼は, 第一には価値志向的であり,第二には対象との 献身的関係を持ち,そして同時に第三に性生活 においては,質的な個人化の原理である。他方 衝動の根本運動一十の二つの形式に相応する生 の根本衝動と純粋の感覚的性衝動一は,第一に は価値に代わって快楽状態を志向し,第二には あの献身的関係に代わって,感覚的自己快楽追 求の活動が,そして第三に性生活においては質 的個的な原理よりも量的な種族的原理が代わっ て登場する。この二つの相反する方向を持つ根 本運動の体験的緊張を持たないものには,性的 差恥感情は成立し得べくもない。この緊張にお いて,“愛の活動は恐らく衝動を満足させると ころの,当の個人との性交の価値を合感情的に 内検査する。そして愛が充分の強さと決断と一 義性とを得るまでの長い間,衝動満足のための 性的快楽に充ちた欲望を留保するものは,差恥 感情の中にある抵抗と防禦との成分である。”㊧ それ故に差恥感情の中なる消極面だけをみて, そのより本質的な積極面をみないということ は,キリスト教的見解,及びフPイドの思春期に おいて初めて発生するリビドーの有機的制限, 及び駆逐とする説や,更には心身の欠陥に差恥 感情を結びつける現代の通俗的な見解等は一方 的な偏見であるといわれなければならない。“ 差恥感情は生殖衝動を可能な愛と,愛によって 実現せられる価値ある性の相手の選択に制限す ることによって,生殖にとって正にかけ換えの ない積極的役割を演じる。”⑭ かくてシ」t一ラ ーによれぽ生恥感情の本質は,“一方では個人 の自己自身への反転,即ち凡ての領域における 一般的なものに対する個人的自己保護の必然性 の感情であり,他方ではより低次の衝動的努力 に対して,強い魅力を現わすところの対象に対 する価値選択的な,より高い意識機能の未決定 が,両段階の意識の緊張として表明されるとこ ろの感情である。”⑳ 身体的差脚(生命二二恥)は,快適の感覚的 感情に向う量的一般化の原理である。衝動活動 に対し価値選択的な質的個別化の原理である愛 が,衝動を統御してその方向を変じ,より高い価 値実現の原:動力たらしめるまで個人を防護して 衝動活動に抵抗し,抑制し,延期させるものであ る。性的差恥においては,単に異性における性的 肉欲にのみ向う性衝動に対し,より高い価値あ る異性iを愛が価値選択するまでの長い間個人を 防護し,種族的動物的な単なる性的快楽への堕 落を防止するのである。それ故にこの差響感情 は,感覚的生命的意識層を前提するものである から,普く人間一般において存在する一般感情 である。これに対して心的精神的二二感情は, 心的精神的なものと生の向上を目指すところの 生の根本衝動との間に存するものであるから, 人間的ではなく,精神的であり,精神的人格を 前提する。従ってこの二丁は,個人的並びに民 族的発達の凡ての段階においては存在しない。 (四)差i恥と類似感情 “差恥の中核は自己隠蔽のしぐさにおける美 の啓示である。”⑳美の不壊の約束でありながら 同時に,それを意欲しない暗黙の約束である。⑳ ⑳⑳⑳⑳⑳⑳ ibid. S. 80ff. ibid. S. 85−86. ibid. S. 96. ibid. S. 90. Max Scheler: Abhandlung und Aufsatze Bd. 1, S. 32. Nachlass Bd. 1, S. 100.
それは蓋恥が個人の深層に位することを意味す る。差恥は個人の深所に位するが故に外面化を 避けながら,一方では個人の動物化に対抗する とともに,他方では個人の神的なものへの高揚 を内深くに目指しながら,自らはこの目標の実 現に積極的に努力せずに,むしろ衝動に積極的 に抗しながら,愛の積極的な価値選択に期待し, そして愛の活動の開始とともに身を退く。か様 に均一外,上一下,積極的一消極的という二元 性を中に包む毒恥の感情はまた極めて復雑多岐 の感情でもある。この感情が深い関係を持つ類 似感情は,一方には高慢(Stolz)と謙譲(De− mut)とがあり,他方では後悔(Reue)と名誉 感情(Ehrgeftihl)とがある。 i垂恥感情が一般 化,価値の低下を恐れる所以のものは,自己の 個性的積極的価値への信頼を中に蔵しているか らである。この積極的自己価値感情において董 恥は高慢と結びつく。然し高慢が自己執着的で あり,しかもまた自己価値内容が空虚であれば あるほど,いよいよ以て積極的に自己執着的に その消極的な自己価値を逆に積極的に誇示する 点において,差恥と鋭く区別される。画図は防 護の感情であり,むしろ退いて寛恕を乞う。こ の点において差恥は謙譲と類似する。謙譲と高 慢とは全く相反する感情である。@ 謙譲は愛 によって与えられたより高い価値への献身的没 入の感情である。それ故に謙譲は愛の一様式⑳ ともいわれる。然し蓋恥は愛に導かれず,愛の 活動の開始とともに身を退く感情である。それ 故に,‘‘差恥の中なる自己価値感情が,董恥を 高慢に類似たらしめ,その中なる愛及び献身的 傾向が,差恥を謙譲に類似ならしめる。凡ての 蓋恥を基づける両つの争いの力学において愛が 高まり,差恥の柵を打破するとき,蓋恥に代わ って謙譲が現われる。”⑳ 差恥感情は防護の感情として,高い価値を期 待しながら,同時に本質的に低い価値への堕落 の危険をも中に含んでいる。自らを恥じる差恥 @ Abhandlung u. Aufstitze Bd. 1, S. 8ff. @ ibid. S. 17. @ Nachlass Bd. 1, S. 82. @ ibid. S. 81. @ @ Nachlass. Bd. 1, S. 152ff. 感情はまた一一種の罪責感情(Schuldgeftihl)⑳で ある。この点において毒恥は後悔と類似す。る。 然し後悔は本来消極的価値感情であって,⑫自 己防護の痕跡だも見出されない。これに対し蓋 恥は本質的には,消極的及び積極的価値には直 接に関係しない。差恥が後悔と一致するのは,そ れが消極的価値において現われるときである。 それ故に注意せられて自己の行為の消極的価 値を知り,それ故に自ら高まらんとするものに おいて,初めて差損と後悔とが一致する。名誉⑳ は“社会的個人の自然的価値”, ‘‘社会的人格 の客観的価値”で,この価値に基づいて“尊敬 の衝動的要求”が生れてくる。これはむしろ自 己価値の失墜を恐れる感情で,尊敬に値するこ とから本質必然的に生れてくる要求であって, 人為的意図的な要求ではない。それは尊敬が失 われたときに初めて気づかれる価値である。そ れ故に名誉は周りの人々の尊敬の中に見出され るものであって,これらの人々の単なる表象や 価値評価の結果ではない。か様の名誉の感情は それに値することにおいて董恥感情の価値防護 性と類似するが,然し董恥感情は如何なる意味 においても祉会的尊敬を要求しない。 心的差恥は功名心(Ehrgeiz),虚栄(Eiteke・ it)及び名聞心(Ruhmbegierde)と,性的差 恥は見得え(Zeigelust)と力学的対立,及び制 約関係にあるものである。凡てこれらのものに 共通していることは,人為的意図的に社会的賞 讃を得ようとする努力に充ちているということ である。功名心は政治家にとって,虚栄は所謂社 交家にとって,名聞心は社会事業家にとって,そ して見得えは本能的な人間にとっての意図的な 願望である。これら凡てのものが多かれ少なか れ外面化し,個人を世間や社会の凡庸の中に 見失わせ, その呪近我(intimes Selbst)に何 等の注意も配慮も払わせないようにするのに反 し,差恥は可能な限りか様の社会的接触を避け て内面化し,この泥近我を護り,その社会的外 Max Scheler: Vom Ewigen im Menschen, S. 5ff.
マックス・シエーラーに於ける董恥の感情について(三輪) 11 面化への堕落を防ぐ。 身体的差恥は嘔吐及び嫌悪(Aversion)一嘔 吐感の軽度の形一とより深刻な類似性を持ち, 心的蓋恥は,不安,恐怖及び畏敬(Ehrfurcht) とより深刻な類似性を持つ。既にフロイドのい うが如く,性的差恥と嘔吐とは性衝動の乱用に 対する主要な堤防である。この意味において両 者はその形式において反抗性,防護性という点 においてet一一・致するが,然しその反抗性,防護 性の内容においては全く相反する方向を持って いる。即ち性的差恥はその抵抗の底に尚強い本 能的な索引関係(Anziehung)を宿しているの に反し,嘔吐は突き離し(Abstotzung)を前 提した拒斥である。不安は生命に対する危険の 予感であり,恐怖はか様の予感に同時に危険物 の表象の付加されたものである。これらは何れ も危険物に対する防護性において差恥と類似で あるが,然し恐怖の根本的視陶は表象された危 険物への外的方向であって,この点において差 恥と区別される。差恥が不安とより類似的であ るのは差恥は純粋な感情として何等の表象をも 必要としないから。差恥によるme11栗と不安によ る戦標とは,表情として部分的に同一であるの みならず,その情緒的態度は極めて類似的であ る。索引関係の底流の上なる差恥は,不即不離 の態度として,既に防衛的な不安の態度(ang− stliche Abwehrhaltung)である。最も差恥と類 似する感情は畏敬である。畏敬も一種の恐怖で はあるが,恐怖における危険物の表象の代わり に,より高い価値の担持者に対する尊敬の結び ついた感情である。畏敬がその対象と尊敬にお いて結ばれ,恐怖において離れる関係は,董恥感 情における索引と拒斥との関係に極めてよく類 似している。最後にこの畏敬と差恥「とは,畏 怖(Scheu)において,特に神聖な畏怖(heilige Scheu)において密接に織り合わされているの であるが,この畏怖の念がそれぞれの民族の世 界観,及び神観の形成の根本動因であることを 思うとき,差恥感情の形而上学的意義は極めて 重要のものとなってくる。 (1958. 9)