「学都仙台」――その"学都"観をさぐる――(その
3)
著者
中川 正人
雑誌名
東北学院大学東北文化研究所紀要
号
51
ページ
51-76
発行年
2019-12-25
URL
http://id.nii.ac.jp/1204/00024037/
はじめに
前稿︵その二︶では、①仙台を﹁学都﹂の呼称で論述した資料の 初見とされる第二高等学校学友会雑誌﹃尚志会雑誌﹄掲載論文﹁学 都たらしめよ﹂について、執筆した背景︵ ﹃河北新報﹄ ﹁社説 教育 地としての仙台市﹂との関わり︶と論文の特徴︵ ﹁学都﹂仙台論︶ 、 ②第二高等学校生徒が論文中で批判したとされる仙台市長早川智寛 の﹁学生の町﹂仙台論と﹁教育地﹂仙台論、③﹃河北新報﹄が呼び かけた﹁教育地としての仙台﹂についての紙上論議、④雑誌﹃大東 評論 ﹄︵ 社主 ・ 早川智寛仙台市教育会長 ︶ 社 説 ﹁ 教育地としての仙 台に望む﹂の主張︵ ﹁教育地仙台﹂論︶の特徴、⑤明治期の﹁学都﹂ ﹁教育地﹂の呼称の意味づけについて、それぞれ具体的な資料を提 示し、述べた。 本稿では、予定目次の七、大正期の﹁学都﹂論について述べる。七、大正期の﹁学都﹂論
大正期の ﹁学都﹂ 論を検討するには、 ﹃河北新報﹄ が一九〇七年 ︵明 治四〇︶八月に呼びかけた﹁教育地しての仙台﹂と題する紙上︵公 開︶論議の推移を、明らかにする取り組みは不可欠である。しかし ながら 、﹃ 河北新報 ﹄ 記事は一九一二年 ︵ 大正元 ︶ から一九一八年 ︵大正七︶七月までの部分が欠損しており、具体的な確認は難しい 状況にある。したがって、一九一八年︵大正七︶八月以降の﹃河北 新報﹄記事と、その他の資料によって把握できる大正期の﹁学都﹂ 論を通して、 ﹁学都﹂観をさぐってみる。 ㈠、 ﹁学都﹂の呼称の普及 ⑴ ﹃河北新報﹄記事に見る﹁学都﹂の呼称 一九一八年 ︵ 大正七 ︶ 八月以降 、﹃ 河北新報 ﹄ が報じる仙台に関 する記事は、米騒動やそれに関連したものが大半を占め、この年の 紙面からは﹁学都﹂の文言を確認できない。学都の文言を見いだす﹁学都仙台﹂
その〝学都〟観をさぐる
︵その三︶
中
川
正
人
東北文化研究所紀要 第五十一号 二〇一九年十二月のは、つぎに示す翌年一月の記事である。 ﹃河 北 新 報﹄ ︵大 正 八・一・一 〇︶は、前 年 に 起 き た 仙 台 の 米 騒 動に関する公判における帆高検事の論告について、つぎのように報 じている。 ◆ 翌十六日︵註、前年八月︶に至りては、直に数百数十の群集は 猛烈な勢ひで破壊的暴動に移り、中には米屋もあつたらうが大 体は資産家を襲い寄付金を強請し、果ては門戸を破砕し闖入し ては貴重なる金品を傷け 、 遂 に放火までもするといふ事にな り、 学都 として常に静寂なるべき当市は忽ち惨憺たる光景を現 出したのである ︵引用資料のゴシック体・傍線は筆者、 以下同︶ 帆高は、仙台地方裁判所検事として、仙台の米騒動を担当してい た。彼が使用している学都の意味づけは把握できないが、仙台の呼 称であることを知っていたことは間違いない 。﹁ 学都 ﹂ の 呼称が 、 知識人の一定層に受け入れられていたと推定できる。 また 、﹁ 宮城県を去るに臨みて 兒崎為槌 ︵ 註 、 前宮城県師範学 校長︶談﹂ ︵﹃河北新報﹄大正八・一一・二六︶によれば、 ◆ 仙台の地は奥州の江戸と称せられ、今は 天下の学都 を以て任じ られて居る。其各種学校の完備せる点に於ては、 学都 たるに恥 ぬとしても、初中等の普通教育の徹底普及の点に於ては、他県 に比して未だ意を安んずることが出来ぬと思ふ と述べている。仙台の地で初等・中等教育機関の中枢にいた者が、 学都の意味づけを﹁各種学校︵初等・中等・高等教育機関︶の完備 している都市﹂と捉えたうえで、高等教育に比べて初等・中等の普 通教育の徹底と普及に課題があることを指摘している。 大正中期以降 、﹁ 学都 ﹂ の呼称で仙台を報じる新聞記事は 、 前 の〝 ︻表 3 ︼﹃河北新報﹄掲載﹁教育地・学府・学都﹂に関する見出 し〟で代表例を示したように頻出する。 明治期に多用された ﹁ 学 府 ﹂﹁ 教 育地 ﹂ の文言に替え 、 あるいは それらの文言とともに使用される﹁学都﹂の呼称は、どのような意 味づけで捉えられ、 どのように論じられていたのか。 ﹃河北新報﹄ ︵大 正八・六・二三︶ 掲 載 ﹁仙台市経営策﹂ と ﹃河北新報﹄ ︵同九・二四︶ 掲載﹁東北の学都仙台に女子大学を設けよ﹂の両記事の内容を柱に して、検討してみる。 ﹁仙台市経営策﹂に掲載された宮城県知事森正隆 註1 、実業家藤崎三 郎 ︵三郎助か 註2 ︶、 市会議員 ︵弁護士︶ 野副重一 註3 の談話は、 東北振興・ 仙台振興との関わりのなかで論じているが、そこから当時の知識人 として捉えられる官僚・実業家・市会議員の仙台観と ﹁学都﹂ 観を、 おおまかにではあるが把握できる。 ◆仙台市経営策 森正隆談 ﹁﹃ 仙台市根本経営策 ﹄ 不 振の声久しい 、 仙台を 論究するに於て適切なる題目ではあるが、直に断案を下すこと の得ない問題である。けれども其声の久しいに似ず其声大なる ﹁学都仙台﹂ その〝学都〟観をさぐる ︵その三︶
に拘らず、未だ具体的の施設あるなく、依然として調査々々に 例の小田原評定を重ねて居るのは 、 口に振興論を唱ふると雖 も、尚未だ覚醒しない為めではあるまいか。由来仙台否東北人 は惰民であると云ふことを世間に伝へられてるが、此の誹も覚 醒しないから受くるのである 。︵ 中略 ︶ 仙台市は先づ将来工業 を五分商業を四分 学都 を一分の割合で矢張り混合施設で行かね ばならぬと思ふ﹂ 藤崎三郎談 ﹁今日仙台市を飾り仙台市の誇とする所のもの は 東北の学都 で あ る 点 で あ る。 ︵中 略︶東 北 振 興 の 声 を 聴 く こ とは久しかりしも、之に対しての施設は稍遅かりしの感を深ふ するものである。仙台市は 東北の学府 であるに関らず、学府よ り年々社会に送られつゝある智識を少しも消化することなく、 少しも形態を変更することなくして純なる侭に他の都市に輸出 しつゝある、仙台は軍隊に官衙に学校に地方として持ち得る最 高のものを設置するに努めつつあると同時に、仙台に於ける特 有の産物たる智識の引留も亦講ぜなければならないと思ふので ある﹂ 野副重一談 ﹁仙台市経営の根本方針は商業か工業か将た又 学都 たるにある可きか、是は頗る困難なる問題である。或程度 迄の商業と工業とは何れの市としても之れを進めねばならぬ訳 故 、 そ の発展につき充分の努力を要することは論無き所であ る。何を云ふても仙台は役所町である、官衙学校の多きに至つ ては全国有数である。大学も段々完成に赴き、近く鉄道管理局 が引越来るが如きは、仙台の繁昌に大なる力を添へるものと思 ふ、仙台は気候も寒温共に極端ならず山あり川あり土地広くし て空気清鮮、而も日本三景の随一たる松島を程遠からざる所に 控へ居る事なれば、住居地として先づ申分の無い所である。東 京、京都を除き名古屋よりも大阪よりも広島よりも福岡よりも 学府としては仙台は全国中最も適当の場所と思ふ ﹂ 森の﹁学都﹂観の根底に存在するものは、東北と仙台の地域住民 への蔑視である 。 内務省高級官僚である任命県知事森のいわゆる ﹁中央史観﹂にもとづく仙台観を抜きにして、彼の﹁学都﹂観は検 討できない 。 か つて 、 第 二高等学校生徒が ﹁ 工業都 ・ 商業都 ・ 兵 都・学都﹂と併記・対比して、仙台の将来像を論じた主張に繋がる 捉え方とは異質なものであると考える。とくに﹁工業五分・商業四 部・学都一分﹂と論じている点が特徴で、仙台市民の代表と目され る藤崎が﹁仙台市を飾り仙台市の誇とする所のものは東北の学都﹂ と評価する情況のなかで、あえて﹁学都は一分で良い﹂と断言する ところに、森の真意が存在すると考える。しかし、この点に関して は、より具体的な検証が必要であろう。 森が使用する学都の意味づけは、把握できない。野副は、学府を ﹁東京、京都を除き名古屋よりも大阪よりも広島よりも、学府とし ては仙台は全国中最も適当の場所 ﹂、 すなわち 、 高等教育機関が設 東北文化研究所紀要 第五十一号 二〇一九年十二月
置され存在する都市と捉えている。 とくに、藤崎は学府と学都を区別して使用しており、同義語的な 捉え方をしていない 。 学都の意味づけは ﹁ 仙台市の飾り ︵ 表 象 ︶・ 誇 り﹂で、そ の 具 体 的 な 内 実 は読み取りにくいが 、﹁ 此の学府より 年々社会に送られつゝある智識 ﹂﹁ 仙 台に於ける特有の産物たる智 識﹂の藤崎の文言から、学都を﹁知的財産を育て生み出す高等教育 機関が存在する都市﹂と捉えていることを確認できる。近代都市仙 台の将来像を検討するに際して、仙台の特性︵個性︶である学都の 価値を再確認し、活かすべきであるとの主張である。 同時期に、 東北学院長シュネーダー 註4 が、 ﹃河北新報﹄ ︵大正九・三・ 一︶で﹁予の大仙台観﹂と題して、つぎのように述べている。 ◆ 仙台は予の半生を送りたる都市として終生の事業を有する処と して、将又墳墓を定めやうとする山河として無限の興味を持つ て居る。されば仙台の発展と云ふことについては常に人後に落 ちざる熱誠を有するもので、其の経済的に発達する点も元より 希望の一つである 。︵ 中略 ︶ 予 は仙台の経済的に発展すると共 に教育中心地たる既得権を失はぬことを絶叫せねばならぬ。 現 在の仙台は教育地として既にあらゆる機関を具備しその声明は 世界的になって居る 、されば仙台をして経済的に物質的に発達 せしむるが為めに此偉大なる誇を滅却してはならぬ、寧ろ実業 家に於て之を奨励し善導してますます文化的に教育的に進めて 行くの必要がある。即ち仙台の教育地たるは天賦の大使命で、 予は仙台市の将来に向かつて経済と教育との融和渾成したる発 達を希望して止まぬものである。 シュネーダーは、知っていたであろう﹁学都﹂の文言を使わず、 ﹁教育地﹂の文言を用いているが、前記の仙台市経営策論に繋がる 近代都市仙台の将来像への提言である 。 彼 は 、﹁ 教育地として既に あらゆる機関を具備している﹂ことは仙台の﹁偉大なる誇り﹂で、 ﹁ 教 育地たるは天賦の大使命 ﹂ と 述べ 、﹁ 仙台市の将来に向かつて 経済と教育との融和渾成したる発達を希望﹂するとの展望を示して いる 。 近代都市仙台を 、﹁ 教育地仙台 ﹂ 論で提起された ﹁ 教育地 としての教育のありかたと役割にもとづき論じている。仙台の将来 像について、具体像の見えない﹁商工業の都市﹂や意味づけが明確 でない﹁学都﹂の文言を用いずに、 ﹁経済﹂ ﹁教育﹂の文言を使用し て論じる彼の真意を汲み取りたい。 とくに、つぎに示す﹃河北新報﹄ ︵大正八・九・二四︶ ﹁東北の学 都仙台にも女子大学を設け よ﹂は、 ﹁学 都﹂の 呼 称 の 意味づけを検 討するうえで、興味深い記事である。 ◆ 今度東京に於て新たに女子高等教育機関が設けられると、相呼 応して京都に於ては本願寺派の手によつて仏教味を加へざる女 子大学が設立されることとなつた。女子高等教育機関が帝都の 外にまで設けられるに至つたのは、我国婦人の自覚の現状に見 て又社会進程の上より見ても極めて当然なる現象である 。︵ ﹁学都仙台﹂ その〝学都〟観をさぐる ︵その三︶
略︶ 関西の学府京都 には女子大学が設立されるとのことだが、 東北の学都仙台 にもこの種の学校があつて欲しいものである、 唯是等の計画の政府の手に依つて為されることは何時の時機に なるかわからないのだから 急速に実現せしめやうとすれば富 豪の篤志に待つより外はないのだ、小倉教授︵註、小倉博︶は かく言つて、仙台に女子高等教育所の現れることを希望して居 るが、市内教育者にしてこれと感を同じうしないものはあるま い。 記事では、①﹁関西の学府京都﹂と﹁東北の学都仙台﹂を対比さ せる形で表記し、 京都を ﹁学府﹂ 、 仙台を ﹁学都﹂ と、 明確に区別し、 ﹁学府﹂ ﹁学都﹂の両語に同義語性を認めない記述である。②また、 京都と仙台をともに高等教育機関が設置され存在する都市として捉 えている。③﹁関西の学府﹂と﹁東北の学都﹂を区別する根拠や、 学府と学都の意味づけを示していないが、仙台においては、前述し たように﹁京都は青年を教育する地にあらず、教育の神聖を保つ地 にあらず ﹂﹁ 一千年淫卑の中心地たりし西都亦固より論ずるに値せ ず、学都たるの名を冠し得ざる者也﹂との捉え方 註5 で京都を論じてお り 、﹁ 学 都 ﹂ の文言には 、 高等教育機関が設置され存在し 、 その地 で学ぶ学生・生徒にとって望ましい教育環境が維持されている都市 との意味づけがあると捉えるべきである。 この資料は 、﹁ 学都 ﹂ の 呼称が明治末期に独自のネーミングとし て仙台の地で生まれ、 ﹁学府﹂ ﹁教育地﹂の呼称を用いた近代都市仙 (写真4) 『河北新報』(大正8年9月24日)記事。「関西の学府京都」と 「東北の学都仙台」の呼称で論じている(下段)。 東北文化研究所紀要 第五十一号 二〇一九年十二月
台の将来像に関する論議の過程で使用され、大正期以降、仙台の地 で普及していったもので、他都市では類例のない呼称であったこと を裏づけていると考える 註6 。 ⑵ 教育雑誌その他の刊行物掲載の﹁学都﹂の呼称 宮城県教育会の機関誌﹃宮城教育﹄ ︵﹃ 宮城県教育会雑誌﹄改題︶ は、大正期の県内教育関係者の﹁学都﹂観をさぐるためには、欠か せない資料である 。﹃ 宮 城教育 ﹄ 誌 上で 、 仙台を ﹁ 学 都 ﹂ の 呼称で 論じ始めるのは、前記︻表 2 ︼〝 ﹁教育雑誌﹂掲載の﹁仙台﹂に関す る呼称〟で示したように、一九一七年︵大正六︶以降である。 ﹃宮 城 教 育﹄第 二 三 七 号︵大 正 六・五︶ ﹁宮 城 教 育 の 目 的 観 K N 生︵註、二 階 堂 清 壽 ︶﹂が﹁仙 台 は 東北の学都 である 。 大 家の研 究意見乃至は教育圏外者の見たる本県教育など、訪問記の様な極簡 単な体裁でよいから掲げて戴きたい ﹂ と 記し 、﹃ 宮城教育 ﹄ 第 二四 二 号︵大 正 六・一 〇︶ ﹁教 育 時 論 都 市 体 育﹂が﹁本 県 の 都 市 は、 他に比し空は煤煙で蔽われ空気は塵に充さるなどの都市的弱点を有 せざる森の都或は 学都 と称せらるる特殊の風光を有する仙台を初め として、石巻も然り其の他地方的の小都会も同様不健康地と称すべ きなき﹂と記している。 ﹁東北の学都﹂ ﹁森の都或は学都﹂の呼称で 仙台を記述しているが、学都の意味づけは明確ではない 註7 。 ﹁学都﹂ の文言を、 その内実や意味づけを示して論じ始めるのは、 一 九 一 九 年︵大 正 八︶以 降 で 、﹃ 河 北 新 報﹄が﹁学 都﹂の 呼 称 を 用 いた記事を数多く報道し始めた時期に重なっている。具体的な事例 をつぎに示そう。 ◆﹃ 宮 城 教 育﹄第 二 五 八 号︵大 正 八・二︶ ﹁教 育 時 言 東北の文 化︵編輯同人︶ ﹂ 仙台は伊達氏によりて実に東北文化の中心たり、世は明治大 正の聖代に及びて各種教育機関は 森の都をして今や我が国の学 都たらしめたり 、然も近く法文科大学の創立を見んとして文華 愈々燦爛として輝き ︵中略︶ 今 や仙台は東北の仙台に非ずして、 実に世界の仙台たる観あり、然れども文化は少数より多数に、 貴族より庶民に及ぶに非ざれば根強き真の文化に非るなり ︵中略︶即ち之等高等教育機関の完備に伴ふ東北文化の発達に 遅るる事なく、常に 学都 の初等教育、 学都 所在地たる本県の初 等教育たるに愧ぢざるの覚悟を有すべきなり。 ◆﹃ 宮 城 教 育﹄第 二 七 三 号︵大 正 九・八︶ ﹁教 育 時 言 本県女子 高等教育の必要﹂ 解放に次ぐに改造を以てし、戦後の経営は性別に論なく人間 悉くをして社会文化の進展に貢献すべきの必要を益々感知せし むるに至れり。この際に当つて本県に女子高等教育機関の設置 を叫ばしむるもの、最適切の唱道にして其唱道主たる慥に斯界 の先覚たるを疑はず。 東北の学都 は既設の建造物に依つてのみ 僅に其の余喝を維持せんとするものにあらず、かかる唱道者の 存在に依つて益々その真価を発揚せんと欲するもの也。 ﹁学都仙台﹂ その〝学都〟観をさぐる ︵その三︶
◆﹃ 宮城教育﹄同号﹁仙台に七年制中学校を設くる議 仙台第一 中学校長小平高明﹂ ここに七年制中学校と称するは新令の七年制高等学校を指 す 。︵ 中 略 ︶ 地方の力を以て七年制高等学校を設け 、 国 家の為 に人材を養ひ郷土の為に万丈の気焔を揚げしめんこと、寔に賢 明の策ならずとせんや。これ吾人が 東北学都の称ある我が仙台 市 に於て天下に先ちて県立七年制高等学校を設け東北人士飛躍 の素地を作らんことを主張する所以也 。︵ 中略 ︶ 吾人もとより 官立高等学校に入学を否むものにあらず、多々益々其の入学を 歓ぶものなるも、中学校をして高等学校受験予備校たらしめん は青年を毒するの大なるに驚かずんばあらず 。︵ 中略 ︶ エナ 、 ゲッチンゲンの壘を摩せんを希ふ我が仙台市 にして天下に先ん じて県立七年制高等学校を設けずんばあるべからず。 三資料から、①﹁我が国の学都・東北の学都・東北学都﹂である 仙台は、既設の高等教育機関の存在に満足せず、それらの教育機関 を多くの国民 ︵﹁ 貴族より庶民に及ぶ﹂ ︶ に開放 ︵性差別否定を含め︶ し、 社会文化の伸展に貢献すべきであること、 ②学都が担う教育は、 新たな高等教育機関の設置をめざし、初等教育の充実にも取り組む べきであること、③仙台が理想の﹁教育地﹂都市としてきたドイツ のエナ市 註8 やゲッチンゲン市に近づき迫るためにも、先進的な取り組 みが必要であることなどの主張が把握できる。 とくに 、﹁ 森の都をして今や我国の学都たらしめた り﹂と、仙 台 の特性︵個性︶は﹁森の都﹂から新たな﹁学都﹂へと変化したと断 言している点に注目したい。また、 ﹁文化は少数から多数へ﹂ ﹁解放 に次ぐ改造を以てし﹂の言葉が示すように、その主張の根底には大 正新教育の思想が存在している。 帝国教育会の機関誌 ﹃帝国教育﹄ 第四六五・四六六号 ︵大正一〇・ 四、五︶で、二階堂清壽︵註、前出︶が﹁宮城県の教育︵上・下︶ ﹂ と題して、つぎのように述べている。 ◆ 人情風土の淳朴、学術叢淵の地として、我が東北を英国のスコ ツトランドに擬している 。︵ 中 略 ︶ 理科大学は名声嘖々として 今や東北の大学ではない、世界的のものである。同校の教授は 何れも学界の権威として崇拝されて居る 。︵ 中 略 ︶ 第二高等学 校、意気健昂の学生、飛んで火にいる夏虫のやうに理想にあこ がれ純粋な感激の生活に血汐を燃やす彼等の生活、そは 東北の 健兒の意気 、 学都の華 、学生の本領を示すに足るものである。 ︵中略︶仙台市は学生や軍人で持つ森の都である。煙突は隻手 を以て数へることが出来る 。 産業の発達してゐない証拠であ る。それで仙台市財源涵養の途は、殖産興業の道を拓き商工業 の繁栄を企図し、経済界の潤沢を期するより外にない。 ︵中略︶ 為政者は県治の要諦をここに置き、初等教育界に於いては之が 思想の涵養に力め、県下生産能率を高めていくと云ふことは、 本県発展策たると同時に、本県教育振興の原動力たることは疑 はない 。︵ 中 略 ︶ 大学と云ひ小学と言ふその大小は価値の軽重 東北文化研究所紀要 第五十一号 二〇一九年十二月
を意味するものだらうか、否、小学教育がなくて中等教育があ らうか、高等教育があらうか、根本が枯れて末葉の繁る道理が あるか 、﹁ 小学校などはどうでもよい ﹂ と 言ったやうな捨台詞 は絶対的に駆逐せねばならぬ。 全国に会員・読者を有する帝国教育会機関誌に、仙台市の小学校 教員が、仙台を﹁森の都﹂の呼称とともに﹁学都﹂の呼称で論述し た最初の事例である。ここでも、仙台の将来像と関連づけて学都が 論じられており、学都︵第二高等学校など高等教育機関が存在する 都市︶にあって、軽視されがちな小学校教育の重要性︵商工業繁栄 のための思想の涵養を担う役割︶を主張している。 このように、仙台の教育関係者が﹁学都﹂の文言を使用して論じ る共通点として、①教育機関を拡充し、市民の多数者へ開放すべき である、②高等・中等・初等教育の違いに、教育の価値の軽重は存 在しないこと、③市民にとって必修である初等教育を充実させるべ きであること、④理想的な学都を建設すべきであること、の四点を 挙げることができる。 しかし、大正初期の仙台では、明治期と同様に﹁学府﹂の呼称が 広く使用され 、﹁ 教育地 ﹂ の呼称も使用されている 。 市 民向けに仙 台で刊行された ﹃ 仙 臺案内 ﹄︵ 阿部兼雄編著 大 正 二︶は﹁仙 台 は 各種学校六十有余其生徒約三万と称す、上は大学校より下は小学校 に至る 全国有数の学府 たるは内外の斉しく認むる所なり﹂と記し、 ﹃ 仙 臺繁昌記 ﹄︵ 富田広重 大 正 五︶は﹁仙 台 は 日本の学府 と誇っ て居る。それには深い歴史的縁由がなければならぬ﹂と、藩政時代 の教育、維新後の教育概観と県立官立学校略要を記し、市政後の教 育では、初等教育の小学校から高等教育の東北帝国大学まで、仙台 に存在する学校を具体的に紹介、東北盲人学校や唖仁学堂など障害 者教育機関まで採りあげている。また、 ﹃松島大観﹄ ︵山下重民・東 京 大正二︶は﹁仙台市の繁華なるは、 教育地 として知られ、各種 の大小学校を有するを第一因とす﹂と述べている。 三書ともに 、﹁ 学府 ﹂・ ﹁ 教育地 ﹂ としての仙台を高等教育機関が 設置され存在する都市ではなく 、﹁ 初等教育機関から高等教育機関 が充実している都市﹂と捉えており、その意味づけに注目したい。 市民一般向けの出版物の記述ではあるが、軽視すべきではない。 大正中期に、高等学校受験者向けに東京で出版された﹃高等学校 受験秘訣 ﹄︵ 菊池朝彦 ・ 出 口競 大 正 八︶は、つ ぎのような仙台観 を記している。 ◆ 二高︵註、仙台の誤記か︶はもとより 東北唯一の学府 だ。独逸 ならば 萊 府 と 云ふところだ。 ︵中略︶吾人は 学校市 を︵学校の ある為めに存在が一層明白となつて居る都市︶と斯う解し度い のであるが、 全国中北海道の札幌、 陸前の仙台、 東京、 名古屋、 京都、大阪、奈良、岡山、広島、福岡、熊本、鹿児島などを挙 ぐべきだ。然し前記の各都市を以て全部を学校市とする事は出 来ぬ、商業が主格となつて居る大阪なぞ当然此の埒外に措くべ きもの、比較的商業盛んならぬ京都市とか、仙台を以て此の名 ﹁学都仙台﹂ その〝学都〟観をさぐる ︵その三︶
称の下に当て嵌め度い 、︵ 中略 ︶ 仙台は学校と兵営を喰ひ物と して居るのだとも云へるのである。論より証拠、その数の多い こと。東北帝国大学理科大学、医科大学、工科専門部、第二高 等学校、私学としては京都の同志社と対立する東北学院、高等 専門教育機関は以上で 、︵ 中略 ︶ 生徒百五十人内外の私塾をも 集め得ば夥しき数に達する、以上の数を仙台の十万以内の人口 と比較して見る時は人口に比して学校の数生徒の数が意外に多 い事を発見するのである。 学校市としての仙台 、 学府としての 仙台 は眼前に偽らざる証拠を現した。三好前第二高等学校長曰 く﹃将来の仙台は独逸のライプチツヒと同じ位置でなければな らぬ﹄と。学校市としての仙台は語の適当なるを覚へる。 この書の仙台観の特徴は、仙台を従来通り﹁東北唯一の学府﹂と 呼ぶことを肯定したうえで、むしろ仙台を﹁学校市﹂と捉えるべき であるとの主張である。すなわち、①学府の意味づけは、例示する 都市名から、高等教育機関の存在する都市である、②学府と称せら れる都市の中でも、京都と仙台は学校市として、他の学府︵東京を 含め ︶ と区別されるべきである 、 ③真の学校市とは 、﹁ 学校がある ために、その存在が一層明確となっている都市﹂のことで、その他 の要素が都市の存在価値を示す場合には、学校市とはいえないと述 べ、とくに﹁学校市﹂として仙台を別格扱いしている。 この書で示される学府と学校市の意味づけの違いは、現在まで継 承されている﹁学都﹂観に関する論点の一つである。 ⑶ ﹁仙台市会会議録﹂で確認できる﹁学都﹂の呼称 大正期の仙台市民が 、﹁ 学都 ﹂ の呼称をどのように捉えていたの か、それを的確に示す資料を把握できていない。市民の代弁者的性 格を一部保有していた市会議員の文言を 、﹁ 仙台市会会議録 註9 ﹂か ら 拾いあげてみたが、事例は極めて少ない。 一九一四年︵大正三︶年三月二一日の市会で、小学校授業料徴収 の件に関する質疑で、守口牧三郎が﹁甞テ荒町小学校ヲ視察シタル ニ、生徒ノ授業ニ用フベキオルガンハ破損シ音律合ハス、依テ之レ ヲ校長ニ質シタルニ、本校ノ備品費少クシテ修繕スル能ハズ、夫レ モ漸ク修繕スルコトトハナリ居レトモ、未ダ修繕スル能ハズト。仙 台ハ 学府 デアル 教育地 デアルト云ヘ乍ラ、此ノヤブレオルガンヲ用 フルハハナハダ憫然ニ堪ヘズト思ヒシモ、費用ノ不足ハ如何トモス ル能ハズ﹂と述べ 10 註 、一九一八年︵大正七︶八月一日の市会で、小田 原遊廓移転建議案に関する件の質疑で、小野平一郎︵註、東華新聞 社長︶が﹁遊廓ノ如キハ人里離レタ一廓デナケレバナラヌ、小田原 ハ商工業ノ中心地デアラネバナラヌカラ、其処ニ置クベキモノデハ ナイ︵中略︶早川ハ 天下ノ学府 ト唱ヘタ、岡田文部大臣ガ先年来仙 ノ時、学府トシテ惜シムラクハ只一ツアル、学府ト云フニハ生徒カ 集マルカラ云フベキテナイ︵中略︶学校許リアツテモ学府ト称スベ キデナイ諸君ノ御尽力ヲ乞フト云フコトデアッタ、尤モノコトヽ思 フ、 早川前市長ガ学府ト云ヘ出シタハ成敗スベキデアル ﹂と述べて いる。また、一九二〇年︵大正九︶一二月八日の市会では、建議案 ﹁東北帝国大学ニ法科大学文科大学設置ニ関スル件及第二高等学校 東北文化研究所紀要 第五十一号 二〇一九年十二月
建設費予算設定ニ関スル件 ﹂ の文面に 、﹁ 従 来 学府 トシテ称セラレ ツヽアル仙台市﹂の文言が記されている。 このように、大正中期まで、市会議員は仙台を﹁学府﹂ ﹁教育地﹂ の呼称で発言しており 、﹃ 河北新報 ﹄ 記事が ﹁ 学 都 ﹂ の呼称を頻繁 に使用している状況下でも 、﹁ 学都 ﹂ の 文言を使用していない 。 し かし、守口が、学府・教育地の課題として小学校児童教育︵初等教 育︶の現状を採りあげていることに留意したい。 とくに注意を払いたいのは、小野が﹁学校ばかりがあっても学府 と称すべきでない﹂との論点から、明治末期に早川智寛が提起した ﹁ 教育地 ︵ 学 府 ︶﹂ 仙台論を空論であり 、 評価すべきではないと主 張していることである。この主張は、市長辞任後の早川︵仙台市教 育会長は継続︶が文部次官澤柳政太郎などの批判に応えて提起した ﹁ 教育地仙台 ﹂ 論 や 、﹃ 河北新報 ﹄ 紙 上で展開した ﹁ 教 育地として の仙台﹂論議が存在したことを把握していないか、無視している。 市内の知識層を代表する市会議員の発言であり、留意したい 11 註 。 大正期の仙台市会で、市会議員が仙台を﹁学都﹂の呼称で、初め て論議したことを確認できるのは、つぎに挙げる大正末期の一件の みである。 一九二五年︵大正一四︶三月九日の市会で、第二高等学校の移転 に関して 、﹁ 第二高等学校ノ敷地ニツイテハ 、 仙 台市民ハ川内ニ敷 地ヲ買ツテ片平丁ノ騎兵隊ノ敷地ヲ学校ニ寄附シタルナリ、其ノ時 ノ条件ニハ学校ガタニ移転スルカ又ハ不要ノ時ハ戻ストノ事ナリ﹂ との意見に対して 、 近藤常弘が 、﹁ 他ノ問題トハ異リ森ノ都我カ仙 台ハ学校アルヲモツテ誇トスル、各種ノ学校ガ他地方ニ建設セラル ル場合土地ヲ寄附シ或ハ建設費マテモ寄附シテ居ル、ソレハ諸公ノ 御承知ノ通リ、我カ第二高等学校ニ於テモ其ノ形式アリ、彼高等学 校ハ経費ニ関シテ数年ニシテ移転ヲ了シタル事ナレバ、 学都ナル我 仙台 市民諸君ノ子弟ガ如何ニ心ヨリ勉学スル事ガ出来得ルカ、高等 学校ノ完成ハ十三万市民ノ深ク祝賀ニ堪ヘザル所サレバ、反対シ無 償交換ヲ主張スルモノナリ﹂と述べている。 近藤が使用する学都の意味づけは 、﹁ 森ノ都我ガ仙台ハ学校アル ヲモツテ誇トス﹂の文言のみで不明確だが、発言内容から、高等教 育機関が設置され整備されている都市であろう。その高等教育機関 は﹁仙台市民の子どもたちが学ぶ学校﹂でもあることを強調してい る。他地域から移住し仙台の高等教育機関で学ぶ学生・生徒は、仙 台に大きな財源を生み出す存在であると捉え、そのために学生・生 徒を保護し 、 望ましい教育環境づくりに取り組むという明治期の ﹁ 学生の町 ﹂ 仙 台論ではない 。﹁ 学都ナル我仙 台﹂は、仙 台市民自 身の子どもたち︵広義の仙台市民︶にとっての教育地であると述べ ている点に留意したい。 なお、大正期の仙台市長が、市会を含めた公の場で、仙台を﹁学 都﹂ の 呼 称を 用 い て論述 し た事例を、 現 在 の と こ ろ 把 握し て い ない 註 ㈡、具体的な﹁学都﹂像の模索 ⑴ 東北帝国大学と仙台市民 大正期の﹁学都﹂論を検証するに際して、高等教育機関の東北帝 ﹁学都仙台﹂ その〝学都〟観をさぐる ︵その三︶
国大学 ・ 第二高等学校などの存在を無視して論じることはできな い。仙台において﹁学都﹂論が、新聞・雑誌などで取り上げられ論 じられていた時、在仙の高等教育機関の教員たちは、中等・初等教 育関係者や市民、学生・生徒との関わりのなかで、何を考え、どの ような論述をしていたのだろうか。それらに関する具体的な資料収 集は十分にできていない。限られた資料ではあるが、それを手がか りに、まず東北帝国大学からさぐってみる。 ﹃河北新報﹄ ︵大正八・八・二三︶は、 ﹁仙台市民は案外 大学に は無関心 大学は学問の大学 社会の大学で 少数者の独占すべき ものではない 極度まで利用せよ﹂の見出しで、東北帝国大学工学 部教授宮城音五郎の談話を、つぎのように報じている。 ◆ 従来帝国大学が社会民衆と直接なる接触を断ち、相互に相侵す べからざるものゝ如き関係にあったのは甚だ無意味なことで あった。大学は大学の為の大学でもなく、少数研究者乃至は学 生の為のみの大学ではなく、 学問の為の大学、 国家の為の大学、 社会一般民衆の為の大学であるべき筈である。此事を事実の上 で雄弁に語つてゐるのは医科大学である 。︵ 中 略 ︶ 医大に付属 される病院は是即ち社会ではないか。九月から現れる工学部は 恰も前の臨床科の如き役目を分担すべき性質のものだが、遺憾 ながら医大のやうな学術から実際社会への連絡が形に現されて いない 。︵ 中略 ︶ 工大の一隅に一室を設備し 、 其 中に機械 、 運 転の装置電流の作用その他工学に関した種々のものを最も解り 易い方法に於て装置し、市民地方人一般に開放して、観察、実 験、質問総て来観者の任意にさせる。この種の方法は今米国の 大都会で盛んに行はれてゐる所のものだが、これによつて地方 人の受け得る工学的智識は決して少いものではない。之が延い てその都市に工業の勃興を誘発する動因となるのである。仙台 市は工業の都会ではない。而しやがて工業の都会とならねばな らぬ。仙台のためには、この種の企てが極めて有意義なことで あろう。仙台市民は大学に対して割合に無関心であるが、私は 極度までこれを利用せよと勧める。 宮城は、東北帝国大学は﹁社会一般民衆の為の大学﹂であり、工 学部は医科大学と同様に、実社会︵地域社会・仙台︶の要求に応え 貢献すべきで、仙台市民は大学を極力利用すべきであると述べてい る 。 しかしながら 、 その後の経緯をみると 、﹁ 日本に前例の無い工 学部の開放、民間事業の求めに応じ相当の料金で研究してやる、東 北大学で目下相談中 ﹂﹁ 東 北大学工学部には新発明の機械に就て証 明をして貰ひたいとか、何々の件につき研究して貰ひたいとかいふ 種類の申込みが民間諸会社工場から何度となく舞ひ込むが、かうい ふものを取扱ふべき規則は大学にないので従来は一切拒絶して来 た﹂ ︵﹃河北新報﹄大正一一・一一・二四︶ 、﹁工学部が率先して大学 の民間開放 、 最 新の器械を以て各工場の依頼に応ずる ﹂﹁ 当分は勿 論積極的には出ず、申込みがあれば都合のつく限り親切に相談に応 じる程度に止めておくはずである。追々民間からの申込みが増加す 東北文化研究所紀要 第五十一号 二〇一九年十二月
れば、医大の病院におけるが如く一定の引き受け規定を設定し、本 式に引き受ける段取りとなる﹂ ﹃河北新報﹄ ︵大正一二・一二・六︶ との報道のように、仙台の民間企業から工学部への問い合わせや研 究の要請があったにもかかわらず、具体的な取り組みは﹁内部相談 中 ﹂﹁ 当分は積極的には出ず ﹂ といった対応であった 。 当 然 、 仙 台 市民の大学への期待や評価に変化が生まれていたと推測する。 東北帝国大学工学部と仙台市民が互いに接点を持てない状況は、 大正末期まで続いていたと推測できる。つぎに挙げる二つの﹃河北 新報﹄記事が、その一端を教えてくれる。 ◆﹁ 申し分のない学都 利用しない実業家 仙台人の覚醒が必 要﹂ ︵大正一五・五・四︶ 学都仙台 の名声は日を追ふて高まりつゝある次第ではある が 、 さ てこれを利用して商工業の発達を企図するの点に於て は、多くの遺憾がありそうだとは一般の認め来つたところであ る。東北大学の存在は只に権威ある専門学者を得る便になるば かりでなく、研究上の利便が最も大なる点からして、各種学校 の教職員並びに実業界の方面にも人材の集まり来るものがこれ に伴ふのであるから、如何なる業種に拘らず苟くも改善発達を 企図する上には多くの便宜を得るのである。然し現在の状勢よ りすると、それ等の利用は甚だ乏しく、偶々講演若しくは実地 指導の挙があつても、 熱心なる営業者の数が多からぬのである。 ◆ ﹁欧米では仙台を鉄の都と思つてる 来て見てビツクリする﹂ ︵大正一五・九・二九︶ 学都仙台 の名は今や世界的となつたのであるが、殊に金属研 究所の本多博士の権威によりて一段とその誉が高まつてゐる、 最近においても英国の営業者がはるばる本多式の刃物製造所即 ち県立工業学校内に設立されてゐる東洋刃物会社を視察に来 て、博士の研究所と共に大いに感嘆したのではあつたが、その 工場の余りに小規模であり従つて生産額の甚だ少いのに、一驚 を喫したといふことだ。生産工業の隆昌な欧米各国では、本多 博士の名声から想像して、仙台なる都市は、大半この世界的に 優越をほこり得る製鋼業者の集まり即ち大工場地であるとして ゐるらしいのに、実際足を入れて見ると、その製造場は至つて 小規模であつて、然も市民の多数は殆ど無関心の状態にあるの だから、吃驚するのも無理からぬことだ。 ﹁学都仙台の名は今や世界的になつた﹂ の記述は、 ﹃河北新報﹄ ︵大 正九・六・二二︶が東北帝国大学が第一三回創立記念を迎えるに際 して ﹁ 仙 台大学の名の世界に鳴るまで ﹂ の見出しで 、﹁ 同大学が世 界の学界に仙台大学の名を恣にする今日の昌運を見る迄には、幾多 の碩学が孜々として倦まなかつた崇高な歴史が織込まれてゐる﹂と 報じているように、東北帝国大学を﹁仙台の大学﹂と外国で別称し ていたことが拠りどころであろう 13 註 。﹁ 学都仙台 ﹂ の市民が 、 地域に 存在する東北帝国大学の研究やその成果に関心を示さず、積極的に ﹁学都仙台﹂ その〝学都〟観をさぐる ︵その三︶
活用しない姿勢が、大学と仙台市民の結びつきを阻害しているとの 報道である。しかし、仙台市民の大学への関わり方は、前述したよ うな工学部の市民への対応姿勢の推移などとともに検証すべきある。 東北帝国大学と仙台市民の関係については、つぎのような法文学 部の取り組みもあった。一九二一年︵大正一〇︶ 、﹃河北新報﹄は、 つぎのように報じている 。﹁ 大学では法文学部の新設を期として 、 付属図書館を新築する希望で、それぞれ計画を進めてゐる。設備と 云ひ蔵書と云ひ東北大学の誇りであり 学都 の異彩とする事が出来 る﹂ ︵大 正 一 〇・二・二 五︶ 、﹁ 民衆的に建設される東北大学図書館 北大の為よりも市民の為に 林館長は語る ﹂﹁ 大学付属としての利 用方面のみならず、更に一般市民の為めに便益を与ふるに就いての 良案がないものかと考慮している。唯問題は普通閲覧者の為めの室 を特設する等の必要があるので、此の経費をば豊かでない大学の予 算から如何にして捻出するかにある ﹂︵ 大正一 〇・五・一︶ 、﹁ 北 大 が端緒を開く大学の開放 図書館も博物館も動植物園も臨海実験所 も 市民の意志次第で実現 ﹂﹁ 所謂 ﹃ 大学の開放 ﹄ は東北大学創設 以来の一標語であるかの観がある。積極的な民衆的な其の施設が常 に従来の黴の生えた帝大型に対する反逆であつたが、既報の公開図 書館問題も実は其処から派生した具体例の一つに過ぎぬ。全国にた だ一つの大学公開図書館が仙台に置かれる訳である。率直に言へば 社会文化否仙台を中心とした文化に就て理解ある人士の奮起如何が 問題の分岐点である。詰り僅か二・三十万の現金があれば 学都と自 称する仙台 に有つて然るべき博物館と図書館が生れる訳だ。真に文 化的都市を建設せんとせば斯うした好機を捉へるるが大事だ ﹂︵ 大 正一〇・六・七︶と報じている。 ﹁学都と自称する仙台﹂市民は、市民に開放される閲覧室を有す る図書館建設計画を表明している法文学部の要望に応えて、その建 設費補助を積極的に行い、大学と仙台市民が一体となって真の文化 的都市を建設すべきであるとの主張である。しかし、そうした法文 学部の要請に、仙台市民が具体的に応えて取り組んだ形跡を確認で きていない。東北帝国大学と仙台市民の関係を解明するには、具体 的な資料収集が必要である。 ⑵ 二つの夜間市民講座と﹁学都﹂観 大正期において、高等・中等教育機関の教員と仙台市民との関係 を具体的に把握できるのは、第二高等学校教授阿刀田令造を中核と した市民向けの文化講座の取り組みである。 ﹃河 北 新 報﹄は、一 九 二 一 年︵大 正 一 〇︶五・六 月、 ﹁学 都﹂の 呼称を用いて、つぎのような記事を報じている。これらの資料を手 がかりに、高等・中等教育機関に携わる教員たちの﹁学都﹂観をさ ぐってみる。 ◆﹁ 学都の渇望を充たす夜間大学実現 二高教授連の社会奉仕か ら生まれた夜間自由講座の計画 東二実科女学校に ﹂︵ 大正 一〇・五・二三︶ 第二高等学校教授数氏を中心として寄々計画中であった新組 東北文化研究所紀要 第五十一号 二〇一九年十二月
織の夜間教授は、来月匆々東二番丁実科女学校を会場として開 講すべく聴講者の募集を開始した。この計画は小平一中校長や 阿刀田二高教授が中等教員欠乏を救匡するの一方法として種々 意見交換をしたのが始まりで 、 漸 次話が進んで 、︵ 中略 ︶ 更 に 持志者には何人でも聴講を自由に許すと云ふ事になつたので、 主として二高と第二高等女学校の先生他が無報酬で、教授の任 に当たつて下さる事になつてゐる 。 科 目は国語漢文史学 ︵ 東 洋・西洋・日本︶で、時間は午後四時から六時迄︵中略︶兎に 角、大都市として此種の機関に乏しい、仙台市は諸教授が態々 其の労をとらるるのであるから、欣んで校舎を提供した次第で ある 。︵ 中略 ︶ 聴 講には全く月謝なしで各共の好む講義を自由 に選択して差支へがない、今のところ中等教員の検定受験とい ふ眼目も一つであるから、市及近郊の小学教員が主になるであ らうが、何も小学教員とのみ限定してゐる訳でもなく、詰り自 由講座制で組織され所謂夜間大学といつたものであり、将来是 非其完成を期したい。それ故仮令聴講者が一人になっても講義 は継続する積りである 。︵ 中略 ︶ 何せ此の新計画は仙台に於て は学者の真摯な社会運動としての濫觴であるから有識階級にも 多数の共鳴者があり、 学都の市民として従来抱いてゐた渇望も 癒される訳である 、市当局も出来るだけの便宜を提供して此の 計画を完成せしめたいといふ意気込みなさうだ﹂ ◆﹁ 二つの文化機関で 漸く学都らしい仙台 継続講演の歓迎を 受けるのは市民の文化欲の盛んな証拠 文化講座講師阿刀田 令造氏談﹂ ︵大正一〇・六・一六︶ 文化教育の魁として最近仙台に生まれた﹁文化講座﹂即ち夜 間大学が非常なる歓迎を受けて居るやうに、此れと相前後して 生まれた﹁仙台文化生活研究会﹂も亦非常なる歓迎を以て迎へ られて居る、従来は斯うした会は会員の大部分が青年学生に限 られてゐたものだが ﹁文化講座﹂ と云ひ ﹁仙台文化生活研究会﹂ と云ひ、会員は銀行会社員各官公衙職員小学校教員からお店の 番頭さんに至るまで其の顔触れは真に千差万別の賑々しさであ る、又従来斯うした会には殆んど全くその姿の見ることの出来 なかつた婦人の姿が多いことも見逃すことの出来ぬ著しい現象 であつて︵中略︶此の二大文化運動に就て﹁文化講座﹂並びに ﹁仙台文化生活研究会﹂の講師たる第二高等学校教授阿刀田令 造氏は語りて曰く、二つの会が熱烈なる歓迎を受けている主な 理由は、時代の要求に応じたからである。仙台市民の文化欲が 旺盛になつてきたこと、それは一夕の講演会などでは何にもな らないことを自覚させられた。時折、劇場などで開催される大 げさな講演会は如何に講師の顔触れが堂々たるものであつて も、会そのものがその場限りのものであると、講演に無責任の 誹りがあり、講師と聴講者との接触を計ることは固より及びも つかない。この点において、二つの研究会は連続的であり、且 つ聴講者の数が或る程度に限られてある為めに講演に無責任不 真面目と云ふこと無く、又講師と聴講者との接触は極めて容易 ﹁学都仙台﹂ その〝学都〟観をさぐる ︵その三︶
である。或る人が﹁仙台は 学都 だと云ふが 学都 とは学校の数の 多いことを云ふのか ? ﹂ と皮肉つてゐたが全く其の通りであ る、私は文化講座とか文化生活研究会とか云つたやうなものが 生れ、学校と共に文化の源泉となつてこそ、始めて学都と云は るゝのだと思ふ、其処に 学都 の誇りがあるのだと思ふ。此の意 味に於て 我仙台 は 二つの文化機関の生まれたことによつて学都 らしくなつた と云ふことができるのである。 宮城県は、大正初期から講演会・活動写真会・幻燈会などを開催 し、社会教育︵通俗教育︶に取り組んでいたが、仙台市民の関心は 低く、一九一八年︵大正八︶ころは不振を極めていた。しかし、一 九二一年︵大正一〇︶に入ると、市民が自主的に参加できる市民向 けの夜間市民講座が開催され始めた。 前記資料が示すように、第二高等学校教授阿刀田令造が、宮城県 第二高等女学校長小倉博 14 註 や在仙の他校の教授・教諭の協力を得て、 一九二一年︵大正一〇︶六月に文化講座を東二番丁実科女学校内に 発足させた。これは、平日昼間に勉学の機会をもてない市民に高等 教育への門戸を開放する試みで、受講者は小学校・中等学校教員が 多かったが、会社員・銀行員・県市職員・僧侶・新聞記者・鉄道職 員、店員もいて、男女共学で女性の参加も多かった。国文学・歴史 ︵郷土史・日本史・西洋史︶ ・教育哲学︵倫理︶ ・漢文の四講座が用 意され、 受講者八〇余名を受け入れた。 受講料を取らず、 講師はまっ たくの奉仕活動であった。仙台市がその趣旨を支持し、会場を提供 (写真5) 『河北新報』(大正10年6月16日)記事。第二高等学校教授阿刀田令造の 「学都」観が述べられている。 東北文化研究所紀要 第五十一号 二〇一九年十二月
している 15 註 。 文化講座について、 ﹃河北新報﹄ ︵大正一〇・六・二︶が﹁東二番 丁実科女学校を会場として明晩から開かれる夜間大学では、本日午 後四時から教授も聴講者も総て集合して開講に就ての協議会を開く 筈で、主として次の行事がある。一、名称の決定 二、開講期間と 時間割 三、創立経過の報告 一般的な協議が終了すれば、聴講者 は各講座毎に分れて巨細な実施方法を考察する﹂と報じるように、 主催者が立案・実施する従来の講演会とは異質なもので、聴講生が 講座講師とともに講座を運営すること︵自由講座と呼んでいる︶を 特徴としていた。講座を ﹁仙台市民の夜間大学﹂ と捉える阿刀田は、 ﹁単なる講義でなく、 講義者も聴講者も一体となって、 知識の向上、 精神生活の充実を願う方針は、今の学校教育の欠陥を補うことがで きる﹂と述べている。 阿刀田が﹁或る人が 仙台は学都だと云ふが学都とは学校の数の 多いことを云ふのか? “ と皮肉つてゐたが全く其の通りである、私 は文化講座とか文化生活研究会とか云つたやうなものが生れ、学校 と共に文化の源泉となつてこそ 、 始 めて学都と云はるゝのだと思 ふ、其処に学都の誇りがあるのだと思ふ。此の意味に於ては二つの 文化機関の生まれたことによつて学都らしくなつたと云ふことがで きる﹂と述べているように、阿刀田は、文化講座の実践を通して、 ﹁学都﹂の内実とその将来像を確認しようとしていたと考える。す なわち、①﹁学都﹂仙台は、仙台市民との関わりを無視して論じら れないこと、②﹁学都﹂仙台の主体は、基本的に仙台市の地域住民 であり、具体的には地域に存在する教育機関︵学校︶で学び育てら れる学生・生徒・児童、教育者を含む仙台市民であること、③地域 住民は、学び育つことへの要求をもっていること、④その要求が保 証され、地域住民が学び育つことによって、地域社会の生活文化が 進展するという主張であり、⑤将来、教育機関としての夜間大学を 設立したいという展望も示している。阿刀田が﹁学都の市民として 従来抱いてゐた渇望を癒す ﹂﹁ 時代の要求に応じた ﹂ と 述べている ように、 文化講座の開設は、 大正中期以降、 模索されていた ﹁学都﹂ 像の新たな問題提起であったと捉えるべきである。 仙台文化生活研究会 16 註 も、一九二一年︵大正一〇︶六月以降、各種 の文化講演会や文化講座を開催している。婦人評論家山田わか、作 家有島武郎・武者小路実篤・秋田雨雀、教育家下中弥三郎を招いて 婦人問題・文芸・童話・教育問題などの講演会を開催し、東北帝国 大学 ・ 第二高等学校 ・ 東北学院 ・ 宮城女学校などの教員 、 たとえ ば、東北帝国大学の愛知敬一がアルバート・アインシュタインの理 論、小倉博が平安文化、宮城女学校長アレン・ K ・ファウストが得 意の日本語で社会学について講話している 17 註 。 その後、一九二五年︵大正一四︶に東北帝国大学セツルメントが 夜間の公民学校を開催している。学校教育から切り離された人びと に目を向け 、﹁ 何人にも教育を受ける機会が与えられ 、 それを要求 する権利がある﹂という主旨のもと、東二番丁の坂幼稚園︵宮城幼 稚園 ︶ を 会場に希望者全員を受け入れ 、﹁ 詰めこみ主義 ・ 講 師絶対 主義を排し、チューターの補助活動によって受講者自身が学ぶ﹂と ﹁学都仙台﹂ その〝学都〟観をさぐる ︵その三︶
いう方針で、約二カ月の授業を行なっている 18 註 。セツルメントの学生 が 名 づ け た﹁公 民 学 校﹂は、 ﹁市 民 学 校﹂の 別 称であろう 。 阿 刀田 らの文化講座︵夜間の市民大学︶の取り組みに学び、市民主体の学 習はいかにあるべきかを念頭に、理想的な学びの場を創造する実践 の一つであったと考える。 ⑶ 郷土誌・市民読本への取り組みと﹁学都﹂観 地方の実情や生活に即した内容を学校教育に取り入れる郷土教育 は、明治末期から注目されていた。宮城県では、一九一四年︵大正 三︶に桃生郡視学・岡崎栄松︵註、戦後、仙台市長に就任︶が中心 となって桃生郡教育是を作成し、その一項に﹁郷土資料を活用すべ し﹂を挙げ、郷土教育の取り組みが行われている 19 註 。同時期の仙台に おける郷土教育への取り組みの実態については、 把握できていない。 菊池慶子氏は、学校における郷土教育が、仙台の呼称である﹁杜 の都 ﹂﹁ 学都 ﹂ を 市民の意識に定着させるうえで大きな役割を果た していたと指摘し、仙台市教育会編纂の副読本﹃我が仙臺﹄や﹃仙 臺市民讀本﹄などによって、これらの呼称が仙台の個性として教え られたと述べている 20 註 。以下、仙台市教育会を中心とした郷土誌編纂 の取り組み 、 郷 土誌の特徴 、﹁ 学都 ﹂ に関する郷土誌の具体的な記 述内容を確認してみる。 ﹁仙台市大正七年事務報告書﹂によれば、一九一八年︵大正七︶ 仙台市教育会は、即位大典記念事業として仙台郷土誌編纂に取り組 んでおり、一九二一年︵大正一〇︶は﹁郷土誌ノ編纂ハ本会ノ継続 事業ニシテ、委員ニ於テ屡分科会ヲ開キ着々進行、已ニ材料ノ蒐集 ヲ完了シ 、 綜 合編纂ニ入リ上梓ノ運ニ至ラントス ﹂、 翌年は ﹁ 郷 土 誌編纂 地理・文学・理科各部ニ於テ已ニ脱稿シ、目下綜合編纂主 任者ヲ設ケ孜々起草中ニテ、本年八月完成ヲ告クル見込ナリ﹂とい う状況であった。しかし、後述するように、 ﹃仙臺郷土誌 全﹄ ︵仙 台市教育会編︶が刊行されるのは、一九三三年︵昭和八︶である。 仙台市教育会編纂の郷土誌が刊行されない状況下 、 一九二四年 ︵大正一三︶一〇月に、加藤勝壽が﹃仙臺松島塩釜大観﹄を執筆・ 出版している 。 加 藤は 、〝 はしが き〟で﹁ 本書の稿本は仙台を中心 として其附近及松島塩釜の地理歴史を述べ、郷土誌教授の参考に供 しようと企てたもので、苟も学都を以て任じる仙台市民として知ら ね ば な ら ぬ こ と の み を 記 し た も の で あ る﹂と、 ﹁学 都 を 以 て 任 じ る (写真6) 『仙臺松島塩釜大観』(宮城県図書館所蔵) 仙台市民読本の先駆けと推定される。 東北文化研究所紀要 第五十一号 二〇一九年十二月
仙台﹂の市民読本として編纂したことを明記している。仙台の市民 読本の先駆けの書である。書名を﹁仙臺松島塩釜大観﹂とした理由 を示していない。しかし、同書の冒頭で﹁少年諸君!本書は諸君の 机上にあつて課外読本とされるを光栄とする 旅人各位!本書は各 位の手にあつて旅行案内とされる事を光栄とする 市民各位!本書 は各位の座右にあつて市民読本とされる事を光栄とする﹂と述べて いるように、市民︵少年を含む︶読本として編纂しているが、旅行 案内書として販売する意図もあったと考えられる 21 註 。﹁ 仙台市大正十 二年事務報告書﹂は﹁多年特殊ノ研究創作ヲナシ教育上資益スル所 多大ナリ、小学校教員推奨者 仙台市民読本編述 元北五番丁高等 小学校長加藤勝壽﹂と記しており、加藤はその原稿を一部修正して 出版したのである。 〝 はしがき 〟 で 、﹁ 学都を以て任じる仙台 ﹂ と記しているが 、 本 文では、仙台市の現況を説明する教育の項目で﹁学府を以て自ら任 じ、人も認めてゐる吾仙台市は流石に各種学校共完備してゐます﹂ と述べている。大正末期にあって、元小学校長である執筆者は、学 府と学都をほぼ同義語的に使用し、学都の意味づけを明示していな い。しかし、同書は﹁仙台は学都であって商工業地でない﹂とも記 しており 、 仙台が商都 ︵ 商業都市 ︶・ 工都 ︵ 工 業都市 ︶ で はないこ とを強調・表象する呼称として﹁学都﹂を使用していた可能性が窺 える。また、官公私立の幼稚園・小学校・中等学校・高等教育機関 の名を具体的に列挙し、学府の内実を初等教育機関から高等教育機 関が完備していることと捉えている。 ﹃仙臺﹄ ︵小倉博 大正一三 仙台市教育会︶が刊行されたのは、 ﹃仙臺松島塩釜大観﹄が出版された一週間後である。序文で、仙台 市教育会長 ︵ 仙台市長 ︶ 鹿又武三郎が 、﹁ こ の ﹃ 仙 臺 ﹄ の 著者小倉 博君は本会郷土 志 編纂委員の一人であって 、 こ の書を作るに当た つて郷土志 のための資料に依る所尠くなかつたといふ。本会がこの 書を発行するのは、かやうな関係からである﹂と述べている。ほぼ 草稿が書きあがっていた ﹁ 仙台郷土誌 ﹂ に先だって 、﹃ 仙臺 ﹄ を 台市教育会が刊行する経緯については、把握できていない 22 註 。 ﹃仙臺﹄の目次は﹁概説、起源 −仙台開府、藩政時代 −伊達氏、 維新後 −学都、 年表、 市内各区域 ︵以下略︶ ﹂ である。掲載した ︵写 真 7 ︶ が示すように 、 項 目 ﹁ 維 新後 −学 都﹂で は、 〝戊 辰 の 乱 と 台の疲弊 〟 の小見出しで ﹁︵ 前略 ︶ 明治四年以来 、 東北の中心たる べき公衙が置かれ、諸種の学校が設けられたので、市民は役人と学 生とに生活の途を求める風をなして今日に至つた。而して商工業の 発達の如きは、尚これを将来に待たねばならぬ現状にある﹂と記し た後、 〝 学都〟の小見出しをつけて、つぎのように述べている。 ◆ 依然として千古の俤を存するのは自然山河である。それも維新 以後甚しく風致を損した観はあるけれども、尚市の内外に亘つ て自然の恩恵に富み、静な落付いた空気が天地を蔽ふ。実に学 徒の生活に適した地で 、 学都の名 を空しくしない 。︵ 中略 ︶ 来個々の学校に就て見れば盛衰興亡を免れないけれども、一般 には、その種類に於て、その数に於て、逐年盛況を呈し、現今 ﹁学都仙台﹂ その〝学都〟観をさぐる ︵その三︶
に於ては最高学府たる帝国大学を始め、教育機関の具つてゐる こと全国稀に見る所であらう。これらの学校が収容する学生生 徒の数は、中学校以上が一万三百余、小学校児童一万八千の多 きに上る ︵ 大正十三年 ︶。 学校の昇降時刻に男女の学生が絡繹 として街頭を往来する状景は、蓋 この市の特色であらう。 ﹁学都﹂である仙台を﹁自然の恩恵に富み、静かな落ち着付いた 空気が天地を蔽ふ 。 実 に学徒の生活に適した地 ﹂﹁ 教 育機関の具つ てゐること全国稀に見る所﹂ 、﹁これらの学校が収容する学生生徒の 数は、中学以上が一万三百余、小学校児童一万八千の多きに上る﹂ と記して、大学・高等専門学校・中等学校・専修学校・小学校・幼 稚園の実数を挙げている。小倉は、この書で記した﹁学都﹂観を、 その後も変えず論述し続ける。すなわち、 ﹁学都﹂としての仙台を、 単に高等教育機関が設置され存在する都市でなく、初等・中等・高 等教育機関が充実し、学生・生徒・児童の学習生活に適した環境を 有する都市として捉えている 。 学 府は 、﹁ 最高学府たる帝国大学 ﹂ と記すように 、﹁ 学術社会の首脳 、 すなわち 、 それに関係するすべ てのもののあつまる処 ﹂︵ ﹃ 漢和大字典 ﹄︶ と いう本来の意味づけで 使用している 。﹃ 仙臺 ﹄ の普及が広まるにつれて 、 仙 台の教育界で は学府と学都の文言を明確に区別して使用する傾向が強まり、学府 の文言は姿を消していった 23 註 。 明治末期以降 、﹁ 学府 ﹂﹁ 教育地 ﹂﹁ 学 都 ﹂ の呼称を用いながら論 じ続けられてきた近代都市仙台の将来像を模索する論議のなかで、 (写真7) 『仙臺』(小倉博 大正13年版)(宮城県図書館所蔵)の「学都」に関する冒頭部分。 東北文化研究所紀要 第五十一号 二〇一九年十二月
辿りついた一つの共通認識が﹁学都﹂の呼称であったと考える。 ⑷ 大正期における﹁学都﹂の意味づけ 以上、 大正期の ﹁学都﹂ 論を具体的な資料を読みながら、 その ﹁学 都﹂観を拾い集めてみた。 ﹁学府﹂ ﹁教育地﹂の呼称とともに使用さ れた﹁学都﹂の呼称は、どのような意味づけで、何を語るために使 用されていたのか、それをさぐる作業であった。把握できたことを 整理すると、つぎのようなことが挙げられる。 1 、 仙台の呼称として ﹁学都﹂ の文言が使用される状況にあっても、 大正末期まで 、 仙台を ﹁ 学 府 ﹂﹁ 教 育地 ﹂ の文言で論述する者が 多く存在した︵学都と学府の両語を、ほぼ同義語として使用する ことも多かった︶ 。 2 、﹁学都﹂ と ﹁学府﹂ の文言を明確に区別して使用され始めるのは、 ﹃河北新報﹄が﹁関西の学府京都﹂と﹁東北の学都仙台﹂を併記 して報じた大正中期以降であろう 。﹁ 森の都をして今や我が国の 学都たらしめたり﹂と断言する者も出てくる。 3 、仙台の地で、多くの人たちが、学都と学府の意味づけを明確に 示し、両語を区別して使用するのは、大正末期以降と考える。 4 、大正中期には、仙台在住の地方裁判所検事・宮城県知事・仙台 市会議員・実業家などの知識層に、仙台の呼称として﹁学都﹂の 文言が浸透していた。しかし、その意味づけに関して、使用者に 共通する認識があったか否かは不明である。 5 、明 治 末 期 以 降、仙 台 で は、 ﹁学 都﹂の 文 言 を﹁高 等 教 育 機 関 が 設置され存在し、その地で学ぶ学生・生徒にとって望ましい教育 環境が維持されている都市﹂との意味づけで使用している。しか し、大正期に入ると、教育関係者が、学都を﹁各種学校︵初等・ 中等・高等教育機関︶ の完備している都市﹂ と意味づけたうえで、 ①中等・高等教育機関を拡充し、多数の市民へ開放すべきこと、 ②市民にとって必修である初等教育を充実させること、③仙台が 理想とする﹁学都﹂像を再確認すべきであることなど、学都の内 実と課題について論じ始めている。 な お、仙 台 に 関 す る 刊 行﹁案 内 書﹂は、大 正 初 期 か ら﹁学 府・ 教育地 ﹂ の 文言で 、﹁ 初 等教育から高等教育に至るまで教育機関 が充実している都市﹂と紹介しており、留意したい。 6 、大正期の﹁学都﹂論で、とくに注目したのは、第二高等学校教 授阿刀田令造の文化講座への取り組みから把握できる﹁学都﹂観 である。すなわち、①学都については、仙台市民との関わりを無 視して論じられないこと、②学都の主体は、仙台の地域住民︵広 義の仙台市民、学生・生徒・児童・教育者を含む︶であること、 ③地域住民は、学び育つことへの強固な要求をもっており、その 要求が保証され、実現することによって、地域社会の生活文化が 進展すること、④学都としての将来像を明確にし、その実現のた めに、仙台市民は具体的な実践に取り組むべきであるとの主張で ある。 7 、大正期、近代都市仙台の将来像を論議するなかで、仙台の特性 ︵個性︶として論述される﹁学府﹂ ﹁教育地﹂ ﹁学都﹂の文言の内 ﹁学都仙台﹂ その〝学都〟観をさぐる ︵その三︶
実と意味づけへの検討・確認が行われている。その取り組みが、 ﹁学都﹂の文言に関する一定の共通した認識の形成を生み出し、 その普及に繋がったと考える。 8 、大正期の﹁学都﹂論は、明治末期に提起された第二高等学校生 徒の﹁学都仙台﹂論と早川智寛らの﹁教育地仙台﹂論との関わり を無視して論じられないと考える。 9 、大正末期、近代都市仙台の将来像を模索する過程で生み出され た﹁郷土誌﹂や﹁市民読本﹂が、その後、学都についてどのよう に論述していくのか、その変化に注目・留意すべきである。 ところで、大正期の﹁学都﹂の呼称に関して注目したいことが何 点かある。その一つは、 一九二〇年 ︵大正九︶ 頃から、 ﹁東北の学都﹂ の呼称に替えて 、﹁ 東北 ﹂ の文言抜きの ﹁ 学 都 ﹂ の使用例が増加す ることである 。 学 都の意味づけに変化があったのか 。﹃ 河 北新報 ﹄ 記事その他の資料を手がかりにさぐってみる。 ◆ ﹁ 女子大学計画 県教育課長談﹂ ︵﹃河北新報﹄ 大正九・九・七︶ 県が当市に女子大学設立のことを画策しつつありとのことは 既報の通りなるが、県が差当つて設立せんとするものは大学に 非ずして改正高等女学校令による女子高等科なり。右につき稗 方教育課長は左の如く語れり︵中略︶此の計画は 仙台市を学都 として充分なるものたらしめんが為に 成りたるものにして男子 の帝国大学に相当する女子大学の建設を以て最終の目的とする ものなり。 ◆﹁ 社説 足元を凝視してから学校設立運動 ﹂︵ 同 、 大 正一四 ・ 二・一︶ 本県に高等師範学校設立の運動がある。高等師範学校を持つ てくることは 学都の内容を賑はすことである から、この点につ いてのみいへば、至極望ましいことであるに相違ないが、之が ために過重なる運動条件の甘受を強いられる段になるなら、そ れは考へ物である。 ◆﹁ 社説 学生のための施設 実行可能なる問題 ﹂︵ 同 、 大正一 四・三・二二︶ 仙台は学都でありながら 学生の生活を利便する特別の施設を 持たない。このことは種々なる形において学生に影響を与へて ゐる。各学校は各寄宿舎を設備するとはいへ、その収容力にお いては話にならない。 学都として仙台がゐる限りは 、これ等の 施設を実行することが当然の道だと思ふ。 ◆﹁ 学都に生れた仙台明善中学 夜間教授開始﹂ ︵同、 大正一四・ 七・一三︶ 池田、一力、倉沢、長門の諸氏がかねて計画中であつた仙台 明善中学は去る九日文部省の認可を得て開講する段取りとなつ た。同校は元本県教育会の経営にかかるものであつたが、種々 東北文化研究所紀要 第五十一号 二〇一九年十二月