真宗教学研究
第
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号
大浬繋を証するについて 報 土 と 化 土 親 驚 の 仏 性 論 日本浄土教の展開と三願転入 昭和60年度教学大会発表要旨 山 口 恵 照 1 棲 部 建 12 一 明 智 彰 23 草 間 文 秀 34 庄 司 憲 橋 本 芳 契 松 見 得 忍 蓮 寺 諦 成 浪 花 宣 明 春 日 程 智 41 藤 谷 一 海 三 好 智 朗 川那漫正純 小 倉 求昭和
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真 宗 同 学 会
大浬繋を証するについて
大浬梁を証するについて ここに掲げました標題の中で、﹁大浬繋﹂と申しますの は、ここでは大般浬繋l
サンスクリットS
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乱宮というものを表わし、﹁証する﹂と申しますのは、 巳V E
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ロ門医をあてたいのであります。証明する、又 明かす、そういうふうにも表わしてみたいと思います。 漢字訳で﹁証得する﹂こh 2 7
日われているものも含みたい と存じます。証する、というのは色々含みがございまし て、なかなか分りにくいんでございます。土日々、数学を 習いまして、三角形の内角の和は二直角であると、これ を証明せよ、といわれたことを思い出します。まあ証明 の手続きは色々とございます。そういった範囲で明かす、 わからしめる、とそういう面を含みたいと思います。こ の標題、演題が意味しますものは、御存知のように司教 行信証﹄にも重んじられまして、証大浬紫、得浬繋とい 1山
恵
照
口
うふうにも言われております。ところで、大浬繋を証す るということは成等正覚︵等正覚を成ずる︶に結びつけて 言われております。更にこれをその前後のコンテキスト において見ますと、御承知のように成等正覚とともに至 心信楽の願を因とする結果であるところの本願名号の正 定業に結びつき、必至滅度の願を因とする結果であると 言われております。ここに、大乗仏教、浄土真宗の要旨 が摂め尽くされていると考えられます。この点は、浄土 経典にもとづいてより一層つっこんで詳しく明かされる べきでありますが、ここには所調、不取正覚、サンスク リットの文句にあてますと、︿8
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を否定しておる、また不住浬紫、︿巳2 m F
宮 E H ︸同伊丹Z
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﹀の否定であります、そういう不取正覚、不 住浬繋という大乗仏教の精神において解かれるべきであ2 る、そういう点に徴力でありますが留意しながら、仏教 の総じての開祖・釈尊の事績の全体に位置づけて考えて みたいと思います。 釈尊の事績は、今日釈尊伝・仏伝に依りますと、総じ て出家を中心として出家以前と出家以後とに分けられま す。これは衆生である人間の生死
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!と、その 生死の果てとを意義づけながら生死より出離する、漢字 で﹁出離生死﹂と伝えております、その出離生死の道を 明かし、評価させております。これはインドの思想の歴 史に照らしてみますと、ダルマシャlストラ、これは﹃マ ヌ法典﹄等の法典を意味しますが、その法典が伝えてお りますように全体として浬繋に窮まる﹁アlシュラマ﹂ ︵ 仲 町P
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伊︶の法に同ずることが明らかであります。ここで しばらくアlシュラマの法とは何か、これを取り上げた い と 存 じ ま す 。 アlシュラマというのは、人間の一生涯を総じて四つ に区分して意義づけ、それによって生き甲斐を全うさせ るものであります。この四つの区分と申しますのは、﹁ブ ラ フ マ チ ャ l リ ン ﹂ ︵σ
円 各 自 守 乱 立 口 ︶ 、 こ れ は 党 行 者 と 訳 し ま す 。 次 に 、 ﹁ グ リ ハ ス タ ﹂ ︵ 間 守 伊 田p
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︶、家住者と訳され ます。次は、﹁ヴ71ナプラスタ﹂︵︿E
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伊 ︶ 、 林 棲 者、林を棲み家とするもののことであります。四番めは、 ﹁ サ ン ニ ャ 1 シ ン ﹂ ︵ 包 任 ミ 宮 口 ︶ 、 遊 行 者 、 遍 歴 者 と 言 わ れるのであります。この四つが示すものを総じてアlシ ュラマというのであります。人間として生まれ、その幼 年期、少年期、青年期にわたり学問修行に従事してこれ を果たす。これは人生の第一期ですが、これをブラフマ チャlリンと伝えております。ブラフマチャlリンはこ の名が示しますように、ブラフマンを課題として解く学 問修行に従事するものを意味します。ブラフマンは宇宙 の万物の全一者であります。宇宙の万物が、それから始 まり、それに於てあり、それに帰するもののことで、こ れはインドの昔昔、ウパニシャツド以来、人間の究極目 標をも意味するのであります。従って党行者は、ブラフ マンを目指すものということができます。釈尊も悟りの 宣言として、生すでに尽き、党行すでに立ち、所作すで に弁じ、更に後有を受けず、と漢字訳でも言われており ますが、﹁党行すでに立ち﹂と言われている場合の先行は このブラフマチャlリンの学問修行を意味しているので あります。アlシュラマの第二期は、グリハス夕、が表わ します。これは先程示しましたように、﹁家に住むもの﹂ と書くのですが、学問修行を為し終えた者がりっぱな大大浬撲を証するについて 人となり、結婚し、家庭の中心として、社会人として活 躍するものを意味します。この場合、グリハスタには家 業を受け継いで、子孫・子息を養育する、育てる。神々 と先祖とに仕えながら、子息をりっぱに育てあげる務め があります。そしてア I シュラマの第三は、ヴァlナプ ラスタが示すものであります。ヴァlナプラスタとは林 棲者のことを言います。これは、グリハスタの務めを果 たしたものが自ら決意して家を子息に譲って家より出る。 つまり出家者となって人生の課題である出離生死の問題 に専ら取り組むものを意味します。釈尊は二十九才でカ ピラ城より出られたと伝えられます。この出家の事実は この点を示すのであります。又、出家以後の釈尊の求道 ︵道を求める︶、この修行もヴァlナプラスタの務めを意味 します。釈尊にゆかりのあるアlラ 1 ラ・カlラlマと ウッダカ・ラ!?プッタという二人の思想家、これは当 時の代表的な先生といってよい、そういう意味で名前を 伝えていると思うのですが、釈尊がこれらの先生を訪ね て禅定を修め、又禅定を修めて後、苦行に従事したと言 われております、これは、総じて求道の事績を意味しま す。これは、成道に至るまで、後の僧伽における出家の 修行のカリキュラムである乞食・托鉢といわれるものを 3 内容としたことが明らかであります。僧伽は、ここでは 仏教の教団を表わします。又、当時の修行者が従事しま した禅定三味、これは村里離れた樹下石上︵樹の下・石の 上︶を選んで行なわれたものでありますが、その禅定三 b t l 昧を修したことが知られており、かくして伽耶の郊外の 樹下石上に於ける成覚、悟りの成立があったのです。こ れは出家林棲の求道者、即ちヴァlナプラスタのきわま りを意味します。これは経典には﹁無師独悟﹂、先生なく して独り悟りを得たというふうにも言われておりますが、 悟りの内容である縁起の法のいわゆる如実知見というこ とを説いて﹁縁起を見る者は法を見、法を見る者は仏を 見る、又、私を見る﹂と伝えているものです。これは諸 行 無 常 に 始 ま る 、 ﹃ 無 常 用 問 ﹄ ︵ 無 常 の 詩 ︶ と と も に 総 じ て 悟 りというものが人類普遍の道理として広く十方世界に解 放されていることを意味するものであると考えられます。 また同時に、ヴァlナプラス夕、が極まってアlシュラマ の第四サンニャlシンとして展開すべきものであること を示していると考えられます。サンニャlシンと申しま すのは、要するに国々を遍歴して人々に法を説き、道を 伝え、人々を教え導いてあらゆる人々から尊敬される導 師となる、即ち、人天の師たる活躍をなす者を意味しま
4 す。釈尊の場合、伽耶の郊外の仏陀伽耶という菩提所を たってベナlレスの郊外サlルナlトに赴き、五人の比 丘を教え導いて以後、長い間伝道に従事し、やがて教え 導く縁が尽きて生涯の幕を閉じるまで、これはアlシュ ラマではサンニャlシンと一言うのであります。カピラ城 を出て、悟りを成じた出家のヴァ I ナプラスタより転じ、 如来として広く伝道、つまり、人々を教え導く教化に従 事した、即ちサンニャlシンのコ I スは、要するに生死 より出離する、﹁出離生死﹂の外にはありませんから、白 から浬繋、滅度にぎわまります。 このようなアlシュラマの法は、実は釈尊に始まった のではなくて、釈尊以前、ウパニシャツドを見ると、既 にアlシュラマの事績を伝えるものがあるのであります。 例えば、ヤlジニャヴァルキヤとその奥さんであります マイトレlイl、この二人の間に注目されるのでありま す。この二人は、ウパニシャツドに対話︵ダイアローグ︶ を残しております。﹁あなた様、この大地が黄金で満たさ れたとして、それで私は不死となることができましょう か﹂、死すべきものがいかにして死でなくて不死となる ことができましょうか、と問う。これはマイトレlイl 夫人のことばであります。﹁いやそれは決してかなわぬ 不死は金で得られる見込みはない。﹂ヤlジニ ャヴァルキヤがそう答えるのであります。﹁不死が得ら れないならば、お金をいくら沢山いただいてもつまりま せん。お金をいただくかわりに、あなた様の不死の教え をどうか聞かせてください。﹂今、紹介申し上げました のは、マイトレlイl夫人が、自分の夫であるヤlジニ ャヴァルキヤとの聞にかわした会話であります。これは 要するに生死より出離する、サンサlラ︵由自出相 H Y 輪 廻 ︶ より自らを解放するというこの課題を出家の道において 解こうとするものだと思います。 これには次のような因縁がございます。かなり長い因 縁話といってよろしいかと思いますが、かいつまんで申 し上げたいと思います。この時までにヤlジニャヴ 7 ル キヤは、学者の中でも碩学、あるいはそれ以上のものと して多くの尊敬をかち得ていたのです。事実、同時代の バラモンの中で最も優れたバラモンだと認められ、ヴィ デ lハの国王ジャナカ王を教え導いていたのであります。 そして然る後、万国を遍歴して万国の導き手となるとい うことを決意していたと考えられます。ャlジニャヴア ルキヤは家を全部夫人に譲って無一文となり、出家し遍 歴の旅に出ることを、今御紹介申し上げましたように夫 こ と だ 。
大浬繋を富Eするについて 人に告白します。この告白を聞いてヤlジニャヴァルキ ヤに放ったマイトレlイl夫人のことばが今紹介した問 いかけであります。 紹介しました夫妻の対話には次のような注目すべきポ イントが認められます。その一つ、在家から出家への不 動の決意。これは仏典が伝えております愛別離という苦 を乗り越えさせるものであります。その二つ、出家こそ アlシュラマの課題であってこれがアlシュラマの究極 である出離生死、即ち解脱・浬繋に至らしめるものであ るということ。この二点に注目したいと思います。カピ ラ城から出て成道 H H 成覚を果たした釈尊のようにヤ l ジ ニャヴァルキヤにおいても出家は不退転の決意において 果たされんとしたのであります。このことがマイトレ l イ I 夫人をして出家を決意させたと認められます。 総じて人間のめざすべき目標には種々なものがありま す。が、インドでは仏教以前から基本目標が定められて ほぼ三つになって伝えられております。即ち、ヵlマと アルタとダルマと呼ばれるものであります。カlマは愛 情を意味します。生きとし生ける限りのものが持つべき 大切なものを人間においても正に大切であるとする。し かしこれは、親子・兄弟・夫婦等の人間関係はもちろん 5 社会人としての間柄における愛情をも意味するのであり ます。アル夕、これは財貨・財産と訳されます。お金で あると、どんぴしゃりそう言えるかと思います。なお広 くうけとれば、生活技術であります。もう一つダルマが あります。ダルマとは社会人として果たすべき務め、こ れは慣習であり倫理であるとも言われておる、その全体 であります。このような総じて人聞がめざすべき目標が 達成される場は、これはアlシュラマの第一と第二の時 期、即ち前半期であります。それ故、党行・家住|ブラ フ マ チ ャ l リンのブラフマチャリヤとグリハスタの意義 はそれなりに認めなければならないことは、昔も今もイ ンドでは変わりませんが、ここでは、出離生死の課題は 解かれません。古来、この点は、普遍的には解脱︵
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︶ の問題を含み、前期の三つの目標とは別個に格付けして 伝おります。この課題の解決は、在家では果たされない というのであります。これは仏教以前、先程紹介申しま したウパニシャツドでは、ア I シュラマの道を聞いてい った出家のバラモンたちゃ牟尼たちl
これはサンスクリ ットを翻訳したのみで﹁寂黙﹂ともいわれます、またパ リヴラlジャヵ、遍歴者と申します、これら出家の修行 者のように出家乞食の道に従わなければならない。乞食6 の道とは、仏典に僧伽を伝えている比丘・比丘尼と言っ ておる、かれら比丘・比丘尼たちの務めを指さしている のであります。人は凡て出離生死のために、かれらのご とく出家乞食の道に従わねばならない。 このことは、ャ l ジニャヴァルキヤがヴィデ l ハ の ジ ャナカ王を教え導いた時のことばによるのであります。 ここにヤlジニャヴァルキヤにおける、生死を出離して 浬繋にきわまるところの、いわば正定・不退とも言うべ き立場があると認められます。この正定・不退によるが 故に、自らの出家はこれをいつ決行するかという時宜を 選ぶ問題となり、かくて今紹介しましたマイトレ l イ l 夫人に対する告白となったと考えられます。マイトレ l イ l 夫人はそれに対して師の教えを乞い願うたのであり ま す 。 この夫人に対するヤ l ジニャヴァルキヤのことばは、 偏えに人間本来の自己とも言うべき不生不滅の執著なき ア l トマンを愛すること、このア l トマンへの愛におい て出家の乞食行に従事して、自らを灯とし、法を灯とす るように、そして智慧につつまれた智慧のみのア l ト マ ンを課題とせよと諭したものであります。こういう点は、 カピラ城を出て、出家の修行に従事した釈尊の場合に較 べてかなり異なった印象を与けますが、ここに申しあげ たいのは、ジャナカ王を教え導いたヤ l ジニャヴァルキ ヤのことばであります。それを考えますと、既に彼には アlシュラマの先達があったのであります。この先達に 従ってヤ 1 ジニャヴァルキヤにおける正定・不退、出離 生死、浬繋というア l シュラマの道があったということ を、又、ャ l ジニャヴァルキヤを先達としてウパニシャ ツド以後におけるア l シュラマの伝統があったというこ と、これを申し上げたいのでございます。このように正 定・不退、出離生死、浬撲の成立は、ァ l シュラマの伝 統において、ただ一人の創始者、クリエ l タ!というも のを意味し勝ちでありますが、創始者というものはあり ません。先達を模範とするのみである。そういう特色が 著しいのであります。この点を今日どのように評価でき るのか、これをいささかうかがいたいので、以下少し申 し上げたいのでございます。 この場合、色々な評価が可能ですが、ここではっきり しているのは、総じて正定・不退に立場をとって、出離 生死を果たした結果、浬繋するということが先達の正定 ・不退、出離生死、浬繋を先として可能となったという ことであります。これは、言い換えると先達の正定・不
大浬繋を証するについて 退、出離生死、浬繋にいざなわれたこと︶従って正定・ 不退、出離生死、浬繋せしめられたことである、という ことができましょう。 今申し上げていますことは、いわゆる、ことばのロゴ ス|論理からは、動詞の能動態・受動態いずれの場合で も使役相コlザティブにつながっているということ、コ lザティブにつながって成立するということであります。 即ち、﹁する﹂、﹁何々ずる﹂、﹁何々せられる﹂というの は、﹁させる﹂ということに結びついて成立するという こ と で あ り ま す 。 今、申しあげておりますことを、標題に関して申し上 げますと﹁大浬擦を証する﹂というのは、大浬繋を証し た先達によって証せしめられて成立する、そういうこと でございます。悟りを成ずるのは、成ぜしめるものによ って成ぜしめられる、何だかことばのカラ回しのようで もございますが、インドの思想の歴史をずっと見わたす ようにしますと、このようなおよそ思想の先達、大先輩 を重んずる、いわば先達主義といいますか、伝統主義と いいますか、そういうものが注目されるのであります。 このような先達・伝統を重んずる行き方は、所謂、論理 の形としては、﹁聖言量﹂、﹁聖教量﹂︵ア l プ タ シ ュ ル テ 7 ィ ・ ア 1 ガマ︶というものを認めることになっております。 今申しました聖言量・聖教量の位置づけが、聖言量・聖 教量の意味づけの上において必要かと考えられます。イ ンドでは昔から、現量・比量・聖言量というこの一一一つの 量を認める。三量というものが一般に行なわれておりま す 。
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︶ 助聖言量︵帥3
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︶ これは今日、知識論・認識論の問題であって、この点 に問題はないとして言われるのでそれでも宜しいわけで ございますが、これは総じて﹁知る﹂ということは何に もと。ついて成立するのか、を論定するもので、﹁知るこ と﹂﹁知﹂の根拠は総じてプラマl ナ Q E B E m y 量 ︶ と 呼 ばれます。﹁知﹂の根拠と申しますのは、インドではヴェ ーダ lンタとしてのウパニシャツド、が出現して以後、学 問の本格的課題として取りあげられ、多くの学派・学流 がそれぞれ独自の見解をうち出すようになりまして、や がて解脱・浬繋の普遍的な課題を説くための課題として 取りあげられるようになります。いわゆる、インド論理 学派・ニヤlヤというものはこの気運に乗じて現われ、8 ニ ヤ l ヤは四量説というものを以て解脱・浬繋を解くに 足るものとしたのであります。四量説は今申しました三 つの量に更に警職量官官
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︶を加えるものであります。 警えを知の根拠とするのであります。 およそ知るということは、眼や耳等の感覚器官による 直接の知覚、即ち経験を先といたします。この経験が現 量であります。経験は感官と対象との接触において生ず るもので、いわゆる、色、形、声等個別の対象を個別に 認めること。この経験の知をまず認める点でインドの全 ての学派・学流はほぼ一致したのであります。そして経 験にもとづいてものを推し計って判断する。雨雲がたれ こめてきた。雨が降るであろう。川が大変、洪水の状況 を呈してきだ。上流に雨が降ったであろう。こう判断す る。これが比量というものであります。比量は証明する 根拠があって証明されるものが何々であると言われるこ とになりますが、この二つのものの関係を前提として、 経験にもとづいて、あるものから他のものを推理すると いうことであります。理性の合理的判断といわれるもの がこれに当たりましょう。このような、現量と比量とい うものについての理論の展開、それに基づいての哲学、 これはヨーロッパにおいて最も代表的でありまずから、 御承知のところであります。ところで、現量・比量によ って知られないものはどうして知られるか。というと、 聖一言・聖教によって知られるというのが聖言量を認める 立場であります。聖一言、即ちア l ガ マ ︵ 阿 合 ︶ と い う の は 通常の人にないところの教え、いわゆる達眼の師、達人 のことば・教えを意味します。例えば、﹁インドラ﹂﹁ア グニ﹂といった神々は、インドではデ l ヴァというので すが、それはヴェーダの聖言によって認められる。ヴェ ーダはインドでは総じて聖言の筆顕であります。仏教徒、 沙門の伝統においては、経典、即ちス I トラと呼ばれる ものの聖言を重んじますが、これに先立つものでありま す。先立つということは、先に出たという以上により一 層重要だということであり、ヴェーダはス l トラ以上に 聖言として今日まで重んじられてきました。それは、人 聞が作ったものでなく、人間以上の存在、即ち神々から 授かったもので、神々を見ることのできるもの、即ちリ シ︵詩聖︶が霊感を以て神々から聞いてできたものである。 これをシルテイと名づけます。これは﹁聞き書き﹂と訳 されるかと思います。これに対して経典は、経典とはス ートラでありますが、これはある人が著作してまとめた ものであり、かくして伝えられるに至ったもの、そうい大浬撲を証するについて う意味でスムリティ︵伝承録︶と呼ばれます。これもやは りヴェーダにもとやついてできたというのであります。こ ういう経典は、今日サンスクリットを以て、種々なもの が認められております。それは要するにインドの国々を 全部連合しての連合社会、いわば一つのインド国際社会 というものをまとめあげるための基盤になったまつりご と︵祭儀︶を規定したものであります。これについては省 ぎたいと思います。 仏 教 の 最 初 期 の 経 典 が 、 阿 合 経 ア l ガマ・スッタ ︵ ア I ガマ経典︶としてまとめられたのもバラモンのスー トラのこのような行き方に対応するものであります。漢 訳で経典は常に﹁如是我開、一時仏﹂とはじまり、終わ りには﹁聞仏所説云々﹂とありますが、これは仏説を重 んじ、仏説を認める聖言量と言うべきもので、バラモン のヴェーダに対して評価すべきものがあります。しかし、 サンスクリット文献の上から見ると、経典はヴェーダに もとづいて明確に著者を認めて、シルティであるヴェー ダの伝統を展開する姿勢をうち出して今日に至っており まずから、ヴェーダを受け伝えるものと考えられます。 これに対して仏教の経典は、どうでありましょう。これ は開祖釈尊の教えの聞き書きとして形の上ではバラモン 9 の経典に較べられますが、思想上ヴェーダに直接もとづ かない、又ヴェーダの教えを展開したものとは認め難い のであります。この点は、仏典がサンスクリットを以て その最初期の伝統を綴らなかった、いわゆるプラ l ク リ ット︵母国語︶を以てまとめられたと言われている点、パ l リ語の経典は、これを証するものと言われております が、そういう事情にもよるものと考えられます。 しかし、仏典が総じて﹁阿含経﹂としてまとめられ、 伝えられたことは聖言量を重んずる行き方として、バラ モンの聖言量の立場に較べられるものがありましょう。 バラモン流とは言えないけれども、ここにインドにおい て、仏教がバラモン教に伍して独自の面目を発揮し、独 自の伝統を形成した所以が認められます。ただ、この点 はひるがえって考えてみますと、仏教の聖言量もバラモ ンのそれと対応し、大きな点で一致すると認められるも のがあります。それは、自らのよりどころである聖一言量 をもって、自らと異なる他のものの聖言量をどこまでも 認めない、侵害し、これを打倒する、ということはなか ったということであります。この点で、聖言量はインド では諸々の宗教ないし諸々の宗派のよりどころとしてそ れぞれの宗教・宗派の共存という結果をもたらしたとい
10 うふうに考えられます。時に、宗派問、学派のあいだの 対立・摩擦をまねくことはありましたが、互いに排除し あい、徹底して排他的であった、とは考えられません。 この点大きく見透しをかえるようにして、唯一絶対者と しての存在である神を奉ずるイスラム教等の一神教の行 き方に較べるとどうでありましょう。一神教は唯一絶対 の神を奉ずるから、自らの宗教のみを立てて、他の異な った宗教を結局は認めない、そういったところに特色が あると致しますと、これはインドの聖言量の行き方とは 区別しなければなりません。 インドの聖言量、つまり阿含の聖教の立場というのは ヴェーダを始め自らの伝統を重んじ伝統に忠実なものが あります。そして自らの宗教の団結において徹底した排 他主義にでることはなかったということができます。こ れは何に依るのでしょうか。私は、その実質内容におい て総じて不殺生と真理の実現||不殺生はアヒンサ l ︵島喜包︶といわれ、真理の実現はサティヤ l グ ラ ハ ︵ 国 伊 丹 百 四
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︶ | | l これをほぼ一致して掲げた点に注目し たいと思います。仏教が出現するころのチャ l ル ヴ ァ l カ等の唯物論者のみは別格であったとも言われておりま すが、総じて不殺生と真理の実現を説かなかったものは なかったと言ってよろしいかと思います。このような聖 言量を奉ずるが故に、異教徒を徹底して力をもって征伐 するということは必要でなかったと考えられます。そし て聖言量を奉ずるということは、聖言量を示した聖者・ 先達に対する帰依をもって始められます。帰依はナマス ︵E
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︶であります。これは念仏の場合の﹁南無﹂とい うことであります。それは聖者とその聖言に対する心か らの随順・服従を意味します。仏教の場合、聖言量とい うものは、学派成立以後、例えば経量部といったような 学派がこれを重んずる代表であったと知られてもおりま すが、今これを大きく取り上げて仏教が阿含の経典を重 んじ、経典を依りどころとしてその伝統を維持し、更に 大乗仏教として展開した点にも聖言量の立場を認めてよ ろしいと思います。 こうして仏教の根本の問題が、主体的課題として受け とられます場合、その立場というものが個別の、いわゆ る独創に終始することはなかったという点に注目するこ とができます。主体的課題というのは、さきほど桜部建 先生もお話しになりました、﹁私の問題﹂として取り上げ るということであります。それは、現量比量、このこつ をもってではなくて、これを越えて本来、教祖の聖言に大湿繋をIDEするについて 負うのでありまずから、聖言を肯定することができなけ ればならないはずであります。ここに肯定するというの は選び取るということであります。これは帰依をもって 始まります。ただし帰依をもって始まるところの肯定が、 選択の結果どのようなものとなっても全体として教祖の 聖言に対応することができなければならない。この場合、 完全な対応を望むとすれば、聖言の忠実な引用をする、 再現をする、そういうことになるかと考えられます。 我々の仏教は主として長い歴史の過程をかえり見ると、 漢字文化圏の範囲内とも言えるほど漢字文化の伝統に負 うところが多いのであります。その漢字文化圏において 翻訳された仏教の聖言、これは二千年の歴史の過程を踏 まえているものですが、この仏教の聖言は、日本の仏教 の場合も主として大乗仏教として選択されたものにおい て引用を求めるほかなかったのでありまずから、聖言の 忠実な引用をする、再現をする場合、特に大きな苦心が 払われたあとを窺うことができます。どのように窺うか が課題かと存じます。浄土教の場合、そこに世代を重ね ながら、しかも世代を越えて、色々苦心が払われたとい うことができます。弥陀の他力廻向の信心といった点な 11 どからであります。御承知のように、信心ということが 弥陀の他力廻向に依るならば、それは信心・不信心の対 立を越えております。信ずるとは、信ぜしめられるとい うことに他ならないからであります。こうして成等覚・ 証大浬紫、ー
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等覚を成じ、大浬撲を証するという事実 が、弥陀の必至滅度の願成就に依るとせられたのであり ます。そのいわれは、かかって弥陀・釈迦の方便にあり ましょう。﹁久遠実成阿弥陀仏五濁の凡愚をあわれみて 釈迦牟尼仏と示してぞ伽耶城には応現ずる﹂といわれた 所以であります。弥陀・釈迦の方便と申しますのは、弥 陀の他力廻向の信心を以て究極と致しましょう。この信 心は﹁如来の世に輿出したまふ所以は、ただ弥陀の本願 を説く為であり、それ故に一切の衆生は如来の如実の言 葉、念仏の法を信ずべきである﹂において十分に窺うこ とができると考えます。ここに念仏の信心は﹁煩悩を断 ぜずして浬繋を得る﹂こととなるのでございます。 以上、大変はしよりまして誠に粗雑なものとなりまし たが、私のいささかなる存念を聞いていただいたわけで ごぎいます。御教えをたまわりたいと思います。12
報
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化
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私は、真宗学には無縁の徒でごダ﹂いますけれども、御 一流の末に連なる者として祖師のお言葉のお心を窺うよ うに、少しでも窺い知るように、力めることは責務だと 思いますので、自分ながらに折々そういうことを思考し ております。今日は、その思っております事の一分を、 申し上げて御示教を得たいと思う次第でございます。 ﹁報土と化土﹂という問題を申し上げてみようと思い 立ちましたのは、しばらく前に、﹃浄土和讃﹄を拝読して おりましたところ、讃阿弥陀仏偏和讃の第三十三首﹁七 宝講堂道場樹﹂という御和讃。あれには、﹁方便化身の浄 土なり﹂という言葉がありまずから、そこで祖師は明ら かに方便化士のことを語っていらっしゃる。ところが、 それに続く御和讃の中にもいろいろお浄土の様子が述べ られてあります。﹁七宝樹林﹂だとか﹁七宝の宝池﹂だと棲
建
部
か﹁八功徳水﹂だとかが語られております。讃阿弥陀仏 偏和讃については、伝統的には、第三十三首から第四十 三首までがお浄土の有様つまり依報を讃歎するものと考 えられ、その中、第三十三首は化土の相を撰ぶ御和讃で ある、第三十四首からあとは真実報土の相を讃える御和 讃である、というふうに科文されておるようであります が、そこに、私なりの不審を持ったのでございます。 なぜ、﹁講堂道場樹﹂だけが化土の相で、あとの﹁七 宝の宝池﹂とか﹁八功徳水﹂とかいうようなものは真実 報土の相なのか。この御和讃のもとになった曇驚大師の ﹃讃阿弥陀仏傷﹄でも、またおそらくそのもとになった ﹃無量寿経﹄でも、それからまた﹁浄土論﹄でも、別段 ﹁講堂道場樹﹂だけが化土の相で他は報土の相だとこと わってあるわけではない。もともと報・化の別は立てて報 土 と 化 土 ない。﹃阿弥陀経﹄でももちろんそうでございます。そ れなのに御和讃ではどうして﹁講堂道場樹﹂だけがとく に化身土の相とされるのか。もちろん﹁方便化身の浄土 なり﹂というお言葉がございまずからこの第三十三首は たしかに化身土の相を語る御和讃といわなければなりま せんけれども、これだけがそうであってそれ以外の御和 讃はすべてそうでなく真実報土の相を語るものであると いうのは、いったいどうしてだろうかという不審を抱い たわけでございます。 それで先学のお書きになったものを拝見致しますと、 やはりこのことは問題になっておるらしくて、これは古 来難関とするところだと議録に書いてございました。手 近かなところ深励師の浄土和讃の講釈を開いてみたわけ でございますけれども、それによりますと、まず﹃六要 紗﹄には、真実報土の相は究寛如虚空であってつぶさに 見るべからざるすがたなんだ、講堂道場樹などの荘厳は ︵ 目 に 見 え る 有 の す が た 、 有 相 、 で あ る か ら ︶ こ れ は 凡 小 を 誘 引するために示されたものなんだ、という解釈がしてあ って、講堂道場樹だけでなくて七宝の宝池も八功徳水も みなひっくるめて、有相は化土の相である、真実報土は そのような感覚的にとらえられる世界でない、という解 13 釈が与えてあるようでございます。そうすると、今の第 三十三首だけでなしに、そのあとに続く浄土の相を描い てある諸和讃はみな化土の相に関するということになり ます。ところが深励師は、それを諾われない。これは﹃六 要﹄のことばであるけれどもそのままは受け取れない、 と言っていらっしゃる。困願酬報の報土に有の相がない はずはない。それではどうして特に講堂道場樹だけが化 土の相か。それについて次のような理由をあげていらっ しゃいます。お浄土の講堂では聖衆らが集まって法を聞 いて漸々に修学して従因向果する。因より果に向かう。 それは化土の相だ。真実報土は、そのように漸々に進ん でいくのでなくて、ただちに本願の世界に遊ぶのだ。と ころが講堂ではそうでないことは﹃大経﹄の文にも明ら かであるから、それで講堂はやはり化土の相なのだ。道 場樹はどうか。道場に生えておる宝樹を見て浄土の聖衆 たちはそれぞれ機の浅深に応じて三忍を得てゆく。従っ てこれも化土の相である。こういう理由を挙げておられ るのですけれども、これは少しあけすけに言えば、いか にもこじつけのような感じがしないわけでもないのであ ります。どうも、さあ納得できるかというと、そうは言 えないと思うのでございます。
14 金子大栄先生は、いかにも先生らしい解釈を下してお いでになりまして、化土というもそれは報土の外にある わけではない。真実報土がいかなるものかがわかるよう になるのは化土の徳なのだ。又、化土があるということ も、それは報土がある故にそうなんだ。そういうわけだ から、ことさらに、この御和讃は化土の御和讃、この御 和讃は報土の御和讃というように考えないで、このあた りの御和讃は全体として浄土の依報の徳を讃歎せられる のであるというふうに解しておいた方が穏やかであろう と、おっしゃっております。正親合英先生も、真土と化 土とに荘厳の上で別があるわけではないんだ。真土を固 執して実体視すればそれはそのまま化土になってしまう んだ、という風に言っておいでになりまずから、金子先 生の御解釈とほぼ軌を一にしておると思うんであります。 それはまことにもっともな、私どもにわかりやすいお示 しであると思うんですけれども、そうすると、第三十三 首の中にことさらに﹁方便化身の浄土﹂ということをこ とわっていらっしゃることの意味がどうもはっきりしな いことになります。 この講堂道場樹が方便化土に結びつけられておるのは、 讃阿弥陀仏侮和讃の三十三首目だけでなくて﹃教行証文 類﹄の化身土の巻でもそうでございますし、﹃三経往生文 類﹄の観経往生のところもそのようになっております。 それで正親先生の﹃往生文類﹄の講録を拝見しますと、 第二十八の道場樹の願とその成就文を観経往生を説くく だりの中に祖師が挙げておいでになるその理由について は、古来、四つが数えられておる、と述べておいでにな ります。古来この問題は多くの人に着目されて色々に考 えられておったんだということが、それでわかるわけで ございます。それでこの化土の相ということを、さらに それを考える為に真実報土の相ということを、もう一度 考え直してみなくてはなるまいと思うのであります。 そこで、そういうことを考えようとすれば、基になり ますのは、﹃教行証文類﹄でございましょうから、御本書 へ帰って、そこにどういうふうに述べてあるかと私なり に読解してみますと、真仏土の巻に真実報土ということ が様々に述べてありますけれども、結局、真実報土は無 量光明士だということ、光明の限りない世界だというこ とがまず言われて、それから、それは無為浬繋界だ、無 為浬撲界だから仏性であり、それが虚空であり、真解脱 であり、不生不滅であり、すなわち如来なんだというよ うな言い方がしてございまして、︵先程の﹃六要﹄の言葉を
報 土 と 化 土 借りて言えば︶﹁有相﹂の叙述は全く見られないのですね。 祖師は真実報土について、その世界のありさまを﹁具体﹂ 的に述べていらっしゃるようなことは一度もないと思う のであります。安養の浄利は真の浄土であって、惑染の 凡夫はここにおいて性を見ることあたわず、というお言 葉もあります。これは御白釈の部分であります。性を見 ることあたわずと言っておられまずから少なくとも惑染 の凡夫にとっては真実報土は無相の世界、空の世界と言 わなければならないのではないかと思うのでございます。 真仏土の巻の叙述は更に進んで、仏土について真あり、 仮あり、という。仏土はいずれも選択本願の正困によっ て成就したものであるから、それは願海に酬報した報土 である。報土であるけれども、その報土が真土と仮土に 分けられるというわけでございます。そして化の巻の叙 述に続いていくわけです。化の巻では、化身土というの は観経の浄土だとまず言っていらっしゃる。それから僻 慢界であり、疑城胎宮であるということを言っていらっ しゃいます。そこで私は、もう一度お経に戻って、お経 にその化土というのはどういう世界と書いてあるかとい うことを見てみようと思ったのであります。 まずその疑城胎宮の方でございますけれども、﹁辺地 15 七宝の宮腰﹂ということばが、たった一度だけ﹃無量寿 経﹄に出てきます。疑惑をいだいて往生する者は辺地七 宝の宮殿に生じて五百歳の間もろもろの厄を受けるのだ から、汝らはそのようであってはならない、という戒め が下巻の始めの方、五悪段のちょっと前に述べてありま す。それから五悪段があってその後に、胎生・化生とい うことが問題になる。釈尊が阿難に向って、起立して西 方阿弥陀仏を礼せよと言われる。阿難がそのようにしま すと、お浄土及び阿弥陀仏のすがたが遥かに裟婆に居る 阿難のまのあたりにありありと見られる、という壮麗な 状況が展開するわけでありますけれども、そのお浄土の 様子を拝した阿難及び弥勤菩薩に向って世尊が色々にお っしゃる。その中で、阿弥陀仏の浄土の中に胎生の者が 居るのをおまえたちは見たかという聞いがなされる。見 ました、とお答えすると、その胎生ということについて 世尊の説明が始まるわけですね。胎生者は宮殿にいる。 その宮監は﹁或百由旬、或五百由旬﹂の大きさという。 その前にもう一つ宮殿のことが説かれていて、それは胎 生者でない聖衆たちのおる宮殿ですが﹁百千由旬﹂と書 いてあります。ですから、胎生の者のおる宮殿はそれよ り大分小さい。百由旬ないしは五百由旬である。そして
16 胎生者はその中でもろもろの快楽を受ける、と書いてご ざいます。先にはもろもろの厄を受けると書いてあった のにここでは快楽を受けると書いてあります。これはど ういうことかなあと思うんでありますけれども、おそら くそのような胎生の有情が感受するものは、たとえ快楽 でも実はすべて災厄にちがいないということなんであり ましょうか。それで、そういう風にお浄土へ胎生する者、 それはどういう者かというと、疑惑心を抱いてもろもろ の功徳を修してかの国に生れんと願ずる者が、仏智を了 せざる故にかの宮般に生れて五百歳の寿を受ける。常に 仏を見たてまつらず、法を聞くことができないという叙 述が続きます。これが﹃無量寿経﹄でございますね。 そうすると、疑惑を抱いてもろもろの徳を修した者が 宮殿に生じて五百歳そこに留まる。それがここでの﹁胎 生﹂の意味であって、それは母胎から生ずること︵胎卵 湿化の回生の一としての胎生︶とは別であります︵原語でい えば文字も異ります︶。それに対して、疑惑を抱かない、 明らかに仏智を信ずる者は、もろもろの功徳を為して七 宝華中に自然に化生すると言ってあります。こちらは化 生の有情であります。胎生とはこのような意味でありま ずから、疑城胎宮の胎宮ということばの意味もそれで明 らかであり、疑城、疑いの城、と書かれてあることもそ れでよくわかります。しかし、ちょっと興味のあること に、﹃党文無量寿経﹄でこの部分に当る所を見ますと、 その疑城胎宮ということは出てこないのであります。疑 いの心を持った者が疑いをもちながらもろもろの功徳を 修して浄土へ生まれるということは書いてありますけれ でも、そのようにして生まれた者が宮殿に住してもろも ろの厄を受けるとか、もろもろの快楽を受けるとか、そ ういうことは書いてないんですね。ただ蓮のうてなの中 に生じて花が開けずにその中に留まる、と書いてありま す。逆に、康僧鎧訳﹁無量寿経﹄では、そのようなこと は書いてないのであります。 ところが、康僧鎧訳﹃無量寿経﹄で三輩段といわれる ところを見ますと、上中下の一二輩はいずれも臨終に仏を 拝するわけですが、仏そのものを拝するのは上輩で、化 身の仏を拝するのは中輩、実際に仏を拝むことはできな いが夢の中に仏を見るのは下輩。これは明らかに﹃般舟 三味経﹄に見えるのと同じ考え方です。﹃般舟コ一味経﹄で は、般舟コ一味を修して現前に仏を拝する、或いは機の劣 れる者は化仏を拝する、或いは現前には仏を拝しないけ れども夢中に仏を見る、というふうに言っておりますが、
報 土 と 化 土 浄土経典の方では、三味を修する中ででなく、臨終に、 仏を拝してお浄土へ往生する。﹃無量寿経﹄ではその三輩 の中で上輩だけについて、七宝牽中に自然に化生すると いうことが言ってありまして、中輩・下輩については往 生の仕方は書いてないのですが、古訳の﹃大阿弥陀経 L や﹃平等覚経﹄を見ますと、上輩・中輩・下輩いずれも 七宝池中の蓮華の中に化生する、とある。ただ上輩では その宝の池は阿弥陀仏国の中にある。中輩だと、阿弥陀 仏国界辺に自然七宝の城があってそこに池がある、その 池の中の蓮華の中に化生して五百歳を経る、という。下 輩はというと、お浄土へ至る道に七宝の城を見て、その 七宝池中に化生する。中・下輩は、五百歳たって城を出 ることはできても、すぐには心の聞けるということがな く、久しくしてようやく智慧が開解する、というふうに 書 い て ご ざ い ま す 。 そうしますと三輩についての叙述は、﹃無量寿経﹄より も古訳の経の叙述の方が﹃観経﹄の九品の叙述に親近し ています。﹃観経﹄では上上品から下下品まで九輩の往生 が説いてある。その中、上上品は蓮華の中に生ずるとい うことが書いてありませんけれども、上中品から下下口閉 までの八輩はいずれも宝華あるいは蓮華の中に生ずると 17 説いてあります。蓮華の中に生ずることは同じでも、上 中品の人は、﹁経宿則開﹂でありますけれども、上下品だ と﹁一日一夜、蓮華乃開﹂ということになる。中中日間で すと﹁経於七日、蓮華乃敷﹂ですけれども、下中品にな ると﹁経於六劫、蓮華乃敷﹂で六劫の時を経てやっと蓮 華の花が散ってそこから出るというふうになっておりま す。そのように段階はつけられてありますが、いずれも 蓮華の中に生ずるということは同じです。こうして見ま すと、﹃無量寿経﹄の中にあります﹁辺地七宝の宮股﹂と いうこと、疑域胎宮ということ、それから党文の大経に あります蓮華のうてなの中に生ずるということ、それか らまた﹃無量寿経﹄に帰ってその三輩段と﹃観無量寿経﹄ に見える上上品から下下品までの九輩の往生の仕方につ いての記述、それらが互いに密接に関連しておることは 明らかであると思われます。 それでもう一度、御本書へ帰ることに致します。御本 書の化の巻には、化身土というのは観経の浄土であると 言ってあって、それから揮慢界であり疑城胎宮であると 並べて書いてございます。そしてまず、第十九願の文が 挙げられます。第十九願はもろもろの功徳を修するとい うことと、臨終に仏が現前にお立ちになるということが
18 その内容であります。﹃三経往生文類﹄の方を見ますと、 観経往生について﹁万善諸行の自善を廻向して浄土を肝 慕せしむるなり﹂と言うことばがございます。﹁肝慕﹂ は、よろこびしたうですね。この析慕ということばは、 御本書の方にも出てまいります。﹁仮令之誓願、良に由有 る哉。仮門之教・折慕の釈、是いよいよ明かなり﹂とい うふうに言っておられまして、肝慕ということ、それか ら臨終に仏の来迎を期するということ、この二つが観経 往生の必須の要素であると思われます。 今、つい﹁来迎を期する﹂と申しましたが、それが来 迎かどうか、これはちょっと問題なのであります。私は、 ﹃無量寿経﹄などの叙述を古訳や究文などと較べてみま して、それから﹃阿弥陀経﹄などと較べてみまして、仏 が臨終の者の現前にお立ちになることは必ずしも来迎引 接ではないんじゃないか、仏が臨終に行者の前においで になるということ︵臨終見仏︶と、仏が来たり迎えて御浄 土へ連れていってくださるということ︵臨終来迎︶とは、 別と見なければならないんじゃあないか、と考えており ます。それは、仏、が眼前にお立ちになるということはま さしく般舟三昧の内容だからであります。先程申しまし たように、般舟三昧経の場合は三味を修することによっ て諸仏現前を得るのですけれども、浄土経典の場合は如 来の御慈悲のはたらきとして行者の臨終において眼前に 仏を拝することになる。そこはあい異りますが、いずれ にしても諸仏の現在前するのは同じであります。一方、 仏がお浄土から迎えに来てくださって連れていってくだ さるということすなわち来迎は、般舟三昧からは全く出 てきません。それは浄土教においてこそ考えられること。 つまり他方浄土という観念がなければそのような考え方 はあり得ないわけです。古訳の﹃阿弥陀経﹄﹃平等覚経﹄ は、はっきりと臨終来迎であります。来てくださって、 迎えて連れていってくださる、となっています。ところ が﹃党文無量寿経﹄ではそうではありません。臨終の者 の眼前に仏がお立ちになり彼はそれを拝することができ る、ということだけが言われておる。﹃阿弥陀経﹄もそ うであります。だから二つのことは一応区別して考えな ければならないんじゃないかと思っておるのでありま す 。 まあ、それはともかくとして、先程の点に戻りますと 観経往生にとっては、お浄土を肝慕するという、慕う、 彼岸の世界をあこがれ慕うということと、臨終に仏を拝 するということと、その二つが必須の要素であると思い
報 土 と 化 土 ま す 。 我 々 が 臨 終 に 仏 を 拝 す る こ と を ︵ あ るいは仏の来迎を︶期して、お浄土を析慕する。その我々 にとってお浄土は決して無相の世界ではあり得ません。 明らかに有相の世界です。講堂道場樹のみならず、八功 徳水も七宝の宝池も宝樹を吹く清風も、いずれもみな有 相でありますが、それがお浄土を肝慕して臨終見仏を ︵あるいは臨終来迎を︶期する者の心の中にあるお浄土の世 界であると言ったらよいのじゃないかと思うんでありま す。そうすると最初に掲げました問題は、結局、第三十 三首のみならずその後いくつかの御和讃も、等しく有相 の浄土を描いているという限りにおいて、方便化土︵観 経の浄土︶の御和讃である、と結着してもいいのじゃない か。まあ、そのように考えれば、先程申しました﹃六要 紗﹄のお考えと同じ線に立つことになりますけれども、 私にはそう思われるのであります。 それから、二十願の方、﹃阿弥陀経﹄の浄土でございま すけれども、これは疑惑を抱いて樺慢辺地に生ずるとい うことでありますが、僻慢辺地ということは、︵いや、悌 慢 と い う 語 は 浄 土 三 部 経 の 中 に は あ り ま せ ん か ら 今 は 除 い て お いて︶辺地ということは、さっき申しましたように一度 だけ﹃無量寿経﹄に出てきます。ですから、辺地七宝の そ う す る と 、 19 宮肢という考えが﹃無量寿経﹄にあることは明らかであ りますけれども、そしてもちろん祖師もそのことを御和 讃でうたっておいでになりますけれども、一方で祖師は、 先程申しましたところの、華の中に生まれて華が開けな いで三宝を見聞することができないという、そのことも ︵ 浄 土 三 部 経 の 中 の ど こ に も そ れ は 説 か れ て い な い に も か か わ らず︶﹁疑惑和讃﹂の中でうたっておいでになります。そ の二つの観念、つまり、疑いの心を抱いてお浄土へ生ま れる者は華の中に生まれて華が聞かないという観念と、 そういう者はお浄土の真ん中でなくて辺地にある七宝の 宮殿に生まれるという観念と、この二つは一応区別でき るわけですけれども、さっき申したような形でつながっ て一つになっておりますね。それを祖師はそのまま、つ ながった一つとして、受け取っていらっしゃると思いま す、どちらも御和讃に並べて説いてありまずから。けれ ども、二つの中のどちらが基本的なものか、と言えば、 私はやっぱり、華の中に生じて華が聞けないという方が より基本的なものではなかろうかと思います。疑惑の心 を抱いてお浄土に生ずるけれども蓮華の中に閉じ込めら れて五百歳三宝を見聞することができない。それは、あ たかも転輪王の王子が罪を犯して幽閉される。幽閉とい
20 っても王子のことだから宮殿に幽閉されて、何の苦もな いけれども五百歳そこから出ることができない、それと 同じだ、と喰えてあるわけですから、壁一ロ喰とも相応して いると思うんであります。辺地七宝の宮殿に生ずるとい うことになったのは、転輪王の主子が﹁宮殿﹂に幽閉さ れるというそのような警職が用いられましたから、それ が往生した境域の相としても取り入れられて、辺地七宝 の宮殿、疑城胎官ということになっていったのではない かと思います。そうすると、疑城胎宮の方はのちに展開 した考えで、華の中に生ずるけれども華が開けないで三 宝を見聞することができないという、その方がより原初 的な基本的な第二十願の往生の形だということになりま す。それは善本徳本を修するんですね。善本も徳本もみ なお念仏でありまずから、だから疑惑の心を抱いてお念 仏を申す。そういう者は、華中に生じて華が聞けないと いうそのような形で往生する。それを胎生だと言った。 それがさらに胎宮という、辺地七宝の宮殿という、観念 を展開させたということになります。 さて、ここまでは私が、たいへん勝手な考え方でござ いましたけれども、私なりにお聖教の文言を追って、一 つの解釈の筋道を立てようとしてみたまでのことでござ います。それで最後に、そのような観経の往生、阿弥陀 経の往生の教えがこの私自身の上にいかなる意味を持っ か、ということを少しばかり申し上げてみたいと思うわ けでございます。可観経﹄の場合、お浄土はあくまで折 慕の世界であり、肝慕される限りそのお浄土はやはり美 しくて輝いた世界、この裟婆とは全く違った様々な快楽 の世界、であるのは自然だと思うんです。私の心の中に も、裟婆の様々な苦難や自他の心の中の醜さなどに遭遇 する時、積土を厭離して浄土を欣うという心は湧かない でおらぬわけであります。そのように浄土を肝慕する時、 それは、七宝樹林くににみち宝池はいさぎよく八功徳水 が満ち満ちている世界でなければならぬ。機土を厭うて 浄土を欣う限り、そのような有相の世界を肝慕せざるを 得ないわけでございまずから、その場合、私は嬰樹林下 往生を願う第十九願の機ということでありましょうか。 一方、第二十願の往生、これはお念仏によるのでありま すが、さてそこで、となえる念仏が自力の念仏では二十 願の方便化土にしか行けない、陣慢辺地にしか行けない、 だから自力を去って他力の念仏によって真実報土に往生 するようにしなければならない、というふうに考えらる べきものなのでしょうか。祖師のお言葉で名高い三願転
報 士 と 化 土 入の文、あそこに讐樹林下之往生を離れて、善本徳本す なわち念仏によって二十願の往生を願うようになった、 さらにそれを越えて第十八願に転入した、という意味に 一応取れることばが述べられてあります。そうすると、 そのコ一願転入の体験を祖師がお持ちになったのは何時で あるか、ということが学者方の問題になっておるそうで あります。もし、法然上人の会下に参じて初めて念仏の 信心を獲得された、その時こそが第十八願に転入された 時だ、と解釈するなら、それよりはるか後に、祖師が関 東へ行かれて、三部経読請の功徳を頼みにする考えを起 こされたが途中で思い直されたというようなことはどう 理解すべきか。祖師の第十八願転入は実はそのことのあ とに起ったと見るべきでないのか、などと。しかし、自 力の念仏であった人が、ある時信心決定して、そこで他 力に転換して、さてその後はひとえに他力の念仏になる という、そのようなものでありましょうか、一体。 私自身、そのようなことは自分の上には考えられない ように思うのでございます。というのは、私は本性が極 めて自力我慢の人間でございまずから、幸いにしてお念 仏の縁の深いところに生まれお念仏の声の中で育って今 日まで来ておる私ですけれども、自らの中に性分として 21 頭をもたげる自力我慢の情に打ちひしがれるような思い をすることが常であります。そのような私にとって一つ の明るさというか、光を与えて下さったのは﹁疑心自力 の行者﹂の御和讃であります。信心の人に劣らぬように 如来大悲の思を知って称名念仏を励めというあの御和讃 であります。﹁疑心自力の行者﹂でありまずから、﹁称名 念仏はげむべし﹂とおっしゃるその称名念仏は、自力の 念仏でありましょう。その念仏をはげめとおっしゃって おるのですね。一方また、定散自力の称名は果遂のちか いに帰してこそ教えざれども自然に真如の門に転入する とも説いてあります。このような御和讃をいただきます と、私自身思うことは、私の念仏がついに自力の念仏を 離れないということであります。私はついに自力の念仏 を離れ得ない。つまり私が私の心をもって、私の口をも ってお念仏を称える限り、それは所詮自力の念仏になら ざるを得ない。しかもその自力の念仏がそのまま、如来 の本願によって、教えざれども自然に真如の門に転入す るのでありましょう。胎生の者の浄土が示されるのは、 我らの日常申す念仏がついに自力の念仏だということを、 ついに自力を離れ得ないものであるということを、示す ためのお諭しではないかと思うわけであります。しかも
22 それはついに自力の念仏ながら、自力の念仏に違いない んだけれどもそれが、教えざれどもそのまま自然に真如 の門に転入するのは、言うまでもなく本願のはたらきで あります。﹁果遂のちかひまことに由有るかな﹂と二度も 祖師は嘆じていらっしゃいます。 そういうふうに考えましたので最初に掲げました問題 の結論は、結局極めて簡単なことになりましだけれども、 先程申しましたように、講堂道場樹のみならず七宝の宝 池も八功徳水も、もしそれらを方便化土と真実報土とを 分かつ立場で見たらどちらであるかと言うならば、方便 化土の相でなくてはならないというふうに思われるので ご ざ い ま す 。 だいぶ勝手気憧なことを申しましてまことに多くの誤 ちを犯しておると思いますけれども、御示教を得ました ら幸せでございます。
親
驚
の
仏
’
性
論
親 驚 の 仏 性 論 親驚が領受し明らかにした仏教、浄土真宗は、人間に 何を開顕しているのであろうか。 私は、それは人間であること自体を明らかにし、人間 の真の自立と尊厳を明らかにする教であると領解する。 これは、親驚が﹃顕浄土真実教行証文類﹄︵以下﹃教行信 証﹄と記す︶の本文を次の文で結んでいることに具体的に 示 さ れ て い る 。 ト ハ ク ツ カ へ ム カ ト 季 路 問 事 ニ 鬼 神 一 ス ハ ヨ ト イ ツ タ γ ソ タ へ ム ヤ ト 一 一 子日不三一能ニ事一人鴬能事一鬼神一 ︵ 親 全 一 l l 三 八O
︶ 人聞は常に鬼神に事えようかと聞い続けている。鬼神と は ﹁ 諸 誕 の 心 意 な り ﹂ ︵ 同 | 三 七 人 ︶ ﹁ 心 正 直 な ら ざ れ ば 名 23明
智
彰
け て 詣 証 と な す ﹂ ︵ 同 | 三 七 九 ︶ 、 ﹁ 鬼 の 言 は 戸 に 帰 す ﹂ ︵ 向 上︶と示される如く、人間に諸い、人聞を誰かし、人聞 を生ける屍とするものをいう。人間の尊厳を隠蔽し、人 間の自立を奪う一切のものである。それによる束縛の中 にありながら、なおも人聞は、﹁鬼神に事へんか﹂と聞い 続けている。この人間の問いに﹁事ふること能はず。人 いずくんぞ能く鬼神に事へんや。﹂と、明瞭に答える教 が、親驚が領き明らかにしようとする仏教である。人間 生活において具体的に、人間の尊厳を明らかにし、鬼神 に事える要のない人間、自立した人聞を生み出していく 教 を 親 驚 は 真 空 大 の 教 と す る の で あ れ 山 。 この真実の教との具体的値遇は、親驚の生涯に於ては 法然との値遇の外にはない。親驚は法然との値遇によっ て人間の真の自立の道を教えられた。それは、浄土宗独24 立の仏事との値遇である。 浄土宗独立の仏事は、﹃選択本願念仏集﹄の努頭に示さ れ る 如 く 、 テ タ ユ リ ヨ リ ニ フ 間 目 、 一 切 衆 生 皆 有 二 併 性 ﹁ 遠 劫 以 来 鹿 レ 値 − 一 多 併 吋 エ テ カ ル マ デ ニ ラ / ユ ル ヤ テ ヲ 何 困 至 レ 今 、 何 白 輪 ゴ 廻 生 死 一 不 レ 出 ニ 火 宅 一 ︵ 真 聖 全 一 | 九 二 九 ︶ という聞いから始まるのである。この間いを中核として 一代仏教を批判し、浄土宗は独立した。親驚はこの浄土 宗の独立を、真の大乗開顕の仏事であると額いた。それ は、﹁一切衆生の平等成仏﹂を実現する仏道が開示された ということであり、すなわち、﹁一切衆生皆有仏性﹂を具 体的に証する仏道が開示されたということである。その ② ③ 浄土宗を﹁大乗の中の至極﹂、﹁浄土の真宗﹂と確かめ、 それが大乗の仏道としての普遍性と現実性を顕現するこ とを自らの教学営為の課題とした親驚においては、﹁一 切衆生皆有仏性﹂を具体的に開示する課題が原点にあっ たにちがいない。親驚の、﹁仏性﹂への注目は決して遇然 のことではない。親驚の教学の出発点から﹁仏性﹂の問 題がある。そして﹁一切衆生皆有仏性﹂は、親驚によっ て、はじめて人間の尊厳と自立を意味する仏言として明 らかにされたのではないか、と考えるものである。 今日まで、親驚の仏性論に関しては、多くの学説が提 ④ 出されている。それを大きく分類すれば、﹁一切衆生悉 有仏性﹂といわれる仏性が、本より衆生に具有している ものと見るか︵本有仏性肯定説てそうではなく、衆生に は本有の仏性は無いとするか︵本有仏性否定説︶、仏性の 問題は親驚の教学においては関係のないことであるとす るか︵仏性不問説︶の三つの考え方がある。本有仏性を肯 定すれば、成仏の因果の観点からは説明が便利であるが 絶対他力的でなくなる。しかし、本有仏性を否定すれば、 無因他因の外道的見解になるのではないか、という問題 ⑤ が論議されてきた。これらに対して不問説は、両者の矛 盾撞着を十分承知しているものであろうが、親驚は現に ﹃浬繋経﹄を﹁教行信証﹄に引き、独自の論旨を形成し ているのである。仏性ということについて見識を有して いるからに外ならない。にも拘らず、それを不聞に付し て論じないということはできない。要するに従来は、本 有仏性ということを真宗教学は認めるか否かを問題にす ることが多かった。それは、仏性が本より衆生に有るの か無いのかという仏性有無の論議である。
親 驚 の 仏 性 論 また、親驚の仏性観を二類に分けて、﹁信心を仏性と する類型と悉有仏性という聖道教の仏性観の類型﹂とを 区別し、前者は親驚の﹁直接的宗教思惟﹂、後者は﹁間 接的学的思惟﹂によるものであるとし、親驚に、二面の 思惟形式を考えて、親驚の仏教に於て生ずる理論的困難 は、﹁ひとたび聖道仏教の理論的弁証に逢着すれば容易 ⑥ に解決する﹂と理解する説がある。 仏性という言葉の意味に関しては、江戸期の宗学に於 て通仏教的に﹁如来蔵﹂﹁自性清浄心﹂と規定して、華厳 の真如縁起説や三種仏性説、天台の三因仏性説を援用す ることが行なわれた。現代に於ても、近代仏教学以来の 成果を踏まえて如来蔵説を以て﹃教行信証﹄の仏性論を ⑦ 解釈する説がある。また、﹁成仏の可能性﹂、﹁救済の可 能性﹂という定義はしばしば耳にする所、さらには﹁如 ③ 来回向の信心を領受する可能性﹂という定義もある。 私は、親驚における﹁仏性﹂の意味については、可能 性という如き定義では不十分であると考える。たとえば ﹃教行信証﹄には、﹁如来は声聞縁覚菩薩に非ず、是を仏 性 と 名 づ く 。 ﹂ ︵ ﹁ 真 仏 土 巻 ﹂ ︶ と か 、 ﹁ 一 切 覚 者 を 名 づ け て 仏 性 と な す 。 ﹂ ︵ 同 上 ︶ 、 ﹁ 仏 性 は 即 ち 是 れ 如 来 な り 。 ﹂ ︵ ﹁ 信 巻 ﹂ ︶ という言い方があり、他にも﹁浬繋を仏性と名づける﹂ 25 ︵ ﹁ 浄 土 和 讃 ﹄ ・ ﹃ 唯 信 紗 文 意 ﹄ ︶ と い う 趣 旨 の 言 葉 が あ る か ら で あ る 。 私 は 、 親 驚 の 一 士 一 日 う ﹁ 仏 性 ﹂ と は 、 ﹁ 可 能 性 ﹂ で はなく、本願発起から永劫修行・浄土建立を以て示され る活動的如来の無縁の大悲を指すと領解する。また、親 驚に於ては仏性論は、有無の問題ではなく見・不見を以 ⑨ て示される信・不信の問題であると考えている。 親驚の仏性論に関し、種々の学説があり、さらには、 真宗教学において仏性を論ずることはさして意義がない という意見が今日もある。それは如何なる論拠に立って いるのか。仏性といえば聖道門教学のことを考えている のか。また今日まで提出されてきた仏性についての諸説 を﹁煩噴﹂という一言を以て片付けようとするのであろ うか。仏性ということよりも本願論・行信論・回向論・ 浄土論等の方が真宗教学には重要であるというのであろ うか。親驚の教学の営為の結果公にされた著述の内容を 詳細に検討し、論を立て領解していくことは極めて大切 なことであるが、それに先立ってなされなければならな いことは、親驚の教学をなさしめた根本的視座を推求し て、親驚その人の﹁悲願﹂に触れることではないか。そ うでけなれば、親驚の教学の内容についての考察がいく ら進んでも、その結果が親驚の意志を必ずしも正しく汲