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152 修 平 文 會 報 第 ㈦ 期 民 國 ㈨㈩㈤ 年 ㈨ 朝 鮮 和 越 南 年 號 制 度 之 探 討 王 福 順 摘 要 起 源 於 中 國 西 漢 之 年 號 制 度, 爾 後, 不 僅 在 歷 代 正 統 國 家 所 沿 用, 也 影 響 鄰 近 的 國 家 ( 如 朝 鮮 和 越 南

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朝鮮とベトナムの年号についての㆒考察

王福順

摘 要

中国西漢に始まった年号の制度は、その後本土の正統国家に受け継がれたのみな らず、周辺の諸国(朝鮮・ベトナム)にも影響した。朝鮮の年号には、朝鮮で独立に 建てられたものと、中国の年号を尊重して使った場合とがある。朝鮮は、地理的に中 国と陸続きであり、また西漢の武帝時代(元封3年)以来、四百年近くも中国王朝の 直轄支配を受けた。それだけに文化的成長は早く遂げたが、政治的自立はかえって難 しくならざるをえなかったようである。ベトナムでも古くは干支紀年あるいは王位紀 年が使われたと考えられるが、漢代からの中国支配下では中国の年号を使用した。あ る時期に中国からの自立をはかり、独自の年号を立てたが、1945年から韓国と同様、 最終的に年号も廃止され、西暦を使用し、現在に至っている。 キーワード:年号、朝鮮、ベトナム。 王福順:修平技術学院応用日語系副教授 投稿日期:950313 接受刊登日期:950413

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朝鮮和越南年號制度之探討

王福順

摘要

起源於中國西漢之年號制度,爾後,不僅在歷代正統國家所沿用,也影響鄰近的國 家(如朝鮮和越南)。朝鮮的年號,大致可區分為獨自建立的和因尊重中國而使用的年號兩 種。朝鮮在地理上陸地鄰近中國,而且在西漢武帝時代(元封3年)以來,將近有四百年受 中國王朝的支配統治。也正因為如此,雖然,文化的成長極為快速,但政治的獨立反而 更顯得不太容易。越南自古以來使用干支紀年或王位紀年,但自漢代以來因受中國統治 而使用中國年號。雖然,在某時期,因想要獨立而建立獨自的年號,但1945年以後到現 在,和韓國一樣,最後也廢止年號而採用了西曆。 關鍵詞:年號、朝鮮、越南。 王福順:修平技術學院應用日語系副教授

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Ⅰ はじめに

年号は元号ともいう。中国・日本などで、ある時点から起算して年数を計

算するための特定の称号である。年号は中国で起り、東アジア世界つまり漢字

文化圏で約二千年余広汎に行なわれてきた紀年法であり、夥しい歴史事象が年

号を伴って記憶されている。中国の建武中興・開皇之治・貞観之治・靖康之変

や日本の大化改新・永享の乱・享保の改革・明治維新等々、例をあげればきり

がない。法制史の分野でも、永徽令・開元礼・慶元条法事類・万暦会典や弘仁

格・延喜式・建新新制・明治憲法など年号は法典を識別呼称として独特な指標

となっている。

時をどのように表記するかということになると、暦が基準となるが、周知

の如く、日本と中国ともに近代化の過程で伝統的な太陰太陽暦(農暦)から太

陽暦(グレゴリオ暦)への切替えが行なわれ、日本では明治六年(1873)、中

国では民国元年(1912)から欧米と同一の太陽暦を使用している。しかるに中

国では辛亥革命により二千余年続いた年号が廃止されて民国紀年となり、今日

中華民国(台湾)ではそれが使われ、中華民国何年と表示されている。その一

方、中華人民共和国では成立(1949)以来、紀年に西暦を採用して現在に至っ

ている。日本ではグレゴリオ暦を使用しつつ依然として1000年余の年号を襲用

し現代に及んでいるのである。

本稿の課題は、年号を使用する意味をアジア世界における歴史の中に探

り、とくに朝鮮とベトナムの年号制度を問うことにある。

Ⅱ 朝鮮の年号

1 朝鮮独自の年号

朝鮮の年号には、朝鮮独自の年号と、中国王朝の年号を順奉して使用した

ものとがある。朝鮮は、地理的に中国と陸続きであり、また前漢の武帝時代

(元封三年=B.C.108)以来、四百年近くも中国王朝の直轄支配を受けた。それ

だけに、文化的成長は早く遂げたが、政治的自立はかえって難しくならざるを

得なかったようである。

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朝鮮でも始めは干支紀年が用いられ、続いて王位紀年が用いられたと考え

られている

(1)

。ここに独自の年号が現れるのは、高句麗・百済・新羅

の三国時代 である。この三国は四世紀に入って中国が分裂状態に陥ると、相次いで独立王国を築 き、互いに勢力を競った。そのうち、朝鮮北半に拠点を置いた高句麗は、四世紀末か ら五世紀をかけて最も強大であった。しかし、六世紀に入ると、南東部に拠点を持つ 新羅が次第に勢力を伸ばしてくる。やがて七世紀中頃には、新羅が唐と手を結んで西 の百済と北の高句麗とを攻め落とし、朝鮮全土の統一に成功した。 朝鮮では独自の年号が数少なく、新羅の年号以外は連続建号が少なく、継続使用 の年数も長くない。しかし早くも高句麗には四世紀から、新羅には六世紀から独自の 年号の使用が認められる。朝鮮での現存最古の年号は四世紀末尾の高句麗の永楽であ る。高句麗の年号の始まりや、中国の年号を使用したかどうかなど、ほとんどの点が 不明である。ただ、広開土王陵碑文に見える永楽の年号には、一つのきわだった特色 が見られる。この碑文には、「惟昔始祖鄒牟王之創基也、出自北夫余(中略)四口至 十七世孫国岡上広開土境平安好太王、二九登祚、号為永楽太王(中略)以甲寅年九月 二十九日乙酉、遷就山陵、於是立碑、銘記勲績、以示後世焉、其詞曰、永楽五年歳在 乙未(中略)倭以辛卯年來渡海、破百残口口新羅、以為臣民、以六年丙申、王躬率水 軍(下略)」(2)と記述されている。この好太王が十八歳で即位した年(391)に永楽の 年号を建て、自ら永楽太王と号したことは明白である。四世紀末の高句麗は他の二国 に先んじて独自の年号を建てうるほど、強大な勢力を持っていたのであろう。 百済の年号については、忠清北道忠州郡の出土と伝える金銅仏光背に、「建興五 年歳在丙辰、仏弟子清信女上部、口奄造釈迦文像、願生生世世見仏聞、法一切衆生同 此願」(3)という五行形式で一行八字の彫銘が見られる。これによると、「建興五年歳 在丙辰」だけしか見られない。これは建の字に別の字をあてる説もあって、確定し難 い。その上、この仏像が六世紀半葉から七世紀初頭まで見られ、この丙辰の年次も536 年説と596年説とに分かれている。このように百済の年号には独自のものがあったらし いと推測できる程度のものしか見当たらない。特に中国王朝との外交・貿易に尽力し た百済では、高句麗・新羅にさきだって中国王朝の年号を使用する可能性が大きいと (1)矢沢康祐「元号はどうなっているかー中国・朝鮮・ベトナムー」『歴史地理教育』1976年8月号 62-65 頁 (2)大谷光男『古代の暦日』雄山閣 昭和51年5月10日 229頁 (3)藤田亮策「朝鮮の年号と紀年(上)」『東洋学報』第41卷第2号 昭和33年9月 17頁

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思われる。 新羅独自の年号は『三国史記』年表及び新羅本紀に次の七例を挙げている。以下 に表示しておこう。 新羅年号 西暦 新羅王代 干支 中国年号 建元元〜5年 536 法興王23 丙辰 梁大同2 540 真興王元 庚申 梁大同6 開国元〜17年 551 真興王12 辛未 梁太宝2 大昌元〜4年 568 真興王29 戊子 陳光大2 鴻済元〜12年 572 真興王33 壬辰 陳太建4 576 真智王元 丙申 陳太建8 579 真平王元 己亥 陳太建11 建福元〜50年 584 真平王6 甲辰 陳至徳2 632 善徳王元 壬辰 唐貞観6 仁平元〜14年 634 善徳王3 甲午 唐貞観8 太和元〜6年 647 真徳王元 丁未 唐貞観21 始行中国年号 650 真徳王4 庚戌 唐永徽元 これを見ると、建元・開国・大昌・鴻済・建福・仁平・太和の建号と改元の年次 を明記し、法興王から真徳王まで連続して独自の年号を使用したことが判る。法興王 の建元は『三国史記』法興王二十三年条に、「はじめて(独自の)年号を用い、(こ の年号を)建元元年といった」(4)とし、『三国遺事』王暦には、「建元(丙辰)(法 興王二十三年・536年)この年はじめて(この年号を)おき、年号はこれよりはじまっ た」(5)とあって、これ以前の年号が伝えられていなかったらしい。この建元に始ま り、真興王十二年改元の開国、同二十九年の大昌、同三十三年の鴻済、真平王六年の 建福、善徳王三年の仁平を経て、真徳王元年の太和に至るまで、ほとんど王の治世の 中途で改元したものばかりであることは注目に値する。太和は新羅の最後の独自の年 号である。真徳王紀には、「元年秋七月、使者を発遣し、(冊命に)謝意を表した。 (この月)年号を太和と改めた。(中略)二年冬、邯帙許を使者とし、唐に朝貢させ た。その時太宗は御史を通じて、(次のような)下問があった。新羅は大朝(唐)に (4)井上秀雄訳注『三国史記』1 平凡社 1980年2月29日 103頁。『朝鮮史』の「三国史記」卷四新羅王本 紀四法興王には、「二十三年、始称年号、云建元元年」と見える。 (5)金思燁訳『三国遺事』六興出版 昭和55年12月10日 22頁。『朝鮮史』の「三国遺事」王暦には、「新 羅第二十三法興王。建元丙辰(是年、始置年号、始此)」と記されている。

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臣として仕えているのに、どうして別な年号を称しているのか。これに答えて、邯帙 許は(次のように)言った。いまだかつて、天朝(唐)は暦を(新羅に)頒ち与えた ことがありません。そのため先祖の法興王以来、勝手に年号を使っています。もし大 朝から命令があるならば、わが国はどうしてあえてこれに反対しましょうか。太宗は (邯帙許の話を)もっともだと認めた。(中略)三年春正月、はじめて中国の衣冠を 着ることになった。(中略)四年、この歳、はじめて中国の年号である永徽の年号を 用いた」(6)と見えるように、真徳王四年(650)に中国の正朔を受け、唐の年号を使用 して以後、新羅王に独自の年号はない。 この推移を見れば、法興王以来、せっかく独自の年号を建て続けてきた新羅も、 太宗の一喝に恐れをなして、中国の年号に切り替えてしまったのである。今日の感覚 では、これをいかにも不当な干渉のように思う人があるに違いない。ところが、『三 国史記』の編者の金富軾は、「かりそめにも、時流に乗じて次 と国を起こしたり、 両国が対立して天下を争ったり、姦智にたけた者たちが、間隙に乗じて国を作り、 (天子の印としての)神器を望み願ったりするものでなければ、辺境にある小国で も、天子に臣下として仕えるものは、勝手に年号を称してはならない。もし新羅が二 心なく中国に仕えるならば、貢物の筺(を乗せた船)が、途中で(前の船を)望み見 られる(ほどあいついで)航海させなければならない。そうであるのに、法興王が勝 手に年号を称した。(これは)惑ったためであろう。その後も誤ちをひきつぎ、間違 いを続け、多くの年月を経てきた。唐の太宗が責めとがめるのを聞いても、なおぐず ぐずためらっていた。このとき以後、唐の年号を奉ずるようになった。(知らないこ とで)やむをえないこととはいえ、そもそも誤ちをよく改めたというべきであろう」 (7) とむしろ法興王らが独自の年号を建てたことは惑いであり、過ちだと非難してい る。 その理由は、同じく金富軾が「夏・商・周三代が暦を変え、後代になって年号を (6)前掲注(4) 145-150頁。『朝鮮史』の「三国史記」卷五新羅本紀五真徳王には、「二年冬、使邯帙許朝 唐、太宗勅御史問。新羅臣事大朝、何以別称年号。帙許言、曾是天朝未頒正朔。是故先祖法興王以来、 私有紀年。若太朝有命、小国又何敢焉。太宗然之。(中略)三年春正月、始服中朝衣冠。(中略)四 年、是歳、始行中国永徽年号」とある。 (7)同上 150-151頁。『朝鮮史』の「三国史記」卷五新羅本紀五真徳王には、「論曰、三代更正朔、後代称 年号。皆所以大一統、新百姓之視聴。是故苟非乗時並起、両立而争天下、与夫姦雄乗間而作、覬覦神 器。則偏方小国、臣属天子之邦者、固不可以私名年。若新羅為一意事中国、使航貢筺相望於道、而法興 自称年号、惑矣。厥後承愆襲繆、多歴年所。聞太宗之誚譲、猶且因循。至是然後奉行唐号、雖出於不得 已、而抑可謂過而能改者矣」と述べている。

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称するようになった。みな統一をより拡大し、人 の視聴をあらたにするためのもの である。このような理由から、(中略)天子に臣下として仕えるものは、勝手に年号 を称してはならない」(8)と述べている。つまり、中国王朝を中国と称し、「天子に臣 下として仕えるもの」と仰ぐ新羅としては、その年号を順奉するのが当然であって、 勝手に独自の年号を建てるべきではないというのである。 このような考え方は、高麗や李氏朝鮮の時代にも為政者の常識であったらしい。 三国時代の高句麗・百済・新羅は、中国に勃興する歴代の大勢力国家に対し、時に朝 貢と称して使者を派遣させ、あるいは学問技芸を学んでいたが、自国の独立を妨害さ れたり王位に関与されることはなかった。これは日本も新羅も独立国として遣隋・遣 唐の使節を送っていたためで、決して大国の属国であり、その一部であると考えてい なかった。朝貢は外交儀礼であり、一種の公貿易でもあった。ただ天下一統思想の影 響もあったであろうが、強国の傘下に自国の安全と繁栄を図ったもので、事大思想と 相通ずるものがある。 「事大」とは大に事える意味で、弱小を順撫する意味の「字小」と対比される概 念である。王氏高麗時代は宋・遼・金・元・明と相次いで大勢力の前に屈服する運命 にあり、事大の思想が浸潤し、文献にもしばしば表われている。例えば、『高麗史』 仁宗丙午四年三月条に、百官を集めて金国に臣事することの可否を議論した際、李 資謙・拓俊京が「小を以て大に事うるは、先王の道、宜しく先ず使を遣して聘問すべ し」(9)と言ったとあるが、当時の人 の事大思想を言い尽くしている。靖宗乙亥元年 六月契丹に使した陳情書の中に「伏して想うに今の皇上、字小の情深くして、卑を聴 すの道広し」(10)と言ったことも同一の思想で、これに類する字句は高麗史に極めて多 い。 新羅後期は王位を争う叛乱が絶えなかったが、『三国史記』憲徳王紀十四年三 月条には、「熊川州都督(金)憲昌は、父の周元が王になれなかったことを理由に反 乱をおこした。(新)国を長安といい、(新しい)元号を用いて、慶雲元年とした」 (8) 同上 150-151頁 (9) 『高麗史』仁宗元年六月庚午条に、「王答曰(中略)況我先考、以礼事大、以忠述職、雖在海外、心常 在於王室」とあり、また仁宗四年三月辛卯条に、「独李資謙・拓俊京曰、金昔為小国、事遼及我、今既 暴興、滅遼与宋、政修兵強、日以強大、又与我境壌相接、勢不得不事、且以小事大先王之道、宜先遣使 聘問従之」と記されている。 (10) 『高麗史』靖宗元年六月条に、「是月寧徳鎮廻牒契丹來遠城云、(中略)伏想今皇上、字小情深、聴卑 道広(下略)」と見える。

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(11) とあるように、822年に叛いた金憲昌が国号を長安とし、年号を慶雲(822)と改め た。また901年に自立して、後高句麗国と称した弓裔、及びその後を受けた王建らは以 下のような国名と年号を使用していた。 国名 年号 西暦 干支 末年 西暦 (後高句麗国) 摩震国 泰封国 高麗国 弓裔称王 武泰元年 聖冊元年 水徳万歳元年 政開元年 天授元年 光徳元年 901 904 905 911 914 918 949 辛酉 甲子 乙丑 辛未 甲戌 戊寅 己酉 聖冊六年 水徳万歳三年 政開四年 天授十六年 光徳四年 910 913 917 933 952 弓裔から王建にひきつがれる時期は後三国時代とも言われ、戦乱にあけくれる時 期である。年号の光徳を除くと、前述の慶雲とともに六例の年号がいずれも敵対国を 朝鮮半島内部にもっていたことで共通する。この時期の朝鮮独自の年号が中国の年号 と対立的な関係で使用されたと見るよりは、中国王朝の年号を使用している新羅王朝 に対する自立意識を表現したものかもしれない。また、弓裔が王を自称した年や摩震 国を建国した年の干支を見ると、辛酉・甲子の年で讖緯思想による革命・革令の年を 意識的に取りあげている。また水徳万歳の年号もこれに関連するものと言えよう。ま た、高麗国の年号天授はこれより広い意味ではあるが、神政的要素を強調したものと 見てさしつかえなかろう。 李氏朝鮮の五百年はもっぱら明の洪武以下の年号を順奉し、清朝の始めは一時 的に明清両暦の使用に混乱を見せたが、外交文書にだけ清の崇徳・順治を用い、康 熙以後に至り、清の年号が民間にも行われた。その外交文書の関係記事の例として、 崇徳の順奉について『朝鮮史』朝鮮仁祖十五年正月二十八日条(明ノ年号ヲ去ル)に 「竜骨大、清帝ノ書ヲ持シテ来ル。其書曰ク、寛温仁聖皇帝、朝鮮国王ニ詔諭ス(中 略)。爾、若シ過ヲ悔イテ自新シ、恩徳ヲ忘レズ、委身帰命、以テ子孫長久ノ計ヲ為 サバ、則チ明朝所与ノ誥命・冊印ヲ献納シテ其交好ヲ絶チ、其年号ヲ去リテ我ガ正朔 ヲ奉ジ、(下略)」(12)とあり、順治の順奉について『朝鮮史』朝鮮孝宗六年六月二十 (11)前掲注(4) 337頁。『朝鮮史』の「三国史記」憲徳王紀十四年三月条には、「是月、熊川州都督憲昌、 父周元ノタツヲ得ザリシヲ恨ミ、兵ヲ挙ゲテ叛シ、国ヲ長安ト号シ、元ヲ慶元ト建ツ」と記されてい る。

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二日条(順治年号ノ行用)に「王、教シテ曰ク、通信史、日本ニ到リ、凡ソ文書酬酢 ノ際、順治ノ年号ヲ用フ可カラズ、廟堂ヲシテ之ヲ議セシメヨト。備局、以ヘラク、 許積、慶尚監司ト為リ既ニ已ニ倭差平成幸ニ言及セリ、今ニ至リテ更諱ス可カラズ ト」(13)と見える。すなわち、朝鮮王朝の末期に清朝からの自立と日本をはじめとする 列強の侵略に対応して、朝鮮の自立を主張しようとする動きが強まった。その一つと して、以下のような朝鮮独自の年号の制定や朝鮮王朝の紀年を使用を使用することが 行われた。 朝鮮年号(紀年) 朝鮮王代 西暦 干支 日本年号 開国503年 開国504年 建陽元年 光武元年 隆煕元年 隆煕4年 高宗31年 高宗32年 高宗33年 高宗34年 純宗元年 純宗4年 1894 1895 1896 1897 1907 1910 甲午 乙未 丙申 丁酉 丁未 戊戌 明治27年 明治28年 明治29年 明治29年 明治40年 明治43年 これを見ると、李太王の甲午(1894)に開国紀年を用い、丙申(1896)に太陽暦 を用いて建陽の年号を建てたのは、朝鮮が清朝の属国に非ざることを内外に公示し たものであった。丁酉(1897)八月に国を韓国と号し、光武と改元した。光武十一年 (1907)八月に隆煕と改め、四年(1910)の八月に及んでいる。以上が朝鮮半島にお ける建号の最後である。しかし1910年の日韓併合によってそれも廃止され、1945年ま で日本の年号使用を強制された。明治・大正・昭和の年号は朝鮮民族にとって日本の 植民地支配を意味したのである。1945年の日本の敗戦から、韓国は西暦を用いること になり、朝鮮民主主義人民共和国も西暦を使用しているようになる。 以上のように、朝鮮独自の年号が最初に使用されたのは高句麗・百済・新羅三国 の対立抗争時代(年号は別)であり、ついで、822年金憲昌が新羅に反抗して長安国を 建てた時である。さらに、十世紀前半の後三国時代の摩震国、泰封国・高麗国時代に も独自の年号があり、最後はその後千年を経て、十九世紀末期から二十世紀初頭にか けて、国号を大韓民国と改めた時である。これら独自の年号の使用を、従来の諸説で は朝鮮の中国王朝に対抗する自主意識の現われと言われてきたが、具体的な例に則し (12) 『朝鮮史』第5編第2卷 東京大学出版会 昭和61年12月5日 441頁 (13) 『朝鮮史』第5編第3卷 東京大学出版会 昭和61年12月5日 519頁

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て考えれば、その大半が朝鮮内部の抗争期である三国時代と後三国時代とに集中して いる。このことから独自の年号は対外的に朝鮮の自主意識を現わすと見るよりは、朝 鮮内部の対立国に対する自主意識と見るほうがよいのではなかろうか。高麗初期の年 号、光徳の場合も、形式的には高麗が朝鮮を統一した後のことではあるが、実質的に は新政権の基が定まったとは言えない時期である。この時期は中国は五代末の混乱期 であり、満州でも遼が隆盛になったとは言え、高麗と対立する状態ではなかった。こ のような状況から見ても、光徳の建元はより基本的には高麗国内部に対するものと見 てよいのでなかろうか。 1894年の開国紀年の使用は甲午改革の一端で、清朝からの自立を標榜したもので あるが、この時は日清戦争直前で大量の清軍が朝鮮に駐留していた。このことに反発 したものと見れば、その後日本軍の駐留が続いたのに対応して、開国紀年や朝鮮独自 の年号を使用したのと同様の理由づけが考えられよう。高麗以前の独自の年号の使用 は朝鮮内部の政治抗争に対応して生まれた。近代の場合は外国の軍隊が朝鮮内部に 駐留することに反発して独自の年号を建てたと見れば、前者と共通したものになるの ではなかろうか。すなわち、朝鮮内部に政治的対立が生じた時、その対立者に対する 自主意識を表明する一つの手段として、独自の年号が建てられたと見てよいのでなか ろうか。さらに言えば、朝鮮の支配者は政治的に対立するものを外国に求めるのでな く、朝鮮内部にあるものと対決することが多い。この傾向が朝鮮独自の年号を設置す る時にもよく現われていると言えよう。

2 中国年号の使用

朝鮮で使用した年号は多く中国王朝の年号であった。それは新羅以来、朝鮮の 統一王朝は中国王朝や満州・蒙古の諸王朝に臣従してきたからである。朝鮮の王朝が 臣従したことについては、井上秀雄氏の研究(14)によれば、いくつかの理由が考えられ る。第一の理由は強大な軍事力を擁し、朝鮮半島に出兵して朝鮮の政治状況を武力で 変更させることがしばしばあったためである。古くは漢から晋に及ぶ朝鮮の郡県設 置があり、七世紀後半の新羅統一戦争には、新羅は初め唐と連合し、のちこれと対戦 することになった。高麗朝では再度の契丹の侵入、三十五年に及ぶモンゴルの軍事支 配、朝鮮王朝では再度にわたる清の侵入等 を挙げることができる。このような中国 ないしは北方の強国が長期にわたって軍事勢力を背景に植民地的な支配を強行した。 (14) 鈴木武樹『元号を考える』現代評論社 1979年3月1日 43-68頁

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朝鮮の諸王朝ではこのような事態をできるだけ避けるため、強大国に臣従することに した。 第二の理由は朝鮮内部の事情である。例えば、三国時代の抗争で苦境に立たさ れた新羅が唐に救援を求めている。また朝鮮王朝に際しては、親元派と親明派とが対 立し、明軍討伐のために遼東に派遣された高麗軍が朝鮮王朝の太祖李成桂の指導のも と、鴨緑江河口の咸化島で反旗をひるがえし、明国に臣従して朝鮮王朝を建てた。朝 鮮での王朝政治は、武力を排し文事を重んじたため、中国王朝の動向には極めて敏感 であった。中国王朝に臣従することによって、王朝内部に安定した勢力を作り出すこ とができた。その反面、朝鮮の王朝が中国王朝に臣従する証として中国の年号を使用 することになった。 このような事情を示す一例として、新羅がはじめて中国の年号を使用するように なった事情を略述しておきたい。六世紀後半、新羅の勢力は大いに拡大したが、七世 紀に入ると、高句麗・百済の反撃を受け、次第に窮地に追い込まれた。642年、百済が 加羅地方に進出し、翌年には高句麗と百済の連合軍が大挙して新羅を侵入しようとし たので、新羅は唐に救援を求めた。『三国史記』新羅本紀善徳王十二年(643)秋九月 条によると、唐の太宗は一策として次のような提案をした。 百済国は海の要害をたのみとし、兵器を充分に備えず、男女の別が乱れており、 互いに集まり楽しんでいます。(このように備えのない百済にたいし、)わが唐軍が 七、八十隻の船に、武装した兵士たちを乗せ、口に枚を含んで、ひそかに海にでて、 その地を直接襲撃しましょう。(しかしこの場合でも、)あなたの国では婦人が王に なっているので、隣国から軽んじ侮られ、(その結果、やがて)王を失い、いつまで も侵略がつづき、安らかな年がなくなってしまいます。(そこで)私は一族の者を派 遣して、あなたの国の王としましょう。そうすれば、王一人だけでゆくわけにはゆき ませんから、当然、(唐から)軍隊を派遣し、守らせましょう。(その後)あなたの 国が平安になるのを待って、あなたたちが自分で防衛するのにまかせましょう。(下 略)(15) この提案は新羅にとって極めて重大な政治問題で、安易に実行できるものではな (15) 前掲注(4) 141頁。『朝鮮史』の「三国史記」新羅本紀善徳王十二年秋九月条には「百済国恃海之険、 不修機械、男女紛雑、互相燕聚。我以数十百船、載以甲卒、銜枚泛海、直襲其地。爾国以婦人為主、為 隣国軽侮、失主延冦、靡歳休寧。我遣一宗枝、与為爾国主。而自不可独王、当遣兵営護、待爾国安、任 爾自守(下略)」とある。

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かった。しかし、その後の高句麗・百済の新羅侵入はすさまじく、王都慶州からわず か十数キロの地点まで百済軍が押し寄せてきたことさえあった。そこでこの唐の太宗 の提案が新羅の貴族会議でも取りあげられ、647年に貴族会議で女王の廃位を決定し た。しかし、この貴族会議の決定に反対する地方豪族や下級貴族たちが、善徳女王を 擁護して貴族会議と対決し、貴族軍を討ち破って女王を守りとおした。 この内乱を契機に新羅の貴族政治は急速に衰え、王権を中心とする律令政体が次 第に確立していった。一方対外関係では、唐の王族を新羅王にはしなかったが、唐の 政治体制を導入して、唐との連合体制を強化する方針が取られた。その一環として、 中国の年号を使用することになったのである。換言すれば、新羅は高句麗・百済の連 合軍の猛攻を受け、王都慶州さえ奪われようとしていた。この状況を打開するため、 唐の救援を求めなければならなかったが、唐はこれを機会に新羅支配をもくろんでい た。新羅にとって危険な唐ではなかったが、その支援なしには、当面の困難を切り抜 けることができなかった。当面の打開策として、唐の王族を新羅王にすることは拒否 したものの、唐朝への臣従を一層明確に打ち出さなければならなかった。また、前述 の内乱で貴族勢力を押さえたとは言え、貴族の権威は依然として強く、唐の後援なし には、新羅王が貴族勢力を押さえることができなかった。そのため、新羅王は積極的 に唐の冊封を受け、唐の正朔を奉じ、その年号を使用することになった。その後も、 新羅・高麗・朝鮮三王朝(高麗の中国年号の順奉は別表一参照)では、ほぼ中国の 年号を使用するのであるが、これは単に外交礼儀・国際関係のみに原因があるのでな く、より根本的には、貴族層に根強く広がっている事大思想に支えられたものと言え よう。 新羅では650年以降、唐の年号を採用したとは言え、これを一般日常生活に使用し たわけではない。中国年号の使用は主として外交文書であり、寺院関係の儀式ばった 書式に使用された。『三国史記』『三国遺事』などでは、「某王の何年」と記し、民 間の金石文では干支のみを使用しており、日常生活では中国年号はあまり使用されな かった。この点では高麗・朝鮮両王朝でも同様で、中国年号が朝鮮社会で広く使用さ れていたと見るのは誤りである。それは外交上の記載法であり、貴族の慕華・事大思 想の表現として受け取る必要があると考えられる。 次に高麗朝の避諱年号を検討しておこう。避諱年号とは、高麗王の諱と年号名 とが重なる時、年号名を他の文字に変えることである。新羅・高麗では、中国の皇

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帝や自国の国王の諱を避ける風があり、地名・人名だけでなく、日常の文字も他の 文字に変えたり、欠字にすることが多い。中国の年号は中国の皇帝の諱は避けている が、朝鮮の王の諱は避けていない。そのため、高麗では後漢の年号建安(196)を立安 に、北宋の年号建隆(960)を峻豊に、遼の年号寿隆(1095)を寿昌、南宋の年号建炎 (1127)を立炎に、金の年号正隆(1156)を正豊に、元の年号至治(1321)を至理に改 めている。これは高麗太祖の諱が建で、太祖の父世祖の諱が隆で、第五代成宗の諱が 治であるためである。その内、峻豊の年号は古くから朝鮮独自の年号と見られている が、今西龍氏の研究(16)によって、建隆の避諱年号であることが確かめられた。

Ⅲ ベトナムの年号

年号を考える前にベトナムの王朝史を簡略にふりかえっておこう。前漢の武帝が 元鼎六年(111)に南越を滅して設置した九郡の中で、交趾・九真・日南の三郡がベト ナムの地にあったことは明らかであり、その後漢では交趾刺史を設けて監察を行うよ うになり、唐の末まで約十世紀の間中国の支配が続いたのである。だが、唐末五代の 間に中国から離脱し、独立国を建設した。939年土人の呉権が王位につき、ついで966 年には、丁部領が皇帝を称したが、当時はまだ持続的王朝を建設するにいたらず、そ の死後には黎桓が帝位を奪い(980)、またその死後には李公温が黎氏の王朝を倒して 即位した(1009)。李朝はベトナム最初の持続的王朝で、ハノイ(昇竜)を都とし、 諸制度を定め、後国号を大越と号した。またこの王朝の全盛期には宋の侵入軍を撃退 して独立を固め、また南隣チャンパを攻めて、その北部領土を奪った。1225年李朝が 倒れ、陳朝が興ったが、陳朝時代には三度にわたる蒙古軍の侵入を撃退した。1400年 陳朝の衰微に乗じて、黎季釐が帝位奪ったが、明の永楽帝はこれを機会に陳朝復興を 名として、ベトナムを犯し、黎季釐らを捕え一時にこれを中国に併合した。しかしや がて反乱が起り黎利は明軍を撃退して、ベトナムの独立を回復させ、新王朝を建てた (1428)。黎朝の前半時代は、ベトナムの国勢が大いにふるい、チャンパを伐ってこ れを滅ぼしたがその後は衰え、1527年には莫登庸が帝位を奪い、以後1592年までハノ イは莫氏の治下にあった。これよりさき黎朝はまもなく復興したが、政治は権臣鄭・ 阮両氏に委ねられ、かつこの両氏は17〜18世紀時代ベトナムを南北に分って互いに抗 争した。しかしこの間にベトナムの領域は、南に伸びてコーチシナ地方に及んだ。そ (16) 今西龍「寿隆の年号に就て故平子尚氏の所説を紹介す」『考古学雑誌』第1卷第10号 明治44年6月

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の後1771年には、タイソン党の乱が起り、鄭・阮両氏はもとより最後に黎朝も滅んだ が(1789)、1802年には阮福映がベトナムを統一して、阮朝を興し、ユエを都とし、 国号を越南と改めた。しかしこの世紀の後半にはフランスの侵略を受け、1883年には その保護国にされた。かくてベトナムはフランス領インドシナの一部となったが、第 一次大戦後にはベトナム人の反仏独立運動が盛んになり、第二次大戦後にいたって阮 朝最後の皇帝バオダイも退位し、ホー・チ・ミンを主体とするベトナム民主共和国が ハノイを首府として成立し、フランスからの独立が実現した(1945)。ついで1950年 ベトナム国(後のベトナム共和国)がサイゴンを首府として建てられたが、この両者 は国土を二分して争い、1976年7月にいたりようやく統一を見た。 ベトナムでも古くは干支紀年あるいは王位紀年が使われたと考えられるが、漢 代からの中国支配下では中国の年号を使用した。ベトナムにおける独自の年号は記 録でわかる限りでは、李賁が中国からの自立をはかり、自ら南越帝と称して春国をつ くり、天徳(544)という年号を立てたのが最初である(ベトナムの年号は別表二参 照)。ついで10世紀、呉権が王を称して中国からの独立を表明したが、この時は年号 を立てず、王位紀年を用いた(939)。しかし、ベトナムの独立を確立した丁部領は 大勝明皇帝を称し、966年に大瞿越国をつくり、太平(970)と言う年号を立てた。ま た、前黎朝を創建した黎桓も大行皇帝を称し、元福(980)という年号を立てている。 その後の李朝・陳朝でも、君主は皇帝を称し、独自の年号を使用した。この間、ベト ナムは中国の王朝から交趾郡王あるいは安南国王に封ぜられ、冊封関係を結んでいた が、ベトナム国内では皇帝を称し、独自の年号を用いていたのである。 1414年、明の進攻を受けて陳氏が滅亡すると、ベトナムはしばらくの間、明の完 全な支配下に置かれ、ベトナムの王朝も独自の年号を失う。しかしやがて黎利を中心 とする反明活動が展開され、ついに明軍をベトナムから完全に撤退させてベトナムの 独立を回復した。黎利はこの時皇帝を称し、順天(1428)という年号を立てた。ここ に黎朝が始まるが、黎朝でも明・清によって安南国王に封ぜられながら、ベトナムで は皇帝を称し、独自の年号を用いた。こうした関係は阮朝でも同様である。特に阮朝 では、清朝を夷狄視し、清朝への文書では清を上国、天朝とし、ベトナムを下国と称 しながら、国内では清を北朝、ベトナムを南朝と称し、時にはベトナムを中国、ベト ナム人を華民とさえ呼んでいた。 ベトナムはこのように中国との交渉では、国内では皇帝と称し、中国への朝貢

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方式をとりながらも、他方、国内ではあくまで対等の形式を崩さなかったのである。 1884年以降、ベトナムはフランスの保護国となり、形式上は阮朝も存続し、独自の年 号も使用したが、それはもはや名目だけのものであった。1945年三月、阮朝のバオダ イ帝は日本軍に擁立されて独立を宣言したが、それも日本の傀儡政権にすぎず、1945 年八月、ホー・チ・ミンの指導する八月革命で阮朝は滅亡し、これによってベトナム の年号も最終的に廃止された。以後ベトナムでは西暦を使用し、現在に至っている。

Ⅳ むすび

漢代に始まった年号の制度はその後、中国本土の正統国家に受け継がれたのみな らず、周辺の諸国(日本・朝鮮・ベトナムなど)にも影響した。しかし、東アジア諸 国の中で今も年号を使用しているのは日本だけであり、朝鮮・ベトナムなどはいずれ も年号を廃止し、西暦を使っている。年号も紀年法の一つであり、年号は年につけた 称号であるので、元号ともいわれている。年号は東アジア・北アジアの諸国で、皇帝 あるいは国王の権威・支配を示すために古代から用いられてきた。しかし、その時で も、民間では、干支で年を表示する干支紀年や王の即位を基準とする王位紀年を使う ことの方が多かったことも忘れてはならない。 世界が縮まり、世界の政治や経済が次第に密接にかかわりを持ち、一国一民族 の文化や歴史が世界全体のそれに優先できない事情にある。そのような立場から言え ば、各国別の年号や年号法は解消すべき方向にあるのかもしれない。また、今日国際 的に用いられているものに西暦紀元がもっとも有力である。それゆえ、将来への見通 しとして、西暦紀元に統一しようとする考えはきわめて合理的であるかもしれない。 しかし、この西暦紀元とは所詮キリスト教紀元にすぎず、はたして合理的な世界紀元 であると言えるであろうか。また、いかに標準語が国家権力によっておしつけられて も、ひそかに方言が生き延び、その地方人の心情を伝えてくれるように、いずれは世 界共通の紀元法ができるであろうが、そのように、一国一地方の年号や紀年法には、 他民族から容喙を許さない。住民の心情のあることも忘れてはならない。 本稿は主に朝鮮とベトナムの年号制度をめぐって検討した。これから、朝鮮とベ トナムの年号諸相を引き続き探求すると同時に、中国と日本の年号の実態を比較し、 解明するのは今後の課題である。

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別表一 高麗の中国年号の順奉一覧表(『高麗史』より作成)

中国年号 高麗年号 日本年号 西暦 干支 年号関係記事 後梁末帝貞明4 契丹太祖神冊3 太祖天授元 延喜18 918 戊寅 太祖元年戊寅、夏六月丙辰、即位 于布政殿、国号高麗、改元天授( 世家一) 後唐明宗長興4 契丹太宗天顕8 太祖天授16 承平3 933 癸巳 太祖十六年癸巳、春三月辛巳、唐 遣王瓊・楊昭業來冊王。又賜暦日 、自是除天授年号、行後唐年号( 世家二) 後晋天福3 契丹会同元 太祖天授21 天慶元 938 戊戌 太祖二十一年戊戌、秋七月、是月 始行後晋年号(世家二) 後漢隠帝乾祐元 遼天禄2 定宗3 天暦2 948 戊申 定宗三年戊申、秋九月、始行後漢 年号(世家二) 後漢隠帝乾祐4 後周太祖広順元 遼穆祖応暦元 光宗2 天暦5 951 辛亥 光宗元年庚戌、春正月、建元光徳 (世家二) 光宗二年辛亥、冬十二月、始行後 周年号(世家二) 宋乾徳元 遼応暦13 光宗14 応和3 963 癸亥 光宗十四年癸亥、冬冬十二月、行 宋年号(世家二) 宋淳化5 契丹統和12 成宗13 正暦5 994 甲午 成宗十三年甲午、春二月、始行契 丹統和年号(世家三)。六月、自 是与宋絶。 宋大中祥符9 契丹開泰5 顕宗7 長和5 1016 丙辰 顕宗七年丙辰、是歳復行宋大中祥 符年号(世家四) 宋乾興元 契丹大平2 顕宗13 治安2 1022 壬戌 顕宗十三年壬戌、夏四月、契丹遣 御史大夫上将軍蕭懐福等來、冊王 、自是復行契丹年号(世家四) 宋天聖9 契丹興宗景福元 顕宗22 長元4 1031 辛未 顕宗二十二年辛未、五月顕宗薨、 太子欽即位、十一月辛丑、金行恭 回報、契丹不従所奏、遂停賀正使 、仍用聖宗大平年号(世家五) 宋宝元元 契丹重煕6 靖宗4 長暦2 1038 戊寅 靖宗四年戊寅、夏四月、是月遣尚 書左丞金元沖如契丹、起居謝恩、 仍請年号。八月乙丑朔、始行契丹 重煕年号(世家六) 宋煕寧8 遼大康元 文宗29 承保2 1075 乙卯 文 宗 二 十 九 年 乙 卯 、 秋 七 月 乙 丑 、遼東京兵馬都部署牒告、改咸雍 十一年為大康元年(世家九) 宋元豊8 遼大安元 宣宗2 応徳2 1085 乙丑 宣宗二年乙丑、春二月癸酉、遼報 改元大安(世家十)

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宋紹聖2 遼寿昌元 献宗元 嘉保2 1095 乙亥 献宗元年乙亥、秋七月戊戌、行遼 寿昌年号(世家十) 宋政和6 遼天慶6 金収国2 睿宗11 永久4 1116 丙申 睿宗十一年丙申、夏四月辛未、中 書門下奏、遼為女真所侵、有危亡 之勢、所稟正朔不可行、自今公私 文字、宜除天慶年号、但用甲子、 従之(世家十一) 宋欽宗靖康元 金天会4 仁宗4 大治元 1126 丙午 仁宗四年丙午、夏四月丁未、遣鄭 応文・李侯、如金称臣、上表(世 家十五) 宗紹興11 金皇統元年 仁宗19 永治元 1141 辛酉 仁 宗 十 九 年 辛 酉 、 春 正 月 己 巳 、 金報皇帝受尊号、改元皇統(世家 十七) 宋紹興23 金貞元元 毅宗7 仁平3 1153 癸酉 毅宗七年癸酉、六月癸酉、金告改 天徳五年為貞元元年(世家十八) 宋紹興26 金正隆元 毅宗10 保元元 1156 丙子 毅宗十年丙子、閏月、是月金改貞 元五年為正隆元年、避世祖諱、以 豊字代隆字行之(世家十八) 宋光宗紹煕元 金章宗明昌元 明宗20 建久元 1190 庚戌 明宗二十年庚戌、二月乙丑、金報 改元明昌(世家二十) 宋嘉定5 金崇慶元 蒙古太祖7 康宗元 建暦2 1212 壬申 康宗元年壬申、冬十月癸酉朔、行 金崇慶元年(世家二十一) 宋嘉定7金貞祐 元 蒙古太祖9 高宗元 建保2 1214 甲戌 高宗元年甲戌、九月丙午、是月金 昇王旬即皇帝位、改元貞祐(世家 二十一) 宋嘉定16 金哀宗正大元 蒙古太祖19 高宗11 貞応2 1223 甲申 高宗十一年甲申、以金国衰微不用 年号(年表二) 宋景定元 蒙古世祖中統元 元宗元 文応元 1260 庚申 元宗元年庚申、八月壬子、永安公 僖賚詔三道還自蒙古、翌日王邀東 里大康和尚等迎詔、一曰(中略) 於今年五月十九日立号為中統元年 、使還宜播告之、俾知朕意(世家 二十五) 宋景定5 蒙古至元元 元宗5 文永元 1264 甲子 元宗五年甲子、二月丙寅、韓就還 自蒙古、帝賜西錦一段、暦日一本 (中略)今賜卿中統五年暦日一道 。冬十月戊申、上将軍申思全、賚 詔書還自蒙古、帝改元為至元、大 赦天下(世家二十六)

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元大徳元 忠烈王23 永仁5 1297 丁酉 忠烈王二十三年丁酉、秋八月丙戌 、行省遣左使都事張瑜如元、賀聖 節及改元(世家三十一) 元武宗至大元 忠烈王34 延慶元 1308 戊申 忠烈王三十四年戊申、二月辛丑、 元改元至大、遣許宣來頒詔(世家 三十二) 元英宗至治元 忠粛王8 元亨元 1321 辛酉 忠 粛 王 八 年 辛 酉 、 春 正 月 甲 辰 、 元 以 改 元 至 治 、 遣 使 頒 詔 ( 世 家 三十五) 元至治3 忠粛王10 元亨3 1323 癸亥 忠粛王十年癸亥、十二月辛酉、以 改元泰定、遣直省舎人交化的來頒 詔(世家三十五) 元泰定5年、二 月改致和。 文宗天暦元 忠粛王15 嘉暦3 1328 戊辰 忠粛王十五年戊辰、四月乙未、元 以改元致和、遣闍里帖木児來頒詔 。九月壬申、武宗皇帝次子懐王、 即 帝 位 于 上 都 、 是 為 文 宗 、 遣 使 來告、改元天暦、大赦天下(世家 三十五) 元至順元 忠粛王17 元徳2 1330 庚午 忠恵王即位年五月乙丑、帝御大明 殿受尊号、改元至順(世家三十六 ) 元至元元 忠粛王後4 建武2 1335 乙亥 忠粛王後四年乙亥、十二月己巳、 元以改元至元、遣使來頒詔(世家 三十六) 大明洪武2 恭愍18 正平24 1369 己酉 恭愍王十八年己酉、四月壬辰、大 明皇帝遣符宝郎契斯(中略)其書 曰、有天下之号曰大明、建元洪武 。 五 月 辛 丑 、 停 至 元 年 号 ( 世 家 四十一) 大明洪武3 恭愍王19 建徳元 1370 庚戌 恭愍王十九年庚戌、五月、帝遣使 賚印來封王。七月始行洪武年号( 年表二) 大明洪武10 辛偶3 天授3 1377 丁巳 辛偶三年丁巳、二月北元遣使來、 行宣光年号(年表二) 大明洪武11 辛偶4 天授4 1378 戊午 辛偶四年戊午、九月、復行洪武年 号(年表二) 大明洪武21 辛偶14 元中5 1388 戊辰 辛偶十四年戊辰、四月、偶以曹敏 修為左軍都統、我太祖為右軍都統 、往攻遼東、停洪武年号、六月、 廃偶放于江華、子昌立、復行洪武 年号(年表二)

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別表二 ベトナム年号一覧表(『角川世界史辞典』より作成)

帝王 年号 西暦 中国年号 日本年号 交趾南越帝 天徳 544 梁大同10 大瞿越丁朝万勝王 太平 970 宋開宝3 天禄元 前黎朝黎桓 天福 980 宋太平興国5 天元3 前黎朝黎桓 興統 989 宋端拱2 永祚元 前黎朝黎桓 応天 994 宋淳化5 正暦5 前黎朝黎龍廷 景瑞 1008 宋景徳元 寛弘元 李朝太祖 順天 1010 宋大中祥符3 寛弘7 李朝太宗 天成 1028 宋天聖6 長元元 李朝太宗 通瑞 1034 宋景祐元 長元7 李朝太宗 乾符有道 1039 宋宝元2 長暦3 李朝太宗 明道 1042 宋慶暦2 長久3 李朝太宗 天感聖武 1044 宋慶暦4 寛徳元 李朝太宗 崇興大宝 1049 宋皇祐元 永承4 大越李朝聖宗 龍瑞太平 1054 宋至和元 天喜2 李朝聖宗 彰聖嘉慶 1059 宋嘉祐4 康平2 李朝聖宗 龍彰天嗣 1066 宋治平3 治暦2 李朝聖宗 天賜宝象 1068 宋煕寧元 治暦4 李朝聖宗 神武 1069 宋煕寧2 延久元 李朝仁宗 太寧 1072 宋煕寧5 延久4 李朝仁宗 英武昭勝 1076 宋煕寧9 承保3 李朝仁宗 広祐 1085 宋元豊8 応徳2 李朝仁宗 会豊 1092 宋元祐7 寛治6 李朝仁宗 龍符 1101 宋建中靖国元 康和3 李朝仁宗 会祥大慶 1110 宋大観4 天永元 李朝仁宗 天符睿武 1120 宋宣和2 保安元 李朝仁宗 天符慶寿 1127 宋靖康2 大治2 李朝神宗 天順 1128 宋建炎2 大治3 李朝神宗 天彰宝嗣 1133 宋紹興3 長承2 李朝英宗 紹明 1138 宋紹興8 保延4 李朝英宗 大定 1140 宋紹興10 保延6 李朝英宗 政隆宝応 1163 宋隆興元 長寛元 李朝英宗 天感至符 1174 宋淳煕元 承安4 李朝高宗 貞符 1176 宋淳煕3 安元2 李朝高宗 天資嘉瑞 1186 宋淳煕13 文治2 李朝高宗 天嘉宝祐 1202 宋嘉泰2 建仁2 李朝高宗 治平龍応 1205 宋開禧元 元久2

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李朝恵宗 建嘉 1211 宋嘉定4 建暦元 李朝昭皇 天彰有道 1224 宋嘉定17 元仁元 大越陳朝太宗 建中 1225 宋宝慶元 嘉禄元 陳朝太宗 天応政平 1232 宋紹定5 貞永元 陳朝太宗 元豊 1254 宋宝祐2 建長6 陳朝聖宗 紹隆 1258 宋宝祐6 正嘉2 陳朝聖宗 宝符 1273 宋咸淳9 文永10 陳朝仁宗 紹宝 1279 宋祥興2 弘安2 陳朝仁宗 重興 1285 元至元22 弘安8 陳朝英宗 興隆 1293 元至元30 永仁元 陳朝明宗 大慶 1314 元延祐元 正和3 陳朝明宗 開泰 1324 元泰定元 正中元 陳朝憲宗 開祐 1329 元天暦2 元徳元 陳朝裕宗 紹豊 1341 元至正元 暦応4興国元 陳朝裕宗 大治 1358 元至正18 延文3正平13 陳朝裕宗 大定 1369 明洪武2 応安2正平24 陳朝藝宗 紹慶 1370 明洪武3 応安3建徳元 陳朝睿宗 隆慶 1373 明洪武6 応安6文中2 陳朝廃帝 昌符 1377 明洪武10 永和3天授3 陳朝順宗 光泰 1388 明洪武21 嘉慶2元中5 陳朝少帝 建新 1398 明洪武31 応永5 大越莫朝少帝 聖元 1400 明建文2 応永7 莫朝少帝 紹成 1401 明建文3 応永8 莫朝少帝 開大 1403 明永楽元 応永10 大越陳朝簡定帝 興慶 1408 明永楽6 応永15 陳朝重光帝 重光 1409 明永楽7 応永16 大越黎朝太祖 順天 1428 明宣徳3 正長元 黎朝太宗 紹平 1434 明宣徳9 永享6 黎朝太宗 大宝 1440 明正統5 永享12 黎朝仁宗 大和 1443 明正統8 文安元 黎朝仁宗 延寧 1454 明景泰5 享徳3 黎朝仁宗 天興 1459 明天順3 長禄3 黎朝聖宗 光順 1460 明天順4 寛正元 黎朝聖宗 洪徳 1470 明成化6 文明2 黎朝憲宗 景統 1498 明弘治11 明応7 黎朝粛宗 泰貞 1504 明弘治17 永正元 黎朝咸穆帝 端慶 1505 明弘治18 永正2 黎朝襄翼帝 洪順 1509 明正徳4 永正6

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黎朝昭宗 光紹 1516 明正徳11 永正13 黎朝恭皇 統元 1522 明嘉靖元 大永2 黎朝莊宗 元和 1533 明嘉靖12 天文2 黎朝中宗 順平 1549 明嘉靖28 天文18 黎朝英宗 天祐 1557 明嘉靖36 永禄元 黎朝英宗 正治 1558 明嘉靖37 永禄2 黎朝英宗 洪福 1572 明隆慶6 元亀3 黎朝世宗 嘉泰 1573 明万暦元 天正元 黎朝世宗 光興 1578 明万暦6 天正6 黎朝敬宗 愼徳 1600 明万暦28 慶長5 黎朝敬宗 弘定 1600 明万暦28 慶長5 黎朝神宗 永祚 1619 明万暦47 元和5 黎朝神宗 徳隆 1629 明崇禎2 寛永6 黎朝神宗 陽和 1635 明崇禎8 寛永12 黎朝真宗 福泰 1643 明崇禎16 寛永20 黎朝神宗 慶徳 1649 清順治6 慶安2 黎朝神宗 盛徳 1653 清順治10 承応2 黎朝神宗 永寿 1658 清順治15 万治元 黎朝神宗 万慶 1662 清康熙元 寛文2 黎朝玄宗 景治 1663 清康熙2 寛文3 黎朝嘉宗 陽徳 1672 清康熙11 寛文12 黎朝嘉宗 徳元 1674 清康熙13 延宝2 黎朝煕宗 永治 1675 清康熙14 延宝3 黎朝煕宗 正和 1680 清康熙19 延宝8 黎朝裕宗 永隆 1705 清康熙44 宝永2 黎朝裕宗 保泰 1720 清康熙59 享保5 黎朝永慶帝 永慶 1729 清雍正7 享保14 黎朝純宗 龍徳 1732 清雍正10 享保17 黎朝懿宗 永佑 1735 清雍正13 享保20 黎朝顕宗 景興 1740 清乾隆5 元文5 黎朝愍帝 昭統 1787 清乾隆52 天明7 大越西山朝光中帝 光中 1788 清乾隆53 天明8 西山朝阮文賛 景盛 1793 清乾隆58 寛政5 西山朝阮文賛 宝興 1801 清嘉慶6 享和元 越南阮朝嘉隆帝 嘉隆 1802 清嘉慶7 享和2 阮朝明命帝 明命 1820 清嘉慶25 文政3 大南阮朝紹治帝 紹治 1841 清道光21 天保12 阮朝嗣徳帝 嗣徳 1848 清道光28 嘉永元

(22)

阮朝育徳帝 育徳 1883 清光緒9 明治16 阮朝協和帝 協和 1883 清光緒9 明治16 阮朝建福帝 建福 1884 清光緒10 明治17 阮朝咸宜帝 咸宜 1885 清光緒11 明治18 阮朝同慶帝 同慶 1886 清光緒12 明治19 阮朝成泰帝 成泰 1889 清光緒15 明治22 阮朝維新帝 維新 1907 清光緒33 明治40 阮朝啓定帝 啓定 1916 民国5 大正5 阮朝保大帝 保大 1926 民国15 昭和元 註1:大瞿越は1054年国号を大越と改称した。 註2:1838年より国号を大南と制定した。

Ⅴ  考文

(1)松橋達良『元号はやわかり―東亜歴代建元考―』砂書房 1994年7月10日。 (2)山本達郎『ベトナム中国関係史―曲氏の抬頭から清仏戦争まで―』山川出版社  1975年12月28日。 (3)『角川世界史辞典』角川書店 2001年10月10日。 (4)新編『東洋史辞典』東京創元社 昭和58年12月10日 (5)王福順「中国の年号の一考察―その思想理論をめぐって―」『名城法学論集』大学 院研究年報第31集(2003年度)2004年3月12日 25-46頁 (6)王福順「日本の年号の一考察―改元を中心に―」『修平人文社会学報』第3期  2004年3月 93-129頁

参照

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