四五
雪
慧明の活動とその功績
―『五燈会元』編纂刊行の陰に隠
れて
―
佐
藤
秀
孝
はじめに
南宋末期の江南禅林にあっ て 臨済宗松源派の滅翁文礼 (天目樵者、一一六七─一二五〇) の法 を 嗣 いだ門人 で あ りなが ら、世に正当な評価 を 受け て い ない禅者 と し て 雪 蓬 慧明 (雪篷 とも、友雲 、一二二六─ ? ) とい う人 が存 し て い る 。 こ の 人は実は禅宗燈史の一つ と し て 名高い 『五燈会元』二〇巻 を 自 ら陣頭に立っ て 編集刊行した と さ れ る禅者 で あ り 、 『禅 籍志』巻上「宗門全史類」の「五燈会元」の項によ れば、法諱が慧明または恵明 と さ れ 、ほかに字 を 友 雲、道号 を 雪 蓬 と 称 し て いる 。 『五燈会元』 と い えば、一般に大慧派の大川普済 (一一七九─一二五三) によっ て ま と め られ た燈史 と し て 知 られ るが 、後に詳しく触 れ る ごと く 、実際に編集 を 一手に担ったのは慧明 で あった と い っ て よい 。 『禅籍志』によ れば、慧明は滅翁文礼に参じ て 法 を 嗣い で おり、松源崇嶽 (聵翁、一一三二─一二〇二) の法孫に名 を 連ねた と さ れ る。 なお、 慧明につい て は 『正誤仏祖正伝宗派図』 四 に 「天童滅翁文礼 〈天目樵者〉 」 の法嗣 と し て 「雪篷慧明 〈編 二 五灯会元 一 〉 」 と 記 さ れ て おり、 やはり文礼の法嗣に挙げられて いる。おそらく慧明は同じ杭州臨安県の天目山付近の出身 で あった文 礼 を 慕っ て その門に投じ、坐禅辦道の末に法 を 嗣 い で いるもの で あ ろう。 一方、 江 戸中期に大応派 (妙心寺派) の無著道忠( 照氷堂、 一六五三─一七四四) は『虚堂和尚語録犂耕』 (以下、 単に『虚 堂録犂耕』 と 略称) 巻三○「行状」の「嗣法十数人」の項におい て 、 『正誤宗派図』四の記載 を 挙げ、同じ松源派の虚堂 智愚 (息耕叟 、一一八五─一二六九) の嗣法門人二○人 を 列記した後 、 『 虚堂和尚語録』の古い註釈書 (旧解) に基づく と し て 、 さらに四禅者 を 加 え て 「天寧雪篷慧明」 を 智愚の法嗣の一員に加え て いる。ただ、慧明は智愚のもと に久しく 駒澤大學佛敎學部 硏 究紀 第六十八號 平 成二十二年三月雪 慧明の活動 と そ の功績(佐藤) 四六 参 学 し て いるが、実際にはその法 を 嗣 い で おらず、 同じ松源派の文礼の法嗣に名 を 連 ねたのが事実 で あ るらしい。しか しながら、 こ の人は晩年の智愚 と の 関 わ りにおい て 、 きわ め て 興味 深 い 事跡 を 多く残し て い る こ と か ら、諸史料 を 通 し て その足跡 を 整理 す る ことはそ れなりに意義が存 す る で あ ろう。 いま、慧明に関 す る略系譜 と し て 大川普済・滅翁文礼・虚堂智愚の三禅者の系統 を 示 すならば、 と い う こ と に なり、普済は同じ楊岐派ながら大慧派の流 れで あっ て 、慧明 とは系統的に若干の開 きが存し て おり、智愚 と 慧 明は虎丘派下 で 同 じ松源派に属し、法系上の従兄弟の関係に当たっ て いる。 また後に触 れ る ごと く 、慧明は日本に渡来した破庵派 (仏光派祖) の無 学 祖 元 (子元 、仏光国師 、一二二六─一二八六) と 奇しくも同じ宝慶二年 (一二二六) の生ま れで あった ことが判明 す る 。 一方 、智愚の法 を 嗣 いだ南浦紹明 (円通大応 国師、一二三五─一三〇八) が日本に帰る際、南宋の諸禅者が寄せた偈頌集『一帆風』の冒頭にも慧明は序文 を 寄 せ て い る。慧明は『五燈会元』の編集 を 契 機 と し て か、鎌倉期の日本禅林 とも因縁浅からぬものが存し て いる。 こ の ように慧明は目立たぬながら南宋最末期の江南禅林に興味 深 い活動 を 続 け て いたの で あり、その事跡 を 丹 念に調 べ上げる こと によっ て 、禅宗史上に隠さ れ た新たな事実 を 多少なり とも解明し て み る こ と にしたい。
﹃禅籍志﹄に載る雪蓬慧明
本稿 で 問 題 と す る 雪 蓬 慧明につい て は 、残念ながら中国の禅宗燈史には章が存し て いないばかりか、その名 すら 載せ られて い ない。そんな慧明の世に忘 れ 去 られ たかのごとき 功 績は、 奇しくも正徳六年 (一七一六) に泉南 すな わち 和泉 (大 阪府) 南部の仏在庵に居住した大応派 (大徳寺派か) の聖僕義諦 (妙諦 とも、南外史) によっ て 編集刊行さ れ た 『禅籍志』 巻上「宗門全史類」の「五燈会元」の項に、 宋季、霊隠大川普済禅師、明州奉化人、得 二 浙翁如琰之印 一、唱 二 大慧四世之法 一。曾以 二 五燈 一、会為 二 一書 一、号 二 五燈会元 一。及 三 胡元滅 二 南宋 一、其板燬矣。会稽荘節韓氏、同 二 大尉康里 一、重為刻成、請 二 中竺用章俊公 一 做 レ 序〈俊嗣 二 笑隠訢 一、訢大慧雲孫〉 。 運 庵普巌 虚堂智愚 圜悟克勤 虎丘紹隆 応庵曇華 密庵咸傑 松源崇嶽 滅翁文礼 雪 蓬 慧明 大慧宗杲 拙庵徳光 浙翁如琰 大川普済雪 慧明の活動 と そ の功績(佐藤) 四七 日本叢林 、自 レ 古伝 、済大川住 二 霊隠 一 時、 有 二 侍者慧明者 一、博渉 二 経史 一、以 レ 文自負 。一日語 二 諸道友 一 曰、 視 二 五燈之作 一、筆 削不 レ 精 、吾将 下 補 二 綴罅漏 一、刪 二 除冗 長 一、以著 中 一書 上。公等其剹 レ 力乎 。諸友皆諾 。 時虚堂愚和尚未 二 出世 一、偶在 二 霊隠 一、謂 二 明侍者 一 曰、 夫燈録之書、 皆従上宿徳之撰也、 公以 二 妙齢 一 欲 二 自任 一、 寧 非 二 僭越 一 哉。請納 二 長者之言 一、 且緩緩去。明不 レ 従 レ 焉、 遂造 二 斯五燈会元三十巻 一。余以為、 明雖 レ 是 二 虚堂諌 一、 伎痒禁不 レ 得、 遂満 二 其志 一。而不 二 自宰 一、請 二 大川 一 為 二 撰者 一 也。不 レ 然、 何有 二 大川之名 一 乎。明字友雲、号 二 雪 蓬 一、後嗣 二 礼滅翁 一、為 二 松源法孫 一。 と 載 る こ とで 、辛うじ て そ の事跡が日本禅林に伝 わ る伝承 と し て 世に残さ れて いる )1 ( 。本論考は こ の僅かな記事 を 拠り所 と し て 展 開 す る こ と か ら、後段の慧明に関 わ る箇所 を 書 き 下 し て みる こと にしたい。 日本の叢林に 、古より伝う 、済大川 、霊隠に住 す る 時 、侍者慧明 と い う者有り 、博く経史に渉り 、文 を 以 て 自 負 す 。一日 、 諸の道友に語り て 曰く、 「五燈の作 を 視 るに、 筆削精しからず、 吾 れ 将に罅漏 を 補綴し、 冗 長 を 刪除し、 以 て 一書 を 著さん とす 。 公等、 其 れ 力 を 剹 あわ せん や 」 と 。 諸友皆な諾 す 。時に虚堂愚和尚、 未 だ出世せず、 偶たま霊隠に在り、 明侍者に謂い て 曰く、 「夫 れ 燈録の書は、皆な従上宿徳の撰なり 。公 、妙齢 を 以 て 自 ら任ぜん と 欲 す、寧んぞ僭越に非ざらん や。請う、長者の言 を 納 れ 、 且らく緩緩にし去 れ 」 と 。 明 、 焉 れ に従 わ ず 、遂に斯の五燈会元三十巻 を 造 る 。 余 、 以為らく 、 「 明は虚堂の諌め を 是 とすと 雖 も、 伎痒、 禁じ得ず、 遂に其の志し を 満 た す 。而し て 自 ら宰 とならず、 大 川 を 請し て 撰 者 と 為すなり。然らざれば、 何ぞ大川の名有らん や 」 と 。明、字は友雲、雪 蓬 と 号し、後に礼滅翁に嗣ぎ、松源の法孫 と 為る。 江戸期に著さ れ た こ の 記事が果たし てどこ ま で 史 実 を 伝え て いるのかは問題もあろうが、諸史料 を 領 覽 す る と 、南宋 末期に雪 蓬 慧明 と い う禅者が存した ことは疑いなく、しかも宋版『五燈会元』の序文には実際に慧明 と い う禅者が活躍 した様子が記さ れ て いる。 こ う した点 を 踏 まえる と 、慧明 と 『五燈会元』 を めぐる伝承はそ れなりに根拠 を 有 す る 記事 で あ ろうと 見 られ る。以下、 こ の『禅籍志』の「五燈会元」の項に語られ る記載 を 逐一に考察し、内容の検討 を 試みる こと にしたい。また『五燈会元』 を 編集し て 後、慧明が如何なる活動 をなし て 世 を 終えたのか、限られ た史料 を 通 し て 雪 蓬 慧明 と い う禅者の事跡 を 窺 っ て みる こと にしたい。
出身地と生年
はじめに問題 とすべきは慧明の法諱 と 道号・字および出身地につい てで あろう。 『禅籍志』によ れば「明、字は友雲、雪 慧明の活動 と そ の功績(佐藤) 四八 雪 蓬 と 号 す 」 と 記 さ れ て おり、慧明は字 を 友 雲、道号 を 雪 蓬 と 称した と 伝 え て いる。東京都世田谷区上野毛の五島美術 館に付置さ れ る大東急記念文庫には北朝の永徳二年 (南朝の弘和二年、一三八二) に刊行さ れ た 『仏祖正伝宗派図』が所 蔵さ れて いるが、そ こ には「径山虚堂智愚」の法嗣 と し て 「天寧雪篷慧明」の名が存し て いる。また愛知県一宮市の長 島山妙興寺に所蔵さ れ る南北朝後期の 『仏祖宗派之図』におい て も 「虚堂愚禅師」の法嗣の一人 と し て「雪 蓬 明禅師」 の名が載せられて いる 。 こ れ に対し 、江戸初期の寛文八年 (一六六八) に刊行さ れ た 『正誤宗派図』四 で は 「天童滅翁 文礼 〈天目樵者〉 」の法嗣の一人 と し て 「雪篷慧明 〈編 二 五灯会元 一 〉」 と 記 さ れ て い る 。 これらによ れば 、慧明の嗣法 問題は別に論ずる と し て 、 こ の 人は道号 を 雪 蓬 または雪篷 と 称し 、法諱が慧明 で あった ことが知られ る 。 こ の人の道 号が草の蓬なのか、舟の篷 (苫) なのかは判断に苦し むが、同じ発想の禅者 と し て 曹 洞宗宏智派の短篷□遠 (短蓬 と も、 遠鉄橛 、 ?―一二四七 )が存し て い る 。また詳しくは後に触 れ る が、 『虚堂和尚語録』によ れば、法諱に関し て は 慧明の ほかに恵明 と 記 し て いる場合も存し て いる。 一方 、 『禅籍志』によ れば 、慧明は道号の雪 蓬 のほかに字 を 友 雲 と 称し て い た と さ れ るが 、 こ の点につい て も 後に詳 しく触 れ る ごと く松源派の石林行鞏 (一二二〇─一二八〇) がその語録 で あ る 『石林和尚語録』巻上 「臨安府浄慈報恩 光孝禅寺語録」におい て 「 謝 二 北院 ・友雲二西堂 一 上堂」 と いう上堂 をなし て いる 。また松源派の沢山弌咸は元代中期 に 『禅林備用清規』 を 編集し て い るが、その自序におい て「友雲明西堂出 二 所 レ 蔵抄本 一 」と 述べて い る。こ こ に い う 友 雲西堂ないし友雲明西堂 と はまさに慧明の こと にほかならず、友雲の字 で も 通称さ れて いた ことが確かめられ る。 つぎに慧明の出身地につい て 若干の考察 をなし て お き たい。破庵派 (無準下) の無 学 祖元の 『仏光国師語録』 巻九 「跋」 に「送 二 雲渓 一 歌〈并序諸老題跋附〉 」が収められて い るが、その中 で 慧 明が題跋 を 寄 せ て 、 客館諸友玉立 、燭花映 レ 紅 。 (缺)観 二 子元之言 一、麗而有 レ 則 、豈特砥 二 礪交道 一。至 レ 如 二 屈宋班馬 一、払雲之塁 、若 二 摩撫而入 一、 人見而畏 レ 之。噫、子元与 レ 余同 レ 年、何其可 レ 畏之多耶。 苕渓慧明。 と 記 し て おり 、自ら署名 と し て 「苕渓慧明」 と 表 記し て い る こ と に注目したい 。 「 送 二 雲渓 一 歌」 とは祖元が法友 で ある 嗣承未詳の雲渓 と い う禅者 を 送るために詠じた詩歌 で あり、 これ に諸禅者が題跋 を 寄せ て 長編の詩軸 となし、その中に 苕渓の慧明も題跋 を 書 き 記し て いる。 ここ に苕渓の慧明 と あるのが、実は本稿 で 問 題 と す る慧明その人の こと にほかな らない 。おそらく実際の 「送 二 雲渓 一 歌」の詩軸には 「 苕渓慧明」の自署の後に落款が押さ れ て い たもの と 見られ 、 そ
雪 慧明の活動 と そ の功績(佐藤) 四九 こに は 「 雪 蓬 」 や 「慧明」の印が存した ことで あ ろう。慧明は自らの出身地の河川の名 を 取 っ て 「苕渓」 と 号 し て いる わけ で あ り 、苕渓が慧明の出身地に由来し て い る こ とが判明 す る 。苕渓 とは杭州 (浙江省) 餘杭県内に存 す る苕渓の こ とを 指し て お )2 ( り、慧明は杭州出身の浙僧 で あ るが、その俗姓につい て は 定か で な い。また慧明は別号 を 友雲 と 称した こ とが知られて いるが、 これは行雲流水 を 友 と し て 行 脚 す る修行僧 (雲水) のありように因 む もの で あ ろう。 つぎに問題 とすべきは慧明の生年 で あ り 、 こ の点に関し て も 幸いに知る術が存し て いる 。先に示した 「送 二 雲渓 一 歌」 の題跋の中 で 慧 明は自ら「噫、子元は余 と 年 を 同 じく す 。 何ぞ其 れ 畏るべき の多 きや 」 と 述べ て い る こ と か ら、慧明 と 子元 すな わち 無 学 祖元 とは同年齢 で 常に相手の存在 を 意 識し合う間柄 で あったらしい こ とが窺 わ れ る 。 『仏光国師語録』 巻九に付さ れ る松源派 (虚堂下) の霊石如芝 (仏鑑禅師、一二四六─?) が状した「無 学 禅 師行状」によ れば、 師諱祖元、字子元、号 二 無学 一。生 二 於宋之宝慶丙戌 一。家 二 慶元鄞邑 一、俗姓許。 と あ り 、祖元が宝慶二年 (一二二六) に出生した ことが明記さ れて いるから、 これ に従えば慧明も同じ宝慶二年の生ま れで あった こ と になろ )3 ( う。
滅翁文礼への参学
ところ で 、 『禅籍志』によ れば 「後嗣 二 礼滅翁 一、為 二 松源法孫 一 」 と あるから 、慧明は松源派の滅翁文礼に参じ て 法 を 嗣いだ こ とが知られ る 。 『 正誤宗派図』四におい て も 「 天童滅翁文礼 〈天目樵者〉 」 の法嗣 と し て 「雪篷慧明 〈編 二 五灯 会元 一 〉」 と 記 さ れ て いるから、江戸期の禅籍資料 や 宗 派図 で は 慧明は一般に文礼の法 を 嗣 いだ高弟 と 見 られて いる。 幸いにも文礼につい て は 『天童寺志』巻七「塔像攷」の「天目礼禅師舎利塔」の箇所に、門人 と 見 られ る天台徳雲が 状した「天目禅師行状」が伝えられて い )4 ( る。文礼は慧明の本師 と 目さ れ る禅者 で あ る こ と か ら、いま、その全文 を 示 す ならば、およそつぎのようなもの で ある。 天目禅師行状。 師諱文礼 。号 二 滅翁 一。杭之臨安人 。姓阮氏 。家在 二 天目山之麓 一、因号云 。主 二 京城之広寿 、永嘉之能仁 、安吉之福泉 、行都 之浄慈 、四明之天童 一。帰終 二 于梁渚西丘 一 焉。 嬰 二 微恙 一、説 レ 偈脱去 。荼毘不 レ 壊者二 、頂骨歯舎利如 二 燦珠 一、瘞 二 天童応菴塔 之東 一。寿八十四 、臘六十八 。淳祐十年十月十日卒也 。師生 二 于乾道丁亥 一。六 歳 携 レ 籃随 レ 母採 レ 桑 、 俄而窮念 二 携 レ 之者誰 一、始雪 慧明の活動 と そ の功績(佐藤) 五〇 有 二 出家志 一。入 レ 塾絃誦 、度 二 越他童子 一。十六依 二 郷之真相寺智月 一 剃落 。走 二 浄慈 一、参 二 混源密 一。源 挙 二 現成公案放 レ 汝三十棒 話 一、不 レ 契。 謁 二 育王仏照光 一。照問 、恁麼来者 、那箇是汝主人公 。師豁然領 レ 旨 。他日仏照再問 、是風動 、是旛動 、這僧如 何 。 師云 、物見主眼卓豎 。又問 、不 二 是風動 一、不 二 是旛動 一、甚処見 二 祖師 一。 師 云、 掲 二 却脳 葢 一。照然 レ 之 。松源 嶽 、 唱 二 応菴 之道于饒之薦福 一、 室中問 レ 僧、 不 二 是風動 一、不 二 是旛動 一。 擬議即棒出 。師聞 レ 之 、頓忘 二 知解 一。又聞 二 餞 レ 僧偈 一 云 、天童仏法 龍帰 レ 水 、玉几叢林虎靠 レ 山、 賺 二 了幾人 一 深著 レ 脚 、遠烟浪裏白雲間 。師志 二 大愜 一、乃参趨焉 。松源曰 、何舎 レ 光而来 。 師因 三 道所 二 以然 一、俾 三 左右得 レ 尽 二 其旨 一。辞 二 松源 一、巡 二 礼江 淮 一、問 二 祖塔 一。曁 レ 還 レ 浙、 謁 二 塗毒于径山 、遯菴于華蔵 、葦堂于瑞巌 、 無用于天童 一。得 二 松源家法 一、則為 二 其嗣 一 焉。 有 二 学問 一 尤通 レ 易 、乾淳諸儒 、大闡 二 道学 一、朱晦菴起 、二程 ・楊慈湖起 、象山 皆少進 二 浮図氏 一。師与 レ 之遊、 直示以 二 心法 一、不 下 為 二 世語 一 徇悦 上 也。晦菴問毋 レ 不 レ 敬。師叉手示 レ 之。慈湖問、 不 レ 欺 二 之力 一。師 答以 レ 偈曰 、此力分明在 レ 不 レ 欺、 不 レ 欺能有 二 幾人 一 知、 要 レ 明 二 象兎全提句 一、看 二 取陞 レ 階正 レ 笏時 一。其暁 レ 人類如 レ 此。 師 所 レ 閲五刹 、不 レ 過 二 十年 一。而得 二 間之歳月 一、多逍 二 遥于梁渚之西丘 一、羣衲参叩 、 無 レ 異 二 領 レ 衆時 一 也。 其 為 人 高 古 簡 倹、 不 三 苟為 二 笑語 一。又不 二 俯徇 レ 物情傷 一。今衲子習 二 豢餂脆 一、豈寤為嫌 レ 己。 至 レ 呈 二 露見解 一、則敲扑不 二 少假借 一、孰知 レ 為 レ 教哉 。以 レ 故多 牴牾落落、 愈不 レ 与 レ 世、 偶而徒也。始合而終暌 レ 之矣。於戯、 師固未 レ 易 レ 知也。豈假 レ 人為 レ 重也哉。既裒刊 二 禅語 一 為 二 一集 一、 他著述又別裒焉。謹撰次如 レ 右。謹状。 文礼は道号 を 滅翁 と いい、杭州臨安県の阮氏の出身 と さ れ 、 実家が臨安県の天目山に近かった こと から、別に地名に 基づい て 天目あるいは天目樵者 とも称し て い る 。一六歳 で 出家剃髪し て 後 、杭州銭塘県の南屏山浄慈報恩光孝寺寺 で 大慧派の混源曇密 (一一二〇─一一八八) に参じ 、明州鄞県の阿育王山広利禅寺におい て 大 慧派の拙庵徳光 (仏照禅師 、 一一二一―一二〇三) に謁し て 契発し て い る。 やが て 饒 州 (江西省) 鄱陽県東の東湖薦福禅寺におい て 松源崇嶽のもと に 投じ て 大 事 を 了畢し て い るが 、その後も杭州餘杭県の径山興聖万寿禅寺に黄龍派の塗毒智策 (一一一七─一一九二) を 訪ねるなど 研鑽に努め て いる。文礼が初め て 開堂出世したのは、杭州府城の広寿慧雲禅寺 で あり、広寿寺は法叔の破庵 祖先 (一一三六─一二一一) を 開 山 と し て いる。その後、 文礼は温州 (浙江省) 永嘉県の北雁蕩山能仁禅寺、 湖州 (浙江省) 安吉県の福泉禅寺 を 経 て 、杭州の浄慈寺さらに明州鄞県東六〇里の天童山景徳禅寺へ と 陞住し て い る わ け で ある。 慧明はすで に 述べたごと く 宝慶二年の生ま れで あり 、文礼が淳祐一〇年 (一二五〇) 一〇月に示寂した時点 で も わ ず か二五歳に すぎない こと から、文礼に と っ て 慧 明は最晩年に育成した子飼いの門人 で あった こと になろう。文礼は晩年
雪 慧明の活動 と そ の功績(佐藤) 五一 を 明州鄞県の天童山景徳禅寺に化導 を敷い て おり、天童山の住持 を 退いた後、杭州銭塘県の梁渚に隠閑し て 世 を 終 え て いる こと から、 こ の間、慧明は文礼に随侍し て 参 学 しつづけ て い たもの で あろう。ただし、残念ながら、慧明が文礼 と の間 で 交 わ した具体的な問答商量などは何も伝えられて いない。文礼には『天目禅師語録』が編集さ れ た と 伝 えられ )5 ( る から、そ こ に は慧明 と の関 わ り を 記した何らかの記事が収められて い たはず で あろう。
霊隠寺の大川普済への参学と﹃五燈会元﹄の編集
ところ で 問題なのは、慧明が『五燈会元』編集にかなり実質的な働 き をなし て いたらしい事実 で ある。一般に『五燈 会元』 と い えば、大慧派の大川普済が杭州銭塘県の北山景徳霊隠禅寺の住持 と し て 自 ら陣頭に立っ て 編纂したもののご と くに解さ れて いる。普済は明州奉化県の張氏の出身 で、大慧派の浙翁如琰 (仏心禅師 、一一五一─一二二五) の法 を 嗣 い で おり、浙江の地の諸禅刹に住持し て 後、杭州銭塘県の南屏山浄慈報恩光孝禅寺 を 経 て 同じ銭塘県の霊隠寺に遷住し て いる。 『物初賸語』巻二四「大川禅師行状」 や 『大川和尚語録』 「住臨安府景徳霊隠禅寺語録」の配列など から推測 す る と 、松源派の石渓心月 (仏海禅師 、一一七七 ?─一二五六) が霊隠寺から径山に勅住した淳祐一〇年 (一二五〇) 頃に 、 普済は心月の後席 を 継ぐかた ちで 霊隠寺に勅住し て い るもの と 見られ る。晩年、普済は疾病により思うような接化 をな し得なかったものらしく、 宝祐元年 (一二五三) 正月一八日に世寿七五歳 で 示寂し て いる。 『五燈会元』が編集刊行さ れ たのは宝祐元年一月の ことで あり、まさに普済が示寂した年月に当たっ て い るが、 『大川和尚語録』 や 「大川禅師行状」 には『五燈会元』編集の ことは一切記さ れて いな )6 ( い。 すで に取り上げたごと く『禅籍志』巻上の「五燈会元」の項には、 日本叢林 、自 レ 古伝 、済大川住 二 霊隠 一 時、 有 二 侍者慧明者 一、博渉 二 経史 一、以 レ 文自負 。一日語 二 諸道友 一 曰、 視 二 五燈之作 一、筆 削不 レ 精 、吾将 下 補 二 綴罅漏 一、刪 二 除冗 長 一、以著 中 一書 上。公等其剹 レ 力乎 。諸友皆諾 。 時虚堂愚和尚未 二 出世 一、偶在 二 霊隠 一、謂 二 明侍者 一 曰、 夫燈録之書、 皆従上宿徳之撰也、 公以 二 妙齢 一 欲 二 自任 一、 寧 非 二 僭越 一 哉。請納 二 長者之言 一、 且緩緩去。明不 レ 従 レ 焉、 遂造 二 斯五燈会元三十巻 一。余以為、 明雖 レ 是 二 虚堂諌 一、 伎痒禁不 レ 得、 遂満 二 其志 一。而不 二 自宰 一、請 二 大川 一 為 二 撰者 一 也。不 レ 然、 何有 二 大川之名 一 乎。明字友雲、号 二 雪 蓬 一、後嗣 二 礼滅翁 一、為 二 松源法孫 一。 と い う日本禅林に伝 わ る 興味 深 い 伝承 を 載 せ て いる 。 『五燈会元』 と い えば 、一般に大川普済が編集した禅宗燈史 と し雪 慧明の活動 と そ の功績(佐藤) 五二 て 知 られて い るが、 こ こで は普済 で はなく慧明 をもっ て 実際の編集者 と 伝 え て いる。そ こでこ の『禅籍志』に古くより 伝えられて いる逸話に語られ る と ころを 逐一に考察し て み る こ と に した )7 ( い。 普済が霊隠寺に住持し て い た時期、その席下 で 侍 者 を 勤め て いたのが慧明 で あり、慧明は博く経史に通じ、文才にか なりの自負 を 持 っ て いた と さ れ る。ある とき 多くの道友 を 集め て 「五燈の作 を 視 るに、筆削精しからず、吾 れ 将に罅漏 を 補綴し 、 冗 長 を 刪除し 、以 て 一 書 を 著さん 。公等 、其 れ 力 を 剹 あわ せん や 」 と 述 べ 、 『景徳伝燈録』 『天聖広燈録』 『建中 靖国続燈録』 『宗門聯燈会要』 『嘉泰普燈録』の五燈 を 再 編成し て 一書 を 著したい旨 を 告 げ 、 『五燈会元』 を 編 集 す る と いう事業 を 企 て た と さ れ る。おそらく文礼が示寂し て 後、慧明は明州の天童山か杭州の梁渚 を 離 れて 郷里に近い杭州銭 塘県の霊隠寺に掛搭し て 侍 者 と し て 普済に師事したもの で あ ろう。慧明の こ の五燈 を 一書にしたい と い う企画に道友た ち も 賛同し、慧明 を 陣頭に仰い で 霊 隠寺 で 『五燈会元』の編纂が進められて いったものらしい。 実際 、 『五燈会元』は五燈の宜し きを 集めた最良の書 と い う意味 で あり 、浩博な五燈 を 一書に為し て 観覧に便ならし む る こと に編集刊行の意図が存し て いる。したがっ て 、実地の資料収集に悪戦苦闘した五燈の編集に比べれば、かなり 容易に短期間に編集 す る ことが可能 で あったはず で ある。 『五燈会元』の特徴 を 列 記 す るなら、左記のごと くなろう。 ①記事内容の重複 を 避 けた五燈の再編集 で ある。 ②五家七宗 を 初 め て 禅宗燈史 と し て 明確に分類し、見易く配列し て いる。 ③青原下 ・南嶽下いずれ にも片寄らず、潙仰宗 ・法眼宗 ・臨済宗 ・曹洞宗 ・雲門宗 ・黄龍派・楊岐派と 歴史的な発展盛衰 を 考 慮し て 並 べ、一宗一派に拘っ て い ない。 ④五燈の中 で 系 譜 を 異に す る場合 、妥当な方 を 取 り 、 また主な伝燈の本流 を 直 系 と し て 順序 を 改 め て いる 。 と くに従来のまま 雲門宗 ・法眼宗の直系 で ある天皇道悟 を 石 頭希遷の門下 と し て 置 きながら、割注し て 馬祖道一の門下 とす る問題 を 提起し て いる。 ⑤伝記面の記載 を 簡略化し、祖師の機縁 や 上 堂語句に力点 を 置 い て いる。 ⑥五燈に比し て 内 容に増補 と 削 減が見られ 、禅林 で し だいに改変増補さ れ て い く祖師の機縁・公案の問題が想起さ れ る 。 ⑦後世の禅宗燈史に絶大な影響 を 与え、そ れらの基本的なかた ち を 決定的にし て いる。 およそ以上のよう で あるが 、 つぎに 『五燈会元』に記さ れ る 最下限の祖師に注目し て み よう 。 『嘉泰普燈録』に章が
雪 慧明の活動 と そ の功績(佐藤) 五三 なく て 『五燈会元』巻二〇「慶元府育王仏照徳光禅師」の章に記さ れ る大慧下の拙庵徳光 (東庵、仏照禅師、一一二一─ 一二〇三) の上堂語句はすべ て『宗門聯燈会要』 と 同 一 で あり 、 こ と さ ら新添さ れて いない 。しかるに同じ大慧下 と し て 遯庵宗演 と 無用浄全 (翁大木 、一一三七─一二〇七) に関し て は 『嘉泰普燈録』 『宗門聯燈会要』に章がないのに 、新 たに『五燈会元』巻二〇に「常州華蔵遯庵宗演禅師」の章 と 「 慶元府天童無用浄全禅師」の章が編入さ れて いる。また 巻二〇 「慶元府天童密庵咸傑禅師」 の章 で は 虎丘派の密庵咸傑 (一一一八─一一八六) に関し て 増 補が著しく、 巻一四 「杭 州浄慈自得慧 暉 禅 師」の章 で も 曹洞宗宏智派の自得慧 暉 (一〇九七─一一八三) に関し て 増 補が多い 。 こ れはある意味 で 編者の慧明の意向 と 表 裏 を なすはず で ある。 慧明が『五燈会元』編集 を 企 て た際、霊隠寺山内の松源崇嶽の塔頭 で ある鷲峰庵に閑居し て いた虚堂智愚が慧明の妙 齢なさま を 見 て 「 夫 れ 燈録の書は、皆な従上宿徳の撰なり。公、妙齢 を 以 て 自 ら任ぜん と 欲 す 、寧んぞ僭越に非ざらん や 。 請う、長者の言 を 納 れて 、且緩緩にし去 れ 」 と 忠告した と 伝 えられ る。古来、禅宗燈史はみな禅門の宿徳によっ て 編纂さ れて いるが、慧明の場合、いまだ年齢も若く僭越 で あ る と 指摘し、年長者の ことばを 聞 き 入 れ て 逸 るもの で はな い と 智愚は諌め て いる。しかしながら、 慧明は智愚の忠告に従 わ ず 、 ついに『五燈会元』 を 編集し終えた と 伝 え て いる。 しかも『禅籍志』の編者 で ある聖僕義諦は「余、以為らく、明は虚 堂の諌め を 是 とすと 雖 も、伎痒 をば禁じ得ず、遂 に其の志し を 満 た す 。而し て 自 ら宰 とならず、大川 を 請 し て 撰者 と為すなり。然らざれば、何 ぞ大川の名有らん や 」 と 述べ て おり、慧明が智愚の諌め を あ え て 斥け て その志し を 遂 げたものの、自ら編集の主宰者 とはならず、霊隠寺住持の 普済 を 請 し て 『五燈会元』の撰者に祭り上げたのだと 解 し て いる。 こ の『禅籍志』の伝承がかなり信憑性の高いもの で あ る こ とは、 智 愚が法祖松源崇嶽の塔頭 で ある鷲峰庵 (松源塔下) に閑居し て いたのが『五燈会元』編集刊行の時期 と 重 なっ て い る こ とで あり 、智愚は婺州 (浙江省) 義烏県南二五里の 雲黄山宝林禅寺 (双林寺) を 退 居した淳祐九年 (一二四九) 頃から宝祐四年 (一二五六) 四月七日に明州鄞県の阿育王山 広利禅寺の請 を 受けるま で 、 実に足掛け八年に わ た っ て 霊隠寺の鷲嶺庵に隠棲閑居し て いる。 ところ で 、普済は実際に宋版ないし覆宋版 (五山版) の『五燈会元』に対し て 巻頭に序文 (題詞) を寄 せ て お )8 ( り、 世尊拈花、如 二 蟲禦 一 レ 木、迦葉微笑、偶尓成 レ 文。累 二 他後代児孫 一、 一一聯芳続焔。大居士就 レ 文挑剔、亘 二 千古 一 光明燦爛。 淳祐壬子冬、住山普済、書 二 于直指堂 一。 [普済] [大川]
雪 慧明の活動 と そ の功績(佐藤) 五四 と 書 き 記 し て いる 。 こ の普済の序は淳祐壬子の冬 すな わち 淳祐一二年 (一二五二) の冬に霊隠寺の直指堂 (方丈) にお い て 揮毫さ れ た もの で あ )9 ( る。 「大川禅師行状」によ れば、 普 済は宝祐元年 (一二五三) 正月八日に示寂し て いるから、 こ の序文が著さ れ たのはまさに示寂 す る直前 と い う こ と に なろう。普済の序には慧明の ことは記さ れ て い ないが、大居士 とは後に述べる沈浄明の ことを 指 し て おり、沈浄明は慧明 と 共に『五燈会元』の刊行に尽力した在俗の徒 で ある。 同じく宋版 (覆宋版) の 『五燈会元』の冒頭には、宝祐元年 (一二五三) 三月清明の日に王 槦 (通庵居士) が記した序 が載 せら れ て い ) 10 ( る。いま、その序の全文 を 示 すならば、 予聞 、孔聖曰 、参乎 、吾道一以貫 レ 之 。曾子曰 、唯 。子出 、門人問曰 、夫子之道 、忠恕而已矣 。又聞 、釈迦在 二 霊山 一 拈 レ 花、 迦葉微笑。世尊曰、吾有 二 正法眼蔵涅槃妙心 一、付 二 嘱摩訶大迦葉 一。二者用処不 レ 同、義則一也。由 レ 此観 レ 之、一貫之理、以心 伝 心 、 千 万載間 、緜緜不 レ 絶 。其道 学 宗 派 、蓋自 二 曾子一唯中 一 来 。仏法昭明 、歴 二 幾千劫 一、闡 二 揚宗風 一、源源相継 。其教外 別伝、蓋自 二 迦葉微咲中 一 始。烏可 二 岐而二 一 哉。自 二 景徳中 一 有 二 伝燈録 一 行 二 于世 一、継而有 二 広燈・聯燈・続燈・普燈 一。燈燈相 続、 派別枝分、 同帰 二 一揆 一。是知 レ 燈者、 破 二 愚暗 一 以明 二 斯道 一。今慧明首座、 萃 二 五燈 一 為 二 一集 一、 名 曰 二 五燈会元 一、 便 二 於観覧 一。 沈居士捐 レ 財鳩 レ 工、 鋟 二 梓於霊隠山 一、 実大川老 ・ 盧 都寺賛 二 成之 一。帙成、 保庵携 二 一部 一 来、 再三懇 二 予為 一 レ 序。予曰、 一大蔵経、 如 下 拭 二 不浄 一 紙 上。由 レ 此知、 仏法不 レ 在 二 文字上 一、不 レ 向 二 言語中 一。若是大丈夫漢、 見得明、 悟得徹、 如 二 俊鷂搦 レ 禽、 提得便去。 若廻 レ 頭側 レ 脳、 稍 渉 二 遅疑 一、則空過 二 新羅 一 矣。 至 レ 如 二 尋 レ 章摘 一 レ 句、 徒 増 二 口皷 一、打 二 纏葛藤 一、料掉了無 二 交渉 一、又豈可 三 与 語 二 此集 一 哉 。 雖然、其初地二乗、繙閲中或恐 二 一言一句築 著 磕 著 一、則与 二 歴代祖師 ・天下老和尚 一 把 レ 手共行、使 三 斯集大播 二 無窮 一 矣。 旹宝祐改元清明日、通庵王 槦 、謹序。 [ 槦 ] [琅邪通庵] と い うもの で あり 、王 槦 (字は琅邪か) は普済が示寂し て 二ヶ月余 を 経た宝祐元年の清明 すな わち 春分から一五日後に 序 を 書し て い る こ とが知られ る。慧明自身の序跋は残念ながら存し て い ないが、王 槦 は序の中 で 慧明に関し て 、 今 、慧明首座 、五燈 を 萃 め て 一集 と為し 、 名づけ て 五燈会元 と 曰 い 、観覧 す るに便たり 。沈居士 、財 を 捐 てて 工 を 鳩め 、梓 を 霊隠山に鋟し、実に大川老・盧都寺、之 れ に賛成 す 。 と い う注目 す べき 記載 を 残 し て いる。王 槦 の序文によ れば、慧明 と い う首座が霊隠寺 で の事業 と し て 五燈 を 集 め て 一書 となし、 これを 『五燈会元』 と 命名し て 観覧に便 をなした と い うの で ある。王 槦 の序によ れば、慧明が編集した『五燈
雪 慧明の活動 と そ の功績(佐藤) 五五 会元』に対し 、沈浄明が財 を 投 じ て 職工 を 集 め 、霊隠山 (武林) で 版木に刻み 、住持の大川普済 と 都 寺の□盧が こ の事 業に賛同した ことが伝えられて いる。賛成 す る とは助け て 物 事 を 完成させる意 で あり、また他人の考えに同意 す る こと で あるから、あくま で 『五燈会元』の発案者は慧明 で あり、強力な後ろ盾 が沈浄明 で あった ことが知られ 、普済は盧都 寺 と ともに傍らから援助した と い う こ と に なろう。また王 槦 の序に「帙成り て 、保庵、一部 を 携 え来り、再三、予に序 を為さん ことを 懇 む 」 と あるから、本文の出来上がった『五燈会元』一部 を 携 え て 保庵 と い う禅者が親しく王 槦 のもと を 訪 ね て 再三に わ た っ て 序 を 請うた こ とが知られ る。保庵 と い うのは道号 で あっ て 、 法諱につい て は 定か で な いが、お そらく保庵は慧明の志しに賛同し て ともに『五燈会元』の編集に関 わ った禅者 で あ ろう。 ち な みに王 槦 の序文 で は 慧明の肩書 きが首座 と あるから、おそらく『五燈会元』の編纂 を 企 て た頃には侍者の職位 で あったものが 、 王 槦 が 『五燈会元』に序文 を 寄 せた宝祐元年三月の頃には首座 と し て 霊隠寺山内に重 き をなし て いた もの で あ ろう。当時、霊隠寺の住持 で あったのは普済の後席 を 継 いだ曹洞宗宏智派の東谷妙光 (?─一二五三) であ り 、 蘇州呉県の万寿報恩光孝禅寺より陞住し て い ) 11 ( る。慧明が首座に就いたのは時期的に妙光が霊隠寺の住持 となった直後 で はないか と 見 られ 、修行僧七〇〇人あまり を 統 括 す る第一座 と し て 半 座 を 分かっ て い た こ と に なろう ) 12 ( 。 一方、沈浄明らの捨財によっ て 慧 明が編集した『五燈会元』は霊隠寺におい て 版に興さ れ 、住持の大川普済 と 都 寺の □盧 と い う禅者がその事業 を 傍 ら で 賛助した と 伝 え て いる こと から、普済はあくま で 住 持 と し て 『五燈会元』の編集刊 行 を 見守る立場 で あ っ て 、実際の編集 や 刊行にはほ と ん ど 参 画 す る こ とはなかったもの と 推測さ れ る。晩年の普済は病 いによる闘病生活 を なし て おり、自ら陣頭に立っ て 『五燈会元』の作製 を 指 揮 す る こ とは できなかったはず で ある。 宋版 (覆宋版) の『五燈会元』によ れば、普済が示寂 す る直前に沈浄明が跋文 を 撰し て おり、 安吉州武康県崇仁郷禺山里、 正信弟子沈浄明、 幸生 二 中国 一、 忝 預 二 人倫 一、 渉 レ 世多 レ 艱、 幼失 二 恃怙 一。秊将 レ 知 レ 命、 遂閲 二 華 厳 大経 ・ 伝燈諸録 一、深 信 三 此道不 二 従 レ 外得 一。切見 二 禅宗語要 一、具在 二 五燈 一。巻帙浩繁 、頗難 二 兼閲 一。謹就 二 景徳霊隠禅寺 一、命 二 諸禅人 一 集 二 成一書 一、名曰 二 五燈会元 一、以便 二 観覧 一。爰竭 二 己資 一、及 レ 募 二 同志 一、選 レ 工刻 レ 梓、用広流通、続 二 如来慧命 一、闡 二 列祖円機 一、 燈燈相伝 、光明不 レ 断 。 普願若僧若俗 、或見或聞 、開 二 悟本心 一、咸躋 二 覚地 一、出 二 生功徳 一。謹用祝 二 延聖寿 一、保 レ 国安 レ 民。 次 冀施 レ 財助 レ 力、共獲 二 休祥 一、普報 二 四恩 一、用資 二 三有 一。劫石有 レ 尽、我願無 レ 窮。 宝祐元年正月旦日、沈浄明、謹題。
雪 慧明の活動 と そ の功績(佐藤) 五六 と い う内容 と なっ て いる。沈浄明は安吉州 (湖州) 武康県崇仁郷禺山里の人 で 、 幼くし て 父 母 を 失っ て より仏門に近づき 、 『華 厳 経 』 や 禅宗の燈史 ・語録に触 れて 仏法に 深 く帰依した正信の俗弟子 で あった ことが知られ ) 13 ( る 。また沈浄明は五燈 が分量が多く て 煩 雑 で あり、 閲覧に便が悪い こ と か ら、 霊隠寺 で 諸禅者に観覧に便の良い一書 を 集 成させ て 『五燈会元』 と 名 づけた と 述べ て い る 。 とすれば 、 『五燈会元』編集 を 画策したのは沈浄明 と い う こ と に なり 、 こ の発案に対し て 陣 頭に立っ て 実務に当たったのが慧明 で あった こと になろう。い わ ば 慧明は霊隠寺に集った諸禅人た ち の代表 で あり、沈 浄明に と っ て 実 務 を 任 す に足る頼もし き 同 志 で あった と 見 られ る。 いま一つ普済 と 慧 明 と の関 わ り を 伝 える史料 と し て、松源派の沢山弌咸 (一咸 とも) が 『禅林備用清規』に至大四年 (一三一一) 秋に書した自序におい て 、 近者大川 ・笑翁二祖 、 唱 二 道南北山 一、日用軌則 、盛 二 於当代 一。至元戊寅 、 依 二 石林和尚於南屏 一、猶 得 レ 見 二 其遺風餘烈 一、及 三 友 雲明西堂出 二 所 レ 蔵抄本 一、究心訪問、編集成 レ 帙、始此書之作、或以 二 為 レ 僧受 一 レ 戒首 レ 之、或以 二 住持入院 一 首 レ 之。 と 書 き 残 し て いる記事に注目し て お き た い 。 これ によ れば、かつ て 大慧派の大川普済 と 笑 翁妙堪 (一一七七─一二四八) が南北の両山 すな わち 銭塘県の北山景徳霊隠寺 と 南屏山浄慈報恩光孝寺の両寺に化導 を敷き 、日用の軌則 を 当代に盛ん にした と さ れ る 。その後 、元の至元一五年 (南宋の祥興元年 、一二七八) に弌咸が浄慈寺の石林行鞏のもと に参じた際 、 両者の頃の遺風が両寺になお残っ て おり、 こ の とき 友雲明西堂 す な わ ち 浄 慈寺の西堂 で あった慧明が自ら所蔵し て い た 清規の抄本 を 弌咸に見せ て く れ た と さ れ る。慧明の好意によっ て 後に弌咸は『禅林備用清規』 を 編 集 す る こ とが でき た と 自 ら記し て いる わけ で あり、おそらく こ の とき の清規の抄本 とは慧明が実際に霊隠寺の普済のもと に参随し て いた頃 に書 き 留 め て おいた清規の控えと 見られ 、慧明の抄本が『禅林備用清規』の基 と なっ て い る点 で 注目さ れ る 。 ところ で 、宋版 『五燈会元』の版木が焼失し 、元代末期に大慧派の業海子清 (了清) が重刊本 を 出した際 、至正二四 年 (一三六四) 四月に大慧派の用章廷俊 (懶庵 、一二九九─一三六八) が杭州銭塘県の霊隠寺にほ ど 近い中天竺天暦万寿 永祚禅寺の住持 と し て 「 重 二 刊五燈会元 一 序」 を 寄 せ て いる ) 14 ( が、廷俊は序の中 で 、 宋季霊隠大川禅師済公、以 三 五燈為 レ 書浩博 学 者 罕 二 能通究 一、廼集 二 学徒 一、作 二 五燈会元 一、以恵 二 後学 一、恩至渥也。 と 述 べ て いる。 これ によ れば、霊隠寺の普済が自ら陣頭に立っ て学 徒 を 集め て 『五燈会元』 を 編 纂したごと くに記さ れ て おり、 これが後に普済 をもっ て 編者に任ずる基になっ て い るが、 学 徒の具体的な名は一人も載せられて いない。重刊
雪 慧明の活動 と そ の功績(佐藤) 五七 本 (元版) で は 宋版に存した三つの序が焼失のためか すべ て 削 られて お り 、 すで に廷俊が活躍した元末明初には慧明の 功績などは忘 れ 去 られて い た こ と に なろうか。元代にはほかにも禅宗燈史 と し て 『祖燈録』 や 『至元心燈録』なども編 集刊行さ れ た ものらし ) 15 ( いが、いずれも残念ながら現今に伝えられて いない。 もともと 大刹の住持が自ら陣頭に立っ て 禅宗燈史 を 編 集 す るのは稀 で あ っ て 、晦翁悟明の『宗門聯燈会要』も雷庵正 受の『嘉泰普燈録』も隠閑中になした編集したもの で ある。い わ ん や 、晩年に半身病いに伏しながらも、霊隠寺住持 と し て 多忙な毎日 を 送っ て い ただろう普済に、 『五燈会元』 を 編 集 す るゆ と り などなかったはず で ある。
無学祖元の﹁送雲渓歌﹂と慧明の題跋
で は 、 『五燈会元』 を 編集刊行し終え て 以降、慧明は如何なる活動 をなし て いたの で あ ろうか。 『扶桑五山記』一「霊 隠住持位次」によ れば、 卅七、大川済禅師。卅八、東谷光禅師。卅九、偃渓聞禅師。四十、荊叟珏禅師。 と あるから、普済が宝祐元年一月に示寂した後、二月には後席 を 継い で 曹 洞宗宏智派の東谷妙光が入寺し て おり、年末 一二月に妙光が示寂 す る と 、 宝 祐二年 (一二五四) には大慧派の偃渓広聞 (仏智禅師、 一一八九─一二六三) が陞住し て おり、 宝祐四年 (一二五六) の冬に杭州余杭県の径山興聖万寿禅寺に勅住 す る ま で 化導 を敷い て いる 。鷲峰庵の智愚は妙光に 招か れて 霊隠寺 で 「霊隠立僧普説」 をなし て いる。慧明が引 き つ づき 霊隠寺に止まっ て い た と すれば、宏智派の妙光に 参随し て いた こと になり、さらに妙光の示寂し て 後 は大慧派の偃渓広聞のもと に止まっ て い た こ と に なろうか。 ところ で 、『五燈会元』 を 編集した直後の慧明の消息 を 伝 えるもの と し て 『仏光国師語録』 巻九 「拾遺雑録」 の 「跋」 に、 破庵派 (仏光派祖) の無 学 祖 元 (子元、 仏光国師、 一二二六─一二八六) が来日以前に記した 「送 二 雲渓 一 歌 〈并序、 諸老題跋附〉 」 と い う頌軸の文面が載せられて い ) 16 ( る。そ こ に題跋 を 寄 せた老宿の一人 と し て 、 客館諸友玉立 、燭花映 レ 紅 。 (缺)観 二 子元之言 一、麗而有 レ 則 、豈特砥 二 礪交道 一、至 レ 如 二 屈宋班馬 一。払雲之塁 、若 二 摩撫而入 一、 人見而畏 レ 之。噫、子元与 レ 余同 レ 年 (季) 、何其可 レ 畏之多耶。 苕渓慧 (恵) 明。 と い う慧明の作が載せられて いる。 こ の 跋は祖元 (子元) が友人 で ある嗣承未詳の雲渓 (法諱は未詳) を見 送 っ た 際 の 「 送 雲渓 一 歌」に対し て 慧 明が寄せたもの で あり 、 こ の題跋 を 付 した年時は記さ れて いない 。しかしながら、慧明につづい雪 慧明の活動 と そ の功績(佐藤) 五八 て 天台県 (浙江省) の出身 で ある徳垢も跋 を 寄 せ て 、 二友交 レ 義如 レ 金、諸公吐 レ 詞如 レ 玉。余不 二 敢贅 一、記 二 歳月 一 以附 二 行巻 一。 時宝祐丙辰中秋日也。天台徳垢。 と 記 し て いるから、ほぼ同じ頃に撰さ れ た もの と 見 られ る。 ち な みに天台の徳垢 とはおそらく無準下の断橋妙倫 (松山 子、一二〇一─一二六一) の法 を 嗣 いだ古田徳垕 (?─一二九二) のこ と で あろ う ) 17 ( が、徳垢は宝祐四年 (一二五六) 中秋日 すな わち 八月一五日に跋 を 寄 せ て いるから、慧明も若干ながらこれ に先んじ て 跋 を 記し て い るもの と 見られ る 。 と り わ け、注目 すべきは慧明が祖元につい て 「噫、子元は余 と 年 を 同 じく す るに、何ぞ其 れ 畏 るべき の 多 き や 」 と 述 べ て いる ことで あ り 、 これ によ れば 、慧明は子元 す な わ ち 祖 元 と 同年の生ま れで あった ことが知られ、宝慶二年 (一二二六) に 出生し て い る こ とが判明 す る。また慧明は同年の祖元 を か なり意識し、つねにその力量に感心し て い たものらしい。 と すれば 、 『五燈会元』 を 完 成させた宝祐元年の時点 で 慧 明はいまだ二八歳 で あった こと になり 、まさに 『禅籍志』に言 うごと く慧明が妙齢にし て 『五燈会元』の編纂 を 企 て た消息が知られ るの で ある。 ところ で 、 『仏光国師語録』巻九 「拾遺襍録」に載る守塔比丘光一編 「告香普説」 や、松源派の無象静照 (法海禅師 、 一二三四─一三〇六) が状した「仏光禅師行状」 と 、 智愚の法嗣 で ある霊石如芝 (仏鑑禅師、 一二四六─?) が状した「無 学 禅 師行状」 と 、 祖元の俗姪孫 で ある曹洞宗宏智派の東陵永璵 (妙応光国慧海慈済禅師、 一二八五─一三六五) が撰した 「大 日本国山城州万年山真如禅寺開山仏光無 学 禅 師正脈塔院碑銘」など によ れば 、祖元は淳祐一二年 (一二五二) に霊隠寺 の鷲峯庵 (松源塔下) に到っ て 隠閑中の智愚に参じ 、秋には明州の天童山景徳寺に赴い て い る こ と か ら、同年代の慧明 と 知り合ったのも こ の頃 と 見 られ 、 と もに智愚の接化に浴し て い た こ と に なろう。 とこ ろで 、「 送 二 雲渓 一 歌」の末尾に載る虞集 (字は伯生、 号は邵庵、 一二七二─一三四八) の題跋によ れば、 その後しば らく 「送 二 雲渓 一 歌」の頌軸は詩僧 と し て 名高い松源派の断江覚恩 (以仁 、文智老人 、仏鏡文智禅師 、 ?─一三三九) が所 持し て い た こ とが知られ ) 18 ( る。虞集が題跋 を 付した後、おそらく元代末期に縁あっ て 祖元ゆかりの日本禅林へ と 将来さ れ て い るもの と 見られ 、 辛うじ て その内容が『仏光国師語録』に付記収録さ れ 、現今に文面のみが残さ れ た わ け で あ ) 19 ( る。
雪 慧明の活動 と そ の功績(佐藤) 五九
慧明の嗣法問題
慧明の ことは残念ながら中国の禅宗燈史には章が存し て いないばかりか、名 すら 載せられて い ない。慧明自身は『五 燈会元』 を 編 集 す る と いう大業 を 果たしたにも拘らず、なぜか後世の禅宗燈史には顧みられ る ことがなかった わけ で あ る 。慧明は松源派の滅翁文礼の法 を 嗣 いだと 解 す る のが妥当 で あ る と 見られ る ) 20 ( が 、一に同じ松源派の虚堂智愚の法 を 嗣いだごと く にも受け取られて いる 。文礼は智愚の師 で ある 運 庵普巌 (少瞻 、 ?─一二二二 、または一一五六─一二二六) と 同門に当たるから、慧明が文礼の法嗣 とすれば、系統的に智愚に と っ て 慧 明は法従弟 で あった こと になる。 愛知県一宮市の長島山妙興寺に所蔵さ れ る『仏祖宗派之図』は南北朝期に著 わ さ れ た もの で あり、妙興寺開山の滅宗 宗興 (円光大照禅師 、一三一〇─一三八一) を 南 浦紹明の法嗣に配 す る こと に意 を 配った宗派図 で あるが 、 そ こ には 「虚 堂愚禅師」の法嗣 と し て 左 から 右にかけ て 、 南浦明禅師 ・霊石芝禅師 ・ 宝葉源禅師 ・ 閑極雲禅師 ・秋岩新禅師 ・升窓喜禅師 ・ 友堂会禅師 ・象先観禅師 ・ 葛芦覃禅師 ・ 雪 蓬 明禅師・禹渓了禅師・東州俊禅師・晦叟光禅師・晋芝源禅師・潜渓広禅師・此軒足禅師・虚菴実禅師。 と 智愚の法嗣一七人 を挙げる中 で 「雪 蓬 明禅師」の名が第一〇番目に載せられて いる。また世田谷区五島美術館の大東 急記念文庫に所蔵さ れ る北朝の永徳二年 (一三八二) に刊行さ れ た 『仏祖正伝宗派図』によ れば 「径山虚堂智愚」の法 嗣 と し て 左から 右 にかけ て 、 建長南浦紹明 ・虚菴□実 ・平山本立 ・南明秋岩徳新 ・雲嵓竹窓宗喜 ・慈源友堂禧会 ・資福象先可観 ・東山葛蘆浄覃 ・天寧雪 篷慧明 ・雪竇禹渓一了 ・万年東州惟俊 ・承天閑極法雲 ・仰山晦叟法光 ・報恩宝葉法源 ・報恩晋芝妙源 ・万寿潜渓妙広 ・翠嵓 此軒如足・浄慈霊石如芝。 と い う一八人の法嗣 を挙げ て いるが、 その中にもやはり第九番目に 「天寧雪篷慧明」 の名が存し て いる。 『仏祖宗派之図』 『仏祖正伝宗派図』 と もに慧明の名は智愚の法嗣た ち の ほぼ中間に位置し て お り 、秋岩徳新から東州惟俊ま で は 同じ並 び で ある こと から、法系図の書 き 間 違い と い う こ と に はならない。 これらによ れば、慧明 を 智愚の法嗣 とす る説が早く から存したらしい こ とが知られ 、 当然の こ とながら両宗派図には文礼の法嗣に慧明の名は見られない。 これ に対し 、室町中期の応永二五年 (一四一八) に夢窓派の古篆周印 (無碍) が編した 『仏祖宗派図』には 、文礼の雪 慧明の活動 と そ の功績(佐藤) 六〇 法嗣にも智愚の法嗣にも慧明の名は載せられて いない。一 方、江戸初中期の『正誤宗派図』四 で は 「天童滅翁文礼〈天 目樵者〉 」の法嗣の ひと りに 「雪篷慧明 〈編 二 五灯会元 一 〉」 と 記 さ れ て お り 、 ここで は 文礼の法嗣に慧明 を挙げ 、智愚 の法嗣から慧明の名は削られて いる。 おそらく状況的には慧明は天童山の文礼に投じ て 参 学 随侍した後、霊隠寺の普済のもと に移り、 こ の間、霊隠寺山内 の鷲峰庵におい て 智愚の接化にも浴 す る機会が存したもの で あ ろう。そのため後に嗣法に関し て 文礼の法 を 嗣 いだ高弟 とも、智愚の法 を 嗣 いだ門人 とも解さ れ た もの で あ ろうか。 こ の点、興味 深 い のは『虚堂和尚語録』巻七「偈頌」に、 衍・鞏・珙三禅徳之 二 国清 一。 誰知三隠寂寥中、因 レ 話尋 レ 盟別 二 鷲峯 一、相送当 レ 門有 二 脩竹 一、為 レ 君葉葉起 二 清風 一。 と い う作が伝えられて いる ことで あ ろう。 こ の偈頌のみ で は 如何 なる事情 で 詠 じられ た 作なのかも定か で ないが、祖元 の『仏光国師語録』巻九「拾遺襍録」の「告香普説」に、 第二年、 帰 二 霊鷲 一 作住。 因到 二 鷲峯菴 一、 参 二 請虚堂 一、 聴 二 他説話 一、 都 無 二 討頭処 一。 這 老子向 レ 我問、 儞他年做 二 一箇説禅長老 一。 我自謂、 正要 二 説禅 一、如何嫌 三 我作 二 説禅長老 一。一夏二十来次到 二 菴中 一、動 レ 口便説 二 東山下事 一。我益不 レ 暁。 有 時 牽 レ 今引 レ 古、 千 波 万 浪説 レ 之不 レ 了。見 二 我両眼瞠瞠地 一、 又微微笑。一日因做 レ 頌、 送 三 鞏石林 ・ 衍氷谷 ・ 珙横川三人往 二 国清 一。他拈出示 二 老僧 一。頌云、 因思三隠寂寥中 、 為愛尋 レ 盟別 二 鷲峯 一、相送当 レ 門有 二 脩竹 一、為 レ 君葉葉起 二 清風 一。老僧向 二 這老漢 一 道 、裏許都無 二 些子禅 一。老 虚堂拈 二 起頌子 一、将 二 老僧 一 驀面一揮云 、儞敢称 二 五山蔵主 一、老漢一肚皮禅道 。一斉打断 。当下知 二 他潜行密用処 一。日暮帰到 二 霊鷲 一。因看 三 雪竇拈 二 盤山公案 一、譬如 二 擲 レ 剣揮 一 レ 空、莫 レ 論 三 及与 二 不及 一、斯乃空輪無 レ 跡、剣刃無 レ 虧。又悟 三 仏仏祖祖灼然絶 二 文字相 一、従前滞著一時脱去。龝後帰 二 天童 一。 と い う記事が存し て い る こ と か ら 、その間の事情 を か なり克明に窺う こ とが でき る 。智愚の偈頌は三人の禅徳が台州 (浙江省) 天台県北一〇里の天台山国清寺 (当時は景徳国清禅寺) に赴くのに際し 、 彼らを 豊 干 ・寒山 ・拾得のい わ ゆ る 国清の三賢に準え、送別に与えた作 で ある 。 こ こ に いう鞏 と 珙の二禅徳 とは 、文礼の高弟 で ある石林行鞏 (一二二〇― 一二八〇) と 横川如珙 (此庵 、一二二二―一二八九) の二禅徳の ことで あ るが 、最初に名が挙げられて いる衍禅徳も文礼 の法 を 嗣 いだ氷谷□衍 (冰谷 とも、?─一二六八) と い う禅者にほかならない。一に衍禅徳 を 智 愚 と 同門に当たる石帆惟 衍に当 て る 説も存 す ) 21 ( るが、 こ の と き 惟 衍はすで にかなりの年齢に達し て おり、惟衍 と 解 す る のは明らかな誤り で あ ) 22 ( る。
雪 慧明の活動 と そ の功績(佐藤) 六一 ここ にいう 「 第二年」 とは無準師範が径山 で 示寂した淳祐九年 (一二四九) を 第 一年 と 見 て その翌年 すな わち 文礼の 示寂した淳祐一〇年の意味 で あ ろうか。三禅徳は天台山中の国清寺に赴くのに際し、杭州銭塘県の北山景徳霊隠寺の鷲 峰庵 (松源塔下) に隠閑し て いた智愚 を 訪 ねたもの と 見 られ、 こ の と き 智 愚は彼らに餞別 と し て 偈 頌 を 揮毫し て 与 え て いる。しかも こ の と き 祖 元は 「 衍 ・ 鞏 ・ 珙三禅徳之 二 国清 一 」 の偈頌内容 を 題材に鷲峰庵の智愚 と 問答商量 を 交 わ し て おり、 智愚の活作略によっ て 句語三昧 を 悟った と さ れて いる。 こ の ように祖元は鷲峰庵の智愚に参 学 し て いるの で あり、文礼の法嗣 で あった冰谷衍 と 行 鞏 と 如珙の三禅者も同じ頃 に と もに連 れ 立っ て 霊 隠寺の鷲峰庵に智愚 を 訪 ね て いる わけ で ある。 とすれば、同じ文礼の法嗣 となった慧明が霊隠寺 で 侍 者 を 勤める傍ら、 こ の 時期に鷲峰庵の智愚 と 関 わ る ことはそ れ ほ ど 不自然 で は ない で あ ろう。
虚堂智愚への参随と澱山普光禅寺への出世
霊隠寺の鷲峰庵 で 智 愚 と 知り合った慧明は 、 や が て その智愚に久しく随侍 す る こと になったものらしい 。 『虚堂和尚 語録』巻一〇「法語」に、つぎのような慧明に与えた法語が伝えられて いる。 雪 蓬 明長老赴 二 禾興光孝 一。 雪 蓬 明老、相従有 レ 日、自 二 育王 一 過 二 東山 一、客 櫩 之下、温然如 レ 春、此老之力也。在 二 南屏 一 居 二 第一座 一、忽澱湖有 二 公選之寵 一。 二年復勝 二 集于双径 一、仍帰 二 第一座 一、羣心歓如 。今領 二 朝命 一、遐赴 二 禾興光孝 一。臨 レ 岐聊攄 二 数語 一、以当 二 祖行 一、卓 レ 錐無 レ 地、 空餘 二 双眼 一 盖 二 乾坤 一。鉄笛横吹、 有 レ 気不 レ 呑 二 雲夢沢 一。煙波渺渺、 蘭棹依依、 雪蘆霜葦冷相宜、 幾度掲開 レ 閑対 レ 月。鴛湖 深 処 、 不 レ 必垂 一 レ 絲、長水江頭、錦鱗自得。臨 レ 岐句子、如何分付。風飄飄兮吹 レ 衣、水泠泠兮声 レ 詩。 咸淳戊辰秋九月、虚堂老僧書 二 于不動軒 一、是年八十四。 この 「 雪 蓬 明長老赴 二 禾興光孝 一 」の法語は咸淳四年 (一二六八) 九月に晩年 を 迎えた智愚が杭州餘杭県の径山興聖万 寿禅寺の住持 と し て 不 動軒に て 慧明に書 き 与 えたもの で あ ) 23 ( り、不動軒 と は径山の伽藍の一角に存した住持の方丈にほか ならない ) 24 ( 。その内容は慧明が辿った軌跡 を かなり具体的に伝え て い る こ と か ら、はじめに全文 を 書 き 下 し て お き たい。 雪 蓬 明長老、禾興の光孝に赴く。 雪 蓬 明老 、相い従い て 日有り 、育王より東山に過ぎるま で 、客 櫩 の下 、温然 と し て 春 の如 きは、此の老の力なり 。南屏に在雪 慧明の活動 と そ の功績(佐藤) 六二 り て 第一座に居り 、忽 ち 澱 湖に て 公選の寵有り 。二年にし て 復た双径に勝集し 、仍り て 第 一座に帰し 、羣心歓如たり 。今 、 朝命 を 領 じ て 、遐く禾興の光孝に赴く 。岐に臨ん で 聊か数語 を 攄 べ、以 て 祖行に当つ 。錐 を 卓 す るに地無く 、空しく双眼 を 餘し て 乾 坤 を 蓋う。鉄笛 をば横に吹 き、気有り て 雲夢沢 を 呑 まず。煙波は渺渺 と し て、蘭棹は依依たり 、雪蘆霜葦は冷うし て 相い宜しく 、幾度か掲開し て 閑かに月に対 す。鴛湖 深き 処 、 必ずしも絲 を 垂 れ ず、長水江頭 、錦鱗自ら得たり 。岐に臨 む 句子、如何んが分付せん。風は飄飄 と し て 衣 を 吹 き 、水は泠泠 と し て 詩 を 声ぶ。 咸淳戊辰秋九月、虚堂老僧、不動軒に書 す 。是の年、八十四なり。 こ の法語によ れば 、宝祐四年 (一二五六) 四月一九日に智愚が明州鄞県東五〇里の阿育王山広利禅寺に住持 す る と 、 慧明は智愚に随侍 す る こととなり 、 さらに智愚が世の讒言 を 受 け て 時の宰相呉潜 (字は毅夫 、 号は履斎 、一一九六─ 一二六二) によっ て 住持の座 を 追 われて 東山に隠閑した際にも同行し 、智愚のもっ とも不遇な時期 を ともに生 きて いる ことが知られ る 。東山につい て は 明州鄞県東南四〇里の東山慧福禅寺の ことなのか 、 越州 (紹興府) 上虞県西南五四里 の東山 (謝安山) 国慶禅院の ことなのか定か で ないが、 慧明は辛い立場の智愚に支えとなっ て 随 侍しつづけたものらしい。 智愚の忠告 を あ え て 斥け て 霊 隠寺の普済のもとで 『五燈会元』 を 編集した慧明が、 やが て その智愚に随順 す る のは誠に 奇し き 因 縁 と いっ て よく、智愚が杭州銭塘県の南屏山浄慈報恩光孝寺に住 す る や 、慧明は首座に迎えられて いる。 松源派の石林行鞏はすで に 触 れ たごと く慧明 と 同 じく滅翁文礼の法 を 嗣 い で おり 、景定五年 (一二六四) 三月三日に 安吉州 (湖州) 帰安県の府城東南三五里の思渓法宝資福禅寺 (もと 円覚禅院) に住持し て い るが 、成簣堂文庫に所蔵さ れ る元版『石林和尚語録』巻上「思渓法宝資福禅寺語録」によ れば、 謝 二 雪 蓬 明首座 一 上堂。大衆、握 二 亀毛筆 一、攪 二 翻積翠 一、余波西湖、更無 二 行路 一。拈 二 兎角杖 一、穿 二 鑿臨済 一、大樹頑石、不 二 敢点 頭 一。鎔 二 尽規模 一、裂 二 破今古 一。且道、是什麼人分上事。夜寒回 レ 首清苕外、万頃蘆花雪一 蓬 。 と い う上堂が存し 、その後しばらくした上堂に 「理宗皇帝昇遐上堂」が収められて い ) 25 ( る。 昇 遐 と は 崩 御 のこ と で あ り 、 理宗 (趙昀 、初名は貴誠 、一二〇五─一二六四 、在位は一二二四─一二六四) が崩御したのは景定五年一〇月 で あるから 、 そ れ 以前に慧明は西湖南畔の浄慈寺の首座 と い う肩書 き で 思渓法宝資福禅寺の行鞏のもとを 訪 ね て いる ことが知られ、 行鞏は慧明の出身地 で ある苕渓 と 道 号 で ある雪 蓬 に ち なんだ こ とばを 述 べ て 首座の要職 を 称 え て いる。いうま で も なく 思渓の資福寺 (古くは円覚禅院) と い えば宋版大蔵経の思渓蔵 をもっ て 名高く 、印刷技術の優秀さ で 他 を 圧 倒 す る技術
雪 慧明の活動 と そ の功績(佐藤) 六三 を 備 え て いた ことが知られて いる。 ち な みに同じ『石林和尚語録』巻下「偈頌」には、 忠州陳安撫、廬州夏宣慰、委 二 慈侍者 一、印 二 造五燈会元 一、因説 レ 偈寄 レ 之。 鷲嶺寥寥照 二 夜燈 一、非 レ 明非 レ 暗見非 レ 親、千年令 二 焔一吹滅 一、白日青天両箇人。 と 記 さ れ て お り 、おそらく思渓法宝資福禅寺におい て 僧俗の篤志によっ て 慧明編集の宋版 『五燈会元』が初版より一〇 年余 を 経 て 再版刊行さ れ 、行鞏が こ れ に因ん で 偈 頌 を 寄せ て い る事実が知られ る。忠州 (四川省) の陳安撫 と 廬 州 (安徽省) の夏宣慰および実務 を 任せられ た慈侍者が こ の 『五燈会元』の印造が行鞏に と っ て 資 福寺 を 訪 れ た同門の慧明の動向 と 無縁 で あった とは見難い。 その後、 慧明は再び浄慈寺の智愚のもと に戻っ て 首座の任に就いたもの と 見 られ るが、 興 味 深 いのは『虚堂和尚語録』 巻一〇「仏事後録」に「侍者慧明 (恵明) 編」 と 記 さ れ て い る こ とで あろう。しかもその冒頭には、 咸淳元年三月十一日、 恭奉 二 聖旨 一、宣 入 二 大内 一 普説。先於 二 几筵殿 一、遷 二 理宗皇帝霊轝 一、入 二 正殿 一。拈香語録、 師不 レ 許 二 刊行 一。 と い う注目 す べき 記載が存し て いる。 すで に述べたごと く景定五年一〇月に崩御した理宗の霊輿 を 遷 す 儀 式が年 を 越 え て 咸淳元年 (一二六五) 三月一一日になさ れて いるが 、智愚はその儀式の導師 を 執り行うべく宮殿の内裏に赴 き、正殿 に て 亡 き 理宗のために拈香し て いる。 こ の とき 智愚は親しく首座の慧明 を 侍 者 と し て 伴っ て 大 内の几筵殿に赴い て おり、 慧明も随侍し て 宮中に入内し て い る こ と に なろう。ただ、智愚が大内 で 拈香し て な した普説は、智愚の意向 で 刊 行 す る ことを 許 さなかった と さ れ る から、随侍した慧明が聴聞筆 写 した普説の ことばの全文は日の目 を 見 る こ となく封印さ れ たこ と に な ろ ) 26 ( う。 また 「雪 蓬 明長老赴 二 禾興光孝 一 」の法語によ れば 、その後 、慧明は浄慈寺における首座の職位 を 終 え 、一旦 、智愚 のもとを 離れて 松 江 府 (江蘇省) の澱山普光王寺に開堂出世し て い るものらしい。 『至元嘉禾志』 巻四 「山阜」 の 「 松江府」 には澱山につい て 、 澱山 、在 二 府北六十里薛澱湖中 一。周回三百五十歩 、高三十丈 。考証 、山形四出如 レ 鼇、 上 建 二 浮図 一、下有 二 龍洞 一、屹 二 立湖中 一、 亦落星浮玉之類。傍有 二 小山 一、初年僅両席許、久之寖長。寺僧築 レ 亭、其上榜曰 二 明極 一。 と 記 さ れ て おり、同じく巻一〇「寺院」の「松江府」には山中の普光寺につい て 、 普光寺、在 二 府西北七十里薛澱湖 一。考証、寺在 二 湖中山頂 一。宋建炎元年、請 二 今額 一。
雪 慧明の活動 と そ の功績(佐藤) 六四 と 簡 略に記さ れて いる。また明の正徳七年 (一五一二) に刊行さ れ た『松江府志』巻一八「寺観上」によ れば、 澱山禅寺、薛澱湖中山頂。宋建炎初建。紹興中、賜 二 額普光王寺 一。元天暦中燬、郡人唐昱重建。国朝改 二 今額 一。 と 載 せられて いる 。澱山は松江府青浦県北六〇里 (または西北七〇里) の薛澱湖の湖中にある小山 で あ り 、山頂に澱山 普光王寺 (澱 山禅寺) が存した ことが知られ る 。慧明が澱山寺に開堂出世したのは咸淳元年の ことと 見 られ るが 、住持 を 勤めたのは わ ずか二年に すぎなかった と さ れ ) 27 ( る 。慧明は咸淳元年から翌二年ま で 澱 山寺の住持職 を 勤めたに すぎず 、 住持 を 辞 し て 杭州餘杭県西北五〇里の径山興聖万寿禅寺に赴 き 、再び智愚の席下に投じ て 首座に再任 す る こと にな ) 28 ( る。
﹃一帆風﹄の序文と嘉興府報恩光孝禅寺への入寺
おそらく慧明は浄慈寺 で 首 座 を 勤め て いた頃より日本僧の南浦紹明などとも積極的に交流 を 持 っ て いたもの と 見 ら れ 、径山におい て も 紹明 と 再 び集う こ と に なったものらしい。 『一帆風』の冒頭には、 日本明禅師 、 留 二 大唐 一 十年 、山川勝処 、遊覧殆遍 。洎 レ 見 二 知識 一、典 二 賓于輦寺 一。原 二 其所 一 レ 由、 如 二 善竊者 一、間不 レ 容 レ 髪、 無 レ 端於 二 凌霄峰頂 一、披認 二 来踪 一。諸公雖 三 巧為 二 遮蔵 一、畢竟片帆已在 二 滄波之外 一。 咸淳三年冬、苕谿慧明題。 と い う慧明が記した序文ないし題語が載せられて い ) 29 ( る 。 これ によっ て も 慧明が苕谿 (苕渓) の出身 で あった ことが確か められ、咸淳三年 (一二六七) の冬に紹明が日本に帰るために径山 を 辞 す るのに際し 、慧明は親しく 『一帆風』に序文 を 題 し て 餞別に添え て いる。慧明の序文 を 書 き 下 し て みるならば、 日本の明禅師 、大唐に留まる こと 十年 、山川の勝処 、遊覧し て 殆 ど 遍 し 。知識に見えるに洎ん で、賓 を 輦寺に典る 。其の由 る所 を 原ぬるに 、善く竊 む 者の如く 、間に髪 を 容 れず、端無くも凌霄峰頂に於い て、披 き て 来 踪 を 認 む 。諸公 、巧みに遮の 蔵 を 為すと 雖 も、畢竟し て 片 帆は已に滄波の外に在り。 咸淳三年の冬、苕谿の慧明、題 す 。 と いった具合になろう。紹明は住持の智愚のほか諸禅者より餞別の偈頌 を 得 て 後 、最後に首座の慧明のもと に出向い て 序文 を 依頼したもの で あり、慧明もその申し出 を 快 く受け入 れて 序文 を 撰し、去り行く紹明に書 き 与 え て いる わけ で あ る 。 『一帆風』の原本はすで に 現今に残さ れ て い ないが 、おそ らく実際に智愚 や 慧明さらに諸禅者が寄せた頌軸には慧雪 慧明の活動 と そ の功績(佐藤) 六五 明の直筆の序文が存し、また慧明の落款なども押さ れ て い た こ とで あろう。 こ の『一帆風』 や 先に示した無 学 祖元ゆか りの「送 二 雲渓 一 歌」の頌軸の原本がともに散逸し て い る こ とが惜しま れて ならない。 慧明は最初に紹明が日本からや っ て 来 て 南宋 (大唐) の地に一〇年も留まっ て 多くの山水の勝境 を 遊覧し尽くした こ とを 称え て いる。つい で 知識に見え て 賓 を 輦寺に典った と い うのは、紹明が虚堂智愚 と いう一代の大善知識 と 巡り合う ことが で き、杭州の径山におい て 六頭首の一つ知客 (典賓) の要職 を 勤めた ことを 述 べ て いる 。善く竊 む 者 とは密かに 仏法の大意 を 盗み取った者 で あ ろうから、凌霄峰が存 す る径山におい て 紹 明が一気に仏法 を 究め、西来意 を 悟り尽くし た こ とを 称えた表現 で あ ろう。最後に慧明は諸禅者が紹明の帰国 を 送 る偈頌 を 寄 せ て いるが、 すで にその船の帆は遥か 遠く海上にある と 結 ん で い ) 30 ( る。 咸淳四年 (一二六八) 秋九月に慧明はかつ て 智愚も住した こと のある嘉興府嘉禾の天寧報恩光孝禅寺に住持 す る こと になり、径山の智愚の席下 を 辞 し て い ) 31 ( る。澱山寺など に住持した僅かな期間 を 除 き 、慧明はほぼ智愚の晩年 を 共に生 き て おり、その活動はまさに智愚の法 を 嗣 いだ高弟 で あった と 見 て も 何ら不自然 で な ) 32 ( い。八四歳の智愚も山内の方丈 で あ る不動軒におい て 先 の 「 雪 蓬 明長老赴 二 禾興光孝 一 」の法語 を 書 し 、餞別 と し て 慧明に付与し て い る 。慧明が住持した 天寧寺につい て は 、明の万暦二八年 (一六〇〇) に刊行さ れ た『嘉興府志』巻四「寺観」の「郡城」に、 天寧禅寺、 在 二 郡治北一里 一。唐為 二 施水庵 一。宋治平間、 慕容殿丞請 二 于朝 一、 至 二 煕寧元年 一、 賜 二 名寿聖院 一。崇寧二年、 賜 二 名天寧寺 一。 政和六年 、改 二 名天寧万寿院 一。紹興七年 、改 二 名広孝院 一。十三年 、 改 二 光孝禅院 一、賜 二 田二千畝 一。洪武二十四年 、定為 二 今額 一。 内有 二 漢風閣・毘盧閣 一、後有 二 厳 助墓・ 厳 将 軍 井 ・宋徽宗御書 一。屏在 二 僧舎 一。 と あり、また清の光緒五年 (一八七九) に刊行さ れ た『嘉興府志』巻一八「寺観一」の「秀水県」に、 天寧禅寺、在 二 治北里許 一。漢 厳 助宅也。旧為 二 施水庵 一。唐咸通中、改為 レ 院。宋治平中、郡人慕容殿丞請 二 于朝 一、更為 二 十方禅 刹 一。煕寧元年 、賜 二 名寿聖院 一。崇寧二年 、賜 二 名天寧寺 一。政和六年 、改 二 名天寧万寿院 一。殿西池上 、 建 二 臨清軒 一。紹興七年 、 改 二 名広孝院 一。十三年、以 三 孝宗誕 二 毓是地 一、改 二 報恩光孝禅院 一、賜 二 田二千畝 一。元至元初、為 二 天寧万寿禅寺 一。至正中、僧良 念重修、又建 二 静淥軒于殿左 一。僧力金、建 二 深雪 軒 于 殿 右 一。 と 記 さ れ て お り 、 寺の変遷沿革が知られ る 。 これらによ れば 、天寧報恩光孝禅寺は嘉興府治 (秀水県) 北一里に存した 禅寺 で あり、流虹興聖禅寺 と ともに宋室ゆかりの禅寺 と し て 重 き をなし て いたものらし ) 33 ( い。元代末期におい て も 破庵派