栄 西 門 流の 入 宋 渡 海( 中 尾) は じ め に 栄 西( 一 一 四 一~ 一 二 一 五) は 、 叡 山 覚 阿( 一 一 四 三 ~ ? ) や 大 日 房 能 忍( 生 没 年 不 詳) な ど と 同じ く 、 叡 山 教 学の 中か ら 宋 朝 禅に 関 心を 向け た 僧で あ る が 、 一 般 的に は 日 本 禅 宗の 初 祖と し て 理 解さ れ て い る 。 実 際に は 、 覚 阿が 杭 州 霊 隠 寺の 仏 海 慧 遠( 一 一〇 三~ 七 六) に 嗣 法し た の は 淳 煕 元 年( 一 一 七 四) で あ り 、 能 忍が 弟 子 二 名に 所 悟の 偈 を 託し て 阿 育 王 寺の 拙 庵 徳 光( 一 一 二 一~ 一 二〇 三) に 呈 せ し め 、 自 賛 頂 相お よ び 達 磨 像を 授か っ た の が 文 治 五 年( 一 一 八 九) で あ っ て 、 い ず れ も 栄 西が 虚 菴 懐 敞に 嗣 法し て 帰 国し た 建 久 二 年( 一 一 九 一) よ り 早い 。 し か し 、 栄 西は 禅 宗 初 祖と し て の 立 場を 確 立し 、 そ の 兼 修 的 禅 風は し ば し ば 論 議の 対 象と な っ た が 、 今 日も そ の 地 位は 揺る ぎ な い と い っ て よ い 。 退 耕 行 勇( 一 一 六 三~ 一 二 四 一) と 釈 円 房 栄 朝( ? ~ 一 二 四 七) は 、 栄 西 門 下の 双 璧と い う べ き 高 弟で あ る 。 日 本 禅 宗の 歴 史を 語る に 際し て 、 常に 栄 西が 論 及さ れ る 割に は 、 弟 子の 退 耕 行 勇・ 栄 朝、 あ る い は 明 全( 一 一 八 四~ 一 二 二 五) と い っ た 人 達に つ い て は 、 触れ ら れ る こ と が 少な い 。 行 勇が 由 良( 和 歌 山 県) 興 国 寺 開 山 無 本 覚 心( 一 二〇 七~ 九 八) に 、 栄 朝が 京 都 東 福 寺の 円 爾( 一 二〇 二~ 八〇 ) に 、 明 全が 道 元( 一 二〇 〇 ~ 五 三) に と 、 そ れ ぞ れ 後に 日 本 禅 宗 史 上の 重 要な 存 在と な る 僧に 、 少な か ら ず 影 響を 与え た 【 研 究 会】
栄
西
門
流の
入
宋
渡
海
─
─
道
元と
の
関
係を
中
心と
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─
─
中
尾
良
信
栄 西 門 流の 入 宋 渡 海( 中 尾) に も 関わ ら ず 、 行 勇・ 栄 朝・ 明 全 自 身の 仏 法と は ど の よ う な も の か と い う こ と に な る と 、 史 料が 少な く 、 し か も 断 片 的で あ る 。 ま た 三 者と も に 、 後 世に 残し た 撰 述が な い と い う 点で も 共 通し て お り 、 十 分な 研 究が な さ れ て い る と は い え な い 。 明 全は 、 道 元が 如 浄に 嗣 法す る 以 前の 師と し て 知ら れ て い る 。 道 元は 三 井 寺の 公 胤の 指 示に よ っ て 、 禅 宗を 学ぶ た め に 建 仁 寺を 訪ね た と さ れ る が 、 実 際に 栄 西に あ っ た か ど う か は 、 時 間 的に も 微 妙で あ る 。 む し ろ 、 現 実に 道 元に 影 響を 与え た の は 明 全で あ り 、 道 元の 持っ て い る 栄 西に 対す る イ メ ー ジ は 、 ほ と ん ど 明 全を 通じ て 得た も の と 見て よ い と 思わ れ る 。 明 全は 道 元を 伴な っ て 入 宋し 、 宝 慶 元 年( 一 二 二 五) 五 月 二 十 七 日、 天 童 山 了 然 寮で 示 寂す る 。 宋 地で 客 死し た 明 全は 、 必 然 的に そ れ 以 降 活 躍す る こ と な く 、 若 干の 弟 子が い た と 思わ れ る も の の 、 道 元 以 外に 記 録に 残る 活 動を し た 者が な い た め に 、 結 果と し て 、 常に 道 元と の 関 わ り に お い て 語ら れ る こ と に な っ た の で あ る 。 栄 朝は 、 栄 西の 密 禅 併 修と い う 宗 風を 継 承し 、 上 州 世 良 田( 群 馬 県) 長 楽 寺の 開 山と な っ て 、 多く の 僧を 接 化し た 。 栄 朝の 門 流は そ れ な り に 栄え 、 法 嗣に 寿 福 寺 四 世の 蔵 叟 朗 誉( 一 一 九 四~ 一 二 七 七) が あ り 、 以 下 寂 庵 上 昭( 一 二 二 九~ 一 三 一 六) ─ 龍 山 徳 見( 一 二 八 四~ 一 三 五 八) と 次 第し て 、 室 町 期に は 多く の 文 筆 僧を 輩 出し て い る 。 栄 朝は 、 栄 西の 葉 上 流や 蓮 華 流な ど の 台 密を 受け て い る が 、 そ の 法 系 は 、 入 元し た 龍 山 徳 見に 至っ て 純 粋 禅に 変わ っ た と さ れ て お り 、 栄 朝の 密 教 的 禅 風は 、 む し ろ 参 学の 徒で あ っ た 円 爾 に 継 承さ れ 、 長 楽 寺に も 聖 一 派の 人が し ば し ば 住し て い る 。 承 久 三 年( 一 二 二 一) 長 楽 寺の 開 山と な っ て 以 後、 栄 朝の 活 動の 中 心は 長 楽 寺で あ っ た よ う で 、 師 栄 西が 鎌 倉・ 京・ 奈 良を ま た に か け て 活 動し た の と は 対 照 的で あ る ( 尾 崎 喜 左 雄『 上 野 長 楽 寺の 研 究』 参 照) 。 行 勇は 、 師 栄 西の 在 世 中は ほ と ん ど 活 動を 共に し 、 栄 西 開 創の 寺 院を 継ぎ 、 お そ ら く 栄 西の 一 門を 引き 継い だ と 思 わ れ る 。 つ ま り 、 栄 西の 宗 風と 活 動、 さ ら に は 僧 団を 相 続 し た と い う 意 味に お い て 、 栄 西 門 流の 中 心と な っ た 人で あ る 。 そ の 活 動は 、 師 栄 西が 中 心と し た 鎌 倉・ 京・ 奈 良の 三 都に 加え 、 高 野 山に も 及ん で い る 。 法 嗣に 、 禅 宗の 威 儀を 日 本に 伝え た と さ れ る 大 歇 了 心( 不 詳) が い る が 、 金 剛 三
栄 西 門 流の 入 宋 渡 海( 中 尾) 昧 院 二 世と な っ た 中 納 言 法 印 隆 禅や 、 後に 臨 済 宗 法 燈 派の 祖と な る 心 地 房 無 本 覚 心も 、 長く 会 下に 在っ て 影 響を 受け て い る 。 栄 西 門 流の 僧た ち を 見る と き 、 興 味 深い の は 入 宋 経 験 者 が 多い こ と で あ る 。 そ の 意 味で 当 時の 建 仁 寺は 、 渡 海 求 法 し よ う と す る 僧に と っ て は 、 も っ と も 情 報を 入 手し や す い 場 所で あ っ た と 思わ れ る 。 道 元が 三 井 寺の 公 胤か ら 受け た 指 示も 、 入 宋 求 法を 視 野に 入れ た も の で あ っ た 可 能 性は 高 く 、 建 仁 寺へ の 移 錫と い う 問 題も 、 そ う し た 視 点か ら 再 検 討す る 必 要が あ る 。 本 稿で は 、 従 来 渡 海 求 法を 伝え ら れ て い な い 行 勇の 入 宋、 入 宋 渡 海を 前 提と し て 見た 道 元と 明 全 と の 関 係、 行 勇 門 流と し て の 中 納 言 法 印 隆 禅・ 無 本 覚 心と 道 元の 関 係を 検 討す る こ と で 、 道 元 自 身の 入 宋 求 法が 、 ど の よ う な 環 境の 中で 進め ら れ た の か を 考え る 一 助と し た い 。 一 退 耕 行 勇の 入 宋 行 勇の 伝 記は 、 江 戸 期の 『 延 宝 伝 燈 録』( 大 日 本 仏 教 全 書 一〇 八)『 本 朝 高 僧 伝』( 大 日 本 仏 教 全 書 一〇 九) に は 立 伝 さ れ て い る が 、 そ の 分 量は 決し て 多く は な く 、 し か も 『 元 亨 釈 書』 に は 立 伝さ れ て い な い 。し た が っ て そ の 行 実も け っ し て 明ら か で は な か っ た 。 仁 治 二 年( 一 二 四 一) 七 月 五 日 七 十 九 歳で 示 寂し て い る の で 、 そ の 誕 生は 長 寛 元 年( 一 一 六 三) と い う こ と に な る 。 初め 玄 信と 称し 、 東 寺 任 覚( 一 一〇 九~ 八○ ) に 密 教を 学び 、 東 大 寺で 登 壇 受 戒し て 荘 厳 房 行 勇と な っ た 。 十 九 歳で 鎌 倉 鶴 岡 八 幡 宮の 供 僧と な り 、 そ の 後、 鎌 倉に 下 向し た 栄 西に 参 随し て そ の 法 嗣と な り 、 栄 西の 後を 承け て 寿 福 寺や 建 仁 寺に 住す る と と も に 、 東 大 寺 大 勧 進 職に も 就き 、 さ ら に 高 野 山 金 剛 三 昧 院の 第 一 世に も な っ た と い う の が 、 右に 挙げ た 史 料が 伝え る 事 跡で あ る 。 行 勇の 伝 記と し て は 、 右の 僧 伝 類の 外に は 、 そ れ ら の 典 拠で も あ る 『 吾 妻 鏡』 の 、 該 当す る 記 事を 参 考と す る 程 度 で あ り 、 単 独の 行 勇 伝は 確 認さ れ て い な か っ た 。 と こ ろ が 、 行 勇 開 山の 稲 荷 山 浄 妙 寺( 神 奈 川 県 鎌 倉 市) 所 蔵『 開 山 行 状 并 足 利 霊 符』 が 、 市 教 育 委 員 会に よ る 文 化 財 調 査に お い て 、 確 認さ れ 、 そ の 中に 編 年 体と 散 文の 二 種の 行 勇 伝が 含 ま れ て い る こ と が 判 明し た ( こ の 史 料に つ い て は 、 行 勇 伝 の 全 文を 『 曹 洞 宗 研 究 紀 要』 十 九 号に 紹 介し た ) 。 非 常に 興 味 深い 記 事を 含ん で い る が 、 一 方で か な り 重 大な 問 題 点を
栄 西 門 流の 入 宋 渡 海( 中 尾) も 抱え て い る 史 料で あ る 。 例え ば 、 編 年 体の 行 勇 伝で あ る 「 行 勇 禅 師 年 考」 は 、 そ の 記 述の ほ と ん ど を 『 吾 妻 鏡』 と 「 当 寺 大 過 去 牒」 に 拠っ て い る が 、 四 十 八 箇 所に の ぼ る 『 吾 妻 鏡』 の 引 用 中、 年 記が 食い 違っ て い る も の や 、 記 事そ の も の が 『 吾 妻 鏡』 に 見ら れ な い も の が 実に 十 一 箇 所も あ り 、 あ る 意 味で は 致 命 的な 問 題 点と な っ て い る 。 ま た 「 当 寺 大 過 去 牒」 も 、 現 時 点で は 所 在 不 明で あ り 、 散 佚し た も の と 思わ れ る 。 『 開 山 行 状 并 足 利 霊 符』 は 表 紙 共 五 十 八 丁の 袋 綴 写 本で 、 本 文 初 丁よ り 第 二 十 三 丁ま で が 「 行 勇 禅 師 年 考」 と 題さ れ た 編 年 体の 伝 記で あ る 。 長 寛 元 年 九 月の 誕 生か ら 仁 治 二 年 の 示 寂ま で を 、 前に も 述べ た よ う に 『 吾 妻 鏡』 と 「 当 寺 大 過 去 牒」 を 主な 典 拠と し て 綴っ て い る 。 示 寂に つ い て 『 延 宝 伝 燈 録』 巻 六( 大 日 本 仏 教 全 書 一〇 八、 一〇 八 頁) で は 、 七 月 五・ 十 五 日、 十 月 二 十 一 日の 諸 説を 挙げ 、 そ の 地を 東 勝 寺と し て い る が 、「 行 勇 禅 師 年 考」 で は 寿 福 寺で 七 月 十 五 日 早 朝に 、 と し て い る 。 相 模 国 酒 匂の 人と す る 説も あ る が 、 こ こ で は 「 京 城 藤 家」 に 生ま れ る と し 、 嘉 応 元 年( 一 一 六 九) 父に 連れ ら れ て 仁 和 寺の 覚 性( 一 一 二 九~ 六 九) に 就 い て 出 家し 、 玄 信と 安 名さ れ た と し て い る 。 覚 性は 嘉 応 元 年に 示 寂し て い る の で 、 そ の 直 前、 あ る い は 最 後の 弟 子で あ っ た と 思わ れ る 。 そ の 後、 東 寺 長 者 任 覚に 密 教を 学び 、 任 覚が 示 寂す る 前 年の 治 承 三 年( 一 一 七 九) 、 十 七 歳で 東 大 寺 戒 壇 院に 登っ て 具 足 戒を 受け 、 荘 厳 房 行 勇と な っ て い る 。 治 承 五 年( 一 一 八 一) 十 月 六 日 付け で 、 鶴 岡 八 幡 宮 最 勝 講 供 僧に 任じ ら れ て い る が 、「 鶴 岡 西 谷 慈 月 坊」 に 入っ た の は 九 月 二 十 六 日、 ま た 前 年の 十 月に は 伊 豆に 在っ た ら し い 。 鎌 倉 下 向の 事 情に つ い て は 明ら か で は な い が 、 東 寺 任 覚が 治 承 四 年に 寂し て い る の で 、 そ の こ と と 関 係す る の か も 知 れ な い 。 『 吾 妻 鏡』 に お い て 行 勇の 名が 最 初に 見ら れ る 記 事は 、 正 治 元 年( 一 一 九 九) 四 月 二 十 三 日、 頼 朝 百 箇 日 法 要の 導 師 を 勤め る と い う も の で あ る ( 国 史 大 系 本 二、 五 五 七 頁) 。 し か し 「 行 勇 禅 師 年 考」 は 「 当 寺 大 過 去 牒」 を 典 拠と し て 、 そ れ 以 前に 非 常に 重 大な 記 事を 収め て い る 。 す な わ ち 元 暦 元 年( 一 一 八 四) の 条に 、「 過 去 牒に 云く 、 春 三 月、 朝 公 ( 頼 朝) の 命を 奉じ て 、 慈 月 坊を 周 防 法 眼 有 俊に 付し 、 入 宋 し て 密 頤を 究む 」 と あ る も の で あ る 。『 延 宝 伝 燈 録』 な ど に
栄 西 門 流の 入 宋 渡 海( 中 尾) は 、 行 勇が 渡 海 入 宋し た と い う 記 録は な く 、 こ の 記 事の 典 拠も 『 吾 妻 鏡』 で は な く 「 当 寺 大 過 去 牒」 で あ る た め に 、 現 時 点で は 他に こ の こ と を 傍 証す る 史 料は な い 。 わ ず か に 行 勇の 入 宋を 伝え る 史 料と し て 、 福 岡 市 横 嶽 山 崇 福 寺 所 蔵 『 支 竺 桑 名 山 諸 寺 記 録』 が あ り 、「 稲 荷 山 浄 妙 寺」 の 項に 開 山 行 勇に 関す る 私 記と し て 、「 退 耕 禾 上、 道 源と 同じ く 入 唐 す 、 帰る に 及ん で 舟 洗 海し て 逝く 」 と あ り 、 昭 和 三 十 九 年 発 行の 『 聖 福 寺 史』( 三 七 頁) に も 、 第 五 世 行 勇の 行 実に 参 考と し て 述べ ら れ て い る 。 し か し 、 内 容と し て は 行 勇の 他 の 伝 記と 齟 齬す る 部 分が 多く 、 傍 証 史 料と し て は 採 用で き な い 。 文 治 四 年( 一 一 八 八) 条に は 、「 過 去 牒に 云く 、 秋 八 月、 師 宋よ り 帰り 直ち に 鎌 倉に 入る 。 朝 公 渥 遇す る こ と ま す ま す 厚し 」 と あ り 、 在 宋 四 年 余り で 帰 国し た こ と に な る が 、 具 体 的に 訪れ た 場 所や 参 学し た 人の 名は 挙げ ら れ て い な い 。 た だ 、 後に 行 勇の 師と な る 栄 西の 、 二 回 目の 入 宋が 文 治 三 年( 一 一 八 七) か ら 建 久 二 年( 一 一 九 一) ま で の 四 年 間で あ り 、 行 勇の 入 宋が 事 実で あ る な ら ば 、 両 者の 在 宋 期 間は 、 一 年 前 後の 重な り を 持つ こ と に な る 。 両 者が 宋 地で な ん ら か の 関わ り を 持ち 得た か ど う か は 不 明で あ る が 、 栄 西と 行 勇と の 出 会い と い う こ と に つ い て 、 ひ と つ の 可 能 性を 示 唆 す る も の で は あ る 。 栄 西が 建 久 五 年( 一 一 九 四) に 弘 法 活 動を 停 止さ れ た 後(『 百 錬 抄』) 、 鎌 倉に 下 向す る 事 情に つ い て は 、 第 一 回 入 宋の 際、 と も に 帰 国し た 俊 乗 房 重 源と 、 親 幕 府 派で あ っ た 九 条 兼 実と の 関 係な ど 、 こ れ ま で 背 景と な る 事 情は 論じ ら れ て い た が 、 直 接 的な 要 因に つ い て は 必ず し も 明ら か で は な い 。あ く ま で 仮 定と し て の こ と で あ る が 、 在 宋 中の 行 勇が 栄 西と 接 触し な い ま で も 、 お 互い の 名を 聞 き 及ぶ 程 度の こ と は あ っ た か も 知れ ず 、 少な く と も 同 時 期 に 在 宋し て い た 親 近 感が あ れ ば 、 鎌 倉 下 向の 要 因の 一つ と 見る こ と も 可 能で あ ろ う 。 建 久 二 年( 一 一 九 一) の 条に は 、「 こ の 年 夏 四 月、 西 祖 ( 栄 西) 天 童 虚 菴の 衣を 伝え て 帰 朝し 、 相( 相 模) の 亀 谷に 寓 止す 、 師し ば し ば こ れ に 謁し 、 つ い に 禅 関を 透る 」 と あ り 、 栄 西の 帰 朝を 伝え る と と も に 、 栄 西が 帰 朝 後あ ま り 時 を 経ず に 鎌 倉に 入っ た こ と を 窺わ せ る 表 現で あ り 、 そ こ へ 行 勇が 参じ て 禅 関を 透っ た と い う こ と に な っ て い る 。 こ れ ら の 記 事は 、 行 勇の 入 宋と 、 宋 地で の 両 者の 関 係を 前 提と
栄 西 門 流の 入 宋 渡 海( 中 尾) し て い る と 考え ら れ る 。 と こ ろ が 、 建 久 三 年 条に は 「 東 鑑 ( 吾 妻 鏡) に 云く 、 冬 十 一 月、 永 福 寺( 二 階 堂の 地に 在り ) 造 営の 事 畢ん ぬ 。 結 構 比 類 無し 、 栄 西を 請し て 供 養 導 師と 為し 、 師を し て 一 世 長 老と 為さ し む 」 と あ る も の の 、 肝 心 の 『 吾 妻 鏡』 で は 、 永 福 寺 落 慶 法 要の 供 養 導 師は 「 公 顕」 と な っ て お り ( 国 史 大 系 本 二、 四 七 五 頁) 、 結 果 的に こ の 部 分は 、『 開 山 行 状 并 足 利 霊 符』 自 体の 信 憑 性に 関わ る 部 分と な っ て い る 。 実 際に 『 吾 妻 鏡』 に 栄 西が 登 場す る の は 、 正 治 元 年( 一 一 九 九) 秋、 政 子を 施 主と し た 不 動 明 王 開 眼 供 養の 導 師と し て で あ る ( 国 史 大 系 本 二、 五 六〇 頁) 。 行 勇は 同 年 四 月 二 十 三 日、 頼 朝 百 箇 日 供 養の 導 師を 勤め ( 同 書 五 五 七 頁) 、 以 後も 栄 西と と も に 幕 府や 北 条 氏 関 係の 法 要の 導 師を 勤め て い く の で あ り 、 現 時 点で は 『 吾 妻 鏡』 と 「 行 勇 禅 師 年 考」 の 記 事に お け る 齟 齬と い う 問 題は 残る も の の 、 栄 西の 鎌 倉 下 向の 機 縁そ の も の に 、 行 勇 自 身が 関わ っ て い た 可 能 性は 否 定で き な い 。 北 条 政 子は 、 安 達 泰 盛の 勧め で 、 頼 朝の 菩 提を 弔う た め に 高 野 山に 金 剛 三 昧 院を 開 創し 、 行 勇を 第 一 世と し た 。『 金 剛 三 昧 院 文 書』( 高 野 山 文 書 第 二 巻) に は 、「 金 剛 三 昧 院 住 持 次 第」「 金 剛 三 昧 院 紀 年 誌」「 法 燈 国 師 行 勇 法 系」 な ど が 収め ら れ て お り 、 そ れ ぞ れ 行 勇に 言 及し て い る が 、 特に 興 味 深い の は 「 法 燈 国 師 行 勇 法 系」( 三 八 二 頁) で あ る 。 こ の 文 書 名は 、 行 勇の 諡 号が 「 法 燈 国 師」 で あ る か の よ う に 記 し て い る が 、 実 際に は 「 法 燈 国 師」 は そ の 弟 子と も い う べ き 無 本 覚 心の 国 師 号で あ る 。 冊 子 本の こ の 史 料の 表 紙に は 、 「 行 勇 禅 師 年 考 草」 と あ る と 注 記さ れ て お り 、 あ る い は 編 纂 の た め に 文 書 名を 付け る 際、 覚 心と 行 勇を 混 同し た と も 考 え ら れ る 。 内 容 的に は 、 中 国の 石 霜 楚 円 以 降、 臨 済 宗 黄 龍 派の 主な 祖 師、 虚 菴 懐 敞、 明 庵 栄 西、 栄 西の 弟 子を 挙げ 、 さ ら に 行 勇の 弟 子と し て 大 歇 了 心・ 西 勇・ 隆 禅を 挙げ て い る が 、 行 勇に つ い て 「 か つ て 偏く 宋 地に 遊び 、 諸 老の 門に 登る 」 と あ り 、 そ の 入 宋を 伝え て い る の で あ る 。「 行 勇 禅 師 年 考 草」 は 、 記 述そ の も の は ご く 簡 単で あ る が 、 や は り 『 吾 妻 鏡』 を 引 用し な が ら 編 年 体で 綴ら れ て い る 。 表 題も 『 開 山 行 状 并 足 利 霊 符』 所 収の 「 行 勇 禅 師 年 考」 を 連 想さ せ る も の で あ り 、 両 書の 引 用 箇 所を 比 較す る と 、 分 量の 差は あ る が 概ね 一 致し て い る 。 想 像を 逞し く す れ ば 、『 金 剛 三 昧 院 文 書』 所 収の 「 行 勇 禅 師 年 考 草」 は 、『 開 山 行 状 并 足 利 霊
栄 西 門 流の 入 宋 渡 海( 中 尾) 符』 所 収「 行 勇 禅 師 年 考」 の 草 稿で あ る の か も 知れ な い 。 「 行 勇 禅 師 年 考 草」 の 末 尾に は 、「 異 筆」 と い う 但し 書が あ る も の の 、「 塔を 浄 妙 寺に 建つ 、 被 雲 野 衲 昌 能」 と あ る 。 被 雲 野 衲は 、 法 孫と い う 意 味で あ ろ う 。 昌 能と は 、 江 戸 期 に 浄 妙 寺の 行 勇の 塔 頭で あ る 光 明 院に 住し た 僧で 、 別に 懶 禅 玄 能と も 称し 、 元の 中 峰 明 本( 一 二 六 三~ 一 三 二 三) の 系 統で あ る 臨 済 宗 幻 住 派に 属す る 人で あ る 。 幻 住 派の 僧は 同 時に 夢 窓 派に も 属す る こ と が 多く 、「 昌 能」 は 夢 窓 派 僧 侶 と し て の 名で あ る 。 昌 能( 玄 能) は 、 幻 住 派の 歴 史や 伝 法・ 伝 戒の 規 式を ま と め た 『 浮 木 集』( 駒 澤 大 学 図 書 館 所 蔵) を 撰 述し た こ と が 知ら れ て い る 。『 浮 木 集』 の 成 立が 享 保 年 間 ( 一 七 一 六~ 三 六) と 見ら れ 、『 開 山 行 状 并 足 利 霊 符』 は 、 内 容か ら 推 測し て 寛 文 年 間( 一 六 六 一~ 七 三) 以 降の 成 立 と 考え ら れ る 。 時 間 的に は 昌 能が こ の 両 書の 撰 者で あ る 可 能 性は あ り 、 自ら が 属す る 法 系の 歴 史や 、 止 住し て い る 寺 の 歴 史・ 開 山の 行 実を ま と め よ う と し た と す れ ば 、 両 書の 内 容は そ の 目 的に 適っ た も の で あ る と い え る 。 行 勇の 行 実は な お 不 明な 部 分が 多く 、 検 討す べ き 問 題 点 も 少な く な い 。 栄 西の 鎌 倉に お け る 活 動は 、 行 勇と の 関わ り を 抜き に は 考え ら れ な い し 、 密 禅 併 修と い う 栄 西の 禅 風 が 、 ど の よ う に 展 開し た の か に つ い て も 、 行 勇 自 身や 、 そ の 門 流の 活 動を 通し て 眺め る こ と が 不 可 欠で あ る 。そ こ で 、 栄 西の 後 継 者が 行 勇で あ る と い う こ と を 前 提と し た 上で 、 道 元と の 関わ り が 深か っ た 明 全に つ い て 検 討し 、 さ ら に 行 勇の 高 弟の 一 人で あ る 中 納 言 法 印 隆 禅と 、 結 果 的に は 法 嗣 に な ら な か っ た も の の 、 長く 参 随し て 影 響を 受け た 心 地 房 無 本 覚 心に つ い て も 、 道 元と の 関 係を 視 野に 入れ な が ら 検 討し て み た い 。 二 仏 樹 房 明 全に つ い て 前に も 述べ た よ う に 、 行 勇と は 栄 西 会 下の 同 門で あ る 明 全は 、 そ の 弟 子 道 元と の 関わ り に お い て の み 言 及さ れ る こ と が 多い 。 明 全に 関す る 史 料に つ い て も 、 ほ と ん ど 曹 洞 宗 関 係の も の に 限ら れ る 。 例 外 的に 、 栄 西 関 係の 史 料に 明 全 が 登 場す る も の と し て 『 千 光 法 師 祠 堂 記』 が あ り 、 栄 西 示 寂の 十 年 後、 天 童 山に 在っ た 明 全が 、 栄 西の 忌 日 七 月 五 日 に 「 楮 券 千 緡」 を 喜 捨し て 供 養し た 、 と 伝え て い る ( 続 群 書 類 従 九 - 上、 二 七 三 頁) 。
栄 西 門 流の 入 宋 渡 海( 中 尾) 道 元が 明 全に 参 学し た こ と は 、『 三 祖 行 業 記』『 三 大 尊 行 状 記』 を は じ め 、 瑩 山 紹 瑾( 一 二 六 八~ 一 三 二 五) が 著し た 『 伝 光 録』『 洞 谷 記』、 さ ら に 後 世の 史 料も 一 致し て 伝え る と こ ろ で あ り 、 ま ち が い の な い と こ ろ で あ ろ う 。 道 元 自 身『 辧 道 話』 に 、 ち な み に 建 仁の 全 公を み る 。 あ ひ し た が ふ 霜 華、 す み や か に 九 廻を へ た り 。 い さ さ か 臨 済の 家 風を き く 。 全 公は 祖 師 西 和 尚の 上 足と し て 、 ひ と り 無 上の 仏 法を 正 伝せ り 、 あ へ て 余 輩の な ら ぶ べ き に あ ら ず ( 岩 波 文 庫『 正 法 眼 蔵』 一、 一 二 頁) と 述べ て 、 参 学の 事 実を 明か し て い る 。 ま た 明 全が 栄 西 門 下に お い て 並ぶ 者の な い 程の 人 物で あ り 、 栄 西の 仏 法を 正し く 嗣い だ こ と を 述べ て い る 。 同じ こ と を 『 伝 光 録』 は 、 カ ノ 明 全 和 尚ハ 顕 密 心ノ 三 宗ヲ ツ タ エ テ 、 ヒ ト リ 栄 西 ノ 嫡 嗣タ リ 、 西 和 尚、 建 仁 寺ノ 記ヲ 録ス ル ニ 曰、 法 蔵 ハ タ ダ 明 全ノ ミ ニ 嘱ス 、 栄 西ガ 法ヲ ト ブ ラ ワ ン ト オ モ フ ト モ ガ ラ ハ 、 ス ベ カ ラ ク 全 師ヲ ト ブ ロ フ ベ シ (『 曹 洞 宗 全 書』 宗 源 下 三 九 一 頁) と 伝え て い る 。 し か し 、 現 実に は 、 栄 西 門 下に お い て は 行 勇・ 栄 朝を 双 璧と す べ き で あ り 、 明 全は あ ま り 知ら れ て い る と は い え な い 。 道 元の 評 価が 極め て 高い も の で あ る だ け に 、 多 少 不 自 然な 感じ が し な い で も な い が 、 ひ と つ の 大 き な 理 由は 、 明 全 自 身が 在 宋 中に 天 童 山で 客 死し た 、 と い う こ と で あ ろ う 。『 正 法 眼 蔵 随 聞 記』 に よ れ ば 貞 応 二 年( 一 二 二 三) 明 全は 、 病 床の 受 業 師 明 融 阿 閣 梨の 懇 請を 振り 切 り ( 春 秋 社『 道 元 禅 師 全 集』 七、 一 三 八 頁) 、 道 元・ 高 照・ 廓 然 等を 伴な っ て 渡 海、 は じ め 明 州( 浙 江 省 寧 波 市) の 景 福 律 寺を 訪れ 、 次い で 天 童 山に 登っ て 無 際 了 派( 一 一 四 九 ~ 一 二 二 四) に 参じ た 。 道 元は 入 宋 直 後、 明 全と 別 行 動を と る が 、 や が て 天 童 山で 再 会す る 。 無 際 了 派の 示 寂 後、 後 住と し て 天 童 山 景 徳 寺に 入っ た 如 浄と 、 道 元が 直 接に 対 面 し た 直 後と も い え る 宝 慶 元 年( 一 二 二 五) 五 月 二 十 七 日、 明 全は 天 童 山の 了 然 寮で 示 寂し た 。 明 全の 客 死に つ い て は 、 道 元 自 身が 認め た 記 録と し て 、「 舎 利 相 伝 記」「 明 全 戒 牒 奥 書」 ( 春 秋 社『 道 元 禅 師 全 集』 七、 二 一 六・ 二 三 四 頁) が 遺っ て い る 。 『 開 山 行 状 并 足 利 霊 符』 の 「 行 勇 禅 師 年 考」 嘉 禄 二 年( 一 二 二 六) 条に 「 同 三 月、 明 全 宋 地に 寂す 、 師 訃 音を 聞き 、
栄 西 門 流の 入 宋 渡 海( 中 尾) 嘆い て 云く 、 惜し む べ し 祖 家の 一 隻を 失う こ と を 」 と あ り 、 行 勇が 明 全の 示 寂を 知っ て 悼ん だ こ と を 伝え て い る が 、 道 元が 明 全の 舎 利を 携え て 帰 国す る の は 、 翌 安 貞 元 年( 一 二 二 七) の こ と で あ る 。 行 勇は ど う い う 経 路で 明 全の 示 寂を 知り 得た の で あ ろ う か 。 商 人な ど の 往 来は 頻 繁で あ り 、 今 日 想 像す る 以 上に 情 報の 流 通は 円 滑で あ っ た か も 知れ な い が 、 前に 述べ た 行 勇 自 身の 入 宋 問 題と の 関 係に つ い て も 、 検 討の 余 地が あ る 。 同 時に 、「 祖 家の 一 隻」 と い う 表 現は 多 分に 追 悼の 意を 込め て で あ ろ う が 、 臨 済 宗 関 係の 史 料に 明 全が 登 場す る 数 少な い 例と し て 、 注 意し て お き た い 。 道 元は 叡 山で 出 家し 、 後に 三 井 寺の 公 胤の 指 示に よ っ て 建 仁 寺に 赴く の で あ る が 、 生 前の 栄 西と 相 見し た の か ど う か 、 時 間 的に は 非 常に 微 妙で あ り 、 実 際に は 相 見し な か っ た と す る 説が 有 力で あ る 。 従 来は 、 大 久 保 道 舟 氏が 『 道 元 禅 師 伝の 研 究』( 八 三 頁) に お い て 、 周 到な 相 見 説を 展 開さ れ 、 定 説 化す る か に 見え た が 、 そ の 後、 古 写 本『 建 撕 記』 な ど 新 出 史 料の 発 見も あ り 、 鏡 島 元 隆 氏が 否 定 的な 見 解を 示さ れ て い る (『 道 元 禅 師と そ の 周 辺』「 栄 西 道 元 相 見 問 題 に つ い て 」)。 現 時 点で は 鏡 島 説が 最も 妥 当と 思わ れ る 。 し か し 、 栄 西 示 寂 直 後に は 建 仁 寺に 関 係を 持っ て い た の で あ る し 、 明 全の 舎 利を 携え て 帰 国し た 後も 、 五 年に わ た っ て 建 仁 寺に 滞 在す る の で あ る か ら 、 通 算す れ ば 相 当の 期 間、 建 仁 寺に 止 住し た こ と に な る 。 に も か か わ ら ず 、 道 元が 臨 済 禅の 薫 陶を 受け た の は 明 全か ら と さ れ 、 そ れ 以 外の 人と の 関 係は 、 ほ と ん ど 言 及さ れ て こ な か っ た の で あ る 。 『 開 山 行 状 并 足 利 霊 符』 所 収の 、 散 文の 行 勇 伝で あ る 「 開 山 勇 禅 師 行 状」 に は 、 行 勇に 参じ た 人と し て 、 大 歇 了 心・ 妙 寂 全 玄( ? ~ 一 二 五 七)・ 隆 禅な ど の 法 嗣の ほ か に 、 無 本 覚 心・ 栄 朝・ 円 爾・ 妙 見 堂 道 祐( 一 二〇 一~ 五 六)・ 道 元 を 挙げ て い る 。 覚 心と 円 爾に つ い て は 行 勇へ の 参 学が 伝え ら れ て い る が 、 栄 朝・ 道 祐・ 道 元に つ い て は 、 僧 伝 類に も 行 勇 参 学と い う こ と は 伝え ら れ て い な い 。 た だ 道 元の 場 合 は 、 そ の 伝 記で あ る 『 建 撕 記』( 明 州 本) に 、 御 弟 子 明 全は 、 あ る い は 仏 樹、 あ る い は 行 勇 禅 師と 申 す な り 。 栄 西 入 滅 已 後は 行 勇に 問 法す と 、 云々 (『 諸 本 対 校 建 撕 記』 八 頁) と あ り 、 明ら か に 明 全と 行 勇を 混 同し た 記 述で は あ る が 、 栄 西の 示 寂 後、 道 元が 行 勇に 問 法し た こ と を 伝え て い る 、
栄 西 門 流の 入 宋 渡 海( 中 尾) と 理 解で き な く も な い 。 古 写 本『 建 撕 記』 の 諸 本の 中で 、 延 宝 本・ 門 子 本・ 元 文 本も 、 多 少の 異 同は あ る も の の 、 ほ と ん ど 同じ 内 容を 伝え て い る 。 た だ し 瑞 長 本 及び 面 山 瑞 方 ( 一 六 八 三~ 一 七 六 九) の 訂 補 本に は 、 行 勇の 名は 見ら れ な い ( い ず れ も 『 諸 本 対 校 建 撕 記』 参 照)。 と は い え 古 写 本 『 建 撕 記』 の 四 本ま で が 、 行 勇へ の 参 学を 伝え て い る こ と は 、 検 討の 俎 上に 載せ て も よ い の で は な い だ ろ う か 。 従 来の 曹 洞 宗 史に お い て 、 道 元と 行 勇の 関 係が 問 題と さ れ な い の は 、 道 元 自 身が 明 全を き わ め て 高く 評 価し 、 行 勇 の 名を 挙げ る こ と を ま っ た く し な い か ら で あ る 。 し か し 、 道 元の 建 仁 寺 止 住 期 間か ら 考え て も 、 栄 西 示 寂 後の 僧 団を 継 承し た と い う 点で も 、 道 元が 行 勇を 知ら な い は ず は な く 、 む し ろ ま っ た く 接 触が な か っ た と す れ ば 不 自 然で あ る 。 道 元の 撰 述な ど に 行 勇の 名が 見え な い こ と か ら 見て 、 道 元に と っ て 行 勇は 求む べ き 正 師で は な か っ た の で あ ろ う が 、 叡 山を 下っ た 道 元が 、 直ち に 明 全に 師 事し た か ど う か は 、 必 ず し も 明ら か で は な い 。 言い 換え れ ば 、 行 勇・ 明 全を 含め た 栄 西 門 下、 な い し は 建 仁 寺 山 内の 人 達に 歴 参し た 後、 明 全を 師と し て 選 択し た と い う 可 能 性も 否 定で き な い 。 明 全の 歴 史 的 役 割を ど の 程 度に 評 価す る か は 措く と し て も 、 道 元が 大き た 影 響を 受げ た こ と は ま ち が い な い 。 そ の 明 全の 宗 風と は ど の よ う な も の で あ っ た の で あ ろ う か 。 道 元の 認め た 「 明 全 戒 牒 奥 書」 に よ れ ば 、 明 全は 入 宋の 直 前、 後 高 倉 院に 菩 薩 戒を 授け た と あ る 。 明 全が 戒 律に 精 通し て お り 、 し か も 持 戒 堅 固な 人で あ っ た こ と は 、 諸 書が 伝え る と こ ろ で あ る 。 し か し 、 明 全の 宗 風は こ れ だ け で は な か っ た と 思わ れ る 。 例え ば 『 伝 光 録』 に も 、 明 全が 栄 西の 嫡 嗣 で あ っ て 、「 顕 密 心ノ 三 宗」 つ ま り 顕 教・ 密 教・ 禅を 伝え て い る こ と が 述べ ら れ て い る し 、 道 元が 明 全か ら 学ん だ こ と を 、 師、 そ の 室に 参じ 、 重ね て 菩 薩 戒を う け 、 衣 鉢 等を つ た え 、 か ね て 谷 流の 秘 法 一 百 三 十 四 尊の 行 法、 護 摩 等 を う け 、 な ら び に 律 蔵を な ら い 、 ま た 止 観を 学す 。 は じ め て 臨 済の 宗 風を き き て 、 お お よ そ 顕 密 心 三 宗の 正 脈、 み な も て 伝 受し 、 ひ と り 明 全の 嫡 嗣た り (『 曹 洞 宗 全 書』 宗 源 下 三 九 一~ 二 頁) と 記し て い る 。 も ち ろ ん 、 こ こ に 「 明 全の 嫡 嗣」 と あ る か ら と い っ て 、 道 元が 栄 西の 兼 修 禅、 つ ま り 密 禅 併 修の 禅
栄 西 門 流の 入 宋 渡 海( 中 尾) 風を 継 承し た わ け で は な い 。 し か し 、 少な く と も 明 全は 顕・ 密・ 戒・ 禅を 兼ね 修し た の で あ り 、 弟 子で あ る 道 元も そ れ を 受け た と 、『 伝 光 録』 は 伝え て い る の で あ る 。 ま た 『 三 大 尊 行 状 記』 に も 、 明 全 和 尚に 従い 、 な お 顕 密の 奥 源を き わ む 。 律 蔵の 威 儀を 習い 、 兼ね て 臨 済の 宗 風を 聞く (『 曹 洞 宗 全 書』 史 伝 上 一 二 頁) と あ り 、 や は り 道 元が 明 全か ら 顕・ 密・ 戒・ 禅を 併せ 受 け た こ と を 伝え て い る 。 こ の 四 宗を 併せ 修す る こ と は 、 最 澄が 唱え た 四 宗 相 承( 円・ 戒・ 禅・ 密) の 仏 法で あ り 、 と り も な お さ ず 、 最 澄へ の 復 古を 意 図し た 栄 西の 宗 風と い え る 。 つ ま り 明 全 自 身は 、 栄 西の 宗 風を 忠 実に 受け 継い で い た と い う べ き で あ ろ う 。 道 元が 直 接 栄 西に 対 面な い し 対 話 し た 可 能 性に つ い て は 、『 建 撕 記』 に 「 栄 西の 室に 入る 」 (『 諸 本 対 校 建 撕 記』 八 頁) な ど の 語が あ り 、 法 座に 連な っ て 説 法を 聞く と い う 程 度の こ と は あ っ た か も 知れ な い が 、 現 時 点で は 低い と 考え ら れ る 。 し か し 、 明 全の 宗 風が 右に 述べ た よ う で あ る と し た ら 、 道 元は 明 全を 通じ て か な り 正 確な 栄 西 像を 把 握し て い た 、と 見る こ と が で き る の で あ る 。 三 井 寺 公 胤が 道 元に 与え た 指 示は 、 端 的に い え ば 禅を 学 ぶ こ と 、 そ の た め に 入 宋す る こ と 、 さ ら に そ の た め に 建 仁 寺へ 行く こ と で あ っ た 。 本 稿で 述べ て き た よ う に 、 栄 西 門 流、 言い 換え れ ば 建 仁 寺 僧 団に は 、 か な り の 数の 入 宋 経 験 者が い た 可 能 性が 高く 、 そ の 意 味で 当 時の 建 仁 寺は 、 渡 海 入 宋に 関す る 情 報を 入 手し や す い 環 境に あ っ た と 考え ら れ る の で あ る 。 道 元が 、 入 宋の き っ か け を 求め て 建 仁 寺へ 赴 い た と す れ ば 、 と り あ え ず 指 導 的 立 場に あ る 人 物に 接 触し よ う と す る の が 自 然で あ り 、 そ れ は や は り 、 明 全で は な く 行 勇で あ っ た と い わ ざ る を 得な い 。 根 拠に 乏し い 想 像で し か な い も の の 、 道 元と 明 全が 接 近す る こ と に な っ た の は 、 あ る い は 明 全 自 身が 現 実に 入 宋を 計 画し て い た か ら で は な い か と 思わ れ る 。 明 全の 侍 者と し て 随 行す れ ば 、 入 宋の 手 続き も 比 較 的 容 易だ っ た か ら で あ り 、 入 宋を 許 可し た 院 宣 や 幕 府の 下 知 状に 、「 侍 者 道 元」 と 記さ れ て い る こ と も 、 そ れ を 物 語っ て い る の で は な い だ ろ う か 。 具 体 的に 入 宋を 計 画し て い た こ と が 、 道 元が 明 全に 就い た 理 由で あ っ た と し て 、 そ れ だ け が 明 全に 随 身し た 理 由で は な い こ と を 伝え る の が 、 前に 触れ た 『 正 法 眼 蔵 随 聞 記』
栄 西 門 流の 入 宋 渡 海( 中 尾) の エ ピ ソ ー ド で あ る 。す な わ ち 入 宋を 計 画し て い た 明 全に 、 重 病の 床に 就い て い た 叡 山で の 師 明 融 阿 闍 梨が 、 末 期を 看 取る ま で 渡 海を 延 期す る よ う 懇 願し 、 同 輩や 門 弟も 師の 希 望に 添う こ と が 報 恩で あ る と い う の に 対し 、 明 全は 、 末 期 を 看 取る に し て も 死 期を 延ば す こ と は 不 可 能で あ り 、 た と え 志 半ば で 倒れ よ う と も 入 宋 求 法を 敢 行す る こ と が 、 結 果 と し て 師 恩に 報い る こ と に な る と 、 毅 然と し て 言い 放っ た の で あ る 。 お そ ら く 道 元は 、 栄 西の 禅 風を 忠 実に 継 承し て い た 明 全で は な く 、 仏 法に 対し て 示し た 明 全の 志の 高さ 、 い わ ば 類ま れ な 求 道 者と し て の 明 全を こ そ 、 尊 崇し て や ま な か っ た の で あ ろ う 。 入 宋 後、 道 元と 明 全は 別 行 動を と っ た と 思わ れ 、 そ の 原 因に つ い て は 、 道 元の 入 宋 手 続き が 十 分で は な か っ た か ら と さ れ て い る 。 つ ま り 、 道 元が 具 足 戒 牒を 所 持し た か 否か と い う 問 題で あ り 、 そ の こ と に つ い て も 多く の 議 論が あ る が 、 本 稿の 主 題と は 離れ る 部 分も あ る の で 、 こ こ で は 触れ な い で お く 。 た だ 道 元に と っ て 、 明 全が 自 分の 求め る 仏 法 を 体 現し て い た わ け で は な い こ と が 、 別 行 動を と っ た こ と か ら も 察せ ら れ る の で あ る 。 三 中 納 言 法 印 隆 禅に つ い て 行 勇の 門 下と し て は 、 寿 福 寺 三 世と な り 、 建 仁 寺 住 持 職・ 東 大 寺 大 勧 進 職を 継い だ 大 歇 了 心が 著 名で あ る が 、 金 剛 三 昧 院を 継い だ 中 納 言 法 印 隆 禅に つ い て は 、 従 来ほ と ん ど 論 及さ れ る こ と が な く 、 行 実も 明ら か で は な い 。 し か し 、 隆 禅も 東 大 寺 大 勧 進 職を 継い で お り 、 そ の 活 動は 鎌 倉 初 期 仏 教に お け る 栄 西 門 流の 位 置を 考え る 上で 、 重 要で あ る 。 隆 禅に 関す る 史 料は き わ め て 断 片 的で あ り 、 量 的に も 決 し て 多く は な い 。『 血 脈 類 集 記』( 真 言 宗 全 書 三 十 九) に は 「 隆 禅」 と い う 僧 名が 頻 出す る が 、 時 間 的に も 空 間 的に も 、 そ の す べ て が 行 勇の 弟 子で あ る 隆 禅を 指す と は 考え ら れ な い 。 現 時 点で は 、 前に 紹 介し た 『 開 山 行 状 并 足 利 霊 符』 、『 高 野 春 秋 編 年 輯 録』( 大 日 本 仏 教 全 書 一 三 一) 、『 金 剛 三 昧 院 文 書』( 高 野 山 文 書 第 二 巻) な ど が 、 退 耕 行 勇の 弟 子で あ る 隆 禅に 関し て の 、 比 較 的 確 実な 史 料と し て 挙げ ら れ る 。 『 開 山 行 状 并 足 利 霊 符』 で は 「 行 勇 禅 師 年 考」 の 建 暦 元 年 ( 一 二 一 一) 条に 、 金 剛 三 昧 院 開 創の 記 事と と も に 、「 仏 眼 房 隆 禅 有り 、 豪 気 人を 衝く 、 衣 服を 易え て 膺ず 、 師 厚く こ
栄 西 門 流の 入 宋 渡 海( 中 尾) れ を 接し 監 寺と な す 」 と あ り 、 こ の 年に 隆 禅が 行 勇の 会 下 に 投じ た こ と を 伝え て い る 。「 豪 気 人を 衝く 」 と い う 表 現 や 、 た だ ち に 「 監 寺」 と し た と い う 点か ら 考え て 、 す で に こ の 時 点で 、 そ れ な り の 年 齢に 達し て い た と 思わ れ る 。 嘉 禎 三 年( 一 二 三 七) 条に は 、 行 勇が 金 剛 三 昧 院 住 持 職を 隆 禅に 譲っ た こ と が 記さ れ て い る 。 ま た 「 開 山 勇 禅 師 行 状」 に も 、「 印 証の 者 若 干、 了 心・ 全 玄・ 隆 禅、 こ れ を 先 鋒と な す 」 と あ る 。 了 心は 寿 福 寺 三 世と な っ た 大 歇 了 心で あ り 、 全 玄と は 浄 妙 寺 二 世と な っ た 妙 寂 全 玄で あ る 。 金 剛 三 昧 院 を 継い だ 隆 禅は 、 こ れ ら 二 師と 並ぶ 行 勇 門 下の 上 足で あ っ た と 見て よ い 。 『 高 野 春 秋 編 年 輯 録』 は 、 高 野 山に 関す る 記 録を 編 年 体に ま と め た も の で 、 興 味 深い 記 事が 多い が 、 行 勇や 隆 禅に 関 す る 記 事も 含ま れ て い る 。 延 応 元 年( 一 二 三 九) 条に は 、 「 行 勇 禅 師、 覚 心 上 座を 将い て 金 剛 三 昧 院よ り 鎌 倉 亀 谷 山 寿 福 寺に 還 住す 、 こ れ 北 条 氏( 泰 時) の 悃 請に 依る な り 」( 大 日 本 仏 教 全 書 一 三 一、 一 五 二 頁) と あ り 、 割 註に 「 金 三 院 後 職を 以て 中 納 言 法 印 隆 禅に 附 与す と 云う 」 と 、 隆 禅が 行 勇の 後を 承け て 金 剛 三 昧 院 住 持と な っ た こ と を 述べ て い る 。 仁 治 二 年( 一 二 四 一) 行 勇 示 寂の 記 事の 割 註に も 、「 後に 勇、 ま た 住 職を 中 納 言 法 印 隆 禅に 譲っ て 鎌 倉に 帰り 、 寿 福 寺 長 老と な り 遷 化す 」( 同 書 一 五 三 頁) と 、 同じ こ と が 記さ れ て い る 。 建 長 六 年( 一 二 五 四) 条に は 、「 覚 心 師( 法 燈 国 師) 宋よ り 帰る 、 す な わ ち 登 山し 禅 定 院 主に 謁す 」 と あ り 、 「 禅 定 院 主」 に 「 中 納 言 法 印 隆 禅、 こ れ 第 二 世 院 主な り 」 と 註さ れ て い る ( 同 書 一 六 三 頁)。 さ ら に 正 嘉 元 年( 一 二 五 七) 条の 、 覚 心が 金 剛 三 昧 院の 住 持と な っ た 記 事に 註し て 、 「 前 年、 行 勇 鎌 倉に 入る の 已 後、 隆 禅 替わ っ て こ れ に 住 職 す 、 ま た 禅の 後、 覚 心こ れ に 住 持す 」( 同 書 一 六 四 頁) と あ る 。 概ね 、 隆 禅が 金 剛 三 昧 院 住 持で あ っ た 期 間に 関す る 記 録で あ る が 、「 行 勇 禅 師 年 考」 が 嘉 禎 三 年( 一 二 三 七) に 住 持と な っ た と し て い る の に 対し 、『 高 野 春 秋 編 年 輯 録』 は 行 勇が 北 条 泰 時の 懇 請に よ っ て 鎌 倉に 下 向す る 延 応 元 年( 一 二 三 九) と し 、 隆 禅の 後の 三 世 住 持を 、 無 本 覚 心と し て い る 。 『 高 野 春 秋 編 年 輯 録』 の 隆 禅に 関す る 最 後の 記 事は 、 永 仁 二 年( 一 二 九 四) 条に 、「 鎌 倉 相 模 守 貞 時、 陸 奥 守 宣 時・ 高 野 山 僧 中 納 言 法 印に 命じ て 、 異 国 降 伏の 御 祈を 丹 生 社 頭で 勤 修せ し む 」 と あ る も の で 、「 中 納 言 法 印」 に 「 金 剛 三 昧 院
栄 西 門 流の 入 宋 渡 海( 中 尾) 主 隆 禅の 官 名な り 」 と 註さ れ て い る ( 同 書 一 八 四 頁) 。 こ の 記 事は 、 金 剛 三 昧 院 住 持を 退い た 隆 禅が 、 晩 年に も 高 野 山 に 止 住し て い た こ と を 示し て お り 、 建 暦 元 年( 一 二 一 一) の 行 勇へ の 帰 投を 二 十 歳 前 後と し て も 、 世 寿 百 歳を 越え る 長 命を 保っ た こ と に な る 。 『 金 剛 三 昧 院 文 書』 の 中の 隆 禅に 関す る 記 録は 、 金 剛 三 昧 院 所 領と し て 寄 進さ れ た 美 作 国( 岡 山 県) 大 原 保に つ い て 、 足 利 義 氏 発 給の 寄 進 状お よ び 書 状が 三 点、 鎌 倉 将 軍 家 御 教 書が 一 点、 ほ か に 「 金 剛 三 昧 院 住 持 次 第」「 金 剛 三 昧 院 紀 年 誌」「 法 燈 国 師 行 勇 法 系」 な ど で あ る 。 「 法 燈 国 師 行 勇 法 系」 は 、 前に も 触れ た よ う に 、 文 書 名に 混 乱が 見ら れ る が 、 行 勇の 入 宋を 示 唆す る 記 事を 含ん で い る 。 ま た 隆 禅が 金 剛 三 昧 院の 住 持と な っ た の は 、 嘉 禎 三 年 ( 一 二 三 七) と な っ て お り 、『 開 山 行 状 并 足 利 霊 符』 の 「 行 勇 禅 師 年 考」 と 一 致し て い る 。 も っ と も 、 こ の 文 書が 同 書 の 草 稿で あ る と す れ ば 、 年 記の 一 致は 当 然で あ る 。「 金 剛 三 昧 院 住 持 次 第」( 高 野 山 文 書 二、 三 七 九 頁) は 、 歴 代 住 持の 略 伝を 含む 点で 重 要で あ る 。 行 勇の 項に は 、 栄 西の 「 素 意」 を 受け て 禅・ 教・ 律を 興 行し た こ と 、 布 薩そ の 他の 行 持・ 規 式を 定め 置い た こ と 、 そ し て 「 登 山 両 度 有り と 雖も 、 住 山 程 無し 、 た だ 隆 禅 法 眼を 以て 代と な し 、 院 家を 執 行」 し た と 述べ ら れ て い る 。 つ ま り 、 行 勇は 金 剛 三 昧 院 第 一 世 長 老と な っ た も の の 、 鎌 倉に お け る 多 忙さ が 長 期 間の 高 野 山 滞 在を 許さ ず 、 主と し て 隆 禅が 金 剛 三 昧 院の 寺 務を 司っ た と い う こ と で あ ろ う 。「 行 勇 禅 師 年 考」 に 、 行 勇が 金 剛 三 昧 院 開 創の 年、 帰 投し た ば か り の 隆 禅を 監 寺に し た と あ る の は 、 お そ ら く こ の こ と を 指す と 考え ら れ る 。『 吾 妻 鏡』 や 「 行 勇 禅 師 年 考」 の 記 事か ら 、 行 勇が 高 野 山に 滞 在し た 期 間 を 推 定し て み る と 、「 登 山 両 度」 と い う ほ ど で は な い に せ よ 、 か な り 断 片 的で あ っ た と 思わ れ 、 金 剛 三 昧 院の 経 営は 、 事 実 上 隆 禅が 担っ て い た と 見る べ き で あ る 。 隆 禅の 項に は 、「 第 二 長 老 隆 禅 中 納 言 法 印」 と あ り 、 註し て 「 仏 眼 房と 号す 、 中 納 言 光 隆 卿の 息な り と 、 云々 」 と 記 さ れ て い る 。『 尊 卑 分 脈』( 国 史 大 系 本 二、 四 十 八 頁) に よ れ ば 、 光 隆は 「 猫 間 中 納 言」 と 称さ れ た 藤 原 清 隆の 子、 光 隆で あ る と 思わ れ る 。 光 隆は 建 久 九 年( 一 一 九 八) の 時 点 で 七 十 二 歳で あ り ( 公 家 補 任) 、 隆 禅の 父と い う 可 能 性も 否 定は で き な い が 、 年 齢 的に は 疑 問が 残る 。 ま た 、 寺 務の 間
栄 西 門 流の 入 宋 渡 海( 中 尾) に 仏 殿・ 僧 堂な ど を 造 立し た こ と を 述べ た 後に 、「 し か し て 去る 延 応の 年、 関 東に 召し 下さ れ 、 即ち 寺 務を 止め ら れ 畢 ん ぬ 。 そ の 後、 実 相 院に 移 住し 、 所 労 療 治の た め 、 当 国 本 庄に 下 向、 正 月 二 日に 他 界し 畢ん ぬ 」 と あ っ て 、 延 応 年 間 に は 早く も 住 持を 退い て 関 東に 下 向し た こ と に な っ て い る 。 「 金 剛 三 昧 院 住 持 次 第」 で は 、 隆 禅の 後、 第 三 世 長 老に 就い た の は 蔵 円 房 悟 暹で 、「 去る 仁 治 元 年 庚 子 五 月 五 日、 当 寺 長 老に 補せ ら る 」 と な っ て い る 。 延 応 二 年( 一 二 四〇 ) が 改 元さ れ て 仁 治 元 年と な る の は 七 月 十 六 日で あ り 、 そ の 意 味 で は 「 延 応の 年、 関 東に 召し 下さ れ 、 即ち 寺 務を 止め ら れ 畢ん ぬ 」 と い う 記 事と 合 致す る こ と に な る 。 監 寺で あ っ た 期 間が 長か っ た の に 対し 、 住 持 職に あ っ た の は わ ず か に 二 年か 、「 行 勇 禅 師 年 考」 が い う 嘉 禎 三 年か ら と し て も 四 年と い う こ と に な る 。 隆 禅に つ い て は 、 道 元に 関 係す る 重 要な 問 題が あ る 。 そ れ は 、 道 元が 入 宋 中に 「 隆 禅」 と 称す る 日 本 人 僧に 遭 遇し て い る 、 と い う こ と で あ る 。 そ の こ と に 関 連す る 記 事は 、 『 永 平 広 録』 巻 十( 春 秋 社『 道 元 禅 師 全 集』 四) 、『 宝 慶 記』 ( 同 書 七、 一〇 頁)、 長 円 寺 本『 正 法 眼 蔵 随 聞 記』 巻 二( 同 書 七、 六 五 頁) の ほ か 、『 伝 光 録』( 『 曹 洞 宗 全 書』 宗 源 下) 『 訂 補 建 漸 記』( 『 諸 本 対 校 建 撕 記』) な ど に 見ら れ る が 、 道 元 自 身が 『 正 法 眼 蔵』「 嗣 書」 の 巻に 、 嘉 定 十 六 年( 一 二 二 三) の 秋に 隆 禅の 斡 旋で 仏 眼 清 遠( 一〇 六 七~ 一 一 二〇 ) 派の 嗣 書を 閲 覧し た こ と を 、 嘉 定の は じ め に 隆 禅 上 座、 日 本 国 人な り と い え ど も 、 か の 伝 蔵や ま い し け る に 、 隆 禅よ く 伝 蔵を 看 病し け る に 、 勤 労し き り な る に よ り て 、 看 病の 労を 謝せ ん が た め に 、 嗣 書を と り い だ し て 、 礼 拝せ し め け り 。 み が た き も の な り 。「 与 廰 礼 拝」 と い ひ け り 。 そ れ よ り こ の か た 、 八 年の の ち 、 嘉 定 十 六 年 癸 未あ き の こ ろ 、 道 元は じ め て 天 童 山に 寓 直す る に 、 隆 禅 上 座、 ね ん ご ろ に 伝 蔵 主に 請じ て 、 嗣 書を 道 元に み せ し ( 岩 波 文 庫『 正 法 眼 蔵』 二、 三 八〇 頁) と 述べ て い る 。 隆 禅は 嗣 書の 所 持 者で あ る 「 伝 蔵 主」 を 看 病し た こ と が あ り 、 嘉 定 十 六 年よ り 八 年 前、 つ ま り 嘉 定 八 年 頃に は 在 宋し て い た こ と に な る 。「 嘉 定 八 年」 が 「 嘉 定 の は じ め 」 に な る か ど う か は 、 微 妙な と こ ろ で あ る と 思わ れ る が 、 現 時 点で は 矛 盾し な い と 理 解さ れ て い る 。
栄 西 門 流の 入 宋 渡 海( 中 尾) 『 永 平 広 録』 巻 十に は 「 郷 間の 禅 上 座に 与う 」 と 題さ れ た 偈 頌が あ り ( 春 秋 社『 道 元 禅 師 全 集』 四、 二 六 八 頁) 、 『 宝 慶 記』 に は 、「 問う て 云く 、 菩 薩 戒と は 何ぞ や 」 と い う 道 元 の 問い に 対し て 、 師 如 浄の 「 今、 隆 禅が 誦す る と こ ろ の 戒 序な り 、 小 人・ 卑 賎の 輩に 親 近す る こ と な か れ 」( 同 書 七、 一〇 頁) と い う 答が 見ら れ る 。 状 況か ら 考え て 、 こ れ ら の 史 料に 登 場す る 「 隆 禅」 は 、 道 元が 『 正 法 眼 蔵』 で 述べ て い る 「 隆 禅」 と 同 一 人 物で あ る と 見て ま ち が い な い と 思わ れ る 。 長 円 寺 本『 正 法 眼 蔵 随 聞 記』 第 二に は 、 是れ に 依っ て 一 門の 同 学 五 根 房( 流 布 本は 五 眼 房) 、 故 用 祥 僧 正の 弟 子な り 、 唐 土の 禅 院に て 持 斎を 固く 守り て 、 戒 経を 終 日 誦せ し を ば 、 教へ て 捨テ し め た り し な り ( 春 秋 社『 道 元 禅 師 全 集』 七、 六 五 頁) と あ る 。 内 容 的に は 『 宝 慶 記』 の 記 事に 通じ る も の で あ り 、 こ の 点を 踏ま え て 水 野 弥 穂 子 氏は 、 五 根 房は 『 宝 慶 記』 の い う 隆 禅で あ ろ う と 推 測さ れ て い る ( 筑 摩 書 房『 正 法 眼 蔵 随 聞 記』 四 四 頁) 。「 用 祥 僧 正」 と は 「 葉 上 僧 正」 、 す な わ ち 栄 西の こ と で あ る か ら 、 水 野 氏の 推 測に 従え ば 、 道 元は 如 浄 会 下に お い て 、 栄 西 門 下の 隆 禅と 同 参で あ っ た と い う こ と に な り 、 そ の 隆 禅が 嗣 書 閲 覧の 便 宜を 計っ て く れ た こ と に な る 。 『 伝 光 録』 の 記 述は 、 ほ ぼ 『 正 法 眼 蔵』「 嗣 書」 に 等し い が 、『 正 法 眼 蔵』 が 「 嘉 定の は じ め 」 か ら 「 嘉 定 十 六 年 秋」 ま で を 「 八 年の の ち 」 と し て い る と こ ろ を 、「 半 年を へ て 」 と し て い る (『 曹 洞 宗 全 書』 宗 源 下 三 九 三 頁) 。 道 元の 法 孫 で あ る 瑩 山 紹 瑾が 著し た と い う 点で 、 史 料と し て の 『 伝 光 録』 の 信 憑 性は 高い と い え る が 、 文 脈の 上で 考え て 、 こ の 部 分の 記 述は 不 適 当で あ る 。 面 山 瑞 方の 『 訂 補 建 撕 記』 で は 、 こ の エ ピ ソ ー ド に 対す る 補 注で 、 嗣 書の 所 持 者で あ る 伝 蔵 主を 大 慧 派の 枯 木 良 伝 と し て い る が 、 そ れ で は 道 元 自 身が 伝 蔵 主を 仏 眼 清 遠の 法 孫と し て い る こ と と 齟 齬し て し ま う 。 ま た 、 隆 禅を 藤 原 定 家の 弟の 寂 蓮の 子と し て い る が 、『 尊 卑 分 脈』 で 見る 限り 、 寂 蓮は 定 家の 弟で は な い し 、 面 山の い う 隆 禅は 実 際に は 寂 蓮の 孫で あ る (『 諸 本 対 校 建 撕 記』 一 四 一 頁)。 面 山が い か な る 史 料に 基づ い て 註し た か は 不 明で あ る が 、『 訂 補 建 撕 記』 自 体に か な り 恣 意 的な 改 竄が 見ら れ 、 そ の 記 事の 採 用 に は 慎 重を 要す る 。 こ の 部 分の 補 注も 、 無 条 件に 信 頼す る
栄 西 門 流の 入 宋 渡 海( 中 尾) こ と は で き な い 。 以 上の 史 料を 総 合し て い え る こ と は 、 道 元が 明 全に 従っ て 入 宋す る よ り 早く 、 嘉 定 八 年 以 前に 入 宋し 、 道 元と と も に 如 浄に 参じ た 隆 禅と い う 僧が お り 、 し か も そ の 隆 禅は 栄 西 門 下で 、 両 者に は か な り 緊 密な 交 流が あ っ た ら し い 、 と い う こ と で あ る 。 問 題は 、 こ の 隆 禅と 行 勇の 弟 子で あ る 隆 禅が 、 同 一 人 物で あ る か 否か で あ る が 、 こ の 点に 言 及し た 論 文に 、 原 田 弘 道 氏「 道 元 禅 師と 金 剛 三 昧 院 隆 禅」( 印 度 学 仏 教 学 研 究 二 十 三 - 一) 、 同 氏「 日 本 曹 洞 宗の 歴 史 的 性 格 ( 二) 道 元 禅 師と 隆 禅・ 覚 心と の 交 渉を め ぐ っ て 」( 駒 沢 大 学 仏 教 学 部 論 集 第 五 号) 、 お よ び 中 世 古 祥 道 氏『 道 元 禅 師 伝 研 究』 が あ り 、 原 田 氏は 同 一 人 物 説に 肯 定 的で あ る し 、 中 世 古 氏は 否 定 的で あ る 。『 開 山 行 状 并 足 利 霊 符』「 行 勇 禅 師 年 考」 が 伝え る よ う に 、 中 納 言 法 印 隆 禅が 行 勇に 帰 投し た の が 建 暦 元 年( 一 二 一 一) と し て 、 建 保 三 年( 一 二 一 五) に 示 寂し た 栄 西の 薫 陶を 受け る 機 会が あ っ た か ど う か 、 微 妙な と こ ろ で あ る 。 特に 隆 禅は 、 主と し て 高 野 山に 止 住し て い た の で あ り 、 関 東へ 下 向し た と し て も 、 そ の 時 期は 延 応 年 間( 一 二 四〇 年 頃) で 、 栄 西 示 寂の は る か 後で あ る 。 そ う で あ る な ら ば 、 道 元が 隆 禅を 「 用 祥 僧 正の 弟 子」 と い っ て い る こ と は 、 正 確な 表 現で は な い こ と に な る 。 流 布 本『 正 法 眼 蔵 随 聞 記』 の い う 隆 禅の 房 号「 五 眼 房」 は 、 中 納 言 法 印 隆 禅の 房 号で あ る 「 仏 眼 房」 に 似て い る が 、 長 円 寺 本で は 「 五 根 房」 で あ り 、 根 拠と す る に は 曖 昧 過ぎ る 。 同 一 人 物で あ る か 否か を し ば ら く 措い て 、 中 納 言 法 印 隆 禅と 、 道 元と 関わ っ た 隆 禅に 関す る 諸 史 料の 記 録を 、 時 系 列に 並べ て み る と 、 以 下の よ う に な る 。 建 暦 元( 一 二 一 一) 金 剛 三 昧 院 開 創 隆 禅、 行 勇に 帰 投 嘉 定 八( 一 二 一 五) 隆 禅、 伝 蔵 主を 看 病 十 六( 一 二 二 三) 道 元、 嗣 書を 閲 覧 安 貞 元( 一 二 二 七) 道 元、 帰 国 嘉 禎 三( 一 二 三 七) 隆 禅、 金 剛 三 昧 院 住 持と な る 四( 一 二 三 八) 足 利 義 氏、 金 剛 三 昧 院 所 領と し て 美 作 国 大 原 保を 寄 進 延 応 元( 一 二 三 九) 行 勇、 金 剛 三 昧 院か ら 覚 心を 伴な っ て 鎌 倉 寿 福 寺に 移る 二( 一 二 四〇 ) 蔵 円 房 悟 暹、 金 剛 三 昧 院 第 三 世 住 持
栄 西 門 流の 入 宋 渡 海( 中 尾) と な る 隆 禅、 関 東に 下 向 仁 治 二( 一 二 四 一) 行 勇、 鎌 倉で 示 寂 建 長 六( 一 二 五 四) 覚 心、 宋よ り 帰 朝、 金 剛 三 昧 院で 隆 禅 に 謁す 正 嘉 元( 一 二 五 七) 隆 禅、 鎌 倉 大 慈 寺 供 養の 供 僧と し て 随 喜す る か 永 仁 二( 一 二 九 四) 隆 禅、 高 野 山 丹 生 社 頭で 異 国 降 伏の 祈 薦を 修す 結 局、 道 元と 入 宋 僧 隆 禅と の 交 渉は 、 時 間 的に は 中 納 言 法 印 隆 禅の 事 跡の 中に 包 含さ れ て い る が 、 中 納 言 法 印 隆 禅 が 入 宋し た か ど う か に つ い て は 、 一 切 伝え ら れ て い な い 。 た だ 、 法 祖 父 栄 西は 二 度ま で 入 宋し 、 師 行 勇も 入 宋を 伝え る 史 料が あ り 、 行 勇 会 下の 同 参で あ る 覚 心も 入 宋し て い る し 、 や は り 師を 同じ く す る 大 歇 了 心も 入 宋し て い る 。 つ ま り 、 栄 西 下、 行 勇の 門 流の ほ と ん ど が 入 宋 経 験を 持っ て い る わ け で あ り 、 時 間 的に は 隆 禅が 入 宋し た 可 能 性は 否 定で き な い 。 も っ と も 、 隆 禅が 入 宋し た と す れ ば 、 そ の 在 宋 期 間は 少な く と も 嘉 定 八~ 十 六 年を 含む は ず で あ り 、 十 年 前 後に 及ぶ こ と に な る 。 行 勇が 隆 禅を 金 剛 三 昧 院の 監 寺に 任 じ 、 寺 務を 司ら し め た こ と と の 関 連が 問 題と な る が 、 入 門 し て す ぐ に 監 寺に 充て た と 考え る よ り も 、 十 年に 及ぶ 在 宋 修 行を 了え て 帰 朝し た 隆 禅に 、 寺 務を 任せ た と 見る 方が よ り 自 然で は あ る 。 ま た 、 前に 述べ た よ う に 、 道 元が た と え 短 期 間で あ れ 、 行 勇に 参じ た こ と が あ る と す れ ば 、 隆 禅と は 旧 知で あ っ た か 、 あ る い は 面 識が な く と も 同 参と い う 誼 は あ っ た と 思わ れ る 。 道 元が 隆 禅の 斡 旋で 嗣 書を 閲 覧し た の は 、 嘉 定 十 六 年( 一 二 二 三) 、 す な わ ち 入 宋し た 年で あ り 、 嗣 書 閲 覧と い う よ う な 重 大 事の 斡 旋を 得た の は 、 日 本 人 同 士と い う だ け で は な い 、 よ り 大き な 好 意が あ っ た と 見 得る の で は あ る ま い か 。 さ ら に 推 測を 重ね れ ば 、 行 勇が 法 兄 弟 明 全の 宋 地で の 客 死を 、 道 元の 帰 国 以 前に 知り 得た 事 情と は 、 隆 禅の 帰 国 時 期に 関 連す る の で は な い か 、 と も 考 え ら れ る 。 し か し な が ら 、 隆 禅の 入 宋と 道 元と の 関 係に つ い て は 、 す べ て 仮 説に 過ぎ ず 、 直 接そ れ を 証 明す る よ う な 史 料は 確 認さ れ て い な い 。 現 時 点で は 一 応 作 業 仮 説な が ら 、 道 元が 中 国に お い て 、 行 勇 門 下の 隆 禅と 関わ っ た 可 能 性が 高い 、 と し て お く 。
栄 西 門 流の 入 宋 渡 海( 中 尾) 四 無 本 覚 心に つ い て 無 本 覚 心( 一 二〇 七~ 九 八) は 、『 元 亨 釈 書』 第 六 巻 浄 禅 の 項に 立 伝さ れ て い る( 大 日 本 仏 教 全 書 一〇 一、 二〇 八 頁) 。 心 地 房の 号を 持ち 、 東 大 寺で 登 壇 受 戒し た 後、 高 野 山に 登っ て 行 勇に 参 随し 、 さ ら に 入 宋し て 無 門 慧 開( 一 一 八 三~ 一 二 六〇 ) に 学び 、 帰 朝 後に 金 剛 三 昧 院 住 持と な っ た 。 時 間 的に 長く 参じ た の は 行 勇で あ る が 、 結 果 的に は 無 門 慧 開の 法 嗣と な り 、 由 良 西 方 寺( 後の 興 国 寺) を 中 心と し て 展 開 し た 覚 心の 系 統は 、 臨 済 宗 法 燈 派と し て 栄え る 。 そ の 禅 風 は 、 単に 無 門か ら 受け 継い だ 宋 朝 禅で は な く 、 む し ろ 行 勇 か ら 受け た 密 教 色の 強い 兼 修 禅で あ っ た 。そ れ が 後 世に な っ て 、 栄 西 門 流と し て で は な く 、 中 国 伝 来の 禅 宗と い う 印 象 が 強ま る の は 、 中 国の 禅 僧に 直 接 嗣 法し た た め で も あ る が 、 師 無 門 慧 開か ら 、 禅の 公 案 集と し て 知ら れ る 『 無 門 関』 を 授け ら れ て 帰 国し た こ と が 大き い 。 覚 心そ の 人の 禅 風に つ い て は 、 具 体 的な こ と は 明ら か で は な く 、 覚 心が 定め た 「 粉 河 寺 誓 度 院 規 式」 な ど は 、 密 教 色の 強い も の で あ る 。 ま た 、 時 宗の 一 遍 智 真( 一 二 三 九~ 八 九) や 西 大 寺( 奈 良 県) 叡 尊( 一 二〇 一~ 九〇 ) 、 泉 州( 大 阪 府) 久 米 田 寺の 禅 爾な ど 、 他 宗 派の 僧と の 関 係が 知ら れ て お り 、 そ の 点か ら も 兼 修 禅を 唱え た と 見ら れ る の で あ る 。 と こ ろ が 『 無 門 関』 は 、 禅の 公 案 集と し て 『 碧 巌 録』 と 並ん で よ く 用い ら れ 、 今 日 の 臨 済 宗に お い て も 、そ の 傾 向は 変わ っ て い な い 。し た が っ て 、 そ の 将 来 者で あ る 覚 心に つ い て も 、 室 町 期の 臨 済 宗に お い て 法 燈 派の 独 立 性が 高ま る に つ れ 、 覚 心が 栄 西 門 流で あ る と い う 見 方は 次 第に な く な り 、『 無 門 関』 を 日 本に 持ち 帰っ た 「 禅 僧 覚 心」 と い う イ メ ー ジ に 統 一さ れ て い く の で あ ろ う 。 も う 一つ の 要 因は 、 量 的に も っ と も ま と ま っ た 伝 記で あ る 『 法 燈 円 明 国 師 行 実 年 譜』( 続 群 書 類 従 九 - 上、 以 下『 行 実 年 譜』 と 略) が 、 禅 僧と し て の 覚 心 像の 確 立を 意 図し て い る と い う こ と で あ る 。『 行 実 年 譜』 は 、 永 徳 二 年( 一 三 八 二) 頃に 興 国 寺に 止 住し た 自 南 聖 薫が 、「 師 平 生 随 身 之 本」 と 「 慈 願 上 人 所 草 録、 師 之 縁 起」 を 基に し て ま と め た も の で あ る が 、 聖 薫が 基づ い た こ れ ら の 史 料は 現 存し て い な い 。 こ の 二 史 料の 間に も 伝 承の 違い が あ り 、 覚 心の 行 実を 考え る 上で 、 い く つ か の 問 題を 含ん で い る 。 全 体を 眺め て み る
栄 西 門 流の 入 宋 渡 海( 中 尾) と 、 若 年 期の 密 教 研 鑽に つ い て は 触れ て い る も の の 、 西 方 寺に 入っ て 以 降の さ ま ざ ま な 人と の 交 渉、 例え ば 一 遍・ 叡 尊・ 禅 爾な ど と の 関わ り に つ い て は 言 及せ ず 、 禅 僧と し て の 姿を 強 調し て い る よ う に 思わ れ る 。 行 勇 会 下に お け る 覚 心の 参 学は 、 具 体 的に は ほ と ん ど 不 明で あ る 。『 行 実 年 譜』 や 『 高 野 春 秋 編 年 輯 録』 は 、 延 応 元 年( 一 二 三 九) 鎌 倉 寿 福 寺に 帰る 行 勇に 覚 心が 随 伴し た こ と を 伝え て い る 。「 行 勇 禅 師 年 考」 は 、 安 貞 元 年( 一 二 二 七) 条に 紀 綱 職に 就 任し た と し て い る が 、 紀 綱 職が 禅 院の 運 営を 担う 重 職で あ る こ と を 考え る と 、 安 貞 元 年に は い ま だ 二 十 一 歳の 、 帰 投 後 間も な い 青 年 僧に 勤ま っ た か ど う か 、 そ の 点で 疑 問が 残る 。 た だ 、 金 剛 三 昧 院に つ い て は 隆 禅が 主に 寺 務を 司っ て い た こ と も あ り 、 あ る い は 覚 心の 方は 、 常に 行 勇の そ ば を 離れ る こ と な く 、 随 身 参 学し た と い う こ と か も 知れ な い 。 行 勇は 、 仁 治 二 年( 一 二 四 一) 七 月 五 日、 鎌 倉 寿 福 寺で 示 寂す る 。『 行 実 年 譜』 に よ れ ば 、 翌 三 年に 深 草 極 楽 寺( 興 聖 寺) の 道 元を 訪れ 、 菩 薩 戒を 授け ら れ て い る 。「 元( 道 元) 入 宋の 時、 天 童 浄 和 尚( 如 浄) よ り 相 伝の 血 脈な り 」 ( 続 群 書 類 従 本 九 - 上、 三 五〇 頁) と あ り 、 こ の 時に 受け た 血 脈が 、 道 元が 天 童 山に お い て 如 浄か ら 受け た も の で あ る こ と を 述べ て い る 。 こ の こ と は 、 道 元の 伝 記で あ る 『 建 撕 記』 に も 述べ ら れ て い る (『 諸 本 対 校 建 撕 記』 三 十 四・ 四 十 三 頁) が 、 諸 本と も に 『 元 亨 釈 書』( 大 日 本 仏 教 全 書 一〇 一、 二〇 八 頁) の 記 事に 基づ い て お り 、 ご く 簡 単な も の で あ る 。『 本 朝 高 僧 伝』( 同 書 一〇 二、 二 八 七 頁) に も こ の 記 事は あ る が 、 行 勇の 示 寂 以 前に 入れ る と い う 誤り を 犯し て い る 。 こ の 道 元か ら 覚 心に 授 与さ れ た 血 脈は 、 原 本は 散 逸 し た も の の 、 奥 書の 写し が 大 分 県 泉 福 寺に 残っ て い る ( 春 秋 社『 道 元 禅 師 全 集』 六、 二 三〇 頁) 。 そ こ に は 、「 大 宋 淳 熙 己 酉( 十 六・ 一 一 八 九) 九 月 望 日」 付の 虚 菴 懐 敞に よ る も の と 、「 大 宋 宝 慶 元 年 乙 酉( 一 二 二 五) 九 月 十 八 日」 付の 如 浄に よ る も の が 併 記さ れ 、 最 後に 「 正 応 三 年( 一 二 九〇 ) 九 月 十 日」 付で 、 覚 心か ら 心 瑜に 授け ら れ た こ と が 記さ れ て い る 。 つ ま り 、 こ の 血 脈に は 道 元が 如 浄か ら 受け た 青 原 下、 つ ま り 曹 洞 宗 系と 、 明 全か ら 受け た 南 嶽 下 臨 済 宗 系の 、 両 系 統の 戒 脈が 併 記さ れ て い る の で あ る 。 従っ て 、 こ れ が 覚 心の 受け た 血 脈の 原 形を 伝え る も の で あ る な ら ば 、『 行 実
栄 西 門 流の 入 宋 渡 海( 中 尾) 年 譜』 の 記 事は 正 確で は な い こ と に な る 。 同じ よ う な 事 例 で 、 道 元が 文 暦 二 年( 一 二 三 五) 八 月 十 五 日、 理 観と い う 僧に 授け た 血 脈の 写し が 、 永 平 寺に 現 存し て い る ( 同 書 二 二 六 頁) 。 こ れ に 記さ れ た 戒 脈は 、 栄 西が 受け た 千 命・ 大 山 基 好・ 虚 菴 懐 敞の 三 系 統を 、 栄 西─ 明 全─ 道 元─ 理 観と 継 承し た も の で あ る 。 理 観に つ い て は 不 明で あ る が 、 大 久 保 道 舟 氏は 、 明 全の 弟 子で 天 台 系の 僧で あ ろ う と 推 測さ れ て い る 。 こ の 二 種の 血 脈が い ず れ も 捏 造さ れ た も の で は な い と す れ ば 、 要す る に 道 元は 、 栄 西の 上 足 行 勇の 門 下で あ っ た 覚 心に は 、 禅 宗へ の 志 向が 強い と 見て 、 青 原・ 南 嶽 両 系 統の 菩 薩 戒を 授け 、 な お 天 台 宗の 立 場に 留ま っ て い る 理 観 に は 、 栄 西が 虚 菴か ら 受け た 臨 済 系に 、 円 頓 戒 系を 併せ た も の を 授け た 、 と 考え ら れ る の で あ る 。 す な わ ち 、 受 戒を 求め る 僧に 対し て 道 元は 、 そ の 僧の 立 場な い し は 希 望に 応 じ た 形で 戒 脈を 授け た 、 と 見る こ と が で き る 。 覚 心と 道 元と の 関 係に つ い て 付け 加え れ ば 、 道 元と 由 良 西 方 寺と の 関わ り が あ る 。 す な わ ち 『 行 実 年 譜』 安 貞 元 年 ( 一 二 二 七) 十 月 十 五 日 条に 、 建 築 途 上の 西 方 寺の 寺 号を 、 栂 尾の 明 慧 上 人 高 弁が 撰し 、 道 元が 額に 篆 書し た と 述べ ら れ て い る こ と で あ る ( 続 群 書 類 従 九 - 上、 三 四 八 頁) 。 道 元 は 安 貞 元 年 秋 頃、 明 全の 遺 骨を 抱い て 帰 国し 、 こ の 時 期、 お そ ら く 建 仁 寺に 寓 居し て い た と 思わ れ る が 、 こ れ を 事 実 と す れ ば 、 帰 国 直 後、 あ る 意 味で 雌 伏の 期 間に あ っ た 道 元 に 揮 毫を 依 頼し た の は 誰で 、 い か な る 理 由に よ る も の で あ ろ う か 。 覚 心が こ の こ と に 関わ っ て い た か ど う か と い う こ と に な る と 、 前に 触れ た よ う に 、『 高 野 春 秋 編 年 輯 録』 安 貞 元 年( 一 二 二 七) 条に 、 西 方 寺 開 創の 折に 覚 心が 願 性と と も に 由 良の 地に 遊 化し た と あ り 、『 開 山 行 状 并 足 利 霊 符』「 行 勇 禅 師 年 考」 安 貞 元 年 条に は 、 寿 福 寺の 紀 綱 職 就 任を 挙げ て い る 。『 行 実 年 譜』 な ど は 、 紀 綱 職 就 任を 延 応 元 年( 一 二 三 九) と し て お り 、 覚 心の 行 動に 関す る 記 録が 錯 綜し て い て 、 判 断し が た い と こ ろ で あ る 。 も し も 、 い さ さ か で も 関 わ り が あ っ た と す れ ば 、 両 者の 関 係に 必 然 性が 増す こ と に な る 。 そ の 後、『 行 実 年 譜』 に よ れ ば 宝 治 元 年( 一 二 四 七)、 栄 西 門 下に お い て 師 行 勇と 同 門で あ っ た 、 上 州 世 良 田 長 楽 寺 の 栄 朝に 参じ た が 、 そ の 年に 栄 朝は 示 寂し 、 翌 二 年 甲 斐 心 行 寺 生 蓮に 就い て 、 後の 寿 福 寺 長 老 蔵 叟 朗 誉( 一 一 九 四~