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駒澤短期大學佛教論集 9 012木村 誠司「『中論』における svabhava について」

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中論 における svabhava について

中論 Madhyamaka-karikaは,筆者にとっては、敬して遠ざけるような存在 であった。無論、この書が、大乗仏教に理論的基礎を与えたことは知っていたし、 著者龍樹 Nagarjunaが八宗の祖と讃えられていることも、聞いていた。それで、 何度か読破を試みたが、覗き見程度で終わってしまった。 中論 の所説は、我々 凡人の理解を拒むようなところがあって、簡単に扱える代物ではなかったのであ る。今回、 中論 を取り挙げたのは、ふとしたきっかけがあったからであるが、 筆者の理解の程度は、相変わらずお粗末なままである。あわてて読み始めた、 中 論 関係の研究書も、汗牛充棟ただならぬものがあり、すべてに目を通すことは出 来なかったし、目にした研究を消化しきれたとも言えない。それ故、不備きわまる 論述となるのではないかと恐れる。ただ、本稿が識者の目に触れ、筆者の誤解や無 知が正されることを願って、あえて、筆を取ることにした。 筆者が、 中 論 に 注 目 す る よ う に な っ た き っ か け は、実 は、 倶 舎 論 Abhidharmakosabhasyaの研究によって与えられた。まずは、その経緯をたどって みよう 。 倶舎論 の自性(svabhava)の用例を見ていくうちに、自性には三種 の用法があることがわかってきた。しかも、その三種の用法に応じて、チベット人 達が、厳密に訳し けていることも判明した。 倶舎論 のチベット語訳におい て、svabhavaは、rang bzhin、ngo bo nyid、rang gi ngo boと訳し けられて いる。それぞれの意味する内容は、明確に異なるのである。さらに、訳語の厳密 性、言い換えると用法の厳密性は、 倶舎論 のみならず、インド 述の 倶舎論 注釈書でも維持されていた。 倶舎論 とその注釈書・訳者および年代は、次の通

りである。

倶舎論 :Jinamitra,dPal brtsegs (800 A.D.) 明瞭義 Sphutartha:Visudhisinha,dPal brtsegs

隨相論 Laksananusarinı: Kanakavarman,Nyi ma grags (1055-?) 真実義 Tattvartha: Dharmapalabhadra (1441-1528)

実に、700年以上の長きに渡って、svabhavaの用法は守られ続けた。おそらく、 インド・チベットの学僧達の間では、この用法は広く認知されていたであろう。 svabhavaの三種の用法は、いわば、学僧達の知的共有財産だったのである。さ て、 隨相論 の訳者として、ニマタクの名が挙げられている。ニマタクは、一般 には、チャンドラキールティ Candrakırtiの 明句論 Prasannapada の訳者とし て名高い。また、中観派(Madhyamika) の 派名帰 派(Prasangika,Thal gyur pa)、自立派(Svatantrika,Rang rgyud pa)の導入者としても知られている 。 ニマタクは、チャンドラキールティを帰 派に位置付け、後に、その隆盛をもたら した重要人物として、筆者の記憶にも残っていた。では、 隨相論 の訳者ニマタ クと 明句論 の訳者ニマタクは、同一人であろうか。ションヌペル gZhon nu dpal (1392-1481)の 青 Deb ther sngon po では、ニマタクの行状が詳しく述べら れているので 、同書を見ると

プールナヴァダナ(Gang ba spel,Purnavardhana)が著わされたその 倶舎 論 注〔= 隨相論 〕の翻訳を請われて、正しく翻訳した 。

mdzod kyi grel bshad gang ba spel gyis mdzad pa de bsgyur bar zhus pas legs par bsgyur( 青 p.416,ll.6-7)

とあった。これで、 明句論 の訳者ニマタクが 隨相論 も訳していたことは、 確認できた。この事実を目の前にした時、筆者の脳裏をある疑念がかすめた。すな わち、 明句論 の翻訳に際し、ニマタクは、svabhavaの用法を意識していただ ろうか >ということが気になって仕方がなくなったのである。本稿は、その点の 察に主眼を置くものであるが、その論述は、 察の下準備をしっかり整えてから 行おう。まずは、以下に、 倶舎論 の svabhavaの用法を確認しておきたい。 筆者の調査では、 倶舎論 において svabhavaは、196個所に見られる。そのう ち、北京版チベット語訳が欠如している個所が5個所あった。残り、191個所のう 駒澤短期大學佛敎論集第9號 2003年10月

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ち、rang bzhin(以下Rと略す)と訳されるのは、135個所、rang gi ngo boと (以下 RG と略す)訳されるのは34個所、ngo bo nyid(以下 GN と略す)と訳さ れるのは22個所である。svabhavaがRと訳される場合、Rは複合語後 として 用されるケースが最も多い。この時、svabhavaは ∼から構成される という意 味で 用されている。例を挙げておこう。 劫を構成するもの svabhava (R)は何か 五蘊から構成される。(svabhava, R)。

kalpah kim svabhavah?pancaskandhasvabhavah (p.543,l.23)

bskal pa i rang bzhin ci zhe na/phung po i lnga i rang bzhin (Gu,180b6) ここでは、劫を構成する素材が問われ、その素材は五蘊であると答えている。これ を svabhavaの 構成の用法 と呼ぼう。この用法を明確に示している例をもうひ とつ見ておこう。 この布施から構成される(danamaya)福業事は、大富楽を果とする。またこの 構成される (maya)は、svabhava(R)であると知るべきである。たとえば、 草から構成される家、葉から構成される器と言われるように。

tac caitad danamayam punyakriyavastu mahabhogya-phalam/svabhave caisa mayad veditavyah/ tad yatha-trnamayam grham, parnamayam bhajanam iti/(p.741,ll.10-11)

sbyin pa las byung ba i bsod nams bya ba i gzhi gang yin pa de ni bras bu longs spyod chen po can yin te/byung ba zhes bya ba di ni rang bzhin yin par rig bya ste/dper na rtswa las byung ba i khyim dang/lo mo las byung ba i snod ces bya ba bzhin (Gu,259A1-2)

ここで、実例として挙げられている 草から構成される家 葉から構成される器 を通じて、svabhavaの 構成の用法 がよく理解できるであろう。 次に、svabhavaが RG と訳される場合を 察してみよう。まず、例を示そう。 たとえば、すべての聖者達には、必ず以下の心が生ずる、 一切法は無我である と。そ〔の心の〕対象(alambana)は、svabhava (RG)〔=現刹 の心自身〕 とそれに伴うものを除くすべてのダルマである。しかも、その刹 の心は、次の 刹 の対象なので、実に、二刹 によって、すべてのダルマが対象とされるので ある。

tatha hi sarvaryapudgalanam idam cittam avasyam utpodyate/

sar-vadharma anatmanah iti/tasya ca svabhavasahabhunirmuktah sarvad-harma alambanam,sa punas cittaksano nyasya cittaksanasyalambanam

iti dvayoh ksanayoh sarvadharma hy alambanam bhavanti/(p.106,ll. 5-9)

di ltar phags pa i gang zag thams cad bdag med do snyams pa i sems di skye o//dei dmigs pa yang rang gi ngo bo dang ldan cig byung ba ma gtogs pa chos thams cad yin no//sems kyi skad cig ma de yang sems kyi skyad cig ma gzhan gyi dmigs pa yin pas skad cig ma gnyis kyi dmigs par ni chos thams cad gyur te/(Gu,49b )

増上縁とは、svabhava (RG)を除くすべてのダルマである。

adhipatipratyayah svabhavavarjyah sarvadharmah (p.351,l.5) bdag po i rkyen pa ni rang gi ngo bo ma gtogs pa chos thams cad (Gu, 117A ) ここで、svabhavaは、時間的にも空間的にも完全に他と区別された自 自身のこ とである。これを 単独性の用法 と名付けよう。なお、この用法は、経量部 (Sautrantika)と説一切有部(Sarvastivadin)が論議を展開する場面に集中す る。有名な三世実有論をめぐる論争においても、問題とされる svabhavaは 単独 性の用法 なのである。また、svabhavaがsvalaksanaや dravyaと同一視される 場合、svabhavaは必ず、RG と訳され、この場合も、 単独性の用法 が われて いる。 では、次に、svabhavaが GN と訳されるケースを 察しよう。まず、例を見て みよう。 たとえば、眼根は、色蘊・眼処・眼界・苦諦・集諦に含まれる。それらを svabhava (GN)とするからである。

caksurindriyam rupaskandhena caksurayatanadhatubhyam duhkhasamudayasatyabhyam ca samgrhıtam;tatsvabhavatvat (p. 54, ll. 10-11)

ming gi dbang po ni gzugs kyi phung po dang/mig gi skye mched dang/ khams dang/sdug bsngal dang/kun byung ba i bdan pa dag gis bsdus te/ de dag gi ngo bo nyid yin pa i phyir ro//(Gu,37a )

ここで、svabhavaは何かを 類するために われている。おそらく、どういう観

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点で 類するかによって、svabhavaの内容も異なるはずである。別の例を見よ う。 〔諸法の善と不善の状態は〕勝義・svabhava(GN)相応・等起を通じて〔理解す べきである。〕そのうち、まず、勝義を通じての善は解脱である。…三善根と慚 と愧とは、svabhava (GN)を通じて善である。 paramarthah,svabhavatah,samprayogatah,samuttanasca/tatra tavat paramarthasubho moksah, ... trıni kusalamulani hrıs capatrapyam ca svabhavena kusalani ...(p.597,ll.3-9)

don dam dang/ ngo bo nyid dang/ mtshung par ldan pa dang/ kun nas slong bas so//de la re zhig/thar ba dam pa i don du dge/...dge ba i rtsa ba gsum dang ngo tsha shas pa dang khrel yod pa ni...ngo bo nyid kyi(sic.) dge ba yin te ...(Gu,199b -200a )

慚や愧は、有部の教理では、それぞれ独立した存在で、独自の性質を持つものであ る。したがって、それぞれが素材として svabhava(R)を持つと えてもよいので あるが、ここでは、両者に共通の svabhavaとして善が示されている。この svab-havaは、それ故、 類の観点に応じて、可変的なのである。これを svabhavaの 類の用法 と呼ぼう。この可変的な svabhavaに対して、Rと訳される 構成 の用法 の svabhavaは不変である。 さて、上記の svabhavaの用法は、チベット語の訳語の相違に全面的に依拠する ものである。訳語は、ひとつの解釈であり、原語の意味を正確に反映しないことも ままあるにちがいない。しかし、これらの用法について、チベット人学僧は、誤解 の生ずることのないよう正確を期したのである。故に、筆者は、これを学僧達の知 的共有財産とみなす。 これで、svabhavaの三種の用法の確認は終わった 。ここで得た情報を基に、 中論 や 明句論 を見た時、はたして、どのような結果がもたらされるであろ うか。次に、それを 察してみよう。 三枝充悳博士の 中論 覧 によれば、 中論 のチベット語訳には、ルイギ

ェンツェン Klui rgyal mtshan(9A.D.)の旧訳とニマタクの新訳の二本がある 。 博士の御著者を って、両訳における svabhavaの訳語を比較してみた。旧訳は GN を多用し、一方、新訳はRをよく う 。svabhavaの用法を踏まえれば、両 訳の svabhavaは全く異なる意味を持つことになる。これは、 中論 の基本的見 解に関わる重大な相違である。なぜなら、自性(svabhava)は 中論 の主要テ ーマに他ならないからである。ごく大雑把な言い方をしてみよう。 中論 におい て、無自性(nihsvabhava)は空(sunya)にもつながる大事な概念である。その 無自性が旧訳では GN がない(ngo bo nyid med pa)と訳され、新訳ではRがな い(rang bzhin med pa)と訳されることになる。無自性の意味が、全く異なる ことがわかるであろう。さて、先に見たように、GN は可変的な svabhavaを意味 する。しかし、 中論 で可変的な svabhavaが説かれているという話は聞いたこ とがない。それで、いくつかの仏教辞典を調べてみたが、どこにもそんな svabhava についての言及はなかった 。また、目にした範囲の研究論文でも、指摘されてい なかった 。とすれば、 倶舎論 の用法を 中論 にあてはめること自体無理な のだろうか しかしながら、先学の研究では、 中論 は有部を最大の論敵と し、有部の有自性論を否定し、無自性論を主張したとされている 。ということ は、有部の代表的著作である 倶舎論 を って 中論 を 察することに、それ ほど、無理があるようには思われない。無論、 倶舎論 は、 中論 のはるか後に 著わされていることは、筆者も知っている。時代的な近さを 慮すれば、 大毘婆 沙論 と 中論 を比較すべきなのである。とはいえ、 大毘婆沙論 は大著にす ぎ、また、漢訳しか残っていない。svabhavaに対する漢訳語の状況も不明であ る。さらに、 倶舎論 自体、有部正説とは言えないという指摘もある 。このよ うな状況下で、 倶舎論 と 中論 は比較するのは、学問的には、危険である。 だが、先に述べたように、svabhavaの三種の用法は、おそらく、学僧達の知的共 有財産である。少くとも、 倶舎論 以降は、そうだったに違いない。そのことを 前提として、以下、 察を進めたい。 さて、可変的な svabhavaというものが、はたして 中論 にあるのかというこ とが、問題となる。 明句論 では、対論者の説として、次のような見解が示され ている。

無自性たること(nihsvabhavatva,rang bzhin med pa)とは、svabhava (R) が一定しないこと(anavasthayitva)消滅することなのである。

nihsvabhavatvam svabhavasyanavasthayitvam vinasitvam (p.240,ll.1-2) rang bzhin med pa ste rang bzhin mi gnas pa nyid dang/ jig pa nyid (A,

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81b )

ここには、はっきりと、可変的な svabhavaが示されている。ただ、svabhavaは

GN ではなく、Rと訳されている。ただし、このRは、 中論 中の訳語 GN

が、注釈文において、訳し変えられたものである。 は、次の通りである。 諸々の bhavaは、nihsvabhava (ngo bo nyid med)である。変化することが認 められるから。

bhavanam nihsvabhavatvam anyathabhavadarsanat/13-3ab/

dngos rnams ngo bo nyid med de/gzhan du gyur bar snang phyir ro// 中論 の新訳において、svabhavaを GN と訳している個所は、7-16、13-3、13 -4、20-21、21-17(前の数字は章、後は の番号を示す)である。 明句論 の訳 においても、 の訳語はそのままであるが、注釈文では、すべてRという訳語に変 えられている。これについては、後ほど、論じるが、先取りして言うと、チャンド ラキールティは、基本的に svabhavaを 構成の用法 すなわち素材とみなしてい る。ニマタクは、チャンドラキールティの意を汲んで、GN をRと訳し変えている のである。詳しいことは、後に譲り、ここでは、もう一例、可変的な svabhavaに ついての言及を 明句論 から紹介しておきたい。やはり、対論者の見解である。 現われる前に、全く存在しない svabhava(R)が、諸々の因縁に依存して、後に 現われるのである。

utpadat purvam avidyamanasyaiva svabhavasya hetupratyayan pratıtya pascad utpado bhavati (p.259,ll.11-12)

skye ba i snga rol du yod pa ma yin pa i rang bzhin kho na rgyu dang rkyen la brten te spyis byung bar gyur (A,87b )

少くとも、可変的な svabhavaは、対論者の説として 中論 や 明句論 に説か れていることは、これで、確認できた。では、次に 明句論 において、svabhava の用法が活きているのか否かについて 察しよう。その際、あわせてバーヴィヴェ ーカ Bhavivekaの 般若灯論 との比較も行ってみよう。 般若灯論 は、チャン ドラキールティの批判の対象となった書 だけに、有効な示唆が得られるかもし れない。その結果によっては、ニマタクが 明句論 をチベットにもたらした意義 も、再検討できるかもしれないのである。 明句論 の注釈部 に登場する svabhavaは、筆者の調査では、528個所であ る。このうち、対応するチベット語訳を欠如した個所が32個所ある。残り496個所 のうち、GN と訳された個所は34個所、RG と訳された個所が7個所、ngo boと 訳された個所は10個所、rang gi dngos poと訳された個所が2個所、bdag gi dngos poと訳された個所が4個所ある。残りは439個所は、すべてRと訳されてい る。これを、 般若灯論 と比較してみよう。この書の原典は失なわれているの で、svabhavaの訳語と覚しきものは、できるだけ採取した。692個所のうち、R と訳されたのは49個所、RG と訳されたのは6個所、bdag gi dngos poと訳され たのは7個所、dngos nyidと訳されたのは24個所で、606個所は GN と訳されて いる。数字を比較しただけでも、両者の違いは明瞭である。すなわち、 明句論 訳はRを多用し、 般若灯論 訳は GN を多用する。ルイゲンツェンが svabhava の用法を意識して訳したかどうか確証はないが、彼ほどの翻訳者ならば、知らぬは ずはあるまい。それを否定する材料が見つかるまで、ルイゲンツェンも用法を意識 して訳したと想定しておこう。 さて、以下では、資料として付した表を適宜 って 察する。 明句論 におい て、svabhavaが GN と訳される34個所のうち、表 の9・10・16・17・36・37・ 40・49・73・95・124・125・410は引用文で 用されている。そして、引用文の GN は、注釈においては、必ずRに言い変えられている。一例を示そう。まず、注釈文 において次のように言われている。 幻等は、svabhava (R)によって現われるものではない〔つまり〕現存するもの でないのに、世間では幻等という言葉によって述べられ、幻等という知識によっ て知られるように、これら出現等も、svabhava (R)によって現存するものでは なくとも、世間において認知されるにすぎないものとして、世尊は、そのような 類の所化人に思寵を垂れんとして 、教示したのである。

yatha mayadayah svabhavenotpanna avidyamana mayadisabdavacya mayadivijnanagamyas ca lokasya/ evam ete pi lokaprasidd-hamatrenotpadayah svabhavenavidyamana api bhagavata tathavidhivineyajananugrahacikırsana nirdista iti (p.177,ll.6-8)

ji ltar sgyu ma la sogs pa rnams rang bzhin gyis ma skyes pa yin yang/ jig

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rten na sgyu ma la sogs pa i sgra i brjod bya dang/sgyu ma la sogs pa i rnam par shes pa i rtogs par bya bar gyur ba de bzhin du skye ba la sogs de dag kyang rang bzhin gyis yod pa ma yin yang jig rten la grags pa tsam gyi sgo nas/bcom ldan das kyis bstan pa yin no//(A,60a )

この経証として、チャンドラキールティは、以下の文を引用する。

蜃気楼や陽炎が、また、幻や夢が、svabhava (GN)空で、あり〔それを理解す ることが〕相の修習であるのと全く同じように、一切諸法について汝知れ。 yathaiva gandhapuram marıcika/ yathaiva maya supinam yathaiva/ svabhavasunya tu nimittabhavana/tathopaman jnanatha sarvadharman/ (p.178,ll.9-12)

ji ltar dri za i grong khyer smig rgyu dang/sgyu ma ji bzhin rmi lam ci dra bar/chvs thams cad de bzhin shes bya ste/mtshan ma sgom pa ngo bo nyid kyis stong/(A,60b ) 引用文の svabhavaがRと訳されるケースもある。275・276・319・410a・438・ 439・440・492・497・524がそれである。実は、引用文の svabhavaが GN と訳さ れるのは、 明句論 第15章 svabhavaの 察 以前であり、それ以降はRと訳 されている。わずかに一例410において、GN という訳語が われているにすぎな い。第15章がこの問題を解く鍵をにぎっている。詳細は後に譲るが、第15章 svab-havaの 察 は、チャンドラキールティの svabhava観の土台なのである。その 点について、次の事実を指摘しておこう。表 は、 中論 新訳・旧訳における svabhavaの訳語の異同を示している。第15章以前は新訳と旧訳の訳語は全く同じ あるが、第15章からはがらりと変わっている。旧訳の GN は、ほとんどすべてRに 訳し変えられているのである。第15章の持つ重要性の一端がうかがえるであう。そ して、このことが引用文の訳語の問題にも関わってくるのである。それはひとまず 保留にして、さらに、GN について 察を進めよう。21・26・80・81・82・84・87・ 88・89・94・307・308・310・310aは、すべて相互依存(parasparapeksa)と svabhava をからめて論ずる個所である。例を示そう。87を取り挙げよう。 それ故、ちょうど業と作者のように、取と取者は、相互依存として成立している が、svabhavikı(GN)として〔成立しているの〕ではないということが確定され たのである。

tasmat karmakarakavad evopadanopadatroh parasparapeksa siddhir na

svabhavikıti sthitam (p.200,ll.2-3)

dei phyir nye bar len pa dang nye bar len pa po gnyis las dang byed pa po bzhin du phan tshun ltos pa i grub pa nyid yin gyi/ngo bo nyid kyis ni ma yin no zhes bya bar gnas so//(A,68a )

もう一例82も示しておこう。 業と作者、取と取者以外の他の bhava、所生と能生、去る者と去ること、所見と 能見、相と所相、出現させられるものと出現させるもの、同様に、部 と全体、 属性と基体能量と所量等のあらゆる bhava、それらが svabhava(GN)から存在 していることを、業と作者の 察によって否定し、解脱を求める智者は、老・生・ 死等の縛から脱するために 、〔それらが〕、相互依存だけとして成立しているこ とを明らかにするべきである。

karmakarakopadeyopadatrvyatirikta ye nye bhava janyjanaka-gantrgamanadrastavyadarsanalaksyalaksanotpadyotpadakah / tath avayavavayavigunagunipramanaprameyadayo niravasesa bhavas tesam kartrkarmavicarena svabhavato stitvam pratisidhya parasparapeksikım eva siddhim prajna nirmumuksur jarajatimaranadibandanebhyo moksaya vibhavayet/(p.190.ll.5-8)

shes rab can gyis las dang byed pa po dang nye bar blang ba dang nye bar len pa po las tha dad pa i dngos po gzhan gang dag bskyed bya skyed byed dang/ gro ba dang gro po dang/blta bya dang lta byed dang/mtshan nyid dang mtshan gzhi dang/ byung bar bya ba dang byung bar byed pa dang/ de bzhin du/yan lag dang yan lag can dang/yon tan dang yon tan can dang/tshad ma dang gzhal bya la sogs pa i dngos po ma lus pa de dag las dang byed pa po i rnam par dpyod pas ngo bo nyid kyis yod pa bkog ste/ phan tslun ltos pa i grub pa nyid yin par shes bya o//(A,64b ) GN と訳される svabhavaは、ここで、相互依存する二つのものの svabhavaとさ れている。では、この GN は、 倶舎論 の GN 類の用法 と同じなのだろう か。またそれは可変的 svabhavaを意味するのだろうか。必ず相互依存しなければ 存在し得ない二つのものは、自立的ではない。AとBが相互依存する時、AはBを svabhavaとするとも言えるし、BはAを svabhavaとするとも言える。svabhava は、AのものでもありBのものでもある。この意味で、GN と訳された svabhava ( )48 ( )47

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はここでも、可変的であろう。また、相互依存という観点からの svabhavaなの で、 類の用法 とも言えるであろう。 倶舎論 で見た GN は、複数の素材によ って形成され、各素材を貫く共通の svabhavaであったが、ここでも、このパター ンは活きている。つまり、相互依存するふたつのものそれぞれが素材となって、 svabhava(GN)を形成するのである。ただし、有部は、素材を svabhava(R)すな わち実在と えているが、中観派は実在と えていないという相違はある。さて、 さらに、 察を進めるために、 般若灯論 の記述も見てみよう。先に見た 明句 論 (表 82)の記述は、第8章第13 に対する注釈である。同じ を、バーヴィ ヴェーカは、次のように注釈する(表 146) 自と他として知られている因と果、属性と基体、量と所量、部 と全体等残りの bhavaも知られるべきである。因も果に依存し、果も因に依存して成立している こと等は、世俗であるが勝義ではないのである。因と果等が勝義の因と果等とい う svabhava (GN)を持つと執着する者達の執着の苦しみを除くことを望んで …

rang dang gzhan la grags pa i rgyu dang bras bu dang/yon tan dang/yon tan can dang/ mtshan nyid dang/ mtshan nyid kyi gzhi dang/ yan lag dang/yan lag can la sogs pa/dngos po lhag ma rnams kyang skes par bya ste/rgyu yang bras bu la brten cing bras bu yang rgyu la brten nas grub pa la sogs pa tha snyad pa yin gyi/don dam pa pa ni ma yin no//gang dag rgyu dang bras bu la sogs pa dag gi don dam pa pa i rgyu dang bras bu la sogs pa i nga bo nyid la mngon par zhen pa de dag gi mngon par zhen pa i zug rdu dag bsal bar dos pas/(Tsha,118b )

バーヴィヴェーカは、ここで、相互依存するものを世俗と規定し、それらが、勝義 の svabhavaを持つことを執着として否定している。チャンドラキールティは、相 互依存するものを否定するが、勝義・世俗という観点からではない。彼は、そのよ うな観点からの批判を有効とは えていなかったのである。また、バーヴィヴェー カは、可変的な svabhava(GN)を勝義の svabhavaおそらく不変の svabhavaに 転用するが、それも、チャンドラキールティから見れば、不備なものだったのであ る。その点については、有部の勝義と世俗に関する記述を視野に入れることで明ら かになる。 倶舎論 では、次のような見解が説かれている 。 この二〔諦〕の定義(laksana)は、何か あるものが、破壊された時、その認識がなくなるもの、また、知によって、他 が除かれた時、〔それの認識がなくなるもの〕〔たとえば〕、瓶や水のようなも の、それが世俗有であり、そうでなければ、勝義有である。 あるものが、バラバラに破壊された時、それの認識がなくなる時、それは世俗有 である。たとえば、瓶のように。なぜなら、それが破壊されて破片になる時、瓶 であるという認識はなくなるからである。また、あるものに関して、知によっ て、〔自 以外の〕他のダルマを除くと、それの認識がなくなる時、それも世俗 有であると知らなければならない。たとえば、水のように。なぜなら、知によっ て、〔水を構成する〕色等のダルマを除くと、水であるという認識はなくなるか らである。しかし、他ならぬそれらに対して、世俗上の名称が付されるので、世 俗という観点から、瓶や水であると言う場合、まさしく真実を述べているのであ り、虚りではない。だから、それは、世俗諦なのである。勝義諦は、そうではな い。それが破壊されても、それの認識は必ずある。知によって、他のダルマを除 いても、〔それの認識は必ずある〕。それが、勝義有である。たとえば、色のよう に。なぜなら、その時、ものが極微にまで破壊されても、知によって、味等のダ ルマを除いても、色の svabhava (R) に対して、認識は必ずあるからである。 受等も、同じようにみなすべきである。

tayah kim laksanam?

yatra bhinne na tadbuddlir anyapohya dhiya ca tat/ ghatambuvad samvrtisat,paramarthasad anyatha//

yasminn avayavaso bhinne ca tadbuddhir bhavati tat samvrtisat/ tad yatha ghatah/tatra hi kapalaso bhinne ghatabuddhirna bhavati/yatra canyan apohya dharman buddhya tadbuddhir na bhavati, tac capi samvrtisad veditavyam/ tad yatha ambu/ tatra hi buddhya rupadın dharman apohyambubuddhir na bharati/tesv eva tu samvrtisamjnakrteti samvrtivasat ghatas cambu castıti bruvantah satyam evahur na mrsa ity ete samvrtisatyam/ato nyatha paramarthasatyam/tatra bhinne pi tadbuddhir bhavaty eva/ anyadharmapohe pi buddhya tat paramarth-asat/tad yatha rupam/tatra hi paramanubhinnevastuni rasadın api ca dharman apohya buddhya rupasya svabave buddhir bhavaty eva/evam vedanadayo pi drastavyah (p.889,l.10∼p.890,l.9)

( )50 ( )49

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ここでは、 色等のダルマを素材として、それによって水等が構成されている と いう有部の存在論が示されている。色等の素材は、勝義有で、水等は世俗有という わけである。この両者の関係は、直前に見た 明句論 や 般若灯論 の記述中の 部 と全体 に相当するであろう。色等と水等は、 れもなく、相互依存の関係 にある。そのことは、おそらく有部も認めるであろう。しかし、そうだからといっ て、有部は、素材である色等に svabhavaがないとは えていないのである。色等 は勝義有として実在し、svabhava (R)を持ち、一方、水等は世俗有として存在し、 svabhava (R)ではないというのが有部の基本的見解である。このような見解に対 し、バーヴィヴェーカの批判は説得性を持ち得るであろうか。確かに、色等と水等 は相互依存しているが、両者は同レベルの存在ではない。それなのに、バーヴィヴ ェーカは、相互依存しているという理由だけで、両者を世俗とする。これでは、有 部は納得しないであろう。また、勝義の svabhava(R)は、素材である色等だけが 持つものであることを、有部は、明言しているのに、バーヴィヴェーカは、それも 無視している。 倶舎論 の記述を視野に入れた時、バーヴィヴェーカの発言は、 いかに、説得力のないものであることか。もちろん、水等の構成物を GN とするこ とは、有部も認めるであろう。そして、その GN が勝義において否定されることも 認めるであろう。しかし、GN を構成するRの非実在は、けして認めないであろ う。バーヴィヴェーカは、GN を勝義へつまりRに転用するが、それは有部説を故 意にねじまげたものである。彼は、対論相手の見解を正しく評価することなく、自 説を押しつけているにすぎない。無論、先のバーヴィウェーカの批判が、有部に向 けられていたという確証はない。しかし、 中論 以降、中観派は、有部を最大の ライバルとみなしていたであろうし、バーヴィヴェーカも有部批判を展開してい る。したがって、バーヴィヴェーカの有部批判に厳しい目を向けることは、的はず れではないはずだ 。そして、最も厳しい目を向けたのがチャンドラキールティ だったのである。先の記述で見たように、チャンドラキールティも、確かに、相互 依存するものに svabhava(GN)がないことを否定している。だが、彼は、バーヴ ィヴェーカのようなミスを犯さなかった。チャンドラキールティは、有部批判に際 し、相互依存に基づく批判が有効でないことをよくわきまえていたのである。勝 義・世俗という言葉を うことが勇み足になりかねないことも、十 理解していた のである 。もし、その言葉を えば、彼もまた、相互依存するものを世俗と呼ぶ 他なかったであろうが、彼は注意深くそれを避けた。チャンドラキールティは、色 等の素材、すなわち、svabhava (R)の否定こそが、有部批判の要であることを深 く肝に銘じていた。それは、相互依存の否定では達成されない。相互依存の場面で われる svabhavaは、それ故、svabhava(R)ではなく、svabhava(GN)でなけ ればならなかった。ニマタクは、チャンドラキールティの意図をよく理解した上 で、相互依存の場面では、svabhavaを GN と訳したと思われる。ニマタクにとっ て、 隨相論 の翻訳は、 明句論 の翻訳のためにも不可欠だったであろう。なぜ なら、チャンドラキールティは、有部を自己の最大のターゲットとしたのだから。 さて、チャンドラキールティが有部批判を目標とする時、彼は svabhava(R)の 否定こそが肝心であると認識していた。これは、先に触れた。ニマタクも、それを よくわきまえていた。チャンドラキールティは、有部批判の土台を svabhavaの定 義に求めたと思われる。第15章 svabhavaの 察 において、その定義が示され ている。以下のように。 今や、その svabhava (R)の定義とは何か。この svabhava (R)とは何かと言わ ねばならない。 答えよう。 実に、svabhava (R)とは、作られたものでなく、また、他に依存することの ないものである。(第15章第2 )

kim idamım tatsvabhavasya laksanam kas casau svabhava iti vaktavyah//ucyate/

akrtrimah svabhavo hi nirapeksah paratra ca//(p.262,ll.9-11) de dag gi rang bzhin gyi mtshan nyid gang yin zhing/rang bzhin de yang gang zhig yin pa brjod dgos so//brjod par bya ste/

rang bzhin dag ni bcos min dang/gzhan la ltos pa med pa yin//(A,89a ) チャンドラキールティは、この を有部批判の決め手としたと思われる。先の 倶 舎論 の二諦の記述を思い出してみよう。色等の素材は svabhava(R)で、それに よって水等が構成されている。水等は svabhava(R)ではない。有部の え方から しても、色等の素材は作られたものではない。しかし、それは、単独では水を構成 できないので、他のダルマに依存せざるを得ないであろう。したがって、色等は、 svabhava (R)たる資格を失うのである。ただし、有部がこの定義を認めればの話 ではあるが。だが、少くとも、svabhava (R)が色等の素材を意味することは、有 部にも理解できるはずであり、有部と中観派の議論は嚙み合う。しかし、この svab-( )52 ( )51

(8)

havaが GN であったらどうなるだろうか。有部は、ただ単に、色等と水等の相互 依存が否定されていると理解するだけであろう。そして、先に見たように、それは 有部にとって自説を撤回するような批判にはならない。有部と中観派の議論は、ど こまでいっても、平行線をたどるのみである。ところが、ルイゲンツェンは、 般 若灯論 で第15章第2 の svabhavaを GN と訳した。以下がそれである。

ngo bo nyid ni bcom min dang//gzhan la ltvs pa med pa yin//(Tsha, 158b ) svabhavaの訳語以外は、 明句論 訳と異なるところがない。 般若灯論 では、 作られたものであることと依存するものであることなのである。これによって、 bhavaのダルマが作られたものであり、依存するものであることが説かれたの である。それ故、推論は、勝義において、諸々の内の bhavaは、svabhava(GN) がないのである。…

byas ba nyid dang/ltos pa dang bcas pa nyid yin no// dis ni dngos po i chos bya ba nyid dang/ltos pa dang bcas pa nyid yin par bstan to//dei phyir rjes su dpag pa ni don dam par nang gi dngos po rnama ngo bo nyid med pa nyid de/(Tsha,158b )

と注釈が続く。これが、いかに有部に対して説得力のないものであるか最早、説明 を要しまい。 さて、こうして、第15章、特に、第2 がチャンドラキールティの有部批判にと って、最も重要な意味を持つことが推定できた。チャンドラキールティは、彼自身 の svabhava解釈の有効性を、この章で示そうとしたのである。そのことは、実 は、章名そのものにも表われている。 明句論 の第15章は svabhavaの 察 と呼ばれているが、般若灯論 の章名は bhavaと abhavaの 察(dngos po dang dngos po med pa brtag pa) である。章名からしても、両注釈書の 察対象は、 まるで違うのである。先に触れたが、第15章以降、ニマタクの 中論 新訳では、 第20章第21 、第21章第17 を除いて、すべての GN がRに訳し直されている。 ニマタクは、第15章で示されたチャンドラキールティの svabhava解釈を踏まえ て、そうしたのである。では、なぜ2 だけ、GN のままにしておいたのか。第20 章第21 は、次の通りである。 svabhavaによって実在している果を、どうして因が生じさせようか。svabhava によって実在していない果を、どうして因が生じさせようか。

phalam svabhavasadbhutam kim hetur janayisyati/ phalam svabhavasadbhutam kim hetur janayisyati//

bras bu ngo bo nyid yod na/rgyus ni ci zhig bshyed par gyur/ hras bu ngo bo nyid med na/ rgyu ni ci zhig bskyed par gyur/

因と果が相互依存であるから、svabhavaを GN と訳したのかもしれない。ただ注 釈では、Rに言い変えている(132a )。次に、第21章第17 は、以下の通りである。

svabhavaによって実在しているものにとって、非実在になることは合理的では ない。

sadbhavasya svabhavena nasadbhavas ca/

dngos po ngo bo nyid yod na/dngos med gyur bar mi rigs so/

ここでも、実在・非実在が相互依存だから、GN としているかもしれない。同じよ うに、注釈ではRに言い変えられている(139a )。なぜ、この2 だけ GN なの か、それについても確たる理由はあるはずだが、今の筆者には、わからない。それ は、後の課題として、第15章をバーヴィヴェーカとチャンドラキールティが異なっ た名で呼んだわけを、さらに、探ってみよう。 明句論 第15章の末尾では、常見・ 断見が論ぜられている。次のように言う。 svabhava (R)によって存在する と言われるものそれは、svabhava (R)が不 壊なのだから、いかなる時も、存在しないわけはない。このように〔svabhava によって〕bhavaが存在すると認める時、常見に陥る。以前に現存した状態にお いて、bhavaの自体(svarupa)を認め、 それは、今や、消滅したので、存在 しない と後で認める時、断見に陥ることになる。

yat svabhavenastıty ucyate svabhavasyanapayitvan na tat kada cid api nastıti/ evam bhavasyastitvabhyupagame sati sasvatadarsanam apadyate/ purvam ca vartamana vasthayam bhavasvarupam abhyupetyedanım tad vinastatvan nastıti pascad abhyupagacchata ucchedadarsanam prasajyate/(p.273,ll.7-9)

gang zhig rang bzhin gyis yod par brjod pa de ni rang bzhin la ldog pa med pas nam yang med pa ma yin te/de ltar na rang bzhin yod pa nyid du khas blangs pas rtag par lta bar gyur la/sngon gnas pa i gnas skabs su/dngos po i rang bzhin khas blangs nas da ltar phyis de zhig pas med do zhes khas blangs pas chad par lta bar thal bar gyur ro//(A,92b )

( )54 ( )53

(9)

ここで、チャンドラキールティは、svabhavaが不壊であること、すなわち svab-hava(R)の不変性という定義を利用している。svabhavaの不変性は、第15章第2 から導かれるであろう。チャンドラキールティは、その定義によって、まず svab-havaによって存在するものを認める人は、常見に陥るとする。さらに、同じ定義 を利用して、前にあった svabhavaが後に消滅すると える者は、svabhavaの不 変性に背くので、断見に陥るとしている。常見も断見も、svabhavaの不変性から 必然的にもたらされる過失であることが、論理的に示されている。チャンドラキー ルティは一貫して svabhavaの定義を重んじ、それに基づいて第15章をしめくく っている。きわめて首尾一貫した論述のスタイルである。そして、有部批判には、 それは有効なのである。すなわち、有部は、色等の素材が svabhava(R)を持つこ とを認めていた。その svabhava(R)を認める以上有部は常見・断見両方に陥るこ とになるはずである。 明句論 のこの記述が、有部批判を意図したものだとした ら、見事に成功したと言えるであろう。一方、バーヴィヴェーカは、常見・断見の 問題を次のように処理する。 勝義においても、認識されるべきものの svabhava(GN)は空であり、不生なの で、有たることという見解〔=常見〕はないが、勝義において bhavaの svabhava (GN)は無いのでもない。なぜなら、因を具えているから。たとえば、幻が作ら れるようなものなので、無たることという見解〔=断見〕もない。あるいは、有 と無の知に執着することもないので、有と無二辺と見ることもないのである。 don dam par yang rtogs par bya ba i ngo bo nyid stong ba i phyir dang/ma skyes pa i phyir yod pa nyid du lta ba med la/don dam par dngos po i ngo bo nyid med pa nyid ma yin te/rgyu dang ldan pa i phyir dper na sgyu ma byas pa bzhin pas med pa nyid du lta ba yang med pa am/yod pa dang med pa i blo la mngon par zhen pa med pa i phyir yod pa dang med pa i mtha gnyis su lta ba yang med do//(Tsha,162a )

ここには、チャンドラキールティのような首尾一貫した論述のスタイルは見られ ない。チャンドラキールティのように svabhavaの不変性という定義を うこと などバーヴィヴェーカの念頭にはない。彼の目指すものは、章名の通り 有 (bhava)と無(abhava)の 察 なのである。そして、勝義という言葉を った 彼の見解は、有部批判という観点から見れば、見事に失敗している。有部の見解に おいて、勝義の立場では、水等は svabhava(R)ではない。それ故、常見に陥らな い、また、色等は svabhava(R)である。それ故、断見にも陥らない。バーヴィヴ ェーカの主張は、有部がそれを逆手に取れば、有部の自説に見えてしまう危険性す ら生ずるのである。こうして、第15章にいたって、 明句論 と 般若灯論 の差 は歴然としてくる。ところで、先に、引用文の問題を保留しておいた。第15章以 前、 明句論 チベット語訳では、引用文の svabhavaを GN と訳すのに対し、そ れ以降はRと訳すという問題である。おそらく、それは 明句論 の画期性を明示 するためであろう。ニマタクは、引用文の svabhava観を旧式に見せるために GN と訳し、チャンドラキールティの革新性を際立たせるために、注釈においてRと訳 し変えたのであろう。そして、15章にいたって、その必要がなくなったので、引用 文の svabhavaもRと訳したのである。ニマタクは、svabhavaの用法をよく理解 し、 明句論 の翻訳において、それを活かし切ったと思われる。ニマタクは、 明 句論 の革新性を強調するために、様々な工夫をこらしたようである。たとえば無 自 性 論(nihsvabhavavada)・有 自 性 論(sasvabhavavada)、無 自 性 (nihsvabhava)・有自性(sasvabhava)等を訳す場合、彼は一例を除いて、svab-havaをすべてRと訳す。これらの言葉を、チャンドラキールティの基本的立場を 明示するものと理解したからである 。そして、バーヴィヴェーカの 般若灯論 では、逆に、ごく少数の例外を除いて、訳者ルイギェンツェンは、すべて GN と訳 す 。ルイギェンツェンの訳は、バーヴィヴェーカの意図を正しく反映しているの だろうか。この点についての 察は、今の筆者にはなし難い。ともあれ、有部批判 という視点を導入した場合、単に、svabhavaの訳語を較べただけでも、 明句論 と 般若灯論 の優劣は、おのずと明らかになるであろう。チベットで、チャンド ラキールティの帰 派が圧倒的人気を博した理由も、案外、そういうところにある のかもしれない。ただひとつ気になるのは、チャンドラキールティを支持し、帰 派と自立派の区別に独自の見解を示したツォンカパ Tsong kha pa (1357-1419) が、svabhavaの用法を無視したかのような発言をしていることである。ツォンカ パは、 中論 の注釈書 正理大海 Rigs pai rgya mthso において、次のように 述べている。

ngo bo nyid (GN)と rang bzhin (R)と rang gi mtshan nyid (svalaksana)から 存在するものと rang gi ngo bo (RG)たることによって存在するもの等は、同 じであり、

ngo bo nyid dang rang bzhin dang rang gi mtshan nyid las yod pa dang rang

( )56 ( )55

(10)

gi ngo bo nyid yod pa sogs ni dra ste (Ba,18a ) これまでの 察の過程で何度も触れたが、筆者の想定では、svabhavaの三種の用 法は、学僧達の知的共有財産である。ツォンカパほどの大学者が、その用法を知ら ぬはずはあるまい。もっとも、チャンドラキールティ自身、第15章第2 の注釈中 で、GN とRと RG を同一視する見解を、以下のように示している。 かの諸法の法性(dharmata)と呼ばれるもの、それこそが svarupa (RG)であ る。では、これら諸法の法性とは何か。諸法の svabhava (GN)である。この svabhava (GN)は何か。prakrti(R)である。このprakrti(R)は何か。かの空性 (sunyata)である。この空性とは何か。naihsvabhavya (R med pa)である。

このnaihsvabhavyaとは何か。真如(tathata)である。

ya sa dharmanam dharmata nama saiva tatsvarupam/ atha keyam dharmanam dharmata/ dharmanam svabhavah/ ko yam svabhavah/ prakrtih/ ka ceyam prakrtih/ yeyam sunyata/ keyam sunyata/ naihsvabhavyam/kim idamnaihsvabhavyam/tathata/(p.264,l.11-p.265, l.1)

dei rang gi ngo bo ni chos rnams kyi chos nyid ces bya ba gang yin pa de nyid yin no//de nas chos rnams kyi chos nyid di yang gang zhig yin zhe na/chos rnams kyi ngo bo o//ngo bo di yang gang zhe na/rang bzhin no//rang bzhin di yang gang yin/stong pa nyid do//stong pa nyid di yang gang yin zhe na/rang bzhin med pa o//rang bzhin med pa di yang gang zhig yin/de bzhin nyid do//(A,89b )

このチャンドラキールティの見解は、先のツォンカパのそれと軌を一にするもの であり、ひいては、svabhavaの用法をも無効にするものに見えてしまう。ニマタ クの訳と原文を比較しながら注意深く読んでみよう。ここで、 諸法の svabhava に対しては GN、そしてprakrtiに対してはRという訳語が与えられている。 明句 論 において、prakrtiと svabhavaが並記される個所は、他に2個所ある。以下 がそれである。 6 イーシュヴァラ・時間・極微・prakrti(R)・svabhava (GN)から生じたも のではない。

naisvara-kala-anu-prakrti-svabhava-sambhuta (p.26,l.6)

dbang phyugs gis ma byas/dus kyis ma bsgyur/rdul phra rab las ma

byung/rang bzhin las ma byung/ngo bo las ma byung/(A,8b ) 59 prakrti (R)とイーシュヴァラと svabhava (GN)

prakrti-ısvara-svabhava (p.159,l.7)

rang bzhin dang/dbang phyuga dang/ngo bo nyid dang/(A,54a )

また、このような訳例は、倶舎論 の注釈書 明瞭義 にも見られる。以下のように。

心作用の触などのprakrti(R)つまり svabhava(GN)は、判断し難い。微妙なの である。

sparsadınam caitasikanam prakrti svabhavah duhparicchedatvat suksmah (p.267,l.3-4)

sems las byung ba reg pa la sogs pa yongs su bcas par dka ba i phir rang bzhin ngo bo nyid phra ba dag yin pa (Cu,186b )

さらに、 隨相論 では、

法のprakrti(R)というのは法の svabhava(GN)である。判断し難いので微妙な のである。

chos kyi rang bzhin zhes bya ba ni chos kyi ngo bo nyid do// yongs su bcas par dka ba i phyir na phra ma dag ste (Ju,225a ) と注釈されている。これらの訳例から、prakrtiと svabhavaを区別するために、 前者をR、後者を GN と訳し けたことがわかる。訳者は、まず、両者の区別を明 確にすることに心を砕いたのであろう。では、これは svabhavaの用法に順ずる訳 であろうか。推測するに、先の 明句論 の訳において、prakrtiと svabhavaが 並記されていなければ、ニマタクはおそらく、svabhavaをRと訳したであろう。 svabhavaとprakrtiはイコールで結ばれる場合があるとしても、Rと GN はイコ ールではあるまい。故に、svabhavaの用法は、そこでも活きていると思われる。 ツォンカパの見解にもどろう。彼の見解は、prakrtiと svabhavaを同一視してい るのか、Rと GN を同一視しているのか判然としない。したがって、ツォンカパ が、svabhavaの用法を意識していたのか、無視したのかも判断できない。ただ、 彼が、それまでの学説をすべてくつがえすようなオリジナリティーを発輝したこ とを思えば、svabhavaの用法という観点から、彼の学説を洗い直す必要があると は思うのである。それは、今後の課題とせざるを得ない 。また、帰 派・自立派 の問題、ニマタクに対する評価も、これから 察を重ねなければならないテーマで ある。本稿は、終止、svabhavaの三種の用法を論述の土台としているが、それ ( )58 ( )57

(11)

も、筆者のアイデアにすぎず、学界で承認されてはいない。あれやこれやの未解決 な問題は残されたままである 。乱暴なことを書きなぐった本稿に対して、改め て、識者の厳しい批判がもたらされることを切に願って、筆を置くこととする。 注 1)以下の説明については,拙稿 倶舎論 における svabhavaについて 駒沢短期大 学仏教論集8、2001、pp.(1)-(87)参照。 2)この名称については、斎藤明 初期中観派とブッダパーリタ 仏教学24、1988、pp. (29)-(51)参照。 3) 派については、多くの研究がある。特に重要なものとして 本 朗 チベット仏教 哲学 1997がある。p.193の〔付記B〕参照。また、最新の研究として Dreyfus,G.B. J & L.Mc Clintock (ed):The Svatantrika-Prasangika Distinction, 2003がある。 4)ニマタクの行状については、Lang,K:Spa-tshab Nyi-ma-grags and the

lntroduc-tion of Prasangika Madhyamaka into Tibet,Refleclntroduc-tion of Tibetan Culture,1990 所収 pp.127-141に詳しい。

5)G.N.Roerich:The Blue Annals, 1976 (rep.)p.342参照。 注4)の Lang 論文には言及なし。 6)注1)の拙稿参照。なお、 倶舎論 の svabhavaについては、櫻部 玄 訳倶舎 論における 體 の語について 印仏研2-2、S. 29, pp. 617-619、槻木裕 自性 と 説一切有部の存在論 仏教研究論集、S.50,pp.273-287が詳しい。ごく最近の研究に 現金谷 明 二諦と自性 チベットにおける 倶舎論 解釈の一段面 東洋学研 究39、2002、pp.143-156がある。現金谷氏は、 ngo bo nyidは、法が法であるため の根拠であり、法である限り必ず ngo bo nyidを持たなければならない (p.152)と 述べるが、これは筆者の見解と異なる。同氏の ngo bo nyidは、筆者から見れば rang bzhinである。 7)三枝充悳 中論 覧 第三文明社、1985、pp.xi-xii 8)注7)の三枝本には、全 の旧訳・新訳が並記されている。なお、表 参照。 9)被見した辞典を列挙する。中村元 仏教語辞典 東京書籍、同 仏教辞典 岩波、横 超 日他 合仏教大辞典 法蔵館、織田得能 仏教大辞典 大蔵出版、望月信亨 望 月仏教大辞典 世界聖典協会 10)立川武蔵 自性と変化 中論の思想 所収、pp.185-200。立川博士は、自性を 恒 常不変なるものである (p.190)と述べ、また、 つくられないものであり、他に非相 待のものである とは、 中論 に見られる スヴァバーヴァ という語の最も基本的 な意味である (p.188)と指摘し、さらに、 このように 中論 およびその にあっ ては、 スヴァバーヴァ という語が基体に存する特質(性質)を意味するというのが 基本的であるが、特質のみではなくその基体と性質とを含めた 体を意味することも ある (p.190)とも述べ、svabhavaの用法に相違があることを明らかにされた。 本 朗 空について 縁起と空 所収、pp.347-355。 本博士は この場合“自性”は チャンドラキールティの言うように、“本質的性質”または“本質”を意味するであろ う。ここで得られた“本質”という語義と、…“自立的存在”または“実在”という語 義との間の相違は重大である。すなわち、前者において“自性”は“諸法に属するもの と”として扱われるのに対し、後者においては“諸法”と同じレヴェルで用いられてお り、その語義にいわば存在のレヴェルの差が見られるのである (pp.347-348)と述 べ、svabhavaの語義の相違に言及されている。また、“諸法に属するもの”としての “自性”の用法は、おそらく仏教 においてノーマルなもの (p.348)と付け加えてお られる。J.W.de Jong,The Problem of the Absobute in the Madhyamaka School, Buddhist Studies (ed,by G.Schopen)所収 pp.53-58。ドゥヨング博士はシャイヤー Schayer博士の見解を引用し、(1) svabhava means svo bhava, the essence (2) svabhava is also the svalaksana, the individual character. In this form it is found in the doctrine of the Vaibhasikas (3)svabhava is the asraya (basis)or prakrti (nature), i. e. the unchanging substratum of each thing (bhava) (4) svabhava is the svato bhava,the absolute being, which is completly indepen-dent (p.54)と述べ、svabhavaに4つの用法を認めておられる。このうち、⑵は、筆 者の見解と異なる。少くとも、 倶舎論 においては、svabhavaとsvalaksanaは簡単 に同一視できないからである。この点については、拙稿 倶舎論 における svalaksanadharanad dharmahという句について 、駒沢短期大学仏教論集7、 2001、pp.(37)-(65)参照。斎藤明 ナーガールジュナにおける 存在 の両義性 、宗 教学会123、pp.203-204。斎藤博士は、 自性の意味内容そのものもかなり慎重を要す るテーマではあるが、ひとまず Nagarjuna自身の規定を念頭に置き、自性を 固有・ 不変の本質 ほどの意味で理解できよう (p.203)と述べられた。W.L.Ames,The Notion of Svabhava in the Thought of Candrakırti,Journal of Indian Philoso-phy 10, 1982, pp. 161-177。アメス氏は、 The idea of svabhava, which literally means〔its〕own (sva) existence or being or natare (bhava), is of central importance in Madhyamika Buddhist Philusophy(p.161)と述べ、さらに、 In Tibetan svabhava is normally translated by rang bzhin or ngo bo nyid,while svarupa is normolly translated by rang gi ngo bo.In a Madhyamika context, there seems to be no differnce in meaning between rang bzhin and ngo bo nyid. That is, the Tibetan translation appears to use the terms interchangeably, rather than to distinguish dfferent sence of the Sanskrit word svabhava (p.162) と発言する。これは、筆者の見解とは全く異なるものである。他に、工藤成樹 中観に ( )60

(12)

おける自性の概念 明句論を中心として 印仏研7-1、S. 33、pp.174-175、森山清 徹 自性の 察 印仏研12-3、S.11、pp.754-757、岸根敏幸 Candrakırtiの二諦説 自性との関連で 印仏研40-1、H.3、pp.403-401を見たが、すべてにおいて可 変的な svabhavaに対する言及はなかった。 11)中村元 人類の知的遺産13 ナーガールジュナ pp.56-61。光川豊芸 実有説と無 自性説 特に婆沙論と中論に留意して 仏教学研究32・33、S.52、pp.42-61。注 10)のドゥヨング論文 pp.53-54、注10)の斎藤論文 p.203参照。 12)説一切有部教学における 倶舎論 の位置付けについては、櫻部 倶舎論の研究 S.44、pp.58-60参照。また、その経量部(Sautrantika)的立場については、加藤純 章 経量部の研究 1989、pp.17-31参照。さらに、その唯識(vijnaptimatra)的見解 については、袴谷憲昭 Purvacarya 唯識思想論 2001所収、pp.506-520。山 部能宜 Purvacaryaの一用例 九州龍谷短期大学紀要45、H. 11、pp.203-217参照。 さらに、また、吉本信行博士は、 アビダルマ灯論 Abhidharmadıpaの所論に基づ き、 世親の 倶舎論 を大乗への入門書として位置づけようとさえしているのである と述べておられる。吉本信行 アビダルマ思想 p.309。

13)江島惠教 中観思想の展開 、pp.178-200、K.Yotsuya,The Critique of Svatantra. Reasoning by Candrakırti and Tsong-kha-pa,pp.73-107参照。なお、 中論 旧訳、

無畏注 Akutobhaya、 仏護注 Buddhapalita-mulamadhyamaka-vrtti、 般若灯論 は、すべてルイゲンツェンの訳したものであるが、これらのテキストや翻訳の手順に関 する問題が、斎藤明 根本中論 テクスト インド学仏教学論集 pp.764-755、同 根本中論 チベット訳批判 仏教研究の諸問題 、pp.246-221、三谷真澄 般若灯 論 中の 無畏 ルイゲンツェンの翻訳手続きに関する一試論 日本西蔵学会々 報46、H.13、pp.17-30に論ぜられている。 14) そのように…垂れんとして の部 は、チベット語訳では欠如している。 15) 解脱を求める…脱するために の部 は、チベット語訳では欠如している。 16)以下の訳は、櫻部 ・小谷信千代 倶舎論の原典解明 賢聖品 、pp.61-62を参照し た。 倶舎論 の二諦については、御牧克己 初期唯識論書に於ける Sautrantika 説 、東方学43、S.47、pp.90-84、同 経量部 、 岩波講座:東洋思想8 インド仏教 1 所収 pp.239-240、S. Katsura、 On Abhidharmakosa VI 4インド学報2、 1976、p.28、注6)の現金谷論文参照。 17)注1)の拙稿 p.262の139、および p.234の139参照。

18)注16)の櫻部・小谷本(p.64、注⑸)に従い、テキスト rasarhan apiを rasadın api に改めて読んだ。 19)三友 容 般若灯論における説一切有部説 仏教思想の諸問題 、pp.511-529参照。 20)注13)の江島本 pp.178-200 Yotsuya本 pp.73-106参照。 21) 明句論 において、その種の表現が見られる個所は、表 の番号で示すと、4・5・ 20・22・47・48・60・61・62・63・64・68・69・76・79・89・90・91・92・100・102・ 103・104・108・121・123・150・151・160・216・246・248・253・254・260・261・ 262・263・264・265・266・268・269・273・274・282・311・312・313・314・315・ 316・317・318・323・346・364・370・376・379・380・381・382・389・398・418・ 421・422・428・434・440・448・451・453・460・461・463・464・472・476・478・ 484・487・488・493・494・495・499・502である。このうち、89のみが以下のよう に、svabhavaを GN と訳している。

依存を有する諸々の padarthaも、有自性(sasvabhavin,ngo bo nyid dang bcas pa nyid)であることが見られるからである。

sapeksanam api padarthanam sasvabhavy darsanat (p.202,l.4)

dngos po ltos pa dang beas pa rnams la yang ngo bo nyid dang bcas pa nyid mthong ba i phyir no//(A,68b )

なぜ GN を ったかは明らかであろう。これは、対論者の説であり、相互依存がテー マになっているからである。 22) 般若灯論 において、Rは表 の番号で、10・13・14・15・16・20・21・32・51・ 54・80・87・110・113・150・168・172・218・219・224・295・296・297・298・303・ 304・305・306・307・308・309・312・313・314・334・339・360・361・362・362a・ 363・369・374・375・399・502・503・504・654の49個所に登場する。このうち、295・ 296・297・298・303・304・305・306・307・308・309・312・313・314・334の15個 所はprakrtiに対する訳語である。295-298は、第15章第8 の引用と注釈部 であ る。同 は、以下の如し。 もし、有たることが、prakrti (R)によってあるのならば、それは、無たることには ならないだろう。なぜなら、prakrti (R)が変化することは、全くあり得ないからで ある。

yady astitvam prakrtya syan na bhaved asya nastita/ prakrter anyathabhavo na hi jatupapadyate/

gal te rang bzhin yod nyid na/de ni med nyid gyur ro// rang bzhin gzhan du gyur ba ni/nam yang thad par gyur ro// また、303-314は、第15章第9 に言及する個所である。 は、次の通りである。

もし、prakrti(R)がないのならば、変化は何にあるのだろうか。もし、prakrti(R) があるのならば、変化は何にあるのだろうか。

prakrtau kasya casatyam anyathatvam bhavisyati/ prakrtau kasya ca satyam anyathatvam bhavisyati//

rang bzhin yod pa ma yin na/gzhan du gyur ba gang gi yin// ( )62

(13)

rang bzhin yod pa yin na yang/gzhan du gyur ba ji ltar rung//

中論 では、もう1個所、第17章14 で、prakrtiが われていて、それに対する訳 語もRである。以下の如し。

不失は債券のようであり、業は負債のようである。それ〔不失〕は、界からすれば4 種であり、prakrti (R)については無記である。

pattram yathavipranasastatharnam iva karma ca/ caturvidho dhatutah sa prakrtya vyakrtas ca sah// ji ltar bu lon dpang rgya ltar/de ltar dang chud mi za//

de ni khams las rnams pa bzhi/de yang rang bzhin lung ma bstan// 表 の334がこのprakrtiである。(なお、 中論 新訳でも、prakrtiはRと訳されてい る。詳しくは注7)の三枝本参照)さて、 般若灯論 において登場するRのうち、約 3 の1が、prakrtiに対する訳語であるとすれば、残りのRもprakrtiである可能性は 捨て難い。prakrtiと svabhavaが同義語とされることは、よくあるとしても、ひょっ としたら、 般若灯論 では、svabhavaとprakrtiを区別し、それを受けてルイギェン ツェンは訳し けたのかもしれない。今西順吉博士が、 中論 における svabhavaの 圧倒的な用例に対するprakrtiの局限性は注意されるべきかもしれない ( 竜樹によっ て言及されたサーンキヤ思想 北大文学部紀要12、S.3、p.47)と述べておられるよう に、svabhavaとprakrtiの区別にも留意すべきなのであるが、本稿では扱いきれない 問題である。ともかく、Rを って 無自性 を述べる個所を列挙しておこう。

80.rang bzhin med par smra o (Tsha,84b )

110.dngos po thams cad kyi rang bzhin ngo bo nyid med pa nyid du smra ba rnams (Tsha,106a )

113.dngos po rang bzhin med rnams kyi/(Tsha,106b )

この3個所である。110は、Rを GN に言い変えているので、このRは svabhavaであ る可能性は高い。さて、 般若灯論 において、無自性は、各章の冒頭と末尾で、章の 目的を示す形でよく われている。いわば決めゼリフである。たとえば、第4章 蘊の 察 の冒頭には 諸蘊は svabhava(GN)がないものであることを示すという目的を顧慮して、第4章 を著わすのである。

phung pa rnams ngo bo nyid med pa nyid du bstan pa i don gyi dbang gis rab tu byed pa bzhi ba brtsam mo (Tsha,83b )

とある。この種の表現は、表 の55・78・90・99・100・101・102・139・152・153・ 159・170・179・180・186・187・231・232・245・319・330・331・351・383・394・ 396・427・428・438・506・535・536・605に見られる。そこでは、すべて、先に示し た例と同じパターンで ∼は svabhavaがないものであることを云々 と述べられて

いて、GN だけが 用されている。故に、 般若灯論 のnihsvabhavaは ngo bo nyid med paと訳されているのであり、 明句論 訳とは全く異なるのである。 22)注3)の 本本所収 ツォンカパの中観思想について pp.159-194参照。 本博士 は、 自立派は、言説において、自相によって成立している法を承認するが、帰 派 は、それさえも承認しない という学説を、ツォンカパ独自の中観思想と規定し得ると 思われること (p.186)という結論を下された。このツォンカパ独自の中観思想が、も し、svabhavaの用法を無視した結果得られたとしたならば、そのオリジナリティーや 価値に対する評価も、また変わってくるであろう。 23)せめて資料として付した表の 析ぐらい終えておくべきなのであるが、それさえ果 たせなかった。愚 山を移すの故事もあるので、根気よく研究を続けるしかない。た だ、最後に、吉本博士の見解には、是非とも触れておかねばならない。筆者は、 倶舎 論 以降、svabhavaの三種の用法は、学僧達の知的共有財産であった、と再三述べ た。吉本博士は、これと全く異なる見解を述べておられる。博士は このように、説一 切有部にあっても、当初は、自性なる語は、自体や自相を含むような広義につかわれて いたことを知ることができる。 倶舎論 においても、これらの区別は厳密にはなされ ておらず…ところが 順正理論 や、 に後の アビダルマディーパ になると、これ らの用語を厳密に区別して用いるようになるのである (注12)の吉本本 p.372)と述 べられ、さらに 中観学派におけるこのような自性の解釈は、後述するように、有部に おける自性の解釈とはずいぶん異なっている。…中観学派が有部の有自性論を破斥す る場合、中観学派の理解する自性なる概念と、有部の意味する自性なる概念がまったく 異なっているため、結果的にはまったく議論にならない一面が認められるのである (p.340)と言われる。これは筆者の えと相違する。吉本博士に対してきちんとした批 判も行なわないで、博士の発言だけを報告するのは非礼であるが、それも今後の課題と したい。 用テキスト 中論 三枝充悳 中論 覧

倶舎論 ed.by S.D.Śastri(Bauddha Bharati Sr.5,6,7,9)1987 北京版 No.5591 明句論 ed.by L de la V.Poussin デルゲ版 No.3860

般若灯論 デルゲ版 No.3853

正理大海 The collected Works vol.23 青 四川民族出版 1985

明瞭義 ed.by S.D.Sastri(Bauddha Bharati Sr.5,6,7,9)1987 北京版 No.5593 隨相論 北京版 No.5594

2001年7月3日 脱稿 ( )64

(14)

略号表

M Mulamadhyamaka-karika of Nagarjuna 三枝充悳 中論 覧 1985、所収 新 M tr.by Nyi ma grags(新チベット訳)三枝本所収

旧 M tr,by Klu i rgyal mtshan(旧チベット訳)三枝本所収

明 明句論 Prasannapada of Candrakırti ed.by de la V.Poussin,1970 明−デ tr.by Nyi ma grags(チベット訳)、デルゲ版、No.3860

般 般若灯論 Prajnapradıpa of Bhaviveka tr.by Klu i rgyal mtshan、デルゲ版、 No.3853

仏 仏護注 Buddhapalita-mulamadhyamaka-vrtti tr.by Klu i rgyal mtsham、デル ゲ版、No.3842

無 無畏注 Aktobhya tr.by Klu i rgyal mtshan、デルゲ版、No.3829

R rang bzhin GN ngo bo nyid RG rang gi ngo bo Ng dngos nyid D bdag gi dngos po Rng rang gi dngos po G ngo bo 表 は、Mで svabhavaが われる を抜き出したものである。新旧はそれぞれMのチベ ット語訳の新旧を意味する。RやDは svabhavaに対する訳語を示している。さらに、イン ド 述のM注の対応個所を付加した。たとえば、1は、svabhavaが第1章第3 で われ ていて、最初の svabhavaを新旧ともRと訳し、第2の svabhavaをDと訳していること を表わしている。次に、明−デではこの が 26a の個所に引用されていることが示され、 般では の前半(ab)が 53b と 54b の二個所で引用されていることが示されている。な お、明−デで引用される は新と一致し、般・仏・無のそれは旧に一致する。 表 は明の svabhavaが明−デでどのように訳されているかを示したものである。1に おいて、明の9-5は、ページ数と行数を示す。つまり、明9ページ5行目の svabhavaが明− デの 3b において Rng と訳されていることが示されているのである。 表 は、svabhavaに対する訳語と思われるものをすべて般から採取したものである。上 に訳語、下に個所を示した。 ( )65

(15)

表 無 仏 般 明―デ 旧 新 M 1 1―3 R D R D 26a ab → 53b 54b cd → 54a 54b ab → 162b cd → 162b 33a -b 34b 166b ab → 61a cd → 61a 29a -b R R 1―10 2 4 13―3 GN

GN GNGN cd → 81bab → 81b ab → 149acd → 149a ab → 218acd → 218a ab → 58acd → 58b 47b ab → 191b cd → 192b ab → 106b cd → 107a ab → 54a cd → 54b GN GN 7―16 3

7 15―2 R GN abcd → 89a→ 88a ab → 158acd → 158b ab → 224acd → 224a 60b

60b ab → 224b cd → 224b ab → 159a cd → 159a 89b -90a GN GN R R 15―3 8 6 15―1 R R GNGN ab → 87bcd → 87b ab → 157bcd → 157b ab → 224acd → 224a ab → 60bcd → 60b ab → 58b cd → 58b ab → 218a cd → 218b ab → 149b cd → 149b ab → 82b cd → 82b GN GN GN GN 13―4 5

13 17―22 R Ng 107a -b ab → 176acd → 176a ab → 236bcd → 236b ab → 67bcd → 67b

68a 237b ab → 176a cd → 176a 107b -108a GN R 17―25 14

16 21―17 GN GN abcd → 139a→ 139a ab → 208acd → 208b ab → 260acd → 260b ab → 80bcd → 80b ab → 76a cd → 76a 254b ab → 202a cd → 202b 132a GN GN 20―21 15 11 15―11 R GN 92b 162a 226b 61b a → 67a b → 67a cd → 67a a → 235b b → 236a cd → 236a a → 175a b → 175b cd → 176a ab → 107a cd → 107a Ng R 17―21 12

10 15―6 R Ng 90b ab → 159acd → 159b 225a 61a 61b 224b ab → 159a cd → 159a 90a GN GN R R 15―4 9 25 24―23 R R GN GN 168b 231b 271b 90a 90a 271b ab → 232a cd → 232a 168b GN Ng R R 24―24 26 28 24―28 R R GNGN 169b 232b 272b 91a 90b 272a 232a 169a GN Ng R R 24―26 27 31 24―38 R Ng 170b -171a 233b 272b 91b 30 24―33 R GN 170a 233a 272b 91a 91a 272b 233a 170a GN R 24―32 29 21 22―16 R R R R Ng GN Ng GN 146b 218a ab → 266bcd → 266b 85a 89b 271a 230a 166b Ng R 24―16 22 24 24―22 R GN 168b ab → 231bcd → 231b 271b 90a 90a 271b ab → 231b cd → 231b 168a GN R 24―21 23 19 22―9 R D GND ab → 143bcd → 143b ab → 213bcd → 213b ab → 264acd → 264a ab → 83bcd → 83b 84b 266a 217b 146a GN R 22―14 20 18 22―4 R R GNGN ab → 142bcd → 143a ab → 211bcd → 211b 262b ab → 82bcd → 82b ab → 82a cd → 82b ab → 262a cd → 262a ab → 210a cd → 211a 142a GN GN R R 22―2 17 M 新 旧 明―デ 般 仏 無

参照

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