NO.104 / 2008.7 月号 カトリック厚木教会 〒243-0014 神奈川県厚木市 旭町 2-7-11 TEL.046-228-4164 FAX.046-228-4150 4月1日(火)6時45分 朝の祈りとミサ。 厚木教会での最初のミサ。今朝は嬉しかった。 毎朝のミサは私の祈りの生活の要です。小さな 共同体でも、ミサを待っているひとがいること は大きな支えです。 4月13日(日) 今日は津久井教会での最初のミ サ。きれいな聖堂、そして祈りの雰囲気が良い。 共同体はよく歌いました。ミサ後に、多少の雨 ながら、私の歓迎に外でバーベキューがありま した。暖かい感じ。今後第2と第4日曜日には津 久井教会でミサを挙げることになります。 4月20日(日) 厚木教会での歓迎会。あま りにも大勢の人がミサに来られていて、び っくりしました。ミサ後の聖堂での挨拶に 際し皆さんが私によく反応してくださっ た。私達の間に接点ができたと思った。 その後、中庭で食べながら、フィリピンの皆さ んがこの教会によく溶け込んでいると思いま した。 5 月 この1 ヶ月の間に石川さんに食事のお世話 になりながら、自分の身の回りの整理を行いまし た。 その間、何回か、婦人方から聖書研究会の依頼 がありました。研究だけのためではなく、祈りと 活動につながるものなら喜んで開くと約束しま した。とりあえず、次週の「聖書と典礼」を使い、 6 月 4 日の水曜日から始めることにしました。 そう言う内容でしたら、それぞれのコミュニティ ーで小さな集会をもったら、話の種となるかもし れないと言われました。
3ヶ月間の日記を振り返って
主任司祭 パトリック・ブランチフィールド 聖書研究会は、6 月 4 日から毎週続いています。 参加者が増えてきて皆さんはよく関わっていま す。やりがいを感じる、また私にも勉強するきっ かけになっています。 6 月 15 日(日) 初聖体の日 今日20 名の子ど も(小さい子から大きい子まで)は、はじめてご 聖体拝領しました。準備の段階で子ども達の指導 に私はある程度関わりましたが、両親の皆さんに この日の意味をよく知ってほしいと思いました。 子供達の人生に於いて聖なる日であって、忘れ てはならない日であり、信仰生活を「一歩」歩みだ したことになります。今後、子ども達が 家庭のなかで、また教会学校で、信仰に ついて教えてもらわなければ、意味のな い日となります。 6 月 21 日(土) 教育部、教会学校、の皆 さんと話しました。できるだけ9 月から新しい初 聖体クラスを募集して、また、現在教会学校にき ていない子ども達にも知らせを送ることにしま した。6 月 15 日の初聖体の子ども達もみな加われ るように祈ります。 6 月 29 日(日) 今日は新しく任命された聖体奉仕 者を共同体に紹介しました。今後9:30 のミサで司 祭のほか三人で奉仕します。このごろミサの最中 に会衆の様子を見ながら思うことがあります。前 の方に、または中間のほうに、空席が沢山あるの に玄関に、または玄関の先に大勢の方が立ってい ます。せっかくのミサなので、聖堂のなかに入っ てきてほしいと思います。 7 月 6 日(日) 堅信のお知らせを今日配りました。名簿上でこの秘跡を受けていない方が大勢。でき るだけ今月中に申し込んで欲しい。それは、8 月 中に中高生がある程度心の準備ができるように。 大人は9 月から準備ができると思います。皆さん にお願いしたいこと、それは、遠慮しないで申し 込んでください。堅信は全ての秘跡と同じように、 神様との出会いの場であって、実に、入信の秘跡 の一つです。 今回、通知を沢山出しましたが、恐らく、それ でも知らせを受けない方もいるでしょう。教会の 名簿にのっていない外国籍の方々の中に秘跡の 対象となる方々もおられるのではないかと思い ます。できるだけその方々にも申し込んで欲しい。 来る 10 月 19 日(日)、より多くの方々が堅信の秘 跡の喜びを頂くことができるよう、皆さんと心を 合わせて祈りたい。 4 月 20 日第 2 ミサ後にブランチ神父様の歓迎 会が行われました。第2 ミサは国際ミサとして行 われ、福音書の朗読と説教は英語と日本語でなさ れ、聖堂は会衆であふれるようでした。聖体拝領 奉仕は3人で行われ、その一人にフィリピン人共 同体で奉仕活動されているシスター・マシーも聖 体奉仕されました。 歓迎会は2 部構成で、第 1 部は聖堂内で、第 2 部は中庭で行われました。 第1 部では、まず教会学校の生徒さんによる聖 歌が歌われ、次にブランチ神父様は次のように挨 拶されました。 「皆さん、いろいろ私に対して期待があるでし ょうが、徐々に皆さんと関わりながら応えること ができるように、神様のお助けを願うほかないで す。皆さんの期待が大き過ぎたら困ります。(会 衆笑い)お互い助け合いながらやっていきたい。 厚木教会に来る前に平塚教会でインターネッ トで厚木教会(ホームページ)を調べてもらった ら、大きい教会で活発に活動している教会という ことが分かりました。ここに来て見ると確かに調 べてもらったとおりで、大勢の人が出入りしてい る事も事実ですし、確かに活発に動いている人た ちが多くいます。喜びを持って皆さんと関わりを 持っていきたい。
ブランチ神父様の歓迎会
教会が変わると寂しいでしょうといわれるこ とがありますが、決してそうではありません。平 塚教会では 13 年間過ごしましたが、非常に楽し い意義のあることでした。私を待っている共同体 に行くことは、私の使命であり、喜びと希望を持 って来ました。 地図を広げて見ると厚木教会の信徒がどんな に広い範囲に住んでいるかと驚きました。いいな あと思ったことは、行事ごとに、分担でコミュニティーが担当することです。今まで私が関わった 教会では、地理的にいくつかの区域に例えば東地 区とか西地区に分かれていました。厚木教会では、 そこに住んでいる人々を考えて、コミュニティー と言っており、いいなあと思いました。教会共同 体は人間で成り立っており、それぞれのコミュニ ティーの中でお互いの面倒を見ているというこ とは素晴らしいことです。そのような皆さんと喜 びを持って関わりたいと思います。」 次に神父様はあらかじめ用意された質問に答 えられました。 〔趣味は?〕「大工道具を握ることと大自然が好 きで、青空があれば休みであっても無くても、と にかく出かけたいという誘惑に駆られます。もし 万が一見つからないときには誘惑に負けたとご 理解ください。」(会衆笑い) 〔好きな言葉?〕「好きでない言葉はあります。 (会衆笑い)それは“大変”という言葉です。例 えば、何かをお願いしたときに“大変”と言われ るとそれ以上お願いできません。私も大変なとき がありますが、できるだけ“大変”と言わないよ うにしています。内心で大変と思っても口に出さ ないようにしましょう。 好きな言葉ですが、顔 の表情にでる“笑顔”が大好きです。口からでる 言葉はうるさい時もあるが、笑顔はうるさくあり ません。」 〔日本に来て良かったこと?〕「私の毎日の生活 は人々との関わりです。例えば言いたいことがあ れば、求めたいことがあれば、また話したいこと があれば、人を通してではなく直接私に言ってく ださい。 最後に、私の名前“ブランチフィールド”は語 呂が良くないし、私も聞きたくないので、どうぞ “ブランチ”と呼んでください。その方が親しみ があります。」 続いて、教会学校の生徒さんから3 つの質問に 答えられました。その答えには笑いを誘うものも ありましたが、印象に残る一つを記します。 〔尊敬している人は?〕「神学校に入ったとき に、私の世話をしてくれた一人の神父様です。1 年間私たちをいろいろな面で面倒見てくれ、導い てくれた方です。その神父様は 23 年ぐらい、神 学校で仕事をしていましたが、私が神学校を出て から、さらに7~8 年後に、その仕事から解放さ れました。その後、私たちが住んでいたダブリン の下町の教会の神父様のお手伝いをしました。そ の時70 歳ぐらいの年齢でしたが、その教会で朝 3 時頃に道端に寝ている人たちの世話のために、時 には自転車に乗って、食べ物を持って、毛布を持 って出かけました。そのような生活を続けること ができなくなった 80 歳ぐらいまで続けました。 その後、私たちが住んでいたところに戻ってきま した。そして、その神父様の着物は黒色ではなく、 長い間着ていたので紫色に変色していました。私 はその生き方に感心するし、その生き方を見習い たいと思います。」 第1 部では、以上のように神父様のユーモア溢 れるお話に聖堂内は何度も会衆の笑いに包まれ ました。 第2 部では、中庭にテーブルを出し、国際色豊 かな料理が並べられ、歓談しながら日頃とは異な る風味の料理を賞味することができました。沢山 の料理を準備された国際部の方々に感謝いたし ます。 (広報部 山内)
バザーが行われました
5 月 25 日、バザーが行われました。 あいにく日本列島は低気圧の通過で悪天候で す。前夜からの雨が第2 ミサ前には、本降りとな り、バザーへの影響が心配されました。しかし、 幸いにも第2 ミサ後には小雨となり、バザーは始 まりました。 開始早々、国際部の売店では、串指し焼肉、春 巻きなどを買い求める人で群がっているようで した。聖堂内ではいろいろの売店で品定めする人 たちで熱気を感じるようでした。雨が上がった駐車場には、教会学校の売店が設 けられ、魚釣りゲームなどに子供たちは興味を注 がれていました。 信徒会館では、食事や飲み物を摂りながら、近 況を交換したり、歓談する光景が見られ、交わり を深めていました。昨年は中庭に椅子を並べ、そ こで男性の方々は歓談する光景が見られました が、今年は雨が降っていたので、その椅子も無く、 信徒会館内は例年より混雑したようです。 バザーの最後は恒例の抽選会が開かれ、上位当 選者が発表されるたびに、見守る人たちの一喜一 憂する光景が見られました。 今年のバザーに関しまして準備を進められた バザー委員長の土谷さん(2008 年度教会副委員 長)に、お話を伺いました。 「ヨハネ祭・バザー」を終えての感想 バザーの準備全般で感じたことは、バザーの役 割分担が明確に決められ、内容もマニュアル(フ ァイル)で判り易く、そして世話人の方々も積極 的に進められたことです。結果的にバザー準備は スムーズに運営出来たと思っています。これは歴 代のバザー委員長と世話人によるもので、厚木教 会バザーの歴史のような物を感じました。 特に世話人を核にコミュニティー・メンバーの 方々で力を合わせて準備する方法は、厚木教会に 根づき、さらに、国際部のベトナム、フィリピン、 ブラジル他の出店等、国際色豊かな、素晴らしい 和の体制と思います。今年のテーマである『和 (わ)』、すなわち神様、信徒、地域、世界、の和の 実践が少しだけ出来たものと考えています。 今年はバザーの前に鵜飼神父様の歓送会、復活 祭、ブランチ神父様の歓迎会と行事が続き、世話 人の方々には大変な負担をお掛けしました。細か い点で世話人の方々の苦労、配慮が相当あったも のと思いますが多くの方に気持ちよく協力して 頂き感謝しています。 今後さらに皆で楽しめるヨハネ祭・バザーとす るために、世話人の方々の負担を少なくするため の工夫も今後の課題と考えています。 (土屋 知男) 教会の新しい年度が始まるのが3 月です。役員 も世話人も交代しますが、3 ヶ月にも満たない間 に復活祭、バザーと大きな行事を迎え、関係者は 不慣れな中、慌しい日々を送ることになります。 毎年、大過なく終えることができるのは、これま での積み重ねと信徒の皆さんの一致団結のなす 業です。たいへん素晴らしいことですね。 (広報部 永田)
初聖体おめでとうございます
6 月 15 日(日)第二ミサで 20 人のお子様が初聖 体を祝われました。当日はご両親も出席され、最 近では例のない大勢の初聖体となりました。 ブランチ神父様はミサのはじめに、「今日は初 聖体を受ける子供たちにとって一生に1回の大 切な祝いの日であり、忘れてはならない日です。 お父さんお母さんそして子供たち本人もこの喜 びの日を一生覚えていて欲しい。そして家族は自 分たちのことだけでなく、共同体全体として皆さ んが今日この子供たちとお父さんお母さんたち のために、この日が彼らにとって大きな恵みの日 となって、今後この子供たちが素直にこの道を忠 実に歩んでいくように祈ってください」と話され ました。共同祈願の中では、国際色豊かに日本語、英語、 タガログ語での祈りがされました。 ミサ後に子供たち一人一人に記念品が手渡さ れ、兄弟で受けられた方も数組おり、各ご両親か らお礼の言葉が述べられ、また、神父様からこの 初聖体のために長い間準備指導された関係者に 心から感謝の言葉が述べられました。 (広報部 山内) 3 月 2 日第二ミサ後に澤田神父様(聖パウロ修 道会)により講話が行われました。澤田神父様は 創世記3 章とマタイ 25 章の聖書の言葉に関連し て、1時間程、奥深い大切なことをお話しになり ました。貴重な講話でしたので前号に引き続きお 伝えします。 “誘惑について” 創世記には、創造 の 出 来 事 が 記 さ れ たすぐ後に(3章)、 悪 の 力 と し て 誘 惑 と そ れ に 陥 っ て し ま っ た 人 間 の 姿 が 描かれています。最初にして最大の悪の攻撃とし て、聖書は誘惑を記すのです。 誘惑は、悪の側からの巧みな誘いかけですが、 人間の側にもそれを受け入れてしまう土壌があ ります。 蛇の最初の質問はたわいのないものです。 蛇は女に言った。「園のどの木からも食べては いけない、などと神は言われたのか。」 難しい 質問をされると人間は警戒しますが、やさしい質 問には心を許してしまうものです。その点で蛇は 巧みで、人間の心の動きをよく知っています。女 はそれに乗ってしまうのです。女は「わたしたち は園の木の果実を食べてもよいのです。でも、園 の中央に生えている木の果実だけは、食べてはい けない、触れてもいけない……」と答えた。 しかし、女の答えには二つの点で間違いがあり ます。 一つ目の間違いは、「園の中央に置いた木の果 実だけは、食べてはいけない」と答えたことです。 創世記2章に記されているように、園の中央に置 かれた木は2 本あり、一本は命の木、もう一本は 善悪の知識の木で、神が禁じられたのは善悪の知 識の木の果実だけでした。どちらも禁じられたわ けではないのです。命は神が人をお造りになって おり、もともと神から与えられているのですから、 命の木を人から引き離す必要はないのです。とこ ろが善悪の知識(善から悪にいたる全ての知識)は 人間のためにあるのではなく、神のためにありま す。人間は、神の知識を強奪することによってで はなく、神から与えられた命を育み、神の計画を 実現していくことによって、定められた救いに達 することができます。
四旬節黙想会(その2)
つまり、神の禁止の言葉は、束縛の言葉ではな く、人間に救いの道を示す恵みの言葉なのです。 神ご自身が教えてくださる救いの道。十戒、律法、 キリストの教えもそうなのです。本来それは、わ たしたちを制約するものでなく、束縛するもので もなく、わたしたちを輝かせるために与えられた ものです。 二つ目の間違いは、「……木の果実だけは、食 べてはいけない、触れてもいけない、死んではい けないから、と神様はおっしゃいました」と女は 答えましたが、触れてはいけないとは言われてい ないことです。 この裏側にある神の理解はどういうものでし ょうか。神は自分を束縛する方、禁止をしてがん じがらめにする方、それを破ると殺してしまう怖 い方、恐ろしい方、だから離れておこう、近くに は寄らないでおこう、という考え方が見え隠れし ます。これが誘惑の土壌になってしまっているの です。もともと神は人間を親しいパートナーとし てお造りになりました。神との親しい絆、愛を保 とうとして人間をお造りになったのです。しかし、 だんだんと人間と神との関係は変質していきました。そこを蛇はついてきたのです。神は嫉妬深 い方でもなく、死なせてしまうことを目的として 禁止したわけでもないのに、その点ばかりに目を 向けさせ、神との関わり方、神のイメージを歪め させてしまったのです。 わたしたちにとって神とはどういう方なので しょうか。恵み深い方、わたしを助けてくださる 方、失敗してもわたしと一緒に歩んでくださる方 でしょうか。それとも、わたしを厳しく罰せられ る方、わたしがどんな悪いことをするかずっと目 を光らせている方でしょうか。 わたしたちは神が赦してくださるから、救って くださるから、前に向かって進んでいくことがで きることを信じています。しかし、いつの間にか これが逆転してしまうこともあります。わたしが すばらしい生き方をしないと、神はわたしを救っ てくださらない、神はわたし を裁かれる、というような考 え方になってしまうのです。 これも、神のイメージの変質 の好例かもしれません。 赦しの秘跡では、神が先に 赦してくださいます。神が赦してくださるから、 わたしたちは悔い改めることができるのです。そ して、少しでも神に近づくことができるのです。 神が自分の命を捧げてくださったのは、わたした ちがふさわしいからではありません。わたしたち がまだ罪人であったそのときに神はご自分の命 を捧げ、わたしたちと和解してくださったのです。 神がわたしたちと和解してくださったから、その 血のいけにえによって、わたしたちは神に近づく ことができるのです。 初代教会やその後の時代に描かれた最後の審 判や世の終わりの絵を見ると、地獄はほとんど描 かれていません。描かれても、そこには悪魔だけ がいて人間はいないです。世の終わりとか最後の 審判と言っても、描かれているのはほとんど自分 たちが救われる場面です。キリストによって救わ れたのだから、よもや自分たちが地獄に行くとは 考えていないのです。初期のキリスト者たちにと って、世の終わりは救いのときでした。しかし、 それが逆転してしまって地獄の絵を見せてこん なところに行かないように気をつけましょう、と いう信仰教育の方法がとられるようになってし まいました。これはわたしたちの信仰の本来のあ り方ではありません。神がわたしたちを愛してく ださる、神がわたしたちを救ってくださる、だか らわたしたちは少しでもそれにふさわしく生き ていこう。この出発点が根本から揺らがないよう にしないと、誘惑はそこにつけ込んでくるでしょ う。 〔講話2〕“救い”(「タラントン」のたとえ) 神の“イメージ”の大切さについて、新約聖書 の “「タラントン」のたとえ”(マタイ福音書 25 章 14 節~30 節)を取り上げて考え ることにしましょう。主人が旅立つ にあたってお金を僕(しもべ)に預 けることにし、ほぼ全財産を自分の 3人の僕に預けました。たとえ信頼 している僕であっても、自分の全財 産を預けることにはとまどいがある と思うのですが、3 人の僕にそれぞれ 5 タラント ン、2 タラントン、1 タラントンを渡しました。 1 タラントンでも、庶民は一生手にすることが できないような大金ですが、主人は財産を預ける ときに僕に何も言わずに渡しました。5 タラント ンを預かった人と、2 タラントンを預かった人は 自分で判断し商売に行きました。何でこんなこと ができたのだろうと考えると、そこには信頼関係 という言葉しかあてはまらないでしょう。僕を信 頼してお金を預ける主人と、主人と一緒に生活を する中で主人が何を求め、何を望んでいるかを理 解していった僕の信頼関係です。主人はこの二人 の僕に全く同じ言葉で報いています。主人にとっ てはいくら儲けたかは関係ないのです。僕が主人 をどう見て何を望んでいるかを考え、それに忠実 に従おうとし、応えようとしたかを主人は見てい
るのです。 一方で、主人は、1タラントンを隠しておいた 僕を厳しく叱責し、すべてを取り上げます。この 僕は確かにお金を儲けはしませんでしたが、お金 を失ったわけでもなく、大切に保存しておいて返 したのです。別に悪いことをしたわけではないだ ろうに、何でこんな厳しい仕打ちを受けるのでし ょうか。そこで、最初の二人の僕に与えられた褒 美を、この僕が受け取っていたらどうなったか考 えてみましょう。褒美は二つありました。 一つ目の褒美:「多くのものを管理させよう」。 この僕にとって、1 タラントンは重過ぎるお金で した。お金を失って主人に叱られては大変なので、 土の中に埋めておきました。誰からか狙われるか もしれないという不安にさいなまれ、持っている のが嫌で早く返したくてしかたなかったのです。 もし、主人がこの僕にも1 タラントンを褒美と してあげようと言ったら、どうなるでしょうか。 1 タラントンでも大変なのに、もう1タラントン 貰うなど、この僕には考えられないことでしょう。 二つ目の褒美:「主人と一緒にいて喜んでくれ」。 5タラントン、2タラントン預かった人は、主人 を信頼しているので、主人と一緒にいて喜んでも らえるとしたらうれしくてしかたなかったでし ょう。しかし、1タラントン預かった 人にとって、主人は厳しい方で怖くて 怖くて仕方ない方です。だから、なる べく遠くにいたい。できれば目の届か ないところに隠れていたいのです。一 緒にいなければならないなどとんでも ないことです。 どちらも、この僕にとっては報酬とはならない のです。ここがこの話の一番のポイントでしょう。 大切なのは、主人が、すなわち父である神が最 後に与えてくださる大きな救いの恵みがわたし たちにとって、喜びと感じられるか、本当にすば らしいこととして感じることができるか、今試さ れているということです。神をどのような方と感 じ、神から与えられるものをどう受けとめていく かは、とても大切なことなのです。 わたしたちにはすばらしい恵みが与えられて います。それを神と共に育てていくように与えら れます。神が与えてくださる一番大きな恵みは、 十字架でしょう。それはさまざまな形で与えられ ます。わたしたちにとっては、担いたくない、ち ょっと厳しい、そのような務め、それがおそらく 恵みとして与えられています。それはすぐにでも 下ろしたい荷なのでしょうか、それとも大きな救 いへと導いてくれる恵みの一つなのでしょうか。 もちろん、だからといって苦しみや痛みがなくな るわけではありません。それをどう受け止めるこ とができるでしょうか。かなり厳しいことが問わ れているのです。 わたしたちは神に何を望み、何を願い求め、何 を救いと感じ、神をどのような方として思い描い ているのか、わたしたちの信仰生活をどういうふ うに思い描いているのか、それによってわたした ちの救いは大きく変わってくるのです。 本当の救いは、唯一つであり、終わりのときの ために神がキリストを通して用意してくださる かけがえのない賜物です。それをわたしたちが大 きな喜びとして、大きな恵みとして受け取ること ができるのかどうか。そのために、 わたしたちは生涯の中で学んでい くのです。わたしたちはだんだん と神の考え方、神の望み、神の計 画、神が本当にすばらしいと考え てわたしたちにくださること、そ んなことにだんだんと染まっていく、染められて いく、わたしたちもそれを心から望む者となるよ うに招かれているのでしょう。 もちろん、わたしたちにとって耐え難いものは 耐え難いのです。十字架は十字架なのです。だか らこそ、わたしたちに先がけてキリストが十字架 に架けられたことは本当に恵みなのです。 人間は歴史の中で、教会を含めて、いろいろな ものを飾りつけてきました。神をもきらびやかな
栄光に輝く姿にしてきました。やはり卑しさや苦 しみは嫌で、栄光や輝きが好ましいからです。し かし十字架だけは飾り付けることができません でした。裸のキリストがもだえ苦しみながら、十 字架に架けられ、死んでいかれた。どんなにそこ から苦しみを取り除こうと望んでも、どんなにそ れを飾りつけようとしても限界があるのです。人 間の思いとは裏腹に、十字架は十字架であり続け るのです。 ゲツセマネの園でのイエスの叫びを思い起こ すことにいたしましょう。「父よ、できることな らこの杯を私から取り退けてください」(マタイ 26 章 39 節)。キリストは、神であると同時に、 わたしたちと同じ人間でした。そこから逃げ出し たかったのです。十字架は耐えたがったのです。 だから、わたしたちが十字架を嫌がるのは当然で す。十字架を担いたくないと思うのは当然です。 しかし、キリストが十字架から逃げ出していたら、 わたしたちの救いは実現しなかったでしょう。で は、なぜキリストは留まることができたのでしょ う。それは父である神の望 みに従うことが、どんなに つらいことであっても、そ れが一番大きな救いであ り、恵みであるということ を心の奥底で確信してい たからです。わたしたちは 苦しいときは苦しい、逃げ たいときは逃げたいので す。実際に逃げ出すこともあるでしょう、そんな 時には、「もう一度立ち返らせてください。そこ から、歩み始めることができるように導いてくだ さい」と神様に赦しを請う。それが赦しの秘跡で あり、それがミサの意味なのです。 打ちひしがれることはありません。うまくいか なくて当然なのです。だからこそ、わたしたちは 時々思い巡らす必要があるのです。いったい神は 何を望んでおられるのか、神は何をわたしたちに くださろうとしておられるのか。わたしたちがど ういうふうに生きること、どんな神と関わろうと することが神の望みなのだろうか、と。 回心の道を歩んでいくということが、単なる罪 からの悔い改めとか、悪いところから正しいとこ ろに戻ってくるとか、そのようなことではないと いうことがお分かりいただけると思います。わた したちにとって、それはある意味で戦いなのです が、その先頭に立ってキリストが歩んできてくだ さいました。このキリストがわたしたちの中で働 いてくださり、だからわたしたちは前に向かって 歩むことができるのです。 しかし、パウロはテサロニケの信徒に対して、 「霊の火を消さないでください」(テサロニケー5 章 19 節)と厳しいことを言っています。わたし たちがほったらかしておくと、せっかく灯された 霊の火の炎もだんだん小さくなっていくことが ありうるということです。しかし、逆も真理なの です。わたしたちが育てていこうと思えば、この キリストはいつまでもどこまでも際限なく成長 していきます。キリストがご自分をわたしたちの 中で育てていってくださるのです。 わたしの属する聖パウ ロ修道会の創立者が好ん で用いたパウロの言葉に、 「生きているのは、もはや わたしではありません。 キリストがわたしの内に 生きておられるのです」 (ガラテヤ2章 20 節)、 「キリストがあなた方の うちに形づくられるまで、わたしは、もう一度あ なたがたを産もうと苦しんでいます」(同4章19 節)というものがあります。キリストがわたした ちの中にあって、だんだんと成長してくださる。 これは大きな慰めになるでしょう。 実際、わたしたちの霊的生活や信仰生活の 99%はわたしたちがやることでなく、キリスト がなさることなのです。キリストがわたしたちの 中で働いてくださらなければ、わたしたちはちっ ぽけな存在で、何もできはしない。しかし、今や キリストがわたしたちの中で生きてくださり、だ
からこのキリストを信じることによって、キリス トに身を委ねることによって、わたしたちは全て ができる、これがパウロの信念です。 さて、わたしたちに託された残りの1%。この わずか1%が実は大変なのです。キリストはわた したちと共にでないと何一つなさろうとしない からです。一人で勝手に救いを実現することを喜 ばれるような方ではないのです。 キリストという方は歴史が続く限り、人間が生 まれてくる限り、決して全ての人を巻き込まずに 救いを実現することをなさろうとはしません。だ からこの1%に重みがあるのです。 わたしたちの中で生きてくださり、わたしたち を巻き込んで救いを実現される神。だからこそ、 わたしたちはどんな方に願い、どんな方に救われ ると感じているのか、それによって私たちの救い がどれほど大きく変わってくるかということを もう一度見つめなおしたいと思います。 自分なりの神の姿、自分なりのキリストのイメ ージを常に育んでください。そして、それを壊す ことを恐れないでください。神から壊していただ くことを恐れてはいけません。それぞれの時代、 それぞれの人にとって神である方のイメージは 変わってくるでしょう。それがかけがえのない絆 となっていくでしょう。あきらめることなく“聖 書の神”の中に入っていっていただきたい、あき らめることなく“教会の教えの神”の中に入って いっていただきたい。その中でいろいろなことに ぶつかり、いろいろなことに気づかされていくで しょう。四旬節の歩みが皆さんにとって恵みに満 ちあふれた歩みになることをお祈りします。 (聖書を読むとき、なぜだろうと考えながら読 むことは大切なことです。) (広報部 山内)
聖書;神はこれを見て良しとされた
シスター宮内 「聖書祈り会」で、創世記の「禁断の林檎の実」 について話していた時のことです。 「神はエデンの園に人間を置かれ、善悪を知る命 の木を生えさせ、『食べると必ず死ぬ』と、言わ れました。女は蛇の誘惑に負け、男にも分け与え たので、それ以来、神は罰としてエデンの園から 人を追放した。」という失楽園のエピソードです。 「神は人に罰を与える存在だろうか。」と納得で きないということでした。以前から、教会ではそ う教えていたので、そのままに終わりました。 この度、森司教の「日本の宣教」という講話に 出席しました。「教会が教えていても、納得でき ないことは、どこまでも考えるべきではないか。」 といわれる司教様に導かれて、これについて考え ます。 創世記1章では、世界の創造は7日に分けられ、 「神はこれを見て良しとされた。」と繰り返し述 べています。そこでは、地にあるすべてのもの、 人間も肯定的に捉えられています。 2章では、神は、地に雨を降らせ、自然が美し く整うと、塵で人を作り、鼻に命の息を吹き入れ たので、人は生きる者となります。神は人の為に、 エデンの園を設け、見るからに好ましく、食べる に好い物を与え、人が 地を耕すようにされます。 「人が一人でいるのは良くない。彼に合う助け る者を送ろう。」と、野のあらゆる獣、空のあら ゆる鳥を人の所に連れてきます。神は、人に命じ て、総ての作られた物に、名前を付けさせます。 それは、神が人に、それらのすべての物を管理さ せ、責任を委託するという意味が込められていた のです。しかし、人は自分に合う助ける者を、そ の中に見つけなかったので、神は、男のあばら骨 から、女を作り、男の所に連れて行くと、始めて 喜びの感情を表し、エバを妻とします。然し、そ の後人が禁断の果実を食べてしまうと、二人の目 は開け、裸を恥じて隠れます。即ち、自分の中に 不調和、不秩序が生じたのです。それと共に、地にも無秩序と廃墟が蔓延します。人は楽園から追 放されます。これは神が人間に下した罰であると 従来は教えられていました。神は条件を出し、こ の命令に従うならばよし、従わなければエデンの 園から追放という解釈は、本当に正しく納得でき る解釈だろうか?という命題です 創世記2章の神は、人間に対して、どのような 関係の神であろうか、文脈に沿って考えます。そ こに示される神は、どこまでもやさしい神であり、 人間のためには至れり尽くせり、人を喜ばせ満足 させるためには、あらゆることをなさる非常に親 切な神として描かれています。急に、人を試みて、 罰を与え追放する神というのは、筋が通らないし、 考えにくい。神は「愛であると同時に正義の神で もある」という考えも有るが、それにしても、そ の急変振りは筋が通らないのではないか。世には 暴君がいて、例えば、信長のごとく、又は、ブッ シュの如く、自分の主観で邪魔になる相手を決め つけ、悪の枢軸と言い、軍隊を送って滅ぼすまで 戦いを仕掛け、その国に無秩序と廃墟を作る例は ある。然し、創世記の神はそん な暴君ではない筈で、素直に創 世記を読めば、従来のような解 釈ではなく、次のように解釈で きるのではないか。 この禁断の木の実を食べてはならないという のは、神の命令ではなく、憐れみ深い、神の人間 に対する注意、「気を付けなさい。」という思いや りから出る配慮だったと考えられます。その配慮 とは、その注意とは何に対するものだったのだろ うか?そこで次のように考えます。 人間の興味は、いつも未来に向かっていて、「世 の終わりは何時来るか?」「自分の未来に起こる こと、病気にいつかなるのか。この出会いは吉か 凶か?今の世の未来はどうなるか?と未来のこ とを言い当てたいし、見通したい欲望を持ってい る。新宿駅前に夕方になると大勢の易者が並ぶ。 その前には大勢の善男善女が手相を見てもらう ために列を作って待っている。人々は自分の不幸 の原因は何か知りたいし、病気に将来なるか、な らないか、家族の行く末はどうなるか知りたいの です。しかしそれを知ることは不可能です。なぜ なら、未来のことは神の分野に属することで、そ れを前もって知ろうと企てる時、人はエゴイズム のために自らを失い、人間であることから逸脱す るのです。 即ち、神が、「死ぬから気をつけなさい。」と前 もって注意してくださったのはこのことではな かったか。人間は塵から作られ、神なしには何一 つ出来ない上に、あらゆることをして頂いたのに、 自分の身分を忘れ、自分を失い、自立しようとし て、自ら、失敗を招いてしまったのです。 この創世記の人間の姿は、エゴによって生きよ うとする人の姿で、この無秩序と廃墟から立ち上 がるためにはエゴイズムの克服しかないという ことを創世記は教え、また励ましていると考える ことが出来ます。創世記はすぐに続いてカインが エゴイズムから弟のアベルが邪魔になり殺す話 や、バベルの塔の話が続いていて、無秩序と廃墟 に満ちたこの地上の出来事を述べて、 人がそこから立ち上がることを促し ていくのです。 聖書の中には、神の罰という発想は 何処にも無いと、司教様は言われます。 この無秩序と廃墟に満ちた世界を、調 和と秩序ある世界に戻すために、主イエスはあの 格調高い所信方針演説を、マタイ5章で「山上の 説教」として述べておられると伺い納得し聖書の 奥深さに感動します。 ユダヤの国は、アッシリア、バビロン、ギリシ ャ、ローマの大国に侵略され、創世記が書かれた 頃は、特にバビロン侵略により、無秩序と廃墟に 苦しめられていました。すべての人に希望が必要 な時、創世記は、神の罰ではなく、無秩序と廃墟 の中で人がエゴを克服して、立ち上がり、調和と 秩序を作り出すように、励ましているのです。 私たちは、納得がいかない話には、考える葦で ありたいものです。
1. お知らせ ブランチ神父様が厚木教会に赴任されてほぼ 3ヶ月が過ぎました。典礼が少し変わりました。 (1)聖体拝領と奉仕者の件 聖体拝領時の時間短縮のために聖体奉仕者を 増やし(*)、聖体拝領は複数個所で可能になり ました。(*6/29 に聖体奉仕者12名の任命式 がありました。) (2)ミサ中奉納のあと一旦座ることになります。 奉納行列によって奉納が手渡されたあと 「パ ンとぶどう酒を供える祈り」 「清め」 の間 は座り、司祭が中央祭壇に戻って「奉納祈願(祈 りへの招き)」の祈りを始める前に、立つこと になります。以上、先唱者が案内致します。 2.ご協力のお願い (1) ミサにはなるべく遅れないようにしましょ う。5分前には着席して静かにミサ開始を待ち ましょう。 一方ミサに遅れて来た方が聖堂の後ろ(エン トランス)や外に多く立っておられます。なる べく多くの方が聖堂内に入って座席に座れま すよう、ご配慮・ご協力をお願いします。 ●具体的には出来るだけ前の方から、そして (左右の通路から座り易くするために)列の中 程に座っていただくようお願いします。 ●また手荷物は座席の下へ置くようにして、手 荷物で座席を占めないようにお願いします。 大体の目視ですが、聖堂内の座席数約 200 席 に対し、実際に座っている方は 160~170 名 位です。残り約 30~40 席は空席、または手 荷物置きになっています。また空席が列の中 にある場合、座席への案内がしにくいので出 来るだけ中ほどに詰めていただければあり がたいです。 (2)典礼奉仕をお願いした方へ (打合せが必要なときがありますので) 当日 はミサ開始 15 分位前までにお越しください。ま た急に来られなくなった場合、速やかに典礼部 [鈴木*または船戸*]あるいは教会事務
典礼部からのお知らせとお願い
[046‐228‐4164]まで連絡をお願いします。 (典礼奉仕者が揃わないと典礼部員はオロオロ します) なお、典礼奉仕のお願いは、「お願い用紙」に て(1~2ヶ月前) トレーに入れさせていただ きますので、常にトレーを開けて見ていただき ますよう、よろしくお願いします。 なお、お願いした日が都合の悪い場合は、早 目に用紙の下段「当日は都合で出来ません」に 丸印を付けて【典礼部トレー】に入れておいて ください。(【典礼部トレー】は事務室入口の直 ぐ右にあります) また、直近の典礼奉仕者の予定表を聖堂エン トランスの典礼部掲示板に貼り出しています ので、こちらも見ておいてください。 3. 典礼部のお手伝い(奉仕)が出来る方を求めて います。 現在典礼部では各役割に必要な人数が足りな くて困っています。少しでもお手伝いの時間が 取れる方は、是非典礼部まで声をかけてくださ い。 (1) 例えば日曜日 (9:30)第二ミサです。 現在 ミサ準備・入堂前の準備と奉納の手配な どで手一杯、全く余裕がない状況です。その ため今後聖堂の座席案内は典礼部以外の方に お願いしたいと思っています。その節はよろ しくお願いします。 (2)香部屋のお手伝いを捜し求めています。 香部屋とはミサの準備室です。聖具の管理、 修理、典礼に必要なものの制作は香部屋の仕 事です。 これらは現在も奉仕していただいている方 がおられますが、もう少しお手伝い出来る人 が増えればと願っています。(3)オルガン奉仕 現在オルガニストが少なく、ローテーション に苦慮しています。(特に土曜日、日曜日第 一ミサにおいて)もしオルガンが弾ける方、 (あるいは弾いてみたい方)がおられました ら是非典礼部まで声をかけてください。 (4)典礼奉仕者・特に侍者について 日曜日(9:30)第二ミサ以外の土曜日、 日曜日(7:30)第一ミサの各ミサでも典 礼要員は少ないのですが、典礼奉仕者も足り ません。特に侍者が少なくて困っています。 大人でも結構ですから侍者をやってもよい と思う方がおられましたら是非お申し出く ださい。(未経験の方には典礼部がサポート します) 今日はノルマンディー地方巡りから始まりま す。この巡礼に同行しているパリミッション日本 管区長オリビエ・シェガレ神父様の故郷でもあり ます。 バイユのカテドラルへ向かう車中で、ここノル マンディーは何時も戦いの場となった。シェガレ 神父の出身地もドイツ軍が駐留していたので爆 撃を受け、町全体が廃墟となった。バイユは2300 年前からある町で、連合軍上陸の時「ここにはド イツ軍はいません」との司教様の勇気ある言葉で 爆撃を免れた。 シェガレ神父様の薦めでタピスリー博物館の 「ギオムの戦闘物語(90mもの長い刺繍によるタ ピスリー)の説明を日本語で聞く。このタピスリ ーは以前はバイユのカテドラルの壁にあったと のこと。バイユのカテドラルは時代と共にロマネ スク様式からゴチック様式へと幾世紀にも亘っ て建設され古く壮大な教会に圧倒された。 14 歳になったリジュの聖テレジアは修道院に 入りたいと父に願った。父は許してくれたが修道 院長や主任司祭に年齢の低さから反対され、ここ バイユのカテドラルで司教様にもお願いしたが 断られた。ローマにも行き教皇様にもお願いした が主任司祭や修道院長に従いなさいと断られ、や っと 16 歳になった時、入会が認められた。私達 は、いよいよ幼きイエスの聖テレジアゆかりの地 リジュを訪問。 リジュの大聖堂の聖域に入ると大きなテレジ アの絵が壁に描かれているのが目に入った。バス の後部座席からテレジア様と叫ぶ声がした。一緒 に巡礼を続けている長崎純心聖母会のシスター 達にとっては記念すべき聖堂で特別の思いがあ るようだ。長崎純心聖母会の創立者で初代邦人司 教早坂司教は 80 年前、ローマで叙階された後、 この地を訪れ 26 聖人の恵みと日本の人々の回心 と宣教、女子修道会の設立の為に祈られた。私達 もミサの中で司祭・修道者及びその召命に応えよ うとする人々のために心を一つにして祈った。 *[典礼部 連絡・申し出先] 船戸 美穂(電話:046-248-2408) * 「典礼奉仕お願い用紙」関係 鈴木規子(電話:046-266-2525) パリ外国宣教師たちの故郷を訪ねる 21 日間の旅(4) 山田照子 テレジアは観想修道院でありながらインドシナ への宣教に行き神の愛を伝えたいと願っていた。 そして一度も宣教地へ行ったこともないのに海 外宣教の保護者になっている。それは丁度 80 年 前のことで早坂司教が叙階された年である。 1925 年テレジアが列聖された記念として 1929 年ピオ 11 世教皇の「急いで素晴らしく美しい聖 堂を造りなさい」との勧めで 1954 年にこの大聖 堂は完成した。モザイク・ステンドグラスの美し い聖堂。 前面のステンドグラスは、神の慈しみと愛を表 し、イエスを中心にマリアとテレジアが両方に描 かれ、テレジアがイエスのマントを持っているの は『取り次ぎします』との意味がある。左側は青 色が主体で、神への信頼を表す「親鳥(神)が翼 の陰にその雛(テレジア)を覆う」との御言葉を
表す鶏の場面、右側は神の愛を表す赤系統のステ ンドグラス、中央の天井はイエスとマリア・テレ ジアが描かれ、テレジアの両手には薔薇の花(神 の恵みによる皆への愛)と十字架(キリストへの 愛)が描かれている。前方祭壇両脇には、テレジ アの両親の写真が飾られていて、1995 年、時の ヨハネ・パウロ二世教皇は 両親を尊者の位に上げ、今列福の準備をしている との説明があった。今年は、ピオ 11 世教皇様に よって 「宣教師の保護者」とされた聖テレジアの生誕 100 年。「小さなことに愛を込めて」をモットーに、 神様のことを知識ではなく全身で愛した聖テレ ジア、 私達も聖テレジアに倣い愛によって人々に キリストを伝えていくことができますように! (赤い薔薇の花はテレ ジアの象徴。薔薇の祭壇) 次にテレジアが修道生活を送られたカルメル修 道院を訪ねた。早坂司教様がこの地に滞在した記 録などを純心聖母会へ送ってくださったお礼の 手紙を総長から託されていた。シェガレ神父が代 読してくれた。日本で30年余奉仕して下さった シスターにお会いした。高齢でしたがはっきりし ていて訪れたことを喜んでくださった。 最後にテレジアが4歳からカルメル会入会まで 住んでいた家を訪ねる。彼女はアラソンで生まれ 母親が亡くなり父は娘達を連れて母方の実家の あるノルマンディのリジュに移り住んだ。テレジ アは病弱で9 日間の祈りを捧げ、マリア様に祈っ ていたというマリア像や初聖体の時身につけた 洋服など記念の品々が展示されていた。 (カルメル修道院にて) (修道院入会の許可を父親にお願いしてるテレ ジア) 今回は、テレジアの遺体安置の聖堂は工事中で入 ることは出来ず、大司教様が絵葉書を買ってくだ さったが枚数が足りないとのことでくじ引きし、 童心に返って喜んだり悲しんだりした絵葉書の ご遺体。 今回の巡礼には金祝のお祝いで参加されている シスターも多かったが高齢のシスター方の頑張 りには頭が下がる。感謝の心が犠牲を伴う喜びで 表されているようでした。 (次号に本シリーズの最終回を掲載予定)
8 月 15 日という日は、日本においてはいろいろ な意味を持つ日になります。終戦の日であり、仏 教ではお盆になりますので、多くの人は亡くなっ た方を思う日にもなるでしょう。またお勤めの方 では夏休みを取られている方も多いでしょう。 カトリック教会では、この日は聖母の被昇天を 祝う日になります。厚木教会でも、この日のミサ を盛大に行う予定で準備を進めています。 おそらくこの号が出る直後には、ミサの時間や 内容について皆様へ具体的なご案内ができると 思います。 ちょっと先の話になりますが、ぜひご参加くだ さい。 教会事務へのお届出時に掲載を希望されない 方の情報は割愛しています。 個人情報に付き削除しました。