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佛教大學大學院研究紀要 19号(19910314) 086伊藤博志「菩薩の戒体について」

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菩薩の戒体について

序 章

戒律という一定の形式を持っか否かに係わらず,あらゆる宗教には悪行を戒め, 善行を勧めるという倫理的性質が普遍的に認められる。ただこの倫理的実践の目 的・方法・空間・対象そして善悪の価値観が諸宗教聞の相違として看取できる。 倫理的実践として諸宗教に共通した点は,まず悪行の戒めを第一に取り上げ,そ れが完成あるいは完成しつつある場合に善行を勧める傾向にある。例えばインド 六派哲学のヨーガ学派においてその宗教的完成の段階を八項目に分類するが,最 初の二段階に倫理的実践が配当される。その第一段階で禁戒として非暴力・正直, 不盗,禁欲,不貧などを挙げ,第二段階に勧戒として五項目述べられるが,その 第一番目に清浄として慈悲の実践が述べられているヘ 仏教,特に原始仏教や部派仏教において倫理的実践を考える場合p 止悪戒とし ての別解脱律儀が挙げられ研究されているO しかし戒には行善の意味もあり止悪 の戒を止持戒(律儀戒〉というのに対し,行善の戒を作持戒(作善戒〉という。 第一結集において憂波離によって請出され,まとまったものとして後世に残され た律蔵はこの止持戒〈経分別〉と作持戒(建度部)とに大別される。作持戒とは 出家教団の生活規定のことであって受戒・安居・などの諸規定,更に在家に対す る説法,在家戒の授戒などが記されている。止持戒に限って言えば自らの完成の みを目指す利己的なものであり,その中でたとえ行善的性格があろうとも自身に 対するものであり,他人の利益を目指すものではないという非難は免れ得ない。 しかし,原始仏教p 部派仏教においても上に述べた作持戒の中には他人の利益を 勧めるものもあり,一方では修道論の定学の五停心観の第二に慈悲観があり一切 の衆生に対して慈悲の心を起こすという倫理的側面が認められる。原始,部派仏 - 86ー

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教について倫理的実践という概念内容は止持戒のみを取り上げず,少なくとも以 上に述べた事柄がその外延として列挙されるべきであると考える。 仏教の特殊性として戒律について考える場合には,受戒と戒体を考察しなけれ ばならない。つまり比丘は250前後の項目からなる戒の条項を受戒作法によって 授かり,自身に戒体として止悪の性質が留まると言うのである。この性質は意識 的なものでなく,人格的に備わるものとされる。仏教において戒とは受戒作法に よって授かることで、初めて戒たりえるのである。比丘がここでうける戒とは言う までもなく止持戒であり,その他のなにものをも含まない。 大乗仏教となると戒に利他行という側面が加わり,更に強調,拡張されるに至 った。その初期には原始仏教経典に述べられている十善業道が般若経典で大乗戒 として取り入れられ華厳経に受け継がれたへ しかし大乗戒が受戒作法と戒相を 伴って菩薩戒として体系付けられたのは『稔伽師地論』の「菩薩地」においてで ある。そこには止持戒(律儀戒)のみならず摂善法戒,更には完全な利他行であ る鏡益有情戒の三つ(三緊浄戒)がまとめて受戒されると記されている。受戒作 法を通して以上の三家浄戒が自身に備わりp その戒が発現されることで戒の倫理 的実践という概念が原始,部派仏教に比して更に充足されることになる。ここで 再び、仏教の戒についての特殊性を考察しなければならない。つまり,意識して保 つのではなく性質として備わる戒体が菩薩にとって如何なるものであるかを。 日本では天台の円頓戒を基に,菩薩の戒体が広く解釈されている。つまりp 『党網経』 『菩薩地持経』 『菩薩嬰洛本業経』及び、職伽行唯識派の三家浄戒を以 って持戒の標準とし, 『天台戒疏』にあるように,発得する戒体は無作の仮色 〈無表色〉であり,一得永不失の上悪行善の主体でありp 肉体の上に発動するも のと定義するヘ しかしこのように戒体を色法と定義する反面『摩詞上観』や『次 第禅門』には心法戒体を説く矛盾があるヘけれども天台数学の原則が色心不二 の立場にある限り両者は抵触しないことになる。しかし戒体を問題にする場合, あくまでも戒体は色法であるというのが円頓戒の根本命題となるのであるへ こ の戒体が色法であるか心法であるかをめぐって日本では様々な教説が生まれるに 至った。 -

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87-俳教大事大皐院研究紀要第19競 菩薩にとって色法が戒体であると解釈されてきた背景には,円頓戒に影響を与 えた『成実論』における無作戒体6)の採用が考えられるヘ心法戒体説は『菩薩嬰 洛本業経』などを依拠とするのであるヘ 『菩薩善戒経』に見られる説はその同 本異訳とされる『菩薩地持経』 『稔伽師地論菩薩地』に対応する個所には見受け られず,またそのような記述はインド撰述の典籍において見い出せない。従って, この説は中国における付加部分であると蓋然判断を下さずを得ない制O)oまた『成 実論』の説は声聞比丘についてであって,菩薩の戒体を述べるものではない。次 に『菩薩嬰洛本業経』は中国撰述の疑いがあり,そのように明確に菩薩の戒体が 「戒体」とし、う語で述べられるものはインド撰述にトレースできない。このよう に色法,心法に係わかず,菩薩の戒体と言う名辞で示される概念は中国に始まっ たことがイ司える。 以上のように,菩薩にとっての比丘が得るような戒体はインドにおける諸経典, 諸論書には述べられていない。ここで菩薩の戒の本体つまり止悪,作善,利他な どの戒の作用を有する本体を「菩薩の戒体」と定義することにするD そこで本論 文では無着,世観の書物に限って彼等が戒体というものをどう捉えているのか菩 薩と声聞比丘との対比の中で歴史的影響関係という視点をも含めて考察していき 7こし、。 第

1

戒体とは言うまでもなく,受戒の儀式作法によって引き起こされる律儀の無表 である。律儀の無表とは法処所摂の色つまり無表色であると説一切有部や毘婆裟 師たちは定義する。この主張に対し経量部の立場で真っ向から非難し,種子の相 続転変差別であると主張するのが『倶舎論』と『成業論』であり,更に阿頼耶識 へと発展させたのが『成業論』である。この両論書では律儀無表を含む無表業の 存在が不合理であることを追及するのである。 第1節 『倶舎論』と『成業論』における無表業と種子説 - 88ー

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『成業論』における身表批判は,正量部が主張する「身業が行動(gati)であ る」とする説を論難する点,そしてその論難を巡って間接的に毘婆裟師などを批 判している点などで『倶舎論』に述べられている身表批判とさほど異なった点が みいだせない11)。しかし次に続く経量部の昆婆裟師に対する無表業批判は『成業 論』と『倶舎論』とではかなり違った様相を呈している。 『倶舎論』の中で毘婆裟師が八つの根拠によって無表業の実有を証明していて, 経量部がすべて論難してしまうのであるO それを列挙すると 1.経典に色に三種ありとし,無表業を示す無見無対があるとする。 2. 経典の無漏法が説かれている箇所を引用する。 3.経典の七福業がとかれている箇所を引用する。 4.人に不善業をなさしめたときの自身の無表業についてO 5.経典の法処とは無見無対であるとする箇所を引用する。 6. 禅定中に無表業が必要である。 7.別解脱律儀の持続の証明に無表業を用いる。 8.経典の悪戒を遠ざけるものとして setuがあるとする箇所を引用する。 となる。一方『成業論』では5と7が批判の対象となり, 『倶舎論』とは異なっ た方法で批判するのであるD この部分で『倶舎論』の経量部が導き出そうとする教義は, 「無表業は色法で はなく,種子の相続転変差別であるJとなる。ところが『成業論』では無表業批 判の段階では「種子の相続転変差別の主張」はまだ現れない。そして次に述べら れる,毘婆裟師の「過去に去った業が無表業として存在する」とする主張に対し て,経量部が三世実有を認めない立場から非常に詳しく批判するところで初めて 種子の相続転変差別を主張するのである。自身の批判に関して『倶舎論』と『成 業論』との両者に大差が見られないのに,この無表業批判の箇所で『倶舎論』と は違った構成がみいだせるのは, 『成業論』には『倶舎論』とは異なった教義へ と展開しようとする意図があるからではないだろうか。さらに経量部の三業思想 が『倶舎論』では無表業を批判する最初の部分に, 『成業論』では阿頼耶識を表 明した後の部分に表明されるのであるo - 89ー

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併数大事大皐院研究紀要第19競 ここで『成業論』の無表業批判『倶舎論』と照合して見てみよう。§ 8, a12>に 「〔無表業は〕律儀などの法処なる色〔法〕であるJと言って無表業とは色法であ る法処に含まれ,律儀のことも含むとする。この主張は『倶舎論』における毘婆 裟師の八つの主張の第五番目に相当する。その箇所で昆婆裟師は「無表業は法処 に含まれる」ことの根拠を経典に求めるのである。すなわち

dharma bhik号avobahyam ayatanam ekadasabhir ayatanair asarp.grhitam anidarsanam apratigham13> 比丘たちよp 法は外処であって,十一処によって含まれていない,無見無対 である。 と経典を引用するのである。そこでは十二処を有見有対,無見有対p 無見無対に 振り分け,無見無対である法処は有対である十一処とは別に考えるべきものであ ると説かれている。この考え方を基にして,昆婆裟師たちは表と無表の二の概念 を作り出したのである。では『倶舎論』でこの毘婆裟師の主張をどう批判してい るのか見てみよう。この部分は第一番目とまとめて批判するのである。

tatra yogacara upadisanti/dhyayinarp. samadhi-vi号ayo riipa平

samadhi-prabhavad utpadyate / cak守ur-indriyavi号ayatvat/ anidarsanam/ desana vara

-早atvadapratigham iti/atha matam/katham idanarp. tatrupam iti etad avi -jfiaptau samanam/14> そこで稔伽師は解説する。 「静慮をする人たちには三味の認識対象は三味の 威力から色を生じるO 日艮根の認識対象でないから無見でありp 場所を遮らない から無対である」と。また「そのようであるならp それはどうして色であると 言えるのか」と考えたとしよう。これは無表業における説明と同じである。 と球伽師の説を引用するのである。つまり,毘婆裟師たちが無表業とは法処に含 まれるものであり無見無対の色法であると主張するのに対しp 三味にある人たち の認識対象も無見無対であるが,そのことも無表になってしまうのではないかと いう批判である。それに対して『成業論』では,無表は色法であるので今世の死 によってその無表も破壊されてしまうので,来世に可愛,非可愛の果をもたらす ことは出来ない15)とするのである。この説明の仕方は『倶舎論』には見られない。 - 90

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-『成業論』のこの箇所では,まだ種子説が説かれていないが,来世に果をもたら すことのできる業の潜在印象p つまり無表業に代わるものが前提となる説明の仕 方である16)。 『倶舎論』では上記の第三,四p 七番目の毘婆裟師の主張に対して 経量部は種子説を持ち出して批判する。そして経量部は,批判することを通して 種子の相続転変差別という自らの主張を確立していくのである。ところが『成業 論』では「何が来世に果をもたらすのか」と言う問題提起の上で,その後に種子 の相続転変差別が主張されて行くのである。それに対して『成業論』の中である 人たち〈部派名不明〉は増長,不失壊という心不相応行が未来に果をもたらすと 言う。これに対して§ 11で以下の三点の矛盾を指摘し,次の§ 12で種子の相 続転変差別を主張する。 1 書物を読んだ場合など,後にその記憶が生じること はどうなるのかと論難する。 2 滅尽定に入定した後p どの様にして再び心の相 続が始まるのかと論難する。 3 § 19の馬鳴の備を引用してマーツルンガの花 が赤く染められて,その花弁が散った後に果肉〈芯)が赤くなるのはどういうわ けかと論難する。次に上記の7,つまりp 別解脱律儀の持続に関して『成業論』 でも論述されるがp やはり,その批判の方法が異なるのであるo 『倶舎論』で毘 婆裟師が

pratimok守a-sarμvarasca.pi na syad asatyam avijfiaptau/17> また無表がないのであれば,別解脱律儀もないことになろう。

と戒体としての無表を論拠にして無表業の実有を主張するのである。つまり受戒 の際に受者が行う作法(身の動作や戒律を保つと誓う言葉〉によって,身内に律 儀が無表業として留まり,悪をなす行為をそれが妨げるとするのである。それに 対して『倶舎論』で経量部が

pratimok守a-samvaro

pi syat yaya cetanaya vidhi-purvarμ k:rtva

bhyu・

pagamal}. prati守iddhatkarma早al}.kaya-vacau sarμvrnoti/18> 別解脱律儀もまた〔同様で〕あるだろう。 〔前に述べたような〕そのような 思によって,儀軌を先として誓受することが,制止された業から身と語とを防 御するO と言う。つまりp この箇所以前に種子の相続転変差別が主張されていて,別解脱 - 91

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-併教大事大皐院研究紀要第19競 律儀は思(cetana)によって以前に誓いをなし,その薫習の力によって,悪、をな そうとする時に身と語の悪業を妨げるのであるoそれに対して『成業論』では心 随転を問題にして批判を展開する。つまりp 心随転とは別解脱律儀を受けた者が 色界定・無色界定に入っていく時,その心に従ってそれぞれ静慮律儀と無漏律儀 が生じることを言う。これら静慮律儀・無漏律儀には表業を必要としないように 見婆裟師が開き直って,表業なしに無表業を主張することは理屈に合わないとす る。つまり欲界の律儀が心随転のものであれば,受戒した時と異なった心の状態 にある場合や,無想定や滅尽定などの心の無い状態にある場合にはその律儀は心 随転であるから無くなってしまうと批判するのであるoそして受戒した時に生涯 この戒律を保つと要期するので, どの様な状態にあっても律儀が無くなることは 無いとし,更に布薩の時に戒律を犯しているにもかかわらず,

1

銭悔の告白を語ら ない場合の妄語という罪が語表なくして成立すると結論する19)。以上のように, これらの無表業批判は『倶舎論』におけるその批判とはかなり異なった方法で為 されている。 『成業論』での関心は業の潜在印象の持続の正体を解明する点、にあ り,これらの批判は『倶舎論』の様に,ただ毘婆裟師の批判に留まらず,自らの 主張する中心テーマに導くための導入であってその意図が伺えるのである。 『成 業論』は以下に滅尽定における心の相続が如何にあたるのかと言う問題を中心に 展開されていき,阿頼耶識を表明した後の§ 22, 7に

gal te sems pa kho na I us kyi las su

gyur na/ sems rnam par g-ye♀s

pa dag clan/ sems med pa dag la sems pa de med na/ sdom pa clan sdom pa ma yin pa gfiis ji ltar yod ce na/

sems pa' i khad par gyi bag chags ma bcom pa

i phyir sdom pa clan sdom pa ma yin pa gfiis yod do//khyad par smos pa ni gan las sdom pa clan sdom pa m<'). yin pa

i rnam par rig byed ma yin pa kun nas ldan bar brtags pa’i sems pa khyad par du bya ba'i phyir ro//

もし思こそが身業であるとすれば,乱心と無心とにはその思がないのに,ど うして律儀と非律儀との二つがあることになろうか。

思の差別の習気が損壊されないから律儀と非律儀との二つがあるのだD 差別

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という語は何故ならば律儀と非律儀である無表(種子〉を〔いままさに身を〕 発動させようと考える思が差別とせられるからであるo と戒体は阿頼耶識に薫習される思の習気であると表明するのである。 以上に述べてきたように『成業論』においては,無表(種子〉が善悪、の業の果 を現世あるいは来世にもたらす潜在印象の作用であり,戒律の律儀であると説か れた。 『成業論』では阿頼耶識を表明するための導入部分として滅尽定有心説が説か れるが,それはそのまま『摂大乗論』の阿頼耳目識存在証明と対応するものである。 以下にその項目と対応関係を示す。 1.滅尽定中の者にも識は身体から離れない。 2.異熟識の想定なしに滅尽定からの出定において諸識の再生は考えられない 滅尽定中に意識があるという説に対する批判 3.滅尽定中に意識があれば受,想という心所が生じる 4.滅尽定中に意識があれば認識対象と認識がある 5.滅尽定中に意識があれば善,不善,無記と結び付くことになる 6.滅尽定は欲界から離れたものであるから不善とは結び付かない 7.滅尽定は想と受が減せられたものであるから善とも結び付かない 8.滅尽定中に意識があれば触があることになる 『摂大乗論』 『成業論』 n v q 白

B J J ヴ ’ R u n u 〆 ’ t、 、

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υ A 0 1 2 2 2 2 F O F O に U F O R U F O 可E A T E − − 守 ﹃ A 噌 B − − 唱 E A 噌E 4 n o o n h δ 0 0 0 0 0 0 0 0 0 向 h δ 1 2 3 4 5 6 § 17, b mahavedallasuttta (MN, lp. 296)20> § 17, a § 17,a § 17,a § 17, a. b § 17, a. b 7 § 1.52 § 17, a.b 8 § 1.52 § 17,a 『成業論』の中で世親が批判している「滅尽定なかに意識がある」とする見解 - 93ー

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傍教大事大皐院研究紀要第19競

は善慧戒21)によると世親とは別の経量部の見解であり, 『成唯識論』では『摂大

乗論』のこの箇所に言及して経量部のある人であると述べている加。 こ の 後 の 『成業論』の§ 18で世親は自分の所属するある経量部の説として23',

rnam par smin pa’i rnam par ses pa sa bon thams cad pa fiin mtshams sbyor ba nas bzun ste skye ba de clan der bar chad med par rnam par smin pa'i rgyu tha dad pas tha dad par gyur pa mya nan las

das pa la thug gi bar du rgyun gyis’jug pa ... /

一切の種子を有する異熟識は〔生を受けた〕結生し終ってそれぞれの生存に おいて絶え間なく種々ま異熟因によって様々になり浬擦における終わりに至る まで相続すること……。 と説く。 『摂大乗論』§ 1.34 Bにも同様に,異熟識が輪廻における結生かかわる ものとして述べられる。もっとも『成業論』の阿頼耶識説は稔伽行唯識派の阿頼 耶識説を網羅しているわけでないが,三業の成就を説明するためには十分条件を 満たしている上にp すべて『摂大乗論』にトレースできるものである。 第 2 章 すでに『成業論』では業の果を担うものと律儀無表とは無表色ではなく阿頼耶 識であることが証明されてきた。この考え方はもはや部派仏教の教義ではなく, 稔伽行派の主張するところである。そこで以下にこの阿頼耶識説p つまり阿頼耶 識が業の果を担うというテーゼに基づいて菩薩の戒体を考察していく。 比丘の受持する律儀は一生涯に限って要期するわけであるが,戒体を無表色と 定義すれば阿羅漢果の得非得・要期の有無にかかわらず,命終時には戒体も破壊 されることになる。けれども戒体を阿頼耶識と規定した場合でも,阿羅漢果を得 ることなく死滅すればその要期されたということにより,戒体が捨棄されるので ある。しかしこの場合,要期という時間の限定を加えなければ来世にもその戒体 が保持されたままになる。それ故に,声聞が阿羅漢果を得れば浬繋(無余依浬梁〉 に入り再生せず,身を執受する阿頼耶識も消滅してしまれしかし菩薩は受戒に - 94ー

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あたって要期せず,大悲の故に浬集にとどまらず,衆生を救い取るまで輪廻をく り返す〈無住処浬繋〉。したがって,戒体を有する阿頼耶識もそれにしたがって 輪廻を繰り返すのであるD 菩薩の戒体が一生涯のみならず,次世に引き継がれる ことは『稔伽師地論菩薩地』戒品に kayasya bhedat tatropapadyate yatrasya samanadhika-sila bodhisattva}:i sabhaga}:i saha『dharmikahkalya早a-mitra-bhutabhava中ti/24) かれと戒を同じくし,同類であり,同じ教えに従い,善友であるような諸菩 薩がいる処に身体が壊した後に生ずる。 とある他にp さらに多数見られる加。菩薩の戒体の永続性は声閣の無余依浬撲に 対する無住処浬繋の概念によって更に支持されることになる。以下は『摂大乗論』 の無住処浬繋についての記述を箇条書きにしてみよう。 1.序, 3に大乗における声聞に対する教えより優れている十箇条を述べる。 2.§ 3.15でこの無住処浬繋は見道時の現観について声聞と菩慶の相違として のべられている 3.§ 8.22に声聞と菩薩の智の相違として述べられている 4.§ 9, Iに菩薩行の結果として無住処浬繋が述べられている。 このうち第4の§ 9.1 に無住処浬撲の定義付けがなされている。

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以上のように増上慧学のすぐれたることを説いた。 〔煩悩の〕断のすぐれた - 95ー

(11)

併教大事大皐院研究紀要第19号売 ることをどのように見るか。菩薩たちの断は無住処浬撲であるoその定義は染 汚を遠離することを有し,輪廻から遠離しないという依り処であって,つまり 転依である。その中で輪廻とは依地起性の染汚の分位である。浬繋とはそれと 同じ〔依地起性〕であり清浄の分位である。依り処とはその同じ二つの分位を 有するものである。つまり依地起性である。他のものに成るとは依地起性は自 身の対治が生じたとき,染汚の分位であることを離れ,清浄の分位に成ること である。 このように菩薩は清浄の分位に属しながら浬繋に住まず,輪廻から離れないの である。ここで上に述べられている清浄の分位に成ること(rnampar byang ba

i char gyur pa)すなわち転依を中心に考えてみたい。 さきほど示した「摂大乗論

I

J

§ 9, 1のすぐ後の§ 9. 2. A に六種の転依が述べ られるD これを表にして列挙すると, 項目 対象とされる階位 1.損力益能転加行,資糧位27) 勝解による間口習 2.通達転 通達位〈初地∼六地)ω 真理の顕現不顕現の眼前 3.修習転 修習位〈七地∼十地〉 清浄なる真理の顕現 4.果円満転 究寛位(仏〉 一切相得自在 5.下劣転 声聞,独覚 人無我,輪廻の捨離 6.広大転 菩薩一般 人法二無我,輪廻の不捨離 このように菩薩における転依の段階と声聞たちの転依との相違が述べられてい る。 『摂大乗論』§ 1, 45に定義されているように

sa bon thams cad pa rnam par smin pa’i rnam par ses pa ni kun nas fion mons pa’i rgyu yin na de' i gfien pa ’jig rten las’das pa’i sems kyi sa hon du ji ltar run/'jig rten las’das pa’i sems ni ma’dris pa ste/ de bas na de

i bag chags ni med pa fiid do//bag chags de med na sa bon gan las

byun ba brjod dgos so

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na/ chos kyi dbyins sin tu rnam par dag pa’i rgyu mthun pa thos pa’i bag chags kyi sa hon las de ’byun no/

一切種子を有する異熟識は染汚の因であるのに, どうしてその対治である世 - 96ー

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間から離れた心の種子でありえょうか。世間から離れた心とは経験されていな いものであって,それ故にその窯習は決してないのだ。その薫習がないならば, 種子が何から生ずるかを説く必要がある。非常に清浄な世界の等流因である開 票習の種子からそれが生ずるのである。 ここでは「異熟識とは迷いの生存の原因であり,その中で薫習・現行を繰り返 している限りいくら努力しでもその束縛から逃れることはできないのにどうして 世間を離れた心の種子が窯習されるのか」という問いに対する答えとして「法界 等流の開票習の故に」と述べられる。この法界等流の間薫習によって転依が得ら れるわけである。なお,次の§ 1.46に諸仏の菩提が基礎となる問票習は異熟議 中に共存するが阿頼耶識そのものでないと補足する。そしてそれを土台にして繰 り返すこと(数修〉で転依のがあると述べる。そこで得た間薫習は初学の菩薩に とっては法身に摂せられ,声聞にとっては解脱身に摂せられるとのべる。声聞・ 菩薩ともに,転依は法界に根拠があるのだが,菩薩は『摂大乗論』§ 9. 1に,

khor ba yons su mi gton ba'i gnas C輪廻から遠離しないという依り処〉 と述べられるように,輪廻から離れることはないのであり,又, 『摂大乗論』 § 9. 2Aに声聞と菩薩の転依の違いを,

gyur pa dman pa ni flan thos rnams kyi ste/ gan zag la bdag med par rtogs pa clan’khor ba l/ a sin tu rgyab kyis bltas pas’khor ha sin tu yons SU gto企ba

iphyir ro//

下劣な転「依」とは,声聞たちの[転依]である。即ち,人に対して無我で あることに通じることと,輪廻に対して一向に背を向け,論廻に対して一向に 捨てるからである。

gyur pa rgya che ba ni byan chub sems dpa

rnams kyi ste/ chos la bdag med par rtogs pa clan/ de fl.id la zi bar mthon bas kun nas fl.on mons pa Sp0Il zin. de yon.s SU mi gton. ba’i phyir ro//

広大な転〔依〕とは,菩薩たちの〔転依〕である。即ち,法に対して無我で あることに通じることと,その同じ〔輪廻〕を寂静であると見ることによって 染汚を断じて〔しかも〕それ〔輪廻〕を捨てないからである。

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-傍教大事大事院研究紀要第19競 と述べる。 「輪廻を捨てるか捨てないか」という違いは『菩薩地』に述べるよう に,法界等流の悲に基づく行動が出来るか否か,という違いに基づくのであるが, これは結局,菩薩と声聞にそれぞれが得る果の区別をもたらすことになる。つま り,法身と解脱身との区別は『唯識三十頚』などにみられるようにそれぞれの究 極目標でありp 自利と利他の差異であり,無余依浬繋と無住処浬築へと結果する 相違点になるのである。 結 論 以上述べたようにp 菩薩の転依には法界等流の悲が伴う。そして,実際に転依 が発動するのは菩薩の初発心を契機とするのである。この有り様を以下に述べて 本章を終えることにしたい。 『菩薩地』では,菩薩の発心が何を因とするのかについて, gotra-sarμpad bodhisattvasya prathamo hetul). cittasyotpattaye buddha-bodhisa ttva-kal ya早a-mitra-parigrahal). dvitiyo hetu三cittasyotpattaye/sat -tve守u karur:iyam bodhisattvasya t:rtiyo hetus cittasyotpattaye/sarμsara -dul).khad du号−kara-caryaddul).khad api dirghakalikad vicitrat tivran nira -ntarad abhiruta caturtho hetus cittasyotattaye//29) 菩薩の種性の具足が発心のための第一の因である。 仏,菩薩p 善友に感化されることが発心のための第二の因である。 菩薩には友情に対する悲があることが発心のための第三の因であるO 輪廻の苦,行ないがたい行,長時間にわたる種々の激しく絶え間ない苦さえも 恐れないことが発心のための第四の因である。 と菩薩が初発心するための四つの因を明かしているO しかし第一番目の種性を具 足するだけでは発心することなし善友に会い,感化され,悲のあることが確認 され,諸苦を恐れないことで初めて発心する条件が揃うのである。この時に初発 心するのであるがp この初発心は, tasmat sa cittotpadal:i karur:ia-ni守yandah/30) 98

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-それ故に,その発心は悲の等流である。 と述べられるように法界からの悲の等流に基づくものである。その発心は正誓願 を自性とするものであるO つまり,無上正等覚,有情の義利,浬繋と如来の智の 安住を弘願するのである3ヘそして同時に開票習が始まるのである。つまり初発 心の瞬間から,勝解行住に安住するのであり,さきほどのべた損力益能という転 依が起こるのである。数修した後に菩薩種姓の自覚的な発現の契機として最初の 受戒,つまり三家浄戒を受けるのであるω。その後その戒にしたがって数修した 後自責的にではなし自然にその戒を行なえるようになる。このことを入大地と いう。つまり,十地の初地に参入するのである。さきほど述べた通達という転依 がおこり,大悲の本格的な発動が始まるのである。 以上述べてきたように稔伽行派にとっての声聞および菩薩はその声聞,菩薩で あることの根拠を同じく法界に求める。しかも『倶舎論』 『成業論』『摂大乗論』 で律儀をめぐる議論を通してすでに明らかにしたように律儀の無表,つまり戒体 は阿頼耶識に窯習された種子でありp 声関,菩麗ともにその存在根拠である法界 からの開票習であるから,結局,声簡にとっても菩薩にとっても戒体とは法界等 流のものであることになる。ただ輪廻を捨てるか捨てないか3 自利であるか利他 であるかという相違があり,解脱身か法身かつまり,輪廻を捨てて浬繋を求める のか大悲に基づく悲の成就を求めるのかの違いになる。 この両者の違いを戒の有り方という観点から説一切有部の教義とも併せて図示 すると, 受戒の数限 時 限 戒 体 勝 解 行 住 | 無 数 回 一大無数却 法界等流の悲の種子 戸 開 種 姓 1 回 現世限り 法界等流の種子 声聞く有部〉 1 回 現世限り 無表業〈色法〉 となる。 本稿では球伽行唯識派の菩薩の戒体を取り急ぎ導き出そうとしたため,十分な 論証,例証が尽くされていない。檎伽行唯識派のあらゆる論書と注釈を当札そ - 99ー

(15)

併教大事大事院研究紀要第19競 の帰属する著者の吟味も必要であり,更に部派から大乗への多角的な移行を検討 する必要があったが,今の私の能力の及ぶところではなかった。これらの点に着 いては今後努力して行きたい。 1) Y. S. II. 29

34 2)平川彰『初期大乗仏教の研究』 pp.368

410参照。 3) 『冠註傍菩薩戒経疏』校本乾・十丁 4) 恵谷隆戒『円頓戒概説』 p.248

250 5) 向上 6)大 正 32巻 p.290 7) 恵谷前掲書 p.250 8) 大正 24巻 p.1021及び恵谷前掲書同個所 9) 沖本克己「菩薩善戒経について」 『印仏研』22ー1 昭和48年12月 10) 大野法道『大乗戒経の研究』 11) ABKh, p.192, 10

12) 以下ことわりなしに

S

を付した場合,ラモット教授校訂本の科段番号を示す 13) AKBh. p.196,18 14) AKBh. p.197, 4 15)§ 8,C 16) かつて日本の学界にaいて,無表が善悪の業の果を来世にもたらす潜在印象である かどうかという論争があったが,少なくとも『成業論』では種子がもたらすとはっき り言明している。舟橋一哉博士『業の研究』参照のこと 17) AKBh. p. 196,24

18) AKBh, p.199, 4

19) § 8,C 20) 『成業論』に引用される Mahavedallasuttaは, 『摂大乗論』においては Abhid -harma-sam uccaya-bhasyaからの引用として同じ経典が示される。なお『摂大乗論』 はラモット教授校訂本の科段番号に従う 21) 北京版 106,b

22) 『成唯識論』 (冠導本) p. 5 23) 『成業論』ではこの箇所までにいくつかの経量部を紹介し,それを逐一批判するこ とで世親の主張へと導いて行くのである。滅尽定中の心のありかたを中心にその議論 が展開されるのであるが,その説はすでに『稀伽師地論』散見できる大正30, p.583, b∼参照 拙稿「『成業論』における第七識の意味」『宗教研究』 1989, p.193 24) Bodhisattva-bhumi, Ed. by Unrai Wogiwara, Tokyo rep.1971(以下 Bbh'),p. -100ー

(16)

187. 21 25) 例えば, Bbh.159. 23∼;数多くの生存において新たに受戒しなおすことがないこ とは, 斉藤舜健氏「『菩薩地』戒品所説の三緊浄戒の構造」 『仏教大学大学院研究紀 要』第18号, 1990. 3.を見よ。 26) 戸聞と菩薩の違いについて『職伽師地論菩薩地』に十一項目記され,迦葉品にも対 応される。 『摂大乗論』のこの箇所とも部分的に対応され,菩薩の性質を研究する上 で非常に興味深し、。 27) ここでの階位の名は『成唯識論』に述べられたものに従った。 28) ここに示されている階位は MS.に規定されるものである。 29) Bbh. 15. 11

17 30) Bbh. 12. 12

13 31) Bbh. 12. 1∼4;斎藤前掲論文参照。 32) 三緊浄戒とは勝行住の菩薩が受持する戒であることは,斉藤前掲載論文にてしめ される。 33) 斉藤舜健氏「『菩薩地』戒品所説の三緊浄戒の構造」 『仏教大学大学院研究紀要』 第18号にこれとは異なった表を提供してしまったが,ここに訂正する。 この論文作成にあたっては斉藤口健氏にひとかたならぬお世話になりまし七ここに記 して御礼申し上げます。

参照

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