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一八五〇年プロイセン憲法の成立を めぐる政治過程(三)

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(1)

135

一八五〇年プロイセン憲法の成立を

めぐる政治過程(三)

社会科研究室 前  田 光 夫

(1970年1】月2日受理)

目 次

←)問題の所在

に)プロイセン国民議会の成立

日 「革命の承認」をめぐる闘争(以上18駒

㈱保守勢力の結果

㈲ シュヴァィトニッツ事件

㈹ 欽定憲法理念の成立(以上19号)

㈹ ベルリーン10月の政治状況

⑳ ブランデンブルク内閣と国民議会の解散(以上本号)

(七) ベルリーン10月の政治状況

(1)プフェールによる「反々動命令」の発布は,ひとまず,ベルリーンの政治的危機の 回避を齎らした。カマリラおよび国王の憲法欽定の構想もにそれによって,一一応その姿を 消したのである。しかしながら,政治的危機は依然として存在していた。新しい紛争の 種子は,今度は国民議会内部に存在した。国民議会の急進左派は,国王(及びひいては穏

和派)との協調可能の限界を認識せず,一連の諸議決によって,保守派と対立したのであ     ρ

る。

すでに,国民議会の多数派は,48年8月4日の議決によって,戦時および戒厳下におけ

る場合を除いて,死刑の廃止を決定していた。9月24日の人身保護法は,警察および裁判      1)

鰍ノ対する人身の自由の保護を特に拡大した。10月13日には,他人の土地におけるグーツ             2)ヘルの狩猟権を無償で廃止し,自己の所有地における狩猟を各人に承認する新狩猟法が可

@案を提出する予定であった。       4)

@国民議会,就中その左翼が,憲法協約という本来の任務と並んで,時には,それを越え て,これらの有機的法律(Organische Gesetze)の1是案並びに審議に従事したのは,次の 如き理由によるものであった。すなわち,彼等は旧体制の基礎を形成する軍制,自治制,

・租税制度,所有権制度,土地法,裁判制度の基礎的な法的社会的構造が除去されて始め て,民主的憲法の実現が可能となるとみたのである。それ故に,ヴァルデックは, 「憲 法それ自身は(国家体制という)建造物に対す要石(Schlusstein)にすぎず,この建造物は

有機的法律による旧体制の隈なき破壊と根絶によって建設されるぺきである」,という意          5)

(2)

味の見解を述ぺ,デスターは,国家生活の根本的な規定や改正を含む有機的法律が発布さ

 (2) 要石としての患法典に関する(所謂ヴァルデック草案)審議はio月五2日に始まっ       7)た。憲法典の審議は,以下に述ぺる政治状勢の変化で国民議会が解散されたので,短期間

行なわれたに過ぎなかったが,ヴァルデック草案に対する重要な修正が行なわれた。まず その前文において,「神の恩寵による(von Gottesgnaden)ヴィ・レヘノレム四匿」が「ヴィル ヘルム四世」に修正され,von Gottesgnadenの語は,「この定式は倒壊した絶対主義の 一部分として,絶対主義的・家産的体制に屈する」,「3月19日以降においては,国王は

主権的国民の意思に基づいて統治する」,という理由に基づき削除され,「王位の根拠没       8)

禔vが行なわれた。同じ理由に基づき,1朕の忠良なる臣民」という表現も削除された。

9)      10)

また,国民議会は,貴族の廃止,貴族の称号の公文書での使用および勲章の賦与の禁止を

決議した。   11)

@憲法草案の審議にあって,特に注目すぺき事件は,10月16日,左翼より提出された,

「憲法典は,国」三との協約によってではなく,国民議会の一方的議決により,制定される ぺし」という協約原理の破棄を正面より迫った提案である。本提案は左翼のilO票に対す る右翼及び穏和派の226票で否決され,関連投票において,協約原理は284対43の多数票 で承認された。本議決は,国民議会の多数派はあくまで君主主義的思想を有しており,少

12)

数派のみが,原則的に共和制的でかつ革命的であることを明らかにしている。一方におい

13)

て国民主権原理の実現化を図りつつも,協約原理に国民議会多数派は何故に固執したの であろうか。まず,明らかな選挙法違反(13条は協約原理を明示)がもたらす効果が考えら れる。直接的明示的協約原理の否認は,国王に議会解散と憲法欽定のための恰好の事由 を提共するであろう。特に,9月15日,マルメー和議により,シュレスヴィヒからデンマ

14)       15)

一ク戦争に参加した部隊と共に帰還したウランゲル(v・Wrange1)将軍がエルベ・オーデ ル間に駐屯する全部隊の司令官に任命された事は,国一Lのクーデターに軍事的保障があた

16)

えられ事を意味し,同時に,このベルリン周辺に駐屯する4万の兵は議会にとって軽視出 来ぬ存在であった。

17)

が,それと並んで,主権的国民議会論に基づいて行動した急進左翼以外(或いは,そ0)内 部にあっても,)の勢力にあって,左翼と同じく,「協約」という語が,「全く新しくでち

18)

っ上げられた碕形的言葉」として意識されていたかという問題がある。確かに,48年の

19)

革命の間,「協約1という語は鋭い政治感覚の所有者から曖昧な語として批難されてい た。しかし,事実的な協約否認と原理的なそれとを当時の左翼急進派以外の議会人は区別

20)

し,後者に対しては消極的であったと思われる。

特に安全と経済的繁栄を願った市民層は,源理的問題が惹起する実利的でない闘争の熾 烈さを回避し,原理的問題が具体的な旧体制排除の政治・法問題と結合した時にのみ,穏 和派の議員も左翼と結合し得たのである。

シュヴァイトニッツ事件以後,議会内において,国民議会を憲法制定議会とする把握が

支配的傾向を示したにも拘わらず,明示的な協約原理の廃棄が実現しなかったのは以上の

点によると思われる。が,それにも拘わらず,協約議会内部において,協約原理を否認す

る提案が上呈されたことは,国王・カマリラの欽定憲法構想と並んで,制憲史上,注目す

(3)

前田:一八五〇年プロイセン憲法の成立をめぐる政治過程(三)      137 べき現象であった。

3) 10月17日に議決された「市民軍法(BUrgerwehrgesetz)」も,国民議会内部における 右派及び穏和派と急進派の原理的対立を示す事件として注日すべき内容をもつ。市民軍法 の目的は・4月19日の勅令によって暫定的に承認されていた民兵団体である市民軍を継続 的な法律上の制度と化することであったが,法案審議に際し,右派及び穏和派と急進派と の間には,市民軍観に基本的対立の存することが明らかになった。すなわち,前者は,市 民軍を現行軍制組織の…分肢とし,現在の統治機構の枠内にくり込んで,政府に従属する 純粋な行政機構としての警察的任務の担当機関たらしめ,その政治的意義を最少限にとど

めようとしたのに対し,後者は,国民総武装論より出発して,市民軍を市民的自由を反動      21)

的企図より守る楯とみたのである。後者は,争議の場合,最終的には正規軍に対して使用 し得る合法的・現実的権力を手中にするために,市民軍に政治的性格と軍隊的性格とを併 有させようとした。市民軍は,民主的諸改革の端緒であり,それらの改革を防衛する武器

たるぺきなのであった。

22)

が,議決された市民軍法は,a)市民軍の任務として,憲法上の自由及び法秩序の維持,

祖国防衛のための協働(1条1項)を定め,b)その管轄は内務大臣に属し(5条),c)国 王はその解散権を有し(3条),d)兵士は憲法及び国王に宣誓し(7条), e)勤務中にお ける政治的論議は禁止され(1条2項), f)高級指揮官の任命は最終的に国王に留保され

(51条),9)軍の出動は文事官庁の要請に基づき(65条),h)市民は,兵役義務を完了し,

1年間一定のゲマインデに定住し,24才に達した後,当該ゲマインデの市民軍に勤務する 義務と資格を有する(8条),と規定した。これらの規定は,市民の自由な武装団体を国家

23)

組織に転化するものであり,急進派の市民軍観の現実化を完全に阻止した。就中,第8条 の規定は,4月の勅令により公認された市民軍と並んで形成されていた多数の遊撃的軍事

団体,すなわち,ベルリーンの学生・芸術家,職人,労働者の部隊への攻撃=解散命令を意味した。これらの遊撃団体は全く左翼陣営に属し,公認市民軍はブルジョア市民派の軍

24)

事団体であった。市民軍法の議決は左翼に強い不満を生じさせ,革命陣営の自己分解を拡

25)

大させた。

26)

4)市民軍法の審議の問に,公認市民軍のブルジョア的性格を明白にさせ,革命陣営の 分裂を激化される事件が突発した。所謂ケーペニック(K6penick)事件がこれである。事 件の概要は次の如くである。

プロイセン政府が,水をくみ出して,冬期中労働者に仕事をあてがうため,排水渠にポンプを据 えつけたところ,労働者から仕事を奪うために機械がとりつけられたという風評がたち,10月12日 労働者達はポンプを破壊した・この破壊行為に対して,警官隊と市民軍がケーペニック広場に配置 され,10月16日に,市、民軍と労働者が衝突して,11人の死者が生じた。事件は,反動派の活動とウ ラゲル軍のベルリーン進駐とを恐れて,ベルリーンの安定とその市民の一致を望む民主々義者の仲 介によって解決した。

27)

が,さらに国民議会の運命を決する大事件がプロイセン外部において生起しつつあった。

すなわち,それは10月のヴィーン革命を機として,同月6日より始まったヴィンディッシ エグレーツ(E・windischgratz)将軍とクロアチ軍を指揮するイエラチッチ(v. Jella崩6)と によるヴィーン攻略である。プロイセンの急進派は,ヴィーンの失陥はとりもなおさず,

28)

プロイセンにおける反動の強化にほかならぬとみた。ヴィーン支援がそれ故に,国民議会

(4)

の重大な審議の対象となったのである。

本問題は,まず当時ベルリーンで開催されていた二つの急進派の会議,すなわち,ベル リーン及びフランクフルト並びにその他のドイツ諸国の議会の左翼系議員より構成されて いる「反抗議会(Gegenparlament)」と,議会外のクラブ民主々義者の集合体である「第

29)

二次民主々義者大会(Zweiter Delnokraten Kongress)1,の席上で取上げられたのである。       30)

前者においては,僅かに,ヴァルデックがプロイセン国民議会において,「ヴィーン革

命のために援助をなすべし1,という提案を行なうことが議決されたにすぎなかったが,       31)

緕メにおいては,ベルリーンのクラブ民主々義者が優位を占めていたので,種々の論議の 後,ヴィーン支援の国民集会を召集することが決議された(10刀28日)。

10月29日に開催された国民集会においては,ルーゲ(Arnold Ruge)のアジ演説によっ      32)

て,プロイセン国民議会にヴィーン支援決議を行なわせる事を要求する大請願(Sturm一 petition)の提出が決定され,民主々義者大会自身も同日,ヴィーン救出を要請する「ドイ

ツ国民への呼びかけ」(Proklamation an das deutschen Volk)を発表した。10刀31日に

33)        34)

国民議会において,ヴィーン支援問題が論議される以前の議会外の状況は以上の如くであ

った。

10月31日,ヴァルデックは,国民議会において,ヴィーン支援のため,次の如き提案を

35)

行なった。

「国民議会は,ヴィーンにおいて危殆にひんしている国民の自由を保護するため,可及的速か に,国家の行使し得る全手段・全力をつくすことを内閣に要請するよう議決された葛」

より分1三β主義的な立場に立ち,自由な立憲主義的プロイセンの指導下にライヒ統一を図 る左翼に対して,統…がドイツの自由に先行するとの見解をとる左翼中央派はロー・トヴェ ルツウスにより,

「議会は,オーストリーのドイツ諸州において危殆にひんしている国民の自由と危機に 見舞われているライヒスタークの存在とが実際的且つ効果的に保護され・平和が再建され

るために,ドイツ中央政府のドで,速かな,エネルギッシュな措置をとることを国王陸下

37)

の政府に要請するよう議決されたし」

というヴァルデック草案の修正案を提案した。右翼はヴィーン支援そのものを放棄する 修正案を出した。

     38)

買@ルデック提案は,オーストリーに対するプロイセンの軍事干渉,すなわち,対オー ストリー戦争を政府に要求するものである。しかし,それはフランクフルトの暫定中央政

府と国民議会の主権をプロイセンが侵害することである。ドイツ同盟法においても・同盟      39)

干渉,または同盟執行は同盟に留保された権力であった。ロートヴェルツウスの提案は,そ

れに対し,あくまで,「ドイツの自由は統一なしには理解され得ない」・「ドイツの自由      40)

の中心的官庁としてのドイツ中央政府は如何なる犠牲を払っても維持されねばならなVa亭・

.という統一主義の立場に立つものであった・この立場は,同時に,国内の政治状況の激化 の回避をもたらすものであった。プフェールも左翼中央派の提案に賛成し,ロートヴェル

42)

ツウス提案が261対52で可決された。プロイセンは,この議決により,ヴィーンの革命に

対し,自ら積極的に援助することに反対の意思を表明したのである。       43)

同じく31日,ルーゲによって指導されたベルリーンの市民から,ヴィーン救出の大請願

が議会に提出された。請願提出後も集合していた市民は,ルーゲの指導を離れて,議事堂

(5)

前田:一八五〇年プロイセン憲法の成立をめぐる政治過程(三)      ユ39 を取巻き,審議の結果をまっていた。議会においてヴァルデック提案が否決され・ヴィー ン支援が拒絶されたことが報ぜられるや,激昂した市民は,議会より退場して来る代議士 に暴行を加えた。首相プフェール自身,危害を加えられそうになったのである。デモ隊の        ㌦

?ノは,暴動に走りがちな多数の酩酊者,少年,老齢の失業者がみられたと云われてい

る。市民軍が代議士保護のために出動し,事件を沈静させた・       44)

@ll月1日,ヴィーンは失陥した。ヴィーン失陥とベルリーンの事件とによって,宮廷に おいては闘争意欲が昂進する。ヴィーン支援閥題の審議中,左翼の一代議士は,「ヴィー ンで反動が勝利を占めれば,8日たたずしてベルリーンに反動が出現するのをわれわれは 見るであろう」,と述べたが,8日は不要であった。11月1日,新内閣の形成がブランデ

45)

ンブルク伯爵(Graf Brandenburg)に委ねられる。

、      4)

(註)

1)E.R. Huhe「, Deutsche Verfassungsgeschichte(以下DVGと略), Bd・皿(1960), SS・

742−743.

2) E.R. Huher, DVG, Bd.亜, S.743.

3) G.L廿ders, Die demokratische Bewegung in Berlin im Oktober 1848(1909), S.56f.

4) B.Kettner, Die Anerkennung der Revolution(1912), S.48.

5)B.Kettller, aa OSS,47−49.10月10日,土地法の審議に関するヴァルデックの演説はよくこ の立場を示す。「われわれはいま・この種の最も重要な法案の一つ,すなわち,農民の負担廃止に 関する法律を前にしている。次で,土地税,ブドウ搾取税に関する法律・すなわち,最高の重要性

    ● o ● .  ● ■ ● ● ● ■ ■ ● ● . ・

もつ,憲法の発布より重要性をもつ法律が続く…(略一)。諸君,われわれに課せられている任 務は何であるか。それは,われわれが有機的状況を創造するということ・すなわち,憲法=将来の

       ●  ●  ●  o  ●  ●  ●  ・

ュ治権力の行使のための機構のみではなく,現実的な国家組織 (eine wirkliche O「ganization des Landes) を創る,という点に存する。この組織は何処に存するのか。それは・より不適当な 状況と不適当な法律とが除去される,という所に存する・それが何よりも緊急のことである・何故 なら,何人も瓦礫を除去することなしには,新しい建設をしないからである。第2に,それは,

杢蝕縮繍献撮勲赫親1細翻縄,という所に存する・

あらゆる方面から,われわれの下に来るはなはだしい(権力の)濫用に関する訴えは,紙きれ,

     o ● ● ●  ● ■ ● ● ・ o       ●

キなわち,憲法典とは全く関係なく,新旧の両状態の衝突の中で,国民の服している絶えることな き圧迫に関することなのである」。(圏点一引用者)

6) B。Kettner, aaOS.51.

7) ヴァルデック草案は,国民議会憲法委員会において,5刀20日政府草案の修正案として作成 一        され,7月29日に完成をみた。

8)J.S・it・, E・t・t・hung und E・twi・h1・ng d・・p・eussisch・n V・・f・…ng・u「kunde in Jahre 1848(1909), S・117f・

9) E.R. Huber, Bd. L aaOS.743.

10) J.Seitz, aaOS・117f・

11)貴族の廃止はヴァルデック草案で既に確定されていた。他の二点の廃止については, i)国 家は個人の貢績に就て決定を下すぺきでない。ii)人間間の分裂は制度によって生ずる,と云う二 つの理由に基づいていたJ・Seitz, aaOS・18・

12) E.R. Huber, DVG, Bd. L S.743.

13)V.V・1・nti・, Geschi・ht・d・・d・・tsch・n R・v・1・ti・・1843−1849(1968)SS・249 250・

(6)

14) 酊号で述べた如く,ブフェールの除相就任前後より,ヴァルデック忌,宝型の憲法の欽定とい う風評も立つていた様である,、Vg1. J. Seitz,aaOS,121.

15) マルメー和議については,矢田俊隆「近代中欧の自由と民族」(昭和41年)140頁以下参照。

16) G.A. Craig, Preussische−deutsche Armee(1960), S,138;V. Valentin, aaOS.245.

17)プフェールの首相就任直後,左派の議員は,ウランゲルの任命とペルリーン周辺に軍部隊を 集中させたことの理由と意図に就ての質問を出し,プフェールはそれに対して,ウランゲルの任命 は純粋に犀事的・行政的措置であること及びブランデンブルク州とベルリーンの危機的状況が鉄道 の連結点に軍を集中することを心要ならしめた,と答弁している。

国民議会はこの答弁に満足せず,ブランデンブルクに集合した軍の兵力に関する報告を内閣に要 求している。プフェールは,この要求に対しても,ベルリーンの騒擾が軍召致の原因であり,その 使用は財産及び秩序の維持である,と繰返している。クラブ民主々義者は,軍と国民の友愛のため の集会を開催し,軍を自分の方に引き寄せる努力をした。G. LUder s, aaOS.58f,

18) ライヘンシュペルガーによれば,最初右翼は150−−160の議席を,左翼は約110のそれを有し ていたが,時流の中で急進的感情が高まるにつれ,多くの議員が左翼に移行した,と云うことであ る。従って,左翼内部においても,意思の一致が常に存在したとは思われない。Vgl, J. Seitz, aa OS.116.

19) R・Koser, Die Anf乱nge der politischen Parteibildung in Preussen bis 1849, in;Zur preussischell und deutschen Geschichte(1921、,S.390.

20) 1(.Kaminski, Verfassung und Verfassungskonflikt in Preussen(1938), S.37.

21) H.Pfefferkom, Der Kampf der Linken um der Einfuss auf die Exekutivgewalt in der konstituierenden Versammlung fur Preussen l848(1926), S.63.

22) H.Pfefferkom, aaOS.63f.

23)議会における市民軍法の審議に就ては,H・Pfefferkorn, aaOS.6iff.以下に詳しい。

24) E.R. Huber, DVG, Bd.皿,S.744;G. L廿ders, aaOS.56.

25)10刀6日(法案の個別審議は4「1に終り・13日に全体の承認が行なわれた),市民軍法に不 満をもつデモ隊はロバの耳の間に市民軍法のうつしをくくりつけ,しっぽに「市民軍法」と書いた

プラカードをゆわえて,街路を引きまわし,最後に,議事堂の前でそれを焼くという挙にでた。

G.L茸ders, aaOS.63;V. Valentin, aaOS.251.

26) E.R. Huber, DVG, Bd.皿, S.744.

27) E・R・Huber, DVG, Bd.璽, S.744;G. L怠ders, aaOS.64f.

28) ヴィーン10月革命に就ては,矢田俊隆「三刀革命」48号以下参照。

29) 「反抗議会」については,E・R・Huber, DVG, Bd・∬, S・709f;G. L ders, aaOS.69f.;

V・Valentin, aaOS.254f.参照。

30) 「第ご次民主々義者大会」については,E・R・Huber, DVG, Bd.∬, S.705f,;G. L飼ers,

aaOS・84f・;V・Valentin, aaOS.255参照。

31)E.R・Huber, DVG, Bd・皿, S・709・反抗議会においては,左派の中でも穏和派の議員が多 数を占めていた。

32)G・LUders・aaOS・103f・ノレーゲは次の如く述ぺている。「ヴィー一ンの没落はベルリ・一ンの 没落となるであろう。そこで反動と野轡とが勝利を占めれば,都市劫掠者ヴィンディッシェグレー ツがヴィーンを灰の山にすれば,同じ恐ろしさがわれわれの下にも起るであろう」。

「われわれは市民軍とベルリーンの国民大衆とに国民議会に大請願を行ないうことを要請せねば

ならぬ。そしてわれわれは政府が自己の政策を変更し,ドイツの民族,ドイツの教養,ドイツの自

由の救出のため,プロイセン国家の全権力に物を云わせることを(政府に)余儀なくさせるため,

(7)

前田;一八五〇年プロイセン憲法の成立をめぐる政治過程(三)       141      ■

ヴィーンへの議決を議会に要求せねばならぬ」。

33)G.LUders, aaOS.106f.ここにおいても,「ヴィーン問題はドイツ問題であり,自由の問 題である」,として,ヴィーン救出が叫ばれた。

34) G.L廿ders, aaOS.107;E. R. Huber, DVG, Bd.皿, S.708.

35)ヴァルデックのヴィーン支援提案は10月30日に提出され,審議は31日午後と定められた。

G.htders, aaOS.113.

36) H.Pfefferkor11, aaOS.109.

37) H.Pfefferkorll, aaOS.]09;H. Menz, Karl RodbertusJagetzow als Politiker ill den Jahre 1848 und 1849 (1911), SS.50−51.

38) H.Pfefferkorn, aaOS.109.

39) E.R. Huber, DVG, Bd.五, S.746.

40)H.Mentz, aaOS.51.彼は提案趣意書の中で,「プロイセンがドイツの璽要問題において・

フランクフルトを回避し,一構威国として,他の構成国と戦えば,ドイツの統…は妨げられる」,       , と述ぺている。

41) G.L廿ders, aaOS.119.

42) Vg1. H. Pfefferkorn, aaOS.110f.

43) E.R. Huber, DVG, Bd.皿, S.746.

44) G.L廿ders, aaOS.110f.

45) H。Mellz, aaOS.51.

46)ブランデンブルクの首相就任の経過については,E・Jordan, Die Entstehung der konser一 vativen Partei und die preussischen Agrarverhaltnisse von 1848 (1914) S.349ff.;F.

Helnemall11, Die Politik des Grafen Brandenburg,(1909)SS.9−24参照。

(ハ) ブランデンブルク内閣と国民議会の解散

(1) 10月31日の事件によってプフェール内閣は退陣し,国IEはブランデンブルクに組 閣を命じた。11刀1日,ブランデンブルク伯は国民議会議長に国王より組閣の妾:託を受け た旨の報告を行なった。絶対主義的統治の熱心な擁護者の一人として,立志的制皮の確信 的反対者の一人としてのブランデンブルク伯の首相任命は,一般に,国民畿会との協調の 決裂とみられた。何入も,彼より,クーデター以外のものを期待出来なかったのである。

議会は直ちに反蜘、出た.ヴ。ルデ。ク,弘メ,ヤコビの急進派はブランデンブ,レ賄 一 より予想される議会への権力的措置に対抗するため,「国内の脅威的状況に適合する手段 を国民議会に提案する」委員会の設直iと上記委員会の活動期間中は議会の会期を継続する

ことを本会議に提案して,議会の完全な独立性の宣言を求めたが,議会内においては,国      3)

、に「国内状況に関する」⊥奏文を提出する委員会の設置が承認されたにとどまった・急       4)

進派が,ブランデンブルク伯の首相仕命をもって,国1・と議会との関係が公然たる戦争状 態と化した看倣したのに対し,穏和派は国fと議会を二つの同格の権力(zwei zusammen一 geh6rende Machte) とみ,国・Eの首相任命行為を,彼が国民代表並びに国民の声を正し

く教示されていないことによるとして,国民の憂慮を国王に表明する直接上奏を価但ある

行動とみたのである。         5,

@国1モに提出される上奏文は,議会においてはほとんど満場一致で承認されたが,それは

国民に不人気なブランデンブルク伯の首相任命の撤回を求め,

(8)

「既に,何週間にも亘り,反動の意図に関する有害な風評が陛下の忠良な国民を威嚇して参りま した。一…さらに,議会においては多数を,国内においては信任を得る見通しのない,ブランデン ブルク伯の主宰する政府は,疑いもなく,(国民の)激昂を爆発させ,かつ,無限に,隣国(オー ストリーのこと…引用者)の運命を想起せしめる悲劇的な諸結果を陛下の首都と国民とに対し,惹

起することでありましょう」       6)

ニ述ぺて,国民的内閣の形成を要求した。

上奏文は,3月以来浮動して米たプロイセンの統治体制原理の決定を国王に迫るもので あった。すなわち,この決定は現在および将来の統治体制原理が,内閣の存立を議会の多 数派の意思に依存せしめる議会主義原理か,大権内閣制を基調とする君主主義原理かの問 題の解決をもたらすものであった。

その意味で・11月2日,宮中における議会代表団とヴィルヘルム四世の会見は,極めて 重大な意義を有するのである。この日,ウンルーを長とする25人の代議土はポッダムに赴

き,口頭で,国王に上奏文を述ぺた。国王は,折から入ったヴィーンの軍事的制圧の報告 に勇気づけられて,議会の要求に応ぜず,翌3日,議会への勅書の中で,「立憲的諸自由

7)       8)

の確固たる基礎づけと有益に力をつくすであろう」ブランデンブルク内閣に固執する旨を 明らかにした。彼は,いまや,勅書によって,議会主義原理を拒絶し,議会を排除して,

憲法問題を一方的に解決する使命をもった闘争内閣,すなわち,「三月革命を決定的かつ 圧倒的勝利の下に打倒する」内閣を任命したのである。

9)      10)

国王の支持の下に,11月8日,ブランデンブルクは,内相マントィフェル (Otto von Manteuffel),国防相シュトロータ(von Strotha),文相ラーデンベルク(von Ladenberg)

の三名と共に内閣を形成する。これ以上の大臣候補者は見つからず,この4名よりなる内

閣は UrminiSteriUm と名づけられる。       11)

@2) ブランデンブルク内閣の課題は,強力な国王の国家権力の再建と極度に反動的では

ない憲法の制定とによって,プロイセン国内の鎮静を図ることである。この2の矛盾する      12)

ュ治意図を連結する行為は,まず,国民議会の移転と停会という形で現われた。ブランデ ンブルク伯は,その政治綱領(lI月5日)において,国民議会を14日問停会にし,プラン

デンブルク市に移転する案を採択する。       13)

@外務次官ビユロー(Hans Graf BUrow)のカムハウンゼン(当時フランクフルトのプ ロィセン代表)宛書簡(ll月8日)は,

「新内閣は如何なる反動的傾向をも許容するものではないが,しかしながら,また同様に,下さ れた重要な決定(国民議会の移転と停会)を政府の使用し得るあらゆる手段をもって維持し,審議 の自由を回復し,テロリスムスとアナルヒィーを抑圧することを堅く決意している。右翼及び右翼 中央派は停会に従い,他方,議会の多数派は反対し,審議を継続し,或いは,自己を主権的で,永 久的であると宣言することが予想される」。

14)

と述ぺ,新内閣の政治意図を明示している。

15)

ll月9日ブランデンブルク伯は他の三閣僚と共に,議会に出席し,10月31日の事件を 引合いに出して,ベルリーンにおいては,審議の自由が阻害されており,代議士の保護も

充分に行なわていないことを理由に,「憲法協約のため召集された議会の所在地はプラン       16)デンブルク市に移転され,会期はlI月27日まで停会とする」,という国王の勅書を読み上

げた。議長ウンルーはこの予期せぬ通知に,「自分は議員の同意によってのみ議会を終了

17)

(9)

前由1一八五〇年プロイセン憲法の成立をめぐる政治過程(三)      143       ご

させるであろう」,と答えたが,ブランデンブルク伯は,移転。停会の決定された議会に

18)

おいて,これ以上審議が継続されることに抗議し,内閣の措置に同意する77人の議員と共 に議場を去った。

19)

3) 国民議会の移転と停会という国王・内閣の政治的挑戦に対抗して,右翼系議員の議 席放棄後の残留議会(Rumpfparlament)は,政府の措置を違法と看倣し,直ちに,以下

20)

の如き決議を行なった。

「(イ)国民議会は,目下審議の場所を変更する意図はなく,ベルリーンで審議を続ける であろう。

(ロ)国民議会は,国王に・議会の意思に反して,議会の移転・停会,または解散の権限 を帰属させることは出来ない。

㈲ 議会で読みあげられた勅書の発布に際し,国王への助言をなした有責の宮吏を,国 民議会は,国民の政府を主宰し得るものとみなさず,むしろ,彼等は,国王,国民,議会

21)

に対し,重大な義務違反をなせるもの,と看倣す」。

22)

本決議の法的根拠は,4月8日の選挙法13条に求められた。左翼中央派の指導者ロートヴ エルツウスは,選挙法13条より生ずる国王と国民議会との同格性により,国民議会の停会 と移転は,この両者によって協約されねばならぬ,と説き,「一体,二つの同格の契約当 事者のうち,一方が他方に対し,暫定的に意思表示を停止させたり,一方的に,他の当事 者の意思表明をすぺき場所を指示することが可能であろうか。このような事が法的に許容

されぬと同様に,国民議会に対し(これに)類似の法的関係に立つ国王も議会を停会にし       23)

たり,移転させたりすることは出来ない」として,ブランデンブルク内閣の措置の違法性 を糾弾したのである。

しかしながら,内閣の措置が選挙13条違反を直ちに構成するか否かは問題のあるところ であった。13条は,憲法協約に関する規定であり,13条違反はダイレクトには国王が協約 議会を解散して,憲法欽定を行なう時にのみ生ずるのである。国王の勅書が主張したよう な,急進派のテロリズムより議会を保護するためのそれの停会と移転は,たとえ,事実上 は,保護措置ではなく政府の対議会闘争手段であったとしてもそれ自体としては法違反を 構成するわけではなかった。

当時の立憲主義国法の多くによれば,議会の召集,停会,閉会,解散は国王の権限であ り,「憲法協約のために召集された国民議会に対しては,他の場合通常与えられている君 主の特権からの例外が適用されるか否か」の問題は未決定であった。従って,逆に,国王

24)

・内閣の側から,国王の勅書に反してなされて議会の議決はすべて法的に無効であり,議 会の行為は国王に対する服従拒否である・と看倣されたのである。すなわち,ここに「法 の欠厭」が存し,その充足は法問題ではなく,権力問題であった。

残留議会は議会内における激烈な演説や決議にも拘わらず,その抗議を実施する実力を 有していなかった。市民軍は積極的に議会を擁護することなく,ただ内閣が勅書発布以降 の議会活動を阻止する命令を出し,また文書による出動要請を出したのに対し,その執行 を拒絶し,1国民議会の移転と停会は法律と勅語により保障された国民の権利と自由を侵 害するもの」,と宣言したにとどまった。

25)

ll月10日,ウランゲル将軍は,市民軍の命令拒絶を理山に1万3千の兵と共にベルリー ンに進駐し,市民軍の武装を解除し,議会を占拠した。Il月12日,ウランゲルは,3月前

26)

(10)

期来行政部の固有の権限と看倣されて来た戒厳令を下し,すぺての政治的クラブの即時的 閉鎖,出版物の警察による検閲,20人以上の集会の禁止,市民軍の正式解散を命じた。

27)

4) ウランゲルの議事堂閉鎖に対して,ll月ll日,247入の代議士はベルリーンの射撃 協会に議場を移して,審議を統行した。残留議会は,いまや,非暴力的方法で,最大限可

28)

能な抵抗方法を採用する。ll月15日,227人の代議士はベルリーンの一ホテルに集合し,

納税拒絶の決議を行なう。

29)

納税拒絶案は,まず,ll川lH,左翼より,「ブランデンブルク内閣が国費の使用並び に租税徴収の権限を有さない」旨の決議を求める提案として出され,続いて,それは8人 よりなる一委員会に審議のため移送された。15日,残留議会は委員提出の納税拒絶案を審 議する。委員会は,「如何なる内閣も,国民議会が本決議を再び廃止するまで,租税徴収 権を有さない」,という強硬な様式をもった決議の採択を提案したが,本会議はシュルツ デーリッチのより穏和な以下の如き様式を満場一致で採択した。

「国民議会は,ベルリ 一ンで支障なく審議を継続することが不可能である限り,ブランデンブル

ク内閣が国費使用権及び租税徴収権を有さないことを確認する」。       30)

残留議会の納税拒絶決議の法的・政治的理由づけは委員会草案の趣意書において展開さ れているが,政治的理由づけとして,次の如く述べているのは興味深い。

31)

「納税拒絶は,政府の不法に対処し得る唯一の ド和的手段である。この璽要な権利の行使は,ま

さに合目的性をも有する。何故なら国民議会によってほとんど満場一致で大逆罪に相当すると看倣       32,

された内閣は退陣もせず,自己を維持するため内戦を準備し,そして直ちに徴収した租税を内戦を

支えるために使用するからである」       33)

納税拒絶提案の投票の間,軍が議場内に乱入し議会の解散を迫った。残留議会は,早々 に提案を可決し,自ら解散した。

34)

5)残留議会の納税拒絶決議を,納税者が受諾して,納税を停止すれば,ブランデンブ ルク内閣は統治不能となり,政治的譲歩を余儀なくされたであろう。が,かかる結果は生

じなかった。なによりも,議会による納税拒絶決議が適法行為か否かの問題が存したので ある。残留議会は,決議の法的根拠を4月の憲法勅令6条及び選挙法13条に求め,その適法 性を主張したが,この主張は説得性に欠け,決議はむしろ「直接的革命行為」とみられた

35)      36)

のである。しかも当時の租税法によれば,納税者は「現存の国家秩序の維持に関心をもち,

急進的運動に対する不信感に満ちていた」有産者層に属し,決議はこの階層にとり,「赤

37)

色共和国と社会革命という怪物を新たに鮮明にする」ものだったのである。納税拒絶決議       38)

の実効性は,かかる納税者の個人的決意に依っていたのであるから・決議の効果はほとん ど生じなかった。加えて,代議士も演説や文書でこそ納税拒絶を薦めたが,租税の徴収を

阻止する企図は何もしなかった。シュレジエン州のブレスラウ及びリーグニッツ両市及び      39)

B知事ピンダー(Pinder)は納税拒絶決議に従ったが・市議会及び市参事会は国家機関に 対立する革命的機関の創設を拒絶した。さらに,ll月21日のピンダー罷免の報は,住民の 間に,彼の為にする如何なる抗議も生まなかった。もとより,騒擾事件そのものは若干生

40)

じている。経済状況の悪化で政治的煽動を受け容れ易かったシュレジェン州の農村部,反 プロイセン的風潮の強いライン州やヴェストファーレン州では叛乱が生じ,ザクセン州で は護国軍の一…部を引入れた叛乱が生じている。しかし,大勢を左右するには至らなかった。

ll月18日及び19日,ミュンスターにおいて,プロイセン政府に対するヴェストファーレン

(11)

前田:一八五〇年プロイセン憲法の成立をめぐる政治過程(三)       145 州金体の抵抗を組織するために,州の都市部及び農村部から集合した民主主義的代議士の 大会が開催されたが,ここにおいても,納税拒絶を公市し,「国民議会をプロイセンの唯 一の合法機関であると宣言する」呼びかけは公表すらされていない。大会の指導者達も,

かかる措置が住民の力強い支持を得ないことを知っていたのである。

41)

残留議会の納税拒絶決議は,急進民主派と穏和自由派の決定的分離をもたらし,逆に国 王勢力を強化させるにとどまった。

6)国民議会の解散とプロイセン憲法の欽定を考察するにあって,なお看過出来ないも う一つの要素は,フランクフルトにある中央政府と国民議会の動向である。当時(48年ll 月),フランクフルトにあっては,大ドイツ派と小ドイツ派の対立が小ドイツ派に右利に 展開していたが,小ドイツ派の基本路線は周知の如く,統一ドイツの世襲皇帝位をプロイ

42)

セン国王に受諾させると同時に,プロイセンより統一憲法,中央行政を奪い,プロイセン 諸州を州議会を有するライヒスラントと化し,統一ドイツ帝国内にプロイセン国家を解体

させるという構想である。

43)

フランクフルトの中央政府は,この立場から,プロイセンの国内闘争の調停を図る。す なわち,フランクフルトの立場よりすれば,国王及びカマリラの勝利(絶対主義への後退)

も国民議会の民主主義者のそれ(フランクフルトと併存する立憲的国民議会の確立及び立憲的プ ロイセン憲法の成立)も,プロイセン分邦主義の強化に役立つにすぎず,ドイツ統一を危殆 に導くものであった。従って,フランクフルトの対プロイセン政策は次の如きものとな る。まず,プロイセン王制はベルリーンの国民議会に対し,自己の力によってではなく,

フランクフルトの国民議会の援助の下で,勝利を占めることである。しかし,一般に反動 とみなされているブランデブルク内閣に対しては,これを拒絶することもフランクフルト の自由主義的立場より回避し得ない。従って,フランクフルトははプロイセンの残留議会 の措置を違法と断ずると共に,国王にブランデンブルク内閣の更送,国民的内閣の形成,

ベルリーンで審議の自由が保障される場合は国民議会のブランデンブルク市への移転の取 消しを要求した。

44)

バツセルマン(Bassermannフランクフルト政府外務次官),ジムゾン(Simson),ヘルゲ ンハーン(Hergenhohn)のベルリーン派遣,及びガーゲルン(H・V・Gagern)使節の派 遣は,如上の方向で,プロイセンに働きかけ,ドイツ統一のために,プロイセン王制を味 方につけようとするフランクフルトの努力の表現であった。

45)

フランクフルトのかかる要請や行動の中で,プロイセン政府を硬化させ,憲法欽定の方 向に動かした事件は,1けヨ21日のフランクフルト中央政府のプロイセン国内争議に関する 布告であった。中央政府はこの布告によって,公然とプロイセン内政に介入すると同時 に,小ドイツ派的統一論の実現に着手した。

すなわち布告は,ブランデンブルク内閣に替る国民的内閣の形成に中央政府が働きかけ ることを要請すると共に,プロイセン国民議会の納税拒絶決議を違法・無効と断じ,かつ プロイセン国民に承認され,約束された権利と自由に保護をあたえることを宣言したlL月 20日のフランクフルト国民議会の議決を受けて,

「余(=ライヒ摂政ヨハン太公のこと)は,プロイセンにおける租税徴収の停止によって,全ド

イツの福祉を危殆ならしめるすぺての議決の執行に耐え得ないであろう。しかし余はまたプロイセ

ン国民の権利と自由の保障を実行するであろう。それらは,他のすぺてのドイツの兄弟達にとって

(12)

       46)

ニ同様に,プロイセン国民にとっても削減されるものであってはならない」,

と述ぺ,その後段において,プロイセン政府に対するライヒ干渉の意図を明示した・そ れのみではなく,中央政府は,布告を公布するために,プロイセン政府を回避して,それ

をプロイセン各州知事に直接手交した。これにより,中央政府は事実上,プロイセン国家 をプロイセン各州の集合体として取扱ったのである。

      47)

?寳ュ府の攻撃に直面し,プロイセン政府は,従来の国内鎮静のための穏和自由主義者 との協調という観点と並んで,フランクフルトの威嚇的なプロイセン解体の企図に対する 国家の緊急防衛措置という観点からも,自由主義的憲法の欽定を考慮せねばならなくなっ た。プロイセンの国家権力は,現実的にであれ,外見的にであれ,国」三の約束と議会の要 求とが充足されて初めて,国内の急進主義とフランクフルトの集権企図から防衛されるの

48)

であった。

7) 納税拒絶決議の不成功と残留議会の軍による解散以来,プロイセン国民議会の多数 派は,抵抗を継続して,ブランデンブルク市へと移転した議会への参加を拒絶するか,ク 一デターに対する闘争のための合法的基礎を得るためにブランデンブルク市に赴くかとい

う二者択一に迫られた。

        49)

}進派は11月9日の残留淺会の畿決と固持して,ブランデンブルク市における議会の参 加に反対し,穏和派は反政府活動を議会で継続するために,参加を決定した・協約原理を 糸階して,5 ウを回避することを希望した舳搬新聞も,ブランデンブ・レ姉の国民議

会に議事能力を興えることを要請した。

       51)

撃t]27日,国民議会はブランデンブルク市で再会されたが,参加議員の不足により,議 会は議決能力をもたなかった。そこで政府は議席放棄の擬制をもって,欠席議員の議席を 空位であると宣言し,代理議員の召集をもって不足議員数の補墳を図っ礒1他方・輿論も

政府のかかる措置を憂慮して,左派議員にブランデンブルクに赴くことを薦め,       53)

「若し,ブランデンブルク市に捌・て国民議会が議事能力を有し,左翼が再び多数を得れば,内 閣腿陣せねばならぬし祓い}ま議会が灘能力鮪するにも拘わらず,讐に踏瀦れば,その 時欽定は最早や正当化されないであろう」(die Bre61auer Zeitung・1・Dez)

と述べて,戦術転換を要求した。

12月1日,政府並びに興論の圧迫の下に,パルリシュウス(Parrisius)の指導下にある・

約80人の左翼中央派の代議士がブランデンブルク市の議会に参加し・議会は議事能力を回 復した。しかしながら,なお反政府の代議士の数はすくなく,右翼及び右翼中央派がブラ ンデンブルクでは多数を占めていた。パルリシュウスは,国民議会に復帰することを決心 している代議土が到着するまで,議事の再開を延期することを提案した・しかし,右派系 議員はこの提案を拒絶する。この結果,パルリシュウスー派は議場を去り,国民議会は再

び議決能力を喪失して,会期は12月7日まで延期された・       54)

@このパルリシュウスー派の行動は,国内に最大の不信を惹起した。それは反動派の態度 を強化したのみではなく,自由主義諸新聞をして,憲法欽定と国民議会の解散の方向にむ かわせた15)国民議会の右派系議員も12月1日の夜,会議を開いて,国王に憲法欽定を請願 する議決を行なったようである。

      56)

オかしながら政府のクーデターに有利に作用するかかる輿論の動向は,一面においてブ

ランデンブルク内閣に好ましくなかったと思われる。輿論の変化と圧力の下に,左派系代

(13)

前田:一八五〇年プロイセン憲法の成立をめぐる政治過程(三)       147 議士がブランデンブルクll了に集合し,そのため,ベルリーンにおけると異ならない国民議 会のフラクチオン構成がここにおいても生ずれば,内閣と議会との間に,新たに争議が生 ずるにすぎないからである。パルリシュウスー派の行動も,議事不参加を目的とするので はなく,左派系代議士の集合をまって議事の再開を求めることを目的としたにすぎぬから である。内閣は,12月7日の集合にあたって,国民議会の多数一少数のフラクチオン状況 はベルリーンと変らないと判断した。いまや,ブランデンブルク内閣にとって,自由主義 的憲法を発布し,三月以来の国王の諸約束を実現して,国王権力の強化と国内の鎮静を図 り,同時にフランクフルトの攻撃よりプロイセンの国家的統一を保護するため,12月7日 以前に,議会を解散し,憲法を欽定することが不可避となった。12月4日国上は解散勅書

   ニ内閣の欽定憲法草案に署名する。

57)

註)      ・ 1) H.Menz, aaOS.52.

2) E.R. Huber, DVG, Bd. L S.747.

3) H.Pfefferkom, aaOS.116.

4) H.Pfefferkorn, aaOS.116.

5) H.Pfefferkorn, aaOSS・117〜118・

6) H.Menz, aaOSS.52〜53.

7) Fr. Frahm, Entstehungs−und Entwicklungsgeschichte der preussischen Verfassung・

in;Forschungen zur Brandenburgischen und Preussichen Geschichte 41・Band(1928)S・

272.

8)ヴィルヘルム四世とヤコビとの問における著名なエピソードは,この時生じた。ヴィルヘル ム四世が議会の上奏文を受け取った後,無言のまま去ろうとすると,ヤコビが,

「陛下,われわれは此処に上奏文を手交するのみならず,国民感情に正しい報告するために派遣 されたのであります。陛下は,われわれの述ぺるところを御聴許なされましょうか」

と問うた。ヴィルヘルム四世が「否」と答えると,ヤコビはすかさず・「真実を聴くのを欲されぬ のは国王達の不幸であります」,と述ぺた。

フーバーは,ヤコビの言葉を挑戦として感じた国王が,議会との決裂を決意した,とする(E・

R.Huber, bVG, Bd.五, S.747)。 しかし,このエピソードは国王の政治決定の動機の一つにす ぎぬであろう。なお,Vgl・V. Valentin, aaOSS・265〜266・

9) Fr. Frahm. aaOS.273.

10) E.R. Huber, DVG, Bd・皿, S・748;H・Menz, aaOS・53・

11)E.瓦Huber, DVG, Bd・LS・748・11月11目,リンテレン(Rintelen)が司法大臣として

入閣する゜

12) Fr. Frahm, aaOS.272.

13) Fr. Frahm, aaOS.273.

14) Fr・Frahm, aaOS・274・

15)憲法欽定問題は,11月中旬においてはなお未確定であるたあ,未だ既定政策としては出てい

ない。Vg1. Fr. Frahm, aaOS・275f・

16)H.Menz, aaOS.54.

17) F.Heinemann, aaOS・16・

18) E.R, Huber, DVG, Bd・∬,SS・751〜752・

(14)

19) E.R. Iluber, DVG, Bd.11, S.752.

20) E.R. Huber, DVG, Bd.皿, S.752.

21) H.二Menz, aaOSS.55〜56.

22)選挙法13条は

「本法律に基づいて集合する議会は,国一Eと協約して,将来の憲法を確認し,且つ,従来の譲会 の権能,特に,租税と国債の承認に関し,議会継続中暫定的に行使するため召集されるものであ

る」

と規定する。

23) H.Menz, aaOSS,54〜55.

24) E.,R. Huber, DVG, Bd.皿,S.752.

25) E.R. Huber, DVG, Bd.狂, S.754.

26)市民軍は無抵抗のまま武装を解除された。Vg1. G. A・Craig, aaOS・142 27) G.A. Craig, aaOSS.142〜143;E. R. Huber, DVG,Bd.皿, S.754 28) E.R. Huber, DVG, Bd. H,S,754.

29) H.Menz, aaOS.58.

30) E.R. Huber, Dokumellte zur Deutschen Verfassungs−geschichte, Bd・1,(1961), S・

380.

31)H.Menz, aaOS.59f.起草者は恐らく,ロートヴェルツウスであろう。

32)11月12目,ブランデンブルク内閣の行為を大逆罪として告発する,という鉦案が残留議会で 承認されている。VgL H. Menz, aaOSS 57〜58.

33)H.Menz, aaOSS.59〜60.

34)II. Mellz, aaOSS.52〜63.

35)選挙法13条は註(22)で記したが,憲法勅令6条は「将来の国民代衣には・・一租税同意権が 帰属する」,と規定する。残留議会,とりわけ,ロートヴェルツウスは,上の両法典から,国民議 会に租税同意権が帰属し,そのコロラリーとして,納税拒絶権もまた議会に属する,とみた。しか し,憲法勅令の視定する「将来の国民代表」は,現在の国民議会ではなく,選挙法13条を援用する としても,現在の議会は,その継続期間中従来の議会のもっていた財政権を「暫定的」にのみ行使 するにすぎず,現議会以前に実施されていた租税については,その運用についての介入権を一切も たないことになる。議会継続中に承認した租税についてのみ,国民議会は国民に対して納税拒絶を 勧告し得るのである。

36) E.Hubrich. Deutsches Furstentum ulld deutsches Verfassungs−wesen(1908), S.132.

37) E.R. Huber, DVG, Bd.∬, S.756.

38)H.Wegge, Dle Stellung der Offentlichkeit zur okしroyierten Verfassung und die preussischen Parteibildung 1848/49 (1932), S.28,

39)H.Wegge, aaOS.26.

40)H.Wegge, aaOS.26.

41)H.Wegge, aaOSS.26〜27,

42)浅井 清「近代独逸憲法史」(昭3)49頁

43) F.Meinecke, Weltburgertum und Nationalstaat(1962)S.327 44) E.Brandenburg, Die ReichsgrUndung, Bd.1,(1916), S.246f 45) EBrandenburg, aaOS。248f.

46) E.R. Huber, Dokumente, Bd.1,SS.3S1〜382.

47) V.Valentin, aaOS.280.

(15)

前田:一八五〇年プロイセン憲法の成立をめぐる政治過程(三)      149

48) Fr. Frabm, aaOS.278.

49) E・R.Huher, DVG, Bd.皿, S.762・

50)Vgl. H. Menz, aaOS.65f.

51)Vgl. H. Wegge, aaOS.40f.

52) E.R. Huber, DVG, Bd.皿, S.762.

53)H.Wegge, aaOS.41.

54)E.R. Huber, DVG, Bd. H, S.762;H. Wegge, aaOSS.41〜42.

55)H.Wegge, aaOS.42.

56) J,Seitz, aaOS.128.

57)H.Wegge, aaQS.48f.

Abstract

Der preussische Verfassungskampf von l 848 bis 1850(皿. Teil)

Mitsuo Maeda

Die Frage wird often gestellt, ob die deutsche奪onstitutionelle Monarchie die selbstan・

dige politische Form order nur der Ubergangzustand zwischen Absolutismus und Parla.

      ●      ●

高?獅狽≠窒撃唐高浮r geWeSen se1・

In diesem Au飴atz unternimmt der Verfasser das Wesen der konstitutionellen Monarchie wiederzuprユfen und ihre Selbststandigkeit als die Staatsform klarzumachen. Dabei handelt es s玉ch zunachst um die Entstehungsgeschichte der preussischen Verfassung in l 850・

In皿. Teil wird der Kampf um die Verfassung zwischen die Regierung und die Nationalversammlung von Oktober bis Dezember in l 848 behandelt.

昌       鴨

@      一

参照

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アメリカとヨーロッパ,とりわけヨーロッパでの見聞に基づいて,福沢は欧米の政治や

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〔追記〕  校正の段階で、山﨑俊恵「刑事訴訟法判例研究」

Josef Isensee, Grundrecht als A bwehrrecht und als staatliche Schutzpflicht, in: Isensee/ Kirchhof ( Hrsg... 六八五憲法における構成要件の理論(工藤) des

十四 スチレン 日本工業規格K〇一一四又は日本工業規格K〇一二三に定める方法 十五 エチレン 日本工業規格K〇一一四又は日本工業規格K〇一二三に定める方法