ヒル フ ァデ ィ ン グ外 伝2
一 ドイ ッ独 立社 会 民 主 党 の終 わ りの 時代 一
倉 田 稔
も く じ
は じめ に
1.ド イ ツ 共 産 党 創 立 2.1月 蜂 起
3.ヒ トラ ー
4.ワ イ マ ー ル 国 民 議 会 選 挙
5.ヴ ェ ル サ イ ユ 条 約,パ リ平 和 会 議 6.ワ イ マ ー ル 憲 法
7.第1次 社 会 化 委 員 会 8.カ ッ プ ー 揆
9.国 会 選 挙
10.バ イ エ ル ン ・レー テ 11.コ ミ ン テ ル ン 12.第2次 社 会 化 委 員 会 13.賠 償
14.独 立 社 会 民 主 党 15.共 産 党
小 括
は じ め に
小 生 は,世 界 で 最 も 詳 し い ヒ ル フ ァ デ ィ ン グ 伝,た だ し そ の 前 半 生 に つ い て を,『 若 き ヒ ル フ ァ デ ィ ン グ 』(丘 書 房)で,書 い た 。 そ の 後,中 期 ヒ ル フ ァ デ ィ ン グ に つ い て,少 し書 い た 。 そ れ ら は,
「中 央 ヨ ー ロ ッ パ 論 」(『 国 民 国 家 の 分 裂 と統 合 』 北 樹 出 版) ,
〔157〕
「社 会 民 主 党 共 同 行 動 団 の 成 立 」(『 商 学 討 究 』・30の3 ,1979年12月),
「USPDお よ び ヒ ル フ ァ デ ィ ン グ 外 伝,お も に1918年 ま で 」(『 商 学 討 究 』48 の1,1997年9月)
で あ る 。 本 稿 は そ の 続 き で あ る 。 ヒ ル フ ァ デ ィ ン グ の 中 期 外 伝 で あ る 。 本 稿 は 完 成 さ れ て い る と は 言 え な い 。 ま た,中 期 に つ い て は,上 条,黒 滝,河 野, Smalldaneの 研 究 が な さ れ て い る 。 『商 学 討 究 』 に ヒ ル フ ァ デ ィ ン グ を 書 くの
は 最 後 だ ろ う と考 え,ノ ー ト と し て 出 す 。
1.ド イ ツ 共 産 党 創 立
USPD(ド イ ッ独 立 社 会 民 主 党)に 属 して い た ス パ ル タ クス 団 は,1918年12 月30日 か ら翌 年1月1日 に か け て 大 会 を開 き,ド イ ツ共 産 党(ス パ ル タ ク ス 団)
を創 立 した 。 同 団 は,指 導 者 ロー ザ ・ル クセ ンブ ル グや カ ー ル ・リ ー プ クネ ヒ トの グ ル ー プ と,左 翼 的 人 々 とか らな っ て い た 。 そ の 左 翼 的 人 々 は,戦 争 と敗 戦 と革 命 とい う社 会 的 激 変 の 中 で,「 革 命 的 」 冒 険 主 義 に傾 き,あ る い は ユ ー トピ ア 的 一 揆 主 義 に 陥 っ て い た 。 こ の 党 は,国 民 議 会 選 挙 を拒 否 した。 これ は 戦 術 的 に は 誤 りで あ っ た。 ドイ ッ共 産 党 の 成 立 を も っ て,ド イ ツ社 会 主 義 史 上 の 真 の 革 命 党 の成 立 と見 な さ れ る こ とが あ るが,実 際 は,「 真 の 革 命 党 」 と言 え るか ど うか は,大 い に疑 問 で あ る。 そ の 根 拠 とな るの は,一 般 的 に共 和 国 時 代 の ドイ ッ共 産 党 は,2つ の 重 要 な欠 点 を持 っ て い た とこ ろ にあ る。 第1に, 特 に結 党 初 期 に,党 内 に多 数 の 冒険 主 義 者 を擁 して い て,冒 険 主 義 的 試 み を行
な っ た 。 第2に,コ ミ ンテ ル ン加 盟 以 後,コ ミ ンテ ル ン の教 条 主 義 に対 して, 主 体 的 で独 自 の戦 術 が 立 て られ ず,そ の 運 動 が コ ミ ン テ ル ン に よ っ て 引 き回 さ れ た こ とで あ る。
「ス パ ル タ ク ス 団 」は,ド イ ツ共 産 党 を創 立 す る 際 に,USPD内 の革 命 的 オ ッ プ ロ イ テ に加 入 を 求 め た 。彼 ら と,ル ク セ ンブ ル グ,リ ー プ ク ネ ヒ トの 派 と は, ほ とん ど同 じで あ っ た。 革 命 的 オ ップ ロ イ テ は,共 産 党 へ の加 入 を希 望 して い た 。 しか し,こ の加 入 は不 成 功 に終 っ た 。 統 一 へ の 交 渉 で,革 命 的 オ ップ ロ イ
ヒ ル フ ァ デ ィ ン グ外 伝2 ヱ59 テ は,共 産 党=ス パ ル タ クス 団 に い くつ か 条 件 を 出 した 。国民 議 会 選 挙 ボ イ コ ッ
ト戦 術 をや め る こ と,統 一 す る政 党 の 綱 領 委 員 会 に両 者 対 等 に加 わ る こ と,新 党 か ら 「(スパ ル タ ク ス 団)」 とい う名 称 を 除去 す る こ と,一 揆 主 義 を や め る こ と,そ の 他 で あ っ た 。 合 同 条 件 と して は,こ れ は 正 当 な もの で あ っ た 。 しか し 新 共 産 党 内 の 過 激 派 の 反 対 に あ っ て,一 致 を見 な か っ た。 この 反 対 は非 合 理 で あ っ た 。こ う して 統 一 の機 会 が み す み す 失 わ れ た 。共 産 党 の 誤 りで あ っ た 。ロ ー ザ や リー プ ク ネ ヒ トが,党 内 の 冒険 主 義 者 と分 裂 して,革 命 的 オ ップ ロ イ テ と 合 同す れ ば,後 年 の ドイ ツ 共 産 主 義 に と っ て極 め て 有 意 義 と な っ た だ ろ う。
こ の 党 は 初 め全 国 で 数 千 人 の 党 員 を擁 して い た 。 重 要 地 区 の 労 働 者 はUSPD に と どま っ た た め に,共 産 党 がUSPDか ら組 織 的 に分 裂 した か た ち とな った 。
2.1月 蜂 起
ドイ ツ 革 命 後 の ドイ ツ社 会 民 主 党(SPD)に 対 す る抵 抗 か ら,ド イ ッ独 立 社 会 民 主 党(USPD)の 政 治 家 が 辞 職 し始 め,続 い て,高 級 官 僚 の辞 職 が 行 な わ れ た 。 ベ ル リ ン警 視 総 監 エ ミー ル ・ア イ ヒ ホ ル ン(独 立 派)は,し か し辞 職 し な か っ た 。 と こ ろ が社 会 民 主 党(SPD)が 支 配 す る プ ロ イ セ ン政 府 は,ア イ ヒ ホ ル ン を1919年1月4日 に,罷 免 した。 急 進 的労 働 者 は こ れ に 激 怒 した 。 翌 日 1月5日,ベ ル リ ンで20万 人 の デ モ が 行 な わ れ た 。 これ に は,新 し くで きた 共 産 党,革 命 的 オ ップ ロ イ テ,UDSP幹 部 派 が,同 調 した 。
こ れ が不 測 の 事 態 に発 展 した 。 ス パ ル タ ク ス派 の 武 装 した 一 部 が,社 会 民 主 党(SPD)中 央 機 関紙 『フ ォ ル ヴ ェ ル ツ』 編 集 局 な ど を 占拠 した 。 翌 日に 巨 大 なデ モ が起 き た。 しか し,こ の 時 期 の 反体 制 派 の 政 治 的 不 統 一 が こ こ で 露 呈 し た 。3つ の 団体 は,革 命 委 員 会 を作 っ た 。 ドイ ツ独 立 社 会 民 主 党(USPD)と 大 部 分 の 革 命 的 オ ッ プ ロ イ テ は 蜂 起 を 考 えて お らず,ス パ ル タ クス 団指 導 部 も 蜂 起 は無 意 味 だ と思 っ た。 だ が ス パ ル タ クス 団 の 半 分 と革 命 的 オ ッ プ ロ イ テ の 少 数 が,『 フ ォル ヴ ェ ル ツ』 に た て こ も り,闘 争 を行 な お う と した。 彼 らの 蜂 起 に,新 共 産 党 指 導 部 が や む な くひ きず られ て い っ た 。 次 の よ う な説 が あ る。
こ の 時,軍 事 力 を持 た な か っ た 政 府 に対 して,3つ の 団体 が 蜂 起 す れ ば,社 会 主 義 的 政 権 奪 取 の 可 能 性 が あ っ た,と 。 こ れ は ロ シ ア流 の 説1)で あ る が,興 味 深 い 。 しか し,2,3千 人 の 部 隊 が 蜂 起 した だ けで あ っ て,そ れ も計 画 的 で は な か っ た 。 こ の 少 数 者 の蜂 起 で は 自殺 行 為 に等 しか っ た 。
新 人 民 委 員 ノ ス ケ は,ベ ル リ ン蜂 起 を鎮 圧 す る最 高指 揮 権 を与 え られ た 。 社 会 民 主 党 の労 働 者 と社 会 民 主 党 に 共 鳴 す る 旧 守備 軍 の一 部 に加 え て,ノ ス ケ は 新 しい 義 勇 軍 を編 成 した 。 こ れ は 旧 軍 隊 か ら主 に募 集 さ れ,ス パ ル タ クス 団 を 憎 む 集 団 で あ っ た 。1月8日 か ら,蜂 起 者 に対 す る武 力 討 伐 が 始 まっ た 。 戦 闘 は12日 ま で続 い た 。 しか し も ち ろ ん 鎮 圧 さ れ た 。1月15日 は象 徴 的 で あ っ た。
ロ ー ザ ・ル ク セ ン ブ ル グ と カ ー ル ・リー プ ク ネ ヒ トが 捕 ま り,こ の 義 勇 軍 に よっ て 暗 殺 され た の で あ る。 こ の鎮 圧 と謀 殺 は,今 後 ドイ ッ社 会 主 義 に とっ て 2つ の 重 要 な 要 素 を な す 。 第1に,も う こ れ 以 降,第2次 大 戦 ま で,ド イ ツ に 革 命 的 変 革 の機 会 も可 能性 も消 え る の で あ る2)。第2に,ド イ ツ社 会 民 主 党 は,
ドイ ツ の 急 進 的 労 働 者 の 人 気 を 落 と し た。 そ れ ば か りで な く,共 産 主 義 派 は SPDを 主 要 な敵 と見 る の で あ る 。 後 年 コ ミ ン テ ル ン は 同 じ戦 術 を出 す が,そ れ が 受 け入 れ られ た 素 地 は こ の 時 に 発 生 して い た 。 コ ミ ンテ ル ンの そ の 戦 術 自 体 は 問違 い で あ る。 ま た,も ち ろ んSPDは,ロ ー ザ や リー プ ク ネ ヒ トの 殺 害 を望 ん で い た わ け で は な い 。SPDが 秩 序 維 持 の た め に蜂 起 者 に 対 して 取 締 り をす る 必 要 は な か っ た わ け で は な い 。 しか し反 革 命 的傾 向 の 義 勇 軍 の 編 成 とい
う,政 治 的 に 誤 っ た や り方 を した の で あ る。
この 義 勇 軍 は,こ の事 件 の 後,旧 帝 国 将 校 を中 心 に募 集 が 続 け られ た 。 重 要 な こ と は,彼 らが こ の鎮 圧 と,こ れ 以 降 の鎮 圧 を行 う 中 で,自 らの 武 力 を 自覚 して 行 くこ とで あ っ た 。彼 らは 後 にバ イ エ ル ン ・レー テ共 和 国 を倒 す の で あ る。
そ して,そ の 後 の 民 間 の右 翼 団体 の 基 礎 とな っ て い っ た 。 そ の 中 の1つ に ナ チ 党 が あ っ た。 軍 人 勢 力 は 強 化 さ れ る 。
1)ア ル ト ゥ ー ル ・ロ ー‑ifン ベ ル グ 『ワ イ マ ー ル 共 和 国 の 成 立 』 2)ア ル ト ゥ ー ル ・ ロ ー ゼ ン ベ ル グ
ヒ ル フ ァ デ ィ ン グ外 伝2 16ヱ
「… … 軍 部 の復 活 は,主 として,古 い軍部 を必 要不 可欠 の もの に したワイマ ー ル指 導 者 た ち の責 任 で あ っ た 。 共 和 国 を宣 言 した 翌 日の11月10日,エ ー ベ ル ト は グ レー ナ ー 将 軍 との 間 に広 範 な協 定 を結 び,秩 序 の 維 持 の た め 軍 の援 助 を受 け入 れ た 。 正 規 軍 は,大 急 ぎで 編 成 され た 自 由志 願 兵 の援 助 を受 け て,戦 闘 的 なス パ ル タ クス 団 の 数 十 名 を 射 殺 した 。 共 和 国 の 「刑 事 」 で あ る社 民 党 の ノス ケ 内相 は,右 翼 の 軍 隊 に広 範 な行 動 の 自 由,つ ま り組 織 的 な 暗 殺 を認 め た 。」3)
3.ヒ ト ラ ー
ア ドル フ ・ヒ ト ラ ー は,オ ー ス ト リ ア,オ ー バ ー ・オ ー ス ト リ ア の ブ ラ ウ ナ ウ に 生 ま れ,転 校,放 校 を し た 。 ヒ ト ラ ー は17才 で 性 病 に か か っ た 。 ウ ィ ー・一ン へ 行 き,美 術 学 校 の 受 験 に2度 失 敗 し,浮 浪 し た 。 フ ラ ン ス 人 ゴ ビ ノ ー は 論 文
「人 種 の 不 平 等 に つ い て 」(1851年)で ,ア ー リ ア ン 人 種 に つ い て 述 べ て い た 。 こ の 種 の 文 献 が 氾 濫 し て い た 。 後 に ヒ ト ラ ー が 高 く 評 価 す る 高 名 な ニ ー チ ェ は し か し反 ユ ダ ヤ 主 義 を 拒 否 し て い た 。
ヒ トラ ー は,ハ プ ス ブ ル ク 帝 国 の 兵 役 を拒 否 し,バ イ エ ル ン へ 逃 れ た 。 だ が 彼 は 第1次 大 戦 に 志 願 し,参 戦 し た 。1916年9月 に,あ る 声 を 聞 き,グ ル ー プ か ら 離 れ る と,離 れ た グ ル ー プ へ 砲 弾 が 落 ち,彼 だ け が 助 か っ た 。 神 に 選 ば れ た と,彼 は 後 に 思 っ た 。18年10月13日 に ベ ル ギ ー で 戦 闘 し,イ ギ リ ス 軍 の 毒 ガ ス で 目 を や ら れ た 。 ヒ トラ ー は,パ ー ゼ ヴ ァ ル ク 病 院 へ 入 院 し,精 神 科 医 ド ク トル ・フ ォ ル ス タ ー に 治 療 を 受 け た 。 彼 の 目 は 治 っ た 。 し か し彼 は,見 え な い と 言 う 。 そ れ は ヒ ス テ リ ー で あ っ た 。 自 分 は 出 世 も し な い し,と 彼 は 不 服 を 言 う の で あ っ た 。 だ が 催 眠 方 法 で,そ の 神 経 症 は 治 っ た 。 エ ル ン ス ト ・ヴ ァ イ ス の 書 で は,フ ォ ル ス タ ー は,ヒ ト ラ ー に 催 眠 術 を か け,ド イ ッ を 救 え,政 治 家 に な れ と,と 言 っ た 。 ヒ トラ ー は そ の 気 に な っ た の で あ る 。 フ ォ ル ス タ ー は, こ う し て 催 眠 術 で 何 人 か を 救 っ た 。 ヒ ト ラ ー が 政 権 を 取 っ た 後,フ ォ ル ス タ ー
3)ピ ー タ ー ・ゲ イ 『ワ イ マ ー ル 文 化 』36ペ ー ジ 。
は 自 殺 に 追 い 込 ま れ る 。
ドイ ッ 革 命(1918年)は,ま っ た く急 な 急 進 的 な,上 か ら の 革 命 で あ っ た 。 こ れ が,ワ イ マ ー ル 国 民 会 議 を 作 らせ た 。 革 命 は,ビ ス マ ル ク 憲 法 の 根 本 的 改 造 に 帰 着 し た 。 予 期 せ ぬ,強 要 さ れ た,民 主 主 義 で あ っ た(Bracher)。
戦 後,ヒ ト ラ ー は 軍 部 に 雇 わ れ た 。 そ し て,と あ る 政 党 に 入 党 し た 。1920年 サ ル ツ ブ ル グ 大 会 で,2つ の 党 が 合 同 し,ナ チ 党 に な っ た 。Nationalsozial‑
istischedeutscheArbeiterparteiで あ る 。1921年 に ヒ ト ラ ー は 指 導 権 を と っ た 。 こ の ナ チ 党 綱 領 つ く り に,ゴ ッ トフ リ ー ト ・フ ェ ー ダ ー が 関 わ っ た 。フ ェ ー ダ ー は 古 い 党 員 で,土 木 技 師 だ っ た し,風 変 り な 経 済 思 想 を も っ た 。
フ ァ シ ズ ム の 原 因 は,1.先 進 帝 国 主 義 を 中 心 と す る ヴ ェ ル サ イ ユ=ワ シ ン ト ン 体 制 に た い す る 後 進 帝 国 主 義 の 挑 戦,反 対 と不 満 で あ っ た 。2.コ ミ ン テ ル ン に た い す る 対 抗 で あ っ た 。3.第1次 世 界 大 戦 後 の 資 本 主 義 社 会 の 動 揺 に
よ っ た 。
あ る い は,1.第1次 戦 の 荷 重 負 担 に よ る 国 家 と社 会 の 全 面 的 混 乱 に よ っ た 。 2.破 行 的 近 代 化 に よ る 緊 張 と対 外 発 展 が 不 可 能 と い う 危 機 意 識 に よ っ た 。3.
民 主 主 義 の ひ 弱 さ 。4.ロ シ ア 革 命 の 衝 撃 。
ド イ ツ で は,右 翼 と軍 部 が 強 大 に な っ た 。 そ の 理 由 は,極 左 派 が 民 主 主 義 で な く,社 会 主 義(暴 力 革 命,国 民 に 支 持 さ れ な い 小 数 者 独 裁)を ね ら い,結 局,軍 人 勢 力 を 強 め た 。 ま た 司 法 が 右 翼 に 甘 か っ た 。 官 吏 は 帝 制 時 代 か ら続 い て い た 。
4.ワ イ マ ー ル 国 民 議 会 選 挙
1918年12月16日 か ら始 ま っ た ドイ ッ全 国 労 兵 協 議 会 で は,社 会 民 主 党 が圧 倒 的優 位 を 占 め た 。 こ こで 国民 議 会 選 挙 を翌1月19日 と決 定 した。
1919年1月19日,国 民 議 会 の 選 挙 が 行 わ れ た 。 有 権 者 は 約3600万 人 で,総 投 票 数 は3040万 票 で あ っ た 。4)その選 挙 結 果 は こ うで あ る 。
4)前 回 は,1912年 の 国 会 選 挙 で あ り,総 投 票 数1220万 で あ っ た 。 今 回 は,20才 以 上 の 全 女 性 と,20才 以 上25才 ま で の 男 性 が,新 し く投 票 した 。
政 党 社会民 主党 独立社会 民主党 中央党
民主党 ドイツ国民党 ドイッ人民党 その他
計
ヒ ル フ ァ デ ィ ン グ 外 伝2
得 票
1151万 232万 598万 564万 312万 135万
3040万
得 票 率 38%
8%
20%
19%
10%
4%
議 席 数 163
22 91 75 44 19
4235)
ヱ63
この 総 選 挙 で,社 会 民 主 党(SPD)が 農 村 で 大 勝 利 を した 。 ワイ マ ー ル 連 合 (SPD,中 央 党,民 主 党)が,4分 の3を 得 票 し た。 国 民 はエ ー ベ ル ト ・コー ス を 是 認 した 。
共 産 党 は創 立 大 会 の 決 定 に従 っ て,選 挙 を放 棄 した 。 この 状 況 で は誤 っ た 戦 術 で あ っ た。 国 民 議 会 は,1919年2月6日,ワ イ マ ー ル の 国 民 劇 場 で 開会 され た 。 常 識 的 に は 首 都 ベ ル リ ン で 開 くこ とが 考 え ら れ た 。 しか しベ ル リ ン は1月 蜂 起 の あ とで あ り,粉 糾 して い た し,ベ ル リ ン労 兵 協 議 会 が 強 力 で あ っ た 。 結 局,ス パ ル タ ク ス の 騒 乱 を避 け る とい う治 安 上 の 理 由 で,ワ イマ ー ル が 選 ば れ た。 も ち ろ ん ワ イ マ ー ル で さ え も,反 政 府 の動 きが あ る の で,7千 人 の 義 勇 軍 が 派 遣 され た 。
第1党 にな っ た 社 会 民 主 党 は,単 独 で 政 権 を取 れ な か っ た の で,連 立 政 党 を 求 め た 。 まず 独 立 社 会 民 主 党 に呼 び か け た。2月5日,社 会 民 主 党 国 会 議 員 団 は提 案 した 。 「… … 貴 党 は,社 会 主 義 的 民 主 主 義,つ ま りす べ て の 点 で 国 民 多 数 の 意 志 に よ っ て 規 定 され る 国家 形 態 を承 認 す る こ とに も とづ き,ま た 同 時 に, 一 切 の 騒 乱 戦 術 を排 除 す る こ と を前 提 し
,入 閣 す る用 意 が あ るか な い か 。」 翌6日,独 立社 会 民 主 党 は 回答 した 。
5)ProtokollSPD1919な ど よ り 作 成 。
我 々 と して は,「 現 在 の 権 力 支 配 が 除 去 さ れ る まで,そ して政 府 の 全 閣僚 が, 革 命 の 民 主 主 義 的 社 会 主 義 的 成 果 をブ ル ジ ョア ジ ー と軍 部 独 裁 か ら護 る とい う 誓 約 を な し,か つ そ の 断 固 た る 意 志 を表 明す る まで は,入 閣 は と うて い 問 題 に な らな い 。」
こ う し て両 党 は連 立 は で き な か っ た 。 も し両 党 が 協 力 して い た ら,共 和 国 は よ り安 定 して い た だ ろ う。 社 会 民 主 党 は,次 に,中 道 ブ ル ジ ョア政 党,つ ま り 中央 党 と民 主 党 に連 携 を 申 し 出 た 。
2月11日,エ ー ベ ル トが 臨 時 大 統 領 に選 ば れ た 。12日 に新 政 府 が 作 られ,シ ャ イ デ マ ンが 首 相,法 相 ラ ン ヅベ ル グ,国 防相 ノス ケ,経 済 相 ヴ ィ ッセ ル,こ れ に加 え て,社 会 民 主 党 は,バ ウ ア ー,ダ ヴ ィ ド,ロ ー ベ ル ト ・シ ュ ミ ッ トの3 人 の 閣 僚 を も 出 した 。 中 央 党 は,エ ル ッ ベ ル ガー な ど3名,民 主 党 は,フ ー ゴ ー ・プ ロ イ ス ら3名,外 相 ラ ンツ ァ ウ は無 所 属 ブ ル ジ ョアで あ っ た 。 国会 選 挙 で,社,中,民 の,い わ ゆ る ワ イ マ ー ル連 合 が 勝 利 した の だ。 シ ャ イ デ マ ン 内 閣 が 始 ま っ た 。
「革 命 は,ワ イマ ー ル 国 民 議 会 を導 い た 。」 「革 命 は,ビ ス マ ル ク 憲 法 の根 本 的改 造 に帰 着 した 。」 と,Bracher6)は 述 べ る。
5.ヴ ェ ル サ イ ユ 条 約,パ リ平 和 会 議
1919年1月18日 に,パ リ平 和 会 議 が 開 か れ,戦 勝 諸 国 に よ る戦 後 処 理 が 討 議 さ れ た 。 米 ・英 ・仏 ・伊 ・日が 主 な 参 加 国 で,指 導 国 で あ っ た。 ブ ラ ン ス大 統 領 ク レマ ンソ ー の 反 対 に よ っ て,旧 協 商 国 で あ る ロ シ ア の,今 は ボ ル シ ェ ヴ ィ キ の代 表 は参 加 しな か っ た 。 ま た 当 事 者 た ち は,ボ ル シ ェ ヴ ィ キ の 政 権 を認 め よ う と しな か っ た 。 一 方,モ ス ク ワで は 同 じ時 期 に,国 際 共 産 党 二 コ ミ ンテ ル ンが創 立 さ れ るの で あ る。
6)KarlDietrichBracher,DieAuf16sungderWeimarerRepublik,4.Aufl., Villingen/Schwarzwaldl964.
な お,ワ イ マ ー ル 共 和 国 の 弱 点 に つ い て,ブ ラ ッ ハ ー,S.17。
ヒ ル フ ァ デ ィ ン グ外 伝2 ヱ65
パ リで,ロ シ ア 干 渉,国 際 連 盟,ド イ ッ 国境 が 決 め られ た 。 ドイ ッ らの 植 民 地 放 棄,そ して賠 償 が 決 め られ よ う と し た。
連 合 国 と敗 戦 諸 国 と の 間 で 結 ば れ た 諸 条 約 の うち,対 ドイ ッの そ れ は ヴ ェ ル サ イ ユ 条 約 で あ っ た。 ウ イ ル ス ンの14箇 条 主 な 点 は,全 植 民 地 の 放 棄 と そ れ 以 外 に厳 しい 条 件 が 付 け加 わ っ た 。 全44条 の 条 約 で あ る。 ヴ ェ ルサ イ ユ 条 約 を,初 め ドイ ッ代 表 団 は 承 認 をせ ず,帰 国 した 。 そ の後,ド イ ッ は6月 に 議 会 で承 認 す る。
こ う して 先 ず ドイ ッ は,海 外 植 民 地 を 失 っ た。エ ル ザ ス,ロ ー トリ ンゲ ン(ア ル ザ ス,ロ レ ー ヌ)を フ ラ ンス へ,ポ ー ゼ ン,東 プ ロ イ セ ン を,ポ ー ラ ン ドへ 割 譲 す る な ど し,ダ ンチ ヒ7)を 自 由都 市 に,東 プ ロ イ セ ン南 部,オ ーバ ー ・シ ュ レ ジエ ン,シ ュ レス ヴ ィ ヒ は,帰 属 が 人 民 投 票 で 行 な わ れ,ザ ー ル地 方 は 占領 され た 。 西 ポ ー ラ ン ドの喪 失 は ドイ ツ 人 に は一 番 の 打 撃 で あ った 。 そ こ は長 年 ドイ ツ に属 して い た か らで あ り,異 常 に苛 酷 な 内 容 と見 え た 。 こ れ は 第2次 大 戦 の 原 因 に な っ た 。 ち な み に 隣 国 の ドイ ツ人 国家 オ ー ス トリア は,ド イ ッ との 合 併 を望 ん だ が,禁 止 さ れ た8)。
次 に 軍備 の 制 限 で あ る。 ドイ ツ は 陸 軍10万 人,海 軍1万5千 人(10万 トン) の 制 限 を 受 け,徴 兵 制 と空 軍 が 禁 止 され た 。
最 後 に,莫 大 な賠 償 金 の賦 課 で あ っ た 。これ を30年 間払 い続 け る の で あ っ た 。 さ し当 り ドイ ツ は2年 以 内 に200億 マ ル クそ の 他 を支 払 い,総 額 は 後 日決 定 さ れ る こ とに な っ た 。 そ れ だ け で も気 の遠 くな る額 で あ っ て,戦 勝 諸 国,特 に フ ラ ン ス ・ベ ル ギ ー の 苛 酷 な 報 復 処 置 で あ っ た。 支 払 い を保 証 す る た め,ラ イ ン 地 方 が 占 領 され,こ こ で ドイ ッ軍 が 武 装 解 除 さ れ た 。
ヴ ェ ル サ イ ユ 条 約 第231条 で は,ド イ ッ に戦 争 責 任 が あ る こ と と さ れ,戦 争 犯 罪 人 の 引 渡 しが 要 求 さ れ た 。 なお,ド イ ッ は,来 る国 際 連 盟 に加 盟 が 認 め ら
7)ダ ンチ ヒ は,ド イ ツ人 の 居 住 す る港,今 の ポ ー ラ ン ドの グ ダ ニ ス ク 。後,ヒ トラ ー は ポ ー ラ ン ド侵 略 の 口 実 に し た 。
8)1938年 に ヒ トラ ー は,オ ー ス トリ ア 併 合 に よ っ て ドイ ツ 民 族 の 「夢 」 を 叶 え る の だ っ た 。
れ て い な か っ た 。
ヴ ェ ル サ イ ユ 条 約 の 内 容 が 知 ら さ れ る こ と に よ っ て,ド イ ッ 人 は 初 め て 敗 戦 の 衝 撃 を 受 け た 。 シ ャ イ デ マ ン 内 閣 は,ヴ ェ ル サ イ ユ 条 約 の 冷 酷 さ に 対 し て 反 対 し,批 准 は 到 底 で き な い と み て,6月21日,辞 職 し た 。続 くバ ウ ア ー 内 閣 が, 外 相 ミ ュ ラ ー を 派 遣 し て,や む な く,1919年6月28日,ヴ ェ ル サ イ ユ 宮 殿 で 調 印 し た 。 こ の ヴ ェ ル サ イ ユ 条 約 は,ド イ ツ 人 に と っ て 屈 辱 的 な も の で あ っ た 。 従 っ て,こ れ 以 降 ド イ ッ 人 は,こ の 条 約 の 反 対 に 立 ち 上 が る こ と に な る 。 そ し て ヒ ト ラ ー が 勢 力 を 増 す 原 因 と な る 。
連 合 国 と オ ー ス ト リ ア と の 休 戦 条 約 は,9月10日 に サ ン ・ジ ェ ル マ ン 条 約, ブ ル ガ リ ア と は,11月27日 に ヌ イ イ ー 条 約,ハ ン ガ リ ー と は,1920年6月4日
に ト リ ア ノ ン 条 約,ト ル コ と は,8月10日 に セ ー ヴ ル 条 約 が 結 ば れ た 。 す べ て パ リ 近 郊 の 宮 殿 の 名 が つ い た 。
6.ワ イ マ ー ル 憲 法
国 民 議 会 は,ド イ ッ国 法 上 最 高 の 国家 機 関 と な っ た 。 つ ま り,仮 政 府 は権 限 を国 民 議 会 に戻 し,労 兵 協 議 会 は 国民 議 会 を承 認 した 。
ドイ ツ の 憲 法 は,ビ ス マ ル ク の 国 家 統 一(1871年)後 の 帝 国 憲 法,1918年10 月28日 公 布 の 憲 法,1919年2月10日 議 決 の 暫 定 的 国家 権 力 に 関 す る法 律,と 引 続 き,そ の 延 長 に ワイ マ ー ル 憲 法 が あ っ た 。 こ の 憲 法 の 特 性 は,共 和 制 と人 民 主権 お よ び福 祉 国家 思 想 を うた い,連 邦 制,男 女 の平 等 の 普 通 選 挙 権 を規 定 し, 立 法 権 が 優 越 して い る が,大 統 領 に も大 き な権 限 が与 え られ た 。
憲 法 執 筆 者 は,フ ー ゴ ー ・プ ロ イ ス9)で あ っ た 。 彼 の 第2次 憲 法 草 案 は,仮 政 府 で 討 論 され,第2次 草 案 が1919年1月20日 に,公 表 され た 。 ワ イ マ ー ル 議 会 で 憲 法 が 討 議 さ れ た 。 だが す で に述 べ た よ う に,シ ャ イ デ マ ン内 閣 が 総 辞 職
し,そ の 内 務 大 臣 プ ロ イ ス も退 陣 した 後,7月31日,議 会 は憲 法 を可 決 し,8
9)ベ ル リ ン 商 科 大 学 教 授,法 学 者 。 革 命 後,民 主 党 に 入 る 。
ヒルフ ァデ ィ ング外 伝2ヱ67 月14日 公 布 され た 。
国 民 議 会 は そ の 後,ベ ル リ ンに移 った 。 こ れ 以 降,国 民 議 会 は,ワ イ マ ー ル 憲 法 に の っ とっ て 行 わ れ る こ と に な っ た 。
現 実 生 活 の ドイ ッ は,極 め て 混 乱 した 状 況 に あ っ たが,ワ イマ ー ル 憲 法 は, 当時 世 界 で 最 も民 主 的 な 憲 法 と言 わ れ た 。 い ま まで,ド イ ツ帝 国 の憲 法 は,内 閣 は皇 帝 が 任 命 し,内 閣 は皇 帝 に責 任 が あ り,内 閣 に は議 員 は 普 通 は入 れ ない, と さ れ,戦 争 ・外 交 は皇 帝 の 権 限 で あ っ て,戦 前 の 日本 と同 じで あ っ た 。
大 統 領 は直 接選 挙 に よ り選 ば れ,大 選 挙 区比 例 代 表 制 で あ って,小 党 分 立 の 予 想 が され た 。 こ こ に は議 員 内 閣 制 が 規 定 さ れ て い た 。 しか し他 方 で,大 統 領 に大 権 が 賦 与 さ れ て い た 。 そ れ は,プ ロ イ ス とマ ッ ク ス ・ウ ェー バ ー10)の 構 想 に よ る もの で あ っ た 。彼 は,ド イ ッ 国 民 が 議 会 政 治 の 訓 練 に まだ 欠 け て お り, 議 会 だ け で は事 態 を 収 拾 で きな い 場 合 を 考 慮 して,大 統 領 に 緊 急 令 とい う大 権 を与 え た の で あ る。 皮 肉 に も これ が 後 年,共 和 制 を壊 し,ナ チ ス が 跳 梁 す る一 因 に な っ た 。
ワ イ マ ー ル 共 和 制 は,社 会 民 主 党(SPD)と 保 守 派=軍 部 の協 働 に よ っ て 生 まれ た 。11)
7.第1次 社 会 化 委 員会
この 情 勢 の 中 で 社 会 化 委 員 会 が 組 織 さ れ た 。 第1次 社 会 化 委 員会 は,人 民 代 表 委 員 会 議(RatderVolksbeauftragten)の 諮 問 機 関 と し て,1918年11月28
日に,ハ ー ゼ の 提 案 で 出 来 た。
ほ と ん どす べ て の社 会 主 義 理 論 家 と労 働 者 大 衆 は,鉱 山が 社 会 化 に適 した 部 門 だ と確 信 して い た。ドイ ツ 革 命 の成 功 以 後,社 会 化 の 要 求 が 全 国 に 沸 き起 こ っ た 。社 会 主 義 の 要 求 は,11月 革 命 の原 因 で な く結 果 で あ っ た 。人 民 委 員 政 府 は,
10)Weber,Max.偉 大 な 宗 教 社 会 学 者 。
11)エ ー ベ ル ト,グ レ ー ナ ー(参 謀 次 長)協 定 が な さ れ て い た か ら で あ る 。 軍 は共 和 制 を ま も る,エ ー ベ ル トは レ ー テ を 抑 え る,と 約 束 した 。
ハ ー ゼ の 提 案 に よ り,1918年11月21日,カ ー ル ・カ ウ ツ キ ー を 委 員 長 と す る 第 1次 社 会 化 委 員 会 を 設 置 し た 。
委 員 は,バ ロ ッ ド(K.Ballod),レ ー デ ラ ー(E.Lederer),フ ラ ン ケ(E.
Franke),シ ュ ン ベ ー タ ー(J.Schumpeter),ウ ィ ル ブ ラ ン ト(R.Wilbrandt), フ ォ ー ゲ ル シ ュ タ イ ン(T.Vogelstein),以 上,大 学 教 授 で あ る 。 そ し て,カ ウ ツ キ ー(K.Kautsky),ヒ ル フ ァ デ ィ ン グ(R.Hilferding),以 上,USPD で あ る 。 ク ー ノ ー(H.Kunow)はSPDで あ る 。 ウ ム ブ ラ イ ト(P.Umbreit)
は 総 同 盟,フ エ(0.Hue)は 鉱 山 労 組 で あ る 。
同 年12月5日 に 第1回 会 議 が 開 か れ た 。ヒ ル フ ァ デ ィ ン グ は こ れ に 参 加 し た 。 12月11日,「 実 施 計 画 」(委 員 員 会 の プ ロ グ ラ ム)が 作 ら れ た 。 作 業 計 画
(Arbeitsplan)が 発 表 さ れ,そ の 後 こ れ に し た が っ て 社 会 化 委 員 会 は,1919 年2月15日,「 炭 鉱 業 の 社 会 化 に か ん す る 暫 定 報 告 」 を 政 府 に 提 出 し た 。 こ の 提 案 は,こ う で あ る 。 全 炭 鉱 業 は,創 立 さ れ る は ず の 「ドイ ッ 石 炭 共 同 体 」 に 委 ね ら れ る 。 そ れ が ド イ ッ の 石 炭 経 済 の 経 済 的 ・法 律 的 主 体 と な る 。 国 家 は 鉱 山 所 有 権 を 渡 し,た だ 価 格 決 定 に 干 渉 し,余 剰 を 引 き 取 れ る だ け が 許 さ れ る 。
第1次 社 会 化 委 員 会 は,多 数 派 と小 数 派 に 分 か れ て い た 。Hilferding,Ballod, Cunow,Lederer,Schumpeter,Umbreit,Wilbrandtら が 多 数 派 で,Kautsky は 起 草 に 参 加 し な か っ た 。 少 数 派 は 私 的 所 有 の 原 理 に 固 執 し た 。
1919年2月15日 に,炭 鉱 業 の 社 会 化 の 問 題 に 関 す る 暫 定 報 告 を 出 し た 。1919 年3月7日 に,石 炭 経 済 の 統 制 に 関 す る 法 律(GesetzUberdieRegelungder
Kohlenwirtschaft)を 出 し た 。 し か し,こ の 委 員 会 の 暫 定 報 告 は,時 の 政 府 に よ っ て 事 実 上 無 視 さ れ た 。1919年4月18日,「 社 会 化 委 員 会 」 は 総 辞 職 し た 。
8.カ ッ プ ー 揆
1920年,共 和 国 政 府 転 覆 の 反 乱 が 生 まれ た。 右 翼 ・国 粋 派 の 政 治 家 カ ッ プ と 国 防 軍 の リ ュ トヴ ィ ッ ツ将 軍 の ク ー ・デ タが そ れ で あ る。 ドイ ツ ・ブ ル ジ ョァ ジー は,ワ イ マ ー ル共 和 制 に無 関心 と な り,次 い で これ に敵 意 を持 つ よ うに な っ
ヒ ル フ ァ デ ィ ン グ外 伝2 ヱ69
た。
1920年3月13日,義 勇 軍 エ アハ ル ト旅 団 が カ ップ を後 押 し して,首 都 に侵 入 した。 クー ・デ タ,カ ップ ー 揆 で あ る 。 共 和 制 へ の 正 面 攻 撃 で あ る。 ノ ス ケ は 対 抗 す る 部 隊 を持 っ て お らず,共 和 国 政 府 と大 統 領 はベ ル リ ン を逃 れ た 。 カ ッ プ は 自 ら プ ロ イ セ ン首 相 で あ る と宣 言 し,反 革命 は先 ず う ま くい っ た 。 これ は 共 和 制 へ の 正 面 攻 撃 で あ っ た 。SPD政 府 は 逃 げ 出 し た。 しか し カ ッ プ は,ブ ル ジ ョア 層 とそ の 政 党 を掴 ん で か ら行 な っ た の で は なか っ た 。 全 国 で 労 働 者 階 級 は カ ッ プー 揆 に対 して,ゼ ネ ラ ル ・ス トラ イ キ を打 っ た 。17日,カ ッ プ政 府 は辞 任 した 。 労 働 者 の 統 一 の 前 に,た っ た5日 間 で カ ップ は 敗 北 した 。 労 働 組 合 は,ゼ ネス トで カ ップ 政府 を倒 した の で あ っ た 。 こ れ は,労 働 者 市 民 が 共 和 制 を守 る 決 意 が 強 い こ とを 示 した。
共 産 党 は,は じめ ゼ ネ ス トに反 対 し,そ の後,賛 成 した 。 そ して レー テ 再 建 方 針 を 出 した 。 同 党 は,「 街 頭 に 出 る な」 戦 術 を 出 し,こ れ は誤 りで あ っ た 。
右 翼 ・軍 部 が 強 力 に な っ た 。
そ こで,労 働 組 合 が 労 働 者 政 府 案 を 出 し た。USPDと 共 産 党 は,そ れ は 資 本 の独 裁 だ と云 っ て,SPDと 連 合 し なか っ た 。 これ は失 敗 で あ っ た 。 この 後, バ ウ ア ー 内 閣 も辞 任 し,ヘ ル マ ン ・ミ ュ ラ ー 内 閣 が 成 立 した 。 国 防相 ノス ケが 解 任 さ れ た 。 彼 は 共 産 党 を 弾 圧 した が,共 和 国 の 軍 隊 を作 ろ う と した 。 国 防相 に ゲ ス ラー が 就 任 し,彼 は8年 間 と ど ま っ た。 だ が 彼 は,軍 が 共 和 国 の1大 勢 力 に な る 阻 止 策 を講 じな か っ た 。 彼 は,ラ イ ンハ ル ト(カ ッ プー 揆 の 首 謀 者) の 後 任 と して 国 防 軍 長 官 と して,ゼ ー ク ト(帝 制 主 義 者)を 任 命 した 。 ゼ ー ク
トは,軍 を政 府 の 介 入 を 許 さぬ 「国家 の 中 の 国 家 」 に作 り上 げ た。
カ ップ ー 揆 の後,内 閣 改 造 が さ れ,ヘ ル マ ン ・ミ ュ ラ ー 内 閣 が 成 立 した 。 国 防 相 ノ ス ケ は解 任 さ れ た 。 彼 は共 産 党 を弾 圧 した が,共 和 国 の 軍 隊 を作 ろ う と
した 。
国 防 相 に ゲ ス ラー が 就 任 し,彼 は8年 間 と ど ま っ た。 だ が 彼 は,軍 が 共 和 国 の 一 大 勢 力 に な る阻 止 策 を講 じな か っ た。 彼 は,ラ イ ンハ ル ト(カ ッ プー 揆 の 首 謀 者)の 後 任 と して 国 防 軍 長 官 と して ゼ ー ク ト(帝 制 主 義 者)を 任 命 し た 。
ゼ ー ク トは,軍 を政 府 の 介 入 を許 さぬ 「国家 の 中 の 国家 」 に作 り上 げ た 。 3月=カ ッ プ ・プ ッチ 以 降,軍 部 の 力 が 増 大 した 。 軍 部 は,SPDか ら離 れ る の で あ る 。 一 方,SPD中 央 政 府 は軍 隊 に頼 っ た。 そ こ で 軍 部 は 力 を 自覚 し は じめ た 。右 翼 と軍 部 が 強 大 に な っ た。そ の 理 由 は,極 左 派 が 民 主 主 義 で な く, 社 会 主 義(暴 力 革 命,国 民 に支 持 され ない 小 数 者独 裁)を ね ら い,結 局,軍 人 勢 力 を 強 め た の で あ る。
「… … 軍 部 の復 活 は,主 と し て,古 い 軍 部 を必 要 不 可 欠 の もの に した ワ イマ ー ル 指 導 者 た ち の責 任 で あ っ た 。 共 和 国 を宣 言 した 翌 日の11月10日,エ ー ベ ル ト は グ レー ナ ー 将 軍 との 問 に 広 範 な協 定 を結 び,秩 序 の 維 持 の た め軍 の援 助 を受 け入 れ た 。 正 規 軍 は,大 急 ぎで 編 成 され た 自 由志 願 兵 の援 助 を受 け て,戦 闘 的 なス パ ル タ ク ス 団 の 数 十 名 を射 殺 した 。 共 和 国 の 「刑 事 」 で あ る社 民 党 の ノ ス ケ 内相 は,右 翼 の 軍 隊 に広 範 な行 動 の 自 由,つ ま り組 織 的 な暗 殺 を 認 め た。」12)
9.国 会 選 挙 1920年6月6日 に,
る。
社 会 民 主 党 独 立 社 会 民 主 党 共 産 党
国 家 人 民 党 と人民 党 民 主 党
中央 党
国会 選 挙 が 行 な わ れ た。 各 政 党 の 得 票 数 は左 の よ うで あ
万万万万万万000000ρOQゾ沼4qδ9臼5﹃0479臼90
社 会 民 主 党 は,前 回 に較 べ 半 分 を失 っ た 。そ れ で も しか し第1党 で は あ っ た 。 ドイ ッ の 政 治 状 況 が 発 展 ・変 化 して,国 民 が 左 右 両 極 に分 化 した 。右 翼 政 党(議
12)ゲ イ 『ワ イ マ ー ル 文 化 』36ペ ー ジ 。
ヒル フ ァ デ ィ ン グ外 伝2 ヱ7ヱ
員 で,国 家 人 民 党71,人 民 党65)が 増 加 した。
そ の 中 で ドイ ッ独 立 社 会 民 主 党(USPD)は,勢 力 を伸 ば した 。1920年6月 の 選 挙 で 同 党 は 第2党 に な っ た 。 国 会 議 員 全459名 中84名 で あ っ た 。 と こ ろが
こ の 大 政 党 は,ま も な く崩 壊 す る の で あ る。USPDは,右 派 と左 派 で 形 成 さ れ て い た 。
共 産 党 は,今 回 初 め て選 挙 に参 加 した 。 ワ イ マ ー ル連 合(社 会 民 主 党 ・民 主 党 ・中央 党)は,国 民 か ら急 速 に見 放 され,実 は この 時,ワ イマ ー ル 共和 国 の 破 局 が 訪 れ て い た 。 ブ ル ジ ョ ア 内 閣 が 成 立 し,中 央 党 フ ェ ー レ ンバ ッハ が 首 相 と な り,大 統 領 工 一 ベ ル トが 留 任 した 。 社 会 民 主 党 の ヘ ゲ モ ニ ー は,こ う して 1年 半 で 失 わ れ た 。 中 間右 派 の 連 合(中 央 党 内 閣)で,純 粋 ブ ル ジ ョア 政 権 と な っ た。
USPD党 首 ハ ー ゼ は1919年11月 に 暗殺 され,こ う して右 派 指 導 者 と して13), デ ィ ッ トマ ン,カ ウ ツ キ ー,ヒ ル フ ァデ ィ ング が 残 っ た。
10.バ イ エ ル ン ・ レ ー テ
1919年4月7日,ミ ュ ンヘ ン ・レー テ 共 和 国(第1次)が で き,USPDの ク ル ト ・ア イ ス ナ ー が バ イ エ ル ン首 相 に な っ た 。SPDとUSPDの 連 立 で あ っ た 。 しか し こ れ は 労 兵 協 議 会 と対 立 せ ず,国 民 協 議 会 を作 っ た 。 共 産 党 は, SPDと の 共 闘 を拒 否 した。
こ れ は 第2次 共和 国 と され た 。行 動 委 員 会(SPDとUSPDと 共 産 党 が 入 る) が で きた 。 か れ らは ゼ ネ ス ト宣 言 を し,内 部 紛 争 が お き,こ れ を 中央 政 府 が 軍 隊 を送 っ て 潰 した 。 バ イエ ル ン は そ の 後 右 翼 化 す る。 そ して,右 翼 団体 が 創 出 さ れ た 。 バ イ エ ル ン で は,レ ー テ政 権 後,SPD連 立 内 閣 だ っ た が,カ ッ プー 揆 を きっ か け に,カ ー ル(右 翼)を 新 政 府 首 班 に した 。14)
13)ベ ル ン シ ュ タ イ ン は1919年,1月 蜂 起 の 直 後,USPDか ら 社 会 民 主 党 へ 復 帰 し た 。 14)DieMUnchnerRaterepublik.EditionSuhrkamp.
11.コ ミ ン テ ル ン
コ ミ ン テ ル ンが1919年3月 に創 立 され た 。 これ はか な り拙 速 で 作 られ た 。 大 体 ロ シ ア滞 在 の外 国 活 動 家 が こ の 第1回 大 会 に参 加 した。 ロ ー ザ ・ル ク セ ン ブ ル グ は これ に反 対 して い た 。 ドイ ッ 共 産 党 代 表 工 一 バ ー ラ イ ン は,コ ミ ン テ ル ンで 創 立 に反 対 した 。 しか し これ は創 立 され た。 コ ミ ン テ ル ン は ボ ル シ ェ ヴ ィ キ の 幻 想 で あ っ た 。 ドイ ッ共 産 党 は,結 局 は コ ミ ン テ ル ンに加 入 した。 党 指 導 部 は レヴ ィが 指 導 した 。 ドイ ッで は4月 以 来 戒 厳 令 が しか れ た 。8月 に,共 産 党 の 全 国協 議 会 が行 わ れ,党 員 は10万7千 だ っ た 。レ ヴ ィ の穏 健 方 針 に対 して, 一 部 は反 対 し,分 裂 をね ら う者 は ドイ ッ 共 産 主 義 労働 党 に加 入 した。 リ ュー レ な ど だ っ た 。 そ こ で 共 産 党 の 党 員 は半 分 と な る。
共 産 党 は,ヴ ェル サ イ ユ 条 約 承 認 反 対 で あ り,コ ミ ン テ ル ン と同 じ方 針 で あ っ た 。
12.第2次 社 会 化 委 員 会
カ ッ プ ー 揆 が 起 こ り,ド イ ツ 労 働 者 は ゼ ネ ス トで 迎 え 打 っ た 。 ゼ ネ ス ト を と く条 件 の1つ は,「 社 会 化 の 即 時 着 手 」 で あ っ た 。 こ う し て,再 び 社 会 化 の 実 施 が 叫 ば れ た 。政 府 は4月 に,第2次 社 会 化 委 員 会 を 設 置 し た 。 こ の 委 員 会 は,
7月31日,2つ の 案 を 政 府 に 提 出 し た 。 委 員 会 内 で こ の2つ の 案 へ の 支 持 者 数 は,互 い に ほ ぼ 等 し か っ た 。 第1案 はEmileLedererの 起 草 に な る も の で,第
1次 社 会 化 委 員 会 の 多 数 と 本 質 的 に 一 致 し て い る 。 第2案 は,ラ ー テ ナ ウ (W.Rathenau)の 主 張 に 基 づ く も の で あ っ た 。 しか し 両 案 は ま た 棄 却 さ れ た 。 そ れ は 当 然 で も あ っ た 。1919年7月31日 に ワ イ マ ー ル 憲 法 が 可 決 さ れ て お り, 1920年6月25日 に,ド イ ツ 人 民 党 と 民 主 党 の 政 府 が す で に 作 ら れ て い た か ら で あ る 。
第2次 社 会 化 委 員 会 の 委 員 は,K.Ballod;F.Baltruschキ リ ス ト教 労 働 組 合 総 同 盟 書 記 長;A.vonBatocki;A.Braun;A.Cohen;R.Hilferding;0.Hue;
ヒ ル フ ァデ ィ ン グ 外 伝2173
H.Kaufmann自 由 俸 給 生 活 者 組 合 連 合 書 記 長;K.Kautsky;H.Kreamer;R.
Kuczynski;E.Lederer;H.Lindemann;C.Melchiorワ ー ル ブ ル ク 商 会 の 出 資 者;F.Neustadt;W.Rathenau,AEG社 長;J.Schumpeter;C.EvonSiemens
ジ ー メ ン ス 社 長;P.Umbreit;T.Vogelstein;A.Weber;G.Werner;R.Wisse1
(社 会 民 主 党 の 経 済 専 門 家,人 民 代 表 委 員 と な る,1919?後 に 経 済 相 と な る) で あ っ た 。
7月31日 に,「 炭 鉱 社 会 化 の 問 題 に か ん す る 社 会 化 委 員 会 の 報 告 」 が で た 。 翌4月7日 に,社 会 化 委 員 会 は 辞 任 し た 。
13.賠 償
オ ー バ ー ・シ ュ レ ジ エ ン地 方 が,1921年 に 国 民 投 票 に よ って,ド イ ツ とポ ー ラ ン ドの 問 に分 割 され,ド イ ツ 国境 は す べ て 決 定 さ れ た 。
1921年 まで 平 和 条 約 は大 部 分 が 実 施 され て い た 。 未 解 決 の ま ま だ った の は, 賠 償 の 支 払 い で あ っ た。
1919年 に フ ラ ンス は,ド イ ツが 戦 争 に よ る損 害 を十 分 支 払 うべ きだ とい う原 則 を 断 固 と して 規 定 し よ う と した。 ア メ リカ は 賢 明 に も,一 定 額 と して 決 定 す る よ う提 案 した 。 ロ イ ド ・ジ ョー ジ は,1919年 の 興 奮 した 雰 囲 気 で は,一 定 額 を定 め て も ドイ ツの 支 払 い 能 力 を は る か に越 え る と判 断 した 。 彼 は ドイ ッ との 和 解 を模 索 した 。
1921年5月 賠 償 委 員 会 は,総 額 を1320億 マ ル ク と決 定 した 。 フ ェ ー レ ンバ ッ ハ 内 閣 は,こ れ を 支 払 えず と,辞 職 した 。 イ ン フ レが 始 ま っ た 。
14.独 立 社 会 民 主 党
社 会 民 主 党 と独 立 社 会 民 主 党 は,第1次 世 界 戦 争 と戦 争 政 策 に よっ て 分 裂 し, そ の後,そ の不 統 一 は11月 革 命 に よっ て も回復 し なか っ た 。 そ れ ば か りか,運 動 の 弱 点 は克 服 で きず,思 想 的 明確 さ を持 てず,ブ ル ジ ョア 諸 政 党 を 政 権 か ら
追 い 出 せ ず,民 主 共 和 制 を社 会 主 義 に成 長 ・変 革 させ られ な か っ た 。
そ の 責 任 は,両 党 だ け に あ っ た わ け で は な い 。 勝 利 した 協 商 国 連 合 が,社 会 主 義 を恐 れ,あ る い は 敵 視 した こ と,ま た社 会 民 主 党 よ りも古 い 反 動 的 上 層 部 と協 力 す る方 を好 ん だ,と い う事 情 が あ る 。 しか しそ れ を勘 定 に入 れ て も,両 党 は,ド イ ツ の 政 治 経 済 的 反 動,つ ま り官 僚,ユ ンカ ー,重 工 業 資 本 家,軍 部
に対 して 闘 い を行 い,諸 外 国 の 敵 対 や 不 信 を拭 い去 り,ド イ ッ労 働 者 運 動 を ヨー ロ ッパ の 平 和 の 保 証 人 とす る こ とが 必 要 で あ っ た 。
国 内 と外 国 に 対 す る 闘 い で,「 ヒ ル フ ァ デ ィ ング は,単 に先 見 の 明 あ る政 治 家 の 能 力 を発 揮 し た だ け で は な か っ た 。 彼 は,対 外 ・国 内 の 政 治 問 題,特 に経 済 問 題 を十 分 マ ス タ ー して い たが,偉 大 な 党 指 導 者 と して の 能 力 を も示 した 。 彼 は プ ロ レ タ リ の 統 一 を語 る だ け で は な く,労 働 者 階 級 の右 派 と左 派15)の 弱 点 や誤 りを批 判 し,ま た 全 労 働 者 層 の た め に,現 在 の実 践 的 任 務 と闘 争 目標 を 定 式 化 し,統 一 し て 自由 な 独 立 の社 会 主 義 運 動 の 基 盤 を作 り上 げ る こ と を,最 重 要 な 課 題 だ と思 っ た 。」16)
1919年5月2‑6日 に,USPD大 会 が 開 か れ た 。 こ こ で 左 右 対 立 が 明 ら か に な っ た 。 同 党 内 は,右 派(ハ ー ゼ)と 左 派(ド イ ミ ヒ)の2つ が あ っ た 。
1919年11月7日,ド イ ツ 独 立 社 会 民 主 党 党 首 フ ー ゴ ー ・ハ ー ゼ が 暗 殺 さ れ た 。 ヒ ル フ ァ デ ィ ン グ は,ハ ー ゼ 亡 き あ と,党 の 精 神 的 指 導 者 に な っ た 。 ヒ ル フ ァ デ ィ ン グ は,軍 部 や 右 翼,共 和 政 府 の 不 徹 底 さ と と も に,ボ ル シ ェ ヴ ィ ズ ム の 潮 流 と 闘 っ た 。
1919年11月30日 一12月6日 のUSPD大 会 で,レ ー テ 独 裁 の 承 認,コ ミ ン テ ル ン 加 入 問 題 が 問 題 と な っ た 。 コ ミ ン テ ル ン は,USPD左 派 の 共 産 党 へ の 加 入 を す す め た 。 コ ミ テ ル ン は,右 派 指 導 者 を 排 除 す る た め,コ ミ ン テ ル ン 加 入 条 件18を21に 増 や し た 。
15)右 派 と は 社 会 民 主 党,左 派 と は共 産 党 で あ る 。 16)シ ュ タ イ ンrヒ ル フ ァ デ イ ン グ』 成 文 社 。
ヒ ル フ ァデ ィ ン グ外 伝2175
USPDの ハ レ 大 会 が1920年 に 開 か れ た 。コ ミ ン テ ル ン 加 入 問 題 が 議 論 さ れ た 。 こ こ で 第3イ ン タ ナ シ ョナ ル 議 長 ジ ノ ヴ ィ エ フ が 演 説 し た 。17)
次 い で ヒ ル フ ァ デ ィ ン グ は 次 の よ う に ジ ノ ヴ ィ エ フ に 反 対 し て 演 説 し た 。 こ の 報 告 は,『 革 命 的 政 策 か 権 力 幻 想 か?』18)と い う 冊 子 に な っ た 。
ヒル フ ァデ ィ ン グ は演 説 す る。
[コ ミン テ ル ン]執 行 委 員 会 の代 表 者[ジ ノ ヴ ィエ フ]は,純 粋 に ロ シ ア 的 思 考 で[演 説 を]行 っ た 。 彼 は,全 世 界 を ロ シ ア 的 に作 り上 げ よ う と した 。 ロ シ ア の メ ン シ ェ ヴ ィス ム とボ ル シ ェ ヴ ィ キ 関係 を ドイ ツ で も当 て は め よ う と し て い る 。 ドイ ツ や 西 ヨ ー ロ ッパ で は 関 係 な い 。
労 働 者 階 級 の解 放 は,独 自の 仕 事 で あ っ て,外 国 の経 験 を単 純 に 当 て は め る も の で は ない 。 ロ シ ァ革 命 の 経 験 を学 ぶ こ とは 重 要 だ が,そ れ で 何 を な す べ き で 何 を して は い け ない か を 学 ぶ の で あ る。 ジ ノ ヴ ィエ フ は,民 主 主 義 と世 界 革 命 に我 々 が ど うい う態 度 を 取 る の か,と 問 う。 ドイ ツ革 命 は 去 っ た 。 頂 点 を越 え て し ま っ た。 だ が 革 命 を信 じな い 人 々 は 第 三 イ ン タ ナ シ ョナ ル と関 係 な い の だ そ うだ 。
11月9日[の ドイ ツ革 命]は,あ る意 味 で,真 の 革 命 で は なか っ た,と い つ も言 っ て きた 。 この 革 命 は 終 わ りで は な く始 ま りで あ る。 労 働 者 階級 の 革 命 化 の 過 程 が 進 展 して い る。
今 私 が 我 が 党 を守 り,幻 想 に反 対 し,一 揆 主 義 者 や 共 産 主 義 者 の誤 っ た 戦 術 に反 対 して い る の に,大 会 代 議 員 は共 産 主 義 者 に 賛 成 し,我 が 党 に 反対 し て い る。
ドイ ツ で こ の革 命 の 発 展 が,大 衆 の 精神 的革 命 化 が,我 が 党 の 分 裂 に よ っ て は促 進 され な い。
我 々 は,公 安 の社 会 化 や 生 産 管 理 を必 要 と して お らず,政 治 権 力 の獲i得を必
17)「 ジ ノ ヴ ィ エ フ 演 説(1)」in:『 人 文 研 究 』67,1984年3月 。(2)が,書 か れ て い な い 。
18)ヒ ル フ ァ デ ィ ン グRevolutionarePolitikoderMachtillusionen?
要 と して い る(S.9)。
ジ ノ ヴ ィエ フ は,我 々が 革 命 を信 じな い の で 革 命 家 で は な い と言 う。 だ が そ れ は我 々 の 見 解 を まだ 理 解 して い ない 。 我 々 は革 命 化 過 程 の真 只 中 に お り,党 の 任 務 は これ を今 日 の状 況 で 適 応 で き る あ らゆ る手 段 で 押 し進 め る こ と で あ る 。 ジ ノ ヴ ィエ フ は我 々の 経 済 的 見 解 に つ い て 誤 っ て い る。 だ が ドイ ツ で は 経 済 条 件 は社 会 主 義 に と って 熟 して い る,と 我 々 は 考 え る。だが 経 済 的 条 件 が あ っ て も政 治 的 条 件 は ど う なの か 。我 々 は結 集 した プ ロ レ タ リ戦 線 を持 た ね ば な ら な い 。 我 々 は,左 派 か ら奇 襲 され て お り,右 派 に見 放 され て い る。
後 に,こ の ヒ ル フ ァ デ ィ ン グ に 対 し て ラ デ ッ ク の 批 判(「Maskensind Gefallen」)が 冊 子 と して 出 た 。
ハ レ大 会 で,左 右 の 分 裂 はす で に き ま っ て い た 。 大 会 は,224(236)対158 (156)で コ ミ ン テ ル ン加 入 を可 決 した 。USPDは,ド イ ッ 共 産 党 と と も に, 統 一 共 産 党 を結 成 す る こ と に な っ て 合 流 した 。 しか し右 派 は合 流 し な か っ た 。 左 派 は党 内 で 多 数 で あ っ たが,実 際 は全 党 員80万 人 の う ち,共 産 党 に移 っ た も の は,30万 人 で あ っ た。左 派 の 指 導 者 レー デ ブ ー ル は,共 産 党 に 入 らな か っ た。
あ らか じめ加 入 工 作 が され て い た が,左 派 の 人 々 が皆 加 入 した わ け で は な か っ た 。USPD国 会 議 員 で 共 産 党 へ 移 っ た者 は4分 の1で あ っ た 。
残 っ た右 派 の30万 人 は,し ば ら く,彼 らだ け で存 在 し留 ま っ て い た が,1922 年 秋 にSPDに 復 帰 した 。 レー デ ブ ー ル た ち左 派 は そ こ に加 わ ら な か っ た 。 結 局,20万 名 の 人 々 は ど ち らに も加 わ らな か っ た。
ドイ ッ独 立 社 会 民 主 党 が,左 右 両 派 に 別 れ,コ ミ ンテ ル ンに よ っ て左 派 が た も と を分 か ち,こ う して ドイ ッ独 立 社 会 民 主 党 が 滅 ん で しま っ た 。 こ れ は 現 代 に も教 訓 を 与 え る。
ヒ ル フ ァデ ィ ン グ 外 伝2 ヱ77
15.共 産 党
1920年12月4‑7日 に,共 産 党 と左 派 独 立社 会 民 主 党 との 合 同 大 会 が あ り, ドイ ツ統 一 共 産 党 が 成 立 した。 パ ウル ・レヴ ィ と ドイ ミ ヒが 議 長 だ っ た。 ドイ ツ共 産 主 義 労 働 者 党 は,独 自 に コ ミ ン テ ル ンに 加 入 し,友 党 とな っ た 。
1921年1月 に,レ ヴ ィの 「公 開書 簡 」,統 一 戦 線 戦 術,が 出 る。
1921年2月,党 内 の コ ミ ンテ ル ン批 判 者,レ ヴ ィた ち は,中 央 部 を辞 任 した 。 こ う して コ ミ ンテ ル ン派 は 多 数 派 を え た。19)
1921年3月 闘 争 が お きた 。 共 産 党 は,武 装 蜂 起 に反 対 した,し か し挑 発 され た。 そ して 鎮 圧 され た 。 レー テ運 動 ・レ ー テ権 力 は抹 殺 され た。
コ ミ ンテ ル ンは,ド イ ツ 革 命 を狙 っ た 。コ ミ ンテ ル ンは,ロ シ ア ・ク ロ ンシ ュ タ ッ ト反 乱 に お び え,ド イ ッ革 命 を期 待 した の だ っ た。 共 産 党 中央 は,ゼ ネ ス トと武 装 を よ び か け,せ い ぜ い30万 の 労 働 者 が ス トを した 。 そ して,鎮 圧 され た 。 こ う して 失 敗 した 。
レヴ ィ は,コ ミ ン テ ル ン と ボ ル シ ェ ヴ ィ キ を批 判 し,除 名 さ れ た 。 彼 は共 産 主 義 労 働 団 を作 っ た 。
1921年,コ ミ ン テ ル ン第3回 世 界 大 会 が 開 か れ た。レー ニ ン20)は 自 己批 判 し, レ ヴ ィ は 大 体 正 しい,と した 。 しか し彼 は責 任 を ドイ ッ指 導 部 に転 嫁 した 。21 年 「公 開 書 簡 」 が,新 戦 術 の 例 と して 推 薦 さ れ た 。
小 括
ドイ ッ独 立 社 会 民 主 党 は,か な り よい 政 党 で あ っ た。 同 党 は実 際 に ドイ ツ革 命 の 主 力 と な っ た 。社 会 民 主 党 は受 け 身 の 政 党 に な っ て い た 。 コ ミ ンテ ル ン=
19)ナ チ ス ・ ドイ ツ が 第2次 世 界 大 戦 に 完 敗 した と き,再 建 ドイ ツ共 産 党 は,1919‑
1933年 に お け る 党 政 策 の 誤 謬 を 自 己 批 判 し て,党 も ま た ドイ ツ の 悲 劇 に た い す る 責 任 か ら免 れ え な い こ と を承 認 した 。 当 た り前 で あ る 。
20)あ た ら しい 伝 記 と し て,サ ー ヴ ィ ス 『レ ー ニ ン』 上 下,岩 波 書 店 。
ドイ ツ共 産 党 は,戦 術 を誤 っ た 。 そ れ に ロ シ ァ的 で あ っ て,ド イ ツ に は ふ さわ し くな か っ た 。 コ ミ ンテ ル ンがUSPDを2つ に 割 っ て し ま っ た こ とは,2つ の マ イ ナ ス の 意 味 が あ る。 第1に,USPDの 人 々 の 怒 りを 買 う こ と は 当 然 で あ る。 第2に,ま と も な変 革 の 政 党 が な くな っ て し ま った 。
USPDは ロ シ ア の や り方 を踏 襲 し なか っ た か ら,ド イ ツ で は も っ と活 動 で き, もっ と大 き くな り得 た は ず で あ る 。 こ う い う ま と もな 政 党 が 存 続 ・発 展 して い れ ば,後 年 の ナ チ ス に 対 して か な り大 きな抵 抗 勢 力 に な っ た は っ ず で あ り,ナ チ ス も簡 単 に権 力 を奪 う こ とは で き なか っ た だ ろ う。 戦術 を変 え て 伸 張 した, 後 の 共 産 党 を見 て も分 か る。
そ の 後 の ドイ ツ で は,コ ミ ンテ ル ン に縛 られ た 共 産 党 で は,ド イ ッの 変 革 は で き な か っ た だ ろ う し,国 家 社 会 が ゆ る さ な か っ た だ ろ う。USPDだ っ た ら
ドイ ッの 変 革 はで きた の で は な い か 。
ヒル フ ァデ ィ ン グ個 人 の 政 治 的 運 命 につ い て 言 え ば,USPDが 割 れ て しま っ た か ら に は,彼 本 来 の 政 治 的 活 動 は充 分 行 な え な か っ た 。USPDが 彼 の 政 治 的本 拠 で あ っ た 。 社 会 民 主 党 に復 帰 し て か らは,彼 は,そ れ は そ れ な りに,政 治 的 イ ン テ リゲ ンチ ア と して は活 動 で きた し,重 宝 さ れ た の だ が,本 当 の舞 台
で は な か っ た 。
ド イ ツ 小 史 1918・11・9
11 11・15
12
12 1918‑19 1919・1月
ドイ ツ 革 命
ヒ ル フ ァ デ ィ ン グ,「Freiheit」 の 編 集 長 に な る 。
「Freihait」 創 刊,3万 部,ヒ ル フ ァ デ ィ ン グ,創 刊 よ り 1週 間 遅 れ て 指 揮 を と る 。
ヒ ル フ ァ デ ィ ン グ,第1次 社 会 化 委 員 会 の 委 員 に な る 。 カ ウ ツ キ ー や レ ー デ ブ ー ア と 共 に 。
ヒ ル フ ァ デ ィ ン グ,労 兵 協 議 会(ニ レ ー テ)で 報 告 。 ドイ ツ 共 産 党(ス パ ル タ ク ス)創 立 。
ロ ー ザ,リ ー プ ク ネ ヒ ト,殺 害 さ る 。