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小林多喜二 と拓銀就職

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(1)

小林多喜二 と拓銀就職

はじめに

1

北海道拓殖銀行 へ就職

2

『クラル テ』発刊 3 卒業直後の状況

4 父の死

5

ヴ ァイオ リン

6

音楽

7

家族

8

偽手紙 事件

9

武 田の 『クラル テ』加 入

1 0

『クラル テ』時代

1 1

整 の大熊 フ ィク シ ョン

1 2

銀行 の女性 た ち

は じめ に

本稿か ら,小林 多喜二伝 の第

3

部 に入 る。第

3

部 は,彼 の拓銀時代 ・大正 時代 である 本稿 は, その冒頭 であ り,伝記

( 1 0 )

をなす。

1

北 海 道 拓 殖銀 行 へ就 職

北海道 の拓殖事業 をすすめるために,政府 と民間が協力 して,北海道拓殖 銀行法が可決 された。設立委員 は,政府関係者,東京 を中心 とした実業家,

(2)

5 2

文 研 89

道内の実業家,地主,か らなっていた。

低利 資金 の金融機 関 として

,1 9 0 0

年 に北海道拓殖銀行 (以下,拓銀 と略 す)が創立 されたのだった。拓銀 は,北海道 と樺太 の半植民地的開発のため に設立 された半官半民 の特殊銀行 であった。初 め,資本金が

3 0 0

万 円で,秩 式総数 6万株, うち, 2万株 は政府が買い,皇室 もす こし払 い込 んだ。 申 し 込 みは

1 5

倍 に もなった

。1 9 2 4

年 には資本金が

2

千万 円 となった。大株主 は

内地人 が多か った。 こうして拓銀 は内地資本 によって作 られた と言 える

拓銀 は,普通銀行業務 も行 っていたが,不動産抵当貸付が主な業務であっ た。 その 目的 は,「北海道 の拓殖事業 に資本 を供給 す る」 こ とであ り,開墾 費用な どの農業関係資金,商工業への資金 を供給 す ることであった。農業 に たいす る長期 資金 の供給 を本務 とし,普通銀行業務 も認 め られた。 こうし て,政府 の保護監督色 の強 い特殊銀行 として設立 された。農業 に対 す る不動 産抵 当の長期貸付が,主要業務 で あった(1)。公共 団体 へ の無抵 当の長期貸付

もあった。 それ らは低利 の はずで あったが, それほ どで もなかった。

拓銀 は,国有未開地処分法 に対応 して,大資本家や大地主 に対 す る融資 を 担 ったが,中小資本家 には冷たか った。拓銀 は,大正末 ・昭和初頭 に,融資

の抵 当流れで,いつの間 にか寄生地主の側面 を持 つにいたった(2)0

小樽 の銀行 の歴史 を記 してお こう

明治

1 2

( 1 8 7 9

年) 第 四十 四 国立 銀 行 は,小 樽 に支 店 をお いた。同行 は,明治

1 5

年 に第三 国立銀行 に合併 した。第六十七 国立銀行 が,小樽支店 を設置 した。

明治

1 3

手宮‑札幌間鉄道が開通 した.

(1)

北海道拓殖銀行史』拓銀 昭和

4 6

(2

)拓銀の所有農地 と抵当農地について,琴坂守尚氏は表を作っている。小樽多喜 二祭実行委員会編 『ガイ ドブック 小林多喜二 と小樽』新 日本出版社

1 9 9 4

2 5

ペ ー ジ。

(3)

明治

2 2

( 1 8 8 9

年) 明治

2 6

( 1 8 9 3

年)

明治

2 8

( 1 8 9 5

年) 明治

2 9

( 1 8 9 6

年)

明治

3 0

( 1 8 9 7

年) た。

明治

3 2

( 1 8 9 9

年)

田中銀行 が,小樽支店 を設置 した。

日本銀行が,小樽派 出所 を設置 した。

小樽貯蓄銀行 が設立 された。

日本商業銀行小樽支店 が設置 された。

余市銀行 が,本店 を小樽 に移 し,小樽銀行 と改称 し

北海道拓殖銀行 が設立許可 された。小樽 区制 が実施 された。第十二銀行小樽支店 が設置 された。

明治

3 3

( 1 9 0 0

年) 拓銀が営業開始 した。

明治

3 4

( 1 9 0 1

年) 拓銀小樽支店 が設置 された。中立銀行 (本店小樽) が設立 された。

明治

3 7

( 1 9 0 4

年) 小樽一函館間の鉄道が開通 した。

明治

3 9

( 1 9 0 6

年) 小樽銀行 が,北海道商業銀行 を合併 し,北海道銀行 と改称 された(3)0

明治

4 0

( 1 9 0 7

年) 第 四十七銀行小樽支店が設置 された。稲敷商業銀行 (本店茨城県)が,

8

月,本店 を小樽 に移す。稲敷商業銀行 が,

9

月 に,本店 を札幌へ移 し,泰北銀行 と改称 した。

明治

4 5

( 1 9 1 2

年) 中越銀行小樽支店が設置 された

大正

3

( 1 9 1 4

年) 不動貯蓄銀行 が,小樽 に出張所 を設置 した。

泰北銀行が,本店 を札幌か ら小樽へ移転 した。

大正

6

( 1 9 1 7

年)

農産物 (えん どう ・はっか ・で んぷ ん, な ど)価格

が暴騰 した。

大正

8

( 1 9 1 9

年) 中立銀行 が,小樽銀行 と改称 した。

大正

1

1

( 1 9 2 2

年) 小樽市制 が施行 された。三菱銀行小樽支店 が設置 さ れた。

(3

)北海道銀行は,後年,拓銀に合併。従って,今の北海道銀行ではない。

(4)

54 89 輯

昭和

3

( 1 928

年) (旧)北海道銀行が,百十三銀行 を合併 した。

昭和

4

( 1 929

年) 小樽銀行が,北海道商工銀行 と改称 した

小樽 では,明治

1 2

( 1 87 9

年)に,三井銀行,第 四十 四銀行,第六十七銀 行 が支店 をおいた とい う説が ある だが三井銀行 の小樽 出張所 は,明治

1 3

4

月開設 である。第 四十 四銀行が明治

1

1年

8

月で,小樽 で

1

番早 い。だ がそれ は,明治

15

年 に第三国立銀行 に吸収 され,明治

1 6

年 に函館 山田銀行 に営業 を譲渡 した。明治

16

2

月,函館 山田銀行 の支店 が開設 された。だ

1

,

2

年で引 き揚 げ られた。明治

1 7

年 に第三十三銀行が 出張所 を開 き, 明治

23

年 に引 き上 げた.明治

20

年 に第二十銀行,明治

22

年 に北海銀行, 明治

23

年 に田中銀行 が,支店 を開 いた。 だが三井, 田中,二十,北海 しか 永続 しなかった。第二十銀行 は,大正元年 に第‑銀行 に吸収合併 された.北 海銀行 は大正

2

年,第一銀行 に営業 を譲渡す るまで続 いた。 田中銀行 は大正

7

年 に閉鎖 した。 その後,明治

2 6

年 に第百十三銀行 の支店 が開かれた。明

30

年 に国立 か ら株式会社 にな り,昭和

3

年,北海道銀行 (後述) に合併 された。明治

2 6

年, 日本銀行 の派出所が開かれた。 日銀 は,明治

2 7

年 には 出張所 とな り,明治

39

年 に支店 となった。明治

28

年 に,小樽貯蓄銀行がで きた。 それ は明治34年 に閉店 した。明治

29

年 に日本商業銀行 の支店が置か れた。 日本商業銀行 は安 田系で あ り,大正

1 2

年 に安 田銀行 となった。 その 後 の富士銀行 である

屯田銀行 も,明治

2 7

年 に小樽支店 を置 いた。明治

31

年 には本店 を小樽 に 移 した。明治 33年 に北海道商業銀行 と改称 した。明治

2 7

年,余市 に余市銀 行がで き,明治

28

年 に,小樽支店 を置 き,明治

3 0

年 に,小樽 に移 り,小樽 銀行 と改称 した。 そ して,元 ・屯 田銀行 を改称 した北海道商 業銀行 を明治

37

年 に合併 し,北海道銀行 となった。 これ は戦前 の北海道銀行 で あ り,昭

1 9

年 に拓銀へ吸収合併 された。だか ら現在 の北海道銀行 とは違 う

十二銀行 が支店 を明治

3 2

年 に出 した。本店 は富 山で ある。後,北 陸銀行 に合併 された。第 四十七銀行 が,明治

4 0

年 に小樽支店 を開 いたが,十二銀 行 に合併 された。中立銀行 が,明治 34年 に本店 を小樽 に して設立 された。

(5)

大正

9

年 に小樽銀行 と改称 し,昭和

5

年,寿都銀行 と合併 し,北海道商工銀 行 と改称 し, その後,道銀 に合併 した。

泰北銀行が明治 33年 に札幌 で設立 された。大正 3年 に小樽 に本店 が移 さ れた (色 内

2

2

,後 に稲 穂 東

7

1 1 )

北海 道殖産 銀行 小樽 支店 もあっ た。大正

8

年 にで きた銀行であった。大正

3

年,樺太銀行 は小樽支店 をもっ たが,昭和

1 6

年 に拓銀が合併 した。昭和

1 6

年,泰北,北海道殖産,北海道 商工銀行 は,道銀 に吸収合併 された。

北海道拓殖銀行 は,明治 33年 に発足 され,小樽 支店 は 34年 に設 置 され

た 。

明治 38年,北海道貯蓄銀行がで き,翌 39年 に小樽支店が開設 された。明

41

年 に休業 となった。 だが明治

42

年 に再 開 され,拓殖貯金銀行 と改称 し た。 その後大正

11

年 に,北 門銀行 となった。 それ は後 に拓殖銀行 に合併 さ れた。

明治

40

年 に,函館銀行小樽支店が設 け られ,大正

11

年 に函館百一三銀行 に合併 された。 中越銀行が,大正元年 に支店 を出 したが,後 に,合併 して北 陸銀行 になった。大正

6

年 に不動貯金銀行支店 が で き,後 に,協和 銀行 と なった。大正

1

1年 には三菱銀行支店 が開設 された。大正 4年 に第七銀行小 樽 出張所 があった。第‑銀行 が大正元年 に,二十銀行 を合併 した時,小樽 に 来た。大正 の初 め,不動貯金銀行が代理店 を置いていた。大正

6

年 に支店 を 置 いた。横浜正金銀行 が小樽 出張所 を大正

1

1年 に開設 した。 それ は大正

1 5

年 に支店 になった。 (越崎)

大正

1 3

年 に多喜二が拓銀 に就職 したのだが, この年,拓銀 の公称資本金

2

千万 円で,店舗

2 3

, うち樺太 が

5

,行員が

469

名 (同年

1 2

月)で あっ た。拓銀小樽支店 は,現在 の小樽 ホテルであ り, その以前 は 「紳装」であっ た。建物 の

1

階で業務 を行 っていた。地下室 は行員 に利 用 された。 また

2

(4

)大津博士氏。

(6)

56

人 文 研 究 第

8 9

3

階 も拓銀 の ものだ った(4)0

北海道拓殖銀行 は道 内で はエ リー ト銀行 で あった。最初 ,多喜二 は札 幌本 店 の総務 部 勤 め となった。 その年,大 学 ・高商 ・中学 な どか らの新 卒 業 生 が,

47

人採用 された。銀行 で は毎年新行員 を本店 で講習 をさせ た。 だか ら, 多喜二 はまず札幌で1カ月 の講習 を した。武 田は書 いてい る

小林 が小樽 高商 を卒業 す る と, す ぐに北海道拓殖銀行 の小樽支店 につ と めた との噂 を誰 か らともな くき くことが出来 た。 そ ういえば彼 の背広姿 を札 幌でち ょいノへ 見 か ける ことが あった。札幌 に本店が あったか ら店 の用件 で や って きたのであ ろうか, ちん ま りと小 さなか らだ に合 った洋服姿 は, ひ ろ び ろ とした さっぽ ろの点 景人 物 として はあ ま りに も深 い印象 を私 にあた え た。」

これ は多喜二が

1

カ月札 幌 に通 った時 の こ とで はあ るまいか(5)

1

カ月 の 講習 の後,彼 は本俸七〇 円で小樽 支店勤務 とな った。

チマ は言 う 「うちの主人 が泰北銀行(5a)にお世話 になって まして, その支 配人が拓銀 出身の方で, その方 に頼 んで [多喜二 を札幌か ら小樽 に]廻 して もらった」(6)。ただ し, 「その方」 のために多喜二 の転勤 が実現 で きたのか ど うか は,分 か らない。

多喜 二 は,小樽 支店 で は, は じめ計 算 係 で,

2

カ月後 に為 替 課 (係) に なった。 この課 には比較的長 くいて,つ いで調査課 に転 じる ことになる こには銀行 をや めるまでいたが,短 かか ったか ら,初期 の労作 は多 く為替課 勤務 時代 の もので はないか と,帖佐 (小樽高商 と拓銀 の先輩) は推測 してい 調査係 は,為替係 よ りも暇 のある係 だ った。多喜二 の銀行時代 の年表 を 掲 げよう。

(5

)武田 「回想の小林多喜二」 (小林多喜二研究』 日本図書センター

1 98 4

年, 復刻版 )

2 07

ページ。

(5

a)原文 は,台北 とあるが, ミスプ リである。

(6)

北方文芸

』1 9 68

3

月号

4 8

ページ。

(7)

1 9 24

3

1 0

日 拓銀 札幌本店 に勤務 本俸

7 0

4

1 8

6

1 92 5

4

1

1 9 26

1

1

1 927

1

1

1 9 28

1

1

7

1 92 9

1

1

9

1 0

1 1

1 6

小樽支店計算係 小樽支店為替係 本俸

85

88

92

9 6

為替係 か ら調査係へかわ る 本俸

1 0 0

調査係か ら出納係へ左遷 依願退職 のかたちで解雇

この ころ,全 国的 に長者番付が作 られ,発表去れ始 めた。小樽 で も作 られ た。大正

1 3

年度 の小樽 の長者番付 は こうで あ る (小樽新 聞』調 べ)。大正

1 4

年か ら普通選挙が実現 されたので, その直前である。 (越崎)

横綱 板谷 宮吉 西 横綱 藤 山 要吉 大関 犬上慶五郎 大関 野 口吉次郎 関脇 石橋彦三郎 関脇 金子元三郎(7)

小結 今井 六郎 小結 寺 田 省帰

その他 めぼ しい ところで は,東で は前頭 4枚 目に木村 円吉,十枚 目に磯野 進,西で は前頭筆頭 に青木 乙松,二枚 目に山本厚三,四枚 目に河原直孝,九 枚 目に野 口喜一郎,十枚 目に高橋直治,十二枚 目に名取高三郎,一四枚 目に

(7)

金子元三郎。海運業,肥料卸問屋であった。

(8)

58

89

寿原英太郎,二一枚 目に山田吉兵衛 がい る

こうして誰 が金持 ちなのか を, 日本人 は関心 を寄せ るよ うになる

2 『ク ラル テ』 発 刊

1924

(大正

13)年 4

月 に, 同人雑 誌 『ク ラル テ』第

1

集 が発行 され た。

多喜二 が主宰 した。毎号

3 0

ペ ー ジた らず の雑誌 で あって, その標 題 は多喜 二 がつ けた。バ ル ビュスの小説 『クラル テ』 か ら とった ので あった。 『ク ラ ル テ』創刊 号 の扉 には,バ ル ビュスの 「ク ラル テ」 か らの引 用 を載 せ た。

種 蒔 く人』 の灯 を小樽 にかか げた ので あった。第

1

号 が

4

月発刊 なので, 多喜二 は 『クラル テ』 の企 画や編集 をすで に在学 中 に, し始 めていたわ けで

ある。

小林 は,「自由 にな んで も書 け る 自分 の雑 誌 が欲 し くなった にちが い な 。」 率直 にい うと,銀行員 は食 うた めの手段 で,小林 は年来 のひそかな る 希望 で あった文学生活 を 『クラル テ』で踏 み切 ったのであった。」(8)

同人 は,戸塚新太郎 (短歌,小樽 中学 出),新 宮正辰 (一二銀行 小樽 支店 勤務 ,小樽 中学 出),片 岡亮一 (短歌,高商 生),島 田正策 (三菱 炭 売),平 沢哲夫 (請),蒔 田栄一 (高商講 師,庁商 同期 ),斉藤未知二 ‑斎藤 次郎 ( 一三銀行 勤務 ,庁商 同期),宇野長作 (請,島 田 に よる と高商 で多喜二 と同 期。ただ しそれ は卒業期 で ある。)で あ り,第 二韓 か ら武 田 過が加 わ った。

1 0

人 で ある 『クラル テ』同人 のあいだで,文学 的 な熱意 はなか なか はん も の にな らなか った(9)

蒔 田 は,東京外語 を出て高商 に赴任 して きた。ハ イカラで, 日々黒 い色 の ボヘ ミヤ ン ・ネ クタイ を しめて登校 していた。

この雑誌 には自作原稿 の合評会 を経 て載 せ るのが,不文律 で あった。 中心

(8 )武 田

クラルテ』時代」 (多喜二 ・百合子研究会編 『小林多喜二読本』新 日

本 出版 1 9 74 年)

(9

)土井大助 『小林多喜二』汐文社

1 9 79 年

(9)

は多喜二 で,皆 の文学研 究 はす ざ ましい ものが あった。「クラル テ」 は,小 林 多喜二 の代名詞 の ようなお もむ きが あった。 (武 田)

この雑誌 には, 「赤 い部屋」欄 が あった。 ス トリン ドベ ル グの同名 の小説 か ら取 った。かつて多喜二 は初 め卒業論文 をス トリン ドベ ルグ に しようとし たほ どであ る。 ここに,多喜二 は小説 「暴風雨 もよい」 (三 月筆) を出す。

島 田は言 う 拓銀 に就職 す る と,多喜二 は, また同人誌 を出そ うと言 い出 した。 当時小樽 で は,小樽 中学 を中心 に 『群 像』,短 歌 の 同人 誌 として は

原始林 』や 『新樹』 その他数誌 に及 ぶ ものが発行 され ていたが, この三誌 がや や形 をな して いた。 それ に 『極 光』 も目だ って いた, とも書 く(10)。 ほ か に も和 田寿夫や 中村善作 な どが 『創人』 とい う雑誌 を出 していた。他 [ 雑誌] は内容 的 には貧 弱 な もの ばか りだ った ので,多喜二 は,出 す か らに

は, 断然立派 な もの にしたい と考 えていた。

最初 多喜二 は, 同人誌 の題名 を 「断層」 にす るな どと言 っていたが,結局

「クラル テ」 とした。 島田 はその理 由を聞 いていない。 「特 にイズムが どうと い うことはなか った‑‑・。何 とつ けよ うか, とい う時 にち ょうどバル ビュス の小説 を多喜二が読 んでいて, それで‑・‑」 と,島 田は言 う武 田は言 う。

小林 自身 はバ ル ビュスの クラルテ運動 を ‑ そ うい う気持 ちが 奉った ろう ね. ただ, 同人 の顔 ぶれ は一様 でないか ら 俺 は好 きだか らとい うんで 『ク ラル テ』 に したんで しょうね

。」( l l )

売行 きの ことだが,発刊 の意気込 み は申 し分 ないのだが, あ ま り芳 し くな く, その穴埋 めはだいた い島田が した。

4

卒業 直後 の状況

野 口上之輔 (昭和

3

年高商卒)が 『北 方文芸』 の発起人 の中心 だ った。彼 は北海商業卒 だ った。高商生 た ちの編集 した 『北方文芸』 は

2

千部 くらい発

(10)嶋田 『小林多喜二全集』月報2

( ll)

北方文芸

』1 968 年 3

(10)

60

人 文 研 究 第

89

行 した。卒業後多喜二が小説 を寄せた。高商生 はほ とん どこれ を買 って読 ん でいた。 これ を知 らない と,高商で は話題 にな らなかった。多喜二 は後輩 の 高商生たちに影響 を与 えたのだ(12)0

高商生だった手 島 は,大正

13

年か ら昭和

2

年の状況 を描 く。「その頃の北 海道 は,経済界 の不況 に天災が重 なって,道内一帯 になん とな く物情騒然 と

した ものが あった。

札幌の町 な ど, そう思 って歩 いてみる と,何処 に行 って も演説会 とい うも の に打 ち当った。時 にアナーキス ト達 の集 ま りの場 合 な どは,血 だ らけに なった弁士が,物凄 い怒号 のなか を警官 にひ きず られなが ら飛 出 して くる と いった始末 で・‑・」 あった。

「‑‑‑新進気鋭 の先生方 とい うと,大 方 は自ら進 んで共々 にマル クス主義 に関す る講義 な どをや って くれていたのだか ら, そうした ことを綴 り合わせ て考 える と,静か なるべ き学問の堂 といえ ども,実 は世俗 の動 向に一切超然

とO う状況で もなか った ようで ある。」(13)

櫛 田民蔵 や大 山郁夫 の よ うな最先端 をゆ く学者 も,高商 の大講 堂 に現 れ て,正規 の講義 をした。大 山の演題 は 「政治 と文化 」 だ った。櫛 田は数 回に わた っての 「資本論」 の解説だ った。

後 の詩人 ・宮沢賢治が,多喜二卒業 の直後,高商 を訪れた。岩手県立花巻 農学校教員 で あった

2 7

才 の宮沢賢治が,修学旅行 の統導者 (引率者) とし て北海道 を訪れ,生徒 とともに小樽高商 を参観 した。大正

13

5

19日か

5

23日までの ことであ る

その修学旅行復命書 (抜粋) を見 てみ よう

午前九時小樽 に着,直 ちに丘上 の高等商業学校 を参観 す。案 内 に依 て各 室 を巡覧せ り,中 にはタイプライター練習室 と,並 びに取引実習室 の,諸会 社銀行税 関等 の各 金網 を緯 らせた る小模型 中 に於 る模擬紙 幣 に よる取 引 な

ど,農事実習 と対照 して甚生徒 の興味 を喚起 せ り,商品標本室 にては租 なる

( 1 2)

板垣与‑講話,小樽商大,1

9 9 3

年。

( 1 3) 『 緑丘 』41 号 1 9 ページ。

(11)

農業製造品 と精製商 品 との連絡 に就 いて参考 とな るべ き もの多 く,殊 に独 乙 の馬鈴薯 を原料 とせ る三十余種 の商品標本,米 国の各種雑穀物 を爽燕膨 張せ しめた る食 品等 に就 て注意せ しむ。十 時半 同校 を辞 し,丘伝 い に小樽公 園 に 赴 く。公園 は新装 の白樺 に飾 られ,北 日本海 の空青 と海光 とに対 し小樽 湾 は 一望 の下 に帰す。且 は市人 の指 す処,一隻 の駆逐艦 と二 の潜水艦港 内 に停泊 し多数交々参観 に至れ るを見 る ここ藤 に四十分間解散 す。大 な る赤 き蟹 を ゆでて販 る ものあ り,青 き新 しいバ ナナ を呼 び来 るあ り,身北海 の港市 に在 るの感 を深 む 生徒等バ ナナの債郷里 の半 ばに も至 らざるを以 て土産 に員 は んな どと云 う

‑ ‑

」(14)

5

ヴ ァイオ リン

多喜二 の父が, ある時,町 を歩 いてい る とき,米屋 の前 で小僧 さんが ヴ ァ イオ リンを弾 いてい るの に出会 った。 ヴ ァイオ リン とい うもの はいい ものだ な, と思 って,三吾 にヴ ァイオ リンを買 って あげたい と思 い,小樽 の古道具 屋 に行 った。 山田町の一角 に古道具 ばか り売 ってい る所が あった。

しか し,余 り高 いので買 えなか った。 その こ とを多喜二 に話 した。「三吾 にバ イオ リンを買 ってや りた いんだ け ど,高 い もんだ な」。父が そ うい った の は,町 に米屋 の番頭 さんで,仕事が終 る と 「宮 さん宮 さん」や 「美 しき天 然」 をバ イオ リンでギ コギ コや っていたの をきいて知 っていたか らで あ る 三吾 が まだ小僧 で住 み込 み に行 って いた時 だ った(15)。 しか し,父 は とう と

う買 ってやれない まま,死 んで しまうことになった。

高商 を卒業 して初 めて貰 った給料 の中か ら,彼 は古道具屋で古 いバ イオ リ ンを買 って,弟三吾 に贈 った。父が亡 くなって間 もな くの ことだ った。三吾 さん は言 う 「あ る 日,兄 は突然,本 当 に前 ふれ もな く,古道具 や か らヴ ァ

( 1 4 )

学園だより

』9 3

1 9 3 3

年,および高橋純解説

。1‑2

ページ。;『校本宮沢 賢治全集』にも, これに関する記事あ りと,野沢敏治氏。

( 1 5 )

小林三吉 「兄 の思い出

」(

小林多喜二全集』第

4 巻 月報 4 1 9 8 2

1 0 月)

1 2‑1 3

ページ。以下,口述文, と略記する。

(12)

6 2

8 9

イオ リンを買 って来 て, わた しにや れ とい うんです。」(16)手 塚 は,三吾 さん が音 楽 が好 きな(17), と書 い てい る だが,三吾 さんへ の イ ンタ ビュー に よ れ ば,好 きだ った わ けで はない。 それ までバ イオ リン とは全 く縁 が なか っ た, と言 う こ う して三 吾 がバ イオ リン を始 め た の は,大 正

1 3

( 1 9 2 4

午),

1 4

才 くらいの時で,多喜二 が銀行 に勤 め始 めてか らだ った。

多喜二 は父の話 を忘れ ないで いたのであるところが多喜二 は父 の考 え と は少 し違 って,買 ったか らに は趣 味 にや る とい うので はな くて,専 門 的 に ちゃん とや れ とい うので, 「それ まで にわた しの方か ら一度 だって ヴ ァイオ リンをや りたいなんてい ったわ けで はなか った」が,三吾 を小樽 の女学校 の 中川則夫 とい う先生 につ けて習わせた。 そ うい う点 はほん とうにテキパ キ と や ってあげた(18)。 「わた しにすれ ばな りゆ きで, さっそ く小樽 の音 楽 の先生

として は有名 だ った中川則夫先生 の教 えを受 ける ことになった」(19)0

バ イオ リンは,弾 くときに弓の毛 に松 ヤ二 を塗 る。弾 くと松 ヤ二が こぼれ て楽器 が よごれ るので,終 った ときにいっ し ょうけんめい に拭 き取 る 少 し 拭 けばいいのに,三吾 は小 さい ころだ ったか ら, ていねい にや ってい るの を 見 て,多喜二が志賀直哉 の 「清兵衛 と瓢箪」 を話 して くれた。バ イオ リンを 拭 いてい る姿か ら,清兵衛 が瓢箪 を拭 くのを連想 したので あろう。 それが と て もお もしろい話 だ った。 ところが,多喜二 が死 んで,ず っ とあ とか ら三吾 が作 品 を読 んでみた ら,淡々 としていて全然 おか し くなか った。多喜二 は, 当時 の三吾 に理解 で きるようにア レンジ して話 したので あろう。

三吾 は, 中川先生 についた。週

1

回通 った。

1

4

,

5

時間 くらい練習 し (20)。昭和

5

年 に上京 す るまで,ず っ とこの先生 に習 っていた 「もともと 音楽ず きな兄 で したか ら,銀行 か ら帰 って くる と, まず, わた しの練習ぶ り

(16)三吾氏,口述文。

(17)平塚英孝 『小林多喜二』上,新 日本出版。

( 1 8 )

口述文。

( 1 9 )

口述文。

( 20)

三吾氏の小生 とのインタビュー。以下,インタビュー, と略記.

(13)

や,進行状 態 をた しか め る とい う毎 日で した。」(21)

6

苦楽

就職 してか ら多喜二 は,家 に電話 をつ けた。大正

1 4

年 に小樽 の加入電話 は,3,

50 0

台であった。

小林多喜二 は高商 を卒業 して,拓銀 に就職 し, 月給 とい うもの をは じめて 貰 って,袋 ごと母親 に渡 した。母業削まそれ を仏壇 に供 えて、拝 んだ(21a).

多喜二 は また給料 か ら,蓄音機 を買 った。 これ は当時 あ ま りなか った。母 に,三浦為 三郎 の レコー ド, 「江差追分」, 「秋 田お ば こ」 を買 って上 げた。

す ぼ らしい ものだ った。母 はそれ を,朝里 か ら来 て帰 る行商人 たちに聞かせ た。

初 めて買 った レコー ドは, ダブ リ ・ベ ラの 「チ ゴイネル ワイゼ ン」 であっ た。次 は,1

2

イ ンチ盤 コロ ンビア の, トシア ・ザ イ デル のバ イオ リンで, ブ ラーム ス 「ハ ンガ リア舞 曲」, ドヴォル ザー ク 「ス ラ ブ舞 曲

2

番」 を 買 った。大 変 な感 動 で あった。 トシ ア ・ザ イ デ ル に つ い て は,江 藤 俊 哉

( 1 927‑)の父 が彼 に感激 して,息子 に 「としや」 と名 づ けた ほ どで あ る

当時 は, ク ライス ラー(22), メニ ューイ ン(23),ハ イ フェ ッツ(24)有名 だ った の に。

多喜二 た ちは,本 間 キ ミ, くのひ さ こ 「月光」(25)の レコー ドも聞 いた。

あ る時,多喜二 と三吾 と, いっ しょに映画館へ行 って,終 って外へでてみ た ら吹雪 になっていた。小樽駅 でみんな列車 を待 ってい る。 いつ くるか分 か

( 21 ) 口述文。

( 21

a)

桶谷秀昭 『 伊藤整』新潮社 1 9 9 4 年 5 7

ページ。

( 2 2 )Kr e i s l e r , Fr i t z( 1 87 5‑1 9 6 2 )

。オース トリア生 まれ,アメ 7)カのヴァイオ リニ ス ト

( 2 3 )Me nuhi n,Ye hudi( 1 91 6

‑).アメリカのヴァイオ リニス ト。

( 2 4 )He i f e t z , J as c ha ( 1 9 01 )

。ロシア生 まれ,ロシア革命後,アメリカにゆ く。ヴァ イオ リニス ト。

( 2 5 )

三吾,インタビューより

(14)

64

人 文 研 究 第

89

らないか ら,多喜二 は, 「歩 こうよ」 といって歩 き出 した。道路 は雪 で全然 見 えな くな って い るか ら,多喜二 q)足跡 をな ぞって離 れ ない よ うに して行 く。家 が建 ってい る所 で は鼻歌程 度 だ ったが,雪野 原 の何 もない所 へ くる と,多喜 二 は声 を は りあ げて,「マ ル セ イ エーズ」 な んか を フ ラ ンス語 で 歌 った。 それ はみ ごとな ものだ った。三吾 は,多喜二が赤旗 を もって向 こう へ歩 いて行 くような錯覚 をお こしていた。

多喜二 は,「ニーナ の死」や 「ジ ョス ラ ンの子守歌」, 「オ ・ソレ ・ミオ」

なんか を, ちゃん と楽譜 を もって歌 っていた。 それ らの楽譜 は,表紙 に絵 の ついた 「セ ノオ」 の ものが多か った。

三吉 が い っ し ょに絵 をか きに行 った り,海 へ泳 ぎにいった りす る ときに は, 田谷力三が うた った 「デ ィアポロ」 とい う 「岩 に もたれた ものす ごい人 は/鉄砲 片手 に しか と抱 いて」 とか, 「アル カ ンタラの医師」 とい う 「恋 の ために身 は とらわれ‑‑・波 をけ り風 をつ く,船人 には海 が家」 とかい うもの も歌 っていた。 それ らの歌 をうたいなが ら絵 をか く多喜二 の姿 は, とて もの どかで,楽 しそ うだ った。

多喜二が死 んでか ら,三吾 と母 と,阿佐 ヶ谷 を何 か買 い物 に歩 いていて, カル‑ ソ(26)の 「オ ・ソレ ・ミオ」 の レコー ドが聞 こえて きた。 そ う した ら, 母が 「そ ら, あんちゃんの歌 だ」 と言 って立 ち止 まった。学校 も行 かない母 が そのメロデ ィー を知 っていた のだ った。

多喜二 は, ゲーテの詩 ・チ ャイ コフスキーの作 曲 による歌 曲 「ただわが心 なや み きわ め」 (あるいは 「わが心 悩 みぞ知 らめ」) の楽譜 を買 って きた。

現在 は, 「ただあ こがれ を知 る [者] のみ [

] 」

となっている ものであ る。

それ は当時 の レコー ドには入 っていない ものだ った。 それ を, 「ち ょっ とサ ブちゃん, ここをひいてみて くれ」 とか, 「この高 い音 を出 してみ て くれ」

とかい うので,三吾 も協力 してや ったが,弟 の三吾 は, 「つ まらない よ 「あ

( 2 6 )Ca r u s o,En r i c o( 1 8 7 3‑1 9 2 1 )

。イタリアのテノール歌手,オペラの歴史的名 歌手。

(15)

ん ちゃん,だ めだ よ。 これ は レ コー ドに入 って な い し, うた うんだ った ら シューベル トとかブラームス とか, レコー ドにはいってい るのがた くさんあ る じゃないか」 とい った ら, 「いや, おれ, どう して も これ覚 え る」 とい っ て,彼 は これ を歌 えるようになった。 いつの まにか ものに して しまった。

1 9 7 8

年 に この演奏 を聞 いて,三吾 は とて も感 動 した。す ぼ らしい 曲だ っ た。 「あんちゃん, だ めだ よ」 と言 った 自分 の言 を反省 した, と。今 は恥 ず か しい くらいです, と言 う

三吾 は,朝 は仕事 だ ったが, あ とは暇 だ った。多喜二 は,三吾 のバ イオ リ ンを聞いて,一度 だ け 「きた ない [音 だ] なあ」 と言 った ことが あ る。

中川則夫 は,長橋 中学 で教 えていた。 また庁立高女で も教 えていた。小樽 音楽界 の重鎮 になった人 で あ る 彼 は何 で もや った。本 当の専攻 は,声楽 で あ るが,器楽, つ ま りフルー ト, ヴ ァイオ リン, ピアノを演奏 した。小樽 の 器楽演奏 を指導 した。作 曲 もした。今 で も歌 われてい る ものが あ る当時 中 川則夫 は庁商 に音楽教 師 としていて, ある 日,多喜二がや って きて,三吾 に バ イオ リンを教 えて くれ と言 って,連 れ て きた。多喜二 は,兄 弟 姉 妹 思 い だ った。純真 でナイー ブだ った。

多喜二 自身 もバ イオ リンを弾 いた。友人 の石本 さんに よる と, ひいたその バ イ オ リン は多 喜 二 の物 だった, そ し て か な りい い音 を 出 した, と言

ラ (27)。 ただ し, そのバ イオ リンは三吾 さんの ものだったか もしれ ない。

三吾氏 は,後 に札幌 の中島交響楽 団 に入 った。

多喜二 が警察 に捕 まって

,1 9 3 0

8

月 に東 京 ・豊 多摩 刑務 所 に収 監 され て いた時,札 幌 の交響 楽 団 にいた三吾 は,差入 れ に秋 に上 京 した。 「兄 を訪 ねたんですが,刑務所 の高 い コンク リー トの壁 を見上 げた ときは, まった く 心 がち じむ思 いで した。面会所 にはい って, 出て来 る兄 を見 た ら,予想外 に 明 るい顔 を してい るんです。 に こに こ笑 いなが ら, まるで 自分 の家 にで もい

( 27)

石本インタビュー.ヴァイオ リンが多喜二の ものだった,と石本氏 は前掲のよ うに言 うが,例の三吾 さんにあげた ものだったか もしれない。

(16)

6 6

8 9

るような感 じで話す もんですか ら,逆 にわた しの方が ジー ンときちゃって,

‑ 」(28),「その頃 シゲ ッテ ィ(29)とい うバ イオ リンの大家 が 日本 に来 る とい う こ とを聞 きま して,友 だ ち に聞 い て見 るんで すが, クライス ラーやハ イ フェ ッツ,エル マ ン(30)なんて一流 の大家 は知 ってい て も, シゲ テ ィに関 し ては誰 もよ く知 らないんです。何度 目かの差 し入 れの時 に,兄 にその ことを 話 した ら驚 きま したね。」多 喜二 はす で に シグ ッテ ィ‑ 世 界 的 に有名 な ヴ ァイオ リニ ス ト‑ を知 っていた 当時 は,専 門家 も彼 を知 らなか った 時代 で あった。多喜二 はその時, シグ ッテ ィを 「た しか,即物的 な演奏 をす るハ ンガ リーの近代 的 な演奏家 で,今, 向 こうの若 い者 に人気が あ るんだ」

と評 した。 「私 は, 自分 の不勉 強 に恥 じいった しだいです。」

その うち に多喜二 は,獄 中か ら関鑑 子 (あ き こ)(31)に三吾 の ヴ ァイオ リン の先生 を頼 んだ。関 は,橋 本 国彦(32)を三吾 に紹介 した。橋 本 は作 曲家 とし て も有名 だ った。

多喜二 は昭和

6

1

月 に,や っ と保釈 で解放 されて,阿佐 ヶ谷 の駅近 くに 一軒借 りて,小樽 か ら母 を呼 び,三吾 と三人 で暮 らした。

1

年半 くらいで, 多喜二 は地下活動 に入 った。母 は,兄が 「毎 日何 を食 べてい るか, それ ばか り心配 していた」。 その年

1 93 2

年 の

1 0

月 に, シゲテ ィが来 日し

,1 932

1 2

9日,新交響楽 団臨時演奏会 で ヨーセ フ ・シゲテ ィが近衛秀麿 の指揮 で 日

比谷公会堂で,ベー トー ヴェンの ヴ ァイオ リン協奏 曲 を演奏 した。 シゲテ ィ

の二度 目の来 日であった。 (みずの ・あ きよし調 べ)

( 2 8 ) 口述文。

( 2 9 )

シゲティ

( 1 8 9 2‑1 9 7 3 )

。ヴァイオ リン奏者。ハンガ リー生 まれ,ブダペス ト 王立音楽院に学ぶ。13才でデビュー。世界各地で演奏 し

,1 91 7

年 ジュネ‑ヴ音 楽院教授。1

9 2 5

年以降,アメリカに移住。日本へは

,1 9 3 2

年,1

9 3 4

年,1

9 5 3

3回,来た。ヴァイオ リン演奏で,ロマンチックな情緒 を排除 して,客観的態 度をとった。

( 3 0 ) El ma n, Mi s c ha ( 1 8 9 1‑1 9 6 7 )

。 ロシア生 まれ,アメリカのヴァイオ リニス ト。

( 3

1)関鑑子

( 1 8 9 9‑

)。ソプラノ歌手。1

9 2 8

年,プロレタ 7)ア音楽家同盟に参加.

( 3 2 )

橋本国彦

( 1 9 0 4‑1 9 4 9 )

。東京音楽学校本科講師,助教授,作曲の教授。1

9 3 4‑

3 7

年, ヨーロッパ留学。

(17)

ある人 が(32a),多喜二 と三吾氏 に この演奏会 の隣 り合 わせ指定席入場券 を 贈 り,二人 の最後 の対 面 を果 た させた。多喜二 は この時,非合法生活 をして

いた。

三吾氏 は回想 す る 「わた した ち二人 に とって これ ほ どす ぼ らしい演奏会 はあ りませ んで した。 あの頃 の兄 の仕事 の忙 しさ と,危険 を考 える と, とて も音楽 を聞 ける状態で はなか ったのですが,兄 は和服姿 で に こに こ笑 いなが ら階段 を登 って きました。久 しぶ りに元気 そ うな,前 と変 わ らない兄 の姿 を 見 て,私 はほっ とした ものです。 シゲテ ィの演奏 は実 に素晴 らしい もので, 第一楽章 の最後 のあた りで伴奏が止 み, ヴ ァイオ リンだ けのカデ ンツ アにな り, それが終 わ ってオーケ ス トラが静 か に入 って くる所 あた りのす ば らさ に,二人 は同時 に顔 を見合 わせた んです。」(33)実 に素晴 らしい演奏 で した。

第一楽章 が終 った とき, あ るい は第

3

楽章 の時(34),僕 は兄 の方 をふ りか え りました。す る と兄 は白いハ ンカチ を眼 にあててい るのです。感動 したんで すね。 それ を見 て僕 も, ジー ンと目頭が熱 くなって きて,思わず顔 をおお っ て しまい ま した。」 兄 の 目に涙 が見 られ ま した。私 も第 ‑楽章 が終 わ った 時,眼鏡 をはず し,ハ ンカチでそ うっ と目をふいて ました。ベ ー トー ヴェ ン の心 を これ程 み ご とに表現 で きる人 は,お そ ら くシゲテ ィ以外 にない と思 い

ました。」(35)

涙 をふいて僕 の顔 を見 なが らニ ッコ リ笑顔 を見 せ た兄 の姿 は忘 れ られ ま せ ん。」 三楽章 のヴ ァイオ リン とオーケス トラの何 回 も何 回 も くり返 し演奏

され るあのテーマ,最後 の ところ も, あれ を聞 いて兄 は,月分 の仕事 に ます ます力がわいて きたので はないか と思われ ました。」(36)

演奏が終 って公会堂 を出 る と, さっ き とは一変 して,≠よか った, よか っ

( 32

a)宮本百合子だったのではないか, という話 を小生は聞いたこともある。

( 33)

口述文。

( 34)

小林三吾,多喜二生誕

80

年 没後

50

年,小林多喜二をしのぶ夕べ,小樽。

( 3 5 )

口述文。

(36)口述文 ;

1 9 58

ンフレット (小樽文学館)0

(18)

6 8

文 研 89

た〝 と くりか えしなが ら,"いい演奏 だ った, さあ, これか ら仕事 だ, しご とだ,〟 といって別 れ てい き ました。 シゲ テ ィの演奏 を聴 いて力 が湧 いて き た とい った風 情 に も見 え ま した。」(37)手 を振 りなが ら階段 をお りて いった 兄, とうとうあれが最後 の兄 の姿 となって しまったのです。」(38)

後 に三吾氏 は, シゲ ッテ ィの指揮す る東京交響楽 団で, メ ンバ ー として演 奏 した。 つ ま り1953年 3月 に三度 目に来 日した シゲ テ ィは,同 じベー トー ヴェンの曲 を東京交響楽 団でひいた。丁度多喜二 の死 20年 目にあた った。

二吾氏 も,多喜二 との最後 になった対面 の 日の感銘 を,兄 を奪われたつ らい 思 い にか られ,泣 きじゃ くりなが らオーケス トラの‑貞 としてヴ ァイオ リン をひいた。 「兄 が生 きていてね, きいて くれた ら, それ こそ どんな に喜 んで くれた ろう と思 って」。‑楽章 のおわ りの あた りは涙が 出て,三吾 は楽譜 が 見 えな くなった

( 3 9 ) 。

7 父の死,家族

1 9 2 4

8

2

日,父 の末松 が小樽病 院 で死 去 した。多喜二 に家 のすべ て の責任 がかか った。多喜二 は, 「これか ら, おや じ,おふ くろに楽 させ よ う

とした の も束 の間で」,父 は 「腸 のや まいが もとで」 な くなった。多 喜二 が

就職 してわずか

4

カ月で した。漁村 や農村 にパ ンや大福餅 を行商 していた おや じに とっては,息子が銀行員 になった とい うことが どんなに自慢 だ った

ことか。行 く先々で,兄 の ことを話 して回った とい うことです。」(40)

多喜二 は姉 の結婚式 に出 なか ったのだが, そ うい うもの を無視 していたの で はな く,反対 で あ る。 あ るエ ピソー ドを,武 田 は語 る一 時期 , ぼ くと 毎 晩遅 くまで飲 み歩 いた ‑ とい うよ り話 し こんで遅 くなった。 ところが

ある日,電話 で,「今夜 は駄 目だ」 とい うんだ。 「今 日は親父 の法事 が あるか

(37)小林三吾,小林多喜二をしのぶ夕べ (小樽)0

( 38)

口述文。

(39)口述文。

( 40)

小林三吾口述 「兄,多喜二のヴァイオ リン」 (高橋利蔵 「小林多喜二の周辺」)

(19)

ら駄 目だ。 まっす ぐ家 に帰 るんだ‑‑

‑」( 4 1 ) 0

家 は, そ うぞ うしい家 だ とい うので近所 で も有名 だった。母 が字が読 めな いか ら,兄弟 みんなで母 に新 聞の記事 だ とか,本 を読 んで聞かせ る。

外 か ら帰 って きて, 「おれが先 だ」 とか 「私 よ」 とか いって,先 を争 って 自分 の話 を母 に聞かせ てや ろうとす る だか ら店 にお客 が来 てい るの も分 か らないでい る, またパ ンや まん じゅうを盗 まれた ことが よ くあった。 それで も,だれ もこん どは気 をつ けて犯 人 をつか まえてや ろ う とい う気 を もた な い。母 は,「なんばか は ら減 ってたんだべ よ」 といって, か えって盗 んだ人 に同情 してい る くらいで,大笑 い を した ことが あった。

三吾がバ イオ リンを弾 く。多喜二 は本 を読 んだ りしてい る 姉や妹 たち は とな りで勝手 な歌 を歌 い出す。 そんな とき三吾 も, 「バ イオ リンを弾 いてい る ときだ けみんなち ょっ と静 か に して くれ」 と言 うのが,バ イオ リンを勉強 す る者 には常識 だが,不思議 な ことに, そんな ことも全然 なか った。

多喜二 も, 「うるさい」 なんていった こ とはなか った。 ただバ イオ リンの 音 が きた ない ときに, 「何 だ それ は。 ひ どい音 だ」 とい った こ とが あ る れ にた い して,三吾 が,「いや練 習 の ときは下手 で も,演奏会 の ときには う ま く弾 くよ といった ら, とたん に多喜二が怒 って, 「練 習 で ちゃん と弾 け な くて, どうや って本番 で ほん とうの演奏 がで きるか」 とどな られた。 それ で三 吾 はぺ しゃん こになった。

その うちに,多喜二 も家 に二階, といって も屋根裏 だが,細長 い うなぎの よ うな もの をつ けた(42)。 そ うなってか ら,多喜二 もちゃん と勉 強 で きる よ うになった。多喜二 は,便所 へい くに も必 ず新聞か本 を もっていって,素手 でい くような ことはなか った。

当時,漁師 は漁が ない と収入が ないか ら,米 で も味噌 で も現金払 い をしな い。借 金 で買 って は漁 が あれ ば魚 で返 した り,現金 が入 れ ば払 う とい う風

( 41 )『 北方文芸』1 96 8 年 3 月

( 4 2)

後述の,瀧子が くる直前のことである。

(20)

7 1 0

人 文 研 究 第 89 輯

だ った。 それで,借金がた まる と,多喜二 の家 の前 を通 る時,漁師たちは顔 を反対側 に向 けて行 く。 それ を母 がかわ いそ うだ といって,家 に呼 んで, ど 馳走 してや った りした。

このあた りで は, 「本食」(42a)を食 べ るの は,水産学校 の校長先生 とかお医 者 さん級 の家 だ けだ った。一般 の人 たち は,代 用パ ンで間 に合わせ る。 こど もが はだ しで遊 び まわ ってい る家 の人 た ちは,代用パ ンす らなかなか買 えな か った。代用パ ンは,多喜二 の伯 父が発 明 した もので, ビルマ豆 (大豆 よ り

も少 し大 き くて うす赤 い豆) を砂糖漬 けに して,パ ンの中に入 れた ものだ っ た。他 に, あんパ ンだ とか, ク リームパ ンもあったが,代用パ ンだ けが とて

も売れていた。

多喜二 が銀行 にはいって,漁師 の とっちゃんなんか に,紅茶や 「本食」 の パ ンにバ ター をぬ った の を ご馳 走 で きる よ うになったが, そ うす る と相 手 は,バ ターの におい をかいだ り, 「砂糖入 れ るんか い, お茶 に」, なんていっ て,気持 ち悪 が って い る 多喜 二 が 「とっちゃん な あ, み ん な紅 茶飲 ん だ り,赤皮 の靴 は け る よ うにな らな くちゃ駄 目なんだ よ」 とい った。‑ 喜二 は銀行 に赤皮 の靴 をはいて行 った。漁師 は自分 で編 んだ草履 で,子 ども

ははだ しで歩 いていた時代 だ った。‑ 三吾 た ち はみ んな想 像 で きないか ら, げ らげ ら笑 って しまう。 そ うい うとき,多喜二 の顔 が ほん とにかな しそ うな表情 をしていた。

多喜二 は,外 での行動 とか 自分 の作 品 について,家 の もの には全然話 さな か った。帰 りが遅 くなる ときもあった し,銀行が終 ってか らだか ら,ずいぶ ん忙 しい とき もあっただ ろ うが,三吾 にはそ うい う話 はしない。 きっ と, そ うい う方面 に三吾が向いていない と思 っていたのだ ろ う。 しか し三吾 は,多 喜二が社会科学 関係 の本 を読 んで いた こ とは知 っていた。 「一 九二八 年三 月 十五 日 蟹工船 不在地主 と次々 に書 いてい る ころだ った。

三吾 と顔 をあわせた ときには,ただバ イオ リンの ことだ けだった。帰 って

( 42

a)食パ ンのこと。今で も小樽でその名で売っている店がある。

(21)

くれ ば,「今 日は何 時間練習 した?」 とか,三吾 の方 も 「今 日は四時 間や っ た」 とか嘘 いって,多喜二 を安心 させた ような こともあった。

兄 [‑多喜二] は心臓 が弱 い ことはなか った。小樽 にい る ころ,近 くの熊 椎 の海水浴場 へ よ くいっ し ょに行 った。平泳 ぎで ゆっ くり泳 ぐが, もう頭 が 見 えな くなる くらい遠 くまで泳 いでい くので,三吾た ちはハ ラハ ラさせ られ た ものだ った(43)

多喜二 がおか あ さん にさか らうような こ とは,「なか ったで しょう, きっ 母 も,子供 のい うことは何で もして くれた し。」 と,チマ さんは言 う(44)0

8

偽 手紙

片岡亮一 は,多喜二 の庁商 時代 の親友で ある。 また小樽高商 に も

1

年遅 れ で入 った。 さて片 岡の家 の近 くに小川医院 の小川郁栄 とい う美人が いた。片 岡 は美男子で あ り,片 岡 は彼女が好 きだ った。多喜二 は彼女が美人 だ とい う

ことを聞 いて,好 きになった。多喜二 は美人 にか ん して露骨 で あった。 とこ ろで彼女 は背が高か った。片 岡 はだか ら,多喜二 にたい して 「大木 に蝉 だ」

と言 った。

片 岡亮一 が, あ る女性 に思 い を致 して, その好 きな女性 との い き さつが あって,会 えないでい るの を,多喜二 が知 って,会 えるように工作 した。多 喜 二 は, その女 性 の名 で,片 岡 あて に手紙 を寄 せ, デー トの促 進 を はか っ た。多喜二 は茶 目気が あった。 これ は片岡が見破 ったので何事 もなか った。

多喜二 は志賀直哉 に傾倒 していた。小林 の

21

,

2

才 の時,大正

1 4

年 ころ だ った。 その秋,小林 が志賀直哉 をまだ 「卒業」 しなか った ころ,片 岡 は, その報復 に,志賀 の筆跡 をうま く真似 て,志賀直哉 の名 で葉書 を東京 の友人 に託 してわ ざわ ざ東 京 か ら投 函 させ, はな はだ念 の入 った いたず らをや っ た。 その文面 は, ちか い うち に北海道 へ遊 びに行 きたいが,講演会 も開 きた

( 4 3 )

小林三吾 「兄の思い出」 (小林多喜二全集』第

4 巻月報 4 1 9 8 2 年 1 0 月)

( 4 4 ) 『 北方文芸』前掲号。

(22)

7 2

人 文 研 究 第

8 9

いか ら,準備 がで きた ら日取 りな どを前 もって知 らせ て ほ しい, とい うので あった。

小林 が島田 に 「志賀直哉 か ら葉書が来 て近々北海道 へ行 く,行 った ら寄 る とい う こ とだ。来 た ら俺 の家 は狭 いが,来 て貰 って,皆 を呼 んで会 をや ろ う」 とその葉書 を見 せた。志賀か らは,前 に,小林 の 「駄菓子屋」 について 批評 を貰 った ことが あるので, その筆跡 を大体知 っていたので,島 田たち は

よろ こんだ。 そ して 『クラルテ』 の同人 に知 らせた。

島田が何 か のつ いで に,片 岡の ところへ ゆ くと, 「小林 が この頃喜 んで い ないか」 とい うので あ るそ こで志賀直哉 の手紙 の ことを話 す と, 「そ うだ ろうと思 って,俺 が書 いたんだが,わか らないのかな」 と 実 は片 岡の字 は あ ま り上手 で な く, ち ょっ と雅 味 の あ る書体 なの で,確 実 に志賀 の筆 跡 を 知 っていない島田た ちはだ まされて しまったのだ った。

小林 が それ を真 に受 けたの はい うまで もな く, さっそ く会場 の交渉や ら宣 伝 につ とめた りして返事 を出 した ところ,志賀 か らその ような ことを頼 んだ おぼえが ない とい う葉書が きた とか, その前 に片 岡が小林 のあ ま りに熱心 な 奔走 ぶ りにた ま りかねて とうとう白状 してあや まった とか, どち らかで あっ た。小林 は,片 岡 はけしか らん と言 って, その時 も大変 お こった。 しか し, 小林 はいつ まで も根 に持 つ とい うことはなか った。ただ し, そのた めに小林 が片岡 と一時で あったが絶交 した, と言 う人 もい る

( 4 5 ) 0

片 岡 は,後年, 日本銀行へ勤 め, ニ ュー ヨー ク支店へ行 き,札幌支店次長 にな り, その後,預金局長 になった

。7 0

い くつかで亡 くなった。

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武 田の 『ク ラル テ』 加 入

武 田が札幌で多喜二 をよ く見か けてい る ころ, 「友人 の

S

(46)が,小林 か ら こん ど 『クラル テ』 とい う同人雑誌 を出すか ら同人 になって くれ, なにか書

(45)片岡亮一 『緑丘』通巻42号,から。そして武田,島田の思い出か ら。

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私の推定では,新宮正辰。

参照

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