高齢者ケアのために
著者 浜渦 辰二
雑誌名 人文論集
巻 57
号 1
ページ A1‑A14
発行年 2006‑07‑31
出版者 静岡大学人文学部
URL http://doi.org/10.14945/00006881
高 齢 者 ケ ア の た め に
渦
は じめに
前作 において、筆者は、昨年秋 に参加 した「仏独ホス ピス とス ピリチ ュアル・
ケア研修旅行」 について報告す るとともに、そ こで出会 った 「倫理 と法」の間 題 について考察 を加 えた1。 と同時に、 ドイツで 「魂のケア (Seelsorge)」 が長 い歴史 とともに現代の医療現場 に定着 していることを報告するとともに、翻 っ て、 日本 にス ピリチ ユアル・ケアを普及 させ ることの困難 を指摘 し、そ して、
最後 に、キ リス ト教的なス ピリチ ユアル・ケア と仏教的な ビハーラを橋渡 しす る可能性 に触れておいた。
そ こまで来た とき、筆者は、4年前 (2002年)に、共同研究 「いのち とここ ろに関わる現代の諸問題の現場 に臨む臨床人間学の方法論的構築」の研究報告 書2で書いた ことを思い出 していた。すなわち、いま、「生命の世紀」と言われて、
生命科学 と生命倫理 とい う「いのち」 に関わる諸問題が さまざまに議論 される 一方で、「′いの時代」と言われて、「精神世界」や「癒 し」が求め られつつ も、「′い の病」とそれが引き起 こした多 くの事件がマスコ ミで騒がれ、「こころ」に関わ る諸問題 として さまざまに議論 されている。しかも、たいていは、「いのち」の 問題 と「こころ」の問題は、それぞれ専門を異 にする人々によつて論 じられ、
あたか も別々の問題であるかの ように扱われている。しか し、「いのち」の問題 の根底で私たちは「こころ」の問題 にぶつか り、「こころ」の問題の根底で「い のち」の問題 にぶつかることになる。両者を切 り離 して論ずるわけにはいかな いのではないか。 これが筆者の主張のポイン トであつた。
1拙 稿 「魂のケアについて一仏独・ホスピスとスピリチュアル・ケア研修報告一」(静岡大学人文 学部『人文論集』第56号の2、 2006年1月)参照。
2拙編著『 いのち とこころに関わる現代の諸問題の現場 に臨む臨床人間学の方法論的構築』(平成
12・ 13年度科学研究費補助金 。基盤研究(C)(2)研究成果報告書、2002年2月)参照。
辰
上述のよ うに、 日本 にス ピリチ ュアル・ ケアを普及 させ ることの困難 と、キ リス ト教的なス ピリチ ュアル・ケア と仏教的な ビハーラを橋渡 しする可能性 に ついて考 えるとき、 この ような 「こころ」 と「いのち」を繋が りのなかで捉 え るとい うことを思い出 したわけである。「ス ピリチ ュアル」 とい うと、「魂」や
「精神」の問題であ り、何か身体 を越 えて、あるいは離れて、天 に舞っていっ て しまいそ うに思 えた ことが、実は、身体の うちに、あるいは身体の底 に広がつ ている「いのち」へ と繋がつてい く問題なのではないか、そ して、そ う考えて い くとき、「ス ピリチ ュアル0ケア」を日本 に定着 させてい く道が見えてきた よ うに思 えた。以下は、その ような方 向に向か う思索を背景 に、筆者 自身、ひ と ごとではな くなつてきた「老い」と、「老い」に対す るケア (高齢者ケア)の間 題 を考えようとした試みである3。その際、筆者 にとつて手がか りになるのは、「ケ アの人間学」について考 えてきたことである4。「高齢者ケア」の問題 を考えてい
くこともまた、「ケアの人間学」の一つの大 きな課題 となるか らである。
1.『 ケア しケアされる存在」としての人間
人生はしばしば、マラソンに喩えられる。スター ト して折 り返 し地点を通つてゴールに辿 り着 くまで、山 もあれば谷もあり、楽 しい時もあればつ らい時もある。
競争相手 との駆け引きもあるかも知れないが、最後は、
自分 との孤独な闘いである。それが人生に似ていると い うわけだ。
昨年 (2005年)、 11月 20日東京国際マ ラソンで、高橋尚子 (通称Qちゃん)力 `復活優勝 を遂 げた ことは、まだ、記憶 に 新 しい。小出監督か ら独立 し、 アメ リカ・ コロラ ドで黙々 と 練習を重ね(写真1)5、35。7キロ地点でそれまで並んで走つて いた競争相手二人を振 り切 つて、独走す るシ‐ンは、 まさに 自分 との孤独な闘い と呼ぶ にふ さわ しい よ うに見える (写真
2)。 しか し、小出監督か ら独立 したQちゃんは、 ランニング
3本稿は、2005年 12月 7日、富士宮市社会福社会館にて、ケアサポー トみず き主催の 「一般講座」
として行われた講演の原稿に加筆 したものである。
4拙 編著『 〈ケアの人間学)入門』(知泉書館、21X15年10月刊)をもとに、「高齢者ケア」の問題 を 考える、 とい うのが筆者の講演のテーマであつた。
5以 下の写真1〜4は、朝 日新聞2005年11月 21日よ り。
写真2
パー トナニ兼任 コーチ、 トレーナァ、調理担 当の3人か ら 成る「チームQ」 を結成 して練習 に励み、本番では、スパー トをかける35キロ地点に父 と兄が待ちかまえて声援 しtゴー ルには母が待つていた (写真3).ゴールするシーンの写真 が示 しているように、 ゴールそのものが、走路 を確保す る 係員や ゴールテープ係、それ に国立競技場 を埋め尽 くした 観衆 に支 えられてあった (写真4)。 表彰台 に立つQちゃん は、 これまで 自分 を支えてきて くれた多 くの人々、の感謝 の気持ちで溢れていたはずだ。「自分 との孤独な闘い」とい う言い方は、自分 を奮い立たせ るための言葉ではあつて も、
マラソンランナーは、実は多 くの人々か ら支えられて初め 写真3 て、42.195キ ロを完走 して ゴールに辿 り
着 くことができるのだ。
その意味で、人生はむ しろ、サ ッカー に喩えるべ きか も知れない。フォワー ド がシュー トを打 つてゴール を決めるため には 、それ をアシス トする ミッ トフィル ダーがいなければな らない:自らゴール を決めることよりも、 ゴール をアシス ト す ることに、魅力を感 じるプレーヤー も
いる。で も、アシス トに至 る前の場面で、攻めの体制 を組み立て、空間のでき た ところに走 り込むブレーヤーにキラーパスを出す司令塔がいなければな らな いし、相手の攻めのボール を奪い取 り、守 りか ら攻めに切 り替 え、 この司令塔 にボールを渡すボランチがいなければな らない し、相手の攻めをつぶ し、ボー ルを奪い取 るディフェンダーが必要だ し、そ して最後 に相手のシュー トをこと ごとく止める守護神のキーパーがいなければな らない。チームのイ レヴン全員 がそれぞれの役割 を果た し、相手の動き とともに味方のそれぞれの動きに反応 し、お互いの役割 を生か し合 うことによつて初めて得点 に結びつ くことになる。
人生 もまた、それぞれの役割 を果たすチームワークだ、と言 える。チームワー クとは、お互いにケア しあ う関係である。
日本語の「人間」とい う言葉は、「人 と人の間」とい う意味を合んでいる。こ れは他の外国語 にはない、 日本人が誇 るべ き遺産だ と思 う。 この語は、私たち 人間が、人 と人 との間に生まれ、人 と人の間で生 き、人 と人 との間で死んでい
鶴 1晰1儡1響1椒躇 │;
写真4
く、 とい うことを含んでいるわ けだ。私 は、 自分一人で生まれてきた り、 自分 一人で死んでい くことはない (「生まれ る」とい う語は受身形だが、私たちは、
「な ぐられる」「けられる」が受身形だ と思つていても、「生まれる」 とい うの も受身形だ とは思 つていない)。 人か ら世話 をされて生まれ、人か ら世話を受 け て死へ と旅立つ ことになる。私たちは、ケアのなかで生まれ、ケアのなかで生 き、ケアのなかで死んでい くのではないだろ うか。
人間は、誕生の時 も、臨終の時 も、自分 自身で ことを済ます ことはできない。
他者か ら「ケア」 されることで、生 まれてきて、他者か ら「ケア」 されること で死んでい く。人間は、生 きている間も、他者か ら「ケア」 され、他者を「ケ ア」するなかで生 きてい く。人類の誕生の歴史を振 り返 つてみれば、「ケアしケ アされる」 ことによつて、人間は人間 となつた とい うことが分かる。
有名なネアンデルタール人の話を思い出 しておこう。イラク北部のシャニダー ル洞窟で発掘 された旧人ネアンデル タール人の遺跡のなかで、注 目すべ きは次 の二つの遺骨だった6。「1号」と名付 けられた遺骨 は、片腕 と片 目を失いなが ら も仲間や家族たちの 「ケア」を受けて生 きていた ことを示 していた。それは、
障害 を持つ仲間へのケアが行われていた ことを表 している。「4号」と名付 けら れた遺骨は、彼 らが仲間の死 を悼み、埋葬をし、花 を捧 げた ことを示 していた。
それは、死者へのケア とともに、やがて 自らにも訪れる死の認識 を表 している。
ヒ トの誕生にあたつて、 このよ うな 「ケア」の精神が大 きく働いていたわけで ある。
このような歴史を踏まえて現代を振 り返 るとき、「ケア」はさまざまな層をもつ ていることに気づ く。「ケア」は、ひ との「苦 しみ=苦痛 (pain)」 に向けられt ひ とを「苦 しみ」か ら解放 し、癒すための行為 と言 えるだろ うが、私たちの「苦 しみ」には、仏教の考 えにな らえば、「生老病死」とい う「四苦」の場面があ り、
これ らそれぞれの場面 と交差す るようにして、「苦 しみ」には、四つの層があ り、
それ に応 じて、「ケア」にも、四つの層がある。つま り、
1)physical(身体的)
2)mental(心理的)
3)social 吐 会的)
4)spiritual(ス ピリチ ュアル)
6NHKスペシャル『驚異の小宇宙 人体Ⅱ 脳 と心 1 心が生まれた惑星一進化―』参照。
とい う四つの層である7。 これ らは、人間がもつ多層性 (多次元性)を表 してい ると考えられ る。「人間的なケア (ヒ ューマ ン・ケア)」 は、人間がもつ この多 層性 (人間の全体性)に関わ らねばな らない。
それぞれ四つの層について解説を加えている余裕はないので、簡単に一言で 表現するなら、「身体的な苦しみ」とは端的に「痛い!」 と表現され、「′い理的 な苦しみ」とは例えば「悲しい」と表現され、「社会的な苦しみ」とは例えば「寂
しい」と表現 され、「ス ピリチ ユアルな苦 しみ」とは例 えば「どうして?」 と表 現 される、 と言 えよう。
日本人 にとつて一番分か りに くいのは、四番 目の「ス ピリチ ユアルな苦 しみ」
だ と言われている。 これ について、 も う少 し補足する と、 この苦 しみは、例え ば、次のよ うにも表現 され る。「なぜ、こんな病気 になつたんですか。特別 に悪 い ことをしたわけでもないのに」「死んだ後のことを考えると不安で眠れません。
本 当に天国や地獄があるので しょうか」「なぜ、死なな くてはな らないのか」「こ れまで、何のために生 きてきたのか、分か らな くなつた」「なぜ 自分が こんなに 苦 しまない といけないのか。この苦 しみ には何か意味があるのか」「死ぬのが恐 い」… …といつた具合である。
「ス ピリチ ュアル」とは何か、そもそも、「ス ピリチ ュアル」とい う語 をどう 訳すのか、 これ についてはさま ざまに議論 がな されている。「霊的」 と訳す と、
何だか 「幽霊」の話の よ うになるし、「精神的」 と訳 したのでは、「′心理的」 と の違いが分か らな くなるし、WHO(世 界保健機構)でも「ス ピリチ ユアル」
は「宗教的」と同 じではない、 とも言われている。窪寺俊之氏8は、心理的ペイ ンと宗教的ペインとス ピリチ ュアルペインとを、それぞれ重なるところを持ち なが らも異なる三つの輪で表現 している。あるいは、遠藤博之氏 (たんぽぽ診 療所医師)は、身体的ケア と心理的ケア と社会的ケアを、同 じように、それぞ れ重なるところを持ちなが らも異なる三つの輸で表現 した うえで、それ らを包 み込む よ うな輪 としてス ピリチ ユアルヶアを描 き、その全体 を トニタル (全人 的)ケア としている9。
しか し、「ス ピリチ ュアル・ペイン」、そ してそれ に対する「スピリチ ユアル・
ケア」をどう考 えるかは、最後 にも う一度戻つて くることにして、以上のよう 7世界保健機構 (WHO)の憲章 (1946年採択)の序文で「健康」とは何かを定義する際、また、
「緩和ケア」について定義する際に、これ ら四つの層が区別 されている。
8窪寺俊之『 スピリチ ュアルケア学序説』(三輪書店、2004年6月)参照。
9こ れは、A.コ呼crossとい う人の考えに基づいているとのことだ。
な Fヶァの人間学」を踏 まえて、「高齢者ケア」について考 えることにしたい。
2.育児 と介護のなかでの「人間の尊厳」
筆者は、昨年、53歳になった。先 に人生 をマラソンやサ ッカーに喩えたが、
ここでは、それを登山にた とえるな ら、山の頂上を越 えて、下山を始めた とこ ろと言えよう。そ して、 この年代は、育児 (「育児」は終わつても、「子育て」
は終わつていない)と 介護 と、両方か ら挟み撃ちになる、いわゆる「サン ドイ ッ チ世代」である。かつて、「育児をしない男を父 とは呼ばない」とい う標語が厚 労省 によって普及 された ことがあったが、では、「育児をしない男」を何 と呼ぶ か と言えば、「い くじな し」と呼ぼ うとい う名言 を吐いた人がいた。その後、こ の標語をもじって、「介護をしない男を息子 とは呼ばない」とい うパロディを作つ た人がいた10。 では、「介護をしない男」を何 と呼ぶか と言えば、それは「かい ごな し」だか ら「かい しょな し」と呼ぼ うとい うのは、筆者の提案である(ちょっ と苦 しいか)。 それは ともか く、筆者 自身は、F育児をす る男」だうた.し (今も
「子育て」か ら免れていない)、 今は「介護 をする男」にな りつつある (今の と ころ、「遠距離介護」だが)。 ここで、育児 と介護がそ もそも人間にとって どう い う意味をもっているか、を考えたい と思 う。
かつて古代エジプ トに、スフィンクスの謎 とい うものがあった。 ピラミッ ド の守護神であるスフィンクスが通 りかかる人に謎かけをして、それに答えられ なかった ら殺 して しま うとい うものだ。謎そのものは、形 を変えて、今でも子 ども向けのなぞなぞにも使われているので、 ご存 じか と思 うが、次のようなも のである。「朝は足が四本あって、昼 にな 熟
ると二本の足 とな り、夜には三本足 とな るものはなんだ?」 と。答えは、言 うま でもなく、「人間」である: .
このなぞなぞは、人間が、「幼」(子ど も)一「熟」(大人)一「老」(老人)と い う三つの段階をもつ とい うことを表 し ている (図 1)。 つまり、「幼」(第一の人
Юこの名言を吐いたのは、ともに樋口恵子だが、上野千鶴子『老いる準備一介護すること される
こと一』(学陽書房、2005年 2月、p。90、 p.164)を 参照。
生)は、「はいはい」ない し、せいぜい 「つかま り立 っち」(「すねか じり」も合 めて)の時期であ り、「熟」(第二の人生)は、「自分の足で立ち、歩 く」とい う 時期であ り、「老」(第三の人生)は、「つ え」とい う補助 (さまざまな補助手段)
があれば、立ち歩 くことができる (実際に立 ち歩かな くとも、補助を受 けて生 きていることも含む)とい う時期である。いま、注 目していただきたいのは、
このなぞなぞでは、人間を「熟」の時期だけで捉 えてお らず、「幼」も「老」も 同 じように人間の本質 に属すると考 えられている とい うことだ。
「幼」と「老」とは、「熟」との対比で言 えば、或る意味で似ている。つま りt
「幼」 と「老」は、生 きてい く (歩いてい く)のに援助 (ケア 0サ ポー ト)が
必要だ (単独で生 きることがで きない)とい う点である (別の意味では似てい ない ことについては、後述)。 高齢者 について「24時間要介護」 と言われるが、
その意味では、赤ん坊 も「24時間要介護」だ し、「寝たき り老人」と言われます が、その意味では、赤ん坊だって「寝たき り」に変わ りない11.還暦で赤いちゃ んちゃんこを着 るのは、暦 を一巡 した ら、赤ん坊 に帰 るか らとい うのは、あ く までその限 りでは、それな りに的を得た ところで もある。
人間のあ り方 として、「熟」のみな らず、「幼Jも「老」もそれな りの人間の あ り方だ、とい うことを認めることが大事なのだ。特 に、「幼」には大 きな期待 を寄せなが ら、「老」にはあきらめ しか見ないのは、人間を「幼」―「熟」二「老」
の全体のなかで捉 えることには反 している。「アクティヴ・エイジング」 と言 つ て、「老」になつても活発 に働 くとい うのは、気持 ち としては結構なことだが、
「老」 になつても「熟」のままでいたい と考えるとした ら、それは違 うのでは ないだろ うか。「老」になつて も「熟」の よ うにできる人はいいが、誰 もが 日野 原重明氏 の よ うになれ るわけではない。「老」には「老」な りの人生があ り、デー ケン氏 の言 う「第二の人生」12がぁる、とい うのが大切なのだ。言い換 えれば、「下 り坂の人生 (下り坂 を楽 しむ人生)」 の時期、「還 りのいのち」の時期がある、
とい うことである。
その意味で、1も うす度、人生 を登 山に喩 えたい と思 う。登山には、山を登 つ てい く時期、頂上で過 ごす時期、山を下 りて くる時期がある。それ と同じよう に、人生 にも三つの時期があ り、「幼」(第一の人生)の時期は、足元ばか り見 て登 るのに必死で、周 りが見えない。「熟」(第二の人生)の時期は、最 も見晴
11鷲田清一『老いの空白』
12ァルフォンス・デーケン
(弘文堂、2003年6月、20頁以下)参照。
『 第二の人生』(南窓社、1982年)参照。
らしがいいはずなのだが、そ こにいることを維 持す るためには、実は余 り周 りを見てい られな い。「老」(第二の人生)の時期は、山を降 りる 時で、始めて、景色が よく見えるよ うになるが、
気を付 けない と転ぶ、膝がが くが くする、最 も 危険な時期でもある。
人生 には 「下 り坂」の時期があることを認め
た うえで、大事なのは、その 「下 り坂」を どう 図2
降 りるかなのだ。それが急勾配の下 り坂 になるのか、なだ らかな斜面 になるの かは、努力次第の どころがある (図2)13̀っま り、一方で、「脳 の神経細胞は、
出生後は増 えない」「一 日に50万個以上の神経細胞が死 んでいる」「死 んだ神経 細胞は再生 しない」 といつた ことを耳にすると、悲観的 にな りかねないが、他 方で、「脳の神経細胞は大脳 に約140億個、小脳皮質に約lo00億個 ある」ので、
「一 日に50万個死んでいるとして も、80年間で150億個 に過 ぎず、つま り8割 以上が残 っている」「脳細胞の9割は使われていない」とい うことを聞き、さら に、「神経細胞は増えなくても、神経細胞同士をつなぐネッ
トワークは増える」「脳の可塑性」「一部には神経細胞が 増える箇所もある」 とい うことを聞 くと、年老いても、
脳細胞を使 うことが大事だとい うことが分かる。
もう一度、登山としての人生を描き直す と、右の図の 一つの山が1人の人生を表 し、誕生か ら登山・
下山を経て死 に至る過程が表 され る (図3)。 そ の次の山は、子 どもの人生 を表す。子 どもが 自 分の登山の山頂 に着 く頃には、 自分の人生はも う下 り坂 になつている (図4)。 振 り返 つて一つ 前の山が、親の人生 を表す。 自分か ら見ると、
自分の人生が山頂 に着 く頃には、親の人生 は下 り坂で、子 どもの人生が始まうたか と 思 つて、 しばらくすると親の人生が終わ る
ことになる (図 5)。 生
臓器の機能^活力︶
このようにして育児 と介護が続いていき、
暉 期 ‐ 生鮨 ――後生殖期 鱈生 ―――――――― く″命)………… 死一
死
図5
13田沼靖一『 ヒ トは どうして老いるのか―老化・寿命の科学』(ちくま新書、2002年12月)
一つ一つの人生が波の よ うになつ て、全体がいのちの連鎖 (生命の 海)を成 してい くことが、 この図 に読み取 ることができる(図6)14.
さて、 この ようにいのちの連鎖
死
図6
(生命の海)が見 えてきた ところで、いま一度、「幼」への育児 と「老」への介 護の問題 を振 り返 りたい。「幼」(第一の人生)とい うのは、育児 とい う「ケア」
を受 ける時期であ り、「老」(第二の人生)とい うのは、介護 とい う「ケア」を 受ける時期であ り、そ して、「熟」(第二の人生)とい うのは、育児 とい う「ケ ア」 と介護 とい う「ケア」 を提供す る「サン ドイ ッチ世代」だ とい うのが、先 に述べたことだった。も う一度言 えば、「熟」だけをモデル に人生 (人間)を考 えるのではな く、「幼」「老」 も合めた全体で人生 (人間)を考 えねばな らない とい うことだ。 したがつて、「人間の尊厳」 と言われ るものも、「自立・ 自己決 定」だけか らではな く、「ケア・サポー ト」 も合めて考 えねばな らない15。
このことが、「尊厳」の横軸 をなす、 と言 うことができる。「尊厳」 とい うの は、 自立・ 自由・ 自己決定 とケア0サポー ト (支援)との足 し算か ら成 るとい うことだ。一方では、 自己決定ができるよ うにサポー トす る必要があるが、他 方で、ケアの しす ぎは 「大 きなお世話」 になる。両者のバランスが大切 とも言 える。 日本の ことわ ざ (仏教用語)に、「眸啄同時」とい うのがある。鳥が卵か ら孵化す る時、ひなが内側か ら卵 を割 ろ うとす るのにぴつた りと合わせて、親 鳥が外側か ら卵 をつついて、卵 を割 るのを補助 してや る とい う事態 を指 してい る。親鳥が外側か ら無理矢理割 ろ うとす るとひなは死んで しま うし、ひなが内 側か ら努力 しているのに親鳥がサポー トしてや らない と卵が割れず に、 これま たひなは死 んで しま う。サポー トしない と駄 目だが、サポー トしす ぎては駄 日、
とい うことだ。同 じ事は、育児 とい うケア・サポー トのみな らず、介護 とい う ケア・サポー トについて も言 える。 と言 つて も、 これは、あ くまで、横軸 (対 人関係)における「尊厳」である。
14米沢慧『「還 りのいのち」を支 える一老親 を介護、看取 り、見送 るとい うこと―』(主婦の友社、
2002年 3月、35頁)に引用 された三木成夫『 海・ 呼吸・古代形象』(うぶすな書院、1992年)から の図。
15松田純氏が、 ドイツの生命倫理 を論 じなが ら、「人間は、 自由にして依存的な存在」 とい う考 え を紹介 しているが、これ もこのことに関わる。松 田純訳『 人間の尊厳 と遺伝子情報― ドイツ連邦 議会審議会答 申―』(知泉書館、200447月)参照。
他方、「尊厳」の縦軸 とい うものがある。それは、「時間」の観点か ら来る。
人間は、「今」にだけ生 きているのではな く、「過去」(記憶、思い出)と ともに、
「未来」(期待、希望)をもつて生 きている。ところが、(例えば、末期がんの)
激 しい痛みは、人 を「今」だけに閉 じこめて しまい、「過去」も「未来」も見え な くして しま う。そ こに緩和ケア (疼痛 コン トロール)の意義がある。「今」が
「過去」と「未来」を取 り戻す ところに、つま り、「意味」をもつた「物語」を 取 り戻す ところに、尊厳があるわけだ。
過去 と未来 に囲まれた「今」とい うところに、「人間の尊厳」の縦軸があるわ けだが、「時は流れる」とい う比喩のなかで、しばしば、「流れ去つたものは帰っ て こない (覆水盆 に返 らず)」 のだか ら、過 ぎ去つたものは どうしようもないの で、未来 にのみ可能性 と意味がある、 繭
と私たちは考えがちだ。それが、未来 の可能性 を沢山もつた 「幼」を大切 に しなが らも、未来 よりも過去が逢かに 多 くなつて しまった 「老」 に余 り価値 を認めることができない、 とい う事態 が生 じる。しか し、「時は流れない、そ れは、積み重なる」(写真5)16とぃ ぅ比 喩 もあ り、そ こでは、「過去は現在のな かに生 きてお り、過去が現在のなかで 意味を持つている」、したがって、「過去 にも意味がある」と考えられるのである。
「幼」の時期 には、未来 (期待・希望)が多 く過去 (記憶 0思 い出)が少な く、年を重ねるごとに、未来が減 り過去が増 え、「老」の時期 には、過去 (記憶 し 思い出)が多 く未来 (期待・希望)力ヽ少な くなる。過去 と未来 に囲まれた「今」
は、過去 と未来の総体か ら成 るとす ると、未来の多い「幼」と過去の多い「老」
は、「質」としては異な りなが ら、総体 としては変わ らない と言える。先に、「幼」
と「,を」はケア・ サポー トを必要 とするとい う点 においては似ていると述べた が、上 り坂 を登 つている「幼」と下 り坂 を降 りている「老」とは、「質」とい う 点ではまった く異なるわ けだ。 したがつて、両者を、未来への期待 とい う点か
らのみ、天秤 にかけるわ けには行かない。尊厳は、過去 と未来 を持 つた今のな
Юこれは、1991年の朝 日新聞で見たサン トリーウィスキーのキャッチコピーである。
写真5
かにある以上、未来を沢山もつ「幼」と過去を沢山 もつ「老」とは、「質」はまっ た く異な りなが らも、同 じだけの尊厳 を持 っているはずだ6
「人間の尊厳」 について、横軸 (対人関係)と縦軸 (時間)とい う、二つの 枠組みを論 じなが らも、最後 に、その枠のなかに注 ぎ込まれる「質」の問題 に 触れ ぎるをえなかつた。いわゆる 「QOL(ク オ リテイ・オブ0ライフ)」 の間 題である。この語は、「生活の質」 とも「生の質」 とも「人生の質」とも訳せ る が、̀「量」(長く生きる)ではな く「質」(よく生 きる)が大切だ とい うことを意 味する。 しか し、では、「質」とは何 だろ うか? それは、「こころ」が満た さ れる (満足する、納得す る)ことではないか、 と筆者は考 えている。前述の横 軸 と縦軸 とい う枠組みのなかで、ど う「こころ」力`満た され ることができるか、
それが「人間の尊厳」を保つ とい うことなのだ。では、「こころ」が満たされ る とは、 どうい うことなのか。
3日 高齢者ケアと認知症
もう紙数がないので、高齢者ケアについて、簡単 に触れたい。高齢者 (「老」)
のケアは、高齢者ケア とい うその場面だけで見ていたのでは、ただ闇雲なその 場 しのぎで しかな くなづて しま う。 しか し、それを、 これまで見てきま した よ うに、「誕生か ら死 に至 るいのちの物語」、さらに、「いのちか らいのちへ と循環 する大 きな物語」のなかに置いて見ることができれば、その場面がもつと大 き な脈絡のなかで見えて くるのではないだろ うか。その場面だけを見ていたので は見えなかった、ケアの意味が見えて くるよ うに思われ る。
簡単 に、認知症 にも触れてお きたい。周知の よ うに、2004年 12月 に、従来の
「痴果」とい う名称は、「認知症」に替 えられた。いま、認知症の問題ぬきに高 齢者ケアは考 えられな くなつてきている。現 に、65歳以上で認知症の人は10人 に1人と言われ、なかでも、アルツハイマー型がその半数 (20人 に1人 )と言 われている。ひ とごとではな くなつているわ けだ。その内訳 として、認知症の 2大類型 は、1)アル ツハイマー型 (脳の病)と、2)脳血管性 (もともと血管の 病)に分 けられ、類型 によつて異なるケアが必要 となる と言われている。
筆者が最近読んだ本で、大変良かつた とい う本 を2冊、紹介 したい。ガヽ澤勲 氏が昨年出版 した『 認知症 とは何か』17と、3年前 に出版 した『 痴果 を生きるとい
17小澤勲『認知症 とは何か』(岩波新書、2005年)
ぅこと』18でぁる。筆者が大変気 に入 つたのはt「外側か らの見方を越 えて」「認 知症を生 きる心の世界」を描 きたい とい う著者の姿勢だつた。小澤氏が問題 に したいのは、「痴呆 を病む人たちは、 どのよ うな世界を生 きているのだろ うか。
彼 らは何 を見、何 を思い、 どう感 じ、 どの ような不 自由を生 きているのだろ う か」とい うことであ り、そ こか ら、「痴果ケアには、痴果 を生きる一人ひ とりの こころに寄 り添 うような、また一人ひ とりの人生が透 けて見えるよ うなかかわ りが求め られる」 と主張 している。 ここで言われているのも、前述のよ うな、
横軸 と縦軸のなかで 「こころ」が満た され ることとして尊厳 を保つ ことではな いか、 と筆者には思われ る。
最後に、いま筆者が考えていることを疑間形で表せば、次のようになる。「ケ ア」は、「博愛」「献身」「自己犠牲」なのか?(確かに、そ うい う面がないわけ ではない。)それ とも、「ギブ・アン ド・テイク」(助け合い・相互扶助)なのか?
(確かに、そ うい う面がないわけではない。)「ケアす る」ことは、「ケア される」
とい う見返 りを期待 しての ことなのだろ うか。(確かに、そ うい う面がないわけ ではない。)しか し、「ケアする」相手が、「ケアしてもらう」当てのないよ うな ひ とな ら、どうなるのか。「ケア」の見返 り、とい うのがあるのだろ うか? そ れ とも、直接そのひ とか ら「見返 り」を期待できないにして も、ほかか ら「見 返 り」(給料)があるか ら (例えば、看護や介護を職業 としている人の場合)も
それで見合っている、とい うのだろ うか。(確かに、そ うい う面がないわけでは ない。)あるいは、「情 けはひ とのためな らず」 とい う諺 にある通 り、ひ とをケ アしておけば、それはめ ぐりめ ぐって、やがては自分がひ とか らケアされ る、
とい うことを期待 しての ことなのでだろ うか:(確かに、そ うい う面がないわけ ではない。)
いずれの答 えも、 もっともな ところがあるだが、筆者 には、 どうも、いま一 つ何かが違 う(何かが足 りない)ような気が している。「ケアす る」と「ケア さ れるJとい う関係のなかで、「ケアす る人」も、別の面では、「ケアされている」
とい うことがあるのではないだろ うか。初めの方で述べた 「ケアの四つの層」
を思い出 していただきたい。それ に基づ けば、或る層では「ケアす る」ひ とが、
同時に、別の層では「ケアされ る」ことがあることも充分考えられ る。「ケアす る」 ことが 「ケアされ る」 ことになることもある、 とはそ うい うことではない だろ うか。「ケア」が一方向的 と思われ る場面でも、ほん とうは双方向的になつ
18同『痴果を生きるとい うこと』(2003年)
ているのではないだろうか。
ここで、もう少 し示唆を与えて くれる考えを紹介 したい。水野治太郎氏は、「ケ アとは、大きな宇宙的営み と一体化することを求めるものである」19と述べてい た。広井良典氏も、「「私 とその人が、互いにケアしながら、〈より深い何ものか〉
にふれる」 とでもい うような経験を合んでいるのではないか」20と述べていた。
そして、前述の小澤勲氏の『痴果を生きるとい うこと』にも、次のようなくだ りがある。「労苦の多い長年の介護のなかで、彼 らが「聖なるもの」としか言い ようのない「なにか」に出会われるのではあるまいか。それはこれまでの人生、
考え方、感じ方を大きくゆるがすようなものですらある」 と。 さらに、小澤氏 によれば、この「聖なるもの」を、クリステイーン・ブライデン (認知症体験 の語 り部)は、「霊性 (スピリチュア リテイ)」 と呼んだが、小澤氏は、「生命の 海」 と呼んでいる。
「ケアする」ことと「ケアされる」こととは、単なる対人的な「ギブ・アン ド・テイク」の関係を越えて、それ らがともにその上で支えられているような
「何か」(大きな宇宙的営み、より深い何ものか、聖なるもの、生命の海 とよん だらよいようなもの)への関係のなかで初めて成 り立っているのではないだろ うか。何か「スピリチユアル・ケア」 と呼ばれる特別な 「ケア」力`あるのでは なく、「ケア」はすべてそのような「スピリチュアル」なものへ と通 じる何かを もつているのではないだろうか。そして、「こころが満たされる」こともまた、
このようなところに繋がつてい くのではないだろうか。
Ю水野治太郎『ケアの人間学―成熟社会がひらく地平―』(ゆみ る出版、1991年)
m広井良典『 ケア学一越境するケア、一』(医学書院、2000年)
おわりに
さて、 このように考 えて くると、「ス ピリチ ュアル・ケア」 とは、現世 に縛 ら れた 「′い」を越 えた 「魂」や 「精神」 に向かい、現世 を越 えた来世 (あの世、
天国、死後の世界)へと向かつてい く、キ リス ト教精神に支えられたものであ る必要はない。む しろ、「こころ」は「いのち」へ と繋がっていき、自分の人生 が 「いのちの大きな循環」21「生命の海」へ と繋がつてい くとい うこと、それを 感 じ取ることがケア となる、それが 「ス ピリチュアル・ ケア」だ と考 えること ができるのではないだろ うか。それは、 どこかで、私たちが慣れ親 しんだ仏教 的な考え方 に近づいているのではないか。
広井良典氏 は、キ リス ト教 と仏教の 「時間観」 を対比 させて、キ リス ト教は
「現象世界を 超越"の方向につ きぬける」のに対 して、仏教は「現象世界を 内在"の方向につ きぬける」 としていた2。 しか し同時に、両者は、「内容的 には互いに対立 しつつ も、人間あるいは個人にとつては両立ない し共存可能な もの」だ として、「キ リス ト教 と仏教 とは、一人の人間にとって 二者択一"の 関係 にあるのではな く、 したがつて、象徴的 に言えば、ある個人がキ リス ト教 徒であ りかつ仏教徒であるとい うことは可能なのではないだろ うか」 と問題提 起 している。そのなかで、「個々の宗教や教義 を越 えた、しかし人間にとって不 可欠な たま しい"の領域 に関わる次元」を 「ス ピ リチ ュア リテ ィ」 と呼んで いる。
私がいま模索 しようとしているの も、 こうい う方向である。そ して、 日本で
「スピリチ ュアル・ケア」を定着 させ る道は、 このような ところにあると、い ま筆者は考 えている。
劉新井満『千の風になつて』(講談社、2003年)
2広井良典『死生観を問いなおす』(ちくま新書、2001年)