国語科教育における根底的態度
稲 田 繁 夫
本紀要の昭和47年度第19号において,国語科教育の教科目標を設定する場合,その根拠を現 行法令から説き及ぼすことは,適切な方法ではないことを述べた。現行学校教育法第2章第18 条第4項および第8項は,直接国語科教育について規定した法律としては,児童・生徒の国語 実践能力の養成と,文芸についての基礎的な理解と技能の養成以上のことを付加していないの で,適切であるが,将来政治的,社会的変動によって,戦前のような法令が復活するとか,あ るいは別の政治的,社会的体制のもとで,それに応じた法令が生まれれば,われわれ国語科教 師は終戦後経験したように,現行の国語科の目標の根拠法令を批判して,新しい法令を根拠と して国語科の目標を説明しなければならないことになるであろう。それよりも,言語機能の本 質を見つめ,社会における言語機能を児童生徒の一人一人の上に発揮させることがたいせつで あることに注目して,言語機能の発揮ということに国語科教育の目標設定の根拠をおき,望ま
しい国語実践人の育成こそ国語科教育の任務であることを述べようとした。
ところで,このような目標を達成しようとする場合,国語科教育においては,教師はどのよ うな態度をもってのぞむべきであろうか。その根底的なものを,私自身の国語科教育の営みの 上に見つめ反省していきたいと思う。
1 国語科教育の領域
国語科教育の任務は,社会生活の場における聞き・話し・読み・書く言語行為が,それぞれ の機能を十分に発揮した,望ましい国語実践人を計画的に育成することにある。そして国語科 教育は,言語要素・言語技能の指導と,言語行為(言語行動)の指導との両面をもっている。
言語要素・言語技能の指導においては,指導内容(言語要素。言語技能〉の学年の発達段階に 対応する体系化や,教育技術,教育方法が大きな役割を持つが,言語行為(言語行動)の指導 の面になると,単なる言語技術指導や言語技能の指導ということだけではすまされない領域で ある。国語科で取り組もうとすることば(国語)は,他の教科における場合のように,ある内 容的なものを伝達するための,いわゆる道具として位置づけられるものではなくして,教育内 容そのものである。そしてそのことばは,言語主体から離れて,いわば客体的な実体として存 在し,言語主体がこれを運用するという関係ではない。ことばは主体の言語行為(言語行動)
そのものである。であるから,ことばは深く言語主体の心から出発し,音声・文字を手毅とし て表出される。ことばは話材と聞き手を含む場面の制約を受けながら行なわれる主体の行為で あるから,国語においては国語の行為者である主体一般である日本人の国民性,民族性と深く かかわり合いをもつ。言語主体は,言語成立の一切の根源であって,ことばは主体によって性 格づけられる。「ずけずけものをいう」「控えめにものをいう」などの表現態度は,主体の性 分,性質にもより,教育や修養によっても養われる。聞き手を含む場面や話材も,また,主体 によって見られる場面であり話材であるから,主体がこれらにどのように対するかが,主体の ことばに刻々に反映していくものである。言語表現における技術も,主体が表現を調整する能 力と考えることができる。
このように考えると,国語科で取り扱われることば(国語)は,他の認識的な教科と異な
り,教師と児童・生徒のそれぞれから,対象的に眺められるものではなくして,それぞれの主 体の聞く,話す,読む,書く言語行為そのことが問題にされるのである。国語科教育の二領域 のうち,言語要素の指導の面においては,対象把握的,認識的な指導操作も行なわれるが,全 体としての具体的なことばは,言語要素・言語技能と言語行為(言語行動)とは分離できない 未分の全体として行なわれるのであり,従って国語科において,この二つの領域を分けるの は,観念的,指導技術的操作によるものである。
ここで言いたいことは,ことばは深く言語主体の人間性とかかわり合っており,国語科は言 語要素・言語技術的な面の指導を含みながら,もっとも人間性豊かなことば(国語)の実践人 を育成することであるとすると,国語科教育にのぞむ教師は自分自身の言語行為を真に人間的 なものにしようとしているかどうかが,国語科教育の成否を決定する根底的な態度として自ら 問わなければならないと思うのである。
2 言語行為者としての国語科教師
国語科教育においては,戦前・戦後を通じて他教科以上に教師論が重視されてきた。他教科 の多くは,自然界の現象とか人間界の現象を知識として,児童・生徒に授けることによって,
彼等に自然・人事に対する関心をよび起こし,これを観察認識する能力をつける,つまり観察 の対象を児童・生徒と結びつけることに教育の目的がある。これに対して国語科は児童・生徒 が生まれながらにもつている,聞き・話し・読み・書く言語力(態度・技能)を適当に伸ばす のが第一の任務である。つまり望ましい言語行為者(言語実践者)を育成する教科である。従 ってまず何よりも国語科教師自らが,望ましい言語行為者(国語実践者)でなければならない
であろう。
ところで,戦後昭和25年度に全国8地区で開催された文部省・地元国立大学・地元県教育庁 共催の「全国国語教育指導者研究集会」のある地区で, 「国語の良い指導者はどんな条件を備 えていなければならないか」というのがあり,4日間の討議の結論項目が23項目にわたってま とめられているが,国文学・国語学・哲学・芸術などの専門的教養や話す技術,学習指導法な どの教育技術についての専門的教養などの各方面にわたっていても,望ましい言語実践人とし ての,言語行為者としての人間性から出発した言語態度については触れていない。
昭和27年度の国語科教育指導者講習(IFEL)の研究集録においても, 「国語科教師のあり 方」について,国語科教師の教養を国語の専門的教養と指導技術の練磨,国語科教師の活動の 分野に分けて分析しているが,国語教師その人の人間性と根底的にかかわる言語行為者として の言語態度が取りあげられてはいない。
国語教師論は今日まで,国語についての専門的教養や指導技術とともに,児童・生徒に対す る教育学(価値可能性を引き出すところがら出発する思いやりとか,いたわりの心)について 論じられてきた。それは古くは大正年代に遡る芦田恵之助の「同志同行」 「師弟同行」の主張 や,昭和初頭の生活綴り方の主張と実践に見られる。しかし子どもへ愛情をもって語りかけ,
話し合うという必要性を説くことで終り,国語教師自身の国語教室だけでなく,校内外におけ る全生活の中の言語行為者としての態度が取りあげられていない。この点,昭和46年全国大学 国語教育学会第40回東京学会のシンポジウム「新しい国語教師像」の提案者,横浜国大の田近 洵一氏の発表ωは注目すべきものであった。氏は国語科教師としての生徒との関係は,被教育 者への思いやりとか融合とかいう一般的な教師論としてではなくして,ことばを扱う国語教師 の基本的な問題として,とらえられた。そして,国語科教師は,まずすぐれた言語行動者でな
ければならないといわれる。どのような点ですぐれた言語行動者でなければならないのかとい うと,演説のうまい人,名文の書ける人,詩歌や小説のつくれる人,それらがそのまますぐれ た言語行動者であるとは言えない。言語行動を通して,人間を理解し,人間関係の真実をとら え,自分をとりまく状況を変革できる人間を像としてえがき,そこに思いやりの問題を重ねて 見ておられるのである。
今日まで国語科教育においては,いかにうまく読みとるか,あるいは表現するかの指導は綿 密になされてきた。戦後,言語の社会的機能ということが強調され,言語の伝達,コミュニケ ーションについて言われ,マスコミュニケーションについて理解をもつとか,情報化時代,情 報社会といわれる現代社会に対応するためには,これらの情報を操作処理する技術的な処理能 力や知識については取り上げることが多い。しかし,うまく表現したり,正確に読みとればコ ミュニ・ケーションは成立するものだという前提に立ち,その前提は吟味されるまでもない当然 のこととされてきたのである。
ところが,この数年来の学園紛争の体験を通じて思い知らされたことは,学生の活動家の一 群と60細砂の教授会が,犯数時間にわたって話し合いをしても,了解には到達しなかったとい
うことである。ことばのやりとりが行なわれたことだけを,コミュニケーションの成立という ならば,それは長時間にわたるコミュニケーションの成立であるが,ことばは容易に通じない ものであることを思い知らされただけであった。どれほどことばの選択に苦心し,言い廻しに 気をくばって発言しても,ある時は発言を無視され,ある時は発言を中途で押えられるだけ で, ことばはナンセンスだ という言語不信の反応が返ってくるだけであった。活動家のリ ーダーは,話すことの言語技能は優秀で能弁であった。このことから考えると,表現,理解の 技能だけでは真のコミュニケーションは成立しないことを,つくづくと感ずるのである。
時枝先生は言語における伝達成否の条件について詳説され, (国語学原論続篇,第二篇各論 第一章)伝達の完全な成立のためには,常に表現者と理解者とが伝達を成立させようとする意 志と努力によることを述べられたが,ここに挙げられた条件だけではまだ足らないものを感ず る。伝達つまりコミュニケーションにのぞむ話し手と聞き手の相互に,その根底的態度とし て,相手の立場に立って問題をとらえてみる契機がなければならないであろう。加藤秀俊氏
(人間関係一昭和41年)はコミュニケーションにおいて,「相手の身になる」ことの重要性を 取り上げられておられるし,また,田近洵一氏は「言語主体における視座の転換」ということ で言われている。それは,「自分を,自分と対立する他者の立場に置くことにより,独善的自 我に陥るのをおさえ,主体の確立を図ろうというのである。」そして,国語科教育における視 座の転換は,まず国語科の教師自身の問題でなければならない。」とされるのである。
現代における人間問題の課題は,「俺が悪かった」と絶対に頭を下げないところにあり,人 と話が通じないのは,自己を正当化しているもの同志であるからである。漢字の「我」は字源 的には「手」と「父」との会意文字である。つまり,手に父を持って他人に対している姿が
「我」である。入間は我以外の一切の他者を,親疎,好悪,善悪,愛憎の念で眺めている。親 鷺は人間のこの深刻な問題に対決された。彼自身弁円理への怨親の情をいかんともしがたく思 いながら,「一切の有情は,みなもて世々生々の父母兄弟なり」と見えるような光,智恵を見 つけようとした。何十万年かの長い人間の歴史は四型億の人々が,未来にばかり幸福を求めて 流転戦時し,足下に眼を開き,自己の現実に回帰して,その身の生きているところ,即ち現在 のただ中に自己充足の世界を建立する心境を開顕していくことが,真の幸福であることを見出 し得なかったことの歴史である。発展といい進歩といっている今日の私たちの現実の中に,一
度それに気づいて振り返ってみると,人間の歴史は,痛ましさに耐えられないような,深い人 間の悲しみが貫いている。そして,その歴史の先端に立っているのは,この私自身であると思 うとき,「一樹の蔭に宿り,一河の水を掬ぶも他生の縁」「一;期一会」という意味の深さが実 感されてくるのである。ま一して,悠久の時間の中で,ほんの一瞬に過ぎない短い人生を共に生 き, 「袖ふり合う」て,ことばを交す因縁の深さを思うとき,愛憎の念を越えた広い世界に立 っての,ことばのやりとりが行なわれなければならないであろう。
道元禅師の正法弓蔵四摂法は,禅宗曹洞宗の成仏道一人間完成の実践方法論として,徹底し た利他主義の実践箇条として,宗門において厳粛に守られていたものである。それは布施,平 語,利行,同事で,布施とは惜しみなく,求めるところなく与えることである。キリストの
「右手で与ふるところを左手に知らすな」と通ずるものがある。利行とは「骨筆等しく利すべ し,自他同じく利するなり」というように,布施実現の一環としての行動をいっている。略語 とは布施実現の一環としての言語行為で,事事とは布施,愛語,利行を可能にさせる地盤,立 場で徹底した自他一体の境地である。西尾実氏は同氏が戦前編集された岩波版の中等国語教科 書の第一課に,自ら執筆されて「生きた言葉」という文章を載せておられたが,氏の言われる 生きた言葉とは,相手を生かし,従って自らを生かすことばである。それは道元禅師の「愛 語」についての考え方から出発されたものである。成仏道(人間完成)における言語行為は,
衆生をみるに,まつ慈愛の心をおこし,顧愛の言語を施すなり。
とあるように,何人に対しても心から慈愛のことばをかけることでなければならない。親疎好 悪の差別から離れて,すべての人に話しかけるときは,
慈念衆生猶如赤子の思ひを蓄へて言語するは愛語なり。
赤子とは一般的な乳幼児をいうのではなく,浬桑経に言う「一子地」である。十方衆生,一 切の他人に対し,かけがえのない自分自身の一人子に対する心でのぞむということである。同 じく浬桑経には「一子地は即ち削れ仏性なり,仏性は即ち是れ如来なり」とあるので,一切衆 生を傷む仏の心をもって,凡ての人に話すことが「愛野」である。このような言語表現行為 は,美辞麗旬を並べるとか,言葉を飾るとかいう,真心から離れた言語技術的な操作によって 生まれるものでもなく,また,真心から離れた八方美人的な言語表現行為から生まれるもので
もない。
愛語は愛心よりおこる。愛心は慈心を種子とせり。
とあるように,言語表現行為の根底的態度にかかわるもので,愛憎は慈心から出発する。慈心 とは肉親間や,恋人,親友間だけの狭いものではなく,生きとし生けるもの凡てに対する没我 の愛である。天下菩薩の浄土論を註した曇鷺の浄土論註には「一切衆生の苦を抜く慈といひ,
楽を与ふるを悲といふ」とあるが,竜樹菩薩の智度論には,これが入れ換っていて「大慈とは 一切衆生に楽を与へ,大悲とは一切衆生の苦を抜く」となっている。いずれにしても慈悲は仏 道の正因であり,観無量寿経に「仏心は大慈悲これなり」とあるように,仏道の精神は慈悲心 である。愛ということばより,慈悲ということばの方が,仏心を表わすのに適切である。愛と 憎しみは表裏をなし,愛は常に憎しみを伴っている。むしろ愛と憎しみとは同居している。愛 憎というように,あるいは「可愛さ余って憎さ百倍」という反対語と対をなした言い方がそれ を示している。慈悲とは苦しみの中にある相手の座まで降りて行き共に苦しむ境地に立つこと である。慈悲の心がなくなれば,仏教はなくなる6教育も成り立たず,人間そのものが成り立 たなくなるであろう。愛語はこのように慈悲心を種子としているので,そこから出発する言表
の効果は,
向かひて愛野をきくは,面を喜ばしめ,心を楽しくす。向かはずして平語をきくは,肝に銘 じ,魂に銘ず。
となり,
怨敵を降伏し,君子をして和睦ならしむる。
のは,韓語を根本とするのである。そして,国語科教育にとって注目すべきは,
連語を好むよりは,ようやく蜜語を増長するなり,しかれば,日ごろ知られず,見えざる愛 語を現前するなり。
つまり,好んで愛語することが,愛馬することに努めることが,いよいよその人の頭語的言語 生活を向上させ豊かにさせることになるのである。そのような愛語の至高な姿は,
愛語よく廻天の力あることを学すべきなり。
という力を発揮するのである。真心からのことばが,自分の命を奪おうとする邪悪の相手を感 動させ,刀を投げ棄てて拝撃させるということはあり得ることである。
国語科教育においては,一切の人々に対して,このような愛語する国語生活の実践者を育て ることである。したがって国語科教師は国語科教室におけるだけでなく,校内外,家庭生活か ら一切の社会生活において下旬に努め,愛語を身についたものにしていくことが,国語科教師 の教育にあたる前提的な根源的な態度でなければならない。
世阿弥は風姿花伝序に「稽古は強かれ,学識はなかれ」と言っているが,謬識とは卓識とも 言い,自分勝手な慢心から生ずる争い心である。申楽の稽古において,主観的な自己主張より も,あくまで稽古実践に精魂を傾けよとの教えと思われる。また,歎周回第十二章で「当時専 修念仏の人と,聖道門の人と,法論をくわだてて,わが宗こそすぐれたれ,人の宗はおとりた りといふほどに,法敵もいできたり,諺法もおこる。これしかしながら,みつから,わが法を 破廻するにあらずや」といっているが,世阿弥のいう謬識心による,自己を是とし他を非とす る発言が,反って自らを傷つける逆効果をきたすことを言ったものである。だから,宝積経を 引用して,「豊里のところにはもろもろの煩悩おこる,智者遠離すべし」と言い,さらに,
「今の世には,学問してひとのそしりをやめ,ひとへに論義問答をむねとせんと構へられさふ らふにや」つまり人に物を言うとき,「構へ」て言う,相手を言い負かそうとする発言態度 が,人間関係における対立を引き起こすものであることを,いみじくも指摘している。自と他 との対立の世界から,自他を越えた世界へ転回させる契機は,「構へ」て物を言う態度から離 れるところにあることを教えているのである。
蓮如上人御・一代聞書に
信を獲たらば同行に荒く物を申すまじきなり。触光柔軟の願(第53願)あり。また,信なけ れば我になりて詞も荒く謬ひも必ず出来るものなり。あさまし,あさまし,よく心得べし。
人間完成の理想的な人間像は「身意柔軟」でなければならない。その言語行動は荒く物を言う 姿であってはならない,と言われるのである。
歎異抄総結文にも,
念仏申すについて,信心の趣をも互に問答し,人にも言ひ聞かするとき,人の口をふさぎ,
相論をも絶たんがために,全く仰せにて無きことをも,仰せとのみ申すこと,あさましく歎 き存じ候なり。この旨をよくよく思ひとき,心得らるべきことに候。
とあるが,これも「構へ」て言う態度;言い負かそうとする言語態度を戒めたものである。
このことは「聞く」という言語行為についても同じく言えることである〔2)。真に聞くという 機能を発揮するのには,自己の成心を捨て,全く白紙の立場になって,相手の立場に同化しな
ければならない。相手の言い足らぬ所は心内で補い,言いおおせさせ,聞きとどけ,聞き分 け,聞きさばく。このような聞きが成立するためには,相手の人間性に対する尊敬,寛容,信 と愛が聞き手の心の内面を支えていなければならない㈲。顔が異なるように,意見の異なる他 人のあることは当然のことと認め,話し手の意のあるところを安心して言わしある。ここに聞 くという働きが聞き手の人間形成の効果をもたらしてくるのである。対話は相手を説得すると いうよりも,聞き手自身,自己の蒙を啓いていくことに,その意味を見出していくものと考え なければならない。大無量寿経によると,法蔵菩薩が一切衆生救済の誓願を立て,更に重誓偶 を述べ終った後,「和顔愛語」「その光に触る者は身意柔軟」とあるし,歎異抄第16章にも,
仏の光を仰ぐものは,「柔和忍辱の心」になると教えている。柔和忍辱の心というのは,柔和 は硬直でもなく柔弱でもない,健全な心持ちということであり,忍辱の忍は認証する,つまり 相手の立場を認識する,判るということであり,忍ぶということである。つまり正しい法,正
しい人間の生き方が判ってくると,忍ぶカがっき,外界の恥辱を忍んで怨を報ぜざる境地が見 つけられてくるというのである。このような聞きが磨かれると,たとえ針を含んだ相手のこと ばも,仏のことばと聞こえてきて,聞き手に恩讐二つながら乗り越えた境地が開発されてくる のである。毎日新聞の余録欄によると,最近他界された小汀利得氏について,細川隆元氏は
「何でも知っておられながら,人が話すとき そうかい,そうかい と,初めて聞いたことの ように,うなずいておられた」ということであった。昔から「話し上手より聞き上手」という ことが言われているが,真に民主的な社会を成立させるのには,社会の成員すべてが,このよ うな「聞き上手」に教育されなければならないといえる。
国語科教育は以上のような言語生活面,言語行為者,言語実践人を作っていくのが,その第 一義的任務であるから,国語科教師は指導における指導技術的な面だけでなく,それよりもさ
らに根源的に,教師自ら, 「国語生活実践道」ともいうべき黙道 の人として,自らの言語行 為に面折でなければならないと思うのである。(47.7.27)
注 (1)全国大学国語教育学会「国語科教育第19集(昭和47年ろ、月)」
(2)第51回全国大学国語教育学会(昭和41,9・28千葉大)発表一聞くこと,話すことの教育の構造。中
学校の聞くこと,話すことの教育内容の構造化(長大教育学部教育科学紀要第16号一昭和44年5 月)㈲ 古田拡氏「ききかた」刀誓書平編国語教育講座第4巻