戦後循環の特殊性に関する覚書
前 田 豊 昭
恐慌理論特に戦後の景気循環に関する論丈は実におびただしく,その混迷状態は恐慌理論に過剰 生産恐慌が生じているとまで評されるに至っている。しかしこの循環・変動をめぐる数多くの論争 は,論争そのものの無益;さを示すものではなく,逆に現実の厳しい要請のもたらしたものであり,
事態の重要性を表明するものと云ってよいであろう。すなわち,急速に変化し発展する現実は,わ れわれに既成の概念に閉ちこもり,形骸化した理論に安住することを容さず,新たな理論的創造を せまっているのである。
ここでは,多岐に亘って行われた戦後循環に関する諸論争を整理することは省略し,最近斬新な 見解を発表された富塚丈太郎氏の所説を一つの典型として検討することによって問題の所在を探る ことにしたい。当面の課題は富塚氏の見解の論理購造の究明と批判を通じてわれわれの方法論を模 索することであり,戦後循環に関する実証分祈の基礎理論を確立する手掛りを得ることである。
富塚氏はその労作「現代資本主義と恐慌」(経済評論1963年8月号)において国家独占資本主義 の下で「周期的恐慌という解決形態が消滅」することを宣せられ,また先に発表された二丈「国際 牧支の危機と資本蓄積」(同上1961年1月号)では,日本特有の「構造山国三二支問題は存在しな い」と断定されている。前者は戦後循環に関する一般理論であり,後者は日本経済の現状分析に関 するものであるが,この二つの論文は外見以上に密接な関連をもっており,両者を結合して考察す ることによって同氏の理論のもつ性格が明確になるであろう。勿論,従来の常識的見解に鋭く挑戦 する同氏の積極的な問題提起は高く評価するものであるが,それだからこそ更に徹底的な検討が必 要と思うのである。問題を明らかにするため,まず以下において,同氏のいう恐慌の古典的形態に ついて述べよう。
恐慌の本質について氏は,恐慌とは「資本主義生産に固有の矛盾の爆発であり,この矛盾の一時 的暴力的解決⊥と考えられる。では資本制生産の内的矛盾とは何か。それは「生産力の絶対的発展 傾向と資本の価値の維持と増殖のみを目的とする諸関係との矛盾」である。そこで氏は恐慌の原因 を利潤率の低下に求められる。すなわち,恐慌とは「資本の蓄積に伴う利潤率の低落が現存資本価 値の減少を強制してくる過程で,そのような価値減少が強力的に遂行される形態」である。
恐慌の古典的形態については,「自由競争段階では,商品の全般的過剰生産は,資本の全般的過 し
剰生産を意味し,それは恐慌と恐慌による資本価値の破壊をもたらす。これが産業循環の周期を画
する周期性恐慌であり,資本制生産の内的矛盾を一時的にかつ一挙に解決する古典的形態であっ
た」と述べられる。すなわち恐慌の古典的形態=周期的恐慌は,①内的矛盾の瞬聞的強行的解決形
態であり,②商品価格の低落(価値破壊)を通じて過剰資本の破壊が行われ,③更に一国の貨幣恐
慌が他国に連鎖的に波及することによって各国循環の同時性を強め世界恐慌を惹起するとされるの
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宝
である。
以上のように古典的恐慌の本質,形態を規定され,その視点から戦後循環を分析されて,矛眉の 解決形態に「基本的変化」が生じたことを主張される。すなわち,恐慌が資本制生産の内的矛盾の 一時的解決形態であるのは,それが資本の過剰を解決するかぎりにおいてなのであり,資本の過剰 は商品価格の急速な下落を通して資本価値の減少,資本の破滅によって一挙に解決されてきたが,
戦後は矛盾の成熟がその瞬間的で強力的な解決形態(周期的恐慌)をもたらさない。そこには古典 的世界恐慌の勃発を阻止する新しい重要な条件の形成がみられるというのである。それは一体何で あろうか。このように古典的形態を規定されて,戦後何故矛眉の成熟が周期的恐慌の勃発をもたら さないかとその理由を追求されて,国家独占資本主義によるその阻止のための重要な条件の形成を 指摘される。富塚氏が恐慌勃発の阻止について国家独占資本主義の諸機構や諸対策の申で最:も重視 されるのは「価格と信用の側面」である。すなわち,①需要水準維持の政策を前提とした国内的,
国際的な価格管理形態の発展,とくにその国家的形態の発展,②管理通貨制(貨幣恐慌が信用体制 の崩壊にまで発展するのを阻止する条件),③対外準備の増減と国内信用の伸縮とを分離する機構 の発展によって貨幣恐慌の他国ぺの連鎖的波及経路の遮断(非同時性),という三点をあげられる。
他方,周期的恐慌によって解決されなかった矛盾は,何らかの新しい形で解決されなければなら ない。それは①漸次的な価格低落,②独占体による目的意識的な資本廃業,③解決に長期を要し,
部分恐慌によって画される小循環のいくつかにまたがって行われ,④その間は停滞的様相を強め る。従って「この時期を,古典的循環から類推して恐慌あるいは不況局面と規定することは適当で ない。周期的恐慌という解決形態の消滅は,同時に,古典的な産業循環の局面規定をそのまま現代 資本主義に適用することを無意味ならしめる。」以上が戦後循環について周期的恐慌を否定し部分 恐慌を主張される要旨である。
以上の戦後循環を部分恐慌に解消する富塚氏の所説について問題と思われる点を若干論ずること にしたい。富塚理論は恐慌理論の類型としては利潤低下説に属するものと思われる。しかし盗本蓄 積に伴って恐慌を惹起するに至る利潤率低下をもたらす内的矛盾の展開(累積)過程に対する理解 は果して十全なものであろうか。これは本質論にかかわるものであり,その理論展開にとって決定 的な影響をもつものである。富塚氏の周期的恐慌消滅論の論拠は「価格低落にもとずく資本の破 壊」と「資本の遊休」の区別・その決定的対置にある。しかしこの点については後でふれることに
してまず本質論について述べておくことにしたい。
エγゲルスは「資本主義の基本的矛盾は社会的生産と資本主義的領有との問の矛盾であり, それ
が恐慌となって猛然爆発する」(「反ヂェーリソグ論」467頁)と述べている。この基本的矛盾は
更に次の三つの矛盾として現われるが,それが一面的に把握された場合恐慌理論における類型とし
ては各々不比例説,過少消費説,利潤率低下説の論拠とされている。その三つの矛眉とは①個々の
工場内の社会的組織と生産全体における社会的無政府状態との矛盾,②生産の無制限拡大への傾向
と狭隆な消費制限との矛盾,③生産二二の絶対的発展への傾向と現在資本の維持およびその最高度
戦後循環の特殊性に関する覚書
の;増殖との矛盾である。これらの諸矛眉は基本的矛盾の展開されたものであり,当然相互連関的に 把握されるべきである。特に③は恐慌を惹起する直接的契機となる利潤率低下の問題を示すもの であるが,弁護論的恐慌論の本質は,これらの諸矛盾を基本的矛眉との関連において捉えないとこ ろにみられるのである。
ところで富塚氏の場合はどうであろうか。明らかに③を中心として展開されているようである が,資本蓄積と循環的変動を惹起する利潤率低下との関連についての解明はされていない。特に②
と関連する生産と消費の矛盾=実現恐慌については殆んど触れられていない。例えば,信用価格機 構を通じての経済安定装置の側面を強調されるが,逆に租税,独占価格等を通じての大衆に対する 牧奪機構の強化,従ってそこから生ずる生産と消費の矛盾の激化等については論ぜられない点,注
目を要:するであろう。
ここで最初に氏の理論が利潤率低下説に属するとしたことについて若干補正を必要とすることを 指摘しておきたい。次の節で一層明らかとなるであろうが,富塚氏の理論展開の基礎は先に掲げた 三つの矛盾のうちの③ではなくむしろ④にある。すなわち,不比例説(均衡理論)に立脚されるも のであり,そこに戦後循環を部分恐慌として捉えられる素地があるのではないであろうか。
このことは貨幣・信用恐慌の形態と役割に関する叙述にも顕著にみられるところである。そこで は貨幣恐慌の波及が支払い系列の特定資本のもつ予備貨幣によって中断可能なこと,また銀行信用 の支持によって支払い不能を回避し得ること,更に中央銀行による銀行信用の補強によって貨幣恐 慌が緩和されることが強調されている。ところが商業・信用が再生産過程から遊離した仮空の需要 を創出し恐慌を激化する作用をもつ側面がそこでも軽視されている。その意味で信用組織がもつ二 重性,すなわち強力になればなる程,恐慌緩和の側面と一層の深化の側面があること,特に後者の 現代的な現象形態が問題ではないであろうか。富塚論文の首題の故もあろうが,その叙述が一面的 なことは,その思考方法が非弁証法的であることに起因するものと思われる。均衡理論は流通主義 と密接に関連しているが,富塚氏の場合もその例にもれないようである。
また周期性を問題とされるかぎり,「資本論」第二部第二篇第九章で示されているように固定資 本の分析は不可欠の筈であり,豊崎稔教授の指摘された産業の技術的編成にもとつく循環周期の短 縮化は傾聴にあたいすると思われるがこの側面もまた無視されている。
富塚氏が周期的恐慌の消滅を強調される論拠は,価格下落にもとつく資本の破壊と資本の遊休と の区別であり,資本の遊休は資本の過剰の解決(恐慌)を意味しないということである。確かに現段 階において恐慌の発現形態に重要な変化がみられることは事実であり,また周知のことでもある。
それには先に指摘されたような諸機構・対策が影響したことも当然認められるべきであろう。
しかし,恐慌の古典的形態=周期的恐慌という把握,従って周期的恐慌の消滅→・:部分恐慌という発
想は果して正しいと云えるであろうか。むしろ周期的恐慌の産業資本主義段階,独占資本主義段階 での発現形態の変化,更に国家独占資本主義の下でのその変容として捉えられるべきものではない であろうか。勿論,そこには周期的恐慌の本質規定の理解について富塚理論とは重要な相異がある ことが前提であるが。一
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筆者の強調したいことは,富塚氏の否定しているところであるが,独占体における資本の遊休も また矛盾の一時的強力的解決の一形態であり,恐慌法則の強制的作用の現われであるということで む
ある。ただ資本の遊休は恐慌の解決(過剰洋本の切捨て過程)をながびかせること,その期間を挙
り む
対的に長期ならしめるということにすぎない。重要なことは,申小資本特に広汎に存在する零細資 本とその下で従業する底辺の労働者層にそのしわよせが厳しく生ずることではないであろうか。そ こでは一方で企業の倒産,受註単価の切下げ,労働強慶の増大,大衆の窮乏化が一層深刻なかたち で進行すると共に,他方国家資金の援助のもとで,大資本による資本の集中集積が急速に進展する であろう。この二重構造に現代産業循環の特色がみられるのである。
り り また非同時性の理解についても若干疑義がある。というのは確かに指摘されたように現在までは 戦前にみられたような世界市場恐慌は発生していない。しかし循環局面の非同時性が各国の成長政 策(恐慌対策を含めて)を可能ならしめた点も考慮されねばならないであろう。勿論,循環局面の 非同時性は戦前にもみられたが,戦前では主要国で発生した恐慌が次々と他の国々を恐慌にまき込 み,世界市場恐慌を惹起したのである。この相異は国家独占資本主義の諸機構,国際的信用組織の 発展と関連して非同時性のもたらす影響が戦前と戦後では非常に異っていることによるのではない であろうか。富塚氏は井汲卓一教授の論理,アメリカで矛盾が十分成熟しているのに恐慌が勃発し ないことの条件をアメリカの外部にもとめること,を明らかに誤っているとされるが,ここにこそ 戦後循環の特徴がみられるのではないであろうか。古典的恐慌では,恐慌の克脹策が国内財政・信 用の縮減,関税障壁,輸入削減,輸出強行等々によるその外部転化に求められ,国際的連鎖反応を 生ぜしめた。ところが戦後は管理通貨制をテコとして内部的解決策が採用されている。しかし,そ の場合でも輸入依存度を一定とするかぎり拡張政策のためには,一定の輸出が必要であり,却って その重要度は戦前と異った意味ではあるが増大していると云えよう。従って内部的恐慌要因が成熟 している時,他の主要諸国に恐慌が勃発するならばその国内的解決は困難とならざるを得ないであ ろう。このような事態が発生するとき東西貿易のもつ作用・意義の評価が重要となろう。
次に富塚氏による日本の国際耳癖の現状分析を通じてその方法論の論理構造を更に究明すること にしたい。
まず富塚氏は「現代日本経済において国際収支問題がどのような意味をもち,どのような役割を
演じているか。」と問題を設定する。そして経済白書に述べられている「国際収支が日本経済発展
にとっての特に強い制約条件であり,日本経済は国際収支条件が許容する限度内においてしか発展
できない。」,あるいは森田桐郎氏の「国際収支の低い天井が,戦後の日本資本主i義発展の基本的
条件であると同時に,また循環的に国際収支危機を招来する条件でもあった。」という見解を鋭く
批判し,『循環的に発生する国際収支危機は,日本にだけ特有の「構造的国際収支問題」の存在を
確証しているか。」と反問する。富塚氏の結論は「国際収支危機の発生自体は,日本特有の「構造
的国際収支問題」の存在を確証するものではない。」ということにある。その論証は理論的及び実
証的な両側面から試みられている。以下それについて述べよう。
戦後循環の特殊性に関する覚書
まず理論的には「過度蓄積」の規定にもとづいている。富塚氏は木下悦二氏が「過度な設備投 資」を社会の蓄積余力との関係で規定されていることに同調され,年々に一国が行いうる資本蓄積 は,年々の剰余価値(あるいはそれに相当する部分)によってその本来的な限界を画されていると される。すなわち,国際収支における経常収支の赤字は,結局一国の資本蓄積を制約するという関 係にあるが,こうした経常収支の逆調傾向はそもそも資本の過度蓄積の結果であり,「国際収支の 壁」というようなものがあって資本蓄積が一定限界内に閉ちこめられているのではない。資本がそ
の本来の蓄積限界を突破したからこそ,対外経常収支が逆調に転じたのである,と主張される。
この過度蓄積の進行の限度は,富塚氏によると,国内的国際的信用関係に依存しており,現代資 本主義の管理通貨制度のもとでは,理論的には国内信用は無制限に膨張させることができるのであ り,従って過度蓄積の限度は,国際金融上の諸要因によって規定されている。この意味で,個々の 国々にとっては,その金・外貨準備が過度蓄積の限界を画していると云える。しかし問題は本来的 蓄積限界そのものにこそあるのであって,循環的な国際収支危機は,直接的には,日本の国際収支 条件ではなく蓄積のあり方に関係したものである。以上ここで強調されていることは,過度蓄積を 本来的蓄積限界という視角.から捉えることであり,国際収支の側面からの規定を拒否することであ
る。
次に実証的な側面について。1950年以降の日本の国際収支の推移にいて過去の高度成長はほぼ経 常収支の均衡内の成長であること,すなわち平均1D%という成長率を達成しうるだけの輸出力をも っていたと指摘される。また収支の内容について,50年代前半に援助から特需へと変化し,特需は 経済的には輸出であると主張され,市場条件の不利にも拘わらず世界一の経済成長率を実現しつつ 輸出成長率が第一位であったことを強調される。氏はこの間日本の経常収支が長期的に均衡してき たということは,一面では,日本がその蓄積を自立的に遂行してきたということを示すと同時に,
他面では,戦後の日本ではまだ本格的な資本過剰が生じていない,ということを示していると考え る。何となれば収支黒字の累積(本格的な金・外貨準備の蓄積)は一国の資本蓄積が余力を残しで 遂行されたことを示すものであり,そのことは国内総需要の不足=資本の過剰と関連するものであ るが,戦後の日本経済が,社会の蓄積余力との関係でほぼ限度一ぱいの蓄積を遂行してきた,とい うことを物語っているのであるからである。
以上のような推論から富塚氏は,戦後の循環的国際収支危機の発生の主要な原因が日本資本主義 の蓄積のあり方,具体的には過度蓄積にこそあるのであり,今日の日本資本主義においては,資本 主義的な循環変動を別とすれば,「構造的な国際収支問題」とよぶようなものは基本的には存在し ない,従って無政府的蓄積のメカニズムの改革によって循環的国際収支危機の少くとも国内要因を 克服できる,と結論される。
四
前節で述べられた日本経済の現状分析についてたしかに傾聴すべき点も多いと思われる。しかし その内容についてもかなりの異論をもつものであるが,ここでは主としてその方法論について検討 することに限定したい。
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富塚氏は資本蓄積が年々の剰余価値を超過して行われることを過度蓄積と規定している。これは 近代経済学でいう貯蓄と投資の均衡の問題であろう。理論的には蓄積余力としては,剰余価値部分 より資本家の消費部分を当然除去して考えるべきである。貯蓄(S)と投資(1)の関係を考察す るならば,その過度蓄積の概念は明らかに1>Sの状態,すなわち過剰投資ということである。富 塚氏は1〈Sの状態を資本過剰としており,国際収支の黒字の累積をもってその指標としている。
さてこの富塚理論の構造はかなり簡単であり問題点も多いと思われる。以下,封鎖体系と開放体 系について夫々考察することにしたい。
富塚理論では過剰貯蓄(資本過剰)を過剰投資=過度蓄積(資本:不足)に対して一面的に対立的 に把握されているようである。もしそうであるならば恐慌時に現出する生産資本の過剰,貸付資本 の不足という事態は理解され得ないであろう。また本来的蓄積限界を剰余価値(正確には剰余価値 中の非消費部分とすべきであろう一筆者)とされながら,過度蓄積がどの程度まで進行しうるかに ついて,それは国内的ならびに国際的な信用関係に依存しているとされ,現代資本主義の管理通貨 制度のもとでは理論的には国内信用は無制限に膨張させうるとしている。そうであれば過度蓄積は 国内的にはどこまでも進行させ得ることとなり,破綻が生じないことになりはしないか。しかしそ れは先に剰余価値との関連において述べられた過度蓄積の規定と矛署するであろう。ここにも氏の 理論の均衡論的流通主義の欠陥が露呈されている。国家独占資本主義のもとでの管理通貨制が全能 なもののように考えられ,国内信用を無制限に膨張させて生産のための生産が可能となるかの如く 錯覚されている。内在的矛盾の陰蔽,暴発のくり延べのための投資の累積は,矛盾の一層の深化を もたらし破局的イγプレを惹起するに至るか,或いは過剰生産恐慌を生ぜしめるに至るであろう。
この側面は全く看却されている。氏はツガソ・バラノフスキーの生産のための生産という虚空の乱 舞が管理通貨制によって可能となったと考えられているようである。
次に開放体系について論及することにしたい。封鎖体系における過度蓄積の把握はそれなりの意 義を持っていると思われるが,これを開放体系に適用した場合の理論にはその方法論的欠陥が顕著 に現われている。結論的に云って富塚理論は下村理論と全く同一の方法であり,むしろマルク入経 済学的装いをもったその再版であると云えよう。
富塚理論は前述の如く基本的には貯蓄投資の均衡から国際収支の均衡を捉えようとするものであ る。すなわち所謂適正成長率の視点に立つものであり,その意味で無政府的蓄積のメカニズムを問 題とされるのである。ところが貯蓄投資の不均衡から国際収支の不均衡は導き出されるばかりでな
く,それとは逆に国際収支が与件としてでてくること,従ってその与件(輸入依存度→輸出)から
逆に成長率が規定されざるを得ない側面があるのである。過剰貯蓄によって輸出ドライヴが生ずる
場合とは逆に,輸出減退あるいは輸入増加によって資本が過剰投資となる場合がある。また,一定
の国際収支均衡のもとで生ずる国内均衡は必ずしも完全雇用均衡を保証するものではないこと,貯
蓄・投資の均衡にも種々の水準があること,これらの諸点が看却され,理論が極めて一面的に単純
化されている。経常牧野には国内の生産力と消費力,或いは更に限定して貯蓄と投資との関係が必
ずしも直接的に反映されるものではなく,両者は相互規定的であるとともにまた別個の条件によっ
戦後循環の特殊性に関する覚書
て屈折的に規定されるのである。従って過度蓄積二牧支赤字=資本の不足という理論構造だけでは へ 現代の複雑な国際的国内的経済関係の様相は把握されないであろう。この点近代経済学の立場に立 つR.F.ハロッドの方がはるかに現象を精密に捉えている。例えばその著「国際経済学」(1957年 版)で雇用と対外均衡について,不均衡の四つの組合せをあげているが,富塚氏の過度蓄積論では 説明できないところではないであろうか。すなわちその四つの組合せとは,①需要不足で出超,② 需要超過で入超,③需要不足で入超,④需要超過で出超,である。富塚理論では④と②は説明され る(しかも先に指摘した如く極めて一面的に)が③と④は説明され得ないであろう。この点,富塚 理論は成長率理論に接近したものであるが,より粗雑なものと云えるのではないであろうか。しか
し,ここではその理論が近代(ブルジ。ア)経済学へ傾斜していると批判しているのではない。唯 われわれはそこに近代経済学のもつ理論的欠陥が拡大されていることを看取することができるであ ろう。ハロッドの成長率理論,下村理論に対する批判は既に別稿(経済論叢第88巻第1か所牧)で 試みたのでここでは省略する。
以上,富塚理論の検討によってその理論的性格の解明を試みたのであるが,それは恐慌理論とし ては,戦後循環の特殊性の強調によってその一般性の側面を否定し,また現状分析としては逆に一 般性に国際牧支問題の特殊性を解消している。前者は資本の遊休,後者は過度蓄積の概念で割り切 っているのである。
この理論構造は一見相反するようにみえるが,両者を通ずる思考方法は全く同一であり,形式論 理で一貫しているのである。すなわち,一般性と特殊性,内的要因と外的条件についての弁証法的 把握の欠如を示すものであり,従って一般性と特殊性を対立的に捉え,その一面のみを一方的に展 開することによって相互関係が看却されるに至った一つの理論的典型と云えよう。確かにそこでは 現代資本主義の諸条件の特徴が適確に捉えられ提示された。しかし他方その展開において,諸条件 の変化を無視し基本法則のみを墨守する説と同様に,一面的という弊に陥られたようである。われ われにとって重要なことは現代資本主義の諸条件のもとで基本法則が如何に現象するかを運動過程 の統一と対立の両側面から解明することである。最後に問題は基本矛盾と関連させた実現恐慌の視 角の欠如にあることを重ねて指摘しておこう。なお日本の国際牧支の構造分析についても例えば特 需についての表面的理解あるいは短期資本移動の評価など種々問題があるが,本稿ではその理論の 批判に限定した。方法論的には筆者は富塚論文に対して上述の如くかなり疑義をもつものである
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