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結 第 第

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(1)

長 崎 妨

し一

源 流

~

背 景

露 店

(2)

結 第 第 第 は

三 二 一 三 三 二 一 二 四 三 二 一 一 し

が き

中国における発祥と霊験

発 祥 地 伝 説 生 前 霊 験 記

褒封と昇天後の霊験

娠 祖 信 仰 の 諸 相 台 湾 海 峡 と 筋 祖 の 信 仰 長崎における磨寺の沿革

台湾における婚祖廟の沿革

筋祖の崇敬と神観

神 人 の 同 格 神 人 懸 隔 の 分 子

娘三信仰との異同

(3)

第 図

第一図

耐町 掛祝 福寺 的制 堂内

M

祖神 前 長

向上 主神 郷制

︷一 一体

︶ 阻

(4)

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, 今 治 瞬 、 、

ItJt 

薗磁場

.J 

第 五 図 /I煩 風 耳 第 四 図 千 里 眼 高峰州岡山部書道隆寺にて(昭和9.7 .17撮)

(5)

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:6~

~

天上聖母︑俗に戯祖︵長崎で﹁ぼさ﹂﹀段︑文章には封号を用いて﹁天后﹂とも書く︒筆中から華南にかけて熱心

に尊崇されており︑広東・広岡・江凶・福建・掘削江・江蘇の諸省に及び︑台湾たども︑その崇犯は殊に採んで︑総

祖を主神とする廟は︑三百三十五廟に達しているの およそ華商の歪る所︑紙祖の祭杷の行︑われ友い乙ととて及︿︑南

は南洋各地に及び︑北は満洲の大連・旅順・奉天・錦州等にある闘も多︿の信者を有しており︑も ι お明末には琉球

に伝えられ︑那覇にも天妃宮として二箇所杷られてあクたらしく︑清初には臼本内地にもたらされ常陸国茨妓都

ho

工び多賀郡に天妃の一刷があクたという︒長崎においても︑中国系の寺堂︵す汝わ一ち唐寺︶のほとんど企部が︑筋祖

の崇敬を最初の基盤としている︒毎年旧暦三月二十三日に行われる如上各地の魁祖祭は土俗的香りの高い名物行事

であり︑長崎でも︑乙の日市の内外夜住の華商たちが崇福寺に集り︑都祖堂に安置されている応組の神前︹第一図︾

で︑阪の丸煮・果物その他数々の供物をささげて︑海上の安全・一家の福利を祈る︒

長崎「婚祖 J の源流と背景

婚祖は︑もと水の神・海上保護の神であクたが︑現十忙は万能の女神として︑華商たちの信仰の秘まれるものがあ

る︒長崎に−おける総祖の山民間敬も︑台湾などと同じく︑華南の伝統を承け継いでいるゆ︐ぇ︑どうしても中国における

由来と霊験をみ怠ければ友らね︒

婚 組

の 事

蹟 に

つ い

て は

︑ 勅

封 天

上 聖

母 実

録 ︹

勅 封

天 后

十 日

︶ 上

下 二

冊 ︑

天 后

副 主

母 聖

蹟 凶

志 全

集 会

一 冊

︑ 林

相 雑

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本 編

の 推

厳 に

は ︑

寸 一

六 妃

顕 塑

録 ﹂

全 一

冊 ︑

台 湾

北 港

彰 化

天 上

聖 母

源 流

因 果

︵ 大

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年 ︶

(6)

四 七 四

い 全

一 一

怖 を

参 照

す る

と こ

ろ が

多 い

日 本 内 地 へ の 婚 祖 の 伝 来 に つ い て は ︑ 字 宿 捷 氏 ﹁ 錫 担 の 信 仰 と 薩 南 片 浦 家 の 婚 祖 に 就 い て ﹂ 史 学 第 十 五 巻 第 三 号 参 照 ︒

中固における発祥と震験

v ι

都祖の発祥地は︑中国福建省興化府市田巣悩洲唄にある︒稲洲興は一名鱗江とも称する︒大海中に浮び︑後はムロ

一 ︑

湾と相望み︑前は賢良港と相対している︒ 天妃顕聖録に﹁五日前之外︑島有一一治洲一︑吃二大海中二孤頗也︑浩浩時間

淳 ︑

一 杏

二 吐

日 月

一 ︑

山 崎

昨 突

以 皿

作 二

青 石

一 ︑

嵯 峨

而 映

ν

紫﹂とあるのを見ると︑ 離れ小島の景色は乙ぼれるばかりである

主うに恩われる︒必担の本願である天后崩聞は乙の地に建立され︑香火が甚だ盛んであると︒

二 ︑

必祖は市岡県の林氏の女である︒始祖は︑唐の林披であり︑披に九男があり︑ともに賢かク党︑憲宗の時に︑兄

しし

弟九人各

K

州刺史︵州の長官︶の官を授けられ︑九牧林氏と号した︒部州の刺史の離公はその一人であって︑六世

ぎ怠

の孫に州牧︵州の長官︶凶公という者があり︑その子の保士口は後周の世宗の顕徳中のとき

︹ 九

五 四

年 i

九 五

九 年

統軍

兵馬使であクた︒ 時に劉崇自立の乱があり︑ 世宗は都検点越医胤に命じ高平山で戦を監督させた︒ 保育は与って

功があった︒後官を棄て︑前田県の凶洲艇に隠退した︒保吉の子の字は前代の勲功を承けついで福建総管と及的ノ︑

字の子の惟懇は都巡官となった︒惟怒がすたわち附祖の父である︒

(7)

天 妃

顕 聖

録 中

の 天

妃 誕

降 本

伝 に

い わ

く ﹁

天 妃

甫 林

氏 之

女 也

︑ 始

祖 情

林 披

公 生

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堅 ︑

九 人

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曾 祖

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郁 州

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離 公

六 世

州 牧

国 公

子 也

︑ 五

代 周

顕 徳

中 ︑

為 統

軍 兵

馬 使

︑ 時

劉 崇

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︑ 為

北 漢

周 世

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越 霞

胤 ︑

督 融

子 高

平 山

︑ 保

育 与

有 功

鳶 ︑

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目 日

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︑ 承

襲 世

勲 ︑

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建 総

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字 子

惟 甜

冊 ︑

議 悪

︑ 為

都 巡

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即 妃

父 也

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お ︑

婚 祖

宇 一

茶 姓

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趨 翼

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儀 叢

考 第

三 十

五 巻

天 妃

の 条

に ﹁

張 学

礼 使

琉 球

記 叉

日 ︑

天 妃

姓 茶

︑ 闘

海 中

梅 花

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海 身

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後 封

天 旭

﹂ と

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品 料

雌 陣

捻 は

王 氏

を 萎

ク て

一男六女を挙げた

e

脳相は第六女である︒二人は人知れや善事を行い︑施しを喜び︑深

︿観音犬士を信仰していた︒父四十余歳︑いつも一人息子の弱いととが念頭を離れ宇︑朝夕香を焚き︑天に祈り︑哲

99E

胤をえて宗嗣と放すと止を願ク売︒歳巴来夏六月望日︑ 資戒して観音大士を慶讃し︑ 空にむかつて祷っていわ︿

﹁我等夫婦が身の行いをたえや慎しみ︑徳を修め︑怯唱しを好むわけは︑みだりに求める所があるためではない

e

ただ

どうぞ︑夫がとの至誠 κ 鑑み︑早︿佳い聞を回聞い︑もクて遠い祖先の廟を立派 κ 輝かして下さいますように﹂と︒

との夜︑観音犬士が主氏に夢で彰台げに怒るには﹁お前の家は代

A

善行に教︿︑天の主帝のお賞めになっていると

長崎「婚祖」の源流と背景

とろである﹂と︒そとで丸葵を出してとれを示していわく﹁

ζ

れを服用すれば︑慈みの賜物を得るであろう

L

と ︒

かのえさる

金︿目が党める︒何か授けものがあるように感じた︒クいに姫娠した︒翌年︑宋太租の建隆一冗年︵九六

O

年︶庚申三

月二十三日の夕刻︑ 一筋の紅い光が商北から室の中にさしとみ︑輝かしさが目を奪い︑珍らしい香りが盛んにとも

クて散らない

e

玉氏は急に腹の勤きを覚え︑寝室に生んだのが婚祖である︒隣人たちはみ怠不思議なとととした・

男子を願ったととる︑女子だクたので父母は十いぶん失望したが︑誕生が大そう脊訟ので︑顔る乙れを愛した︒生

れてから幾月にもたるが︑注声を聞か念い︒そとで黙という名をつけた︒

四 七

(8)

四 七 六

同上書﹁妾壬氏︑生男一︑名洪毅︑女六︑妃其第六乳也︑二人陰行善︑楽施済︑敬配観音穴士︑父年四旬余︑毎念一子単弱︑

朝夕努香祈天︑願得哲胤為宗支︑慶︹?︶歳巳来夏六月翌日︑斎戒︑慶讃大士︑向空藤拝目︑英夫婦競競自持︑修徳好施︑非拍車

有 妄 求 ︑ 惟 莫 上 天

︑ 臨 茸 諮 至 誠

︑ 早 開 閉 佳 児

︑ 以 光 宗 帥 明

︑ 是 夜 王 氏 夢 大 土 台 之 日 ︑ 爾 家 世 敦 善 行

︑ 上 高 明 式 佑

︑ 乃 山 山 丸 薬

︑ 一 市 之 云 ︑ 服

此当得議済之鋭︑既籍︑散散然如有所感・遂娠・二人私喜目︑天必錫我賢嗣失︒越次年宋太祖建隆一元年庚申=一月二十三日方夕︑

見 一 道 紅 光 ︑ 従 西 北 ︑ 射 室 中 . 品 陣 挙 目

︑ 回 現 肴 居 間

H

且不散︑俄而王氏腹壁回︑即誕妃於寝室︑旦隣成以為具︑父母犬失所夏︑然因英

生脊︑基愛之︑自始生歪爾月︑不聞略声︑因命名目黙﹂

的祖は幼いときから聴くて︑多くの女子と比べものにも品ら汝い︒はじめて八歳のとき︑塾師に従って朝開設を受け

たととろ︑すべて文の意義を解した︒十歳余で︑清らかも ι 机で香を焚く乙とを喜び︑論経礼仏︑朝夕とも少しも怠

ら な

い ︒

ζ

の末娘は︑嘆しいが︑

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どそかでちり︑しとやか伝うちにも礼儀正しかった︒十三歳のとき︑年老いた

道士︵道教の僧︶の玄通という者がその家に往来し︑続視はとれに施し物を与えていた︒道士のいうには﹁もし仏性

を具えれば︑すくわれて借りをえるであろう﹂と︒そ乙で奥深い秘法を授けた︒燃祖はとれをうけ︑諸要典を悟り

っくした︒十六歳のとき井戸をのぞいて符︿お礼︺ を得︑ついに霊通変化︑駆郊救世︑しばしば奇陵をあちわし︑

いつも雲に乗って犬海を飛び渡った・世人は通賢骨盤女と名づけた︒その後十三年で道が成り︑日中︑天に昇った︒

宋 の

薙 烈

四 年

︵ 九

入 七

年 ︶

了 一

亥 秋

九 月

九 臼

で あ

る ︒

向 上 書 ﹁ 幼 而 聴 鏡 ︑ 不 類 諸 女 ︑ 甫 八 歳 ︑ 従 塾 師 ︑ 訓 読 悉 解 文 義 ︑ 十 歳 余 ︑ 喜 浄 九 焚 香 ︑ 読 経 礼 仏 ︑ 旦 暮 未 嘗 少 傷 ︑ 続 時 一 宮 季 女 ︑

血間然翁宛儀型︑十三歳時︑有老道士玄通者︑往来其家︑妃楽捨

ν

之︑道土日︑若具仏性︑応得渡入韮果︑乃授玄後続法︑旭受レ

之︒悉併諸要典︑十六歳︑窺井得符︑遂霊通変化︑駆邪教世︑屡頭神呉常徳雲飛波大海︑衆号日通賢霊女︑越十一ニ載︑道成︑

白 日 飛 昇

︑ 時 宋 幕 開 問 四 年 丁 亥 秋 九 月 重 九 日 也 ﹂ 三

(9)

長崎「婚祖」の源流と背長

悠担の霊験は︑生前の神具︑昇天後の霊験訟ど枚挙にいとまない︒左に最も知ちれたものを掲げる︒

事 例

相制祖が小さいとき︑多︿の娘たちと遊んだとき︑井戸をのぞいて姿をその中に写した︒すると神人が両

つの銅符を捧げ放がら井戸を上って来︑治伴の一組の仙官がとれを迎えながら護っている︒他の女たちは︑驚いて

逃げてしまったが︑婚祖だけがとれを受けた︒以後︑神通カを得︑身は室中にあっても精神は四方に遊び︑吉凶禍

福を談やるのに︑不思議にも当らもないととはたい︒

︵ 天 妃 顕 聖 録

﹁ 窺 井 得 符 ﹂ の 項

秋九月︑婚祖の父は︑兄とともに海を渡って北上した︒時に商風が急で︑犬浪が狂い起きていた︒婚祖

h

は家におって機織中であったが︑たちまち機の上で映を閉ぢ︑顔色がにわかに変り︑手に抽棋をもち︑足は機軸を踏

事 例

み︑その様子は︑挟んだ物を失うのが恐ろしそうに見受けられた︒怪んで急に呼び起したので︑検が下に落ちた︒

椋 祖

は ︑

泣いて︑父は無事だが見は死んだといった・ 果してその通りである︒ 眼を閉 少したって報せが来ると︑

ぢていた間に︑足で踏んでいたのは父の舟︑手に持っていたのは兄の舵であったと乙ろ︑呼び起したとき足は機軸

を鰭んでいたため︑父は殆ど溺れ土うとしたがよく止った︒しかし手の楼は落したため︑兄の舵がくだけ舟が覆つ

て︑兄を救うととができか仏かったのであった︒

︵ 同 上 書

﹁ 機 上 救 親 ﹂ の 項

事 例 一 −

調洲棋の西に門爽という処があり︑岩礁が入りまじっていて船が危険である︒或る日︑波風の荒い日に

商人の船が渡るとき難破しようとし︑犬声をあげて救いを求めるが︑人々は救う乙とができたい︒そとで蛎祖が草

を数根ほうり投げたととろ︑それがみな大杉になって︑舟人は救われた︒風が静まって後︑その犬本の行︿方は分

ら ゑ

ぃ ︒

︵ 同 上 書

﹁ 化 草 救 商 ﹂ の 項

事例回 婚祖が二十一歳の時︑甫回県に大手魅があり︑山は焦げ︑川は湘れた︒県勢の願いにより︑鋲祖が雨を

四 七

(10)

四 七 八

躍ったととろ︑臨時雨の量が多︿︑平地の水深は三尺に及んだ︒

︷ 関

上 書

﹁ 爵

雨 済

民 ﹂

の 項

宋の太宗の事暗黙四年︑総祖が年二十九の時であった︒秋九月八回︑郷祖が家人に諮るには﹁私の心は清

車押を射貯み︑塵っぽい環境段好かも仏い︒幸い明朝段重陽の節に当るから︑同八すだけで高い所に登ろろと思う︒それで 事例主

前もって知らせておきます﹂と︒家人は皆︑秋晴れの山登りぐらいに解して別に気にも凶め猿かった︒翌朝︑婚祖

は香を検き経を稀し︑姉達に肉って﹁今日登山して平素の願を遂げ土号と思ろが︑道が険しくかっ遠いため姉上方

左目同行できゑいのが残念です﹂曹と︑いかにも打ち萎れている︒何も知らたい姉達は笑って慰め︑何の一日の山遊び

更もの︑心配には及ぼ注いでし工ろ・と答えた・そとで筋祖は︑海を渡って酒洲崎明に行き︑その最高所に達した・す

ると忽ち濃い雲が山の岩穴に横

b p

︑自気が天にわたり︑天土の音楽が響き渡った︒脂腕組は嵐に翼し︑穏に乗り︑静か

&旬︒

に 主

円 い

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戸 一

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︒ 昇

天 し

た の

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る ︒

再 開

上 書

﹁ 調

洲 飛

昇 ﹂

の 項

以 上

は ︑

証 同

協 帆

生 前

の 霊

験 談

の 若

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他 ︑

LL

聖母源流肉巣の掲げる所でも︑

資 二

口 氏

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渇 レ

治 生

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﹂ 青

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野 先

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二 将

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︑ 後

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︑ 水

族 龍

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物を法力で屈服きせた話︸︑高里鬼現 ν 相投 ν 誠

︹ 高

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逐 二

隻 龍

一 春

雨 企

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祖 が

二 十

六 歳

の と

き 春

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夏 に

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長 雨

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た ︒

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原 因

と な

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二 李

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北 津

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吉 準

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の 西

に 語

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か っ

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(11)

長崎「婚祖」の源流と背景

二 つ

の 李

の 巣

り で

橋 の

柱 が

皆 折

れ ︑

人 が

病 ん

だ の

を 知

り ︑

お祖がとれを追払ったので︑

南 北

の 路

が ︑

通 ず

る よ

ラ に

な っ

た 話

破ニ魔道二一嘉伏レ地︹嘉応および嘉佑といラ二魔が航行の妨害をなしたので︑とれを降隈させた話︶注どの諸項がある︒

要するに婿祖は今より約千年前︑ 宋の時代に一官吏の女として生れ︑ その信仰は決して古いというものでは友

ぃ︒しかし何故にその信仰が民衆の聞に広まったかというと︑結局︑零一験の顕著というととに帰する︒すゑわち婿

祖は︑元来同月間信仰の神として起り︑その崇敬は霊験中心の信仰に終始しているのである︒

四︑褒封と昇天後の霊験

総祖は昇天してからも︑しばしば霊異を顕わし︑前回来一帯の人民から一尊信せられ︑塁人等は遂に耐を建ててこ

れを杷り

通賢霊女と呼ばれた︒中国の旧来の宗教行政の慣例によると︑新しい神が一地方の人民から非常に尊信

h r

されている場合には︑地方官からその霊験を具して朝廷に奏とし︑朝廷より匿額・称号・封号を賜わる︒とれを褒

封といい︑その廟を公認した一形式とみてよい︒筋祖の名が朝廷に聞えて︑との形式をとるようになクたのは︑昇

天後百三十五年を経た徽宗の宣和四年であった︒左に桜祖に対する褒封を列挙する︒褒封の事情により昇天後の霊

験︹水に関するものが多い︶を推察するととができる︒

時 代 朝

︵一︶徽宗の宣和四年︹一ご三年︶給事中である允迫路公は高麗に使し︑海難に当クて神功を感じた旨を奏上し

たので﹁順済﹂の廟額を賜う︵事例大︶︒

︵二︶高宗の紹興二十五年︵二五五年︶感疫流行の際に薬用済泉の所在を台げ悪疫を終曲摘させたので︑

﹁ 崇

福 夫

人﹂に封じた︒

︵ 事

例 七

v ︒

︹ こ

こ で

︑ 唯

の 女

が 夫

人 の

位 を

得 た

の で

忘 る

四 七

(12)

四 入

O

会 一

︶ 間

二 十

六 年

︹ 一

一 五

六 年

﹁ 霊

恵 夫

人 ﹂

に 封

や る

︿四﹀同二十七年︹二五七年︶流冠巨興を征するにあたり︑風浪を起して賊を悩ましたので﹁霊恵昭応夫人﹂に

加封する︵事例入︶︒

︿五︶孝宗の淳照十年 ︵二入三年︶温ムロ一向府の納冠に功があったので ﹁ 察 恵 昭 応 崇 善 福 利 夫 人 ﹂ に封十る

︵ 事

例 九

︶ ︒

士 ハ

﹀ 光

宗 の

紹 照

一 冗

年 ︵

一 一

九 O 年︶救皐の犬功をもって﹁霊恵妃﹂に褒封進爵する︒

︹ 今

ま で

の 夫

人 が

妃 と

な っ

た ︺

︵ 事

例 −

O

︶ ︒

︿七︶箪宗の慶一尤四年︵二九八年︶諜雨をはらした功に主的

J

﹁助順﹂を加封する︵事例−−︶︒

︿八︶同六年三二

OO

年︶犬実の意械が乱をもなした際︑濃霧を降して︑官軍を撰けて功があった︒度

K

の勲功に

Bh

岡 山

f

︑ 妃の父を﹁積慶侯﹂と去し﹁象感嘉佑侯﹂に封じ︑ 母王氏を﹁顕慶夫人﹂に︑

を ﹁

裳 応

仙 官

神 ﹂

に︑姉を慈恵夫人佐神﹂に封じた︵事例一エ︶・

︿ 九 ︶ 柑 雲 市 開 薦 改 一 尤 の 歳 ︑ 准 旬 地 方 の 敵 賊 を 破 っ た ま 同 功 を も っ て ﹁ 顕 衛 ﹂ を 加 封 す る ︵ 事 例 − 三 ︶ ・

︿ 一

O

︶問嘉定改元の歳三一二

U

入午︺救皐友らびに檎賊に一神助があったので﹁措世間助順嘉応英烈妃﹂に加封する

︵ 事

例 一

回 ﹀

︿一一︶理宗の宝結改元の歳︷一二友三年︶興化・泉州両府の餓措障を救った功により﹁議恵助順嘉応英烈協正妃﹂

に加封する︵事例一五﹀@

︿二一︶間三年

︵ 一

二 五

主 ︶

神 一

繭 が

あ ク

た の

で ﹁

裳 盲

目 助

順 嘉

応 慈

済 妃

﹂ に

加 封

す る

(13)

長崎「婿祖」の源流と背景

︿一一一一︶間四年こ二五六年︶淑江省銭塘堤が竣功したので﹁業恵協正嘉応善慶妃﹂に加封する・

︿ 一

四 ︶

開 慶

改 元

︹ 一

二 五

九 年

に進封する︿事例−

に 当

り ︑

強賊陳長五の兄弟を火焚せしめたので

﹁ 瀕

済 妃

六 ︶

フ E ・

時 代 朝

︵一五︶世祖の至元十八年三二入一年︶漕運を護庇するので﹁護国明著天妃﹂に封やる︵事例一七︶・

︿一六︶同二十六年ご二八九年︸海運を佑けて﹁顕佑﹂を加封する︵事例で八︶︒

︵一七︶成宗の犬徳三年︿一二九九年︶潜還を庇護するので﹁輔聖庇民﹂を加封する︵事例−九﹀︒

︵一八︶仁宗の延一楠元年︵二三四年︶海土暴風の難を救ったので﹁広済﹂を加封ずる︵事例=

o v

︵一九︶明宗の天暦二年ごコ三九年︺護漕に犬功があったので﹁護国報聖庇民顕佑広済繁感助順福恵徽烈明著天

妃﹂に加封し︑官更を遣わし︑天下の各廟に祭を致さしめた︵事例エ− v

時 代 朝

︵ 一 一

O ︶太担の洪武五年三=一七二年︶神功が顕著なので﹁昭孝純正字済感応型妃﹂に勅封する・

︵ 一

一 一

︶ 成

祖 の

永 楽

七 年

︵ 一

回 九年︶しばしば神功があるので︑

O

﹁ 護

国 庇

民 妙

霊 昭

応 弘

仁 並

回 済

天 妃

﹂ に

加 封

し ︑

廟を都城外に建て﹁弘仁普済天妃之官﹂と題する額を賜う︒

︵ 二 二 ︶ 宣 宗 の 宜 徳 五 年 ︻ 一 四 三

O

年︶及び六年に︑諸蕃に出使させた際神助が多犬であったので︑太監友らびに

京官︑および府県官員を派遣し︑間洲に詣でて︑祭典を行い︑かつ廟宇を修理させた︿事例==︶︒

時 代 清 朝

(14)

四 l¥ 

︿二三︶聖祖の康照十九年 三六八

O

年 ﹀

将軍高正色は麗門を征討し︑神助によクて勝利を得た旨を奏とし︑問

二十三年

︵ 一

六 入

四 年

勅使王梶が琉球に使し︑神助に主って海難を免れ︑奏して春秋の胞典を請い︑また

将軍施柚棋は兵をすすめて滋湖島に勝ち︑神助の大きいととも也奏 k したので﹁護国庇民昭霊顕応仁慈天后﹂に進

封 し

た ︒

︵ と

こ で

妃 か

ら 最

上 級

の 后

と な

っ た

の で

あ る

︵ 事

例 =

= 一

︶ ︒

︵ 一

一 四

︶ 高

宗 の

乾 隆

三 年

︵ 一

七 三

八 年

さらに﹁福結群生天后﹂を加封する︒

︵二五︶同二十二年

ご 七

五 七

年 ︶

さらに﹁誠感成学天后﹂を加封する︒

会一六︶同五十三年

︵ 一

七 入

八 年

旧封号に﹁顕神賛順﹂の四字を加え︑胞典に列した・

︹ 配

典 に

列 せ

ら れ

る と

日 本

で い

え ば

い わ

ゆ る

官 幣

社 に

昇 格

し た

も の

と み

て よ

い ︶

︿ 一

一 七

︶ 仁

宗 の

嘉 慶

五 年

︵ 一 入

OO

年︶﹁護国庇民妙霊昭応宏仁普済福一硝群生誠感字顕榊賛順垂慈篤一硝天后之紳﹂

に 加

封 す

る ︒

︵ 一

一 八

︶ 同

六 年

三 入

O 一年︶関帝の先代を追封した例にならい︑天后の父を積慶公に母を積慶公夫人に進封した︒

以上により一官吏の女である妨祖が一方民衆によって盛んに私祭されるとともに︑他方朝廷より﹁天后﹂の褒封

を 受

け ︑

組典に列せられて︑ 国家の祭砲をろけるにいたった経過を知るととができた︒

し か

し て

和典に列せら

れた祭神は︑恰も儒教の神々のように取扱われ︑儀礼は全然儒教と区別するととのできぬものとなっている︒かく

婿祖の崇敬は︑その伝説よりみるときは道教的であり︑︹例︑その E

伝 の

神 仙

談 話

的 な

こ と

︒ 伝

中 ︑

道 士

玄 通

に よ

る 泌

法 の

伝授︶︑信仰の実質よりみるときは仏教的であり︵例︑観音大士の授け子であり︑婚祖廟には観音を臨配しているて

E

の形式よりすれば儒教的であり︑道仏儒三教の混潜の一事例をなしている・

(15)

以 上

郷 組

の 神

助 の

内 容

を 分

け て

み る

と ︑

海 難

教 助

︷ 一

・ 一

入 二

一 一

一 一

て 漕

謡 庇

議 ︵

一 五

・ 一

六 ・

一 七

・ 一

九 ︶

︑ 討

賊 援

助 ︻

四 ・

五 ・

入 ・

九 ・

0

・ 一

四 ・

二 一

了 二

三 ︺

︑ 皐

霧 飢

鐙 の

解 消

︵ 六

・ 七

・ 一

0

・ 一

二 ︑

悪 疫

終 組

竺 一

︸ と

な る

な お

婿 祖

が 民

間 に

親 し

ま れ

た 一

例 と

し て

. 郁

永 河

の 渡

海 録

記 に

﹁ 至

今 調

洲 林

氏 宗

族 婦

人 将

b

者 ︑

以 コ

英 兇

− 置

一 一

廓 中

一 ︑

姑仔看

ν

去 一

︑ 終

日 児

不 レ

暗 不

ν

不 レ

出 レ

閥 ︑

幕 帰

各 携

去 ︑

蓋 神

羽 一

日 英

宗 人

一 也

﹂ と

一︑台湾海峡と婚祖の信仰

約祖信仰が︑とくに台湾に盛んであり︑ 一方︑すでに長崎等にも及んでいる乙との理由として︑まや台清海峡を

挙げねばならない︒

明朝の末︑すたわち︑我が慶長・元和︹一六一五年 i

一 六

二 三

年 ︶

︑ 寛

永 ︵

一 六

二 四

年 l

一 六

四 三

年 ︶

の頃には︑日本

に居尚した中国人の数は相当多一く︑九州各地に﹁唐人町﹂と称するものができた︒中国人の来居には︑通商の際滞

首するものと︑亡命流落するものと︑海賊により虜とされたものがあクた︒しかして︑かような中国人の居尚地域

長崎「筋祖」の源流と背景

に沿いて︑福建人が数のとでも勢力のとからでも優越していた︒長崎にクいても︑

人口・財力・学識・技術の諸

点から︑他を圧していたのは︑福建人であった︒しかして︑元和・寛永の頃になると中国人の通商居尚の乙とは︑

何としても長崎をまや第一に推さねばならね状態であった︒当時︑日本・福建の間は直通の路と考えられていた︒

すなわち福建商船が日本貿易の主体であ p ︑寛永の鎖国︵一六三九年︶の後も︑乙の事情は変ら守︑ ι

良 享

円 一

六 入

四 年

−二ハ入七年︶︑元総︵一六八八年|︶の頃に及ぶのである︒とれらの商船の来日にあた p ︑必や通過し一怠ければなら

四 入

(16)

四 八 四

ねのは台湾海峡である︒

一 方

︑ 清

ご六四五年 i ︶ の康照二十二年︹一六入三年︶︑郷克棋の降服とともに︑台湾が清領に帰すると︑そ

のいわゆる﹁好台湾﹂または﹁好束郡﹂の美名の下に︑盛んに移住民を引きつけたのであるが︑ととに︑治

A

と集

まってきたのは︑泉州・湾州の福建人︑恵州・潮州の広東人であるが︑とれらの移民群が渡台するに当 p ︑必十通

過し怠ければならゑいのは台湾海峡である︒

台湾海峡は︑︵一︶古来航海の難所で風波が荒︿今日気象学的にも立証されている︵ム口清・パV1両海峡は恐る

4

しい暴風・回旋風の発生地で古来漢人は齢風といったが︑欧米語の

J

門 記 長 一

CC

口も乙れに由来するらしい︒︶

︵ 一 一

日本領有下にあクでさえ︑大正元年

︵ 一

九 一

二 年

から同六年にかけて︑海賊の被害は四十七回に及んでいる︒こ

れによっても︑それ以前三百年間の海賊横行の状を察する乙とができる︒ 会一︶造船術が︑なお幼稚であり︑航海

術のまだ発達しなかった往時において︑難航路とされて沿ったのは事実であり︑との海峡の附近で内外大小の船舶

の難航した例は︑極めて多い︒

乙 の

時 に

当 り

一に頼んで海との安全を保障するものは何であるか︒常

K

信仰する

海との守護神たる栃祖の一服けにまつ外はないのである︒

越翼の陵絵叢考

︵ 巻

三 十

五 天

犯 の

条 ︶

は明の憲宗の成化年間 ご四六五年 1

一 四

入 七

年 ︼

ゐよぴ明の世宗の嘉靖年間

ご五二二年 i 一五六六年︺に︑すでに台趣向海峡の往来において︑船担の崇敬のと︿に著しかクたとと凌述べている︒

事 例

ニ 四

﹁ 成

化 問

︑ 給

事 中

陳 詞

︑ 奉

レ 命

往 二

日 本

一 ︑

至 一

一 犬

洋 一

風 雨 作 ︑ 将 レ 覆 レ 舟 ︑ 有 一 三 紅 燈 一 ︑ 自 レ 天 而 下 ︑ 遂 得

レ 泊

二 子

島 一

︑ 若

下 有

レ 人

告 白

申 吾

輩 為

二 天

妃 所

一 レ

造 也

上 ︑

叉 嘉

靖 中

給 事

中 陳

侃 ・

奉 三

使 封

一 一

琉 球

一 ︑

遇 レ

風 将

レ 覆

︑ 挙

紅 大

呼 二

天 妃

一 ︑

背 骨

見 一

一 火

光 燭

一 レ

船 ・

船 即

少 寧

︑ 明

日 有

下 粉

媒 ︑

飛 ニ

緯 舟

一 不

ν

︑ 黄

雀 立

二 一

柁 措

俊 一

食 よ

レ 米

頃 刻

風 起

︑ 舟

一 利

(17)

ν

飛 ︑

勝 至

レ 閥

︑ 午

入 二

掘 削

之 定

海 一

︵ 俣

見 二

七 修

類 稿

一 ﹀

五 日

郷 陵

広 霧

進 士

一 去

台 湾

往 来

︑ 神

跡 中

ん 著

︑ 土

人 呼

レ 神

為 ニ

祖 一

︑ 摘

週 一

一 風

浪 一

危 急

︑ 呼

こ 抗

祖 一

︑ 則

神 紋

髪 而

来 ︑

英 効

立 応

︑ 安

呼 ニ

天 妃

一 ︑

則 神

必 冠

蚊 而

至 ︑

恐 レ

稽 二

時 刻

一 ︑

ま 馬

程 一

疋 者

︑ 蓋

閑 人

在 一

一 母

家 一

之 称

也 ﹂

と あ

る ︒

事 例

− 一

郁氷河の海と紀略︹小方壷斎輿地殻紗第九秩本所牧︶にいう﹁海神︑惟脳但敢霊︑即古天妃神也︑凡海航

危 雌

齢 ︑

ν 橋

必 応

︑ 多

有 下

回 税

一 一

神 兵

維 持

︑ 或

神 親

至 救

援 一

者 ヘ

霊 異

之 蹟

不 レ

可 二

枚 挙

一 ︑

洋 中

風 雨

臨 時

阪 ︑

夜 県

知 レ

盟 理

毎 於

二 倍

頭 一

現 ニ

神 鐙

一 一

不 レ

一 腕

︑ 叉

有 干

船 中

︑ 忽

出 ニ

燐 火

一 如

ニ 燈

光 一

︑ 升

ν

雨 被

者 よ

︑ 舟

師 翁

ニ 是

妨 祖

火 去

一 ︑

必 道

二 圏

政 一

︑ 無

レ 不

ニ 寄

験 一

︑ 船

中 例

ν

設ニ婚祖梶二凡依ニ大魚氷惟欲工近

ν

船︑則以ニ馬視槌一︑速二撃船舷一︑即遁去︑相

伝 ︑

神 為

ニ 甫

色 川

悶 州

東 螺

村 林

氏 女

一 ﹂

と ︒

今︑清朝下︑康照乾隆年聞に沿いて台務海峡と台湾に関する戯祖の霊験記の一一一を文献のうちに検すると ll

事例エ六 康照二十二年︵一六八三年︶︑水防相官督たる施政が鄭氏を討クて克クゃ︑その風波が静抵で兵勇磁亘と

もに安きを得たのは︑ 持祖の神的霊験によるものとして誇加封天妃疏をヒクている

︵ 前

掲 ︑

事 例

ニ =

一 ︶

O

いわく﹁

︵上唇︶康照二十二年六月十六︑二十二日等日︑臣在二彰湖一破レ敵︑将士成稿︑統見︑

天 妃

如 レ

在 主

其 と

一 ︑

如 し

在 一

一 長崎「鰐祖」の源流と背景

其 左

右 一

︑ 而

平 海

之 人

倶 見

天 妃

神 像

︑ 是

日 衣

砲 透

混 与

一 一

英 左

右 二

神 将

一 一

向 子

起 レ

潟 ︑

観 者

如 レ

市 ︑

知 下

為 ニ

天 妃

之 助

戦 一

致上レ然也︑叉先月於二六月十八日夜二区模二著左営千総劉春一︑夢天妃告レ之日︑二十一日︑必得ニ拶湖一克援︑

七月初旬内︑台湾遂傾レ島投

ν

︑ 其

応 如

酬 明

同 ︵

下 車

官 ︺

L

︷ 杉

山 靖

策 ﹁

台 湾

名 勝

川 旧

蹟 誌

﹂ 六

九 人

一 良

参 照

v

事 例

− 一

乾隆五十一年

︵ 一

七 人

六 年

︑台湾に林爽交の大乱があクた︒そとで翌五十二年将軍福康安は巴魯侍

衛沿よぴ楚萄黙の大兵を率いて来

h

り 伐

ち ︑

鹿 仔

︹ 後

の 箆

抽 出

街 ︶

よ り

k 陸 し ︑ 三 ヶ 月 た ク て 平 定 し た ︒ 臨 眠 安 は ︑ 海 波

四 八

(18)

四 入 六

が静穏で兵呂田務室ともに安きをえたのは︑競祖の庇護霊験によるものとし︑奏請してと陵地点である鹿仔港の地に

天后宮を建てて紡祖を肥った︒鹿港街にある勅封天后宮碑記にいわく﹁台湾僻ニ処海東一︑自一一康照壬戊一隷一一入版

図 一 ︑ 商 政 貿 易 ︑ 横 し 洋 来 住 ︑ 成 頼 一 一 神 椋 佑 済 一 ︑ 乾 隆 五 十 一 年 冬 ︑ 逆 匪 林 爽 文 作 レ 乱 ︑ 滋 古 里 融 制 張 ︑ 我 皇 特 命 二 協 耕 大

学士嘉男会福康安一︑為二将軍一︑統二率巴魯侍衛数百員︑動旅十余万一︑於二五十二年十月秒一︑由ニ崇武一放洋︑時

際 二

北 風

曲 賞

発 一

︑ 洪

波 法

湧 ︑

三 軍

聯 椅

数 百

般 ︑

漫 レ

海 東

来 ︑

一 日

斉 登

↓ 一

鹿 行

港 口

岸 一

継而糧前軍装︑八

T

馳文報︑舶

健羅織︑均保レ無レ良︑維時嘉義一帯︑匪徒狛獄︑突聞ニ綾林千万︑踏重千般︑如レ期並集一︑群醜寒レ心︑知レ有二神

助一︑故軍威大振︑所レ向披際︑魁レ臼檎レ渠慨レ巣︑牧二復全台一︑難レ回二将士用亡命︑凡此亦皆仰頼下天后昭明

有 二

護 国

庇 民

之 功

一 ︑

威 霊

顕 著

上 者

也 ︑

将 軍

奉 一

一 天

子 命

一 ︑

崇 レ

徳 報

レ 効

︑ 就

レ 鹿

択 レ

地 ︑

建 −

一 造

廟 宇

一 以

奉 杷

震 ︵

下 回

吾 ︶

以上︑長崎等にむいて︑また台湾に沿いて︑とくにお祖が信仰されてきた理由として︑台湾海峡の難をあげたわ と

け で

あ る

長崎においては︑華商たちの際金によクて︑すでに元和の末頃ご六二二年頃︶に現在の寺町に鋭祖堂が設け

h

られ

寛 永

五 年

︵ 一

六 二

八 年

に現在の下筑後町に婚祖堂が︑さらに翌六年

︹ 一

六 二

九 年

には現在の今箱町に都祖堂一が建

てられ︑いやれも往来の唐船に礼拝奉持する婚祖像の乗降しをなし︑海上の平安と死者の冥福を祈った︒前者が興

8

福寺︑中者が福済寺︑後者が崇福寺の起原をたした︒乙の黄柴宗の三箇寺が︑長崎に

KM

ける中国系の代表的のもの

とで、

「 あ 菩捻る

薩 さ 。 揚 降 げ ク

L‑

フ巳

い 文

行 年 う 元

行 わ れ た

二 七

コ 一

六 年

には︑かの唐人館内の東南隅に天后堂が建てられた︒唐船が入港して︿る

乙れは︑唐船の中に祭った紙祖像を陸揚げする式典である︒唐船から荷士山︑

(19)

給主︑船頭が︑唐人舘からは取引商人︑番屋からは唐舘役人が︑そして町方からも会所からも立会って︑異彩のあ

る賑かさと厳かさのうちに︑郷祖像をば︑南京船は興福寺︑福州船は崇福寺︑津州船は福済寺というように預ける

のであり︑乙の式典が入津第一の祭りであクた・

すおう

−  台湾に沿いても︑その海岸町︵蘇襖・羅東・宜蘭・基隆・淡水・士林・金山・大甲・魔港・北港・台南・高雄・

東港等

A

︶には必

47

婿祖廟が設けられたのであった︒

二︑長崎に

KM

ける唐寺の沿革

事例=八

長 崎

興福寺

元和六年

二 六 二

O

年 ︶

の頃︑江尚省の人劉覚が長崎に来て︑僧となり︑真向と称し︑当寺の現寺地に小庵を結

んだ︒乙の頃来船の唐人のうちには︑時

K

キリシグン教徒があり︑長崎奉行は麗人の宗教にクいて厳重な調べをし

ていた・そこで長崎在尚の南京地方の船主等は乙れを残念に思い︑自ら進んで来舶の唐人中にキロシグシを信十る

者があるかを検べ︑かつ海との平安を祈り︑先亡者を追福するため︑ 一寺を建てる乙ととなり︑各自酸金して仏堂一

を当寺の現寺地に設け︑傍に州制祖盆

bt

建立して婚狙を秘的

J

真 向 を 陶 基 と し た ︒ 乙れが興福寺の起原である︒正保元

長崎「鋳祖」の源灘と背景 年

二 六

四 四

年 ︶

に中国より僧逸然性融が渡来して第三代伍日付となクたが︑逸然は当時中外に晋ねく知られていた

福建業柴山の住持隠一冗隆瑞の渡日を請沿うとして︑承応元年︑同二年と再三度にわたって誇膝を贈クた︒隠元も遂

にその懇な誠意に感じて東渡の決心をなし︑承応三年︵請の順治す一年︶ 正月︑責柴山の大衆にその決意を告げ︑ク

い で

法 席

を 弟

子 議

門 に

地 蔵

P

︑五月山左下り泉州に到り︑木庵に迎えられて闘元寺に入 p

︑ 六

月 多

く の

随 侍

を 連

れ −

一 反

門より乗船し︑七月長崎に着き︑興福寺に入クた

u

かくて興福寺も大に増築し︑隠一克は来初山の山号を与えたので

四八七

(20)

四入入

後は︑当寺の開法閉山といわれている︒明暦元年八月︑隠元は東上の途につき︑九月摂津富田の普門寺に入り︑江

戸に参府して将軍に謁し︑宇治に土地を賜わり︑業柴山高福寺を建てた︒山宗福寺は閥基古典的以来第九代出一庵法印ま

で︑すべて来朝の唐僧で︑その出身は栃江・江尚・山間・広東の各地であるが︑隠元渡来後︑唐僧は殆どその法釆

に属するものであクた︒佐一庵以後は︑来崎の僧がなく︑享傑十九年和僧大倫浄仁が監寺となり︑以後和僧が代

A

寺 と

な ク

た ︒

円 長

崎 市

史 ︑

地 誌

矯 仏

寺 部

一 五

一 一

i

一 九

一 一

良 ︶

昭和二十年︑原子様弾投下による爆風のため境内の諸建物に損傷を生じ︑今日友信お荒れ疲れた感がある︒現在も

境内の仏殿の右側に 祖堂がある︒正面に婚祖像および左右宮蛾二像を安置し︑その前に高案を置き︑その左右両

側 に

は 千

里 娘

︷ 爆

風 の

た め

倒 援

−順風耳の像がある︒梁上に﹁海天司福主﹂ の額があり左聯に

﹁ 沢

被 ニ

群 生

一 一

雨 露

新﹂︑右聯に﹁帆懸−四海一波議静﹂とある︒左府に間同帝︑右ド加に三宮大帝を配記している︒

︵ 昭

和 三

十 年

入 月

調 査

事例=丸

長 崎

福済寺

寛永五年 こ六二八年︶ 泉州の人覚悔が弟子の了然と覚意を伴クて長崎に来り︑ 一堂を建てて婿祖を杷クたのが

福済寺の起原である︒当時キリシグシ宗門の禁圧時代に︑唐人等が宗教上の取締を受けるにしても︑また自ら互に

宗教上の取締を友し貿易上の利潤を失わ友いように努めるにしても︑南京地方・議州地方・福州地方というように

地方別に寺院をもっととを得策と考え︑すでに南京地方の属人等によって建てられた興福寺の外に︑福済寺と出原稿

寺とが前後して創建されたのである︒従って︑その頃の唐寺では︑宗教上の高速な教義を宣布するなどというのでは

注︿︑単に渡海の安全を祈り︑宗教上の諸僕式を挙げ︑墳墓の地を得る乙とと︑適宜な方法でキ

q v

p y

教徒でな

い乙とを証明する乙とが大切であるとされたと考える︒覚悔・了然・覚意等は︑入港の唐船の仏像を福済寺内に持

(21)

たせてキ

q v p y

宗門に関係ある像かいなかを厳密に検査し︑唐船の海上安全を祈り︑選座の儀式や種

k

の祈祷な

どをするととを務めとしていた︒しかして泉州・湾州地方の船主等は︑布施・寄進・縁銀・香花料を納めて︑その

尊信はいよいよ厚いものがあった︒俗に︑初めとの寺を泉州寺と称し︑後に津川寺といった︒寛永十四年六月覚悔

が他界して︑了然・覚意が看坊となったが︑相クいで他界し︑度安二年六月︑泉州の入植謙が来て寺に往し︑乙の

代に伽藍・堂塔が大いに整備された︒隠元は︑明暦一元年に︑泉州開元寺の木庵に招請の書を送クたので︑木庵は同

年七月に来的

J

︑一稿済寺に入った︒彼は︑後に︑隠元の召により︑高治三年東上し︑寛文四年九月隠一冗退隠の後を承

りて︑宇治の高福寺第二代の堂頭とたった︒福済寺では覚悔を開基とし︑苗皿謙を重興関山といい︑木庵を特に開法

と称する︒二代慈岳定深以後七代の大鵬正粧まで住持は︑いやれも唐僧で泉州・誇州の出身であり︑ただ第六代の

全般広昌だけが︑同じ福建ではあるが延平の人である︒大勝の後は来崎の僧なく︑和僧が代

A

監寺として明治に及

ん だ

︷ 長

崎 市

史 ︑

前 掲

二 四

九 瓦

| ニ

九 四

頁 ︶

当寺は昭和二十年︑原子爆弾投下のため生じた火災のた

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︑堂ハ予が全部炎上してしまクた︒もと寺地内に庫裡の

東側に援し主日蓮堂︵一名観音堂︶があり︑正面筆上には︑観世音菩⁝隆・普財章子・章駄天・見沙門を奉犯し︑左援

長崎「駕祖」の源流と背景

に妨位と左右両宮蛾の像を︑右壇に︑関帝・関平・周倉等の像を安置し︑筋祖の一望前に﹁海天話仏﹂の額があった

らしい︒友缶︑華商各船に奉持した鍛祖を在港中預るための動祖棚の設けがあり︑その梁上に﹁海旬維寧﹂

﹁ 慈

永済﹂の額があったという︒

︵ 昭

和 三

十 年

八 月

調 査

Eo

長崎 崇福寺

一冗和・寛永当時日本に来る唐船は貿易の利潤を得る乙とを唯一の目的と注したのに︑とかくキリシグシ宗取締の

四 八

参照

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 一六 三四〇 一九三 七五一九八一六九 六三

第一章 ブッダの涅槃と葬儀 第二章 舎利八分伝説の検証 第三章 仏塔の原語 第四章 仏塔の起源 第五章 仏塔の構造と供養法 第六章 仏舎利塔以前の仏塔 第二部

チ   モ   一   ル 三並 三六・七% 一〇丹ゑヅ蹄合殉一︑=一九一︑三二四入五・二%三五 パ ラ ジ ト 一  〃

︵原著三三験︶ 第ニや一懸  第九號  三一六

2 学校法人は、前項の書類及び第三十七条第三項第三号の監査報告書(第六十六条第四号において「財

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平 成十年 度(第二 十一回 ) ・剣舞の部幼年の部 深谷俊文(愛知)少年の部 天野由希子(愛知)青年の部 林 季永子(茨城) ○