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明治初年長崎の居留地外國商人と邦商との取引關係(二)

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(1)

明治初年長崎の居留地外國商人と

五︑アデリアン ︵和蘭︶と藤屋直三郎に係る件︵明治三−四年︶

本範町居住の藤屋直三郎はかねてオランダ商人了ヂリアソと取引関係があったが︑了ヂリアγに対して洋銀l五︑〇四一枚に上る支払残高即負債が生じた︒︵13︶これは了ヂヮアンから明指四年四月に提出した引合勘定苫︵3︶に

よるが︑藤屋側から同年三月に提出した勘定書︵11︶では一〇︑〇八四枚となっている︒何れが正当孜数字であるか

は史料では決定できない︒何れにしても当時としては巨額の負債である︒右の勘定書中に支払未済と放っている取引

品目が三︑四あげられているからそれを次に列挙する︒

洋 銀  二六〇〇枚⁝⁝⁝・鋸挽器械 二台 同   四二一枚四分三度⁝⁚鞍   九四背

同l   三六五枚六分三軍⁚⁝胴  乱

l

稿

フラネル    六三反

フランケ〃/− 八〇〇反

売掛代金支払の訴訟は明治三年八月頃提起されているが︑︵1︶その当時藤屋直三郎は商用で金沢から大阪方面え

明治初年長崎の居露地外国商人と邦商との聴引関係︵ニ︶

(2)

旅行中で不在であったために︑その息子茂三郎から父の帰宅まで猶予を乞う旨の口上書

( 1 )

が出されている︒金額

が巨大であるために︑その解決はかなり困難であqたようである︒同三年十二月十二日附(太陽暦)でアJアリアシか

ら本箱町にある藤屋所有の家屋左藤屋に対する売掛金の弁済を受ける一方法として譲受たき旨と同月下旬までに明渡

をしてくれるよう藤屋に伝達方依頼する旨との書面

(2

) が外務局長宛に出されているロ藤屋の邸宅は地面二四

O

坪︑建坪八Oι及ぶ宏荘たるもので︑他に土蔵四グ所あり︑その時価凡三千両と評価されている︒

(7

)

乙の邸宅は明治元年十一月に藤屋が中村嘉右衛門から買受けたものであるロしかし買受代金を皆済していなかった

ので︑その当時迄名義の苦替は停止されている︒右の家屋代金のうち千両程未払となづて居るので︑プデリアγに家

屋を引渡す前に︑アデリアγから中村建八郎え右の千両を支払ってもらいたき旨の口上告

(9

)

が︑明治四年二月に

藤屋直三郎から外務御役所宛に出されている︒売主は前述の中村嘉右衛円であるが︑とのず一川西では中村建八郎となっ

ている白ゐそらく建八郎は嘉右衛門の相続人であろう口右の家屋がオ一フγグ人との間の繋争事件の中心と怠る物件と

たづたために明治三年五月末日附を以て︑﹁町方預け﹂

(6

)

とたり︑本語町の乙名古田宗十郎が外務御持所宛に口

上書

(5

)

を出している︒その口上書に﹁同入居宅の俵は未だ引話相名乗居候訳柄にも無御底候得共右家屋敷ニ付若

万一何方え相談ニ及ひ金子借用仕候欺又は如何之風間等承り及候はど早速御居申上候様可仕候依之此段以書付奉申上

候以上﹂とたって居り︑乙名の管理下に沿かれたわけである︒

この事件は容易にはかどらや︑明治四年二月廿九日附で︑アデリアγと内談したいので三月三日まで五日間の猶予を

乞う旨の口上苦が藤屋から外務御掛所宛に出されている︒

( ω )

更に同年三月八日附で﹁別紙勘定差引書之通アJ

アシ承知仕候待は当月廿日限り珊無相違明渡し仕候此段以書付御詰申上候以上﹂との口上書(四)が出されて居り︑

藤屋の方でも家屋の引渡を覚悟したらしく︑事件解決え一歩を進めた観がある︒右の文一一日中の別紙勘定書とは﹁党﹂

(日)の意味で︑それは藤屋から四年三月に外務御役所宛出されたものである︒それによれば︑藤屋の負債は洋銀一OO八四枚七分四厘である︒とれはアJアリアシ拠出の勘定者にある一五︑O四一枚より少い︒それに対しては家屋

を引渡し︑更に家屋の価格を差引いた残の負債の介に対しては︑いわゆる出世証文で︑﹁私出世仕候上残金返済可仕

(3)

1i 

侠﹂(日)とある︒即ち︑将来返済の能力が生じた‑ならば支払う回日の約束をしたものである︒

結局︑アJアリアシが家屋の売主であり旦ク現在その家主である中村建八郎に対し︑買主である藤屋直三郎に代って 家屋買受代金の残金千両を支払ったために﹁家屋敷の名前切替等之儀其筋え申立候様可仕候﹂となって︑アデリアy

の所有に帰したようである︒乙れは四年六月廿九日中村建八郎から外務御役所宛に出した﹁御詰証文﹂

(M

)

て明かである︒

命乙の家屋は元治二年四月藤屋が野田屋喜次郎から三百両借用した際の根抵当とたっているが(日)︑乙の関係に

ついては如何に解決されたかは史料によっては明かになし得ない︒しかし近代の法理から言えば︑借主が支払不能の

場合には︑抵当となっている不動産は債権者から差押えられ且ク競売に附される危険をもクわけである︒

(1

)

乍恐奉願上口上書

関商アテリアγより品物代金之依に付奉御訴訟候趣被仰聞奉長候然る処父直三郎俵旧来︑より金沢表え罷越当四月

下旬用向相済大阪表迄罷帰申候処駒市シキフ同所え罷在品物引合方に而大阪表金沢蔵屋舗え願立候趣に而同所え

引何回メニ相成今以帰郷不仕難渋至極奉存候何分直三郎帰宅不仕候而は御詰難申上俵御座候間何卒格別之御仁恵ヲ

以帰宅仕候迄御猶予被為仰付被下候様奉願上候此段以書附重畳奉願上候以上

明治三年

庚午八月十日

+.

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⑮ 

前書之通願出候ニ付奥印仕候

明治初年長崎の居単一地外国商人と邦商との取引関係(一一)

(4)

吉 掛

回 名

⑮ 

︿2

)

長崎一一於テ千八百七拾年第十二月十二日庚午間十月廿日

外務局長貴下

一去土曜日拙者貴下え御談申置候能町家屋之俵ハ拙者所持致度存候問当月下旬迄に明渡し候様藤屋直三郎え御達ー

間十月廿日

西

VA

(3

) 

藤屋直三郎引合勘定者

宅万九千五百枚

七十年第一月

待:

シキフ氏と決算高

但此高之内壱万五千枚は加州之偽一証書差出残四千五百枚は白介証書差出有之候

此洋銀千百三十三枚三分三犀

洋銀千六百枚 鹿

鋸挽器械式ツ

加州家え引詰之分

鞍九十四脊代兵庫にて払入

胴弘代右同断

(5)

洋銀宅万五千百四十一枚四分一一服七十一年第四月之残高 千八百七十一年第四月

~

(4

)

永代売渡証文之事 一今般拙者所持之家屋敷別紙約定説文之泊先波中処実正也代金皆済御波之節共詐御名前え切替相波可申候勿論当家一 屋敷ニ付親類他より故障ケ問致依毛頭無之為念町方御役印申詰一札差出候処伺而如件 明治元年辰十一月

whH 

前 山

前者之通相違無之候元御貸附の拝借金皆納相済奥書泊印いたし候上は名前明替可申候為念奥印いたし置候

(5

) 

呈主ti

と士ア

刀ミt

⑮ 

作仇ドhH

⑩  外浦町人別本箆町住居藤屋直三郎依当節外国人え引合有之被願立候趣を以御沙汰被仰付初而承知仕候右ニ付当時

同入居宅之俵は未た引詰相名乗居候訳柄にも無御座候符共右家屋敷ニ付若万一何方え相談ニ及ひ金子借用仕候敗 又は如何之風間等承り及侠はど早速御居申上候様可仕候依之此段以書付奉申上候以上

民午五月晦日

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吉 持 団 名

明治初年長崎の居尚地外国間人と邦向との取引関係(二)

1

7J

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品 目

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♂ 

J白 リ

(6)

︿6 )

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I

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右之者所持之家屋鋪土蔵共今般外国人より之引負ニ付町方え被成御酒候旨御沙汰ニ付取調候処去ル八グ年以前一亥年

右為根証野田屋喜次郎より金三百両先乙名中村富三郎奥印ニ而借用致シ追え払入等茂致居候符共直三郎侠旅行中一一

而碇と勘定合不明ニ付帰郷之上猶取調可申上候右右家屋錦之依者売譲渡等為仕侠節者前以御届可申上候以上

庚午六月四日

( 7 )  

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⑮ 

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入 表 入 表 口 口 十二間

式十間

十問

八問

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O

I ¥  

四グ所 午 金 六 凡 月 三

両〆

{

以上

(7)

︿8 )

E告 内

三 同

}

主 同

i

七戸前

肥後商会へ貸渡世申候 今石灰町笠野何某え貸渡置中候 油屋町佐藤六十郎え貸渡世申候

私所持之口問え入置申候

dM   右は本箔町中村健三郎土蔵七戸前私借詰居候内書面之通貸渡註申侠依て此段書附ヲ以申上候

明治三年午十月七日

i

44k 

前市首之副一申出侠ニ付奥印仕候

︿9

)

右町持乙名兼務

乍恐以書附奉願口上書

明治初年長崎の居尚地外国商人と邦商との取引関係(二)

4

⑮ 

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⑭ 

⑪ 

(8)

I、~~~i-f

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蘭商アテリアY

並シキフえ品々代共外勘定不足之依ニ付私所持之家屋鋪明渡候様同人共より願立候段御沙汰之趣 奉長候右は是迄引合残り高皆済寄招致呉候て家之伎は急速明渡可申候間何卒格別之御憐叫訟を以御利解被為仰付被 下候様奉願上候元右家屋舗代之内千両程中村建八郎方え相残居申候問何卒引渡前アテリアシ工り建八郎え相渡候

様奉願候右願之通例一河川容被為成下皮比段以者肘重ねて奉頗上侠以上

明治四年未二月

37

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乍恐奉願口上書

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RhH 仇HUJ

4ル モ

関商アテリアシ並シキア引合之俵ニ付内談仕度卒存候間今廿九日工り三月三日迄日数五日之問日延仰猶予被成下

候様奉願上候右照之通御詐求被成下度此段以主日付奉願上候

辛未二月廿九日

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前書之通願出候に付奥印仕候

︿ )

一路屋

亡と

名、

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A 

⑮ 

WAV A

一 川

(9)

JP

九千四百拾五枚式

AA六厘

此処に

二千百六拾七枚

, 

稲葉氏註文代前渡之分

桁え口銭分

ノコ明機械式揃

本籍町居宅相渡し中村建八郎相渡し残り高

鞍九拾四脊 縞サワ︐イ百七拾反 胴乱代

¥ 

ブ一フネル六拾三反ブラシケツT八百枚

加州藩商人共外取替金咋夏引合仕松田氏伍堂氏御取立相成シキフ殴

え相渡約定高

右之通双方勘定差引書御座俣然る上は右借用高之内に此度私居宅相渡し申候追而惣引合相済中候上借用相残り高私

出世仕段上残金返済可仕伎に付何卒格別之御仁恵を以右願之通御詐容被為成下候様以書付中一本願上候以上

辛未三月

11

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A r ‑

‑ 凶μ

︿

乍恐奉腕口上書

明治初年長崎の居尚地外国商人と邦商との取引関係(二)

⑪ 

(10)

私居宅之儀ニ付急速明渡シ候様御沙汰被成下奉長候然ル処別紙勘定差引書之通アテリャγ承知仕侯得は当月廿日 限り明無相違明渡シ仕候此段以書付御請申上候以上

辛末三月八日

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一企三百両

右は籍町藤屋家屋敷引合之為届出置侠骨外務局長より正に落掌いたし候事

七十一年第八月十五日

︿

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︿U

)

一金式百四拾四両 辛未六月廿九日

⑬ 

γ

右者私本籍町へ所持之家屋敷先年藤屋直三郎え売渡候内金千両話取不足有之候処右家屋敷直三郎より和蘭人アテリ

γえ引合有之訳を以同人工り右之高当御役所え持出候一一付而者私儀御貸附金返上納残並利足とも都合七百五拾六

両庶務局え御引継残金書面之高御下ケ渡被下髄ニ奉詰取候然ル'上は右家屋敷名前切替等之俵共筋え申立候様可仕候

依之御話一説文差立申候処如件

明治四年末年六月廿九日

前書之通奉申上候ニ付奥印仕候

中 舘

村 田I

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⑮ 

(11)

鶴 年 田 寄

⑮  ( )

右之金此度就要用怯ニ借用致候処明白実正也依之返済方之俵は御定の利足相加え来未十二月限り元利之辻柳無相当理

返済可致候若万一相滞候節は引当の家屋舗御勝手に御取計可被成候若其節親類他より一言之具議申間敷候為其御町 方御役印願詰差出世候上は毛頭相違無御座候佑一札如件

元治二年己四月

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殿

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六︑錦珍号ハ中国﹀と山田屈に係る件(明治五年﹀

ぽ人鈎珍号郭清は長崎の中国人の居話地である新地に居住している華俗であるが︑明治五年三月廿一日に砂糖を西

古川町居住の山田屋え持にて完渡した︒その砂糖は順ばん砂糖二一O斤︑唐黒二五O斤合計三七O

(5

)

でその代

価は廿三両二歩であった︒順ばん砂糖の意義は明かで危いが︑順ばんに別段の意味はたいようで︑唐黒に対して普通

の赤砂糖を意味するかと思われる︒勿論︑﹁順ばん﹂に赤の意味はたいが︑・おそらく当時売買された砂糖袋(一丸︑

二丸と呼ぶ)に帯号がついていたからかく呼ぶのであるう︒白砂糖は当時は貴重品で主として薬用に使用されていた

からである︒

明治初年長崎の居尚地外国商人と邦商との取引関係(一一)

(12)

然るに代金支払の期限の三月廿九日にいたっても﹁分厘も﹂支払わないロ約定書があるので支払を追え催促したけ れども﹁空言市己﹂で︑支払の意思はたい︒四月七日に郭情自ら山田屋に赴き支払を催促したととろ︑金を支払わな いのみたらやノ︑感口を放ち︑その上川品物をもって成した︒す日Tく身を避けたために傷は受け︑なかったし︑その際手に 持って居づた刃物は奪取って御役所に差出した︒山田屋を召捕り︑吟味の上︑金を支払うよう御取計左乞う回目の訴状

( 1 )

( 2 )

が同年四月七日附を以て提出されている︒

乙の事件は比較的に簡単なケ

1

スであるが︑刃物を以て成すたどの行為をなす背後には︑当時前人に限ら十︑一般日 本人の問に紅毛人に比べて︑唐人を幾分対同視する感情がひそんでいたのであるう︒乙の事件は八月廿一日にいたり役 所が廿三両二分の代りに山田屋から箆司宅抗を取妨げ︑錦珍号に下渡すことによって解決した︒

( 3 )

(4

V

(1

) 兵旦新地錦珍号郭佑京為回古川町山田屋於三月十二日向小庄除買糖質計欠金式拾三両式歩約限三月廿九日清還

有立欠単一一紙為拠及至到期向討分匝不肯治還任従推討只是縞限無窓今日伯再到訣屋取討不料訣山田心存佐一存不但不

肯還金基至出言感戸因是較問而訣山田党敢持万民殺佑見勢兇悪急閃逃開方不至受傷乗勢将伊手中之刀奪来登較吠宛 併歴情形皇乞 外務局老爺為属作主勃提訣山田屋到案訊究為追欠金帰還厳責英行兇之罪以警泉蹄則感諦徳風於無流失 明治壬申年四月七日 以上拠葉等情是実

入閣総管

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唐人錦珍号

(13)

︿2

) 新地錦珍号郭情申上候ハ西古川町山田屋義三月十二日私方工り砂糖を懸に買右代金式拾三両弐歩三月廿九日間的 り清算可致約定ニ而則約定書も有之侠ニ付期限に至り介厩も遣し呉不中俣ニ付追え催促致し候へ共空言而己ニ而今 日も私依同人方え参り催促いたし候処不料も右山田屋併存之志に候哉金子清算不致而己たら宇窓口致し其上取駁し 究には刃物色持威し伎ニ付私義勢に恐れ手早く身を避け候而庇は受不申候得共北︿勢に乗し手ニ持居候刃物は奪取則

・御役所へ差出御居中上候問右之事情外務局御役人様迄奉願候問何卒御汲介被下右山田屋御召捕御吟味之上清算致し 俣様紋成下右血恭之振舞御戒紋下候ハど難有千万奉存候 明治壬中年四月七日

唐人錦珍号 右願伎依相違無之候

判 却

(3

)

前被山田屋侵欠市金式拾参両弐歩正経亦懲一切れ在実今蒙究弁追出衣樹壱個抵還欠項今経両恩給案各無反悔恐口無

湾立此牧単宅紙付照

八悶稔管

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・ ロ μ壬申八月廿宅日

1 2 2 │  

ん川人道r

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(4

) 一先達市山田屋え金式拾三両式介之引負有之候問御願申上置候処惇司宅科仰取拐に相成右高之処え御下波相

壬申八月廿一日

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明治初年長崎の居尚地外国商人と邦商との取引関係(二)

(14)

ESF 

(5

) 

一︑順ばん砂糖

百式拾斤入

一︑唐黒砂糖

式百五十斤

浜崎沢屋徳蔵より届ケ置

七︑程稼堂(中国)と田中順三郎に係る件︿慶臆四年) 新地居住の船主程稼堂から唐船修理大工であり且ク材木の売買を以て渡世している本籍町居住の田中順三郎に対し て︑銀三六貫七五

O

匁に上る債権の支払請求事件である︒慶応四年七月に訴が提起されている︒十二家船主とは︑当.

時長崎在尚の中国人で唐船を所有し︑海運業を経営していた富裕なる商人が十二入居ったのをいう︒新地の海岸には 陪胎修理工場が徳川時代からあった︒そ乙は徳川時代を通じて抜荷(密貿易)をなす絶好の場所の一でもあった︒

問中は従前からの規則によって十二家船主の一人である程家に出入している唐船修理大工兼材木商である︒材木を' 仕入れるにクいての浜本金を先代の程家から度え融通してもらって居り︑その金額は銀札三六賞七五

0

( 2 )

問中の主張では銀三四貫七五

O匁とあり

( 1 )

( 2 )

︑程稼堂の主張では三六貫七五

O匁となっている︒

( 7 )

( 8 )

乙の場合何れを信用すべきか決し難いが︑債務者である日本人の方では多くの場合︑債務額を少く主張 する傾向が見られる︒本稿(五)のアヂリア

γと藤屋との場合にもこのことが見られる︒差引勘定の残額は程稼堂の 代になって手形に書替て渡しておいた︒支払にクいては唐船入港の度毎に一船から銀札式貫目宛を田中に渡してくれ る約束であった︒とれは唐胎修理の手間賃であろう︒田中が唐船に売込んだ材木代金にクいては︑先方で田中に対す る貸金と差引勘定をなしてくれ︑右の手間賃と材木代金との合計額が貸金より多かった場合には︑唐胎の方で銀札を

(15)

渡してくれる例であったロ史料めの文言は次の工うに簡単である︒﹁カ納方之俵は唐船入津の度毎老船主り銀札式貫

目宛相渡候申極に市売込候材木代銀之内工り彼方に而引会候上残銀札相渡来候俵に御座候・:・:﹂しかしその内容は右

の如く敷術し'て解せざるを得たい︒

然るに﹁去る未年﹂(安政六年)以来︑十年間にわたって︑唐胎の入港がたくなったので︑仕事が友くなり﹁一切

休商﹂の止むなきに至った︒従って︑金子の調達もできたいので難渋に陥り︑負債を支払うととができたかった町去

る寅年(慶応二年)十一月に程稼堂から御役所え訴え出るととを聞いたので︑通事の呉碕三郎と鄭右十郎に頼んで話

合をクけてもらいその際︑二O両を支払って一応解決した筈である︒然るに今年(慶応四年)七月にたって御役場へ

出訴した趣を聞いて驚いている︒長年商売を休んでいるので︑現花窮迫して居り︑﹁別祇割合書﹂

( 9 )

の工うた分割

払以外には金子調達も出来兼る状態である︒以上は慶応四年七月に田中から会事方御調所宛へ拠出した嘆願書

(2

)

の内容の概略である︒

との事件は同年七月十三日に公事方調所の掛官の裁定で︑程稼堂に対して銀三六貫七五O匁(銀三︑六七五両)の

負債に対して︑田中から宅分銀廿両と柿材四本を引渡し︑負債額の残余の部八刀については寄拐(支払免除﹀とする乙

とによって解決した︒︿

3)

( 4 )

(

5﹀ ・

(6

﹀それについては同年八月に両当事者から夫え請取皆済証文と済口証 文とが公事方御調所宛に出されている︒程稼堂からは﹁以後決而具議後悔等の俵更に無之釘而請取皆済証文如件﹂

(7

)

(

8)

との文面の証文︑田中からは﹁向後右一件に付双方出入無御座候依て済口証文差上申候﹂(日)との証

文が出されている︒

右の楠材の内三本は夫え長さ二丈余︑巾二尺九寸︑厚一尺余に及ぶ大さを持っている叉残の一本も長さ九尺︑巾四

尺︑厚一尺一寸に及ぶもので︑貴重材に属するものであるう.それは田中に預けられ︑それに対して預り証文を同年

八月廿七日附で田中から公事方御調所宛に出しているロ

( ω )

その材木は従前からの規則によって取のけて沿いたも

ので︑目印をつけ本箱町長手の海中に浸けて・おいたが紛夫の・おそれがある︒既に当節その中の一本は︑紛失した乙と

があり︑﹁所々相尋候処﹂やっと行方がわかったので︑御役所の御吟味を受けた次第である︒無期限に預っておくわ

)

一 五

(16)

'

けにも参らぬ故︑程稼堂の方で速かに引取るよう御取計を願う旨の願書が︑事件解決の翠年に当る明治二年三月十日

附で︑田中から外国管事御役所宛に出されている︒(臼)

向︑事件が解決し︑両当事者から以後具活注しといーぅ済口一社文が提出(八月)される直前の︑七月十七日附で程稼

堂から﹁十七日に待物(桁材)並浪子受取可申様取松有之候得共向約定之材木寸尺相違に付:::﹂の文書が

(5

)

(6

) 出されている︒約束の材木の寸法が追っているので︑更に突渉をしなければたらない︒話が解決しなければ︑

先に受取った銀廿両は返却する旨の文面である︒その後済口証文が両当事者から出されているととろを見れば︑との

点については話がまとまったのであるうと考えられる︒

1

)

乍恐以書付奉煩候 元十二家船主程稼堂より私俵相手取銀札代市出入一件ニ付御訴訟奉申上候処追え御呼出之と御理解紋仰付示恐入 候右ニ付元銀札代三拾四貫七百五拾匁之処当節取持之楠板三枚並金式拾両差立共余は寄拍之御取計被為成下主丑

難有仕合一本存候然上は右柿板三枚之依御入用之節吃一御預被仰付憶に奉預候金式拾両之依は早速調達可仕処何分今

日ニ至り調兼侠ニ付御歎願卒中上候処当十七日迄日延御猶予被仰付税淵有仕合奉存候右ニ付日限通り無相違持出相

辰七月十三日

船 田J

田 修 中 方

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(17)

前書之通願出侠ニ付'児印仕候

宗ー七廿υA

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︿2

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十二家前船主程稼堂より私依相手取御願申上候一件手続菩を以御歎願奉申上候 一私依先規より唐松修理方材木渡世仕御蔭を以家内養育仕難有仕合に奉存候然ル処先代上り右材木類買受候に付而 は英大之入費ニ付兼而貝調置候半而は差持之節差支候問先代船主より追え銀札借用仕払不足之銀礼代三拾四賞七

百五拾匁之一口同右程稼堂船主之代に至り差引勘定を立残之介手形に書替相渡置申候カ納方之俵は唐給入津の度毎宅

ぬより銀札式貫目宛相波候中極に而売込侠材木代内政之内より彼方に而引去候上残銀札相渡来候儀に御座候付而は

唐船欠年仕候ハ

t λ手元より別段持出候枢等は更に不仕候然ル処去ル未年以来庇船欠年仕候ニ付而は私俵一切休商 仕候故別段銀調達仕候依も出来兼難渋罷在候間是迄不納仕居申候元去ル寅年十一月右程稼堂より御役筋え願立可 申段承り込候ニ付御願申上候而者御上様え御苦労相持奉恐入候伎は心付候ニ付則通事方呉碩三郎敗鄭右十郎段相

相︑起能御理解被仰間候様申入侠処御取扱之末位一一余儀情合ニ押移り不得止事手元より金式拾両調達仕右十郎殿御取

計ニ而共瑚一応事済相成居申候

ニ当節御役場え御願申上候趣を以御沙汰を受奉驚入候右は御役筋え御苦労御持m m

ケ候而は踊以恐入侠仕合ニ付早速仲人を以度え熟談内済仕度色々と割方等仕混は申入候得共強情申張承引不仕侠 依て何共恐多御願事に御座候得共連夜仲人之取扱一一而は承服不仕私依も前文申上候通り休商ニ而当時極々窮迫罷 在候待は何分右内談割合之通之外調達も出来兼中候乍然是迄唐船無浦入船仕侠ハム右様不納仕候訳柄ニ者且而無

御座一候得共全唐一船欠年仕候故右之次第ニ件仰座候付而は一克十二代議船主顔安仰と申者此依初代と承知仕居殊ニ十二家荷

主代之ものニ御座候由当時は唐国え帰国仕居候若哉波福仕右之一件承り候ハ

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如何故障申立候哉も難計其節に至 り候而は還而混雑可仕候ニ付右之段符と御取札之上後難無御座候ハ

hA別紙割合唱一一日之通りニ而納得仕呉候様御役場

明治初年長崎の居尚地外国商人と邦商との取引関係(二)

(18)

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之御成光を以何卒御理解被仰付被下度奉願候願之通被仰付被下候ハ

急難相凌御厚恩之程忘脚不仕難有仕合ニ奉・‑ A

存候此段以帯一日付偏ニ御歎願奉申上候以上

唐胎修理方

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調

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神倫未叩謝今特送呈牧拠宅紙祈為ム口開如有不妥之処希為 斧正部下再行抄写可也此致並候

刻安

再者牧拠雄書但至十七日限同観料伯非楠木不牧或朽欄不堪不牧乞懇預為致意田口先生是要又記

七月十四日

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咋日種々御心配煩はし候え北ハ未だ御礼に参上不仕候只今受取一枚差上げ候問何卒御覧下され度候若し不適当の

処有之候はど御訂正御返却下され度当方にて清書仕候ても宣しく奉存候序に御機嫌御伺申上候 二伸受取書き申し侯へ共十七日に至り直接材木を拝見し若し楠に無之候はど受取不申叉茜しく関朽致居候はどとれ 叉受取不申候前以て田口段えも御伝へ長き下され度候 七月十四日

(19)

14

三と

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(5

) 所有順三欠款一宗己干本月十三日蒙 経営会員談妥訂十七日牧貸牧銀不料其約定木料尺寸不符故将歩銀式拾両正先行暫牧侠談妥不定佑将歩銀鱗還此照

辰七月十七日

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(6

) 順三郎引負一件既ニ当月十三日持り士官ニて十七日ニ荷物並銀子受取可申様取極有之候得共倫約定之材木寸尺 相違ニ付依て先ツ宅分銀式拾両受取置猶談し方届兼候節は右銀子持出し可申候

辰七月十七日

幸 稼

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所有順三家曾於己未年三月結欠銀三千八百七十五両ロ刀立葉拠式十枚均式十次抜還即子庚申年劃牧式百両前該銀

三千六百七十五両数年以来展取分文不還故干今戊辰年六月具哀 経弁所今己蒙 経管諸位公員断還楠木四塊叉現金式十両倫少之数当面譲去今巳結帳清算将粟拠十九枚尽数交還以後決無具言反悔等 情為此立明牧清拠存証 此項借款日後備有母論唐人向順三銭舌以此宛付視稼当理直総帰順三無渉此照

慶応四年辰八月

明治初年長崎の居尚地外国商人と邦商との取引関係(一一)

(20)

見立唐館総管

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鄭 程 仁 稼 瑞 堂 図 図

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8﹀順三郎え己未年三月引負銀三拾八貫七百五拾匁之処証書式拾枚左差出し都合式拾度に払納之約定に有之庚申年 式貫目納方相成猶不足銀三拾六貫七百五十匁是迄毎え催促いたし候へとも少も払入無之依市戊辰年以書付 御調所へ願出候処御掛り御役人御裁判を以柏木四本之上金式拾両御渡し被下猶不足之分は寄拍にいたし決算勘定皆

済右証書拾九枚不残相渡し候以後決而具議後悔等之俵更に無之の而話取皆済証文如件

右引合之伎に付後日庶人共之内順三郎え故障申述候節は此証書為御見紋下候はど私依申開可仕順三郎は毛頭引合

無之候

慶応四年辰八月

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拠 二 人 家 賠 在 郷 館 程 尚 総 船 代 主

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此払入

金式拾両当節差出度

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(21)

金拾両ヅtA来己年より始皆済定年え差出度 但半季五両ツL

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此出し切

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差上申預り証文の事

j享巾長'厚巾長厚巾長

式丈七尺式尺九寸宅尺五寸

式丈式尺式尺八寸壱尺式寸

式丈宅尺式尺九寸宅尺四寸

明治初年長崎の居尚地外国商人と邦商との取引関係(二)

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(22)

長九尺巾四尺厚宅尺壱寸

右之口問被為成御預飴に預hり召置中候克御用之節は何時茂持出可申候為後日預り証文釘而如件

辰八月廿七日

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御調所前書之通願出候に付奥印仕候

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吉 肝

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差上申済口一註文之事

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⑮  元十二家船主程稼堂より私儀相手取銀札代滞出入一件ニ付御訴訟奉申上候ニ付追え御理解被仰付奉恐入候右ニ付

銀札代三拾六貫七百五拾匁之処当節正金式拾両と別祇之楠木四本差出英余寄拍之御取計被成下全御成光と難有仕

a合三者・存候然上は向後右一件一一付双方出入無御座候依之済口証文差上申候処釘如件

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御 事

調 方

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(23)

前書之通願出候ニ付奥印仕候

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吉 肝 田 煎

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( ) 一去辰七月元十二家船主程稼堂より私儀相手取銀札代滞一件ニ付御訴訟奉申上右一一付銀札代之別紙楠木四本と正金 式拾両差向ニ而寄拐の御取計被仰付則済口一説文奉差上難有仕合ニ奉存候然ル処右楠木類程稼堂え御引渡可相成処 品柄ニ付直ニ受取方難渋之段御願申上候趣を以入用迄は私に御預被仰付候ニ付預り証文差上置則裏年海中ニ光規 より取置候佳目印を付差置申候然ル処右之内当節壱本紛夫仕候ニ付相驚所々相尋候処漸く行方相分り御吟味に相 成難有仕合ニ奉存候右は無限り茂永く御預申上置候而は此後如何之難有之哉も難計相恐候一一付何卒速ニ程稼堂え 御引渡被仰付被下度奉願候若叉急速に受取兼候俵候ハ

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人足相雇私裏手え引直度候ニ付其段同人え御沙汰被成下 納得為仕度奉存候付而は引直方として諸入費も相掛候一一付此依同人より差向呉候様被仰付被下度奉願候依て此段 乍恐書付を以偏ニ奉歎願候

己三月十日

外国管事御役所 前書之通願出候ニ付奥印仕候

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明治初年長崎の居尚地外国商人と邦商との取引関係(二)

(24)

公安号・源隆号(中国﹀と岩木尾栄三郎に係る件(明治四│五年﹀

犬浦居住の唐商公安号は明治二年九月廿一日に白砂糖を百斤にづき七両二令三朱替のもの五︑八八四斤一四O

同四両三八万三米替のもの四︑七一九斤合計一O︑六O三斤余︑乙の代金七七六両二分二宋を広馬場居住の岩木屋栄三

郎に売った︒そのうち二五O両は受取った︒残の四二六両二令二朱については﹁毎々催促及び手形をも差入﹂て居る

が︑更に支払ってくれない口追え年末になるが甚だ差支えるので︑不得己出訴に及んだとの書面が︑同年十二月六日

附で公安号から外務局長宛提出されている︒

( 1 )

翌明治三年二月九日に到り︑岩木屋栄三郎の兄友之助の名俵で︑外務御役所宛に口上書

( 2 )

が提出されている︒

それによれば︑岩木屋は﹁損亡相嵩且是迄諸向江借財出来繰合﹂っか宇︑全く支払の目途っか宇︑十方に暮れている

次第である.又︑右の外に別紙﹁覚﹂書

(3

)

の通り︑諸方に数百両に上る負債があって負債の全部を合計すると七

六五両二分に上る口﹁勝手ケ問敷御願事﹂であるが︑各債権者を御呼出の上︑事情を御説明に左り︑各債権者に諒解

させて頂き度︑身代限処八乃を受け分散払を昨さたい決心であると述べている︒

岩木屋は砂糖︑犬豆︑泊等の食料品の外︑炭︑帯木︑たばζ︑柄杓等の荒物を売っていた

( 3 )

( 5 )

小商人らし

く︑明治三年二月十日十善寺口の乙名をしていた百太郎から外務御役所宛に出された岩木屋所有の家財の明細につい

ての﹁覚﹂菩

(4

)

によって︑その生括が窮迫していた乙とが推察される︒とれらの家財は競売に附するため﹁村方

預ケ﹂になっているuとれは明治三年十月八日附で︑岩木屋から外務御掛所に出した﹁口上書﹂

(6

)

によって知り

得る︒右の家財の外︑岩木屋が家主に預けて・おいた借家の敷金が廿両あったが︑とれも介散払の時に家財売上高に加

えて︑債務の弁済に充当されている︒

更に三年二月一一一日附で︑源降号伝翰(奥興号ともいう)から︑岩木屋に対する砂糖売持代金二四六両二分二米の

支払請求の訴状

( 5 )

が外務御役所宛に提出されている︒とれば明治二年十月に五九六両に相当する砂糖を岩木屋に売

ったが︑そのうち三五O両だけを受取った︒

( 3 )

残金二四六両については﹁毎々催促したが︑求人相見え不申︑明

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