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英 図 マ ナ ! の 崩 壊 過 程

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(1)

(2)

三︑貨幣代納制度

i

(3)

英国の封建制度はノルマン征服

E A

Z O

切時︶によって確立された︒

O

ι

γ

I 公 園

1ム︵英国の王位にクいてからウイ

p

アム征服玉と称される︶が︑一万二千乃至一万五千の軍隊と七五

O

に上る船団を率いて︑九月廿八日に英国の南海岸のベヴエンジーに上陸し︑英国征服の第一歩を印した︒次いで

へ 1

ステイングスの戦に大勝利を得て︑その年のクリスマス当日にウエスTミジスグ

1

寺院で王冠を裁いた︒とれ

より先︑既に彼はテIムズ河のほとり︑

γ

のシティーの入口に︑後代においてロ

γ

た城塞の最一初の礎石をおいた︒かくて︑従来のアングロ・サクソシ王朝に代クて︑フランス系のノルマン王朝が創

始された︒的

英国の封建制度の経済的基礎はマナ1

ER

︶制度である︒1ナの歴史は︑ノルマ

γ

征服透よりかに古くサ

クソシ時代から英国に存在していた制度である︒しかし︑それが完成されたのはノルマン征服以後︑ノルマシ誇玉

時代であるBその組織や内容にクいては別の機会に論じたから︑仰乙こでは省略するが︑長い時代にわたクて英函

英国マナF の崩壊過程

の中世社会を支えて来たマナーも十三世紀に入ると次第に山倒壊の兆を一示しはじめた︒その根本的原凶をなすものは

貨幣経済の普及並に発達である︒貨幣流通の増大一と共に︑従来の農村を中心とし︑自足的封鎖的経済の傾向が強か

ったマナーは次第に崩壊し︑都市を中心とする交換経済︑流通経済に移行し︑都市のギルドに経済話動の中心的地

位を譲らざるを得たく友クたのである︒

1 ¥ .  

(4)

7 ¥  

貨幣がその当時どの程度に流通していたかを知る乙とは史料の関係から甚だ困難である︒一冗来マナlの基本的性

格は自給自足的であり︑封鎖的であクたから︑ゆその初期には貨幣を必要とするのは外国貿易や国王えの納金のよ

うた場合に限られていた︒しかし時代の進歩と共

K

必然的に生産力は向上せざるを得ないので︑各マナーにおいて

余剰生産物を可能ならしめ︑かかる余剰生産物の交換︑流通の必要から一︑商業の発達在促すようKなり︑それに伴

って貨幣の流通も箸るしくなった︒又︑生産力の発展は各人の生話欲望の増加並に生話程度の向上を促進し︑それ

らが商工業の発達に一層の拍車を加えた︒商工業の発達と共に中世都市が次第に成立し︑都市の成立は逆に商工業

の発展を容易ならしめた︒

l三世︹

H M S i

寸♂当時︑その治世は穏かなものではたかったが︑造幣一附を有す

る都市は︑ピツドブオド︑プリスtル︑キヤン

F

l︑カアヂイフ︑グプリン︑ロンドン等三十数ヶ所の多数に

上クている︒かく多数の都市で鋳造される鋳貨が当時の不完会な方法で︑不充分な監督の下

K

発行されたから︑勢

い悪貨の流通在日見るようになり︑叉削取その他の方法で価値少き貨幣も流通し︑外国品物価の騰貴を見た︒他方当

時貨幣の使用が一般的になクて来た乙とは︑ユグヤ人の高利貸に一二七五年に﹂向利を禁じたとと等によクても推測

できる︒仰要するに以上述べた諸事情は相まクて英両の都市や農村に次第に貨幣の流通を増加せしめ︑

1制度

の校低から動揺せしむる上うになクた︒

1の直接的広樹壌過程としてλ通箱︑︵一﹀貨幣代納制度の普及C一︶黒死病︵三︶直領地の譲渡︵四︶農民

の反乱の三が挙げられるが︑それらのうち︵一︶とさ一﹀は貨幣経済の発達を前扱として始めて可能であり︑それ

なくしてはとうてい起り得ゑかクたものである︒第四の農民の反乱もその設も深い原囚として貨幣経済の発達があ

げられ得る︒何となれば︑貨幣代納制度の普及によクて︑農民が従来の夫役労働の負担を免かれ︑封建領主

K

対す

(5)

る封建的身分的縁日府関係から脱却するを得たことが︑農民をしてその人格怠識に目覚めしむる大たる原丙となった

と考えられるからである︒農民の人格意識の向上にクいては︑後で述べるように︑英国の宗教改革の先駆者逮の教

説の影響及び其他の諸原肉が存在するから︑単純に貨幣代納制度の普及にのみ︑その原閃を帰するととはでき友い

が︑それが重要た原因となクたことは明かである︒貨幣代納制度の普及というととは︑貨幣経済の発達が最も基本

的もな動因であるから︑農民の反乱も結局は貨幣経済の発達ということにその最も深い原因を考えられ得るであろ

中世に於ける欧洲諸国では︑英国のマナ1︵富田口︒同︶と略々同機の経済組織が一般

K

普及して居クた︒ドイヴの

︒ 円 ロ ロ

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口 町 田 同

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等その内容︑組織にむいてマナーと大差がたか

った︒我国の荘園に類似している︒かかる中世的封建経済の本質は︑封建領主に対する農奴階級の身八守的蘇属関係

であり︑被搾取関係でるクた︒それらの隷属と被採取との関係は︑主として中世の農村に特有な夫役労働を通じて行

われた︒当時の農奴階級は三

O

エーカー位の広さを有する自己の保有地︵さ門官門戸

EE

百三口

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22口一宮内凶︶に於ける労働の他に︑領主が直接に︑或はマナーがニヶ以上の場合には代官︵印お者恒三︶を通じて直

接的に管理︑経営する直領地︿句︒

B2

で夫役労働に従事した︒夫役労働には一週のうち二日乃至三

英国マナF の嵐壌過程

日を領主の度領地で領主のために働らく週夫役︵当Z︸向者三どと熔種や牧穂等の農繁期やその他臨時的に通信︑運

搬︑道路や橋の修築等の雑役に従事する普請或は臨時夫役︵切︒︒ロ君︒円

r p

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2R

が比較的に狭いと乙ろでは週夫役が二日であったが︑並月草闘がその代わりに加重された︒夫役労働は当日の食事を領主

から給される以外には何等の給与をも与えられなかクた︒

7 ¥ .  

(6)

7 ¥  

当時少くとも一週のうち二日乃至三日を領主の直領地で労働しなければたらなかクた農相院にとづて夫役の存在は

犬なる負担であり︑乙のとと乙そ封建的穂展開係の最も徹底した形式であクたが︑これから解放されたこと︑即ち

従来の夫役の代りに貨幣を以て代納し得るようになクたことは︑一の大友る自由の獲得であクた︒ただ時間的に肉

体的に搾取的労働から解放されたのみなら十︑従来の封建的身分的隷属関係から脱却して︑精神的に人格上の独立

を来さしむる起源とたった︒マナーを崩嬢せしめ穴諸カのうち第一の貨幣代納制度は領主が自ら進んで採用した場

ムロもあり︑或は農相似側からの要求によって不得止取上げた場合もあクた︒領主は農奴をモの慣羽n的た諸負担から解

hりに貨幣を牧受した︒その金で直領地℃働く自由美民を雇入れた︒第二の直領地の譲渡の場合には︑領

主が自発的に行クた︒彼は直接的に農地を通じて搾取する制度を全く放業して︑その直領地の経営を農民の手に委

ねた︒彼は農業経営者たるととを止め一︑大地主として発展した︒即JhJ︑その土地を小作人に貸し︑彼等から受取る

地代による所得で生活した︒何れにしてもそこにはもはや強制的な労働は存在しなくなった︒農奴はその夫役を貨

幣支払に代えることが許され︑中世的な農業経営は賃銀契約に基く法律関係にとって代られることにたク欠︒中世

的た身分的録属関係が近代的な契約関係にとクて代られるととになクた︒

﹁身分から契約え﹂の推移であ

る︒すべての社会制度はそれ自らに内在する矛盾を含むものである︒

l制度の存続を危くする諸傾向はすでに

十三世紀に始って居り︑それが零るしく促進されたのは十四世紀に入クてからである︒

....

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(7)

夫役労働を貨幣

K

K

早くから始クて居り︑

1

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一 一

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年以前にそ

の例がある︒貨幣代納は多くの動機が歯止友って生ヒたものである︒当時英国最大の封建領主である同王が取扱に困

難な中世的た夫役労働の代

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κ

︑それ以下の領主達も多くの場合不精不精忙汝される夫

役の代的陀雇傭労働を選ぶととを欲したのウオルグ1・オプ・へンレーは﹁慣習的友夫役労働はその仕事を怠旬︑

叉彼等の詐欺的行為

K

対して響戒するととが必要である︒﹂仰と書いている︒強制的友労働制度の下では多くの欠

点を伴っていたが︑領キ一は金銭を牧受するととに上って︑自己の領地を問的た方法で管理するととができた︒+十人役

労働は管理が困難であ旬︑非能率的であった︒叉モれは農業の発展に克服しがたい障害をなしていた︒領主は貨幣

代納制度に上って︑多数の監督の役人を節約するととがでさるため

K

直領地の経営の費用を減らすと・とができ

た︒農村院の側から一言︑えば︑夫役労働から解放されると去に工って︑彼の時間色努力とを専らその保有地に集中する

ととができる上ろに友ると共

κ

1の代官えの個人的な線属関係と積

A

友る圧迫から免れるととができた︒代

納された貨幣金額は一度決定されると恒久的伝性質をもっていた︒それ故︑十六世紀に貨幣の購貿カが減少した時

Kは領主の牧入は減少したが︑借地農

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K

変更するととは困難であり︑叉︑慣習的忙定った斌諜額を領主が適当と思う金額

K

改訂するととも難しかった︒

英国マナーの崩壊過程

貨幣代納の程度と内容守とには種々友る相違があ旬︑当時農奴が負担していた諸夫役をすべて一挙

K

解決する必要

も友かった︒農相似の方では設も圧制的友負担から最先に解放されんととを欲したが︑領主の方では設も彼に・とって

必要度の少い方面から一解放し工ろとする傾向が見られた︒物納地代は一般に鶏一羽Kづき二ベシス︑鶏卵十五個に

っき一ベシスの割合で金納化されたの当時農奴が負担していた運搬の義務が金納化され売場合もあり︑商倒な耕萩

(8)

や牧甜慢の労働を伴う場合の週夫役や牧穫期忙於ける普請が金納化された場合もある︒夫役労働の場合に︑領主が負

担していた農奴の食費やブド1消或はピ1ル等の飲物代が労働の価額を上廻る場合には︑普請はもはや領主にとっ

て有利ではも仏︿友った︒サセックスのパ1

1

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K

従事するととが要求されのマナーでは︑各農奴は二日間耕転

κ

三回の食事を支給された︒食費は五ベシスであ旬︑仕事の価値は四ベγスであったので︑領主は一ペンスを

損した︒∞一般忙並回青が最もおくれで代納される土ち忙たった︒週夫役は毎年定期的

κ

注されたが︑普請は領主の

欲する時に自由忙注されたのそれ故︑時候の変化忙応ビて︑領主が適当と考える時を選んで普請が要求された︒牧

K

K

週夫役の他

K

更に二︑三日を普誇のため一虻働かねば怒らなかった︒従

ってとの時期

K

は一週間のろち日曜を除く全部を領主のために働く義務があ一つ一死︒との牧獲期には農奴は婦女子は

除いて︑全家族を挙げて︑少くとも三人の働き手をひきつれて働かねば友ら友かっ一た︒更に︑農奴は六月廿九日しι

牧閣時の終る時までの間に︑運搬の義務官

23

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W

貨幣代納制度の程度に相違があったばかりでたく︑その時の事情忙従つで一︑恒久的友契約でなく一時的た便宜子

段とされた場合もあった︒それが永久的な性質をもっ一場合もあった︒

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ランドのグリ

1

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ハムでは廿四の保有地

︵ 三

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2 0

が農奴制の下

K

経営されていたが︑各保有地毎に農相院は二

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志を支払って居り︑夫役は存在しなかっ

た︒冨

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称される一一穫の農奴があっ−た︒彼等は農奴制の下で土地を保有して居り︑明らかに農奴の身分をも

っていた︒例えば婚姻税︵

B O R Z

畔︶を負担した︒しかし︑夫役は金納化してい段︒しかし領主忙とっては融通の

利く方法が有利であっ一たので︑或年は金銭を受取り︑他の年

K

は夫役労働を求めた︒従って︑黒死病以前に貨幣代

納制度が一般的た傾向として存在していた正論やるととは誤である︒その過程に統一的な動きは見られ注いのであ

(9)

英国マナーの崩壊過程

一つのマナーが貨幣代納制度正夫役労働制度止を突互に採用した乙とが当然あり得売︒との重要な事実を無

保したと・とが従来の誤解の根源であった︒ウイス﹁ウのマナーでは︑

OO

の夫役を貨幣代

納に変更したが︑百年後K

OO

以下を変えたにすぎ山なかった︒何事実に沿いて︑貨幣代納制度は農奴の生活状

態をよくするために企てられたという上りも︑領︑主の利益のため忙注されたのである︒一時的た企剰としてなされ

た場合には︑農奴

K

とつ一てしばしば不利益を来した︒彼は強制的労働の義務の前に立たされるのみたらや︑領主が

有利であると考えた均九HKは︑夫役の代りに令銭を用まし友ければ左らなかった︒一二七八年にラムゼ1僧院に属

する或マナ1の村名主

20 40

︶ が比較的K宮める農奴から牧賄したとい月理由で告発された︒富める農奴は貨幣

代納を欲しなかったので︑比較的企しい農奴にその制度を押しつけてもらわんがために名主に贈賄したのである︒

との事実は初期においてはとの制度は農奴の側から歓迎されるよめも︑むしろ嫌われたととを推測せしむるに足る

領主は代納制度

K

上って得た貨幣によっ一て︑自由な農業労働者を傭う乙とができた︒英国の中世農村における労

働階級の最初の源泉は小屋住曲目

階級から一得られた︒彼等は農奴階級の中で誌も地位が低く︑保有地

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ロ白聞耳切︶

も普通の農奴が通常三

O

エーカーをもづていたのに対して︑わやかK五エーカーを保有するにすぎなかっ−た︒従つ

て︑それだけでは一家の生計を支える

r

足旬十︑叉保有地が少いだけ

r

時間的

K

余裕があっ一た︒彼等は他の階級か

ら来た者達と一緒

r

たり︑十四世紀を通じて農村の賃銀労働者は急速

κ

増加した︒小屋住農の他に︑農業労働者

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して設場して来た人達は︑保有地を放棄し︑

である︒彼等は土地と密接に

結びついて︑いたとはいえ︑通常の場合︑ムへした困難も怠くその奴録的状態から脱出するととができた︒もっとも

(10)

7 ¥ .  

7 ¥ .  

時としては領主からかたりの罰金を要求されるととがあった︒その当時︑農相陣は移住の自由がなく土地

K

束縛され

て居旬−︑農相院がマナーから逃亡した場合には強制的

K

連戻す乙とができた︒叉︑彼がマナーから立去らんとす乙

場合花は罰金を支払わゆ広ければ草く処罰された︒しかし︑当時はマナ1の人口は通常領主の要求を満すだけ充分に

あったので︑家と耕地とを棄ててマナーから逃亡せん

It

熱望していた農奴にとっては越えられぬ障害はなかった︒

マナーから時k逃亡する農奴が十三世紀孝通じて︑奥村の雇傭労働階級を構成する源泉の一つになクてい

た︒かくて︑中世農村忙於ける履傭労働者の第二の減泉は農奴解放︵忌ω

ロ ロ B

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K

上って︑封建的束縛から解

放された農奴達によっア一構成されていた︒当時︑肖・闘を欲する農奴が解放される六めKは色々な方法があったが︑

解放の承諾を得るととはその一つの方法であった︒とのととを︵B

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2 5

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口は農

奴が金を出して買うか或は領主からの贈物として与えられた︒

迄 白

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ロに関して現存する最も古い史料は十

二世紀の終κ書かれたものである︒η1ド一世︹ロ包

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時代に十字軍に参加した領主達の軍隊

K

従軍し

た農奴K対して解放が与えられた︒カ﹁リツク教会の影響に上って︑十三世紀には農奴解放が一層広く行われた︒

との点については史料に上る一説明は困難であるが農奴解放︵冨白ロロ目広告︒ロ︶の成立並にその結果花関するその時代

の法制史の研究の進歩陀土づて︑そのととの当時の法律生活

κ

於ける意義が明らかにされた︒乙の農奴解放は領主か

らのあ圭り有難くない贈物であって︑年老クて・もはや充

A T

陀働け及︿たった農奴を解放せんがために利用されたと

といか稀では友かづた︒十四世紀には教会の高い地位にある聖職逮がとの解放を実行していた︒とのととは一三五五

年のエグセグ1貿

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の農奴が十字軍吃参加するために解放が与えられた︒グラシヴイルは農奴は自身の金で自由を購い得友かったと

(11)

主張している︒何となれば︑すべて彼の有休財産は領主の支配下にあって︑領主は農奴の都合如何に拘わら歩︑そ

の財産を取上げるととができたからである︒従って︑その突渉は農相院の代理者として︑農奴のために働く仲介者を

雇傭農業労働者の第三の源泉は領主からの命令に上クて解放を得た農奴によって構成されている︒領主の所領地

に於ける耕地の不足から︑労働力が過剰に友つもι場合には︑領主は農奴の息子や兄弟達に他のマナーに移住すると

とを詳した︒彼等のマ+

1

K

対する結び付は年と共に次第kd冊薄にたって行き︑その子孫は次第に自由労働者の階

級にはいって行づた︒英問中世農村に於ける雇傭労働階級構成Kついての或程度の概念は得られるが︑十四世紀の

央頃までにその数がどの程度であったかにづいて知るととは史料が不足しているのである︒

黒死病︵回

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の影響

黒死病は普通︑英国社会発展の転同点であり︑英同経済史を二つの時期に区別する八円水嶺であると考えられてい

る︒それは経済発展の程度を測定したり︑或はマナ1の直領地の耕作にが︑ける奴隷的労働が自由労働に転換する程

英国マナ{の嵐壌過程

度を決定したりする便宜的友時期である︒黒死病が最初英国忙発生したのは一三四八年七月七日・とも或はその年の

秋ともいわれるのとの黒死病の最初の発生地については何等定説が注いが︑東洋方面から渡来したと言われている︒

欧洲では一三四六年︑クリム半島のケルチに近いカ

7

7に避難しているイタリー商人が縫靭人に包囲された際に

発生したのが最初の記録である︒その後︑南欧に伝播し︑ポヴカチオのヂカメロYの冒頭の記述はとの疫病のとと

(12)

を記している︒更に西欧から欧洲会休にはげしい勢で流行し︑海を渡って英国に入って猪威を振った︒英国ではウ

1スがその土陸地点といわれ︑

F

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︑ヂヴオシ︑サマ1セットと急速に伝播し︑プ

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ストルには八月

十五日に発生を見売︒グロスターではプリストルとの一切の交通を禁止したが︑その効ゑく︑グロスターからオク

1

︑それからその年のみかえる祭︵九月廿九日︶或は万聖節︵十一月一日︶にはロ

γ γ

F

一月一日及び三月十日の二凶停会した︒

γ

ドシに於ける流行は六︑

一三四九年晩春が最高頂であった上うである︒流行の発祥地である南部を除き︑英国に於ける死亡

率は一三四九年春及び夏に最高を示したと推測される︒間

との欧洲全休にわかιって源成をた︿愛しくした黒死病の惨状にづいての記述は欧洲人情休にわたって株少であるた

めに︑その人口に与えた損失について疋確左測定を行ろととは困難である︒

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との時のベス

fh 在記述したものでは友い︒各同共その人口の二八?の一乃杢三分の一は央われた正一言われている︒し

かし︑黒死病が新しき療病であ旬且つ突然に襲来したために人心に犬怒る恐怖を与えた結果︑当時の記録は概して

相当の誇暗情景伴っている︒英閏では全土にわたって二二四八年八月から一三四九年の秋交で十四ヶ月にわたって猛

威を振ったわけであるが︑英聞についての人口の喪失については他の国々正同様に正確友ととは不分明である︒

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全人口のご令の一の喪失そ挙げている︒ア

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レ︑モロアは恐らくヨーロッパ人口の三八すの一︑却︑約二千五百万

の人間が死亡し︑実関ではその人口を四百万から二百五十万

K

激減さぜた左記述している︒仰ロシド

γ

のチァタ1

ハウスの菱地にある記念碑忙そとに葬った黒死病の死者五万人と記されてあり︑ノリヅヂの記録に一一一一四九年の疫

(13)

病の死者五万七千三百八十四人左記されてある︒当時の侠学の発達の程度去ベス

F

の爆発的な伝染カや高い死亡率

ι

らば︑とれらの数字を一概に誤認或は誇張であるとして否定され注いであろう︒

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︒﹃自は聖職者逮

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ったと記しているが︑聖職者逮は感換の機会が最

d m 多かった階級であったと考え

時代と場所とは異るが︑

一一年の満州でのベスT犬流行の時の例に土って充八すに類推できるととである︒伺 かかる場合に長ける宣教師遠の活動・とその犠牲については︑

o

F 0 2 2

は人口の三分の一の喪

失が多︿の場合事実である如︿恩ばれる左記しつも︑英国全体の死亡率について何等かの一般的結論を行ふととは

非税学的であろ月左記している︒川円何れにしても当時の俣嘩や人々の衛生状態並

K

ペストがもっ高度の感染率と死

亡率とから考えて︑とれが欧洲中世にが︑ける劃期的友事件であり︑人口喪失が劇甚であづたととは大凡推測でき

る︒黒死病の名称の由来段︑病人の身体が宙開色の班点で覆われるからとも一言われ或は﹁小さた黒色の小膿庖﹂がで

芦一るからとも一言われるが︑との場合には主左して柿ベス

F

であろろ左相川像される︒何左友れば腺ベス

F

は熱帯地方

では常時流行してい急が︑柿ベスTの工ろに空気伝染し注いため

κ

伝染性が弱く︑爆発的た流行とゑるととが友い

P

Tは肺ベストでとれば常時流行し友いが︑一度流行すれば爆発的友伝

染力を示すからである︒

英国マナーの崩壊過程

黒死病がマナ1の崩壊過程忙及ぼした影響については河︒問︒

2

が︑次の土うに説くととによって古典的理論とし

て一般忙受零されて雪たの黒死病の時期までに貨幣代納制度はもはや例外では注く一般的友制度にまで発展した︒

二ニ八一年当時には農奴が夫役

K

従事する工ろ友古めかしい慣習は忘れられて了クていた︒しかし︑黒死病によっ

て惹起された労働の祷少性に主クて労賃は五割謄費した︒そのために領主は農奴から夫役の代りに受取る金で農業

(14)

労働者を傭うととができ汝い土ろに怠ったので︑昔の夫役制度を復活せんと企てた︒従来の農奴を再び強制的に領

主の直領地で夫役労働に従事させん左の企てが︑一一一一八一年の農民一搬の真の原因である︒反動的怒立法にもかか

わらや︑農奴の一反乱は成功した︒一反乱の教訓の結果︑領主は再び曲買奴を夫役労働に立戻らせると・とを止めた︒反乱

の結果曹として農奴制変は消滅した︒以上がロ1ジャ1スを始祖正する古典理論の犬要であるが︑

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︵乙れは彼がライブツイヒ犬学に提出した学位論文︑

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の英訳本で︑同論文を改訂増補したもの︶に沿いで︑統計的研究の結果︑十四世紀中葉までは︑

東部︑中部︑及びケン?を例外ムしする南部英国陀沿いて︑夫役が依然として支配的であり︑農民一援直前には︑金

納化の傾向がむしろ強められている左の結論に到達し︑従来の古典理論が支持すべからさる理由を明かにした︒向

している︒とれと同様の見解を一示すものに︑ ︿

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1ス説に反対

しかし右の金納化についてのベイジ説は出

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早稲田大学経済史学会編﹁英吉利経

済史研究資料﹂第一輯︑昭和十四年︶に沿いて反対論を提出した︒グレイはベイジの依拠する史料が主として南部

英関の教会領のものであり︑従ってその妥当性は地域的に限定されねば訟ら加点を指摘し︑

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一一一二三一一年上旬四二年全での俗人領について研究し︑教会領と比較した結果︑金納化は教会

領と俗入領と

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殆ど同様に進行し︑ボスTン上旬グロスタ

1

K

至る線の西北部では黒死病依前に犬部介の夫役が金

(15)

納化されたが︑

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の線の東南部では夫役が各地に発見され︑若干の洲では例外というよりはむし

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原則的であっナ

との結論に達し︑東南部にクいてのみ部分的にベイジ説を承認したが︑概して言えば古典説

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復帰した︒黒死病の

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HUH3K沿いて詳細に取扱われたのそれによれば︑

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三四六

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五六年及び一三七六

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八一年のウイシチェスグl司教管区の記録を調禿せる結呆︑古典的見解とは逆に︑

黒死病の農村に及ぼした影響は永続的のものではたかクたとの結論を得た︒黒死病によクて金納化が促進せしめら

れた徴候も︑農民負担が増大せしめられた徴候も見出し難い︒マナーを崩壊せしめた諸変化は︑黒死病よりも透か

以前に開始したので︑黒死病によって甚しく急進せしめられたことさえなかったと論断しているB間りフスンも古

典理論に対して︑グレイやベイジ等の諸説を参照しクク反対の見解を示しているの川円

マナ1制度は本質的に自然経済の時代に適応するものである︒外国貿易や例外的な緊急事態の場合を除いては︑

貨幣が使用されるととが稀であクた時代には︑通貨以外の手役で各種の債務が済まされたのは自然であクた︒国王

は傭兵を使う代りに︑軍役に服するという条件で土地の保有を一許した︒封建領主は農業労働者を傭う代りに農奴的

た勤労に服する条件で領地を各農民に割宛てた︒かかる制度は貨幣の供給が綱沢とたり︑その流通が速かになれば

英国マナF の嵐壌過程

なるほど人Aは貨幣の便利さに慣れて来るので自ら破れざるを得ない︒自然経済から貨幣経済えの推移は︑英国で

は他の欧洲諸国上り早く完成された︒しかし︑貨幣経済の発展は誇張され易いのであって︑エドワード三世の治世

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日寸|寸寸︺の央頃までに︑夫役の金納化が完成されるために充分なだけに貨幣経済が発達したと考える根拠は友

いのである︒従って︑通貨の量が少いことが英国にが︑ける金納化えの道を緩漫ゑらしめたと考えられるであろう︒

(16)

黒死病当時夫役が広く行われていた乙とにクいては豊宮な史料がある︒十四世紀のマナ1の記録は黒死病の年には

金納化はまだ一般的ではなく︑雇傭労働は箸るしい発展をしていなかクた乙とを示している︒ペイジ教援の二

O

にわたっての八十一マナlの公的記録の調賓の結果は次のよう友結果を示している︒川

A

表︵一三五

O

︵一︶六マナーでは夫役が全く廃止されている︒

三一︶二十二のマナーで農奴が大凡労働量の央を遂行している︒

︵四︶四十四のマナーで農奴が実際上すべての労働をしている︒

右の数字はその不完全さを考慮に入れても十四世紀の央頃には︑夫役は例外的であるか或は会く存寸忙しなくなク

たとの従来の学説に対して有力な反証を示している︒

農相似制度の消滅に関する従来の学説の誤謬は︑すで

K

十三世紀から農奴の夫役がマナlの記録には貨幣額に見積

って表示されている乙とから生じたものであるうと忠われる︒その慣習は便宜上用いられた︒それは金納化の基礎

となったが︑農がが夫役相当額の金を常に支払クた乙とを意味するのではない︒ケムブリッジシヤl1

f

yのマナーでは︑農奴によってゆ注されるすべての仕事は貨幣額で表示され︑毎年冬と夏との労働は半ペェーで︑秋

の労働は一ペニーであクた︒乙れは十三世紀の

ζ

とで︑恒久的な金納化が行はれたのはそれから二世紀後である︒

夫役を貨幣額で表示する制度は二一患の便益があった︒一は農相院が怠けた場合に罰金の大さを定め得たこと︒他は領

主が好都合であると考えた場合には夫役の代りに金を徴牧するを得た乙とである・領主は毎年或数の仕事を慣習的

(17)

英国マナーの鼠獲過程

友率で金納化した︒しかし金納化の大さは年によって変化があクた︒ウイルパ

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a

−夏の仕事と︑九三の秋の仕事が金納化されたロ一方︑四年後には八の仕事が金納化されたにすぎたかクた︒

ζ

マナーは例外的ではなく︑他のマナーでは遡夫役と普請とが黒死病と農民一一撲の後まで存続した︒一三六八年にウ

Tウのマナーでは犬凡二二七回の仕事がなされたが︑金納化されたのは四五六の仕事にすぎなかクた︒ミドル

セタスのハlf1スではりチヤlF二世の時代口

ω ミ

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にたされた夫役は十二秋紀の貢租文書ゎu

5 Z B m w −

に列挙されている夫役であクた︒

黒死病は極めて重要友経済的破局をもたらした乙とは明かである︒それが金納化の過程において如何に重一大事仏刺

る 戟。 を

( 1 9

)与

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以後の三

0

1の状態によクて推測する乙とができ

B表︵一三八

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のマナーで夫役が全く廃止されている︒

︵二︶三十九のマナーで農奴が重要注部分でたい労働をしている︒

三一︶二十五のマナーで農奴が大凡労働量の央を遂行している︒

︵四︶二十二のマナーで農奴が実際上すべての労働をしている︒

A

B表とを比較すると︑

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年には農奴はマナ

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年には一七%を働

O

一 一 一 一

年には仕事量の全体或は央を金納化した部分は一八%であるが︑

O

一 一 一 一

O

年には六二%であ

る︒従クて︑黒死病が夫役制度の崩壊を促進したことは明かである︒

(18)

黒死病が経済制度に与えた影響については誇張され易いが︑それは金約化の起源と怠ったのではたい︒叉︑金納

化の進展は十回世紀の末期と十五世紀を通じて最も急速であクた︒ベス

T

の直接的な影響が劇烈であれッ︑破局的で

あったととは論争の余地がたい︒しかし問題はそのために惹起された変化がどの程度に一時的であり︑叉どの程度

に永続的であクたかという乙とである︒或マナーでは少くとも一の反動が起った乙とを史料は示している︒歴史の

発展過程は複雑であって︑進歩と反動とを絶え歩繰り返し乍ら︑結局は進歩の大潮流は流れて行くものであろう︒

右に引用した統計表は誤クた印象を与え易い︒即ち︑黒死病の後で絶えや金納化えの進歩があったようゑ印象を与

える傾向があるが︑更に一︑二のマナーの記録を調査すると必やしもそうではないのである︒エセックスのマナl

の一であるハットシでは普請即臨時夫役

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J︑遡夫役即︑通常の夫役︵︒

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は七三八であクた︒︒︿九十の前後に於ける九の夫点異クた年度に於ける金納化の数は左表が示す通であるoAW

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右の表は黒死病の影響は劇烈であクたが一時的にすぎ友かったととを示している︒

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一三五四年には週夫役の三分

の一以上が金納化されているが数年後には一つもたいウイストウのマナーでも同じ傾向を示している︒川円

(19)

一三二四年︵金納化された仕事の数︶・::五三七

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五一グ︵MM

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六八グ︵グ

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パークシヤ1

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1ンのマナーでは︑或年に金納化によって一三跨六志八片の牧入があげられたが︑

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年には八勝四志にすぎなかった︒右に挙げた諸事実を考慮に入れねばならないにしても︑夜病後三

0

年間に

雇傭労働が箸るしく増加したことは︑経済状態に及ぼしたその影響が如何に大きかったかを物語っているの黒死病

は英国農民史の中で︑奴録的状態から自由えの革命を示す標識である︒それは古来のマナl制度にはげしい打撃を

与え︑中世農業社会の安定性を根抵から動揺せしめた︒

黒死病の正縫なる意義を測定することは困難であるが︑その後百年間に古いマナl制度は完全に解体した︒それ

まで農奴制度の解体を拒んできた諸勢力は力を失クた︒英国の労働状態は︑新しい農業組織と新しい経済関係とを

樹立した社会勢力の浸透によクて変化した︒領地と身分とに基く社会は円由契約関係に基く社会にとって代られ

英国マナF の崩壊過程

た︒その新しき社会では領主と農奴との慣習的な関係は止み︑統一的な法的規範と貨幣関係とが新しく登場してき

た︒先に述べたように︑実証史的に正確に測定はできないが︑一三四八年八月から四九年の秋まで十四ヶ月にわた

って英国を荒したベスtは全人口の二分の一を失わしめたと信ぜられている︒年代記作者のあげている数字は或程

度酪酌しなければゑらないが︑司教管区の帳簿やマナ1の裁判所の記録は︑死亡数が圧倒的に多く︑従ってその影

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