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言葉の規範意識を再考する─「ら抜き言葉」と国語審議会

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(1)

1 .はじめに

 長年「ら抜き言葉」は「言葉の乱れ」の代表格とされてきた感がある。とりわけ,1995年の第20期国語 審議会の審議経過報告の前後には新聞紙面を賑わしていた。それから 20年以上を経た昨年「ら抜き言葉」

が久しぶりに新聞の一面を飾った。2016年9月22日に「『ら抜き言葉』初めて多数派に」といった見出しで 一斉に報じられた。文化庁の『平成27(2015)年度国語に関する世論調査』の結果が発表され,「見れる」「出 れる」という「ら抜き言葉」の使用率が初めて「見られる」「出られる」のそれを上回ったというのである

(表1)1)

 朝日新聞は,文化庁国語課の担当者の言として「尊敬や受け身の意味も含む『られる』から『ら』を抜く ことで可能という意味だとわかりやすくなる。合理的な変化であるとも考えられる」と書き,毎日新聞も

「文化庁は,『ら』を入れると受動か可能か分かりにくいが,『初日の出を見れた』と言えばすぐに可能の 表現と理解できることから,『ら抜き』が広まっているのではないかと言っている」と書く中,読売新聞 では,『ら抜き』が逆転したことについて「可能の表現だと的確に伝わるからではないか」と文化庁の分 析を示した上で,「当初は日本語の乱れなどの指摘もあったが,同庁は現在,『どちらが正しいとは言え ない』としている」という,一歩踏み込んだ記事を掲載した2)

 この記事の信ぴょう性は分からないが,もしこの記事のとおり「どちらが正しいとは言えない」という 文化庁の発言があったのだとしたら,これは従来の「規範意識」を覆さんばかりの重大なものだと考える。

1995年に国語審議会報告が出されたときのような『ら抜き論争』再燃か,と思えたが,この記事が掲載さ れてから半年が過ぎようとしている3)にもかかわらず,これに対する反論記事は 1本だけであり,しかも それは,「どちらが正しいとは言えない」という判断に対してではなく,「可能の表現だと的確に伝わるか

中  山  惠 利 子

言葉の規範意識を再考する

──「ら抜き言葉」と国語審議会

表 1 :「ら抜き言葉」の使用率

問「それぞれに挙げた二つの言い方のうち,あなたが普通使うものはどちらですか」 (%)

平成 27 年度

(2015) 平成 22 年度

(2010) 平成 17 年度

(2005) 平成 12 年度

(2000) 平成 7 年度

(1995)

今年は初日の出が見れた 48.4 47.2

今年は初日の出が見られた 44.6 47.6

早く出れる? 45.1 44.0

早く出られる? 44.3 48.0

朝 5 時に来れますか 44.1 43.2 35.4 33.8 33.8

朝 5 時に来られますか 45.4 47.9 52.7 54.2 58.8

こんなにたくさんは食べれない 32.0 35.2 26.6 25.5 27.2

こんなにたくさんは食べられない 60.8 60.2 66.7 67.7 67.3

彼が来るなんて考えれない 7.8 8.1 5.7 5.9 6.7

彼が来るなんて考えられない 88.6 88.2 89.3 88.7 88.8

(2)

らではないか」という分析に対してであった。

・文化庁の分析は「『ら抜き』の方が受け身や尊敬ではなく,可能だと的確に伝わるからではないか」

などいう。冗談ではない。現代はただでさえ変な流行語が使われ,言葉を省略する傾向があり,日 本語は大いに乱れている。歴史ある美しい文法を無視し勝手に使ったら日本語は滅びかねない。

(2017.2.15読売)

 反論記事がこれだけというのはどういうことなのだろう。言葉の規範意識が薄れてきたということな のだろうか,「ら抜き言葉」に関しては人々の間にすでに受け入れる土壌ができているということなのか,

国が言っているなら仕方ないと諦めたということなのか。これまで「ら抜き言葉」を「言葉の乱れ」とし てきた人々はどのように考えているのであろう。

 ら抜き言葉を題材として国語審議会,新聞記事,方言教育という 3 つの観点から,言葉の規範意識を 探ってみる。新聞記事と方言教育については稿を改めることにして,本稿では,人々の意識を探る前提 として,国語審議会に代表される国がこれまで「ら抜き言葉」をどのように位置づけてきたのか,その位 置づけを 2017年現在の状況でとらえなおしたらどのようになるのか,という視点で国の規範意識につい て整理しておきたい。

2 .言葉の「乱れ」と「ゆれ」の定義

 始めに「言葉の乱れ」とは何かという点についておさえておく。第20期国語審議会の審議経過報告に付 記として,「言葉のゆれ」の定義が載っており,そこに「乱れ」についても説明が付されているので,少し 長くなるが引用しておこう。

    ある語が変化する過程で,その語形等について,本来の形に対して拮抗する形が別に生じ,両 者が並存する状態になったとき,これを言葉の「ゆれ」と言う。(中略)「ゆれ」は,当初はごく少数 の誤用から生ずることも多い。本来の語形,意味・用法が大多数に支持され安定しているとき,

新たに別語形等を用いることは,誤用とされる。その別語形等の使用者が増加し,ある程度支持 されるようになった状態が,いわゆる「ゆれ」であると考えられる。共通語の可能表現において従 来の「見られる」に並んで,いわゆる「ら抜き言葉」の「見れる」も使われることは,「見る」の可能 表現の「ゆれ」である。ところが,「見られる」を本来の正しい形と見,「見れる」を否定する立場か らは,この両形並存の状態は「乱れ」ととらえられる。すなわち,「ゆれ」は客観的な認識,「乱れ」

は価値判断を伴った認識ということになる。「ゆれ」の多くは言語変化の過程における一時期の状 態であり,一方に淘汰されて解消することが多い。一つの意味に複数の形が対応することは伝達 の効率上好ましくない場合もある。

 この定義から分かることは,5点ある。

  ①「乱れ」「ゆれ」と言うためには,「本来の正しい形・意味・用法」という明確な基準がなければな らないということ。

  ②「誤用」とは,「本来の正しい形・意味・用法」が大多数に支持されているときに,「別の語形・意味・

用法」を用いることだということ。

  ③「誤用」から「ゆれ」に変化することが多い,つまり,「ゆれ」はすでに「誤用」ではないということ。

  ④「誤用」から「ゆれ」になるのは,両者が同程度ほど支持される状態になったときだということ。

  ⑤「ゆれ」と「乱れ」は同じ現象を,客観的に認識するか,主観的(否定的)に認識するかの違いだと いうこと。

 ④の「誤用」から「ゆれ」にいつ変化するのかという点について,国語審議会は「ある程度支持されるよ

(3)

うになった」ときであり,それは「本来の形に対して拮抗する形が別に生じ,両者が並存する状態になっ たとき」であるとしている。「ある程度支持されるようになった」ときも,「両者が並存する状態になった とき」もあいまいであるが,「拮抗する形」という言葉から,両者の支持が同じくらいの状態になったと きに「ゆれ」に変わると解釈できる。図1 にみるとおり,井上(1986)4)においても「ゆれ」の状態は半々に なったとき,としている。この「ゆれ」の状態は「誤用」ではない,ということになる。

 しかしながら,⑤にあるように,「ゆれ」の状態を「乱れ」ととらえる人は,「拮抗」し「並存」する同じ 状態を「本来の正しい形ではないのだから,自分はそれを認めない」と否定するということであるので,

その人の中では「誤り」のままということになるのではないだろうか。したがって,「ゆれ」を使うか「乱 れ」を使うかで,その人がその現象を「誤り」と認識しているかどうかが異なると言える。

 図1 で井上(1986)は「乱れ」を「誤用」と同じ段階のものと解釈しており,次の段階の「ゆれ」とは異な るものとする。この点は,文化庁の見解と異なる。文化庁は上の⑤で見たとおり,「乱れ」は「ゆれ」と同 じ段階のものとなる(図2)5)

 文化庁の「どちらが正しいとは言えない」発言に対し反論したのが 1人であった(2017年2月15日の読売 新聞の投書欄)ことを考えると,「ゆれ」の段階に入ると「乱れ」意識は弱まると言えるかもしれない。だ とすれば,図1 の井上(1986)に軍配があがるのだろう。しかし,現実は,「乱れ」意識がある人の中には,

その言語変化が「誤用」の段階であろうと,「ゆれ」の段階であろうと,「慣用」の段階であろうと,それを

「乱れ」だと思い続ける人もいるだろう。使用率と「乱れ」意識は当然連動するものの,同じ段階に併記で きるものではない,と思われる。

 今回の調査結果(表1 の 2015年度世論調査)から,「見れる」「出れる」「来れる」の 3語はすでに「ゆれ」

の段階に入ったものとみなせる。「見れる」に限って言えば 2010年調査時からすでに「ゆれ」の段階に入っ ていたと言える。この 3語は第20期国語審議会や井上(1986)の見方に従えば,すでに「誤用」ではない。

しかしながら,先の投書に見たように,この「ゆれ」を「乱れ」とみなし,「誤り」と否定的評価をする人が いるのも事実である。

 次に,乱れ意識と使用率(言語変化)との関連を世論調査の結果からも検討してみよう。

言いまちがい 誤用・乱れ ゆれ 慣用 正用

図 1 :井上(1986)の言語変化と「乱れ」意識

誤用 ゆれ・乱れ 淘汰・解消

図 2 :第20期国語審議会の言語変化と「乱れ」意識

(4)

 グラフ 1 は文化庁が 2001年度と 2008年度に実施した『国語に関する世論調査』の結果を,グラフ 2 は表 1 に掲載した「来れる・来られる」の 5回にわたる文化庁の『国語に関する世論調査』結果を,それぞれ 1 つのグラフにまとめたものである。まず,グラフ 1 を見ると,「来れる」を「乱れ」とする人は 2001年度の 26.6%から 2008年度の 23.7%と微減してはいるものの,4分の 1近く存在していることが分かる。次に,グ ラフ 2 で,グラフ 1 の調査年2001年度と 2008年度に近い 2000年度と 2010年度の使用率を見てみると,「来 れる」を使う人は 2000年度の 33.8%から 2010年度の 43.2%まで 10 ポイント近く増加している。これら 2 つのグラフからは,使用率が増加しても,「乱れ」意識にはあまり影響を与えていないように思われる。

ただし,文化庁はこの意識調査を 2008年度以降行っていないため,断定はできない。

 グラフ 3 はNHKの 1979年,1996年,2000年,2013年の全国調査を 1 つのグラフにまとめたものであ る6)。このうち,「来れない」を「変な言い方だと思う」とする人は,上昇傾向にあり,2000年までは 50%

強で推移していたが,2013年には 63%に上がっている。グラフ 2 で「来れる」の使用率が上昇しているに もかかわらず,「来れない」に抵抗感を持つ人が増加しているのである。他の言葉は抵抗感が微減する傾 向にあるのに対し,「来れない」だけは上昇している。不可思議な現象である。また,グラフ 1 で見たよう に,『国語に関する世論調査』では「乱れ」とする人は 4分の 1程度であるのに,「来れない」に抵抗感があ る人は世論調査を行った 2001年,2008年でも 5割を超えているのである。これは,単純比較はできないも

グラフ 1 :「来れる」に対する意識

問「あなたは,ここに挙げる言い方を『言葉の乱れ』だと思いますか,それとも別の見方をしますか。

 『来ることができる』という意味で,『来られる』という言い方ではなく,『来れる』を使うこと」 (%)

平 成 1 3 年 度 ( 2 0 0 1 ) 平 成 2 0 年 度 ( 2 0 0 8 )

2 2 2666...666 2 2 2333...777

3 3 3 32222....9999 2 2 2 26666....9999

3 322..55 4 411

4 4 4...555 4 4 4...777

乱れ 多様性(どちらでも構わない) 変化 正しい 分からない

3 3 3 3....6666 3 3 3 3....7777

問 表 1 に同じ (%)

グラフ 2:「来れますか」の使用率の推移

33.8 33.8 35.4

43.2 44.1

58.8 54.2 52.7

47.9 45.4

0 10 20 30 40 50 60 70

平成7年度(1995) 平成12 年度(2000) 平成17 年度(2005) 平成22 年度(2010) 平成27 年度(2015)

朝5時に来れますか 朝5時に来られますか

(5)

のの,『国語に関する世論調査』において「乱れ」とする人だけでなく,「変化」や「多様性」とする人の中 にも抵抗感がある人がいる可能性を示している。

 ただし,このNHK調査も,2016年度の文化庁世論調査の逆転現象後のものではないため,「ゆれ」に 入った段階の意識を見ることはできない。今後の調査が待たれる。

 以上のことから,限られた調査結果ではあるものの,「乱れ」意識と使用率は比例しているとは言えな さそうである。したがって,「乱れ」を,「誤用」や「ゆれ」という言語変化と段階を一にするのではなく,

図37)のように言語変化から独立させたほうがよいと思われる。また,「乱れ」意識を持つ人がその言語現 象を「誤り」「変な言い方だと思う」とする否定的評価と言語変化の「誤用」の段階とは別のものだと考え るべきであろう。

 なお,図3 は正確な数値に基づいて作成したものではなく,言語変化と「乱れ」意識を別々にするとい うイメージを表したものに過ぎない。「ら抜き言葉」はまさしく今,いくつかの語が「ゆれ」に入ったとこ ろで変化しつつある言葉であり,今後「ゆれ」「慣用」「正用」と言語変化の段階が進むにつれ,人々の乱 れ意識がどのように変わっていくかについては,長年にわたる観察を経て初めて明らかになろう。文化 庁やNHKには使用率だけでなく,人々の意識に関する,継続的な調査を望みたい。

グラフ 3 :「ら抜きことば」への抵抗感

問「変な言い方か」(数値は「変な言い方だと思う」人の割合) (%)

43 49

51

49 46 47

50

52 51 63

74 73 69

77 74 73

0 20 40 60 80 100

1979 1996 2000 2013

見れない 食べれない 来れない 数えれない 確かめれない

図 3 :言語変化と「乱れ」意識

言いまちがい 誤用 ゆれ 慣用 正用

乱れ

乱れ

乱れ

乱れ 乱れ

(6)

3 .国語審議会の規範意識

3 ― 1  第20期国語審議会以前

 国が「ら抜き言葉」について正式に言及したのは,第20期国語審議会の『新しい時代に応じた国語施策 について(審議経過報告)』(1995年)という報告である。しかし,国が「ら抜き言葉」を問題視したのは,

第20期よりずっと以前の,第2期国語審議会(1952 ~ 1954年)と第5期国語審議会(1959 ~ 1961年)である。

 戦後「ら抜き言葉」が東京で拡大している8)ころ,一方で,言葉の規範を作ろうとする動きがあった。

それは明治以来の課題である標準語を確立しようとするものである。第2期国語審議会に標準語部会(部 会長:金田一京助)が設置され,1954年に「標準語のために」を本会議に報告した。しかしながら「標準 語のために」は,公表されておらず9),現在それだけが文化庁のホームページからアクセスできない。内 容は部会報告の要旨から推測するしかない。その部会報告の要旨には,次のような文言が残されている。

「…ここに別冊『標準語のために』を御報告いたす次第であります。その第1部は,現在の東京語を素材的 に取り上げて,その中に,正しい形と,誤ったまたはなまった形とを振り分けて,将来の標準語の姿への 方向を明らかにしようと努力したものであります。その第2部は,標準語としてのこれからの日本語がこ うありたいと思う理想を,言語生活の各部面にわたって考えたものであります」。そして,審議資料とし て「動詞活用の問題【金田一委員】」が挙がっている。この「動詞活用の問題」の中に,「ら抜き言葉」が挙 げられていたであろうことは容易に推測できる。なぜなら,翌1955年には国語審議会の標準語制定審議 のために国立国語研究所によって実施された「語形確定のための基礎調査」の中に,「見られなかった」

と「見れなかった」という項目があるからである。

 この調査は,どちらが標準語にふさわしいか,専門家に理由とともに選ばせるという意識調査である。

第1回準備調査と第2回本調査の 2回実施している。第1回の被調査者である専門家は 50名(うち,国語研 究者20名,国語教育関係者5名)で回答数43名,第2回は 300名(うち,国語研究者110名,国語教育関係者 30名)で回答数は 207名である。第2回調査に限って回答結果が公開されている。「見られなかった」「見れ なかった」に関しては,回答者数が 192名となっており,そのうちの「絶対多数」が「一般的・伝統的・共 通語的・規範に合う・望ましい体系を作る・使用地域が広い」という理由で「見られなかった」を標準語 とすることを支持している。この結果は「第1回調査でも同じ」と記載されている。ちなみに,「見れなかっ た」を支持した少数派の理由は「増加の傾向」である。そして,この調査結果は,「標準的語形を考えるた めの基準」という資料となって,第5期国語審議会(1959 ~ 1961年)の第2部会(部会長:池田弥三郎,テー マ:「語形の『ゆれ』の問題」)に供されている。しかし,この部会は,この資料のほかに上述の「標準語 のために」も資料として用いているにもかかわらず,その報告は漢字表記と発音のゆれに限って行われ,

「語法」には触れられていない。そして,これ以降長い間,語法のゆれは国語審議会で取りあげられてい ないのである。

 もしこの時期の国語審議会が標準語を制定していたら,「ら抜き言葉」は使用が増加傾向にあったに も関わらず,標準語にはふさわしくないという判断が下された可能性は高いだろう。このときの規範意 識の基準は,専門家の意識調査の結果である。この専門家には,むろん国語研究者が多く含まれる(第 1回40%,第2回36.7%)。そして,当然のことながら,国語審議会の委員たちも含まれる(第2期の委員の 42.6%,第5期の委員の 35.6%がその意識調査に参加している)。第2期の標準語部会長を務めた金田一京 助,第5期の第2部会長の池田弥三郎も国語研究者としてこの調査に加わっている。なお,参考までにこ の 2人の「ら抜き言葉」に対する意識が見てとれる新聞記事を紹介しておく。記事中の土岐善麿は第1 ~ 5期の審議会会長を務めた国文学者である。

  ・1961年のNHK放送用語調査委員会の例会に招待された土岐善麿さんは「必要な“ら”を省くこん

(7)

な言い方が伝染したら,全く困りものだ」と憂えられ,金田一京助さんが「末恐ろしいことですね」

と苦笑されたのを覚えている。(1984.6.21朝日 劇作家・森永武治の投稿記事)

  ・見れる・見れないという破格な文法の,いわゆる乱れたことば遣いは,昭和三十年代から耳につ くようになったという記憶がある…。(1975.8.4朝日 池田弥三郎の記事)

調査において「絶対多数が『見れなかった』を排除した」ということが窺える記事である。

 しかし,標準語が制定されることはなかった。野村(2006)によれば,1965年の「発音の『ゆれ』について」

という部会報告をまとめるころまでは,国語の「標準化」への意志を示しているが,その後は包括的に「標 準語」を追求しようとするプロジェクトは出現しなかったようである。「標準語に代わり,国立国語研究 所の調査報告書『言語生活の実態』(昭和26(1951)年)が『全国共通語』の略として初めて用いた『共通語』

という概念が,国民の言語をイメージする際に次第に一般的になっていく。テレビ等のメディアの普及 や,社会の変化による地域間交流および国民の地域移動の増加等によって,共通語が全国に普及し,そ の使用能力が国民に十分共有されるにしたがい,国家による『標準語』制定へのニーズは官民双方におい て弱まっていったと考えられる(p.96)」としている。

3 ― 2  第20期国語審議会

 第5期国語審議会以降,「ら抜き言葉」を含む語法のゆれが国語審議会の議題に上ることはなかった。と ころが,30年の時を経て,1993年の第19期国語審議会の『現代の国語をめぐる諸問題について(報告)』に おいて,今後対応していく必要があるものの中に,「いわゆる言葉の乱れやゆれなどの問題」が取り上げ られたのである。

 そして,それにこたえる形で,第20期国語審議会は『新しい時代に応じた国語施策について(審議経過 報告)』(1995年)の中で,「語彙・語法等の問題」の 1 つとして「いわゆる『ら抜き言葉』」と項目を立てて 審議結果をまとめている。また,その審議経過報告には「言葉遣いの標準の在り方」という項目もあり,

「標準」という言葉も復活を果たしている。「標準を示すとしても,その性格は,緩やかな目安・よりどこ ろという程度であり,なおかつそれを必要とする人の参考に供することを旨とするにとどめるべきであ ろう」と但し書きを付しながらも,「言葉遣いに関する,強制力のない緩やかな標準を示すことに取り組 んでいく必要もあろう」と国語審議会の任務に言及している。参考資料には国立国語研究所の「語形確定 のための基礎調査」が「ゆれのある語について標準的なものを選ぶ場合の判断基準30項目などが参考に なろう」として挙げられている。30年以上も前の第5期国語審議会が標準語を制定しようとした際に使わ れた参考資料である。第20期国語審議会(以下,審議会とする)は,限定的ではあるが,「標準を示すこと」

に拘った審議会であることが分かる。

 この 1995年の審議経過報告がそれまでのものと異なるのは,世論調査を根拠の1つにした点であろ う。世論調査というのは,文化庁が 1995年度に実施した『国語に関する世論調査』のことである。しかし,

それにしても,すでに現在から 20年以上も前のものである。表1 で見たように,最新の 2015年度の「ら抜 き言葉」の使用率は,当時の使用率とは変わってきている。ただし,国はこの審議経過報告を新しいもの に改めてはいないため,今もってこの報告が国の正式な立場を示すものとなっている。

 以下に,この審議経過報告の「ら抜き言葉」に関する部分を引用しておこう。

   いわゆる「ら抜き言葉」 

    いわゆる「ら抜き言葉」とは可能の意味の「見られる」「来られる」等を「見れる」「来れる」のよ うに言う言い方のことで,話し言葉の世界では昭和初期から現れ,戦後更に増加したものであ る。「ら抜き言葉」(例:「見れる」)を専ら可能の意味に用い,受身・自発・尊敬(「見られる」)

と区別することは合理的であり,五段活用の動詞(例:「読む」)における可能動詞(「読める」)

(8)

と同様に可能動詞形と認めようとする考え方や,「ら抜き言葉」の増加は可能表現の体系的な変 化であり,話し言葉では認めてもよいのではないかという考え方もある。書き言葉においても 分野によってはその使用例が報告されている。

     しかしながら,この言い方は現時点ではなお共通語においては誤りとされ,少なくとも新聞 等ではほとんど用いられていない。世論調査(平成7年文化庁)においても,「食べられない / 食 べれない」「来られる / 来れる」「考えられない / 考えれない」についてどちらを使うかを聞いた ところ,3例とも本来の言い方(「食べられない」「来られる」「考えられない」)を使うという答え が,平均7割を上回った。

     国語審議会としては,本来の言い方や変化の事実を示し,共通語においては改まった場での

「ら抜き言葉」の使用は現時点では認知しかねるとすべきであろう。さらに,「ら抜き言葉」につ いては,次のような観点から今後の動向を見守っていく必要があろう。

      ①話し言葉か書き言葉かによっても,違う面があること。

      ②一段動詞全体のどこまで及ぶか。語形の長さや使用頻度,また,活用形によって,「ら抜 き」化の程度が異なると思われること。

      ③北陸から中部にかけての地域及び北海道など,従来「ら抜き言葉」を多く使う地域がある といった地域差の問題を考慮する必要があること。また,近年は東京語自体も様々な地 域の言葉の流入によって変化しており,「ら抜き言葉」の方がリズムやスピード感があっ てよいとする声もあること。

 この審議経過報告では,体系的な変化として「ら抜き言葉」を認める考え方や話し言葉では認めてもよ いのではないかという考え方,「ら抜き言葉」をリズムやスピード感があると評価する声等を紹介し,動 向を見守る必要がある,と慎重な姿勢を見せている。しかし,「なお共通語においては誤りとされ」,「少 なくとも新聞等ではほとんど用いられて」おらず,「世論調査においても…本来の言い方を使うという答 えが,平均7割を上回った」という 3 つの理由から,「共通語においては改まった場での『ら抜き言葉』の 使用は現時点では認知しかねるとすべきであろう」と結論付けているため,国民には「ら抜き言葉」はや はり規範からずれる「誤り」である,との認識を強く印象付けることになったのではないだろうか。

 この「誤り」という表現は,「なお共通語においては誤りとされ」と使われているが,ここは本来であれ ば「誤用」という言語変化の段階を示す言葉を使うべきだったと思われる。審議会はこの同じ報告書の中 で「『言葉のゆれ』について」(p.2 に引用)を付記し,「ゆれ」や「誤用」について定義している。にもかか わらず,ここでは「誤用」ではなく,「誤り」を使っている。「現在は『誤用』という言語変化の段階である と判断したが,いずれ『ゆれ』という両者が拮抗する段階に移行する可能性がある」という一文をどうし て挿入しなかったのであろう。「誤用」という言葉ではなく単に「誤り」という言葉を使ったのは,国民に 対して分かりやすい表現をするという配慮からだったのか。「現時点ではなお」という説明を加えて,「誤 用」の段階にあることを表しているからよいとの判断だったのか。しかし,この「誤り」という言葉は,2 章で指摘したように,「乱れ」だと意識する人が抱く「誤り」「変な言い方だと思う」という否定的評価に 直結する。そして,その意識は,言語変化が進もうとも,その人がその言語現象を「乱れ」だと思い続け る限り続くものである。この審議経過報告を読んで,「ら抜き言葉」は変化の途中にあり,いずれ「誤り」

ではなくなる可能性もある,ということを国民は理解できたであろうか。

 「共通語においては」「なお」「改まった場での」「現時点では」と様々な条件を付しながらも,最終的に

「誤り」「認知しかねる」という言葉を使ったのは,審議会メンバーの多くがそのように考えていたから であろう。この審議経過報告の 3年後の 1998年に開催された第22期国語審議会の第1回議事要旨を読んで も,「ら抜き言葉」を「誤り」「認知しかねる」と思っている委員が少なからずいることが分かる。そこには,

(9)

委員の発言として次のような言葉が並ぶ。「ら抜き言葉は由々しい問題」「正しい言葉遣いを身に付けて いくということが一番いい」「(NHKは)方針としては『ら抜き言葉』を許していない」「『ら抜き言葉』を 容認されたりすると,何だという感じになって,どこが一体責任を持つかというのがとても問題になる と思う。だから,こうあるべきだという方針を国の政策としてきちっとしていただきたい」「『ら抜き』は,

絶対によくないと私は思う。文法はきちんとやった方がいいと私は思っている」。強い規範意識に溢れて おり,「ら抜き言葉」は言語変化だという考えは読みとれない。これらに対し,「今までの正しい言葉にい つまでも固執する必要はないと考えている」という意見を述べているのは 1人だけである。

 次節では,審議会が「ら抜き言葉」を認めないことの根拠とした,以下の 3点について,2017年度現在 において再検討してみる。

  1.現時点ではなお共通語においては誤りとされている。

  2.少なくとも新聞等ではほとんど用いられていない。

  3.世論調査で本来の言い方を使うとの回答が 3語の平均で 7割を上回った。

4 .第 20 期国語審議会の根拠の再検討

4 ― 1  共通語(学校文法)

 共通語を教えるときのバイブルは教科書である。審議会が「現時点ではなお共通語においては誤りと されている」とするのは,教科書で教えられている学校文法において「ら抜き言葉」は誤用とされている,

と換言しても問題はないであろう。また,「誤用」と対立する「本来の正しい形・意味・用法」という「明 確な基準」も学校文法である。

 「ら抜き言葉」は一段活用動詞とカ行変格活用動詞の可能形に現れる現象である。可能形については中 学2年生の国語の教科書で教えられている。それは国語審議会当時の 1990年代も現在も変わらない。ちな みに,第19期と第20期の国語審議会が開催された時期の検定教科書(1993 ~ 1996年度版は 1992年の検定 を受けた同じ教科書であるので,1993年度版を使う)と執筆時点で入手できる最新の 2016年度の検定教 科書(ちなみに 2017年度版も 2016年度版と同じく 2015年に検定を受けた教科書である)を比較してみよ う。発行元はいずれも,東京書籍・教育出版・学校図書・三省堂・光村図書の 5社である。

 共通する基本的な内容は以下の 3点である。

  ①五段活用動詞の可能形は「未然形+れる」という形で作られ,「読まれる・書かれる・取られる・

思われる」であり,一段活用動詞とカ変活用動詞の可能形は「未然形+られる」という形で作られ,

「見られる・食べられる・起きられる/来られる」である。

  ②「未然形+れる・られる」の形は可能の意味のほかに,尊敬・受身・自発の意味を持つ。※命令形 については多様な記述がある

  ③五段活用動詞には「読める・書ける・行ける・取れる」という可能動詞(下一段活用動詞)がある。

(ただし,三省堂1993年度版『現代の国語2』には可能動詞に関する説明がない。)

 この 3点については,すでに多くの問題が指摘されている。

 学校文法では現在もなお五段活用動詞の可能形(上記①「読まれる」等)が教えられている。現在,「読 まれる」を可能の意味で使う人がどの程度いるのであろうか。多くは③の可能動詞「読める」を使ってい る。ところが,そのことには言及しているのは 2016年度版の東京書籍(「五段活用動詞は,『五分で行かれ る』のように『れる』を付けて可能を表すよりも,『五分で行ける』のように,可能動詞を使うことが多い」)

のみである10)。他の 4社は,五段活用動詞の可能形を注釈なしに教えている。しかし,可能形の例文には

「私は朝早く起きられる(教育出版)」「うまく答えられなかった(学校図書)」「朝七時なら起きられる(三

(10)

省堂)」「六時には起きられる(光村図書)」と一段活用動詞のみを用い,五段活用動詞は提示していない。

ただし,東京書籍と三省堂は 1993年度版には「目的地まで一時間で行かれる」「ここからその町までは,

三十分で歩いて行かれる」と五段活用動詞の例文を掲載していた。掲載を取りやめているので,それに関 する説明をすべきであるが,前述のとおり東京書籍にはあるが,三省堂にはない。

 ③の可能動詞を用いることは,1 つの形に可能・尊敬・受身・自発と 4 つもの意味を負わせていると いう②を軽減するものである。つまり,可能動詞「読める」と言えば,可能の意味を表すと分かり,尊敬・

受身・自発の「読まれる」との区別が可能になる。この五段活用動詞の可能動詞「読める」と同じものが,

一段活用動詞やカ変活用動詞の「ら抜き言葉」である。「見られる」は文脈がなければ,可能なのか,尊敬 なのか,受身なのか,自発なのか不明であるが,「見れる」と言えば可能だとすぐに分かる。「ら抜き言葉」

は一段活用動詞やカ変活用動詞の可能動詞なのである。ところが,学校文法では,五段活用動詞の可能 動詞は認めているが,一段・カ変活用動詞の可能動詞は認めていない。これは文法体系として不完全で あろう。五段活用動詞の可能動詞化が数百年をかけての変化だったことを鑑みれば,一段・カ変活用動 詞の可能動詞化も長いスパンで変化していくものであり,現在はその過渡期だと考えられている11)。  審議会の審議経過報告(pp.7-8)に引用の中に「可能の意味を示す『ら抜き言葉』を受身・自発・尊敬 と区別することは合理的であり,五段活用の動詞における可能動詞と同様に可能動詞形と認めようとす る考え方や『ら抜き言葉』の増加は可能表現の体系的な変化であり,話し言葉では認めてもよいのではな いかという考え方もある」とあるのは,このことを指している。

 「ら抜き言葉」については,各教科書の取り扱い方は通時的にも共時的にも異なる。以下,教科書別に みていこう。

  ⑴東京書籍

   5 つの教科書の中で唯一「ら抜き言葉」を話し言葉で認める記述を行っている。

   1993年度版では「『着れる』『出れる』『来れる』などと使われることがあるが,本来の言い方では,

助動詞の『られる』をつけ,『着られる』『出られる』『来られる』などという」としていたが,2016年 度版では「『食べれる』『来れる』のように,五段活用以外の動詞を可能動詞にすることは,『ら抜き 言葉』とよばれ,書き言葉では一般的ではない」と訂正している。書き言葉と限定したことで,言 外に話し言葉では一般的であると認めていると言える。

  ⑵教育出版

   「ら抜き言葉」を規範的ではないと明記している。

   1993年度版では「『見る』や『出る』を可能動詞にした『見れる』『出れる』という言い方も最近聞か れますが,一般的とはいえません」としていたが,2016年度版では「『見れる』は可能動詞か?」と いう項目を立てて,「可能動詞は,五段活用の動詞からつくられる。上一段活用の『見る』や,下一 段活用の『出る』を可能動詞のようにした,『見れる』『出れる』という言い方は,『ら抜き言葉』と 呼ばれ,規範的ではないとされている」と説明している。「一般的ではない」から「規範的ではない」

と表現が変化しており,規範意識が強まっている。

  ⑶学校図書

   「ら」を抜く現象を「おかしい」「正しくない」ものと考えさせている。

   1993年度版では「五段活用の動詞にはそれに対する可能動詞のあるものもあるが,他の動詞には ない」としていたが,2016年度版ではこの一文は削除されている。つまり,教科書を作成する人は 五段活用動詞以外の動詞にも可能動詞(「ら抜き言葉」)が存在することは無視できない,と判断し たのであろう。

   そのうえで,文法学習の前段階として問題提起をするページでそれに対する考え方を促している。

(11)

そこでは,「食べられてしまった先生」として,「られ」は様々な意味を表すので,注意して使わな いとコミュニケーションがうまくいかなくなる場合があると説明し,さらに絵付きで以下のやり 取りを掲載している。

     生徒A:「食べられる」を「食べれる」と言う人もいる。どっちが正しい?

     生徒B:僕は「食べれる」と言うよ。「走れる」とか「とれる」なんかと,同じじゃないのかな?

     生徒C:「捉えれる」はおかしい。「捉えられる」だね。だとすると…。

   この続きを生徒たちに考えさせるわけであるが,当然のように,「ら抜き言葉」は「おかしい」,「正 しくない」という結論になろう。

  ⑷光村図書

   教科書では「ら抜き言葉」やその現象には言及していない。

   ただし,『文法練習ノート教師用』には「『食べれる』『起きれる』は,いわゆる『ら抜き言葉』とされ ているものである。区別して指導したい」と書かれている。区別してどのように指導するかについ ての説明はない。

  ⑸三省堂

   「ら抜き言葉」やその現象には言及していない。

 審議会は,「共通語(を教える学校文法)では『ら抜き言葉』は誤りとされている」ということを「ら抜 き言葉」を認めない根拠の 1 つとした。審議会当時の 1993年度版教科書を見る限り,「本来の言い方では ない(東京書籍)」「一般的とはいえない(教育出版)」「可能動詞は(五段活用動詞以外の)他の動詞にはな い(学校図書)」と,どの教科書においても「ら抜き言葉」を認める記述はなく,また「ら抜き言葉」という 用語も使用されていない。これらの教科書に基づいて「共通語(を教える学校文法)では『ら抜き言葉』は 誤りとされている」としたことは頷ける。しかしながら,最新版である 2016年度版教科書(2015年検定済 み)においては少々様子が変わってきている。教育出版と学校図書が以前は使っていなかった,「規範的 ではない」「おかしい」「正しくない」といった規範意識の醸成につながる言葉を用いて「誤用」だと位置 づける反面,東京書籍は,書き言葉に限定して一般的ではないとしており,話し言葉では許容している のである。いわば,正反対の変化である。また,東京書籍と教育出版では「ら抜き言葉」という用語も使 用している。これらの教科書が文科省の検定を受けていることを鑑みれば,文科省そのものが揺れてい ることの現れではないだろうか。

 なお,1993年度版と 2016年度版の比較だけでは見落とすところだった,教科書の「ら抜き言葉」に関す る扱いが下記の新聞記事から判明する。

  ・国語の一冊に「ら抜き言葉」が初めて登場した。例えば「見ることができる」という意味の「見られ る」を「見れる」などと「ら」を抜いた言葉が多く使われている点を「『られる』は『受け身』として 使われることが多く,『可能』の意味が感じられにくい」と文法的に説明。「言葉は生き物だという ことを身近にとらえてほしかった」と編集者。(1996.6.28毎日)

 これは,1996年に検定を受けた 1997年度版の教科書に関する記事である。探してみると,光村図書の,

1997年度版(1997-2001 が同じ検定教科書)に「言葉の学習」として「言葉の変化」と題する文章が掲載さ れていた。「見れる」「食べれる」という形が「文法的誤用」なのに使われる理由として,①五段活用動詞 には可能動詞もあるのに,一段活用動詞にはないこと,②受け身の形として使われることが多く可能の 意味が感じられにくいことの 2 つを挙げている。2002年度版(2002-2005 が同じ検定教科書)では「『ら』

抜き言葉」という用語も用いられ,多くの人に使われる理由として 3 つ挙げている(①五段活用動詞と同 様の可能動詞化,②可能の意味に限定,③一拍分少なく言いやすい)。そして,「全国的にみれば,まだま だ正しいいい方をする人のほうが多いという調査報告もあり,書き言葉ではほとんど見られない。現代

(12)

語も時とともに変化している一例といえるだろう」とまとめている。「文法的誤用」としながらも,審議 経過報告(1995年)が出た翌年の 1996年に検定を受けた教科書にこの文章を掲載した点に,この教科書 に携わった人々の意識を垣間見る思いである12)

 1997年から 2005年までの 9年間この文章が使われ,この間の中学2年生(1983年生~ 1991年生)に教え られたことになる。光村図書は「国語の光村」と定評のある検定教科書であるので,多くの人がこの文章 に触れ,「言葉は変化するものだ」と教わったと考えられる。このことは,グラフ 1 に見る,「『来れる』は 変化だ」と考える人の増加に一役買ったものと思われる。

 以上のような状況下で,2015年度の『言葉に関する世論調査』の結果(2016年9月発表)を受けて,文化 庁が「(『ら入り』か『ら抜き言葉』か)どちらが正しいとは言えない」とした(2016.9.22読売)というので ある。このことは,「ら抜き言葉」を「誤用」とする現行の検定教科書を「共通語のバイブル」の座から引 きずり下ろすことを意味する。世論調査の結果(言語の使用率)次第では,正しさの基準が変わる,とい うことである。今後は東京書籍のように,現状に合わせた記述にするのか,はたまた「ゆれ」ている言語 現象は三省堂のように触れずにおくのか,世論調査の結果が反映される今後の検定教科書の記述を待ち たい。

4 ― 2  新聞記事

 審議会が「ら抜き言葉」を認めないとした 2 つ目の根拠は,「少なくとも新聞等ではほとんど用いられ ていない」ということであった。しかし,以下の記事を読むと,「新聞で用いられていないから,審議会で

『ら抜き言葉』は認められない」とされたから,さらに,新聞で用いないように気を付けよう,という流れ ではないかと思われる。

  ・審議会が「ら抜き言葉」は誤用であり,「認知しかねる」とした。その理由に「新聞などではほと んど用いられていない」ことを挙げている。言葉遣いに対する新聞の責任は大きい。(校閲者)

(1997.3.13毎日)

 この点について記事の分布から検証してみよう。記者が書いた記事の地の文に「ら抜き言葉」がどのく らい現れるか探してみた。記事採集のデータベースとして,朝日新聞のデータベース『聞蔵Ⅱビジュアル

(1984年13)~)』を使うことにする。その理由は,1995年の審議経過報告案14)が発表された際,反対意見を 真っ先に掲載したのが朝日新聞だからである。

  ・現に使い,正しいと思っている言葉遣いについて「間違い」と言われても,違和感を持たざるを得 ない。国語審が「認知しかねる」という表現は避けるべき。(1995.10.31朝日)

  ・ら抜き批判は方言札のようなものとの投書を国語審議会のメンバーはどう受け止めるのか。こと ばは人の生活に根差している。上から操縦するのはそぐわない。(1995.11.2朝日)

 報告案が出た直後に異議を唱える記者を抱える新聞社の判断がどのように現れるのかを追うことは,

記者個人の言語使用状況ではなく,校閲者,ひいては新聞社の意向がより明確に現れるのではないかと 考えたからである。

 対象とする「ら抜き言葉」は,『国語に関する世論調査』で取り上げられた 5語(「見れる」「出れる」「来 れる」「食べれる」「考えれる」)とする。それぞれ,「肯定形」「否定形」「過去・肯定形」「過去・否定形」の 4 つの語形で『聞蔵Ⅱビジュアル』の朝日新聞の記事を検索した。その結果を表2 に示す。20 の語形が出 現する記事は全部で 1234本である。そのうち,審議経過報告前の記事は 598本となる。「ら抜き言葉」は ここに挙げた 20語だけではないが,参考までにこの 20語で単純計算をすると,審議経過報告前(1984年8 月から 1995年10月末までの 11年3 か月=135 ヵ月)の 1年あたりの「ら抜き言葉」出現記事数は約54本,1 か月あたりで 4.4本となる。これが「新聞ではほとんど用いられていない」と判断できる数値なのか,筆者

(13)

には不明である。

 朝日新聞の校閲者の名誉のために添えれば,審議経過報告前から「ら抜き言葉」を訂正する努力はして いるので,この記事数は校閲をしない状態よりはずっと減っているのであろう。  

  ・新聞にも時々出る。これはミスだ。気がつく限り直している。だが,時流なのか直しきれないほど 多い。(1989.4.9朝日)

という,審議経過報告前の校閲者の嘆きも載っている。

表 2 :「ら抜き言葉」が現れる朝日新聞の記事数 語  形 1984 年~2017 年 3 月末

(全記事数・本) 1984 年 8 月~1995 年 10 月末

(審議経過報告前の記事数・本) 1995 年 11 月~2017 年 3 月末

(審議経過報告後の記事数・本) 審議経過報告前の 記事数/全記事数(%)

来れる 187 127 60 67.9

来れない 103 61 42 59.2

来れた 264 140 124 53

来れなかった 47 27 20 57.4

出れる 75 40 35 53.3

出れない 53 26 27 49.1

出れた 22 7 15 31.8

出れなかった 7 4 3 57.1

見れる 183 72 111 39.3

見れない 66 26 40 39.4

見れた 55 15 40 27.3

見れなかった 14 6 8 42.9

食べれる 101 29 72 28.7

食べれない 39 14 25 35.9

食べれた 8 2 6 25

食べれなかった 5 2 3 40

考えれる 2 0 2 0

考えれない 3 0 3 0

考えれた 0 0 0 0

考えれなかった 0 0 0 0

  1234 598 636

 20語のうち,審議経過報告前の記事数の割合が最も多い「来れる」と,反対に審議経過報告後の記事数 の割合が増え,かつ「来れる」(肯定形)とは語形が異なる「見れない」(否定形)の 2語を取り出し,審議 経過報告の前後で比較してみる。

 「来れる」の全記事数は 187本15)である。そのうち,談話や読者の投書に現れたり,「ら抜き言葉」その ものを題材として扱っている記事など校閲対象外と思われるものを除くと,18本の記事が記者が書いた 地の文に現れる「来れる」である。表3-1 では「新聞社の『来れる』」とした。それは,記者個人が書いた結 果というより,新聞社の校閲を通り,校閲ミスの結果として新聞に掲載されたものだからである。審議 経過報告の前後で比較すると,前の記事数は 127本,そのうち「新聞社の『来れる』」は 15本,後の記事数

(14)

は 60本,そのうち「新聞社の『来れる』」と思われる記事は 3本である。

 「来れる」は,全記事,新聞社の記事,談話・投書等の記事ともに,審議経過報告前よりも後のほうが減っ ている。しかし,新聞社の記事の減り方が大きいことが分かる。

表 3 - 1 :朝日新聞における「来れる」審議経過報告前後

審議経過報告前

1984 年~1995 年 10 月末 審議経過報告後 1995 年 11 月~2017 年 3 月

「来れる」全記事   187 127(67.9) 60(32.1)

新聞社の「来れる」    18 15 (83.3) 3 (16.7)

談話・投書等の「来れる」169 112(66.3) 57(33.7)

 「新聞社の『来れる』」の例を挙げておく。

  ・一般の女性が気軽に来れるパーティーの開催を決め,新聞,ラジオ,雑誌等を通じて参加を募っ てきた。(1989.10.23朝日)

  ・クリーニング店と分かっている人さえすんなり入って来れるようになるまで 3 カ月かかったとい う。(1988.6.24朝日)

  ・都内から 1-2時間半で来れるようになったのも人気のひとつ。(1988.5.10朝日)

 次に,「見れない」で検索すると,66本の記事がヒットする。そのうち,「新聞社の『見れない』」と思わ れる記事は 9本である。その 9本のうち 7本が審議経過報告前に現れる。審議経過報告後2017年3月までに 現れるのは 2本である。表3-2 を見ると,「見れない」を含む記事全体は審議経過報告前より審議経過報告 後のほうが増えており,談話・投書等に現れる「見れない」を含む記事の増加がその要因となっている。

しかし,「新聞社の『見れない』」を含む記事数は反対の動きを示している。

表 3 - 2 :朝日新聞における「見れない」審議経過報告前後

審議経過報告前

1984 年~1995 年 10 月末 審議経過報告後 1995 年 11 月~2017 年 3 月

「見れない」全記事    66 26(39.4) 40(60.6)

新聞社の「見れない」    9 7 (77.8) 2 (22.2)

談話・投書等の「見れない」57 19(33.3) 38(66.7)

66.3 83.3 67.9

33.7 16.7 32.1

0 10 20 30 40 50 60 70 80 90 100 審議経過報告前 1984年〜1995年10月末 審議経過報告後 1995年11月〜2017年3月

談話・投書等の「来れる」

新聞社の「来れる」

「来れる」全記事

169 18 187

(%)

(本(%))

(本(%))

(15)

 「新聞社の『見れない』」の例を挙げておく。

  ・研究対象の火山の噴火を見れないまま研究生活を終える学者も多い。(1989.7.23朝日)

  ・広島や関東など限られた地域でしか見れないのが残念!(1990.6.23朝日)

  ・自分の老いについても人はなかなかまっすぐに見れないらしい。(1993.6.4朝日)

 以上2語のみではあるが,新聞社の「ら抜き言葉」使用について見てきた。1995年の審議経過報告前後 を比較すると,「ら抜き言葉」を使用した記事の増減に関わらず,新聞社の校閲対象記事における使用は 大きく減っている。審議経過報告前の約11年間で「来れる」は 15本,「見れない」は 7本であったものが,

審議経過報告後の約21年間で「来れる」は 3本,「見れない」は 2本に激減しているのである。2語の 1年あ たりの記事数は,審議経過報告前は 22本÷11年 =2本,後は 5本÷21年 =0.24本となっており,この 2者の 比較において,どちらが「ほとんど用いられていない」状況にふさわしいかは一目瞭然であろう。このこ とは,「新聞で用いられていないから,審議会で『ら抜き言葉』は認められない」のではなく,「審議会が 新聞で用いられていないことを理由に,『ら抜き言葉』を認めなかったから,新聞社としてはさらに用い ないように気を付けよう」と自主規制がかかったことを裏付けていると言えよう。「少なくとも新聞等で はほとんど用いられていない」という状況を作ったのは審議会なのである。

4 ― 3  世論調査

 審議会が「ら抜き言葉」を認めないとした 3 つ目の根拠は,「世論調査で本来の言い方を使うとの回答 が 3語の平均で 7割を上回った」ことである。その世論調査というのは,『国語に関する世論調査』(文化 庁)のことであり,その結果は表1 に示した。審議会が利用したのは 1995年度の世論調査である。表1 か ら 1995年度の調査結果のみを取り出し作成したのがグラフ 4 である。

33.3

77.8 39.4

66.7

22.2 60.6

0 10 20 30 40 50 60 70 80 90 100 57

9 66 談話・投書等の「見れない」

新聞社の「見れない」

「見れない」全記事

審議経過報告前 1984年〜1995年10月末 審議経過報告後 1995年11月〜2017年3月

グラフ 4 :「ら抜き言葉」の使用率(1995年度)

88.8 67.3

58.8

6.7

27.2 33.8

0 10 20 30 40 50 60 70 80 90 100 彼が来るなんて考えれない

vs.考えられない こんなにたくさんは食べれない

vs.食べられない 朝5時に来れますか

vs.来られますか

ら抜き言葉 ら入り言葉

(%)

(%)

(16)

 グラフ 4 によれば,「本来の言い方」である「来られますか」を使う人が 58.8%,「食べられない」67.3%,

「考えられない」88.8%であり,3語の平均が 7割(71.6%)を超えている。2章で見たとおり,「誤用」とは,

「本来の正しい形・意味・用法」が大多数に支持されているときに,「別の語形・意味・用法」を用いるこ とである。「誤用」が「ゆれ」になるためには 5割程度の支持が必要である。7割以上が「本来の言い方」を 使っている状態は「誤用」とみなされる。したがって,審議会は「誤り」という言葉を使ったのであろう。

それが,2015年度の世論調査では,グラフ 5(グラフ 4同様に表1 から 2015年度調査結果を取り出し作成)

のように移行する。

 グラフ 5 は,2010年度調査から加えられた「見れる」「出れる」がある点が 1995年度調査(グラフ 4)と は大きく異なる。グラフ 4 にも「見れる」「出れる」があれば,審議会の結論はもう少し違うものになって いたかもしれない。グラフ 5 によれば,「見れる」「出れる」を使う人は「本来の言い方」よりも多くなり,

逆転現象が起きている。「来れる」についても「来られる」と拮抗している。「本来の言い方」を使う人の 5 語の平均は 56.7%に減少している。

グラフ 5 :「ら抜き言葉」の使用率(2015年度)

88.6 60.8

45.4 44.3

44.6

7.8

32

44.1 45.1

48.4

0 20 40 60 80 100

彼が来るなんて考えれない vs.考えられない こんなにたくさんは食べれない

vs.食べられない 朝5時に来れますか

vs.来られますか 早く出れる?

vs.出られる?

今年は初日の出が見れた vs.見られた

ら抜き言葉 ら入り言葉

(%)

グラフ 6 :16-19歳の「ら抜き言葉」の使用率(2015年度)

86.9 41.7

36.9 32.1 16.7

8.3

48.8 57.1

60.7

76.2

0 10 20 30 40 50 60 70 80 90 100 彼が来るなんて考えれない

vs.考えられない こんなにたくさんは食べれない

vs.食べられない 朝5時に来れますか

vs.来られますか 早く出れる?

vs.出られる?

今年は初日の出が見れた vs.見られた

ら抜き言葉 ら入り言葉

(%)

(17)

 さらに,『2015(平成27)年度国語に関する世論調査』から 16-19歳の結果を取り出し,作成したのがグ ラフ 6 である。16-19歳の若者にいたっては,5語中4語(「見れる」「出れる」「来れる」「食べれる」)が逆転 し,「ら抜き言葉」を使う人の割合の方が多い。「ら抜き言葉」を使う人の 5語の平均は 50.2%で,「本来の 言い方」を使う人の平均は 42.9%である。「考えられない」一語が加わり 10 ポイント以上変動しても,「ら 抜き言葉」を使う人の 5語の平均が過半数となっている。この 16-19歳の結果は将来の日本人全体の「ら 抜き言葉」の使用状況に先行していると思われる。

 繰り返しになるが,この結果を見て,文化庁は「どちらが正しいとは言えない」と発言した(2016.9.22 読売)。「どちらが正しいとは言えない」ということは,「誤用」から「ゆれ」になったと言える。2章で触れ たとおり,「誤用」から「ゆれ」になるのは,両者が同程度ほど支持される状態になったときであり,「ゆれ」

はすでに「誤用」ではない。したがって,現在は,審議経過報告にある「誤り」ではない,ということになる。

5 .おわりに

 本稿では,審議会が 1995年に「ら抜き言葉」を認めないことの根拠とした以下の 3点について 2017年現 在において再検討した。

  1.現時点ではなお共通語においては誤りとされている。

  2.少なくとも新聞等ではほとんど用いられていない。

  3.世論調査で本来の言い方を使うとの回答が 3語の平均で 7割を上回った。

 1 と 3 は連動しており,世論調査の結果次第では,「正しさ」が変わるということ,「学校文法」は絶対的 存在,明確な基準ではなく,現在は教科書によって取り扱い方が異なっている,ということが明らかに なった。また,2 は新聞で用いられていないから審議会で認めないという流れではなく,実際は逆の流れ であり,新聞社の自主規制の原因は審議会にあることが分かった。

 現在の状況を審議経過報告と同じように書くと,以下のようになるだろう。

  1.現時点ではなお共通語においては誤りとされている。

   しかし,2016年9月に文化庁の「どちらが正しいとは言えない」という発言があり,これに従えば,

「共通語において誤りとはされない」ことになる。

     話し言葉では許容されるとする教科書と,規範的でないとする教科書がある。

     過去には,言葉の変化だと記述する教科書もあった。

  2.少なくとも「新聞社の記事」では用いないようにしている。

     審議経過報告後「新聞社の記事における使用」は減っているが,語によっては「談話や投書に おける使用(一般の人々の使用)」が増えているものもある。

  3.世論調査で「本来の言い方」を使うとの回答が 5語の平均で 56.7%と,半数を上回った。

     16-19歳では,「本来の言い方」を使う人の 5語の平均が 42.9%と,半数を下回り,「ら抜き言葉」

を使う人の 5語の平均が 50.2%と,半数を上回った。

 3 の世論調査の結果が一歩進み,現状は数語が「ゆれ」の状態に入ったというところである。しかし,

この点に関して,文化庁の正式見解は出ていない。したがって,「共通語においては改まった場での『ら 抜き言葉』の使用は現時点では認知しかねるとすべきであろう」とした 1995年の審議経過報告がいまだ 生きていることになる。また,数語に関しては「ゆれ」の状態だと認められたとしても,だからと言って,

すぐに学校文法が書き換えられるわけでもなく16),すぐに新聞社の自主規制が解かれるわけでもないだ ろう。ただ,学校文法は変わらなくても,文化庁の「どちらが正しいとは言えない」という発言を受けて,

今後は教科書の記述が変わっていく可能性がある。どの教科書でも「ら抜き言葉は話し言葉では許容さ

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