宇野千代と尾崎士郎
その出会いと別れ
都 築久義
はじめに
宇野千代さんが昨年︵平成八年︶六月︑九十八歳で亡くなられた︒三十年前︑尾崎士郎の伝記を調べ始めた頃や︑尾崎
士郎没後︑長く開かれた偲ぶ会では︑尾崎士郎とかかわりのあった大勢の文学者にお会いした︒
しかし︑いちばんかかわりのあった宇野千代さんには︑おめにかかる機会がなかった︒それだけに︑今回の計報は残念
であった︒宇野千代と尾崎士郎のことは︑拙著﹃実説人生劇場﹄︵白馬出版 昭和四十七年五月刊︶でもふれたが︑今回
の計報に接し︑拙著の執筆後の作品を読み直し︑若干の新資料にも当って︑二人の関係を調べ直してみた︒いずれ︑改稿
予定の﹁実説 人生劇場﹂の補稿としてまとめた︒
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(一
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宇野千代の文学的出発は︑時事新報が募集した懸賞短篇小説で︑一等に入賞したことから始まった︒大正十年一月のこ
とである︒時事新報は前年の十一月︑短篇小説の懸賞募集を行い︑明けて一月二十一日︑里見淳︑久米正雄の選による審
査結果を発表した︒三千を越える応募作品の中からまず六篇が選ばれ︑二人の審査員が各作品を採点し︑作品ごとの得点
も載っている︒
六篇の中から一等に選ばれたのが︑藤村千代の﹁脂粉の顔﹂︒二等が尾崎酒作の﹁獄中より﹂︒三等が八木東作の﹁秋の
一日﹂︒選外ながら兼光左馬︵横光利一︶の﹁踊見﹂も六篇の中に入っている︒同紙には三等までの入賞者の談話記事も載っ
ており︑藤村千代については︑︿当選は実に意外です﹀の見出しで次のように書かれている︒
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懸賞短篇小説の第一等に当選した﹁脂粉の顔﹂の作者藤村千代氏は︑北海道函館区拓殖銀行員藤村忠氏の夫人である︒
当選の報を斎して女史を訪ふと︑喜びに輝いた顔をあげて語る﹁あれが当選したなぞ︑全で嘘の様です︒締切間際に
なつて絞り出す様にして書いた物で︑統一の無い︑支離滅裂な描写を嫌らなく思つて居たのでした︒紙上へ出てから
も︑あの六篇の内の一番のお尻の方にやつと引掛つて居るのだと思ふと︑極りが悪くなる位だつたのです︒何だか今
になつて︑狼狽へて自分の周囲を見廻し度くなります﹂︵原文ルビ省略︶
新聞記事の見出しの通り︑︿当選は実に意外です﹀と語ったのは︑彼女の正直な気持であろう︒たしかに二十四歳の女
性にしては︑波乱に満ちた生活を送ってきたが︑今まで特に文学修業をしたのでも︑作家を目指してきたわけでもなかっ
た︒現に彼女は銀行員の妻であり︑一介の主婦だった︒
藤村千代の旧姓は宇野︒大正八年八月二十九日に結婚した︒夫の藤村忠は同郷の従兄弟で︑結婚当時は一つ年上の東京
帝国大学法学部の学生だったが︑九年七月に卒業し︑北海道拓殖銀行に就職した︒そこで北海道に赴き彼女も夫の任地に
来たばかりだった︒千代と忠の正式な結婚こそ遅かったが︑二人が同棲生活を始めたのは︑藤村忠が第三高等学校に在学
中の大正五年からだ︒
宇野千代は大正三年に山口県の岩国高等女学校を卒業し︑郷里の小学校の代用教員になったが︑同僚と恋愛事件を起こ
して一年余りで退職︒単身︑朝鮮の京城に渡ったもののまもなくして帰国し︑従兄弟の忠を頼って京都に行き︑そのまま
一緒に暮した︒大正六年︑彼が東大に入学すると彼女も上京して来た︒千代が二十歳の時である︒この東京での忠との同
棲生活は貧乏を極め︑彼女も生活のためにさまざまな仕事を転々としたという︒ところがわずかな期間であったが︑本郷
三丁目にあったレストラン燕楽軒で給仕として働いたことが︑後に彼女の人生に大きな影響と幸運をもたらすことになっ
た︒
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思ひもかけないことでしたが︑その燕楽軒のすぐ向ひに︑電車通りを挟んで中央公論社のビルがあって︑昼食どきに
なると︑決って緒ら顔の肥った紳士が︑凝った和服に草履を穿き︑気忙しい足取りで店に這入って来ました︒﹁中央
公論﹂の名編集長と謳はれた滝田樗蔭だと聞かされました︒卓子につくと︑そそくさと食事をし︑席を立つときには
決って︑盆の上に五十銭銀貨を一枚おいて出て行きました︒当時の五十銭銀貨は︑いまの五千円くらゐに当たりませ
うか︒いま考へると私はこの滝田樗蔭のおいて行く五十銭銀貨を貰ふのが目的で︑店に出てゐたのかと思ひます︒
右は﹃私の文学的回想記﹄︵中央公論社 昭和47・4︶の﹈節だが︑彼から得たのはチップだけではない︒彼が店に連
れて来る芥川龍之介︑久米正雄︑菊池寛︑佐藤春夫など︑文壇流行作家との出会いも︑彼女にとって高価な貰い物だった︒
︿このことは私が︑後に小説を書かうと思ひついたことの︑原因であったかと考へます︒﹀と振り返っている︒
しかし︑なんといっても最大の貰い物は︑滝田樗蔭その人に出会ったことだろう︒当時の彼女は︑彼がどんなに偉い人
であり︑﹃中央公論﹄がどんなに権威の雑誌であったかは知らなかったという︒ただ︑時事新報の懸賞当選で得た賞金の
多額︵二百円︶さに驚き︑︿小説とはこんなに金の儲かるものか﹀と思い︑︿いつでも貧乏であった私は︑そのときに︑金
を儲けるためにこれからも小説を書かうと思ひ詰めた﹀と回想している︒
︿金を儲けるために﹀これから小説を書こうと思い詰めたというのは︑いささか回想記特有の誇張もあろうが︑当時の
文壇事情について︑彼女が﹁処女作を発表するまで1何も知らなかった私﹂︵﹃文章倶楽部﹄大14・H︶であったことは
ほんとうだろう︒だからこそ︑彼女は大胆にも百枚を越える原稿を︑文壇を牛耳っているとの評判のあった滝田樗蔭にい
きなり送ることができたのだ︒
それどころか︑送った原稿の採否の連絡がないと業をにやし︑大正十一年四月の初め︑ついに一人で津軽海峡を渡り︑
中央公論社に乗り込んで行ったのである︒初めて中央公輸社の中に入り︑見なれた顔の滝田樗蔭に会うと︑彼は刷り上っ
たばかりの雑誌を眼の前に投げ出し︑﹁ここに出てゐますよ﹂と︑怒ったふうに言ったという︒たしかに五月号﹃中央公論﹄
の創作欄には︑広津和郎の﹁ひとりの部屋﹂︑相馬泰三の﹁或る一族のこと﹂と並んで︑藤村千代の﹁墓を発く﹂が載っ
ていた︒ 懸賞当選作の﹁脂粉の顔﹂は︑娼婦の生活を描いた作品だが︑七枚という短篇ということもあって主題がはっきりしな
い︒が︑﹁墓を発く﹂は︑おそらく彼女の代用教員時代の体験が下敷にあって︑校長の姿勢や態度を︑主人公の女教師が
批判したり︑反抗するという小説だ︒台頭しつつあったプロレタリア文学の雰囲気があり︑主題も明白だ︒
しかし︑こんども︿私は自分の書いたものに対して支払われたその金額に吃驚仰天しただけ﹀であったが︑︿このとき
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から︑小説を書こうと決心した私は︑まつ︑巣鴨の畑の中にあった百姓家の離れ﹀を借り︑とうとう北海道には帰らなかっ
たのである︒行動派らしい彼女の面目が躍如としている︒
彼女の小説を書く目的や意図がなんであったにしても︑その頃の文壇の常識では︑﹃中央公輸﹄に作品が載ることは︑
作家として認られたことを意味した︒滝田樗蔭の眼鏡にかなうことが︑作家の登龍門だったからである︒そこで読売新聞
はさっそく︑巣鴨に彼女を訪ね︑五月十五日付の文芸欄で︿小説﹁墓を発く﹂の作者︑藤村千代夫人﹀とキャプションを
付け︑三段抜きの写真入りで︑インタビュー記事を載せて︑大々的に紹介している︒
新人にとって一作でも﹃中央公論﹄に載れば有頂天になるところだが︑﹁墓を発く﹂についで二作目の﹁巷の雑音﹂も﹃中
央公論﹄の八月号に載った︒さらに翌十二年になると三月号に﹁追憶の父﹂︑六月号に﹁人間の意企﹂︑九月号に﹁お紺の
出京﹂︑十一月号に﹁薄墨色の憂愁﹂と掲載作品が増えた︒ついでにいえば︑十三年も四作品が載っており︑十四年になっ
て二作品に減った︒ちなみにこの年︑滝田樗蔭が他界した︒
それにしても﹃私の文学的回想記﹄の中で︿私はながい間︑金を目的に仕事をしました︒何を書くのかを決めるのは︑
何が金になり易いかといふ判断だったのです﹀と︑彼女が樋口一葉ばりのことを繰り返えし述べているのは︑半分は正直
なところであろうが︑いささか偽悪ぶった言い方だ︒もし︑︿何が金になり易いかといふ判断﹀で書くなら︑社会主義的
な小説が台頭しつつあったのだから︑﹁墓を発く﹂のような作品を書いた方がよかったが︑その後の作品はいずれも過去
や現在の身辺雑記的な小説だ︒
やがて社会主義文学が文壇を席巻する時が来ても︑彼女が流行の作品を書くことはなかったことはいうまでもない︒お
そらく当時の心境は︑昭和二年四月号の﹃文章倶楽部﹄に載っている次のような自筆年譜が︑もっともよく物語っていよ
︑つ︒
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大正十一月五月︑﹃中央公論﹄に﹁墓を発く﹂を発表︒同八月︑同誌に﹁巷の雑音﹂を発表︒以来同誌の厚意に依り
短篇十数篇を発表したるも︑未だ特色あるものを創るなくして︑徒らに好評なりしもの多きは︑自ら顧みて汗せざる
を得ず︒
大正十五年来︑作の上に一つの転機をのぞみ得ず︑始めて作するの感あり︑不安動揺とともに一脈の楽しさなきにし
もあらず︒ 以上
宇野千代は誰よりも自分自身が︑文名だけが走っていることも︑作品に特色もないのに︿徒らに好評なりしもの﹀が多
いことを知っていた︒そしてそれは︿自ら顧みて汗せざるを得ず﹀ことであり︑それが彼女に不安と動揺を与えた︒実力
不相応の出世だったのである︒彼女が実力相応に評価されるのは﹁色ざんげ﹂︵昭和十年︶以後である︒文壇にデビュー
して十五年後のことだ︒彼女にとって苦節十五年はまさに︑文壇にデビューした時から始まった︒
︵二︶
藤村千代が上京したまま︑夫のもとへ帰らなかったのは︑小説を書く決心をしたからだけではない︒東京で新しい恋人
ができてしまったからである︒恋人の名は尾崎士郎︒時事新報の懸賞で二等になった尾崎酒作の本名である︒尾崎酒作の
当選談話も掲げておこう︒
僕は明治三十一年に生まれ︑愛知県岡崎中学を大正五年に卒業しました︒それから直早稲田大学の政治科に入学しま
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したが︑学校へは殆んど出席せず籍だけ置きました︒で一昨年遂に除名処分を受け︑それからあちこちで放浪生活を
してゐます︒創作と云へば今度書いた﹁獄中より﹂が後にも前にも始めてなもので真実の処女作です︒ですから始め
から入選しやうなどと思つてませんでしたが︑前から此の材料が頭にあつて何時かは創作に纏めたいと思つたもので
したから︑此の機会にもと思つて書き上げ投書したやうな始末です︒︵以下略 原文ルビ省略︶
この談話の中に尾崎の経歴は語られているが︑肝腎なことが抜けているので補足する︒たしかに﹁創作﹂といえば始め
てかも知れないが︑彼は中学時代から旺盛な文筆活動をしている︒ただし︑雄弁家で政治青年であったから︑﹃第三帝国﹄
や﹃世界之日本﹄︑あるいは﹃雄弁﹄といった雑誌に投稿し︑﹁如何にして選挙権を拡張すべき乎﹂の懸賞論文では中学生
の分際で三位に入賞した︒
懸賞入賞が機縁となって︑早稲田大学の永井柳太郎教授を知り同校に進み︑早稲田騒動︵大正六年︶のリーダーとして
活躍したことは﹁人生劇場﹂︵昭和八年︶に活写されている通りだ︒この間︑売文社に出入りし︑堺利彦︑山川均︑大杉栄︑
高畠素之らと交り︑当局から特別要視察人に指定されるほど過激な言動を続けた︒かたわら﹃新社会﹄︑﹃国家社会主義﹄︑
﹃批評﹄といった政治︑思想雑誌の編集に携り︑自らも彩しい論文や人物論を執筆した︒著書も﹃西洋社会運動者評伝﹄
︵売文社 大8・3︶と︑﹃近世社会主義発達史論﹄︵三田書房 大9・12︶を著わしている︒
時事新報の懸賞に当選したのは︑二冊目の著書を公刊した直後だったが︑この当選が尾崎士郎の人生を大きく変えた︒
新聞に出てまもなく︑改造社の山本実彦社長から直々に︑小説執筆の依頼を受けたのである︒それも単行本を出し︑執筆
中の生活の面倒はみるという破格の条件だった︒﹃改造﹄は後に﹃中央公論﹄と双壁をなす大雑誌となるが︑当時は創刊
から日が浅く︑﹃中央公論﹄を目標に︑創作欄の充実や新人の発掘をはかっていた︒
出版人として時流に敏感な山本が︑社会主義盛況の気運を見て︑社会主義者として輝かしい実績と筆力を持ち︑懸賞に
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も当選した尾崎士郎に︑社会主義小説の執筆を期待したことは想像に難くない︒ところが尾崎が書き上げた﹃逃避行﹄
︵大正十年十一月刊︶は︑自ら体験した社会主義運動の裏面史や実態の暴露であり︑彼自身の運動からの﹁逃避行﹂の宣
言であった︒山本の期待を裏切ったばかりか︑同志の反感もかい︑時代に逆行した反社会主義小説は︑当然のことながら
文壇からも黙殺された︒
この後︑大逆事件に材を得た﹁獄中より﹂の続編ともいうべき﹁獄室の暗影﹂を﹃改造﹄︵大11・3︶に発表して姿を
消し︑上海に渡り︑帰国後も千葉県御宿海岸の古寺にこもり︑大正十一年の暮に上京して︑本郷の菊富士ホテルに投宿し
た︒そして懸賞当選一位の藤村千代と二位の尾崎士郎が避遁する︒引き合せたのは評論家の室伏高信であった︒偶然にも
藤村千代が﹃中央公論﹄︑尾崎士郎が﹃改造﹄というライイバル誌をバックに︑文壇に登場したことがなかなか面白い︒
尾崎士郎の自筆年譜︵﹃文章倶楽部﹄昭2・4︶には︑︿大正十二年三月︑藤村千代と恋愛関係生じたために生活上に一
転化を来す﹀と書いているが︑このことを新聞の文芸欄のコラムで話題にしたのは︑東京朝日新聞の大正十二年四月三日
付﹁回転椅子﹂が︑管見では最初である︒﹁千代女の事ども﹂と題して
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今の世に時めく藤村千代女︑
れ⁝⁝ さる夕べ夫旅してあらぬ時︑いとも若々しげなる男と共に巣鴨場末のカフェに現わ
と︑書いている︒
このコラムでは尾崎士郎の名前は出てこないが︑それから数カ月後の八月二十一日の国民新聞は︑文芸欄のコラムでは
なく︑社会面の記事として大きく報道した︒見出しも三段抜きで﹁懸賞当選から/夫君を捨て/愛人に走つた閨秀作家/
藤村千代と尾崎士郎君﹂という派手なものだった︒記事もく﹁逃避行﹂の著者で年少の尾崎士郎氏︵二六︶を︑本年春以
来新たに其の懐に抱へ﹀とか︑︿二人は飽くなき生の享楽に浸つてゐるが﹀といった調子の文面で︑︿若い燕︑白面の士郎
氏﹀と書かれるに及んで尾崎士郎も激怒した︒彼は八月三十日付の読売新聞に︑﹁予は野良犬のごとく/かの女を盗めり﹂
と題する一文を寄せ︑こう開き直った︒
﹁国民新聞﹂記者は私を藤村千代の若い燕に擬した︒これだけは願い下げをして貰ひたい︒燕のやうに女の﹁懐ろ﹂
にしのび込んだのではなかつた︒私は野良犬の如く人の台所から魚を凌らつていつたのだ︒若しくは鳶の如く油揚げ
をかすめていつたのだ︒その魚と油揚げがなければ生きられなかつたのだ︒1道徳︑法律それ等はすべて欲求の背
後にある︒
ここで尾崎があえて︿道徳︑法律﹀をもち出しているのは︑姦通罪を念頭においていたからだが︑夫の方から姦通罪で
告訴されることもなく︑藤村忠と千代の協議離婚は大正十三年四月二日に成立した︒興味深いのは︑この月に﹃中央公論﹄
に発表した﹁夕食﹂で︑初めて藤村千代が﹁宇野千代﹂の筆名を使ったことである︒ちなみに︑尾崎士郎との結婚が戸籍
の上で成立したのは︑大正十五年十二月二十日であるが︑筆名は宇野千代のままであり︑以後︑その筆名で通した︒
戸籍の手続はともかく︑尾崎士郎と宇野千代が東京府下荏原郡馬込村︵現︑大田区︶に新居を構えたのは︑国民新聞の
記事が出た頃だ︒八月四日付の東京朝日新聞の﹁学芸だより﹂に︑尾崎士郎の馬込村への移転予定の記述があり︑国民新
聞の記事の中にも︑近く馬込村に移り住むことが書かれている︒
新居といっても︑ワラぶきの農家の納屋を改造した︑六畳一間とコンクリートの土間だけの小さな家だったが︑結婚生
活ぶりを︑宇野千代は﹁自伝的恋愛論﹂︵﹃婦人公論﹄昭34・1〜12︶でこう回想している︒
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私は文字通り︑この藁葺き屋根の百姓家で︑新しい結婚生活を始めたような気持になりました︒その生活には︑たっ
た一きれの雲もない︑朗らかな生活でした︒︵略︶﹁北海道﹂と言う言葉は二人の間に︑一度もでたことがありません
でした︒一度も話さない言葉は︑全くないのと同じように︑私たちは暮していたのです︒新しい良人は陽気なたちで
した︒毎日︑おおぜいのお客がこの小さな家に来て︑面白おかしく遊びました︒まア︑小さな風流なサロンとでも言
えましょう︒
︵三︶