尾崎士郎と中国
都
築
久
義
まえがき
今年︵平成十四年︶の九月︑校務の出張で中国へ行った︒中国訪
問は二十年振りの二回目であるが︑前回は北京の他には西安や洛陽
といった古都巡りであったのに対して︑今回は天津を経て北京に行
き︑南京と上海も訪れた︒天津︑北京︑南京︑上海といえば日中戦
争の激戦地であり︑尾崎士郎がたびたび訪れた地である︒戦時下の
文学や尾崎士郎に関心を寄せているわたしは︑かねがね訪ねたいと
思っていた所ばかりだ︒もとより今回は校務の出張だから︑滞在期
間も短かく時間も制約されていたが︑文献や書物でしか知らなかっ
たこれらの街に︑自らの足を踏み入れ︑自らの眼で見て確認できた
ことは大きな収穫だった︒本稿は尾崎士郎と中国とのかかわりにつ
いて︑今回のわたし自身の現地訪問の印象を交えて論じたものであ
る︒ 1 上海放浪
尾崎士郎が初めて中国へ行ったのは︑大正十一年三月である︒東
京朝日新聞の﹁学芸だより﹂︵大H・3・4︶によれば︑三月二日
に上海に旅立っている︒同紙に寄せた﹁揚子江から﹂︵大11・3・
29︶に︑上海に着いた印象を次のように書いている︒
愛知淑徳大学論集ー文学部・文学研究科篇−第二八号 二〇〇三二二 二七ー三七 日は何日だつたか何曜日だつたかちつともわからない︒門司を出てからたしかに四日目だ︒ボーと長曳く汽笛の音に眼がさめた︒船が急に動かなくなつてゐた︒︵略︶所々に碇泊してゐた大きな商船の一ツ一ツが晴れてゆく霧の間から生まれてくる︒そして長江の雄大がありありと私の眼に映つてきた︒すぐ手前に仁丹の広告が見えた︒その下には上海の街がいかめしく葺えてゐた︒午後四時上陸︑自由の下に文明と野蛮とが手をつない
二七
一 一
愛知淑徳大学論集ー文学部・文学研究科篇ー 第二八号
でゐる新開地の春がゆるやかな苦力のわめき声の中に暮れる︒
尾崎士郎が上海へ出かけた大正十一年三月といえば︑彼が改造社
から﹃逃避行−低迷期の人々第一部﹄を刊行︵大10・11︶し︑文壇
に登場してまもなくの頃だ︒しかし︑この文壇デビュー作が物議を
かもし︑皮肉にも彼は日本から逃避行する羽目になったのである︒
実は文壇デビュー作﹃逃避行﹄は︑﹃改造﹄の宣伝コピーに従え
ば︿我国に於ける唯一の社会主義裏面史﹀であり︑大正八年三月の
売文社の分裂を描いた暴露本である︒ちなみに売文社は︑堺利彦︑
山川均︑高畠素之ら古参の社会主義者が経営していた文章の代作や
翻訳などを業務とする合名会社を営む一方︑﹃新社会﹄︵大4・9
創刊︶を発行し︑社会主義者たちの梁山泊となっていた︒尾崎も社
員の一人であり︑その内部告発をしたのである︒
尾崎士郎と社会主義運動や売文社とのかかわりについては拙著
﹃若き日の尾崎士郎﹄︵昭52・1 笠間書院︶で詳述したが︑次に
簡単にふれておこう︒
尾崎士郎は愛知二中︵現岡崎高校︶時代から雄弁家であり︑中学
時代に﹃世界之日本﹄︵大4・6︶の﹁如何にして選挙権を拡張す
べき乎﹂の懸賞に三位に入賞するほど政治青年であった︒たまたま
級友に山川均の前妻の甥がいた奇縁で︑秘蔵の社会主義文献にもふ
れ︑大逆事件や厳しい弾圧下の明治社会主義者たちの生きざまに中
学時代から強い関心を抱いていた︒ 二八
そこで︑政治家を志して早稲田大学高等予科政治科に入学した大
正五年の夏︑さっそく級友の紹介状を持って売文社を訪れている︒
売文社に出入りしていたため大正六年十二月十四日付で︑内務省警
保局から﹁特別要視察人﹂に指名された︒警保局の極秘文書﹃特別
要視察人状勢一班﹄には︑当時の尾崎の行状が記録され︑警察署や
警視庁に検束・検挙された記事が散見する︒
尾崎は︑当初︑売文社に出入りする﹁同志﹂であったが︑やがて
大正七年十月頃に﹁社員﹂になり深くかかわるようになった︒折し
もロシア革命︵大正六年十月︶が成功し︑内外の社会主義者達を興
奮させ︑日本の労働運動も各地で勃興し︑売文社の社員たちを浮足
立たせた︒しかし︑この好機到来に堺︑山川︑高畠の三人の幹部の
意見が対立し︑ついに大正八年三月︑売文社は解体した︒十名ほど
いた社員は離散したが︑尾崎士郎は茂木久平︑遠藤友四郎︑北原龍
雄らと高畠素之に従って行動し︑﹃国家社会主義﹄を創刊したもの
の︑同誌は四号で潰れてしまい雲散霧消した︒
それから一年有余︑大正十年一月︑時事新報の懸賞に応募した﹁獄
中より﹂が二位に入賞し︑尾崎は人生の転機を迎えた︒改造社社長
の山本実彦がこの入賞で尾崎士郎に着目したのである︒山本は尾崎
の社会主義運動の実績だけでなく︑社会主義関係の雑誌に多くの論
文を書き︑﹃西洋社会運動者評伝﹄︵大8・8 売文社 共著︶や﹃近
世社会主義発達史論﹄︵大9・12 三田書房︶などの著書もある筆
力も知っていた︒出版人として機を見るに敏な山本は︑今や労働運
動やプロレタリア文学が台頭してきた時流に乗った傑作を︑尾崎の
筆力と経験に期待し︑書き下ろしの長編を依頼したのである︒
ところが尾崎士郎が執筆した﹃逃避行﹄は時流に逆行して︑社会
主義運動と社会主義者を非難する内容であった︒尾崎士郎が社会主
義運動に疑問を抱き︑離脱した理由を﹃逃避行﹄で次のように述べ
ている︒
自分にとつては結局単なる知識階級の人間としての行為より考
へられないのだ︒労働階級のために1縦令いかなる言葉で叫ば
れやうともそれは嘘である︒自分達の内生活のリズムの何処に︑
真実に労働者のためにーその無智なきたない︑そして不謹慎
な同胞のために︑といふ要求が潜み隠されてゐるであらうか︒ 芥川龍之介も大阪毎日新聞の海外視察員として︑四ヶ月余りの申国旅行をし︑紀行文を﹃支那游記﹄︵大14・H 改造社︶にまとめているが︑上海について﹁罪悪﹂の見出しのもとに次のように書いているのが目を引く︒
上海は支那第一の﹁悪の都会﹂だと云ふ事です︒何しろ各国の
人間が︑寄り集まつてゐる所ですから︑自然さうもなり易いの
でせう ︵﹁上海游記﹂︶
芥川龍之介が﹁悪の都会﹂といって嫌悪した上海を最も象徴して
いるのは︑花園橋を渡ったところにあった共同公園の情景だろうが︑
尾崎はその光景を次のように点描している︒
82一
一
今や社会主義運動が盛行し時流となっているさなか︑﹃逃避行﹄
が文壇で黙殺されたのは当然だが︑尾崎を窮地に立たせたのはその
ことではない︒実態を暴露された売文社の先輩や旧友の感情を害し︑
人間関係を損ねたことで︑いたたまれなくなってしまったのである︒
そんな矢先︑山本実彦社長から上海行きを勧められ︑窮地を脱す
るために日本から﹁逃避行﹂したのである︒つまり︑尾崎士郎にとっ
ての上海行きは︑社会主義運動とその人間関係からの決別の旅であ
り︑文学者として新たに出発するための青春の放浪であった︒
ところで尾崎士郎が上海へ行ったちょうど一年前の大正十年三月︑
尾崎士郎と中国︵都築 久義︶ 夜が更けてきて由緒正しい人々が橋の快に続く石段をあがつていつてしまうと︑やがて︑ベンチの空席には一人一人新しい変つた顔がやつてきます︒︵略︶放浪者︑失業者︑無頼漢︑それから売笑婦のむれがいつのまにかこれらのベンチを占領してしまうのです︒静かな夜の川波の響きも︑蒼白い星の光りも彼らにとってはた深い悲しみを増すよすがとなるばかりです︒国を追はれた朝鮮の革命家︑男に捨てられた旧ロシアの貴婦人︑日本の新聞ゴロ︑賭博うち︑1かうした人々の中には︑それぞれ言はず語らずの瞑合があります︒世の中の裏道をすごすご 二九
愛知淑徳大学論集ー文学部・文学研究科篇ー 第二八号
と歩いてゆく敗残者の群には︑裏道をゆく者のみが知り且守る
べき道徳があります︒
︵﹁花園橋附近﹂都新聞 大12・6・1〜4︶
芥川が嫌悪した︿敗残者の群﹀に︑尾崎が同情しているのが興味
深い︒それどころか︑﹁僕の街・シャンハイ﹂︵随筆集﹃牛刀﹄昭11・
6 竹村書房︶では︑︿春から夏にかけての四カ月1ことによつた
ら僕は此処で青春を埋めても悔ゆることはあるまいとさへ思つたほ
どだVと書いている︒社会主義運動と決別し︑青春の放浪をした上
海は︑尾崎にとっては決して﹁悪の都会﹂でも嫌悪すべき街でもな
く﹁僕の街﹂だったのである︒
尾崎は上海には約三か月ほど滞在して︑五月下旬に帰国したが︑
帰国後は上海の見聞や体験を題材にした短篇をいくつか発表した︒
当然のことながらそこには流行のプロレタリア文学を意識した作品
はない︒上海生活を素材にした主な作品は次の通りである︒
﹁蘇州の春﹂
﹁賭博場へ﹂
﹁放浪者と夜﹂
﹁消えてゆく街﹂
﹁青年と生み﹂
「『
v命﹄たち﹂(『
カ学世界﹄ 大12・4︶(『
カ芸春秋﹄ 大12・11︶(『
∴贒c文学﹄大13・10︶(『
カ芸時代﹄ 大14・2︶(『
V潮﹄ 大14・3︶(『
カ芸春秋﹄ 大15・2︶ 三〇芥川や尾崎が訪れた当時の上海も中国のなかの西洋であったが︑
今日の上海もその模様は変らない︒世界中の企業が進出し︑高層ビ
ルの林立する上海は︑ニューヨークや東京の光景と同じだ︒尾崎や
芥川が訪れた当時の光景は︑かつて欧米列強や日本の租界地だった
場所に︑わずかに残るヨーロッパ風のビルと花園橋にとどめている
だけである︒バンド︵外灘︶と呼ばれる旧租界地の建物に︑わたし
はほとんど興味はなかったが︑鉄骨がむき出しのままの花園橋を眼
前にした時は︑感無量だった︒尾崎の前述のエッセイ﹁花園橋附近﹂
を想い起こし上海を放浪する姿が目に浮かんできたからである︒
皿 従軍二回
尾崎士郎の二回目と三回目の中国行きは︑日中戦争下の従軍であ
る︒昭和十二年七月七日︑当時は北平と呼ばれた北京郊外の盧溝橋
附近で始まった日中両国の軍事衝突は︑いったん現地で停戦協定が
締結されながら︑政府は陸軍内部の事件拡大派に押し切られ︑華北
の治安維持を名目に派兵を決定した︒一方︑中国側も前年にいわゆ
る国共合作がなって抗日運動が高まり︑蒋介石の国民政府と共産党
は日本との戦争準備を始めた︒
こうした中で華北の北平や天津の周辺各地で日中両軍の衝突が頻
発したため︑日本軍は︑七月二十八日に華北の総攻撃を開始しした︒
すぐさま北平や天津などの中心都市を占領し︑さらに奥地の八達
嶺・万里の長城から蒙彊地方の張家口・大同・包頭を制圧して行っ
た︒日中両軍の交戦は華北だけでなく︑華中の上海でも八月十三日
に銃撃戦が始まり︑戦火は拡大して行った︒そして当初﹁北支事変﹂
と呼ばれたこの戦争を九月早々に﹁支那事変﹂と改め︑ついに﹁支
那﹂全土で戦争が展開されるに至ったのである︒
政府は中国に激しく軍事攻勢をかける一方︑国民に対しても挙国
一致を呼びかけ︑新聞や雑誌にも協力を求めた︒その要請に応えて︑
雑誌も積極的に戦争報道に参加し︑文学者が動員されることになっ
た︒ 総合雑誌の﹃中央公論﹄︑﹃改造﹄︑﹃日本評論﹄︑﹃文芸春秋﹄が︑
﹁北支﹂や上海へ文学者を派遣したのは八月末から九月の初めだが︑
その後十二月の南京占領までの間に︑入れ替り立ち替りで文学者た
ちは戦地へ出かけたことは周知の通りである︒
﹃中央公論﹄は先陣を切って尾崎士郎を﹁北支﹂へ︑林房雄を上
海へ派遣したが︑二人を選んだ理由と経緯は定かでない︒尾崎士郎
は当時︑﹃人生劇場﹄で一世を風靡し︑人気絶頂の作家であったか
ら︑総合雑誌の雄を誇る同誌が︑その人気と作風に目をつけ彼に白
羽の矢を当てたのだろう︒
尾崎士郎が﹃中央公論﹄の佐藤観次郎とともに︑大勢の社員や文
学仲間に見送られて東京駅を出発したのは︑昭和十二年八月三十一
日である︒門司から海路で大連に渡り︑列車で天津に到着したのが
九月四日︑二週間余り滞在して九月十九日に天津から帰路に着いた︒
尾崎士郎と中国︵都築 久義︶ やがて﹁現地ルポルタージュ﹂の第一報として︑﹁悲風千里﹂が
﹃中央公論﹄に載ったのは︑昭和十二年十月号︒同誌の姉妹誌﹃婦
人公論﹄︵昭12・11︶にも﹁敗残兵の母﹂が掲載された︒むろん︑
上海に派遣された林房雄の第一報﹁上海戦線﹂も﹁悲風千里﹂と併
載された︒
その後︑﹁北支﹂の現地ルポルタージュを集めた従軍記集も﹃悲
風千里﹄︶と題して刊行︵昭12・H 中央公論社︶したが︑その﹁序﹂
で︑彼が現地で見たものをこう書いている︒
私は文学者の眼をもつて見︑文学者の耳をもつて聴き︑文学者
の神経をもつて感じてきたのである︒連隊長の祖国が連隊にあ
るとすれば私の祖国は文学にある︒︵略︶ああ眼を瞑つると高
梁の葉かげに縫つて何処とも知らず落ちてゆく残敵の姿が見え
るではないか︒︵略︶かくのごとくして悲風は戦場の一角から
起こるのではなくて私の心の奥から起こるのである︒
﹁悲風千里﹂の題名は杜甫の︿馬より下る古戦場︑四顧すればた
だ荘然たり︑風悲しんで浮雲去り︑黄葉わが前に落つ﹀︵同前︶か
らつけたものだが︑それにしても戦地報告が﹁悲風千里﹂では戦意
高揚どころか︑逆効果ではなかろうか︒しかし︑そこにこそ尾崎士
郎の人間性と﹁支那事変﹂や﹁支那人﹂に対する姿勢がはっきり表
徴されているともいえる︒
==
一80一
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事実︑﹁悲風千里﹂は︑﹃昭和戦争文学全集︵2︶中国への進撃﹄
︵昭39・9 集英社︶にも集録されているが︑その解説を担当した
大岡昇平は次のように書いている︒
その﹁ますらお振り﹂が満州事変以来︑著しくなつた国粋主義
的風潮に投じ︑﹁人生劇場﹂は当時最大のベストセラーであっ
た︒従って壮士気取りの尾崎が︑﹁皇軍﹂の行動に対して︑賛
美一点張りの文章を綴るであろう︑と一般に予想された︒しか
し﹁悲風千里﹂は必ずしもそうではなく︑むしろ征服された中
国民衆に対する人間的同情が顕著である︒
尾崎士郎は二週間ほどの滞在中に天津と北平を列車で往復し︑︿北
支の平野﹀を車窓から眺めながら︑どこにも山が見えず︑高梁の穂
波が続き︑百里も二百里ものあひだ一軒の農家もないことに気づき︑
︿私は此処に来て︑はじめて支那には風景あつて人情なしとかんじ
た﹀︵﹁南口の兵士﹂︶と書いている︒わたしも今回︑北京へ向かう
自動車の窓外からそんな風景を見たが︑あちこちに建っている高速
道路の案内標識に﹁悲風千里﹂に登場する地名が目にとまり︑尾崎
の﹁北支﹂の旅を思い起こした︒
尾崎士郎の二度目の従軍は︑昭和十三年九月︑内閣情報部が派遣
したいわゆるペン部隊である︒尾崎が﹃中央公論﹄の特派員として︑
天津・北平へ出かけて一年後のことだ︒﹁支那事変﹂勃発直後の日 三二
本軍は︑北平・天津・上海を制圧して︑半年後の十二年十二月には
国民政府の首都である南京までも陥落させながら︑蒋介石らの政府
首脳は日本軍の入城直前に漢口に脱出してしまった︒
そこで今度は漢口攻略を目指し︑周辺の武漢一帯を攻撃すべく︑
十三年八月末に武漢作戦を展開した︒﹁支那事変﹂では最大規模の
兵力を投入しながら苦戦を強いられ︑十月末にようやく漢口に入城
した︒ところがまたもや入城の直前に︑国民政府の首脳は重慶に脱
出し︑南京の二の舞を演じてしまったのである︒
結果はこうして失敗に終わったが︑日本政府はこの武漢作戦を﹁支
那事変﹂の最大のヤマ場と位置づけ︑日中戦争の決着をはかりたい
という意図があった︒そこで国民にも広く協力を求めるため︑文学
者の従軍による宣伝力を期待して︑ペン部隊の派遣を企画したと思
われる︒折しも火野葦平の﹁麦と兵隊﹂︵﹃改造﹄昭13・8︶が圧倒
的な人気で国民に迎えられたことも︑当局に刺激を与えたにちがい
なかろう︒
内閣情報部の意図と思惑はともかく︑小説家の漢口攻略戦への従
軍計画を発表したのは八月二十三日︑派遣作家の氏名が首相官邸で
公表されたのが八月二十六日である︒人選は文芸家協会会長の菊池
寛が中心になって行い︑二十二名が選ばれた︒派遣作家が公表され
て出発までの二週間余︑新聞は連日この話題を報じ︑当局の思惑通
り世間の耳目を武漢作戦に集めた︒
ペン部隊の二十二名は海軍班と陸軍班に分けられ︑海軍班は菊池
寛以下八名が所属し︑陸軍班は久米正雄ら七名と尾崎士郎ら七名の
二つに分れ︑それぞれ別々に日本を出発した︒
尾崎士郎は白井喬二︑岸田国士︑丹羽文雄︑瀧井孝作︑中谷孝雄︑
富沢有為男らと一緒に福岡の雁ノ巣飛行場から上海へ飛んだ︒九月
十六日にペン部隊全員がいったん上海で合流したが︑その後はグ
ループごとに行動した︒
漢口は揚子江の上流に位置していたから︑漢口へは南京から揚子
江を湖上することになっていた︒そこで尾崎たちは上海から蘇州に
立ち寄って︑南京へ向かい︑南京に五日ほど滞在し︑揚子江の潮江
船に乗り︑四日目の九月三十日に九江に着いた︒九江は漢口攻略戦
の日本軍の後方基地である︒
尾崎たちは漢口入城を果たすべくここで待機したのである︒とこ
ろが漢口攻略の報がなかなか届かず︑海軍班は十月十一日には杉山
平助を除いて早くも日本に帰ってしまい︑陸軍班の連中の多くも漢
口攻略をを見ずに帰国した︒尾崎士郎が帰ったのは十月二十一日︑
漢口陥落の一週間前だった︒
尾崎士郎は漢口入城こそ果たさずに帰国したが︑九江で待機して
いる間に戦場と戦争を体験した︒尾崎たちが宿泊していた丘ハ姑宿舎
の前には激しい戦闘が行われている盧山が葺え︑砲煙が立ち︑砲声
が響いていた︒尾崎もここから前線にトラックで出かけ︑砲撃を眼
のあたりにし︑爆撃機に同乗して空爆も体験し︑前線で野営もした
のである︒
尾崎士郎と中国︵都築 久義︶ 尾崎がこの従軍で何を見てどんな体験をしたかは︑漢口攻略戦の従軍記を集めた﹃文学部隊﹄︵昭14・3 新潮社︶の目次の﹁廃虚と砲煙﹂︑﹁第一線に立つ﹂︑﹁戦場雑感﹂︑﹁野戦看護婦﹂︑﹁戦場ノート﹂の題名を一瞥すれば明らかだ︒前回の﹃悲風千里﹄﹂とちがい︑ここには戦場と戦争の臭いがする︒ しかし︑この本には異色の従軍記も収録されている︑題名は﹁ある従軍部隊﹂︵﹃中央公論﹄昭14・2︶︒題名からも推測される通りペン部隊を素材にした小説である︒作者が所属した陸軍班の作家たちの︑人間模様や作者自身の内面をみつめた記録文学ともいえる︒ペン部隊が大名旅行だと批判されたことへの気がね︑漢口入城を果たさずに帰国することへの思惑︑手柄を立てたいという功名心など︑ペン部隊の面々の様子がユーモラスに描かれている︒大金を盗まれた老大家や戦地に来てまで酒と女を求めている老詩人のことなども折りまぜ︑戦意高揚はおろか︑戦場へ行く士気は伝わってこない︒ さすがにこの作品は発表されるとすぐに︑中村武羅夫が東京日日新聞︵昭14・2・H︶の月評で︿ただ︑現象の上ツラだけを見て︑作者の浅薄な楽屋落的な興味だけで書いたといふに過ぎない作品ではないか﹀と酷評したが︑たしかに内容はペン部隊の楽屋落ちだ︒ しかし︑このペン部隊の楽屋落ちは戦後にかえって評価され︑平野謙が編んだ﹃戦争文学全集﹄全七巻︵昭43・12〜︶の第二巻﹁昭和戦前・戦中編﹂に収録されている八編の一つに選ばれている︒高橋隆冶も﹁ペン部隊の人びと﹂︵﹃ペンと戦争﹄昭51・12 成甲書房︶
三三
一 78一
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で﹁ある従軍部隊﹂にふれ︑尾崎士郎を高く評価している︒
ペン部隊の従軍は︑一年前の雑誌特派員の時のように戦跡を巡っ
たのではなく︑戦場に向かい︑︿私は今度の従軍行で砲弾の洗礼を
二回受けた﹀︵﹁戦場ノート﹂︶ほどだから︑﹃文学部隊﹄に収められ
た従軍記に砲煙の臭いが漂っているのは当然だ︒
しかし︑戦場に向かう途中に立ち寄った蘇州や︑しばらく滞在し
た南京を描いた文章には︑﹁悲風千里﹂の感傷があり︑尾崎らしさ
が彷彿としているる︒たとえば﹁蘇州にて﹂で︿蘇州は戦禍のあと
を残さずに日本軍の手に落ちた︑もつとも完全な町の一つである﹀
ことをわたしも初めて知ったが︑︿草に埋もれた寒山寺は古色蒼然
といふよりも︑むしろ物凄いばかりに荒涼を極めて﹀いたと書いて
いるのは﹁悲風千里﹂の思いがこめられていよう︒もっとも今は観
光名所として整備され︑尾崎が見た︿荒涼を極めた﹀寒山寺の光景
はなく︑観光地として整備され︑大勢の観光客が訪れていた︒
蘇州が戦禍を残さずに日本軍の手に落ちたのに対して︑南京はい
ちばん戦禍を被った町だろう︒尾崎が南京を訪れたのは陥落から十
ヶ月も経っていたが︑︿廃虚のあとの石垣に這ふ朝顔の花にもひそ
かに秋の思ひが影を忍ばせてゐる﹀︵﹁色彩の変化﹂︶という筆致に
は﹁悲風千里﹂の趣が漂っている︒南京の陥落の日︵昭12・12・13︶︑
日本の兵士が城門に登って日の丸を掲げている写真は当時の新聞を
飾ったが︑その象徴ともいうべき城門にわたしも登った︒ 三四
城門の上から町全体を眺望すると︑高層建築が目立つが︑自動車
の中から見る街はプラタナスの枝が道の両側から覆っている並木道
が至る所に走っていて︑北京や上海とはちがった落ちついた雰囲気
があった︒
皿 北京再訪
尾崎士郎の最後の中国行きは︑昭和十四年九月である︒今度は小
説﹁成吉思汗﹂の取材旅行であった︒その経緯について﹃小説四十
六年﹄︵昭39・5 講談社︶でこう書いている︒
私は新潮社の佐藤俊夫氏︵当時出版局長︶の依頼をうけ︑書き
下ろしの歴史小説﹁成吉思汗﹂を執筆するために蒙古への踏査
旅行を企てた︒この計画を知つた満州映画協会が︑映画化を申
し込んできたので︑私は満映関係の岡栄一郎氏と同道で北京か
ら包頭へ入つた︒
四回目の中国行きは︑満映が関係していたこともあって︑昭和十
四年九月下旬に日本を発って満州の新京に渡り︑同地に三日ほど滞
在し︑九月三十日に北京に入った︒そして翌十月一日にさっそく蒙
古国境の包頭へ行き︑北京に向かって厚和︑大同︑張家口を順番に
まわり︑一週間後に戻って来た︒それから十日余りを北京で過ごし︑
十月十九日に日本に帰った︒﹃成吉思汗﹄の﹁第一部﹂は新潮社か
ら昭和十五年七月に刊行されたが︑﹁第二部﹂が刊行された形跡も
なく︑満映で映画化されたかどうかは未確認である︒
この取材旅行が﹃成吉思汗﹄執筆のうえで︑どのように役立った
かは定かでないが︑帰国に際し︑満州の新京から妻と娘宛に次のよ
うな手紙を書いている︒
今度の旅行はオレにとつて一生の運命を支配するやうな輝やか
しいものをあたへてくれた︒われの中にそれを体得したといふ
感じである︒これがために払つた犠牲も大きかつたが得たもの
はこれに百倍するものがある︒目下の予定では十九日に飛行機
でかへる︒土産は何もない︒唯︑心あるのみ︒新京にて 士郎
︵﹃尾崎士郎書簡滴﹄昭44・8 インパルス︶
今度の旅行で尾崎士郎に与えた︿一生の運命を支配するやうな輝
かしいもの﹀がいったい何だったかはよくわからないが︑この旅行
に関する随筆や紀行文で随所に書いているのは︑包頭で見た夕陽の
ことである︒
包頭を目ざしてきた目的は黄河の夕日と朝日を眺めやうとする
ところにある︒次の日の朝︑私は平原からのぼる太陽を仰いで︑
蒙古の自然が人間を宿命的にすることの神秘に触れたやうな気
がした︒私はこんな大きな太陽を見たことがない︒太陽が生命
尾崎士郎と中国︵都築 久義︶ の原理だといふのは蒙古へきて初めて口にすることができる言葉である︒ ︵﹁朔風紀行﹂﹃改造﹄昭14・12︶
蒙彊の旅から北京に戻った尾崎は︑前述のように北京で十日余り
を過ごしたが︑この間に︑当地で特務機関の宣撫班長をしていた八
木沼丈夫や︑人力車夫の元締めをしていた北原龍雄らに会った︒八
木沼は斉藤茂吉門下の歌人で︑軍歌﹁討匪行﹂の作詞者として知ら
れ︑北原龍雄は売文社の古い仲間だった︒八木沼との再会は﹃後雁﹄
︵中央公論社 昭15・10︶に︑北原との偶然の出会いは﹃洋車の
大将﹄︵高山書院 昭15・9︶に書いている︒
特記すべきは北京滞在中には旧友の他にも︑日本でも時の人とし
て話題になっていた呉楓俘に会っていることだ︒呉侃俘はすでに表
舞台から身を引いていたが︑かつて張作森と覇を競っていた軍閥の
実力者である︒日本もこの二人の実力者をめぐって長い間ふりまわ
されてきたが︑当時は蒋介石のもとを脱出した圧兆銘と彼を合流さ
せ︑新政権の樹立を密かに進めたが︑失敗した矢先だった︒
呉侃俘が私淑する成吉思汗の話をするという理由とはいえ︑一介
の文学者の来訪を許したのは︑彼のもとに若くして身を投じていた
岡野益次郎の勧めによるものだった︒岡野と尾崎は一面識があり︑
尾崎が北京に来ていることを新聞で知ってホテルに訪ね︑呉偲俘と
の会見の機会を作ったという︒尾崎が岡野の案内で呉偲俘の佗住居
三五
一76一
愛知淑徳大学論集ー文学部・文学研究科篇ー 第二八号
を訪ねたのは十月十日であった︒
私は岡野老から言われた﹁手﹂のことばかり考へてゐた︒︵略︶
そこへ︑青い支那服を着た呉侃俘が入つて来たのである︒部屋
にあつまつてゐる人たちが一斉に立ちあがつた︒私はすぐ彼と
握手した︒握りしめると彼の手は私の手の中にしつかりをさま
りきるほど小さく柔かであつた︒将軍といふかんじではない︒
むしろ女性的な︑長者の風格に徹した彼の顔が私の心にしつか
な印象を刻みつけた︒顔もやさしいが声もやさしい︒唯︑眼だ
けがするどく滲みとほるやうに光つてゐる︒彼と私とが対談し
てゐるあひだ︑ほかの人たちは恰も彼を護衛するかのやうに
テーブルのうしろの席に腰をおろしてゐた︒私は先ず歴史と運
命について彼の現在の心境を聞き糺した︒
︵﹁呉侃俘の手﹂随筆集﹃関ケ原﹄昭15・12 高山書院︶
随筆集﹃関ケ原﹄にはこの他にも︑﹁老将の面影﹂︑﹁呉侃俘会見
記﹂などが載っている︒﹃小説四十六年﹄︵前出︶の中でも︑呉侃俘
と岡野益次郎の関係や生きざまと人間性を詳しく述べているので︑
呉侃俘に会ったことは尾崎に深い感銘を与えたことは事実だ︒
また︑﹃小説四十六年﹄で︑︿蒙彊と北京で過ごした印象の強さは︑
時を過ごすにつれて新鮮な感動になってあらわれたきた︒私の制作
態度の中に︑今まで経験しなかつたような人間認識が明確な形を示 三六
しはじめたのもこのころである﹀とも書いている︒包頭で見た太陽
の鮮烈な印象とさまざまな生き様をしている人間と出会ったことが︑
尾崎にこうした気分を起こさせたのであろう︒とすれば︿今度の旅
行はオレにとつて一生の運命を支配するやうな輝かしいものを与へ
てくれた﹀という妻への手紙の一節の意味も見当がつく︒
二年振りに再訪した北京については﹁北京雑記﹂︵前出﹃関ヶ原﹄︶
で︑︿北京は今︑日本人でうづまつてゐる︒何処を歩いても日本人
ばかりだ﹀と驚き︑︿日本人の多い東単牌路から蛤徳門一帯の露地
を入ると︑次々とあらはれてくる街の表情はすべて銀座裏であり新
宿裏である﹀と嘆き︑︿この街が伝統の中に保つてゐた風格だけは
何処かに残しておかなければなるまい﹀と︑日本が占領した北京に
危惧を抱いているところに︑尾崎の中国への思いがうかがえよう︒
わたしも︑二十年振りに北京の町を見て︑その激変ぶりに驚嘆し
た︒道路の周辺は高層ビルが建ち並び︑かつて自転車と地味な服装
の人の群でいっぱいだった大通りも今は︑自動車の往来と︑建設中
のビルの工事ばかりが眼に着いた︒北京︑南京︑上海で出会った大
学生たちの服装は日本の大学生と変わなかった︒わたしが泊まった
ホテルは︑名前と外観は中国風だったが︑なかはすべて洋式だった︒
中華料理しかなかったホテルの食事も今やバイキング式で︑日本風
の朝食も取ることが出来た︒その意味では︿伝統の中に保つてき
た風格﹀はもはや古い建物の外観しか残っていない気もした︒
尾崎士郎の四回の中国訪問は︑訪ねた時の時代環境と立場や目的
・
もちがうが︑一貫して彼が保っていた姿勢は﹁支那﹂と﹁支那人﹂
への愛着だった︒ 本稿を書くにあたって︑尾崎士郎の中国関係の
作品や随筆・紀行を読み返し︑わたしはそれを強く感じた︒本稿で
は︑尾崎の四回の中国行きの事情の説明にとどまってしまったが︑
稿を改めて︑論じてみたいと思っている︒
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尾崎士郎と中国︵都築 久義︶三七