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蚤 談 の 行 方

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(1)

二人の幽霊︑二つめの怪談︑

     三遊亭円朝﹃怪談牡丹燈籠﹄ 蚤談の行方

を読む

入 口 愛

怪談と呼ばれない怪談

 三遊亭円朝﹃怪談牡丹燈籠﹄︵一八八四・七〜十二 東京稗史出版社︶はタイトルに怪談と付いていながら︑実は怪談で

はないという読み方がよくなされる︒これは裏を返せば﹃怪談牡丹燈籠﹄というテクストがただの怪談噺︑人情噺の速記

本という域にとどまらないことの証拠でもある︒さらにいえば︑印刷され︑目で読まれることを前提にした﹃怪談牡丹燈

籠﹄は︑明治開化期に怪談をどのように語るか︑という問題をも提起している︒新三郎の怪談が伴蔵の犯罪にすり替えら

れ︑﹃怪談牡丹燈籠﹄はあたかも犯罪小説のような体裁をとる︒これが前述した﹁怪談で愉をい﹂といわれる所以である︒

では︑なぜ﹁怪談ではない﹂物語にもかかわらず︑タイトルに﹁怪談﹂とあるのか︒従来の﹁怪談ではない﹂という読み

方では﹁なぜ︑タイトルに怪談とあるのか﹂という問いに答えを与えることができていない︒それどころか︑﹁怪談ではな

い﹂という読み方をしてしまうと︑﹃怪談牡丹燈籠﹄に描かれている怪異性は物語のなかで役割を失い︑宙に浮いているよ

うにさえ感じられる︒本稿では﹁怪談ではない﹂という読み方に収敏できないものを取り上げ︑一つずつ読み解いていく

ことによって﹁なぜ︑タイトルに怪談とあるのか﹂という問いに迫りたい︒

一67一

(2)

一一

w怪談牡丹燈籠﹄の成立

 ﹃怪談牡丹燈籠﹄は盟佑﹃勢燈新話﹄の﹁牡丹燈記﹂や浅井了意﹃伽碑子﹄の﹁牡丹燈籠﹂など︑いわゆる牡丹燈籠もの       ハエリ の系譜につらなる︒一方で︑近江屋喜左衛門の怪談︑高知の伝説﹁称名寺前の幽霊の話﹂などを採用しているということ        も周知のことである︒しかし︑それだけではなく人情本などからも影響を受けているとされる︒人情本からの影響につい       ハヨ  ては興津要や前田愛の先行研究があり︑両者は為永春水の人情本との影響関係について言及している︒

 たとえば︑前田は︑﹃怪談牡丹燈籠﹄の第四回について︑︿釣舟のなかでうたたねをする新三郎が︑お露との再会を夢み        ハユ る趣向﹀を春水の﹃春色梅美婦禰﹄を転じたものと指摘している︒

 前田の指摘を受け︑確認してみると︑﹃春色梅美婦禰﹄と﹃怪談牡丹燈籠﹄との間には︑たしかに影響関係が見出だせ︑

とりわけ第四回に多く﹃春色梅美婦禰﹄の影響が見られた︒まず︑第四回の内容を確認してから︑両作品を比較し︑影響

関係についての検証を進めることとする︒

 ︵宝暦十一年五月頃︑新三郎は山本志丈とともに亀井戸の臥龍梅を見に行く︒その帰りに柳島にある飯島家の別荘に寄

り︑飯島平左衛門の娘・お露に会い︑互いに惹かれあう︒︶新三郎はお露に会いたいが︑志丈が来ない︒一人では柳島の別

荘へ行けないので︑お露に会えない︒くよくよと思いつめ︑食も進まない︒新三郎はひと目お露に会いたくて︑孫店に住

む伴蔵を連れ︑横川へ釣りに行く︒新三郎は舟のなかで伴蔵が持ってきた酒を飲み︑酔って眠ってしまう︒舟が横川へ着

くと︑新三郎は柳島の別荘へ行き︑お露と再会する︒お露は新三郎の手をひき︑蚊帳のなかへ引きずり込み︑枕を交わす︒

お露は自分の形見として新三郎に香箱の蓋を渡す︒そこへ平左衛門が現れ︑不義を働いたとして二人を斬るという︒お露

が斬られ︑新三郎も斬られるというところで︑伴蔵の声によって目が覚める︒すべて夢だったのである︒しかし︑新三郎

(3)

の手もとには︑夢のなかでお露に手渡された香箱の蓋があった︒

 では︑具体的に第四回の︑どのような場面において﹃春色梅美婦禰﹄からの影響が見られるのか︒

 まず︑新三郎が思いを寄せる︑お露の夢をみるという設定からみてみよう︒﹃春色梅美婦禰﹄には︑江戸から離れ︑陸奥        ゑ に逗留している零次郎が江戸に置いてきたお粂︑お房の夢をみるという場面がある︒もちろん︑零次郎は︑お粂︑お房の

情人である︒現実では果たせない︑思いを寄せる人との逢瀬を夢のなかで果たすという趣向は︑両作品において共通して

いるものといえる︒

 次に︑夢をみる場所である︒新三郎は釣り舟の上で夢をみる︒一方︑﹃春色梅美婦禰﹄にも米八が梅見舟の上で夢をみる        ハ   という場面がある︒米八は︑かつて丹次郎を取りあった仇吉と和解したいとの思いが強く︑舟の上で仇吉と仲睦まじくす

る夢をみる︒﹃怪談牡丹燈籠﹄で新三郎がみる夢の内容とは異なるが︑夢をみる場所という点においては類似しているとい

えよう︒  最後に︑それぞれがみた夢は︑果たして本当に夢なのか︑あるいは現実なのか︑夢と現実とが交錯する場面についてみ

ておこう︒﹃怪談牡丹燈籠﹄では︑夢のなかでお露から手渡された香箱の蓋は︑夢から覚めても新三郎の手もとに残ったと

いう設定である︒﹃春色梅美婦禰﹄においても同じような場面がある︒判次郎は︑お園の父・小仏善左衛門の夢をみる︒善

左衛門はお園のことを判次郎に頼む︒判次郎が起きると︑枕元には善左衛門と書きつけた紙に包まれた小判があった︒判        こ 次郎がみたのは夢なのか︒しかし︑現実には善左衛門からの小判が枕元にある︒この場合︑新三郎の手もとに残った︿香

箱の蓋﹀の場面と重なる︒ただし︑判次郎の夢には善左衛門から小判を手渡すというようなくだりはない︒

 他にも︑零次郎のところで雨宿りする尼僧が﹃怪談牡丹燈籠﹄の良石和尚と同じようなキャラクターとして登場する︒       ゑ この尼僧は︑雨宿りをさせてくれたお礼に雰次郎の先々のことを予言し︑零次郎を助ける︒

 これらからいえることは︑﹃怪談牡丹燈籠﹄における﹃春色梅美婦禰﹄からの影響は断片的であるということである︒た

一69一

(4)

だし︑断片的ではあっても︑﹃春色梅美婦禰﹄のなかの﹁夢﹂にまつわる場面をただ並べたてるのではなく︑そこには円朝

の巧みな配置︑置き換えを経た﹁夢﹂の場面が︑再構築されていたのだった︒

 ﹃怪談牡丹燈籠﹄で新三郎が夢をみたのは横川という︑隅田川の傍流である︒一方︑米八が夢をみたのも隅田川沿いの牛        ヤ 屋の渡しあたりである︒宮田登によれば︿川は︑つねに境川になる性格﹀があるという︒円朝は︑その境を異界と現実世

界の境として利用した︒円朝は境界とされる川で︑近い将来︑亡くなるであろうお露との再会を新三郎に果たさせ︑お露

の形見に︿香箱の蓋﹀を受け取らせる︒新三郎の手もとに残された︿香箱の蓋﹀はお露が赴くであろう異界を象徴し︑そ

れを手にする新三郎も︑その異界へと足を踏み入れることを予測させる︒川によって創りだされた︑異界と現実世界との

境界空間を往き来する︿香箱の蓋﹀の存在は︑これから始まろうとするお露︑新三郎の︑妖気漂う世界への導入として︑

見事な役割を果たしている︒円朝は﹃春色梅美婦禰﹄における﹁夢﹂の場面を切り取り︑怪談として再び練り上げ︑﹃怪談

牡丹燈籠﹄に組み入れたのである︒

 では︑なぜ円朝は﹃怪談牡丹燈籠﹄のなかに春水の人情本の趣向を取り入れたのか︒それは円朝が聴き手を意識してい

たからではないだろう漣︒亀井秀雄は円朝口演の聴き手について︑次のように解説する︒

円朝の幽霊に戦懐した聴き手たちの心はめでたしめでたしの結末によってしか慰められようがなかったにちがいな       ロむ く︑少なくともかれらが勧善懲悪のめでたい語りの収めに飽いていたという証拠はどこにも見られないのである︒

 円朝の高座に集まる聴き手は︑明治開化期になってもなお︑江戸の戯作的世界を求めていた︒そこでは︿新しい﹀もの

よりも従来︑馴染んできたものが求められていたのである︒円朝は聴き手の嗜好を的確に把握したうえで︑それを利用し︑

自ら語る怪談の世界へと導いたのであった︒

(5)

三 第四回の夢

 ﹃怪談牡丹燈籠﹄は孝助を中心として展開される仇討物語︑新三郎とお露を中心とした怪談︑そして伴蔵の因果物語とに

    ハロリ わけられる︒三つの物語が巧みに交錯しあい︑﹃怪談牡丹燈籠﹄は語られる︒しかし︑新三郎とお露の怪談は途中で消滅し︑

伴蔵の因果物語へと収束する︒後半は仇討物語と因果物語の二本立てで進行するが︑第二十回で一つとなり最終回を迎え

る︒途中で消滅する怪談ではあるが︑そのなかでもっとも怪異を感じさせる回として第四回が挙げられる︒非現実的なこ

とが語られる回は他にもあるが︑第四回だけは趣向が異なっている︒たとえば︑第六回の幽霊となったお露︑お米に新三

郎が再会する場面や第十一回の飯島家で金子百両が盗まれる場面は︑一見︑非現実的な出来事として語られるが︑これら

は後述される伴蔵の自白により一応の辻褄あわせが行われる.︑伴蔵の自白により︑お露︑新三郎の怪談が否定されるのな

らば︑第四回も否定されなければならない︒しかし︑第四回の場合︑伴蔵の辻褄あわせでは説明しきれていないのである︒

では︑伴蔵の自白に還元できない第四回の出来事をどのように捉えればいいのだろうか︒

 第四回の冒頭部分は︑次の言葉からはじまる︒

一71一

 さて萩原新三郎は山本志丈と一緒に臥龍梅へ梅見に連れられ︑その帰るさにかの飯島の別荘に立寄り︑ふとかの嬢

様の姿を思い詰め︑互いにただ手を手拭の上から握り合ったばかりで︑実に枕を並べて寝たよりもなお深く思い合い

   ぼり ました︒

新三郎はお露を︑お露は新三郎を互いに深く思いつめていたことが︑まざまざと伝わってくる冒頭である︒また︑この

(6)

冒頭は︑お露︑新三郎の︑互いを求める思いが︑尋常ではないほど強いものであったということをも示唆している︒        む  円朝は﹃真景累ケ淵﹄の冒頭で︿執念の深い人は︑生きて居ながら幽霊になる事がございます﹀と語る︒第四回の場合で

もお露の︿執念﹀︑ここでは新三郎を慕う︿執念﹀が垣間見られる︒それは次のような場面である︒

帰るときにお嬢様が新三郎に﹁あなたまた来て下さらなければ私は死んでしまいますよ︒﹂と無量の情を含んで言われ

た言葉が︑新三郎の耳に残り︑しばしも忘れる暇はありませなんだ︒

 このお露の新三郎を慕う思い︑すなわち︑お露のく執念Vに焦点をしぼり︑第四回の夢の場面をみると︑お露の︿執念﹀

が新三郎に夢を見させ︑再会を可能にし︑さらに︑形見として香箱の蓋を渡すことを成就させたということになる︒この

ように第四回の夢は︑お露の︿執念﹀が引き起こした出来事と解釈しても物語は破綻しない︒︿執念﹀が相手に夢を見させ

るという趣向は︑もちろん︑円朝にはじまったことではない︒さきに言及した為永春水は︑﹃春色梅美婦禰﹄に限らず︑他

の作品でも夢を多用している︒春水は﹃春告鳥﹄のなかで︑夢について︑次のように語っている︒

ともぴと      いふ         ちうぼん       つたな  わ ざ 友人作者を難じて日︑予作る所の中本︑夢の段をもちひざることなし︒いと拙き所為ならずや 春水日そもく予が著

す草紙はいつれも人情の他をしるさず︑こ・におゐて其段取相同じ︒故に狂言の如く今の世態にあたらぬ場は︑こ       ゑぐみ   めさき とみ\く夢となす︒夢にして夢ならず︒かくも在りけんとおもはる・こともあるべし︒こは画組と目前の同じきを変

   わ ざ      ハほり 化する所為とゆるしたまへかし︒

近世において︑          お  ︿夢は物語構成上の便法﹀ であった︒また︑︿執念﹀によって相手が夢を見るというのは︑相手が︿執念﹀

(7)

に感応し︑夢を見るということであり︑感応夢と呼ばれる︑夢の形式にあてはまる︒特に︑近世に入ってからは︑感応夢        ハリソ に怪異という要素が加わった︒これらをふまえて︑﹃怪談牡丹燈籠﹄の第四回を振りかえると︑お露︑新三郎の夢というの

は︑︿執念﹀によって相手に夢を見させるという感応夢に︑︿香箱の蓋﹀という怪異を付与することによって︑怪談に仕立

て上げられている︒その点で︑第四回は近世的な夢の特徴を多く取り込んだ回として読める︒つまり︑第四回の夢は︑近

世的な夢の趣向を充分に意識し︑踏襲したものといえよう︒

 さらに︑この場面で考えておきたいことがある︒それは︑お露の︿執念﹀による夢という解釈には︑聴き手︑読み手の

憶測が介在しているということだ︒その憶測とは︑聴き手︑読み手の﹁あんなに互いを思いあった二人なのだから︑必ず

再会を果たし︑契りを交わすだろう﹂というような憶測である︒この憶測が︑お露の︿執念﹀が形を変えて幽霊になるこ

とを容認し︑新三郎と契りを交わすことを可能にしている︒つまり︑聴き手︑読み手自身も︑お露︑新三郎の恋物語を怪

談として語らせる装置として機能しているのである︒鶴見俊輔は︑﹃真景累ケ淵﹄を引用しながら︑︿おばけは︑行動への

形をとり得ぬ執念から生まれるVと説明し︑その︿執念﹀を実体化させる装置として︿社会全体の利益代表としての超自        おロ 我のはたらき﹀を挙げている︒鶴見は社会的良心によって︑個人的なものであったはずの︿執念﹀が社会的なものとして実

体化されるという︒第四回においても︑お露︑新三郎の出会いの場面から︑聴き手︑読み手は二人の恋を見守り︑また︑

恋の行方に憶測をたてながら物語を進めてきた︒円朝が︑このような聴き手︑読み手の憶測の効用を熟知していたことは

いうまでもないだろう︒円朝は︑聴き手︑読み手の憶測を用いながら︑不可思議な夢を成立させ︑物語における怪異性を

強調した︒それは﹃怪談牡丹燈籠﹄を怪談らしくするために必要な仕掛けであった︒

一73一

(8)

四 伴蔵の自白

 ﹃怪談牡丹燈籠﹄は︑第十回あたりから伴蔵が悪党に変容をとげ︑伴蔵の因果物語が新三郎とお露の怪談を呑みこんで一

つの物語となる構造をもっている︒第十八回では︑怪談の核である新三郎がお露にとり殺されたことが︑実は伴蔵の仕業

だったと明かされる︒

      わつち  こしら 実は幽霊に頼まれたと云うのも︑萩原様のああ云う怪しい姿で死んだというのも︑いろいろ訳があって皆私が持え

      あばら けつ       しんつか     しやりこつ た事︑というのは私が萩原様の肋を蹴て殺しておいて︑        こっそりと新幡随院の墓場へ忍び︑新塚を掘起し︑骸骨を        はめこ 取出し︑持帰って萩原の床の中へ並べておき︑怪しい死にざまに見せかけて白翁堂の老爺をば一ぺい欺込み︑また海        ま  ら 音如来の御守もまんまと首尾好く盗み出し︑根津の清水の花壇の中へ埋めておき︑それからおれが色々と法螺を吹い

て近所の者を怖がらせ︑皆あちこちへ引越したを好いしおにして︑おれもまたおみねを連れ︑百両の金を掴んでこの

土地へ引込んで今の身の上︑

伴蔵は山本志丈にすべてを自白する︒この伴蔵の自白について前田愛は︑次のように論じている︒

お露と新三郎がつくりだす非現実の空間は︑伴蔵の悪の力によって愚弄され︑領略される︒

山本志丈に打明ける言葉︵中略︶に出会うとき︑私たちは怪異の論理が悪の論理によって︑       ハ  てしまう無気味さにとらえられるのである︒ ︵中略︶第十八回︑伴蔵が 顛倒され︑くいつくされ

(9)

また︑中丸宣明は伴蔵の自白について︑次のように述べる︒

これは悪事を知られた後に殺すことになる男に語ったことで︑はったりでないとはいえない︒しかしここには前半の

怪談を相対化し︑そこでの罪悪を人間的営為として捉え返す契機を享受者は与えられている︒またそれは孝助の敵討         ちの正当性をも裏打ちする︒

 中丸は新三郎の死が伴蔵の︿人間的営為﹀によってなされたものであるとしたうえで︑孝助のお国︑源次郎の首を取る

という殺人行為が正当化されるというのである︒

 新三郎の死が幽霊にとり殺されたという非現実的な死ではなく︑伴蔵が手をくだした現実的な死であることが明らかに

なったとき︑﹃怪談牡丹燈籠﹄は怪談としての物語要素を失う︒そして︑このとき怪談ではない﹃怪談牡丹燈籠﹄が出来上

がる︒ここで再び︑冒頭で投げかけた疑問が生じる︒なぜ怪談ではないにもかかわらず︑﹃怪談牡丹燈籠﹄には怪談とある

のか︒伴蔵の自白の場面を考えることによって︑その答えを探りたい︒

五 葱依︑神経病⁝⁝混沌とする怪談

 明治に入ってから︑近代科学の知識がすさまじい勢いで日本に輸入され︑科学的見地から怪異現象というものが否定さ

れる時代となっ煙︒一方で︑円朝は﹃真景累ケ淵﹄の冒頭で︑幽霊を見ることは︿神経病﹀なのだと語る︒

価鵬より怪談のお話を申上げまするが︑怪談ぱなしと申すは近来大きに艦りまして︑余り齢瀞で致す者もございませ

一75一

(10)

ん︑と申すものは︑幽霊と云ふものは無い︑全く神経病だと云ふことになりましたから︑怪談は開化先生方はお嫌ひ

なさる事でございます︒それ故に久しく躍つて居りましたが︑今日になつて見ると・蝦つて古めかしい方が・耳新し        これ い様に思はれます︒︵中略︶なれども是はその昔︑幽霊といふものが有ると私共も存じてをりましたから︑何か不意に       こは 怪しい物を見ると︑お・怖い︑変な物︑ありやア幽霊ぢやアないかと驚きましたが︑ロハ今では幽霊がないものと諦め

      とん こは      さら ましたから︑頓と怖い事はございません︒狐にばかされるといふ事は有る訳のものでないから︑神経病︑又天狗に撰        はれるといふ事も無いからやつばり神経病と申して︑何でも怖いものは皆神経病におつつけてしまひます

       さら  円朝はく幽霊がないものと諦めましたVとして︿幽霊﹀や︑︿狐にばかされる﹀ことや︿天狗に撰はれる﹀こともすべて

く神経病Vであり︑個人の病であるとする︒では︑円朝のいう︿神経病﹀とは何か︒前述の﹃真景累ケ淵﹄の冒頭に引き

続き︑円朝は次のように述べる︒

       かた 詰り悪い事をせぬ方には幽霊と云ふ物は決してございませんが︑人を殺して物を取るといふやうな悪事をする者には

      これ       し よ    ゐ       あいつ 必ず幽霊が有りまする︒是が即ち神経病と云つて︑自分の幽霊を背負つて居るやうな事を致します︒例へば彼奴を殺

    こ      にら      おれ した時に斯ういふ顔付をして睨んだが︑若しや己を怨んで居やアしないか︑と云ふ事が一つ胸に有つて胸に幽霊をこ

しらへたら︑何を見ても絶えず怪しい姿に見えます︒又その執念の深い人は︑生きて居ながら幽霊になる事がござい       き ます︒勿論死んでから出ると定まつてゐるが︑私は見た事もございませんが︑随分生きながら出る幽霊がございます︒

か       た 彼の執念深いと申すのは恐ろしいもので︑︵中略︶金を溜めて大事にすると念が残るといふ事もあり︑金を取る者へ念

が取付いたなんといふ事も︑よくある話でございます︒

(11)

 円朝のいう︿神経病﹀とは悪事をした自分が見てしまう︑自分が創りだす︿幽霊﹀である︒つまり︑︿神経病﹀という言

葉で言い換えられる幽霊というのは︑自分の外にあって見るものではなく︑自分の内にあって感じとるものだというのだ︒

また︑人は生きていても︿執念﹀によって幽霊になるともいう︒これらをふまえて︑再び﹃怪談牡丹燈籠﹄に立ちかえる

ことにしよう︒

 第十七回で︑伴蔵は笹屋で知り合ったお国といい仲となり︑おみねが邪魔になったので︑おみねを斬殺する︒殺された

おみねは女中のおますにとり懸き︑自分が伴蔵に殺されたことを口走る︒第十八回では︑おますの治療にきた志丈に対し

て︑おみねはおますの口を借りて伴蔵の悪事を話す︒その結果︑すべてを志丈に知られてしまった伴蔵は自白せざるをえ

なくなる︒伴蔵が自白に追い込まれる過程を検討すると︑おみねがおますにとり糠いたことが伴蔵の自白を促す契機と

なっている︒つまり︑新三郎を殺したのは幽霊などではなく人間であり︑その真相を明らかにする手続きとしておみねの        ハヨ 懸依がある︒高田衛の言葉を借りれば︿いわば第二の怪談は第一の怪談の﹁真相﹂によって生みだされている﹀といえる︒

すべては人間の仕業だったと︑これまでの怪異の世界を覆すという場面で︑円朝は排除すべき非現実的要素II懸依1

を活用していた︒

 ところで︑怪異の世界と現実世界とを視覚的に捉えることを可能にするが︑挿絵である︒        ハ   明治初期の挿絵といえば︑浮世絵師が描き︑︿内容外観共に幕末の草双紙の延長﹀であった︒﹃怪談牡丹燈籠﹄においても

例外ではない︒﹃怪談牡丹燈籠﹄の出版形式は︑和装︑全十三冊の分冊形式で︑挿絵については第一回より第十八回までを

歌川年参︑第十九回より歌川亭齋ら浮世絵師が担当し︑新しい形式というよりも旧来のものを踏襲した形式であった︒

 では︑伴蔵の自白に関係するいくつかの挿絵を比較しながら︑この懲依の場面を説明しよう︒

      うらぽんゑ  しんざぶらうやうき  ちぎ  はじめに新三郎が幽霊のお露と会う﹁孟蘭盆会に新三郎幽鬼と契る﹂場面であるが︑新三郎とお露︑お米を見ているの

      ぼうれいともざう  せま    じやうじん  あ      もと は伴蔵しかいない︒次に伴蔵がお露︑お米と交渉する﹁亡霊伴蔵に迫つて情人に逢はんことを求む﹂る場面でも幽霊のお

一77一

(12)

さんにんてうり  くわい  けいがく

「三人帳薯の怪に驚樗す」 うらttんゑ  しんざぶらうやうき  ちぎ

「孟蘭盆会に新三郎幽鬼と契る」

 みね 

ぼうれいきうあく  うつた

「お峯の亡霊旧悪を訴ふ」

ぽうttいともざう  せま    じやうじん  あ

「亡霊伴蔵に迫つて情人に逢はんことを

もと

求む」

(13)

      ともざうれいふ  のぞ 露︑お米は蚊帳のなかで︑おみねにはその姿は見えていない︒また伴蔵が新三郎の家のお札を剥がす﹁伴蔵霊符を除いて

やうき  みちび 幽鬼を導く﹂場面でも幽霊と接しているのは伴蔵だけである︒そして伴蔵︑おみね︑白翁堂が新三郎の怪死を発見する

 さんにんてうり  くわい  けいがく コニ人帳裏の怪に驚愕す﹂る場面においても新三郎の死体は見えず︑その真相はわからない︒これらの挿絵が示唆するの

は︑幽霊を見たり︑交渉しているのは伴蔵だけであるということである︒伴蔵自白の裏付けは︑挿絵をふまえ徹底的にな        みね  ぼうれいきうあく  うつた されているといえよう︒しかし︑問題はおみねの患依の場面にある︒挿絵には﹁お峯の亡霊旧悪を訴ふ﹂とあり︑おみね

の亡霊︑おます︑志丈︑伴蔵が描かれている︒そして︑この場面ではじめて伴蔵以外の人間が幽霊と接しているのである︒

これはいったい何を意味するのであろう施︒

 実は︑ここにはある意図が隠されていた︒伴蔵以外の人間が幽霊と接触することによって﹃怪談牡丹燈籠﹄は︑再び怪

談として成り立つ︒この場面で山本志丈の介在がなければ︑おみねの葱依は伴蔵の︿神経病﹀となる︒しかし︑殺した当

事者︵伴蔵︶ではなく︑第三者︵志丈︶が幽霊︵おみね︶と接触することによって︑幽霊の存在は実体化するのである︒

 おみねは伴蔵に殺される前︑お国とのことで伴蔵と言いあいになったとき︑次のような啖呵を切る︒

一79一

    しば ﹁私やア縛られて首を切られてもいいよ︑

りましょう︒﹂ そうするとお前もそのままじゃアおかないよ︑百両おくれ︑私やア別にな

 伴蔵に対するこの言葉には︑

みねの︿執念﹀が生んだ慧依︒

在感がますます際立ってくる︒

が引き起こした怪異である︒ 妻としての︑また︑悪事をともにした同志としてのおみねの︿執念﹀が垣間見られる︒お さらに︑第四回のお露の︿執念﹀とオーバーラップさせることによって︑二人の幽霊の存 お露のく執念Vが怪奇的な夢を生み︑おみねの︿執念﹀が葱依を生んだ︒どちらも︿執念﹀

(14)

 新三郎の死を伴蔵の仕業として怪異の世界を否定したふりをしながら︑実は︑伴蔵を襲ったおみねの蔽依を活用するこ

とによって円朝は︑﹃怪談牡丹燈籠﹄を怪談として語った︒円朝は怪談を完全に否定することはしなかった︒それは円朝自       露V 身が︑というよりも︑円朝の聴き手が望んでいたものであるゆえに︑切り捨てられなかったのかもしれない︒文明開化期

にいかに怪談を語るかという問題に︑円朝は︿神経病﹀という近代的解釈を取り入れ︑かつ聴き手が求める戯作的趣向を

採用しながら︑応えた︒それは明治の時代に怪談を語る円朝の新しいスタイルであった︒

︵1︶ ﹃怪談牡丹燈籠﹄の系譜については︑山口剛﹁怪異小説について﹂︵﹃山口剛著作集﹄第二巻 一九七二・五 中央公論社︶に 注

 詳しい︒また︑高田衛は粉本として﹃勇燈新話﹄の﹁澗塘奇遇記﹂を挙げている︒︵﹁怪談の発生−文学史の側からー﹂小松

 和彦編﹃怪異の民俗学⑧境界﹄二〇〇一・六 河出書房新社︶

︵2︶永井啓夫﹃三遊亭圓朝﹄一九六二・十二 青蛙房

︵3︶興津は︑新三郎とお露とが出会う場面が梅の季節というところから︑春水の﹃春色恵の花﹄からの影響があると指摘している︒

  ︵﹃日本近代文学大系1 明治開化期文学集﹄一九七〇・十二 角川書店︶一方︑前田は興津の発言をふまえ︑新三郎の人物設定

 等に春水の影響があるとみている︒︵﹁怪談牡丹燈寵まで﹂﹃幻景の明治﹄︵﹃前田愛著作集﹄第四巻︶一九八九・十二 筑摩書房︶

︵4︶前田愛﹁怪談牡丹燈籠まで﹂﹃幻景の明治﹄︵﹃前田愛著作集﹄第四巻︶一九八九・十二 筑摩書房

︵5︶零次郎が陸奥で見たお粂の夢とは︑次のようなものである︒零次郎にお房から手紙が届く︒その手紙には︑お粂が病いに伏し︑

 病床で︑﹁寄次郎に会ってから死にたい﹂など言うので︑早く帰ってきてほしいとあった︒手紙を読んだ零次郎は慌てて︑お粂の

       お  れ       しんに  もとへ行く︒︿寄﹁お粂さんく︑オイコレサお粂︑零次郎だヨ︒﹂ト︑いふ声お粂の心耳に通じ︑去り行く魂にも苦痛の息つか       つか  ひ︑︵中略︶粂﹁どうぞ命のある中に︑逢ひ度いと思ふ念が届いて︑嬉しいネェ︒﹂ト身を振はし︑︵中略︶重病に労れて臨終の際

 なれば︑さすがにかなはぬ命ぞと︑諦めても悲しく思ひ︑いとf涙にむせびながら︑︵中略︶零﹁オ・イ︑コレサお粂ヤア引く︒﹂

 と︑声はり上げて呼ぶ側から︑雰次郎の背中をさすりて︑●﹁零さん︑アレサ雰次郎さん︑目をお覚しなさいヨ︒モシく夢を

(15)

      あたり  看ておいでなさるのかえ︒﹂ト︑ゆり起されて零次郎︑目を覚しながら四隅を見れば︑婦多川ならぬ陸奥の︑青森の里の伯父の家︑

  ︵中略︶茶を持ち来りて呼び覚すは︑伯父の娘のお京Vであった︑というものである︒また︑辱次郎は︑江戸へ帰る途中にお房        つ  の夢見る︒︿程なく鎌倉へ著きしかば︑零次郎はまつ万事を捨ておき︑頓て辰巳へ急ぎゆき︑粂吉房吉に逢はんとて小船をはしら       まこと  す浪の上︑折りから此方の横合より︑︵中略︶ふさ﹁零さん待つてお呉んなはいヨ︒岸さん引︒﹂零﹁オヤ︿房吉か︑楚にマア

 能い所で逢つたなウ︒︵中略︶ふさ﹁ナゼマ此様に久しく遠い国へ行つて︑帰らずにお出でなすつたらうネエ︒憎らしい︒私やア

 モウ死んででも了はうかと思ひましたわ︒﹂︵中略︶互に深き中なれば︑絶えて久しき再会に︑語る睦言さめごと︑果てしなき

 まで契りしが︑枕元にて男の声︑●﹁モシ︿若旦那︑サアお起きなさいませんか︑︵中略︶﹂ト︑言はれて目覚す零次郎﹀であっ

 た︒引用は﹃近代日本文学大系 為永春水集﹄第二十巻︵一九二八・八 国民図書︶に拠る︒なお︑旧字体は新字体に改め︑仮

 名遣いはそのままとした︒ルビについては適宜省略した︒以下︑注記︵6︶︑︵7︶︑︵8︶も同じ︒        つくづく         み ︵6︶仇吉と和解する夢から覚めた米八は︑夢について次のように分析する︒︿前後の事を情と︑考へて察れば去りしころ︑山の喧

 嘩の折からに︑櫻川善孝が仲人にて嫡梛吉と和睦なせしより︑表向きをぱ打ち解けたれども︑まだしみ繰りみ\と寄り合うて︑

 睦まじくせし事もなし︑只他人伝に姻梛吉も︑心の底は世の中の︑義理を思うて後悔し︑ならう事なら信実に︑互いの心明かし       ふたり  合ひ︑丹次郎の事は両女して︑相談つくになし度き由を︑朝夕心にかけるとか︑然はいへ互いに意地くらべ︑張り争ひしを今更       ひとめ  に︑負けて此方が頼みもせず︑誤り詞は姻郷吉も︑言はぬはさすがに他見を恥ぢて︑居もする事か然もあらば︑何卒打解け両方

 が︑頼もしつくになし度きものと︑思ひし故にまさくしく︑今此の舟に一座せし︑夢さへ見たるものなるかVと思い返す︒       かりずまひ ︵7︶小仏善左衛門は判次郎の夢に次のように登場する︒︿こ・に亦猿寺の地内に︑仮住居せし判次郎は︑彼のお園の駆け出して来た

        よすがら       あんどう  りし一件にて︑終夜彼是と相談して︑眠りもやらず在りけるが︑枕元なる方燈の︑明るぐなりつ暗くなり︑消えんとしては亦明        みうち  るく︑夜風の音もなく物凄く聞ゆる折しもあれ︑誰とは知らず︑静かに枕元へ来るものあり︒此の時判次郎は総身しびれて動く       いとくあや  事ならず︑最々異変しく覚えしが︑朧気なるもの枕元に坐して︑﹁サテ其許には初めて面会に及びますが︑縁あつて不便に思召し

 下さるお園が父にて︑小仏左衛門と申す者﹀と判次郎に告げ︑お園のことを頼む︒夢から覚めた判次郎は︑次のような会話をお

       み        おいら   うつし       ま  園と交わす︒︿判﹁ハテナ然うして察ると︑此身の現に見えたのも︒﹂その﹁エイ夫れぢやアお前はんも何か夢をお見のかえ︒﹂       ムとつ  判﹁然ればサ︑何でもお前の爺さんだと言つて種々の事を頼む様であつたが︑夢の様ではなかつたから︑何様も不思議な事だ︒﹂

一81一

(16)

       のこらず  ト言ひながら︑雨戸を不残くり明けて︑四辺を片づけて掃き出さんとして︑床を敷きたる枕元の方を看れば︑紙に包みし小判二

 十両あり︒小仏善左衛門と書き付けてありV︒

︵8︶尼僧は零次郎に次のように語りかけ︑先々のことを見事に言い当てる︒︿尼﹁モシ貴君は当時目上に憂へがございますな︑たし       おあたサ  かにこれはお父上さまでございませう︑然も目上に御両人︒﹂ト言ひつ・目を閉ぢ指を折りて︑何をか算へ︑尼﹁不躾ながらお一

 人は︑伯父御さまでございませう︒是は早く御用心をなされまして︑何卒愁へのない様にしてお上げなされませ︒﹂ト言ふにおど

 ろく零次郎﹀︒

︵9︶宮田登﹁妖怪のトポロジー﹂小松和彦編﹃怪異の民俗学⑧境界﹄二〇〇一・六 河出書房新社

︵10︶亀井秀雄は円朝口演における聞き手の存在を繰り返し強調している︒︵﹁円朝口演における表現とはなにか﹂﹃日本文学﹄VOL

 23 一九七四・八 日本文学協会︶

︵11︶ ︵10∀に同じ︒

︵12︶ ﹃怪談牡丹燈籠﹄における仇討物語︑怪談︑因果物語の各回のふり分けを挙げておく︒なお︑ひとつの回において特定の物語

 に絞れない場合︑該当する物語をすべて挙げた︒

  仇討物語⁝⁝一︑三︑五︑七︑九︑十一︑十三︑十五︑十九︑二十︑二十一︑二十一︵下︶︻計12︼

  怪談⁝⁝⁝⁝二︑四︑六︑十︑十二︑十四︑十六︻計8︼

  因果物語⁝⁝十︑十二︑十四︑十六︑十七︑十八︑二十︑二十一︵下︶︻計8︼

︵13︶三遊亭円朝﹃怪談牡丹燈籠﹄二〇〇二・五 岩波文庫 *ルビについては適宜省略した︒以下︑﹃怪談牡丹燈籠﹄の引用は︑こ

 れに拠る︒

︵14︶三遊亭円朝﹃真景累ヶ淵﹄一九五六・六 岩波文庫 *旧字体は新字体に改め︑仮名遣いはそのままとした︒ルビについては

 適宜省略した︒

︵15︶ ﹃新編日本古典文学全集80 酒落本 滑稽本 人情本﹄二〇〇〇・四 小学館

︵16︶江口孝夫﹃日本古典文学 夢についての研究﹄一九八七・二 風間書房

︵17︶ ︵16︶に同じ︒

(17)

︵18︶ ﹁円朝における身ぶりと象徴﹂﹃鶴見俊輔著作集﹄第四巻 一九七五・九 筑摩書房

︵19︶ ︵4︶に同じ︒

︵20︶中丸宣明﹁怪談と敵討ちのあいだ﹂﹃圓朝の世界﹄︵﹃文学﹄増刊号︶二〇〇〇・九 岩波書店

︵21︶福沢諭吉﹃訓蒙窮理図解﹄︵一八六入 慶応義塾︶︑小幡篤次郎﹃天変地異一︵一八六八 慶応義塾︶などは︑科学的見地により

 自然現象を紹介し︑怪異現象を否定した︒たとえば︑﹃天変地異﹄には︑次のようにある︒︿警へは雷を天の怒神の所為杯といひ

 之を避るの道をしらす彗星を兵の兆といひ地震を神霊の怒りと唱ふるの類皆容易くしるへぎの理なれは是等を始め虹寛流星九日

 同時に昇り三月並ひ懸りし事より陰火狐火杯に至るまて哀むへき惑を解かむため一々例を掲け人をしてはやく此等の理を合点せ

 しめおとろくへきもの怖るへきものを弁察し以て世の幸福安全をまさむ事をねかふのみ﹀︵海後宗臣編﹃日本教科書大系近代編

 第二十四巻 理科︵四︶﹄一九六七・十 講談社 なお︑明治初期の科学書の受容については︑横山泰子﹃江戸東京の怪談文化の

 成立と変遷−一九世紀を中心にー﹄︵一九九七・三 風間書房︶に教えられることが多かった︒︶また︑﹃倍因氏心理新説釈義﹄           ︵一八八三 同盟舎︶には妖怪について︿心意上ヨリ之ヲ観レバ︑恐怖ハ種重ナル苦痛ノ一種ナリ﹀とあり︑心理学方面からの

 怪異否定も看過できない︒

︵22︶ ︵14︶に同じ︒

︵23︶高田衛﹁怪談師円朝−餓鬼序説︵番外︶1﹂﹃情念﹄七号 一九七三・十

︵24︶鏑木清方﹁明治の挿絵﹂﹃日本文学講座﹄第十一巻 一九三一・五 新潮社

︵25︶見方を変えれば︑おみねの懸依も志丈がしかけたこととも考えられる︒志丈という男は︑何事にも察しが良く︑自分がその場

 にいなくてもありとあらゆることの内情を把握している︒その志丈が実は︑伴蔵の新三郎からおみね殺しまでの一部始終を知っ

 ていて︑伴蔵の財産をねらい︑女中や下男におますにとり懸かれたふりをするよういい含ませていたという可能性も捨てきれな

 い︒伴蔵がおみねを殺してから患依まで七日間あり︑志丈が伴蔵を陥れる準備期間としては充分な時間設定となっている︒

︵26︶興津要や尾崎秀樹らは円朝の﹁庶民文芸的﹂視点を強調している︒

      ︵博士後期課程満期退学︶

一83一

参照

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