• 検索結果がありません。

- - - -- - - - -- -- 中国環境史研究の現状と展望

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "- - - -- - - - -- -- 中国環境史研究の現状と展望"

Copied!
22
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

中 国 環 境 史 研 究 の 現 状 と 展 望

小    林    善    文  

はじめに

地 球 規 模 で の 環 境 問 題 の 深 刻 化 と と も に、 そ の 歴 史 的 考 察 を お こ な う 環 境 史 と い う 研 究 分 野 が 注 目 さ れ て い る。 一九六〇~七〇年代に欧米で生まれ発展してきた環境史についての中国での基本的理解は、具体的な歴史実証研究の 基礎の上に生態危機の歴史的文化的な根源を探り、自然に内在する価値について議論するものとされている 。

(1)

本稿が 取り上げる中国での中国環境史研究は、欧米より二〇年遅れているといわれるが、前近代より中国には歴史地理学や 農業史研究のしっかりした蓄積があるので 、

(2)

研究発展の可能性は大きいと見られている。 汗牛充棟と称せられる膨大な文献史料と長期にわたる歴史研究の伝統という基盤をもつ中国環境史研究が、水や大 気汚染などさまざまな環境問題が生まれていることもあって、今後とも有望な研究分野であり続けることはまちがい ない。それでは中国の研究レベルは、どのような段階に達しており、どのような方向性をもち、どのような課題を抱 えているのか。本稿は、ここ数年の間に刊行された環境史関係の研究書に見られる研究動向を探るとともに、新たに 提唱された生態文明は中国環境史のなかでどのような意味をもつのかという点にも重点をおいて考察を進める。

(2)

一、中国環境史研究の現状と特色

中国における中国環境史に、直接あるいは間接的に関係する研究や文献史料を渉猟すれば膨大な数となる。筆者の 力量や紙幅の関係もあって多方面にわたる研究成果を追跡できないため、現時点で二冊が刊行されている『環境史研 究 』

(3)

シリーズと三冊が刊行されている『中国環境史研究 』

(4)

シリーズの内容を中心に分析していきたい。さらに歴史を 論じることは文明を論じることにもつながるので、二一世紀初頭の中国で本格的に提唱されている生態文明とマルク ス主義との関係についても言及する。 まず環境史の定義はいかなるものか、中国人研究者の定義を紹介する。景愛は「環境史は人類と自然の関係史を研 究すること」であり、その対象は「環境の変遷ではなく、人類と自然の物質交換、エネルギー交換の歴史過程とその 結果である」と考えた 。

(5)

その研究目的は「一つは広汎な公衆に向けて環境保護の知識を伝播し、二つ目に各級政府の 政策のために科学的根拠を提供すること」という 。

(6)

包茂紅は「環境史は人文・社会科学と自然・工程科学の間の持続 して絶えざる対話」であり、その研究は「歴史叙述の基本的な特色を堅持」すべきとする 。

(7)

高国栄は「生態学を理論 的基礎とし歴史上人類社会と自然環境との間の相互関係および自然を仲介とする社会関係の一分野で鮮明な批判的色 彩をもつ新科学」と考えている。王利華は「環境史は現代生態学の思想理論を運用し、多くの学科の方法を借りて史 料を処理し、一定の時空という条件下で人類の生態系統の生誕、成長、変化の過程を調査するもの」とした。梅雪芹 は環境史を「人の実践活動と連結した人類社会と自然環境の互動過程を研究する歴史学の新領域」としている 。

(8)

劉 翠 溶 は 中 国 環 境 史 が 深 め な け れ ば な ら な い 十 大 問 題 と し て、 人 口 と 環 境、 土 地 利 用 と 環 境 変 遷、 水 環 境 の 変 化、 気候変化と影響、工業発展と環境変遷、疾病と環境、性別・族群と環境、資源利用の態度と策略、人類聚落と建築環 境、地理情報系統の利用、をあげる 。

(9)

李根幡はマルクス主義と環境史との関係について、マルクス主義の歴史理論は 生態環境史の学術実践を通して豊かな発展ができるとし、それはマルクスとエンゲルスの生態環境問題に関する表現

(3)

を指すだけでなく、弁証唯物主義の世界観と歴史観にあると述べている 。

((1

環境に関する主要な研究者の定義は以上で あるが、次にこうした方法論を有する研究者の具体的な研究成果で特色をもつものを取り上げて分析したい。 中国環境史の具体的な論争分野として、まず魏晋南北朝から唐代にかけての気候変動と歴史事象との関係を論じた 王 利 華 の 研 究 か ら 見 て い く 。

(((

後 魏 の 農 学 者 で あ っ た 賈 思 勰 の『 斉 民 要 術 』 の 記 述 に よ り 黄 河 下 流 域 で の 栗・ 棗・ 杏・ 桑などの植樹期や開花・落花などの時期が十日から四週間遅かったことから、当時の気温が現代より低かった明確な 証拠とするのは、 従来の環境史研究の基本的な方法に基づく結論といえる。王利華論文はそこから進んで『晋書』 「五 行志」や『魏書』 「霊徴志」などの記述から平均気温を推測し 、

((1

魏晋南北朝の気温には「冷→暖→冷」の波動があり、 西暦でいうと二七〇~三五〇年と四五〇~五三〇年が「冷」で、三六〇~四四〇年が「暖」としており、現代より平 均 し て 〇 ・ 五 度 低 い と し て い る。 満 志 敏 は 魏 晋 南 北 朝 の 第 二 の 冷 峰 は 六 世 紀 の 初 め で、 そ の 後 は 暖 か く な り 始 め て、 五八〇年代には南京で橘樹が植えられ温暖化は現代を超えていたとして、気温変化の時期に関しては微妙な違いを見 せている。 笠可楨がまず指摘した唐代の気候温暖説は、劉昭民が大量の文献によって補強した。ただし王利華が気候変化には 高度な複雑性があり、有限な史料に拠って絶対的な判断を下すことは実に難しいと述べ、魏晋南北朝の寒冷期の年平 均気温は現代より一~二度低く、唐代の温暖期には現代より平均気温が一度前後高かったとする主張は、結局のとこ ろ推測に過ぎないとしているが、これは妥当な判断と考えられる。 平均気温を云々するより重要なのは、寒冷化と温暖化が生み出した人々の動きであろう。許偵雲は漢末から魏晋南 北 朝 期 の 民 族 移 動 を 考 察 し、 こ の 時 期 の 遊 牧 民 族 の 南 下 遷 移 は 気 候 変 化 と 自 然 災 害 に 迫 ら れ た 結 果 で あ る と 考 え た。 草原の生態環境が脆弱であるため寒冷化の進行に脅威を感じる人々の行動が南遷につながったという説である。藍勇 は安史の乱を気候寒冷化による遊牧民族南下の象徴的事件と見ている。 ただし安禄山の軍団の民族構成は複雑であり、 一般的な遊牧民族の南下とは同列に論じられないとする見方がより説得力をもつと考えられる 。

((1

(4)

王利華は、通常は年平均気温が一度下がれば単位面積当たりの食糧生産は平年より一〇%減少し、年間降水量が平 均より一〇〇㎜減少すれば単位面積当たりの食糧生産は平年より一〇%減少するとする。そのため基本的な傾向とし て後漢以後の気候寒冷化により北方遊牧民族は大挙南下し、北朝末期から唐朝中期までの温暖化にともない黄土高原 の農耕経済は優勢になった。さらに王朝交替の易姓革命は常に食糧の減収と飢饉が関係し、それは降水量の減少とつ ながっていると見られてきた。ただし王利華は、こうした歴史の通俗的理解は「環境決定論」の陥穽に陥り、最終的 に歴史「宿命論」に向かわせることになると警戒する。上述したように王利華は、気候の変化波動のメカニズムは複 雑であるとの基本姿勢で、大雪や旱害・洪水の発生した年でもその傾向は年平均気温や降水量と完全に照応している わけではないとの立場で、地球温暖化という単線的な理解に陥ることのないように注意を促しているのである。 満州族が建てた清朝は、出身地である現在の東北地区に対して封禁政策を実施し、立ち入り禁止地域とした。この 政策の本意は満州族の利益を保護することにあったが、結果として東北地区の森林を保護して「樹海」とし、森林面 積が全体の三分の一に迫ることとなった 。

((1

この豊かな森林資源が大きく破壊されたのは、日本が中国の東北地区を占 領した時代であった。中国民族産業のマッチ製造に用いた軸木は多くが「満州国」から輸出されたものであった。日 本が占領した十数年間に森林面積と林木蓄積量はそれぞれ一七%と一二%減少した。森林の減少は洪水の危険性を増 やす。吉林省の水害は二〇世紀に大いに増加した。文献に現れた旱害も清代(一六一一~一九一二 ( を通して二七年 であったのに対し民国(一九一二~四九 ( で一九年となっている。環境破壊は病虫害の発生にも見られる。金の大定 元年(一一六一 ( から清末の宣統三年(一九一一 ( まで文献に現れる虫害は六度であったが、民国期の三〇余年で虫 害は一〇度に達した。こうした文献を渉猟して統計的に傾向を分析する方法は、環境史研究の基本となっている。 環境史研究の次の段階は、マッチ製造に従事する労働者の勤務環境の問題を明らかにすることであり、健康被害の 実態を解明することである。燐毒が製造現場を汚染しており、製造工程の乾燥作業のなかで生み出される有害な気体 が労働者の健康を蝕み、最終段階でマッチを小箱に並べる女工や童工も健康を損ねた。むろんマッチ製造業も無毒マ

(5)

ッ チ の 発 明 に 力 を 入 れ、 一 九 二 〇 ~ 三 〇 年 代 に は 赤 燐 マ ッ チ の 製 造 に 成 功 し て 黄 燐 マ ッ チ を 次 第 に 淘 汰 し て い っ た。 このように中国東北地区の森林破壊から劣悪な労働環境の問題へと環境史研究の対象は広がりを見せているが、この 論文では「中国東北地区の生態破壊と日本帝国主義・ロシア帝国主義のきわめて利己主義的な破壊的・浪費的な開発 とは直接関係している。もしも中国人民の抗日戦争の偉大な勝利がなければ、もしも中国共産党が中国人民を率いて 侵略勢力を中国大陸から追い出さなければ、東北の林地生態はまさに引き続いて悪化していたに違いない 」

((1

と公式的 ともいえる結論に至っている。 森 林 の 環 境 破 壊 が 労 働 環 境 の 問 題 に も つ な が る と い う 研 究 の 展 開 は 評 価 で き る が、 中 国 共 産 党 が 建 国 し た 国 家 が、 その後に環境破壊をくい止めたか否かについては、政権樹立後の経過を探った上で評価しなければならない。中国東 北地区における一九八七年の大興安嶺の大規模火災や一九九五~九六年の冬季アジア大会開催に伴う大規模な開発は 森林破壊を生み、一九九八年の松花江と上流の

江での大規模な洪水につながったと思われるし、遼河上流域での開 墾と森林伐採による林地面積の減少が水土流失を生んでいる現状を見れば 、

((1

中華人民共和国支配下のこの地域で十全 な自然環境保護がおこなわれたとは考えられないからである。 北京と天津を中心とする環渤海経済圏の水不足と汚染は深刻の度を増しているが、その原因に森林伐採の進行があ る。一五世紀中葉以後、五台山・太行山・陝北・隴山等の地は、森林が大量に伐採され、放火事件も発生した。モン ゴルの騎馬兵の侵入が相次いだため、封禁政策の厳格な執行と植林の命令が下った。このなかで人工植林をテーマと して研究し論戦に参加する者が少数ながら存在する 。

((1

弘治年間(一四八八~一五〇五 ( より明朝は辺山造林の命令を 下したが、成果は好ましいものではなかったため、絶えず辺境防衛の官員には枯れた木の植え替えをさせていた。そ の一方で、万暦年間(一五七三~一六二〇 ( でも年間三万トンを超える炭を焼くための林木の伐採は続いていた。植 林が時機を失し、その後の灌漑が継続されないため、活着率が一%にも満たない状況が見られ、とりわけ陝西布政司 管轄下の長城付近での植林が困難であった。

(6)

河 西 回 廊 の 甘 粛 鎮 の 樹 木 は さ ら に 少 な い が、 万 暦 三 一 年( 一 六 〇 三 (、 鎮 番 県 の 教 授 で あ っ た 彭 相 は 在 学 中 の 生 員 を動員して植林させ、活着率に応じて報償したため生員たちは真剣に取り組んだという。ただし植林事業の必要性の 理解が共有されていなければ、植林後の給水が困難な地域が多いこともあって、活着率は自然要素に左右されたと見 られている 。

((1

このように単なる森林破壊の状況を探るだけでなく、森林再生の取り組みと活着率の問題を地域性を見 ながら分析するようになったことは、退耕還林の問題とも関連する可能性をもつということで研究水準の向上が実感 できる。 王利華は、中国環境史研究は「厚古薄今」で、一九一一年以後の「後帝国時代」の中国環境史の研究はない 、

((1

と述 べ て い る。 し か し、 後 述 す る 生 態 文 明 に 関 す る 研 究 に は 二 〇 世 紀 中 国 の 環 境 に 関 す る 歴 史 的 考 察 が 含 ま れ て い る し、 中華民国期の範旭東企業集団の取り組みを二〇世紀中国環境史の一端に組み込むことも可能である。李志英の「民国 時期範旭東企業集団的環境意識与実践」では、環境に配慮した企業集団の先駆的取り組みを考察している 。

(11

範 旭 東( 一 八 八 三 ~ 一 九 四 五 ( は 日 本 留 学 生 で、 一 九 〇 八 年 京 都 帝 国 大 学 理 学 部 に 入 学 し、 応 用 化 学 を 学 ん で 一九一〇年に卒業した。帰国後、範旭東企業集団を創立し、純度の高い製塩で企業業績を上げることに成功した。製 塩事業での環境意識は中国の伝統的な循環経済の思想に沿うものであり、製造工程でセルロースの発酵を利用するな ど廃物利用法を活用し、廃棄物を有効利用して副産物の生産量を増やした。さらに製造に従事する労働者の安全と健 康にも十分配慮したことが特筆されている。この論文では企業集団の衛生環境に関わる設備を詳しく記し、人々に安 全な食塩を提供したことで、中国古代の自然を尊敬し自然に順う素朴な環境観を体現したととらえている。 『 中 国 環 境 史 研 究 』 第 三 輯 は「 歴 史 動 物 研 究 」 で あ る。 中 国 の 長 い 歴 史 の な か で 絶 滅 し た り 絶 滅 に 瀕 し て い る 動 物 は多い。そのなかでも虎は環境史研究の対象として代表的なものである 。

(1(

一部の研究者は中国での環境史研究の対象 と し て 虎 を 取 り 上 げ、 徹 底 し た 文 献 渉 猟 に よ っ て 人 間 と の 遭 遇 と 衝 突 の 事 例 を 列 挙 し、 「 打 虎 運 動 」 と 称 せ ら れ る 虎 殺しや生態環境破壊に追い詰められる虎の姿を追っている。まず新疆虎については、天山山脈の中部などの山間谷地

(7)

の地形がなだらかで気候が穏やかであって、降水がやや多く牧草が繁茂し野生動物が多いという自然条件が優越して いる地域で生き延びてきた。ただ新疆ウイグル自治区は人畜共に生存できる適地は全体の五%程度と少なく、主にジ ュンガル盆地とタリム盆地のオアシスで虎と人間の生活領域の多くが重なっているため、開発の進行とともに新疆虎 の棲息地は急速に減少し、消失したのである 。

(11

湖南省での人と虎の接触は、明清時代が記録全体の九三 ・ 〇八%を占めるなど最も多かった。明代では嘉靖 ・ 万暦 ・ 崇禎年間が多く、清代では順治・康煕・乾隆・嘉慶・同治・光緒年間が多かった。湖南省での人口増加と農業開発は 虎の生存空間を急速に破壊することなく、大規模な打虎運動が出現しなかったこともあって、虎の数は王朝時代を通 して比較的安定していた 。

(11

福建省の華南虎の記録は古くからあるが、虎の骨は粉砕して漢方薬の材料になったため残らず、文献記録によって 分布を調査せざるを得ない 。

(11

福建省は人口増加が著しく、北宋の元豊年間(一〇七八~一〇八五 ( から清の嘉慶年間 ( 一 七 九 六 ~ 一 八 二 〇 ( ま で 一 四 倍 増 加 し、 一 人 平 均 の 田 地 面 積 は 〇 ・ 九 畝( 一 畝 は 約 六 ・ 六 七 ㌃ ( に ま で 低 下 し た。 土地が狭く人が多い地域のため人虎衝突事件が多発し、明清時代を通して二三八件と福建省で歴史上文献に記録され た約七七%を占め、特に清代が多かった。ただし虎の記録と時空分布はそのまま人虎関係の真実を伝えているか否か は検討の必要がある 。

(11

陝南(陝西省南部 ( では、明清時代に人虎衝突事件が急増し、原因は移民の開発にあり、打虎運動が虎の数を減ら し棲息地の減少をもたらした 。

(11

陝西省では秦巴山区や安康地区で人と虎の衝突が起こり、虎の環境対応能力が低いた め開発の進行により絶滅への道をたどったことが明らかにされている 。

(11

なお福建省の虎に関して上述したように、虎の骨が漢方薬として消費されてしまうため証拠とできず、地方志など の文献史料から関連する情報を引き出し、地図上に分布地域を落とし込む地道な作業を通して虎と生態環境との関連 性を分析する研究となっているが、中国環境史研究にとって不可欠の考察分野となっているといえよう。

(8)

二、中国環境史研究の展開と課題

中国では最近「生態文明」という表現が広汎に使用されている。生態文明は、新型の文明形態で人と自然が和諧す ることであり、 中央政府が一九九〇年代中期に提起し始めた。一九九九年、 時の国務院副総理であった温家宝は「二一 世紀は一つの生態文明の時代である」と述べた。二〇〇七年一〇月一五日、胡錦濤総書記は中国共産党第一七回全国 人民代表大会の政治報告のなかで「生態文明の建設ためには、基本的にエネルギー源と資源を節約し、生態環境を保 護する産業構造、成長方法、消費形態を形成しなければならない。循環経済がやや大規模に形成されれば、再生エネ ルギーの比重は顕著に上昇させることができる。主要な汚染物の排出が有効にコントロールされれば、生態環境の質 量は明らかに改善される。生態文明の観念は全社会に牢固として樹立されなければならない」と述べた 。

(11

この「生態 文 明 は 人 類 文 明 の 基 本 形 態 」 で あ り、 「 古 よ り あ り、 今 日 提 起 さ れ た も の で は な い 」 と も い わ れ て い る 。

(11

「 生 態 文 化 」 という表現も使われ、 それは「人類が自然生態系統の本質的規律に従い、 生態環境の保護、 生態平衡の保持によって、 人と自然、人と社会、人と人、人と自身の和諧発展が反映するところの思想観念の総和」と定義されている 。

(11

ここで人、自然、社会の相互の関係が問われることになるが、生態文明の建設は「人類発展の緑色の道であり、人 道主義・自然主義・共産主義統一の道」であり、マルクスを引用して「こうした共産主義は、……完成された人道主 義であり、自然主義に等しく、それは人と自然の間、人と人の間の矛盾の真の解決であり、存在と本質、対象化と自 我 の 確 証 で あ り、 自 由 と 必 然、 個 体 と 類 と の 間 の 闘 争 の 真 の 解 決 」 で あ る と し て「 自 然 主 義 ― 人 道 主 義 ― 共 産 主 義 」 三位一体の原則であるとした 。

(1(

マルクス主義こそが生態文明建設の根本を成すイデオロギーということになる。 それでは生態文明はどのような性質のものなのか。四つのポイントがあげられる。第一に「生態文明は人をもって 本 と す る 原 則 を 強 調 し、 同 時 に 極 端 な 人 類 中 心 主 義 と 極 端 な 生 態 中 心 主 義 に 反 対 す る 」。 第 二 に「 生 態 文 明 は 経 済 社 会と生態環境の協調発展を追求し単純な経済増長ではない」 。第三に「生態文明の唱導するのは生活の質量であって、

(9)

需給の簡単な満足ではなく、過度の消費に反対し、合理的な社会消費機構を打ち立て、異化消費を克服し、緑色消費 を 人 類 生 活 の 新 目 標、 新 た な 好 み と し た 」。 第 四 に「 生 態 文 明 の 要 求 は 高 度 な 民 主 の 実 現 で あ り、 社 会 正 義 の 強 調 と 多 様 性 の 保 障 で あ る 」

(11

。 こ の よ う に 定 義 す る と と も に、 そ の 基 本 的 方 向 を 以 下 の よ う に 述 べ る。 生 態 文 明 建 設 は 空 虚 なスローガンであってはならず、中国の特色ある社会主義建設の新たな局面を切り開くために、中国共産党は人口管 理、 環 境 保 護、 資 源 節 約 の 政 策 を 推 進 し、 経 済 建 設・ 政 治 建 設・ 文 化 建 設・ 社 会 建 設・ 生 態 文 明 建 設 の「 五 位 一 体 」 の建設を進めるとしている 。

(11

こうした方針は、マルクス主義とどのような関係にあり、中華人民共和国建国以後の中 国現代環境史の流れのなかでどのような意義をもつのか。以下において考察していきたい。 王宏斌 『生態文明与社会主義 』

(11

は、 上述の課題を扱った格好の研究書と見られる。この書は資本主義を批判して 「人 類中心主義」の観念があるとし 、

(11

先進資本主義国家では「八大公害」事件が発生するなど環境破壊が進行したとする。 こ の「 八 大 公 害 」 事 件 と は、 ベ ル ギ ー・ ア メ リ カ( 二 件 (・ イ ギ リ ス の 合 計 四 件 に 加 え て、 日 本 の 水 俣 病・ イ タ イ イ タイ病・四日市ぜんそく・カドミウム事件の四件をあげており、日本の環境公害を特筆している 。

(11

資本主義社会の構造的欠陥が環境破壊を生んだとする一方で、マルクス主義に立脚する共産主義社会は、人と自然 の間、人と人の間の「両大和解」を実現した生態文明社会であり 、

(11

それは「一種の持続発展可能な文明形態」である べきであり 、

(11

社会主義の物質文明・政治文明・精神文明は生態文明から離れることができない 。

(11

他方では先進資本主 義国に対して「徹底して環境利己主義を放棄し、途上国に向けてゴミを輸出することを停止して、汚染企業の移転と 資源略奪などのいわゆる「環境侵略」行為を停止する。同時に西方国家自身は適度に自己の消費行為を制限し、不合 理 な 生 活 方 式 を 改 変 し、 実 際 行 動 を も っ て 世 界 の 環 境 問 題 の 最 終 的 解 決 に 相 応 の 貢 献 を し な け れ ば な ら な い 」 と い う 。

(11

日本の環境保護援助は評価しつつも 、

(1(

先進諸国の「環境植民主義」を批判する。温室効果ガスでアメリカの排出 量が世界全体の約四分の一を占めることを批判しつつ 、

(11

急速に排出量を増やして世界一の温室効果ガス排出国となっ た中国のことには言及しない。

(10)

「 民 主 と い う 科 学 的 社 会 主 義 の 基 本 原 則 と 中 国 の 実 際 を あ い 結 合 さ せ、 人 民 代 表 大 会 制 度、 中 国 共 産 党 の 指 導 す る 多党合作と政治協商制度・民族区域自治制度を実行し、党の指導・人民が主人公・法に依り国を治めるという三者を 統一した治国方略を実行する 」

(11

ということが、 果たして現在の中国で実行されているのか。 「社会主義社会であれば (環 境問題という―筆者註 ( 人類の生存と発展に危険を及ぼす災難性の弊害を消し去ることができる」と述べ、かつての ソ連や東欧諸国といった「伝統的社会主義が環境問題に対応して進めたたゆまぬ努力を明らかにする」という 。

(11

その 上で「バイカル湖の汚染治理工作は一定の進展を得て、該湖に流入するすべての河流とその支流は既に浄化され、水 の清潔度は九七%の高さに達した 」

(11

として、ソ連時代の計画と報告をそのまま転載している。 これは計画を立てれば、その通りに実施され成果を上げたとみなす現在の中国の環境政策と同様のとらえかたと考 えられるが、さすがのこの書はその後に生起した問題点を指摘することを怠ってはいない。 「 社 会 主 義 の 条 件 下 で は 環 境 問 題 が 存 在 し な い と 認 識 」 し て い た ソ 連 の 学 者 は、 ペ レ ス ト ロ イ カ の な か で「 ソ 連 の 環境状況は欧米諸国と比べて決して良いとはいえないことを承認」しはじめたが、少なくとも理論上は一条の希望の 光をもっていた 。

(11

ソ連時代の環境破壊で最も深刻なのは、アラル海問題、チェルノブイリ事件、ドンバス工業汚染問 題である。ソ連を代表とする伝統的な社会主義国家の環境問題は、環境を計画に入れず、環境破壊の代価を正しく評 価できず、環境資源の所有権が不明確なことである 。

(11

ソ連という社会主義国家では主観唯心論が幅をきかせ、人類の 主観意思による世界改造での能動性や創造性を誇大視し、スターリンの大自然計画でアムダリアから引水するカラク ム運河の建設を計画し、実行したのはその典型であった 。

(11

灌漑農地の拡大などの用水需要を満たし、生産力の増強を 実現するというこの夢の計画の末路は、二一世紀の今日、アラル海の消失などの環境破壊によって証明されていると ころである。 この書は、 ソ連の失敗という事実の上に「毛沢東の時代、 中国の社会主義建設の道は、 ソ連様式の影響を深く受け、 一面的に鉄鋼など核心となる重工業の発展を優先することを強調し、すべてを国家の計画に奉仕するという発展構想

(11)

をとり、誤って「糧をもって綱となす」農業政策をとり、人口発展における誤り、人は天に勝つという思考様式など 多くの原因が一つに交ざり合い、生態環境に対して深刻な破壊を生み出した 」

(11

とする。つまり毛沢東と大躍進政策の 失敗の主要な原因を、ソ連様式の影響におくのである。こうした前提の上に、毛沢東の「糧をもって綱となす」政策 が、一九六〇年代後半から七〇年代にかけての森林面積の大幅な減少の主要な原因になったとし、単純な食糧増産計 画 が 鄱 陽 湖 や 洞 庭 湖 の 湖 水 面 積 減 少 の 原 因 と な っ た と す る 。

(11

ま た 中 国 の 公 衆 の 環 境 意 識 と 知 識 水 準 は や や 低 く、 「 政 府依頼型」の特徴があるという 。

(1(

それは中国の生態文明建設の成否は、政府の取り組みが鍵となるという見方にもな る 。

(11

生態文明とマルクス主義を論じるにあたり、上述の書だけに依拠することは、一面的となる可能性をもつので、最 近の中国における他の研究成果も見ていきたい。生態文明については、物質文明・政治文明・精神文明と並ぶ四大文 明という位置づけがされ、農業文明を「黄色文明」 、工業文明を「黒色文明」 、生態文明を「緑色文明」と表現してい る 。

(11

生態文明を論じるに当たってのマルクス主義の理解に関しては、沈満洪らはマルクスは政治革命を完成させると 同時に、ヘーゲルの唯心主義自然観、ヘルバルトの旧唯物主義自然観を批判し、超越することでマルクス主義の生態 哲学を完成させており、それは人と自然環境との弁証統一関係で、最終的に対人の解放、社会の解放、自然の解放と いう三者の関係の高度な統一であるとする 。

(11

ここでは弁証法的方法の有効性を主張している。 梅雪芹は、建国直後の一九五〇年代に中国の学術界では、モンテスキュー・ヘーゲル・プレハーノフらの「地理環 境決定論」を徹底的に否定したが、この二〇年ほどの中国学術界では地理環境の人類社会のなかでの作用を肯定する ようになっていると述べ、マルクス主義は地理的条件と人類社会の関係を明らかにする弁証法的思想であり、環境史 研究の基本理論と指導思想にしなければならないという 。

(11

梅雪芹は、アナール派のフェルナン=ブローデルに関心を 寄せ、かれの「歴史の創造者は地理区域ではなく、人であり、こうした地理区域を主宰し発見する人である」という 言葉を引用する 。

(11

梅雪芹は、アナール派の思想的淵源や理論的基礎の一つは地理学であるが、環境史研究の思想的淵

(12)

源や理論的基礎の一つは生態学であるともいう 。

(11

王利華もブローデルの『フェリペ二世時代の地中海と地中海世界』を評して、自然環境を社会歴史に影響する一つ の重要な構造的要素としたが、これは一つのたいへん大きな進歩であると見ている 。

(11

梅雪芹はまた「二一世紀の新史 学となった環境史は、人類社会と自然環境との相互作用関係の変遷を対象とする歴史である。この歴史は政治史と社 会史の道と結合し「上下左右」の歴史と称することができる」といい、文革期に出現した「あてこすり史学」の悪影 響を指摘して、史学が現実社会との関連を語る必要性を説いている 。

(11

王宏斌の生態文明と社会主義について論じた前掲書は、中国政府が宣言した生態文明建設と中国共産党が基本とす る社会主義を扱った著作だけに、政府と党の公式見解から逸脱しないように細心の注意を払って執筆されたと思われ る。 「 環 境 植 民 主 義 」 と 表 現 し て 先 進 国 の 環 境 破 壊 と エ ネ ル ギ ー 浪 費 を 批 判 し た の は、 先 進 国 側 が 反 論 で き ず、 国 際 会議において中国など発展途上国が批判しやすい論理であるためだろう。温室効果ガスの排出量増加に関してはアメ リカの一人当たりの排出量を根拠に批判して、最大排出国の中国に批判の矛先が向かわないようにする。中国の環境 問題の内実を書くことは、各方面との摩擦が予想されるので、直接の利害関係がないソ連の内実を書くことで代替す る。社会主義の優位性は大前提なので、社会主義の下では環境問題は存在しないと言明していたソ連の研究者が次第 に状況を認識し始めたことを述べるが、欧米諸国に比べて社会主義体制のソ連の環境状況は、遅れて国家建設を進め たため無条件に工業化を図らざるを得なかったと歴史的背景を述べるとともに、それでも理論上は希望の光をもつと 弁護する 。

(11

ソ連では環境破壊の罰金よりも生産目標の超過達成の報奨金の方が大きかったという指摘は 、

(1(

現在の中国の環境汚 染問題の解決に当たっても該当する現象である。また毛沢東の指導下に進められた大躍進期の製鉄業や農業面での失 政 が 環 境 破 壊 に つ な が っ た の は ソ 連 の 影 響 と い う と ら え 方 も、 中 国 政 府 独 自 の 責 任 を 免 罪 す る こ と に な る で あ ろ う。 こうしたソ連を持ち出す表現は、中国共産党の建国以来の政策を批判できないなかでの窮余の論理とするのは、穿ち

(13)

すぎた見方であろうか。 それでも中国の環境破壊の実態に触れざるを得ない。黄河流域での古代からの農耕の推進は、森林の伐採と草原の 破壊を代価としたものであった。東晋・南北朝時代から唐宋時代までの大量の人口の南遷は南方での大開墾につなが り、長江上流の水土流失につながった。宋代以後の黄河流域の環境悪化の趨勢は止めようがなく、土壌の塩漬化、農 田の冠水、城鎮の破壊、東部平原湖泊の消失などが続いた。このように前近代中国の環境悪化の状況を略述する 。

(11

建 国後も「事実より見れば、中国社会主義計画経済体制のいくばくかの弊端は、確実に中国の資源環境に多くの不利な 影響をもたらした」と述べざるを得ない 。

)11

王宏斌は、緑の党を評価し 、

(11

ゴルバチョフの「緑色思想」を取り上げるな どの柔軟性を見せ 、

(11

最終的に社会主義と資本主義が互いを参考にし、新機軸を打ち出すという弁証法的な発展を経て 真の生態文明の時代が訪れるという結論に至っている。 最近の中国環境史の研究対象は、 上述したいくつかの具体例以外にも様々な分野に及んでいる。その一部を紹介し、 研究発展の可能性を探りたい。 (一 ( 伝染病と生態環境→唐から五代にかけてのマラリアを 『新菩薩経』 や 『勧善経』 といった文献に拠って分析し、 マラリアの分布と気候は密接に関係しており、悪性マラリアは南方に広がっていたと于賡哲は述べている 。

(11

伝染病に ついては、イギリスなど西方諸国は中国を侵略するだけでなく、コレラなどの流行性の疾病を持ち込み、アヘン戦争 前夜の中国に大きな影響を与えた。コレラは社会に恐慌を生み、 封建迷信思想を助長し、 社会経済の発展を阻害した。 その一方で、中国人に世界への目を開かせ、清朝に近代医療制度への改革を促した 。

(11

こうした伝染病に関わる諸々の 事象も、環境史研究の対象となるのである。 ( 二 ( 水 資 源 と 生 態 環 境 → 水 資 源 問 題 は、 中 国 環 境 史 研 究 の 主 要 テ ー マ で あ る。 王 利 華「 中 古 華 北 水 資 源 状 況 的 初 歩考察 」

(11

は、黄河流域を中心に華北の水資源問題を取り上げている。山西省の汾水について、春秋時代に秦から晋へ 渭河―汾水のルートを利用して粟を運んだ「泛舟之役」に見られるように水資源が豊かであり、唐代までは航路とし

(14)

て利用されたが、その後は水量不足で使用されなかった。この唐代の水量については、北方での水害の発生年と旱災 年の文献における出現頻度の比較によって明らかにしている。後漢中期から唐代後期にかけての黄河の状況は、農業 から牧畜への転換もあって黄土高原の植被が回復し、水土流失と河流の泥沙含有量の減少に伴う「安流」時期に入っ たと譚其譲の説を追認している。宋代以降は水利事業の取り組み不足と水資源の不足が重なって華北の水稲生産量は 減少していった。このように水資源減少をその影響も含めて解明した内容は、 通説を補強するものであり、 「南水北調」 や節水と汚染防止は重要であるが、黄土高原の生態環境保護の重視も不可欠であるとまとめている 。

(11

長江流域に関しては支流の岷江を取り上げて、紀元前二五六年に建設された都江堰は農田灌漑の典範で、人の需要 と自然の間の完全なる均衡を探し当てたととらえ 、

(11

この宏大な水利工程は環境と和諧結合し、引水・防沙・泄洪の管 理経験と治堰原則は後世の治水の模範となったと評価している 。

(1(

都江堰のような長江流域の生態環境に裨益した歴史 遺産が存在するとはいえ、 流域全体に対する開発は生態環境に悪影響を及ぼしてきたことは疑いなく、 「もしも洞庭湖 ・ 鄱陽湖・太湖が二〇世紀初頭の面積を回復できれば、私は長江中下流の極端な天気情況は顕著に改善されるものと深 く信じる」という李尋論文の内容は、この点を要約しているものと考えられる。 ( 三 ( 人 間 と 自 然 の 関 係 → 中 国 古 代 の 儒 家 は「 天 人 合 一 」 を 主 張 し た が、 そ の 本 質 は 人 と 自 然 界 の 統 一 を 肯 定 す る も の で あ り、 中 国 の 道 家 は「 道 は 自 然 に 法

のっと

る 」 こ と を 提 起 し、 「 天 地 は 我 と と も に 生 き、 万 物 は 我 と 一 に な る 」 境 界 に 到 達 す る こ と に な っ た。 さ ら に 中 国 の 歴 代 王 朝 は す べ て 生 態 保 護 に 関 す る 律 令 を も っ て お り 、

(11

「 天 人 合 一 」 の 伝 統 的観念には古くから濫伐を禁止し、絶滅性の漁猟を制限する法令があった。また先秦諸子の文章のなかにも「斧斤幼 林に入れず、漁網の過密は宜しからず」の表現があったとして 、

(11

生態環境保護の長い伝統があったことを明らかにし ている。むろん思想面だけでなく、前漢・後漢における西域の屯田経営の環境への影響に関して、内地より西域に導 入された社会制度や実用技術の分析から移民による地理環境の改造能力と結果の考察へと向かう研究が進められてい ることも明らかにする 。

(11

(15)

楊庭碩は中国環境史研究が陥りやすい陥穽を以下のようにあげる。①森林生態系統が最も好き生態系統で沙漠生態 系統が最も悪い生態系統とするような一つの文化的価値尺度に足場をおくこと。②生態系系統の自然変性と人為の生 態変性を混同し、生態災変の成因を自然と社会要素の共同作用が生み出したものとすること。③無原則的に「脆弱な 生態系統」という概念を乱用すること。④単なる技術的手段で生態史を探ること。⑤政治・経済・軍事・法律の一つ の要素だけを無限に拡大して人為的な生態変質を解読すること 。

(11

こうした主張の当否はともかくとして、中国環境史 研究の方向性に関して根底的な問いかけがおこなわれていることは、研究水準の向上につながる動きと見ることがで きる。

おわりに

比類なく豊かな文献史料と歴史研究の業績の蓄積がある中国では、現在の深刻な環境破壊という背景のなかで、欧 米に遅れる形ではあるが、環境史研究が本格的に始まった。その内容も複雑な気候変動のメカニズムを研究の前提と するなど、単純な方法論の枠を超える努力が見られるようになってきた。最近では本稿で取り上げたように、環境問 題と民族移動との関係、森林資源をめぐる封禁政策の意義、列強の進出と環境破壊や伝染病との関係、植林の歴史的 背景と活着率の問題、マッチ製造と森林資源や労働環境との複合的な環境史的理解など様々な研究分野との連携によ る多角的な分析が進められるようになってきた。範旭東企業集団の先駆的取り組みへの着目は、新たな環境史研究分 野の開拓と見ることができるだろうし、虎と人との争いを地方志など文献を渉猟して丹念に跡づけ、地理条件を含め た統計的処理をすることは伝統的手法の進化と見ることもできるだろう。 ただし本稿で註記したことであるが、 『晋書』 「五行志」や『魏書』 「霊徴志」などの引用に見られるような恣意的な文献利用による論証という現状の研究水準に止 まるならば、中国環境史研究が他の研究分野からの信頼を勝ち取ることはできない。正確な文献活用と批判的検証を

(16)

続けることが、この研究分野の評価定着に不可欠である。 特色ある社会主義を標榜する中国政府が打ち出した「生態文明」は、マルクス主義を前提としている。マルクス主 義に関しては、共産主義こそが「人と自然の間、人と人の間の矛盾を真に解決」できるとし、その弁証法的手法に積 極的役割を求めている。生態文明に関しては王宏斌の著作を軸に分析を進めたが、この書では、二〇世紀の大躍進政 策がもたらした大規模な環境破壊は、ソ連の手法に学んだ結果であることを示唆する。同書は、ソ連の自然破壊の悪 影響などは取り上げても、中国共産党の支配する現政権の政策を正面から批判することはない。環境植民主義という 文言を用いて先進国批判はしても、中国が温室効果ガスの最大排出国であることに言及することはない。中国政府の 生態文明建設という環境政策の根底を成すマルクス主義というイデオロギーを、正面から批判することが許されない 体制下にある以上、 マルクス主義の理念と弁証法的手段を評価するとともに、 二〇世紀中国の環境破壊の主要原因は、 ソ連の影響にあるとして中国自体の責任を取り上げることはない。経済成長への影響が大きい中国の温室効果ガスの 排出量増加にはあえて言及せず、一方で中国内部で進行している細部の環境破壊は取り上げる。 環境保護を担当する部門が弱体で、政府の意向に逆らえない以上、中国環境史の研究者の手によって生態文明の名 の下に刊行されている一連の論著の内容は、許されるぎりぎりまで環境問題の実相を追求した表現と見てよいのかも しれない。それでも梅雪芹ら中国環境史研究のリーダーたちは、欧米の研究方法に学究的に向き合い、さまざまな分 野との連携を通して、従来の単線的な研究水準を超える多様な成果を生み出しつつある。ただし、文献操作一つをと ってみても厳格な活用が不可欠であるし、ドグマにとらわれない柔軟かつ厳正な考察をおこなわない限り、内外の真 の評価を得ることはできないだろう。

[註]

(1(梅雪芹『環境史研究叙論』(中国環境出版社、二〇一一年、以下書名のみ示す(二二〇頁。

(17)

(2(梅雪芹「環境史与世界近現代史研究的拓展」(戴建兵主編『環境史研究』第二輯、天津古籍出版社、二〇一三年、以下書名のみ示す(

二二〇頁。

(3(註(2(であげた研究論集に先行するものとして、戴建兵主編『環境史研究』第一輯、地質出版社、二〇一一年、以下書名のみ

示す(がある。

(4(『中国環境史研究』第一輯に当たるのが、註(1(にあげた梅雪芹前掲書である。続いて王利華主編『中国環境史研究』第二輯・

理論与探索(中国環境出版社、二〇一三年、以下『中国環境史研究・理論与探索』と略す(と侯甬堅・曹志紅・張潔・李冀主編『中

国環境史研究』第三輯・歴史動物研究(中国環境出版社、二〇一四年、以下『中国環境史研究・歴史動物研究』と略す(が刊行さ

れている。

(5(『環境史研究叙論』二四八~二四九頁。

(6(同前書、二六九頁。

(7(同前書、二六〇頁、二六二頁。包茂紅は二〇〇四年に中国環境史の時代区分を、古代(伝説時期~一八四〇年(、近現代(一八四〇

~一九四九年(、当代(一九四九年~(の三段階に分けている(同前書、二八五頁(。

(8(同前書、二四九頁。なお梅雪芹「中国環境史的興起和学術淵源問題」では、改革開放以来、中国環境史は欧米の影響を受けて研

究が活発となっているが、その背景には豊富な中国歴史学の資産と一九三〇年代より発展成熟してきた歴史学の成果があるという。

さらに今後は中国史と中国史学のなかの環境史に関係する学術資源を開発し、苦難が予想される中国環境史学科の建設に努めなけ

ればならないと述べている(『中国環境史研究・理論与探索』二一六~二二一頁(。

(9(『環境史研究叙論』二七五頁。

10

(同前書、二五四~二五五頁。梅雪芹は、中国の環境史学科の発展には「唯物史観の指導方針を堅持し、マルクス主義の環境史研

究学派を形成しなければならない」と述べている(同前書、九四頁(。

11

(王利華「中国中古時代的気候変化与社会嚮応」(『環境史研究』第二輯、所収(。

(18)

12

(『環境史研究』第二輯、四七頁には、この論文の根拠となる「魏晋南北朝時期的極端霜雪現象」という『晋書』や『魏書』などの

正史を主要な来源とする文献から作成された一覧表がある。しかし、中国環境史研究のリーダーと目される人物が主編となってい

る書物から取られたこの記録は、関係文献を網羅したものではなく、季節と地域に関しても一般的な遅霜の可能性を考えずに恣意

的に収録されており、西暦年代の誤記も複数あるというお粗末な一覧表である。こうした一覧表を典拠確認もなく、孫引きの形で

載録してよしとする姿勢では、中国環境史研究の水準向上は望めないのではないか。

13

(王利華は、気候寒冷化は遊牧民南遷の原因の一つであるとの見方はしており、長城線の攻防でも遊牧民族と農耕社会それぞれが

もつ社会防衛能力が関係しており、政治・経済・軍事の総合力が決定力をもったと考えている(『環境史研究』第二輯、六一頁(。

このように単線的な視点で環境史を考察すべきでないとの姿勢は評価しなければならない。なお森部豊『ソグド人の東方活動と東

ユーラシア世界の歴史的展開』(関西大学出版部、二〇一〇年(第三章によれば、日本でも北アジア世界から見るという新しい安史

の乱の研究方向が生まれてきているとあり、実証的研究の成果が環境史研究にも生かされることを期待したい。

14

(李志英・周滢滢「環境史視野下的近代中国火薬製造業」(『環境史研究』第二輯、所収(。

15

(同前論文『環境史研究』第二輯、一一〇頁。

16

(拙稿「中国東北地方の水資源と環境―遼河流域を中心に―」『神戸女子大学文学部紀要』第四九巻、二〇一六年。

17

(邱仲麟「明代長城沿線的植木造林」『中国環境史研究・理論与探索』九一頁。

18

(同前『中国環境史研究・理論与探索』一〇一~一〇三頁。

19

(王利華「全球学術版図上的中国環境史研究―第一届世界環境史大会之後的幾点思考」同前書、二四六頁。

20

(同前書、三四一~三五五頁。

21

(日本での研究に、上田信『トラが語る中国史―エコロジカル・ヒストリーの可能性』(山川出版社、二〇〇二年(がある。

22

(曹志紅「歴史上新疆虎的調査確認与研究」『中国環境史研究・歴史動物研究』七一~九六頁。

23

(曹志紅「湖南華南虎的歴史変遷与人虎関係勾勒」同前書、九七~一一〇頁。

(19)

24

(曹志紅「人類活動影響下福建華南虎種群的歴史分布」同前書、一一一~一二四頁。

25

(曹志紅「福建地区人虎関係演変及社会応対」同前書、一二五~一四二頁。

26

(曹志紅・王暁霞「明清陝南移民開発状態下的人虎衝突」同前書、一四三~一五五頁。

27

(王暁霞「明清安康地区虎患探析」、同「明清商洛地区虎患考述」、同「安康地区華南虎的歴史変遷及原因」すべて同前書、所収。

この書にはその他に呉朋飛・周亞「明清時期山西虎的地理分布及相関問題」が収められ、山西省では五台山、中条山、管涔山の三

処に野生虎が生息していたが、現在では不明としている。曹志紅や王暁霞らの研究は、地方志等の文献史料に拠り、それを地図上

に置いて検討するという手法を用いていて、その当否については筆者が原史料にアクセスする手段をもたないため断定はできない

が、少なくとも、主としてネット情報に依拠して虎の生態環境での消長を追う研究よりは評価できると考えている。

28

(侯全亮主編『生態文明与河流倫理』(黄河水利出版社、二〇〇九年、以下書名のみ示す(五七頁。

29

(鄭暁雲「水文化与生態文明」(張焱主編『水与生態文明建設』長江出版社、二〇一三年、以下書名のみ示す(四六頁。「生態文明

は原始文明・農業文明・工業文明の後を継ぐ一種の新文明である」と位置づけられている(劉愛軍「生態文明的哲学思考与建構」

劉愛軍主編『生態文明研究』第一輯、山東人民出版社、二〇一〇年、以下書名のみ示す、二頁(。

30

(許爾君・袁風香『生態文明建設―美麗中国視域下的生態文明建設現実路径』(甘粛人民出版社、二〇一五年、以下『生態文明建設』

と略す(二七頁。

31

(同前書、三三頁。

32

(同前書、三四頁。

33

(沈満洪『生態文明建設思路与支路』(中国環境出版社、二〇一四年、以下書名のみ示す(五頁。また方自亮「生態文明水先行」では、

生態文明建設を「五位一体」の中国の特色ある社会主義建設体系に入れ、「美麗中国」を未来の生態文明建設の大きな目標とする(『水

与生態文明建設』一〇九頁(。

34

(王宏斌『生態文明与社会主義』(中央編訳出版社、二〇一一年、以下書名のみ示す(。

(20)

35

(同前書、七頁。

36

(同前書、三四頁。

37

(同前書、四四頁。

38

(同前書、四七頁。

39

(同前書、五一頁。

40

(同前書、八三~八四頁。

41

(環境援助大国の日本は、例えばブラジルに開発援助を提供した上で、熱帯雨林を伐採し、環境保護援助を提供して植林する。こ

のようにして日本企業は、両方の利益を得ている。さらにアジア太平洋地区の環境問題は日本が作ったというマルティン=コール

の言を引用している(同前書、九七頁(。

42

(同前書、九三頁。同前書、九四頁では、アメリカが京都議定書を守らないことを批判しているが、中国はその対象国になってい

ないのである。

43

(同前書、一一〇頁。

44

(同前書、一一四~一一五頁。

45

(同前書、一二一頁。

46

(同前書、一二二頁。

47

(同前書、一三二頁。

48

(ソ連の自然改造とアラル海の消滅に関しては、ソ連による改造の規模と成果を評価しつつも、それが環境破壊を生んだことにつ

いて李尋が比較的詳しく論じている(李尋「関于中国水利問題的思考」『環境史研究』第二輯、一六九頁(。

49

(『生態文明与社会主義』一四八頁。

50

(同前書、一五〇頁。

(21)

51

(同前書、一六一頁。

52

(同前書、一七四頁。

53

(前掲劉愛軍論文(『生態文明研究』第一輯、二~三頁(。また宋叢文主審・袁経池主編『生態文明教育簡明読本』(華中科技大学出

版社、二〇一五年(五六頁でも、同様に規定して、生態文明は単純な省エネ・減温室効果ガス・資源節約・環境保護等の問題を超

越し、人と自然との和諧共生の実現をめざすとしている。また人と自然が和諧してあい処する社会主義和諧社会の建設を『生態文

明与河流倫理』七〇頁、でも唱えている。

54

(沈満洪・謝慧明・余冬筠等著『生態文明建設従概念到行動」(中国環境出版社、二〇一四年、以下書名のみ示す(一五頁。またマ

ルクスは自然主義と人道主義の内在的統一をし、「自然人道主義」文化精神の理想社会形態を提起したとする見方もある(『生態文

明建設』六七頁(。

55

(『環境史研究叙論』九五~九六頁。

56

(同前書、一五九頁。

57

(同前書、一六〇頁。

58

(王利華「天地生民―関于中国環境史学理、架構的幾点思考」『環境史研究』第二輯、二〇八頁。

59

(梅雪芹前掲註(2(論文、同前書、一八八頁、一九一頁。

60

(『生態文明与社会主義』一三七頁。

61

(同前書、一三九頁。

62

(同前書、三一~三二頁。

63

(同前書、一五二頁。

64

(同前書、七八~七九頁。

65

(同前書、一二六頁。

(22)

66

(于賡哲「《新菩薩経》《勧善経》背後的疾病恐慌―試論唐五代主要疾病種類」『中国環境史研究・理論与探索』四六頁。

67

(李世安・李洪壘「一八二〇年前後中国流行性霍乱的爆発及其影響」『環境史研究』第一輯、四二~四三頁。

68

(『中国環境史研究・理論与探索』所収。

69

(華北の水資源問題に関しては、楊進懐「北京水文化遺産的現状、特点与保護対策」(『水与生態文明建設』所収(が、北京の水資

源は歴史的に見れば豊かであり、水文化の内容と蓄積も重厚であったが、最近では水文化遺産の管理と保護が不徹底となり、その

強化が望まれると述べている。鈔暁鴻「環境与水利:清代中期北京西山的煤窯与区域水循環」(『環境史研究』第二輯、所収(は、

北京の西部では山裾に見られる清泉の泉源が明清以来減少して、水資源自体の減少と地下水への補給不足を示していると述べる。

また李尋前掲論文では、需要と供給の関係で北京の用水量を考えれば、適正な人口は二分の一となり、雨水の総合利用を加えれば、

完全に自給できるという。商彦民「商代晩期中原地区生態環境的変遷」(『中国環境史研究・理論与探索』所収(は、地下水位の変

化から殷時代の華北の乾燥化を明らかにしている。

70

(『生態文明与河流倫理』一四四頁。

71

(張盛文『生態文明視野下的水文化研究』(廈門大学出版社、二〇一二年(二〇頁。

72

(『生態文明与河流倫理』六四頁。『生態文明建設』四七頁は、孔子の「一樹を絶ち、一獣を殺すに、その時をもってせざるは、孝

にあらざるなり(断一樹、殺一獣、不以其時、非孝也(」(『礼記』祭義(を引いて孔子の環境観を特色づけている。

73

(劉愛軍前掲論文。

74

(曹志紅註(

22

(論文。

75

(楊庭磌「目前生態環境史研究中的陥穽和誤区」(『中国環境史研究・理論与探索』所収。

参照

関連したドキュメント

ofo は 2014 年に北京大学の大学院生だった

2 ソフトウヱア技術 ソフトウェア技術の面では,今後とも FORT

ところで、現代アートが持て囃される理由として次の二点を挙げることができるだろう。第一に投機対象としての

2F23 環境系大学発ベンチャー企業の現状と展望 中村 吉明(経済産業省) 1. 環境ベンチャー企業と大学発ベンチャー企業

阿部  私たちが見ていてもそうですが、本当にその AD/HD なのか、あるいは日

―  ― 51 中国における改革開放の現状と展望(趙 虎吉) に,人間の意志を過信するようになった。毛沢東が 1940 年代から

手エジプト学者国際会議 (International Conference for Young Egyptologists , ICYE)」 などが 存在

しゃべりが大切で,客は二の次である。短袖のシャツ(村)を買いにいったら,お前に合う 41cm のは無いという。置いてある