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党史と政権 : 歴史的・比較的研究

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(1)

Instructions for use Author(s) 木村, 汎

Citation スラヴ研究, 16, 1-55

Issue Date 1972

Doc URL http://hdl.handle.net/2115/5016

Type bulletin (article)

(2)

党 史 と 政 権

一 樫 史 的 ・ 比 較 的 研 究 一 発

C

f I 次 〕 まえヵ:き I 歴史的概観 II 比 較 的 ア プ ロ ー チ (1) “ ス タ ー リ ン " 問 題 (2) “フfレ シ チ ョ フ " 問 題 III ブ レ ジ ネ フ 政 権 ま え が き 一 「 ネ ル ジγは , つ ぎ つ ぎ に 出 る 党 史 ( 党 史 は 数 種 類 出 版 さ れ , そ の 各 々 が 違 っ て い た ) を み な 読 ん だ 。 」 ソ ル ジ ェ ニ ー ツ イ ン 『 懐 獄 の な か で

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ー 情 報 過 多 と い わ れ る 現 代 の 例 外 を な し , い ぜ 、 ん と し て 秘 密 の 鍛 帳 を 深 く お ろ し 諒 誤

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以 外 わ れ わ れ の 接 近 を 厳 し く 拒 み , 客 観 的 な 研 究 の ネ ッ グ を な し て い る の が , ソピ、エト政治 の 苦 界 で あ る 。 し か し そ れ は , た だ た ん に 厳 格 な 検 関 市j震 に よ っ て 外 界 か ら の 譲 触 の チ ャ ン ス を 可 能 な か ぎ り シ ャ ッ ト ・ ア ウ ト せ ん と す る . い わ ば 量 的 主 情 報 の 窪 少 性 の み に 由 来 す る の で は なL、。そこでの国難性は,そのように限定されて入手される資料のすべてが. 党 や 国 家 の 好 む 方 向 に コ ン ト ロ ー ル さ れ 着 色 さ れ た も の で あ る とLづ 質 的 な 事 情 に よ っ て,さらに倍加される。つまり,ソ連では,科学を含むーさいの人間活動についての{吉報は, 正確な事実をインフォームすることで・なく,人間を一定の政治吾標に向って「動員する」 (mobilize)2)することを.第ーの狸し、としている叫 し た が っ て , こ の よ う に -}j的でョ歪 ん だ 報 道 を 郎 事 実 な い し 完 実 と 受 け と る こ と は 危 険 き わ ま り な く . 研 究 岳 の 厳 に 戒 め な け ればならないこと改めて説くまでもない。 に も か か わ ら ず , こ れ ら の ソ ピ ェ ト 出 版 ・ 報 道 物 は 重 要 か つ 注 吾 に 悼 す る の で あ るo iな ぜ、か

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その訳は,それ以外に資事初マμ 、ということの抱に,つぎの事

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青にもとづく。た とえソピ‘エトの報道・出版が特定体制に都合のよい教義を人民大衆に伝達・普及すること 勢 み;稿の要約(約三分のー〉として,早川徹訳 Fソヴェト連邦共産党史(追檎第三版)j(東京:読売新 聞社, 1972), I下 巻j所i江 の 拙 解 説 [ 四 つ の 『 党 史 』 を 比 較 し てJpp. 975'"'-'1伐)()も参照。

1)

傍点一一利

;t0 Alexander 1.Solzhenitsyn.T he .Firstじircle(New Y ork: Harper & Row,

Publishers, 1968, p. 230;木村浩/松永緑弥訳 J:煉獄のなかでJl1 (東京;タイム・ライフ・インタ ーナショナノレ, 1969), p.236.

2)ソ ピ エ ト 体 制 を 「 動 員 (mobilization)体 耕j の 典 型 と み る 最 近 の 西 部IJの研究重志向にかんしては,

David E. Apter, ihe Politics of lVlodernization.(Chicago: The University of Chicago Press,

1965) ; Chalmers Johnson. (ed.), Change in Communist Systems.(Stanford. California: Stanford University Press, 1970); Amitai Etzioni, The Active Society : A Theory 01 Societal and Political Processes.(New York: The Free Press, 1968), pp. 388-90参照。

3)辻 村 明 氏 は , 社 会 主 義 社 会 に お け る 情 報 の 特 畿 を , ① 政 治 権 力 の 全 体 的 統 制 , ① ー 孟 的 な 情 報 に よ る 指 導 , ① 大 衆 へ の 不 信 , ① プ リ ミ テ ィ プ な 需 報 手 段 の 発 達 , ① 流 言 の 横 行 , に 求 め て お ら れ る む 辻 村l1)j

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大衆社会と社会主義社会j] (東京:東大出販会. 19(7), p. 77.

(3)

を吾的とする宣伝媒体であるにしても(またそうならば尚さら

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そ れ は 亦 宣 伝 一 般 の 法 則 に 頴 さ ね ば な ら ぬ 。 即 ち , 宣 去 は 送 ち 手 に よ っ て 操 作 さ れ た も の で あ る と は い え , そ の 効 率 は 受 け 手 た る 畏 衆 の 反 応 の 頭 数 に よ っ て 示 さ れ , し か も そ の さ い 「 童 偽 は , 結 局 は 宣 伝 を阻害するJ4)からであるO受 け 手 が 真 面 白 に 受 け と め な い パ ン フ レ ッ ト の 生 差 は た だ 徒 ら に無意味な反古のr!Jの構築にすぎないのである。ここにおいて,ソピ、エト指導者の側は摂 界にぶち当らざるをえなL、。つまり,報道・問販の吉パーセント政治化・官製化は不可能 なのだ。その中になにがしかの本物の清報を挿入しなければ,受け手に見向きもきれなく なるのであるO そして,このように混入されたー握りの真の情報こそ, ソピ、エト社会の研究者がまさに 見逃してはならぬ貴重な資料である。ここに口、かに謹小な断片的証拠で、あれ,それを手 掛りにして,クレムリン城壁内で進行中のことを誰論する神秘科学jりとしてのクレムリノ ロジーが作動を開始せねばならなし、。もちろん膨大な贋物のなかから真理の一片をえり分 汁 キ ャ ッ チ す る こ と は 至 難 の 技 で あ る 。 し か し こ れ 以 外 に 方 法 は な く , 又 て い ど の 差 こ そ あ れ 抱 の い か な る 体 制 に か ん し て も 行 な わ れ て い る 作 業 で あ る 。 そ し て , そ の さ い 要 請 される最も有効なアプローチは, ソピ、エト資料を注意深く謎続的に詑較検討することであ り,かくしてはじめて一枚岩的な報道管制下におかれているソビエト文書にもその記述の アF セ:;1-謹 か ば か り の 強 弱 の 推 移 に 重 大 な 致 策 や 指 導 者 の 変 化 が , 反 映 せ し め ら れ て い る こ と に 気 づ く で あ ろ う 。 亡 命 後 西 側 最 大 の ソ 連 通 と な っ た

w.

レオンハルトもL寸。「ソピ、エト・ シ ス テ ム の も っ と も 明 敏 な 鑑 定 家 で す ら , 唯 一 つ の ソ ビ エ ト 覚 え 書 き ま た は 唯 一 つ の 党 決 議を分析するのでは,ほとんどなんらの発展額向について語りえないだろう。だが, ドイ ツ問題にかんするすべてのソビエト覚え書きまたはスターリン死後の企業経営にかんする す べ て の 党 ド キ ュ メ ン ト や 公 式 論 文 を 比 較 す る な ら ぽ , 興 味 深 く 広 範 な 結 論 が 与 え ら れ る であろう戸(傍点一木村),と。 さ て , 前 置 き が 長 く な っ た が , 以 上 の よ う な 問 題 意 識 に も と づ き , 本 稿 に お い て 筆 者 が 試 み よ う と す る の は , ソ 党 史 の 比 較 研 究 で あ る 。 間 違 い な く 同 一 系 統 と み な し て よ い 一 冊 本 の 「 ソ 連 共 産 党 史 」 が 過 去 四 謹 類7)発行されハンデイであるうえに, そ れ ら は そ れ ぞ れ スターリン,フルシチョフ〈三種),プレジネフ期的にまたがって刊行されたためその間の

4) Jean-Marie Domenach, La.Propa.gtmde Politique. (Paris: Presses Universitaires de France, 1969), p.98.小 出 駿 訳 『 政 治 宣 伝JJ(東京:白本社. 1967), p.102.

5)Robert V. Daniels, ‘ Soviet P' olitics Since Khrushchev,"John W. Strong (ed.), The Svviet Uniυn under Brezhnev a.nd Kosygin. (New York: Van Nostrand Reinhold Company, Ltd., 1971), p.16.

6)Wolfgang Leonhard, Kreml ohne Sta.lin. (Koln: Verlag fur Politik und Wirtschaft, 1959), S.35.

7)第 ー は,Hcmopufl 8cecolO3HoU 1CO.M.MyHucmu'tec1Cou napmuu (60.llbllle8u1Co8): Kpam1Cuu

1Cy pc, 1938.第 二 は.J1cmopufl 1CO.M.MyHucmu'tec1Cou napmuu C08emc1Cozo Co幻3a,1959.

第三は, Hcmopufl 1CO.M.MyHucmu切 C1COUnapmuu C08emc1Cozo Coρ3a (u3iJaHue 8mopoe,

iJonO.llHeHHoe), 1962.第 四 は ,Hcmopufl 1CommyHucmu'tec1Coii napmuu Cooemc1Cozo Coρ3a (u3iJaHue mpembe

δOnO.llHeHHoe). 1969.

8)プレジネブ期の第二のもの,即ち『ソ連共産党史〈追補第四寂)JJHcmopufl 1CO.M.MyHucmu'tec1Cou napmuu C08emc1Cozo COlO3a (U3δaHue 'tem8epmoe

δono.必至eHHoe). (MocKBa: nOJIHTH・

3)laT

1971) の 刊 行 が 1971年 末 に 予 定 さ れ て い る が (H08ble KHUZU CCCP. MocKBa: <<Me.

滋JlyHapo江Ha完 KHHra>>, 地 21,CTp. 50), 筆 者 は 脱 稿 持 の 現 在 ま だ 入 手 し て い な い 。

(4)

差 異 は き わ だ っ て お り , 筆 者 に よ る ま ず 手 は じ め と し て の プ リ ミ テ ィ ブ な コ ン テ ン ト ・ ア ナ ザ シ ス の 操 作 対 象 と し て 恰 好 と 思 わ れ る の 。 大 方 の 忌d障なき批判を乞いたい。 そのさい,四種類の党史の検討は,大芳Jjして二つの作業に分けられよう。ーは,歴史的な 推 移 の な か に 変 化 の 要 因 を 模 宗 す る 試 み で , い わ ば verticalなアプローチといえよう (1)。 二iL 文 字 通 り 四 つ の 党 史 を 同 一 組 上 に 載 せ て の 比 較 , 即 ち horizontal な ア プ ロ ー チ で ある (11)。 だ が , 政 治 学 徒 の 最 終 日 標 は 歴 史 の た め の 歴 史 , 比 較 の た め の 比 較 に は な く , あ く ま で そ れ ら を 踏 ま え て の 現 地 点 の 分 析 ( そ し て 未 来 子 掛 け に あ る

1

そ れ 故 , こ の つ つの作業中におし、ても筆者の最大の関心が最新版たる『ソ党史(第三販)j] (仮に‘ブレジ ネフ'党史〉 に 向 け ら れ る こ と は 三 う ま で も な い が , さ ら に 問 題 を こ の 点 の み に 絞 り 『 党 史(第三板)j]を素材に使い現ブレジネフ政権の基本路線を迫持集I!~ ,z(]に 探 求Lてλる必 要 が あ ろ う ( 111)。

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歴 史 的 概 観 先に科学を含むーさいのソピ、エト社会の情報活動が政治イとするのを祖止する要素と

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て,それら清報の受け手たる民衆の存在を挙げたが, もう一つ忘れてはならない ~ljlJ 約要素 があるn そ れ は , 情 報 の 直 接 の っ く り 手 た る 人 々 . 本 稿 と の 関 連 で い う な ら ば

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史 京 た 九 であるのたしかに, ソビエト埜史学者ーたちは,科学アカデミー歴史部会,マルクス・レー アギト・プ賃プ ニ ン 主 義 研 究 所 等 に 所 思 し 党 中 央 委 場 動 宣 伝 部 の 監 督 ・ 管 較 に 服 し 体 制 イ デ オ ロ ギ ー の鼓吹・宣伝に奉仕する忠実な存在ではあるのだが,その専門家としての知識,経験,プラ イドiドJご、カか、らC'-, 完 全 な 体):

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告制i五司JIのj追道邑巨.具となることを拒み宅たとえ再箆-志か込ではあ

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待告市制Ij点か、らの距離と独立 を確{掠呆せんとする職業業-菜集-団でで、でで、もある11汽〉九の もしソピエト体需制i

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吉汗的〈ヲJ反舎 え:子受乏,動的な」そ;f6 lで、あれ を招き'被らの白発的協力がえらjれ工;なくなれば,体制IL苛{との た め の 神 話 づ く り や 者 蒙 ・ 普 及 活 動 は た ち ま む 絶 大 な る ピ ン チ に 追 い こ ま れ る こ と 必 定 で ある。ここに,歴史家たちと体制とのその時:々の力関係を反映しての徴妙な綱引き競争が 展開する基盤がある。したがって,ソ速における政治と歴史学との関係は,アメリカの専門 家

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ヤコブソンが述べるごとく,

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命 令 的 ア プ ロ ー チ と 自 由 選 択 と の 事 実 そ の も の 戸rse で な く , 体 制 の 政 治 的 基 礎 の 強 化 に 関 心 の あ る 国 家 な ら び 党 当 局 に よ っ て 前 も っ て 規 定 さ 9) こ の ほ か , 除 名 の [ ソ 連 共 産 党 史jと 題 す る も の が 紛 ら わ し い ほ ど 多 稀 多 様 に 存 在 す る が , い ずJlも 本 稿 の 対 象 と す る 一 間 本 の 公 式 党 史 と 同 売 に 比 較 さ れ る べ き 頬 の も の で な い こ と に 注 意 。 た と え ば , 教 科 書 震 に 編 纂 さ れ た I1cmopU5l

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'te6fW-.MemOδU切CKoenoco6ueδ.Ilfl 3aO匂HUK08.

(MOCKBa:民3ぇaTeJlbCTBO<<BbIC包a兄 出KOJl3)>, 1970);写 真 図 解 入 り の114巻 本HcmopUfl

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(MOCKBa: f10Jl羽TH3,lI.aT,1970); さ ら に こ れ ら と 比 較 に な ら ぬ ほ ど 重 要 な も の と し て H下 刊 行 緋 続 中 の 六 巻 本 HcmopUfl

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(8mecmu mO.Max) (MOCKBa:口OJlHTH3,lI.aT,1964~) があ り,これは全巻完了の暁に, ソ 連 邦 に お い て 最 も 大 部 で 権 威 あ る ' 党 史 決 定 版 左 な る こ と が 約 束 さ れ て い る も の で は あ る が , や は り 本 椋 の 対 象 外 で あ るO

10)G.エ ン テ ィ ー ン も 述 べ るo iソピエト生出ーの西鎚観測者は, ソ ピ エ ト 壁 史 学 を 政 治 的 バ ロ メ ー タ ー

と し て 解 読 す る 。 彼 ら に よ っ て 意 識 的iこ拙かれた諸事件よりも声明の'性搭こそが研究のた;象である j と。 GeorgeEnteen, ‘ Two ' Books on Soviet Historiography,"World Pvlitics. (Jan.1968)p.:127.

11) こ の 「 ソ 連 邦 に お け る 歴 史 学 の 政 治 か ら の 相 対 的 独 立 性 」 が , N. Heerl;..:史の卓越したハーパート 大 学 提 出 博 士 論 交 の 結 論 で あ るoNancy Whittier H目 r,Pvlitics and History in the Suviet Univn.

(5)

れ た 発 見 と 事 実 資 料 の 自 岳 な 解 釈 と の 間 の 絶 え ざ る 葛 藤 の ス ト ー リ -J12)とみなされる。 では,体制ー歴史家一民衆の三つ巴の函数としての党史は,具体的にはし、かなる歴史を 辿 っ て い る か ? 党 史 の 歴 史 的 変 遷 の 側 面 を . こ の よ う な 視 点 に , そ の 背 景 や 内 容 上 の 特 徴を織りこんで素描してみよう。

(

1

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!iスターリン小教程j]

-1938

年一 ノートFアR 第 一 番 目 の 党 史 で , 一 般 に 「 ス タ ー リ ン 小 教 程j と 呼 ば れ て 悪 名 高 い 『 全 連 邦 共 産 党 (ポリシェヴィキ)小史jj13)

_ 以 下

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スターリン小教程』ないし単に刊、教程』と略すーーー は,

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月に出版された。

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年 と は , ソ 連 が 社 会 主 義 建 設 の 段 階 を ほ ぼ 完 了 し いよいよ共産主義をめざし漸進的移行を開始したと公式にみなされた転換点で、ある。また, スターリンが, 一 応

20

年 代 の 権 力 関 争 期 に 敗 北 せ し め て い た 政 敵 た ち を さ ら に 物 理 的 に 抹殺しさることにより,自己の権力を挑戦不可能なまでに確立せしめた時期であった。こ のように

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年 の 『 小 教 程

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出版は, ソピエト国家とスターリン個人にとり, まことに タイムザーであるとともに,それ自体が一つの里程表を聾するという象徴的価値をも担っ たのである。 の ち の 党 史 が や や 便 宜 的 に 「 フ ル シ チ ョ フ 党 史 ム 「 ブ レ ジ ネ フ 党 史 」 と 略 称 さ れ る の に たし、し円、教程』のばあいは名実ともに「スターザン党史

J

と呼ばれて然、るべき理由が. 二 つ あ る 。 ー は , そ れ が 「 ス タ ー ワ ン に よ っ て つ く ら れ た 」 か ら で あ る 。 刊 、 教 程 』 の 正 式 の 著 者 は 編 集 委 員 会 な る ( 匿 名 〉 集 団 で あ る が , そ こ で ス タ ー リ ン が 演 じ た 役 割 の 大 き さに異論をさしはさむ余地は全くなし、。彼は,少くともその一節「弁証法的および史的唯 物論についてJ14)を自ら書きおろすほか, 編集委員長として監督校関を陣頭指揮し, 全 編 の 構 成 ・ 叙 述 に つ い て 細 か い 指 示 を 与 え た と い わ れ る 。 し た が っ て , 実 糞 土 問 、 教 程 』 を スターリンがつくった党史とみなして間違いないのである1530 つ い で な が ら , 後 年 フ ル シ チ ョ フ は , ス タ ー リ ン が 刊 、 教 程

2

全 部 を 一 人 で 執 筆 し た か の ご と く 主 張 し た 廉 で 非 難 し たO これは,フルシチョフが,他方において円、教程』の内容 自体を批判している点と矛盾するのであるが,スターリン打倒のみが念頭にあった彼は, そうLづ 矛 盾 に は ー さ い お 構 い な く , ス タ ー リ ン 弾 劾 に 役 立 つ も の は 何 で あ れ 一 切 合 切 援 用したので、ある。つまり,例の秘密演説

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年 の 第

20

回党大会〉中において,フノレシ チ ョ フ は , ス タ ー リ ン の 独 占 的 な 名 誉 欲 を 示 す ー 証 左 と し て 『 ス タ ー リ ン 小 伝

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の 校正脱が最終織にいたる経過中に,

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小 教 程 』 の 著 者 が 集 団 か ら 個 人 ( = ス タ ー リ γ〉 へ

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Sergious Y qkobson,“Postwar Historical Research in the Soviet Union,"A m昭lsof the

Americtln Acmlemy of Political and Social Science.(CCLXIII

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筆 者 の 所 持 し て い る の は,J1cmopuH 8CecOlO3HOfi1CO.M.MyHuCmUtteC1Cofi napmuu (60Jlb凶

e8u-1C08). Kpam1Cufi1CypC.

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一以下 Kpam1Cufi1Cypcと略す 田 開 雷 太 郎 訳 『 全 連 聯 共産党小史Jl (東京:大雅堂,

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な ど のl日訳ほか, 東 方 出 版 部 訳 Fソ連共産党〈ポリシエヴイ キ ) 歴 史 小 教 翠JJ(東京:東方書庖.

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などがある。

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15)吾, if小教程』を, ス タ ー リ ン の [ 主 作 品J(chef d'oeuvre) と呼ぶ者さえいる。 Bertram D. Wolf. i

奴nthe Soviet M羽tfz'rrorぺ.(New York: Frederick A. Praeger九.コ,

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p. 58.

(6)

党 史 と 政 権 と , つ ぎ の よ う に 名 義 変 更 さ れ た 例 を 指 摘 し た

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スターリン小伝』校正融〕

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[fスターリン小{云』最終尉〕 全連邦共産党〈ボ)中央委員会の争委員会 は,罰志スターリンの指導下に,その最も積 極的な個人的参加を得て,

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全 連 邦 共 産 党 〈ポ〉小教程Jを準備した17)0 一九三八年同志スターリンによって執筆さ れ,全連邦共産党中央委員会(ボ)の小委員 会で、承認された f全連邦共車党(ボ)小教 程Jが現われた均。 二は,円、教程』が, レ ー ニ ン を 除 け ば , 「 ス タ ー ワ ン を も 主 人 公 、 と し て 中 心 に 据 え た 」 党 史 だ か ら で あ るO それは,まず, 1)党史がスターリン{白人の発三やビ‘へイヴfヤー 中 心 に 展 開 し て ゆ く 内 容 構 成 に な っ て い る 事 実 を さ すO こ の 西 側 専 門 家 に よ っ て 「 党 史 の バ ー ソ ナFゼ ー シ ョy {詩 人 化

J

(B.ウノレフ)19)と名づけられる現象は. 1:去にソ連内部でも指弾の的となった。 た と え ば , フ ル シ チ ョ フ は , 例 の 秘 密 演 説 のr},で, 円、教程J が ~J: と L て「スターリン, ス タ ー リ ン の 演 説 , ス タ ー リ ン の 報 告jに つ い て 語 り , す べ て の こ と を い さ さ か の 例 外 も な く 「 ス タ ー リ ン の 名 称 と 結 び つ け て い る

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20)と非難した。つぎに, 2)

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IJ、教程

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に お け るスターザンは栄光に包まれた勝手JIのも英雄事として現わ,

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て い る 事 実 を さ す 。 同 書 中 に は,

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レーニンとスターリンム 「レーニンースターりン

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と い っ た 試 に ス タ ー リ ン を レ ー ニ ン と 等 詰 同 列 に 高 め た 記 述 が 見 ら れ る21)ほ か , ス タ ー リ ン 個 人 の 言 動 を つ ぎ の よ う に 極 度 に 美 化 し た 移 飾 匂 や 讃 辞 は 枚 挙 に 患 が なL、。日く,スターワンは.

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レーニンの戦友であ り,生徒であり

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レーニンの立場を全面的に支持し

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党 の 名 に お い て 露 大 な る 誓 い を たて

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党 を 中 央 委 員 会 の ま わ り に 毘 結 さ せ

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(ただし,別の箇所では.

-

1

党 は ス タ ー リ ン のまわりに団結」とある),

r

最 も 露 大 な 政 治 的 意 義 を 有 す る 論 文

J

を書き,

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歴 史 的 意 義 を右ーする発言

J

や 「 大 き な 意 義 を も っ 報 告j をおこない, 日、ロツキズムとの関争iこ総決 算 を つ け

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.

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重 大 な 革 命 活 動 を 遂 行 し た

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22 ),等々つ この丙側専門家によって

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スターワ グローリ 7イケ--;;ョ y ン の 栄 光 化

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(しシ?ピーロ)23)と 名 づ け ら れ る 現 象

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後 に ソ 連 内 部 で 非 撃 さ れ る ことになったσ たとえば,フルシチョフは, 同じく秘密演説の中で.

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ス タ ー リ ン は 自 己 の 人 格 を 賞 め 讃 え , 光 栄 あ る 共 産 党 の 10月 革 命 以 後 の す べ て の 歴 史 的 全 時 期 を ひ と え に もスターリンの天才、の行動に変形せしめているJ243と攻撃したゥ さらに, 自らが著者で あると主張する書物の中でのスターリン岳身による自己讃美の厚顔無恥ぶりを批判して, 「マルクス・レーニン主義者がこのように自分自身のことを書き,自己の人格を天に J~ì く 16)“Secret Speech of Khrushchev concerning the‘Cult of the lndividual,' Delivered at the

Twentieth Congrεss of the Communist Party of the Soviet Union, February 25, 1956,"The Russian Institute, Columbia University, (ed), The Anti-Stalin Campaign and International Communism (New Y ork: Columbia University Press, 1966) p. 72.

17) Ibid. 18)マルクス=エンゲノレス=レーニン箭究所編,宮本良夫訳, r スターリン小伝~ (東京:大月書!吉田氏 文庫, 1953), p. 122. 19)Wolf,。ρ.cit., p.67. 20)“Secret Speech of Khrushchev

p. 73. 21) KpamKuii KypC, CTp. 224, 249, 336. 22) Ta.M :JICe, crp. 187, 132, 256, 255, 266, 295, 300, 182, 255, 77.

23) Leonard Schapiro,“Continuity and Change in the New History of the CPSU,"Contemρorary History …, p, 76.

(7)

ま で 賞 讃 す る こ と が で き る も の かJ25)と弾劾したc また,問、教程』は,も善玉、同様,も悪玉、も至極明解な形でうち出しているのが特色 を な すc エネミー・ナンバー・ワンとされたのは, トロッキーである2的。トロッキーは, 『小教程』刊行当時すでにメキシコに亡命中で,スターリンにとりなんら現実的な脅威と ならなかったはずで‘怠るが,スターヲンは,国の内外におけるその侮るべからざる影響力 の ゆ え に ト ロ ッ キ ー が あ ら ゆ る 反 ス タ ー ワ ン 派 を 糾 合 す る 精 神 的 結 節 点 と な る こ と を 倶 れ た の で あ る 。 そ し て こ の 最 大 の も 悪 玉 、 ト ロ ッ キ ー に 唆 か さ れ そ の ま わ り に 屈 集 し て 陰 謀 を企んでいるとされたのは, ピャタコフ, ラデック, ラ コ フ ス キ ー ら の ト ロ ツ キ ス ト た ち , そ し て ジ ノ ー ヴ ィ エ フ , カ ー メ ネ フ , ブ ハ ー リ ン ら で あ っ た 。 ト ロ ッ キ ー お よ び 彼 と ジ ノ ー ヴ ィ エ フ 連 合 に 向 け ら れ た 目 、 教 程 』 の レ ッ テ ル は た だ 凄 絶 の 一 語 に 尽 き る 。 た と えば, 1"人民の敵j. 1"労働者階級の歎蟻者j,1"外昌信報機関によって編成されたスパイム 「節操のない立身出世主義者ム {度し難い二股膏薬j. 1"政治的ペテン師

J

, 等々。 さらに 『小教程』最終章最終節のタイトノレも, 1"プハーリン=トロッキー的スパイ,害毒者,裏切者 の 残 党 の 精 算J2めと題されている。最後に, Ir小教程

I

J

vヱ,これら国内の裏切者たちの背後で 彼 ら を 操 り 使 験 し て い る の が 帝 国 主 義 者 こ と に 呂 独 フ ァ シ ス ト に 他 な ら ぬ と 断 定 す る

2

9

L

も ち ろ ん , か よ う な 「 善 玉 - 悪 玉

J

な い し 「 友 一 敵 」 の 図 式 を 単 純 明 解 に う ち だ し た 完 全 な 勧 善 懲 悪 型 の 刊 、 教 程

J

がふつうの意味で、の歴史書たるはずはなL、。良くも悪くも一 定 の 立 場 を と る こ と を 正 直 す ぎ る ほ ど 卒 直 に う ち 出 し た 政 治 的 パ ン フ レ ヅ ト と み な し た ほ うがよし、。いな,逆に,特定致権を宣伝・擁護するための資料たることこそ, 円、教程』 が当初からめざした目標なのであり,この意留は,円、教程』出版に付随した党中央委の特 別手匡告中に公表されていた。すなわち,布告 i{全 連 邦 共 産 党 史 小 教 程 》 出 版 に か ん す る 党 宣 伝 の 実 施 に つ い て

J

(1938. 11.14)は,町、教程』の課題が「マルクス・レーニン主義 に か ん す る 脊 害 な 俗 流 化 を 排 す る

J

こ と に よ っ て 「 党 史 に か ん す る 統 一 的 指 導 を 可 能 に カ - ..N しj1"理論・宣伝活動に従事している幹部要員に資するjた め に あ る 旨 , 明 確 に 宣 言 し て いたきの。つまり,この刊、教程

J

出 版 は , 対 イ ン テ リ 宣 伝 を 従 来 の 口 頭 に よ る 方 法 か ら 印 刷 物 へ 転 換Sり す る に さ い し て の 最 適 の 宣 伝 媒 体 を 提 供 す る も の と 目 さ れ た の で あ る 。 か く し て,刊、教程』は, 1"ソ連邦におけるすべての政治教育の基本テキストj. 1"党の基本的イデ 25) lbid. 26) トロッキーは,その後のすべての版で非難され,

r

党史の数少ない園定された点の一つ (oneof the few fi.xed points)J になっている。 た立し, かつての「裏切りの陰謀家というイメージから政治 上の敵

J

とLづ風にやや非難のニュアンスが変ってきていることに注意。 Nancy Whittier Heer.

Politics and History in the Soviet Union.(Cambridge, Massachusetts: M. 1.T. Press, 1971)) pp. 215-217. 少くとも 1917年におけるトロッキーの功績に触れようとする最近のソピエト歴史家

の動きについて,“Discussionof the draft third volume of the註istoryof the CPSU," Survey.

(No. 63. Apri11967), p.161.

27)KpamlCuu lCypC

CTp. 226-227. 28) Ta.M :JIC

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.

CTp. 331.

29) Ta.M :JIC

e

.

CTp. 312.

30)

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no白 aHOBKenapT凶 日0員 nponaraH)l.bIB CBs3H C BblnycKoM総予aTKoro Kypca H位。pHH

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K万CC8 pe30.ll1O勾UHX U pelUeH.UHX Cちe3δ08lCOH.rte peH.勾UU U n.lleH.

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.M08 llK. qaCTb II.(MOCKBa: rOCnOJIHTH3瓦aT

1953)

CTp. 859-860.

31)Ta.M :JICe

CTp.86丘

(8)

カ テ キ ズ ム オ ロ ギ 一 文 献

J

I

党 の 教 義 問 答 書

J

I

諸 科 学 の 百 科 辞 典

J

と し て , ス タ ー リ ン の 死 (1953) バイプル までの 15年 間 に わ た り , ソ 連 , 諸 外 国 の 共 産 党 , そ し て 国 際 共 産 主 義 運 動 の 聖 典 と し て 打

1

取 し つ づ け た 。 総 発 行 部 数 5,000万 部 と い わ れ るO (2) 党史不在嘉一語和と引締め-- --1953~1959 年一 1953年 3月 5 日のスターリン死去とともに,

u

ス タ ー リ ン 小 教 程

J

も ま た 印 刷 を 止 めSD, 三及されることも次第になくなった。 こ の 時 点 か ら 1959年 6月フノレシチョフの手によっ て 『 ソ 連 共 産 党 史 』 が 刊 行 さ れ る ま で の 6午関. ソ ビ エ ト 社 会 に は 党 史 不 在 の 時 期 が 続 く つ だ が , そ れ は , 党 史 の 完 全 な 空 白 期 . す な わ ち 党 史 を め ぐ る 一 切 の 動 き の 存 在 し な か っ た 時 期 だ っ た の で は な し 、 否 , む し ろ , そ れ は . 円、教程

J

の 権 威 を 否 定 し そ れ に 代 る新党史の作成を正当イとするとL、う大作業がなされた時期なのである。 改めて言うまでもなく.この価値転換;土, 1956年 の 第 20回 党 大 会 で 幕 を 切 っ て 落 さ れ た ス タ ー リ ン 批 判 の 歴 史 学 に お け る 必 然 的 な 帰 結 と し て 生 じ た の で あ る 。 で は , ス タ ー リ ン 死 後 か ら そ の 批 判 ま で の 時 期 (1953一日年) に 党 史 批 判 め い た こ と が 全 く 起 ち な か っ た かというと,容は否である。すなわち,

-

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とっちつかずの

J

(A.ワース戸へ「移行の

J

(1¥. マズーア)め,

I

混 乱 し た 中 間 期

J

(

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へアー)33)と規定されるこの

3

年 間 に , 以 下 の よ う な . と り 様 い か ん で は 歴 史 学 の 分 野 に か ん す る か ぎ り , ス タ ー リ ン 批 判 が . 第 20

1

可党大 会 を 侯 た ず し て 既 に 火 ぶ た を 切 っ て い た と 解 釈 さ れ る 諸 事 実 が 発 生 し て い た の で 忘 るC アギト・プロプ まず注目すべきは, 1953 年 8 月 ~6 B発 表 さ れ た 党 中 央 委 討 属 宣 伝 潟 動 部 の 「 ソ 連 共 産 党 50周 年 (1903-53) 記 念 テ ー ゼ

J

(7,500字 ) 中 で . ス タ ー リ ン の 名 前 が ほ と ん ど 言 及 さ れ な か っ た ( レ ー ニ ン

-83

同 , ス タ ー リ ン-4同 ) 事 実34)で二ちるのもっとも,スターリン の代りに他の党幹部の名前があげら,れたわけでもなLいけだし宅、当時主だ明確なスターリ ンの後継者iJ~

l

i

i

現 Lて い な か っ た か ら で あ る っ そ こ で 、 こ の 事 件 は , 両 側 の 明 敏 な ク レ ム リ ノ ロ ジ ス ト の 自 に と 主 り , 混 沌 と し た 「 不 確 定 な 新 時 代 の 開 始 を 告 げ る 兆rf芙

J

(B.ウノレ フドa)と受けとめられ, さ ら に は 「 公 式 党 史 修 正 の 第 一 歩J (¥^1.レオンバルト)30)と解釈 された。つぎに, 1954年 1月 刊 行 の 『 党 決 議 ・ 決 定 集 』 新 版 に ス タ ー リ ン 持 代 に 含 ま れ ていなカミった多くの文書が公表さ

J

l

, そ れ ら が 円 、 教 程 」 に か わ る 新Lい 党 史 教 育 の 基 礎 と さ れ る こ と に な っ た8730 また, 19S4-56年 に か け 『 毘 史 の 諸 問 題 』 や

T

コムニスト

J

誌 上で展開された. ソピ、エト社会史の時代

i

三分論争38)に よ っ て , そ れ ま で 結 対 視 さ れ て き た 32) M.ラ ッ シ ュ に よ れ ば , ス タ ー リ ン 死 徒 も j小手~;jj)J]は依黙出寂されていた(たとえば 1955 年 9JJ

29日に20万 部)0 Myron Rush, The Rise of Khrushchev.(Washington, D. C.: Public A百airs Press, 1958), p.106.安田志郎訳 Eニキタ・フルシチョフJl (東京:時事通信社, 1959), p.112. 33)Alexander Werth, Russia : Hopes and .Fears.(England: Penguin Books, 1969), p.152.内I-IJ

敏 訳 Fロシアー希望と懸J念一Jl (東京:紀伊唇l軍 書!lf, 1970), p.124 Anatole G. Mazour

lV/odern Russian Historiograiうhy.CPrinceton, New Jersey:D.Van Nostrand Company, Ltd.,

1958), p.242;Heer,。ρ.cit., p.61. 34) [J

pa8

ぬ.(26HO匁6p, 1冗 9,お), CTp. 3-4. 35)Wolf, 0ρ. cit., p.51. ~~6) Leonhard,ψ. cit., S. 192.加藤雅章訳 iソ連の指導者と政策.Jl(東京:サイマル出販会, 1969), p. 99. 37) Ibid.向上。 :)8)詳しくは,国中跨児/米 JII哲夫訳編『ロシア史の時代区分Jl (上・下) (東京:有斐霞, 1959), とく に程田章夫「ソビエト社会史の時代灰分論争J,pp.429-452考照。

(9)

f

小教程』の時代区分の権威が揺り動かされることになった。 これらの事実は,たとえ先駆的意義をもっとはいえ,まだ断片的,萌芽的な胎動にしか すぎず, ['スターリン小教程』にた¥..、する正面切っての挑戦とみなしえないかもしれないc だが,第20回党大会の直前,今度はとうてい無視しえない事件が起った。服部年1

25-28

B

,モスクワで600名以上の『歴史の諸問題』購読者の参加をえた歴史家協議会が開か れ,司会議の席上, ['歴史の諮問題

J

編 集 次 長

3

.H.

プノレジャーロフを先頭とするリベラル な歴史学者が,旧来のスターワニスト党史研究に重大な疑いをさしはさむ発言をおこなっ たのであるS的。とくに,ブ、ノレジャーロフは,

I

一部の党史研究者がドグマに虜われて多くの重 要 問 題 を 解 釈 し 刊 、 教 程

J

の祖述に自らを閉じこめている

J

40)事 実 を 大 胆 に 揖 発 し ス タ ー リンによって抑圧された壁史家

M.H.

ポクロフスキーの再評価を示唆した4130主として党 人歴史家の強い反援に出遭って会議全体の主流とはなりえなかったとはいえ,このブ、ノレジ ャーロフ発言はスターリン史学批判への注目すべき重大な一矢と解釈されねばならなし、 このように次第に勢いを募りつつあったスターリン史学および刊、教程』の批判は,つ いに第20回党大会 (1956年 2月14-25日〉で爆発点に達した。多くのスピーカーが党史 の弊害を個人崇拝に結びつけて批判したが,そのうち主なものは,フルシチョフ, ミコヤ γ,

A.M.

パンクラートヴア(['歴史の諸問題

J

編集長,党中央委員)の

3

人だった。 まず大会初日 (2/14) の党中央委員会報告のなかで, フルシチョフ 〈党第一書記, 首 相)は, 1938年成立の刊、教程』がその後の党の歴史的発展をカバーしていないうえに, 党幹部の宣伝・教育資料としても失格であるため,新党史の作製が必要となったことを, つぎのように指橋した。 「過去

17

年間, われわれの宣伝の基礎にすえられていたの法, 主として町、教程』党 カ - 1" A-史だった。わが党の名誉ある党史は今後も幹部要員教育のもっとも重要な典拠のひとっ たらねばならぬ。それ故に,党の世界史的意義を有する,共産主義をめざす試みが科学 的に総合され,今日までの叙述をカバーする,歴史的事実にもとづいた,一般向き党史 教 科 書 を 創 る 必 要 が あ る 心 的 大 会3日目 (2/16), ミコヤン (第一副首相,当時フルシチョフに次ぐ No.2の実力者) も,同様の主旨をさらに敷約した

4

3

h

すなわち,

I

わが党とソピエト社会の歴史の分野に おける学問的アルバイトが,恐らく,わがイデオロギー活動のなかでもっとも遅れた部分 であるj と診断したのち, ミコヤンは,

I

われわれの宣伝活動〈傍点一原文〉が思わしく ない状態にあるj主な理由を「マルクス・レーニン主義をひとえに刊、教程

J

党史にのみ 準拠して勉強している

J

ことに求め,

I

これは,もちろん,誤っている」と断言した。

39) 会議の様子は, Ii歴史の諸問題3誌二月号に搭載された。

Ko日中epeHUH兄 可HTaTeJIe詰>KypHaJIa

<<BonpOCbII1CTOPHH>)", Bonpocbl Hcmopuu. (地2,1956), CTp. 199-213.

40)TaM :JICe

CTp. 202.

41) TaM :JICe

CTp. 212.

42) X X Cbe3δKOMMyHuCmU'ieC1CoiJnapmuu C08emc1Cozo Coρ3a (14-25 cte8pa.llH 1956

zoδa) : CmeHOzpactUtteC1CuiJomttem. TOM 1. (MocKBa: rOCnOJIHTH3,llaT

1956)

C'I手 114. 43) TaM :JICe. crp. 325.

(10)

そして,

i

現 存 の 刊 、 教 程 』 党 史 が わ れ わ れ を 満 足 さ せ え なLゴならば, わ が 属 の 壁 史 家 たちの任務は「円、教程

3

に記述された多くの事実や事件に, レーユン主義の見地から, よりよい照明を与える

J

ょ う 努 力 す る こ と で あ る と 結 論 し た 。 こ の よ う に 最 高 政 策 決 定 者 の爆弾的発言に東日戟され. 1月 の 歴 史 家 協 議 会 で は 二 股 膏 薬 的 な 立 場 を と っ て い た パ ン ク ラートヴァも44,〉 つ い に 大 会

7B

目 立

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2

0

)

, 明 擦 な る 『 小 教 程

i

批 判 派 に 態 度 を 踏 み き ったo !;(史は, i現在, 党史にかんする真言語目な学問的労作を誌とんど発見できず

J

r

わ が 偉 大 な 共 産 党 の 歴 史 研 究 を 真 に 学 問 的 な 高 み に ひ き 揚 げ る と い う 任 務 が , ま っ た く 焦 居 の急に追っているjが , そ の 主 た る 理 由 は 「 進 歩 的 学 問 に と っ て 障 害 物 と な る 摺 入 崇 拝 の 影 響 が こ の 分 野 に と く に 強 く 現 れ て い る

J

か ら だ と 説 明 し た45L さらに,彼女は,この個 人 崇 拝 が ー 謹 の 明 ら か な 英 雄 史 観 と な っ て 円 、 教 程 』 を 貫 流 し て い る が , そ れ は 唯 物 史 観 ならびに人員大衆の役割を重視するマルクス・レーニン主義と相容れないと非難した。 「周知のごとく,マルクス・レーニン主義は個人崇拝を,唯物史観からの重大かつ有害 グロイ な逸脱のひとつ,観念論の広汎にゆきわたった形態のひとつ, とみなしてきた。〈英雄 と民衆》の理論は,大衆の創造的役割の過小評簡と結びついているの 歴 史 の 真 の 創 造 者 お よ び 原 動 力 と し て の 人 民 大 衆 の 決 定 的 役 割 に か ん す る レ ー ニ ン の 教えを実現しつつある中央委員会誌,とうぜん個人崇拝にたいする競争を要求した。J46) ミ コ ヤ ン と パ ン ク ラ ー ト ヴ ァ と の 間 に は 一 種 の 連 繋 が あ っ た 模 様 で , 両 者 の 発 言 の 文 言 に も い ち ぢ る し い 類 似 性 が み ら れ る 。 ま た , 両 者 は と も に は げ し い 刊 、 教 程 』 の 批 判 を お こ な っ た に も か か わ ら ず , そ の 実 質 的 製 作 者 た る ス タ ー リ ン の 名 前 に 京 接 言 及 し て い な い 点も符合をーにしている円正面切ってスターリンを名指しで非難し『スターリン小教程』 批 判 を お こ な っ た の は , や 辻 り 大 会 最 終 日 (2/24-25) のフルシチョフ秘密演説であったの 既出と一部重複するが,関集部分をあえて引用する内

i

[J全連邦共産党(ポ)小教程』は, {国人崇拝に満ちている…。スターリンがこの書物の 著 者 で あ る と す る な ら ば , な ぜ 伎 は 昌 己 の 人 格 を そ れ 誌 ど 賞 め 讃 え , わ が 光 栄 あ る 共 産 党 の 10月革命以後の歴史的全時期をひとえにもスターリンの天才もの行動に変形せしめ る 必 要 が あ っ た の か ? … … こ の 本 は ソ 連 の 社 会 主 義 的 変 移 , 社 会 主 義 社 会 の 建 設 , 工 業 化 と 集 団 化 に お け る 党 の 努 力 , な ら び に そ の 能 レ ー ニ ン に よ っ て 示 さ れ た 途 を 逸 脱 す る こ と な く 歩 ん で き た 党 の と っ た 処 置 に み ら れ る 党 の 努 力 を 正 し く 反 映 し て い る だ ろ う か

?

こ の 書 物 は 主 と し て ス タ ー リ ン , 彼 の 演 説 , 彼 の 報 告 に つ い て 語 っ て い るO すべて の こ と を い さ さ か の 例 外 も な く , 披 の 名 前 と 結 び つ け て い る 。 そ し て , ス タ ー リ ン 自 身 が

f

全 連 邦 共 産 党 ( ボ ) 小 教 程

3

を 自 ら 書 い た と 主 張 す る の は , 少 く と も 驚 く べ き こ と 44)ソ ビ エ ト 歴 史 学 の 指 導 的 地 位 に あ る 絞 女 が , 党 路 線 の 変 更 に 退 合 し て 能 え ず 昌 己 の 見 解 を 変 え た こ

とにかんし, Alexander Dallin,“Recent Soviet Historiography,"Abraham Brumberg (ed.),

Russia under Khrushchev.(New York: Frederick A. Praeger,1962), p.481;Yakobson, op. cit., p.127参照。

45) X X C'oe3d K O M.M

y

H.UCmu'teC1COa napmuu C08emcKozo Co幻3a.TOM 1

CTp. 619.

46) T a.M:JICe

CTp. 621.

(11)

である。マルクス・レーニン主義者がこのように自分自身のことを書き,自己の人揺を 天に届くまで賞め讃えることができるものかり47) そして結論として, フルシチョプは.

r

非常に近い将来, 科学的・マルクス主義的客観性 にしたがって編集された真語目な党史教科書を編集することが特に必要であるJ48)と言明 した。 第 20回党大会後, ソビエト歴史家たちにとってさらに不確定な混乱期が訪れた4930 な ぜなら,大会によって遂にスターリン批判の「パンドラの籍」が関かれたものの,それを どのていど真剣に受けとって歴史学に反映してよいものやら大いに途惑わねばならなかっ たからだ。 M.フェインソド、の比轍を借りるならば,第20回党大会は,歴史家たちを,安 全な浅瀬も危険な培礁も未発見の「海図のない海J';O)へ 押 し ゃ っ た 。 あ る 涯 史 家 は 用 心 深 く大事をとり与えられた自由の援界を教える事件をまとうとしたが,なかには新政策を額 面どおり(ないし過大に)解釈して直ちに行動開始した者たちがし、た。

F

歴 史 の 諸 問 題

i

(科学アカデミー歴史研究所刊)に論揮をはる歴史家,なかんずく 1953年半ば以来同誌の 事実上の指導者となった

3

.

ブ、ノレジャーロフが後者の代表である。大会

1

カ月後刊行の 『歴史の諸問題j]3月号は, (恐らくブ/レジャーロフ執筆の51))論説において,スターリン を名ざしで非難しつつ「スターリン個人崇拝が主要史的真実の直接の歪曲を導いたJ53)とし て. [J小教程』の詳結

i

な批判を展開した。さらに,同論説は, 1905年のメンシェヴィキの 役割の藍史的再評舗を促がしたo

r

怠る歴史家は, メンシェヴィキをツ 7ーザズム専髄の 共犯者と描き,メンシェヴィキとポリシェヴィキとの……合同委員会の歴史を拒否してい る。だが, 果 し て そ の よ う な … 事 実 を 抹 殺 し う る も の か ?J53)同誌翌月号のブノレジャーロ フの詩文 D917年3-4月におけるボザシェヴィキの戦術について」は, さらに, 趣 旨 を 敷おしてつぎのように述べた。

f

多くの地方で,メンシェヴィキと合同した組織がつくられた。合同の趨勢の展開は,

f

再然ではなかった。この事実をたんにポリシェヴィキの組織的弱さのみでは説明しえな い。合同組織の結成は,多くの指導的ポリシェヴィキが,当時ロシア革命の発展の基本 的問題にかんする十分正確な路線をもっていなかったことを証明していた。J54) 47)“Secret Speech of Khrushchev

p.73. 48)Ibid.p.88. 49)その後ずっとこの「不確定な過渡期J (a transitional and uncertain stage) が続行しているとL、

う解釈もなりたつだろう。HansRogger,“Politics, ldeology and History in the USSR: The Search for Coexistence,"Soviet Studies.(vol. XVI, No. 3, Jan. 1965), p. 254.

50) Merle Fainsod, ‘'Soviet Russian Historians, or the Lessons of Burdzhalov,"Encounter.(No. 18, Mar. 1962), p. 83;“Historiography and Change,"Keep (ed.), op. cit., p 21.この両議文 は,ほY完全に重複しているので,以後,前者のみ引用することにする。

51)多くのアイデアならびに文言が, 歴史家協議会 (1

f

.

I

)におけるプルジャーロプの発言内容と酷似 しているからでおる。 Heer,op. cit., p. 80.

52)

XX Cbe3瓦KnccH 3a)la鴨 HCCJIeぇOBaH l 現 政CTOpHHnapTHH

"

BonpocblI1cmopω. (ぬ 3

MapT 1956)

CTp. 4. 53) Ta.M :JICe.CTp. 7.

54)3.H. Eypz.UKaJIOB,“

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TaKTHKe 60JIbIIleBHKoB B MapTe・anpeJIe 1917 rO.1la,"Bonpocbl I1cmopuu. (地 4

anpe品 1956)

crp. 39.

(12)

Lか L,これは超えてはならぬ--線の侵犯を意味した。なぜなら,たとえ部分的にであれ メ ン シ ェ グ ィ キ を 復 権 ・ 擁 護 す る こ と は . ポ リ シ ェ ヴ ィ キ 的 方 法 が 唾 ー の 正 し い 途 だ っ た と説くよ申話を稀薄イとすることに連らなり,

r

党の不可謬性」にたし、する最大の冒漬行為;'5) どからである。 がんらい, 第 20回 大 会 に お け る フ ル シ チ ョ フ や ミ コ ヤ ン に よ る ス タ ー リ ン 批 判 の 一 環 と し て の 歴 史 の 書 換 え 要 求 は , 歴 史 的 正 確 性 を 追 い 求 め て の 高 逼 な 学 問 的 関 心 か ら 発 し た 紛 の で は な く , き わ め て 実 務 的 か っ 政 治 的 な 動 機 に も と づ く も の だ っ た の ス タ ー リ ン 批 判は,スターリン時代に形成された生活の全面におよぶ凍結一一沈滞,無気力,非能率一一一 状 態 か ら

E

えするためには, ドラスチックな縞笹転換によるショック療法より他はないと直 観的に悟ったフノレシチョフの危険な〔ーだが,そうしないことは一層危険だった/~)賭け であった。党史もまた従来の独占に由来する弊害一一現実遊離,ステレオタイプ,退屈なお 題 自 の 反 覆 の た め , 革 命 の 封 印 を か き た て る よ り 冷 却 す る 方 に 役 立 っ て い た め ー をふり 捨 て 懐 疑 的 で ソ フ ィ ス テ fケートされた若L、世代に訴えるよう工夫をこらす必要があっ た 。 党 史 改 変 の 意 図 は , こ れ 以 上 で も 以 下 で も な か っ た 。 換 言 す れ ば 20回 党 大 会 が 変 更Lたのは.

r

統制の緩和ではなく,むしろ党路線の変イヒ

J

5

りだった。その意味で,

r

党 の 不 可 謬 性

J

t心、ぜんとして大前提であるのみならず,

r

J

こそが. スターリンという古い 偶 段 の 破 壊 の あ と そ の 身 代 り と な り う る 唯 一 の も の と し て , 以 前 に も ま し て 強 化 さ れ ね ば ならな治追ったのであるのしたがって,遅かれ早かれ非スターリン

1

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りに岳ら制約のあるこ 事 パ ー カ ヅ ず ヨ y と が 知 ら し め な け れ ば な ら な か っ た の で 、 あ る が , 国 の 内 外 に お け る そ の 忠 わ ぬ は ね 返 り (とくに東欧動乱)に遭遇したフルシチョフ指車部は,託、密演説以来わずか西カ月経ぬうち に子縞の引締めに転じ,それは当然歴史学の分野にも及んだのである。 1956年 6月;末と推定される詰めこの政策転換は, 産 史 学 者 た ち に 「 段 階 的 に (step by step)

J

切 に 知 ら さ れ た の つ ま り , は じ め 口 頭 に よ る 警 告 , そ れ が 効 を 奏 せ ず 内 外 状 勢 が さ 55) Keep. (ed), 0

ρ.

cit., p. 35, 36; Heer, 0)う.cit., p. 93. 56) ミコヤンは, 第20回 大 会 に お け る 演 説 中 で , つ ぎ の よ う な 学 問 の 本 質 論 を 展 開 し て 拍 手 を 搭 ひ て いた。

r

わ が 国 の 理 論 家 の 大 多 数 は , 慎 い 主 さ れ た ヲIJ詩 句 , 公 式 , 命 題 を 色 々 な い ま ぜ て 反 覆 , パ ラ プ レ イ ズ す る こ と に 専 念 し て い る 。 ( だ が 〉 創 造 な し に , な ん の 学 問 か ? そ れ は ス コ ラ 主 義 , 学 校 の 練 習 で あ っ て , 学 問 で は なL、 。 な ぜ な ら , 学 問 と は , な に よ り も ま ず 部 造 で あ り , 新Lい も の の 造 出 で あ り , わ か り 切 っ た こ と の 反 覆 で は なL、からであるJ(拍手)0X X Cbe3δ

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.

.

・.TOM 1, CTp.327.

57) Adam B.Ulam.“Socialism in Current Soviet Historiography,"Ula訟 . The New Face of

Soviet Totalitarianism.(Camhridge, Massachusetts: Harvard University Press, 1963), p. 155. 58) Schapiro, Ojう.cit., p. 52.

59)

r

非 ス タ ー リ ン 化J,主,もちろん西側の毘語で, ソピエトの文献中で用いられている黒語で;まない。 ソピエト長IJの 「 ス タ ー リ ン 個 人 崇 拝 の 批 判Jに ほ ど 近L。、 こ こ で は , 両 方 を 用 い る 。 ThomasB.

Larson,“明ThatHappened to Stalin? P," roblems ofCommunism. (vol.XVI, March-Apri11967) p.82.

(0)党 機 関 誌 『 コ ム ニ ス トj6丹号上に例!の「スタ-1 } ン は あ ま り に も 粗 暴 す ぎ る … … 」 と 述 べ た 有 名 な fレ ー ニ ン の 遺 言j の 未 公 開 の 補 遺 が 発 表 さ れ , い ぜ ん と し て20回 大 会 以 来 の 非 ス タ ー リ ン 化 政 策 が 継 続 さ れ て い る こ と を 示 し た に も か か わ ら ず ( “Heony6号HKO号aH.HbIe.llOKyMeHTbI B. 11.

瓦eHHHa,"KO.M.MyHucm. XXII, M 9,賢治Hb1956, CTp. 18入 6月30日 に は , 一 転 し て 本 文 中 の 中 央 委 決 議 が 出 さ れ た こ と か ら , 政 葉 転 換 の 決 定 は こ の こ つ の 事 件 の 短L、 期 間 に 下 さ れ た と 推 定 さ れ るc

(13)

らに緊迫したとき行政的実力手段に訴えられたのであるO 第一の信号は,ポズナニ暴動開 始 (6/28)の3日後の党中央委決議「個人崇拝の克服とその結果について」だった。非ス ターリン化にかんする唯一の公式見解発表であるこの 1956年6月30日付決議は,スター リンによる「許しがたい誤り

J

を彼の個人的資質と当時の具体的歴史状況の結合によって もたらされたものと説明し,それが現在では清算され,将来二度と繰り返されない類のも のとしづ立場をとった62)07月には,党中央委の機関誌『党生活』に『歴史の諸問題』誌 の最近の論調を批判する論文も登場した。即ち,

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.

プガーエフ(同誌編集長,党煽動宣 伝部長)は,

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W

小教程

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が,たとえ事実上多くの誤りや不正確な点を含んでいるにせよ, その有用性において初期の教科書とは比較にならなしづと名誉回復を図る一方,ブ、ルジャ ーロフ論文がレーニンの教えた「客観性を忘れj,

I

厳しい科学的アプローチを採ってい ない」と攻撃した6830 ところが,この段階においてまだこれら党とその代弁者による警告 の意味に気つeかなかった(または気づかないふりをした)

W

歴史の諸問題』編集部は, 逆 にブルジャーロフ弁護に精力を集中した。たとえば,同誌 7月号は,

I

ブガーエフ論文は, その本質において,すべてを旧態依然、に止めおくことを狙っている」が,

I

第20回党大会 は,マルクス・レーニン主義歴史学のみのりある展開のための明確なプログラムを与えた」 のであり,

I

ソピ、エト歴史学者は,首尾一貫, 毅然として,このプログラムを遂行してゆ く」との決意を述べた6430 プルジャーロフも負けずに,同誌8月号に「再び 1917年3-4月 のポリシェヴィキの戦術について」を書き65入自己の見解をさらに敷約した。しかし 10-11 月ポーランドおよびハンガリー動乱が激化したとき,党はさらに一層の引締めの警告をお こなう必要を感じたο すなわち,党の日刊機関紙『プラウダj] (11/20)は B . ス ミ ル ノ ーフ (モスクワ大学ソ連共産党史講座助教授) の同編集部宛の手紙を掲載したが, その 主旨は, w歴史の諸問題』の或る論文が「個人崇拝の結果を批判するふりをしてj,その実 「党によって決定済みの問題を再検討し議論の余地ない真理に疑問符を投げかけようと 試みているj66)というものだった。また,党中央委員会は,年明けの1月12日突如,同委 員会付属マルクス・レーニン主義研究所から新雑誌『ソ連共産党の諸問題Jl(隔月刊, 1963 年 1月から月刊)を創刊すると発表した67)が,これは党史にかんするかぎりその独占的管 轄を従来の科学アカデミー歴史研究所発行の『歴史の諸問題』から剥奪することを意味し

62)

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npeoλOJIeHHH KyJIbTa JIHqHOCTH H ero nOCJIe江CTBHH

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KflCC 8 pe30.ll1O勾UHX U peuaflUHX Cbe3δ08

1Coflrtepefll,}UU U n.lleflY.M08l[K. (羽CTbIV). (MOCKBa: rOCnOJIHTH3λaT

1960)

CTp. 222-239.

63) E. 5yraeB,“Kor

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XO江,"flapmUultaH JlCU31lb・(地14,1956), CTp. 66

69.

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CTaTbe TOB. E. 5yraeBa," BonpOCbt Hcmopuu. (N!!7

HIOJIb 1956)

CTp. 222.

65)3.H. 5yp江)KaJIOB,“Erne0 TaKTHKe 60JIb凹eBHKOBB MapTe・anpeJIe1917 ro江a,"Bonpocbt

Hcmopuu. (地 8

aBrycT 1956)

CTp. 109-114.

66)B.CMHpHOB,“HenpaBHJIbHOe OCBerueHHe Ba)KHOrO Bonpoca,"刀pa8da.(20 HO兄6p兄 1956),

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.

67)Cnpa80ttflU1Cnapmuuflozo pa60mflu1Ca・(u3dafluenep80e.)(MocKBa:日OJIHTH3.llaT

1957)

CTp.372. 初代編集長は,マルクス・レーニン主義研究所長

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.

Jl.オピーチキン (06HQKHH)で

あるが,彼は『歴史の諸問題』の元編集員時代,パンクラートヴア,ブノレジャーロフと「折りあい が悪かった」と推定される。 Schapiro,0ρ. cit., p. 71.

(14)

61

党 に よ る 自 由 主 義 歴 史 家 の 引 締 め の 最 終 ラ ウ ン ド は , 1957.1j'.~)

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二 訪 れ / こ 問 っ す な わ ち , 党 中 央 委 員 会 は , 間 決 議

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[ 1 照 史 の 諸 問 題 』 に つ い て 」 β 月

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で,U[古里 史 の 諸 問 題 』 編 集 部 の 「 許 し が たL、 誤 り 」 を 理 論 的 に 糾 弾 す る71)と と も に , は 編 集 部 を ほ ぼ 完 全 に 改 組 す る め と い う 実 際 的 な 制 裁 手 段 に 訴 え た の で あ る の 編 集 長 ノ 二 ン ク ラ ー ト ヴ ァ 議責込分 73入編集員 11 名中フーノレジャーロブを合む 8~--罷免の現実に直面 L , さ し も の 『 涯 史 の 諸 問 題j74)も.プj向 転 換 せ ざ る を え な か っ たi5)c か く し て , 第 20同 党 大 会 に は じ ま る ソ 連 史 上 未 曾 有 の 「 県 史 学 の ル ネ yサ ン ス れ は 冬 お し た の も ち ら ん ,

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ソ ビ エ ト 歴 史 学 の 暗 黒 期J(6)た る ス タ ー リ ン 期 へ の 逆 戻 り を 意 味 す る の で は なL、 。 数 々 の 最 早 や 抱 消 し え な い 改 善 が 資 ら さ れ て い た77)。 だ が , そ れ は 百 花 斎 放 で は な く , あ く ま で コ ン ト ロ ー ノ レ さ れ た 枠 円 で の 白 出 を 怠 卦 ょ し た わ で は , イ本ブノレジャーロ ブ あ る い は 「 ブ 、 ノ レ ジ ャ ー ロ ブ 事 件

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吟 の 意 味 は な ん だ っ た の カ ミ ? ブ ェ イ ン ソ ド は , ü品;え~

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プ (8)クレムリノロジスト B.ニコラエアスキーは,権:力争いの見地からこの1956-57年 の 「 プ ル ジ ャ ー ロブ事件

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を 眺 め よ う と す る 。 つ ま り , 彼 に よ れ ば , そ れ は , ま ず , 連 邦 科 学 : ア カ デ ミ ー 付 属 壁 史 学 訴 究 所 vs.党 中 央 委 員 会 付 属 マ ル ク ス ・ レ ー ニ ン 主 義 研 究 明 の 権 力 争 い で あ る 。 つ ぎ に , 1I霊史 の諸問題~ vs.W'~'t 生活』の見、'0 之, 党中央芸員会書記局内の二つの部門, 1mちよる等教育科学部 (第20酒 党 大 会 ま で パ ン ク ラ ー ト ヴ ァ が と り し き っ て い た )vs.幹 部 行 政 部 ( ロ シ ア 共 和 対 モ ス ク ワ ・ ビ ュ ー ロ ー の ブ ル シ チ ョ ブ 代 時 A.

n

.

ア リ ス ト ア 支 配 刊 の 権 力 争 い と し て 理 解 す る 必 要 が Lる, と。 Keep. (ed.), op. cit., p. 40.なお, こ の よ う な ソ 連 邦 に お け る 歴 史 家 と か れ ら を 監 督 ・ 管 轄 す る 会 式 ・ 非 公 式 の 組 織 機 関 と そ の コ ン ト ロ ー ル }J法にかんしては, Heer, pp. 34ー持参照。 (9)党 に よ る 歴 史 家 の 引 締 め 処 舟 の 主 要 な 内 外 の 背 去 と し て は , ① 1956年6月ーポズナニ事件, @ll;J 年11月 ポーランド,ハンガヲー動乱,があげられるが, こ の ①1957年3J](7)ばあL、は, 特 定 の 政 治 的 危 機 よ り もtrしろそれまでの警告を姉、出しつづける‘部産史家iこたLづーる I,

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された怒 り」だったと推定される。 Heer,0ρ. cit., p. 94.

70)Cnpa80吃HUKnapmuuHozo pa6omHuKa. (U3δaHue nep8oe)(1957)

CTp. 381-2.

71)この決議は未公開〈当時)だったが, IliJ様の遊旨は, IT'コムニストJl3月号Ii命説中にくり返されたの

CTporo co6J1おえaTbJleHHHCKH員npHH,uHnnapTH長HOCTHB HCTOpHqeCKO品 目ayKe

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Ko.M.M y-Hllcm. (XXXIlI, M 4, MapT 1957), CTp. 17-29.

72) こ の 改 組 が 中 央 委 員 会 書 記 局 に よ っ て 決 定 さ れ る ま で の 経 過 は , ク レ ム リ ン 内 の デ シ ジ ゴ ン ・ メ ー キ ン グ の 興 味 あ る 一 例jと し て 参 考 に 値 す る M.フェインソド教契紹介・ fj

I

HIの イ タ ザ ア 共 産 党 指 導 者iの 報 告 (Problemie realta dell' URSS. Roma: Editori Riunite, 1958, p. 75)参照。 Merle Fainsod, HoUJ Russia is Ruled (rcvised edition). (仁ambrid然、lVlassachusetts:Harvard University

Press, 1963), p. 339. 7:))パ ン ク ラ ー ト ヴ ア は , ほ ど た く 失 意 の う ち に 死 亡 し た (5/25)。 刀pa8da.(27 Ma兄 1957),CTp. 3; BonpoCbl Hcmopuu. (ぬも arrpeJlb 1957)

CTp. 214-216. 74)ソ ビ エ ト 歴 史 学 の 主 要 誌 た る 『 歴 史 の 諸 問 題 』 は , その時々の党のよ

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歴 史 学 政 誌 の 変 化 に し た が っ て , た び た び 改 組 , と き に は 誌 名 す ら

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階 蔽 闘 争

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1931→『歴史雑誌j]1937→ f壁史の諸問題』 1945→ 〉 変 更Lてきており, 今恒j (1957年3月 ) の 受 難 ( ? ) が な に も は じ め て で なL、。このこ と に つ き 示 唆 的 な の は Yakobso九 01う.citリ pp. 123-133. 75)新 編 集 部 下 の 毘 誌3月号は,

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杢 史 科 学 に お け る レ ー ニ ン 主 義 的 党 派 性 を め ざLて !

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と題するli命 -,mをかLげ , メ ン シ ェ ヴ ィ キ と ポ リ シ ヱ ヴ 4キとの;基本的相違を強調するとともに,スターリンを, 数 々 の 誤 り に も かLわらず, I党の撤の曝露と根絶, 党の大義の勝利をめざす闘いにおいて, もっ とも大きな役割を誤じた, 卓 越 せ る マ ル ク ス ・ レ ー ニ ン 主 義 者 」 と 規 正 し た 。 “3a Jλle郎HfむHH詑CK王yl悶O I

ロlap戸TH誌如HOCτT‘ b B m沼l王詑CτT‘ OpH別-11zIeCKωOEfayKe 1.'ペ,

76) Ulam.oρ ci弘,.ムtp. 177.

77)た と え ば , キ ー プ は , 研 究 の ① 範 隣 , ① 資 料 , ⑦ 機 関 , ① 交 流 の 拡 大 を Keep. (edふ pp.11-12, ブ ェ イ ン ソ ド も , ① ア ル ヒ ー フ 解 禁 , @ 国 際 的 接 触 の 増 大 , ⑦ 新 雑 誌 の 発 行 , な ど を 挙 げ て い るO

Fainsod,“Soviet Russian Historians,"pp. 86-87. Dallin, 0ρ.ci人 pp.783-4も参照。

78)この事件のもっとも秀ました解説は,既出の Fainsod,“Soviet Russian Historians,";“Historio -graphy and Change"; Heer, 0ρ. cit.,のほか, Konstantin F. Sheppa, Russian Historians and the Soviet State.(New Brunswick, New Jersey: Rutgers University Press), pp. 361-382.

(15)

ノレジャーロフの教訓

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の中で,

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過渡期は,歴史家にとっても, 危機である。不確定なト ランベットが吹かれるとき, きまってその調子を担え損う歴史家が幾人かでてくる」めと 書いているが,その「調子を担え損った震史家jがプノレジャーロフを指すことに異論はな L 、。たしかに, ブ、ノレジャーロフは自らをとり巻く政治的気流の変化を誤算した頭間な非政 治的人間の典型である。それ故.かようなソ連社会における歴史と政治のりアリズムの観 点からは. 1956-7年の「プノレジャーロフ事件jは, 紛れもなく震史の徒花であり,悲劇 と呼んでもさしっかえなかろう。だが,他方,伎がたんなる機会夜乗を金らむ「野心的な 学 箭 役 人

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ユーラム)80)でなく, 自己の学問的信条に忠実に行動する歴史家であるこ とを,その援の経歴(とくに 1962年12丹開{匿の全連邦歴史家協議会の席上,彼は自己の 1956-7年の見解を変更していないことを立証したグ)81)で証明し, さらに彼の見解の少な からぬ部分がソピ、エト竪史学に影響を与え包摂されていきつつある助事実を識るとき,彼 および彼の事件の真の評価は未だ時機尚早であるというべきであろうの それはともかく,

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混乱が収まり, 新しい主人の歌が高らか且つ明擦に響くと, 地 留 め の時期が開始され, 歴史家はふたたび行進しはじめる

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ブェインソド)83)0 1957年

7

月創刊された薪雑誌

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ソ連共産党の諸問題

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は,それまで『麗史の諸問題』が担当してい た党史問題を決して行きすぎない形で受け継ごうとしたっ創子守第1号の編集部の言葉は,

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哲人崇拝論争にかこつけて,スターリン著作中のもっとも重大なものを忘れさる弊害の 除去

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を力説したのそして我々にとって注意すべきは, このような「スターリン批判

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に腰くだけとなった『ソ連共産党史の諸問題』に爾後分載されたソ連共産党史§めがそっく りそのまま, つぎに解説する 1959年の単行本『ソ連共産党史』 となっていった事実で、あ るO (3) U~ ソ連共産党史j] -1959年一 『スターリン小教程

J

の「誤りと欠陥を克服」し. 1"新しい文献を利用し新しい研究課題 を換討」した「最初の集大或fめとしての『ソ連共産党史 ~87)一一以後『ブノレシチョブ第一 版

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ないし

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五九年版

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などと略称一一ーが, 1959年6月刊行された。執筆者は,町、教程』 と異なり,明記され, 5.H.ポノマリョーフをリーダーとする 11名の科学アカデミ一正会 79) Fainsod.“Soviet Russian Historians円 p.82. 80) Keep. (ed.), op.cit., p. 38.フェインソドらの反論, I司書 p.39, 40. 41参照。

81) BcecolO3Hoe c08e14aHUe 0 .Mepax yJl

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吃UleHUfl noozomo8Ku HayttHo・neδazozu匂eCKUX

lCaδ'p08 no ucmoputteclCu.M HaylCa.M (U'-21δeICa6pfl 1962 z.)

(MocKBa: 113)laTeJIbCTBO

<<HaYKa>), 1964), CTp.367-70.当 時 プ ノ レ ジ ャ ー ロ フ は , モ ス ク ワ の レ ー ニ ン 教 育 研 究 所 勤 務 だ っ た 。

Ta.M :JICe

CTp. 367.

82) Martin Dewhirst,“L'Historiographie Sovietique rるcente de l'histoire de la Rるvolution,"

Cahiers du Monde Russe et Sovietique. (Vo.lV, No. 4, 1964), pp. 549-566. 83) Fainsod.“Soviet Russian Historians

"

p. 82.

84)

OT pe)laKUHH,"Bonpocbl Hcmopuu K万CC. (地 1,1957), CTp・12.

85)Bonpocbl Hcmopuu K万CC.(N~ 5, 1958), CTp. 18-96; (地6,1958), CTp. 16-67; (地1,1959),

c

τ下.71-126; (地主 1959)

C'rp. 129-153.

86)

K HOBOMy nO)l'beMy sCTOpsKO・napT凶 HO蕗HayKs

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Bonpocbl Hcmopuu KnCC. (地主 1960)

CTp. 14.

87)Hcmopufl ICO.M.MyHuCmutteclCoa napmuu C08emcICozo Co幻3a (MocKBa: fOCnOJIsTs3)laT

(16)

コース テ 今λ bプ ソ タ

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(y可eoHlfK) となっている司 出 版 の タ イ ミ ン グ は . ス タ ー リ ン 死 後6年目的で, ブノレシチ ゴ ブ が マ レ ン コ ア ら の 政i敢 を 打 倒 し 、 一 応 自 己 の ま わ り に 権 力 を 集Iわした時点といえるの 分 量 は , uソj、教程

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(~~5:2 p.)の2倍 以 上 (74:2p.)であるが,これは対象期間が:20年 も 明 大 し た 事 実 に も と づ く 当 然 の 結 果 と い え る つ

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討 の 時 点 に お け る そ れ ぞ れ の 後 継11の 佐 か状況につしての, R. レ ー ヴ エ ン タ ー ル の 興 味 あ る 比 較 と1て,Richard Lowt!nthal,“I¥lJoscow Purley: The Return nf Stalin's Mustache on a Higlu'r Ll'V♂1," The lVew Yorl? Times.

(Mar. 28, 1971), p.8参照o

~O) じ. E. Black.(ed.), Rewriting Russian History.(New York: FreJerickA. l汁aeger,1Y56),

p. 31.

91) C08emclcaH Hcmopu'teclcaH 3H.勾UfC.IloneδUH.(MocKBa: 113,UaTeJIbCTBO <(COBeTCKa兄 3HUH-KJIOne,UH,兄 1965), TOM. 7, crp. 718. ~2) 日本共産党中央委員会宣伝教育部訳『ソ連邦共}主党史 1 :3巻 〈 東;jt:U本 共 産 党 中 央 委 員 会 立 伝;}'J,( 育部, 1965),その能。 9:り す ぐ れ た 紹 介 と し て , 鳥 山 成 人 教 援 [ 新Lい 『 ソ 述 邦JlJ&'~'t ~J2~ に つ い て

J

,U歴史評 r~命 ~(*~~l~ :イド 秋社, 1960年3月号), pp.2-8友晴、。 94) HcmopuH KflCC (1959)

CTp. 201. 95) TaM :JICe.crp. 362-363. 96) TaM :JICe.♂p.484. 97) TaM JlCe.CTp. 519. 98)TaM :JICe.crp. 483

99) TaM :JICe.CTp. 424. 100)TaM :JICe.CTp. 484. 101)TaM :JICe.CTp. 4お.

参照

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