中国中医研究院の現状(1991)と小史
その他のタイトル The Present Circumstances and a Brief History of the Chinese Academy of Traditional Chinese Medicine
著者 宮下 三郎
雑誌名 関西大学社会学部紀要
巻 24
号 1
ページ 131‑153
発行年 1992‑09‑30
URL http://hdl.handle.net/10112/00022578
中国中医研究院の現状
( 1 9 9 1 )
と小史宮 下 郎
The Present Circumstances and a Brief History of the Chinese Academy o f Traditional Chinese Medicine
Saburo MIYASHITA
Abstract
The c h a r a c t e r i s t i c s o f m o d e r n i z a t i o n i n C h i n a a r e r e l a t i v e l y easy to und erstand compared t o those p a r i c u l a r t o J a p a n , where modernization h a s bee n m a i n l y " W e s t e r n i z a t i o n " a c c o m p a n i e d by t h e d e l i b e r a t e o m i s s i o n o f Japane s e t r a d i t i o n s . I n contrast, m o d e r n i z a t i o n i n C h i n a h a s been based on l e a r n i n g g a i n e d from t r a d i t i o n s .
T h i s i s e s p e c i a l l y t r u e i n t h e m e d i c a l s c i e n c e s , a s c a n b e seen from the f a c t t h a t t h e C h i n e s e Academy o f T r a d i t i o n a l C h i n e s e M e d i c i n e ( C A T C M ) , an o v e r a l l research a s s o c i a t i o n e s t a b l i s h e d i n 1955, i s t h e l a r g e s t n a t i o n a l research center except f o r t h e C h i n e s e Academy o f M e d i c a l S c ̲ i e n c e s . The CATCM c o n s i s t s o f . t e n I n s t i t u t e s , i n c l u d i n g ; M e d i c a l H i s t o r y and L i t e r a t u r e , M e d i c a l Information, C h i n e s e M e t e r i a M e d i c a , B a s i c T h e o r ' y o f T r a d i t i o n a l C h i n e s e M e d i c i n e ( T C M ) , . Acupuncture and M o x i b u s t i o n , Orthopedics and Traum a t o l o g y , four Institutes o f C l i n i c a l M e d i c i n e ( i n Xi‑Yuan and Guang‑An Men H o s p i t a l > , and t h e C A T C M J o u r n a l P u b l i s h i n g H o u s e . A t present ( 1 9 9 1 ) , . t h e r e are over four thousand staff members working on research related to TCM.
There are a l s o a t o t a l o f 1 2 1 m e d i c a l c o l l e g e s , i n c l u d i n g 29 TCM c o l l e g e s . T h e number o f doctors w o r k i n g i n t h e f i e l d o f TCM are about・1 ; 3 o f the t o t a l number o f d o c t o r s .
I n contrast to the circumstances i n C h i n a , a n d c o n s i d e r i n g that a s t h e r e i s no n a t i o n a l i n s t i t u t e o r c o l l e g e o f t r a d i t i o n a l m e d i c i n e or even a s i n g l e course on m e d i c a l h i s t o r y i n a n y o f t h e Japanese n a t i o n a l u n i v e r s i t i e s o r c o l l e g e s , i t i s e v i d e n t t h a t t h e r e i s nothing comparable to t h i s emphas i s on t r a d i t i o n i n J a p a n t o d a y .
Key words : C h i n e s e Academy, T r a d i t i o n a l C h i n e s e M e d i c i n e , m o d e r n i z a t i o n , M a t e r i a M e d i c a , Acupuncture and M o x i b u s t i o n , O r t h o p e d i c s , T r a u m a t o l o g y , m e d i c a l c o l l e g e
抄 録
中国の現代化の特色は, 日本の近代化と比較するとわかり易い。日本の近代化は欧米化であって,
意識的に伝統を排除しようとした。中国の現代化は伝統から学び,新しい途を探ろうとしている。た とえば,中国中医研究院は
1 9 5 5
年に設置された伝統医学の総合的な研究機関である。中国医史文献研 究所,図書情報研究所,中薬研究所,中医基礎理論研究所,針灸研究所,骨傷科研究所,第一臨床医 学研究所と老年医学研究所(西苑医院), 第二臨床医学研究所と眼科研究所(広安門医院)の1 0
研究 所のほか,衛生学校と研究生部および中医雑志社などから成り,現在四千余人が伝統医学の研究に従 事している。中国の医科大学は1 2 1
校あり,そのうち2 9
校が中医学院である。中医は全医者1 7 1
万人の うち%の3 7
万人を占める。一方, 日本には国立の伝統医学の研究所も,教育機関もない。国立大学に は医史学の講座が一つもない。なお,中国の現代化のもう一つの面である中外合弁の最初の一つであ る,中国大塚製薬( 1 9 8 2 ‑ )
について述べた。キーワード:近代化,現代化,伝統医学,中国中医研究院,中国医史文献研究所,図書情報研究所,
中薬研究所, 中医基礎理論研究所, 針灸研究所, 骨傷科研究所, 西苑医院,広安門医 院,中医学院。
‑131‑
関西大学「社会学部紀要」第
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巻第1
号は し が き
著者は
1 9 9 1
年3
月末から1
年間, 北京の「中国中医研究院」!)において, 伝統を生かし現代化 を目指す中国人の研究活動を理解しようと努めてきた。4 , 0 0 0
人を超す大研究所であり, 目的を 中医に限定している関係上, 日本はもちろん世界に類似の研究所はない。国立の研究機関である 点からすれば, 日本の国立衛生試験所や米国のN I H 2 )
にちかいと言えるかもしれないが, それ は7
研究所を擁する「中国予防医学科学院」を当てるべきである。また,北京協和医科大学を中 心とする現代医学の研究機関を統合する「中国医学科学院」もあり,それらと比較することによって,いっそう中医研究院の特徴が浮き彫りになると思う。
中国の現在のどの問題を扱うにしても,解放後の中国現代史と無関係なものはない。中国共産 党創立
7 0
周年の記念行事が終わって間もな<'8
月にソ連共産党解体,1 2
月にはソ連邦消滅( 6 9
年間)というニュースが飛びこんできたが,北京では比較的冷静に受けとめていた。中ソ関係は1 9 6 3
年の対決以後冷めており, 同じ社会主義ではなく, 別の社会主義国という見方のようであ る。中国の現実は西洋史の流れで見ると納得のいかない点も,中国史から見ると分かりやすい。毛沢東思想と深くかかわる創立の事情と,党の支配については第 5章に述べた。
日本は漢方消滅=近代化という路線を進んできたために,いまでは中医学を理解することすら 必ずしも容易ではない。漢方・鍼灸というような見方をしがちである。しかも日本では鍼医を医 者と言わないのが普通である。そのような狭いものでないことは,以下に述べるとおりである。
また, 中医研究院には
WHO
と共同で,伝統医学・針灸・中薬の三つの協同研究センターが置 かれている。世界的にも伝統医学や中医学の研究の必要性が高まっているということであろう。それにはやはり歴史的な理由が考えられるが,まず中医研究院の組織や人を通して,中医学研究 の実態について報告することにしよう。
著者のもっとも密接した医史所からはじめて,身近に関係しえなかった臨床研究所に及ぶ。参 考文献としては次の資料を多く使用した。『中国衛生年鑑』
( 1 9 8 3
一人民衛生出版社),『中国中医 機構志』( 1 9 8 9 ,
中医古籍出版社),『中国当代医学家苔幸』1‑3 ( 1 9 8 7 ‑ 8 9 ,
吉林科学技術出版 社),『1955‑1985
中国中医研究院院史』( 1 9 8 5 ,
中医研究院),『中医研究院大事記(3
稿)1954‑
1 9 6 6
』(原稿),『中医研究院的歴史回顧1955‑1985
(草稿)』(原稿)。最後に,中外製薬合弁会社 の最初である「中国大塚製薬公司」についての紹介を加え,中国の現代化の別の面にも配慮することにした。
1
か年( 1 9 9 1
年度)の在外研究の機会を与えられた関西大学と,著者の研究を許された中国中1 ) 1 9 8 5
年以降。以前は「中医研究院」という。「上海市中医薬研究院( 1 9 8 5 ‑ )
」との混同を避けるために中国を冠したという。英名は
' C h i n aAcademy o f T r a d i t i o n a l C h i n e s e M e d i c i n e ' . 2) N a t i o n a l I n s t i t u t e o f H e a l t h .
‑132‑
医研究院,とくに李経緯教授および医史所のみなさんに感謝する。見学を許された中国大塚製薬 公司の仲井元昭副社長と,ご仲介をいただいた天津医薬情報所の慮惹蘭さんに深謝する。
1
医史所と図書情報所医史所は院内の略称で正式には中国医史文献研究所である。図書情報所も図書情報研究所であ る。
中国医史文献研究所の任務と方向については,中国の伝統医学発展の歴史的経験と客観的な規 律を研究し,あわせて中国伝統医学とその豊富な古典文献を校勘し,注釈し,整理し,中医と中 西医結合の研究に経験と手本を提供することである。
1 9 8 2
年に研究所になったが,院設立の頭初 から医史研究室と編審室があり, 71年に医史文献研究室として合併した。研究室は次の
4
室で,医史と文献編審の2
系が合併して成立したという,歴史的背景を踏まえ ているようである。医史系は大白棲5
階,文献系は6
階に在る。I
中国医学通史│―I
少数民族医史と東方西方比較医史I
I
中医臨床文献1 ‑ 1
中医基礎文献と民間単秘験方資料I
医史
2
室は,日本でふつう医史学と言っているのと同じである。通史は現代史を含めず,中医 を中心に考えているようである。趙瑛珊名誉教授,李経緯教授,王致譜前副所長,博芳副所長は 通史室の所属である。少数民族の研究室があるのはいかにも中国的である。清朝からの五族協和(満・漢・蒙・蔵・回)がいまも生きているのである。
1 9 8 5
年にラサの西蔵大学に4
年制の蔵医 系が設置され,8 9
年の統計資料に蔵医1, 5 2 3
蒙医3, 3 3 5
維医49 5
名が載っている。察景峰教授は蔵 医史に詳しい。西方との比較医史は馬堪温教授の担当だった。特徴のあるのは臨床文献学である。他研究所との合作のみならず臨床に参加し,実践を重視し ている。実事求是精神や考証学を経て,毛沢東の「実践論」の直接の影響下に生まれた新しい医 史学である。余滅蒸所長と盛維忠副教授が担当する。基礎文献は馬継興名誉教授と陶広正副所 長,民間単秘験方は回族出身の子文忠副教授の担当である。
研究室は研究員,副研究員,助理研究員,実習研究員から成り,研究生(大学院生)を受け入 れている関係から,教授,副教授の資格もある。高中級研究員は
2 0
名と公表している。このほか 蒙古族出身の医学博士・図亜がいる「中華医史雑志」編輯室,中国医史博物館,図書資料室,科 塀公室,塀公室があり,総勢は6 2
名である。科塀は調査企画に当たり第1
期研究生( 7 8 )
の鄭金 生さんが所属し,鄭さんは2
月からドイツヘ留学された。著者は日本語を学習している研究生に,留学先の相談を受けて困惑した。日本の国立大学に医 史学の研究室はない。私学をいれても現在医史学の教授はゼロ,助教授以下に数人の専業家がい るにすぎない。医史学などはうしろ向きの学問で,日本の近代化にとって邪魔になるという見方
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妙があったのではないか。日本の近代化は欧米化にすぎなかったために,欧米の文化にほとんど貢 献できなかったし,いま欧米文化と同じく将来への模索に苦しんでいるのである。その百年間の 欧米化のつけとして,倫理や道徳に無関心で経済行為や技術にかたよった,異状な医療体系が出 来上がったと言えよう。日本医史学会自体も衰弱し趣味的うしろ向きの場となり,医学界の欠点 をえぐり出すという気力もなく,まさに医死学となっているのである。
業績は任務の一つである中医古典のテキストの整理や,辞書類の編簗を数多く手掛けている。
『傷寒論語訳』『金贋要略語訳』『中医詞術語選釈』『簡明中医辞典』『中医大辞典,医史文献分冊』
などあり,発行部数
1 0
万部を超すものや,日本語・英語など外国語に訳されたものもある。また 甘粛省博物館武威県文化館編『武威漢代医簡』( 1 9 7 5 ,
北京文物出版社)馬王堆漢墓吊書整理小組編『馬王堆漢墓吊書五十二病方』
( 1 9 7 9 ,
北京文物出版社)2
書の解説・注釈は,馬継興・李経緯両教授をはじめ医史所の厚い研究陣によってバック・アッ プされており,地の利を得たこともあって世界的な評価を得た。また,1 9 8 0
年に復刊された『中 華医史雑志』は,季刊であるが国内2 1 , 2 4 3
国外1 , 6 5 2
という出版部数を公表している3 )
。中国の 医史学の層の厚さと,国際的なひろがりとを,この数字から読みとるべきであろう。つぎに新旧の数人の研究者の略歴を載せておく。とくに初期の人の履歴は,そのまま中国現代 史の一駒になっている点を注意したい。
陳邦賢
1889‑1976
江蘇鎮江に生まれる。上海の丁福保に師事。校医,生理衛生教員などのの ち,1 9 3 4
年に江蘇省立医政学院衛生教育科の中医特別訓練班医学史病史の兼任教授となる。中医 教育専門委員会専任委員兼秘書(39‑43)
国立編訳館自然組編審(43‑49)
兼任国立江蘇医学院(いま南京医学院)医学史教授
(45‑52)
。 解 放 後1 9 5 4
年出京, 中央衛生研究院医史研究室に所 属 と き に6 4
歳。5 5
年中医研究院医史研究室研究員副主任。1 9 2 0
年に『中国医学史』を出版し,3 6
年と5 6
年に改訂版を出すなど,中国医学通史の開拓者である。竜伯堅
1901‑83
湖南仮県に生まれる。1 9 2 3
年湖南湘雅医学院卒,3 3
年米国ハーバード大学公 衆衛生学部卒,医学博士。湖南省の衛生行政に参加。解放後,湖南省政府衛生処処長,5 3
年中央 衛生研究院中医薬研究所所長,5 6
年中医研究院医史研究室研究員,および中国医学科学院図書情 報研究所研究員。5 7
年反右派闘争の結果離院。『現存本草書録』( 1 9 5 7 ,
人民衛生出版社)のほ か,離院後「黄帝内経」に関する研究を残された。言いたい放題の飽食の日本人の議論とちがっ て,中国人の古典研究には実践的な意味あいがあることを強調しておきたい。馬継興
1 9 2 5
年北京に生まれる。回族。1 9 4 5
年華北国医学院卒。北京大学医学院生理学系教員 などを経て,5 0
年北京中医進修学校教員。5 4
年中医研究院針灸研究所員,江西省永修県衛生部幹 部労働学校に下放。7 1
年医史文献研究室へ所属替へ,82‑86
年医史所副所長,現在,中医基礎文献 研究室研究員,名誉教授。馬王堆漢墓吊書整理小組に参加。先生主編の『敦煽古医籍考釈」( 1 9 8 8 ,
3)
「中医年鑑」1 9
邸年版,5 0 8
ページ。南昌, 江西科学技術出版社)主著の「中医文献学』
( 1 9 9 0 ,
上海科学技術出版社)があり, 中医 古籍学の大家である。現在,神農本草経復原の研究を進めておられる。李経緯
1 9 2 9
年映西咸陽の農家に生まれた。西安師範卒後,西安医学院(いま西安医科大学)入学
5 5
年卒, 胸部外科教室に入室。中央衛生部中医研究院第1
回全国西医離職学習中医研究班( 1 9 5 5 ‑ 5 8 )
に参加後,中医研究院医史研究室に分配され,陳邦賢研究員に師事する。ちなみに 少数民族医史の察景峰教授(湖南の湘雅医学院卒,内科)と同期同班生。 71年医史研究室と編審 室の合併後の責任者。8 0
年副研究員,8 5
年研究員。82‑91
年医史所初代所長。国内諸学会の役員 のほか,8 3
年から泰国・日本・米国など各国に出張し,学術会議に出席し報告を行っている。研 究は唐宋時代や中医外科に関する論文が多い。役職の関係もあって,所員や研究生を駆使した中 国医史研究の,基本工具書作成の功績が大きい。その幾つかを挙げると『中国医学百科全書 医 学史」程之範と共編( 1 9 8 7 ,
上海技術出版社)『中医人物詞典」( 1 9 8 8 ,
上海辞書出版社)『中医 用工具書手冊( 1 9 8 8 ,
上海科技出版社)『医学史記文資料索引1903‑1978
第一輯』( 1 9 8 9 ,
中国 書店)『医学史文献論文資料索引1979‑1986
第二輯」( 1 9 8 9 ,
中国書店)。現在は研究室の総力 を結集した「中国医学通史」の著述編纂に取り組んでおられる。ご令室の子霊恵さんは広安門医 院教授,藩陽のご出身で日本語をよくされる。余温蒸
1 9 3 3
年上海に生まれる。1 9 5 5
年,上海第2
医学院卒,第1
回西医学中医班参加後,編 審室に入室,父は有名中医・無言( 1 9 0 0 ‑ 6 3 )
。86‑91
医史所副所長,9 1
ー所長。中医臨床文献 研究室研究員。所員の海外活動としては,廃校になった燕京大学出身で東西比較医史の馬堪温授教の英国ウェ ルカム医史研究所の滞在が,
4
年を超えている。第1
期研究生の胡乃長は米国へ,鄭金生はドイ ツヘ留学中である。李教教はこれらを海外流出と見ており,その人数は所員の1
割以上7
人に達 するという。外国の研究者も受け入れており,著者と入れ換わりに帰国した米国・ノースカロリ ナ大学人類学部のJ .
FARQUHAR助授教の,察教授の指導を受けた「人類学と中医薬」という中文 の報告を拝聴した。夫君は清朝史の専門家という。ペンシルベニア大学科学史学部のM.HANSON
研究生は,江蘇学派をテーマに博士論文を作成中である。
図書情報研究所
1 9 5 5
年設立の図書館,5 9
年設立の情報研究室,8 1
年設立の中医古籍出版社の3
単位が,8 3
年に合併して「図書情報中心」となり,8 5
年に図書情報所となった。総員1 5 8
名。 蔵書は6 0
万冊に達している。中医古籍と外文中医書の収蔵では全国一である。情報活動としては 次の二つがある。「中国医学文摘一ー中医」
1 9 6 0
年創刊6 1
年停刊,6 4
年復刊6 5
年停刊,8 0
年復刊。もと「中医文 摘」8 2
年から現名。月刊。毎号3
万冊。「国外医学・中医中薬分冊」
1 9 7 8
年創刊。もと「国外医学参考資料・中医中薬分冊」8 0
年から 現名。隔月刊,印数1
万冊弱。もう一つ著者の関心のあるのは古医書の蒐集である。満洲医科大学の東亜医学研究所は,黒田
関西大学「社会学部紀要」第
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巻第1
号源次所長,岡西為人教授らの努力で,中国・日本の古医書本草書を集め,中国では最大のコレク ションと言われていた°。これらの古書は沈陽医学院に引き継がれ,解放後,中医研究院に移され たと聞いていた。いま図書情報所の
4
階に大切に保存され,新しい目録「館蔵線装書目」( 1 9 8 6 ,
中医古籍出版社)によって研究に利用されている。中医研究院の古典研究には欠くことのできな い資料として,活用されている。これらの古書と満大に学んだ中国の人たちが,中国の現代化の ために役立っているのを見るのは,悪い気がしない。中医研究院にも数名の満大卒業者がいて,それぞれの分野で活躍していたが,いまは定年で現役は中薬所の章栄烈教教だけだそうである。
文化の力は武力のようには目に見えないが,長く深く影響を与え続ける。
中薬所の研究員だった趙橘黄所蔵の本草学研究図書
5 , 6 0 0
余冊や, 軍事医学科学院の範行準教 授所蔵の医書2 9 0
余種1 , 5 0 0
冊の寄贈( 8 5 )
を受けるなど, 古医書本草書の増加は今も続いてい る。範教授(1906‑)
は浙江湯浚出身, 上海国医学院卒, 長女の佛嬰さんが当院保衛処の医師 で,一緒に塔楼の2
階に住んでおられる。2
中薬所と基礎所中薬所は中薬研究所,基礎所は中医基礎理論研究所の院内の簡称である。
中薬研究所
1 9 5 1
年に設立された中央衛生研究院中医研究所の中薬研究室が,5 4
年に中医研究 院準備処に接収され,5 5
年に誕生した。1960‑62
年間は中薬系のなかった北京中医学院と合併し たが,けっきょく分離した, 大白楼 1•2•3•4•5•10階など大部分を占めるが,現在新館を建4) 1 9 1 1
年南満医学堂として創設。日本の大学令による医科の私立大学。4 5
年国民党の沈陽医学院に接収。解放ご延安から沈陽に移った中国医科大学
( 4 9 ‑ )
に吸収された。設中である。東直門では針灸研究所と規模の大きさを競っている。
任務は中薬の基本理論や臨床応用と,生産中の科学技術の問題を研究し,中薬の治病原理を閾 明し,中薬の療効を高め発展させることだという。研究室は
1 4
室。薬理研究室は5 5
年から在り,7 1
年に微生物室,7 8
年に中薬理論研究室と計画生育室が設置され,8 3
年に合わせて薬理一至四室 とした。頭初は所員1 9
名にすぎなかったが,いまは3 4 9
名,高中級科学技術者は2 1 3
名という。所長は姜廷良で制癌薬理の研究者である。
1 9 8 3
年にはWHO
の伝統医学中薬合作中心に承認 された。静岡薬科大学( 8 0 )
津村順天堂つまりツムラ( 8 1 )
東京薬科大学( 8 3 )
と,長期友好関 係を結んでいる。業績としてはまず『全国中薬成薬処方集』
( 1 9 6 2 ,
人民衛生出版社)を挙げておく。1 9 5 3
年に 衛生部薬政局が1 4
個所の成方を収集整理して「中薬経験方」を編纂していた。それを基礎に発展 させ,5 9
年から沈陽薬学院薬学系と協力して2 5
の大中の都市の成方を集め,2 , 0 0 0
種近い成薬の 処方6 , 0 0 0
余首を整理し出版した。 日本で2
種の影印本( 1 9 6 4
大安版と8 1
科学書院版)が作ら れるなど,評価が高い。また,世界的なニュースとなった湖南省長沙の馬王堆「一号漢墓出土植 物標本璧定報告」( 7 3 )
がある。生薬研究室の劉美蘭・謝宗万らが担当した。標本は東京・名古 屋・大阪・福岡の「今日の中薬展」( 8 0 )
に展示された。.. , りア
新抗癒薬の探索は
1 9 6 7
年に開始された。青嵩A r t e m i s i a a n n u a
は馬王堆三号漢墓出土吊書の「五十二病方」に牡痔に使用しており, 『神農本草経』下品に草嵩の別名として載るが,治癒効 果についての注意は『肘后備急方』が早いようである。 『聖済総録』に青嵩湯, 『丹漢心法』に 裁繕青嵩丸,『普済方」に青嵩散や昧緬神応丸などがあり, 明清の本草書も裁寵薬として青嵩を 挙げていた。常山のようには頻用されなかったが, 長い経験の積み重ねがあった。晉の葛洪の
『肘后備急方』に「青商。一握水。ー開潰。絞 取汁。尽服之」とあり,水煎でない点に注意し て,
7 1
年に青嵩抽出物から結晶を得て,青嵩素A r t e m i s i n i n
と命名した。 セスキテルペンラ クトンの構造が確定したのは,8 0
年代になって からである。臨床治癒率は1 0 0
彩に達しクロロ キンと比し速効・低毒という特徴がある。1 9 7 0
年,中医研究院に腫瘍実験室と生化実験 室が完成し,9 0
種の漢薬による動物移植性癌にCH3
比C
A r t e m i s i n i n
対する影響の研究が開始された。章栄烈博士の指導によって「猪苓抽出物の抗腫瘍作用」が発見 され,
7 5
年に衛生部の重点項目に選ばれた。猪苓多糖類はウイルス性肝炎に有効であり,また化 学療法によって起こされた副反応を改善するなどの,臨床上の効果が明らかになりつつある。猪 苓は真菌類サルノコシカケ科P o l y p o r a c e a e
チョレイマッタケPolyporusumbellatus ( P e r s . )
FRIES
菌核で,ミズナラ・プナ・モミジなどの樹根に寄生する。猪苓多糖はシイクケの多糖Len‑
‑137‑
関西大学「社会学部紀要」第
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巻第1
号t i n a n ( 6 9 )
と近い構造をもっているという。以上,馬王堆の発掘も青嵩素の発見も猪苓多糖の抗癌作用の発見も,いずれも文化大革命時代 の成果である点は注意すべきだと思う。文化大革命はいま否定的に論じられているが,それだけ では中薬所の成果を説明できない。社会が緊張状態にあると,科学上もよい仕事ができるという
ことではないかと思う。つぎは所属の新旧の研究員について,数人の履歴を載せておく。
趙橘黄
1883‑1960
江蘇武進に生まれる。1 9 1 0
年東京薬学専門学校を卒業。東京帝国大学薬 学科の長井長義・下山順一郎について学ぶ。辛亥革命に参加。沈陽医学院教授,北京大学医学院 中薬研究所研究員など歴任。解放後,北京医学院教授,中央衛生研究院中国医薬研究所を経て中 医研究院中薬所研究員。息女の愛華さんがいま中薬所にいる。劉紹光
1 8 9 7
年湖北洪湖に生まれる。1 9 2 4
年北京協和医学院第1
回卒業生,医学博士。2 5
年独 乙ベルリン大学へ公費留学後,米国シカゴ大学で生物物理学その他を学ぶ。3 2
年帰国,南京衛生 署に薬物研究所を設立,3 7
年中央薬物研究所所長,日中戦争のため昆明へ移る。この間,防己・貝母・紅花・当帰・黄苓・益母草の薬理研究を実施。
5 5
年衛生部中医研究院中薬所研究員,5 7
年 反右派闘争のため離院。8 4
年『一元数理論初探」(中国展望出版社)を出版。章栄烈
1 9 2 2
年福建恵安に生まれる。4 1
年満洲医科大学薬学専門部卒。沈陽医学院副教教。5 5
年中医研究院針灸所基礎研究室に所属。59‑61
年「西医学中医進修」学習後,中薬の実験研究を 開始,7 0
年から中草薬の動物移植性腫瘍への影響を探索し,7 5
年に猪苓提取物の抗癌作用を発見 した。7 8
年ジュネープで開催された「伝統医学植物性腫瘍治療薬」のシンポジウムに,猪苓多糖 の研究を発表,8 3
年東京薬科大学,9 0
年富山医科薬科大学の客員授教に招かれるなど,国際活動 にも努めている。屠吻晩(女性)
1 9 3 0
年浙江寧波市に生まれる。5 5
年北京医学院薬学系卒。中医研究院中薬所 に分配され,半辺蓮や銀柴胡の生薬学的研究や衛生部の「抱炎経験集成」の資料集収に従事。6 7
年から抗癒新薬の研究を始め,7 1
年に青嵩から温度に注意して有効成分を抽出することに成功した。
7 2
年には青嵩素の結晶を得た。現在,中薬所研究員。7 8
年国家科技成果奨,7 9
年国家発明奨 を受けた。中医基礎理論研究所 基礎所と言われることが多い。
1 9 8 5
年の設立でもっとも新しい研究所で ある。中医の基礎理論の科学的研究については頭初から計画があり,8 0
年に院長直属の中心実験 室として具体化され,それを拡充した研究所である。研究者の人材難などから設立が遅れて・いたという。
任務は,伝統的方法と現代科学技術の方法を用い,中医理論と中医実験科学を研究発展させ,
中医学術の水準を高め,中医理論を系統化し,弁証論治を規範化し,四診を客観化することにあ る。研究中の分野には,牌津痰湿証の原理,肝血風派証治の原理,心痛急症の実験,活血化派治 則の実験,軟堅散結治則の実験,中医信息系の研究などがある。
研究室は
1 2
室からはじまって今は1 7
室ある。伝統科学を主とするつぎの6
室と‑138‑
1中医弁証1―1中医治則 1―I中医養生 I―I中医診法 l―l中医哲学 l―l中医剤型改革 l
現代科学技術を装備し,中医実験科学の発展を目的とした次の 11室から成る。
1細胞生物 Ic細胞化学と細胞培養を含む)―|病理 1-1 生理 I—I 生化学 1-1 免疫 I—日~リ
-lh面~-I 儀器分析 1―I 医用儀器 1-1 電子計算機 1―I 電子顕微鏡 I
設立頭初は
1 3 2
名,現在21 0
名。中高級科学技術者は60
名。所長は胡定邦。基礎理論研究課題と応用開発課題の比率は
7 :3
の範囲にしたいというが, 応用開発の圧力は 強まるにちがいない。広安門医院・悔淀医院・吉川公庄嶺市紅光製薬廠など1 5
の単位と協同研究 した「脳血康」内服液は, 活血化療破血散結の薬で, 中風の半身不随や高血圧などに適用され る。 「盆腎燭痺丸」や「心痛気霧剤」などを準備中である。このような中医理論の実証研究は,このごろはやりのようで北京中医学院
( 8 2 )
をはじめ,各処に中医の理論研究所が設立されてい る。ようやく中医理論実証の可能性が見えてきたということであろう。3
針 灸 所 と 骨 研 所針灸所は針灸研究所,骨研所は骨傷科研究所である。
針灸研究所 針灸については延安時代
(1935‑45)
から赤軍に普及しており,毛沢東や江青を はじめとして理解者が多かった。1 9 5 1
年に創設された中央衛生部直属の針灸療法実験所(西城区 馬市大街)を基礎に設立し,5 8
年に広安門に移り,7 1
年東直門内大白楼,7 9
年に新館へ移った。5 8
年に上海と西安で臨床応用がはじまった針麻酔が,全国的世界的に注目されたこともあって,もっとも国際化に配慮した研究所である。
研究の任務と方向については, 伝統医学と現代医学(現代科学を含む)の知識と方法を運用 し,針灸の臨床研究と原理研究・文献研究を進め,針灸治療の規律を総括し,針灸の操作技術を 研究し,針灸の原理と経絡の実質を検討する。また全国の針灸研究の発展に協力し,国際針灸培 訓中心を充分に活用し,国際的に針灸の学術交流を強化するという。
研究室は針灸の臨床部分として 臨床―
I c
神経系統疾病を主とする)I
臨床二 (循環系統疾病を主とする) I臨床三 LE消化系統疾病を主とする)I臨床四 I
c
外科・小児科・皮膚科・ロ腔科を含む)~, 気 功
I I
中医内科I
があり,また基礎部分である経絡の1
原理第―I c
生理学)1原理第二I
c
病理生理学) 1原理第三 Ic
生物化学) 1原理第四 Ic
組織化学)[而面面汀(解剖学)がある。別に「中国針灸」「針刺研究」編輯室,針灸文献研究室もある。
前身である衛生部の針灸療法実験所は
2 6
名編成だったが,5 5
年の新発足時に1 0 6
名,現在3 5 0
名,高中級科学技術者は79
名である。はやく
1 9 5 6
年4
月から3
か月間,ソ連保険部派遣の針灸考察組3
名を受け入れ,同年8
月か関西大学『社会学部紀要』第
2 4
巻第1
号ら半年間朝鮮政府派遣の考察団
4
名を受け入れた。後者は針灸のみならず内科・中薬・医史も学 習した。建院十年間(55‑65)
に1 3
の国際学習班を編成し,1 1 0
名の外国進修生と実習生を訓練くんれんセンクー
した。
7 5
年からはWHO
と衛生部の要請で,国際針灸培訓中心を設け, 国際的に針灸師を養成 している。9 0
年までに8 0
か国1 , 6 1 7
名を教育した。英語・フランス語・スペイン語・日本語の語 種があり,3
か月のコースを中心にかなり任意に短期コースを設けている。いまは上海・南京を はじめ各地の中医学院に,国際培訓中心を設けている。8 4
年にはWHO
の針灸研究協力中心に 認定された。毛沢東思想によると,働くものには無料で食事を出すというのが根本である。どこへ行っても 公立の食堂があるが,中医研究院にも大きな職工食堂があって,職員は安く食事をすることがで きる。その隣りに
6
卓の外人食堂が付属しており,中国人も食べられるが市価ぐらいで職工食堂ワイビン ありません おまちく
に比べると高い。外人はこの外実餐庁で食事をするのが立て前である。しかし「没有」と「等一
ださい メニュー
等」がこの食堂の特徴である。
50 60
種の立派な菜単はあるが,実際は数種しか選択の余地はな<'10
人も客が集まると半時間から1
時間も待たされるので,呆きれて院外の食堂へ移っていく という状況だった。この食堂が外人同士のコミュニケーションの場である。大部分は針灸の訓練 生だったが,気功や耳針などの講習の人もいた。北京医科大学医史系の程之範授教や,針麻酔の 発展史を調べておられる上海市中医文献館の王魃楚館長には,ここでお会いした。訓練生の中に は日本の医師や,王府井の中国協和医大の卒業生もいたが,ホリステック・テラピストや針灸学 校の卒業生などの治療の実際家が多かった。訓練生から聞くと,実習では肝臓病や中風や顔面神 経痛の患者が多いという。訓練生は米国やヨーロッパ系が多く,中国語もわからず来京する若い女性の冒険心には敬服す る。ついで華僑系のヨーロッパ人が多かった。米国人は陽気であいそがいい。ョーロッパ系は内 省的で個人主義である。日本人は一人では猫のようにおとなしいが,集団になると傍若無人であ る。香港から来た中医は元はだしの医者で江西省生まれだと言っていた。
9 1
年8
月からは台湾か ら最初の訓練生3
人が来た。国内の民族問題と共に,同文同語どころか漢人そのものの台湾・香 港・華僑問題をどのようにさばくのか,まさに複雑怪奇で単ーに慣れた著者の理解の及ぶところ でない。所属の有名な研究員について略歴をのせておく。
高風桐
1887‑1962
北京人。店員の家に生まれ中医内科と針灸を学習。1 5
年から町医者,2 2
年北平外城官医院中医師,3 0
年北京国医学院教員。5 0
年北京市中医門診部主任,北京医学院顧 問,中医進修学校教員などを経て,5 6
年中医研究院針灸研究所副所長( 5 5 ‑ 6 1 ) ,
北京市第1
回 人民代表大会代表。魏如恕
1906‑84
遼寧蓋県に生まれる。満洲医科大学卒。高森内科に入局後,東亜医学研究 所の岡西為人博士の指導を受け,4 0
年「悽の歴史研究」により医学博士。満大は地方病で業績を 挙げたが,甲状腺腫はとくに熱河省に多かった。4 7
年沈陽医学院附属医院長兼内科教教。大連医‑140‑
学院を経て中西医結合研究の「全国高等医学院校針灸師資訓練班」
( 5 5 )
に参加後, 衛生部中医 研究院針灸研究所へはいり,消化系統疾病研究室主任。東亜医学研究所の「宋以前医籍考」の原 稿は魏先生の斡旋によって,人民衛生出版社から刊行されたという。著者は8 2
年に訪華したとき 拝顔することをえた。朱漣(女性)
1909‑78
江蘇漂陽の生まれ。蘇州志華産科学校卒。石家荘鉄路医院医者のち開 業。3 5
年共産党に加入,八路軍1 2 9
師衛生部副部長,延安医科大学副校長など。解放後, 中央衛 生部婦幼衛生司副司長兼衛生部針灸療法実験所主任, 衛生部中医研究院副所長兼針灸研究所長( 5 5 ‑ 5 9 ) , 5 6
年4
月毛沢東に接見。南寧市針灸大学校(いま南寧市針灸研究所)長。4 4
年延安時 代に民間医生の任作田から針灸を学習,安全留針法を創造した。著書の『新針灸学』は5 1
年と5 4
年に人民衛生出版社から刊行,第3
版は8 0
年広西人民出版社から出版,5 8
年に朝鮮語訳,5 9
年ロシア語訳。
骨傷科研究所
1 9 7 5
年周恩来総理の指示によって学習班が組まれ,7 7
年に創設された。研究の任務は,中国の伝統医学を継承•発展・運用する各地の多様な流派の貴重な経験を吸収 し,長所を採用し,現代医学知識を運用し整理し高めていくことである。
研究室は 1 骨折 II~面iull 骨病 lln面~11~凹雙リ,~竺門リの
6
室である。総勢2 2 0
名,高中級技術員は2 7
名。中国では5 8
年設立の上海市傷骨科研究所が古く,高中級技術者は3 6
名という。同類の研究所は福建・河南にあり,空軍総医院正骨療法研究中心(北京市八里荘)の凋天有
(1942‑)
主任医師は,中西医結合による軟組織損傷治療の研究で名高い。骨研所の尚 天裕授教も,中西医結合による骨折治療の新療法の創始者である。4
病 院 そ の 他中医研究院には二つの病院に四つの研究所が置かれている。また衛生学校,研究生部,中医雑 誌社がある。
第一臨床医学研究所と老年医学研究所は北京市海淀区西苑,つまり願和園の東側にあり,西苑 医院と言われている。前身は華北医院設立準備処で, 院設立時に附属医院となり,
5 6
年完成開 院,6 2
年西苑医院と命名,内科研究所を増設した。全国の老中医2 0
余名が集まり,内科・婦科・児科などで特徴のある治療をおこない,国内外で有名になった。
任務としては,伝統的方法と現代科学(現代医学を含む)の方法を運用して中医中薬を研究 し,祖国の医薬学の遺産を継承・整理・発揚する。中医中薬の主として常見病や多発病や疑難病 を防治し,高級中医と中西医結合の人材を養成する。主要な研究課題としては,生詠散新製剤の 開発研究,中医中薬による乙型ウイルス肝炎治療の研究,老年医学の研究,中医による冠心病治 療の研究,痛証の研究,中西医結合による急腹症治療,胆管結石の排石療法の研究,中医中薬に よる脳血管病治療の研究,活血化療の研究と中医中薬による白血病治療の研究などがある。:
関西大学「社会学部紀要」第
2 4
巻第1
号研究室としては区丑亘日日~I 日亘亘日日匝邑fil 日~ 日亘邑~IK五I
区 巨 区 巨 圧 が あ る 。
総勢8
7 1
名,ベッド数50 0
床,高中級科技人員は34 8
名。代表的な研究員の略歴をあげておこう。王文鼎
1 8 8 4
ー1 9 7 9
四川江津に生まれる。中学退学後,四川の有名中医・博秋涛に学ぶ。成 都で開業,内科と児科をよくした。2 6
年革命工作に参加,3 6
年入党。解放後,四川省監察委員会 委員など歴任,5 5
年周総理の号召をうけて中医研究院工作に参加,学術秘書処副処長。岳美中
1900‑82
河北深県に生まれる。鋤雲医社や尚志学社を興し教教。解放後,唐山市中 医公会主任,華北中医実験所医務主任を経て,5 5
年中医研究院内科主任。中華医学会副会長。とくに老年医学研究に成果をあげた。『岳美中医案集』『岳美中医話集」などの著書がある。
趙錫武
1902‑80
河南夏邑に生まれる。国医公会の医学講習所で学習,中医学社を組織し中 医学術活動を行う。解放後,中医研究院西苑医院の心血管病研究室主任,副院長。第3
回全人代 会代表。施莫邦管理部門の項に述べる。
第二臨床医学研究所と眼科研究所は北京市広安門内北錢閣
5
号にある。中医研究院は頭初ここ から始まった。いまは広安門医院という。任務としては臨床と実験研究を主とし,中医と西学中と西医など多方面の能力を組織し,中医 の臨床と理論に整理と継承と研究を進める。研究室は,基礎・内科・外科・泌尿科・皮科・腫瘤
・肛腸・骨科のほか,研究所組織の眼科がある。
総勢は
9 3 0
名,ベッド数50 0
床,高中級科技人員は2 0 9
名。現在有名な2
人の研究員について略 歴を載せておく。唐由之
1 9 2 6
年浙江杭州市に生まれる。4 2
年中医眼科入門, 学習5
年蘇州に眼科分診所を開 く。5 1
年聯合診所工作に加入。5 2
年北京医学院医療系に入学,5 7
年卒。中医研究院に分配,中医 眼科研究に従事,6 9
年白内障手術の出器と粉砕器を考案,8 5
年国家科学技術進歩奨をえた。5
7
回の人民代表大会の代表。78
年から中国中医研究院副所長,研究員。北京中医学院名誉教授。史兆岐
1 9 3 5
年河北豊潤の生まれ。5 9
年沈陽医学院卒。肛腸外科に従事,中薬五倍子や明磐の 有効成分を使用した「消痔霊」注射液の成功によって,8 5
年国家科学技術進歩奨をえた。広安門 医院副主任医師。衛生学校
1 9 7 3
年西苑医院に護士学校を開校。7 5
年,7 7
年に薬剤士系を増設, ともに定員1 0 0
名。8 0
年衛生学校に改名,8 7
年護士と実験技士の両専攻を増設,総学生数18 0
名,教職員は33
名。 資格は初中卒,履修は3年,医士などの称号を与えられる。一定期間職業についたのち大学へ進 学もできる。全国に中等医薬学校は55 4
校ある。なお高等医薬院は1
2 1
校,うち中医学院が29
校である。いわゆる大学にあたる。大学は 1.重点 大学,2 .
普通大学(地方),3 .
専門学校という大きなランク分けがある。中医関係では北京・上海・四川・広州の,いずれも56年創設の
4
校が重点大学で,残りの25
校は地方大学である。これらの学校名は,各省の招生餅公室が発行す る招生通訊(新聞)によって,志願者に知らされる。研究生部 日本の大学院にあたる。
1976
年に全国中医研究班として 開班。78
年国家研究制度の回復によって研究生訓練の単位となり,第1
回碩士研究生1 0 0
名を受け入れ,84
年には博士生の受け入れを始め た。西苑医院内にあり,碩士第一年のみここで教育し,以後は各専攻 の教授の指導を受ける。部には内科・傷寒・金置・温病の4
教研室と,自然弁証法・各家学説•本草・外国語教研室がある。教職員41 名。各 中医学院の研究機構が整ったこともあり,現在の応募者は碩士20 30 名,博士は
7 8
名という。公費留学については教育処が選抜を行う。
9 1
年度は1 5
名, うちWHO
笹川医学奨学金(1
万$)によるもの1 1
名,国家教委EPT
考 試合格者中4
名(笹川の半額という)の決定があった。中医雑志社 中医研究院と中華全国中医学会の共同事業で,基礎所 の
5
階にある。「中医雑志」は1955‑66
年停刊,72
年「新医薬学雑志」刊行,
79
年「中医雑志」の原名にもどる。月刊,80
ページ。毎号13
万中国の学制
初 中
小 学
前後発行。
8 1
年英文版創刊,季刊,80
ページ。毎号2,000
前後。87
年日本語版(月刊)創刊,89
年停刊。総勢33名。社長,黄宏昌。一時は30万近く発行したが,地方の雑誌が出てきたために減少したという。参考に医者の人数 の統計をあげておく。医者には大学出の医師と衛生学校出の医士があり,総数ではほぼ等しいか すこし医士が少ない。西医と中医の比率は
3 :1
くらいと見てよいと思う。病院は全国合計1
万6,929
院, うち中医専門は2,046
院にすぎないが, 薬品と中薬の生産実績(金額)比率も, ほぼ3 : 1
と医者数に見合っている。西医と中医は平等であり, 近頃は民族医療も制度として認めら中国医療従事者数(万人)
年 医生 中医 西医 毎人口医生 人口
1 9 4 9 3 6 . 3 2 7 . 6 8 . 7 0 . 6 7 5 4 , 1 6 7
1 9 5 2 4 2 . 5 3 0 . 6 1 1 . 9 0 . 7 4 5 7 , 4 8 2
1 9 5 7 5 4 . 7 3 3 . 7 2 1 . 0 0 . 8 4 6 4 , 6 5 3
1 9 6 2 6 8 . 8 3 4 . 4 3 4 . 4 1 . 0 2 6 7 , 2 9 5
1 9 6 5 7 6 . 3 3 2 . 1 4 4 . 2 1 . 0 5 7 2 , 5 3 8
1 9 7 0 7 0 . 2 2 2 . 5 4 7 . 7 0 . 8 5 8 2 , 9 9 2
1 9 7 5 8 7 . 8 2 2 . 9 6 4 . 9 0 . 9 5 9 2 , 4 2 0
1 9 8 0 1 1 5 . 3 2 6 . 2 8 9 . 1 1 . 1 7 9 8 , 7 0 5
1 9 8 5 1 4 1 . 3 3 3 . 6 1 0 7 . 5 1 . 3 6 1 0 4 , 5 3 2
1 9 8 9 1 7 1 . 8 3 6 . 9 1 3 4 . 3 1 . 3 1 1 1 1 , 1 9 1
医生は大学卒の医師と衛生学校出の医士を合わせていう。関西大学「社会学部紀要」第
2 4
巻第1
号れ,多様化の方向にあることは医史所の少数民族のところで触れた。
5
管理部門と小史管理部門と院の歴史の概略について述べる。
管理機構 著者は所究所に所属したから,管理系統になじみが薄かった点は止むをえない。さ いわい博世垣院長が新任したとき, 新首脳
6
名の任命が合わせて発表された。そのときの「院 報」を手掛りに考えてみたい5 )
。 まずそれを図示してみよう。用語がちがっていて理解しにくい中国中医研究院首脳序列 党 委 書 記 張 風 棲 党委副書記 房 書 亭
院 長 博 世 垣
副 院 長 唐 由 之
同 李 振 吉
同 高 徳
点もあるが, 日本の研究所の組織表などと比較して説明すると,つぎのようになる。所在は大白 楼西側
2 4
階にある。行 政 管 理 機 構
李 高
5)
院報,2 2 6
期,1 9 9 0
年7
月1 4
日。業 務 分 担
中 医 基 礎 理 論 所 図 書 情 報 所
いわゆる日本の管理部門と組合とを合わせたような形である。一元化によって合理的科学的に 運営できるということであろう。ただ組合の委員長を党委書記に当てると,院長は書記(副も)
の下位にある点がちがう。院下の研究所や大学などみな同様である。党の優位という点は社会主 しかし書記を系列から派遣された社長や理事長と見なせば,院長が下位に 義国の特徴であろう。
あって当前であって資本主義国の制度と大差ない, とも言える。
ちである。
資本主義では資本の論理が優先し,合理主義でなく合利主義に,仁術を超えて算術を指向しが ストレスや過労死などの多くが資本主義の産物という気がする。 著者の友人の一人 は,大会社から小会社の所究所長にうつって声が出なくなり,いまも病床に伏している。先輩の 一人は小会社の社長にうつって間もなく倒れ,死んでしまった。二人とも優秀な企業戦士であっ
プロレタリア
たから,資本主義の犠牲者のように思えてならない。中国では労働者が主役である。客のことよ
ど か た
り職場の環境の方が優先である。党の創立記念事業として,李鵬首相や江沢民総書記が土方仕事 をしているのを, T Vで放映していた。ショーであるにせよソ連の首脳陣が, そういう原点に戻 れれば,解散にまで追い込まれることはなかったのではないかと思う。
社会主義では党の論理が支配して当前である。著者は中国旅行のたびに, エレベーター係や受 付に何人も人を置くなどは非合理のように思っていた。実館の受付の外に机を用意したと思った ら,次の日から老人が交代で放置自転車などの見張番をつとめるようになっていた。非合利だけ れども,定年退休者のための雇用対策だとわかるのには時間がいった。係があると補助ができ,
見習を置くということで仕事ができていく。この当局の雇用の工夫をくぐって,外人の多い建国 門には子連れの中年の女乞食が出没する。さすがに中国人はしたたかである。
各支部の党書記あるいは行政幹部が,中国の社会主義を支えているのである。しかし,人口 11 億余のうち党員数は世界最多の