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福岡大学と〈植民地〉 (2)

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福岡大学と〈植民地〉 (2)

1930

年代〜1960年代

福 嶋 寛 之

(前号より続く)

第2章 戦前期、外地への就職状況

まず、福岡高商生の全般的な進路状況から確認したい。12年9月卒業生 を対象とした進路調査でみれば、卒業生全15名のうち進学(志望者含) 6名(内、9名が九州帝大入学者)、自家経営者が14名、その他が10名で、こ れらを除いた15名が就職者となっている。就職者を業種別でみると、例年

「会社及商店」が7〜8割で、残りを「官庁及学校」「銀行」で分ける格好と なっている。一方、進学者について見れば、九州帝大への進学者がいたよう に、福岡高商は旧制高校を経ない帝大進学というバイバス・ルートとしての機 能を有していた。もちろん東京商大や神戸商大といった、商学の道を究める道 も想定されている。ただ数から見れば、やはり卒業後は就職というのが大多 数であった(比率では77.1%)。そこには当時の就職活動マニュアル本にも紹介 されていたような、高等商業学校にまで到達することで得られる社会的地位へ の期待も当然あったはずである

再び12年9月卒業生の進路調査に戻って、就職者15名のうち勤務地に ついて見ていけば、このときの最多は大阪地方49名、続いて外地40名、九州

福岡大学人文学部准教授

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地方31名、東京地方15名となっている。さらに外地の内訳をみていくと、「満 洲支那」方面が32名と圧倒的で、朝鮮地方6名、南洋方面2名となっている。

つまり12年9月卒業生の場合、約4分の1が外地に就職し、そのうち8割 が「満洲支那」へと渡っていった。そこで、戦前期では最も遅く作製された 2年12月現在の同窓会名簿『友信会員名簿』に依拠して、それまでの卒業 (7期生まで)が、どこにどれだけ居住(≒就職)しているのかを抽出してみ よう。それによると、福岡県が46名と他を圧倒している。ただし地元福岡 の場合、現住所不明者や徴兵での帰郷者などが含まれていると考えられるから、

かなり差し引く必要がある。続く2位が東京府(18名)、そして3位以降に満 (84名)、朝鮮(77名)、中華民国(59名)と続き、その後、大阪府(54名) 長崎県(54名)と内地に戻る。ただ、以上はあくまで12年段階で切り取っ てみたいわば断面であるから、就職先のトレンドの推移や就職後の移動(異動)

状況までは考慮されていない。よって、もう少し時間の幅をとって考察してみ る必要があろう。

【表5】は、残存する限りの同窓会名簿を用いて、その時点時点での居住地 (≒勤務地先)の推移を見ていったものである。これによると当初、外地就 職先は朝鮮が主であったこと、それが10年頃より満洲・中華民国へと急速 にシフトしていったことが明らかである。特に中華民国は当初ゼロであったこ とが注目される。後に見るように、この時期は帝国日本が中国占領地に国策企 業を乱立させていった時期と重なっている。つまり就職先のトレンドの推移と 帝国日本の膨張の軌跡は符合していた。この点は既に就職で外地へと渡ってい た既卒者たちにもあてはまる。【表6】は第1期(16年度卒)生の外地での移 動状況を個人レベルで追跡し、その結果を再び数字で示していったものである。

これによると多くは当初、朝鮮に就職していったこと、それがやはり10年 頃を境に満洲・中華民国へと移動(異動・転職)していった傾向が明瞭に見て とれる(反対に満洲から朝鮮へ、といった事例はない)。このように新卒者だけで

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なく既卒者もまた満洲・

中華民国に流入していっ たことで、これら両地域 の総数が急増することに なるわけである。

こうした動向は、同窓 会支部の設置状況からも うかがえる。同窓会支部 は い わ ば 卒 業 生 の 蓄 積 度を示すバロメーターと 言える。同窓会誌『友信』

(1〜6号、17年12月号〜

2年11月号)での掲載 初 出 順 と い う 形 で し か 示 せ な い が、支 部 の 所 在 地 は 朝 鮮(17年) 北九 州・大 連(19年) 大 阪・京 浜(10年)、奉 (11年)といった 具 合 と な る【写 真】参 照) 広がり方をみれば、内・

外地問わず、そして外地 では朝鮮から満洲へと確 実に卒業生が蓄積されて い っ た 様 相 が み て と れ 。そして外地へと就

【表5】外地在住卒業生数の推移

1937年 1939年 1940年 1941年 1942年

朝 鮮

京城府

17 10

29 13

53 30

55 33

77 37

平壌府 2 3 4 1 5

元山府 1 1 1

仁川府 1 3 2 1 4

大邱府 1 1 2 2

木浦府 1 ― 1 1

釜山府 1 5 4 6

その他 2 9 10 12 21

台 湾

台北市 2

2 6

3 10

3 18

11

台中市 ― 1 1 4 1

基隆市 ― 1 ― ― 2

高雄市 ― 1 1 1

その他 ― 1 2 3

関東州 大連市 5 4

6 6 7 7

6 6 1110

その他 1 0 0 1

満 洲

新京 3

1 19

4 43

24 54

21 84

37 奉天市 ― 3 11 18 22

鞍山市 ― 3 2 4 7

撫順市 ― 2 2 2 2

その他 2 7 4 9 16

中 華 民 国

上海

0 2 26 13

34 13

59 22

北京市 4 8 13

天津市 2 ― 4

その他 2 7 13 20

マニラ 1 1 1 1 1

ジャワ 1

計 28 59 136 160 251

【表6】1期生(17年3月卒者)の移動状況

1937年段階 1940年段階 1941年段階 1942年段階

朝鮮 17 10 6 8

台湾 2 1 3 2

関東州 5 1 1 2

満洲 3 12 12 10

中華民国 0 4 4 6

その他 1 1 1 2

計 28 29 26 30

【注】1937、39年分は同窓会誌『友信』1号(1937年12月)、同 2号(1939年3月)よ り、以 降 は『友 信 会 員 名 簿』(1940年〜

1942年)より作成。いずれの年も12月段階での統計。地域名称 や区分は史料のまま。―は項目が立てられていないことを示す。

大半は具体的な勤務先まで記載されているが、記載の無い者、記 載はあっても「入隊中」とされている者も数に加えている。

【注】【表5】と同じ史料から作成。初めは内地に就職し、その後、

外地へ渡っていった者も含んでいるから総数に若干の変動が ある。

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【写真】

【注】上からそれぞれ、『友信』1号(1937年12月)、同2号(1939年3月)より。

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職していった学生たちは、もともと外地出身者であった(つまりは親元へ戻って いった)場合もあったが、数としてはそれ以上に、就職で初めて外地へ渡る者 のほうが多かった。つまり外地から内地へ入ってくる(入学する)以上に、内 地から外地に出て行った(就職していった)数のほうが多かった。そのような外 地への、特に満洲・中華民国へと卒業生たちを強力に吸引していったのが、帝 国日本によって創設された国策企業であった。

以下、15年以前で最も遅く作製された同窓会名簿『友信会員名簿』12年 2月現在)に依拠して、その時点での外地就職者たちの勤務先を見ていこう(7

期生までの累積)。ただし実際には、ある特定の企業に集中するというより、所 属先はかなり多岐にわたっている。よって数の多い順に並べていく方法をとれ ば、所属先を膨大に列挙するだけに終わる。以下ではやや乱暴になるが、傾向 を読み取ることに力点を置いて見てきたい

まず満洲からみていくと、12年時点で全84名、所属先としては多い順に 満洲炭鉱(5名)、昭和製鋼所、満洲中央銀行、満洲航空(いずれも4名)となっ ている。全84名でこの内訳数だから、いかに所属先が多岐にわたっていたか が分かる。ただ上記所属先も含め、他に満洲電電、満洲重機、満洲林業といっ たものも含めれば、やがて満洲重工業開発株式会社「満業」傘下に入る特殊 会社・準特殊会社が多いことは確かである。加えて、そうした国策企業に融 資を行う満洲興業銀行、そして中央銀行である満洲中央銀行などの存在も含め れば、総じて、10年代に続々と創設されていった新興の国策企業への就職 が多かったと言える。中華民国の場合、その傾向はさらに顕著である。日中戦 争勃発の翌年の18年以降、帝国日本によって華北ならびに華中占領地で開 発会社、およびその子会社が続々と設立されていく。既卒者も含め福岡高商か らの就職者が現れるのはそのすぐ後の10年頃からである。12年時点で中 華民国での就職者は全59名、そのなかで代表的な所属先を挙げると、華北で は開発会社・北支那開発株式会社傘下の華北電通(3名)、華北交通(2名)。華

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中では開発会社・中支那振興株式会社傘下の華中水電(3名)ほか、同系列会 社への就職者が確認できる。では、朝鮮はどうか。先に触れた通り、当初、外 地就職先で最も多かったのは朝鮮であった。日本統治下にはいって20数年と いうこともあって新興よりも既成の企業が多い。12年時点で朝鮮での就職 者は全77名、そのうち最多は朝鮮運送会社(12名)、ほか朝鮮銀行(5名)、朝 鮮殖産銀行、朝鮮総督府(ともに4名)となっている。最後に少数ではあるが 特徴的なものを挙げれば、傀儡政権・蒙疆政権下の蒙疆銀行(4名)や龍烟鉄 (1名)への就職が確認される。特に蒙疆銀行の場合、短期間ながら毎年採 用されている。また太平洋戦争期における南方占領地への就職については、デー タが12年までということもあって1名だけだが、ジャワの石原産業への就 職が確認できる。

以上、全ての事例に該当するわけではないが、急激に就職者数を伸ばしていっ た満洲・中華民国の事例に即してみれば、〈帝国日本による占領→資源開発の 国策会社、および資金提供のための銀行の創設→そこへの就職〉といった傾向 が認められる。再び【表5】で中華民国内での居住先≒赴任先をみていくと、

北京や上海といった大都市以外の「その他」が急増していることが確認でき る。これはおそらく新規占領地を指しているのだろう。先に触れた蒙疆政権下 の蒙疆銀行(本店は張河口)への就職はその典型である。福岡高商生からすれ ば帝国日本の膨張ゆえに彼の地に就職できたのであって、その意味ではまさし く日本帝国主義の先兵としてあった。

とはいえ、そのように規定するだけではあまりに一般的であるのも確かで、

重要なのは彼らのどのような能力・役割が期待されて、植民地・占領地に吸引 されていったのか、という点であろう。日中戦争勃発以前の16年段階のも のになるが、当時の就職活動マニュアルともいうべき書籍には次のように述べ られている。

満洲や朝鮮に対する労働者としての移民は、国家の保護奨励策にも拘はら

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ず、まづ絶望に近いと見られてゐる。しかし、技術者にしろ、事務者にし ろ、知識労働者の就職領域としては、その反対に、内地よりはむしろ有望 なのである。特に、新設、新興会社の指導的役目を受持つ高級社員は、内 地人の高等教育を受けた者でなければ駄目だ。

確かに単純労働者であれば現地調達が可能であったろう。しかし急速に乱立 した国策企業での、それゆえに即戦力として期待された実務レベルでの中核者 は「内地人の高等教育を受けた者でなければ駄目だ」った。これに依拠すれば、

福岡高商生は日本帝国主義の先兵ではあったが一兵卒だったわけではない。で は具体的に福岡高商生の何が期待されていたのか。勤務先まで多く記されてい る卒業生たちの住所録で、どのような部署に配属されていたのかをうかがえ ば、内・外地を問わず資金課・会計課・経理部・為替課などとなっている。つ まり当然といえば当然だが、周囲から求められていたのは、実のところ簿記や 会計といった地味だが堅実な実務能力であった。冒頭で触れた通り、確かに福 岡高商では「植民政策」「東洋経済事情」「支那語」など、大陸経営を意識した いわば「帝国日本の学知」を体現する花形科目が存在していた。しかし実際に カリキュラム表をみれば、「支那語」(第2外国語)は週2時間、「東洋経済事 情」や「植民政策」などは1年限りの週1時間といった程度の配当で、大半は

「銀行及金融」「簿記」「商法、手形法及小切手法」「会計学」「原価計算」と いった実務に関する科目となっている。

もっとも、「簿記」や「会計学」などの科目で養成されるのはまさしく実務 能力であって、それが大陸進出という結果を自動的にもたらすわけではない。

そして冒頭(前号)で述べたように、この時点の福岡高商において何か目立っ た教育実績があったわけでもない。とすれば、大陸への人材供給といった帝国 日本の要請そのものが福岡高商の、そして高商一般で養成された人材を吸引し ていったと見たほうがよい。この点を他の高商と並べる形で検証してみたい。

【表7】は、代表的な官立高商3校、そして私立福岡高商の前と後の時期に

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開校した私立の高商2校、それに福岡高商を加えて計6校で比較したものであ る。これによると「需要申込数」、分かりやすく言えば先方から学校へと声が かかる数はやはり官立が圧倒している。平均値で比較しても官立が6倍であっ たのに対し、私立は3倍となっており、この点での官立/私立の差は顕著であ る。実際、先発・官立の山口高商などは18年度卒業生まで(累積約5,0名)

で、朝鮮に約30名、満洲国に約40名、中華民国に約10名送り出しており 実績において福岡高商と比較にならない。しかし重要なのは、もたらされる結 果、すなわち平均月給においては変わらないという点である。【表7】の特徴 はむしろ凹凸が無いという点にこそある。つまりここから確認できるのは、ま ずは官立が享受する植民地・占領地からの〈恩恵〉、それが私立の、地方の、そ して後進の、福岡高商にまで及んでいるという構図なのである

厚生省職業部の資料によれば、11年には法経文科で30.5% にまで落ち込 んだ大学専門学校生の就職率は、日中戦争勃発後の19年には73.1% にまで なっていったように、高等教育出身者の就職率は戦時期にかけて急速に回復 していった。福岡高商の場合、第1期生を送り出したのが17年ということ もあって実は不況知らずで、公式発表では就職率10% であり続けた。学内の 新聞を見ても景気の良い記事が並び続けており、例えば日中戦争下の18年

【表7】他校との比較

需要申込員数 就 職 希 望 者 に 対 す る倍率

就 職 決 定 率

(%)

月給(円)

内地 外地

最高/最低 平均 満洲 北、南、中支

官 立

長崎高商 417 124 43 2.53 100 75/45 62 山口高商 974 515 61 9.10 100 140/60 80 大分高商 901 217 46 9.54 98 75/40 63 平均 6.67 99 180/40 63 私

大倉高商 763 70 19 4.88 100 75/50 60 福岡高商 250 42 18 2.29 100 135/55 65 鹿児島高商 241 150 18 2.79 96 135/40 75 平均 3.11 99 220/40 65

【注】文部省実業学務局『昭和十五年五月現在 官公私立実業専門学校ニ関スル諸調査』(55〜59頁)

より作成。地域名、分類は史料のまま(朝鮮・台湾がどこに入るか直接は不明となる分類である)。 なお原史料では、「外地」の項目であと「南洋」「其ノ他」と続くが、どの学校もほとんど空欄であっ たため省略した。

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には「時局を反映した朗らかな就職戦線」といった見出しの記事が確認でき る。まさしく「時局」(日中戦争)は「朗らかな就職戦線」をもたらしたのであ (他校も同様だったことは【表7】参照)。ただ福岡高商の場合、上海などに進 出していた三井・三菱などの既成財閥への就職事例がほとんど確認できないの も確かで、私立の、地方の、後進の学校であった福岡高商は、戦時期の、占領 地の、したがって新興の国策企業との間でこそ相性が良かったと言える。

とはいえ13年の学徒出陣に象徴されるように、やがて本格化していく戦 時動員=徴兵は、せっかく養成し配置した人材を、無作為かつ突然に兵士とし て戦場に引き抜いていく。ただし徴兵がもたらす影響は単純ではない。徴兵は 確かに人材を戦場へと引き抜くが、それゆえに補充という形での人材需要を発 生させる。先に言及したような戦時期になっても上昇し続ける就職率は、こう した要因にも支えられていたと考えられる。この点について、戦争末期までの データが確認できる朝鮮銀行の事例を通して確認してみよう。

まず採用状況をみると、戦時期にもかかわらず、というよりそれゆえに増加 し続け、ピークは13年(54名)で、7年(88名)の約6倍の採用数となっ ている。ただし、14年1月時点での徴兵による入営者の大半が19〜4 年の入行者であったことをみれば、採用してはすぐに徴兵(それゆえに人材補 充)というサイクルであったことが分かる。そして、13年に採用数がピー クを迎えるということは、翌年には下降するということであるから、徴兵に起 因する人材補充策も、徴兵の強度が高まる戦争末期には当然困難になっていっ たと言える。

既に戦時動員という圧力が、男性に代わって女性の、あるいは内地人に代わっ て植民地人の、代替労働力という観点からする一定程度の社会的上昇を促すこ とになった、との指摘が存在している。敗戦へと至る戦争末期でのこの点に 関する詳細な検討は史料的に困難だが(福岡高商も12年以降は詳細な史料を欠 く)、戦時動員の極限的な展開によってこそ引き起こされた変化を戦後初発の

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条件として捉える視点は重要である。次章では、戦後の地点からではあるが、

まずは戦時動員による影響の確認からはじめ、これまで見てきたような内・外 地間の往還(進学/就職)が敗戦にともなう外地喪失という事態によってどの ように変容したのか、そしてその後の戦後日本社会にどのような痕跡を残すの か、考察していきたい。

第3章 戦後の状況

1 内・外地間、双方向での引揚げ

まずは外地に就職していった卒業生たちの戦後から見てみよう。福岡市に本 店を置く福岡銀行による『福岡銀行二十年史』(19年)をみると、敗戦時、行 内は女子と高齢男子が多数を占めていたとされている。言うまでもなく戦時期 の徴兵による影響によるものである。同書はそれを人員構成上の「ひずみ」と 表現するが、しかしこの問題は、18年春頃までには「ほぼ解消し」たとも 述べられている。その是正策の一つとして挙げられているのが、「満洲・朝鮮・

台湾等の外地銀行勤務者で終戦により引揚げてきた者を多数受入れたこと」と いうものである。外地引揚者がどこにどの程度受け入れられたのか(その分、

戦時期に採用された女子職員は退職したと思われるが)、個別企業の事例検討だけで も史料的に困難で、本稿で網羅的な検討を行う準備はない。ただ福岡高商の卒 業生のなかに、先に少し登場した蒙疆銀行から福岡銀行へと移っていった実例 が存在している。

とはいえ福岡高商出身者に限ってみれば、植民地や占領地で培った経験が戦 後日本で活用されていったと一般化できるほどの事例は多くない。15年以 前に植民地・占領地に就職していった卒業生のその後の動向については、残存 する同窓会名簿(17年3月版、13年5月版)は敗戦後の混乱もあって空欄

(所在不明者)が多く、高精度での検討は困難である。あくまで確認できる範囲

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内で、また印象に近くならざるを得ないが、引揚げてきた卒業生たちのその後 と外地勤務時代との強い関連性はあまり見出せない。冒頭で触れた福岡銀行ほ か地場銀行への就職者が多くなるのは、同行が新卒者の定期採用を開始する昭 和20年代半ば、10年代以降のことである

では前章まで検討してきたような、内・外地をまたぐ進学という現象は外地 消滅という事態によってどうなったのか。まず敗戦時、内地に在学していた外 地人学生の処遇からみていこう。16年6月、文部省学校教育局長による「外 国人留日学生取扱に関する件」と題する通牒のなかの「特殊なる場合の取扱」

の項目で、次のような指示が出されている。

従来日本の学制の下に教育せられた在日華僑、台湾人、朝鮮人等のような 学生に就ては日本の学生と同様に取扱うのを原則とする。

通牒のタイトルに改めて注意を払えば、かつて帝国臣民であった彼ら外地人 は、早くも「外国人留日学生」の枠組みのなかで扱われている。ただしここで は「特殊なる場合」の項目で登場しているように、この文脈でならば「日本の 学生と同様に取扱うのを原則とする」とされている。こうした中間的なポジ ションは、日本国籍を喪失する12年の講和条約発効後も続くことになる(後 述)。なお最近の研究によれば、朝鮮半島の混乱もあって17年時点でも1, 名あまりの朝鮮人学生が日本に残留していたことが指摘されているが、数か らすれば多くは敗戦前後に中退し、朝鮮半島に帰還していったと推測される。

旧福岡高商の場合、敗戦時点で朝鮮人学生が1名在籍しているはずだが、敗 戦直後に作成された消息リストでは「中退」と記されている

では、それとは表裏の関係にあった外地在住の内地人はどうなったのか。周 知の通り、彼らの在学していた学校は敗戦にともない閉鎖され、彼らは所謂「引 揚学徒」として内地に帰還することになる。文部省はそうした存在を約2.1万 人と見積もり、内地学校に対し同種・同格の出身校ならば可能な限り引揚学徒 を受け入れるよう再三指示を出していった。したがって【表1】(前号)でみ

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たように、旧福岡高商での外地学校からの入学者は敗戦前よりもかえって増え ることになる。さらに【表1】は卒業までした数であるから、一度でも門をく ぐった存在まで含めると、その数はかなりのものとなる。17年5月時点で の旧福岡高商での集計によれば、同校では京城経済専門学校(19名)、台北経 済専門学校(6名)、京城工業専門学校(4名)、大連経済専門学校(3名)など から、計41名の引揚学徒を受け入れたとされている。最終的に卒業までした 人数(17年度入学生で12名)と比べれば格段に多く、つまりは頻繁な転入・

退学が行われていたことがうかがえ、おそらくは学校としても正確な把握が困 難であったろう。中央省庁(文部省)であればなおさらである。一方、前掲し た彼らの出身校に目を移せば、福岡に近く、また博多港が引揚港となったこと もあって朝鮮の学校出身者が多いが、台北や大連、北京からの学生もいる。ま た同種校だけでなく、京城薬学専門学校(1名)や台北帝大予科(1名)など、

異種の出身者もいる。こうした状況について、京城高商から転入してきたある 学生は、敗戦直後、外地からの様々な経歴をもつ学生が制服を統一する余裕も なく学校にあふれ、「まるで学生のルツボだった」と回想している

ただし、以上は外地からの入学者のあくまで一時的な増加であって、その受 け入れが一段落すると一転してゼロになることは言うまでもない。旧福岡高商 では、外地学校卒業の経歴をもつ入学者は18年度を最後とし、以降復活す ることはなかった【表1】。かくして外地学校出身者という存在そのものが歴 史的な存在となっていく。しかし戦後日本社会と〈外地〉との関係、正確には

〈外地〉を表象する存在との関係がこれで切れるわけではない。植民地なき戦 後日本社会における〈外地〉に関する考察は、むしろここからが本論である。

2 ゼロにはならない朝鮮人学生

日本の敗戦による外地消滅という現実をうけ、これまで見てきたような朝鮮 半島から日本への進学者は、基本的にいなくなる。しかし日本の学校に入学す

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る朝鮮人学生がゼロになるわけではない。それは「密航学生」のことではない。

これまでのように朝鮮半島から渡航を経て入学してきた朝鮮人学生ではなく て、内地育ちの内地学校から進学していった、在日朝鮮人(学生)と呼ばれる ようになる存在がそれである。

以下、福岡高商という具体的な場から検証していこう。第1章(前号)で確 認したように、福岡高商での朝鮮人学生は14年に開校して以来、一貫して 朝鮮の学校を卒業し、渡航を経て入学してきた存在だった。ところが、1 年度に初めて日本内地、具体的には広島の学校(日彰館中)を卒業して入学し てきた学生が現れる(12年生まれ。前号【表4】参照のこと)。そしてそれ以降、志 願者のレベルだが(したがって不合格に終わったか、入学を辞退したか)、毎年確認 できるようになる。例えば、14年度入試では福岡(筑紫中)、大分(宇佐中) 大阪(興国商)からの志願者3名が確認できる。この場合、戦局の悪化もあっ てか朝鮮半島からの志願者がゼロで、すべて内地学校からの志願者であったこ とが注目される。そして15年度入試になると、内地人含め朝鮮半島からの 受験そのものが政策として抑制される。つまり敗戦直前の段階で既に、内・

外地間の移動を伴う進学は物理的に困難になっていたのである

こうした内地学校からの進学、つまり必ずしも適切な表現ではないかもしれ ないが〈内地内進学〉という現象を、もう少し時間の幅を広げて検討してみよ う。ここではサンプリングの範囲として、新学制下第1期卒にあたる12年 度卒業生(短大除く)を始点とし、終点を18年度卒業生と設定する。その根 拠は12年度であれば既に新学制移行に伴う複雑な移行措置がある程度完了 しており把握が容易であること、また敗戦後の混乱が徐々におさまり、その後 長く続く戦後社会一般の特徴を抽出できるとの判断による。他方、終点を1 年度とした根拠は「卒業生名簿」での本籍地記載がこの年で無くなり、以降は 単年度で数千に及ぶ学籍簿を一点一点繰らなければならなくなることによる

(なお、中退者については途中で名簿が抜き去られているから、以下に挙げるデータは

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卒業までした学生ということになる)

さて、当該期間の「卒業生名簿」および学籍簿(教務課所蔵)で本籍地欄を 見ていくと、「韓国」もしくは道名が記された卒業生が17名存在する。各学 年で見れば1〜2名程度の在籍状況だが、ほぼ毎年コンスタントに入学してき ている。専攻は商学部、経済学部が多いが、夜間部(商学部二部)ほか工学部・

薬学部など、この時期に新設された学部も含め万遍なくいる。高度成長期に拡 張されていった大学と歩調を合わせた格好である。そして男女共学の新学制 下だから、1名だけだが女子学生を含む。在日朝鮮人学生について、在籍者総 数はともかく地域別・学校別に把握できる文部省による統計資料はおそらく存 在しないと思われるが、福岡大学での上記在籍者数はやはり多いほうではな いだろう。しかしここでは、少数ながらその存在が確認できること以上に(そ の代わり所属学校は多岐にわたっていたと予想させるが)、入学者が途絶えることな くいたこと、そしておそらくはこれ以降も途絶えることがないことのほうが重 要である。この点に関し、全員が日本の学校(新制高校)を卒業している点 は見逃せない。出身校の所在地でみると17名中14名が福岡県内で、県外は大 阪・岡山・熊本各1名となっている。実際、13年のある校務文書には「在 学中の二名(韓国人、中華民国人)はいづれも終戦前よりの在日者にて……」 とあるから、それ以降の世代に属する彼らはなおさら内地(日本列島内)で育っ た存在とみなして間違いない。内地生まれの朝鮮人の最も早い世代が10年 代後半〜10年代前半生まれであるとすれば、内地生まれ、もしくは内地育 ちのほうが長い世代が高等教育機関に進学する年齢に達するのは、戦中期を含 む10年代以降ということになる。

以上を、これまで検討してきたことと総合させれば、次のように整理できる。

すなわち、第1章(前号)で見たように、戦前期における朝鮮人学生は基本的 に朝鮮半島の学校を卒業し、渡航を経て日本内地の学校へと進学し、私立大学・

旧制専門学校であれば、その9割近くが東京へと向かっていった。そして卒業

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後はほぼ朝鮮へと戻っていったように、戦前期においては朝鮮半島・東京間の 往復が圧倒的に大きな流れとしてあった。よって本稿の舞台である福岡高商で の朝鮮人学生などは、朝鮮半島⇔東京という大流からこぼれ落ちた雫のような 存在と言ってよい。ところが敗戦後になると、朝鮮半島から日本(列島)への 渡航を経ての進学が基本的に消滅するのと入れ替わる形で、内地育ちの内地学 校出身者が入学していく。それゆえに敗戦後も、またそれからかなり時間が経っ た時期でも、朝鮮籍をもつ朝鮮人学生はゼロにはならない。そして、そうした 存在は〈地元〉も含め日本全国の大学へ散らばる形で進学し、卒業後は記載の ある限りでは全てが日本国内にとどまっている。戦前期において、中等教育 レベルであれば朝鮮人学生(生徒)が東京一極集中ではなく全国に分散・遍在 する傾向にあったことは既に述べておいた。このことを再び念頭におけば、い ま見てきたような〈日本で育ち、日本の学校に進学し、日本の国内で就職して いく〉といったサイクルは、戦後日本の各地で展開されていったことにな 。ただし一方で、その移動(進学・就職)の範囲は日本(列島)内に限られ てもいたから、こうしたライフ・サイクルはあくまで日本内部という閉じた世 界で展開されることになる。かくしてかつての帝国臣民たる彼らは、戦後は在 日朝鮮(・台湾人学生としてまさしく日本社会のなかに内部化され、埋め 込まれていく存在となっていったのである。

以上見てきたような日本の学校に在籍する在日朝鮮人学生は、書類のうえで は戦前と同じく本籍地欄で朝鮮籍として記録される存在ではあるが、朝鮮半島 での生活経験の有無という点ひとつとってみても内実は異なっている。何よ り彼らは日本内の学校を通過し続けた存在であった以上、渡航を経るといった イメージを喚起する〈留学生〉との表現を与えては明らかに齟齬を来す。そし て後述するように、日本国籍を喪失する講和条約発効後も彼らは外国人(留学 生)一般とも区別されていた。むしろ実態のうえで字義通りの〈留学生〉と称 されるべき存在は、戦後全く新たに、そして別のところで誕生していた。次に

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見る琉球・沖縄学生がそれである。

3 琉球・沖縄〈留学生〉の誕生

1年1月、各大学長あての文部事務次官通達第2号「昭和26年度琉球人 学生の入学について」では、次のような文言が確認できる。

琉球人留日学生の入学につきましては、一方ならぬ御配意を煩わし……こ れら留学生も深く感謝して……

アメリカによって本土と切断された沖縄は、異法域という点では戦後新たに 創出された「外地」と言えなくもない。そして異法域間をまたぐことになっ た沖縄から本土学校への進学は「留学」として表現されうるものだった。とは いえ後に確認するように、「沖縄在籍者は日本人とする」との扱いであったか ら、外国人一般を想起させる「留学」との表現は公式には避けられている。し かし現に見たように、慣用表現として「留学」と表記してしまう例は多く存在 する。15年度の『文部省年報』をみると、「3 国際文化活動」のうち「留 学生の招致」という項目のなかで、「国費琉球学生」および「奄美公費学生」の 記述が登場している(49頁)。福岡大学での校務文書でも、「……文部省で選定 した外国人留学生および沖縄留学生については、特別に入学を許可することが ある」といった具合に、外国人一般と並べ、ともに「留学生」との表現を与え る例が現に存在している

今みてきたような「沖縄」との表記で示される存在は、〈日本〉人と分類さ れながら〈日本〉ではない地域から日本の学校(日本本土の学校教育法に依拠す る学校。以下、同様)へと入学してきた存在である。それに引きつけて言うなら ば、前節までに検討したような「朝鮮」(との表記で示される、日本の学校に在籍 する在日朝鮮人学生)は、〈日本〉人ではないが〈日本〉のなかから日本の学校 へと進学していった存在と整理することができる。その意味でここでの「朝鮮」

と「沖縄」は、ともに戦後日本社会における境界的存在と言ってよい。実際、

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両者を「二つの在日」として同質性のもとで捉えようとする研究もあり「朝 鮮」と「沖縄」を同一平面で並べる史料も現に存在している(次章、次号)。そ の意味で、戦後日本社会はいわば新・旧外地を表象する境界的存在を抱えて存 在するものであった。もとより、当然のことながら両者は全く同一ではない。

公式には「沖縄」は〈日本〉人であり、「朝鮮」は〈日本〉人ではなかった。本 稿では「沖縄」(で示される本土学校に在籍した沖縄籍学生)について本格的に検 討する余裕はないが、「沖縄」と「朝鮮」との不即不離の関係に着目する立場 から「朝鮮」の位置を際出たせる方法として「沖縄」を登場させたい。それに 先立って、本節では必要な限りで「沖縄」について確認していこう。

占領下沖縄から本土学校への進学については、実例として言及されることは 多いものの本格的な研究としては未だ存在していない。整理のために、沖縄 出身者の高等教育へのアクセス・ルートを占領期初期段階でうかがうと、①沖 縄初の高等教育機関である琉球大学(10年、米国民政府布令による開学)への 進学か、②米国本土への留学か、③日本本土への進学(所謂「日留」か、大き くは以上の3つが存在した。本稿と関係する③の「日留」制度についての詳細 は、仲介を担った琉球育英会の記念誌『琉球育英史』に譲るとして、ここで は福岡商科大学〜福岡大学という具体的な場から見ていこう。

ここでも、先と同じく12〜68年度卒業生をサンプリングの対象とする。学 籍簿の本籍地欄で「沖縄」と記された学生を拾っていくと、17年度を皮切 りに13名の卒業生が確認できる。入学年度に偏りはなくコンスタントにいる。

内、女子学生は2名。特徴は専攻先で、琉球大学には無かった薬学部(10年、

福岡大学に創設)が大半を占めている。満遍なく各学部にいた在日朝鮮人学生 の場合とは異なり、ねらいが定められている。出身校をみると、首里高校など 沖縄の学校が大半を占めるが、福岡県内の高校出身者も3名いる。この場合は 在日朝鮮人学生と同様の、異法域間をまたがない本土内進学の形態ということ

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になる。

以上、福岡大学での在籍者について見てきたが、数としてはやはり相当少な いほうである。在日朝鮮人学生と違って沖縄学生については在籍学校について の統計がある(ただし文部省ではなく琉球育英会の後身、沖縄県育英会によるもので ある)。15年段階のデータなので本土復帰後になるが、本土大学に在籍する 沖縄出身の学生は全5,7名(内、私立大学が4,7名)とされている。しかし 福岡大学ではなく、福岡県内の私立大学といった枠で見ていくと、沖縄とのあ いだで相当濃厚な地域間関係が確認できる。所属大学を地域別にみれば最多は 東京2,0名(40.1%)だが、その後に九州1,0名(28.0%)が続き、以下の 甲信東海53名(9.7%)を大きく引き離す。そして一校あたりの在籍者数でみ れば、関東の私立大学よりも福岡県内の私立大学のほうが多い。15年段階 で見れば、全国最多は福岡県の九州共立大学(28名)、次いで同じく九州産業 大学(23名)、3位でようやく東京都の東洋大学(21名)となっている。高 等教育進学という場面での沖縄・本土間関係の分析は今後の課題としたい。

話を戻せば、決して多くはなかったものの福岡大学にも在籍していた沖縄学 生について今日想起されることはあまりない。あるとすれば、他校での事例で あるが、本土に進学していった沖縄学生が「外国人」としての視線を浴びてい た、といった証言レベルにとどまる。一方、それとは対照的に取りあげられ ることの多い在日朝鮮人の教育についても、よく見れば視線が向けられている のはもっぱら民族教育・民族学校の問題で、日本の学校(学校教育法第1条校)

に進学していった、比率にして約8割の存在に直接目を向ける研究は少な 。ことさら言うまでもないが、本稿の舞台である福岡大学に在籍した在日 朝鮮人学生は、受験資格からして日本の学校から日本の学校へと通過し続けて いった存在にほかならない。

しかし考えてみれば、今みてきたような日本の学校に存在する「朝鮮」「沖 縄」とも、現に本稿がそうしてきたように学籍簿さえ見れば、正確に言えば見

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ようとする視点さえあれば、誰でも、そしておそらくどこででも確認できる事 象に過ぎない。むしろいまここで示されているのは、そのような存在が今更の ように発見されているといった事態なのである。ただしそうしたなか、その ような存在を捉え続けた者がいたことにも気づかされる。それこそが、これま で本稿で使用してきた学籍簿ほか校務文書を作製し続けた学校事務当局にほか ならない。そこではまさしくルーティン・ワークとして、そして当然、文部省 の指針によりながら、「朝鮮」や「沖縄」といった境界的存在を把握し記録し 書類として残し続けた。次章では、書類の世界に分け入って、戦後日本社会が 内部に抱えた境界的存在について、どのような分類のもとどのように把握され ていったのかを見ていこう。一見迂遠な方法であるが、そこでは通常明示的に は現れることのない、境界的存在に対する秩序が浮き彫りにされると考えるか らである。

以下、「就職先調」(12年9月、『三好勝資料』所収、大学史資料室所蔵)

「卒業生就職状況調」『福岡 高 等 商 業 学 校 一 覧 自 昭 和 十 六 年 至 昭 和 十 七 年』 8頁。

福岡高等商業学校報国団・東亜研究班『松陵経済論叢』第1輯(11年2月)98〜

2頁には、「受験案内」として東京商大、神戸商大、九州帝大の過去問や受験参考文 献が掲載されている。

『学生に贈る就職必携 昭和十五年度版』(千倉書房、19年、21頁以下)では、

中等教育としての商業学校卒業者と高等教育としての高等商業学校卒業者との間の昇 進比較が行われている。そこでは例えば、就職後15〜20年で部長以上に就任する割 合は高商のほうが約3倍上回る、というデータが掲載されている。

本同窓会名簿は、都道府県ついで外地を含む海外の順に居住地域別に各人の所属

(企業名など)を一覧する構成となっている。居住先はそのまま就職先とは限らない が、在学時の住所や実家ではない住所の場合、やはり就職が関係していると判断し、

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両者を近似値として捉えた。ただ居住地は内地でありながら所属は外地を本社とする 会社、またはその反対といった事例も少数だが存在しており、この点は処理できな かった。

「鞍山支部」もあったとされるが、これは自称だろう。なお同窓会誌は外地に就職 した卒業生たちの消息を報告する場となっていた。それは「会員消息」「支部通信」欄 ほか、論説「国境の町より」『友信』1号、17年12月号、執筆者の勤務先は朝鮮 商業銀行・新義州支店)といった形で披露された。そこでは定番として懇親会(歓迎 会)などの集合写真や寄せ書きが掲載されている。同窓会誌はいわば学校と外地とを 結ぶ回路としてあり、後続者(後輩)たちを誘引する装置としてあったと言えよう。

業種別ならともかく就職先(企業名・赴任地)について、全国規模で見通せる史・

資料はおそらく存在していない。さらに個別の学校に絞っても、本稿がそうしてきた ように『一覧』ではなく同窓会史料の検討が不可欠であり、他校の状況についての検 討、そこから学校間での比較という作業までは到底及ばなかった。当時の受験専門雑 誌『受験旬報』(9―18、19年8月号など)に各学校の就職状況についての紹介が あるが、簡略に過ぎ、また相互に比較可能な形でのデータ提示でもない。以上は方法 の開発も含め、今後の課題としなければならない。

以下、小林英夫『「大東亜共栄圏」の形成と崩壊』(御茶の水書房、15年)第2・

3篇参照。同書によれば、特殊会社とは満洲国特殊会社法に基づいて一業一社主義原 則のもと、満洲の重要産業を独占的に支配する国策会社のことであるという(51頁) なお最近では、鈴木邦夫編著『満州企業史研究』(日本経済評論社、27年)、柴田善 雅ほか編『日本の蒙疆占領』(研文出版、27年)、同『中国占領地日系企業の活動』

(日本経済評論社、28年)など、企業内部史料を用いての詳細な検討が進められて いる。ただし、新規採用者の状況や学歴・出身校との相関関係などについての検討ま では史料的制約もあって及んでいない。

景気研究所編『一九三六年就職相談』(千倉書房、15年)13〜14頁。

「友信会々員住所録」『福岡高商新聞』19号、18年9月30日)4面。

注11に同じ。

当時の学生の就職活動(「就職運動」)については、尾崎盛光『日本就職史』(文藝 春秋、17年)を先駆とし、大森一宏「戦前期日本における大学と就職」(川口浩編

『大学の社会経済史』〈創文社、20年〉所収)ほか、前掲注70・75で挙げた当時の

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参照

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