1.問題の所在
2017年 5月に,立川駅北口,「ファーレ立川」の 区画内に所在する公園「市政 50 周年記念憩いの 場」に,一つの記念碑が設置された(写真)。「立 川小唄」の記念碑である1)。そこには次のような
目 次 1.問題の所在
2.「基地の町」・TACHIKAWAの形成 3.「異物」としての米軍基地/の町
4.アメリカ文化の輸入窓口としての立川基地 5.『野良猫ロック セックス・ハンター』
―米軍の撤退が可能にした物語 6.『ワルボロ』
―基地返還後の空隙を舞台とする物語 7.結 語
由来が刻まれている。
大正 11 年(1923 年)立川に陸軍飛行場が 開設,当初軍用だけでなく民間空港としても 使用され,国内便の他,諸外国からも数多く の飛行機が飛来し,昭和 6年(1931年)羽田 空港が出来るまで,国際空港としての役割を 担い立川は「空の都」と云われ飛行場と共に 発展してきた。
この立川小唄は昭和 5年(1930年)に制作,
踊りと共に発表されたもので,飛行場だけで なく当時の立川の状景を 27 節に分けて描写 し,空の都立川を謳歌し広く地域で歌われた もので,この記念碑にはその内の 3 節を選ん で刻字したものである。
戦後,飛行場は長年に亘り米軍基地として 使用されてきたが昭和 52 年(1977 年)返還 され,国営昭和記念公園を始め数々の跡地利 用が進み,立川市は多摩の中核都市として大 きく発展し,今やかつて立川が「空の都」と 云われてきたことが消え去ろうとしている。
この度,末永く「空の都立川」を伝えるた め,かつての立川飛行場正門前のこの地に記 念碑を建立する所似である。
すなわち,この記念碑によって,立川飛行場が 所在する「空の都」であったという立川の履歴が 選択されている4 4 4 4 4 4 4―ケネス・E.フットによる分 類を参照するならば,「選別」されている(Foote
「基地の町」の戦後史と表象
―在日米軍立川基地とその周辺―
塚 田 修 一
出所:2018 年 10 月 3 日撮影
写真 立川小唄記念碑
1997=2002)―のである。しかしながら,本稿 の関心は,どのような履歴が「選別」されている か,ということに向けられるわけではない。本稿 が関心を示すのは,その「選別」によって後景化 してしまう立川の履歴である。それは,「米軍基地 の町」という履歴である。戦後の立川は,1945年 から1977年まで,つまりは「立川飛行場」として の期間よりも長い32年間にわたって,「米軍基地」
が所在しており,町の性格も「米軍基地」の存在 によって規定されていた「基地の町」であった。
実際,この記念碑が建っているのは,戦後 32年間 にわたって米軍基地のメインゲートであった場所 である2)。
立川における「基地の町」という履歴の後景化 は,この記念碑に始まるわけではない。立川に未だ 米軍が駐留していた 1969 年 1 月に刊行された『立 川市史』に記載されている,立川の「基地の町」と しての記述はわずかに次に引用する部分のみであ る。
立川市は戦後しばらくの間は,好むと好ま ざるとを問わず,時流にしたがって所謂「基 地の町」化の途をたどらざるを得なかった。
米軍立川基地の周辺には米兵を相手に取引を 営む特殊女性の姿が激増し,昼夜をわかたず 米兵と市中を徘徊し,酒と女とジャズとに明 け暮れていた。終戦の年に一挙に半減した立 川市の人口が,其後毎年 5 千人前後の増加を 示したのは,このような米軍,およびそれを とりもつ女性たちを相手の商業人口と基地労 務者によるものである。更にはこの統計には ふくまれていない特殊女性は市民としての籍 を所有しないまま立川市内に居住し,その実 数は不明であったが,当時の推定概算による と常時 3 千人,多いときには 5 千人にも及ん だといわれた程の,膨大な数を数えていたこ とも,いわゆる「基地の町」立川として変則 的な,しかしながら終戦時の一時期のやむを
得なかった,必然的な事象として附記してお かなければなるまい。(立川市史編纂委員会 1969:1164-1165)
この『立川市史』における「基地の町」の記述 の希薄さについては,既に松山薫が指摘している。
松山は,「「基地の町」という言葉自体が,とりわ け「洋娼の集まる町」との意味合いを強く想起さ せているようであり,このことが事象の記録その ものを躊躇させているように見受けられる」(松山 2007:123)と推測している。
いずれにせよ,立川の戦後史の語りにおいて,
「基地の町」である(あった)ことが直視されず,
忘却されようとしているように思えるのである。
以上のような関心に基づき,本稿では東京都立川 市をフィールドとして,その戦後史を,「米軍基 地」および「米軍基地の町」を主軸として記述し ていく。したがって,本稿が依拠する思考は,ヴァ ルター・ベンヤミン『パサージュ論』にある,次 のようなものになるだろう。
かつてパリがその教会や市場によって規定 されたのとまったく同様に,いまや地誌的な 観点を10倍も100倍も強調して,このパリを そのパサージュや門や墓地や売春宿や駅……
などといったものから組み立ててみること。
さらには,殺人と暴動,道路網の血塗られた 交差点,ラブホテル,大火事といったこの都 市のもっと人目につかない深く隠された相貌 から組み立ててみること。[C1,8](Benjamin 1982 =[1993]2003:180)
以下,戦後,立川が「基地の町」として形成さ れていく状況を確認し(2 章),次に 1950 年代に おいて,「基地の町」である立川が,隣接する町や 市のいかなる反応を引き起こしたかを記述し(3 章),続く 1960 年代に浮上する,立川基地の「ア メリカ文化の窓口」としての側面を記述する(4
章)。そして,二つの表象の考察を通して,1970 年代から80年代の立川における,基地をめぐる社 会状況を把握する(5章・6章)。それらの表象は,
1970 年代から 80 年代の基地をめぐる社会状況を 描出しており,またそうした社会状況によってこ そ可能になった表象でもある。
2.「基地の町」・TACHIKAWAの形成
(1)「基地の町」化する立川
1922年に陸軍飛行第五大隊(1924年に陸軍飛行 第五連隊に改称)が開設されて以降,立川は大規 模な飛行場が所在する「空の都」として発展して いく。当初は,立川飛行場は民間航空の代表的な 拠点でもあったが,1931年に羽田飛行場ができて からは,軍事専用基地として使用された(立川市 1972)。
1945年 9月,進駐した米軍は立川飛行場を接収 する。接収直後から米軍は飛行場を拡張し,約 580 万平方メートルに及ぶ大規模な在日米軍基地とし
て機能する。立川基地は,終戦直後に第 1 騎兵師 団が駐留して以来,20数年の間,主に極東米軍の 兵員,資材の輸送の要としての役割を果たす(立 川市 1972)。
そして立川には,基地のアメリカ兵を相手に売 春をして生計を立てる洋娼,いわゆる「特殊女性」
が集まった。松山薫は,1950年代に出版された書 籍や,当時の新聞記事に基づき,立川の「特殊女 性」の推定数を示している。それによれば,1947 年には 600 名前後,1949 年末には 2000 人以上,
1950〜1952 年上半期には 5000 人以上である(松 山 2007:130)。
また,敗戦後の立川の「特殊女性」のルポルター ジュである西田稔『基地の女』には,立川駅周辺 に集積した,ホテル,置屋,キャバレー,バーを 印した地図が掲載されている(図)。
立川の歓楽街のバーについては,2 種類の組合 が存在していた。一方は立川バー組合であり,こ ちらは米駐留軍人対象の業者に限られており,米
* 立川駅(右下)以北の展望―學校の百米,二百米円圏内にも群生するホテル(●印),置屋(×印),キャバレー(▲印),
バー(■印)……健全な日本をつくるためには,この偉觀を保存せねばならないのであろうか。
出所:西田(1953:口絵)
図 立川駅周辺のホテル,置屋,キャバレー,バー
軍基地の所在する立川駅北口で営業していた。
1966 年時点で組合員は 61 名であり,一時 100 名 に達したこともあった。61 軒のバーには 1 軒平均 15名の女子従業員がおり,夜遅くまで賑うのが常 であった。もう一方が,立川バー同業組合であり,
こちらは日本人対象のバーの業者で形成されてお り,立川駅の南口で営業していた。女子の従業員 は1軒 2〜3名であり,客は市内の者より市外の者 が多く,宵には賑わうが,夜の 9〜10 時には客の 姿が少なくなるという(桝田 1966:24-25)。
(2)風紀の乱れと基地の容認
こうした立川の「基地の町」化は,当然,風紀 の乱れを伴った。日本各地の「基地の町」に生活 する子供たちの作文を集めた『基地の子』(清水・
宮原・上田共編 1953)には,立川市内の中学三年 生が書いた作文が収録されている。
道路上では,私たちが,目をそむけねばな らないような行為が,公然と,しかも真昼か らおこなわれている。女を抱いたり,おぶっ たりして歩くアメリカ人は,毎日,いたると ころで見うけられる。映画館に行けば,女た ちはアメリカ人のひざにすわり,煙草を吸い,
こびへつらいながら話をしている。すわって いるかと思えば肩を組み,顔をすりよせて見 ている。夜ともなれば,ホテルのまわりで騒 ぐ彼らの痴態を見る時,私たちは自分自身が けがれていくような気持になる(清水・宮原・
上田共編 1953:279-280)。
しかし,そうした風紀の乱れへの嫌悪にもかか わらず,立川市民が構造的に米軍基地に依存的で あり,また米軍基地の存在に適応的な性格を強く 持っていることを鈴木二郎ら東京都立大学のグ ル ー プが社会調査から裏付けている( 鈴木編 1956)。換言するならば,立川市民の多くが,米軍 基地に対して好意的な態度を示していたのである。
回答者の社会的属性によって,その態度や意見に 相違があるものの,例えば,市民の商人層の約 69 パーセントが米軍の駐留を希望し,しかもその大 部分は立川市以外への移転を望まず,米軍の駐留 を積極的に希望していたり,また大部分の回答者 が,経済的には立川市そのものが米軍の駐留によっ てよくなったことを認めていたのである(鈴木編 1956)。
3.「異物」としての米軍基地/の町
(1)砂 川 闘 争
先述のように,多くの立川市民にとっては,そ れなりに容認されていた(あるいは容認せざるを 得なかった)基地および「基地の町」(化)である が,近接する町や市にとっては,明らかな「異物」
であり,排除すべき対象であった。
例えば立川とは米軍基地を挟んで位置する砂川町 において,米軍は「侵略者」としてやって来た。「米 軍は進駐して間もなく滑走路の建設にかかった。そ の時は無断で砂川の農民の土地へブルドーザーを乗 り入れて,農民の耕作した麦畠が一晩のうちに滑走 路となった。(中略)こうして米軍は,旧陸軍とは 違い,滑走路をつくると同時に,基地全体に柵を施 して日本人と基地とを隔離してしまう。基地内は柵 を距てた異国である。ゲート・ボックスには青い目 をした白人と真っ黒な黒人が哨兵として立ち,基地 の周辺を走る車は全部外車であり,横文字はまるで 外国へ来た感じがする。(中略)飛行機の発着回数 は非常に多く,爆音と爆風に砂川の住民の悩みがは じまった」(宮岡 1970:37)。
そして1955年に明らかになった立川基地拡張計 画を契機として砂川町で起こったのが,「砂川闘 争」と呼ばれる反対運動である。1955年 9月,砂 川では政府による拡張予定地の測量を阻止するた めに,砂川町基地拡張反対同盟や応援の労組員な どが集まり,測量隊を護衛するために政府が出動 させた警官隊と衝突した。また,1956年10月の強 制測量の際には,武装した警官隊と地元農民,支
援した学生・労働者との間で大きな激突が起こり,
反対派側では800人以上の負傷者が出る,「流血の 砂川」と呼ばれる事態となる(立川市職員労働組 合 1995)。さらに 1957 年 9 月には,25 人の学生・
労働者が柵を越えて基地内に侵入したとして逮捕 され,うち 7 人が起訴されるという「砂川事件」
が起こった。
(2)国立の文教地区指定運動
また,前章で見た,立川の風紀の乱れが及ぶこ とに危機感を感じていたのが,立川市に隣接する 国立市である。『国立市史 下巻』によれば,1950 年の朝鮮戦争の勃発に伴って,立川基地に多数の アメリカ兵が進駐してきて,国立駅周辺でもそれ らアメリカ兵相手の簡易旅館や飲食店が出現し,
いかがわしい商売を始め出したという。さらに,
米兵相手の私娼が一軒家に住みつくようになると,
彼女らは日本式の便所を水洗トイレに改造して,
汚水をどんどん垂れ流したため,井戸水が汚染さ れた(国立市史編さん委員会 1990:226-227)。
こうした「立川的なるもの」の侵入に対し,国 立の主婦や知識人が中心となって浄化運動が展開 された。さらにこの運動は,文教地区指定運動へ と発展していく。文教地区とは,都の条例によっ て,指定された地区内に,待合,カフェー,キャ バレー,ダンスホール,ホテル,旅館等の建築が 禁止されている地区である。この運動で中心的役 割を果たしたある人物は,「立川から流入してきた パンパン」の排除が運動の原動力であったことを 直截に述べている。
退職金を前借りしてようやくの思いで国立 に土地を買い,移り住んできた。そしてホッ としていたところへ突然,朝鮮戦争が始まっ て,立川基地が拡充され,米兵が増えると国 立にもパンパンが流入してきた。国立駅で電 車から降りると,パンパンがアメリカ兵に嬌 声を上げてしがみついていく。これは何とか
しなければならないと思った。ここが気に入 らないからといっても,他所へ行くところは ない。その意味では,本当に追い詰められた 気持ちで,運動に取り組んだ。それが[文教 地区指定運動の]エネルギーとなったのです
(国立市史編さん委員会 1990:277)。
時枝俊江監督の記録映画『町の政治』(1957年)
は,国立に浸潤しつつあった「立川的なるもの」
を排除するための文教地区指定運動のなかから誕 生した婦人サークルにおいて,主婦たち―「べ んきょうするお母さん」たち―が「町の政治」
により主体的に関与していこうとする活動を描い ている(吉見 2012)。
4.アメリカ文化の輸入窓口としての
立川基地
前章で見たように,特に1950年代までの基地お よび「基地の町」立川は,近隣の町や市の住民に とって「異物」であり,排除されるべきものであっ た。だが,1960年代に入ると,立川基地の別の側 面が浮上してくる。それは「アメリカ文化の窓口」
としての側面である。1939年生まれの片岡義男は,
次のように述べる。「僕は立川の米軍基地には出入 りすることが出来,そこでかなりの期間に渡って
LP
をたくさん買った。バーゲンになっているもの は一枚が三十円くらいだったと記憶している」(片 岡・小西 2012:5)。このようにアメリカ文化の窓口であった立川基 地に入り浸り,その特権を活用したのは荒井(松 任谷)由実である。1954 年に八王子市の呉服屋
「荒井呉服店」に生まれた荒井は,1960年代に,立 川基地に出入りしていた。「当時の荒井家には家族 ぐるみのつきあいをしていた米兵一家があった。
母親は日本人,父親は米軍兵士,由実の一つ年下 の娘はマーガレット,通称マギーと呼ばれていた。
日曜日になると,荒井家の人々はマギーの家族と 一緒に立川基地へいく。洗濯工場の近くにあるラ
ンドリー・ゲートを通って入場し,
PX
でペプシや アイスクリ ー ムを大量に買っ た 」( 柳澤 2011:200)。立川基地の中には,学校,図書館,教会,
映画館,野球場,ボウリングセンター,体育館な どあらゆる教育,娯楽施設が揃っていた(立川市 1972:12)。そして,荒井が立川基地内で夢中に なったのが洋楽のレコードであった。荒井はこの ように述懐している。
だいたいはハーフの友達とか,みんな十六 ぐらいでもうクルマ持ってたから,そういう 友達に迎えにきてもらうのよ。ベースに行く と
PX
でレコードも買えるのね。彼女たちは おしゃれとか男の子に夢中で,どうしてそん なにレコード買いあさるのよ,って変な眼で 見てたけど,私はもうレコードに夢中。輸入 盤が,840円ぐらいだったんじゃないかな(松 任谷 1984:43)。そして荒井は,立川基地に出入り出来,洋楽の レコードを自由に手に入れられるこの特権を利用 していく。追っかけをしていたグループ・サウン ズのメンバーに,彼女は立川基地で入手した洋楽 のレコードをプレゼントする。
[他の追っかけの女の子たちは]みんなペロ ペロキャンディとかぬいぐるみをあげてると ころをさ,そういうの持っていくと顔パスに なっちゃうじゃない。一種,参謀的になっちゃ う。お子様バンドにはそういうの通じないか ら,だんだん,当時としては通っぽいところ へ行き出したわけ。ゴールデンカップスとか,
モップス,ビーバーズとか。けっこう信望も あつかったんだ。中学 2,3年生にしてよ(松 任谷 1984:43)。
後に荒井の音楽活動に欠かせない存在となる ムッシュかまやつと交友を深めていったのも,彼
女が立川基地で購入できた洋楽のレコードがきっ かけであった。
とにかくムッシュから〝[ベースの
PX
で]何か見繕って買ってきてよ〟と言われて。ヴァ ニラ・ファッジとか,もう少ししてからレッ ド・ツェッペリンとか,ムッシュに届けた覚 えがあります。それが,14,15歳の時ですけ ど,何回かお金を精算して。2 ドル 25 セント という数字を覚えています。当時のレートで 1000 円以下でした(『BRUTUS』2018 年 3 月 15 日:28)。
荒井はのちに立川基地の思い出を,『雨のステイ シ ョ ン 』(1975 年『COBALT HOUR』 収録 ) や
『
LOUNDRY-GATE
の想い出』(1978年『紅雀』収 録)といった楽曲で歌っていく。5.『野良猫ロック セックス・ハンター』
―米軍の撤退が可能にした物語
(1)「混血」というモチーフ
前章で検討した 1960 年代に続いて,1970 年代 の「基地の町」・立川の状況を考察するに際し参照 したいのが,この立川の町を舞台として撮影され た映画『野良猫ロック セックス・ハンター』(長 谷部安春監督・1970 年日活)である3)。どの程度 明確な意図をもって立川がこの作品の舞台として 選ばれたのかは定かではないが,そこにはある必 然性を見出すことができる。
この作品のあらすじを説明しておこう。マコ(梶 芽衣子)が率いる不良少女集団と,バロン(藤竜 也)をリーダーとする不良集団「イーグルス」の 対立が物語の主軸となっているが,バロンは幼少 期に目の前で姉を黒人アメリカ兵にレイプされた 経験があり,ハーフに対して屈折した敵意を向け る。そして生き別れた妹を探しにやってきた混血 の青年数馬(安岡力也)が「イーグルス」による
「ハーフ狩り」のターゲットになり,それをマコが
助けようとする,というストーリーである。
「混血狩り」をテーマとするこの作品の脚本を担 当した大和屋竺は,次のようにコメントしている。
古いブルースの好きな彼(引用者注:長谷 部安春監督)と「野良猫ロック」の打合せを やっていて,混血児の話になったのは当然の ことだった。混血児たちは革命児である!風 俗の次元で,文明の次元で,エキゾチズムの 次元で。どんなに頭の中が空っぽでも歌が下 手くそでもかまわない。彼らがいるだけで,
それだけで世の中は動くし変るのだ。混血の 歴史は世界の歴史である。美女の中の美女は 混血の中からしか生まれないし,美男もしか りだ。(中略)「キクとイサム」という悲しい 映画がむかしあったことを思い出そう。それ をネガとし,幻想の上にポジを置いてゆくと いう作業のうちに,義理人情のしがらみを案 配してみよう。軽薄にカッコよく,ひとつの 露悪法の手くせでもってかかれた,ゴロンと した,近親相姦を根っこの方にもつ話をしよ う(大和屋 1971:146)。
すなわち,この作品はまずもって「混血(児)」
というモチーフから始まっているのである。だと すれば,この作品の舞台が「基地の町」である立 川に設定されているのは必然である。高美哿が指 摘しているように,1950 年代から 60 年代にかけ て,「混血(児)」は敗戦・米軍基地の落とし子と して表象されてきたからである(高 2014)。実際,
西田稔『オンリーの貞操帯』によれば,1953年頃 の調査によって,55名の混血児が立川で確認され ていた。そして,その居住地区毎の混血児たちの 数が,「各地区に住んでいる売春業者や特殊女性の 数字に比例していて,混血児の住んでいる土地の 環境が赤線区域的悪環境であるということと,子 どもの母親がパンパン稼業かそれと同様の生活を している者が多い事実を裏書してい」たという(西
田 1956:240)。
(2)米軍撤退後の立川
またこの作品のタイトルバックには,立川基地 の滑走路や,有刺鉄線越しに見た基地の内部の ショットが映る。他にも,「混血」の出前持ちの男 性が,バロンたちに追い立てられ,基地の金網を 背にして怯える,というシーンもある。しかも,
それらの映り込んだ基地は全て無人である。つま り,アメリカ兵の姿がそこには一切映っていない のである。
こうした撮影は,この時期の立川基地だからこ そ可能なものであった。1965年に始まる,アメリ カのベトナム戦争への軍事介入によって,兵員,
武器,弾薬の大量輸送の必要が生じるが,滑走路 が大型機の発着に必要な 4000 メートルに達せず,
また砂川闘争に代表される住民の反対運動によっ て,拡張計画が宙に浮いたままになっていた立川 基地は,十分な機能を果たせず,横田基地が主に 使用されるようになった(立川市 1974)。つまり,
立川基地の機能が,実質,横田基地に移ったので ある。そして 1968 年 12 月にアメリカ空軍司令官 が立川基地滑走路拡張計画中止を発表し,翌 1969 年 11月に立川基地からの飛行部隊撤退を発表,12 月には立川基地所属部隊の解散式が行われる(立 川市 1972)。1972 年には,立川基地の状況は,次 のように描写されている。「いま,580万平方メー トルにおよぶ立川基地は,しーんと静まりかえっ ています。かつて,3 分おきに飛びたった軍用機 も姿を消し,耳を聾する爆音も聞こえなくなりま した」(立川市 1972:20)。
1970年 9月に公開されたこの作品の撮影時期は,
立川基地から米軍が撤退,解散し,「しーんと静ま りかえっ」た時期に一致している。だからこそ,先 述のようなシーンの撮影が可能になったのである。
さらに,この作品のストーリーを成立させる上 でも,立川基地から米軍が撤退していることが必 要であった。井川耕一郎がこの作品の脚本につい
ての解説で論じているように,米軍が引き上げた4 4 4 4 4 からこそ4 4 4 4,バロンはハーフ狩りを始めたのである。
「バロンにとって,真の復讐対象は姉をレイプした 黒人兵だった。だが,そのレイプ犯に復讐するに は時が経ちすぎていた。その上,米軍が引き上げ た今となっては,米兵を次々と襲うこともできな いのだ。バロンの復讐は決定的に遅れてしまった。
彼は以前から混血児を嫌悪していたかもしれない が,復讐対象に彼らを選んだのは,この時間的な 遅れから来る焦燥のためなのだ」(高橋・塩田・井 川編 1994:236)。
6.『ワルボロ』―基地返還後の空隙を
舞台とする物語
(1)「どうしようもない町」
1970年代末の立川を舞台に,不良少年たちの抗 争を活写したのが,ゲッツ板谷(本名は板谷宏一)
による半自伝的小説『ワルボロ』(ゲッツ板谷
[2005]2007)である。
この小説の読みどころの一つが,物語の舞台で ある立川の詳細な,そして独特な記述である。
オレは,東京郊外の立川という町で生まれ た。現在は,有名百貨店が駅前で客を奪い合 い,モノレールも走り抜ける小じゃれた「街」
になったが,オレが中学生だった頃は,どう しようもない「町」だった。
夕方 6 時以降になると不気味な圧迫感を放 ち,女や子供は一人歩きできなくなるような 駅前。ロータリーでは,ゴッドファーザーの 3 連を響かせながら族車が走り回り,冷たい モノが効いている輩がデタラメに闊歩し,競 輪が開催される週末には,短い赤鉛筆を耳に 挟んだゾンビのような集団が改札からダラダ ラと吐き出された。
あの頃の立川には色がなかった。あるのは 生壁色の風景と「基地の町」という別称。そ して,ヒステリーとタメ息ぐらいなもんだっ
た(ゲッツ板谷[2005]2007:12)。
味も素っ気もない駅舎。その北側には,う だつの上がらないデパートが点在し,少し歩 くと干上がったような赤線地帯があり,そこ を抜けてさらに歩くと,つい数年前までは米 軍基地だった跡地が虚しく広がっていた。
が,それでも北側は,まだマシだった。オ レんちがある南側は,駅前から一体何屋なの かサッパリわからないボロボロの商店や怪し い安飲み屋が軒を連ね,昼間から泥酔してグ デングデンになっている者や,競輪に使う小 銭もないような連中が突然奇声を上げたり,
意味もなくドツき合いに興じたりしているの である。そして,そんなドヤ街も駅から 100 メートルも歩かないうちに途切れ,そこから 先はゴチャゴチャした,このどうしようもな い町に必死でしがみついているような家並み が続き,子供の笑い声の代わりに中年女のヒ ステリックな叫び声やガラスが割れたりする 音が日中から当たり前のように響いていた
(ゲッツ板谷[2005]2007:115-116)。
もちろん,誇張はあるのだろうが,それでも当 時の立川の雰囲気の一面を独特の表現で切り取っ ている4)。このような立川という「どうしようも ない町」を舞台装置として,『ワルボロ』の物語は 展開していくのである。ここで問うてみたいのは,
『ワルボロ』の舞台装置たり得た立川の状況とはど のようなものであったのか,ということである。
ゲッツ板谷は作品の舞台となった頃の立川を次 のように回想している。
今でこそ大型施設が建ち並んでモノレール が走っている立川ですが,駅ビルができる前 なんてなにもなかったんですよ。ほんと,駅 なんか北口と南口を結ぶ地下通路くらいしか なくて。南口は駅前に汚い飲み屋が数軒あっ
て,北口は青線,赤線があった頃の名残が残っ ていたし,競輪場があるから赤鉛筆を耳に差 しているオヤジがウロチョロしてました(稲 田編 2014:147)。
ゲッツ板谷が「どうしようもない町」,「なんも なかった」と表現する立川とは,何の謂いなので あろうか。この物語が描く,1979年時点5)の立川 の社会状況を考え合わせてみよう。
すでに米軍が撤退していた立川基地は,1977年 に全面返還される。そして 1979 年の 11 月に「立 川飛行場返還国有地の処理の大綱」が決定され,
大規模公園や広域防災基地の設置,国有地の一部 を業務市街地とすること等が定められる。だから,
『ワルボロ』が舞台とする 1979 年の立川は,基地 の跡地という広大な「空き地」6)を抱え込み―
「跡地が虚しく広がっていた」―,その利用計画 が検討されている最中であった。
(2)立川の再開発
その後,基地の跡地を含む立川駅北口エリアに ついては,「今後は返還された基地跡地の開発と既 成市街地の整備とを併せて,中核都市立川にふさ わしい中心市街地の形成を図ってゆ」くことが目 指される(立川市 1980:8)。1982年には立川駅ビ ル「ウィル」(現・ルミネ)が開業し,立川は近代 的なまちへの途を歩み始める(関根・久保 2017)。
ゲッツ板谷の言う「駅ビル」とはこの「ウィル」
のことであろう。そして,立川の「基地の町」の イメージを払拭するのに大きな役割を果たしたの が,1994年の立川駅北口の再開発ビル「ファーレ 立川」の開業である。ファーレ立川は,立川基地 跡地関連地区土地区画整理事業として立川駅北口 に,7街区,10 階建てから 13 階建てのインテリ ジェント(高度情報化)ビル11棟という規模で完 成した。各ビルには業務施設と商業施設(高島屋,
都市型ホテル,シネマコンプレックスなど)が入 居している。立川の地元商店街も「基地の町」の
イメージを払拭したい空気があり,ファーレ立川 への大型店の進出に対して歓迎する雰囲気が醸成 されていたという(関根・久保 2017:109)。さら に,ファーレ立川はパブリックアートを取り入れ,
109点のアート作品が配置された(北川 2017)。こ のファーレ立川を起点として,立川は「基地の町」
から,「商業都市」および「アートの街」として新 たな歩みを進めていくのである。
すなわち,『ワルボロ』において「なんもなかっ た」,「どうしようもない町4」と表現される1979年 の立川とは,基地返還後の,しかも再開発によっ て「商業都市」および「アートの街4」になるまで の,空間的/経済的な空隙を抱え込んだ立川のこ となのである。
ちなみに,「オレんち」のある立川駅南口は,駅 前の東武ストアが入居する商業ビル(現在は閉店)
以外は目立った大型店はなく開発が遅れていたも のの,2000 年の多摩都市モノレール「立川南駅」
をはじめ新しい再開発施設が次々とオープンし,に ぎわうようになっていく(関根・久保 2017:111)。
7.結 語
本稿では,立川の戦後史を,表象の考察も交え つつ,「米軍基地」および「米軍基地の町」を主軸 として記述してきた。こうした作業は,1章で指 摘した,「基地の町」としての履歴を後景化あるい は忘却するような現在の潮流に抗う試みである。
さて,現在の立川の表象として,最も知られて いるのは, 中村光による漫画『 聖☆お兄さん 』
(2006年〜『モーニング・ツー』連載)である。こ の作品は,世紀末を無事乗り越えたブッダとイエ スが,立川の安アパートの一室で共同生活をしな がら,まったりと下界でのバカンスを楽しむ,と いう設定である7)。この作品の「ユルい」世界観 が,本稿で記述してきた立川の「基地の町」の履 歴の後景化・忘却の上に成立していることは確認 されてしかるべきであろう。
1) この記念碑の設置は,立川小唄記念碑建立委員会 によるもので,記念碑の裏面には協賛団体・個人の 名前が刻まれている。
2) 『立川の中のアメリカ』と題された写真集には,
1960 年に撮影されたこの場所の写真が掲載されて いる(小向 1997:4)。
3) この映画の考察を含む論考としては,高(2014);
山本(2014)がある。
4) ゲッツ板谷は「『ワルボロ』も何から何までフィ クションではなくて,7割ぐらいが真実と思っても らえれば。」と述べている(稲田編 2014:147)。
5) 『ワルボロ』では,「オレ」は中学 3年生と設定さ れており,作者のゲッツ板谷は 1964 年生まれであ る。また,『ワルボロ』には,「2年前にアメリカ軍 から返還された立川基地だって,放置されたままで 雑草が伸び放題だしな」(ゲッツ板谷[2005]2007:
344)との記述が登場する。立川基地の返還は1977 年である。
6) ただし,1972 年 3 月より自衛隊が移駐し,基地 内の敷地や施設の一部を使用していた。
7) 作者の中村光は,立川を舞台とした理由を次のよ うに語っている。「架空の町ではなく,リアルな地 名を登場させたかったんです。地に足がついている ほうが面白いと思ったので。立川は姉が美大生時代 に住んでいたので,なじみがあったんですよ。あ と,あまりお金がある設定にしたくなかったので,
都心よりは郊外かな,と」(『このマンガがすごい!』
編集部編 2008:23)。
参 考 文 献
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(=[1993]2003,今村仁司・三島 憲一他訳『パサージュ論 第1巻』岩波現代文庫).Foote, Kenneth E, 1997 , SHADOWED GROUND:
AMERICA’S LANDSCAPES OF VIOLENCE AND TRAGEDY, the University of Texas Press
(= 2002,和田光弘他訳『記念碑の語るアメリカ』名古屋大 学出版会).
ゲッツ板谷,[2005]2007,『ワルボロ』幻冬社文庫。
稲田豊史編,2014,『ヤンキーマンガガイドブック』
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高美哿,2014,「戦後日本映画における〈混血児〉〈ハー フ〉表象の系譜」岩渕功一編著『〈ハーフ〉とは誰 か』青弓社。
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西田稔,1956,『オンリーの貞操帯』第二書房。
関根孝・久保(渡邊)ヒロ子,2017,「大型店がけん引 するまち―東京都立川市」矢作敏行・川野訓志・
三橋重昭編著『地域商業の底力を探る―商業近代 化からまちづくりへ―』白桃書房。
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