中日姓名の比較について : 親族の血縁性と社会性
著者 李 卓
会議概要(会議名, 開催地, 会期, 主催 者等)
会議名: 日文研フォーラム, 開催地: 国際交流基金 京都支部, 会期: 2001年4月10日, 主催者: 国際日 本文化研究センター
ページ 1‑33
発行年 2001‑09‑01
その他の言語のタイ トル
A comparison between Chinese and Japanese names : consanguinity and sociality of relatives
シリーズ 日文研フォーラム ; 138
URL http://doi.org/10.15055/00005678
第138回 日 文 研 フ ォ ー ラ ム
■
中 日姓 名 の 比 較 に つ い て
一 親 族 の 血 縁 性 と 社 会 性 一
AComparisonbetweenChineseandJapaneseNames
‑ConsanguinityandSocialityofRelatives一
■
李 卓
LIZhuo
国 際 日本 文 化 研 究 セ ン ター
日文研フォーラムは︑国際日本文化研究センターの創設にあたり︑
一九八七年に開設された事業の一つであります︒その主な目的は海
外の日本研究者と日本の研究者との交流を促進することにありま
す︒
研究という人間の営みは︑フォーマルな活動のみで成り立ってい
るわけではなく︑たまたま顔を出した会や︑お茶を飲みながらの議
論や情報交換などが貴重な契機になることがしばしばあります︒こ
のフォーラムはそのような契⁝機を生み出すことを願い︑様々な研究
者が自由なテーマで話が出来るように︑文字どおりインフォーマル
な﹁広場﹂を提供しようとするものです︒
このフォーラムの報告書の公刊を⁝機として︑皆様の日文研フォー
ラムへのご理解が深まりますことを祈念いたしております︒
国際日本文化研究センター
所長山折哲雄
ア ー マ
中 日姓 名 の 比 較 に つ い て
親族 の血縁性 と社会性
A
ComparisonbetweenChineseandJapanese
ConsanguinityandSocialityofRelatives
Names李H発表者卓
Zhuo 南 開大学 教授
Professor,NankaiUniversity,China 国際 日本文 化研 究 セ ンター 客 員教 授 VisitingProfessor,Int'lResearchCenterforJapaneseStudies
2001年4月10日 (火)
発表者紹介
李 卓
LIZhuo 南 開 大 学 教 授 Professor,NankaiUniversity,China
国 際 日 本 文 化 研 究 セ ン タ ー 客 員 教 授 VisitingProfesso筑InternationalResearchCenterforJapaneseStudies
(職 歴) 1982年2月 1985年7月 1992年12月 1997年7月 1998年7月 2000年1月
2000年10月 〜2001年9月
中国 ・南 開大 学歴 史学 部卒 業 南 開大学 歴 史学修 士
同 大学歴 史研 究所 助教 授 同大 学歴 史学博 士 同大 学歴 史研 究所 教授 同大 学 日本研 究 セ ンター教 授 国 際 日本 文化研 究 セ ンター客員教 授 (主な著 書)
『家 族制 度 と日本 の近 代化 』
『日本文 化研 究一 中 日文化比 較 を中心 と して』
『家 族文 化 と伝 統 文化一 中 日比較研 究 』
『日本 にお け る二 回 の世紀 に跨 る改革 』
『中国人 の 日本史研 究 』
著編著著著単共共共共
1997 1998 2000 2000 2000
天津 人民 出版社 中国社 会科 学 出版社 天津 人民 出版社 天津 社 会科 学 院出版社 世界 知 識 出版社 (主な論 文)
「明治民 法論 争か らみた近代 日本 の家 族制 度」
「伝 統 的 な家 族制 度 と日本 人の家 観念 」
「家 督相 続制 と近 代 日本経 済の発 展」
「養 子 の制 と近代 日本 企業 の発展 」
「戦 後 日本家 族制 度 の改革」
「中 日財 産継 承制 比較 につ いて」
著著著著著著単単単単単単
1992 1993 1996 1998 1998 1999
『天 津社 会科 学』
『世 界歴 史 』
『世 界歴 史 』
『日本学刊 』
『南 開学 報 』
『日本学 刊 』
はじめに
姓名は現代社会に生活する人がひとしく持つ特定の呼称である︒人は生まれるとまも
なく自分の姓と持ち名を与えられ︑それをもって社会生活に入り︑それによって自己を
代表し他人と区別される︒F簡単に言えば︑それは人の﹁符号﹂である︒中国人の姓名と
日本人のそれは比較的接近していて︑姓を名前の先に置くという基本形式を持っている
が︑ただ︑両者は接近しているとはいえ︑その差異は大いにある︒
中日両国の姓の最大の違いは数値上の問題である︒つまるところ︑]億二千万の人口
の日本でいくつの姓氏があるか︒一九入三年︑群馬県太田市在住の七十二歳の老人斎藤
清氏はもっとも直接的な全国各地の電話帳を逐一調査するという方法を用いて統計
し︑日本人の姓氏は二二九︑一六三であるという結果を出した︒さらに︑]九九六年︑
日本の姓名学の研究者丹羽基二氏編纂の﹃日本苗字大辞典﹄(芳文館)では︑収録した
姓氏は二六一︑一二九に達する︒
では︑人口世界一の中国にはどのくらいの姓氏があるか︒宋代から始まって今に伝わ
っている姓氏の専門書﹃百家姓﹄に収録された姓氏は五〇四個(単漢字四四四︑複漢字
六〇)である︒一九九六年︑古代から現代までの各民族が用いた漢字表記の姓氏を統計
整理した﹃中華姓氏大辞典﹄(袁義達︑杜若甫著︑教育科学出版社)には今まで最も多
い数字の一一︑九六九の姓氏が収められた︒しかし︑ここにいう一万余の姓氏のうちに
は︑古代のもので今日使用されてはいないものも多く含まれる︒実は漢字姓氏を使って
いる中国人の常用する姓がだいたい三千前後である︒そのうち全人口の九四%を占める
漢民族人ロの常用姓氏は五百個前後にすぎない︒
日本はなぜこのように人口のわりに姓氏が多く︑中国は少ないのか︒両国はなぜこの
ような違いを生んだのか︒これは中日両国の姓の成り立ち︑姓の内包するもの︑および
両国の文化伝統と直接の関係を持つものである︒
一日本人の国民皆姓と中国人の皆有姓について
身分︑等級制度がきわめて厳格であった封建時代にあっては︑庶民階層は職業︑婚姻︑
衣食住︑立ち居ふるまいなど各面で厳しい規制を受けた︒徳川幕府は一八〇一(享和元)
年︑法律をもって百姓の苗字帯刀を禁止し︑苗字は武十などの身分的特権を示すもので
あった︒大多数の庶民は﹁名なしの権兵衛﹂の言葉が示すように苗字がなかった︒ある
学者の考証では︑明治初年︑全国で苗字をもつ戸数は︑わずか六%前後に過ぎなかった︒明
治維新後︑新政府は﹁四民平等﹂の方針を貫徹するため︑同時に徴兵.徴税.戸籍の登
記を行なう必要のため︑一八七〇(明治三)年九月︑太政官布告﹁自今平民苗字被差許
候事﹂を発布した︒しかし︑苗字のない生活になれてしまった農民の多くは︑恐れ入っ
てしまい︑なすことを知らなかったので︑苗字を称することに熱心でなかった︒そして︑
一八七五(明治入)年二月︑ふたたび太政官布告を発布して︑国民全員に必ず自分の苗
字を持つよう要求し︑苗字を公称とすることを国民の義務とした︒そうすると︑百姓た
ちは村の役人や教養人︑寺の和尚に自分の姓を付けるよう頼んだ︒あっという間に︑居
住地や職業︑各種の事情から生まれた姓氏が国中を覆いつくした︒当時の状況を石井研
堂の﹃明治事物起原﹄ではこういう︒
当時︑著者の父は︑町の什長といふを勤めたりしが︑区内細民の請に応じ︑苗字を
選びてやりしことを︑微かに記憶せり︑即ち種々の苗字を選び尽くして後煎茶の銘を
取りて︑甲に青柳乙に喜撰丙丁鷹爪宇治といふ様に命じ︑茶銘尽きて︑徳川四天王の
酒井榊原井伊本多など命けしに︑その内の一人︑恐るく﹁彼様な勿体ない苗字を付
けましても︑お上から御咎は無いでせうか﹂と訝り問ひ︑父が︑必ず心配無き由を諭
したりき︑今にして回顧すれば︑これ予が十一歳の時なりしならん︒
この法令が平民百姓には名前だけあって苗字がない歴史を徹底的に終わらせることと
なった︒姓はこの時から﹁人の符号﹂としての意義を持ってすべての家々に入っていっ
たのである︒いわば︑国民皆姓もまた明治維新の成果のひとつといえよう︒しかし︑苗
字を作るに当たってなんの制限もなかった︑つまりきわめて大きな随意性があるのはそ
の時の突出した特徴である︒大まかにいえば︑これが日本に姓が多くなった根本的な原
因の一つである︒
中国の歴史上の姓氏も︑かつては貴賎を分ける政治的︑社会的機能を持っていたが︑
それは早く消滅した︒二千年前︑中国はすでに皆が姓をもつ歴史に入っていた︒そして
みんなが姓をもつのは︑姓氏合一から始まったのである︒
今よく言われている﹁姓氏﹂という言葉は︑もともとの姓と氏を二つの部分に分けた
のである︒原始時代の群婚制が発展して血縁関係を指標とする族外婚制になったとき︑
直接の血縁関係の有無を識別する必要があって︑それで血縁関係の称号姓が生まれ
た︒母系制社会は女性を本位としているから︑中国最古の姓は﹁姫﹂︑﹁姚﹂︑﹁姜﹂︑﹁贏﹂
﹁好﹂︑﹁似﹂︑﹁妊﹂などの女扁の文字である︒姓は部族血縁の指標として生まれ︑ただ
血縁関係を区別する生物的機能はあったことが分かる︒のちに子孫が繁栄し人ロが多く
なり︑移動・逃亡などさまざまな原因で一部族から分岐して支族が生まれ︑これら支族
の名称が﹁氏﹂と呼ばれるようになった︒たとえば商族の人の姓は﹁子﹂であって︑の
ちに﹁殷﹂︑﹁宋﹂などの氏が分岐したのである︒﹁氏﹂発生の過程で︑ようやく男子が生活上の主導的位置につくと世系上も父系血統
で数えるようになる︒だから氏は父系制の形成にしたがって生まれたものである︒姓と
氏の関係は大木と枝であり︑姓は大木の︑氏は枝の名称である︒氏の誕生は実際には氏
族社会解体の象徴である︒氏の発生ののち︑姓は血縁関係を表すことによって﹁別婚姻﹂
のために用いられ︑もっぱら女性が使った︒氏は社会的地位の指標であるから男性につ
いてはさらに重要で︑社会的交渉の場では男性はたがいに相手方の氏を呼び合ったので
ある︒それで﹁三代以前︑姓氏分而為二︑男子称氏︑婦人称姓﹂(三代前に姓氏が分か
ヨれ︑男子は氏︑婦人は姓を称する)という言い方がある︒
姓は血縁関係の区分を表すのだが︑氏はそれと異なり︑﹁氏所以別貴賎︑貴者有氏︑
賎者有名无氏﹂(氏は貴賎の別を現わす︑貴者に氏あり︑賎者には名ばかりで氏はない)︒
氏は︑はなから政治的機能を賦与されていたのである︒﹃左伝﹄の記載によると︑魯の
隠公八年(紀元前七一五年)﹁天子建徳︑因生以賜姓︑胙之十而命之氏﹂︑すなわち︑周
の天子は功徳のあるものを分封し︑出生すなわち血縁関係によって姓称を︑そしてその
封十によって氏称を賜ったのである︒貴族たちは国名・住所・地名・封土・官職・爵
位・謚号・技能などによって氏の呼称を得たのである︒だから貴族にのみ氏があった︒
このような[賜姓命氏﹂制度の存在により︑西周時代は中国姓氏の大発展期となった︒
この時生まれた氏の名は︑後に中国の姓氏の重要な来源に発展していく︒
周代の分封体制および氏をもって貴賎の別をあきらかにするやり方は︑日本の徳川時
代に似ているが︑それはすぐに変化した︒春秋時代︑中国の歴史は大変革期に入り︑分
封制は瓦解し︑嫡長子継承を基礎とする﹁世卿世禄制﹂は徐々に廃止され︑従来の氏は
存在の基礎が失われてしまう︒動乱期に生まれたのは︑才をたのみに勃興した新貴族層
で︑もともと氏をもたない平民が混乱に乗じてかってに氏をたてたもので︑以前の氏は
すでに社会的地位を表示しつづけることはできなくなった︒いわば姓はもちろん氏をも
ってしても家族の標記としてはともかく︑貴賎を分けるものとしての機能は萎縮し︑姓
と氏がいっしょになっていくのは必然の勢いとなった︒戦国末期︑■秦滅六国︑子孫皆
為庶民︑或以国為姓︑或以姓為氏︑或以氏為氏﹂(秦六国を滅ぼす︑子孫をみな庶民と
し︑あるいは国をもって姓とし︑あるいは姓をもって氏とし︑あるいは氏をもって氏と
らす)となって姓氏合一の過程は加速する︒司馬遷が﹃史記﹄を著した時期は姓と氏とは
すでに一体となっていたから︑のちに﹁姓氏之称︑自太史公始混而為一﹂(姓氏の称は︑
太史公よりいりまじってひとつになった)という人がいた︒古来の姓も新来の氏も完全
に一体になり︑姓というようになったのである︒この後は︑姓すなわち氏︑氏すなわち
姓となり︑姓氏の別はなくなる︒氏の背負っていた政治的使命は終わり︑貴族が独占し
た姓氏の特権も消え︑この後は皇帝から百姓に至るまでみな姓をもち︑生まれればこれ
を具え︑富貴貧賎を問わなくなったのである︒これは中国姓氏発展史上の根本的変化で
あった︒
姓氏合一になってから︑中国姓氏の構造は固定された︒とくに漢民族のほとんどの姓
氏は秦漢以前の﹁氏﹂から来ている︒宋人編集の﹃百家姓﹄は姓五百余を集めているが︑
そのほとんどが漢以前から使用がはじまったもので︑漢以前の文献からは探し出せない
ものは五〇前後にすぎない︒姓氏の合一はすでに二千年を経て︑王朝の交替︑民族の融
合とともに︑あるものは消滅し︑あるものは新しく生まれた︒しかし︑全体としては中
国の姓氏は基本的に大きな変化はなかったといえよう︒
二中国姓の血縁的特性
秦漢時代に姓と氏が合わさってひとつとなって以来︑中国人が宗族制度を重視して︑
血縁関係を擁護したことは︑中国の姓氏が
う︒中国人の姓氏についての考えはおもに 二千年安定して続いた根本的原因であると思
二つある︒