岩木川上涜部に おける集落地理学的考察
‑ 人 口流 出を 中心 として
狩 野 継 比 古 1. 序
日本の 山村地帯、殊 に西 日本を中心 とした著 しい人 口流 出現象が社 会問題 と して とらえ られ て十 数年経過 す る ことにそ る. この間の研究は、 比鞍的西 に厚 く、 東が薄い傾向 にあ るよ うに思 われ ち.
そ こで本稿 で披、 中津聾 郡西 目屋村 を例 に と 9、 人口流 出の分析 及 び産業構造 の特 性 とい う面 か ら 本村の事情 を考察 してゆ きたい と思 う.
2.
地 域 の概 観当村の面積 は、24,755
k
a, 東育 l6.5血、村内に2口の集落 をかかえ、 昭和 4 8年 の時点 で世帯数 875、
総人 口
5, 7叩
名 の津軽地域 南部 に位置す る山村 であ る。昭和 45年匿発行 の地 図で は、記載 集落数 は21であ るが、 同年成立 した 「過疎 地域対策緊急措置法 」の一 環 と して行 をわれた集落 移 転統 合事 業 の実施 に エ9、
‑森 が村市地 区 に編入 され たた め実数 は2口で ある。
自然的特敬 としては、全面 積 の
95 車
力琳 野 に よって岩 木 町
釈
秋 田 県
4
(.,図占め られ、 林野面積 の88串が国有林 で、平地 に乏 しい こと、 またその平地は、村 内を流下す る岩 木 川上流域 と天秋川流域 にみ られ、 前者に立地す る集落 は河岸 段丘上、後者は小規模 を谷 底平野上 にあ ること等 が あげ られ る. 集落 の発生は、紙幅 の都 合上、詳述 で きをいが、古 い文献 及び居住者 の血液型か ら、 白沢系 と村市系が考え られ、そ の他 の集落 は、 この二系統か ら慣次派生 した もの と
思 われ る
。
5.
人 口流 出の実 態 当村 の 人 口推 移を三期に分
I
けて考察 したい.
( i )
昭和5 5
年 以前耕地面 積は 狭 小で あるが、
食 糧 の 自給 は可能 で、 当時 の家庭燃料 の主力 であ る薪 炭 の生産 に ょ9、 ある程 匿 の現 金収 入は確保 され て い た時期 で ある
。
そ のため人口は 昭和
24
年 まで性、人 口動態 統計表 (統計年鑑)
人 口 の 変 化
6.DOO
^5.00
ロ人4,ロ00
人5,000
人2,ロロ0
人1 ,ロロ0
人0人
S25 50 55 40 45 46 47 48 ( 2)
図世 帯 数 人 口
S 5 5 S4 口 S4 5 S 46 E 34 7 t 34 8 i ;5 5 S4 0 b 14 5b 14 6 b '4 7 t 34 8
田 代
長 面
1 ;;l 172 1 ;;ー 185 1;:1 185 181 52 171 55 176 55::. 51 " 6 冒;5 51 978 885 lil 866 157 857 150 81ロ 146
杉 ケ沢
28 52 55 175 172
大 秋
79 76 74 75 75 7
2465 451 406 595 586 582
白 沢
5 4 55 56 152 S 27 d 128 28 56 128 28 55 225 204 195 194 191 186
村平
高 森
市沢藤
居森 平
川 ・9
計 226 2 17 … ト26 1 92 7 ,)..8 27 5;7) 5 : 5 6 :i 558
6915
三三
)150 888 619 158 600 129 579 126 561 128
川 辺 u9165 5
;145
u914 5 41 42 45 1. 4;) .96 1 81 175 165 165
砂 子瀬141 157 151 159 144 152 714 655 650 628 628 591
尾 太174 252 254 266 255 149 951 1 ,065 884 85D 828 .475
焼川 原平山
85ー87 2 91194 5
8; 185 79 79 79 57,P.6 ; :1 5.7 5 86 572 575 557
計 928 986 1 ,029 1 ,0111 ,000 875 5.5 46 5.056 4, 4854,562 4,265 5,799
‑65‑
5,0ロ0人台 を保 ち夜が ら徹増 し、25年 に至 ると4,0ロ0人台 に乗せ、 これ以後40年 ま では 増 加の「遠 をた どるが、 50年 代初期 の全国的 な 「燃料革命」は、数年 の タイム ラグで本 村に も 及 び打撃 を被 った.統計 に依拠 す る限 D、 昭和40年 の人口指数 を10ロととれ ば、50年 か ら
1
5 5年 に か け て は 、
9 占〜 1 0占 と 指 数 を 1 0増 加 さ せ て い る が 、 こ の 増 加 は 、 必 ず し も 西 目 屋 村 自 身 の 増 加 に 負 っ て い る わ け で は な く、 次 の 時 期 で 述 べ るが 、 人 口増 加 とい う観 点 か ら敢 て 区 切 r)と したo 'Ji) 昭 和5 5
年 ‑ 昭和4 5
年 この時期は、表現が適切 ではをいが 「みかけ の人 口減少期 」 と して と らえ られ、 Tiた 「過疎地 域対 策 緊急措置 法」適 用の根拠 の時期 で もある. 昭和 5 5年か ら4 5年 までの減 少 内容は、 5 0 年 か ら55年 までの増 加 と舞い関連 が あるの で、併せ て述 べ たい. 50年代 の増加 は、第二 次産 業 を中心 とす る 日本 の本格的 を経済復 興 を背景 と した村 内の尾太鉱 山開発、そ して 目屋 ダム建設 と関係 しているO 尾太鉱 山 と人 口の関連 につ V,て記す と、 早晩流 出が見込 まれ る村 内の 2、‑5男 層が定着 で きた こと、 そ して村外か らも採鉱労働 者 と して人 口流入が あ った ことで あるo また、尾太 鉱 業所設立 とほほ 同時期 に あた る28年 に、水量調 節 と発 電のため ダ ム建 設 が行 をわれ、 そ の建設 従事 者が同様 に村 内に入 って きた ことが、人 口増加 を促 した原 因 で ある. が
、 55
年 を t='‑クに45年 に至 るまで、 元来 小規模 を山村 において、 夜ぜ
86
5名 の人 口減少が あ ったのか、以 下考え てみ たい. まず滅 少率 をみ る と、 55年 か ら4 0年 にか けては
‑5 . 8 宙、
4 0年 か ら 45年 までは‑ 14.1弟で あるo こ、の両 者の相違は、55年 に 目屋 ダ ムが完成 した のに伴 い、 建 設 従事 者が引き揚 げたが、57年 に弘西林道西 目屋管 内=事が開始 され たため人 口流 出に や や 歯
止 めがかけ られ た こと、 と ころが45年 管 内林道工事 の終 了 と共 に流 出数 に おいて、潜在 して い た ダ ム関係流 出 と林道 関係 流 出が重 在 った ため‑ 14.1弟 とい う数 字 と して表れ た ことに原 因 を 求 める ことが で きる. と同時 に、 人 口動態 統計表か らも分 る通 D、諸集落 の人 口減少傾向 も絡ん で い る こ とは否めをい. これ は、若年労働 力をつを ぎ とめ るだけ の就 業機 会 が をい とい うことが 大 きho をお、村外 者 の工事期 間中の宿 泊は、 ダ ム関係 が主 と して居森平\ 砂子 瀬、 川原 平 であ D、榔 ま大敵分が日
原 平であ り、その他vc村 も 田代vc若干存在し7:3' L ' l ' l )
昭和4 5
年以 降 この時期 で統計上一番 目をひ くのは尾太 の減 少で あるO 尾太 は55年以 降は特 に盛ん を設備 投 資 を行 をい、 村外か ら労働 者が多数入 9込ん で きた た め、集落 規模 を急速 に増 大 させ た とい う点 で も、 西 目屋村 の集落 においては異 色で ある. 尾太鉱 山の特徴 と して、 屯鉱脈が薄 い こと、樹硬 軟発達 が著 しい こと、そ の結果採 鉱 コス ト高 とい う問題 が あった ことが あげ られ る。 こうい う背 景 の もとに40年代前半 は経営 の合理化 が図 られたが、 昭和46年 の ドル シ ョックが災 い して、金属価格が 下 降 L, これが コス ト高 とか らん で、退職希望者が増 加 し、40年代後 半 の流 出を招 い た. また人 口滅少 には、在村 者、特 に若干 者 層の村外流 出 も大 きい. これ は 中学卒 業後 の進 路
に端 的 に表れて お
9 、 44
年 を境に 50宙に達 し,最 近 はほ ほ 70再に在 って い るO 村 内 に就 業
機 会 が 乏 しい ことを考 え る夜 ら、進 学 者の相当 多数 は村 外‑ 職を求 めねば な らぬ. また婚姻 に もとず く村 内定着 も極 めて微 か で あ 9、 これ らの要因 が村 内人 口の 自然 増 の低 下 と して表 れ て い る。
4.産 業 構 造 i) 農 業
昭和
44
年 の 時点 で、農 家数497
戸で あ P、 土地利 用 別 にみ る と、 田地 22 7A
a.畑地d D▲
a.果 樹園 120L
a, 計4 07 A
aで ある.44
荘以 降は、 ‑1等国の滅 反政策 もあ り、 水 田 を果 樹 園 に転換 した農 家 も若 干 あるが、面積 上、ほ とん ど変化 をみ をい のが現 状 で あ る. 平村 の平 均 経営規模 は、 約0.8A
aで ある.最 近 の傾向 と しては、 統計か らも分 る通9 、
0.5ね 未満 及 び1 .5
払 以上 の農 家 層が7
年 間 に増 加 Ll 中間層 に あた る0.
5んか ら1.5
血未 満 の農 家が 減 少 した ことが あげ られ るO 従 って、 中規模農 家 層が零細 層 と相対 的 に規模 の大 きい農 家 層 に両 極分解 が か こ P、 分 岐点は、‑
お ̲1そ1.5i
aと考 えて よい。 ただ この分岐点 は、 平場農 村 と異 P、専 業 可能 を意味 しないo
l
血 未満の農 家層 のr 部に離農 も現れ て お P、 そ こ
には、 砂子瀬、 川 原平 とい うようを地 域的 偏 在 がみ られ る̲ O
これは、 経営規模 の格 差 が大 で あ る こ とに起 因 して レヽる。経営耕地 規模 別農家数遷 移 (農 業 セ ンサス)
一 一50 a 一 一 10 ロ a
一一150 a
一一2ロ O a一 一
農 家 数概 半 喝 規 模 嘗 b '40 1 78
戸189
̲戸9 2
戸2 4戸 1 4戸 49 7戸 0 .7 5
ん αb '45 190 187 76 27 20 50
0戸寺 0 .8 b '47 181 17 8 66 29 21 47 5戸
β)
図
l ' 1
)# #国有林が圧倒 的 な比率 を示 してい るので、 村民 と林 業 の関係 は営林署 との 雇用関係 に存す ち.営林 署 に ょる雇 用は 常 時雇 tへ 季 節雇 い、 国有林 内 日雇 いの三 種 が あ D、 季 節雇 いは
6
ケ見聞の就 業後 は失業保 険 の給 付対 象 とを D、 また 日雇 いは夏期 を 中心 と して、村 内の林業 企 業 組 合が請 負 って い る. Tiた 防災面 の 必要 か ら、村 は協 力の見返 Dと して 「普通 共用林」「組 合共 用林
」に対 す る入 会権 を所 有 して お 9、後 者は売却 を禁 ぜ られて い るの で 自給 用 と
しての価 値が あ 9、 前 者は 自由で あ るの で、か つて の薪炭 生産 は これ の利 用 で あ った。最 近‑67‑
共用林 の新 しい活用 け メコ生産組合)が行なわれ、地 場産業の振興 とい う点 で注 目され る.
m)尾 太 鉱 山
尾太鉱 山の種辞的効果 は、三十年代 に比較す ると、やや薄れつつ あるが、農林業 の低調 を考 え るを ら、村樺済 にとって貴重 を税収源の一つで ある.
llv)出 稼 ぎ
出稼 ぎが顕在化 したのは、薪炭業が不振に見舞われた
50
年代中期 で ある。 家族労働 に ょる 炭焼 き業が矢 をわれた結果、そ の労働 力は高匿成長を背景 とする大都市 の建設製造業に容 易に
吸収 され、 出稼 ぎが新たを現金収入確保 の手段 と して定着 したのであるo木村 のバ ター ンと し て、50年代 は後継 者の出稼 ぎが、 世帯主及びその妻のそれ よ9多か ったが、4ロ正代 に入 る と後者の出稼 ぎ傾向が強 くを って きた ことが あげ られる. これは、薪炭業従事者の うち、 せず 若年労働力た る後継者が先行 Ll やがて農業機械、薬剤、 自家用車 (必需品 で ある)の購 入に
ょる借金 と生活全般にわたP都市的 消費生活が浸透 して きたため、家計費の増大を穴埋 めす る 必要 に迫 られたためで あるO 出稼 ぎ者の層を考えてみ ると、50年代末期 では1わ未満 の零細 農 家層が、 ほほ9割に遺 していたが、 44年の時点 で7,6好の専業農 家が あ D、 せた比鞍 的 営規模 の大 きい天秋、 田代、杉 ケ沢 のほ とん どが農閑期 出稼 ぎに行 くととか ら考 え ると、 出稼ぎ農 家層は
50
年代末期 よP
も、耕地規模 に関係 を く一層拡大 していると言え る.現在 の本村 におけ る農家は農業攻入 の低位 さ もあって、労働 力を横優的 に出稼 ぎへ長 9向け る傾向を持 っ ている ように思われ る05.
轟 論本 村 は 昭 和4d年 、前年 に成立 した 「過疎地域対策緊急措置法」の適用を受 けた。同法 に盛 ら れた過疎の概念 は 「人 口滅 少のため に一定の生活水準 を維 持す る ことが困井 と在 った状態、た とえT ば防災、教 育、保健を どの地域社会 の基礎 的条件の維持が困耗 とを D、地域社会の生産横能が著 し
く低下すること」 と Ll 主を対策 を、 「交通通信体系の整備、教育文化施設の整備、厚生施設及 び 医療 の確保、産業 の振興、集落の整備 」 と している. ・また人 口減少率は、 昭利 40年 よ945年に かけ て‑ 10東とい う数字 をあげて いる.以上 の ことを、西 目屋村の現実 と照会 してみたい。 まず 医療面 では、 現在 田代及 び尾太 に医師が常駐 しているが、後者は鉱 山関係者を主眼 と してお P、 田 代 は27年 に村直営診療所が設置 され たが、 医師不足 と財政事情 に
エ
9、44年 に村営 を廃止 し、施 設を現在の医師 に貸与 しているが、 医療設備が不十分 をため、緊急時は弘前 に依存せ ざるを得を い。 これは特 に冬期 間は浪人家庭が多いため問題 を含ん でい るO確かに都市部 と此戟す るを ら劣 っ て い るが 日本の小村 の大部分が無医村 であることを考えれば、そ う条件が悪いわけでは貴い。 また 教育の面では流域 に沿 って集落が細 長 く拡散 してか P、 中学校が 田代 と砂子瀬 に しか をいため通 学
上不便を期 Ll 冬季 間は道路を確保 (ス クールバスを運行 してい るが問題 は残 る.更 に防災 の面 で も出稼 ぎ者が多 く、在村者が老齢者 と婦女子が多 いため、 人材 確保 に難点 はある. しか しこれ らの ことは突如現れた もの とは違 い、本村よD劣悪 を条件 を持 った 山村は青森 県 で も多数 存在 してい る。
これは本村の一 人あた 9平均 所得が昭和42生匿実績で、 青森 県平均 に対す る地域格差99.2と平 均 を若干 下回 る程 匿の数字 によ9裏 づけ られ る. また40年か ら45年にかけての減少率14.1東 の内容 を考え る夜 ら、 前述 した ように、 自然増 の低 下基 調は続いて い るものの村外 者の流出が大 き く響 いてい るので あ り、 中匡地 方 に典型 的にみ られた挙家離村 o')よ うを事 例は、西 目屋村 において 生 じては いをい。 これ らの額縁 に よって も分 る通 り、 現段階 では、過疎山村 の指定は受けている も のの、 いわ ゆる過疎 山村の イ メージはSrT染 まをい と言 え る。 ただ長期的 にみれば予断 は許 されず、
それ は外部的 な要件が介在 し惹 く夜 った昭和 4 5年以 降の人 口流出基 調が示 してい る. 昭和 4 8年 匿 においては尾太が 多数 の人 口流出を 出 したのを始 め、 各集落毎 に 自然増 の低 下 と若生 労働 力 の流 出傾 向は一向 に衰えぬのが寒情 で あるか らで ある。 本村の将来 を考え るとき、 津軽地域 に占め る位 置 を念頭 に置 く必要が ある。 即ち弘前、岳、 西海岸、秋 田県藤里の 四方 に通ず る結 節点に あた り、
他 の山村 と比べれば、物 流的 に好 条件 と言え、 これ をいかに活かすか にかか ってい る ように思われ ち. しか し産業を支 え る若年層の流出が続 けてい る今、 この層を産 業の主力に位置 づけ るようを産 業の体質改善 が図 られねば 怒 らをい.そ の意味 で近在誘致 された豪雪 山村 開発 セッ タ‑の産業教育 の場 としての役割 は儀 めて大 きい と考 え る
.
参 考 文 献 山村振 興調査 会編
/ }
彦郎右村
幸
二
主星井田田
日
暮井今川三酉■ ク
大 内 宍衛 そ の他
山村 問題
過疎問題 と山村 の方向 日太の過疎地帯 野 外科学の方法
隔絶 山村福 島県椿枝岐村の変貌 とその規 定要 因 要覧 に しめや
ふ るさ とに しめや 日本経済 BEI説
‑69
‑J