我々はこれまで「ジュール・ミシュレ(Jules Michelet 1798-1874)と生命科 学」というテーマに沿っていくつかの研究を発表してきた。ミシュレは革命直後 のフランスに生まれ、ユゴー、バルザック、ラマルチーヌらと同世代であり、い わゆる浪漫的な感性の時代に生きた。しかし彼は活発に展開されていた文学のロ マン主義運動とは距離をとり、文学人たちとはほとんど交流しなかった。その反 面、パリ植物園や科学アカデミーに積極的に足を運び、さまざまな分野の科学者 たちから、急速に近代化する同時代の科学を吸収した。我々はこれまで、「歴史」
という、文学と科学のはざまに位置する分野において、科学の「進歩」がもたら したエピステーメーの変遷を彼がどのように受容し、あるいは拒絶していったの かという問題について、まず生命の起源を論じた「自然発生説論争」との関わり、
次に化学界の権威であったマルスラン・ベルトロとの交流という視点から検証し てきた。本稿では、19世紀の認識体系を大きく揺るがす大事件であった「進化 論」の登場がミシュレに及ぼした影響について検討する。
1
本論に入る前に、進化論という考え方が人類の歴史の中でどのように形成され てきたかを、簡略にまとめてみることにしよう。進化論の歴史を辿ると、世界は 時間とともに変化するものであること、人間は他の生命体に特に優越するもので はないこと、などの今日では自明の事実を受け容れることが近代人にとって如何 に困難なことであったかが伺われる。しかし、この困難さは実は近代的思考、特 にキリスト教の教義の中で生じるものであって、キリスト教以前の古代の思想家
ミシュレとラマルク
坂 口 治 子
たちのおおらかな世界観においては、生物が変化するという思考はごく自然に表 現され、残されている。例えば、世界の起源には「地表をおおう泥の中に原始的 な生物が生じ、それが次第に発達して植物と動物になった。最後に長い年月がか かって人間ができた。」(アナクシマンドロス
Anaximandros B.C.610-546)とい
う説、あるいは「世界の始めには多くの体の部分が地中から生じてさまよってい たが、愛と憎の神があちらこちらでつかみ合いのけんかをした結果、それらはく っつきあいだした。そして生存に適するものだけがのこった」(エンペドクレスEmpedoclês B.C.490-435)などがある。進化論の視点から見ると、これらの古
代の思想家の夢想には、奇妙に近代的な真実味がある。エンペドクレスの説には、素朴で神話的な中に、ダーウィンの「最適者生存」の考えとの共通性があるとさ れている。
また、長い間西洋科学の基礎であったアリストテレスは、自然は秩序だって上 位のものから下位のものへと配列されているとし、「系列」という進化論の発生 につながる考えをあらわした。しかしその中には、時間的課程としての生成・由 来の観念、すなわち歴史的観念が含まれておらず、その点においてキリスト教と 対立することがなかった。当然のことながら進化論的思考は、この時間の観念の 導入なくしては生まれてこない。
ヨーロッパ社会においてこの歴史的時間の導入を頑なに排除しようとしたの は、キリスト教である。生命の起源論争において常に問題になるように、創世記 の「初めの六日間」の記述、宇宙の万物はその時間内につくられ、動植物の種も その中で生じ、以来世界は変化していないとする記述、そして天地創造から現在 までの時間は六千年であるとする計算は、何度も科学者を抑圧し、彼らに悲劇的 な運命を強いてきた。例えばこの地球の年齢に異を唱えたジョルダーノ・ブルー ノ(Giordano Bruno 1548-1600)は処刑されたし、地動説のコペルニクス
(Mikol/
ai Kopernik 1473-1543)やガリレイ(Galileo Galilei 1564-1642)は迫
害され、彼らの科学的確信を自由に表現することができなかった。しかし教会の抑圧をかいくぐって科学の進歩は進んだ。進化論の発生に大きく 貢献したのは、創世記とは直接衝突することのない百科全書的な知識の集積であ った。中でも博物学における生物種の収集、そしてそれにともなう分類学の発達
が、直接進化論発生の土台になる。17世紀のイギリス人レー(John Ray 1627-
1705)
、18世紀のスウェーデン人リンネ(Carl Linné 1707-1778)らによって、まず植物の標本が分類され、それによって生物の「種」という概念が固定されて ゆく。それに続いてフランスでも、ジュシュー(Antoine Laurent de Jussieu
1748-1836)
、ド・カンドル(Augustin Pyrame de Candolle 1778-1894)らによ って分類学が発達する。動物の分類にはラマルクが貢献している。ヨーロッパの多くの国の中でも、特にフランスにおいて進化論の萌芽が形成さ れたことの大きな原因は、アカデミーや植物園で重要な地位を占めていたビュフ ォ ン や ラ マ ル ク が こ の 説 を 擁 護 し た 、 と い う こ と で あ ろ う 。 ビ ュ フ ォ ン
(Georges Louis Leclerc, Comte de Buffon 1707-1788)は、その著名な『博物誌
Histoire naturelle』のいたるところで進化論を認めている。しかし、未だ教会の
攻撃がはげしい時代であったこともあり、言説が非常に曖昧で、科学史の中で彼 が進化論者であると断定されることは少ない。初めて体系的に進化の可能性を論 じ、そのシステムを証明しようとしたのは、19世紀の幕開けとともに登場する ラマルク(Jean-Baptiste Pierre Antoine de Monet, Chevalier de Lamarck1744-1829)である。彼はパリ王立植物園で学び、園長ビュフォンに認められ、
その援助によって『フランス植物誌』(1778)を出版し、成功を収めた。大革命 に際しては、共和制賛成の立場で王立植物園の改組計画に加わり、自然史博物館 成立にあたって無脊椎動物学の教授に就任した。主な著作としては、『無脊椎動 物の体系』(1801)、『動物哲学』(1809)、『無脊椎動物誌』(1815-1822)などが ある。彼はまず植物の種の分析、また無脊椎動物の研究における動物の種の分析、
などの功績によって世に出た。そしてこれらの広汎な種の収集・分析・分類の作 業を通して、生物界の階層的秩序、「自然の秩序」という観念に思い至る。ラマ ルクの考えによれば、生物はまず無機物から自然発生により小さい泡状のものと して生じ、それがもつ生命の力によりおのずから発達し、体積を増し、複雑化し てゆく。この自然発生は絶えず行われており、故にこの世界には発達の様々な段 階にあるものが常に存在している。これは生物の「前進的進化」と呼ばれており、
生物全体の枝分かれした系統樹を視覚的に把握することによって生まれたもので ある。この進化は、一代の生命のうちに全て行われるわけではない。一つの個体
の生存期間は短いが、変化は長い時間をかけて行われる。そこでラマルクは、新 しい環境条件や、新しい習性が生物の器官を変化させるという「用不用説」、そ の変化は遺伝によって子孫に伝えられるという「獲得形質の遺伝」などの説を提 唱し、その論を補った。当然ながら彼の論は反論を呼びおこした。中でも最も強 力な反論は、ジョルジュ・キュヴィエ(Georges Cuvier 1769-1832)によって行 われた。キュヴィエはその豊富な考古学的知識から、そしてまたおそらくかなり 政治的な理由から、「天変地異説」、すなわち世界はただ一度の大異変によって今 の姿に創られたという、創世記に即した世界観を支持していた。その立場から、
彼はラマルクの「長い時間をかけた変異」に異を唱えた。当時キュヴィエは科学 界の権力者であり、彼との対立はラマルクのその後の不遇と無関係ではない。進 化論もラマルクの逝去とともに一時姿を消し、イギリスからの新風が吹き込むま で忘れられることになる。
ダーウィン(Charles Darwin 1809-1882)は、『動物哲学』出版の年に生まれ た、ラマルクより一世代後の進化論者である。祖父のエラズマス・ダーウィンも 生物学者であり、ラマルク以前に進化論的思想を持っていたと言われている。チ ャールズは医学・神学等を学んだ後、1831年にイギリスの測量艦ビーグル号に 博物学者として乗船し、約
5
年間にわたって南太平洋の諸島などで地質や動植物 の測量を行った。イギリス本土で、またこの航海において、広汎な採集及び観察 をおこなった結果、1859年に有名な『種の起源On the Origin of Species by Means of Natural Selection or the Preservation of Favoured Races in the Struggle for Life』を発表する。この本は周知のとおり、生物学の分野だけでな
く、政治・思想的にも社会に非常に大きな影響を与えた。ダーウィン進化説の最も重要な支柱は、その副題にも冠されているように、
「自然選択」「生存闘争」の法則である。彼は「どの種でも生存してゆかれるより ずっと多くの個体がうまれ、したがって頻繁に生存闘争がおこるので、なんらか の点でたとえわずかでも有利な変異をする生物は、複雑でまた時に変化する生活 条件のもとで生存の機会により恵まれ、こうして自然に選択される。遺伝の確固 たる原理に基づき、選択された変種はどれもその新しく変化した形態を増やして いくことになる」(1)と延べ、外的条件や習性、あるいは生物の意思などの作用で 変異を説明しようとするラマルク説を否定し、進化の全く新しい法則を確立し
た。
ミシュレはラマルク変異説にもダーウィンの進化論にも賛同し、それらについ て著作の中で記述している。ダーウィンとミシュレの関係については、紙幅の関 係から次の機会に述べることとし、本論ではラマルク変異説に関するミシュレの 記述を中心に考察することにする。
2 Métamorphose
今日「進化論」という日本語に対応するフランス語は、évolutionismeが一般 的である。しかしこの語はダーウィンが『種の起源』第六版(1873年)ではじ めて使用し、その後ダーウィン進化論が伝播してゆくにしたがって定着してゆく、
英語の影響の強い、比較的歴史の浅い呼称である(2)。ミシュレは今日でいう「進 化」、生物の形状の変化を表す場合、métamorphoseまたは
transformation
とい う語を使用している。特にmétamorphose
という語の使い方は、独特のもので あるように思われる。我らがパリ自然博物館の、その狭すぎるほどの構内は、夢の宮殿である。生物の 変容(métamorphose)の精霊、ラマルクやジョフロワの精霊が、そこここにとど まっているように見える。(3)
métamorphose
の精霊は植物学や化学によって解放されたところであった。ラマルクを、その生涯を費やしていた植物学から取り上げ、動物を教えるように強いた のは、果敢な、そして実り多いことであった。(4)
(1) Charles Darwin, L’Origine des espéces, trad. Par Jean-Mark Drouin, GF Flammarion, 1922, pp.48–49.
(2) cf. Edward Kaplan, « Michelet, évolutionniste », in Michelet cent ans après, 1975, p.112.
(3) La Mer, op.cit. p.141.
(4) ibid., p.143.
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これは
1861
年の著作『海』からの引用である。ミシュレはこのように、ラマ ル ク や ジ ョ フ ロ ワ ( サ ン = チ レ ー ル ) を 「 変 容 の 精 霊 (génie des métamorphoses)」と呼んでいる。パリの重々しい自然博物館がふと幻想的な
「夢の宮殿」に思えるような、詩的な表現である。この語はもちろん語源的には
“méta(変化)”と“morphe(形)”で、
「形を変える」という意味であり、ここでは生物の進化における変容を意味している。しかし生物学的には
métamorphose
は昆虫の蛹から成虫への変態などの、その生命体の一生の中で行われる、形態の 完全な変化を表す語である。19世紀ラルース辞典やリトレなどを参照すれば、これが今日に限らず
19
世紀においても、最も一般的な語の意味であったことが わかる。しかるにラマルクやジョフロワの業績は、昆虫の変態を発見・研究した ことではない。彼らは生物界全体を見渡しながら「進化」という観念を生み出し たのであり、それは「長い期間の中で、微細な変化が何代にもわたって蓄積され、その結果大きな変化を起す」というもので、普通
transformisme
(6)と呼ばれる。この
transformisme
も、またミシュレが使うmétamorphose
も形の変化を表す 語には違いないが、生物学的には全く異なる現象を指しているのである。そ れ に も か か わ ら ず 、 ミ シ ュ レ は ラ マ ル ク の こ と を し ば し ば
génie des
métamorphoses
と呼んでいる。それにはこの語の持つ私的で神秘的な効果をミシュレが好んだ、ということが当然あるだろう。いうまでもなくこの語はすべて の読者にオイディウスやアピュレイウスの神話、『変身譚
Metamorphoses』を連
想させる。リシュレやリトレの辞書に第一の語法として示されているのは、「神 の力」による変身、という意味である(5)。そして、後にまた述べるように、ミシ(5) transformisme
の語は1867
年にフランス人の医学・人類学者であるBroca
とい う人物によって、Darwinの理論を示すために使用された語とされている。以来évolution
という語が台頭するまで、特にフランスで、ラマルクの説を含めて進化論を表す語として使われていた。
(6) Littré, Dictionnaire, « métamorphose : 1. Changement d’une forme en une autre, opéré suivant les païens par les dieux. »
cf. Richelet, Dictionnaire française, 1680., « métamorphose : C’est le changement qui se fait par un Dieu, ou par une Déesse d’une personne en quelque autre formes. »
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ュレはラマルクやジョフロワ・サン=チレールに対して「宗教的な」敬愛の念を 抱いていた。ラマルクが晩年盲目であったことから、彼を「ホメロス」と称する こともあった。つまりこの語を使用することによって、崇拝するラマルクやジョ フロワを古代の偉大な作家たちの列に加え、更に言えば神格化することができる の で あ る 。 ミ シ ュ レ は 「 進 化 」 と 「 変 容 」 と の 差 異 を 超 え て 、 敢 え て
métamorphoses
という語を使い、この科学者たちを聖別したのだと考えることができる。
更に、ミシュレが
1857
年に出版した著書、『虫L’Insecte』の第一部「変態 Métamorphose」という章を見ることで、もう一つの理由を推測することができ
る。『鳥』に続く第2
番目の自然史である『虫』は三部構成になっており、第一 部が「変態La métamorphose」、第二部は「虫の指名と技術について De la mission et des arts de l’Insecte」
、第三部は「虫たちの社会Société des insectes」
というタイトルがそれぞれつけられている。ミシュレは蚕の働きなどの昆虫のも つ「技術」や、アリやミツバチなどの「社会性」に惹きつけられたわけだが、そ れにも増して昆虫の「変態」という現象に強く魅了されていたことがわかる。こ の章においては、まず人間の自然な感情における虫に対する恐怖と嫌悪が示され、
その後虫たちが我々と同じこの世界において、いかに無垢に、そして有益に存在 しているかが述べられる。この展開は、読者が徐々に虫に対する他者性を排除し、
彼 ら に 親 近 感 を 抱 く よ う 仕 組 ま れ て い る と い え る 。 つ ま り こ の
L a
métamorphose
という言葉は、読者の抱く虫に対するイメージの「変容」を表しているようにも思われるのである。更にこの章の中には、入れ子のように配置さ れ た 「 変 態 − ミ イ ラ 、 幼 虫 、 蛹
Métamorphose–la momie, nymphe ou chrysalide」と題された短い一節がある。この節では、オシリス信仰が代表する
古代エジプトの不死思想がテーマとなっている。このエジプトの不死思想は、様々な著作の中でたびたび触れられるミシュレの「固定観念」的イマージュの一 つであるが、それはこの宗教が復活・再生の希望を信仰の中心としているからで あろう。いうまでもなく、復活・再生はミシュレの思想の核をなすテーマである。
ところで、この節で語られているのは、このオシリス信仰においてはスカラベ
(タマオシコガネ)という昆虫が《創造》と《再生》を象徴する聖なる虫として 重要な位置を占めているということである。それはこの蛹がエジプト人にとって
ミイラとそっくりであったからであり、ひとたびミイラとなりながらも、美しい 成虫として殻から抜け出すという変態現象を、エジプト人たちが「死と復活」の ドラマに見立てたからであった。しかしミシュレによれば、近代になってスワン メルダム、マルピギー、レオミュールらが、例えば蛹にはすでに成虫の形が全て 含まれているというように、昆虫は現在の段階の形状の中に次の段階の形状をす でに内包していることを明らかにし、それによって幼虫・蛹・成虫という外形の 変化が一続きの生のそれぞれの段階であり、「死」と「再生」ではないことが証 明される。この事実を前にしてミシュレは自問する。それでは復活・再生の神話 は消滅してしまったのだろうか。「近代の科学はこの古代の詩を粉砕したのか?
奇跡をば完全に自然に帰せしめたのか?」(7)
ミシュレにとってはおそらく、生命の復活は否定しがたい哲学であり、かとい って敬愛する科学者たちが提唱した近代科学を否認することもできなかった。彼 は結局どちらをも受け入れるという方法をとる。「そうだ、古代は正しかったし、
また近代の科学も正しいのだ。それは死んだ、しかも死んでいない。それは言っ てみれば部分的な死である。それに死はそれ以外のものだろうか?死は誕生では ないのか?」(8)まず彼は、神話が示す通り、生命は変態を経て「生まれ変わる」
ことを受け入れる。このようにして生命は、「古い自我
moi
」という過去から 解き放たれ、新たに自分自身をはじめるという自由、あるいは軽やかさを持つこ とができる。なんと偉大で、この上もなく壮大なことか、生命がここまで変化し、器官を支配 し、古い 自我(moi) からこんなにも自由で、勝ち誇りつつ生き延びると は・・・(9)
しかし彼はまた、この虫の変態は近代科学の言うとおりただの「変容」なので あって、「死」ではないと考えるのである。すなわち、この生物の世界には、「変
(7) Michelet, L’Insecte, in Œuvres Complètes, tome XVII, Flammarion, 1986, p.325.
(8) ibid., p.328.
(9) ibid.
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容」は存在するが完全な、絶対的な「死」は存在しない。換言すれば全ての死は 見せ掛けであり、それらは復活を経て現世に戻ってくるということである。とこ ろでミシュレはここで、人間の生命の変容には
2
種類のものがあると述べている。一つは、小さな、日常的な変容である。
私は自分で生きてきたのにつれて、自分が日毎に死に、また生まれることに気付 いた。私は辛い変態を経験し、困難な変容
transformation
を経験した。もうひと つ付け加わろうとも驚かない。私は幾度も幾度も幼虫から蛹へ、そしてより複雑な 状 態 へ と 移 っ て 行 っ た が 、 そ の 状 態 も 、 少 し 時 間 が 経 つ と ま た 、 新 た な 変 態métamorphoses
の周期の中で、不完全なものとして私を更に完全なものへと向かわせたのである。(10)
人間は日常的な死を経験し、それを繰り返しながらより完全な形に近づいてゆ く。その意味で我々の一生は変態の連続ともいえるものである。一つの人格が絶 えず発達しながら成熟してゆくというこの動きは、まぎれもなく「進化」である と言えよう。
そしてもう一つは、歴史の流れの中の巨視的な
métamorphoses
であり、一続 きの超越的な生命の変容である。これら全ては私から私へ、しかしいまもって私を構成している私だけではなく、
私を愛した人々、私を欲した人々、私を創り上げた人々、あるいは私が愛したもの たち、私が創ったものたちへと続いているのだ。彼らもまた、私の過去の変容
métamorphoses
であり、未来の変容なのだ。(・・・)ああ彼(父親)は私の蛹であったのだ。そして私は同じ役割を、明日来るべき者たちに、私の息子たちや私の 思想の継承者たちのために演じているのだ。(11)
ミシュレは一匹の虫の変態という現象から、全体としての生命のありかたを換 喩的に理解する。蛹の中には成虫の完全な姿がすでに内包されている。それと同 じく父親の中には自分の全てがすでに存在し、それはそのまま自分へと受け継が
(10) ibid., p.328.
(11) ibid.
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れているのである。個別であると思われていた生命は、実は一続きの大きな生命 の一形態であり、この感覚は父の死に対する絶望感を緩和することになろう。自 然は死という恐るべき断絶に関して、精神的な解決策を提供している。ただ、こ のように過去・現在・未来は一つの生命を貫いて一続きである、という思想を、
ミシュレが進化論と共に突然理解したと明言してしまうことはできない。我々も 繰り返し述べてきたように、それは死人が埋められた墓の上に植物が生い茂るの を見たときや、繰り返し女性を愛した経験や、そして紀元前から連綿と続く歴史 を時間に沿って記述するという仕事を繰り返すうちに、徐々に得られた感覚であ っただろう。昆虫の変態という現象は、それを通して「死は決定的な断絶ではな
く
métamorphoses
に過ぎない、それは生物界の法則なのである」と公に認証するための格好の口実なのである。この「métamorphoses」すなわち「全ての死は 普遍的超越的生命の進化の段階における見せかけに過ぎない」という思想は、そ の後の一連の博物誌的著作群の中で発展し、ミシュレの思想において重要な支柱 の一つをなすものとなる。
ミシュレにとって昆虫の変態は生物の進化の縮小された姿であり、本質的には 両者の間には差異がないのである。そしてそれゆえ、ラマルクが提唱した変異説、
すなわち生物は長い時間をかけて変化するという考えは、ミシュレにとって昆虫 の
métamorphoses
と相似の現象であり、ラマルクはGénie des métamorphoses
と呼ばれるのであろう。3 Intériorité
このようなミシュレの進化思想は、ジョフロワ・サン=チレール、ラマルク、
ブロン(12)などの言説を基に成立していると言われているが、その中でも特にラマ
(12) cf. Notes de La Mer par Jean Borie, p.387. «Heinrich, Georg Bronn (1800- 1862), paléontologiste et zoologiste allemand, professeur d’histoire naturelle à Heidelberg. Il est à l’origine de la traduction allemande de l’Origine des espèces.
Effectivement, un mémoire de Bronn sur les lois de l’évolution du monde organique avait obtenu en 1857 un prix de l’Académie des sciences de Paris.
Bronn envisageait cette évolution selon trois périodes correspondant aux grands
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ルクの変異説に深い影響を受けている。例えばこの説の主要な支柱の一つである
「前進的発達」の理論、いわゆる「用不用説」は、非常に直接的にミシュレの記 述に登場する。例えば『海』の以下のような記述には、それがはっきりと表れて いる。
いつも一定の方向から来る光にひきつけられると、視覚が集中してくる。それが 眼である。いつも同じ目的に向かう分泌作用は、形もなく関節もないなんにでもな りうる集合体から、一つの付属物を、つい先刻までは一本の(錨をつなぐ)舫綱で あり、後には足になるような、一つの器官を生じさせる。(13)
「用不用説」とは「ある器官を休みなく使用すると、発達が促されて器官は強 化され大きくなることさえあるのに反して、不使用が習性となれば発達は阻害さ れ、その器官は役に立たなくなって次第に萎縮し(・・・)やがては消滅してしま う」(14)、という説で、ラマルク変異説の第一の柱となる理論である。とり巻く環 境の変化によって生物の器官がこのように変化し、その変化が遺伝によって子孫 に伝えられ、長い期間の間に生物の変移、進化が起こるというのが、ラマルク変 移説の考え方であった。この中の「使用を繰り返すことによって器官が発達する」
という考えは、ミシュレの言説の中にしばしばあらわれ、例えば『魔女』の覚書 の中の「深海魚の比喩」の基にもなっていると考えられる。
私の扱った暗いテーマは海に似ている。そこにしばしば身を躍らすものは、次第 にその中で見ることができるようになる。必要が、感覚を生むのだ。(15)
このような詩的な表現にも、科学的知識からの影響が反映されているのである。
特に「必要が感覚を生む」という文章は、ラマルク説の影響を強く示唆している。
âges successifs du «modelage » géologique, la vie étant d’abord pélagique, puis côtière (amphibie), envahissant enfin l’espace continental. Il me semble que ces divisions correspondent à celles que suggère Michelet à travers le livre II. » (13) La Mer, op.cit., p.169.
(14) Lamarck, Philosophie Zoologique, Paris, G.-F., 1994., p.55.
(15) Michelet, La Sorcière, Flammarion, 1966, p.289.
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というのも、ラマルクは生物変異の原動力を、単純な生命体においては「被刺激 性
irritabilité」
、動物においては「感性sentiment」などという言葉であらわし、
更にそれらを「必要
besoin」
、「欲求désir」などの語でも表した。そしてまさに
そのことによって様々な同時代人たち(16)、そして後世のダーウィンからも批難を 受けていた(17)。もしラマルクが意識的に自然を擬人化するようなこれらの表現を 避け、同じ内容を対象を客体化する語を使用して表現していたならば、彼に対す る批判はおそらく減少したであろう。しかしまた、この「最後の哲学者」の浪漫 的な語の使用が、ミシュレのような人物の想像力を膨らませるのには適していた のであろう。『海』におけるミシュレの鯨類cétacé
の捉え方はその顕著な例であ る。ミシェル・セールも言うように、ミシュレは完全に水生の鯨は、進化の階梯 においては水陸両性の「人魚たち」、セイウチ、ジュゴン、マナティーらの前の 段階に位置するものであると考えていた。(18)中でも子供を胸に抱くことがあるマ ナティーの雌は、海洋生物の進化階梯の最も高い段階にある。(16)
キュヴィエは、『ラマルク礼賛』の中で、動物の意志や努力が進化の原動力とな る、というラマルクの説を、嘲笑している。(17)
ダーウィンはラマルクに対して冷淡な態度をとっていた。自伝には「ある日、私 たちが一緒に散歩していた時、彼(グラント)は突然に、ラマルクと彼の進化思想と について、非常に感歎しながら私に語りだした。私は驚いて、ただ黙ったまま聞い ていたが、それは私の心になんの影響も与えなかったと思う。」とある。(八杉龍一 著『ダーウィンの生涯』岩波書店・1950
年・12
頁)また書簡で「前進への傾向 とか、動物の緩徐な志向に基づく適応とかいう、ラマルクのばかな考えには陥りた くありません。」(八杉龍一著『進化論の歴史』岩波書店・1969
年・100
頁)と書 いている。このことに関して木村陽二郎は、英訳者がフランス語のbesoin
をwill
と訳したことが、ラマルク説を誤解させる一要因であったとしている。(ラマルク 著『動物哲学』木村陽二郎編訳・朝日出版社・1988
年・ix
頁)(18) Michel Serres, « Michelet, la soupe » in RHLF, 1974, n°5, p.788. «La balaine n’est pas le dernier maillon de la châine des êtres ; le dernier, c’est le lamantin.
La balaine n’est qu’un être imparfait, parce qu’il porte les mamelles trop bas. Au contraire, le dugong, le lamantin, c’est-à-dire la sirène, la sirène non pas comme animal mythique, mais comme animal actuellement existant, porte des seins permanents haut placés, être parfait produit en fin de série par la soupe, Vénus anadyomène. »
──────────
マナティーに特有のこのこのうえないやさしさは、肉体的な進歩によって身体機 構のうちに表現されてきた。見事な泳ぎ手であるアザラシ、いかにも重たい海のゾ ウなどにあっては、腕はヒレのままであった。それは身体にぴったりはめ込まれて おり、自らを解放することができなかった。結局黒人たちが
mama di l’eau
と呼ぶ、両生のやさしい女性である雌のマナティーが奇跡を成就することになる。全てはた えざる努力によって解放されるのだ。子供を愛撫し、抱き上げ、引き寄せるという 切なる思いの中で、自然は工夫を凝らすのだ。靭帯はゆるみ、伸び、前足となり、
その腕から掌状のポリープが広がる。― これが手である。(19)
人間のように、腕に子供を抱くことができる「人魚」たちは、その「やさしさ」
や、子供を抱きしめたいという「母性」を原動力としてそのような姿を獲得した。
つまり進化の階梯における優越性は、その精神性の高さを示しているのだ。この ような、ミシュレの記述の中でも特に詩的であり、生物学と詩と神話が幸福な共 存をしているこのような文章の中にも、ラマルク変移説の影響が少なからず認め られる。
一連の博物誌的作品群において、また歴史的作品群においても、ミシュレは自 然を本質的に人間と同じであると見ている。生物たちは家庭や社会を作り、労働 し愛し夢想する。大地や海でさえも人間的特性を備えている。ミシュレの自然の 描き方においては、全てが「擬人化」されるのが特徴である。このミシュレ的言 説の基には、「真なるものはつくられたもの」、すなわち対象を自ら創り出すこと が唯一の真の理解の方法である、というヴィーコの思想を認めることができる。
ところで、自然は人間の理解を超えて、人間とは関係のないところで存在する、
絶対的な他者でもある。しかしそれを人間としてとらえ自分自身に引き寄せるこ とによって、たとえ想像上の作業ではあっても、歴史家は自然と同化するのであ り、そのようにして初めてこの絶対他者を「内側から」理解する。もちろんこの ような方法を取ったからといって、完全な同化や理解は不可能であり、むしろそ れは歴史家の方法としては大きな危険を孕んでいると言えよう。しかしヴィーコ やミシュレなどの系譜の思想家たちにとって、事物を客観的に描き科学的信憑性
(19) La Mer, op.cit.
──────────
を獲得することよりも、対象と同化しようとする行為のほうが重要であったのは 明らかである。そしてまさにその思想に基づいた言説によって、外側から事実を 把握しようとする実証的言説を重んじる同時代の知識人たちからの反発を受けて いるのである。
4 Resurrection
1850
年代以降に書かれた博物誌群の中で、ミシュレは折にふれ鳥類学者ウィ ルスン、昆虫学者スワンメルダム、そしてジョフロワ・サン=チレールやダーウ ィンなど、多くの科学者に長いオマージュを捧げているが、ラマルクに対する崇 拝の念は特に強く、それは彼にとってほとんど「宗教的な」心情であった。先日、10月
1
日、少し遅くなったので、私は苦労してイシサンゴ類の名札を読ん でいた。ドアのすぐ近くの一枚の名札に、次の名が認められた。「ラマルク」。 私の心臓を、熱いものが、宗教的な感情が過ぎていった。(20)この百科全書的天才、大胆不敵な改革者、全ての科学の英雄は、植物史の中に、植 物の進化の中に、「自然」の深い神秘を、変化の秘密をつかんだのだ。(21)
上の第二の引用の中でミシュレはラマルクを、「大胆不敵な改革者」「全ての科 学の英雄」と呼んでいる。彼はこの博物学者の功績を、自然科学界における「フ ランス革命に匹敵するもの」と考えていた。『海』では、初めて無脊椎動物の体 系的な分類を行ったラマルクの業績を、以下のように表現している。
栄えあるビュフォン伯はこの取るに足らない下層民たちの、名を知ろうとさえし なかった。それらの者たちを、自らの手で大自然のために建立した壮麗なるヴェル サイユの外に放逐したのである。したがって、このとりとめのない無名の大民衆、
この科学から追放されたものたちは、あらゆる場所に満ちて、全ての事柄を準備し
(20) ibid., p.142.
(21) Michelet, Histoire du XIXe siècle, in Œuvres Complètes , Tome XXI, Flammarion, 1982, p.131.
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ながら、ラマルクの出現を待つことになった。入場を妨げられていたのは、まさに こうした年長者であったのだ。入場を許されていたものは、数えあげてみても、た かが知れていただろう。数で判断しようとするならば、門外に締め出され、忘れら れ、取り残されたものたちこそ、まさに自然そのものだといえたはずである。(22)
ここに、89年革命の、三部会の場面の暗示があるのは明白である。「取るにた らない下層民」というのは、無脊椎動物のことをさしている。
ラマルクは
1793
年に自然史博物館の教授に任命されたが、不本意ながらそれ まで専門としてきた植物学ではなく、「昆虫学、蠕虫学」の担当を任されてしま った。このときから彼は、未開拓であったこの無脊椎動物の領域に大きく進路を 変え、講義をしながらこの生物たちの分類を行うことになる。彼はまず全体を脊 椎動物と無脊椎動物の二種類に分け、それから脊椎動物を四綱、無脊椎動物を最 初は五綱に、後には十綱に分けた。このような作業をすることによって、動物の 諸群の類縁関係を理解し、そこから生物進化への確信を深めていったのである。彼のこの作業によってそれまで最も下等とみなされ、生物界の分類の中にさえ登 場しなかった無脊椎動物たちは、自然界におけるその数の多さを認められ、また それぞれの名を与えられる。ミシュレは、歴史家として、無名のものが「名を与 えられる」という行為の意味と、その重要性をよく理解していた。それはすべて のものを飲み込んだ茫漠とした時間の中に、その存在を「創りだす」行為である。
名付けられるまで、それらは「人間の意識」という世界の中に存在することがで きないのだ。そして当然、民衆歴史家として自分が、フランス革命以前の民衆に ついて行ったことと、ラマルクのこの行為を重ね合わせた。おそらく報われなか ったその生涯への共感も込めて、ミシュレは彼を「英雄」として、宗教的な存在 として、聖別したのである。
そして未完の最後の著作『19世紀史』において、「ラマルク」の名はほとんど
「英雄」のような響きをもって使われている。執筆を始める直前に、ミシュレは 日記にこう記している。「科学を冒頭に置くという最初の考えは正しい、と腹に
(22) La Mer, op.cit., p.142.
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決めた。ラマルクとラヴォアジエに決めた。」(23)「94年、生命の反動、生命の優 しさは有機化学の動きと非常によく調和する。ラマルク、ジョフロワ、etc.。」(24)
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世紀史』は、まず革命の終焉によって幕を開ける。フランス革命とそれに 続く何年かは、死と荒廃が世界全体を支配していた。「地球上で、これほどまで に死が勝ち誇ったことはなかった」(25)、とミシュレは書いている。しかしミシュ レの描く全ての「死」のモチーフがそうであるように、この荒廃、停滞にも反動 が起こる。それが19
世紀には科学というかたちであらわれるのだ。「ジャコバン 党の最後」の章の後、ミシュレは「フランスは再び生気を取り戻す。(・・・)自然 の反動」という項を設ける。そこには、19世紀初頭の科学、特に化学におけるラ ヴォワジエと、博物学におけるラマルクの功績が称えられている。この力強い革命家はそれら(無脊椎動物)を独占し、それらの立法者となり、そ れらを名付け、分類し、全世界的なシテ(都市国家)の中に、その地位を確立した のだ。(・・・)そこから、生命が自らを組織しながら、洗練させながら躍動を始める、
しかも常にこれらの原始的な生命たちと関係を保ちながら。(26)
ラマルクはゆえに再生、復活の英雄でもある。『海』で使われていた「変態の 精霊
Génie de métamorphoses」という呼び名は、
「復活の精霊」という意味で、ラマルクと不死思想を結び付けているのかもしれない。
5
私自身が、久しい以前から、自然科学におけるフランスの大革命を、心から讃美 していた―あんなにも実り豊かな方法を持ち、あらゆる科学の力強い鼓吹者たちで あったラマルクやジョフロワ・サン=チレールの世紀を。彼らの精神を引き継いだ 正当の息子たち、懸命な子供たちの中に、彼らの価値を見出して、どんなに喜んだ
(23) Michelet, Journal, Tome IV, Gallimard, 1976.
(24) ibid.(1870
年5
月20
日)(25) Histoire du XIXe siècle, op.cit.
(26) ibid.
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ことだろう!(27)
何度もラマルクと並び称される博物学者エチエンヌ・ジョフロワ・サン=チレ ールフ
Étienne Geoffroy-Saint-Hilaire
を、ミシュレは進化論者と考えていた。確かに彼はラマルクの弟子であると同時に親しい同僚・友人であったし、自然科 学において哲学的・思弁的な要素を重要視したという点において、ラマルクの系 譜を継ぐ自然科学者であると言える。21歳という若さで王立植物園の教授に任 命されて以来、動物学、比較解剖学、畸形学などの様々な分野で第一人者であっ たが、特に後に述べる
1830
年のキュヴィエとの論争でよく知られている。彼は「動物の体構造におけるプランの同一」を主張し、それによってミシュレに多く の影響を与えたが、崇拝するこの科学者が進化論を支持していたと言う事実は、
ミシュレの進化論に対する見解に少なからぬ影響を与えたことであろう。ジョフ ロワ・サン=チレールは、この動物の体の構成の一致は、それらの共通の祖先の 存在を示唆すると考えた。ただラマルクが、進化の要因は環境が成体に対して緩 慢に、間接的に作用するのだとしていたのに対して、ジョフロワは畸形学の理論 から、動物の幼生期に環境が直接作用して進化が起こるとした。しかし彼は一貫 した進化の学説を持っていたわけではない。それは「相同」理論を補足するもの として、その隙間に立ち現われるだけであり、進化論の歴史にジョフロワの名前 が登場することはほとんどない。ミシュレが彼を「生物の変容の精霊
génie des métamorphoses」と呼ぶ理由は、当時まだ公には認められていなかった変異説を
ジョフロワが受容していたこと、そしておそらくラマルク説を、そのサロンでミ シュレに詳しく教授したのが彼だったからではないかと考えられる。6
ミシュレが進化思想の影響を受けるのは、1850年から
60
年にかけてである。上に述べたようなラマルクの進化論は、その後のミシュレの仕事にどのような影
(27) Michelet, L’Oiseau, in Œuvres Complètes, Tome XVII, op.cit., p.46.
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響を与えたのか。
上述したように、古代社会の自由な思想が閉ざされて以来、西欧社会に進化思 想が再びあらわれるのは
18
世紀であり、その後19
世紀の幕開けとともに、ラマ ルクがそれを体系的に論じた。タブーとされてきたこの思想が出現する土台とし ては、比較解剖学や地質学の発達などがあった。キュヴィエやジョフロワ・サ ン=チレールが生物の構造的類似(相同)を論じ、地質学では地球の年齢が、次 第に正確に計算されるようになる。中でも特に進化論の発現と関係があるのが、分類学の発達とそれにともなう方法の変化である。ラマルクが植物分類、動物分 類の研究を経て進化論へと行き着いた、その過程そのものが象徴しているように、
生物種の標本の数の増大と、その分類方法の変化は、フーコーも指摘するように、
思想史的にも大きな転機をもたらした(28)。分類学におけるその変化とは、「自然 分類」の導入である。アリストテレス以来生物の分類学は、見やすい特徴を便宜 的に採用し、それを基準とする人為分類が行われていた。しかし
19
世紀に入る ころには、その方法の限界が徐々に明らかになり、科学者たちはより自然の秩序 に即した分類方法を探るようになる。そして生物が自然に持つ性質を詳しく吟味 し、隠された類縁性を、すなわち自然の隠された秩序を、その「奥深い統一性」を見つけようという「自然分類」法が主流となってゆく。それは、眼に見える類 縁性のみを問題にするという姿勢から、論理的法則性を見出し、それによって目 に見えない統一性を探ろうとする、より力動的な知的作業への移行であった。そ の自然分類によって並べられた生物の種は、単純な構成のものからより複雑なも のへと変化する生物の「進化の階梯」を示し、科学者に時間に伴う形態の変遷と いう、過去から未来へと進む動きを認識させたのである(29)。また、この作業がな され、自然分類による生命の階梯の分類表が作成されたことによって、進化思想 が、視覚的に証明されるようになる。そして
18
世紀までの間に博物学的、百科 全書的に収集された知識は、その統一性を軸に、時間の推進力を受けつつ動き出(28) Michel Foucault, Les mots et les choses, Paris, Gallimard, 1966, ch.VII.
(29)
構成の単純なものから複雑なものへという進化の方向性を示したのは、ラマルク である。『動物哲学』第一部、第八章参照。──────────
す生成の世界を形成することが理解されたのであった。
ミシュレは当然リンネやラマルクの生物分類表を目にしていたはずであるが、
とりわけパリ自然史博物館(Muséum d’histoire naturelle de Paris)の標本コレ クションを眺めることによって、「生物の階梯」の認識を深めたようである。
階下の薄暗い部屋にはイシサンゴ類が静寂の中で、彼等の頭上にそびえる、だん だんと生命力を増す世界を支えている。その少し上には海の生物たちが、上の階梯 の動物たちの中のより完成した有機的エネルギーに到達しつつ、大地の生命を準備 している。頂上には哺乳類。その上には神々しい鳥類が翼を広げ、未ださえずって いるようだ。(30)
今日でも「進化ギャラリー」を内設しているパリ自然史博物館は、19世紀当 時からジュシュー、キュヴィエ、ラマルク、ジョフロワ・サン=チレール等の、
変異説にかかわる科学者たちの活動の拠点であった。博物館の標本コレクション の展示は、この説によって示された世界の変容を視覚的に把握することを可能に するよう工夫されていた。世界中から集められた膨大な数の標本は自然分類の方 法に従って並べられており、その展示を見ることによって、ミシュレは実際には とても目撃することのできない何万年という長い時間の動きの中の無脊椎動物か ら哺乳類、鳥類にいたる生物種の、連続した緩やかな変化を認識したのである。
ところでミシュレは
1830
年代の初めに、『世界史序説』Introduction àl’histoire universelle(1831)
、『フランス総覧』Tableau de France(1833)など の、いわゆる「地理学的著作」を相次いで出版した。それは歴史を書き始めよう とする際に、「地理学」を用いて「全体」としてフランスという国を表現しよう とする試みであった(31)。このことは、ミシュレが時間と空間−歴史と地理−の相 互置換性を常に意識していたことを示している。言い換えるなら、彼は世界が現 実にそうであるように、時間と空間を同時に存在させるような表現方法を模索して いたのだ。しかしながら彼の試みは結局のところ、不自然に繋がりを切るような形 で、つまり歴史叙述の中に地理的叙述を挿入させるといった方法でしか、実現し得(30) La Mer, op.cit., p.141.
(31) Paule Petitier, Geographie de Michelet, Paris, L’Harmattan, p. .7-8.
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なかった。ミシュレは『フランス総覧』の中で、「(この著作の中で)我々は地理を 時間に沿って学び、空間の中と時間の中とを、同時に旅するであろう。」(32)と述べ ているが、実際には彼のそうした意図が成功しているとは言い難い。ミシュレは まず、川の地形について語り、それぞれの土地が生産する作物について語り、ブ ルターニュを出発点にフランスの地形を事細かに描写して行くが、彼の記述はあ くまで地形を鳥瞰飛行的に眺めることにとどまり、時間的要素はほとんど見出す ことができないのだ。
コ レ ー ジ ュ の 教 員 時 代 に 相 次 い で 出 版 し た 『 近 代 史 年 表 』
T a b l e a u Chronologique de l’Histoire moderne(1825)と『近代史対照年表』Tableaux Synchroniques de l’Histoire moderne(1826)の二冊の教科書においても、更に
は1831
年の『ローマ史』Histoire Romaineの冒頭におかれた「イタリア総覧」Tableau de l’Italie
の章においても、ミシュレの同じ試みを見出すことができる。1820
年代・30
年代のミシュレの内部には、この「時間−空間」という、置換可 能であるが決して同時には記述し得ない二つの軸、しかし現実には確かに同時に 存在するこの二つの軸を、一つの完全な世界として記述したいという、乗り越え がたいジレンマが存在していた。そしてこのジレンマに、進化思想は一つの解決 策を提示したのではないだろうか。つまり、空間を覆い尽くす全ての個体を、そ れらを包括しつつ集中させる「奥深い統一性」、それを表象する一つの存在を想 定することによって、物事の「全体」を、時間を取り入れつつ表現することが可 能になったのではないだろうか。ミシュレは、ある時、メモの断片にこう記した。
1831
年、私の『序説』(『世界史序説』)は『魔女』の対をなす。1833年、『フラ ンス総覧』の地理は、『山』に相当する。(33)プティティエが述べているようにミシュレの人生においては、方法を模索して
(32) Michelet, Tableau de la France in Œuvers Complètes, Tome V, Flammarion, 1975 p.334.
(33) Petitier, op.cit., p.15.
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いた
1820
・30
年代と、自然史群を発表した1852
年から晩年までの期間とは、さまざまな点において対をなしている(34)。上の引用に見られる対比も、この二つ の期間の対という図式の中に組み込むことができる。(『序説』、『総覧』が
1831
年と1833
年、『魔女』、『山』が1864
年と1868
年。)ところで、双方ともに地理 的に世界を俯瞰するという構成をもつ『フランス総覧』と『山』との同一性(identité)は明らかであるが、『世界史序説』と『魔女』は、その構成において 大きく異なっており、一見しただけでは、上のような記述の意図は判明ではない。
まず『序説』は、アジアと西欧諸国の古代を扱ったもので、その構成は既に述べ た地理学的著作群のものとほぼ同様に平面的である。インドからペルシャ、そし てエジプトへと、著者は東から西へと視線を移しながら、「地形=自然」と「人 間=文化」との係わり合いを解説する。それに対して『魔女』では、冒頭の一部 に地理学的構成を持つ叙述が見られるが(35)、作品の核となるのは、「女」という ひとりの人物をめぐる、時間を追った物語的叙述である。歴史家自身の言うよう に、この二つの著作の根底に同一性が存在しているとすると、それは構造におい てではなく、テーマに見出さなければならない。敢えて言えば、アジア・ヨーロ ッパにおける「人間(自由)の運命に対する戦い」というモチーフが、この二つ の作品の共通項であろう。そして逆に言えば、同じテーマを根本に据えながらも、
(34) ibid., p.14.
(35)
敢えて言えば序文に以下のような記述がある。« Sans parler de l’Espagne, terreclassique des bûchers, où le Maure et le Juif ne vont jamais sans la sorcière, on en brûle sept mille à Trèves, et je ne sais combien à Toulouse, à genève cinq cents en trois mois (1513), huit cents à Wurtzbourg, presque une fournée, mille cinq cents à Bamberg (deux tout petits évêchés !). Ferdinand II lui-même, le bigot, le cruel empereur de la guerre de Trente ans, fut obligé de surveiller ces bons évêques! Ils eussent brûlé tous leurs sujets. Je trouve, dans la liste de Wurtzbourg, un sorcier de onze ans, qui était à l’école, une sorcière de quinze, à Bayonne deux de dix-sept, damnablement jolies. » (Michelet, La Sorcière, Paris, G.-F., 1966, p.33.)これは情報が地理的に並置された記述といえるだろう。しかしこ
れ以外では、地理的固有名詞は、ほとんど読者に総体を暗示するためにしか用いら れない。例えば« En Ecosse, par exemple, on exigeait « plusieurs vaches ». Chose énorme et impossible ! Donc la pauvre jeune femme était à discrétion. » (ibid., p.72) 等。
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この二つの著作が全く違う叙述に仕上がっているのは、何か構造にかかわる決定 的な違いがあったということであろう。
それは、『序説』にはなかった「時間の推進力」が、『魔女』において導入され たことと考えられる。確かに『魔女』には、キリスト教の台頭から
16
世紀まで、何百年もの時間が凝縮した形で語られている。
そしてそれは、定冠詞を伴う単数形普通名詞(la femme, la sorcière等)を使 用することによって、可能となっている。この単数ではあるが、同時にその種全 体を表すという提喩表現は、『鳥』『虫』『女』『山』などの博物誌的著作全体にお いて使われている、ミシュレ独特の比喩表現である。
つまり鳥が、ただ一羽の鳥がこの本全体なのである。しかしそれは限りなく変化 する大地の状態に、あるいは限りない空の生活への適応に順応しながら、さまざま な運命のパターンを通して、作られたものである。変移というなかなか巧妙なシス テムを知らなくても、心がその対象を一つにする。それは外的な種の多様さや、
個々の繋がりを断ち切るように見える死の危機によっても止められることがない。(36)
(強調はミシュレ自身による)
この文章から分るように、この「ただ一羽の鳥」は、地表を埋め尽くす多種多 様な全ての個体を代表する、標本なのである。そしてこの一羽であり全体である
「鳥」、あるいは『魔女』における「女」は、ミシュレが目にしたあの博物館の展 示と同じ役割を果たしているのだ。この個体は全体を暗示するが、同時にただ一 つの個としての機能をも兼ね備える。それゆえその変遷を表すことで、歴史家は、
空間と時間を同時にあらわすことができると考えたである。
上の引用の中でミシュレが変移説に触れていることは注目に値する。この言葉 から分かるように、「変移(transformations)という巧妙なシステム」が「対象 を一つに統一する」ものであることを、ミシュレは認識していたのである。しか し『鳥』や『虫』においては、あるいは『フランス史』のような歴史的著作にお いても、まだ個々のエピソードが切り離されて存在し、力強い時間の推進力が働 いているとはいえない。ミシュレが自らの歴史書の表現に、初めて意図的に時間
(36) L’Oiseau, op.cit., p.65.
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の観念を導入するのは、彼がラマルクやジョフロワ・サン=チレールやブロンの 進化説を理解した、『海』においてではないだろうか。そしてそのすぐ後に出版 された『魔女』においては、世紀を越えた長い時間と国境を越えた広い空間の共 存を見事に成功させている。『魔女』は事実ミシュレの作品群において、博物誌 群と歴史書群の中間という特別な位置を占めているし、その記述が特異な力を持 っていることは、衆目の認めるところである。それはミシュレがこの作品におい て初めて、長年のジレンマを克服したからであり、そしてその事実は、進化思想 との出会い、少なくとも進化思想がフランスの知においてもたらした転換に、ミ シュレが影響を受けたためだと考えることができるだろう。
このように、進化思想の持つ時間的な力動性にミシュレが影響をうけたのは、
歴史家として自然なことであったと言える。例えばバルザックはミシュレと全く 同年代であり、同じようにジョフロワ・サン=チレールやキュヴィエのサロンに 出入りし、当時の自然科学の薫陶を受け、彼らの理論を自分の作品に適用した。
しかしその受容の様相はミシュレのものとは異なっている。バルザックは人間喜 劇の序文において、「人間社会と自然は類似している」(37)と指摘し、「社会は人間 というものから、彼が行動する環境において、動物学における種の多様さと同じ くらいの異なった種類の人間を作り出すのではないだろうか?」(38)と述べている。
この序文からわかるのは、この小説家にとっての自然と社会の類似性は種の多様 さにあるのであり、その意味で彼のいう人間社会は、進化論以前の平面的な分類 図に酷似している。もちろん彼の作品にも少数ながら古い時代を舞台にしたもの が存在するし、当然のことながら小説中には時間の流れが重要な装置として働い ている。しかしやはり彼が目指したのは
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世紀という一時代の社会の「パノラ マ」を示すことであり、その努力は種の変容を証明しようとする進化論者のもの というよりも、多くの種類の人間を標本として収集し分類しようとする、コレク ターの作業と似ている。このような例と対比してみると、同時代の科学を同じよ うに吸収しながらも、ミシュレは時間の推進力というものに強く魅了されていた(37) H. de Balzac, La Comédie humaine I, Paris, Gallimard, 1976, p.8.
(38) ibid.
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