各国における監査報告書の歴史とその意義 (上)
その他のタイトル A Histoy of Audit‑Reports in England, Germany and U.S.A
著者 高柳 龍芳
雑誌名 關西大學商學論集
巻 23
号 6
ページ 535‑556
発行年 1979‑02‑25
URL http://hdl.handle.net/10112/00020955
(535)97
【研究ノート]
各国における監査報告書の歴史 とその意義(上)
高 柳 罷 芳
目 次
1 監査報告書の源流について (1) 揺藍期における監査報告書 {2) 初期のイギリス監査報告書 (3) 初期のドイツ監査報告書 2 監査報告書の生成について (1) 中期のイギリス監査報告害 (2) 中期のドイツ監査報告書 (3) 中期のアメリカ監査報告書 3 監査報告書の発展について(以下次号)
(1) 現代のイギリス監査報告書 (2) 現代のドイツ監査報告害 (3) 現代のアメリカ監査報告害 4 監査報告書における意見と惜報の関係
1 監査報告書の源流について
(1) 揺藍期における監査報告書
人間生活において記述文明が開化し,経済活動が行われるようになると,
そこに会計の記録が生まれてくる。さらに経済活動の主体と記録する主体と が分離するようになると,そこに監査が生まれるであろうことは容易に理解 される。このことは現代においてのみならず,遠く古代の経済社会にも見ら
れる現象である。ウルフによれば「簿記の発達が文明の進歩および商業の発 展と,いかに並行したかを見て来た。……しかし,会計記録が理論上いかに 精巧または完全であるとしても,それらが正確に記録されることを保証する ことができなければ, 無益であることは明らかである。 そして,『職業監査 人』は比較的近代の発達によるものであるが,会計の正確なことを立証すべ きある種の外部監査 (externalcheck)の必要であることは,遠い古代にお
(1)
いて,すでに感ぜられていたことを見出す」ことができるのであり,会計監 査が簿記の発達と表裏一体をなすものであることを看破している。
史実によれば,古くエジプト,バビロニャ,ギリシャなどでも監査が行わ れていたことが知られており,プラウンによれば,古代エジプトにおけるク
(2)
ネムホテップの墓石 (tombof chnemhotep)に刻まれた絵画が会計監査を 表硯したものであるという。しかし,当時における監査について,その報告 をなすに当っては,必ずしも明瞭な資料が残っているとは限らない。おそら
く,会計記録の正確性を確保するためには,他の第三者がチェックを行うだ けに留どめるという,内部索制の方法が採られていたにすぎないのではない かと思われる。
また,一説によれば,オウディター (auditor)の語源が, 聞く (audire) という言葉から由来していることから,マタイ伝第25章にみられるクラント
(3)
のたとえ話およぴルカ伝第16章にある不正な支配人のたとえ話のように,口 頭による監査の報告が聖書時代にもみられたことが知られている。また鉤印 ゃx印が古い時代の帳簿上に印されていることから,これが監査の結果を示
(4)
すものであって,監査報告書の原初的形態である,との説もうかがえる。
いずれにせよ,古代においては,史実によって監査の方法や結果の口頭報 告のことが知られているが,ここに興味深いのは,古代;メソボタミャの商事
(1)片岡義雄訳 ウルフ古代会計史151頁。
(2) Richard Brown, A History of Accounting and Accountants, 1905, p. 21. (3)片岡義雄訳同掲書151頁。
(4) Karoli, Bilanzpriifung und Priifungsergebnis, 1934, S. 79.
各国における監査報告書の歴史とその意義(上) (高柳) (537)99 記録を記した粘土板の発見であろう。この商事記録は,領収書,支出票,一 覧表,契約書などが楔形文字によって粘土板に記録されているという。その
(5)
中の一つに次のような監査報告書が発見される。
第14表 王 室 の 監 査 報 告 書 王室の監査:
2997コア3バイ5スト7クォーターの胡麻が,当初の量であった。
1461コア3パイ 9クォーターの胡麻が穀物倉庫へ移管された。
剰余残高は, 1536コア4スト 8クォーターの胡麻である。
(以上が)この1年すなわちシン・イディナムの年度についての全計算(であ る)・・・・・・・の街 (で) ......
(2) 初期のイギリス監査報告書
近代における会計監査の源流をイギリスのそれに求める学説は一般化して いる。したがって,ここでも中世から近代にかけて,イギリスで行われてい た 会 計 監 査 の 中 か ら い く ら か の 監 査 報 告 書 に つ い て 紹 介 し て お き た い 。 さ て, 13世紀頃までには,イタリヤおよびイギリスではかなり組織的監査が行 われていたようである。イタリヤにおいては,すでに13世紀に,著名な数学 者であるレオナルド・フィボナッチが,コムーネの会計監査のためピサで雇
(6)
用されていたし,文書の形態をもって監査の報告がなされた最初は, 1370年 時代のゼノアの官公庁における監査であり,つづいては, 1405年アビニオン
(7)
のカトリック教皇の帳簿に関する監査報告書であったという。
イギリスにおいても, 13世紀に至るまでに定期的な会計監査を実施する慣
(8)
例がイングランドで確立されていたといわれている。当時におけるイギリス
(5) 酒 井 文 雄 古 代 メ ソ ボ タ ミ ャ の 商 業 簿 記 商 学 論 集 第10巻第3• 4号276頁。 (6)片 岡 義 雄 訳 同 掲 書155頁。
(7) Karoli, a. a. 0. S. 79. (8)片 岡 義 雄 訳 同 掲 書156頁。
の監査は,その史実によると,(イ)王室財政制度 (EnglishExchequer), (口) 自治都市, (3)同業組合 (Liverycompany), (4)荘園 (monor)に対する監 査に大別されている。
さて,第一のイギリス王室財政制度は, ウイリヤムー世の治下においてそ の基礎を作り,ヘンリー一世 (11001135年)に至り確立されている。ここ では, 国庫年報 (Pipe Roll)なるものが毎年編纂されてをり, しかも,そ れは,収入役の口授により作成されるグレート・ロール,司法書記官により 作成されるセカンド・ロール,さらに国王の特別官吏によるサード・ロール に分れていた。この各々の国庫年報はそれぞれ独立的に記録されたもので,
しかも,この三者はあらゆる点で完全に一致していなければなかった。不一 致がある場合には監査において調整され,解決され,最終的に調整された項
(9)
目には「pbt」という監査承認の記号が書き加えられていた。この「pbt」と いう言葉は「probatur」の略であって, probareという言葉からきており,
これは当時の「監査」の専門用語であった。そして,王室財政の会計の中に は, probatum ‑「監査され, そして正確であることを判断した」ーとい
(10)
う言葉がしばしば使用されていたといわれる。
このように,王室財政制度に基いて財政収入の保全を目的とした監査制度 は,やがてイングランド,スコットランドさらにはアイルランドの各自治都 市に影善を与え, 13世紀後半にはこれら諸都市に導入されるようになった。
スコットランドの自治都市の収入役の会計書類において, 1458年の記録には 監査人の名前もみられ,その報告書には「計算されるべきものはすべて計算 され,承認されるべきものはすべて承認されている一 all thingis contyt
(11)
that suld be contyt and alowit that suld be lowyt」 と 記 載 さ れ て い る。
ラナーク市においても,地代集金人あるいは収入役が,監査人に対し自己 (9) 大矢知浩司 中世英国における会計監査 彦根論叢第106• 107号218頁。 (10)片 岡 義 雄 訳 同 掲 書157頁。
(11) Richard Brown, op. cit., p. 81.
各国における監査報告書の歴史とその意義(上) (高柳) (539)101 の会計書類を読みあげ,監査人がそれを聴取して正しいと認めた支出の全項 目を詳述した証明書がみられる。例えば, 1488年に「地代集金人……におけ る二期間,すなわちマーチン祭と聖霊祭に始まる会計書類は, 1488年6月12 日監査人……により聴取される。当該監査人は,その年の地代収入が最終勘 定の残高合計33ボンド13シリングであることを見出す。監査人は下記の総額
(12)
を承認する。(この後に詳細な項目が列記される)」とある。
その他,各都市においても, 15• 6世紀頃には監査証明書とみなされてよ い文言がみられる。例えば,「下記の監査人が聴取した一 heardby their auditors undersigned」とか,「差引勘定を一覧し,聴取し,かつ了知した
‑The charge and discharge beeing seen, heard and understood」と いうように,勘定記録を聴取してこれに承駆を与える方法がとられていたの である。 また, 1586 1587年のアパーデーン市の監査には,「監査人が聴取 し, 一覧し, 考態し, 計算しかつ承認した一heard, seen, considerit, calculat and endit by Auditors」とか, 「監査人合計し, 計算し,かつ締 めくくりをした一futit, calculat and endit by auditors」という文言が見
(13)
出せる。
この自治都市監査においても,王室財政制度におけると同じく各担当者に 会計書類を読みあげさせ,それを聴取するという形式をとっている。監査証 明書には,王室財政制度における probatumと異なる「一覧し, 聴取しか つ了知した」という文言を用いているが,本質的には同じ意味を持っている
ものといえよう。
(3) 初期のドイツ監査報告書
ドイツでは, 16世紀に入ってからようやく監査の足跡が見出され初める。
監査が実施されたと思われる書類上の記録がこの時代の大商館の会計に硯わ れている。例えば,当時の代表的商館であるフガー家では,代理店の帳簿を
(12)大矢知浩司 同掲文221頁。
(13)片岡一郎訳 リトルトン会計発達史377頁。
監査する習慣を持っており, 監査の結果異常なしとの報告があれば,「責任 は正当に果されている一Verantwortetund recht gemacht」旨の注記が帳
(14)
簿の中に日付を附して記入されている。また, 1559年から1570年に至る,ァ ウグスヴIレク商会の秘密帳簿には, 実施された監査の結果について, 「すべ ての収入支出の項目は, 日記恢,債務記入帳等四冊の帳簿と完全に一致して
(15)
いたことを認める」旨の付記がつけられている。しかし,これらにみられる 監査結果についての証明は,貸借対照表や財産目録に関する正当性を明らか にするものではなくて,ただ単に,収入と支出に関してのみの精細な監査の 結果を示すものであったにすぎない。
貸借対照表そのものの正当性およびそれと主要簿との一致に関する監査結 果が表明された初めのものは,旧ドイツ帝国大審院における訴訟事件に関し て,証拠書類として提出された監査報告書においてである。これは1578年に アントワープ市の評議会が,被告人の懇請によって敏腕な帳簿家を雇い,被 告人の会計書類を作成し直させ,これを監査させた結果,市長の名において 証明書が作成された事件である。この市長の被告人弁護のための証明書の中 において監査の結果が引用されており,その内容を概述すればつぎの通りで ある。
「この書状を聴取するすべての人々に対し,アントワープ市長およぴ市評 議会はつつしんで敬意を表するものである。私達は次の件につき,それがま
さに真実であることを認めて次のように証明する。すなわち,商人パウル・
デシャムプの依頼により, ……帳簿家ヴォルフ・ヴァルターが当局に出頭 し,神聖な誓いを樹てて調査した結果,彼の知った限りにおいて以下の事項 が正しいことを彼は証明した。すなわち,証人(帳簿家)は·…••パウル・デ シャムプ商会の帳簿係ハインリッヒ・カルテンホッファーを通じ証拠として 提出された日記帳から負債薄および貸借対照表を作成したが,この貸借対照 表は真実であり,かつまた前掲の負債簿とも一致している。さらに証人はす (14) Penndorf, B, Geschichte der Buchhaltung in Deutschland 1913, S. 59. (15) Penndort, a. a. 0. S. 38.
各国における監査報告書の歴史とその意義(上) (高柳) (541)103 べてに対し,悪意なく最高の勤勉と熱意を尽した。以上に関し,証拠書類と してこの書状に添付するとともに,私達はアントワープ市の名において署名
(16)
する。 1578年5月13日各位」。
この証明書は,帳簿家の監査報告を市がかなり長文にわたって保証した形 式をとっている。したがって,監査報告そのものが書類として公に提出され たものではない。しかし,ここには,その後における監査実践にかかわる一 つの基本がみいだせるのである。すなわち,この市が発行した証明書は監査 人の監査意見に基いて作成されたこと,監査人の精神的独立性の芽生え(す べてに対して悪意なく)がみられること,監査実施における職業家としての 正当な注意(最高の勤勉を尽した)が払われていること,さらに監査人の意 見が「誓いを樹てることによって保証された」ことなどである。とくに,最 後の宣誓は19世紀後半に至り商工会議所によって隠定された宣誓帳簿監査士
(Beeidigter Biicherrevisor)制度の崩芽を示すものといえよう。
2 監 査 報 告 書 の 生 成 に つ い て
(1) 中期のイギリス監査報告書
会計監査が明確な姿を現わすようになったのは荘園および都市の財政に関 してである。 13世紀頃から,荘園における受託責務の計算に基く会計責任が 確立するとともに,領主による荘園の調査が定期的に行われ,それ以来, 16 世紀頃まで,会計管理の掌に当る人ぴとの職務上の誠実性の検査が行われて
(I)
いた。
さらに,これと平行して発展してきた都市の監査においても,収入役等の 会計担当者の責任を照査することが行われたが, 17世紀頃から18世紀に亘っ て,ィギリスにおける経済生活の中心が荘園から都市へ移るとともに,工場 制手工業を独立的に営む経営者が現われてくる。このような企業の出現とと
(16) Penndorf, a. a. 0. S. 106ff.
(1)片野一郎訳 リトルトン会計発達史372頁。
もに,受信者の財産の正味有高とか財務状況を調査するための,財産計算・
損益計算に関する会計問題が登場してくる。監壺が耳で聴くことによって会 計責任を検査する時代から,ようやく目によって記録を吟味し,書類上の証
(2)
拠によって記録を検査証明する手続の時代に入ったのである。
この間,企業の発達とともに,監査もまた,企業所有者のためにあるいは 破産管財人のために成長を遂げたのである。その後,資本主義時代に入って からのイギリスでは,株式に対する投機性が強く,企業危険も増大したこと から,株価の暴落による投資家の損害が厖大なものとなった。そのため,企 業破産に伴なう清算処置を監査人が依頼されるようになる。荘園時代には,
監査人として吏員が存在していたにすぎなかったのであるが, 17• 8世紀に おける企業の発達が「会計監査業」ともいうべき一定の職業を徐々ながら発 生せしめたのである。
これらの会計監査業を営む専門家が,記録計算に不得意だった商人を援助 することから,やがて記帳処理の専門的職業に従事することにより会計職業 家へと脱皮するのであるが,このような会計職業家の出現は,史実によると
(3)
19世紀を呉たねばならない。一方,相継ぐ泡沫会社の設立と詐欺的倒産を防 ぐために, Bubble Act (1719年)によって株式会社の設立が禁止されて以 来,百年以上を経てようやく, 1844年に,株式会社の年度決算を公正に作成 させるともに,監査を行うことを条件として登録制による株式会社の設立が 許可されることとなった。この会社法の公布によって初めて会計監査が強制
(4)
されることとなるのである。
その後, 1856年の株式会社 (JointStock Companies Act)においては,
一時的に監査制度の強制規定が除かれ,その採用は任意となるのであるが,
この会社法には附属定款雛型があり, 会社が自己の定款を作成しない時に は,この定款によることを定めている。この附属定款雛型はその84条におい
(2)片野一郎訳 リトルトン会計発達史378頁。 (3)片野一郎訳 リトルトン会計発達史384頁。 (4) 河合秀敏書監査理論の基礎同文館10 11頁。
各国における監査報告書の歴史とその意義(上) (高柳) (543)105 て監査報告書に関し次のように規定している。
「監査人は貸借対照表及び諸帳簿について株主に対する報告書を作成す る。そして全ての報告書には,彼らの意見において貸借対照表がこれらの規 則によって要求される内容を含む詳細かつ公正な貸借対照表 (fulland fair balance sheet)であり, また会社の状態の真実かつ正確な状況 (trueand correct view)の表示を行うように適正に作成されているかどうか,そして 取締役から説明もしくは情報を求めた場合に,彼らによって与えられたかど うか,およびそれらが満足であったかどうかを表明すべきであり,そして上 記の報告書は取締役の報告書とともに通常総会で読み上げられるべきであ
る」。
しかしながら,イギリスにおける当時の監査報告書は,殆んどがこの規定 の要件に従って作成されたものとはいい難く,実際には極めて簡潔な文言を 使用していたのである。当時の監査手続にしても極めて簡単で形式的なもの にすぎず,証憑書類の作成の程度や,貸借対照表記載項目と元帳との一致を 検照するぐらいのものであった。その結果として監査報告書の記載内容も単 純となり,「有価証券を検査し, かつそれが銀行の帳締および勘定と一致す ることを認めた」とか,「本貸借対照表における金額を帳簿と比較し, その 一致したことを認める」とか, 「本貸借対照表を帳簿および証憑書類と比較 し,現金・手形・貸付金が各々一致したことを認める」というように記載さ
(5)
れる例が多かった。
しかも,これらの監査報告書は,会社の財務諸表から独立したものとして 別個の書式により監査人により作成されたものではなく,貸借対照表の下部 に直接連結されて記載する方式をとるものであり,ただ単に「監査し,正確 であることを認めた」としてサインをしたり,さらには署名のみで何の文言 も附されていない場合もめづらしくなかった。ときには,「監査した」とか,
(6)
「証明した」とかの簡単な一言で済ましている場合も多かった。なお,その後 (5)片野一郎訳 リトルトン会計発達史430頁。
(6)森実英国の監査報告書の構造と論理 香川大学経済論叢第39巻第2号55頁。
イギリスにおいて慣習的に監査報告書の中に使用されるようになった, 「真 実かつ正確な状況」という文書は,この規定に初めて現われたものである。
やがて, 1900年会社法において,イギリスではすべての株式会社に監査を 強制することになるが,それまでの監査報告内容の簡略化の風潮を是正する ことの必要性のために,この会社法の規定では,監査報告書は二つの文書に 分割され,一つは貸借対照表の下部に印刷して公表する証明書と,他は株主 総会に提出しそこで読みあげればよいとされた報告書とからなっていた。す なわち,前者には,「監査人としての要件をすべて遵守し, 監査の実施に必 要なすべての便宜を得た」旨を記載させ, 後者には, 「貸借対照表が会社の 帳簿に示された通りに会社の真実かつ正確な状況を表示して適正に作成され ているかどうか」を記載させている。
この規定の趣旨は,証明書と報告書とを区別することにより,限定報告書 として株主に伝えるべき事項につき会社の信用を傷つけることなく伝える方 法を与えることにあったのであるが,実践上は,このような分割方式は殆ん ど採用されることなく,証明書と報告書とは結合して貸借対照表の下部に印 刷され,これとは別個に,詳細な報告書が作成されて株主総会に提示される のが慣行となった。換言すれば,公表される監査報告書は無限定報告書であ
(7)
り,株主総会へは限定報告書が提出されるという不合理な実務であった。
右のような欠陥を是正して, 1907年会社法では,監査人は監査報告書を作 成して貸借対照表に添付するか,あるいは貸借対照表の下部で監査報告に言 及するか,どちらかの方法を採ることが規定され,そしてまた,監査報告書 は株主総会で読みあげられるとともに,株主であれば誰でも監査報告書を閲 覧できるようになった。しかしながら株主以外に公開されないことから考え て,当時の監査報告書はまだ,会社内部の問題としてのみとりあげられる,
閉鎖的性格を持つものであったといえよう。株主が社会全般に拡散されず,
大株主によって支配され,企業もそれ程大規模化されていないこの時代にお いては,株主保護を目的として制度化された監査であるとはいえ,なお限界
(7)森 実 同 文57頁。
各国における監査報告書の歴史とその意義(上) (高柳) (545)107 を示すものであるといえよう。
したがって, 当時の簡単な監査手続や, 簡略な監査報告の形態からみれ ば,この監査報告書から生ずる誤解もまた皆無とはいいがたい。 1907年の粉 飾事件といわれた McCaul v. McLean事件が示しているように,部分的 な監査しか実施していなかったにも拘らず,貸借対照表には Certified'とし
(8)
て監査人が署名していたことが伝えられている。
. しかし,他方では当時の監査報告書にあっても,かなり詳細な限定事項を 記載したものもみられるようになってきた。例えば,次のような限定報告書 である。
「1908年会社法に基き,私はここに要求したすべての情報と説明とが与え られたことを株主各位に報告する。私は諸帳簿およぴ諸証憑をもとにして上 掲貸借対照表を検査した。その結果,次の諸点に関して株主の注意を喚起し たい。
(1) 借入のため担保に提供している株式のねだんは5,000ボンドである。
私の意見によればこの事実を貸借対照表に表示すべきである。
(2) 多量な銅の棚卸計算においてトン当り取得原価より15ボンド高い市場 価格が付されている。私の意見では,この在庫品は未だ売却されておら ず,決算日の利益には含まれないので取得原価で評価すべきであると思
う。なお在庫品目録については業務執行取締役が正確であると証明して いる。
(3) 債権の中には2年間返却未済となっているものがあり,しかも取締役 はこの債務者に対し信頼をゆだねている。得られた証拠からは,この見 解に対して賛成するに足る確信をもつことができないので,私の意見で は,この疑義ある債権に関しては引当金を設定しておくのが望ましい。
(4) 家屋・設備およぴ機械の減価償却が行われていないので,私は,取締 役が利益の内2,000ポンドを充当すべき決議案を株主総会に提出するも のと考えている。私の意見によれば,(私が2,000ボンドと推定した)当 (8) L. R. Dicksee, Auditing, 1909, pp. 315316.
該年度の減価償却費は配当に充当すべき利益の算出前に損益勘定におい て費用計上すべきであると思う。
私の意見によれば,上記の諸点を除き,上掲貸借対照表は私に与えられた 最良の情報と説明の範囲内において, 会社の状態を真実かつ正確な表示 (a true and correct view)をもって作成されており, かつ会社の諸帳薄に示
(9)
された通りである」。
しかし,このように監査報告書の中に限定事項が付せられて株主総会に提 出されるということは,当時にあっては極めてまれな例で,監査役の地位が 低く,その任免を取締役の手に握られていた当時の事情からすれば,殆んど 考えることができなかったのではないかと思われる。
ついで,「1929年会社法」では, 監査制度の実効性の確保を狙って監査役 資格の明確化(第133条)とその権限の強化(第134条)がはかられた。さら にま t~, これまでは株主総会に提出すべき計算書類の中には,必ずしも損益 計算書が含まれておらず,貸借対照表のみで足りており,監査役は帳締記録 と貸借対照表との符合の調査をすればよかったのであるが,同法によって,
株主総会へ提出すべき貸借対照表には,初めて損益計算書をも添付すること が義務づけられるようになったのである。しかし,損益計算書に関する形式 や記載事項についての特別の指示はなく,監査報告書の中においても,損益 計算書の内容にまで言及することを明示するものは何ら見当らなかった。し かし乍ら,監査報告書が貸借対照表の下部に記載されるという,それまでの 方法は改正されて,いかなる場合であっても,監査報告書は貸借対照表に別 途添付すべきことが規定されたのである。この段階において監査報告書は会 社の内部的な性格を脱して,実質的に公共性あるものとして歩を踏み出し初
(IO)
めたものと認識されるのである。
(9) Spicer and Pegler, Practical Auditing, 1911, pp.197198.
(10)森 実 同 文58頁。
各国における監査報告書の歴史とその意義(上) (高柳) (547)109 (2) 中期のドイツ監査報告書
ドイツにおける16• 7世紀までの監査にあっては,監査報告にしても,商 館における帳掩の末記に収入支出に関し正当であったかどうかを明らかにす るために付記されている程度であったが, 18世紀後半に入ると,帳簿監査を 業とする帳簿監査人が自由職業者として姿をみせ初める。さらに,監査を行 うことにより利益が生ずることを指摘する文献も増えてきている。 1792年に 刊行されたマルチン・オイラーの「商業帳簿人」 (Handlungs‑Kontorist)の 中に「……私に監査を依頼された商業帳簿は,十分に厳密な検査の結果,正 当さを欠き疑問のある個処は上記の通りである。右,誓って証明する。……
日……誰某」という監査報告書の雛型が示されている。しかし,この時代に みられる監査にあっても,従来通り,帳薄と証憑書類を突合せ,収入支出項 目の正当性を立証する程度の形式監査の領域をでるものではない。
この時代に入って,監査への認戦が新たにされ初めたとはいえ,監査の性 格としては内部監査的なものであって,社会経済的要請からみれば,いまだ 外部の利害襲係者の数も少く,企業自体も未成熟な段階にあったため,精々 企業主に対し帳簿係の業務の正当性を立証した程度のものにすぎなかった。
したがって,監査実施の結果と上述のような書面形式に基き報告していたと しても,常に,それは私的経済の中にあって密接な関係を持つ一部の集団 ー一企業主に対してのみ向けられているにすぎず,監査手続の内容も形式監 査の領域を出るものではなかった。要するに, 当時における監査において は,会計処理の適否,会計記録と会計事実との照合といった実質監査の面に まで及ぶものではなく,この時代の監査報告書にみられる「十分に厳密な検 査」とか,「主要薄と日記帳との十分な対照」とか,「すべての残高または転 記が正当であるかどうかについての厳密な検査」とかの文言は形式監査の結
(11)
果を述べているものと考えられている。
すでに, 1570年以来,監査人は宣哲という方法に基いて監査活動を行うこ (11) Karoli, Biranzprilfung und Prilfungsergebnis 1934, S. 81.
とを慣習としてきているので,宣誓を破るような不誠実または怠慢な行為に ついては,当然監壺上の責任を伴う筈であるが,文献にはこの種の監査人責 任について何ら触れられていない。この点から考えてみても,当時において は,監査報告が書面形式に基く場合は少く,実践としては殆んどが口頭によ
(12)
るものであったろうと推察できる。したがって,監査報告書は, 18世紀頃ま では公共に対しての存在意義の少ない,社会的に制約をうけた範囲での役割 を果していたにすぎないと、いえる。しかし,他方において,企業主の役に立 つ内部監査としての管理的意義はある程度持っていたと考えられる。
他方,株式会社に初めて盤査制度が導入されたのは1870年株式法であり,
同法に基き監査役が誕生した後, 1897年の商法に引き継がれることによっ て,監査役に関する一定の権限と義務が明確化されるようになった。しかし ながら,監査役の本務に屈する会計監査についてとりあげるならば,十分に その職責を果すことがなかったとの批判が後世に至るまでたえず続くのであ る。ようやく1931年株式法時代に入るや,外部の職業専門家である監査人を 正式に導入することで,会計監査の制度化が果されるようになるのである。
このように株式法による監査役監査制度が実施されて久しいにも拘らず,
有効な会計監査が実を結ばなかった理由として次のような事実が挙げられよ う。一つの場合は,藍査役が名目ばかりで実権を取締役に奪われていたこと から,監査役の独立性が失われていたということ,二つの場合は,この逆の 現象として,監査役の監督権限が強すぎたため,伝統的にドイツでは経営の 実権を監森役が掌握し取締役の業務執行権を侵害していたということ。以上 のような理由から監査役は会計に関する専門家でないのが普通であり,その ために会計監査がないがしろにされていた点を指摘することができよう。
しかし,これに並行してドイツにおいては,帳簿監森人という自由職業家 が出璃し, 1880年代には各地の商業会議所が帳簿監査人の宣誓を司り始め る。やがてこれらの娠簿監査人が協会を設立し, 1898年に「ドイツ帳簿監査
士協会—Verband Deutscher Blicherrevisoren (VDB)」が誕生するの (12) Karoli, a. a. b. S. Slf.
各国における監査報告書の歴史とその意義(上((高柳) (549)111 である。 1900年代に入ると商業会議所認定の宣誓帳簿監査士の活動も増え,
1902年にはベルリンに ドイツ監査会社 n'eutsche Treuhandgesellschaft が設立されて, それぞれ監査報告書を公表するようになったといわれてい る。
このように, 19世紀は現代のドイツ監査制度の基礎を作った時代である が,頭初においては,監査報告書が必ずしも十分に公表されていたとはいえ ない。株式法により強制された年度決算書の作成に伴ない,それについての 監査結果がドイツ官報に一部公表され始めたとはいえ,その数が増えてくる のは19世紀末をまたねばならなかったのである。この時代,とくに1870年〜
1873年は泡沫会社が氾濫を極め,その後にくる破産を通じての事後処理のた め,帳簿監査職業団体の活動が活発になった時代である。この時代は,監査 役が自らの職務である会計監査を,能力の関係から自らすすんで行うことが できなかったため,多くの場合,独立の監査人を利用することにより年度決 算書と帳簿との監査を代行させていたのである。
しかしながら,専門の監査人による監査が実施されていたとはいえ,ー当時 の法律によれば,監査報告書の作成については,硯在にみられるような強制 的規制を受けるまでに至っていない。したがって,監査報告書の一般公共に 対する権威も付与されていなかったために,年度決算書の公開に当っても,
専門監査人による監査報告書の添付されることは少なく,監査役または監査 委員会の作成になる監査報告書が添付されているのが普通であった。この時 代は,独立の専門監査人が監査役の下請としての役割を果していた時代であ
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るといえよう。
時代が進み, 19世紀末から20世紀初頭に入ると,監査役による監査報告書 とともに,任意監査に基く帳簿監査士の監査報告書が年度決算書に付して公 開される慣行が生まれてきた。また,専門の監査人による監査報告書のみが 添付される場合も増えてきたが,この場合には,監査依頼人をその報告書の
(13) Karoli, a. a. Q. S. 82.
各国における監査報告書の歴史とその意義(上) (高柳)
中に明示しておく方式がとられている。当時のドイツ官報にはつぎのような 例がみられる。それは「1895年3月28日の株主総会から依頼をうけたので,
私は当該貸借対照表を監査した••…·」とか, 「監査役の依頼により精査し,
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帳簿と一致していることを認めた……」などの文言である。
なお,当時の監査人は,株式法に基くところの,決算監査士による法定監 査制度がまだ樹立していなぃ関係上,必ずしも専門の独立監査人ばかりでは なかったことが,公表される監査報告書の署名からうかがえる。 1905年頃の ドイツ官報によれば「商人の帳簿と会計のための宣哲専門家」・「宣誓帳簿専 門家」・「官選宣哲監査士」・「帳簿検査と商学に関する宣誓専門家」などの名 称を付した有資格の監査人の署名もみられるが,単なる商人,銀行会計係,
手形仲介人,大法院参事官,退役市参事官などの専門家でない監査人も多く みられたという。いずれにしろ,専門職業としての監査人の独立的発展はい まだ未熟の城をでることなく,附随的職業として実施されていた傾向が強い
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のである。
つぎに,監査報告書の内容についていえば,共通しているのは署名が必ず 付記されていた程度で,文言・形式に至っては種々であり,統一性はみられ なかった。この頃の監査実施の内容は形式監査である場合が多かったため,
計数上の一致を確認した旨の内容が監査報告書に示されている点においては 共通していたといえよう。例えば「当該年度決算書は諸帳簿を基にして私達 が監査し,それらが一致していることを認めた」(ドイツ官報1881年3月23
日)といったように,年度決算書が営業娠簿や主要簿と計数的に一致してい
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るかどうかを確認するだけの報告書が多かった。
しかし,他方においては,少数ではあるが実質監査を実施した結果として の監査報告書も出硯し始めている。形式監査以外に実質監査をも実施しなけ ればならないという自覚が監査人の間に生じてきたのは, 19世紀末葉に入っ
(14) Karoli, a. a. 0. S. 84ff.
(15) Karoli, a. a. 0. S. 84ff. (16) Karoli, a. a. 0. S. 84ff.