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八・九世紀における日本の麦作 : 畜馬熱を繞って

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八・九世紀における日本の麦作 : 畜馬熱を繞って

著者 鋳方 貞亮

雑誌名 關西大學經済論集

巻 22

号 4

ページ A530‑A508

発行年 1972‑12‑20

URL http://hdl.handle.net/10112/14993

(2)

530 

稲作の場合と異り︑麦作は常に官命によって行はれたといっても過言ではない︒八世紀初頭から九世紀半ばにかけ

て︑麦作は厘々政府により奨励されているにも拘らず伸び悩んでいる︒恰もこの期間は畜馬熱の盛んな時であり︑未

だ穂の出ぬ青麦を馬料として売買する風習を生じている︒

八・九世紀における日本の麦作︵鋳方︶ 豪富等の畜馬熱が極めて旺盛になったことを説述した︒

ー 畜 馬 熱 を 続

曽って筆者は︑﹁日本古代麦作考﹂と題し︑麦という名称︑麦の由来︑その栽培経過︑およびその用途等につき拙考

を発表した。その後、「日本古代の麦について゜ー特にその由来ー—」と題し、麦が朝鮮半島を経由して齋らされた

穀物であったことを︑より一層詳細に考察し︑最初に渡来した麦が小麦であったであろうことを確めた︒

また︑﹁日本古代家畜史﹂﹁第二章・馬﹂﹁第六節・畜馬の発展﹂の中で︑八世紀初頭から九世紀末葉にかけて︑権貴

八・九世紀における日本の麦作

(3)

529 

養老七年八月廿八日 多少は︑年毎に具録し︑計帳使に附して申上せよ︒ 畿内七道諸国大小麦を耕種する事

闊西大學﹁継清論集﹂第二二巻第四号

稿

この間の諸事情を絡みあわせ︑約一世紀半にわたる麦作の実体を明らかにしようと試みた︒

麦の名称︑由来等に関するものはこれらを省略し︑その栽培経過について述べる︒先づ︑次の格を掲げよう︒

太政官符

右麦の用たる人に在りて尤も切なり︒乏しきを救うの要此より過ぎたるは莫し︒是を以て藤原宮御宇太上天皇の

n

t

世︑官物を割き取りて天下に播殖す︒比年以来︑多く耕種を栃き飢饉に至りて態辛良に深し︑独り百姓の儲緩する

のみに非ず︑実に亦国郡の罪過なり︒今より後︑百姓を催勧し時を失はしむること勿れ︒其の耕種の町段︑収獲の

持続天皇の在位は︑六八七年から六九六年に至る十年間である︒この時︑すでに麦が救荒作物として極めて重要な

穀物であることを政府は認識し︑政府手持ちの麦種を天下の百姓に分け与え播種せしめたことを示している︒ところ

が約ニ・三十年を経た養老七年︵七二三年︶に︑このような厳しい格が出されたことは︑その間︑如何に麦作が人々

によって省られなかったかを物語るものでなければならない︒それには理由があった︒元正天皇は霊亀元年︵七一五︶

から養老七年︵七二三︶まで在位であるが︑即位早々の霊亀元年︵七一五︶には︑早くも雑穀︑特に麦・禾の耕種を

(4)

528 

正丁を指していると思う︶ 受取るわけには行くまい︒すでに七世紀末︵持統天皇︶︑麦作を行っている筈の農民等が 民を富ますの本は︑務めて貨食に従う︒

故に男は耕転を勧め︑女は紙織を脩め︑家に衣食の饒有り︑人生廉趾の心を生ぜば︑刑錯の化愛に興り︑太平の風

致すべし︑凡そ厭れ吏民崖に島めざるべけんや︒今諸国の百姓未だ産術を尽さず︑唯水沢の種に趣いて︑陸田の利

を知らず︒或は湧旱に遭うときは︑更に余穀無く︑秋稼若し罷めば︑多く餓鋪を致さむ︒比れ唯り百姓の塀憶する

のみに非ず︑固より国司の教導を存せざるに由れり︑宜しく栢姓をして麦禾を兼ね種うること︑男夫一人ごとに二

段ならしむぺし︒凡そ粟の物たる︑久しきを支へて敗れず︑諸穀の中に於いて︑最も是れ精好なり︒宜しく比の状

を以て逼<天下に告ぐべし︒力を尽して耕種し︑時候を失はしむること莫れ︒自余の雑穀は︑力に任せて之を課せ

よ︒若し百姓の粟を輸して稲に転ずる者有らば之を聴せ︒

﹁今諸国の百姓未だ産所を尽さず︑唯水沢の種に趣いて︑陸田の利を知らず﹂という段は︑もとより︑そのまま︑

し︒云々﹂とあるが︑ 政府から麦種を与えられ︑

此の蒼生を憐ん あまりにも水稲耕作に走り過ぎ︑麦作を蔑視していた状態を強調したものと解すべきである︒この年の四年前︑和銅

1 ‑

四年六月乙未︵七︱‑︶の詔に﹁去年森雨して︑麦穂既に傷ね︑

で︑彼の雲漢︵天の川︶を仰ぐに今膏雨を見る︒衆瑞に勝れることあり︒宜しく黎元悦びを同くし共に天心を賀すぺ

これによれば︑麦が稲と共に如何に人々の重要な食糧であったかの感を強くする︒ところが︑

四年後の霊亀元年に突如として右のような詔が出されたことは何を意味するのであろうか︒この場合︑男夫︵恐らく

一人に対し二段歩の麦︑禾作を命じている︒これは持統天皇時代の麦作奨励策とは大いに

趣きを異にしていると云はねばなるまい︒和銅四年頃の麦作が何故に四年後﹁陸田の利を知らず﹂とまで強調されな

八・九世紀における日本の麦作︵鋳方︶

要は民を富ますに在り︒

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年荒に備えしむべし︒ 何故このようにまでしなければならなかったのであろう︒

闊西大學﹃継清論集﹂第二二巻第四号 ければならない程︑不振に陥ったのであろうか︒後考に侯ちたい︒

さて︑霊亀元年から八年を経た養老七年八月廿八日付け太政官符の検討に移るが︑先の詔によって︑男夫一人当り れは麦の収穫時を思えば一層判きりわかる︒稲をはじめ他の雑穀の収穫時は秋であるが︑麦のみは陰暦四月︵麦秋︶

多く耕種︵大小麦︶を肥き飢饉︵稲の凶であって︑恰かも端境期に入り始める時期にあたる︒そこで︑

n

t

作︶に至りて穀辛良に深﹂くなる︒このような事態が起るのは百姓が怠けるというだけのものでは無く︑同時に国郡

の官吏等の罪過である︒恰も麦蒔の季節︑

﹁百姓を催勧し時を失はしむること勿﹂からしめよというのである︒而し て此度は麦耕作段別︑収量等を年毎に記録し︑計帳使に附して政府に申し送るよう義務づけている︒

右はもとより備荒のための雑穀栽培奨励策であったが︑

それは飢饉対策であり︑

﹁国家の隆泰は︑要は民を富ますに在り﹂であった︑正丁一人当り二段歩の麦作を命令しても︑

また︑﹁麦の用たる︑人に在りて尤も切なり︒乏しきを救うの要︑此より過ぎたるは莫し﹂

その根本思想は

それが実際に効果が

なかったとなれば︑より厳しい義務付けを官吏相手に必要としたと思はざるを得ない︒

1 7 1   恰かも︑この前年︑養老六年七月戊子には︑次のような詔が下されている︒

朕庸虚を以て︑湧業を紹ぎ承け︑己に剋って自ら勉むるも︑未だ天心に達せず︑是を以て今夏雨ふること無く︑

苗稼登らず。宜しく天下の国司をして、百姓を勧め課して、晩禾.椅麦及び大小麦を種樹し、蔵置儲積して•以て

これでは効果が薄いと見て下されたのが︑一年後の同七年 という段であるが︑ 二段歩の麦・禾作を命じたにも拘らず︑

一向に実行されていなかったことを暗示している︒

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52.6 

八・九世紀における日本の麦作︵鋳方︶ 勧課し大小麦を種えしむべし﹂までは兎も角︑

略 ︶

八日廿八日の格︵本項冒頭に掲げた引用︶であり︑この場合は晩禾︵おくての粟︶蕎麦︵そば︶を省き︑特に大小麦

を強調している︒元正天皇は在位九年間︵七一五

l

七二三︶に三度に互ってーー霊亀元年・養老六年・同七年ーー麦

作を始め雑穀栽培の奨励を行っておられるが︑その後︑約四0年間麦作に関する記載は全く存在しない︒次に引用す

るのは︑弘仁十一年七月九日︵八二

0 )

における格の前半である︒

大小麦を種うべき事

百姓の憬憬と同時に︑官吏の怠慢を責めている

右は太政官去る天平神護二年九月十五日の格を検するに称う︒大納言正三位吉備朝臣真吉備宣す︒勅を奉ず︒麦は

絶ゆるを継ぎ乏しきを救う︒穀の尤も良きものなり︒宜しく天下諸国をして百姓を勧課し大小麦を種えしむべし︒

9即ち国郡司の格勤なる者各々一人を勤めてその事を専当す︒其の専当人の名は朝集使に附して申上せよ者︒

右は︑先に掲げた養老七年八月廿八の格﹁今より後︑百姓を催勧し時を失はしむること勿れ︒其の耕種の町段︑収

穫の多少は年毎に具録し︑計帳使に附して申上せよ﹂と比較するとき︑此の場合は︑﹁宜しく天下諸国をして百姓を

﹁国郡司の格勤なる者各々一人を勤めてその事を専当す︒其の専当人

の名は朝集使に附して申上せよ﹂という段において可成りの差異が見られる︒この場合︑国郡司の中︑精励格勤な官

吏各々一人を麦作専門の担当者とし︑その名を政府に登録せしめたのである︒つまり責任の所在を明かにして麦作を

行はせようというのである︒また︑養老七年︵七二三︶

が︑天平神護二年︵七六六︶の場合︑官吏のみにその鉾先が向けられている︒何故︑これ程までに政府は大小麦の栽 太政官符

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52.5 

が︑これは専ら売手である百姓のみをその対象としている︒

賜西大學﹃継清論集﹂第二二巻第四号

培に熱意を示したのであろうか︒それは飽くまでも救荒政策にあった︒民を飢渇に陥しいれることこそ最大の悪政で

あるという理念は︑古代からの東洋思想であり︑日本もまたその例外ではなかった︒

このような政府の熱意にも拘はらず︑稔らぬ前に蜀として麦を刈り取り︑それを売る風潮があらはれた︒弘仁十年

六月二日︵八一九︶における格の前半に云う︒

麦蜀を売買するを禁断する事

n1右は去る天平勝宝三年三月十四日の格に俯う︒大小麦は定に能く夏の乏しきを助く︒愚擬の百姓後に欠くるを慮

らず︒頓かに青蜀を苅りて徒らに泊失を為す︒今より後︑堅固く禁断す︒若し違犯有れば︑必ず重罪を科せむ︒又︑

太政官︑去る大同三年七月十三日の騰勅符に僧う︒聞くならく︑富豪の輩︑憲式を顧みず︒無頼の民尚お法令に暗

V9 

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し︑麦を売りて食を忘れ︑積習常と為り︑前失を革めず︒法に依って科処す︒所司の容穏は状の随に貶し馳ぞく︒

天平勝宝三年︵七五一︶と大同三年︵八0八︶の二度にわたる﹁麦蜀を売買することを禁断﹂した格である︒

小麦は窪に能く夏の乏しきを助く﹂とあるのは︑稲を初め他の雑穀の収穫時が秋であるのに対し︑麦はその収穫時が

四月︵陰暦の四月を麦秋という︶であって︑恰も稲の貯蔵が乏しくなる夏の︵四・五・六月︶の端境期を助けてくれ

るという意味である︒であるのに愚かな百姓は後︵夏︶に食糧が欠乏することを考えず︑急いで︵稔らぬ前に︶青蜀

として苅りとり︑むざむざ売り損︵油失︶をしている︒今後︑堅く禁断する︒違犯者は重罪を科すという主旨である 太政官符

︵天平勝宝三年三月十四日の場合︶しかし︑売手である

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﹁ 大

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泰 ﹂ を足らしめるため麦作を奨励したのであって︑ の時期に突如として起ったわけではない︒政府は端境期を乗りきるため︑民の飢饉を避けるため︑ 百姓のみを取締っても片手落ち︑買手があればこそ売手もあるのである︒勿論︑青麦を糊として売買する風潮が︑

ず︑未熟の麦を馬の飼料として売って損をしている︒政府は見るに見かねて禁断令を下したと考えられる︒

また︑五十七年後の大同三年︵八0

八 ︶

宝三年の格︶を顧みたい富豪の輩であり︑また︑法令︵前記の格︶に暗く︑麦を売って端境期の食糧を忘れ︑永年に

わたって常習となっている百姓等であった︒即ち︑

この場合︑違法の闇売買を知りつつ容認した官吏は降職乃至免職という厳しい態度をとっている︒官吏にまで︑

当事者である売手・買手︑ 鉾先を向けたことは︑買手である富豪の輩に買収された官吏が数多かったであろうことを暗示したものと思う︒

そして彼等を監督すべき立場にある官吏の三者を︑処罰の対象としたことは大なる進歩

ここにおいて︑我々は何故に青麦を法を犯してまで売買しなければならなかったかを検討しなければならない︒そ

こには王公卿士および豪富の民等の畜馬熱ともいうべき風潮があったのである︒

養老二年秋八月乙亥︵七一八︶

mu   U  

の条を見れば次のような記戴がある︒

八・九世紀における日本の麦作︵鋳方︶ につながるのである︒

の格は趣きを異にする︒﹁法に依って科処﹂

これ程熱心に麦作を奨励しているにも拘らず︑愚かな百姓は以前から政府の親心を察せ その目的はあくまで﹁富民﹂

そして民をして食

憲式︵天平勝

この度は売手・買手・両者を処罰の対象としたのである︒しかも

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523 

熱が蝦夷等にも充分知られていたのでは無いかと思はざるを得ないのである︒朝貢する以上︑相手方が最も喜ぷであ

げに養老五年三月乙卯︵七ニ︱)には左の詔を見る︒

詔りして日く︑節を制し度を謹しみて奢濫を禁防ぐは︑政を為すに先とする所︑百王不易の道也︒王公卿士及び

豪富の民︑多く健馬を畜いて︑競い求むること限り亡し︒唯に家財を損失するのみに非ず︑遂に相争いて闘乱を致

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せり︒其れ条例を為して限り禁ぜ令めよ︒有司条奏して︑官品の次に依り︑畜馬の限りを定む︒親王及び大臣は廿疋

に過ぐるを得ず︒諸王諸臣の三位己上は十二匹︑四位は六疋︑五位は四疋︑六位より己下庶人に至るまでは三疋゜

一たび定めて以後は︑闊に随って充補せよ︒如し犯すこと有らば︑違勅を以て論ぜむ︒其の品の限りに過ぐるを

右の詔は︑格をもって制限しなければならない程︑王公卿士や豪富の民等の畜馬熱が旺盛であった有様を端的に示

している︒しかし︑この格も︑当座は兎も角︑漸次︑守られなくなった︒

天平宝字元年六月乙酉︵七五七︶には五カ条の勅が制せられているが︑その第二条は再び畜馬の数について触れて

王臣の馬数︑格︵筆者註︑前掲︑養老五年三月の格︶に依って限り有り︒此に過る以外は馬を畜うことを得ず︒ ば︑皆没して官に入れむ︒ ろうものを選ぶことはむしろ当然であろう︒ 朝貢は︑その品目は多く︑

閥西大學﹁継清論集﹄第二二巻第四号

出羽並びに渡嶋の蝦夷八十七人来り︑馬千疋を貢ぐ︒則ち位禄を授く︒

蝦夷が単なる朝貢の意図のもとに︑このように多数の馬を献じたと考え得られるであろうか︒

一種目ということは殆ど無いといってよい︒従って︑この頃︑すでに中央貴権等の畜馬

一般の場合における

(10)

,22 

す ︒ 右は三十六年前の格による畜馬数の制限を超えて︑ ︵中略︶宜しく所司に告げ厳かに禁断を加うべし︒若し違犯する者有らば︑辿勅の罪を科せよ︒

後︑畜馬数に関する格は見られないが︑畜馬熱は依然として衰えを見せなかった︒次に掲げる弘仁六年=一月廿日︵八

権貴の使や豪富の民が陸奥︑

馬を出すことを禁断する事

物は則ち官に没す︒

但し駄馬は禁ずる限りに在らず︒

右︑中納言兼右近衛大将従三位行陸奥出羽按察使勲三等巨勢朝臣野足の奏状に俯う︒軍団之用は馬より先なるは 莫し︒而して権貴之使富豪之民︑互に相往来し︑捜し求むること絶ゆること無し︒遂には則ち吏民を託煩し夷狼を

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4 ,

犯強す︒国内粛はざるは略之に由る︒唯リ馬直︵筆者註︑馬の値段︶の踊貴のみに非ず︑兼ねて復た兵馬得難し︒

>クガ

俯って去る延暦六年騰勅符を下し特に科条を立つ︒而して年久しく世移り︑押習遵はず︒望み請う︒新たに厳制を

9藤園人

下し更に禁断を増さん者︒右大臣宣せられて倫う︒勅を奉ず︒宜しく強壮之馬軍用に充つるに堪うるものは国界を 出すこと勿かるべし︒若し此の制に違はば罪先符に依る︒

其れ出羽国は宜しく此に准ずぺし︒

右によれば延暦六年︵七八七︶︑己に馬を国外に出すことは禁じられていた︒今回は二度目の禁制である︒しかし︑

これとて当座はともかく漸次守られなくなった︒更に貞観三年三月廿五日︵八六一︶には︑三度目の格が下されてい

る ︒

̀  

八・九世紀における日本の麦作︵鋳方︶

太政官符 出羽にまで出向いて良馬を買い漁り︑

益々畜馬熱が盛んになった事情を示すものに他ならない︒爾

馬の値段を騰貴させたことを示

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繭西大學﹃継清論集﹂第二二巻第四号

馬を出すことを禁断すべき事

︵前文は弘仁六年の格と殆ど同文であるから省略する︶

︵前略︶然らば則ち禁断の制昔より例を成す︒如して今年世移ること久しく︑制法強棄せり︒儒し機急有るも亦

支禦すべきこと難し︒望み請う︒新たに厳制を増し︑軍用に堪うるものは牝牡を論ぜず皆咸禁断し︑以て警固に備

えん︒謹しみて官裁を請う者︒右大臣宣す︒勅を奏ず︒請に依る︒若し制旨に違はば罪は先格に准ず︒物亦之の如し︒

さて馬を国外に出すことの禁制は︑前掲﹁軍団之用︑馬より先なるは莫し﹂とあるように︑その目的はもとより軍

備に在った︒しかし軍用に堪え得る健馬は権貴・豪富等の渇望するところであり︑値段をどんどん釣り上げて買い漁

った︒畜馬の数に制限が附されているにも拘らず︑彼等の良馬に対する欲望は︑止まるところを知らなかった︒陸奥

・出羽から締め出された彼等は︑今度は九州に鉾先を転じている︒貞観三年を降ること僅か九年後︑貞観十二年二月

クテマツ廿三日乙己︵八七

0 )

の条には次のような記載がある︒参議従四位上行大宰大弐藤原朝臣冬緒が進った起請四事のう

o w  

ち︑その二である

^ ヵ

其の二に日く︑比年の間︑公私の雑人︑或いは陸に或いは海に︑来り集まり深く入り遠く尋ねて︑善馬を営り求

む︒其の帰向に及び︑多き者は二三十︑少なき者は八九疋︑惣べて過所︵佐伯有義氏の註によれば︑関所を通行す

る手形なりとある︶を計るに︑年年関を出ずるの数︑凡そ千余疋なり︒夫れ機急之備︑馬尤も用を為す︒而して元

94 頼の輩︑毎年捜し取る︒若し馨乏有れば非常を如何せん︒今将に禁制を施さんとせば︑醗って謗誕を致さん︒望み

請う︑豊前︑長門両国に下知し︑四カ年間︑馬を出すことを禁止せん︒︵中略︶詔りして並びに之に従う︒ 太政官符

10  

(12)

520 

八・九世紀における日本の麦作︵鋳方︶

これ亦︑軍備に主眼がおかれていることに間違いはない︒しかし︑

誹謗を受けるであろうとの意で︑長門・豊前の二国に限定して向う四カ年間︑馬を出すことを禁止して欲しいと願い

出て許可されている︒それならば︑何故全面禁止を避けたのであろうか︒管見によれば︑売手側においても︑それ相

而して九年後の元慶三年十月十五日辛未︵八七九︶には︑ この場合は九州全体に禁制を布くことは︑醗って

太宰府及び豊前・長門等の国︑境内の馬を出すことを禁止せせしむ︒

との勅が出されており︑九州全体および長門国に対し国外えの馬輸出禁止令が布かれるに至った︒しかし︑

よって権貴・豪富等の畜馬慾が抑制されたかどうかは疑はしい︒だゞ彼等の畜馬熱が如何に旺盛であったかを知れば

ここで先ず問題となるのは︑馬の飼育法であろう︒如何に良馬・健馬を買い漁っても︑飼料が不良である場合︑到

底︑本来の良馬・健馬としての体調を維持することは出来ない︒ここに当然飼料の問題が起って来る︒また馬の健康

管理の問題も生じるであろう︒

︐ 

U  

延喜・左右馬察式には次のような記戴がある︒

+

凡そ細馬十疋︑中馬五十疋︑下馬二十疋︑牛五頭︒毎年四月十一日より始めて青草を飼い︑十月十一日以後は乾

草を飼え︒︵馬は日に二束半︑牛は二束︑束別の重さ十斤二両︒︶其の飼丁は馬別に一人︒衛士を以て充つ︒但し青 応の利益があったにちがいないからである︒

(13)

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或本歌日

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3

馬柵越し麦食む駒のはつはつに新膚触れし児ろし愛しも 飼料を与えたと思はざるを得ない︒ は政府所管の細馬の飼料であるが︑権貴・豪富等が︑これ以下の飼

隅西大學﹃純清論集﹂第二二巻第四号

草を刈る丁並びに牛を飼う丁は惣て七十四人︒並びに仕丁を充てよ︒それ株を飼うは︑冬は細馬に日に米三升︑大

豆二升︒中馬︑下馬に各々米一升︑大豆一升︒牛は米八合︒夏は細馬に日に米二升︒中馬は一升︒下馬及び牛は須

細馬は良き馬と訓むように最上級の馬である︒青草・乾草の分量こそ︑牛を除けば細馬・中馬・下馬は各々平等で

あるが︑各夏の穀物飼料となると︑米︑大豆等は各々そこに差等を設けている︒細馬の飼料は量的にも︑或は質的に

もーー冬期︑下馬及び牛は米を食はせない1勝れていたと見なければならない︒

さて権貴・濠富等が遠距離をものともせず︑或は法を犯してまで買い漁った馬は︑健馬︵細馬︶であった︒彼等が

飼料に気を配ったであろうことは想像に難くない︒健馬︵細馬︶に良い飼料を充分与える必要があったことは当然で

ある︒右に掲げた資料︵毎年四月十一より始めて青草を飼い︑十月十一日以後は乾草を飼え︒

 冬は細馬に日に米

料を与えることで満足したであろうか︒彼等は彼等が買い漁った良馬を一層良馬たらしめんがため︑より一層優れた

醜って︑万葉集を維けば︑麦と馬とに関する三つの歌を見ることが出来る︒

馬柵越しに麦咋む駒の詈らゆれと猶し恋ししく思びがてなく

1 1  

"

"

垣越しに麦食むこうまのはつはつに相見し子らしあやに愛しも

(14)

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︵第二項︑弘仁十年六月二日の太政官符︶

ーと見るわけには行かないであろうか︒﹁馬柵越しに﹂﹁垣越しに﹂とあるからには︑馬が柵の内に飼はれ︑柵外の

すノズ麦畑の麦を食ったことは明かであるが︑その麦が収穫以前の麦であったことも自から判明する︒というのは︑麦が熱

した場合︑時機を失うことなく収穫することは︑農民の常識であったからである︒

ここで再び︑先に掲げた︵第二項︶弘仁十年六月二日︵八一九︶

とを禁ずる事﹂は︑大小麦が夏の端境期を助ける恰好の重要作物であるにも拘らず︑愚かな百姓等は︑後に食糧難に

なることを考えず︑まだ稔らない青麦を銑として刈り取り︑むざむざ売り払って損をしている︒に始っているが︑

のような事態は︑冒頭にあるように︑すでに天平勝主三年三月十四日︵七五一︶以前から行はれていたと見なければ

而して五十七年後の大同三年七月十三日

ところが︑弘仁二年夏四月丁丑︵八︱一︶には突如として青麦を眺として売買することを許可している︒平城天皇

m u  

から嵯峨天皇え代がかわったとは云え︑僅か三年後のことである︒

勅りす︒麦を苅りて斜となすこと︑禁制久し︒今聞くならく︑京邑の百姓︑未だ秋ならざるの前︑之を油りて急

を給う︒其の得る所を計るに︑実を収むるに倍す︒利荀くも民に在り︒何ぞ禁制を労せん︒今より後︑永く売買を

すでに過去二度にわたって青麦を狗として売ることを禁じているー天平勝宝三年︵七五一︶および大同三年︵八

0八︶ーにも拘らず︑依然として青麦の売買を根絶することは出来なかった︒買い手が無ければ︑青麦を売る筈は 歌の内容は兎も角︑

︵ 八 0

八 ︶

には再び青麦を銑として売ることを禁止している︒ そしてまた季節も不明ではあるが︑

の格を想起しよう︒太政官符﹁麦狗を売買するこ ここに歌はれている麦を︑

未だ熟していない麦I

(15)

517 

闊西大學﹃経清論集﹂第二二巻第四号

︵万葉集からの引用参照︶畜馬熱に浮かされた権貴・豪富等が︑ 無い︒ここには申すまでも無く深刻な理由があった︒権貴・豪富等の飽くことを知らぬ畜馬熱が︑とりもなおさずそれであった︒細馬・健馬をより一層勝れた馬に育て上げるためには︑より良い飼料が必要であった︒本項の冒頭に掲げた延喜・左右馬寮式は﹁凡そ細馬十十疋︑中馬五十疋︑下馬二十疋︑牛五頭︒毎年四月十一日より始めて青草を飼い︑十月十一日以後は乾草を飼え﹂と定めている︒これは官有の馬牛に対する規則であるが︑私有の馬の場合は必ずしも右の通りではあるまい︒常識的には官有の馬の飼料に劣ると考えらるかも知れない︒しかし権貴・豪富等が所有している馬は細馬・健馬であった︒四月十一から青草を飼料とする以前︑たとえば二月・三月から青草を馬の飼料としたのではなかったか︒麦は仲秋に播き︑ニ・三月頃には他の雑草と比し逃かに生長しているのである︒青草を飼料に用い︑彼等所有の健馬をより一層健馬たらしめようと考えたであろうことは想像に難くない︒しかも︑

麦は青草の中でも︑馬が好んで食う飼料であった︒

青麦に無関心であろう筈はない︒彼等は近傍の百姓が作っている青麦を馬の飼料とする目的で買い漁ったのである︒

しかも︑麦穀として売却するよりも︑馬料として青麦のまま売却した方が︑百姓にとって二倍の利益があるという

のである。二度の禁制にも拘らず、青麦の闇売り——権貴・豪富等の闇買いー—.は依然として横行している。そこで

﹁利荀くも民に在り﹂という大義名分を掲げて﹁今より後︑永く売買を聴す﹂こととなった︒しかも︑この勅りが権

貴・豪富等の大勢居住していたであろう地域に住んでいる﹁京邑の百姓﹂を︑その対象としている点︑彼等の畜馬熱

と密接な関係にあることを肯定せしめずには措かないであろう︒

然るに八年後、弘仁十年六月二日(八一九)の格‘~前半は第二項に掲げたが、1左に引用するのは、続きの後半である

(16)

516 

すでに述べたように︑弘仁二年夏四月丁丑︵八︱一︶勅は︑

え︑青麦を蜀として売却することを許している︒にも拘らず︑僅か八年後の弘仁十年六月二日︵八一九︶に︑わざわ

ざ前例である天平勝宝三年の格︑および大同三年の勅符︵第二項参照︶を挙げて︑又々禁断せざるを得なかった理由

は那辺に在ったのであろうか︒官吏等は禁制を忘れて顧みず︑愚かな民等は法をくぐって違反しているが︑これらの

行為は既に禁制違犯である︒こんな有様では忽ち人々の食糧は無くなってしまう︒静かに其の弊︵青麦を苅り蜀とし

て売買すること︶を論ずるに深く済民にもとる︒麦を殆ど強制してまで播種させた根拠は﹁済民﹂にあった︒である

す ︒

麦痴を売買するを禁断する事

︵前略︶又︑太政官今年三月十四日︑左右京職五畿内に下したる符に僧う︒去年登らず︒百姓の食乏し︒夏時に

至らば︑必ず飢饉有り︒飢を救うの儲け備えざる可からず︒職国︵筆者註︑左右職と畿内五カ国︶承知して件に依っ

て禁断せよ者︒今大納正三位兼行左近衛大将陸奥出羽按察使藤原朝臣冬嗣宣せられて俯う︒勅を奉ず︒所在の官︑

制を忘れて顧みること無く︑愚暗の民︑法を忍び犯すこと有るは︑既に朝制に違う︒忽ちにして民根を失う︒静か

に其の弊を論ずるに︑深く済民に乖る︒又或いは事を坐臥︵筆者注︑麦の葉茎か倒伏すること︶に寄せ︑過って其

の好きを苅り︑偏えに少直を計りて多損を顧みず︒凡そ播え蒔くの時地の膏えたるを図らず︑生長の日猶お此の費

を致す︒宜しく官長自から蒔く時に臨んで検校し︑此の旨を以て後損を致すこと莫からしむべし︒若し違犯並びに

播種宜しきに乖ることあらば︑所由の官司は事の随に考を貶す︒ 太政官符

仮令それが

一 五 のみを対象としたとはい 違犯の人は法に依りて推決

(17)

515 

右の諸国の中︑阿波国を除けば︑五畿内であり︑権貴・豪富等と関係浅からざる地域であった︒三月十四日付の太

摂津国大麦三石・小麦廿五石一斗

河内国大麦三石・小麦三石 大和国大麦三石・小麦十一石七升三合 山城国大麦三石・小麦州石 関西大學﹁純清論集﹂第二二巻第四号

にも拘らず百姓は麦が倒伏したなどと理屈をつけて丈夫な青麦を苅りとり蜀として売り払う︒安い値段で売り︑麦穀 として売った場合と比べれば︑大拍をしていることを考えない︒麦作の奨励は決して馬の飼料生産のためでは無いの である︒それはあくまで﹁済民﹂に目的があった︒而して大同一二年の格では︑麦の闇売買を黙認している官吏が処罰 の対象となったが︑

序でながら︑弘仁二年夏四月丁丑︵八︱一︶

取り上げられたと見られる︒というのは︑弘仁十年六月二日の太政官符は︑

に﹁京邑の百姓﹂に与えられた青麦を眺として売る特権は︑この年に

﹁今年三月十四日左右京識五畿内に下し たる符に僧う﹂と記しているからである︒左右京職とある以上︑京邑の百姓が対象の例外である筈はない︒

なお︑五畿内は当代における唯一の麦産地であった︒延喜・民部式・交易雑物の項によれば︑麦を交易した国々は 左の六ケ国であった︒

゜ .

この場合は可成具体的に官吏の任務を規定している︒

一 層

厳しさを加えたと見るべきであろ

一 六

(18)

514 

することあらば違勅の罪を科す︒

﹁左右京職五畿内﹂を対象として下されたことは︑意義深いものがあると思う︒畜馬熱に浮かされた権貴

︵彼等の居住地は京を中心とした五畿内であったと思う︒︶度々の禁制を犯して青麦を買い漁り︑百姓等

も彼等の要請に応え︑後に襲うであろう飢饉の事︑禁制の事など考える暇もなく︑青麦を売払っていた状況が眼に浮

結局︑八年前︑青麦を蜀として売ることを公然と許可された﹁京邑の百姓﹂は︑

と見るべきであろうか︒

この翌年︑弘仁十一年七月九日︵八二

0 )

には︑時を移さず大小麦を種うべきことを一層厳しく義務づけている︒

⑪ 前半は第二項に掲げた故省略する︒

︵前略︶今大納言正三位藤原朝臣冬嗣宣せられて俯う︒勅を奉ず︒今聞くならく︑黎民の愚棄て︑顧りみず︒絶

乏有るに至って徒らに飢饉に苦しむ︒或は耕種すと雖も既に其の時を失う︒空しく功力を費やし還って実を得ず︒

t

9t

是れ則はち国郡の官司格の旨を慎まず︑時を授くるに方に乖る︒此くして政を従むるを誰か善吏と謂はんや︒月

令に云う︒仲秋之月は乃ち麦を種うることを勧む︒時を失うこと有ること母れ︒其れ時を失うこと有らば罪を行う

こと疑いなし︒宜しく今より以後︑八月より始めて勤て播種せしめ時を失うこと得ざらしむべし︒自余の事条は一

ら前格︵筆者註︑

この場合︑運悪く巻添をを食った

この格の前半であって︑第二項に掲げた天平神護二年九月十五日の格を指す︶に依れ︒若し乖犯

大小麦を種うべき事 太政官符 ぶのは独り筆者だけであろうか︒

(19)

5 1.3 

隅西大學﹁純清論集﹄第二二巻第

4

第二項に述べた天平神護二年九月十五日の格︵七六六︶は︑麦栽培のための専任官吏の名を登録して︑その責任の

所在を明らかにするに止まっていたが︑五十四年後の此の度の格は梢々趣きを異にしている︒礼記の月令から﹁仲秋

之月は乃ち麦を種うることを勧む︒時を失うこと有ること射れ︒其れ時を失うこと有らば罪を行うこと疑い無し︒﹂

を引用し︑今後︑八月︵仲秋︶から播種せしめ時機を失しないよう努力せよと命じている︒しかも此の度は﹁若し乖

犯すること有らば違勅の罪を科す﹂とあるように罰則が設けられた︒この格が官吏を対象としたものであったことは

ところが︑これ程熱心に︑あらゆる手段を講じて麦作を奨励し︑その目的が救荒︑済民︑国家の隆泰にあることを

強調したにも拘らず︑政府は次のような格を下さざるを得なかった︒この年から十九年後︑そしてまた﹁麦蜀を売買

することを禁断﹂した格が下された弘仁十年から二十年後の承和六年十月丙辰︵八三九︶である︒

制すらく︑大小両麦は︑耕種の労少くして︑夏月早く熟し︑急を支うるの力多し︒若し青苗を刈らず︑其れ成熟

せしめば︑貧賤の民将に以て飢を療さんとす︒膜々禁制を下し︑蜀となすことを聴さず︒而して頃年奢移の俗︑青

ム+ポ苗を収めて以て馬を飼い︑庶民の愚︑得を利り直ちに以て暫らく用うること︑積習今に至る︒憲法を畏れず︒宜し

く左右京︑五畿内の諸国︑更に然るを得ざら令むべし︒其れ百姓の改悛せず︑及び容隠する所あらば︑大同三年の

格に准じ︑状の随に科処す︒

先の大同三年の格は﹁所司の容隠は状の随に貶し謡ぞく﹂と規定し︑百姓同志の容隠には触れていなかった︒とこ

ろが本格では︑百姓の間における闇売りを互に容隠している場合をも処罰の対象としている9

ここで処罰の対象をふりかえって見よう︒天平勝宝三年︵七五一︶の場合は︑売り手である百姓のみが処罰の対象 疑う余地がない︒

(20)

, I  2 

右︑案内を検するに︑去る養老七年八月廿八日の格に僧う︒麦の用たる人に在りて尤も切なり︒乏しきを救うの 要此より過ぎたるは莫し︒是を以て藤賑宮御宇太上

マ コ

t

来︑多く耕種を劇き飢饉に至りて娘辛良に深し︒独り百姓の僻緩するのみに非ず︑実に亦国郡の罪過なり︒今より 後︑百姓を催勧し時を失はしむること勿れ︒其の耕種の町段︑収獲の多少は︑年毎に具録し︑計帳使に附して申し

太政官符

陸田を営むべき事

一 九

官物を割き取りて天下に播殖す︒比年以 であったが︑大同三年︵八

0

八︶の場合は︑買い手である富豪の輩︑売り手である無頼の民︑そして彼等を取締る立 場にあった所司'~青麦の闇売買を容隠した官吏ーーをその対象とした。更に弘仁十年(八一九)の格は闇売買を容 隠した官吏はもとより︑麦の作付技術等に関する指禅までを官吏の責任とし︑違反者を処罰の対象としている︒而し て今回︑承和六年︵八三九︶の格は百姓間の容隠をも処罰するというのである︒

このように見た場合︑青麦の闇売買は少なくとも法的に息の根を止められたかの観がある︒なお︑此の度の格も弘 仁十年の格同様︑その地理的範囲は﹁左右京︑五畿内の諸国﹂であった︒

買が︑権貴︑豪富等の畜馬熱と極めて密接な関係にあったであろうことを認めざるを得ない︒

さて︑翌︑承和七年五月二日︵八四

0 )

には︑雑穀裁培奨励の格が下されているが︑

に﹁麦蜀を売買することを禁断﹂し︑翌弘仁十一年︵八二

0 )

いる︒前半は第二項の冒頭に掲げた格︵養老七年八月廿八日

" u

 

る ︒

に﹁大小麦を種うべきこと﹂を命じた楊合と酷似して

と殆ど軌を一にするが︑煩を厭はず再録す ここに︑われl\は︑弥々もって青麦の売これは︑弘仁十年︵八一九︶

(21)

5 I I 

買禁断令﹂を下している︒ ということを︑特に言いたかったのかも知れない︒

闊西大學﹁継演論集﹄第二二巻第四号

送れ者︒今右大臣宣せられて俯う︒頻年旱宍︑水田稔らず︒黎民窮飢して活を取る所無し︒往年詔格条章を設くる

と雖も︑近代牧宰曽て遵行すること無し︒宜しく橡己上一人其の事を専当し︑民をして天之時に因り地之利に就

き︑黍・稜・稗︵筆者註.稗に同じ︶麦・大小豆および胡麻等の類を播殖せしむべし︒是れ則ち国を富まし民を謄

はし︑凶年を支給する所以なり︒若し僻怠して勤むること無くんば︑状の随に科責す︒唯斯に因って水田を務めず

変えて陸田と為すことを得ず︒

承和七年五月二日

大小麦を耕種すべき事の太政官符は︑己に養老七年︵七二三︶︑天平神設二年︵七六六︶︑そして弘仁十一年︵八二

0 )

の三回にわたって下されている︒︵仮に︑霊亀元年︵七一五︶

何故に一︱七年も以前である養老七年の格を前半に引用しているかということである︒天平神設二年︑或はより時代

が接近している弘仁十一年の格を引用した方が寧ろ自然では無かったのか︒臆測することが許されるならば︑麦は持

統天皇の時代︵六八七ー六九六︶から︑官物を割き取って天下に播殖した程︑

それは兎も角として︑この場合︑前半に麦のみについて述べながら︑実際に播殖せしめんとした穀物は︑黍・稜・

稗・麦・大小豆および胡麻等の類であった︒前年︑承和六年十月丙辰︵八四

0 )

従って︑若し政府に充分な確信があったならば︑先に弘仁十年六月二日︑﹁麦狗を売買することを禁断﹂した翌年︑

弘仁十一年七月九日

0 )

の詔を別枠としても︶

に峻厳な麦作付を命令しているように︑ ここで思い起されることは︑

その栽培に熱意が示された穀物である

には︑完全とまで思はれる﹁青麦売

この場もまた麦のみに限定しても良さそうな

0

(22)

510 

法令を省みない権貴・豪富等の間に畜馬熱が盛んであり︑ 馬熱は依然として衰えを見せなかった︒ の馬買出しが中断したかと思えば︑今度は九州えの鞍替えである︒ 培令を下したいもも拘らず︑不成功に終っていること︒

法令に昏い百姓等が麦作を行っている以 気がしないでも無い︒それを此の度は︑黍・稜.稗・大豆・小豆・小豆・胡麻等に枠を広げているが︑それはそれな

﹁是れ則ち国を富まし民を贈はし︑凶年を支給する所以なり﹂といっているが︑これは

麦単独の場合でも通用する理由であって︑他の雑穀を組み入れるため特に用いられた文言ではあるまい︒

麦の他に黍.稜.稗・大豆・小豆・胡麻等を組み人れた理由は二つあると思う︒

︱つには弘仁十年六月二日︑第三回目の麦銚売買禁断令を下し︑翌十一年七月九日︑それまた第三回目の大小麦栽

二つには︑権貴・豪富等の畜馬熱が依然として旺盛である以上︑麦作のみに頼ることに不安があったこと︒己に第

三項で述べたように︑養老五年三月乙卯︵七ニ︱)には︑王公卿士・豪富の民等の畜馬熱を抑えるべく畜馬数制限令

が布かれ︑天平宝字元年六月二面︵七五七︶

ている︒また︑弘仁六年三月廿日︵八一五︶

門︑元慶三年十月十五日辛未︵八七九︶ には︑制限数を超える者が多かったため︑制限数を守るよう厳命を下しには︑権貴の使者や豪富の民が陸奥・出羽にまで出向いて健馬を買い樵

ることを禁断し︑貞観三年三月廿五日︵八六一︶には︑またまた健馬の買い樵りを禁じている︒而して︑東北地方え

貞観十二年二月廿三日

には太宰府及び豊前・長門学の国から馬を出すことを禁じているか︑

権貴・豪富等の雑人等が九州地方にまで足をのばして健馬・良馬を買い漁ったからに他ならない︒権貴・豪窟等の畜

上︑仮令︑政府が如何に熱心に﹁麦鉤を売買することを禁断﹂したところで︑その効果はあまり期待できなかったの りに理由があった筈である︒

0

)

には豊前・長

(23)

509 

代︑麦作が伸び悩んだ理由は︑或はこの辺にあったのではあるまいか︒

山「農業と経済」第六巻•第十二号。昭和十四年十二月。

図「農業経済研究」第十七巻•第四号。昭和十六年十二月。

Ho

固続日本紀・巻第七︒類棗︱一代格・巻八・農桑事に於いては和銅六年十月七日︵七一三︶と記しているが︑内容は全く同一である

C

︑ ︑

ニカ年のずれがみられる︒

1一代格・巻十九・禁制事︒

u l l

続日本紀・巻第二十︒

H新聞社版﹁六国史﹂

⑱土屋文明編﹁万葉集年表﹂︑岩波書店︑昭和七年版︑年代未詳︵巻十二︶三

0

麦作百姓等は本来の目的を逸脱し︑

当代︑政府の度重なる麦作奨励策により︑確かに麦作は行はれた︒しかし︑全部がそうであったとは云はないが︑

闊西大學﹁純清論集﹄第二二巻第四号

畜馬熱に浮かされた権貴・棄富等に奉仕したと云えないこともないと思う︒当

(24)

508 

( 2 1 )   ( 2 0 )   ( 1 9 )   U 8 l   U 7 l  

右害︑年代末詳︵巻十四︶三五三七゜

日本後紀・巻第廿一︒

延喜式・巻二十三・民部下︒

続日本後紀・巻第八゜

類衆三代格・巻第八・農桑事︒

八・九泄紀における日本の麦作︵鋳方︶

参照

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