カナダにおける信教の自由
富 井 幸 雄
1 はじめに
2 カナダ憲法における信教の自由の認知
3 信教の自由の限界と最高裁判所
4 むすびにかえて
1 はじめに
︵1︶ 憲法典での信教の自由の規定は大抵︑抽象的である︒信教の自由の保障は︑それが憲法上の人権であることは前
提とされるものの︑政治社会の具体的な局面ではその国が宗教とどのようにかかわりあってきたかによって微妙に
カナダにおける信教の自由 ︵都法四十八ー二﹀ 一八一
一八二
異なる︒宗教はその国家の成り立ちや文化など︑複雑な背景的要因を有しているものである︒憲法と宗教の具体的 ︵2︶ 関係は国家の歴史的背景に規定される︒これは︑信教の自由の保障と密接な関係にある憲法原則としての政教分離 ︵3︶ の具体的展開にも当てはまることである︒
筆者がカナダにおける信教の自由に着目するのは︑カナダ憲法には︑連邦制をはじめ立憲主義原理で影響を受け
ているアメリカ憲法と異なり︑国教樹立を禁じる政教分離の規定がない点である︒それどころか︑一入六七年憲法
はローマ・カトリックとプロテスタントの保護を前提とする規定を置き︵九三条︶︑一九八二年憲法︵カナダ人権
憲章︵○芦註泣目○げ昌け隅昆囚゜qげ誌①ロロ問苫o口o日ω゜以下﹁憲章﹂︶を含む︶は前文で神の至高性︵°・6苫目①自昆
(わ
純?jを宣言している︒おおよそ立憲主義が宗教とかかわらないとの立場は憲法典ではとっていない︒一方で︑信
教の自由は憲章二条aで明文で保障される︒
カナダはヨーロッパの伝統の中にあり︑キリスト教の国である︒キリスト教がイングランドのコモンローを形成 ︵4︶ し︑カナダもこれを受容する︒カナダでは主にキリスト教はプロテスタントとローマ・カトリックに分かれる︒ア ︵5︶ メリカと異なり︑現在はカトリックがやや優勢である︒この二つの宗派のバランスをどうとるか︒加えて︑カナダ ︵6︶ は多文化主義︵一九八二年憲法二七条︶をとっていることから︑少数宗教や宗派とのバランスをどうとるか︒これ
らは︑カナダの立憲政治における重要な問題である︒さらに︑20世紀以降︑多様な宗教や宗派が現出しており︑カ
ナダがそれらに公平に対応していくのも要請されるところである︒
カナダは︑﹁国家と教会の分断の壁﹂︵T・ジェファーソン︶を設けたことはない︒一入六七年の連邦結成前後に
は︑東カナダ︵現在のケベック州に相当︶のローマ・ヵトリック教会や︑ニューブランズウィック︑ノヴァスコシ
ア︑プリンス・エドワード島のイングランド教会のように︑州レベルには法律で定められた公定教会制度があった
けれども︑イギリスのように国教制度をとってはいない︒カナダはアメリヵ型の政教分離とイギリスの国教制度の
中間的存在ともいわ袈・政教分離ではないから・あるいは国教制度を採っているからと三て︑信教の自由が保 ︵8︶ 障されないものではないのは︑イギリスをみるまでもなく明らかである︒
アメリカや日本のように憲法典に政教分離の規定を置かずに︑信教の自由を保障していくことはどのようなこと
なのか︒世俗主義︵o力①n已一①﹃︷◎り巳P︶を実現していくことは可能なのか︒本稿は︑そうした問題の前提的考察として︑
カナダ憲法が人権としての信教の自由をどのように認識してきたのかを検討する︒立憲主義国家での個人の権利と
しての信教の自由という認識が共通項であるのを観察することはできよう︒一方でカナダ的問題とも言うべき特徴
を見ることもできる︒カナダは︑その国家の成立基盤や歴史は︑カトリックに基づくケベック州Hフランス系とプ ︵9︶ ロテスタントのオンタリオ州1ーイギリス系の対立と協調を宿命とした︒立憲主義原理としては︑この二つの宗派を ︵10︶ はじめ︑宗教を公平に扱わざるをえなくなる︒憲法原理としての信教の自由は︑カナダという国家の歴史的基盤の
制約を所与のものとして︑国家としての統合を目指す憲法の目的にあっては︑必須の人権として位置づけざるを得
ない側面を垣間見るのである︒そのことが世俗主義を帰結させているようにみえる︒そこでは宗教を私的領域に封
じ込める憲法解釈が司法によって形成されているのである︒
カナダにおける信教の自由 ︵都法四十入ー二︶ 一八三
一八四
2 カナダ憲法における信教の自由の認知
︵1︶日曜日を遵守させる立法の憲法問題ービッグM事件とエドワーズ書店事件
カナダ憲法における信教の自由は︑日曜日を安息日とするキリスト教のしきたり︵oり③ぴぴ①﹇①民①昌︶を遵守させる
立法︵°・巨冒゜ぴ゜・巾ー8巨ψり︶で鮮明にさ廷・元八五年のビッグM事拒堅アルバ|夕州カルガリでビッグ
M薬局が日曜日に商品を販売したことが︑連邦法である主日法︵いo己︑︒︒O昌﹀臼︶四条に違反したとされた刑事事
件である︒主日とは﹁土曜日の正子に始まり翌日の正子に終わる時間を意味する﹂︵二条︶︒同法四条は主日に商売
をすることを禁じる︒いわく︑﹁本条に掲げるもの︑あるいは一九〇七年三月一日以後施行された州法で規定する
ものを除いて︑いかなる商品︑動産︑その他個人の財産や不動産を販売︑もしくは購入のために販売または提供し
たり︑その者の通常の職業として︑もしくはそうした職業に関連して︑商取引をしたり︑もうけとしてそうした
り︑またはその日に何らかの仕事や商売または労働をなすように雇用したりすることは︑いかなる者であっても適
法ではない﹂︒
本件でまず問題となったのは︑会社が信教の自由の権利享有主体になるかである︒カナダ連邦最高裁判所︵最高
裁︶は︑本件が刑事事件であり︑会社が刑事責任を問われていることであるから︑ビッグM薬局は憲章二条a違反
を主張する適格が認められるとし︑したがって会社︵oO﹃Oo﹃①はo目︶が信教の自由を享有し︑あるいは行使できる ︵13︶ かは︑本件では関係ないとした︒
かかる訴訟においては︑旧来は連邦の立法管轄権︵一八六七年憲法九一条︶を逸脱するかどうかが主な争点で
あった︒一九八二年憲法︵憲章︶制定後は︑その二条aで良心及び信教の自由が保障され︑司法審査が担保される
ことになったので︑人権問題として論じられるとする︵冨﹃①゜切Φ︶︒そしてその審査は︑立法の目的と効果を切り離
すのではなく︑関連づけて考察することである︒﹁目的と効果は両方とも適憲性を判断するのに関連する︒違憲な
目的もしくは違憲な効果のどちらかだけで︑立法を無効にしうる︒立法はすべて︑立法府が達成させたいと意図す
る目的によって命を吹き込まれている︒この目的は︑その立法の適用と運用によって生み出されたインパクトを通
して現実化される︒目的と効果は相互に︑立法の目的とその究極のインパクトという意味で︑明確につながってい
る︒意図された現実の効果は立法の目的を評価する︑すなわちその有効か無効かの指針としてしばしば見られるの
である﹂︵田﹃pO︒O︶︒立法の目的が憲法上正当であることが最初にテストされ︑これにパスしなければ効果のテス
トはしない︵bぼpO︒°︒︶︒主日法が刑事法であることから︑連邦の立法管轄権︵一八六七年憲法九一条二七号︶はす
んなりと認められた︵冨8°・﹈ド+日O︶︒
主日法は母国イングランドでの安息日に関する立法に起源を持ち︑安息日を遵守させるとの宗教目的は払拭し得
ない︒もつとも︑アメリカでは判例で認められているように︵冒日︒・°﹃ωーミ︶︑日曜日を休息日とするのは市民に ︵14∀ あっては慣習化しており︑息抜きをする︵﹃Oω什○﹃﹃6一①×︶という世俗目的であるとの見方もある︒しかし︑﹁あるキ
リスト教宗派の思想がすべてを拘束している限りで︑憲章の精神とすべての非キリスト教徒の尊厳に反目する強制
の形態として⁝機能している︒キリスト教信仰の基準を公言して︑同法はキリスト教でないカナダ人に敵対する風潮
をつくり︑差別の状態を与えている︒同法はキリスト教の道義︵日o巨詳司︶に根ざす宗教的価値をとり︑それを国
家の力を使って非信者も信者と同様に拘束する実定法に移入したのである﹂︵o胃p箋︶︒
最高裁は︑国家が宗教にかかわるかどうかというより︑かかわったとしても︑ある宗教の信者の自由を侵すこと
カナダにおける信教の自由 ︵都法四十八ー二︶ 一八五
一八六 ︵15︶ にならないかを違憲判断の基準にすえた︒わが国やアメリヵのような政教分離を立憲主義原理とすれば︑国家があ
る宗教にかかわること自体︑違憲だとの主張が可能になろう︒カナダでは政教分離の憲法規定がないため︑国家が ︵61︶ 特定の宗教に善意に︵ぴ8阻匿︒︶かかわること自体は憲法問題とならない︒他者の信教の自由を脅かすことにな
る場合︑違憲の問題となるといえよう︒
ビッグM事件で最高裁は︑日曜日の商業活動を禁じる連邦法を信教の自由に違反し違憲無効であるとした︒しか
し︑翌年︑オンタリオ州の小売業休日法︵旨窒①曇ω︷︒①゜°︒力臣書゜り﹀⇔叶︶は合憲とした三ドワ|ズ罷︶・同
法は︑元旦︑聖金曜日︵○○○口句民口昌︶︑ビクトリア日︑カナダ記念日︵Oo巨巳o昌O昌︶︑レイバー・デー︑サンク
スギヴィング︑クリスマス︑クリスマス・プレゼントの日︵出o邑⇒σqO昌︶︑そして日曜日を休日︵自○法昌゜︒︶とし
(一
︶︑休日に小売業を行った者には一万ドル以下の罰金を科すと規定していた︵二条︑七条︶︒エドワーズ書店
は︑一九八三年三月六日の日曜日にビジネスをしたことで同法違反とされた︵他にも食品会社や果物会社なども同
様に起訴︶︒なお︑同法は︑薬局︑ガソリンスタンド︑花屋︑遊興施設などをはじめ︑一般人に従事する被庸者が
七人以下でそのための店舗も五〇〇〇スクエアー以下である場合には︑日曜日遵守は免除していた︵三条四項︶︒
最高裁︵ビッグM事件と同様ディクソン首席判事の法廷意見︶は︑ビッグM事件を踏襲しながらも同法を合憲と
した︒本件では初めて︑州法での日曜日遵守の合憲性が問われた︒そこではまず立法管轄権が問題とされる︒連邦
法が問題となったビッグM事件では︑宗教にかかわる事項は連邦とされたが︑本件はそうであっても州の管轄にか
かわる事柄もあるとした︵b胃pべO︶︒一八六七年憲法九二条一二号は︑結婚の司式については重要な歴史的伝統的 ︵18︶ な宗教的意義をもつ集団に委ねて︑州の管轄としているし︑同九三条は非特定宗派の学校に対する州の権限を制約
している︒最高裁は︑憲法は宗教に関する事柄は連邦か州のどちらかの排他的管轄としているのではないと判断
⑨
し︑宗教やその自由に関する立法は︑コンテキストに照らして︑立法が焦点を当てている特定の宗教的事柄に従っ
て特徴づけられなければならないとした︒信教の自由のような人権に関する有効な州法の逆効果をなくす︑あるい
は最小限にさせようとすることは︑州の立法府に開かれている︒小売業休日法の免責条項︵三条四項︶は︑財産権
や市民権に関連する︵一八六七年憲法九三条二二号で州の管轄とされる︶有効な州法から切り離せない︵o胃p
﹃○︒︶︒最高裁は︑同法は州の立法管轄権にあると判断した︒
同法の休日にはクリスマスなど宗教的起源をもつものもあるけれども︑日曜日を休業にさせるのは世俗化してい
るともいえる︒同法の目的が小売業者に共同体の他のメンバーと共通の休日を与えることにあるのか︑それとも︑
歴史的に支配的である宗教団体によって宗教の遵守を促進あるいは選好させるために慎重に起草されたのかを︑判
断しなければならない︵Oぼ①◆O﹂︶︒最高裁は︑立法経緯や立法府の報告書を吟味した結果︑同法は共通の休息日 ︵19︶ ︵冒已ψ︒①ユ昌︶を設ける目的であり︑それを日曜日としたのも世俗的だと判断する︒もっとも︑日曜日という特定日
を休日にするのには宗教的背景を否定できず︑目的は世俗的と断定すれば異論が生じる︒その効果が宗教的である
かが問題になっていくことになる︒
自分の信仰しない宗教を国家が強制することを禁じるのが信教の自由であるから︑日曜日を休日とすることにそ
うした宗教を強制する効果が認められるかが明確にされなければならない︒ただし︑州が信教の自由に制約を設け
ることを一切否定されているわけではない︒問題は︑直接あるいは意図しない負荷が憲章の許容を越えるかであ
る︒﹁二条aの目的は︑社会は個人の自己規定︑人類︑自然そして場合によっては高次のもしくは異なる存在を支
配する深遠なる個人的な信仰に干渉してはならないことを確証することである︒憲法は︑宗教上の信条や行為が現
実にもしくは合理的に脅かされている限りにおいてのみ︑個人と集団を庇護する︒二条aによって保護を奪われる
カナダにおける信教の自由 ︵都法四十八ー二︶ 一八七
一八八
州が課すコストないし負荷にとっては︑憲法は宗教上の信条や慣行に干渉できるものでなければならない︒要する
に︑行為のコストあるいはその他宗教的信条を表明することを増やす立法あるいは政府の行為は︑負荷がとるに足
らない些細なもの︵叶﹃一く一①一但口△一口oり已げo力﹇①昌﹇一①一︶であるなら︑禁じられないのである﹂︵o胃p鵠︶︒
異なる宗教的立場のクラスが四つに分けられる︒第一に非宗教者︵﹈口O﹈Pー○ひoりO﹁<巾﹁oり︶である︒法の免責に該当し
ないかぎり休息は強制されることになるが︑彼らにとってそれは世俗的な意義しかない︒第二は日曜日遵守者であ
る︒これには肯定的効果しか認められない︒第三に土曜日遵守者である︒ユダヤ教や安息日再臨派︵ω︒ぐ①昌庄−O昌
﹀口く︒昆゜・﹇︶が該当する︒政府は︑同法は信仰上の土曜日遵守を妨げる意図も効果もなく︑土曜日休業は禁じてい
ないから︑宗教的効果はないと主張する︒つまり︑土曜日遵守者は土曜日と日曜日を休業することになり︵土曜日
は自らの宗教に基づき︑日曜日は法律‖世俗に基づく︶︑経済的不利︵同じ宗教の消費者も土曜日と日曜日に買い
物ができなくなるとの不利益︶も認めるが︑本法で問題となる信教の自由とは直接関係がないという︒最高裁は︑
このクラスは︑少数であるとはいえ︑もう一日休むという競合的不利︵8日O⑦﹇己く︒庄6・&<§古p①9①︶は日曜日遵守
者にはないもので︑日曜日遵守によって不利益を蒙ることになるから︑信教の自由を侵害されているとする︒政府
は土曜日遵守の信仰者が負う自然のコスト︵目①﹇已﹃①一︹O◎◎﹇ω︶とするが︑最高裁は土曜日遵守者の重荷︵ぴ已庄①口︶の
根拠をさぐり︑制定法の根拠がないのに︑日曜日遵守者とビジネスでは同じ足場に立ちながら不利な位置づけと
なっているとし︑この不利は宗教にのみ基づくものとした︒第四に他の曜ロを遵守する者である︒ヒンドゥーは水
曜日︑ムスリムは金曜日という類である︒その効果は明確にできないとした上で︑本件では両宗派への侵害は訴え
られていないとした︵Oρ叶①゜一NO︶︒ ﹂
第三のクラスには違憲となる︒しかし︑違憲の立法でもあっても憲章一条の﹁自由で民主的な社会で合理的な制
約と認められる﹂ならば︑最終的には違憲とはならない︵○爵而ψ・法理︶︒そこでこの要件をクリアーできるかが検
討される︒そのためには︑第一に︑立法が促進しようとする目的は憲法上の権利を凌駕するにたる十分な重要性が
認められるか︑第二に︑そうした目的を達成しようとするためにとられた措置が目的に比例した適切なものか︑を
検証しなければならない︵冨日゜・二N﹂−﹂NN︶︒最高裁は︑日曜日に小売業を休ませるのは︑一日は休息を取らせる必
要があり︑それは被傭者の労働上重要であるとして公的利益の優位を認め︑その手段も合理的関連性があるとし
て︑一条によって正当化されるとした︒
エドワーズ事件は︑日曜日遵守のオンタリオ州法の目的は世俗的であるとする一方で︑土曜日遵守︵白り陪ξ音司
○ぴ゜・隅くき8︶者に対して︑別の宗教を強制する効果を持つから違憲だとした︒しかし︑憲章一条で正当化される
ので合憲と判断した︒もっとも︑憲章二条a違反は認めたのであり︑無宗教者ではなく一定の︵少数であっても︶
宗教信仰者に宗教的意義に基づく精神的負荷をかける場合にのみ︑信教の自由を侵害することになるとした︒非宗 ︵20︶ 教者ではなく特定の宗教の信仰者に負荷がかかれば︑信教の自由違反で当該立法は違憲となるということである︒
そうでない負荷はいわば自然のコストと評され︑違憲とはならない︒信教の自由はビッグM事件で明確にされたよ
うに︑国家が宗教的行為に︑直接であれ間接であれ︑意図的であろうがなかろうが︑予見できようができまいが︑
負荷をかけることから個人を保護することにあるからである︒この宗教的負荷が攻撃している立法によってもたら ︵21︶ されたものか︑かかる負荷は些細なものかを検証しなければならない︒
連邦法か州法かの違いはあるけれども︑同じ日曜日を休業させる立法の合憲性がビッグM事件とエドワーズ事件
で分かれたことは︑日曜日遵守法が憲章二条aとの抵触を免れるのかといった不明瞭さを残すこととなった︒立法 ︵22︶ ㍉ が宗教目的なら連邦法で︑世俗目的なら州法との︑立法管轄権のすみわけは示されたといえる︒日曜日遵守の立法
カナダにおける信教の自由 ︵都法四十八ー二︶ 一入九
一九〇
はたしかに歴史的には宗教に起源を有するけれども︑今日では健康衛生上休息をとらせるという世俗的な意義も
︵23︶
ある︒後者の面では憲法上の問題ではなく︑経済や社会の状況を反映させる政策や政治の問題と認識される︒エド
ワーズ事件では︑休息日は日曜日と指定され小売業に強制されて︑規模に応じた免責が認められたが︑それらは立 ︵42︶ 法裁量とされた︒
︵2︶信教の自由の憲法概念
一九〇六年の主日法の違憲性が争われたのはビッグM事件が初めてではない︒憲章以前︑法律であるカナダ権利
章典一条cは︑基本的人権︵巨日窪註ひ今宮ω①昆︹巨合日而暮巴中090日ψ・︶として信教の自由︵中︒①臼o日○ご合ひq8口︶ ︵52︶ ︵%︶ リチー を明文で保障した︒一九六三年のロバートソン事件で︑最高裁︵困9巨①判事︶は︑宗教に関する思想の完全な自
由と宗教的信条とその個人的ないし組織的プロパガンダに制約のないことは︑この権利章典以前からカナダに存在
していると認められ︑﹁そうした自由は個人の絶対的自由に制約を課す合理的で発展した近代化された法システム ︵27︶ に服する﹂とした︒信教の自由がアメリカと同様に基本的人権として承認される︒それは政教分離ではなく︑信教 ︵28︶ の自由の行使︵㌣﹃①①①︶︻①﹃O︷oり而︶に類するものである︒またここでは︑主日法の目的が宗教的であることは否定され
ていない︒アメリカと異なり︑カナダでは目的と効果を峻別するアプローチがとられ︑目的が宗教的であっても連 ︵29︶ 邦の立法管轄権は認められた︒ビッグM事件は︑日曜日遵守法の目的が宗教的か世俗的かは争いがあるが︑効果は
宗教的であるとし︑さらに目的が宗教的であることは違憲となるとの判断を示している︒一九八二年憲法︵憲章︶
が制定された違いがあるが︑ロバートソン事件の判例は変更されたと見てよいであろう︒
ビッグM事件は信教の自由の憲法的意義を明確にした︒憲章二条aの目的は︑﹁社会がその人の自己︑人間︑自
然︑そしていくつかの場合には存在の秩序の高次あるいは様々な認識を支配する深遠な個人的信条に︑干渉しない ︵30︶ ようにすることである﹂︒個人が自由に︑自ら﹁の良心が示す信条や意見を︑それらがいかなるものであろうとも︑
保持し告白することを確証することである︒ただし︑そうした告白が彼または彼女の隣人または隣人自身の信条や ︵31︶ 意見を保持←告白する同等の権利を侵害しない限りにおいてである﹂︒﹁信教の自由の本質は︑個人が選択する宗教
的信条を信じる権利︑宗教的信条を公然と︑かつ復仇ないし妨害の懸念なく宣言する権利︑および畏敬崇拝あるい ︵32︶ は教授ないし布教︵ロ一ωoりΦb山一昌O叶一〇目︶によって宗教的信条を明らかにする権利である﹂︒ ︵33︶ 信教の自由はこの概念で発展してきた︒その規範的意義は二つにまとめることができる︒第一は︑宗教上の信条
を保持し告白する積極的な自由である︒立法の効果や目的が個人の宗教に附随する宗教的実践としての行為を妨げ
るなら︑二条a違反となる︒性質上かかる自由は絶対的であるが︑行為として発現されるときには制約がともなわ
ないわけではない︒第二は︑宗教上の教義や実践に従うように強制されることからの自由である︒第一とは異な
り︑消極的な部分である︒二条aが政府の行為に対する禁止を意味することに留意したい︒政府は︑宗教的な目的
で個人に対し特定の宗教的信条を肯定させたり︑あるいは特定の宗教的慣行を露呈させたりすることはできないと
いうことになる︒ ︵43︶ ビッグM事件での信教の自由のこうした概念は踏襲されている︒それは︑信教の自由が人格的自律に不可欠であ ︵53︶ るとの近代的憲法観にたっている︒﹁自由は︑強制や拘束の欠如として一義的に特徴づけられうる︒人が国家ある
いは他者の意思で作為あるいは不作為を強いられるなら︑その者は自らの意思で行動しているのではなく︑真に自
由とはいえない︒憲章の主目的の一つは︑合理的な範囲内で強制や拘束から保護することにある︒強制︵∩06︹
カナダにおける信教の自由 ︵都法四十八−二︶ 一九一
一九二
。[
曙禔jは︑制裁の苦痛に基づいて行動することを自制あるいは行動する直接の命令のような露骨な形態だけを含む
のではなく︑他者が利用できる行動様式の選択を決定ないし制限する間接的な統制様式を含む︒自由は︑広義で
は︑拘束と強制の欠如と︑信条と実践を表明する権利の両方を包含する︒自由とは︑公共の安全︑秩序︑健康︑道
徳︑又は他者の根本的な権利や自由を保護するのに必要な制約に服して︑なんぴとも自らの信条もしくは良心に反 ︵36︶ するやり方で行動するのを強いられないことを意味する﹂︒
この定義は︑宗教は純粋に私的事項であり︑個人の人格的発展にとって不可欠であるから︑他者とりわけ国家が
干渉してはならないとの自由主義原理に基づく︒ビッグM事件最高裁判決︵ディックソン判事︶は︑社会が宗教か
ら自由主義に進歩してきたことを根拠にしている︒﹁かつて︑人々がなんらかの神に共同体の集団的責任があると
信じていたときには︑宗教一致への強制は政府の正当な目的であったかもしれないが︑憲章以降ではそれはもはや
正当ではない︒憲章にあっては︑自分の宗教上の義務が何であるべきかを自分自身のために成就させることはすべ ︵37︶ てのカナダ人の権利であり︑国家がその他を言明することではない﹂︒
宗教が私的であって公ではないとの理解は信教の自由の必須要件であり︑世俗主義︵oり60d﹇一①﹃︷oりb口︶の近代国家の ︵38︶ 基礎ともいえる︒カナダのこの信教の自由の概念はわれわれも共有しうる︒ただ︑公的領域に宗教が一切入っては
ならないことが世俗主義を意味するかは議論があろう︒トクビルの︑﹁専制は忠誠信頼︵置邑なしに統治するこ ︵39︶ とができるが︑自由はそうできない︒共和国では王制以上に宗教は必要だ﹂の定言の普遍性を認め︑﹁世俗の公的
制度の健全さは政策を形成する討議に宗教の声が存在することによって脅かされるのではない︒反対に︑その健全
さは情熱に何らかの統制を解きほぐす民主主義の固有の傾向に制約をもたらすものとして作用し︑したがって民主 ︵40︶ 主義自体の破壊を促進する宗教的な声の欠如によって脅かされる︒﹂と主張するものである︒もっとも︑裁判所は︑
︵41︶ 道徳的宗教的要素を憲法判断に入れ込むのには︑安楽死の権利が認められるかの憲法判断で示したように︑慎重あ
るいは否定的なようである︒
︵3︶憲章以前からの信教の自由の憲法典による確認
カナダでの信教の自由は︑憲章によって与えられたわけではない︒それ以前︵買06古P︒詳2︶でも︑信教の自由 ︵42︶ は憲法的地位を獲得した原理として認識されていた︒
カナダは︑イギリスとフランスの対立の中で形成され︑イギリスの統治下に入るものの︑フランス系の人民の文
化を保護尊重するという協調路線をとった︒植民地カナダにおけるフランス系住民のイギリスへの同化策を放棄し
文化を保護する政策をイギリスが約束した︑一七七四年のケベック法五条は︑ローマ・カトリック教を信仰告白し
ているケベック植民地臣民︵国隅ζ芝①゜・蔓ω゜・⊂909ω︶は︑国王の主権に服従し︑ローマ・カトリック教会の宗教 ︵43︶ の自由を保持し享有すると︑規定している︒一七五九年のケベック征服は︑フランスのカナダ植民地の崩壊と同時
に︑この地でのローマ・カトリックの宗教的独占の終焉をも意味した︒カナダの成立︵一八六七年憲法制定︶は︑
カナダのすべての宗教集団は法的には平等な基盤にたち︵①日巴⌒oo昔西︶︑同憲法九三条の特定宗派の学校の権利 ︵44︶ を除いて︑同じ法的権利を享受することになったのである﹂︒もっとも︑アメリカと異なり︑カナダの入植者はほ
ぼ例外なく宗教以外の理由でやってきたし︑宗教の自由や寛容な態度は州あるいは連邦の立法でのリップサービス ︵45︶ 的なものであったといわれる︒
やがて信教の自由は︑二〇世紀の戦間期にエホバの証人に対する弾圧の中で強く認識されていった︒一九二七年
カナダにおける信教の自由 ︵都法四十八ー二Y 一九三
一九四
︵46︶ 制定の戦争措置法︵司曽呂①器ξ窃﹀旦によって︑政府はこの宗教団体を違法な組織と認定した︒その後︑エホ
バの証人をめぐる訴訟で最高裁は︑信教の自由が明文の規定はなくとも根本的な原理であると認識し︑共同体の第
一条件でありかつ自己統治に不可欠で不可侵の自由であるとした︒
すでに述べたように︑一九六〇年の権利章典によって︑明文で信教の自由が保障された︒ただし権利章典は連邦
法にのみ適用されるとの限界を内在していた︒また︑信教の自由が自然権と見られていたそれまでの考えに比べ
て︑自由は一般適用の法律に従って行使されなければならないとの考えが強調された︒憲章制定前は︑信教の自由
は憲法原理だとは認められたものの︑絶対ではなく︑合理的な法の一般的な適用によって制限されうるとされて
︵47︶
いた︒憲章二条aは︑信教の自由が立法に優位する原理であることを法的に明確にしたのである︒
︵4︶信教の自由の憲法判断の基準
︵48︶ ビッグM事件で定義された信教の自由の概念は︑二〇〇四年のアンセレム事件にも踏襲されている︒これは︑二
つのビルの共有者の一方がユダヤ教の儀式としてスッカー︵oりξ8げ︶でバルコニーを飾ったことが︑ビルの規則
に違反するとして撤去を求められ︑その後妥協として共同のスッカーとされたことも︑憲法上の信教の自由︵正確
にはケベック州の人権及び自由の憲章︵○プ曽8﹃昆口已日芦空σq巨切碧口司器Φ画o日゜・︑戸㊤○ρO−一N︶三条︶を侵害す
るとして訴えた事件である︒
これまでの判例を踏まえて︑信教の自由は︑﹁宗教に関連をもつ信条を内に秘め実践を行う自由からなり︑そこ
では個人は︑自分が真摯に信仰している︑あるいは︑特定の実践または信仰が公式の宗教の教義によって要請され
ているかとか宗教幹部の立場に符合しているかにかかわりなく︑自分の精神的信仰の作用として︑あるいは神に連
結するために︑真摯にかかわっていることを実証することになる﹂︵O胃p込O︶︒信教の自由を主張するのに客観的
な宗教教義を示す必要はない︒国家は宗教教義︵合ひ碕日①︶の仲介者︵992︶になってはならず︑裁判所は義務
だとか戒律とかの主観的意味を法的に解釈したり決定したりしてはならない︵冨日口O︶︒裁判所の責務は︑まず︑
本人が真摯に︑主観的でよいから宗教的信仰を持っているかを判断することである︒そのためには宗教的実践と信
条が符合しているかなどを検討するが︑真摯であるかの判断は現在を基準にし︑過去の行動を熱心に探求してはな
らない︵Oぼ①㊤日ふω︶︒信教の自由を主張するには︑個人的でよいから行動が宗教と関連していることと︑自らの
信仰が真摯であることを裁判所で実証しなければならない︵b胃p切①︶︒
これが立証されれば︑次に州による負荷あるいは干渉がとるに足らない些細なものであるかを検証しなければな
らない︵エドワード事件を踏襲︶︒憲章上の自由は絶対ではなく︑他者の権利や自由を害してまでも認められるの
ではない︒他者との関係の私的次元であっても凌駕する社会的関心に服されうるから︑他者の権利との関係と当該
私的紛争の背景を勘酌しなければならないのである︵窟旨゜り゜ΦNwΦω︶︒
最高裁は︑このテストを本件に当てはめて信教の自由の侵害を認めた︵冨日¢密−口O︶︒本件が︑信教の自由の侵
害があったかの司法判断の方法を明確にさせた意義は認められよう︒信教の自由は内心にとどまる限りは絶対的に
保障される︒問題となるのはそれが行為として社会に現実化される場合である︒裁判所は︑憲章二条aの信教の自
由の侵害を訴える者が︑当該行為と宗教との密接な関係があるか︑当該宗教の信条に真摯に基づいているか︵客観
的組織的である必要はない︶︑公権力による制約が些細なものではなく深刻な制約の強制をもたらしているか︑他 ︵49︶ 者の人権を侵害していないことを立証しているかを判断するのである︒
カナダにおける信教の自由 ︵都法四十八ー二︶ 一九五
一九六
信教の自由の憲法保障は︑憲章の制定で初めてもたらされたのではなく︑カナダではそれ以前から認識されてい
た︒憲章での明文化が︑信教の自由の憲法保障の具体的様相を豊かにさせる契機となったのはいうまでもない︒
ビッグM事件は︑信教の自由の憲法上の意義と保障と︑立法の違憲判断のアプローチの手法︵目的効果融合論︶を
明確にした︒その後の展開は信教の自由の限界を明確にさせる試みが目立っていく︒エドワード事件で示されたよ
うに︑そこでは︑信教の自由の侵害が認められても憲章一条によって正当化されれば違憲無効とはされず︑結果︑
その侵害は救済されないことになる︒判例の展開はこの傾向を示しているように思われるのである︒
3 信教の自由の限界と最高裁判所
︵1︶信教の自由と人格
信教の自由は絶対的ではない︒﹁公共の安全や秩序︑健康︑道徳︑他者の基本的権利や自由﹂を侵害してはなら
ないのである︵ビッグM事件︶︒もっとも︑その具体的な限界は明確にし難い︒トロント大都市圏子供援助協会事 ︵50︶ 件は︑これを物語っている︒未熟児に対する輸血をエホバの証人であるその両親が拒否したにもかかわらず︑生命
への危険が生じたため︑児童福祉法︵○プ自口<<O崖①﹃O\〆6﹇︶に従って︑第三者の医師の評価も踏まえ︑裁判所の決定
などの適正手続を経て︑子供援助協会︵被告︶の後見を認め輸血を行った︒これに対して︑両親が信教の自由を侵
害されたなどとして︑同法の違憲を主張した︒最高裁は同法を合憲と判断したが︑そのアプローチは五対四でわか
れた︒
ラフォレスト ロ リュデュベ ソピンカリゴンティエ マクラヅクリン 多数意見︵冒①ウo器゜・せい.口①ξo日−O自ぴ∩P乙︒oO日匠①︑Ωo已巨①□ζ9①合旨判事︶は憲章二条a違反を認めた上で︑
同一条で合憲と判断した︵廿ぼ撃﹂Oω−巳ω︶︒本件では親の信教の自由が問題となっている︵子供は新生児だからそ
もそもかかる決定はできない︶とし︑﹁医療その他の処置の選択の権利を含む︑子供を自分らの宗教的信条にした
がって養育する親の権利は︑信教の自由の均しく基本となる要素である﹂とした︒同法の目的が子供の保護にある
のは明らかで︑信教あるいはエホバの証人を排斥するものではない︒しかし︑目的が世俗的だからといって信教の
自由を侵害する効果がないとはいえない︒本件での後見命令は︑親の宗教的信条にのっとった︑子供に対する医療
の決定権を否定している︒かかる侵害は些細でない︒次に︑憲章一条で国家の利益とのバランシングが必要であ
る︒その挙証責任は国家にある︒政府は︑信教の自由を制約することが憲章一条の自由な民主主義の社会で正当化 ︵51︶ されることを立証しなければならない︒深刻な状況にある児童を保護することに国家の利益があるのは疑いない︒
﹁本法は︑裁判官が両親の同意しない処置を子供に行う必要があると判断したとき︑国家に親の権利︵冨8茸巴
ユoQ宮︶を肩代わりさせる︵①ooo力已日O︶﹂のである︒手続は慎重に規定され︑濫用の危険はないし︑後見命令も期限
が設定されている︒こうした親の権利の制約は正当化されるとする︒
ラ マ コ リ イアコブンチ メイジャ これに対して少数意見︵9B2首席判事︑Oo﹃□冒oo言09冨且自判事︶は︑そもそも信教の自由に反していな
いとする︵9日゜・﹄Nω畠恕︶︒両親が子供の医療行為の決定権を有することは多数意見と同様に認めるが︑信教の自
由には内在的制約がある︒本件の憲法問題は︑子供の生命や健康に対する権利はどこまで親の宗教的信条に発する
行為に服させることができるかだとする︒自由は他者の肉体的精神的な幸福を脅かすものにまで認められてはいな
い︒憲章一条の判断だとする多数意見﹁のアプローチは︑憲法上保護された行動のレヴェルに個人的な信条を根拠
として自分の子供に必要不可欠な医療を拒否するという選択を引き上げることになる﹂と非難している︒
カナダにおける信教の自由 ︵都法四十八ー二︶ 一九七
8
一九八
本件は成人ではなく子供の治療が問題となっている︒少数意見は︑子供は自らの宗教的自己決定権を行使できず
人格的意思を表明できないと主張した︒多数意見は︑憲法上︑子供の利益を基準として判断することが要請され︑
人格を備えない子供にあって何がそれにあたるかは︑総合衡量の上︑個別具体的に判断したのである︒両親の信教 ︵52︶ の自由は︑子供の健康や生命︑安全にとっては二次的であるとの判断は示されたといえる︒
立法あるいは政府の行為が信教の自由を侵害する違憲なものであるとの判断は︑最終的に︑具体的なバランシン
グに委ねられることになる︒その際︑憲章二条aの信教の自由違反は柔軟に解されて︑さほど検討されることなく
認定される︒その上で憲章一条によるバランシングで詳細に議論され︑その果てに合憲とされるアプローチが目立
つ︒この場合︑憲章一条による正当化は︑国家や州にその挙証責任を負わせることになる︒ ︵53︶ 一九九六年のロス事件はこの傾向を示している︒ニューブランズウイック州の公立学校の教師ロスは徹底した反
ユダヤ主義者で︑これを表明する言動や出版活動を日ごろから学校外で行っていた︒これに対して生徒の親が︑か
かる者を教師として雇用している学区の教育委員会︵Oり︹古OO一﹈﹈○①﹃巳O︷↓﹃已oり﹇6①oり︶は差別行為を行っているとして︑
同州人権委員会に訴えた︒その審査を受けて州政府は︑当教育委員会に対して︑︵a︶ロスを一八ヶ月間の無給の
停職とすること︑︵b︶教育職に就けないこと︑︵c︶︵b︶が受け入れられないなら解雇すること︑︵d︶反ユダヤ
主義の出版活動などを止めさせること︑の命令を出した︒ロスはこの命令のうち︵b︶︑︵c︶︑︵d︶が憲章が保障
する信教の自由などに反するとして︑それらの取消しを求めた︒
最高裁は︑ビッグM事件以来の判例を踏まえて︑信教の自由︵二条a︶違反は︑問題となっている立法あるいは
法文の効果が個人の宗教上の活動や信条に干渉しているかを憲法的に省察すれば十分であるとして︵田﹃pご︶︑こ
れをあっさりと認めている︵O胃pま︶︒その上で憲章一条で正当化されるかを判断すべきとし︵信仰の自由の制約
が些細である場合など︑常にこの検討を行う必要はない︵b昌ρ謹︶︶︑詳細に検討している︵Oぼ①ω゜ベペー﹂﹂O︶︒それ
は︑共同体の必要性と個人の権利との適切なバランスを考えることであり︑一方で広汎な信仰の便宜︑他方で文化
的︑集団的アイデンティティの尊重と︑個人の参加を高める社会制度への信奉と固有の人格の尊厳を衡量しなけれ
ばならない︒これは︑教育と雇用と反ユダヤ主義のそれぞれの脈絡で考えなければならない︒公教育制度では︑児
童が未熟であることも考慮すると公平で寛容な教育が要請されるのであるから︑かかる職務での雇用はそうした教
育への公的な信用が確保されるものでなければならない︒本件命令は︑公立学校でのユダヤ人差別を救済する意義
が認められる︒その制約や手法も比例原則を満たし合理的だとして︑本件命令を合憲とした︒
ロスが教室で反ユダヤ主義の言動や教育を行ったり︑差別したりしたことはないようだ︒ロスの表現活動は公務
外であり︑公務たる具体的な教育活動でそれを反映させているとの主張はみられない︒本件命令での規制が一条で
正当化されるというのは理解し難い面がある︒﹁すべて個人は︑偏向︑偏見︑不寛容から自由な学校制度で教育を
受ける権利があり︑公立学校制度ではなんぴともその性︑人種︑民族︑文化または宗教に基づく差別の表明は認め
られないし︑学校のプログラムや活動は学生の自己研鐙を促進させ︑その者自身の文化や遺産に対する誇りを発展
させるのを助けるのである﹂との原則︵冨日︒︒O︶を重く見たのだろう︒信教の自由違反は認めているけれども︑
憲章一条の定める︑自由な民主主義社会での正当化をどのように勘酌するかで︑信教の自由の憲法保障の射程が画
定される様相がある︒
カナダにおける信教の自由 ︵都法四十八−二︶ 一九九
二〇〇
︵2︶カナダ憲法における信教の自由の判断傾向と示唆
信教の自由をいうとき︑カナダでは肝心のその宗教とは何かの定義の議論がさほどなく・義的では轟・雇
には私的領域での信仰と認識されるだろう︒一方で︑﹁人間の福利︵司些−ぴ︒ぎ⑰q︶を高めることができる特定の体
系を持った信条の規範で︵ぴ﹃一Φ居60日b已津日①昌叶︶︑合理性に依拠せず︑少なくとも一部は信仰︵宣庄︶に基礎づけら
れるとされる信条に︑制約なく与えられた個人的な規範を表明する制度と実践への集団的参加﹂であると︑共同体
ほ を前提とする定義もある︒憲章における宗教は︑理性ではなく信仰に基づく個人的な規範体系で集団性をもつ組織
と実践の体系であり︑それが人間の幸福を高めることに寄与するのだとの認識である︒
ビッグM事件で確立した信教の自由の概念では︑カナダ社会が世俗的︵ω⑦o巳胃︶であることが憲法原理として︑
あるいは事実上の認識として︑措定されている︒もっとも︑ωo⇔巳ぼとはどのような意味か︑判例は明確には語っ ていない︒ベンソンによれば四つの意味があるとする︒第一は︑国家は非宗教的で︑いかなる方法でも宗教をサ
ポートしてはいけない︵b﹇6已﹇﹃①﹂oり①O已一知﹃︶︒第二は︑国家は何らかの特定の宗教団体の信仰を肯定しないが︑一般
に宗教に好ましい環境を作るように行動することができる︵ooω臣く°°・°6巨胃︶︒第三は︑国家は宗教を含む事項に
は無能であるが︑共通善を脅かさない信仰表明を禁じるように行動してならない︵⇒°σq①牙①目①已旦︶︒これらで
は︑国家は宗教的立場を代表する信仰の主張の外側として見られる︒国家のこうした部外者的位置づけは暗黙の前
提とされている︒そこで第四は︑国家は直接︑特定の宗教や信仰集団によって指図されたり運営されたりしてはな
らないけれども︑さまざまな信仰集団︵宗教もあれば非宗教もある︶の最も広汎なかかわりに徹した道徳的市民の
考えを発展させなければならない︒
ベンソンは︑第四がカナダの自由で民主主義的な国家に最もよく適合するとする︒自由主義にとって︑宗教は不
可欠である︒政治としての自由主義は個人のさまざまな信条に基づく︒それらは道徳といってよいが︑宗教に基づ
くものもある︒こうした道徳的信条の多元性が自由主義の基盤であり︑そうした宗教も含む個人への自然な信奉
︵口巴ξ巴h巴昏︶がその基礎となる︒第四の意味での胡①o巳胃が憲法原理として認識される︒トクビル流の︑啓発さ ︵57︶ れた自己利益が民主主義社会の基盤であるとの考えは︑カナダにも当てはまるとするのである︒
そこでは︑信教の自由は私事ではなく公的な事柄となる︒政治的自由として重要だということである︒なるほど
二条aが﹁信教及び良心の自由﹂と一緒に規定しているのは︑この解釈に符合する︒ホーウィッツは︑信教の自由
の判例が自由主義的価値を強調していること︑つまり個人の権利や価値観︑選択を合理的とすることは︑宗教の本 お 質的価値を立法や司法が狭く解釈してしまう効果を持つと批判する︒宗教のさまざまな生産的価値を実現させるに
は︑国家や州にとっての必要性が宗教的義務を越えない限り︑わずらわしい要請から宗教を免責させるのが一番で
ある︒かかる衡量は裁判官の合理性の規範から発しなければならないとしても︑宗教上の義務を公平かつ十分に勘
酌することになるとする︒
憲法での宗教を考えるとき︑その宗教を広くとらえるか狭く解するかは︑政教分離規定での宗教との整合性も絡
んで問題と遼・カナダでは憲章二条aでの宗教は広く解されている・ただ︑二条・で保護されるからと三て︑
直に憲法上まっとうな保護を受けるということにはならない︒裁判所は︑憲章一条によって信教の自由を侵害する
立法を合憲とする場合がある︒一条でさらに信教の自由を侵害する立法が憲法上容認できないと判断されなけれ
ば︑信教の自由は実質的に保護されないことになる︒やっかいなことに︑この一条の判断基準︑﹁自由な民主主義
カナダにおける信教の自由 ︵都法四十八ー二︶ 二〇一
二〇二
社会において正当化される﹂の具体的な中身は曖昧なままであり︑裁判所の衡量による要素が大きい︒信教の自由
の憲法的嚢は︑一条のレヴェルで裁判所の判断によって画定されるという構造になっているので霞・
こうした信教の自由の憲法判断の状況に対して︑二つの見方が成り立ちうる︒一つは肯定的評価である︒憲章の
その他の条項も含めて一条の抗弁は政府側に挙証責任があるとされるし︑判例もそうしている︒裁判所が︑信教の
自由の砦であると同時に︑カナダの世璽義を維持していく機能を果たすことに鶴・これは・司馨査制による
人権保障を主眼とした一九八二年憲法の趣旨に沿う︒しかし︑信教の自由が日曜日︵休息日︶遵守のような政策的
判断にもかかわる要素があることを考えれば︑司法権に委ねることが適切かの懸念はある︒
もうひとつは︑一条に委ねるのではなく︑二条aの信教の自由そのものに当然保護されない宗教︵あるいは思想
.信条といってもよい︶があり︑それを裁判所は明確にしていかなければならないとの考え方である︒トロント大都 市圏子供援助協会事件での少数意見︵冨nOgo口ζ巴自判事︶は︑信教の自由は絶対ではないとした上で︑﹁権利そ
のものは限定︵口①民b﹂叶﹂O口︶を持たなければならず︑たとえ広汎かつ柔軟な限定がふさわしいとしても︑外的な限
界がなければならない︒この限界の外側にある行為は憲章によって保護されない﹂としてW認︒
公共の安寧や平穏を乱し他者の権利を侵害するものは保護の対象となる信教ではないとの内在的制約は︑信教の
自由の概念の中に認識されている︒かかる制約は外在的あるいは政策的な制約と相対的である︒それを二条aの判
断で行うか︑それとも信教の自由は広くとっておいて一条の判断で行うかの違いであるともいえる︒裁判所は後者
の立場を維持している︒しかし︑一条の解釈は︑﹁国家の関心が急迫していて実質的であり︑侵害行為が目的と合
理的な関連がある﹂との判断であって︑その合理性の判断は国家に委譲するようになり︑﹁精神的カウンセラーを
必要とする人間を国家の諸目的に従属させてしまう﹂危うさも否めないので稔・
4 むすびにかえて
最高裁はカナダ憲法の信教の自由を自由主義の観点から理解している︒カナダにおいて︑多文化主義と︑ロー
マ・カトリックとプロテスタントの二元的展開の宿命を前提とするとき︑宗教を多元的に理解し︵旦ξ昆ω日︶︑私
的領域に閉じ込め︑公にはかかわらないとする考えは受容しやすい︒なるほどカナダは統合と協調の国家としての
憲法構造をもち︑宗教もその中で国家的かかわりを前提としてきた︒さて︑一九八二年憲法︵憲章︶はアメリカ型
の司法審査制による人権保障を採択した︒最高裁は︑信教の自由を自由主義原理から解釈することで個人の自由を
擁護してきている︒信教の自由は他方で国家による宗教の強制を排除する機能を持つ︒信教の自由を立法あるいは
政府の行為が侵害しているかの判断は︑同時に国家の宗教的関与を排除する機能を果たすことになる︒そこに世俗
主義を維持していく最高裁のセンシティブな働きをみるのである︒
︵1︶ カナダの憲法︵一九八二年憲法︶は信教の自由とするだけで︑その内容について規定していない︒この点︑日本国憲 法二〇条はその意義や内容に踏み込んでいる︒その他︑スイス憲法︵一九九九年︶一五条︑ロシア連邦憲法︵一九九三
年︶二八条︑中華人民共和国憲法三六条も︑この傾向にあるといえる︒
︵2︶ 笹川紀勝﹁憲法と宗教−原理的な諸問題について﹂公法研究五二号一頁︑一九頁︑一九九〇年︒
︵3︶ 日本国憲法下では︑信教の自由と政教分離は不即不離の関係であり︑前者の保障のために政教分離は不可欠で︑政教
分離は信教の自由を要請すると解するのが多数であろう︒芦部信喜﹃宗教・人権・憲法学﹄︵有斐閣︑平成一一年︶一五
頁︒わが国もアメリカと同じで︑信教の自由と政教分離を﹁広義の信教の自由を構成する両側面として統一的に解する︑ つまり︑﹁分離は自由を保障し自由は分離を要請する関係にある﹂と考え﹂られているといってよかろう︒同上︑七五
頁︒同﹃憲法︵第四版︶﹄︵岩波書店︑二〇〇七年︶八五頁︑参照︒
カナダにおける信教の自由 ︵都法四十八ー二︶ 二〇三
二〇四
︵4︶ζ出○目く田戸曽目○ζ゜︒旨゜︒口↓d目自゜︒巨o弓目↑︾ヨ之9蚤o>﹂︵N昆江NOOω︶° ︵5︶ 一九八一年の統計ではプロテスタント41・2%︵聖公会10・1︑カナダ合同教会15・6︑バプテスト2・9︑長老派 3.4︑その他教派6・3︶︑カトリック48・6%︑ユダヤ教ユ・2%︑その他9・0%である︒一八七一年ではプロテ スタント56・6%︑カトリック41・6%であった︒新保満﹁宗教と世界観﹂綾部恒雄編﹃もっと知りたいカナダ﹄︵弘文
堂︑平成元年︶︑一〇六頁︒二〇〇一年の統計では︑カナダ総人口Nぷ①ωq⊃bω切につき︑カトリック﹂NΦωObO口︵約44%︶︑
プロテスタント︒︒︑Φ口♪°︒9︵約29%︶︑無宗教︽︑8ρ08︵約17%︶と︑カトリックの占める割合が高くなっている傾向がみ
られ︑無宗教も増加傾向にあることがわかる︒NOO﹂○①ロω已ω゜り9叶︷∩○芦p△ぶ巨8⁚\\笥乞妻+O°°・99①ロ8\o°qピ巨\険卑o芦切゜
ちなみに︑ヒンドゥート︒Φや︑80︵約1%︶︑仏教ωOρω台︵約1%︶︑ユダヤ教品叉︒⑩m︵約1%︶︑モスリム零っ>S︵2%︶
となっている︒
︵6︶ 有名なコロニー︵民族宗教共同体︶として︑フッタライト︵出已9苔6︶がある︒田里千代﹁サタンから身を守るーカ
ナダの宗教的少数民族フッタライトにみる文化維持﹂ヒュウマンサイエンスリサーチ九巻一七七頁︑二〇〇〇年︑参照︒
憲章制定前の事件であるが︑フッタライトの土地を統制するアルバータ州法が信教の自由を侵害しないとの判例︵司昌
9︹︿゜巴ひ隅冨︶がある︒﹈巴昌日UO窪ωoロ﹀⑤書■ミ☆︑昏亀︵㌔Q︶b慧ミ註§ミミ軸6災ミミバωωd出b°P民国<°望⇔留O︵NOOO▽
︵7︶ ﹈≦自゜○σ亀﹄ξずミぶミ⇔Oeミへ隷せト⇔ミ団匂Sミ房汀ミN°︒○ω○○OO国出巴↑↑S﹃円﹂ぺ口−一〇︒O︵﹂⑩q⊃〇ニモア教授︵甘廿⇒呂o邑の
言を借りて︑こうした位置づけはカナダ人固有の法的に制度化されない強固な信仰心の妥協である︵o①︒巳冨気ひ芦四−
合①ロ8B肩o日尻Φo⌒p庁険①ξ9切oの声ぴ涜廿o臣器嵩ぽqδ゜・牛司︶とする︒ ︵8︶ イギリスのほか︑カナダをはじめ南アフリカ共和国やオーストラリアは︑宗教的教条.や行為を強制することなく︑あ
る宗教を明文で認識した国家が信教の自由と競合しうることを実証している︒戸①図﹀匿曽芦○冒巨↑①品戸旨穿討ミ民干
さ§SO§㊤へ乏§﹃§S㌔災曹⇔§㌻ミ合ミ\鼻⑩ζ︹Ω目↑P﹄°Φω只NO忠︶°なお︑イギリスといっても︑イングランドは国教的
制度をとっているが︑スコットランドは必ずしもそうではないようである︒○σq管↑p物§ミロ2Φぺ暮N扇−峯 ︵9︶ 加藤普章﹁協調と対立の構図−英系カナダと仏系カナダの関係とカナダ政治﹂法学研究︵慶鷹義塾大学︶六七巻一二
号二七九頁︑一九九四年︒﹁多極共存型モデル﹂︑すなわち言語や宗教の文化などが分断していても政治エリートによる 協調体制で政治ポストや資源配分︑多党制の連立政権などによって安定した民主主義が運営されるとのモデルは︑カナ
ダには直に当てはまらないとする︒同上︑二九八頁︒ ︵10︶もっとも︑一九八二年憲法がアメリカ型の人権保障システムをとってから︑個人レヴェルで権利が主張され︑また多
文化主義が憲法原理となったから︑カトリックとプロテスタントの二元主義だけで割り切れるわけではなくったといえ
る︒同上︑三〇〇頁︑参照︒
︵11︶ ﹁清教徒的厳法︵亘已①声≦⑭︶﹂ともいわれ︵主にアメリカ︶︑働くことは休まないことの典型とされ︑その共同体での
見えるサインが小売商店の開店であるとされる︒ζ済︒切巨ロ貸⑦葺boさ∨き︒〜§蔑這句§§留§へ遣已§§S§〜
㌔Dミミ§句§災SOeミ爵き口Oq°↓○問○宕∋o司﹀ρP掲団ぐ﹂b︵﹂口⑩N︶°アメリカではぴ一⊆o后≦のといわれ︑日曜日に商業活 動を禁止する制定法を意味する︒一般的な立法だが︑多くの裁判所が宗教に起源を持つとの理由で無効であると判断す
るようになり︑一九入○年以降廃れている︒安息日法は︑労働者の休息というような非宗教的な目的で制定されたと判
断されれば︑合憲となるとする︒国い︾O民.°・い﹀司O目目OZ>5﹂︒︒ω︵o◎巳山①巳゜NOO︽︶° ︵12︶ 即ぐ切GζO巨oqζぼ︹ ロΦ゜︒切﹈一㊤Ω戸N⑩9この判例はまた︑憲章上の人権が合目的解釈を受容すべきだとの判断で
も先例となる︒㊦︾↓巳○民旨ζ○之︾出︾ZOOz°り目弓己目oz︾いい﹀≦☆ω︵ω﹃臣Φユ゜NOOや︶°合目的解釈とは︑ある憲章上の権利 の根本目的は憲章全体のより大きな目的と︑当該特定の権利や自由を確定するのに選ばれた文言と包含される概念の歴 デイックソン 史的淵源に照らして︑判断されなければならないことを要求するものである︒ミビッグM事件での90冨o昌判事は︑こ の合目的解釈は法的というより一般的であり︑個人に憲章の保護を充分に与えられることを確保するように仕向けられ
たものであるとする︒口口c︒口﹈一㊤否問﹄⑩口巴宕﹃ρ巳べ゜ ︵13︶ ミ巴窟田ρωO昏ρド蝉 この考えは︑憲章の人権を拡大させていく意義は認められるが︑団体が憲章上の人権の享有主
体たりうるかの判断は人権の性質や法理や伝統を考慮しなければならないとして︑信教の自由は法人には認められない
との議論がある︒妻巴碧①勾oNoま艮﹄ミOo愚oミ︑へ§向ミミ&せ等需合還ミ.㌔災鰻o遥§礼ミS代○§§合§○ぎ︑討︑黒 ︑
㌔蒔隷討§へ専ミ合漬亀嵩窓︾者↑国国<°﹂⑩q⊃︵﹂⇔°︒Φ︶°﹁法人は宗教の俗事的な事柄を組織化するために使用される道具で あって︑基本的には他の宗教上の建造物となんら関わらず︑信教の自由を有しないのである﹂︒弐昌N﹂ド ︵14︶ ﹁アメリカでは︑日曜日法の宗教目的はカナダで主張されているのと同じくらい厳格に否定されている︒この立法は市
民にレクレーションと休息の統一した日を設けることで︑今日︑目的において完全に世俗的であると宣言されている︒ 合衆国最高裁判所が存続する宗教目的を日曜日法の背後に見出すなら︑国教禁止原理は無効を命じることになったであ
ろう︒⁝カナダでは︑日曜日法は目的において宗教的であることに率直に譲歩している︒実際︑それ以外のものである
なら︑連邦管轄権の根拠は疑われることになろう︒しかし︑カナダ最高裁は目的は効果とは分離されるべぎとしており︑
さらにカナダ日曜日法の効果は完全に世俗的だといわれているのである﹂︒﹄︾°切①隅o戸⑦§§き≧ぎ﹃心﹄§ミへ§品
自﹀問タ↑問団く︽N☆︵お昂Y なおペカナダ最高裁がビッグM事件で目的効果分離論を脱しているのは︑見たとおりであ
る︒ ︑
カナダにおける信教の自由 ︵都法四十八−二︶ 二〇五
二〇六
︵15︶O⁝︒冨o口首席判事︵法廷意見︶はいう︒﹁私がユダヤ人で安息日を遵守するユダヤ教徒︑あるいはムスリムであるな ら︑私の宗教の慣行は少なくとも︑私が望めば日曜日に働く権利があることを示唆する︒その権利を私に否定する︑目
的において純粋に宗教的ないかなる法も︑確実に私の信教の自由を侵害しているにちがいないと思われる﹂︒ロΦ︒︒0﹈一白り゜
n戸NΦ9昌O胃P﹂Oρ ︵16︶ 憲章上の信教の自由に関して︑アメリカの国教樹立禁止条項の判例や議論は関係ないとする︒アメリカでは日曜日法 は政教分離で議論され︑信教の自由︵ヰO而 ①図Φ﹃6︷oo①︶と国教樹立禁止はオーヴァーラップし︑あるいは同質
︵ヴo日oぬ窪①o⊂°・︶のカテゴリーとされる︒カナダは︑一八六七年憲法九三条に言及して︑憲法上ではアメリカのような
政教分離をとらないとしている︒血ミ﹄叶冨日切﹂Oω﹂Oρ
︵17︶ 男゜<◆国口笥ぼ口oカロOOオω①⇒匹︾詳い︷P 口Ooo㊦﹈N切n国゜や一ω令
︵18︶ カナダの婚姻に関する州と連邦の管轄については︑富井幸雄﹁同性婚と憲法︵二・完︶ーカナダの婚姻法︵庄㊦Ω<匡 ζ曽民①oqΦ>o叶︶を素材として﹂法学新報一二二巻三・四号三五頁︑三七−四一頁︑二〇〇七年︑参照︒
︵19︶ 判決が言及する報告書︵男80詳○口゜り巨ユ昌○ぴψ︒巽くきoΦい①oQ芭豊8︶では︑日曜日を共通の安息日としていない国家 はわずかだとし︑キリスト教の伝統がない日本でも日曜日が政府によって共通の安息日とされたとしている︒それは一
八七六年︵官吏︶︑一九二二年︵役所の就業時間︶︑一九四九年︵休日と日曜日以外は官吏は就業︶の政府規則であると
する︒﹁われわれはカナダ駐日大使から︑日曜日はサービス業や小売業を除いて就業日ではなく︑それは宗教的遵守のた
めの日でもないとアドヴァイスをされた﹂という︒口⇔°︒Φ﹈Noりb°卑や﹂鯉巴O①﹃pΦS
︵20︶ O①く匡切白毛戸∋9へoさ︑oミミきぐQ合ミさざ拓○膏へ§餌災○日Ocり﹃ミせ菖b慧ミボ晦㌻oO§慰ミミ.○隷ミ譜\肉瞬e言ωω
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